そぞろごと 與謝野晶子 Guide 扉 本文 目 次 そぞろごと   ○ 山の動く日來る。 かく云へども人われを信ぜじ。 山は姑く眠りしのみ。 その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。 されど、そは信ぜずともよし。 人よ、ああ、唯これを信ぜよ。 すべて眠りし女今ぞ目覺めて動くなる。   ○ 一人稱にてのみ物書かばや。 われは女ぞ。 一人稱にてのみ物書かばや。 われは。われは。   ○ 額にも肩にも わが髮ぞほつるる。 しをたれて湯瀧に打たるるこころもち。 ほとつくため息は火の如く且つ狂ほし。 かかること知らぬ男。 われを褒め、やがてまた譏るらん。   ○ われは愛づ。新しき薄手の玻璃の鉢を。 水もこれに湛ふれば涙と流れ。 花もこれに投げ入るれば火とぞ燃ゆる。 愁ふるは、若し粗忽なる男の手に碎け去らば。── 素燒の土器より更に脆く、かよわく。   ○ 青く、且つ白く、 剃刀の刄のこころよきかな。 暑き草いきれにきりぎりす啼き、 ハモニカを近所の下宿に吹くは懶けれども。 わが油じみし櫛笥の底をかき探れば、 陸奧紙に包まれし細身の剃刀こそ出づるなれ。   ○ にがきか、からきか、煙草の味は、 煙草の味は云ひがたし。 甘しと云はば、かの粗忽者 砂糖の如く甘しとや思はん。 われは近頃煙草を喫み習へど、 喫むことを人に秘めぬ。 蔭口に男に似ると云はるるもよし。 唯おそる。かの粗忽者こそいと多なれ。   ○ 「鞭を忘るな」と ツアラツストラは云ひけり。 女こそ牛なれ、また羊なれ。 附け足して我は云はまし。 「野に放てよ。」   ○ わが祖母の母はわが知らぬ人なれど、 すべてに華奢を好みしとよ。 水晶の珠數にも倦き、珊瑚の珠數にも倦き、 この青玉の珠數を爪繰りしとよ。 我はこの青玉の珠數を解して、 貧しさに與ふべき玩具なきまま、 一つ一つ兒等の手に置くなり。   ○ わが歌の短ければ、 言葉を省くと人おもへり。 わが歌に省くべきもの無かりき。 また何を附け足さん。 わが心は魚ならねば鰓を有たず、 ただ一息にこそ歌ふなれ。   ○ すいつちよよ、すいつちよよ。 初秋の小き篳篥を吹くすいつちよよ。 蚊帳にとまれるすいつちよよ。 汝が聲に青き蚊帳は更に青し。 すいつちよよ、なぜに聲をば途切すぞ。 初秋の夜の蚊帳は水銀の如く冷きを。 すいつちよよ、すいつちよ。   ○ 油蝉のじじ、じじと啼くは、 アルボオス石鹹の泡なり、 慳貪なる男の方形に開く大口なり、 手握みの二錢銅貨なり、 近頃の藝術の批評なり、 誇りかに語るかの若き人等の戀なり。   ○ 夏の夜のどしや降の雨、 わが家は泥田の底となるらん。 柱みな草の如く撓み、 そを傳ふ雨漏の水は蛇の如し。 寢汗の香、かなしさよ。よわき子の齒ぎしり。 青き蚊帳は蛙の喉の如く脹れ、 肩なる髮は鹿子菜の如く戰ぐ。 この中に青白きわが顏こそ 芥に流れて寄れる月見草なれ。 底本:「青鞜 第一卷第一號」青鞜社    1911(明治44)年9月1日発行 初出:「青鞜 第一卷第一號」青鞜社    1911(明治44)年9月1日発行 入力:富田晶子 校正:雪森 2019年4月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。