海の中にて 菊池寛 Guide 扉 本文 目 次 海の中にて  二人の生活は、八月に入つてから、愈々困憊の極に達して居た。来る日も、来る日も彼等の生活は陰惨な影に閉ざされて居た。  敬吉には、おくみの存在が現在の暗いじめ〳〵とした世界と、明るい晴々とした自由な世界とを、遮ぎつて居る障壁のやうに、思はれる日が多くなつた。おくみの羸弱い手が、自分の頸の廻りに、纏ひ附いて居る為に、踠けば踠くほど、深味へ陥ちて行くやうに思はれてしやうがなかつた。  そんな度に、彼はおくみの軽挙が、恨まれ始めた。彼女の、余りに軽率な、浅慮な行動から、現在の凡ての苦痛が、萌して居るやうに思はれた。  生活が、苦しくなればなる程、其当時の思出が、韮を噛むやうに、苦がくなつて来た。つい、四五月前迄は楽しい思出として享楽して居た、彼女との恋の発生や、経過などに就いての色々な情景が、今ではもう嫌な不快な記憶として、心の裡に澱んで居た。が、彼は彼女の過去の軽挙を、真正面から叱責したり、又その軽挙に現在の凡ての苦痛を、脊負はせるやうな、態度を見せる訳にも行かなかつた。  彼女は、彼以上に自分の軽挙を悔いて居た。彼から叱責せられる余地のない程、自分で自分の心を責めぬいて居た。 「私の軽はづみから、貴君に迷惑をかけて済まない。」と、彼女は口癖のやうに云つて居た。上京して以来、彼等の生活に少しでも、苦痛の影が射すと、彼女はもう直ぐに自分の軽率を謝して居た。彼が、夫に就いて、口出しが出来ないほど、自分で自分の軽率を謝して居た。  が、その軽はづみと云ふのも、彼女ばかりに脊負はせて置けるものでもなかつた。敬吉の方でも、その軽はづみを心から嬉しく思つた事があつたのだ。生活が今のやうに苦しくならぬ前には、敬吉は彼女の軽はづみを、叱責する心などは少しもなかつたのである。  敬吉とおくみとは、北越のある田舎町を故郷に持つて居た。敬吉は、中学を出ると、直ぐ自分の町で、小学校の教師を勤めて居た。そして、若い教師はいつの間にか、その町の芸者で、一本になつたばかりの、おくみと恋に陥ちて居た。奔放な自由な青年であつた彼は、ある宿直の晩に、おくみを学校の宿直室に引入れて居たのを、校長の妻君に見附けられた為、彼は直ぐ免職になつてしまつた。小学校の教員に対して、絶大な尊敬を払ふ田舎の人々は、又彼等に少しの瑕瑾をも、許さなかつた。まして、学校へ芸者を引き入れる事などは田舎の、狭い世間では、許すべからざる大きな罪過であつた。敬吉は、町の人々から、恐ろしい排斥を受けねばならなかつた。それと同時に、敬吉の相手であつたおくみも、彼女の周囲から、可なり烈しい迫害を、受けねばならなかつた。材料に渇ゑて居た田舎の新聞は、一号や二号の活字を惜し気もなく使つて、敬吉とおくみとの関係を露骨に書き立てゝ、教育界の腐敗を攻撃した。敬吉は、家では厳格な父から、憎悪の眼を以て見られた。外へ出れば、出逢ふ人々から、悪意のある嗤笑を受けねばならなかつた。彼は、何うにもかうにも、国に居堪まれなくなつた。彼は、慈母のそれとなき尽力で、到頭上京する事になつた。敬吉が、苦しんで居ると同時に、おくみも亦、彼女自身の苦痛を持つて居た。新聞にその事件が出てからは、彼女の客は、目に見えて落ちてしまつた。 「内の君勇さんは、ほんまに悧巧な妓ぢや。一文にもならん教員さんと浮名を流しとる。」と、意地の悪い女将は、おくみに聞えるやうに、客に向つて話したりなどした。  内気な、気の弱いおくみは、かうした棘々しい言葉から、直ぐ傷けられた。  敬吉が、愈々上京すると云ふ晩に、おくみ丈が、停車場迄送つて来た。敬吉の上京は夜逃に近いものであつた。上京したら早稲田へでも、入学しようと云ふやうな、明るい希望が、動いて居ないでもなかつたが、彼の出立は、誰人にも送られない程淋しかつた。  おくみは、そつと自分の家を脱け出して来て居た。彼女は、待合室でさめ〴〵と泣いて居たが、愈々発車の時間が近づくと、急に元気づいて、 「私、敦賀迄見送らせて下さいな。この儘茲で別れてしまふのは、何だか堪らないと云ふ気がするから。」と、云つた。  敬吉は、女のさうした未練を嬉しく思はずには居られなかつた。彼の失脚は、全く此女との関係に胚胎して居たとは云へ、彼女に対する愛は、その為に、まだ少しも傷けられては居なかつた。彼は、女のさうした親切を快く容れた。すると、おくみは自分で、切符売場へ行つて、敬吉と同じく三等の切符を買つた。  汽車に乗つてしまふと、敬吉は遉に初めて故郷を離れると云ふ、哀愁に囚はれて居た。が、おくみが敦賀迄送つて来ると云ふ事は、何れほど彼を慰めたか分らなかつた。が、敬吉は彼女に、自分達の愛の将来を誓ふやうな言葉は何も云はなかつた。彼は、彼女との関係から、可なり大きい打撃を受けた事が、彼には全く苦い経験であつた。故郷から離れる事に依つて、彼女からも自然に離れる。そして自分一人の、自由な新しい生活を開拓しようと、彼は心の裡で決心して居たのであつた。  が、敦賀で彼女と別れる事は、彼に取つて決して平気な事ではなかつた。極度にセンチメンタルな彼女が、他の乗客の前も憚らず、しく〳〵と泣き続けて居る事は、彼の心を可なり手強く動かさずには居なかつた。 「もう、此次が敦賀だから下りる仕度をして置くといゝ。何んなに泣いたつて、何うする事も出来ないんだから。まあせい〴〵身体に気を附けて、丈夫に暮すんだね。」と、彼は車窓に顔を埋めて居る彼女の耳の傍で、云つた。  が、汽車が敦賀に停まつても、彼女は降りようともしなかつた。 「おい! 敦賀だよ。何うしたんだい! おい降りないか。」と、敬吉は稍々狼狽しながら、彼女を促した。が、彼女は何うしても降りようとはしなかつた。敬吉は、彼女の駄々つ子のやうな無理解さに、焦だちながら、強ひて彼女を座席から引き剥がさうとした。すると、彼女は泣き脹した眼を上げながら、 「妾! 本当は米原迄の切符を買つたのよ。後生だから、彼処迄送らして下さい、もう之が一生のお別れかも知れないのだから。」と、泣きながら云つた。その途端に汽車は動き出してしまつた。敬吉は女のさうした行動に、迷惑と不安を感じながらも、女の突き詰めた心持を、嬉しく思はないでは居られなかつた。 「米原迄買つた! 偽を云つては困るよ、乗越をすると困るから、どれ切符をお見せ。」かう云つて敬吉は、おくみが切符を入れた筈の、彼女の財布が帯の間にあるのを取り上げた。彼女は夫を拒まないで、その間しく〳〵泣き続けて居た。  敬吉は、何心なく財布の中から切符を取り出すと、暗い電燈の光で、切符の文字を透かして見た。すると思ひがけなく、その切符には彼自身の切符と同じく、△△△から東京迄と云ふ字が、歴々と読まれたのである。  彼は「しまつた!」と、思はず声を出さうとしたが、女は夫よりも早く、 「御免なさい!」と云つたまゝ、前よりも烈しく歔欷し始めた。  女の行動は、極端に無謀であつた。彼女は自分の家を脱けて停車場へ来た為に、着換一枚持つて居なかつた。実際彼女が、東京迄の切符を買ふ気になつたのは、ホンの停車場での、出来心であつたらしかつた。敬吉は、不意に自分の身に、脊負ひ切れぬ重荷を負はされたやうに感じた。彼は、故郷に於ける失策を、脊負つて居る事さへ可なり苦しかつた。而も、その失策の相手方、而も当然彼が保護してやらねばならぬ女を、伴ふと云ふ事は、その時の敬吉に取つては、彼の力に余つた苦しい荷物であつた。  彼は思はず荒々しい声を出して、彼女を責めた。が、彼女は只「御免なさい。」と云ふ外は、何も云はなかつた。その上、泣き頻きつて居る彼女を、他国の名も知れぬ小駅に、下す事などは、少しでも愛を持つて居る者には出来なかつた。その裡に、汽車は米原に着いた。 「米原迄と云つたのだから、茲で下りて呉れ! そして直ぐ国へ引返して呉れ、後生だから! 頼むから!」と、敬吉は幾度も繰返した。が、女は動かうともしなかつた。  敬吉も、引ずり下すことは出来なかつた。彼は女の無謀を責めながら、女の自分に対する死身の行動を、嬉しく思はずには居られなかつた。  自分との関係が、世間に知られてから、彼女も同じ程度に苦しんで居るのだ。夫だのに、自分一人故郷の世間を脱出しながら、女丈を後に止めて、今迄通りの苦しみを苦します事は、考へて見れば利己的な事に相違なかつた。女が、さうして自分に縋り附いて来る以上、行く所迄女を伴うて行く外はないと、敬吉は思ひ直した。  そして二人は東京へ出た。  上京してからも、敬吉は女の為に、幾度も不快な苦痛を嘗めた。おくみの抱主は、当然敬吉がおくみを誘拐したものと、極めてしまつた。そして、敬吉の家へ烈しい掛合を持ち込んだ。昔気質の一徹な敬吉の父は、敬吉の再度の不始末に、火のやうに怒つてしまつた。おくみの前借を、抱主に払つた代りに、敬吉には、以後絶対に送金せぬと云つて来た。  敬吉は、学問をするなどと云ふ最初の目的は、夢のやうに消えてしまつた。彼は自分で喰ふ道を求めねばならなかつた。その上におくみを養うて行かねばならなかつた。最初三月ばかりは、二人の所持金で、彼等は不安に襲はれながら、相当に楽しい月日を送つた。が、夫が四月となり、五月となるに従つて、生活難の烈しい圧迫が、容捨なく二人を襲ひ始めた。  敬吉は、最初はノートの写字や、筆耕などをやつて来たが、夫は二人を養ふのに十分な職業ではなかつた。彼は到頭、身を落して、砲兵工廠の職工に雇はれた。欧洲戦争が、始まつて二年目の年であつたから、給料は高かつたが、彼の健康は二月とその烈しい労働に堪へなかつた。七月の初に、砲兵工廠を止めてからは、彼はまた新しい生活の道を求めねばならなかつた。  男が生活に踠けば踠くほど、女は堪へられぬほどに悶えて居た。自分の軽はづみ、自分が自分の運命に忍従する事を忘れて、冒険的に男を追つた事が、凡ての現在の不幸の初だと思ひ出すと、女は身も世もないやうに自分の軽はづみを悔いた。自分は男の身体について居る重錘のやうに、段々男を浮ぶ瀬のないやうに、沈落させて行くのだと思ふと、女は心の底から男に済まないと思ひ出した。  敬吉は敬吉で、同じやうにその事実を意識して居た。おくみに憑かれて居る以上、二人一緒に陥ちる所迄、陥ちる外、仕方がなかつたが、夫でも敬吉は、おくみを憎みはしなかつた。おくみが、二言目には自分の軽率を、詫びて居る事を思ふと、彼の心は、彼女に対するいぢらしさで一杯になつた。実際苦しい生存の為に、気が焦々する時は、目の前に居る女の、過去の軽率を責めて、思ふ様に撲ぐつてゞもやりたいと思ふ事は、よくあつたが、さうした時、女は撲ぐられた以上に、しめ〴〵と悄気て居るので、何うする事も出来なかつた。  彼女は、少し敬吉が荒い言葉を出すと「妾が皆悪いのです。」と、云つた。彼女は心の裡でも、男の現在の不幸は皆自分にあると、思ひ詰めた。  八月が来ると、風通しの悪い敬吉等の部屋は、煖炉の中にでも居るやうに、毎日蒸せて居た。そして精神的に耗れ切つて居る二人の頭を、更に狂はせた。  敬吉は、女から愁嘆の代りに、激励の言葉が欲しかつた。生活に労れ切つて居る彼は、誰からでも激励の言葉を欲して居た。が、女はさうした強い分子は、少しも持ち合はして居なかつた。男が生活のうめきを洩しかけると、女は一足先きに、お定まりの愁嘆を始めた。敬吉は、人を地の底へでも引き入れさうな女の愁嘆に、堪へ切れなくなつて来た。彼は、自然外出する日が多くなつた。が、何時帰つて来ても彼女は、きつと机に上半身を凭せて、じめ〳〵と泣いて居た。そして敬吉が帰ると、羊のやうに、オド〳〵した眸を挙げた。  敬吉は、女のさうした愁嘆が、段々自分の心にも浸み入つて来るのを覚えた。女の愁嘆を逃れようと思へば思ふほど、彼女の愁嘆は彼の心に浸み入つて来た。彼女がじめ〳〵すればする程、彼の心も陰鬱になり始めて居た。  下宿代が六月分も滞つて居た。下宿屋の主人が、敬吉と同郷である為に、夫程烈しい督促もしなかつたが、女房の方が時々敬吉等に向つて、不快な督促の言葉を吐いた。敬吉は割合平気であつたがおくみはそんな事にも、意気地なく傷けられて居た。  敬吉が求めて居た夜学教師の口が、僅かの行違で駄目になつた為に、彼等の生活は、愈々暗いものになつてしまつた。  敬吉は、此先、殆ど生活の手段が考へられなくなつた。彼は前に幾度も伯父から「女とさへ手を切れば、親父の方は、何うにでも説きなだめて、学資を送らすやうにするから。」と、手紙で云はれて居た。彼は、生活が苦しくなる毎に、伯父の忠言を幾度も思ひ出した。が、今迄一緒に苦しい中を切り抜けた女を、自分丈の幸福の為に、見捨てる事は何うしても忍びなかつた。  が、今度と云ふ今度は、もう最後の手段を考へるより外、仕方がなかつた。之以上、二人が一緒に居れば、お互に餓ゑ死するより外なかつた。その上、女が、自分が男に掛けて居る迷惑を意識して、段々自分の身を引かうとするのが、敬吉には淋しかつた。 「私もう、一層の事死んでしまひたい。」女は口癖のやうに云ふ日が多くなつた。敬吉も、女に対する愛が、かうした陰惨な生活で、段々麻痺されて行くやうに思つた。愛が段々憐憫と云つた感情に、移りかけて居た。  愈々生活の見込が立たなくなつた時、敬吉は心の裡では幾度も云ひかけて居た事を、到頭云ひ出した。 「何うだい! おくみ、思切つて国へ帰つて呉れたら。俺に附いて居たとて、此先何うと云ふ見込があるのでなし、夫にもう、本当に仕方のないどん底迄、陥ちてしまつたんだから。お前が、一旦思ひ直して国に帰つてさへ呉れゝば、両方ともうまく行きさうに思ふのだが、どうだらう。親元だつてお前を情なくする訳はないだらう。」  半分も云はない裡から、おくみは泣き出して居た。敬吉は「またか。」と思つたが、可愛い相でもあつた。敬吉が幾度も同じ事を繰返しても、おくみは返事をしなかつた。  すると、その翌日平常よりも早く起きたおくみは、何時になく鏡台の前で身づくろひをしてから、 「一寸神楽坂迄。」と云ひながら、出て行つた。敬吉は、おくみの沈んだ様子が、何となく気がゝりであつたので、彼はおくみの姿が見えなくなると、本能的に鏡台の引出しを探しにかゝつた。すると、其処に小さく折たゝんだ紙片が見附かつた。 「長い事苦労をかけて済みません。妾が居ては、貴君の出世の邪魔をするやうなものですから、あなたの為に死んでお詫を致します。お傍を離れるのは誠に辛い。決してあなたを見捨てたのではありませんから、恨まないで下さい。」と、見馴れた彼女のいぢけた文字で書いてあつた。  敬吉は、かうした事変を予期して居た。そして此手紙を見た刹那にも、殆ど駭かなかつた。この儘にして置けば、あの女の陰鬱な把握から、逃れることが出来ると云ふ、利己的な、悪魔的な考へが、頭の中に浮ばないでもなかつた。が、彼は直ぐ思ひ返して、おくみの後を追つた。もう此の辺に一年近く住んで居るのだが、殆ど外出しなかつたおくみは、まだ電車迄の道に、十分に馴れて居なかつた。敬吉は息を切らしながら、神楽坂下の停留場へ駈け附けて待つて居た。すると、暫く経つてから漸くおくみがやつて来た。おくみも、心の底では、引き止められる事を予期したやうでもあつた。彼は「おい!」と云つて、おくみの肩を叩くと、黙つて自分達の下宿の方へ引返した。おくみも素直に彼の後に従つた。  おくみが、本当に死なうと云ふ覚悟を見せてからは、二人の間はもつと暗くなつた。敬吉は、なるべく外出しないで、おくみを慰めようとしたが、その事は、尚おくみを苦しがらせた。おくみとしては、自分の為に敬吉を、此上少しでも煩はすと云ふ事が、心苦しかつたのだ。二人は何も話さないで、向ひ合つて居る日が多くなつた。敬吉は女の心が、日一日益々沈んで行くのを、明に感じた。そして女の沈んで行く心が、敬吉にも反響した。二人は手を携へたまゝ、段々最後の悲劇へ急いで居たのであつた。  おくみが再度男に迫られて、到頭国へ帰る事に得心した日の、午後四時頃であつた。急に「涼みに行きたい。」と云ひ出した。八月十三日で、朝から下宿の狭い部屋は、焼き附くやうに暑かつた。女は珍らしく機嫌を直して居たので、男もつい涼みに行く気になつた。  二人は、珍らしく連れ立つて家を出た。芝浦へ行く心算であつたが、電車に乗つてから女は「海へ出たい。」と云ひ出した。  敬吉も、さうした女の気紛れを、嬉しく思ふやうな、妙にそは〳〵した心になつて居た。二人は築地橋の船宿から、ボートを借りて海へ出た。  海の上には、遉にそよ〳〵と微風が吹いて居た。男は台場の方を目指して、思ひ切り漕ぎ進んだ。が、中途迄行くと、余りに労れ過ぎて、帰りに漕げないでは困ると思つたので、後へ引き返さうとした。すると女は急に「いや〳〵、私、何時迄も海に居たいわ。」と云ひ出した。 「馬鹿な! もう日が暮れかゝつて居るぢやないか。」と、敬吉は、女の多愛のない態度を叱責した。 「私、茲から飛び込んで死にたいわ。妾が死んだら、あなたは何うするの。」と、女は平生の彼女と全く違つてしまつたやうに、快活で大胆になつて居た。 「冗談を云ふな! 馬鹿!」と男は叱つたが、女の態度や言葉の裡には、冗談にしては底気味の悪い確かさがあつた。 「妾、本当に茲で身を投げるから見て居て頂戴。何んな事があつても助けないで下さいよ。」と、云ふと、今迄冗談のやうに云つて居た彼女の眼から、大粒の涙が湧くやうに流れ始めた。敬吉は、動揺するボートの底板を、重く踏みしめながら、女に近づいて女の身体を捕へた。今年十八になつたばかりの小柄の女は、敬吉の眼に此時程いた〳〵しく映つた事はない。敬吉一人を頼りにして、故郷を脱出して、下宿屋の汚い部屋で、今迄惨じめな、苦しい生活を忍んで来たのが、敬吉に帰国を迫られた為到頭死を覚悟した女の心持が、敬吉の頭の中へ力強く反映した。  敬吉は、女をヂツと抱いて居ると、女の心持が、沁々と彼の心の裡に浸じみ込んで来た。そして段々暗くなつて行く海上の、ボートの中では、おくみと自分との二人限りの運命の事しか、心に浮ばなかつた。  彼にとつては、おくみの外に、もう何も存在しないやうに思つた。自分を慕うて色々な苦痛を忍んで来た、いぢらしい女の外には、世の中には何も存在しないやうに思はれ出した。彼は今迄に感じた事のない程の、女に対する烈しい愛が、自分の心の裡に湧いて来るのを感じた。静に女を抱いて居ると、何も云はないでも、二人の取るべき道が、敬吉には判つて来るやうに思つた。一緒に死ぬと云ふ事が、苦痛でも何でもなくなつた。彼は女を心から愛しながら、死ぬ事を何よりも幸福だと思つた。女も、男に抱かれながら死ぬ事を、思ひ掛もない幸福だと思つた。愈々二人の身体を結び合はしてしまふと、女はたつた一言「済みません。」と、囁くやうに云つた。  何の恐怖もなく、躊躇もなく、二人は舟端から滑り込んだ。敬吉は、最初冷たい海水の触感を、快いとさへ思つた。が、死の苦痛は直ぐ二人を襲つた。敬吉は、女の身体をグイと抱きしめながら、その苦痛と戦つた。すると、最初は敬吉の身体に縋り附いて居た女が、徐々に身を踠き始めた。敬吉は女の苦痛をいたましいと思つた。彼は一層力強く女を抱きしめようとした。すると、女は却つて反対に左右の手で、グン〳〵男の身体を押し除けようとした。その時二人の身体は一時海面に出た。敬吉は、女が自分を押し除けようとする態度を、可なり不快に思つた。声を出して女に何か云はうと思つたが、もう声は出なかつた。その中に、二人は又沈みかけた。女は以前よりも、一層烈しく踠き出した。そしてもがきながら左右の手で、烈しく敬吉の顔を掻き続けた。敬吉の段々混乱しかけた意識にも、女のさうした態度が不満でならなかつた。つい一時間前に、あれほど愛して居た女から、顔を掻きむしられながら、死んで行く事が、彼には堪らなく不快だつた。彼は水の中で、女を叱らうと思つたが、口を開ける度に海水に咽せた。彼は、ぢつと女を抱きしめながら、女の左右の手の不快な運動を堪へて、死の苦痛を忍ばうとした。彼は三四分も、その苦痛に堪へて居た。その内に今度は、彼自身何うにもかうにも堪らなくなつた。彼は女を抱いて居た手を離すと、自分の身体に纏ひ附いて居る女の身体が、邪魔で邪魔で仕方のないやうに思ひ出した。彼は両手で、女の身体を力一杯押し除けようとした。敬吉の手と、女の手とが水中で打ち合つた。それは、水中に於ける烈しい格闘であつた。敬吉の頭の中には、何等の記憶も感情もなかつた。たゞ生きたかつた。彼は最後に、渾身の力を籠めて、自分の身体に纏ひ附いて居る、邪魔物を押し除けた。彼は、何だか安心したやうな、救はれたやうな心持になつた。が、彼の身体はもう疲れ切つて居た。彼は、もう何等の苦痛も感じなかつた。底の無い深淵へ沈むやうに、深く〳〵陥ちて行くやうな気がした。何だか周囲が、ボンヤリと明るくなつたかと思ふと、少年時代からの色々な出来事が、映画のやうに彼の頭の中を通過した。夫が終ると段々周囲が闇くなつた。淋しいやうな頼りないやうな嫌な心持がした。夫が彼の意識の終だつた。  女は死んでしまつて、敬吉は救はれた。  彼が意識を恢復したのは、その日から丁度五日目であつた。気がつくと、彼は病院の一室に寝て居た。何だか、顔が掻ゆいので、手をやつて見ると、額にも頬にも、幾つも蚯蚓脹がして居た。彼は、最初その傷が、何うして出来たのか判らなかつた。が、だん〳〵意識が明確になるのに従つて、その原因が判つた。  彼は、夫を女の唯一の片身として、痕跡が全く無くなる迄、時々淋びしく撫でゝ居た。そして、女を突き放して、自分一人助かつた事を、さう後悔もして居なかつた。 底本:「菊池寛全集 第二巻」高松市菊池寛記念館    1993(平成5)年12月10日発行 底本の親本:「菊池寛全集 第一巻」平凡社    1929(昭和4)年9月5日 初出:「大觀」    1918(大正7)年7月号 ※「思出」と「思ひ出す」と「思ひ出し」、「思切つて」と「思ひ切り」の送り仮名の有無の混在は、底本通りです。 入力:卯月 校正:hitsuji 2019年2月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。