銀の匙 中勘助 Guide 扉 本文 目 次 銀の匙 前篇 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 二十五 二十六 二十七 二十八 二十九 三十 三十一 三十二 三十三 三十四 三十五 三十六 三十七 三十八 三十九 四十 四十一 四十二 四十三 四十四 四十五 四十六 四十七 四十八 四十九 五十 五十一 五十二 五十三 後篇 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 前篇 一  私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽匣に昔からひとつの小箱がしまつてある。それはコルク質の木で、板の合せめごとに牡丹の花の模様のついた絵紙をはつてあるが、もとは舶来の粉煙草でもはひつてたものらしい。なにもとりたてて美しいのではないけれど、木の色合がくすんで手触りの柔いこと、蓋をするとき ぱん とふつくらした音のすることなどのために今でもお気にいりの物のひとつになつてゐる。なかには子安貝や、椿の実や、小さいときの玩びであつたこまこました物がいつぱいつめてあるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。それはさしわたし五分ぐらゐの皿形の頭にわづかにそりをうつた短い柄がついてるので、分あつにできてるために柄の端を指でもつてみるとちよいと重いといふ感じがする。私はをりをり小箱のなかからそれをとりだし丁寧に曇りを拭つてあかず眺めてることがある。私がふとこの小さな匙をみつけたのは今からみればよほど旧い日のことであつた。  家にもとからひとつの茶箪笥がある。私は爪立つてやつと手のとどくじぶんからその戸棚をあけたり、抽匣をぬきだしたりして、それぞれの手ごたへや軋る音のちがふのを面白がつてゐた。そこに鼈甲の引手のついた小抽匣がふたつ並んでるうち、かたつぽは具合が悪くて子供の力ではなかなかあけられなかつたが、それがますます好奇心をうごかして、ある日のことさんざ骨を折つてたうとう無理やりにひきだしてしまつた。そこで胸を躍らせながら畳のうへへぶちまけてみたら風鎮だの印籠の根付だのといつしよにその銀の匙をみつけたので、訳もなくほしくなりすぐさま母のところへ持つていつて 「これをください」 といつた。眼鏡をかけて茶の間に仕事をしてた母はちよいと思ひがけない様子をしたが 「大事にとつておおきなさい」 といつになくぢきに許しがでたので、嬉しくもあり、いささか張合ぬけのきみでもあつた。その抽匣は家が神田からこの山の手へ越してくるときに壊れてあかなくなつたままになり、由緒のある銀の匙もいつか母にさへ忘れられてたのである。母は針をはこびながらその由来を語つてくれた。 二  私の生れる時には母は殊のほかの難産で、そのころ名うてのとりあげ婆さんにも見はなされて東桂さんといふ漢方の先生にきてもらつたが、私は東桂さんの煎薬ぐらゐではいつかな生れるけしきがなかつたのみか気の短い父が癇癪をおこして噛みつくやうにいふもので、東桂さんはほとほと当惑して漢方の本をあつちこつち読んできかせては調剤のまちがひのないことを弁じながらひたすら潮時をまつてゐた。そのやうにさんざ母を悩ましたあげくやつとのことで生れたが、そのとき困りはてた東桂さんが指に唾をつけて一枚一枚本をくつては薬箱から薬をしやくひだす様子は私を育ててくれた剽軽な伯母さんの真にせまつた身ぶりにのこつていつまでも厭かれることのない笑ひぐさとなつた。  私は元来脾弱かつたうへに生れると間もなく大変な腫物で、母の形容によれば「松かさのやうに」頭から顔からいちめんふきでものがしたのでひきつづき東桂さんの世話にならなければならなかつた。東桂さんは腫物を内攻させないために毎日まつ黒な煉薬と烏犀角をのませた。そのとき子供の小さな口へ薬をすくひいれるには普通の匙では具合がわるいので伯母さんがどこからかこんな匙をさがしてきて始終薬を含ませてくれたのだといふ話をきき、自分ではつひぞ知らないことながらなんとなく懐しくてはなしともなくなつてしまつた。私は身体ぢゆうのふきでものを痒がつて夜も昼もおちおち眠らないもので糠袋へ小豆を包んで母と伯母とがかはるがはる瘡蓋のうへをたたいてくれると小鼻をひこつかせてさも気もちよささうにしたといふ。その後ずつと大きくなるまで虚弱のため神経過敏で、そのうへ三日にあげず頭痛に悩まされるのを、家の者は 糠袋で叩いたせゐで脳を悪くしたのだ といつて来る人ごとに吹聴した。そのやうに母に苦労をかけて生れた子は母の産後のひだちのよくないためや手の足りないために、ときどき乳をのませるときのほかはちやうどそのころ家の厄介になつてた伯母の手ひとつで育てられることになつた。 三  伯母さんのつれあひは惣右衛門さんといつて国では小身ながら侍であつたけれど、夫婦そろつて人の好い働きのない人たちだつたので御維新の際にはひどく零落してしまひ、ひきつづき明治何年とかのコレラのはやつた時に惣右衛門さんが死んでからはいよいよ家がもちきれなくなつてたうとう私のとこの厄介になることになつたのださうだ。国では伯母さん夫婦の人の好いのにつけこんで困つた者はもとより、困りもしない者までが困つた困つたといつて金を借りにくると自分たちの食べる物に事をかいてまでも貸してやるので、さもなくてさへ貧乏な家は瞬くうちに身代かぎり同然になつてしまつたが、さうなれば借りた奴らは足ぶみもしずに蔭で 「あんまり人がよすぎるで」 なぞと嘲笑つてゐた。二人はよくよく困れば心あたりの者へ返金の催促もしないではなかつたけれど、さきがすこし哀れなことでもいひだせばほろほろ貰ひ泣きして帰つてきて 「気の毒な 気の毒な」 といつてゐた。  また伯母さん夫婦は大の迷信家で、いつぞやなぞは 白鼠は大黒様のお使だ といつて、どこからかひとつがひ買つてきたのを お福様 お福様 と後生大事に育ててたが、鼠算でふえる奴がしまひにはぞろぞろ家ぢゆう這ひまはるのをお芽出たがつて、なにか事のある日には赤飯をたいたり一升枡に煎り豆を盛つたりしてお供へした。そんな風で僅ばかりの金は人に借り倒され、米櫃の米はお福様に食ひ倒されて、ほんの著のみ著のままの姿で、そのじぶん殿様のお供でこちらに引越してた私の家を頼りにはるばる国もとから出てきたのださうだが、その後間もなく惣右衛門さんがコレラでなくなつたため伯母さんはまつたく身ひとつの寡婦になつてしまつた。伯母さんはその時の話をして それは異国の切支丹が日本人を殺してしまはうと思つて悪い狐を流してよこしたからコロリがはやつたので、一コロリ三コロリと二遍もあつた。惣右衛門さんは一コロリにかかつて避病院へつれて行かれたのだが、そこではコロリの熱でまつ黒になつてる病人に水ものませずに殺してしまふ。病人はみんな腹わたが焼けて死ぬのだ といつた。  伯母さんは私を育てるのがこの世に生きてる唯一の楽しみであつた。それは、家はなし、子はなし、年はとつてるし、なんの楽しみもなかつたせゐもあるが、そのほかにもうひとつ私を迷信的に可愛がる不思議な訳があつた。といふのは、今もし生きてゐればひとつちがひであるはずの兄が生れると間もなく「驚風」でなくなつたのを、伯母さんは自分の子が死んでゆくやうに嘆いて 「生れかへつてきとくれよ、生れかへつてきとくれよ」 といつておいおいと泣いた。さうしたらその翌年私が生れたもので、仏様のお蔭で先の子が生れかへつてきたと思ひこんで無上に私を大事にしたのださうである。たとへこの穢いできものだらけの子でもが、頼りない伯母さんの頼みをわすれずに極楽の蓮の家をふりすててきたものと思へばどんなにか嬉しくいとしかつたであらう。それゆゑ私が四つ五つになつてから、伯母さんは毎朝仏様へお供物をあげる時に──それは信心深い伯母さんの幸福な役目であつた。──折折お仏壇のまへへつれていつてまだいろはのいの字も読めない子供に兄の戒名、伯母さんの考へによれば即ち私が極楽にゐた時の名まへであるところの 一喚即応童子 といふのを空に覚えさせた。 四  私は家のなかはともかく一足でも外へでるときには必ず伯母さんの背中にかじりついてたが、伯母さんのはうでも腰が痛いの腕が痺れるのとこぼしながらやつぱしはなすのがいやだつたのであらう。五つぐらゐまでは殆ど土のうへへ降りたことがないくらゐで、帯を結びなほすときやなにかにどうかして背中からおろされるとなんだか地べたがぐらぐらするやうな気がして一所懸命袂のさきにへばりついてゐなければならなかつた。そのころ私は浅葱のしごきを胸高にしめ、小さな鈴と成田山のお守りをさげてゐた。それは伯母さんのくふうで、お守りはもとより怪我のないため、溝や川へ落ちないため、鈴は伯母さんが眼がかすんで遠くが見えないので、もしやはぐれたときにその音をききつけて捜しにこようといふのである。併し年が年ぢゆう背中からおりたことのない子には鈴もお守りも実はまつたく無用のものであつた。私は虚弱のため智慧のつくのが遅れ、かつ甚しく憂鬱になつて、伯母さん以外の者には笑顔を見せることは殆どなく、また自分から口をきくことはおろか家の者になにかいはれてもろくに返事もせず、よつぽど機嫌のいい時ですらやつと黙つてうなづくぐらゐのもので、意気地なしの人みしりばかりして、知らない人の顔さへみれば背中に顔をかくして泣きだすのが常であつた。私が痩せほうけて肋骨があらはれ、頭ばかり大きくて眼がひつこんでたため家の者はみんな 章魚坊主 章魚坊主 といつたが、自分ではわが名の□ぼうを訛つて □ぽん と名のつてゐた。 五  私の生れたのは神田のなかの神田ともいふべく、火事や喧嘩や酔つぱらひや泥坊の絶えまのないところであつた。病弱な頭に影を残した近所の家といへばむかふの米屋、駄菓子屋をはじめ、豆腐屋、湯屋、材木屋などいふたちの家ばかりで、筋向ふのお医者様の黒塀と殿様のところの──私の家はその邸内にあつた。──門構へとがひときは目だつてゐた。  天気のいい日には伯母さんはアラビアンナイトの化けものみたいに背中にくつついてる私を背負ひだして年よりの足のつづくかぎり気にいりさうなところをつれてあるく。ぢき裏の路地の奥に蓬莱豆をこしらへる家があつて倶梨迦羅紋紋の男たちが犢鼻褌ひとつの向ふ鉢巻で唄をうたひながら豆を煎つてたが、そこは鬼みたいな男たちが怖いのと、がらがらいふ音が頭の心へひびくのとで嫌ひであつた。私はもしさうしたいやなところへつれて行かれればぢきにべそをかいて体をねぢくる。そして行きたいはうへ黙つて指さしをする。さうすると伯母さんはよく化けものの気もちをのみこんで間違ひなく思ふはうへつれていつてくれた。  いちばん好きなところは今も神田川のふちにある和泉町のお稲荷さんであつた。朝早くなど人のゐないときには川へ石を投げたり、大きな木の実のやうな鈴を鳴らしたりしてよく遊んだ。伯母さんは私を塵のなささうな石、またはお宮の段段のうへなどにおろしてお詣りをする。孔あき銭がからからとおちてゆくのが面白い。どこの神様仏様へいつてもなにより先に この子の体が丈夫になりますやうに といつてお願ひするのであつた。  ある日のこと私が後ろから帯をつかまへられながら木柵につかまつて川のはうを見てたら水のうへを白い鳥が行きつもどりつ魚を漁つてゐた。その長い柔かさうな翼をたをたをと羽ばたいてしづかに飛びまはる姿はともすれば苦痛をおぼえる病弱な子供にとつてまことに恰好な見ものであつた。それで私はいつにない上機嫌であつたが、折あしくそこへ玉子と麦粉菓子を背負つた女のあきんどが休みにきたものでれいのとほりすぐに伯母さんの背中へくつついた。女は荷をおろしかぶつてた手拭をとつて襟などふきながらなんのかのと上手に愛想をいひいひさしもの弱虫を手なづけてしまつて、そろそろ背中から降りかけるじぶんにはもう麦粉菓子の箱をあけて私を釣りにかかつた。女は小判なりの薫のたかい麦粉菓子をとりだして指のさきにくるくるとまはしながら 「坊ちやん 坊ちやん」 と手にもたせてくれたので伯母さんはしかたなしにそれを買つた。今でさへ、あの渋紙ばりの籠を大儀さうに肩からはづしてなかは籾がらに埋まつてる白い、うす赤い卵や、ぷんと匂のあがる麦粉菓子などを見せられるとありつたけ買つてやりたい気がしてならない。お稲荷さんはその後立派になり、賑かにもなつたが、その時の柳ばかりは今も涼しく靡いてゐる。 六  お稲荷さんへ行かない日にはきたない財布にお賽銭と木戸銭用の小銭を入れて牢屋の原へつれてゆく。それは有名な伝馬町の牢屋のあとで、いろんな見世物がしよつちゆうかかつてゐた。また小あきんどが露店をならべて蠑螺の壺焼や、はじけ豆や、蜜柑水や、季節になれば唐もろこし、焼栗、椎の実などもうる。紅白だんだらの幕をはつた見世物小屋の木戸に拍子木と下足札をひかへてあぐらをかいてる男は手を口へあてて ほうばん ほうばん と呼びたてる。鎖につないだ山犬の鼻さきへ鶏をつきつけて悲鳴をあげさせるのもある。お皿のある怪しげな河童が水溜のなかでぼちやぼちややるのもある。でろれん祭文は貝をぶうぶう吹いて金の棒みたいなものをきんきん鳴らしては でろれん でろれん といふのでさつぱり面白くなかつたけれど伯母さんは自分が好きだもので度度つれていつた。あるとき珍しく人形芝居がかかつたことがあつて、桜がいちめんに咲いた草山に絵草紙でみるお姫様みたいな人が鼓をもつて踊つてるところの絵看板があがつてゐた。私は大喜びでそこへはひつたが、忽ちかちやんかちやんと恐しい音がして顔も手足もまつかな奴がねぢくれた襷をかけて飛び出したのでびつくりしてわあわあ泣きだしてしまつた。後できけばそれは千本桜の狐忠信だつたのださうだ。  気にいつた見世物のひとつは駝鳥と人間の相撲であつた。ねぢ鉢巻の男が撃剣のお胴をつけて鳥が戦ひを挑むときのやうにひよんひよん跳ねながらかかつてゆくと駝鳥が腹をたててぱつぱつと蹴とばすのである。ある時は駝鳥のはうが頸ねつこを押へつけられて負けになり、ある時は男のはうが蹴たてられて まゐつた まゐつた といつて逃げだした。そのあひだに交代の男がかた隅で弁当をつかつてたのを相手をなくしてぶらぶらしてたもう一羽の駝鳥がこつそり寄つてつていきなり弁当を呑まうとしたもので男はあわてて飛びのいた。その様子がをかしかつたので見物人はどつと笑つた。伯母さんは 「駝鳥がひもじがつとるにごぜんももらへんで気の毒な」 といつて涙をこぼした。 七  私のやうな者が神田のまんなかに生れたのは河童が沙漠で孵つたよりも不都合なことであつた。近処の子はいづれも神田つ子の卵の腕白でこんな意気地なしは相手にしてくれないばかりかすきさへあれば辛いめをみせる。なかでもむかふの足袋屋の息子なぞは伯母さんがぼんやりしてると後ろからだしぬけに人の横ずつ面をはつつけては逃げて行き行きしたもので私はひどくおぢけてとかくひつこみがちになつてしまつた。家にゐるときには往来へむいた高窓にのせ、格子につかまらして、伯母さんが後からおさへながら馬や車や目にふれるものの名など教へて遊ばせてくれる。筋向ふの米屋に車に轢かれたちんばの鶏がゐて、羽根や尻尾がぼろけて塵にまみれながらいつ見ても片足をあげてるのを伯母さんは見るたんびに可哀さうがつたので、終ひには私までがその鶏を見るのが厭はしくなつてきた。ふだん遊ぶのはお仏壇のあるごく陰気な三畳で、夜はそこが寝室になり、ときどきは姉たちの自修室にもなつた。そのころ十二三で小学校へ通つてた二人の姉が西洋の状袋の形した包みからまつ黒なお草紙をだし古い木机のうへにひろげて手習ひをしたことをおぼえてゐる。その机のひとつは長さ三尺ぐらゐの、抽匣が二つついたので、つまみがとれたあとの孔へ筆のぢくに紙をまいたのがさしてあり、もうひとつはわづかに子供の膝がはひるくらゐのもので浅い抽匣がついてたが、これらの机は兄から姉へ、私から妹へと、何十年かのあひだ順順に譲り渡されることになつた。それを踏台にして庭に向つた窓のうへへあげてもらふと黒塀のそばにある大株の躑躅がみえる。夏になればまつかな花が山盛りに咲いて町なかながら時たま蝶蝶が飛んできては蜜を吸つてゆく。そのあわただしく翅をはためかすのを面白く眺めてると伯母さんは後ろから肩ごしに顔をだして 黒い蝶蝶は山家のお爺で、白いのや黄いろいのはみんなお姫様だ といふ。お姫様は可愛いが山家のお爺がまつ黒な大きな翅をはばたいて飛びまはるのがおそろしい。伯母さんはまた草紙で丹念にはつた皮籠からいろいろな玩具をだして遊ばせてくれる。沢山の玩具のなかでいちばん大事だつたのは表の溝から拾ひあげた黒ぬりの土製の小犬で、その顔がなんとなく私にやさしいもののやうに思はれた。伯母さんはそれをお犬様だといつて、あき箱やなにかでこしらへたお宮のなかにすゑて拝んでみせたりした。それからあのぶきつちよな丑紅の牛も大切であつた。これらは世界にたつた二人の仲よしのお友だちである。 八  そのほか刀、薙刀、弓、鉄砲など、あらゆる戦道具もそろつてゐた。伯母さんは私に烏帽子をきせたり、鎧どほしをささせたり、すつかり戦人にしたててから、自分も後ろ鉢巻をし、薙刀をかいこんで、長い廊下の両はじに陣どつて戦ごつこをする。支度がととのへば双方真顔になつて身構へをしながらそろそろと近づいてゆく。廊下のまんなかで出会ふやいなや私が 「四王天か」 と声をかける。敵は 「清正か」 といふ。そして同音に 「よいとこであつたな」 といふと同時に 「やあ、たかたかたかたか」 と口で拍子をとりながら暫くは勝負もみえずきりむすぶ。これは山崎合戦の場で、私は加藤清正、伯母さんは四王天但馬守なのである。そのうち二人は得物をすてて取組みあふ。大立廻りのすゑ四王天は清正がいいかげんくたびれたころを見はからつて 「しまつたー」 とさも無念さうにいつてばつたりと倒れる。それを鼻たかだかと馬乗りになつておさへつけると伯母さんは汗をだらだら流しながら下から 「縄はゆるせ。首斬れ」 とどこまでも四王天でくる。そこで清正が脇差をぬいて皺くちやな頸をごしごし斬るまねをするのを四王天が顔をしかめてこらへながら目をつぶつてぐにやりと死んだふりをすればひと先づ勝負がつくことにきめてあつたが、雨の日などには七八遍もおんなじことをくりかへして、しまひに四王天がひよろひよろになるまでやらせた。伯母さんは 「まあどもならん どもならん」 と泣き声をだしながらもあきてやめようといふまではいつまでもやつてくれる。どうかすると伯母さんはあんまり疲れて首を斬られてしまつてもなかなか起きあがらないことがある。さうすると ほんとに死んだんぢやないかしら と思つて気味わるわるゆりおこしてみたりした。 九  明神様のお祭りの時は場所がらおそろしい景気で、町内の若い者が軒なみに紅白の花をうち、巴と日の丸の提灯をさげてあるく。家の軒にも花をうつて提灯をさげるのが嬉しい。その日には店に毛氈をしきつめてしじんけんをかざる家があつた。でこでこの頭が二つ恭しく段のうへに据ゑられ、巻奉書のそぎ竹のやうなのがつくんと立つた大きなお神酒徳利が供へられる。金色の獅子は銀の眼玉をむいててつぺんに宝珠をいただき、まつかな狛犬は金の眼玉を光らせて鬣をふりみだしてゐる。伯母さんはお犬様や丑紅の牛をお友達にした手ぎはで獅子や狛犬までも仲よしにしてしまつたので私はその怖らしい顔を見ても泣きだすやうなことはなかつた。揃ひの浴衣をきた町内の若い者からやつと足の運べる子供までが向ふ鉢巻にかひがひしく鬱金の麻襷をかけ──私はあの鈴だのおきあがり小法師だのをつけた麻襷が大好きである。──白足袋のはだしにむりむりした脛をみせて出来るだけ大きな万燈をふつてあるく。軒なみの提灯のなかにも、町をとびまはる万燈のなかにも蝋燭の焔がちらちらとまたたく。紅白に染めわけた頭でつかちの万燈のさきにふつさりと御幣のさがつたのがきりきりと宙にふりまはされるのは気もちのいいものである。各町内の要所要所には大供子供の一団が樽御輿をとりまいて喧嘩の手筈をしめしあはす。そんなことの好きな伯母さんは私にも人なみに襷をかけ、鉢巻をさせて表へつれだした。私ははしよつた著物の下から赤いふらんねるの股引をだし長い袂を襷にはさんで伯母さんの背中に小さな万燈をもつてゐた。さうしたらとある樽天王のまはりにかたまつてた腕白どものひとりが見つけて 「えくしよ。女におぶさつて万燈ふつてやがら」 といひながらいきなり二つ三つ石をたたきつけた。伯母さんははらはらして 「弱い子だにかねしとくれよ」 と急いで帰らうとするのを二三人の奴がばらばらと追つかけてきて足をひつぱつてひきずり落さうとしたので私は頸つたまに獅噛みついて火のつくやうに泣きだした。伯母さんは喉をしめる手をひきはなしひきはなし 「かねせるだ かねせるだ」 といつて逃げて帰つた。さうしてほつと息をついたときに折角の万燈と下駄をかたかた落してるのに気がついた。浅葱の紐でいはへる大事の下駄であつたものを。 十  病身者の私はしよつちゆうお医者様の手をはなれるまがなかつたが、仕合せなことには烏犀角の東桂さんが間もなく死んだので代りに「西洋医者」の高坂さんにみてもらふやうになり、東桂さんが一所懸命ふき出さした腫物は西洋の薬できれいに洗はれてぢきによくなつてしまつた。この人は顔の怖いに似ず子供の機嫌をとることが上手だつた。で、それまで東桂さんのまづい煉薬にこりごりしてた私も喜んで甘味をつけた水薬をのむやうになつた。そのうち 私と母の健康のためにどうでも山の手の空気のいいところへ越さなければ といふ高坂さんの説によつて、幸ひそのとき殿様のはうの御用もひととほり片附いて暇になつてた父は自分の役目を人にわたして小石川の高台へ引越すことに決心した。  いよいよひき移るといふ日にはみんなして私に もうこの家へは来られないのだ といふことをよくよくいつてきかせたが、私は出入りの者が手伝ひにきて大騒ぎをするのが面白く、また伯母さんと相乗りにのせられて俥を列ねてゆくのが嬉しくて元気よく喋つてゐた。暫くして路がだんだん淋しくなり、しまひに赤土の長い坂をのぼつて──それまで坂といふものを知らなかつた。──今度の住居だといふ杉垣に囲まれた古い家についた。 十一  このへんのものはみな杉垣をめぐらした古い家に静に住んでゐる。おほかた旧幕時代から代代住みつづけてる士族たちで、世がかはつて零落はしたがまだその日に追はれるほどみじめな有様にはならず、つつまやかにのどかな日をおくつてる人たちであつた。それに人家もすくない片田舎のことゆゑ近処同士は顔ばかりか家のなかの様子まで知りあつてお互に心やすくしてゐる。朽ちたまま手をいれない杉垣のうちにはどこにも多少のあき地があつて果樹など植ゑられ、屋敷と屋敷のあひだには畑がなくば茶畑があつて子供や鳥の遊び場になつてゐる。畑、生垣、茶畑、目にふれるものとして珍しく嬉しくないものはない。私の家は隣のかなり広いあき地へ普請をするのでその出来あがるまでかりにこの家に住むのである。暗い陰気な玄関のわきにはゆづりはの木があつたが、その葉も赤いぢくも気にいつた。すべつこい葉をとつて唇にあてたり、頬をこすつてみたりする。越してきたあくる日に誰かが蝉をとつて有合せの鳥籠に入れてくれた。これまで見たことも聞いたこともないものゆゑ面白くはあつたけれどそばへよるとあばれてぢやんぢやんいふのが怖かつた。  私は毎朝はやく起されて草ぼうぼうとしたあき地を跣で歩かされる。ぺんぺん草や、蚊帳つり草や、そこにはえてる草の名をおぼえるだけでも大変な仕事である。そのじぶん八十ぢかかつた祖母も坊主頭に毛繻子の頭巾をかぶつて杖をつきつきいつしよに露をふんであるく。祖母は性のいい三つ栗を裏の垣根のくろへ埋めて これは孫たちが大きくなるころには採つて食べられるやうになる といつてゐた。祖母がなくなつてから私どもはそれを お祖母様の栗 と名づけて大切にしてたが、この節では三本ながら立派な木になつて、秋になればその昔の孫たちが笊に幾杯かの栗を落して自分の子供にむいてやるやうにさへなつた。  そのうちに普請がはじまつた。材木をひいてきた馬や牛が垣根につながれてるのを伯母さんにおぶさつて怖怖ながら見にゆく。大きな鼻の孔から棒みたいな息をつきながら馬は杉の葉をひきむしつてくひ、牛はげぶつとなにか吐きだしてはむにやむにやと噛む。落ちつきのない長い顔の馬よりもおつとりして舌なめずりばかりする丸顔の牛のはうが好きであつた。普請場には鑿や、手斧や、鉞や、てんでんの音をたててさしも沈んだ病身ものの胸をときめかせる。職人たちのなかに定さんは気だてのやさしい人で、削りものをしてるそばに立つて鉋の凹みからくるくると巻きあがつて地に落ちる鉋屑に見とれてるといつもきれいさうなのをよつて拾つてくれた。杉や檜の血の出さうなのをしやぶれば舌や頬がひきしめられるやうな味がする。おが屑をふつくらと両手にすくつてこぼすと指の叉のこそばゆいのも嬉しい。定さんはいつも人よりか後に残りぱんぱんといい音のする柏手をうつてお月様を拝んだ。私はいつまでも仕事場にうろついてゐてそれを見るのを楽しみにしてたが、ほかの職人たちは定さんに 変人 といふあだ名をつけて、ああいふ野郎はきつと若死にする なぞといつてゐた。きれいに箒目のたつた仕事場のあとを見まはると今までの賑かさにひきかへしんしんとして夕靄がかかつてくる。私は残り惜しく呼びいれられてまた明日の朝をまつ。そのやうに湧きたつ木香に酔つてなんとなく爽な気もちになりながら日に日に新しい住居が出来てゆくのを不思議らしく眺めてゐた。 十二  すこしばかりの茶畑を間にして南隣りに少林寺といふ禅寺があつた。その寺内が広いのと、信心ぶかい伯母さんにはお寺といふものがなんとなく懐しかつたのであらうために私はときどきそこへつれてゆかれた。門から玄関まで二十間ばかりのあひだ二行に敷かれた石の両側が荒れた茶畑になつて、ところどころ杉の木やなにか立つてゐる。私はよくその茶の花をとつてもらつたが、枝にもろいその花はひとつとるとはばらばらといくつもいつしよに散つて地に落ちた。また雨のあとなどには茶の木茶の木に雫がいつぱいたまつてきらきらと光つてゐる。なんの奇もないながらかすかなさびのある茶の花は稚い折の思ひ出にふさはしい花である。円みをもつた白い花弁がふつくらと黄色い蕊をかこんで暗緑のちぢれた葉のかげに咲く。それをすつぽりと鼻へおしつけてかぐのが癖であつた。左りての閼伽井のそばの木犀は花がさけば甘い香を漂はせ、その井戸車の軋る音は静な茶畑をこえて私の家までもひびく。本堂の玄関にある大きな衝立には極彩色の孔雀がかいてあつた。雄鳥が蓑のやうな尾をさげてなにかにとまつてるそばにやや小さい雌鳥が身を屈めて啄むやうな姿勢をしてゐる。そのまはりに咲きみだれたいろいろの牡丹の花には蝶蝶がいくつか戯れてゐた。  また折折は近処の大日様へつれていつて遊ばせた。私がねぢねぢの太い綱をもつてこんこんと鰐口を鳴らすと伯母さんはお賽銭をなげておまゐりをする。さうして脳病のなほるやうに私の頭とお賓頭盧様の頭をかはるがはる撫でて、それから今度は自分の眼をさする。お賓頭盧様はてかてかした手垢だらけの木地をだし大きな眼をむいて台のうへに足を組んでゐた。大日様には方方のお寺にあるやうに柿色や花色の奉納の手拭のさがつた掘りぬき井戸があつて、草双紙に阿波の鳴戸のお鶴がもつてる曲物の柄杓が浮いてゐた。伯母さんはそのお水をありがたさうに手にうけて眼を冷してから小さくなつた目を見ひらいてみて 「お大日様のお蔭でちいとはようなつたやうな」 といふ。  この大日様のおみくじは大層よくあたるといふ評判で遠方からわざわざひきにくる人さへあつた。それで伯母さんはあるとき私の病身がよくなるかどうかを伺つてみたことがあつた。お堂のわきの障子のたつてるところへいつて 「お頼み申します」 といつたら 「はい」 といつて頭を青青と剃つた若い坊さんが顔をだした。伯母さんは一部始終を話しておみくじを頼んだ。坊さんは本尊様のまへへいつて暫く拝んでから がらり がらり がらがらがら と調子をつけて幾度も箱をふつたのち一本のおみくじをひいてきてその文句を丁寧に紙に書いてくれた。伯母さんは「四角い字」が読めないので坊さんはいちいち訳をといてきかせたが、それは この子は将来丈夫になつて仕合せをする といふのだつたものでほくほく喜んで帰つてきた。 十三  一町ほど淋しいはうへゆくと木槿の生垣をめぐらしたあき地に五六羽の鶏を飼つて駄菓子を売つてる爺さん婆さんがあつた。私ははじめて見る藁屋根や、破れた土壁や、ぎりぎり音のする撥ね釣瓶などがひどく気にいつて伯母さんとそこへ菓子を買ひにゆくのが大きな楽しみのひとつになつた。爺さん婆さんは耳が遠くて呼んでもなかなか出てこない。さんざ呼んでるとそのうちやつとこさと出てきてあつちこつち菓子箱の蓋をあけてみせる。きんか糖、きんぎよく糖、てんもん糖、微塵棒。竹の羊羹は口にくはへると青竹の匂がしてつるりと舌のうへにすべりだす。飴のなかのおたさんは泣いたり笑つたりしていろんな向きに顔をみせる。青や赤の縞になつたのをこつきり噛み折つて吸つてみると鬆のなかから甘い風が出る。いちばん好きなのは肉桂棒といふのだつた。それはあるへいの棒に肉桂の粉をまぶつたもので、濃厚な甘みのなかに興奮性な肉桂の匂がする。あるひどい雨の日に私はどうしてか急に爺さん婆さんが可哀さうになり、それと同時に肉桂棒がほしくなつてきかないので伯母さんは私を半纏おんぶして出かけたが、あいにく肝心の肉桂棒がなかつたため私はがつかりして泣いて帰つたことがあつた。「牛の乳」をおとなしくのんだり、むづからずによく遊んだりした日には御褒美にがらがらを買つてくれる。桃や蛤の形の紅白に染めわけたのを背中でふつて楽しみながら帰つてわつてみると紙でこしらへた小鼓やブリツキ製の笛などがでる。それを宝ものみたいに大事がる。また泥色の皮で三角に包んで合せめを役者の似顔で封じたのもあつた。 十四  生れつきの虚弱のうへに運動不足のため消化不良であつた私は、蜂の王様みたいに食ひ物を口に押しつけられるまでは食ふことを忘れてゐて伯母さんにどれほど骨を折らせたかわからない。羊羹のあき箱に握飯をつめ伊勢詣りといふ趣向で、伯母さんが先に立つて庭の築山をぐるぐるまはり歩いたあげく石燈籠のまへで柏手をうちお詣りをして、松の蔭にある石に腰をかけてお弁当をたべたこともあつた。またあるときは妹や乳母もいつしよに待宵の咲いてる原へ海苔まきをもつていつて食べたこともあつた。杉や榎や欅などの大木が立ちならんだ崖のうへから見わたすと富士、箱根、足柄などの山山がかうかうと見える。私はいつになく喜んで昼飯をたべてたのに折あしくむかふから人がきたものですぐさま箸をはふりだして もう帰る といひだした。生きもののうちでは人間がいちばん嫌ひだつた。そんな風で私がなにを食べてもうまがらないのを伯母さんは独得の弁舌で上手に味をつけてたべさせる。蛤の佃煮はあの可愛い蛤貝が龍宮の乙姫様のまへを舌を出して這つてあるくといふことのために、また竹の子は孟宗の親孝行の話が面白いばつかりに好きであつた。むつくらした竹の子を洗へばもとのはうの節にそうて短い根と紫の疣がならんでゐる。その皮を日にすかしてみると金いろのうぶ毛がはえて裏は象牙のやうに白く筋目がたつてゐる。大きなのは頭にかぶり、小さなのはけばをおとして梅干を包んでもらふ。暫く吸つてるうちに皮が紅色に染つてすつぱい汁が滲みだしてくる。はちくも好きであつた。土鍋でぐつぐつ煮ながらさもさもおいしさうな様子をして煮えくりかへる竹の子の味をきくのをみればさすがの蜂の王様も奥歯のへんに唾のわくのをおぼえた。ときどきあまえて自分で箸をとらないと伯母さんは彩色した小さな茶碗を口へあてがつて 「すずめごだ すずめごだ」 といひながら食べさせてくれる。鯛は見た目が美しく、頭に七つ道具のあるのも、恵比寿様が抱へてるのも嬉しい。眼玉がうまい。うはつらはぽくぽくしながらしんは柔靱でいくら噛んでも噛みきれない。吐きだすと半透明の玉がかちりと皿に落ちる。歯の白いのもよい。 十五  その頃□□さんといふ気ちがひがゐた。古い人の話によれば若いとき大変学問にこつて本ばかり読んでるうちに慢心して気がふれたのだといふ。髪を蓬蓬とのばして、垢と煤とでこけらの生えた身体に焼けこげだらけの襤褸をき、太い竹の杖をついてなにか考へこみながら夏となく冬となく跣のままさもしづかにさまよひあるく。昔を知つてる人たちが気の毒がつてむすびやなどやると鉄鉢をもつやうな形に大切に手にのせて帰つてゆくが、たまたま身につけるものを施す人があつても不承不承に一日ふつか著るばかりでぢきにもとの襤褸と著かへてしまふ。彼は私の家から二町ほどはなれたある農家のそばに穴を掘つて、そのなかで年ぢゆう焚き火をしてゐた。さうして気のむいたときには穴から出かけ、足のむくはうへ行きたいだけいつて、いやになればくるりと向きなほつて戻つてくる。そんなにして雨の日も風の日も何遍となくそのへんを歩きまはるのが常であつた。それゆゑどうかして一日その姿が見えないことがあると人は 今日は□□さんが機嫌がわるいのだ といひ、また三日四日も続けて出ないときには かげんがわるいのぢやないか といつて気の毒がつたりした。をかしなことに彼は往来で女に行きあへば二足三足あとへさがつてさも穢はしさうにぺつぺつと唾をはく。潔癖な伯母さんははじめて□□さんを見たときからその垢臭いのを気にして彼が三足さがらないうちにこちらから引返してしまふくらゐだつたが、ある日私をおぶつてれいの駄菓子屋へゆく途中でばつたり出くはしたら伯母さんはこらへかねて 「五銭あげるで、頼むに顔洗つとくれんか」 といつて帯のあひだから財布を出しかけた。それにはさすがの□□さんもすこし驚いたやうにたちどまつたが、さもさもいまいましさうに首をふり唾を吐くのさへ忘れて足ばやに帰つていつた。この狂人はそののち私が一人前の腕白になるまでも生きてたが、ある日のこと □□さんが昨夜のうちに焼け死んだ といふ噂がたつたのでこはごはその穴を覗きにいつたら、いつもの竹杖が粗朶といつしよに焼け残つてるばかりで□□さんの姿は見えなかつた。 十六  伯母さんは「木の実どち」をして遊ばせるといつて白玉椿の実を落してくれたが眼が悪いのと力がないのとで狙ひをはづして枝葉ばかり叩き落した。木の実どちといふのは国の遊びで、椿の種子のあるきめられた形のもののうちからいくつかを択んでめいめいが同じ数だけ出しあひ、それをいつしよにしてひとりづつかはるがはる両手のなかでふつてから畳のうへにあけてみて、白い芽の痕が多く上に出たものを勝ちとして種子のとりつこをするのである。その恰好と重心の関係によつて種子に勝負のうへの強弱がある。なかには漆を塗つて飾つたり、強くするために狡猾に鉛をつぎこんだりするものもあるといふ。落した実を拾ひあつめて殻をわると舟のやうなのや、鏑のやうなのや、つやつやしたのが隔壁のなかにしつくりとくひあつてゐる。その形にしたがつて もう、じやあ、とこ、かい などと呼ばれる。そんなにして五六十の種子をあつめて静な雨の日を木の実どちをして暮したこともあつた。  夏になればいろいろな形をした雲の塊が日光にあふれてぎらぎらする空を動いてゆくのを伯母さんは あれは文殊様だの、あれは普賢菩薩様だのとまことしやかに教へた。ある日のこと遊び疲れた私はひとり寐ころんで自分をまもつてくださる仏様の姿に似た雲のくるのを眺めてゐた。さうしたらちやうどそこへ通りかかつた雲の、観音様の仰むけになつたやうなのが不意に崩れて恐しい形になつたので、私は化けものが観音様になつてとりにきたのかと思つてあわてて伯母さんのところへ逃げていつた。それから私はさういふ形の雲を死人観音と名づけてその影をみればすぐにかくれてしまつた。  皮籠には山崎合戦の戦道具のほかにおもちやもはひつてたが、なかにも鼓と笙の笛は秘蔵の宝ものであつた。笙の笛の黒塗の壺には唐草の蒔絵がしてある。その輪がたにならんだ長い短い管の ひゆひい と柔い雑多な音をだすのが弱い神経に程よい快感をあたへる。鼓は私の小さな肩にふさはしいほどのもので、緋のしらべの緒、面白い胴の形などみな気にいつてゐた。なんでもちよいちよいかじつてる重宝な伯母さんはひとに鼓をうたせながら自分は太鼓を大革にしていい按排に拍子をあはせる。そのほかおしろい刷毛にした兎の手だの、骨のたつたとき喉をさする鶴の嘴だの、目貫をどうとかする真鍮の才槌だの、細かいものは小抽匣の沢山ついた箪笥の□ぽんの抽匣といふのにしまつてあつた。私はそのなかでどれがほしいといふやうなことはつひぞいつたことがなく、伯母さんがあれかこれかとひとつひとつ出してみせてうまくあたるまでは首をふつてぐづぐづいつてるが、大抵の時はれいのお犬様と牛を出されれば機嫌がなほつてしまふ。なにか気にいらなくて手あたりしだいにはふりだすと腹も立てずにどこかわるいのではないかと心配してぢきに額を押へてみる。熱があればすぐにお医者様へつれてゆかれるのである。それがいやさに額をおさへられるとへなへなとおとなしくなつてしまふ。菊のさくころならば伯母さんは 「菊毛氈をつくつたげるにおとなしうせるだよ」 と裏畑から菊をとつてきて菊毛氈をこしらへてくれる。それはいろいろの菊のさまざまの花びらを亜剌比亜模様のやうに紙にしいて暫く圧しをかけてから出してみると匂のいい毛氈になつてるのである。私は菊毛氈が大好きだつた。  また本箱にいつぱいある草双紙をぶちまけて気のながい伯母さんにあとからあとへと話させることもあつた。なにか叱られて泣いたあげくさんざすねて、なんのかのと賺しにくるのさへ腹だたしく、部屋の隅にひとりひつこんで草双紙をひろげたりおもちやをいぢくつたりして慰めてると、お犬様や、牛や、才槌や、草双紙のなかのお姫様などがものこそいはないが親切にいたはつてくれる。さうされれば泣きやんだくやし涙がまたとめどもなく湧きだして泣きじやくりしながら 「こんなに味方があるからいいやい」 といふ気になつてみんなを恨んでゐる。 十七  夜は茶の間に集つてるみんなのそばでおもちやをぶちまけて遊んでるうちに、睡けがさしてくればあれもこれも癪にさはるので痒い眼玉をこすりこすりむづかつてると、伯母さんは 「まあねむなつたかよ」 といひながらちらばつたおもちやをかたづけ半分力づくに頸すぢをおさへつけてみんなに 御機嫌よう をいはせるのを、寐ない 寐ない と意地ばりながら寐間へひつぱられてゆく。そこに伯母さんは私を、乳母は妹を抱いてねることになつてゐた。日がくれるとぢきに行燈をともし、床をのべて、機嫌のわるくなりしだい寐られるやうにしてある。冬ならば幾枚もかさねた寐巻があんかにかかつて湯気のたつほど温まつてるのを仰山な様子をしてふうふう吹きながら痩せた身体にほつこりと纏つてくれる。かけ蒲団のひとつは菊の模様、ひとつは更紗の海老色がかつた地に菊いただきや木の枝などついた舶来らしいものだつたが、その日向くさいのがよくて、ふつくらしたところへうつ伏せに顔をうづめて匂をかぐのが好きであつた。  私があかりの暗いのを怖がるもので、伯母さんは私を床にいれたあとで行燈の抽匣から新規に燈心をひとすぢ出してつぎそへてくれる。先をちよいと油にしましてずつぷりと沈んでる古いののそばへ並ばせるとぱりぱりと火花がちつて火がうつる。そして火皿からあまつたところがふらふらと後へ出るのを手をぶるぶるふるはせながらやつとかきあげて油壺の嘴からとくとくと飴色の種油をつぐ。ふかふかした燈心、それにぢいつと油のしみる具合、燈心おさへの恰好、油の煮える匂など。私は油のなかに虫の死骸が黒く沈んでるのと皿のふちに丁字がへばりついてるのがなにより嫌ひだつた。で、伯母さんは毎日油をかへてきりだしの刃のつぶれたのでがりがりと丁字をおとしてくれる。この臆病者には行燈といふものがなんとなく気味がわるい。ねむたい目をみはつて床のなかから眺めてると丁字がしらを心に紡錘形にたつてる焔がきれの長いひとつ目にみえ、また鼻のさきを焦しさうに顔をつつこんで燈心をかきたてる伯母さんの影法師が行燈の紙に途方もなく大きくうつるのをみればなにかが化けてきてるのぢやないかといふ気がした。伯母さんは抽匣へ燐寸をしまひながら火に誘はれて焼け死んだ虫たちの後生のためにお念仏をとなへる。私はまたあかりのとどかない床の間の天井に魔がゐるやうな気がしてねられないことがあつた。さうすると伯母さんは 「やつとこさ」 と行燈をさげて天井を照してみて 「なんにもをれせん なんにもをれせん」 といつて私に安心させる。魔といふものは髪をばあつとさげたどす黒いもののやうに思つてゐた。伯母さんは 「夜なかに怖かつたら呼ばらんしよ、伯母さんはきついでみんな逃げてしまふに」 といつていろんな話をしながらねせつけてくれる。四角い字こそ読めないが驚くほど博聞強記であつた伯母さんは殆ど無尽蔵に話の種をもつてゐた。おまけにどうかして忘れたところは勝手な想像でいい按排につづけてゆくことに妙を得てるのであつた。さうして侍であれ、お姫様であれ、それぞれの表情と声色をつかつて、しまひには化けものの顔までしてみせるのが行燈のうす暗い光に照されて真にせまつてみえた。 十八  なかでもあはれなのは賽の河原に石をつむ子供の話と千本桜の初音の鼓の話であつた。伯母さんは悲しげな調子であの巡礼唄をひとくさりうたつては説明をくはへてゆく。その充分なことわけはのみこめないのだが、胎内で母親に苦労をかけながら恩を報いずに死んだため塔をたてて罪の償ひをしようと淋しい賽の河原にとぼとぼと石を積んでるのを鬼がきては鉄棒でつきこはしてひどいめにあはせる。それをやさしい地蔵様がかばつて法衣の袖のしたにかくしてくださる といふのをきくたんびに、私は息のとまりさうな陰鬱な気におしつけられ、また可哀さうな子供の身のうへがしみじみと思ひやられてしやくりあげしやくりあげ泣くのを、伯母さんは背中をなでて 「ええは ええは、お地蔵様がおいであそばすで」 といふ。地蔵様といへば路ばたに錫杖をついてたつてるあの石仏のとほりの仏様だと思つてゐた。  仏性の伯母さんの手ひとつに育てられて獣と人間とのあひだになんの差別もつけなかつた私は親の生皮を剥がれたふびんな子狐の話を身につまされてきいた。親の白狐は皮を剥がれながら わが子かはいや わが子かはいや といつて鳴いたといふ。これは私の知つてる鼓についての三つの話のうちの最もあはれな話である。それは神秘の雲につつまれて天から降つた鼓でもなく、つれない人が綾で張つたといふ音なしの鼓でもなく、大和の国の野原にすむ狐の皮で張つたただの鼓が恩愛の情にひかれてわが子を思ふ声をだしたといふのである。私は今でもこの話を思ひだせば昔ながらの感情の湧きおこるのをおぼえる。  伯母さんはまた百人一首の歌をすつかりそらんじてゐて、床へはひつてから一流のものさびしい節をつけて一晩に一首二首と根気よくおぼえさせた。伯母さんが 「たちわかれ」 といふ。私が 「たちわかれ」 とあとをつく。 「いなばのやまの」 「いなばのやまの」 「みねにおふる」 「みねにおふる」  そんなにしてるうちにいつか寐入つてしまふ。よくおぼえたときは 「あした御褒美をあげるにまあねるだよ」 といつて叩きつけてねせてくれる。私が歌をはやくおぼえるのをたいへんなえらい子ででもあるかのやうに思つて伯母さんは明る日母などに 「ゆんべはふたあつもぢつきにおぼえた」 なぞと自慢らしく話したりした。私はわからぬながらも歌のなかの知つてる言葉だけをとりあつめて朧げに一首の意味を想像し、それによみ声からくる感じをそへて深い感興を催してゐた。そのじぶん私は古い歌がるたをもつてたが、それには一枚のふだのなかに歌と歌にあはせた絵がかいてあつて、けばだつて消えかかつてはゐたけれどそれでも松に雪のふりつもつてるところや、紅葉のしたに鹿の立つてるところなどぼんやりと見わけられた。また百人一首の綴ぢ本もあつた。歌の好き嫌ひはかるたの絵とよみ人の姿、顔かたちによつてもきめられる。好きな歌は末の松山の歌、淡路しまのうた、大江山の歌など。末の松山のうたは私の耳にいひしらぬ柔なものさびしい響きをつたへて、かるたの絵には松の浜に美しく波がよせてゐた。淡路島の歌は涙をさそふ。海のうへを舟がゆき、千鳥が飛んでゆく。大江山の歌をきけばお姫様が鬼にとられてその山奥へつれられてゆく草双紙の話を思ひださずにはゐられなかつた。僧正遍照や前大僧正行尊などといふ皺くちやの坊さんは大嫌ひだつたが蝉丸だけは名まへからも可愛かつた。 十九  雪の夜には伯母さんはあんかの炭団をかきおこしながら 雪坊主が白い著物をきて戸のそとに立つてゐる なぞといつて人をおどかす。暑いときには寐苦しがるのをあふいでくれる団扇の絵にも好みがあつて好きなのでなければなかなか寐つかない。いい匂のする蚊帳のなかでそとを飛ぶ蚊の声をききながらいたづらに骨をひとつ折つてみたりしてると隣の寺の藪へごろすけがきて鳴く。伯母さんは 「ぽつぽどりは悪い鳥でひと声に蚊を千匹つ吐くげな。あすは蚊がえらいぞよ」 なぞといふ。すず風がたつころになればこほろぎが鳴きはじめる。あるとき可愛がつてやらうとおもつて蛍籠にいれておいたところ二声か三声ないたぎり黙つてるのでそうつとのぞいてみたら籠にはつた絽をくひ破つてみんな逃げてしまつてゐた。その声をきけば子供心にもなにがなし立つ秋のさびしさをおぼえる。伯母さんは さむなつたにつづれさせ と鳴くのだといひ、乳母は妹に ちちのめ ちちのめ ちちのむとくひつくぞ と鳴いてるのだといふ。  朝どうかして早く目をさますと少林寺の槙の木に巣をくつてる烏の声がきこえるのを伯母さんは 「まんだ一番烏だにまつとねるだよ」 といつてなかなか起してくれない。二番烏が鳴いて三番烏がなくとやつと起してくれる。そんなことをいつてちやうどいいじぶんまで寐かせておくのであつた。  夕がたになれば寐間のまへのこんもりした珊瑚樹のしげみに大勢の雀がねぐらをもとめにきて首をふつて嘴をといだり、枝をあらそつてつつきあつたりして騒ぐ。おてんと様がかくれてやがて残りのうすい光も消えてゆけばひとつふたつ ちゆく、ちゆく と寐おくれてたのまでが黙つて静になつてしまふ。その雀たちをお友だちのやうにおもつて、三番烏が鳴いてもまだ起きずにゐるとねぐらをたつてゆく彼らがちゆうちゆういひだすのを自分の寐坊を笑つてるやうな気がして大急ぎで床をでる。珊瑚樹はその名にそむかぬ真紅の実をむすぶ。柔な苔のうへに落ちてるのを拾ふのもうれしい。 二十  三四十坪ほどの裏のあき地はなかば花壇に、なかば畑になつてゐた。夏のはじめのころになれば垣根のそとを苗売りがすずしい声をしてとほる。伯母さんはそれを呼んで野菜ものの苗をかふ。藁でこしらへた箱のなかにしつとりと水けをふくんだ細かい土がはひつて、いろいろな苗がいきいきと二葉をだしてゐる。菅笠をかぶつた苗売りの男がさも大事さうにそれをすくひだす。伯母さんは茄子だの瓜だのをすこしづつかつて畑へうゑる。茄子の紫がかつた苗、南瓜や糸瓜のうす白く粉をふいたやうな苗が楕円形の二葉をそよがせてるのを朝晩ふたりして如露で水をかけてやる。苗は見るたんびに成長して、蔓がでたり、葉がでたり、しまひには畑ぢゆうのたくりまはつて大きな実をぶらさげる。それを楽しみにして検分にゆく。そんな世話のすきな伯母さんは愚痴をいひいひ竹を立てて手をとつてやるとひと巻きふた巻きと日に日に蔓がまきついて、あらつぽい葉のあひだに黄いろや紫の花がさく。そこへ丸つこい虻がきてわがもの顔に飛びまはつては花のなかへもぐつてゆく。むだ花がころころと落ちるうちにほんとの花の根もとにふくらみができて、平たくなり、長細くなりして、世にいふ唐茄子や南瓜の形ができあがる。茄子の巾著なり、糸瓜のぬうつとした恰好、つぶつぶしてにくらしい黄瓜など。葉をのけてみて思ひよらぬ実のいつたのを見つけたときの嬉しさはない。なた豆、ふぢ豆、ちび筆ににた葱の花。  あるとき唐茄子の苗をかつて植ゑたらそだつにしたがひ様子がかはつてきてたうとう瓢箪になつた。私はいくつとなくぶらさがつた瓢箪をみて大喜びだつたが伯母さんは苗売りにまんまと一杯くはされたのをくやしがつてろくに世話をしてやらなかつたものでみんな落ちてしまつた。それからは下の町の青物屋へ買ひにゆくことにしたが伯母さんはなにの苗を見ても瓢箪ぢやないかと疑つて、もし生えてから瓢箪がなつたら瓢箪の木を返しにくるがいいかと いつて青物屋をきめつけた。  畑をめぐる杉垣のくろには祖母の栗と私が拾つてきてまいた胡桃が芽をだしてゐる。また祖母が好きで植ゑておいた鳳仙花の種がちらばつてあちらこちらに咲く。とりたてて見どころのない草ながら私も鳳仙花が好きである。いたづらに花をとつて爪を染めたりする。おしろいの実をつぶして白い粉をだすのが面白かつた。杏の花、緋桃の花。巴旦杏の古い木があつて雲のやうに青白い花をさかせたが、それは私たち兄弟のなによりの楽しみで烏のくるのを気にしては追ひにいつた。大きな実が鈴なりになるので枝がしなつて地びたについてしまふ。背のとどくところは手でちぎり、高い枝のは打ち落して重たい笊をかかへて帰る。花壇には鬼百合や白百合がさく。私はあまり明るい色、濃厚な色を見れば胸ぐるしい圧迫を感じるのが常であつたが、花でいへば百合の雄蕊の頭にこつとりとついてる焦げ色の花粉なぞがさうであつた。 二十一  ぢき近くに閻魔様のお寺があつた。地獄の釜の蓋のあく日がきて陰鬱な鐘の音が人を促すやうに鳴りはじめると伯母さんは気のすすまない私に花色の帷子をきせ、唐縮緬のしごきを胸高にしめさせてお詣りにつれてゆく。お盆にはきまつてその帷子をきせられたため花色といふ色までが私を陰気にするやうになつた。狭くるしい境内から門前へかけて一杯五厘の氷屋や、おでん、寿司の屋台店がぎつしりとならんで、ぴいぴいいふ風船の音、物うりの呼び声などが砂ほこりのなかに堪へがたい騒ぎをする。そして前垂がけの丁稚小僧どもが自分たちの閻魔様ででもあるやうにはしやぎまはる。私はことにこの種の人間が嫌ひであつた。二三段石段をあがつて千社ふだのべたべた貼りついた赤門をくぐれば右てに小さな閻魔堂があつて型のごとく野鄙な顔をした閻魔様がひかへてゐる。線香の煙がむんむとこもつてるなかで町の子がぎやんぎやんぎやんぎやんひつきりなしに鉦を叩くので頭がみぢやけさうに苦しいのを伯母さんはいつでも撞木をかりて私にも二つ三つ叩かせずにはおかない。さうしてよく閻魔様の顔を見せてからやうやくそこをでる。ほつと息をつくと今度は本堂にある三途の川のお婆さんのとこへつれてゆく。かなつぼまなこのなま白い婆さんが紅白の綿を幾枚も頭にのせて坐つてゐる。私は不愉快と炎天にさらされるために烈しい頭痛に悩まされるのが常であつたが、それにもかかはらず迷信家の伯母さんはなんのかのといつて毎年つれてゆかずにはおかなかつた。  涅槃会の日には燻ぼつた寝釈迦さんの軸をかけ、そのまへに小机をすゑて香華をそなへる。この虫ばんだ軸とお仏壇のうへのまつ黒な大黒様の像とは伯母さんのとこの財産のたつた二つの残りものであつた。伯母さんは小机のまへに坐つてお念仏をとなへながら私にお線香をあげさせ、またいろいろとお釈迦様の話をしてきかせる。お釈迦様のまはりに集つてるものは象、獅子をはじめ、阿修羅、緊那羅、龍族、天人、それらはこのたつとい迷信家の巧な物語によつて見るみる生きて涙を流しはじめる。沙羅双樹の梢に棚引いた雲のうへから美しい人が見おろしてるのは摩耶夫人といつてお釈迦様のお母様だといふ。その摩耶夫人が天から投げた薬の袋が沙羅の枝にかかつてるのを誰ひとり気がつかないのだなぞとお釈迦様の涅槃を親にでもわかれるやうにいつてきかせるので、私はお釈迦様がかはいさうになつて泣いた。 二十二  月三さいの大日様の縁日には雨さへふらなければかかさずにつれてゆく。私が袂につかまつてあるくために伯母さんの羽織がかたよつてしまふので路なかに立ちどまつてはなほしたが、人通りの多いところなどでは指を一本一本ほどかねばならぬほど獅噛みついてゐた。伯母さんの羽織の紐は私がこまむすびに結び、私のは伯母さんが琴むすびに結んでくれる。大日様へゆくとお賽銭を投げさせて 「お蝋をどうぞ」 といふ。お堂のなかのぴかぴかするへんで 「はい」 と返事をして若い坊さんが蝋燭をともして本尊様のまへに立てそへる。伯母さんは一心にお念仏をとなへて 「さあこれでええ」 といつて袂をつかませてお寺の門をでる。それは この子の病身がなほりますやうに、道を歩いても怪我をしませぬやうに などといろんなことを八の日八の日までに考へためておいて大日様にお願ひするのであつた。  縁日には大勢乞食がでてお寺の塀ぎはにずらりとならぶ。それが私の行くじぶんにはまだ出そろはずにちんばや躄などのなかで足のはやい奴が二三人あんぺらを敷いたりして支度をしてゐる。私はいつとはなしに伯母さんの感化をうけさういふものに施しをしたあとで淡いながら底深い子供の慈悲心の満足をおぼえるやうになつた。乞食のうちに顔かたちのととのつたひとりの女の目くらが琴をひいてるのがあつた。まだ今のやうに琴といふもののゆきわたらないじぶんのことで、伯母さんは乳母とよくその噂をして昔のお旗本か、さもなくば御殿奉公でもしたもののなれのはてにちがひないといつてゐた。彼女はききとれないほどつぶれた声で琴歌をうたふ。琴爪が糸のうへをさらさらころころとすべつてゆくのも、雲のやうなもくめのある胴のうへに雁の形の琴柱がちらばらに立つてるのもみな珍しく美しくみえた。 二十三  すこし早くゆけば見世物師が蜘蛛のやうに小屋がけをしてゐる。そばには見世物に使ふ道具や生きもののはひつた箱がおいてあるのを好奇心にみちて見てるとやがて絵看板があげられる。大概は気味のわるいのばかりで、海のなかを大きな眼玉の人魚が泳いでるところだの、大蛇が二叉の舌を出して鶏をのまうとしてるのなどだつたが、そのなかにときどき鼠の芸当のがあつて、空色の看板にいろんな著物をきた無数のこま鼠が日の丸の扇をもつたりして芸当をしてるところがかいてあつた。私はそれがひどく気にいつてそれのかかるたんびにはひつてみた。南京鼠が幾匹も出てきて荷車をひいたり車井戸を汲んだりする。いちばんしまひには張子の倉のなかから小さな米俵をくはへだして積みあげるのをやつた。茶の斑や、まつ白なのや、いりみだれて走りまはるのが可愛くてならない。鼠つかひは三十恰好の女で、そのころはまだごく珍しかつた束髪に帽子をかぶつて女異人のなりをしてゐた。女は鼠が俵を運びだすたんびに 「よいとよいとはこんでえつさつさ」 と拍子をとる。そそつかしい鼠のおとした俵が見物人のはうへ転げてくることがあるとほかの子たちはすぐに拾つて投げかへしてやる。女は 「ありがたうよ」 と愛想よくほほゑんで頭をさげる。俵は私のまへへもたびたび転がつてきた。私は拾つてやりたかつたのだけれどなぜか気ばかりはらはらしながらどうしても手をだすことができなかつた。鼠の芸当がすむと女は青と赤に染めわけた籠から一羽の鸚鵡をだして口まねをさせる。鸚鵡は手のひらへおとなしく乗つて女のいふとほりさまざまなことをいふのだが、機嫌のわるいときは冠毛を立ててきやあきやあ鳴くばかりでなんにもいはない。そんなときには女は術なさうに首をかしげて 「太郎さんは今日はどうしてさうなんでせうねー」 といふ。鸚鵡の絵のやうな姿、鉤なりの嘴、悧巧さうな眼などを思ひながら残り惜しく小屋をでた。 二十四  夜店のうちでほほづき屋は心をひくもののひとつであつた。歯車のついた竹筒をぶいぶいとまはしながら 「ほほづきやーい ほほづき」 と呼ぶ。簀の子にしいたひばの葉のうへに赤、青、白、いろいろなほほづきをならべて、雫がほとほととしたたつてゐる。団扇の形した海ほほづき、人魂ににた朝鮮ほほづき、天狗ほほづき、薙刀ほほづき、それらはみな海のほほづきで、革質の袋のなかに磯臭い垢がはひつてゐる。たんばほほづき、千なりほほづき。おやぢは竹筒をまはして 「ほほづきやーい ほほづき」 と呼ぶ。ほかのほほづきは鳴らせないのでいつも海ほほづきを買つてもらつて大切に手に握つてかへる。たんばほほづきは緋の法衣をきた坊さんの姿である。むいてみて蚊がさしてると姉はくやしがつて畳へたたきつける。蚊といふ奴はわるい奴である。まだ青いうちにこつそり甘い汁を吸つておく。そんなのは坊主頭にぽつちりとほしがあつて揉んでるうちに皮が破れてしまふ。  夏は虫屋の店に気をそそられる。扇、船、水鳥などの形をした虫籠に緋色の総をさげてりんりんれんれん松虫や鈴虫を鳴かせてゐる。きりぎりすは戸をひくやうに、轡虫はかさこそとなく。私は松虫や鈴虫がほしいのにいつもきりぎりすしか買つてくれないのであるときわざと伯母さんの嫌ひながちやがちやを買つて夜どほし眠らせなかつたことがあつた。それらは粗末な竹籠の四隅に赤や青の柱のあるのにいれてよこす。瓜のきれを格子にはさんでやると髭をふりふりくひかいてゆく。わけのわからない顔をして、不釣合に長い後脚がうしろむきについてるのもをかしい。  また鉢植ゑの草花をかつてくることもあつた。寐るときになれば夜露にあててやるといつて軒さきに出しておく。それらの花をみるときの子供心をなんといはうか。そののちもはや再びすることのできない清浄無垢のよろこびであつた。花にそそのかされて明る朝ははやく起き寐巻のまままぶしい眼をこすりこすりみると、花や葉に露がちろりとたまつて、天鵞絨のやうな石竹の花、髷の形した遊蝶花、金盞花などいきいきと目ざめてゐる。  絵草紙をかふとくるくると巻いてまんなかに帯をしてくれるのをそうつと手にもつてときどき筒のなかをのぞきながら帰つてくる。と、みんなが どんなに綺麗だか見せてくれ といふので勿体らしくそろそろほどいてみせる。誰も彼も眼をまるくして ほしい ほしい といふ。枠のそとには赤いんきで しんぱんけだものづくし などとかいてある。鼻を長くしてにこにこした象も、壺口の兎も、鹿も、羊も、みんな可愛い。ほかの獣はひとりでおとなしくしてるのに熊ばかりはまつかな金太郎と相撲をとり、鼻のさきが竹の子みたいにつきでた猪は仁田の四郎におさへられてゐた。一順みせびらかせば 御機嫌よう をいつて寐間にはひり伯母さんの仰山な絵ときをききながらさんざ見かへしてから枕もとにおいてねる。 二十五  意気地なしの私は人なかでは口がきけずなにかほしいものが目につけば袂をつかんだまま黙つて立ちどまつてしまふ。すると伯母さんは心得てあたりを見まはしあれかこれかとたづねる。うまくあたるまではいつまででも首をふつてるがよくよくあたらないとしかたなしにそつと指さしをして、その指ははづかしさうにひつこめて口にくはへる。三すくみのおもちやが大好きだつたが伯母さんは蛇が嫌ひだもので知らないうちにぢきにしまひこんでしまつた。竹の兎はぴよんと跳ねる。暖い日には膠がゆるんで威勢よくぴよんと跳ねずにそろそろ尻をもちあげて横つ倒しになる。そのほか籠のなかの鳥が籠についてる柄を吹くとぴいぴい囀りながらまはるのや、ちりちりと尾をふりながらすべりおりる鯛弓のおもちやなどが好きであつた。  木枯しの夜などには露店のかんてらの火が淋しい音をたてて燈心が血ばしつた眼玉みたいにみえる。そんなときにかはいさうでならなかつたのは葡萄餅をうる婆さんであつた。葡萄餅とはどんなものかしらない。七十ぢかい萎びかへつた婆さんが ぶだうもち とかいたはげちよろの行燈をともして小さな台のうへに紙袋を数へるほどならべてるが、つひぞ人の買ふのをみたことがない。私はそれを気の毒がつて無上にせがんだけれどあんまり穢いのでさすがの伯母さんも二の足をふんで買つてくれなかつた。何年かのち私がひとりで縁日に行けるやうになつてからも婆さんは相変らず蕎麦屋の角に店を出してゐた。私は市のたんびに幾度となくそのまへを行きつ戻りつして涙をためてゐた。が、いつも買ひおほせずに本意なく帰つてきてしまつた。とはいへある晩たうとう思ひきつて葡萄餅の行燈のそばにたちよつた。婆さんはお客だとおもつて 「いらつしやい」 といつて紙袋をとりあげた。私はなんといつてよいかわからず無我夢中に二銭銅貨をはふりだして後をも見ずに少林寺の藪の蔭まで逃げてきた。胸がどきどきして顔が火のでるやうに上気してゐた。  八幡様の馬鹿囃子へはちつとも行かうとしなかつた。それはあの鼻つぴしやげの馬鹿の仮面、目のとんちんかんなひよつとこの顔、またあんまりひつつこい野鄙な道化が胸をわるくさせたからである。けれども家の者は私の憂鬱をなほさうとしての無智な親切から、伯母さんまでがみんなの味方になつてどうかしてつれださうとする。九つ十にもなつてからはそんなところへゆくことの苦痛をくれぐれも訴へたけれどみんなはそれを遁げ口上とばかりおもつて権柄づくで押し出すのが常であつた。そんなときには私は近処の原へいつて大木の立ちならんだ崖のうへに寐ころんで山を見ながら幾時をすごした。 二十六  このへんの子は神田の腕白どもにくらべればさすがにおだやかだし、それに往来は静だし、私のやうなものにとつてはまことに屈竟な世界であつた。で、伯母さんは一所懸命私の遊び仲間によささうな子供をさがしてくれたが、そのうち見つかつたのはお向ふのお国さんといふ女の子であつた。──お国さんのお父様は阿波の藩士で、そのじぶん有名な志士であつたといふことは近頃になつて始めて知つた。──伯母さんはいつのまにかお国さんが体が弱くておとなしいことから頭痛もちのことまでききだしてもつてこいのお友達だと思つたのである。ある日伯母さんは私をおぶつてお国さんたちの遊んでる門内のあき地へつれてゆき 「ええお子だに遊んだつてちやうだいも」 といひながらいやがる私をそこへおろした。みんなはちよつとしらけてみえたがぢきにまた元気よく遊びはじめた。私はその日はお目みえだけにし、伯母さんの袂につかまつて暫くそれを眺めて帰つた。その翌日もつれてゆかれた。そんなにして三日四日たつうちにお互にいくらかお馴染がついて、むかふでなにかをかしいことがあつて笑つたりすればこちらもちよいと笑顔をみせるやうになつた。お国さんたちはいつも蓮華の花ひらいたをやつてゐる。伯母さんはそれから家で根気よくその謡を教へて下稽古をやらせ、それが立派にできるやうになつてからある日また私をお向ふの門内へつれていつた。さうしていぢけるのを無理やりにお国さんの隣へわりこませたが意気地のない二人はきまりわるがつて手を出さないので、伯母さんはなにかと上手に騙しながら二人の手をひきよせて手のひらをかさね、指をまげさせて上からきゆつと握つてやうやく手をつながした。これまでつひぞ人に手なぞとられたことのない私はなんだか怖いやうな気がして、それに伯母さんに逃げられやしないかといふ心配もあるし、伯母さんのはうばかり見てゐた。あらたにこの調和しがたい新参者が加はつたために子供たちはすつかり興をさまされていつまでたつても廻りはじめない。それを見てとつた伯母さんは輪のなかへはひり景気よく手をたたいて 「あ ひーらいた ひーらいた なんのはなひーらいた」 とうたひながら足拍子をふんで廻つてみせた。子供たちはいつか釣りこまれて小声にうたひだしたので私も伯母さんに促されてみんなの顔を見まはしながら内證で謡のあとについた。 「ひーらいた ひーらいた、なんのはなひーらいた、れんげのはなひーらいた……」  小さな輪がそろそろ廻りはじめたのをみて伯母さんはすかさず囃したてる。謡の声がだんだん高くなつて輪がだんだんはやく廻つてくる。平生ろくに歩いたことのない私は動悸がして眼がまはりさうだ。手がはなしたくてもみんなは夢中になつてぐんぐん人をひきずりまはす。そのうちに 「ひーらいたとおもつたらやつとこさとつーぼんだ」 といつて子供たちは伯母さんのまはりへいちどきにつぼんでいつたもので伯母さんは 「あやまつた あやまつた」 といつて輪からぬけだした。 「つーぼんだ つーぼんだ、なんのはなつーぼんだ、れんげのはなつーぼんだ……」  つないだままつきだしてる手を拍子につれてゆりながらうたふ。 「つーぼんだとおもつたらやつとこさとひーらいた」  つぼんでた蓮華の花はぱつとひらいて私の腕はぬけるほど両方へひつぱられる。五六遍そんなことをやるうちに慣れない運動と気疲れでへとへとにくたびれてしまひ伯母さんに手をほどいてもらつて家へ帰つた。 二十七  お国さんはお友達といふものの最初の人であつた。はじめのうちは私も伯母さんがそばについてゐなければ遊べなかつたし伯母さんもいはばぽつと出の子供の身のうへを気づかつてそばをはなれなかつたが、ここは神田へんとはちがつてまつたく私みたいな子のための世界といつてもいいくらゐ静な安全なところであることを見とどけて、車がきたら門の内へはひれの、溝のはたへはよるなのと細かい注意をくどくどいひきかせたのちひとりおいて帰るやうになつた。  二人がさしむかひになつたときにお国さんは子供同士がちかづきになるときの礼式にしたがつて父の名母の名からこちらの生年月日までたづねた。そしてなにの歳だといつたからおとなしく酉の歳だと答へたら 「あたしも酉の歳だから仲よくしませう」 といつていつしよに こけつこつこ こけつこつこ といひながら袂で羽ばたきをしてあるいた。おない年はなにがなし嬉しくなつかしいものである。お国さんはまた家の者が自分のことを痩つぽちだのかがんぼだのといふといつてこぼしたが私もみんなに章魚坊主といはれるのがくやしかつたので心からお友達の身のうへに同情した。いろいろ話しあつてみればいちいち意見が一致して私たちは間もなく仲よしになつてしまつた。お国さんは浅黒く痩せた鼻の高い子で、前髪をさげて赤いきれでおさげの根を結へてゐた。  二人は虫くひだらけの門柱によりかかつたり、しやがんで泥いぢりをしたりして頭がくつつきあふほど顔をよせながら、昨日何本めの歯がぬけたとか、どの指へ刺をたてたとか埒もないことを喋りあつて、お互に意気投合すればなんといふこともなく あははははは と笑ふ。お国さんはたしか糸きり歯が一本ぬけて笑ふたんびにそこが洞穴みたいにみえた。家で伯母さんばかりを相手にしてた私はお国さんと友達になつてから善いこと、悪いこと、急に智慧がついてきたけれど、おない年とはいへよつぽど遅れてたのでなんでもいふことをきいて遊んでゐた。  近処にお峰ちやんといつて私たちよりひとつ年うへの子がゐた。お峰ちやんは意地わるなばかりかひどい焼餅やきでみんなに嫌はれてたが、毎日顔をあはすので子供同士のつきあひで時にはどうしてもいつしよに遊ばなければならないことがあつた。ある日のことまたお国さんと歳の話がでて こけつこつこ こけつこつこ といつて羽ばたきしてたらお峰ちやんは 「あたし申の歳だから」 といつてきやつきやつと二人をひつかいた。 二十八  お国さんの櫛は赤く塗つて菊の花の蒔絵がしてあつた。緋と水色の縮緬でこしらへた薬玉の簪ももつてゐた。お国さんはなにか新しいのを買つてもらふと自慢してみせておきながらよく見ようとすれば袂へかくしたりして人を焦らせる。私はそんなものを見るたんびに自分が女に生れなかつたことをくやみ、また男はなぜ女みたいに綺麗にしないのだらうと思つた。  お国さんはかくれんぼをしようとするときはいつでも 昨日裏の藪から三つ目小僧がでた の、山かがしがとぐろまいてた のとおどかしておいてから人を李の木の蔭に目をつぶらせてどこかへかくれてしまふ。私は家をぐるりとひと廻りして裏のはうへ捜しにゆく。お庭へ曲るところに竹矢来をして鵞鳥が二羽飼つてあるのが怖くてしやうがない。そうつと通らうとするのを恵比寿様の冠みたいな頭をのしあげてがわがわ追つてくる。やつとの思ひでそこを通りぬけて茶畑のはうへゆくと隣の乳牛が埒のうへから頸をのばして めえ といふ。それが怖いので茶畑のなかはいいかげんにしてお庭をさがす。大きな木が沢山あるのでなかなか見つからない。あたりを見まはしても誰もゐないし、帰り路には牛と鵞鳥が待ちかまへてるし、心細くなつて 「もういいかーい」 と呼んでみる。しんかんとしてるところへ自分の声ばかり響いてなんにも聞えない。お国さんは人を騙してどこかへ行つてしまつたのぢやないか なぞと思へばなほなほ淋しくなつて はやく伯母さんが迎ひにくればいいのに と思ひながらまた 「もういいかーい」 と呼んでみる。我ながら涙声になつてゐる。さうすると竹藪のへんで 「もいよ」 と小さな声でいふ。ゐるな と思つて竹藪の入口までいつても垣ひとへ向ふにはお寺の銀杏の木がまつ黒に立つてるし、竹のあひだには椿や皀角子がごちやごちやに繁つていやにうす暗い。三つ目小僧が出たといふのはほんとかしら などと思つてたち竦んでると奥のはうでくすくすと笑ひ声がする。で、やうやく元気づいてはひつてゆくのだが、竹の切株や根つこが到るところ出てるうへにいたいいたい草がいちめんに生えてるのがふだん石ころひとつにも伯母さんがやかましく世話やいてくれる私には針の山をゆく気もちで足の踏みどころもない。おまけになんだかそこらぢゆう山かがしがとぐろまいてるやうな気がして気味がわるくてならないのを、やつとの思ひでひと足づつ踏みこんでいつていよいよ見つかりさうなとこまでゆくとお国さんは隅の暗いところから 「おばけー」 と白眼をして出てくる。それをお国さんだとは知りながらも総毛だつて 「いやだつてば、いやだつてば」 と逃げだせば面白がつてどこまでも追つかけてくる。そこでこんだはこつちが隠れる番になる。けれども私は藪のなかへは隠れ得ないし、それにさきは案内をよく知つてるのでぢきに見つかつてしまふ。でもどうかしてなかなか捜せないとお国さんは家へあがつてお菓子をたべてるのをそれとは知らずいくら待つてゐても来ないので 「もうよし夜があけた」 といつて出てゆくと 「ほら見つけた」 とむにやむにややりながら出てきて 「あなたにもひとつあげませう」 といつて金華糖のかけらなどくれる。 二十九  私たちはうつし絵が大好きだつた。その油くさい匂をかぐときの気もちはない。はやくついたはうが勝ちだといつて貼つたうへへべとべとに唾をつけて 「はやくくつつけ はやくくつつけ」 といひながら指でこすつてゐる。いろんな色の鳥や獣などの押された手の甲をならべていたづらに皮をのばしたり縮めたりするのが面白い。すこしたつと乾いて痒くなるのをそうつとまはりを掻いてこらへてゐる。時にはおそろひの絵を二の腕に貼りいつまでもとつときつこだといつて著物にすれないやうに大事にしてるが明る朝みるときれぎれになつて訳のわからないものになつてゐる。朝飯をすますやいなやおそるおそるお国さんのとこへいつて 「こんなになつたからかんにんして」 といへばわざとつんとしてこれ見よがしに袖をまくつてみせる。と、やつぱしめちやくちやになつてるのを眼をまるくして 「あたしのもこんなになつちやつた」 といつてさもをかしさうに笑ふ。  桜の花のちるころには花びらを糸にぬいて数の多いのをきそふ。  ある日お国さんのとこの玄関のまへで赤のまんまを茶碗にもり、かたばみ草の実を黄瓜に見たててままごとをしてたらお峰ちやんが 「遊びませう」 といつてやつてきた。お国さんは 「にくらしいからいぢめてやりませう」 と耳つこすりをし垣根に生えてるほーれ草をこつそりとつていきなり 「おまいにほうれたほーれ草」 といつてぶつけた。さきも負けない気になつてぶつけかへした。お国さんが手にいつぱいもつてるのを半分よこしたから私も平生の意趣ばらしに思ふさまぶつけてやつた。 「おまいにほうれたほーれ草」 「おまいにほうれたほーれ草」 「おまいにほうれたほーれ草」  不意討ちではあり多勢に無勢で逃げだしたのを追つかけてめちやめちやにぶつけたらみるみるうちに背中いちめんにくつついた。お峰ちやんは怖い顔をして睨めておいてほーれ草をぶらさげたまま帰つてゆくのでいつけられはしまいかとこはごは見送つてたらひよいとふりかへつて憎体に腭をつきだしてかけていつた。  蚕豆の葉をすふと雨蛙の腹みたいにふくれるのが面白くて畑のをちぎつては叱られた。山茶花の花びらを舌にのせて息をひけば篳篥ににた音がする。  春になるとお儒者のやうな玄関のまへにある李の木が雲のやうに花をつけ、その青白い花がまばゆく日に照されてすーんとした薫があたりにただよふ。近処の子供たちはみんなその蔭へよつてきていろんな遊びをする。彼らの声がきこえると伯母さんは私をつれていつてみんなに耳うちをして帰つてゆく。彼らはみんな三つ四つ年うへだつたが子煩悩な伯母さんになついて □ちやんとこのをばさん □ちやんとこのをばさん といふやうになり、自然私をかばつてよく遊んでくれ、子供らしい世話もやいてくれた。をかしなことに彼らは私よりずつと大きいくせになにをやつてもぢきに負かされてしまふ。鬼ごつこをすれば誰も私をつかまへ得ないし、独楽をまはせば誰のも不思議にあたらない。そしてなにがなんだかわからずにこちらが勝つてしまふ。家へ帰つて鼻を高くして話すとみんなは 「えらいえらい」 といつてほめた。このぼんやりが自分の味噌つかすにされてるのに気がつくのは容易なことではなかつた。 三十  やはりこのへんに住んで百姓と商ひを半半にしてる水飴屋の親仁があつた。彼は天気でさへあれば必ずちやるめらをふきふき車を挽いてくる。あのすべてのものの調和をうちこはしてしまふやうな響が妙に子供の胸をときめかせて家にゐる者は家をとびだし、遊んでる者は遊びをやめてとんできて、棒ちぎれを刀にさした奴や、泥だらけの独楽を懐へおしこんだ奴が車をとりまいてわいわいと騒ぐ。水飴のほかにあてものや駄菓子などももつてるのでみんなは我がちに赤や青の紙をめくつてあてものをする。親仁は桶のなかに琥珀色にをどんでる飴をきゆつきゆつとひつぱりあげて木箸のさきにてらてらした坊主頭をこしらへる。それを口一杯に頬張つてくるくる廻してると濃厚な甘味が唾にとけてだんだん小さくなつてゆく。  よかよか飴屋もきた。真鍮の箍をたくさんはめた盥みたいなもののまはりに日の丸の小旗がぐるりとたつて、旗竿のさきに鴛鴦鳥の形をした紅白の飴がついてゐる。鯉の滝のぼりの浴衣をきた飴屋の男が うどどんどん と太鼓をたたきながら肩と腰とでゆらりゆらりと調子をとつてくるあとからあねさんかぶりをした女がぢやんぢやかぢやんぢやか三味線をひいてくる。たんと買つてやるとおかめの面をかぶつて踊るのを子供たちはずらりととりかこんで見物する。と、首をひねつたり、袖をふつたり、三味線にあはせていいかげんに踊りながらへんな足つきをして追つかけるものできやつきやつといつて逃げまはる。踊がすめば飴屋は 「へえおやかましう」 と盥を頭へのせながら御愛嬌にわざと盥をおつことして泣き泣き帰つてゆく。  お国さんのお父様は骨格の逞しい怖い人でお役のため留守がちだつたが、たまに家のときはいちんち二階に閉ぢこもつてなにか書きものをしてゐた。さうしてすこしやかましくするとぢきに叱られるのでこちらもお父様のゐる日には遊びに行かなかつたし、むかふも家に小さくなつてゐた。どうかしてそれを知らずにいつて 「お国さん、お遊びなさいな」 とよぶとお国さんは玄関の障子を細めにあけ拇指を鼻のさきへだしてさも怖さうに手をふつてみせる。  桃のお節句にお国さんのとこへよばれたことがあつた。日あたりのいいお座敷の正面に高く雛段をこしらへて立派なお雛様がかざつてあつた。家のは目にはひりさうな小さいのだのにお国さんのはその五つがけもある。お雛様は生きてるものとばかり思つてた私は体がすくむやうな気がしていくつもつづけざまにお辞儀をしたらみんながどつと笑つた。そこへ意外にも留守だと思つてたお父様が出てきたので、どうなることかとお雛様とお父様の顔を見くらべながら今にもべそをかきさうにちぢこまつてゐた。お父様は怖ぢけてる私を見ていつになく笑ひながら豆煎を紙に包んでくれて、年はいくつだの、名はなんといふのといろんなことをきいた。そして 「ここにゐる人のなかで誰がいちばん怖い」 といつたから正直にお父様を指さしたらみんながまたどつと笑つた。お父様も笑ひながら 「おとなしくさへすれば叱りはしない」 といつて二階へいつてしまつたのでやうやくほつと息をついた。 三十一  あの静な子供の日の遊びを心からなつかしくおもふ。そのうちにも楽しいのは夕がたの遊びであつた。ことに夏のはじめなど日があかあかと夕ばえの雲になごりをとどめて暮れてゆくのをみながら もうぢき帰らなければ とおもへば残り惜しくなつて子供たちはいつそう遊びにふける。ちよんがくれにも、めかくしにも、をか鬼にも、石蹴りにもあきたお国さんは前髪をかきあげて汗ばんだ額に風をあてながら 「こんだなにして遊びませう」 といふ。私も袂で顔をふきながら 「かーごめ かごめ をしませう」 といふ。 「かーごめ かごめ、かーごんなかの鳥は、いついつでやる……」  雨のあとなど首をたれた杉垣の杉の若芽に雫がたまつてきらきら光つてるのを、垣根をゆすぶると一時にばらばらと散るのが面白い。暫くすればまたさきのやうにたまつてゐる。  遊び場の隅には大きな合歓の木があつてうす紅いぼうぼうした花がさいたが、夕がた不思議なその葉が眠るころになるとすばらしい蛾がとんできて褐色の厚ぼつたい翅をふるはせながら花から花へと気ちがひのやうにかけまはるのが気味がわるかつた。合歓の木は幹をさすればくすぐつたがるといつてお国さんと手のひらの皮のむけるほどさすつたこともあつた。  夕ばえの雲の色もあせてゆけばこつそりと待ちかまへてた月がほのかにさしてくる。二人はその柔和なおもてをあふいで お月様いくつ をうたふ。 「お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしや若いな……」  お国さんは両手の眼で眼鏡をこしらへて 「かうしてみると兎がお餅ついてるのがみえる」 といふので私もまねをしてのぞいてみる。あのほのかなまんまるの国に兎がひとりで餅をついてるとは無垢にして好奇心にみちた子供の心になんといふ嬉しいことであらう。月の光があかるくなればふはふはとついてあるく影法師を追つて 影やとうろ をする。伯母さんが 「ごぜんだにお帰りよ」 といつて迎ひにきてつれて帰らうとするのを一所懸命足をふんばつて帰るまいとすればわざとよろよろしながら 「かなはん かなはん」 といつて騙し騙しつれてかへる。お国さんは 「あすまた遊んでちやうだいえも」 といふ伯母さんに さやうなら をして帰るみちみち 「かいろが鳴いたからかーいろ」 といふ。私も名残をしくておなじやうに呼ぶ。さうしてかはるがはる呼びながら家へはひるまでかはるがはる呼んでゐる。 三十二  そのやうにして安穏な日をおくつてるうちに二人にとつて一大事がおこつた。それは二人とも八つになつて学校へあがらなければならないことになつたのである。いつぞや伯母さんにおぶさつて姉のお弁当をもつていつたから学校の様子はわかつてゐる。あの意地のわるさうな子のうようよゐるところへどうして行かれよう。毎晩茶の間へおもちや箱をだして遊ぶ時になると父や母がくどくいつてきかせたが私は強情に首をふつてゐた。母は 学校へ行かなければえらい人になれない といふ。私は えらい人なんぞにならないでもいい といつた。父は 学校へ行かない子は家におかない といふ。私は 伯母さんといつしよにおもちや箱をもつて出てゆく といつた。小さな智嚢をしぼつた抗弁も、病身者の嘆願も、はじめのうちこそは笑つてききながされたが始業の日がせまるにしたがつて拷問はますます厳しくなり、あはれな子は毎晩泣きだしては伯母さんにつれられて床にはひるやうになつた。そのうちにも委細かまはず鞄が買はれて、厚紙の筆入れや、大きな手習ひの筆や、すつかり揃つてしまつた。姉たちは いいものが買つてもらへてうらやましい といふけれどそんなもの見たくもない。お犬様と丑紅の牛のほかなんにもいらない。さうして外ではお国さんと遊んで、家では伯母さんと木の実どちをしてゐればいい。こんなにいやなのをどうして無理に行かせるのだらう と思つた。  ある日思ひあまつてお国さんにその話をしたらお国さんは 「あたしも毎日叱られてる」 といふ。お友達もやつぱり学校がきらひでおなじ憂きめをみてるらしい。そこで二人は李の木の根つこに腰かけて恥をうちあけて慰めあつた。さうして別れるときにお国さんが 「あたしどうしても行かないからあなたも行くのおよしなさいね」 といつたので私は堅く約束して帰つた。 三十三  いよいよといふ日になつたが私は朝から 「お国さんがいかなければいかない」 をくりかへしてどうやら一日がくれた。その晩私は寐間のかくれ家から無理やりに茶の間の白洲へひきたてられて威しつ賺しつすすめられたけれど心をきめてがんばつてたら兄がいきなり衿くびをつかまへ妙なことをしてさんざ畳へたたきつけたあげく続けざまに頬ぺたを打つた。伯母さんは 「この弱い子をどうせるだ どうせるだ」 といつて 「私がよういつてきかせるで」 とかばひながら寐間へつれて逃げた。兄は高等中学で柔術をやつてゐた。明る日は頬をはらして食事もせずにじつと寐間にひつこんでたら伯母さんは心配して仏様のお供物をこつそり私にたべさせた。さうしたらその日から急にひどく熱が出て唯さへ癇の強い私が夜どほしろくに眠らないのを伯母さんはお念仏をくりかへしながら夜の目もねずに看病してくれた。四五日さうしてねてるあひだは学校の話もでなかつたが、やうやく頭痛もなほり、熱もひいておきるとその晩からまたもや拷問がはじまつた。私はすつかり覚悟をきめて相変らず お国さんがいかなければ といひはつたが、どうしてか今度は辛いめにもあはずにただ 「お国さんが行けばきつと行くか」 といはれたので 「きつといきます」 といひきつた。翌日伯母さんは蒼い顔をしてる私をおぶつて学校のひけるじぶん門のまへへつれだした。学校までは一町半ぐらゐしかない。ちやらん ちやらん と鈴の音がきこえると間もなくぞろぞろ生徒が帰つてくる。さうしたら意外にもお国さんがおなじやうに包みをかかへて元気よく帰つてきて伯母さんに えらい えらい といはれたもので得意になつて学校の話をしてきかせた。私は背中にゐて お国さんはひどい と思つた。その晩私はしかたなしに学校へゆくことを承知した。  あくる朝私は羽織袴で父といつしよに学校の門をはひつた。そして先生たちのゐる部屋へつれてゆかれたが、そこには硝子障子のはまつた戸棚のなかに地球儀や、鳥や魚の標本や、珍しい獣の掛け図や、心をひくものが沢山あつた。──これらはみな後におぼえた名である。──父が私の脳のわるいこと、体が弱くて臆病なことなどこまごまと話すのが恥しくてならない。それをきいて人の顔をじろじろ見ながらうなづいてた先生はもの柔に 「あなたの年はいくつ」 「あなたの名は」 「お父様のお名は」 「お家は」 といろいろなことを尋ねた。そんなことは前から家で教はつてあるし、先生の案外やさしいのに安心してどうやら無事に返事ができた。先生は脳が悪いときいてばかとでも思つたのかさまざまなことをききためしたのち 「これなら結構です」 といつて入学を許してくれた。その日はそれなり帰つて姉たちに学校でのお行儀や、お辞儀のしかたや、鞄のびぢやうのかけかたなど教はつて暮した。そして次の日には桜の花の徽章のついた帽子をかぶり、持ちつけぬ鞄をはすにかけてなんともいへない混乱した気もちをしながら伯母さんに手をひかれて学校へいつた。この不慣れな様子を人に見られるのが恥しいのとまだ知らぬ学校生活の心配とに小さな胸を痛めて自分の爪先ばかり見ながらそろそろとついてゆく。姉たちは私を教場へつれていつていちばん前の机へ腰かけさせた。それは尋常一年の乙の級で、おなじ一年のうちでも年弱な者や頭の悪い者をいれるところだつた。 三十四  さきにあがつた子供たちはもう学校になれてるし、それに私みたいな弱虫はひとりもゐないのでわがもの顔にわいわい騒いでゐる。さうかうするうちにいつもききなれてる鈴が ちやらんちやらん と鳴つた。そばできくときんきん耳の底まで響いていやでならない。姉たちは またこの次の遊び時間にくるから といつて、伯母さんは お稽古のすむまでちやんと戸のそとに番をしてゐる といふ約束で出ていつた。で、ひとりぼつちになつてこはごは見まはしてみたら強さうな意地のわるさうな奴ばかりがむかうでも変な顔をしてじろじろ見てゐる。私は小さくなつて机にあいてる節穴ばかりのぞいてゐた。そこへはひつてきたのは古沢先生といふ受持ちの先生だつた。この人は顔いちめんのあばたのためにちよつと見は怖いけれどほんたうは評判のやさしい先生で学校ぢゆうの生徒が 古沢先生 古沢先生 といつてなついてゐた。本は伯母さんに教はつた ちん わん ねこにやあ ちう の絵草紙や、いぬ はし ほん つくゑ の絵本とはちがつてたが、やさしかつたのでそのはうはろくに見ずに先生の白髪まじりの髪の毛がばらばら風にふかれるのばかり眺めてゐた。やがてお稽古がすんだ。まはりの教場から雪崩れでた腕白どもが運動場いつぱいの藤棚のしたで蛙とびをする、鬼ごつこをする、大将ごつこをする。今までお国さんのとこの小さな世界にばかりゐた世間みずの私にはたまらないほど眼まぐるしいのできよときよとして立つてたら姉のお友達は これが話にきいてた弟か といふやうにばらばらとよつてきて忽ち人をとりまいてしまつた。さうしてませくれたお愛想をあびせかけておきまりの 年はいくつ だの、名はなんといふの と四方八方から質問の矢をはなつ。あはれな臆病者は雌豹の群に襲はれた驢馬のやうにおどおどして顔もあげずに縦横に首をふるばかりだつた。そこへ運わるくひとりの先生がきていきなり私の帯をつかまへ やつ と掛声をして宙にさしあげたもので朝から眼の奥にいつぱい溜つてた涙が一時にあふれだして両足をぶらぶらさせながらわつと泣きだした。先生は胆をつぶして 「こりや大変。こりやあやまつた」 といひながら地べたへおろして手巾で涙をふいてくれた。あとで姉にきけばそれは姉のはうの受持ちの先生で、私を可愛がつてくれたのだといふ。さうして これからあんなことをされても泣いちやいけない といはれたのでやうやく訳がわかつて 今度こそは泣くまい と思つてたけれどさきはこりごりしたとみえてその後ちつとも私をさしあげなかつた。  その次の習字の時の騒ぎはまた格別であつた。墨壺をひつくらかへして泣く奴がある。草紙に団子ばかり書いて叱られる奴がある。そのなかを古沢先生は世間に面倒といふことがあるのを忘れたかのやうになにからなにまで世話をして腰をたたきながらひとりびとり手をとつて習はせてあるく。筆をもつ手のうへを白墨だらけの手でつかまれると体がすくんで筆の先がぶるぶるふるへるもので先生はいくたびもいろはを書きなほさなければならなかつた。あんまり烈しい刺戟や慣れない仕事などのために頭痛がして胸がわるくなりその日はそれで家へ帰つた。伯母さんは水で頭を冷してくれて 「えらかつた えらかつた」 と木枕の抽匣から肉桂棒を出してくれたし、姉は御褒美に南京玉の守袋をこしらへてくれたゆゑ頭痛もぢきによくなつてしまつた。私は家ぢゆうの者に えらい えらい と褒められた。学校のひけるころをみてお国さんのところへ遊びにいつたらやつぱりみんなして えらい えらい といつたので自分でもえらくなつたと思つて得意だつた。 三十五  幾日か後には学校の門まで送り迎へしてもらへばあとは自分ひとりでゐられるやうになつた。伯母さんは私の好きな駄菓子を蛤の貝殻へいれ赤い紙で封じておいて学校から帰つて鞄をはふりだすとお仏壇の抽匣から出してくれる。それをあれかこれかとまよひながらよりどるのが楽しみであつた。そのうち私は甲の組へうつされることになつた。みんなは乙の組から昇進してきた新参者をとりまいてひそひそ評しあつてたがやがてひとりの奴が兄の書いてくれた鞄の独逸字をみて 「やあ、英語が書いてあら」 といつてよつてきた。ほかの奴らも やあ やあ といつて顔をつきだす。そして なんと書いてあるのだ といふから家で教はつたとほり 自分の名だ といつたら羨しさうに見てたがひとりが 「えくしよ。日本人のくせに毛唐人の名なんか書いてやがら」 といつた。またひとりの奴が守袋と鈴を見つけて穢い手でいぢくりはじめた。私はいやでしやうがなかつたけれど怖いのでするがままにさせておいた。守袋は水色と白の南京玉で弁慶にして、鈴には鈴虫の模様があり、紫の緒の他の端には小さな硝子の瓢箪をつけてゐた。そ奴が 鈴なんぞさげてどうするのだ ときいたから私は、迷子になつたとき音をきいて伯母さんが捜しにくるためだ といつたら彼らはさも軽蔑したらしく顔を見合せた。そのうち彼らがあんまり守袋をいぢくつたもので弱いかたん糸がきれて南京玉がばらばらと落ちてしまつた。私はぐすぐすべそをかきだした。彼らは とんだことをした といふ顔つきでてんでにすばやく身をひいて 「おいらのせゐぢやなーいと 三年烏のせーゐだ」 といひいひ遠方から心配さうに様子をみてゐる。私はどうしようかと思つたが誰もきてくれないし、泣くにも泣かれず散らばつてる南京玉を見つめてしくしくしてるところへ折よく姉がきたので一時に悲しさがこみあげてわつと手ばなしに泣きだした。彼らは姉に叱られるのが怖いもので 「泣虫毛虫、はさんですてろ」 と足拍子にあはせて囃したてながらどこかへ影をかくしてしまつた。姉は また編んであげるから といつて、もう家へ帰る とだだを捏るのをやつとなだめて涙をふいたり鼻をかんだりしてくれるうちに鈴が鳴つたので またこの次の遊び時間にくるから といつて出ていつた。部屋のそとからこつそり事の始末を見てた悪者どもは姉がゐなくなると同時にどやどやとはひつてきて 「今ないた烏がもう笑つたい」 といひいひ私のまはりを踊りまはつた。  今度の組の受持ちは溝口先生といふ髭のある人だつた。古沢先生同様子供の世話をするために生れてきたかと思ふくらゐいい人で、ことにおとなしい私に目をかけてよくしてくれた。  ひとつ机に並んでるのは岩橋といふ瓦屋の息子でいぢめつ子の通りものだつた。そ奴は机のまんなかへ鉛筆ですぢをひいてこちらの肱がちつとでもむかふの領分へはみだせばすぐに肱鉄砲をくれたり、鼻糞をなすつたりする。そ奴がお稽古の最中になにか話しかけたからいやだつたけれどいいかげんにあしらつてたら先生が見つけ黒板に二人の苗字を書きならべて頭へ大きな黒玉をつけた。岩橋はそれを見るやいなや石盤のうへへつつぷして泣きだしたが私はなんのことかわからずにきよとんとして先生の顔を見てゐた。お稽古がすんだときに姉がきて笑ひながら お稽古中に話をしたらう といふ。誰がもういつけたのかしら と思つたがなんだか悪いことをしたやうな気がして 話なんぞしやしない といつたら姉は そんなに匿したつて黒板に黒玉をつけられてる といふ。黒玉は悪いことをしたときつけられるのだとわかつて急に悲しくなつた。 三十六  岩橋の本は赤鉛筆でめちやめちやに塗つてある。火事場からお巡りさんが迷子の手をひいてくる挿絵の泣いてる子の頭から無茶苦茶に後光がさしてお巡りさんの眼玉がはちきれさうに大きくなつてゐた。彼は石盤に一つ目小僧や三つ目小僧の顔をかいて 「やい やい」 といつてみせる。こちらはこなひだの黒玉に懲りてるゆゑ知らん顔してゐれば机の蔭で拳骨をびくびくやつては眼をむいて横目に睨む。さうしてお稽古がすんで先生がゐなくなるとはあはあ拳固へ息をふつかけてかかつてくるので私は廊下へ出て見つからないやうなところへこつそり立つてゐた。さうしたらやつぱり同じ級の古参の者で赤つ面の穢い子が 「いいものやらう」 となにか握つてきて人に手を出せといふ。騙されるのだと思つたが怖いから素直に手を出したら赤い木の実を二つ三つ手のひらへのせてくれた。そんなものはほしくなかつたけれど親切にしてくれるのが嬉しくて 「ありがたう」 といつてにつこりした。それは裏にある美男葛の実だつたといふことを知つたのはその後五六年たつてからのことである。彼は赤つ面のために猿面冠者と渾名され、また長平といふ名によつて ちよつぺい とも呼ばれてる伝法院前の魚屋の息子だつた。それ以来ちよつぺいはただひとりのちかづきになつたが、こちらではなるべくならちよつぺいとも口をききたくなかつたのだけれど、さきではどこを見こんでかしきりに私に話しかけてきた。ある日のことちよつぺいは 「こんだのお稽古のときいつしよにしよんべんにいかう」 といつた。 「先生に叱られるからいやだ」 といつたら 「いやならよしやがれよしべのこんなれ」 といつて怖い顔をしたので私はあわてて 「いくよ いくよ」 といつた。彼はすぐ機嫌をなほして 「あたいのまねすりや大丈夫だ」 といふ。お稽古がはじまると間もなく彼は手をあげて 「先生、お小用にやつてください」 といつた。先生は 「ほんたうにしたいのかい。嘘つくとちやんとわかるよ」 といふ。すこしも怯まず 「ほんとに出たいんです」 といふ。先生も 漏らされては といふ気があるので 「そんならいつといで。すんだらすぐ帰つてくるんだよ。道くさすると黒玉だよ」 といつた。ほかの者もてんでに 先生、先生 と手をあげて五六人いつしよに便所へ行かしてもらつた。ちよつぺいはどやどやと出て行きながらちよつとこちらを見たのではつと気がついて、おそるおそる 「先生」 と見やう見まねに手をあげて 「お小用にいかしてください」 といつた。先生は私がちよつぺいに入智慧されてるとは知らずすぐに許してくれた。  便所は教場からはなれたところにあつてちやうど隣の八幡様の笹藪のしたになつてゐる。ちよつぺいはそこに待ちかまへてゐて 「相撲とらう」 といふ。見ればほかの奴らは廊下の手すりをのりこえて崖の甘根を掘つたり、へな土の団子をこしらへてぶつけあつたりしてゐる。彼らは小用にかこつけてちよつと息ぬきにくるのだつた。ちよつぺいが 「とらう とらう」 とせきたてるので今日が今日まで伯母さん相手に四王天清正の立廻りのほかやつたことのない私ははたと当惑したがのつぴきならず 「あぶないからそうつとだよ」 と弱いことをいひながらいいかげんに取組んだ。力のあるちよつぺいは 「はつけよい はつけよい」 と景気よく掛声をしながらくるくる人をひき廻したためむざんやさすがの清正も忽ち袴の裾をふんで尻餅をついてしまつた。彼は鼻たかだかと 「弱えな。またこんだとらう」 と先にたつて帰つてゆく。私もねぢくれた著物をなほして後についていつた。教場へはひるやいなや彼はなにくはぬ顔で 「先生ただいま」 とひよつこり頭をさげた。私も黙つて頭をさげた。ほかの奴もぞろぞろ帰つてきたが、甘根を掘つてた奴はあんまりいつまでもかじつてたもので先生に立たされ、おまけに懐からはみだしてる甘根をみつかつて大眼玉をくつた。私はもう二度と便所へは行くまいと思つた。 三十七  学課のうちでいちばんみんなの喜ぶのは修身だつた。それは綺麗な掛け図をかけて先生が面白い話をきかせるからで、その絵には弾丸にあたつた親熊が蟹をあさつてる子熊をひしがないやうにもちあげた石をかかへたまま死んでるところ、大将が頬杖をついて蜘蛛が巣をかけるのを見てるところなどあつた。生徒らは美しい絵にみとれ、お話にききほれて もうひとつ、もうひとつ とねだる。先生は 「みんながお行儀よくさへすればいくらでも話してあげる」 といつて一枚一枚めくつては話してゆく。そんなにしていつも大抵一冊の掛け図をすつかり話してしまつたが、不思議なことにはいちばんはじめにある異人の女が子供を抱いて雪のなかに倒れてる絵をきまつてとばしてしまふ。生徒らもそれを見ながらちつともせびらない。私はまたなかでもその絵が気にいつて もうか もうか と待つてたけれどつひぞ話してもらへなかつた。鈴が鳴るとみんなはわいわいと先生の椅子をおつとりまいて、膝にのつたり、肩へつかまつたりして もういつぺん、もういつぺん とおんなじ話をくりかへさせる。私は彼らのやうに大胆にはし得ずにすこしはなれてぼんやりと絵を眺めてゐた。先生はこちらを向いて 「□□さんにもひとつしてあげようか。□□さんはどれがいい」 といつたが顔を赤くしてるので 「いつてごらん、いつてごらん」 と促した。私は一生の思ひで 「これ」 と口ごもりながられいの絵を指さした。みんなは不平らしく 「つまんないや、つまんないや」 といふ。先生も 「これは面白かないよ。いいかい」 と念を押した。私は黙つてうなづいた。先生は私がまだそれを知らないのに気がつき、つまらながる皆を説得して新参者のためにその話をしてくれた。それは雪のなかで路に迷つた母親が自分の著物をぬいではぬいでは子供に著せてたうとう凍え死にをしたといふ話であつた。絵も子供の目をよろこばすやうな彩色がしてなかつたし、話もただそれだけのことなので彼らはちつとも興がらず、先生もとばしてたのだが、私にはそれで充分に面白かつた。私は伯母さんに常磐御前の話をきくときのやうにあはれにきいた。話しをはつて先生が 「面白かないだらう」 といつたので正直に首をふつたら先生は意外な顔をし、みんなは軽蔑してくすくす笑つた。 三十八  私はそのじぶんから人目をはなれてひとりぼつちになりたい気もちになることがよくあつて机のしただの、戸棚のなかだの、処かまはず隠れた。そんなところにひつこんでいろいろなことを考へてるあひだいひしらぬ安穏と満足をおぼえるのであつた。それらの隠れがのうちでいちばん気にいつたのは小抽匣の箪笥の横てであつた。それは蔵のそばにある北むきの窓からさしこむ明りにだけ照される最も陰気な部屋であつたが、その窓と箪笥のあひだにちやうど膝を立てたなりにすぽんとはまりこむほどの余地があつた。私はそこに屈んで窓硝子についた放射状のひびや、ぢきそばにある榧の木や、朽木にからんだ美男葛、美男葛の赤い蔓、蔓のさきに汁をすふ油虫などを眺めてゐた。さうして半日でも一日でもひとりでぼそぼそなにかいひながらいつとはなしに鉛筆でひとつふたつづつ箪笥に平仮名の「を」の字を書く癖がついたのが、しまひには大きいのや小さいのや無数の「を」の字が行列をつくつた。そのうち私があんまりそこへばかりはひるのを父が怪んでその隅をのぞいたため忽ちくだんの行列を見つかつたが、父はただ手もちぶさたの落書だと思つて 手習ひするならお草紙へしなければいけない といつたばかりでひどくは叱らなかつた。併しそれはゆめさらただの落書ではなかつたのである。平仮名の「を」の字はどこか女の坐つた形に似てゐる。私は小さな胸に、弱い体に、なにごとかあるときにはそれらの「を」の字に慰藉を求めてたので、彼らはよくこちらの思ひを察して親切に慰めてくれた。  こちらへこしてからも私は三日にあげず怖い夢に魘はれて夜よなか家ぢゆう逃げまはらなければならなかつた。そのひとつは、空中に径一尺ぐらゐの黒い渦巻がかかつて時計のぜんまいみたいに脈をうつ。それが気味がわるくてならないのを一所懸命こらへてるとやがてどこからか化け鶴が一羽とんできてその渦巻をくはへる といふので、もうひとつは、暗闇のなかでなにか臓腑のやうにくちやくちやと揉みあつてゐる。と、それが女の顔になつて馬鹿みたいに口をあけはなし、目をぱつとあいて長い長い顔をする。かと思へばその次には口をつぶつて横びろくし、目も鼻もくしやくしやに縮めて途方もないぴしやんこな顔になる。そんなにして人が泣きだすまではいつまでも伸び縮みするのであつた。そのやうに魘はれてばかりゐるのは伯母さんのお伽話のせゐだらうといふ疑がおこつたのと、ひとつにはまた寐間をかへてみたらといふので私は父のそばに寐ることになつた。が、毎晩父が話してくれる宮本武蔵や義経弁慶なぞの武勇譚もなんのかひもなく、化けものはおやぢぐらゐは屁とも思はずに相変らずやつてきた。先の寐間には床の間の天井に魔がゐたが、こんだの部屋では柱にかかつた八角時計が一つ目になり、四本の障子が大きな口になつてみせた。 三十九  お医者様のすすめにしたがつてとかく弱りがちであつた母と私の健康のために父は二人をつれてある海岸へゆくことになつた。行く路すがらそれまで歌がるたの絵や粉本などでみて子供心にあこがれてた自然がそのまま目のまへにあらはれてくるのをみて私はむしやうに喜んだ。小さな想像の甕には汲みつくすことのできない不思議な海もみた。それは藍色にすんで、そのうへを帆かけ舟の帆が銀のやうに耀いてゆく。まつすぐにきつたつた崖のあひだをとほるときは堪へがたい淋しさをおぼえて、そこにかつかつに生えてる草たちをかはいさうに思ふ。龍宮みたいな南京人のお宮では南京のお婆さんが甃のうへへ石ころを落してはなにか祈つてゐた。さうして髪を油で塗りわけた人形のやうな子が可愛い足をふらふらさせてあるくのを綺麗だとおもつた。貝細工を売る店には海の底の宝ものがいつぱいに飾つてある。父は姉たちへのお土産に幾本かの簪と、私にひと包みの酢貝を買つてくれたが、私は こんな綺麗なものを父はなぜみんな買はないのかしら と思つた。海岸の松原を俥にのつてゆくといくらいつても松がある。お正月かける高砂の掛物にも松があるし、つねづね伯母さんにも松は神木だときいてたゆゑ私は松の木が迷信的に好きであつた。暫くして宿へついた。折角静な松原を楽しんでたのにそこには人ががやがやしてたので もう家へ帰る といつて泣きだしたら番頭や女中たちがとんできて旧いお馴染かなぞのやうに 坊ちやま 坊ちやま といつて騙した。で、安心してぢきに泣きやんだ。さうしていちんち潮風の香をかぎながら小松のむかふにどんどんと砕ける波になにもかも忘れて見とれてゐた。  夜になつて明りがついた。そのかさは円筒状の竹籠に紙をはつたもので黒塗りの風雅な台にのつてゐた。そこへ火影をしたつてよこばひが飛んできてはとまる。美しい緑色をして目のあひだのひろいよこばひが可愛くてならない。指でおさへようとするとひよいと横へゐざつて隣の籠のめへ逃げる。鳩虫もきた。  ある晩縁側へ出て庭で煙火をあげるのを見てたら綺麗な女の人が菓子を包んできて 「あげませう」 といつた。私はその人が「げいしや」だといふことを小耳にはさんでたが、「げいしや」といへばなんでも人を騙したりする怖いものらしい。その「げいしや」がそばへよつてきて 可愛いお子さんだの、年はいくつ だのといひながら肩へ手をかけて頬ずりしないばかりに顔をのぞく。私はいい匂のする袖のなかにつつまれて返事もし得ずに耳まで赤くなつて手すりにくひついてたが、ふと これは自分を騙しにきたのだ と気がついたら急に恐しくなりしやにむに袖の下をすりぬけて母のところへ逃げて帰つた。私が胸をどきつかせてそのことを話したときに母はすこし笑ひながら私の無作法をたしなめた。それからは煙火を見るたんびに こんだなにかきかれたら返事をしよう、菓子をくれたらお礼もいはう と思つてたが、その人は怒つたのかその後はそばへもよらなかつた。私は自分の後悔してることを知らせる機会がないのを心から残念に思つた。  ある日父といつしよに深い松林の奥へはひつていつたことがあつた。松の匂がして松ぼつくりが沢山落ちてゐた。父はそろそろ歩いてるのだがこちらは松ぼつくりを拾ふので始終小走りに追ひつかなければならない。拾ひためて袂にも懐にもいつぱいになつた松ぼつくりと心で仲よく話しながらちよこちよことあとについてゆくうちに東屋があつて眉毛のまつ白な爺さんが熊手で松葉をかいてゐた。それを私は高砂のお爺さんがゐたと埒もなく喜んで──ほんとにさう思つたのだ。──いつもに似ず自分からいろんなことを父に話しかけた。父は宿へ帰つてから母に 「今日は章魚坊主がえらうものをいつたぞよ」 といつて笑つた。 四十  旅行から帰つたら留守のうちにお国さんの家はお役の都合で遠方へこしてたので私はなんだか拍子ぬけのした寂しさを感じた。私はそれからは恐しい夢に魘はれることもなく体もめきめきと発育するやうになつたが、生得のぼんやりと学校をなまけることとは相変らずであつた。それは虚弱のためばかりでなく、うぶな子供にとつてあまり複雑で苦痛の多い学校生活が私をいやがらせたからである。ただ嬉しいことにはそのときの受持ちの中沢先生は大好きないい人で、おまけに私の席は先生の机のすぐ前にあつた。中沢先生は私がいくら欠席してもなんともいはず、どんなに出来なくてもくすくす笑つてばかりゐた。が、いつか並んでる安藤繁太といふ奴と喧嘩したときにたつたいつぺん叱られたことがあつた。どうしたことかそ奴とはお互に虫が好かないでしよつちゆう仲がわるかつたところ、ある日算術の時間に彼は石盤にめつかちの顔をかきそれにひとの名まへをつけて 「やい やい」 といつて見せた。で、こつちでは大きな下駄に目鼻をつけてそのわきへ すげため と書いてやつた。さうしたら彼がいきなりひとの脛を蹴つたので私も負けずに横つ腹をついてやつた。そんなにして内證で喧嘩をしてるうちにたうとう先生に見つかつて学校がひけてから二人だけあとへ残された。先生はいつになく怖い顔をして なぜ喧嘩した といふ。私は一部始終を話して自分の悪くないことを主張したが繁太は 私が先にからかつた と嘘をついたもので先生は 喧嘩両成敗だ といつて二人とも帰してくれない。ほかの者はみんな包みをかかへていそいそと帰つてゆく。なかにはもの好きに戸口から覗いて笑つてる奴もある。学校ぢゆうの生徒がみんな帰つてしまつていやにしんとしてきた。もしかうして夜になつたらどうしようかしら。ごはんも食べられないし、寐ることもできないし、はやく伯母さんが迎ひにきてあやまつてくれないかしら などとさまざまなことが頭のなかに渦をまいて自然に涙がこみあげてくる。先生は半分べそをかいてる二人の顔をちよいちよい見くらべてくすくす笑ひながら本を読むふりをしてゐる。繁太の奴はさも帰りたさうに肩にかけた鞄の紐をいぢくつてたがたうとう泣きだして 「ごめんなさい」 とあやまつた。先生は 「あやまつたのが感心だから赦してやる」 といつて繁太を帰した。私も帰りたいのは山山だけれど悪くもないのを残されたのが業腹なのでいつまでも泣きかかつてはこらへ、泣きかかつてはこらへしてゐた。が、とどのつまりは泣くよりほかはなかつた。私はいつたん泣きだしたとなれば両方の拳骨で眼をこすりこすり図なしにぐすりぐすり泣いてる癖で、そのあひだに理非曲直をぼつぼつと考へて自分が悪いとわかればぢきに泣きやむし、さうでなければ自分がただ小さくて弱いために理不尽におさへつけられるのがくやしくて 今に見ろ と思ひながらしやくりあげしやくりあげ泣くのであつた。思ふ存分泣いたあとは胸がすいて気管のへんにゑぐいやうな一種の快感をおぼえる。それはさうと先生は手こずつて 「あやまれば帰してやる。あやまれば帰してやる」 といつたが どうしても悪くない といつていつかなあやまらない。併しだんだんお説法をきいてみれば 喧嘩を売つたのは繁太の罪だけれどお稽古中にそれを買つたのが善くない といふことがどうやらのみこめたので 「ごめんなさい」 と頭をさげて帰してもらつた。家では意気地なしの章魚坊主が喧嘩をしたのを奇蹟のやうにいつて笑つた。 四十一  不勉強の報いは覿面にきていよいよ試験となつたときにはほとんどなんにも知らなかつた。ほかの者がさつさとできて帰つてゆくのに自分ひとりうで章魚みたいになつて困つてるのはゆめさら楽なことではない。なかでもつらかつたのは読本だつた。私は最後に先生の机へ呼びだされた。問題は蔚山の籠城といふ章だつた。蔚山なんて字はつひぞ見たこともない。黙つて立つてるもので先生はしかたなしに一字二字づつ教へて手をひくやうにして読ませたけれど私は加藤清正が明軍に取囲まれてる挿画に見とれるばかりで本のはうは皆目わからない。先生は根気がつきて 「どこでも読めるところを読んでごらん」 といつて読本を私のまへへ投げだした。私はわるびれもせず 「どつこも読めません」 といつた。試験がすんでからもやつぱり居坐りだつた。私はいちばん前にゐるから一番だと思つてゐた。名札のびりつこにかかつてることも、点呼のときしまひに呼ばれることも、自分が事実できないことさへもすこしの疑ひすら起させなかつた。好きな先生のそばにおかれてちつとも叱られずにゐる、これが一番でなくてどうしようか。それに私はつひぞ免状とりに出たことがなかつたし、学校から帰つて一番だといつて自慢するとみんなは えらい えらい といつて笑つてるので自分だけは至極天下泰平であつた。  その学期も終りにちかづいたころお隣へあらたに人がこしてきた。その家とは裏の畑を間にほんの杉垣ひとへをへだててるばかりで自由に往き来ができる。私が裏へいつてこつそり様子をみてたら垣根のところへちやうど私ぐらゐのお嬢さんがでてきたが、ついとむかふへかくれて杉のすきまからそつとこちらを窺つてるらしかつた。暫くしてお嬢さんはまた出てきてちらりとひとを見たので私もちらりと見て、そして両方ともすましてよそをむいた。そんなことを何遍もやつてるうちに私はお嬢さんがほつそりとしてどこか病身らしいのをみてなんとなく気にいつてしまつた。そのつぎに眼と眼があつたときに彼方は心もち笑つてみせた。で、私もちよいと笑つた。彼方は顔をそむけるやうにしてくるりとかた足で廻つた。こちらもくるりと廻る。むかふがぴよんととんだ。こちらもぴよんととぶ。ぴよんと跳ねればぴよんと跳ねる。そんなにしてぴよんぴよん跳ねあつてるうちにいつか私は巴旦杏の蔭を、お嬢さんは垣根のそばをはなれてお互に話のできるくらゐ近よつてた。が、そのとき 「お嬢様ごはんでございますよ」 とよばれたので 「はい」 と返事をしてさつさと駈けてつてしまつた。私も残りをしく家へ帰り急いで食事をすませてまたいつてみたらお嬢さんはもう先にきて待つてたらしく 「遊びませう」 といつて人なつつこくよつてきた。私はお馴染になるまでにはもう五六遍も跳ねるつもりでゐたのが案に相違して顔が赤くなつたけれど 「ええ」 といつてそばへいつた。さきはもうはにかむけしきもなくはきはきした言葉つきで 「あなたいくつ」 ときいた。 「九つ」 と答へる。と 「あたしも九つ」 といつてちよつと笑つて 「だけどお正月生れだから年づよなのよ」 とませたことをいふ。わたし 「あなたの名は」 「けい」 とはつきりいつた。型のごとく名のりあつて初対面の挨拶がすむとお蕙ちやんは 「あたしもうぢき学校へあがるからおんなじ学校へいきませう」 といつたので嬉しくて自分の学校のいいこと、修身のお話の面白いこと、受持ちの先生のやさしいことなぞ数へあげ小さな智嚢をしぼつてお蕙ちやんをおなじ学校へひきつけようとした。お蕙ちやんは勝ち気な人なれた子で、ぱつちりした眼とまつ黒な髪をもつてゐた。蒼白い滑な頬には美しい血の色がすいてみえた。さうしてその気性とませた頭をもつて意気地なしのぼんやりな年弱に対してとかく女王のやうにふるまふ気味があつたが、私は満足してあらたに君臨したこの女王の頤使に身をまかせようと思つた。 四十二  ある日のこと私はお蕙ちやんがお祖母様につれられ学校へはひつてくるのを見て今さらのやうに胸をときめかせた。その翌日からお蕙ちやんは包みをかかへてひとつ教場へはひるやうになつたが新入なのでいちばん前の私の隣に坐らせられた。私はお稽古にも身がいらずそつと横目でみたらお蕙ちやんは殊勝にじつと下をむいてゐた。遊び時間にもまだお馴染がないためひとりぼんやりしてるのでなんとか言葉をかけてやりたいのをみんなにからかはれるのがつらさに黙つてゐれば、さきでもちやんと知つてるくせにそしらぬ顔ですましてゐる。私は譬へやうのない混乱した気もちでやつと一日の課業をすませて家へ帰るみちみちも 今日はあんなことも話さう、こんなこともきいてみよう などと考へながら帰るやいなや裏へいつたらもうひとりでお手玉を投げてゐた。 「お蕙ちやん」  さういつて私は飛びつかないばかりに駈けよつた。さうしたらお蕙ちやんはさも軽蔑したらしく 「びりつこけなんぞと遊ばない」 といつてさつさとはひつてしまつたので案に相違してすごすご家へ帰り伯母さんにそれをいつけた。  その晩れいのとほり家ぢゆうが茶の間に集つたときに私ははじめて自分がほんたうにびりつこけだといふことをいつてきかされた。私は初めのうちこそかたくなに一番だといひはつてたものの近いころ先生から 脳の悪いお子さんにあまり無理なことはいはないがこれまでのやうではとても及第がさせられないから今度の試験にはもうすこし気をつけてもらひたい といふ注意があつたといふのをきいて私はわつと泣きだした。私は永いあひだびりつこけだつた面目なさをいちどきに感じた。先生は私を脳の悪い子だと思つて休み放題に休ませ、いくらできなくても叱らなかつたのだ。私はやつぱしばかにされてたのだ。私だつてびりつこけの愧づべきことぐらゐは知つてゐる。ただいくら懶けても一番だと思へばこそ勉強しなかつたのだ。はやくさういつてくれさへすればおさらひもしたし、ずる休みもしなかつたのに。思へばみんなが怨めしい。私は頭が沸きかへるほど上気して思ひだしては泣き思ひだしては泣きするのを伯母さんは貰ひ泣きしながら 「泣かんでもええ、泣かんでもええ」 といつて寐間へつれていつた。  それからは小さな机をひとつあてがはれてその日その日のおさらひ、翌日のしたしらべ、これまでのところの復習をきちんきちんとさせられることになつて、伯母さんはそろばんだの手習ひだの自分のできるものを、そのほかは姉たち二人がひきうけてくれた。毎日教場でお蕙ちやんと顔をあはせるのがつらくもあり腹だたしくもあつたけれどそれ以来学校は決して休まなかつた。お蕙ちやんは平気の平左でお友達と遊んでゐる。私はもう同じ級の者にも気おくれがしてとかくひつこみがちにしてたが、それよりか家へ帰つて机のまへへ坐らせられるときのつらさはまた格別だつた。面目ないことだが私には今まで習つたことがかいしきわからない。で、落胆して何度投げ出さうとしたかしれないのを御褒美の菓子やなにかで騙され騙されしてつづけるうちになにか薄紙でもはぐやうにすこしづつわかりはじめた。読本の文字を一字おぼえ、二字おぼえ、算術が一題とけ、二題とけするにしたがひ次から次へと智識は幾何級数的に進んでゆくので終には自信もでき、興味も加はつて、家へ帰ればいはれぬうちに自分から机をもちだすやうになつた、もとよりひとに褒められたいのがおもな動機で。試験には間もなかつたが勉強のかひあつて次の学期には二番になつた。お蕙ちやんは女のはうの五番であつた。 四十三  私は急に智慧がついてなにかひと皮ぬいだやうに世界が新しく明るくなると同時に脾弱かつた体がめきめきと達者になり、相撲、旗とり、なにをやつてもいちばん強い二三人のなかにはひるやうになつた。さうかうするうち首席の荘田といふ子の去つたあとを襲つて級長になつたときにはもうお蕙ちやんに対する慙愧も憤懣も消えてたので、私はその日美しく芽ぐんで今にも葉をさすまでになりながら花もつけずに根をたえかかつた友情の若草がふたたび春の光にあつて甘やかに蘇るであらうことをねがつてたし、お蕙ちやんとてもおなじ気もちでゐる様子はみえたけれど、ただなんとなくつぎほがなくてお互になにかいい折のあるのを待つてゐた。  子供の社会は犬の社会と同様にひとりの強い者が余のものを一度に尾をまかしてしまふ。荘田がゐなくなつてから一人天下になつた私はみんなの従順なのをいいことにしてかなり暴威をふるつたもののその年ごろの餓鬼大将としては最も訳のわかつたはうであつたと自らゆるしてゐる。  あるときちよつぺいがなにかのことで仲間はづれにされて 猿面冠者 猿面冠者 とからかはれ真赤になつてひつ掻きまはつてたが、多勢に無勢でたうとう泣きだして机につつぷしてしまつた。それを見た私はいきなりわいわい囃したててる群のなかへはひつて 今後決してちよつぺいのことを猿面冠者といつてはならん といふ厳命をくだした。で、爾来彼は猿面の汚名をまぬかれた。これははじめて学校へあがつたときの赤い実のことを忘れないで聊か恩がへしをしたのである。  岩橋はこのじぶんも相変らず弱い者いぢめの張本で女の生徒にわるさばかりしてゐた。ある日いつものとほり先生に引率されてすかんぽ山へ運動にいつたときに彼はひとり藪のなかへはひつて一所懸命犬じらみをとつてるので またなにかいたづらをするな と思つてたら、やがて両方の手にいつぱい犬じらみを握つて武智光秀といふみえで眼玉を光らせながら出てきた。女の子たちはつねづね怖ぢけをふるつて誰ひとり彼のそばへよる者はなかつたのに折あしくうつかりそこを通りかかつたのはお蕙ちやんだつた。彼は いい鳥が といはぬばかりに忽ち通せんぼをして二つ三つ犬じらみをぶつつけた。お蕙ちやんは 「いやーよ、いやーよ」 と袂でよけながら逃げようとするのを執念ぶかく追つかけてぶつけたものでお蕙ちやんは身をかはすはずみに膝をついてわつと泣きだした。それを見た私は矢庭にとんでつて勝ちほこつてる岩橋を突き倒し、その吠え面を後目にかけながら、起きあがつて塵もはらはずに袖を顔にあててるお蕙ちやんのそばへよつて髪にも著物にもいつぱいくつついてる犬じらみをひとつひとつとつてやつた。お蕙ちやんは誰が自分をいたはつてくれるかさへ知らずくやしさうに泣きじやくりしてひとのするままになつてたが、やうやう涙をとめて 誰かしら といふやうに袖のかげから顔を見合せたときにさも嬉しさうににつこり笑つた。長いまつ毛が濡れて大きな眼が美しく染まつてゐた。そののち二人の友情は、いま咲くばかり薫をふくんでふくらんでる牡丹の蕾がこそぐるほどの蝶の羽風にさへほころびるやうに、ふたりの友情はやがてうちとけてむつびあふやうになつた。 四十四  私たちは学校から帰つて復習予習をするまも気が気でなくそこそこにすませて思ひでのおほい裏畑へでる。こちらが早いときはひとりで石蹴りや縄とびをしてもうかもうかと待つてゐる。むかふが先だと聞えよがしにぽんぽんまーりをつく。その鞠は赤と青の毛糸を縞にして綺麗につつんであつた。顔を見ればなによりさきにじやん拳をする。お蕙ちやんは負けるとじれるやうに肩をふる癖があつた。 「おねんじよさあま、およねじよ十よ」 「おねんじよさあま、およねじよ二十よ」  私は鞠が上手なのでなかなか落さない。お蕙ちやんは待ちどほしがつて縄のちぎれをぶつけたり、棒つきれをつきだしたりして落させてしまふ。 「おねんじよさあま、およねじよ十よ」 「おねんじよさあま、およねじよ二十よ」  お蕙ちやんは上気した顔を鞠といつしよにうなづかせながら一所懸命にまはる。そのたんびにふさふさしたおさげの髪が肩にまつはつてふたつの足さきが追ひあふこま鼠のやうにくるめく。負けまいとして鞠を腭でおさへたり、胸にかかへたりしてよろよろするまでもつづける。 「ほうほけきよや鶯や うぐひすや、たまたま都へのぼるとて のぼるとて、うーめの小枝に昼寐して、赤坂奴の夢をみた、枕のしたから文がでた、お千代にこいとの文がでた……」  著物の裾のひきずるのもしらずに夢中になつてつく。兎の戯れるやうに左右の手が鞠のうへにぴよんぴよんと躍つて円くあいた唇のおくからぴやぴやした声がまろびでる。その美しい声にうたはれた無邪気な謡は今もなほこの耳になつかしい余韻をのこしてゐる。夕日が原のむかふに沈んでそのあとにゆらゆらと月がのぼりはじめると花畑の葉にかくれてた小さな蛾が灰白の翅をふるつてちりちりと舞ひあがる。少林寺の槙の木には烏が群つて枝をあらそひ、庭の珊瑚樹の雀はちゆうちゆくちゆうちゆくいふ。そのとき私たちはやうやく黄味のあせてゆくお月様をあふいで兎の歌をうたふ。 「うーさぎうさぎ、なによみてはねる、十五夜お月さまみてはーねる。ぴよん、ぴよん、ぴよん」  二人はつぼめた膝に手をのせ腰をかがめて跳ねあるく。さんざくたびれてる足は二つ三つ跳ねるうちにまつたく弾力を失つて思はずころころと尻餅をつくのをそれがをかしいといつてまた笑ひこける。そんなにして二人とも家から呼ばれるまではなにもかも忘れて遊びにふけつてるが、ききわけのいいお蕙ちやんはどんなときでも 「お嬢様もうお帰りあそばせ」 と呼ばれると 「はい」 とすなほに返事をして、帰りともない様子はしながらさつさと帰つてゆく。別れるときにはあすの遊びの誓ひのために小指をからめあつて指のぬけるほど指つきりをし、もしか嘘をつけばこの指が腐つてしまふ といふのを そんなこと と思ひながらもなんだか恐しいやうな気がする。 四十五  そのやうにして日増しに隔てがなくなるにしたがつて負けずぎらひの私とくやしがりのお蕙ちやんとのあひだにはときどきたわいもないいさかひがおこつた。ある日私たちはいつものとほり裏でまありをついてたがあいにくつけばつくほどお蕙ちやんのはうが貸されるもので、しまひにはずるいとかなんとか苦情をつけて泣きながら両方の袖でぽんぽんひとをぶつた。その拍子に袂にはひつてたお手玉がぱらぱらと地びたへこぼれた。お蕙ちやんはそれを拾はうともしずに 「もうあなたなんぞと遊ばない」 といつて顔をおさへてゐる。さうして私が訳もなくあやまるのをきかずにいつてしまつた。おいてきぼりにされた私はあと先の考へもなくお手玉を拾ひあつめて持つて帰つたがこんだはそれがまた苦労の種になつて もしお蕙ちやんがくやしまぎれに私がお手玉をとつたといつたらどうしよう、そーつともとのところへおいてこようかしらん、あした学校で机のなかへ入れといてやらうかしらん などととつおいつ思案をめぐらした。が、とにかくひとの物をもつてきて抽匣に入れてあるのが気がかりでならない。そんなにして不安な一夜をあかした。あくる朝なんだか顔をあはすのが怖いやうな、あはせないのも心配なやうな気もちで誰より先に学校へゆき自分の席にしよんぼり坐つて昨日のこと、これまでのことなど思ひだしてるうちにひとりふたりとやつてきてだんだん教場が賑になつた。しかしお蕙ちやんの姿はみえない。もしか怒つて休むのぢやないかしら、だがまだ来る時刻ぢやないからわからない などともどかしがつてるうちにかなり遅い組のちよつぺいがきていよいよその時刻になつた。私はゐたたまらずに門のところへいつて扉の陰からうかがつてたらやがて坂のうへから包みをかかへてくるのがみえたのでやつとひとまづ胸をなでおろした。さきはそれとは知らず門をはひりかけたのをこちらもなにげなく扉のかげから出てふと顔をみあはしたところちよいときまりのわるさうな笑ひをうかべたなりなんにもいはずにはひつてしまつた。大丈夫だ。そんなに怒つてもゐないやうだ。そのもどかしい一日をお蕙ちやんは元気よくお友達と遊んでゐた。帰つてから私が机にむかひながら 今日は裏へ出てみようかしら、よさうかしら などと思つてるときに玄関の格子がしづかにあいて 「ごめんあそばせ」 と小さな声でいつた。私はすぐさまとびだして衝立のうしろから 「お蕙ちやん」 と呼びかけながら式台に立つた。そのときお蕙ちやんははじめての訪問のせゐかすこしはにかみながらもいつものさえざえしい笑顔をみせたので今まで背負つてた重荷がさらりと一時におりた。私はこの珍客を玄関のわきの自習室へ招きいれた。  お蕙ちやんはそはそはして部屋のなかを見まはしたり、肱かけ窓によりかかつてどうだんの提灯を眺めたりしてたがすこしおちついてから 「昨日はあたくしが悪うございました」 とちやんと両手を畳についてさも後悔したらしくあやまつた。あんまり大人びて几帳面に詫びられたためにこちらはかへつてどぎまぎしながらもこんなにひとに苦労させたかと思へば面憎くもなつて あんなにあやまるのぢやなかつた と思つた。お蕙ちやんは 昨日あれから家へ帰つて叱られた といふ。さうして 後生だからお手玉ちやうだい といふのでさんざじらしたあげくやつと抽匣から出してやつた。その友禅縮緬のきれはもとよそいきの著物だつたとかで桐の花だの鳳凰の翼だのがきれぎれになつてゐた。二人はその因縁のあるお手玉をとつて遊んだ。蝶蝶のやうに飛びあがり飛びくだるお手玉といつしよにお蕙ちやんの顔がうなづくたんびに紅白だんだらに染めた簪の総が蟀谷のあたりにはらはらとみだれる。 「お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ、お馬ののりかへ、お駕籠ののりかへ」  手の甲にのつてるのを落すまいとしてずるいことばかりする。 「小さい橋くぐれ、小さい橋くぐれ」  細い指で畳のうへに橋をかけてお手玉をすいすいとくぐらせる。お蕙ちやんの耳たぶは美しくほてつてゐる。さうしてじれればじれるほどかたくなつて肝心のところでしくじつてはお手玉をはふりつけたり袂にくひついたりしたが、それからは毎日お手玉をもつて遊びにくるやうになつた。 四十六  読本が一冊あがつたときに先生は復習のためだといつて「とりよみ」をさせた。それは組を男と女とにわけて、ひとの読みちがひをすばやく読みなほし読みつづけてしまひまでに読んだ紙数の多いはうを勝ちとするのである。男はふだんなんのかのと威張るけれどさて読みつくらとなるとさつぱり意気地がなくていつも負けどほしだつた。それにいざとなれば誰でもせきこむのでぢきに間違へてとられてしまふ。最初の読みてであつた私はそれを心得てそろそろと読みはじめた。みんなはいつになく私の渋滞するのをみて軽蔑して笑つてたがあいにくいつまでたつても一字も読みそこなはずにだらだらとつづけてゆく。日本武尊が草を薙ぎはらつてるところ、馬が何匹もゐて栗毛、鹿毛、連銭葦毛などの話のあるところ、黒んぼが駱駝にのつて沙漠をゆくところなど一枚二枚と読んでもう終りにちかい元寇の章まできた。支那のいくさ船がめちやめちやに壊れてるところへ日本の小舟が漕ぎよせてゆく絵があつて、閏七月三十日の夜に神風が吹いて十万の軍勢がたつた三人残つたばかりだと書いてある。女の組ではいまさら油断したのを後悔してひとがちよつと息をつぐのにさへ手をあげてとらうとする。その狼狽の様子がをかしくなほなほ落ちつきはらつていよいよ陶器といふ章まですすんだが、困つたことに私は焼物の製法などにあまり興味をもたなかつたため平生そこだけはとばしておさらひをしてたのでやうやくしどろもどろになつて訳なくとられてしまつた。そこでしぶしぶ女に株をゆづらねばならぬことになり憎い敵は誰かと思つてみたら意外にもそれはお蕙ちやんだつた。私は嬉しいやうないまいましいやうな変な気がした。くやし泣きに泣いたとみえて眼のまはりを赤くしてゐる。そして本をもつて立ちあがりはしたものの泣きじやくりして一字も読めない。そのうち鈴が鳴つてその日は珍しく男の組の全勝になつた。  学校がひけてからいつものとほり遊びにきたお蕙ちやんはまだすこし腫れぼつたい目をしてきまりわるさうに 「でもあたしほんとにくやしかつたわ」 といつた。さうして袂からうち紐をだして 「綾とりしませう」 といふ。小さな膝と膝をつきあはせたうへに綺麗な紐が蒼白い手くびにまとはれ、細くそらした指にひきはられていろんな形になる。お蕙ちやんは 「水」 といつてわたす。だいじにとつて 「菱」  お蕙ちやんは十の指を順にかけて 「ぺんぺんことかいな」 と琴をつくる。わたし 「お猿さん」 「鼓」  あだかもお互の友情が手から手へ織りわたされるかのやうに睦しくそんなにして遊びくらした。 四十七  ある日のこと修身のお話のときに先生が 「今日は先生のかはりにみんながひとつづつ話をするのだ」 といつて自分は火鉢のそばへ椅子をひきよせてあたりながらなかで気の強さうな者や剽軽な者を呼びだして話させたことがあつた。平生立派に一方の餓鬼大将になり愛嬌者になつてる者でも教壇に立つて四方八方から顔を見られると頬がつれ舌がもつれてなんにもいへなくなつてしまふ。「所」といふふだんひとの馬にばかりなつてるのつぽな男がまつ先に呼出されて膝頭をがたがたふるはせながら 「足袋の話をします」 といつた。先生は 「なに足袋の話? こりや面白さうだ」 と油をかける。所はどもりどもり 「あつちから足袋が流れてきて、こつちから足袋が流れていつて、まんなかでぶつかつて、たびたび御苦労です」 といつてそこそこにひつこんだ。その次は吉沢といふ下歯が上歯にかぶさつた正直者で、えへへ えへへ とむやみに笑ひながら 「槍の話をします」 といつた。先生は 「こんだは槍の話か。これも面白からう」 といふ。 「あつちから槍が流れてきて、こつちから槍が流れていつて、まんなかでかちやつて、やりやり御苦労です」 といつてひつこんだ。手軽な話はみんなひとにされてしまつて私も内内小さくなつてたところ運わるく最後にあてられた。話は伯母さんにきいていくらでも知つてるけれど短くて話しいいのがひとつもない。で、しかたなしに お皿をほされた河童の話 といふのをやつたが、話してみれば案外度胸がすわつて気になるお蕙ちやんのはうをちよいちよい見ながらぼつぼつと話しをはつた。さうして先生にお辞儀をして帰らうとしたら先生は 「おまいはなかなか面の皮が厚いよ」 といつて笑ひながら頭をひとつたたいた。それから女のはうの番になつたが机に獅噛みついてゐて誰ひとり出ないもので一番から席順に呼びだされることになつた。それでも出ないで泣きだす者さへある。で、おはちはたうとう五番めまでまはつていつた。お蕙ちやんは覚悟をしてたらしくすなほに 「はい」 といつて教壇に立つた。とはいへさすがに襟くびまで赤くなつてさしうつむいてたが、ややあつて夢ごこちに泳ぐやうな手つきをしながらひと言づつきれぎれに語りだしたときには私は心配と同情とにはらはらしてまともに顔を見ることさへし得なかつた。けれどもだんだん話がすすむにつれぱつちりした眼がしやんとすわつて大人びたりりしい様子になり、そのならびない澄みとほつた声ではきはきと順序よく話しつづけたその話はいつも私がきかせた初音の鼓の話であつた。生徒らは思ひのほかな話しての態度に魅せられ、珍しく面白い話にひきこまれていつとはなしに鳴りをしづめてゐた。話がすんだときに先生は 「今日は男のはうはみんなよく話したのに女はひとりも出なかつたから負けのはずだつたが今の□□の話ひとつで女のはうが勝ちになつた。先生は感心してしまつた」 といつた。女の子たちは思はずにこにこした。お蕙ちやんもさつと顔を赤めてふしめがちに自分の席へ帰つてゆくのを私は嬉しいやうな嫉ましいやうな不思議な気もちで見おくつた。あの話はお蕙ちやんにさせるのではなかつたものを。 四十八  冬の夜の遊びはしみじみと身にしみて楽しいものである。お蕙ちやんは手をかじかませてきて部屋へはひるやいなや火鉢にかじりつく。それは伯母さんがこの可愛いお客様のために毎晩山もりに炭をついでおくことになつてゐた。お蕙ちやんが寒さうに肩をすぼめて暫くは火鉢のうへにのりかかるやうにしてるのを私は待ちどほしがつておさげの髪をひつぱつたり、お稚児の輪のなかへ指をつつこんだりする。と、さきも私に負けない癇癪もちなのでむきになつて泣きだしたりすることもあつた。さうなるとこちらは一も二もなく降参してひたあやまりにあやまつてしまふ。つつぷしてる耳もとへ口をよせて 「堪忍して、堪忍して」 といつても首をふつてゐてなかなかきいてくれない。が、ひと泣き泣いてしまへば 「もういいのよ」 とからりと機嫌をなほして怨むやうな淋しい笑顔をみせる。そんなとき私はそのほんのりした瞼から涙をふいてやることもあつた。  お蕙ちやんは泣きまねが上手だつた。つまらないことを二言三言いひあふうちに急にぷりぷりしたと思ふといきなりひとの膝に顔をかくしておいおいと泣く。私はその重たい温みを感じながら、簪をぬいてみたり、くすぐつてみたり、手をかへ品をかへて機嫌をなほさうとすればなほなほ泣きたてるのでこちらに咎はないと思ひながらも一所懸命にわびる。と、さんざてこずらしておいてから不意に顔をあげべろつと舌をだして ああいい気味だ といふやうに得意に笑ひこける。すべつこい細い舌だつた。私はあまりたびたびその手をくつたためしまひにはほん泣きかうそ泣きかを額に出る癇癪筋のあるなしで見わけることをおぼえた。  また睨めつこが得手でいつでも私を負かした。お蕙ちやんの顔は自由自在に動いて勝手気儘な表情ができる。あんがりめ さんがりめ なんといつて両手で眼玉をごむみたいに伸び縮みさせたりする。私はその睨めつこが大嫌ひだつた。それは自分が負けるからではなくて、お蕙ちやんの整つた顔が白眼をだしたり、鰐口になつたり、見るも無惨な片輪になるのがしんじつ情なかつたからである。  そんなにしてるうちにいつか私はお犬様や丑紅の牛といつしよにお蕙ちやんまでを自分のものみたいに思つてその身にふりかかる毀誉褒貶の言葉や幸不幸な出来事はそのままひしひしとこちらの胸にこたへるやうになつた。私はお蕙ちやんを綺麗な子だと思ひはじめた。それがどんなに得意だつたらう。併しそれと同時に自分の容貌は嘗て思ひもかけなかつたつらい重荷となつた。自分はもつともつと綺麗な子になつてお蕙ちやんの心をひきたい。さうして二人だけが仲よしになつていつまでもいつしよに遊んでゐたい。私はそんなことを考へはじめた。  ある晩私たちは肱かけ窓のところに並んで百日紅の葉ごしにさす月の光をあびながら歌をうたつてゐた。そのときなにげなく窓から垂れてる自分の腕をみたところ我ながら見とれるほど美しく、透きとほるやうに蒼白くみえた。それはお月様のほんの一時のいたづらだつたが、もしこれがほんとならば と頼もしいやうな気がして 「こら、こんなに綺麗にみえる」 といつてお蕙ちやんのまへへ腕をだした。 「まあ」 さういひながら恋人は袖をまくつて 「あたしだつて」 といつて見せた。しなやかな腕が蝋石みたいにみえる。二人はそれを不思議がつて二の腕から脛、脛から胸と、ひやひやする夜気に肌をさらしながら時のたつのも忘れて驚嘆をつづけた。 四十九  そのころ西隣へ縫箔を内職にする家がこしてきてそこの息子の富公といふのがあらたに同級になつた。彼はさつぱり出来ない子だつたが口前がいいのと年が二つも上で力が強いために忽ち級の餓鬼大将になつた。で、自然私はこれまでのやうに権威をふるふことができないばかりか体面上さうさう頭をさげてゆくこともならず、ひとり仲間はづれのかたちになつてしまつた。彼は近処に友達がないもので学校から帰ると私を誘ひにきて裏で遊ぶ。私は彼をあんまり好かないのとお蕙ちやんと遊びたいのが山山なのとでちつとも気がすすまなかつたけれど、その反感をかふのを懼れてせうことなしにつきあつてゐた。もともとおてんばの好きなお蕙ちやんは私たちの遊びを垣根ごしに面白さうに見てたが終には自分も出てきて見やう見まねに縄とびや箍まはしなどをやるやうになつた。如才ない富公は お嬢さん お嬢さん と機嫌をとつて、さかだちをしたり、筋斗がいりをしたり、いろんな芸当をやつてみせる。そんなことの大好きなお蕙ちやんは 富ちやん 富ちやん と彼のあとばかり追つてあるく。伯母さんひとりの手に育てられてお国さんとばかり遊んでた私は修業がつまないのでとてもそんなはなれわざはできず、器量わるくも富公がこの小女王の寵幸をほしいままにするのを指をくはへて見てるよりほかはなかつた。  お蕙ちやんは晩に家へきても富公の話ばかりして私が機嫌をとるためにもちだす絵本や草双紙なぞ見むきもしない。三人で遊んでるときにも富公がいい気になつてひとのことを下手つくその意気地なしのといへばいつしよになつてばかにする。さかだちも筋斗がいりもできない芸なしに自分をしつけた伯母さんが今さら怨めしい。そんなで私は富公がいやでならないのをじつと虫を殺して逆らはないでたがその堪忍も終に緒がきれて、あるときあんまりなことをいふのをむつとして口返しをしたら彼はさんざ口ぎたなく罵つたあげくお蕙ちやんに耳つこすりをして意味ありげにひとをしり目にかけながら 「あばよ、しばよ」 といつてさつさと帰りかけた。それをお蕙ちやんまでがまねをして 「あばよ、しばよ」 といひいひあとについていつてしまつた。自分のとこへつれてつたのにちがひない。それからお蕙ちやんはばつたり来なくなつた。たまに顔をあはせてもにこりともしずに隠れてしまふ。富公が意地をつけたのだ さう思へば私は小さな胸に煮えかへるほどの嫉妬と憤怒をおこさずにはゐられなかつた。学校でも彼はみんなをけしかけて私ひとりをちくちくといぢめる。私はさうした口前はもとより腕力に於ても確に彼に一目おかねばならぬ。で、今は纔に自分が首席であるといふことだけがせめてもの慰めであつた。とはいへそれもお蕙ちやんなくしては畢竟ただの空位にすぎないではないか。 五十  気も狂ひさうな日がいく日かつづいた。ある日のこと私がまたひとり自習室にとぢこもつて思ひ悩んでるときにふとぽくぽくちりちりいふぽつくりの音がきこえた。はつとしたが胸をおさへて窓をあけることはしなかつた。すると忘れるまもないなつかしい声が 「ごめんあそばせ」 と格子のところでいつた。 「どなた様でございます」  伯母さんがそら恍けて出ていつて 「おお おお どこのお客様かと思つたらこんなかはええお嬢様だつた」 といひいひ抱へあげる様子で、訳をしらないもので かぜをひいたか の、お泊りにいつたか のと尋ねてゐる。お蕙ちやんは伯母さんのあけた障子からおとなしくはひつてきて 「御無沙汰いたしました」 としとやかに手をついた。こらへにこらへてた私はそのひと言に張りつめた気の弦をきられてわれしらず 「お蕙ちやん」 と呼びかけると同時にくやし涙がさつとこぼれた。それをさまで気にするでもないらしく袂からお手玉をだしはじめるのを 「なぜ来なかつたの」 といへば案外平気で 「富ちやんとこへいつてたから」 といふ。畳みかけて 「なぜ今日はいかないの」 と詰れば事もなげに 「富ちやんとこなんかいつちやいけないつてお母様に叱られたから」 と答へる。私は気を折られながらもいつぞやの怨みをすこしいつたらお蕙ちやんは 「ごめんなさいね」 と前おきをし、富ちやんが あんな子と遊ばないでも家へくればいくらでも面白いことがある といつたからだといひ訳をして 「お母様に叱られて富ちやんが大嫌ひになつたからまたあなたと仲よくしませう」 といふ。私の心をなんといはうか。お蕙ちやんはやつぱし私のものだつた。さうとは知らず富公は一日待ちくたびれてたのだらう。明る日学校でこちらが見張つてるとも気づかずこつそりそばへよつてなにかいひかけたがお蕙ちやんは もうあなたなんぞ嫌ひだ とけんもほろろの挨拶をした。お蕙ちやんはお母様に叱られて以来しんから彼を軽蔑するらしかつた。 五十一  奸智にたけた富公は自分が疎んぜられるのをみるやしらじらしくも親しげに私のそばへよつてきていろいろと機嫌をとつたあげくお蕙ちやんを中傷するやうなことをいつて 自分もあの子とは遊ばないことにしたから君も決していつしよに遊ぶな といつたので、腹のなかで笑ひながらいいかげんに挨拶をしておいた。とはいへその後私とお蕙ちやんがもとのとほり仲よくなつたことを勘付くやいなや彼は恐しい仕返しをたくらんだ。彼は毎日学校で遊び時間になるとみんなをけしかけて二人を囃したてる。さうしてみんながくたびれて火の手をゆるめると勝手にこしらへた言語道断なことを耳うちしてひとりびとりたきつけてあるく。私たちは仲間はづれにされ意味ありげな眼にとりまかれてみじめな境涯に堕ちてしまつた。しかしさうなればいきほひ一層睦しくなり、厭はしい一日の課業をすませて家へ帰つて遊ぶときにはお互の胸にいひしらぬ楽しさと慰めのあふれるのをおぼえた。富公の意趣返しは日に日に悪辣になり、こちらの敵意もそれにつれてたかまつてゆく。私はほかの雑兵ばらはものの数とも思はないし、それに奴自身も案外強くないに相違ない。その證拠にはときどき私が赫としてむかつてゆくと彼は一騎打ちをしずにうまく逃げて遠巻きにひとを苦しめようとする。私はやうやく相手を見くびると同時にいつか思ふさまこの返報をしてやらうといふ気がむらむらとおこつた。そのうちある日のことれいのちよつぺいが学校のひけがけにこそこそとやつてきて 「あした待ちぶせするつていつてたよ」 といふなり見つかるのが怖いのかさつさと駈けていつた。私はちよつぺいの心根を嬉しく思つた。翌朝私は二尺ばかりの布袋竹のでこでこなやつを羽織のしたへしのばせて さあこい といふ気で学校へいつた。  最後の時間がすむやいなや富公は 「みんなこい みんなこい」 と相図しながらまつ先に教場を駈けだした。するとなかでもおべつかつかひの三四人の奴らがばらばらとあとについていつた。私は覚悟をきめてわざといちばんあとから帰つたら相手は案のぢやう人通りのない八幡様の笹藪のところで待ちかまへてゐておべつかが えへん えへん とばかにした咳ばらひをする。こちらは 今日こそ とおもふ心を色にもみせずすまして通らうとするのを富公は 「そら、やれやれ」 と下知をした。ほかの者は格別意趣があるではなし、それに到底私の敵ではないのでただまはりからわいわいいふばかりだつたが、なかにひとり寺の息子の爛れ目の奴がどういふ忠義だてかいきなり後ろから頸つたまへ噛りついた。富公は内心びくびくしながらも頼もしい味方の振舞に力を得て 「こら、貴様生意気だぞ」 といつて寄つてきたので私はいきなり布袋竹で真向をくらはしてやつた。さうしたら富公は意外にも忽ちへなへなとして 「いやだあ、乱暴するんだもの」 といひながら額をおさへてめそめそ泣きだした。このきたない大将の負けやうを今更 とんだ者に加勢した といふ顔つきで眺めてた雑兵ばらはそろそろ自分たちの身がけんのんになつてきたのをみて 「おら知らねえと」 とてんでにいひながらこそこそと帰つていつた。ただ驚いたのは目くされの坊主で、大将もろとも討死の覚悟か目をつぶつて死に身にぐたりとつるさがつたなりどうしてもはなれない。さすがの剛の者もそれにはほとほと弱つたが、やつとのことでへばりつく奴を捥ぎはなして帰つたときには実はこちらも泣きかかつてゐた。 五十二  つららを折り、堅炭で雪をつるうちに桃のお節句がきた。家には神田の大火事に不思議に焼けのこつたといふ古いお雛様があつて、五人囃子が三人になり、矢しよひの矢があらかた折れてるなどさんざんだつたが、それでも毎年子供たちの慰みに必ず飾ることになつてゐた。伯母さんは家ぢゆうのがらくた物をよせあつめて、貝細工の屏風を立てまはしたり、千代紙のお三方にちりちりを盛つたりして調度のたりないところをふさげ、子供の眼にはさも立派なお雛様にみえるやうにうまくこしらへてくれる。緋の毛氈をしいた壇のうへに綺麗な人たちをならべ、いちばん上は私の、二段めは妹の、三段めは末の妹のときめて菱餅やはぜを供へるときの嬉しさといつたらない。寐てるうちに蠑螺が逃げやしないかと心配して笑はれたこともおぼえてゐる。お節句にはわざわざお蕙ちやんをよんだ。お蕙ちやんは大よそいきの著物に赤い総のついた被布をきてやつてきた。二人が雛段のまへへちよこなんと坐つて仲よく豆煎なぞたべてると伯母さんは三つ組みのお盃の小さいのをお客様に、なかほどのを私にとらせてとろとろの白酒をついでくれる。白酒が銚子の口から棒みたいにたれてむつくりと盛りあがるのをこくこくと前歯でかみながらめだかみたいに鼻をならべてのむ。子煩悩な伯母さんはこんなにして小さな者を喜ばせるのがなによりの楽しみで自分もほくほくしながら 「二人ながらかはええ かはええ」 と両手でいつしよに背中をなでてくれる。乳母はおきまりの お雛様のやうな御夫婦だ をいつて私たちをいやがらせる。お蕙ちやんは大よそいきだもんですましてゐて、まーりやお手玉もちやんと持つてるくせにいぢくつてばかりゐてしようともいはない。双六や、水中花や、十六むさしや、南京玉のぬきつこなぞやつてやつとすこしはしやいできたところをそのころ姉から譲りうけた成田屋の勧進帳と音羽屋の助六の羽子板をもつてやうやく裏へ誘ひだした。が、二人とも金魚みたいにぞろぞろしてるうへに大きな羽子板が手にあまつて二つ三つつくとは落してしまふ。 「油屋おそめ、久松十よ」  それでも面白半分にぽんぽんお尻の打ちつこをした。 五十三  お節句がすぎると間もなくお父様がなくなつたためにお蕙ちやんはその当座しばらくこなかつたがある晩不意にまたぽくぽくちりちりとぽつくりの音をさせて遊びにきた。併し思ひなしかひどく沈んでるので私は気が気でなく、家の者も気の毒がつていろいろと慰めたら あたしの家はあしたお引越しするのだ といつた。お祖母様とお母様とでお国へ帰るのださうだ。お蕙ちやんは 「あたしお引越しは嬉しいけど遠くへいけばもう遊びにこられないからつまらないわ」 とやるせなささうにいふ。で、私もどうしようかと思ふほど情なくなつて二人してふさいでゐた。これがお別れだといつてその晩はみんないつしよに遊んだが乳母もさすがに 「ほんとにお不仕合せなお子さんだ」 といひいひしげしげと顔を見つめてゐた。次の日にはお祖母様に手をひかれて玄関まで暇乞ひにきた。私はいつもの大人びた言葉つきでしとやかに挨拶をするお蕙ちやんの声をきいて飛んでも出たいのを急に訳のわからない恥しさがこみあげてうぢうぢと襖のかげにかくれてゐた。お蕙ちやんはいつてしまつた。あとを見おくつてた家の者はくちぐちに 「綺麗なお嬢様だこと」 といつた。お蕙ちやんはお雛様のときの著物をきてきたといふ。ひとり机のまへに坐つて なぜあはなかつたらう とかひもない涙にくれてるのを乳母ははやくも見つけて 「坊ちやまもおかはいさうだ」 といつた。  明る日私は誰より先に学校へいつた。さうしてそつとお蕙ちやんの席に腰かけてみたら今更のやうになつかしさが湧きおこつてじいつと机をかかへてゐた。お蕙ちやんはいたづら者である。そこには鉛筆で山水天狗やヘマムシ入道がいつぱいかいてあつた。  これはもう二十年も昔の話である。私はなんだかお蕙ちやんが死んでしまつたやうな気がしてならない。さうかとおもへば時には今でもお蕙ちやんが生きてゐて折ふしそのじぶんのことなど思ひだしてるやうな気もする。 (大正元年初稿) 後篇 一  中沢先生は気のやさしい人だつたけれど随分な癇癪もちで、どうかしてかつとすれば教鞭でもつてぐらぐらするほどひとの頭をぶつたりした。それでも私は先生が大好きで、御苦労にも家の庭にある棕櫚の枝をとつては痛い思ひをするために新しい鞭を先生に与へた。すると先生はいつもにやにや笑ひながら 「ありがたう。頭をたたくにはこれがいちばんだ」 といつてひとつたたくまねをしてみたりする。私はなにひとついふことをきかず勝手気儘にしてたのでよつぽどもてあましてるらしかつたが、やつぱり可愛がつてるのだとこちらひとりできめてゐた。みんなの行儀がわるいためにれいの癇癪がおこつて先生の顔が火の玉みたいになると生徒たちは縮みあがつて鳴りをしづめてしまふ。そんな時でも私は平気の平左で笑ひながら見てるものである日先生は見まはりにきた校長さんに私のことを 無神経でしやうがない といつてこぼした。校長さんは傍へきて自分の噂を面白さうにきいてる私に 「先生が怖くないか」 ときいた。 「いいえ、ちつとも」  私は答へた。 「なぜ怖くない」 「先生だつてやつぱり人間だと思ふから」  二人は顔を見合せて苦笑ひしたきりなんともいはなかつた。私はその頃から鹿爪らしい大人の殻をとほして中にかくれてる滑稽な子供を見るやうになつてたので一般の子供がもつてるやうな大人といふものに対する特別な敬意は到底もち得なかつたのである。  さうかうするうちに日清戦争がはじまつた。私はかなり重い麻疹にかかつて幾日か学校を休んだのちやつとのことで出席したら意外にも受持ちの先生がかはつてゐた。中沢先生は召集されたのだといふ。よく軍艦の話をしてきかせたがもとは海軍士官で、病気のために予備になつてたのださうだ。あの不思議な西遊記の話をしてくれた先生、絵筆をべろべろ甜めて綺麗な絵をかいた先生、棕櫚の鞭で頭をたたくことのほかはなにもかも気に入つてた先生はもう顔を見ることもできない。さう思へば胸一杯になつて放課時間にみんなを呼び集めて先生が暇乞ひにきた時の様子をなりとせめて委しくきかうとしたが、彼らはただもうその日その日の遊びに気をとられて別れてからまだ半月とはたたないのにそんなことはとうに忘れてしまつてけろりと坐つてゐる。さうして折角の遊びを邪魔されたのが不平らしく面をふくらせてもぢもぢしてたがやがてひとりがやうやく思ひだしたやうに 「獅子の毛のついた外套をきてゐた」 といつた。と、ほかの者もてんでに 「獅子の毛だ」 「獅子の毛だ」 といふ。ばか者たちははじめて見た獅子の毛──それもたぶん間違ひなのだらうが──に見とれてなにひとつおぼえてゐはしない。そんなにして根ほり葉ほり尋ねる私をさんざじらしたあげくひとりが 「先生は戦争にでるのだからもう二度とあへないかもしれないが皆は今度の先生のいふことをよくきいて勉強して偉い人にならなければいけない」 といつたといふのをきき急にはらはらと涙をこぼしたものでみんなはあつけにとられて私の顔を見つめ、なかには目ひき袖ひき軽蔑の笑ひをもらす者もあつた。彼らはまだこのやうに泣くことを知らないゆゑに 男は三年に一遍泣くものだ といつた先生の訓へを破つてはならぬものと思つてるのであつた。 二  私にとつて更に不仕合せなのは新任の丑田先生とさつぱり気のあはないことであつた。この人は柔術ができるといふので生徒にも恐れられ、自分でも得意になつて相手もなしにひつくり返つてみせたりしたが、いつぞや図画の試験に私のかいた瓢箪を 先生よりうまい といつて三重丸をつけてくれたほかになにひとつ感心するところがない。こちらがさきを嫌ひであるとほりたぶんさきもこちらを嫌つてたのであらう。いつとはなしにお互に敵同士みたいな具合になつてしまつた。  それはそうと戦争が始まつて以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちやんちやん坊主でもちきつてゐる。それに先生までがいつしよになつてまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちやんちやん坊主をくりかへす。私はそれを心から苦苦しく不愉快なことに思つた。先生は予譲や比干の話はおくびにも出さないでのべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。さうして唱歌といへば殺風景な戦争ものばかり歌はせて面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。それをまたみんなはむきになつて眼のまへに不倶戴天のちやんちやん坊主が押寄せてきたかのやうに肩をいからし肘を張つて雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながらむんむと舞ひあがる埃のなかで節も調子もおかまひなしに怒鳴りたてる。私はこんな手合ひと歯するのを恥とするやうな気もちでわざと彼らよりは一段高く調子をはづして歌つた。また唯さへ狭い運動場は加藤清正や北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる。町をあるけば絵草紙屋の店といふ店には千代紙やあね様づくしなどは影をかくして到るところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかつてゐる。耳目にふれるところのものなにもかも私を腹立たしくする。ある時また大勢がひとつところにかたまつてききかじりの噂を種に凄じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだらう といつた。この思ひがけない大胆な予言に彼らは暫くは目を見合はすばかりであつたが、やがてその笑止ながら殊勝な敵愾心はもはや組長の権威をも無視するまでにたかぶつてひとりの奴は仰山に 「あらあら、わりいな、わりいな」 といつた。他のひとりは拳固でちよいと鼻のさきをこすつてみせた。もうひとりは先生のまねをして 「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」 といふ。私はより以上の反感と確信をもつて彼らの攻撃をひとりでひきうけながら 「きつと負ける、きつと負ける」 といひきつた。そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに坐りあらゆる智慧をしぼつて相手の根拠のない議論を打ち破つた。仲間の多くは新聞の拾ひ読みもしてゐない。万国地図ものぞいてはゐない。史記や十八史略の話もきいてはゐない。それがためにたうとう私ひとりにいひまくられて不承不承に口をつぐんだ。が、鬱憤はなかなかそれなりにはをさまらず、彼らは次の時間に早速先生にいつけて 「先生、□□さんは日本が負けるつていひます」 といつた。先生はれいのしたり顔で 「日本人には大和魂がある」 といつていつものとほり支那人のことをなんのかのと口ぎたなく罵つた。それを私は自分がいはれたやうに腹にすゑかねて 「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正や北条時宗がゐれば支那にだつて関羽や張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈つた話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだつてそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」  そんなことをいつて平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやつたら先生はむづかしい顔をしてたがややあつて 「□□さんは大和魂がない」 といつた。私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙つてしまつた。  忠勇無双の日本兵は支那兵と私の小慧しい予言をさんざんに打ち破つたけれど先生に対する私の不信用と同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかつた。  それやこれやでみんなといつしよになつてるのがばからしいといふ気になり、いつとはなしにこちらから遠ざかつて、いつもはたからそのばか騒ぎを嘲笑的に見てるやうになつた。ある日のことひとり廊下に立つて幾年となく腕白どもの手にすられててらてらになつた手すりに肱をかけ、藤棚のしたにとびまはる彼らのしわざを眺めて笑つてたとき後ろを通りかかつたひとりの先生が不意に呼びかけて 「なにを笑つてる」 といつた。私は 「子供たちの遊ぶのがをかしい」 と答へた。先生はふきだして 「□□さんは子供ぢやないか」 といふのをまじめで 「子供は子供でもあんなばかぢやない」 といつたら 「困るねえ」 といつて教員室へはひつてほかの人たちに話してゐた。私はたぶん先生たちに困られてたのである。 三  同級の生徒はどれもこれもしやうのない三太郎としてばかにしきつてたにもかかはらずその三太郎の隊長ともいふべき蟹本さんには心からませた同情をよせてゐた。彼はほとんど白痴の子で、背たけからみればもう十六七でもあつたらうか。なんでも同じ級に二三年ぐらゐゐては次第に上へ押しあげられるうちそのとき後からあがつていつた私たちとちやうどいつしよになつたのである。もとより自分の齢もしらないし、ばかの癖でまだほんのたわいのない顔をしてるので彼がいくつになるのかは誰も知らなかつた。彼はふくぶくしい丸顔の頬についたそら豆大のほくろを看板に学校ぢゆうの愛嬌者になつてたが、ひとが面白半分に 「蟹本さん、頬ぺたに墨がついてるよ」 といふと ふ、ふ、ふ と笑つて 「すーみーぢやーなーいーんーだ。ほーくーろーなーんーだ」 とおほやうにいふ。彼は体とつりあはない小さなそろばんの珠のひとつもないのをはすつかひにかけ気の向いたときにぶらりとやつてきて、いやになればお稽古ちゆうもなにもおかまひなしにさつさと帰つてしまふ。とかく己と段ちがひの劣弱者のみを愛憐するといふ人間一般のさもしい利己的な同情のもとにあつて天下に蟹本さんぐらゐ自由の天地をもつてるものはなかつた。それでも生きてるかひには機嫌のいい日と悪い日があり、悪い日には大抵顔を見せないが、たまさか出てきてもにこりともしずに机にうつむいてゐる。そのうちなにを考へだすのか急においおい泣きだして、思ふ存分泣きつくすまではどうしても泣きやまない。さうしてその不幸な暗黒の胸に人しれず湧いて溜つた悲しみを遠慮のない大声に泣き涸らしてしまへばれいのそろばんを肩にかけてけろりとして帰つてゆく。そんな日にはどうかして言葉をかける者があつても不仕合せな一徳の気のよささうな笑ひ顔もせず ひぎやあ と鸚鵡みたいな声を出して相手を追ひはらふのが常であつた。併しどうかして御機嫌の麗しいときには頼みもしないのに 「あたいが馬になつてやらう」 なんといふこともあつたが、馬としては背は高し、力はあり、ぶくぶく太つて乗り心地のいい名馬だつたけれど、気がむかなくなると大将同士の組み討ちの最中でもなんでも棒立ちになつてしまふ手のつけられない悍馬でもあつた。  彼の奥底のしれぬ沈黙、その沈黙の底から溢れだす涙、私はどうかしてその正体をつかまへようといふことを思ひたつて、それからはみんなの笑ふのもかまはず努めて彼に近づくやうにした。私は彼の機嫌のいい折をみては おはやう とか さやうなら とかいふ短い挨拶の言葉をかけてみたが、さきは帝王が臣下に対するほどの会釈もかへさない。それでもかまはず倦まず撓まずつづけるうちある日彼は虱のやうにへばりついてる席をはなれひよこひよことそばへきてれいの舌たらずみたいに 「□□さーんーはーいーいーひーとーだ」 といふなり ふ、ふ、ふ と笑つていつてしまつた。私にはそのひと言が飛びたつほど嬉しかつた。彼のいふことには微塵も嘘はない。すでにそのじぶん人の言葉には嘘のあることをあまりに多く知りすぎてた私にはたわいもない気まぐれなそのひと言がしみじみと身にしみて、きつと友達になれるだらう、さうしてこの気の毒な人を慰めてやることができるだらう と、もうその暗黒の扉の鍵が手に入つたかのやうに喜んだ。で、私は 今日こそ と思つて隣の席へいつてなにかと話しかけてみたがにやにや笑ふばかりでさつぱり埒があかない。そのうち彼は黙りこんで机にうつむいてしまつた。と、やがてのことに奥の手をだして ひぎやあ と見事な一喝をくはした。日ごろの苦心も鸚鵡のひと声にまんまと水の泡になつた。蟹本さんは私のやうに望ましい連れがないゆゑに余儀なくひとりでゐるのではなくてはじめからほんとになんにもいらない人なのであつた。 四  兄はその年ごろの者が誰しも一度はもつことのある自己拡張の臭味をしたたかに帯びた好奇的親切……から生れつき自分とはまつたくちがつた風に形づくられて西と東に別れゆくべき人間であつた私をまことに行きとどいた厳しい教育の力によつて否応なしに自分のはうへ捩ぢむけようと骨を折つた。で、自分が気ちがひといはれるほど釣りがすきだもので、日に月に邪道に堕ちてゆくあはれな弟を救ひあげるには──自分のやうにするには──なんでも釣りをしこむにかぎると思ひついたものか、学校の休みとさへいへばとかく尻込みがちな私を無理やりにひつぱりだしてただもうその機嫌を損じるのがつらさにまた……せうことなしについてゆく私に釣道具をかつがせ、兄の説によれば理想的の釣り堀、私からいへば特別いやな釣り堀の沢山ある本所までてくてくと歩いてゆく。私はみちみち帽子が曲つたの、首がこごんだの、売出しの提灯にみとれたの、手のふりやうが等分でないのと頭のてつぺんから足の先まで小言をくひながら気ぼねと遠みちとでへとへとに疲れたあげくやつと釣り堀の旗竿のしたをくぐつてほつとすると間もなくじめついた堀のふちに坐らされ ああまたここで一日か と思ふと性も骨もぬけてうんざりしてしまふ。  どろどろしたわる臭い堀に打ちこんだ杭には青苔がいつぱいもりあがつてゐる。赤錆の浮いた隅つこのをどみには水蟷螂があめんぼをとつたり、田亀がひよくひよくもぐつたりしてゐる。そんなものをみたばかりでも胸がわるいのを近処の工場で鉄板をたたく音がどんがんどんがんひつきりなしに響いて頭もわれさうに頭痛がしてくる。兄は私が蚯蚓のきりかたがうまくなつて感心だなぞといふけれどそんなこと嬉しくもない。私はあてがはれた一本の竿をもてあまして、それでもうはべだけは油断なく泛子をみつめるふりをしながら 自分はなぜ釣りが好きにならなければならないのかしら なぞとそれからそれと面白くないことばかり考へてると、平生近眼で弱つてるはずの兄には釣り堀へくれば急に性のいい眼玉がいくつもできて自分は五本も七本も竿をならべながら 「そら、ひいてるぢやないか」 などといつのまにかひとの泛子まで睨んでゐる。釣りあげるとまたしやくひかたが下手だの、針のはづしかたがまづいのとけんつくをくふので はやく逃げてくれればいいに と思つてずるずるとぶしやうなあげやうをする。と、泥だらけの黄色い腹がみえたりするのを 汚い鯉だな とおもつて眺めてると兄が癇癪をおこしてたまをはふりつける。そのじぶんには魚はたいてい針をはづして逃げてしまふ。そんなにしてやつとこさと一日の苦行をすませてさて帰る段となれば今度は生臭いびくがまた重荷となる。さうしてこれも教育のためとあつて私のいやがる路──古道具屋や倉庫や荷車や溝などのある路、電線の風に鳴る路、屋台店のならんだ路──をわざわざ廻り道してあるく。叱られ叱られして疲れきつた足に後から小走りしてゆくのだが、遠い路を遠くして歩くのでまだ家近くならないうちに日がくれてしまふ。そのときの不愉快と不平……のうちに夕べの空にひとつふたつ耀きはじめる星、それは伯母さんが神様や仏様がゐるところだと教へたその星を力に懐しくみとれてゐれば兄は私のおくれるのに腹をたてて 「なにをぐづぐづしてる」 といふ。はつと気がついて 「お星様をみてたんです」 といふのをききもせず 「ばか。星つていへ」 と怒鳴りつける。あはれな人よ。なにかの縁あつて地獄の道づれとなつたこの人を 兄さん と呼ぶやうに、子供の憧憬が空をめぐる冷たい石を お星さん と呼ぶのがそんなに悪いことであつたらうか。 五  ある時これも教育といふ名義のもとにある海岸へつれてゆかれたことがあつた。兄は私のいつにないいい返事をあの楽しかつたいつぞやの旅行の記憶と、先に行つて待つてる私の好きなお友達──兄の──のためとはしらずたつ前の晩には上機嫌で毘沙門様の縁日へつれていつて「小国民」を一冊買つてくれた。あくる朝はいつになく親切な兄につれられて このぶんならまあよかつた と思ひながら「小国民」を荷物に家をでた。ちやうど棚機様の日で、はうばうの百姓家には五色の短冊をつけた笹がたつて藁屋根に蛍草が涼しく咲いてゐる。私はもの珍しくそれらのものに見とれながら なぜ町ではさうしないのだらう といつてまづ最初の一喝をくつた。青田や空や海や白帆に気を浮かされていひたいことききたいことはいくらもあるのを叱られるのがつらさに自分ひとりでああかう考へて やつぱし来ないはうがよかつたかしら なぞと思つてると今度は黙つてるといつてまた新規に一喝をくふ。兄はなぜかう訳もなく腹をたてるのかと思つたら私が どうして汽車が動くか を質問しないために機嫌が悪いのであつた。  私たちのついたのは陰気な柴垣をめぐらしてところどころに貝殻がすててあつたりする漁村のなかの一軒の藁屋で、待ちかねて二人を迎へたお友達のほかにまつ黒な年寄夫婦と、おなじ色の娘が住んでゐた。ちやうど昼飯の時刻だつたので黒猫みたいな親子が三人のまへへ汚い膳をふたつつもつてきたが、それはそこの家の者の使ふ食器なので、私たちが食事をすますまでは家の者はたべることができないのだからはやくしなければいけない といはれ気が気でなく半分たべて箸をおいた。  家が狭いために兄と私だけは一里ばかりはなれた岬のはうへうつることに話がきまり、散歩かたがた送つてくれるお友達と兄とは後から追ひつくといふので私ひとりがたがたの田舎俥にのせられて先に出かけた。俥ひきの親仁はぶくぶくふとつた実直らしい男なのでちつともいやではなかつたが、れいの陰気な柴垣のあひだをぐるぐるまはつてるうちいつとはなしに寂しさがこみあげてたまらなくなつてきた。一所懸命まぎらさうとしても家の杉垣だの、茶の間の様子だの、そんなものばかり目に浮んできて、今夜も明日の晩も帰れないのだ などと思へばわれしらず泣き顔になつて涙がぽとりと膝かけのうへにおちるのをそこいらに遊んでる漁師の子たちがみつけて 「やーい。泣いとるがい、泣いとるがい」 とてんでに笑ふ。親仁はふりかへりふりかへり慰め顔になにかいふのだが言葉が違つてさつぱりわからない。路ばたの垣根のあひだから美しい弁慶蟹が出てきては俥の響に驚いて逃げこむのをほしいと思つて横目にみながらゆくうちに海岸へでた。路は小山にそうて波うちぎはをうねつてゐる。今にも潮がみちて通れなくなりはしないかとはらはらしてゐれば親仁は平気でなにか考へ事をしながらぼつぼつ歩いてゆく。とある切通しへかかつたときに後ろをみたら兄たちの影がみえた。喉へつきあげる泣きじやくりをやうやく噛みころしたところへ兄は急ぎ足で追ひついて私を俥からおろした。岩がちの海岸からところどころに魚の背鰭のやうにぎざぎざな岩礁が沖のはうまでつきでて、道を堰かれた波が海坊主の頭みたいに円くもりあがつてはさつと砕けてしぶきを飛ばす。路がひとうねりするたんびに岸が小さく狭く彎入し低い波が時をおいては ざぶーん、ざぶーん とうちよせる。それをきくと自然に胸がせまつて折角泣きやんだ涙がまたこぼれだす。ひとつの波が ざぶーん と砕けて、じーつ と泡がきえて、まあよかつた と思ふまもなくつぎの波が ざぶーん と砕ける。ひとつの湾をやつと通りこすとそのつぎの湾が ざぶーん と鳴る。ひもじくなつて足も疲れてきたのに岬ははるかむかふにみえて波の音はいくらいつてもやまない。ぽくぽくとひかれてゆく五六頭の牝馬の列に追ひついたときお友達はふと私が涙をためてるのをみて小声で兄に注意した。兄は 「はふつとけ はふつとけ」 といつてさつさとゆく。お友達はふりかへりふりかへりしてたがしまひに立ちどまつて くたびれたのか、気分でもわるいのか と親切にたづねたので正直に 「波の音が悲しいんです」 といつたら兄は睨めつけて 「ひとりで帰れ」 といつて足をはやくした。お友達は私の意外な返事に驚きながらも兄をなだめて 「男はもつときつくならなければいけない」 といつた。 六  岩がちの岬の根もとに近いところに一軒だけはなれて立つた静な宿についたときにはもう日が沈みかかつて、その日を包んで燃えたつ雲が車のやうにまはつてゐた。それがだんだん赤くなり、紫になり、藍色になり、空の色とひとつになつて消えてゆく。縁側の柱につかまつて岬に砕ける波が燐光をはなつのを眺めてると気管のへんが蘞くなつて涙がとめどもなく頬をつたはる。それを柱にこすりつけこすりつけしてこらへながら はやく明日になつてくれれば とただそればかり思つてゐる。雨もよひの風がひゆうひゆうと松を鳴らしてなにかの湧いてくるやうに虫がなく。女中が戸をしめにきたのでしかたなしに部屋へはひつて泣き顔をかくしかくし「小国民」をだして読みはじめた。口絵には額を射られた鬼童丸がかた手で牛の皮をもちあげ、かた手に刀をひきつけて頼光をねらつてるところがかいてあつた。一枚一枚めくつてゆくうちに 少年太鼓手 といふ表題が目についてそこを読みはじめた。挿絵をみると主人公の太鼓手は撥をあげて胸にかけた太鼓をうちながら後れる味方をしりめにかけて進んでゆく。読んでるうちに頭が大きくて、ぐづで、平生人からばかにされてばかりゐる太鼓手はいつか自分になつてしまひ、涙がぽとぽと本のうへに落ちてたうとう最後の一喝をくつた。  翌あさ海はすつかり霧にとざされてゐた。さうしてそのなかを漕いでゆく櫓の音がひどく私を喜ばせた。舟はみえずに音だけがなにかの鳥の鳴くやうに、獣の仔の乳をもとめる声のやうにきこえる。お友達がきていつしよに浜へでた。砂も、石も、波の形にうちあげられた海草もみんなしつとりと朝露にぬれて、昨夜あんなにたんと鳴いてた虫があちこちに ちち、ちち と可愛く鳴きのこつてゐる。平地と傾斜した浜との境にもりあがつた砂丘には雑草や風に吹きためられた黒松がへばりつき、すつきりした漁船が曳きあげられて、舟をすべらすための枠、鳥の巣みたいな生けす、あか汲み、縄、海胆、ひとでの殻なぞころがつてゐる。暫らくして霧がはれ、紺青に底光りする海のうへに朝日があかあかとのぼつてむず痒く汗を滲ませるころ砂丘のあひだの小路から漁師や女子供たちががやがやおりてきて地曳きをひきはじめた。えん、えん としづかに声をかけながらひと足ひと足とひきあげるあひだにここかしこにつまれたてん草は火をつけられてぷすぷすと白い煙をはく。そのうちに兄はひとり向ふの岩まで泳いでいつたので私は雨のときだけ川になる水溜りへはひつて石や貝をひろひはじめた。そこにはたくさん寄居蟹の子がゐて、ちよいとみればただの貝殻みたいにみえるがすこしたつと手をだしてひよこひよこ歩きまはる。尖つたのや、円いのや、勝手次第の殻にゐて、それでどれも寄居蟹の子なのがをかしい。お友達はどこからか長さ二寸ばかりの法螺貝の殻をみつけてきてくれた。ちやうど細い紐がとほせるぐらゐの孔がふたつつあいてゐる。で、家へ帰つたら姉にもらつた洋傘の総をつけよう なぞと思つてるところへ兄があがつてきて両手にもつてる貝や石をみんな棄ててしまへといふ。私はしかたなくさも惜しさうにひとつ棄て、ふたつ棄て、たうとう残らず棄ては棄てたが、その貝だけはどうしても棄てかねてもぢもぢしてたら腹をたてて拳固をふりあげたのをお友達がとめてそれひとつだけをもつて帰ることに不承ぶしように納得させた。その法螺貝は今でも古い玩具箱のなかにちやんと総がつけてしまつてある。 七  兄はいろいろとしてずゐぶん熱心に、綿密に、厳格に教育を施したが、あるときふとしたことから二人はこのお互に難儀な関係をきつぱりと断つてしまふことになつた。  いつ頃からか兄は釣り堀の鯉だけでは満足しなくなつて投網の稽古をはじめ、れいのとほりびくをさげさせてさいさい私を近処の川へつれていつた。四五町いつて橋をひとつ渡ればそこはもう川ぞひの原で、紅白に染めわけた水引の枠が楯のやうにならべてほしてある。間もなく水車場がある。長い樋のなかを水が押しあひへしあひ気ちがひみたいにくるのをみると生きたもののやうに思はれて身の毛がよだつ。大きな水車がしぶきの息をふき、雫の汗をたらしてぐわらぐわらぐわらと恐しくまはつてゐる。糠埃のこもつた舂き場には無数の杵がこつとんこつとんと鈍な音をたてて一本足の踊るやうに米をつく。そこへゆくと私はどういふわけか舌の根に苦味をおぼえて圧しつけられるやうな気もちになるのであつた。そこからだらだらと川上へのぼれば堰があり、そのうへに青く淀んだ水が三方にわかれてひとつは樋に、ひとつはむかふ岸の森のなかへ、残りは堰の口からどどんどどんと地響きをうたせてころがりおちる。躍りあがる飛沫、湧きたつ泡、逆にはひあがる崖、横つとびにとんでゆく水をみるとたまらない寂しさ恐しさに襲はれてただもう はやく帰りたい、はやく帰りたい と思ふ。その滝壺の主を或者は河童だといつた。或者は六尺もある鯉だといつた。そしていづれも現在見た者から聞いたのだといふ。その主に見こまれて毎年ひとりふたりの子供は必ず命をおとすのでそれらのあはれなもののためにわづかの砂利浜にいつからか一本の塔婆がたてられた。その子供たちはどうしてるだらう。そのうへひろびろとして風に波うつ青田をみれば急に胸がせまつて涙がさつとまぶたにたまる。それは深い深い心の底から湧いてきて堰きとめるすべもなかつた。その泣き顔をかくすために一所懸命足もとをみつめながら四五軒まばらに並んでる藁屋のなかのひとつにはひる。そこは網を貸したり釣道具を売つたりする家で、日にやけた畳のうへにいろいろに塗りわけられた徳利形、椎の実形、円形の泛子、糸巻、釣竿などがならんでゐる。庭先を流れてゆく溝にはめだかや蝦が泳ぎ、畦道にはひよろひよろと櫟の若木がならび、青田の末は丘になつてまつ黒な森がどこまでもつづいてゆく。兄は網をもち、私はびくをさげ、二人とも跣になつて滝の横手から崖をおりてむかふ岸の窪いところをあさつてあるく。兄はこなひだまで瓢箪なりにしかならなかつた網が円くひろがるやうになつたといつてほくほくしてるけれどそんなこと面白くもない。私は蝉の声をきき、田圃の蓮華草をおもひしてうす暗く川におちた森の蔭に立つてると兄はたまに一匹二匹のげばちやはやなどとつてきて 「うまくなつた うまくなつた」 といひながら私のもつてるびくにいれる。魚が息のできるやうにびくを水につけて友達みたいな気になつてのぞいてると私みたいに臆病な彼らはちよいとした響きにも驚いて鼻をつく。そのあひだにも兄は私が網を打つところを見てゐないといつてわんわんいふ。  ある日のことまたそんなにして川のなかに立つてたとき私は足もとにあるまつ白な石を拾はうとして身をかがめた。それを兄はぢきに見つけて 「なにする」 といつた。 「石をひろふんです」 「ばか」  私はもういつものやうに恐れなかつた。こなひだから考へて考へて考へぬいてある。 「兄さん」  私は後ろからしづかに呼びかけた。 「兄さんが魚をとるのに僕はなぜ石をひろつちやわるいんです」  兄は 「生意気いふな」 と怒鳴りつけた。私は冷かに笑つてまともに兄の顔を見つめながら 「僕のいふことがちがつてるなら教へてください」  兄は 「殴るぞ」 といつて手をあげた。私は黙つて垂れさがつた枝のさきにびくをかけ崖をあがつて帰りかけたが、うす暗い木の蔭にこごんでるのを見ると急に気の毒になり あんなにいふけれどきつとやつぱし寂しいんだらう とおもつて岸のうへから一所懸命によんだ。 「兄さん、兄さん、居てあげませうか」  兄は知らん顔して網をそろへてゐる。 「さやうなら」  私は丁寧に帽子をとつてひとりで家へ帰つた。それからは私たちは決していつしよに出かけなかつた。 八  家のまはりには切りのこした桑の木があつたので慰みかたがた子供たちの実地教育にもなるといふ父の考から近処ですこしばかりの種をわけてもらつて蚕をかつたことがあつた。母や伯母は面倒だ面倒だといふものの実はいくらか得意で、もう大丈夫二度とくることのない昔の労苦を思ひだして楽しみながらいそいそと桑をきざんでやる。はじめはただ葉のしたにかくれてるのが日に日に大きくなり坊主頭をふりたててはじからくひかいてゆく。私も小さな羊羹の函に五六匹いれてもらつて、伯母さんがお蚕様はもとお姫様だつたなぞと教へたもので寐るときにはちやんと御機嫌ようをし、朝はまたおはやうをして、留守の世話をよくよく頼んで学校へゆく。さて帰つてくれば姉は手拭をかぶつて前垂の両端を帯にはさみ、私は笊をかかへて桑つみにでかける。さうして指の先を黒くしながら手のとどくかぎりうまさうなのをよつてつみつこをする。冷い唇からはきだす糸の美しいつやが仇となつて遠い昔から人の手にのみ育てられたこの虫は自ら食を求めようとはせず蓆のうへに頭をならべておとなしく桑の葉のふりまかれるのを待つてるのを伯母さんは 「お姫様だつたげなでこのお行儀のええことはの」 とさもほんとらしくいふ。青臭いのも、体のつめたいのも、はじめのうちこそ気味がわるかつたがお姫様だとおもへばなにもかも平気になり、背なかにある三日月がたの斑文を可愛らしい眼だと思ふやうになつた。お姫様は四たびめの禅定から出たのちには体もすきとほるほど清浄になり、桑の葉さへたべずにとみかうみして入寂の場所をもとめる。それをそうつと繭棚にうつすとほどよいところに身をすゑ、しづかに首をうごかして自分の姿をかくすために白い几帳を織りはじめる。最初はただ首をふるやうにみえるのがいつとはなしにほのかになり、神通力をもつて梭もなしに織りだした俵がたの几帳ばかりがころりころりと繭棚にかかる。私はおいてきぼりになつた気もちでいつまでもとつておくといつてきかないのを母と伯母とでさつさともぎとつて鍋で煮る。さうしてうす黄色く濡れた糸をくるくると枠にまくと几帳が無惨にほごされてしまひに西どつちの形した骸がでる。それを兄は餌箱にいれて釣り堀へとんでゆく。お姫様の夢はかやうにしてさめ、糸は機屋へおくられてをかしげな田舎縞が織られた。  羊羹函にできたいくつかの繭は種にするために残されたが、私の心がその几帳の奥にまでとどいたのか、それともお姫様が光りかがやく夏の世をすてかねてか、まもなく彼女はまつ黒な眼のうへに美しい眉をたて、新しい歓びにふるへる翅さへもつて昔の俤をしのばすやうな可愛らしい姿をあらはした。さうして右に左に輪をかくやうにして睦びあふ伴侶をもとめてあるくのを私は竹のなかから出た人よりも珍しく眺めてゐた。蚕が老いて繭になり、繭がほどけて蝶になり、蝶が卵をうむのをみて私の智識は完成した。それはまことに不可思議の謎の環であつた。私は常にかやうな子供らしい驚嘆をもつて自分の周囲を眺めたいと思ふ。人びとは多くのことを見馴れるにつけただそれが見馴れたことであるといふばかりにそのままに見すごしてしまふのであるけれども、思へば年ごとの春に萌えだす木の芽は年ごとにあらたに我らを驚かすべきであつたであらう、それはもし知らないといふならば、我我はこの小さな繭につつまれたほどのわづかのことすらも知らないのであるゆゑに。  その種が孵つたときには桑の木もすくなくなつてたし人手もなくてとてもそれだけの蚕をかふことができなかつたので、家の者は ぢきに雀がくつてしまふだらう といふ浅はかな考へから去年以来お姫様と兄弟になつた私の留守のまにそのうちの半分ほどをこつそり裏の畑へすてておいた。それを桑つみにいつた拍子にふいと私が見つけびつくりして飛んでかへり訳をきいたがみんなはなんのかのとはぐらかして相手にしようとしない。私はたうとう感づいて、どうか拾ひあげてかつてやつてくれと手をつかないばかりにして頼んだけれどどうしてもきいてくれない。とはいへ彼らの老獪な詭弁も到底単純無垢な子供の慈悲心をくらますことができないのをみ、彼らは終に慣用手段の大きな声でひとを嚇かしてしまはうとした。私はくやしさ憎さがこみあげみんなを睨みつけて気ちがひみたいに悪対をついたあげく裏へかけだして泣いてゐた。その時もし私に彼らをとりひしぐだけの力があつたならば彼らを数珠つなぎにして雀の餌にしたであらう。それからは毎日頭が痛いといつては学校を早びけにして首をふつて饑ゑを訴へてる兄弟に桑の葉をつんでやつたが、脾弱いものどもは夜昼の寒さ暑さに堪へかねて毎日いくつかづつ土にまみれてゆく。  雨のふりだした夕がたであつた。家からいくら呼ばれても帰らないので伯母さんが出てきてみたら私はすてられた蚕のうへに傘をさしかけて立つてるのであつた。さうして顔を見るやいなやわつと泣きだしてその前垂にくひついた。仏性の伯母さんはどうかしたいのは山山なのだがどうもしやうがないものでお念仏をくりかへしながらやうやく賺してつれて帰つた。その後家の者はそこに小さな胡麻石の碑がたてられそのうへに私の手で 嗚呼忠臣楠氏之墓 と書いてあるのを見出した。 九  ひとつは境遇から、ひとつは自分の性格から、とかく苦悩の多い早熟な私にとつてこのうへもない慰藉となつたのは絵をかくことであつた。私は四条派の画に堪能であつた大殿様からの拝領物だといふ粉本の巻物を父からもらつてもつてゐた。それは私の秘蔵の一軸であると同時に伯母さんにとつてはお犬様や丑紅の牛といつしよにほいほいと持ちだして私の癇癪をしづめる虫おさへの妙薬であつた。その巻物、鷺だの、鶴だの、松だの、日の出だの、美しい自然のなかでも美しいものの美しい姿ばかりを美しくかきよせたその巻物はさすがにまだ虚しく清らかであつた私の胸をいひしらぬ夢と憧れの陶酔をもつてみたしてしまふのであつた。このじぶん私はもうそれらの絵を見るだけでは満足ができなかつたので、そんなことがなにより嫌ひな兄の不機嫌を承知のうへでやつと家から買つてもらつた安絵具──それは紺色のやくざなぼうる箱にたつた八種ほどの絵具と一本の筆がはひつて、箱のうへには獅子の跳ねてる商標がついてゐた。──と姉から譲られた筆洗を友として草双紙の透きうつしからはじめて粉本の絵のやさしいのを拾ひがきにかくやうになつた。けれども誰ひとり教へてくれる者はなし、部屋にとぢこもつて幾度も幾度もかきそこなひながらさんざ苦心をして、ひとつの線のひきかたも、ひとつの色のだしかたも、みんな自分ひとりでくふうしなければならない。併しながらこれは私にとつていはば自由な創造であつた。猶太の神はあの万物の創造にあたつて私が一羽の鳥、一輪の花をかきえたほどの満足を味ふことができたであらうか。赤と黄とで橙黄を得たといふただそれしきのことさへが私を雀躍りさせた。兄は案のぢやう大不機嫌で、折角よくできたのを机にたてて眺めてると傍へやつてきてわざとめちやめちやにくさしたりしたが、そんなことは喜びと力にみちたこの小さな造物主の勇気を挫くことはできなかつた。私は草双紙のおいらんやお姫様の著物の色を選み、またその腭のしたにひとつのすぢをいれ、眉のひきかたをちがへるなどいろいろと自分の好みをくはへて、そして昔の神様のやうに自分のこしらへたものを恋人にして大事に抽匣へしまつておいたりした。が、一方にその紙のうへに創造したこれらの美しいものを到底現実の世界には見出せさうもないといふことを思つては徒に気をいらだたせた。  私はまた唱歌が大好きだつた。これも兄のゐる時には歌ふことを許されなかつたのでその留守のまをぬすんでは、ことに晴れた夜など澄みわたる月の面をじつと見つめながら静な静な歌をうたふといつか涙が瞼にたまつて月からちかちかと後光がさしはじめる。をりをり姉のところへ遊びにくる声のいいお友達に教へてもらふことがあつた。私は学校ではいちばん上手だつたけれどその人のまろまろした声のまへにはただもう気おくれがして小さな声であとについた。それはお蕙ちやんといつも遊んだ肱かけ窓のところであつた。青桐の葉が風にさわざ、虫がないて、五位鷺の群ががつがつと鳴きわたる夜が多くあつた。…… 十  私のなにより嫌ひな学課は修身だつた。高等科からは掛け図をやめて教科書をつかふことになつてたがどういふ訳か表紙は汚いし、挿画はまづいし、紙質も活字も粗悪な手にとるさへ気もちがわるいやくざな本で、載せてある話といへばどれもこれも孝行息子が殿様から褒美をもらつたの、正直者が金持ちになつたのといふ筋の、しかも味もそつけもないものばかりであつた。おまけに先生ときたらただもう最も下等な意味での功利的な説明を加へるよりほか能がなかつたので折角の修身は啻に私をすこしも善良にしなかつたのみならずかへつてまつたく反対の結果をさへひき起した。このわづかに十一か十二の子供のたかの知れた見聞、自分ひとりの経験に照してみてもそんなことはとてもそのまま納得ができない。私は 修身書は人を瞞著するものだ と思つた。それゆゑ行儀が悪いと操行点をひかれるといふ恐しいその時間に頬杖をついたり、わき見をしたり、欠伸をしたり、鼻唄をうたつたり、出来るだけ行儀を悪くして抑へ難い反感をもらした。  私は学校へあがつてから「孝行」といふ言葉をきかされたことは百万遍にもなつたらう。さりながら彼らの孝道は畢竟かくのごとくに生を享け、かくのごとくに生をつづけてることをもつて無上の幸福とする感謝のうへにおかれてゐる。そんなものが私のやうに既にはやく生苦の味をおぼえはじめた子供にとつてなんの権威があらうか。私はどうかしてよく訳がききたいと思ひある時みんなが悪性の腫物のやうに触れることを憚つて頭から鵜呑みにしてる孝行についてこんな質問をした。 「先生、人はなぜ孝行しなければならないんです」  先生は眼を丸くしたが 「おなかのへつた時ごはんがたべられるのも、あんばいの悪い時お薬ののめるのも、みんなお父様やお母様のおかげです」 といふ。私 「でも僕はそんなに生きてたいとは思ひません」  先生はいよいよまづい顔をして 「山よりも高く海よりも深いからです」 「でも僕はそんなこと知らない時のはうがよつぽど孝行でした」  先生はかつとして 「孝行のわかる人手をあげて」 といつた。ひよつとこめらはわれこそといはないばかりにぱつと一斉に手をあげてこの理不尽な卑怯なしかたに対して張り裂けるほどの憤懣をいだきながら、さすがに自分ひとりを愧ぢ顔を赤くして手をあげずにゐる私をじろじろとしりめにかける。私はくやしかつたけれどそれなりひと言もいひ得ずに黙つてしまつた。それから先生は常にこの有効な手段を用ひてひとの質問の口を鎖したが、こちらはまたその屈辱を免れるために修身のある日にはいつも学校を休んだ。 十一  ある晩ふとひとに誘はれて少林寺へ遊びにいつた。寺には貞ちやんといふ年も級もひとつ下の子があり、見知りごしではあつたが友達になるほどの機会も希望もなしに過ぎてたのである。私ははじめてなのでかなりの不安と好奇心をもつて扉のない山門をくぐつた。さうして見おぼえのある閼伽井のそばの木犀の蔭へいつてかはるがはる呼んだら貞ちやんはがたがたと内玄関の戸をあけて私たちを茶の間へ案内した。家の人はこの珍客のためにわざわざとつておきのつりランプをだしてくれたが、それはその頃でさへあんまり見かけることのなかつた古い型のもので、四方ガラスの箱のなかへランプをいれるのであつた。私たちはその上下左右にぱつと投げかける明るい光のなかで将棊倒しや道中双六にふけつた。ふりだしの日本橋に鰹うりの絵のついてたことも、「御油」を「おあぶら」と読んで笑はれたこともおぼえてゐる。私は生れてはじめての夜の遊びでもあり、子供ずきの陽気な人たちがいつしよに遊んでくれるのも嬉しくて初対面にもかかはらず思ひのほかはしやいで遊んだ。一体私は病身をたてに兄弟ぢゆうではいちばん寛大にとりあつかはれて随分我儘もしてたのだけれど、それでも行住坐臥四方八方にたてられた制札ばかりを気にかけて子供が遊ばねばならぬやうな遊びかたをしたこともなく、遊び場ももつてゐなかつたゆゑ、そんな子供のために開放されたかのごとき扉なしの山門のなかは私にとつて到底忘れることのできない自由の天地であつた。それが縁となつて私はそれから三日にあげず遊びにゆくやうになつた。いろいろな原因から無邪気とか、快活とか、一般の子供がもつてる幸福の多くを失つた子供らしくない子供が真に子供らしい子供として楽しい我知らずの幾時をすごしえたところ、ひつこみがちな憂鬱な子供が太陽の光のしたでのみ授かることのできる自然についての子供らしい智識をたくはへたところ、もつて生れたある性質、それは兄に頗る評判のわるかつたその性質を培ひ育てて後の私を形づくつたところ、それらの種種な点で少林寺の境内は私に特別の意味をもつてゐる。  寺はおもに旗本を檀家にして江戸の絵図にものつたほどのものであつたが、御維新になつてからはそれらの人はみんなちりぢりばらばらになり、たまたまこちらにふみとどまつた者もおほかた零落してしまつたので、自然寺も思ひのほかの窮迫に陥つて年年に荒廃してゆくばかりの有様であつた。それでもまだ伯母さんにおぶさつていつたじぶんの俤は大概そのままにのこつて、玄関の衝立の孔雀はなほ誇りかに豪奢な尾をたれ、いろいろに咲きみだれた牡丹の花には今も昔の夢に酔ふかのやうに幾羽の蝶が舞つてゐた。背の高いかなめ垣をへだてて左手は庫裡になり、それについて右へ曲ると内庭で花壇やいちご畑があり、切りのこされた老木があちこちに大きな暗い蔭を落してゐる。そこから鉤の手にまた右へ曲ると西へむいた本堂の庭の隅に槙の大木があつて、その岩瘤みたいな根つこは庭のなかばにはびこり、縦横にのびだした枝は幾百の行脚僧を憩はすべき緑の天幕となり、私たちのためには夕だちのときの雨宿りとなり、夏の日の涼しい蔭となつた。そこから一段低くなつた崖ぎはの畑には大根や菜の花がさき、烏瓜や藪からしがぢやんぢやらになつたぼさのなかには古井戸があつて底のはうからすいすいと蚊が出てきたりした。槙の木のうしろから熊笹の土堤にある犬の路をぽかりと北へぬけるとそこはいちめん栗の木のはえた墓地で、栗の花に、葉に、いがに埋まり、渋に染まつた石塔のうへにはよく笄蛭がはつてゐた。  貞ちやんは剽軽者の気のいい子でなんでもいひなりにして遊んでくれたし、一方にそれまでさうした戸外の遊びをろくにしたことのない私はそれに必要な雑多な智識をまつたく欠いてたためそんなことには貞ちやんが先生になつて二人は仲よく遊んだ。 十二  春のころには坂ひとつ向ふの広い原へいつて凧をあげる。貞ちやんのは鬚達磨で、私のは障子骨の金太郎だつた。最初糸目をおさへられてこちらの思ふままになつてた凧は高くあがるにしたがひ威張りだして、終にはひとすぢの糸で夢中に空を見あげてる揚げ手を支配しはじめる。彼はぶんぶんうなりながらゆーらゆーらと尻尾をふつて大空の海を泳ぐやうにみえる。あんまり張りが強くなつてひきずられたり、なにか気にさはつて廻りだしたりするとなんだか怖くなつて 「かんにんだー、かんにんだー」 とあやまりながら一所懸命だまをだして機嫌をなほしてもらふ。恐しいのは鳶頭の息子のあげる八枚の童子格子だつた。籐のでつぱりうなりが胸のすくやうな音を漂はせて長い尻尾の先が力づよくはねあがり、ぴんと張つた糸目のへんにきらりきらりとがんぎりが光つてゐる。下の町のいぢめつ子のあげるはんぎや(般若)の二枚凧はみんなに嫌はれてゐた。そいつは初手から喧嘩を売るつもりで尻尾もつけずに「もつてん」にして、びいびいといやらしい紙うなりを鳴らしながらこづきどほしにしてあげる。しんの糸目をつめられて一層顔をしかめた般若は気ちがひみたいになつて近処の凧にくつてかかり新発明の錨のがんぎりで忽ち糸を噛みきつてしまふ。私たちはその喧嘩凧のゐないときをみてあげにゆく。かた手に重たい糸巻をもち、かた手に糸目を轡の形にとつてゆくと凧は競馬うまのやうにはやりにはやつてともすればびんびん飛びださうとする。風つぽい春の空に気負つてあがつてる凧のなかでうぬぼれか障子骨の金太郎はひときは目だつてみえた。なにもかも忘れてあげてるうちにいつかよその子はみんな帰つて暮れかかつた原のなかに自分たちばかりになつてゐる。ふとそれに気がつくと急に心細くなりあわてて糸をたぐるけれどそんな時にかぎり張りが強くなつてあせつてもあせつてもなかなかおろせない。そのうちに日はずんずん沈んで、刻刻暗くなる空に金太郎と達磨の眼玉が光るのばかりがみえる。お互に気もちはちやんとわかつてゐながら負け惜みの平気を装つて、晩までおろせなかつたらどうしようかしらん、すつかりだまをだすんぢやなかつたのに なぞと思ひながらやつとこさとおろして糸をまきをはるとそれまでいつぱいになつてた胸がからりとして思はず顔を見あはせ わはははは と笑ふ。さうして 「僕さつきどうしようかと思つちやつた」 なぞと本音をはきながら 「誰にも内證にしよう」 と堅く約束して帰る。 十三  夏は毎日蝉とりにうき身をやつす。黐でとると翅がよごれるといつて三盆白の袋を竿のさきへつけ庭から墓場へとさがしてあるく。木が多いので一順まはるうちにはいやになるほどとれる。あぶらはやかましいばかり、見かけがよくないのでとつても張りあひがない。みんみんはまるまるとふとつて鳴き声もへうげてゐる。法師蝉は歌がおもしろく、それにすばやいのを目のかたきにして追ひまはす。蜩は手におへない。唖蝉の声もたてずに袋のなかで身をもだえるのはあはれである。  また私たちはその季節季節に実のなる木から木へと小鳥のやうにあさりあるく。ぼたん杏の花が蒼白く散つたあとに豆ほどの実が日に日にふくらんでゆくのをもどかしく眺めてるうちいつか雀の卵から鳩の卵ぐらゐになつて、みづみづと黄味を帯び、頬みたいに赤みをきざし、しまひには枝が撓んで地についてしまふ。さうなると腹を痛めないかぎりに許しがでるのをこつそりと間がなすきがなちぎつてぼたん杏の噯気がでるまでくふ。それでも食ひきれないので紫色にうみすぎたのがぼたりぼたりと落ちる。それを烏がねらつてきて憎体に尻をふつてつつつきまはる。  楽しみなのは栗のさかりであつた。ひとりは竹竿をもち、ひとりは笊をかかへて鵜の目鷹の目墓地をあるく。めつきりと露がたれさうにゑんだのをみつけたときの嬉しさといつたらない。竿のさきでちよんちよんとたたいてみるといががぴよいぴよいと首をふつてさもうまさうな手ごたへがする。そこでこつんとひとつくはす。ばらばらと落ちる。とんでつて拾ひこむ。そして三つにひとつは試し食ひにくつてしまふ。いちご。柿。  ゆすらや棗はさほどでもないのを意地きたなでひとつも枝には残さない。かりんは木ぶりに似あはぬやさしい花がさき、その花に似あはぬいかつい実がなる。どさりどさりと落ちるばかりで匂はよくても渋くはあるし、それに石みたいで歯もたたない。  広い庭のあちこちにつくられた花壇や沢山ある立木にはそのをりをりに花の絶えることがなかつた。百合、ひまはり、金盞花、千日草、葉鶏頭、魚の卵に似た棕櫚の花など。  夏のはじめにはこの庭の自然は最も私の心を楽しませた。春の暮の霞にいきれるやうな、南風と北風が交互に吹いて寒暖晴雨の常なく落ちつきのない季節がすぎ、天地はまつたくわかわかしくさえざえしい初夏の領となる。空は水のやうに澄み、日光はあふれ、すず風は吹きおち、紫の影はそよぎ、あの陰鬱な槙の木までが心からかいつになくはれやかにみえる。蟻はあちこちに塔をきづき、羽虫は穴をでてわがものがほに飛びまはり、可愛い蜘蛛の子は木枝や軒のかげに夕暮の踊りをはじめる。私たちは燈心で地虫をつり、地蜂の穴を埋めてきんきんいふ声に耳をすまし、蝉のぬけがらをさがし、毛虫をつつついてあるく。すべてのものはみな若く楽しくいきいきとして、憎むべきものはひとつもない。そんなときに私は小暗い槙の木の蔭に立つて静に静にくれてゆく遠山の色に見とれるのが好きであつた。青田がみえ、森がみえ、風のはこんでくる水車の音と蛙の声がきこえ、むかふの高台の木立のなかからは鐘の音がこうこうと響いてくる。二人は空にのこる夕日の光をあびてたをたをと羽ばたいてゆく五位のむれを見おくりながら夕やけこやけをうたふ。たまには白鷺も長い脚をのばしてゆく。 十四  地上の花を暖い夢につつんでとろとろとほほゑましめる銀色の陽炎のなかにその夢の国の女王のごとく花壇にはここかしこに牡丹がさく、白や、紅や、紫や。これも夢のもののいろいろの羽衣をきた蝶蝶はひらひらときて花に戯れ、まだらの甲虫は花粉にまみれてずつぷりと蜜によふ。いつもかたくとざされてもの音もしない離れの障子があいて脇息に凭つた老僧の姿のみえるのはこの頃である。離れのまへには老僧の秘蔵の牡丹の古木があり淡紅のひとへの花びらに芳しい息をふくんでふくらかに花をひらく。そこは狭い中庭をあひだに母屋とは弓なりの橋ひとつをへだてて、日あたりのいい縁のしたには秋海棠のひとり生えがしげり、むかつて左の端には青桐、右の端にははくうん木が涼しい蔭をつくつてゐた。七十七になる老僧はそこにとぢこもつて朝夕の看経のほかにはもの音もたてない。私たちはただいつとはなしに隙をもれてくる薫物のかをりによつてそこに石のごとくにしづまりかへつた人のゐることを知るばかりであつた。どうかすると老僧は茶がほしいときに蜩の鳴くやうな音のする鈴をならすことがあつた。それでもききつける者がゐなければ鉢の子のやうに茶碗を手にうけとことこと橋をわたつて自分で茶をいれてゆく。また時たま仏事によばれて頭巾を阿禰陀にかぶり、かた手に数珠、かた手に杖をついてとぼとぼと歩いてゆく姿をみる者はこの見すぼらしい坊さんがなにかの時には緋の法衣をきる人だと思ふ者はなかつた。まことにこの老僧は人間の世界とは橋ひとつをへだてて世のなかには夏になれば牡丹がさくといふことのほかなんにも知らないかのやうに寂寞と行ひすましてゐる。私はいつしか子供心に老僧を敬ふ念をおこしどうかしてこの人にすがりたいと思ひはじめた。そのじぶんにはもうすつかり寺の人たちと心安くなつてたので貞ちやんのゐるゐないにかかはらず毎日のやうに遊びにいつて、年寄りのするやうに手を腰にまはして庭をあるいたり、冷たい墓地をまはつたりして、をりをり人の身のうへや自分の身のうへを思つて涙をうかめることもあつた。……私は鎖をひきずる囚人が己の姿を愧づるやうな気もちでいつもうなだれて足もとを見つめながら考へこんで歩くのが癖であつた。 十五  ある日のこと貞ちやんの留守にひとりで遊んでたときに離れでれいの蜩の鈴が鳴つた。が、折あしく茶の間には誰もゐなかつたので私は思ひきつて離れへいつた。橋をわたつたところのうす暗い部屋には衣桁に輪袈裟や数珠がかかつて香の薫がすーんともれてくる。私はそこまでゆきはしたものの急に気おくれがしてためらつてゐた。耳の遠い老僧は足音がきこえなかつたかまたからからと鈴を鳴らした。私はやうやく襖をあけて手をついた。彼方はなにげなく大きな茶托をさしだしたがふと顔をみて 「おお、これはこれは」 といつた。私は瞼をふるはせながらお辞儀をして茶托をうけとり、はづかしいやうな、嬉しいやうな、大願成就したやうな気もちで茶の間へきて見おぼえたとほりそこにある番茶をいれてもつていつた。橋が朽ちてゆらゆらするのでともすればこぼれさうになる。頭をさげて出したらまた 「おお、これはこれは」 といつた。私は静に襖をたてほつとして橋をわたつた。それからはときどき家の人のかはりにゆくことがあつたが、私はいつも どうかして話をする機会を得たい とそればかり願つてゐながら前へでるとなにひとついひ得ずに黙つて茶碗をうけとり、黙つて茶碗をさしだして帰つてくる。さきは梟かなぞのやうに おおこれは をくりかへすばかりでちつとも言葉をかけない。黒塗りの茶托を手にうけて橋をわたるとき南天の実をくひにきたひよ鳥があわただしくたつて茶をこぼさせたこともあつた。月の夜なぞに白い花がほろほろと橋のうへに散つてたこともあつた。そんなにして橋をわたつてゆくこともたびたびであつたけれどこの枯木のやうな隠者にはとりつくしまもない。ところがある時またからからと鈴がなつて、いつものとほり茶碗をおいて帰らうとしたら意外にも後ろから呼びとめて 「絵をかいてあげように紙を買つておいで」 といつた。私は狐につままれた気もちで唐紙を買つてきて老僧のまへに出した。老僧は根の生えたやうに坐つてる脇息のそばから立つて日あたりのいい隣の間へ私をつれていつた。部屋は悉く渋色に燻ぼつて 椿寿 と書いた小さい額がかかつてゐる。いつになく間ぢかく坐らされて汗ぐつしよりになりながら今までこの人を死ぬまでも石仏みたいにして鈴を鳴らす人ときめてた私はその一挙一動をなにか珍しいことのやうにじつと眺めてゐた。老僧は大きな硯をもちだして墨をすらせ、筆をとつてさらさらと糸瓜の絵をかいた。一枚の葉と、一本の蔓と、一つの糸瓜と。そのうへへ 世のなかをなんのへちまと思へどもぶらりとしてはくらされもせず とかき急須みたいな書判をしてとみかうみしてたが、不意にからからと笑つて 「さあ、これをあげるであちらへもつておいで」 といつて硯を棚にのせ、筆を洗ひ、さつさと金剛座へ帰つてもとの石仏になつてしまつた。私は木から落ちた猿のやうにすごすごと糸瓜の絵をもつて家へ帰つた。  老僧がなくなつたのはそれから三年ばかり後のことであつた。私は中学へはひるし、貞ちやんは奉公にでるし、寺とはいつとはなしにうち絶えてたがある晩突然 老僧がなくなつたから といふ使がきたので私は父といつしよに悔みにいつた。老僧はこれといふ病気もなくいはば寿命がつきたので、方方の住職になつてる昔のお弟子たちがかはるがはる世話をしてたのださうだ。久しぶりで思ひ出の多い橋をわたつたら離れには香の煙がたちこめて大般若のときに見おぼえのある坊さんが大勢よつて話してゐた。老僧はへちまをかいてくれた座敷に据ゑてある曲彔のうへに金襴の袈裟をかけ、払子をもつて、昔ながらの石仏のやうに寂然と扶坐してゐる。私はそのまへへいつて昔のとほり頭をさげて焼香した。私たちが僧正遍昭と綽名をつけたでこでこな和尚さんが 「大往生ぢや 大往生ぢや」 といひながら蕎麦饅頭をぱくぱくくつてゐた。私はいよいよ木から落ちた猿であつた。 十六  いい道づれのあつたのを幸に伯母さんが先祖代代の墓参のため、またなにがなし生国の古い思ひ出が心を動してほんの暫くのつもりでこちらをたつたのは何年か前のことであつた。それが先へ行きつくと間もなくどつと煩ひついて一時はいけないとまでいはれたのが、寿命があつたとみえてどうぞかうぞ本復はしたものの年が年ゆゑひどく身体が弱つてもう出てくることができなくなり、自分でも諦めて遠い縁家の留守番に頼まれることになつた。  可愛い子には旅をさせろといふ昔風な父の思ひつきから十六の年の春休みに私は持つて生れた憂鬱症をなほすために京阪地方へ旅行をさせられた。それで病気がなほつたかして私は家から呼びもどされるまでもいい気に遊びまはつてたが、その帰りにいよいよのお暇乞ひのつもりで伯母さんのところを訪ねることにした。伯母さんの住んでるのは「お船手」といつて旧幕時代に藩の御船手組のゐたといふ川ばたの小さな家のたてこんだ一郭であつた。で、なかなかちよいとには家がしれず、日の暮れるまでたづねあぐんだあげくとある荒物屋のむかひのお寺のやうな門のなかへはひつていつた。そこには人が住んでるのかゐないのか、古びきつてがらんとして、草一本もないかはりには木も一本もなく、赤裸でからからしてゐる。私はあけ放しの上り口に立つて二三遍声をかけてみたがいつかう返事がない。知らない土地ではあり、夜にはなるし、心細くなつてあたりを見まはしたときに左ての庭ともいへない二坪ほどの空地との境にある小さな木戸が目についた。そうつとあけて覘いてみたら汚い婆さんがひとり暗いのにあかりもつけず縁先で海老みたいにこごんで縫ひものをしてゐる。私は案内もなくよその庭先へはひつたのに気がとがめて思はず一足あとへさがつたけれど、もうほかにたづねるところもないので木戸のうへから身をかがめて 「ごめんなさい」 と声をかけた。婆さんは知らん顔して針をはこんでゐる。 「ごめんなさい」  聾なのかしら。荷物をさげてる手はさつきからぬけさうなのだ。たまらなくなつて 「少少伺ひます」 といひながらずつとはひつたらやつと気がついたらしくひよいと顔をあげた。暗いのでよくは見えないが、老いさらばつて見るかげもなく痩せこけてはゐるが、それはたしかに伯母さんだつた。私はただもうはつとしてその顔を見つめてゐた。伯母さんはあわてて仕事をかたよせ、縁側に手をつき畏つた形になつて 「どなた様でございます。この節ちよつとも眼がみえませんで」 「………」 「耳もえろ遠なりましてなも」 「それでひと様に御無礼ばつかいたします」  こちらがいつまでも黙つてるものですこしのりだすやうにして 「どなた様でございます」 とくりかへす。私は胸一杯なのをやつとの思ひで 「私です」 といつた。それでもまだ 「どなた様でゐらつせるいなも」 といつてしげしげとひとを見あげ見おろししてたがなにはともあれ心やすい人にはちがひないと思つたらしく、立ちあがつて奥の火鉢のそばにあつた煎餅蒲団を仏壇のわきにしいて 「さあどうぞおあがりあすばいて」 と招じいれるやうに腰をかがめた。そのあひだに私はやうやく気をおちつけて笑ひながら 「伯母さんわかりませんか。□□です」 といつたら 「え」 といつて縁先へ飛んできて暫くは瞬きもしずにひとの顔をのぞきこんだあげく涙をほろほろとこぼして 「□さかや。おお おお □さかや」 といひいひ自分よりはずつと背が高くなつた私を頭から肩からお賓頭盧様みたいに撫でまはした。さうしてひとが消えてなくなりでもするかのやうにすこしも眼をはなさず 「まあ、そのいに大きならんしてちよつともわかれせんがや」 といひながら火鉢のそばに坐らせ、挨拶もそこそこにもつと撫でたさうな様子で 「ほんによう来とくれた、まあ死ぬまで逢へんかしらんと思つとつたに」 と拝まないばかりにして涙をふく。 十七  伯母さんは古ぼけた行燈に火をともし 「ちよつと待つとつとくれんか、ちやつとそこまでいつてくるに」 といつて足もとのわるいのをこぼしこぼし縁側からゐざりおりてどこかへ出ていつた。私はひとりでぼつねんとしながら これが見をさめだな と思つた。そして予想以上の伯母さんの衰へやう、知らぬまに自分が大きくなつてたこと、昔のことなど考へてるうちにとことこと足音がして、伯母さんはひとりふたりのしらない人をつれてきた。それは今生きのこつてる伯母さんの古馴染で、みんな近処に住んでお互に話し相手になつてるのだといふ。伯母さんは嬉しまぎれに前後の見さかひもなく 「東京から□さがきたにちやつといつぺん来てちやうだえんか」 といつて呼び集めてきたのである。これらの用のない、気楽な、気のいい人たちはつねづねいやになるほどきかされてる「□さ」とはどんな子かしらといふ多少の好奇心をもつてやつてきたのだが、その評判の「□さ」もやつぱりあたりまいの子供であるのをみ、親切にもまた家へとつてかへして砂糖をたつぷり入れたもろこしせん餅の火にあぶればくるくるねぢくれて手におへないやつを沢山もつてきて焼いてくれた。私が飯まへなのに気がついた伯母さんはみんながかはりに行かうといふのをそれが自分の幸福な特権であるかのやうに剛情をはり定紋つきの小田原提灯をさげて菜を買ひに出ていつた。そのあとで私は人たちから この家の女主人は娘の嫁入先へもうながいこと手伝ひにいつてるのを伯母さんがひとりで留守をしてるといふこと、厄介になるのが気がせつないといつて見えない眼で家の仕事をしてるのだといふことなどきいてるうちに伯母さんは息せききつて戻つてきて台所に豆らんぷをつけ、ことことと晩飯の支度をしながら東京の誰かれの様子をたづねたりする。みんなはいい頃あひをみて帰つていつた。伯母さんは 「こんなとこだでなんにも出来んにかねしとくれよ」 と申訳なささうにいつて大きな寿司皿を私の膳のそばにおき、こんろにかけた鍋のなかからぽつぽつと湯気のたつ鰈を煮えるにしたがつてはさんできて もういらない といふのを 「そんなことはいはすとたんとたべとくれ」 といひながらたうとうづらりと皿一面に並べてしまつた。気も転倒した伯母さんはどうしてその歓迎の意を示さうかを考へる余裕もなく魚屋へいつてそこにあつた鰈を洗ひざらひ買つてきたのであつた。私は心から嬉しくも有り難くも二十幾匹の鰈を眺めつつ腹一杯に食べた。  伯母さんは後でさはりはしないかと思ふくらゐくるくると働いて用事をかたづけたのち膝のつきあふほど間ぢかにちよこんと坐つて、その小さな眼のなかに私の姿をしまつてあの十万億土までも持つてゆかうとするかのやうにじつと見つめながら四方やまの話をする。私は そんなに眼がわるいのに仕事なんぞしないでも といつてさんざとめたけれど 「なんにもせすとひと様の御厄介になるが気がせつないで」 といつてどうしてもきかない。私は伯母さんが家にゐたじぶんのことを思ひだし汚い針山から一本の木綿針をぬきとつてあしたの仕事のために糸をとほしておいた。で、疲れてもゐるし、伯母さんの体のことも気づかつて間もなく床についたが、伯母さんは お阿彌陀様に御礼を申しあげる といつて、お仏壇のまへに敬虔に坐つて見おぼえのある水晶の数珠を爪繰りながらお経をあげはじめた。ちらめく蝋燭の光に照されて病みほうけた体がひよろひよろと動くやうにみえる。四王天清正の立廻りをしてくれた伯母さん、枕の抽匣から目ざましの肉桂棒をだしてくれた伯母さん、その伯母さんは影法師みたいになつてしまつた。伯母さんはやうやくお経をすませ、お仏壇の扉をたてて隣の床にはひりながら 「いつやらひどう煩つた時はまあこれがこの世の見納めかしらんと思つたに、寿命があつたとみえてまたかうやつて娑婆ふたげになつとるが、この年まで生きたでいつお暇してもええと思つていつも寐るまへにはお膝もとへお招きにあづかるやうにお願ひ申しては寐るが……」  私が夜著をかけるのをみて 「寒いことないかえ、風ひいとくれるとどもならんが」 「………」 「朝目がさめるとさいが おお おお また命があつたわやあと思つてなも……」  話はいつになつても尽きさうになかつたが私は程よくきりあげて眠りについた。私たちは互に邪魔をしまいとして寐たふりをしてたけれども二人ともよく眠らなかつた。翌朝まだうす暗いうちにたつた私の姿を伯母さんは門のまへにしよんぼりと立つていつまでもいつまでも見おくつてゐた。  伯母さんはぢきになくなつた。伯母さんはながいあひだ夢みてゐたお阿彌陀様のまへに坐つてあの晩のやうな敬虔な様子で御礼を申しあげてるのであらう。 十八  十七の年の夏を私はひとりでそのじぶん親しくしてた友達の家の別荘にすごした。それは先に兄につれられていつた美しく寂しい半島のその海岸の小山のふところにこつとりとたつた草ぶきの建物で、一切の世話は近処に住んでるひとり者の花売りの婆さんがしてくれることになつた。ばあやはなくなつた伯母と同国の者で、こちらでは年ごろといひ国訛りといひなんとなく伯母のやうな気がするし、さきでは私がその国言葉もよくわかり、昔の様子もききおぼえてるので、そんなことから二人はぢきに隔てのない話し相手になつた。  ばあやは親がはりの兄がある博奕うちの親分のとこへ嫁にゆけといふのをきかなかつたため生綿を百めほどあてがはれて これでどうなりとひとりでやれ といはれた。で、それを糸にして問屋へ持つていつては生綿とひきかへ、また糸にしてはひきかへしたその賃銭がいくらとかで、そのころの米の代がいくらとかで、差しひきいくらかの銭がやうやく残つた。それで著物をこしらへて縫つてるところを兄に見つけられて 親がはりの兄に話もなしにそんな物を買つた とひどく叱られみちみち機でも織つて善光寺へ詣るつもりでうかうかと家を出てしまつた。その時ばあやは十七だつた。それから道中ぜげんみたいな男につけられて気味がわるくなり信州妻子の宿で日のあるうちに宿をとらうとしたらそ奴も同じ宿へついて先にすつと奥へとほつた。で、ばあやは泊るのをやめて出ようとするのを亭主がなんのかのと無理やりにとめようとする。ばあやはへんに思つて まだ腰かけたばかりで旅籠賃もきめないし日も高いのになぜさう理不尽にとめるのだ といつたら、さつきのお客に 自分がたつまであの女をたたせてくれるな と頼まれたから といつていつかなきかない。余儀なくそこへ来合せた同国の人に訳を話して亭主に談じてもらつたら一も二もなく承知して早速たたせるといつたが、その人の影が見えなくなるとすぐにまた怖い顔をしてひきとめる。そこで今度は通りがかりの爺さんに話したところ造作もなくひきうけて ともかく自分の家へくれば善光寺へ行く飛脚といつしよにたたせてやる といつた。ばあやはそれをまにうけて爺さんについていつたが一月も百姓の手伝ひをさせていつかうたたせる様子もない。それでたうとうひとり奉公に出て、どうにかかうにか道づれができて善光寺へたつた。その途中ばあやはある宿で「不思議の縁によつて」自分をのせた駕籠屋や、宿屋の亭主や、宿場役人などの仲立ちでをかつぴきの男といつしよになつた。ところがどうしたことかその男がいやでいやでならず、逃げよう逃げようと思ひながらもついそのまま何年か暮したのち宿願がかなつて善光寺へお詣りすることができた。が、生憎そこで二人ともひどい痘瘡を煩つてどつと床についてしまつた。その後やうやく体の自由がきくやうになつてからすこしは覚えのある傘はりを商売にしてあちこちの借金をかへすうちにある寺の台傘の御用をきいたのが縁となり、方方の台傘をはりながら国へ帰るつもりで□□まで来るには来たがどうしても関所がこされず、流れ流れて終にここから遠くないある町に落著いて傘屋をはじめた。それが仕合せと繁昌して相応な店になり、弟子も幾人かおいたりしたが、爺さんが眼をわるくしたので商売をやめ、好きな花をうゑて売るやうになつた。爺さんが六十九で九年前になくなつてからだんだんおちぶれて今の有様になつたのである。  ばあやは半の日には朝早くから籠を背負つて花を売つてあるく。人に可愛がられて菓子だのお菜だのをもらふから一日の米二合半の代五銭さへあればいいし、それにもう一年半で死ぬといふお告げをうけて永代経も願つてあるし、葬式の費用はぼろ家ながら今ゐる家を売ればできるゆゑなんにも心配はないといふ。ばあやは紫の風呂敷につつんだ汚い帳面をもつてきて 「これになにもかも書いたります」 といふのであけてみたら明治二十二年ごろからの夢やなぞをいろんな手でごたごたに書いてある。表紙には 御夢想灸点の記 とありながらそのことはひとつもない。いろはのいの字も読めないので頼まれた書き手の不親切は知らずに自分の話したことは残らず書いてくれたものと思つてるばかりかなにかの拍子にまぎれこんだ売薬の広告まで丁寧にたたみこんでゐる。さうして読めもしないのをそばからのぞきながら 「弘法様にもおめにかかりました」 「お観音様にもおめにかかりました」 といふ。  彼がこんなふうに隔てなくするのは私がはじめに考へたやうな理由や、また人がばかにして相手にしないほど今の時勢からみれば迷信的な話を私がまじめにきくためばかりでないといふことがわかつたのは幾日かたつてからのことであつた。ばあやは私をひと目みて 「ああ御仏縁の深い方だに、お坊様におなりあすばいたらよかつたになー」 と思つたといふ。もつとなにか思つたことはないか といへば顔ぢゆう皺くちやにして 「へえもうなんにも」 といひながらもなにひとつ嘘はいへず胸にしまつておけない性で、さういふそばから 「あなたはええお嫁様がおもてになりません」 といふ。私は仏縁が深いけれど人が邪魔したため坊さんにもなれず、これからも邪魔されるのださうだ。で、私が 「それぢや仏縁が深くてもだめかなー」 と嘆息するやうにいへばま顔になつて 「なにあんた、それだでこれから一心に御信心なされれば、あんた仏様の力は広大だでなー」 と我を忘れて力をいれた。そして 「わしらとちがつて目がおみえになるで、お経文をおよみなされ」 といひながら手の筋をみて 「小さな邪魔の筋はみんな消えとりますがな。もうはいちやんと本願をいただいておいでだにちつとばかの自力をおすてなさらいで、あんたは悪いお方だなもや」 といつて手をはなした。 十九  ある日の午後私は後ろの山の頂上にみえる大きな松を目あてに登つてゆくうちにいつかふみ迷つて路もない谷あひへはひつてしまつた。私は背よりも高い藪をむちやくちやにかきわけながらでこでこな灌木の枝に頬をはじかれ、軍配団扇みたいな葛蘿に足をさされして息のつまりさうな深みからひとつの峰へ辛うじてぬけだした。その峰は海に向つて開いた奥深い谷のまんなかをめがけて牛がのさばりでたやうな恰好をしてゐる。私はその背なかをむつくりともりあがつた肩のはうへうねうねとつたはつていつた。赤ちやけた花崗岩の細末が鮫の皮みたいにかたまつてるところへひからびた小松がかつかつにへばりついて、木の実をくつた鳥の糞があちらこちらに落ちてゐる。私はともすれば谷のはうへ辷りかかるのを手足の先に力をいれてざらざらの岩に獅噛みつきながらやつとの思ひで肩にあたるところの瘤のうへへ攀ぢのぼつた。ぎらぎらと光の漲つた空を太陽がかつかと飛んでゆく。そこからだらだら降りになつた頸すぢを一町ほどくだるあひだに両側の崖はいよいよ峻しく、谷はますます深くなり、終には鼻面にふさはしい僅の平面を残して行きどまりの絶壁になつてしまつた。ここはこの海岸にそうて三里のあひだ千尺二千尺ぐらゐのあざれた山脈から海のはうへ到るところ枝を出して無数の渓谷を形づくつてるその三つの枝のなかのひとつが根もとを水に浸蝕されて逆に楔を打ち込んだやうなぐあひになつてるのである。後ろは峰、谷のむかふにはそれよりも高い岩壁が屏風のやうにめぐつて青空を天井とした奇怪な殿堂をつくつてゐる。頭のうへにしりあがりの呼び声を響かせてる隼はときどきさつとおろして眼のまへをかすめてはまた空高く舞ひあがる。右ての谷間を見おろすとまつ黒にしげつた森のなかをひとすぢの路が縫ふやうにうねつて山脈を貫いてむかふの村へ降つてゆく。そのほんの覘いてみるほどのすきまから山また山が赤く、うす赤く、紫に、ほの紫に雲につらなつて、折り重り畳み重りはてしもなくつづいてるのがみえる。私は一種の恐怖をまじへた讃美と歓喜にみちて声高くうたひはじめた。木霊! それはちやうど山のかげに誰かがかくれてゐてあとをつくやうにはつきりとくりかへす。私はその姿をみせない歌ひての歌にそそのかされできるだけ声をはりあげて歌つた。さきもおんなじやうに声をはりあげて歌つた。私はいつものとほりさういへばそんなわかりきつたことに原始的な嬉しさをおぼえて幸福な半日を歌ひくらしたのち夏の日の海に沈むころやうやく譲葉の垣のなかへ帰つた。 二十  私は足を洗ふために裏庭をまはつて、それにもう風呂がたつてるじぶんだと思つて湯殿をあけてはひつた。そしていいかげんにさめた湯船にどつぷりとつかつてくたびれた足を楽楽とのばした。湯が乳のへんでくびれあがつて軽く糸で結へたやうな感じをあたへる。私は浮きかかる体を両手でささへ、頭を仰向けによせかけて、温もつた肌に息を吹きかけてみたりしながら今日の楽しさをくりかへしてゐた。私はそこを木霊の峰とつけた。それがふとした道のまちがひから見出されたこと、それゆゑ私のほかには誰も知つてる者はないといふこと、そこへゆくにはあの危険な崖のうへを駈けわたらなければならないといふこと……それらがいつそう私を喜ばせた。そのうち私はなにげなくをどんでる湯の表面をすかしてみた。さうしてそれはよく見なければわからないほどではあるがいつになくうす白く脂が光つてるのに気がついた。誰かはひつたのかしら さう思へばなにもかもさう見える。誰か来たにちがひない。私は急に非常な不安を感じだした。私にとつては知らない人間は即ち嫌ひな人間である。で、すつかり興をさまされてがつかりしてるところへばあやが気がついて流しにきた。そして湯をかへなかつたことを申しわけをしながら 東京のお家から若奥様がみえました といつた。友達の家にはそんな人はゐないはずだ。なんでも京都へいつてる姉様がこの夏上京するとかいつてたからひよつとしたらその人かもしれない。それならしかたがない と諦めはしたものの 困つたことになつた と思つた。ばあやは仰山に声をひそめて 「それはそれは美しいお方だぞなも」 といつて出ていつた。そのあとから私は日蔭者みたいにこつそり部屋へ帰つて柱によりかかつたまま弱りかへつてゐた。初対面の挨拶をするのがなにより難儀だ。さうして馴染のない人のまへに畏つてるつらさといへばなにか眼にみえない縄で縛りつけられてるやうで、しまひには眉毛のあひだがひきしめられて肩のへんが焼けつきさうに熱くなつてくる。その人はむかうの離れにゐるらしい。かねて話にきいてた姉様ならそんなにいやではないが、それにしてもどんなあんばいにしたらいいのかしら などととつおいつ思案してるとき縁側を静な足音がちかづいてはたりと障子のそとでとまつた。私が柱からはなれて机のまへに坐りなはすあひだに 「ごめんあそばせ」 とおちついた柔い声がして、その声があけたやうにするすると障子があいた。 「まあ、まだあかりもさしあげませんで」  ひとり言みたいにいふのがきこえて、長方形にくぎられたうす暗がりのなかに白い顔がくつきりと浮彫にされた。 「はじめまして。私は□□□の姉でございます。二三日お邪魔をさせていただきます」 「は」  さういつたなり罪の宣告をまつてる私のまへへ皿にのせた匂のたかい西洋菓子をしとやかにだして 「つまらないもので……。お口にあひますかどうか」 といつた。そのとき厳かにつめたい彫像が急に美しい人になつて心もちはにかむやうにほほゑんだが 「ただいまあかりを」 とまたもとの彫像になつて暗がりのなかへ消えていつた。  私はほつと息をついた。そしていかにもあはれだつた自分を愧ぢながらもその消えていつた姿を思ひださうとしたけれど夢のやうでとりとめがない。それでもじつと目をつぶつてるうちに俄に明るみへ出たときのやうにだんだんはつきりとものの形が浮んできた。大きな丸髷に結つてゐた。まつ黒な髪だつた。くつきりとした眉毛のしたにまつ黒な瞳が光つてゐた。すべての輪廓があんまり鮮明なためになんとなく馴れ親しみがたい感じがしてすこしうけ口な愛くるしい唇さへが海の底の冷たい珊瑚をきざんだかのやうに思はれたが、その口もとが気もちよくひきあがつて綺麗な歯があらはれたときに、すずしいほほゑみが一切を和らげ、白い頬に血の色がさして、彫像はそのままひとりの美しい人になつた。 二十一  それから私はなぜか出来るだけ顔をあはせないやうにして朝から木霊の峰へゆき、帰るのにもことさら食事の時をはづしたりしたが、ひとつ家にゐることゆゑ一日のうちにはどうしてもいつしよにならなければならないことがあつた。私は峰へいつてもちつとも歌はなかつた、季節をすぎた鳥のやうに。さうしてあの絶壁のあひだからみえる山山の深い色をぼんやりと眺めくらした。  ある晩かなりふけてから私は後の山から月のあがるのを見ながら花壇のなかに立つてゐた。幾千の虫たちは小さな鈴をふり、潮風は畑をこえて海の香と浪の音をはこぶ。離れの円窓にはまだ火影がさして、そのまへの蓮瓶にはすぎた夕だちの涼しさを玉にしてる幾枚の葉とほの白くつぼんだ花がみえる。私はあらゆる思ひのうちでもつとも深い名のない思ひに沈んでひと夜ひと夜に不具になつてゆく月を我を忘れて眺めてゐた。……そんなにしてるうちにふと気がついたらいつのまにかおなじ花壇のなかに姉様が立つてゐた。月も花もなくなつてしまつた。絵のやうに影をうつした池の面にさつと水鳥がおりるときにすべての影はいちどに消えてさりげなく浮んだ白い姿ばかりになるやうに。私はあたふたとして 「月が……」 といひかけたが、あいにくそのとき姉様は気をきかせてむかふへ行きかけてたのではつとして耳まで赤くなつた。そんな些細なこと、ちよつとした言葉のまちがひやばつのわるさなどのためにひどく恥しい思ひをするたちであつた。姉様はそのまましづかに足をはこび花のまはりを小さくまはつてもとのところへもどりながら 「ほんたうにようございますこと」 と巧につくろつてくれたのを私は心から嬉しくもありがたくも思つた。 二十二  翌日新聞を返しに離れへいつたら姉様はこちらへ背なかをむけて髪をとかしてるところだつた。長い髪がさわりとほどけ肩から豊に波うつて後ろへすべつてゐる。障子をしめて帰らうとしたときに櫛をもつた手を耳のあたりでとめて鏡のなかの顔がほほゑみながら 「あのあたくし明日お暇いたしますから……お別れに晩ごはんを御一緒にいただきたいと存じますから……」 といつた。……私はまた木霊の峰へのぼつて空に舞ふ隼よりほかにうかがふものもない自然の殿堂のなかに歌ひもせずに半日をすごした。木だまも声をひそめて親しい歌ひづれの思ひをさまたげなかつた。  晩餐の食卓には純白の卓布がかけられて、ばあやは横に、姉様と私は向ひあひに坐つた。面はゆくも、嬉しくも、寂しくも、悲しくもある。 「さーどうぞ」  軽く頭をさげて 「お料理人がなれませんで……。お気にめしますかどうか」 とすこしはにかむやうに皿のうへに眼をそらせてほほゑんだ。そこにはお手づくりの豆腐がふるへてまつ白なはだに模様の藍がしみさうにみえる。姉様は柚子をおろしてくださる。浅い緑色の粉をほろほろとふりかけてとろけさうなのを と とつゆにひたすと濃い海老色がさつとかかる。それをそうつと舌にのせる。しづかな柚子の馨、きつい醤油の味、つめたく滑つこいはだざはりがする。それをころころと二三度ころがすうちにかすかな澱粉性の味をのこして溶けてしまふ。他の皿にはませこけた小鰺が尻尾をならべてはねかへつてゐる。ぜんごのあとが栗色に、背なかは青く、腹のはうはきらきらと光つてこの魚に特有の温い匂がする。よくしまつた肉をもつさりとむしつて汁にひたしてたべるとこつとりした味がでる。食器がさげられたあとに果物がでた。姉様は大きな梨のなかから甘さうなのをよりだして皮をむく。重たいのをすべらすまいと指の先に力をいれて笙の笛みたいに環をつくる。その長くそつた指のあいだに梨がくるくるとまはされ、白い手の甲をこえて黄色い皮が雲形にまきさがる。はたはたと雫がたれるのを姉様は 自分はあまり好かないから といつて皿にのせてくださる。それを切りへいで口へいれながら美しいさくらんぼが姉様の唇に軽くはさまれて小さな舌のうへにするりと転びこむのを眺めてゐる。貝のやうな形のいい腭がふくふくとうごく。  姉様はいつになく快活であつた。ばあやもしきりにはしやいだ。そしてひとの歯の数をあててみるなぞといひだし子供がよくするやうに姉様の背中に顔をかくしてながいこと考へてたが 「親しらずをのけて二十八本ありましよがなも」 といふ。 「二十八本は誰でもだ」 といへば 「なんでそんなことが、お釈迦様は四十何本たらあらつせたげなに」 といつていつかな承知しない。そのとき姉様の口もとが気もちよくあがつて美しい歯があらはれた。それからなにかのつづきで鳥の話がでたときにばあやは わつちの国の山には白鷺がうようよゐた。雁もきたし鴨もきた。鶴の群もたくさんきた。毎年きまつてまな鶴がひとつがひきたがそれがくると殿様に言上することになつてゐた。鸛の鳥は首をまはして鳴く。鎮守の森の大杉にかけたその巣は小枝を組んで籠のやうになつてゐた なんぞと調子にのつてそれからそれと話すのを それはいつのことか ときけば、わつちの子供のじぶんだ といふ。 「それぢやもうゐやしない」 といへば 「あのいにたんとをつたものあんた。それに毎年子を生みましよがな」 と頑強に主張する。美しい口もとがきりつとあがつて白い歯がみえた。  翌朝たたれるはずだつたのがなにかの都合で晩にのびた。夕がた湯からあがつたらばあやは使ひにでたらしく部屋が暗くなつてたので私は花壇へでようとした。そのとき離れの円窓から 「あかりをちよつと拝借いたしました」 といふ声がして姉様が盆に水蜜をのせて暇乞ひの挨拶に来られた。 「御機嫌よろしう。また京都のはうへおいでのこともございましたらどうぞ」  私は庭へおりて花壇の腰掛けに腰をおろし海のはうへ海のはうへとめぐつてゆく星を眺めてゐた。遠い浪の音と、虫の音と、天と……のほかなにもない。ばあやが俥をやとつてきた。姉様が支度のすんだ綺麗ななりであかりを返しに私の部屋へ小走りにゆかれるのがみえた。やがてばあやが荷物を運びだすあとから姉様は縁側を玄関のはうへととほりながら私のはうへ小腰をかがめて 「御機嫌よう」 といはれたのをなぜか私は聞えないふりをしてゐた。 「さやうなら御機嫌よう」  私は暗いところで黙つて頭をさげた。俥のひびきが遠ざかつて門のしまる音がした。私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた。私はなぜなんとかいはなかつたらう。どうしてひと言挨拶をしなかつたらう。私は肌のひえるまでも花壇に立ちつくして昨夜よりもいつそう不具になつた月が山のむかふからさしかかるころやうやく部屋へ帰つた。さうして力なく机に両方の肱をついて、頬のやうにほのかに赤らみ、腭のやうにふくらかにくびれた水蜜を手のひらにそうつとつつむやうに唇にあててその濃なはだをとほしてもれだす甘い匂をかぎながらまた新な涙を流した。 (大正二年初稿) 底本:「中勘助全集 第一巻」岩波書店    1989(平成元)年9月21日発行 底本の親本:「中勘助全集第一巻」角川書店    1960(昭和35)年12月5日刊 初出:前篇「東京朝日新聞」    1913(大正2)年4月8日~6月4日    後篇「東京朝日新聞」    1915(大正4)年4月17日~6月2日 ※初出時の表題は、前篇は「銀の匙」、後篇は「つむじまがり」です。 ※初出時の署名は「那迦」です。 入力:kompass 校正:岡村和彦 2017年4月13日作成 青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。