錢形平次捕物控 戀患ひ 野村胡堂 Guide 扉 本文 目 次 錢形平次捕物控 戀患ひ 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 一 「親分は、戀の病ひといふのをやつたことがありますか」  ガラツ八の八五郎は、たいして極りを惡がりもせずに、人樣にこんなことを訊く人間だつたのです。  素晴らしい秋日和、夏の行事は一とわたり濟んで、行樂好きの江戸つ子達は、後の月と、秋祭と、そして早手廻しに紅葉見物のことを考へてゐる時分のことでした。  相變らず椽側に腹ん這ひになつて、不精煙草の煙の行方を眺めてゐた平次は、膽をつぶして起き直りました。いかに親分子分の間柄でも、こんな途方もない問ひを浴びせられたことはありません。 「あるとも、風邪を引くと、ツイ咽喉を惡くするが──」  何んといふ平次のさり氣なさ── 「その聲ぢやありませんよ。戀患ひの戀で、小唄の文句にもあるぢやありませんか」 「馬鹿野郎ツ」 「へツ」 「耻を掻かせまいと思つて、よい加減にあしらつて置くのに、なんて言ひ草だ。俺は戀患ひをする柄か柄でないか、考へて見ろ」 「へエ、さうですかね、──あつしのやうな呑氣な人間でさへ、思ひ詰めると、鼻風邪を引いたくらゐの心持になるんだが」 「呆れた野郎だ。おまえのやうな人間でも、戀患ひ見てえなことをやるかえ」 「たんとはやりませんね、精々月に一度か二度」 「間が拔けて挨拶も出來やしない。月に三度も戀患ひが出來るかよ、馬鹿々々しい──見ろ、お靜は到頭たまらなくなつて、腹を抱へてお勝手口へ飛び出したぢやないか」  この掛け合ひの馬鹿々々しさは、まさに女房のお靜を井戸端まで退散させてしまつたのです。 「ところが、その戀の病ひで、死にかけてゐる人間が、あつしの知つてゐるだけでも、五人はあるんだからたいしたものでせう」  八五郎はおめず臆せず話を續けるのです。 「なるほど、世の中は廣いな」 「ね、驚くでせう」 「あとの四人は何處の誰だえ」 「四人ぢやない五人ですよ」 「そのうちの一人は八五郎だらう」 「冗談ぢやありませんよ、あつしなんかの相手になるものですか、高嶺の花で──」 「大層むづかしいことを知つてゐるんだな」 「これも小唄の文句で」  平次と八五郎の掛け合ひは、危ふく脱線しさうになりながらも、巧みに筋を通して行くのです。 「ところで、その死にかけてゐるのは誰と誰だ、人の命に拘はると聞いちや放つても置けまい」 「第一番は和泉屋の伜嘉三郎、──練塀小路の油屋で、名題の青瓢箪」 「第二番は?」 「無宿者、薊の三之助、これはちよいと好い男ですよ。何んだつて、あんな野郎がまた、尋常な眼鼻立を持つてゐるんでせう」 「無駄が多いな、第三番は?」 「五丁目の尺八の師匠竹童、四番目は御家人伊保木金十郎樣の伜で、まだ部屋住みの金太郎、──名前は強さうだが、女に惚れて病氣になるくらゐだから、人間は大なまくら」 「五人目は?」 「金澤町の地主、江島屋鹿右衞門の養子與茂吉」 「六人目がお前か、五人ぢや數が惡いな」 「六阿彌陀と間違へちやいけません」 「ところで、それだけの男を病みつかせる疫病神が何處にゐるんだ」 「疫病神ぢやありませんよ、江戸一番のピカピカする娘で、このまゝ放つて置いたら、講中がふえるばかりだから、戀患ひを束で數へることになりやしないかと心配してゐるくらゐのもので」 「言ふことが馬鹿々々しいな」 「その惚れられ手は、親分も聽いてゐるでせう、この半歳か一年の間にメキメキと綺麗になつた、金澤町の大地主、江島屋鹿右衞門の一人娘お艶」 「何んだ、──あのお艶坊か──俺はまた何處のお姫樣の話かと思つたよ」 「ね、親分だつて驚くでせう。あれは毛虫が蝶々に化けたやうなもので、──その蝶々だつて、並大抵の蝶々ぢやありませんよ」 「蝶々にも並出來と別誂へとあるのか」 「揚羽のお艶といふんだから、たいしたものでせう」  などと、八五郎の話は他愛もありません。 二 「ところで、その亡者どもが、どんな騷ぎをやつたと思ひます、親分」  八五郎の話は第二段に入りました。 「俺は知るものか、戀の病ひと血の道は、患つた覺えはないよ」 「錢形の親分が暗いのはその道ばかり──世間ではさう言つてゐますよ」 「餘計な心配だ」 「何しろ金澤町の居廻りは、薄寒いのに夕凉みの人通りで大變な賑ひだ」 「それは何んの禁呪だ」 「何んかの彈みで、揚羽のお艶が、門口へ顏を出さないものでもあるまいといふ、心細い望みなんださうで」 「厄介だな」 「町内の湯屋は大變で、お艶が來る日を心得てゐて、その日の男湯は芋を洗ふほどの騷ぎで、それに羽目も壁も穴だらけにされて、櫻湯の親爺は大こぼしですよ」 「──」  平次は默り込んでしまひました。 「それから江島屋の通りは、宵から夜中へかけて、のど自慢が押すな〳〵ですよ。歌ふの吹くの──」  優にやさしき騎士達は、行列を作つて夜もすがら、セレナーデを歌ひ奏で續けて、お艶の一顧を得ようとするのでせう。 「──」 「時々は喧嘩が始まつて、怪我をする者もある騷ぎで──訊いて見ると、お艶さんに二度振り返つて見られた野郎が、三度振り返られた果報者を毆つたんださうで」 「もう澤山だ、八。俺はもう胸が惡くなつたよ」  平次はやけに煙管を叩いて、胸などをさすつて見せるのでした。 「もう少し聽いて下さいよ、親分。これからが面白いんで」 「勝手にしやがれ」 「その揚羽のお艶が、今度一枚繪になつて賣出されたんだから、たいしたものでせう」 「素人娘が一枚繪にね」  平次の顏は酢つぱくなるばかりです。『美人崇拜』は昔も今も變りはなく、名ある美人が一枚繪になつて賣出される例は、隨分古くから行はれたことですが、それは殆んど悉く遊女とか茶汲女とか、精々お師匠さんくらゐが止りで、素人の娘が一枚繪になつて、繪草紙屋の店頭にブラ下がるといふことは、先づ前例のないことです。 「素人娘の一枚繪でも、賣れ行きはたいしたもので、吉原の名ある太夫の一枚繪にも負けないだらうといふ噂で」 「誰がそれを買ふんだ」 「岡惚れ筋は皆んな一枚づつ買ひますよ。戀患ひの口は、一人で十枚二十枚と引受けるから、それだけでも大變で」 「お前は?」 「へツ、へツ、一枚買ひましたよ」  八五郎はニヤリニヤリと小鬢のあたりを掻くのです。 「持つてゐるのか」 「持つて來ようと思ひましたがね、枕皺がひどいから止しましたよ」 「正直でいゝな、お前は。毎日その一枚繪を抱いて寢るのか」 「抱いてなんか寢やしません、枕の下へ敷いて寢るんで」 「まるで寳船だ」 「あまり結構な夢も見ませんね」 「當り前だ」  話は際限もなく馬鹿々々しい調子になります。が、この市井の一些事らしい『揚羽のお艶』の噂が、飛んだ凄まじい事件に發展しやうとは、錢形平次も思ひ及ばぬことだつたに違ひありません。 三  八五郎の『大變』が、つむじを起して舞ひ込んだのは、それから十日くらゐ經つてからでした。 「さア、大變、親分」  井戸端で顏を洗つてゐる平次は、猿屋の房揚枝を井戸側の割れ目に突つ立てて、靜かに振り返りました。 「惡い陽氣だ──今時分から、お前の『大變』が降るやうぢや」 「霙と間違へちやいけません──兎も角、直ぐ行つて下さいよ、親分」 「何處へ行くんだ、俺はまだ顏も洗つちやゐないぜ──袖を引張つたつて、無理だよ八」 「でも、今直ぐ行けば、揚羽のお艶の顏が拜めて禮のひと言くらゐは言はせますよ」 「止さないか、馬鹿々々しい。俺は今朝滅法寢起きが惡いんだ」  無駄を言ひながらも、平次は手早く顏を洗つて、さてと向き直ります。 「本當に大變なんですよ、親分」 「あわてた野郎だ──揚羽のお艶がどうしたんだ、俺は腹を拵へねえうちは、お大名に取立てると言つても、出かけねえことにしてあるんだ」 「殺しですよ、親分。江島屋鹿右衞門の塀の上で、薊の三之助が忍び返しに引つ掛つたまゝ、百舌の贄のやうになつて死んでゐるんだ。こいつは江戸開府以來の變つた殺しぢやありませんか」 「江戸開府以來の殺しは大袈裟だが──兎も角、行つて見ようか」  さすがに平次でした。そのまゝ朝飯も忘れて、手早く出かける支度に取りかゝるのです。 「親分、腹拵へは?」 「もういゝよ」 「お大名に取立てられても、──と言つたぢやありませんか」 「お大名に取立てられても動かねえつもりだが、仕事は別だ」 「て、へツ、有難てえな親分」  八五郎は額を叩いて、ペロリと長い舌を出すのです。自分もまだ朝の餌にもありつかない癖に、さう言つた親分の心意氣が嬉しくてたまらない八五郎です。  金澤町まではほんの一と走り。 「あ、これは大變な騷ぎぢやないか」  江島屋の裏、狹い路地を埋める彌次馬の群れに、平次は先づ膽をつぶしました。 「親分に見せるまで、放つて置くやうに、やかましく言つて置きましたよ」  八五郎は心得たことを言ひます。  彌次馬の群をかきわけて、江島屋の裏口近くまで行くと、平次がもう一度驚いたほどの、それは不思議な殺しでした。 「成程こいつは、江戸開府以來だ」  金澤町は言ふまでもなく、神田から下谷へかけて、五本の指に折られた大地主、江島屋の構へは町人にしては贅に過ぎるほどで、四方にめぐらした板塀の嚴重さ、その上に植ゑた忍び返しは、天に向つて振り立てた、無氣味な武器にも似て、僭上の限りです。  その裏口の切戸近く、鑓のやうに突つ立つた忍び返しの上に、若くて丈夫さうな男が一人、手拭の頬冠り、縞物の澁い袷を着たのが、殆んど逆さ大の字になつた形に、胸から腰のあたりを引つかけて死んでゐるではありませんか。  八五郎がこれを『百舌の贄』と言つたのは、適切過ぎるほど適切な譬へでした。大の人間が一人、こんな恰好になつて死ぬためには、天狗の惡戯か、雲を踏み外した仙人か──そんな途方もないことでも考へなければなりません。 「八、手を貸せ──いや、二人ぢやむづかしいだらう。梯子を二三梃、四人くらゐの人手が要るが」 「待つて下さい親分」  八五郎はその用意に何處かへ飛んで行きました。  その間に平次は、江島屋の庭からかけた九つ梯子を登つて、死骸の側まで行くと、下から、上から、横から、念入りに調べ始めたことは言ふまでもありません。  薊の三之助といふのは、二十五、六のやくざ者によくある型の、ちよいと好い男でした。華奢で、筋肉質で、きかん氣で、喧嘩強さうで──そのくせ、顏一面に漲る恐怖は、死面一杯に青隈になつてコビリついて、物馴れた平次も、その不氣味さに身を顫はせた程です。  忍び返しの一本は、三之助の帶に引つ掛り、次の一本は背中から胸の一部をかすり、袷を破つて前へ突き拔けてをりますが、忍び返しで受けた傷は、ほんのかすり傷で、人の命を奪る程のものでなく、三之助を忍び返しに留めて置いて、その命を奪つたのは、背後から深々とゑぐつた左胸元の傷、──心の臟を破つた一と突きでなければなりません。 四  やがて八五郎が集めて來た三梃の梯子と四人の人手で忍び返しの上の三之助の死骸は江島屋の庭に降されました。江島屋の主人鹿右衞門は、この死骸を塀の内に降ろすのを、ひどく嫌がりましたが、路地を埋める彌次馬の好奇の眼を避けるためには、これより外に工夫はなかつたのです。 「困つたことで、錢形の親分」  などと、この五十年配の、氣の弱さうな中老人は、積極的にそれを斷わる力もなく獨り言のやうに愚痴を言つてをります。  手傳つてくれたのは、養子の與茂吉と、下男の幹助の二人、一人は二十一二の青白い若旦那型で、一人は赤黒い三十男。一人は辯舌の達者な、感じの滑らかな人間で、一人は無口で丈夫さうで、眼鼻立までがつちりした男、面白い對照です。  その騷ぎの中に、見廻り同心、折村小右衞門が、檢屍に立ち會ひましたが、錢形平次の顏を見ると、 「拙者は外にも用事がある。萬事よきやうに」  と、平次と町役人に任せて引揚げてしまひました。  平次はその寄託はなくとも、事件の異樣な形相に興味を持つたらしく、恐ろしい熱心さで調べ始めます。  死骸の懷中には、腹卷に突つ込んで、匕首が一と口、肌守りと煙草入と、その煙草入の中に、小粒が三つ四つ、外には持ち物もなく、素より誰がこんな恐ろしいことをやつたのか、手掛りらしいものは一つもありません。  塀と母屋の間は僅かに一間半ほど、庇の端から塀の上へは六尺ほどしか離れてゐません。下は滑らかに苔蒸して、足跡もよくは見えず、三之助の死骸の引つ掛つてゐる忍び返しと相對するのは、二階の窓の格子で、その中が娘のお艶の部屋になつてゐるのは、何にかの暗示がありさうです。 「親分、あの庇に登つてゐるところを突き飛ばすと、一寸忍び返しの上に落ちはしませんか」  八五郎は早くも、この江戸開府以來の變な死から『可能』を嗅ぎ出さうとしてをります。 「庇の上に足跡があるかないか、あの窓の格子が外せるかどうか、──それを見窮めなきや、きめてかゝるわけに行かないよ」  平次は直ぐにはその假定に乘りません。 「親分」 「何んだ、八」 「あれを、──後ろですよ」  八五郎に横つ腹を小突かれて、平次は何心なく後ろの方──母屋の椽側を振り返りました。  ハツと、平次も息を呑んだほどの素晴らしさ、柱に凭れて、不安さうに此方を見てゐるのは、幼な顏には見覺えのある、それは江島屋の一人娘、成熟しきつたお艶の姿に紛れもありません。  娘が年頃になるとかうも綺麗になるものか──平次が、眼を見張つたのも無理もないことです。十年前まで、それは、眼ばかり大きくて、青黒く薄汚れた、唯の小娘だつた筈です。何時の間にそれが脱皮して毛虫から揚羽の蝶になつたか、想像を絶した造化の奇蹟といふ外はないのです。  薄桃色の羽二重に、銀粉をまぶしたやうな皮膚や、端正な眼鼻立、わけても少し大きい眼や、ポツチリ咲いたやうな唇の魅力など、一つ〳〵の美しさは算へ立てても際限がありませんが、何より、躰内に灯された處女の生命が、一顰、一笑、一擧手、一投足に、恐ろしいばかりの光明になつて、その五體から發散するのです。 『美人禮讃』では、決して人後に落ちない江戸つ子達が、急に騷ぎ出したのも無理のないことでした。五人、六人と若い男を束にして、戀患ひさせたといふ、八五郎の報告も決して嘘ではなかつたでせう。 「お孃さんですかえ」  平次はかう訊いて見たい衝動をどうすることも出來なかつたのです。並外れた美しいものに對する、平次の好奇心の、さゝやかな現はれだつたかも知れません。 「──」  娘は默つてうなづきました。 「昨夜何にか氣のついたことはありませんか、人の聲とか、物音とか」 「いえ、少しも」  娘は自衞的に表情を引緊めました。かう答へる聲は、顏にも姿にも似ぬ、少し錆のある女聲最低音、平次は妙な幻滅をさへ感じました。 「殺された三之助を、お孃さんは知つてゐることでせうな」 「よく知つてをります。でも」  お艶は言ひ難さうに、可愛らしい顎を襟に埋めました。 「でも?」 「あの人は怖かつたんですもの」  お艶が答へるのは、それが精一杯でした。平次が次の問ひを用意する前に、娘の姿はスルスルと、障子の蔭へ隱れたのは、せんすべもないことでした。 「あの通り、年は十九でも、まだほんの子供で」  振り返ると主人の鹿右衞門は、揉み手をしながら、娘のために辯じてゐるのです。 五 「心當りはありませんかえ、江島屋さん」  平次はこの父親から先づ手繰る外はありませんでした。 「心當りと申しますと」 「薊の三之助は、うるさくお孃さんに附き纒つてゐたといふことだが──」 「それはもう、困つたことでございました。物を言つてわかる人間ではありませんし、こればかりは金づくで追つ拂ふわけにも行かず、私も娘も、閉口いたしてをりました」  鹿右衞門はツクヅク言ふのです。 「ところで、お孃さんへ絡みつくのは、二人や三人ではなかつたといふことだが、三之助と張り合つて、一番うるさくしたのは、誰で?」 「さア、誰と申して」  一向に要領を得させません。五十年配の苦勞人らしい遠慮でせう。 「ところで、江島屋の跡取りはどうなるんです」 「與茂吉と申す養子でございます」  それははつきりしてをりました。 「いづれお孃さんと祝言させることでせうな」 「さう言ふことになると思ひますが、何分娘が厄で」  女の十九の厄年が、どんな重大なものか、徳川時代の空氣に觸れて見なければ、これは呑込めないほどの意味を持つのです。 「早く祝言させて、世間へも披露したら、こんな騷ぎが起らずに濟んだらう」 「さうでせうか」  娘の美色は、セレナーデを奏する塀外の騎士達ばかりでなく、肉親の親までも白痴にしてゐる樣子でした。  平次はこの愚かしき親を見放して八五郎に手傳つて、何彼と世話を燒いてゐる、養子の與茂吉を相手にして見る氣になりました。 「飛んだお世話で──」  などと、この華奢な息子型の男は、平次を迎へました。 「お前さんも、昨夜何んにも聽かなかつた方の口かな」  平次は諦めた調子です。 「いえ、子刻(十二時)過ぎでしたか、妙な音を聽いたやうに思ひます」 「妙な音?」 「何處かで人間の悲鳴を聽いたやうに思ひます。それから、どたりといふ恐ろしい音と」 「待つてくれ、人間の悲鳴の方が先だつたのかな、確かに」 「間違ひございません、──私はよつぽと起きて見ようかと思ひましたが、若い者の喧嘩は毎々のことですし、つい、そのまゝねてしまひました」 「お孃さんは、大變な評判のやうだが、お前はそれをどう思つてゐなさる?」 「さア、どう思つたところで、致し方もございません」  與茂吉は諦めきつた姿でした。さうかと言つて、この家から飛び出しもならず、怪しい蜘蛛の糸に操られて、お預けを喰ひながら、ヂツとして折を待つてゐるのでせう。 「今朝、忍び返しの上の死骸を見つけたのは?」  平次は話題を變へました。 「下女のお六でございました。大きな聲を出したので、あつしが飛んで出ると」  それは側にゐた下男の幹助の説明です。赤黒くて武骨ですが、話の筋も通り、物の役にも立ちさうな男です。 「お前はこの家へ長く奉公してゐるのか」 「三年になります」 「昨夜は?」 「私は何んにも聽きません。尤も私の寢てゐるのは家の向う側で」  そんな話をしてゐるところへ、八五郎は飛んで來ました。 「親分、あの庇から窓のあたり、梯子を掛けて念入りに見て來ましたが──」 「何にか變つたことがあるかえ」 「庇の上は苔もそつくりしてゐるし、人間の歩いた樣子もありません。朽つた板屋根だから、忍び込んで曲者を突き飛ばせば、足跡くらゐは殘りますよ」 「それから?」 「格子窓は恐ろしく頑丈な釘づけで近頃外した樣子もありません」 「よし〳〵、さうわかると、調べが樂だ。ところで、お前はお勝手から下女のお六といふのを呼んで來てくれ」 「あの女は大變ですよ、親分」 「何が大變なんだ」 「慾の深い四十女で、お孃さんへ手紙を頼むと、駄賃に三百文から一朱二朱まで取るさうで、相手の懷中を讀んで相場を拵へるから、色文の取次を頼みながらも、皆んな腹を立ててゐますよ」  八五郎までが腹を立てるところを見ると、これも何百か只で取られた講中の一人かもわかりません。 「それで、お孃さんから返事は來るのか」 「滅多に手答へがないんださうで、──尤も返事を貰つてくれたら、一分くらゐは奮んでもいゝといふのもありますがね」  これも八五郎自身の經驗かもわからないのです。  が、江島屋の娘をめぐる、これが最初の事件で、戀患ひの一味にはこれをきつかけに、思ひも寄らぬ變事が、次から次へと起るのでした。 六  金澤町江島屋の忍び返しに、百舌の贅のやうに引つ掛つて死んだ薊の三之助の下手人は、それつきりわからず、四日五日と苛立たしい日は續きました。  尤も平次は外に手の離せない南町奉行所直々の御指圖の仕事があつて、金澤町はツイ、八五郎任せになつてしまつたせゐもあつたでせう。 「親分、何んとかして下さいよ。あつしぢや何うにも眼鼻がつきませんよ」  八五郎が音をあげて來たのは、それから丁度五日目。 「意氣地のねえ野郎だ、──人間が空を飛んで、忍び返しに引つ掛るわけはねえ。それに江島屋には、揚羽のお艶といふ、若い男をフラフラにさせる、結構な餌がゐるんだ。戀患ひの講中を、片つ端から洗つて見るが宜い」  平次は、せめてこれだけでも八五郎の手柄にしてやりたいと思つたのか、ツイかう言つた激しい言葉を浴びせるのでした。 「洗ひましたよ、一人々々灰洗ひにして、蔭干しにしてゐると、いつもの三輪の萬七親分が飛んで來て、手一杯に掻き廻した上、五丁目の尺八の師匠、竹童とかいふ鼻の下の長げえのを縛つて行きました」 「その男に怪しい素振りでもあつたのか」 「尺八吹きのくせに大男で力も並々ぢやないから、三之助を手玉に取つて、忍び返しの上へ投げ上げるのは、戀患ひの講中では、竹童の外にないといふのですよ」 「成程ね」 「その上、あの晩は尺八のけえがあつて、夜半過ぎに自分の家へ歸つてゐますよ──松永町から五丁目への歸り途、金澤町へ廻つて江島屋を覗くと、先客の三之助が、變な素振りで江島屋の裏手の忍び返しを乘越さうとしてゐるから、いきなり脇差か何んかで突き上げて殺したに違げえねえ──と」 「待つてくれよ、八。忍び返しを乘越すところを突き上げたといふなら、たいした力が要らないわけぢやないか」 「そこがそれ、三輪の親分の考へで──」 「それは、それとして、三之助を突き上げた刄物はどうしたんだ」 「どつかの溝へでも投り込んだことでせうよ。神田川だつて、そんなに遠くなし」 「忍び返しの上にゐる人間を突くのはむづかしいぜ。それに、うんと返り血を浴びるわけだが、竹童の家を搜して見たことだらうな」 「年寄の雇婆さんと二人暮しですが、血のついたものなんかありやしませんよ。いづれあれから三日も四日も經つてゐることだから、自分で始末したことでせう」 「兎も角、腑に落ちないことだらけだ。あれから四五日もお前はヂツとして、三輪の親分のすることを、見てゐたわけぢやあるめえ、調べただけを、皆んなブチまけて見な」 「隨分骨を折りましたよ、五日の間といふもの、夜の眼も寢ずに──」 「嘘を吐きやがれ」 「夜は思ふ存分寢ましたが、陽のあるうちは隨分働いたつもりで──」 「第一番にどんなことに氣がついたんだ」 「江島屋の娘──お艶といふ女は、見れば見るほど綺麗だといふことですよ」 「それつきりか」 「その綺麗なのが抑々間違ひの因で」 「そも〳〵と來やがつた、近頃はどうも、お前の話を聽いてゐると、學が邪魔をしてならねえ」 「でもね、親分。あんな良い美女の娘は、ザラにある代物ぢやありませんよ」 「美女の娘は嬉しいな、そいつも學のせゐだらう」 「色白──と言つたつて、あんな底光りのする色白は滅多にありませんよ。白羽二重に紅絹を包んで銀の粉をまぶしたやうな色だ、眉がボーツと霞んで、眼が大きくて、妙に素氣ない癖に情愛を含んで、口もとの可愛らしさといふものは──」 「もう澤山だよ──その次は、鼻の穴が二つあつて、耳が間違ひもなく二つで──と來るだらう」 「あつしはもう、親分の見立てぢやないが、いよ〳〵六人目の戀患ひに取つかれたかと思ひましたよ。あの娘を見ると、胸がドキドキして、眼がクラついて、無暗に腹が減つて──」 「まさか喰ひつきやしまいな」 「兎も角も、あんな女は眼の毒ですね。御奉行樣にでもお願ひして、江戸構か遠島にでもして貰はなきや、神田中の若い男は氣が變になりますよ」 「五日の間に搜つたのは、それつきりか」 「へエ、それつきりで」 「馬鹿野郎、夜の眼も寢ずに、お艶の後ばかり追ひ廻してゐたんだらう」  平次は怒る張り合ひもありません。恐らく江戸一番のフエミニスト八五郎は、役得の氣で江島屋に乘込み、朝から晩まで娘お艶の人相ばかり調べてゐたことでせう。 「それぢや親分、どんなことをやりやよいんで」 「暫らくの間、お艶と顏を合せたら、眼をつぶるんだよ、唾ぐらゐ吐いてもよい、──お前の顏を見ると、胸が惡くなる──と言つた顏をして、せつせと外のことを調べるんだ」 「外を?」 「戀患ひの講中がまだ四人殘つてゐるだらう、その身許から、平常の暮し、近所の評判、あの晩の動き、身だしなみ、力があるか弱いか」 「へエ」 「それから江島屋の内輪の樣子、暮し向き、養子の與茂吉の里方、下男の幹助と下女のお六の身許から請人、日頃の心掛、お艶の親達の樣子、世上の噂──」 「──」 「それくらゐのことがわからないお前ではあるめえ、今後お艶の顏ばかり見て、デレリとして歸つて來ると、笹野樣にお願ひして、島送りの役人につけて、八丈島へやるから、さう思へ」 「やりますよ、やりますとも。それくらゐのことなら、わけはありませんよ」  八五郎はまことに這々の體でした。 七 「親分、今日は」  その翌る日でした。八五郎はひどく上機嫌で、泳ぐやうに狹い路地を、平次の住居の格子に辿り着くのでした。 「どうだ、島送りの役人について行く氣になつたか」 「冗談で、──三宅島や八丈島に、好い新造がゐるとわかれば別ですが」 「あんな野郎だ、呆れて物が言へねえ」 「ところで、親分に言ひつけられたのを、一と通り調べて來ましたよ。尤も、合間々々に江島屋へ行つて、あの娘にも逢ひましたがね」 「又、デレデレと顏ばかり見てゐたらう」 「ところが、今度は、親分に教はつた通り、首から上は見ないことにしましたよ、物を言ふんでもソツポを向いてね、──お前の面なんざ見たくも何んともない──てな顏をして」 「そんなことが出來たのか」 「胸が惡くて叶はないといふことにして、江島屋の庭を唾だらけにして」 「汚いな」 「すると、効驗あらたかでしたよ。今まであつしなんかには、鼻も引つかけないやうな、素氣ない顏をしてゐたあの娘が、急にチヤホヤして、──お茶が入つたからちよいと入らつしやい──とか、──良いお菓子がある──とか、いろ〳〵のことを言つて、あつしを自分の部屋に誘ひ、結構なお茶やお菓子を御馳走した上、この節は物騷で叶はないから、戸締りを見てくれとか、格子の具合を調べてくれとか、いやもう、大變な持てやうでしたよ」 「で?」 「きりやう自慢の女に逢つたら、その顏を見てやらないに限ると思ひましたよ。時々つまらなさうな顏をしたり、胸が惡さうにして唾を吐くのは、なか〳〵きゝ目がありますね」 「で、何にか氣のついたことがあるのか」 「ありますよ、──あの娘の顏ばかり見てゐちや氣がつきませんが、──あの手の美しいといふことは」 「──」 「細くてしなやかで、指が一本々々笑くぼが寄つて、爪が櫻貝のやうだ」 「馬鹿野郎、──水仕事一つしないやうな、怠け者の手なんか見て感服したつて、何んの足しになるんだ」 「でも、若い娘の手が、あんなのは惡くありませんね。尤も、左の手に少し怪我をしてゐるやうで、手の甲から手首にかけて、膏藥を貼つてゐましたが」 「お前の調べは、相變らず、あの娘のことばかりぢやないか。三輪の親分に鼻を明かされるのも無理はないぜ」 「まだ澤山調べて來ましたよ」 「詳しく話して見な」 「戀患ひの第一番、練塀小路の油屋、和泉屋の伜嘉三郎は思ひ焦れて、枕もあがらないと言はれてゐますが、骨と皮ばかりになつてゐても、夜中に一度は外へ出て、フラフラと金澤町まで歩いて行き、江島屋の塀の外から、お艶の部屋のあたりを見上げて、大きな溜息を三つばかりして、又トボトボと歸るさうですよ」  八五郎の話は奇つ怪でした。 「家の者がそんな話をするのか」 「飛んでもない、家の者は伜は大病だからと言ひ張つて、あつしにも逢はせやしません。そのフラフラのトボトボは、近所の衆の噂ですよ、──お隣りの若い者が、宵から見張つてゐて、練塀町から金澤町まで跟けて行き、一伍一什を見屆けたといふから、こいつは嘘ぢやないでせう」 「恐ろしく達者ぢやないか、それで晝は人に逢へないほどの大病だといふのか」 「あつしも不思議でならねえから、いろ〳〵訊いて見ると、枕のあがらぬ大病も本當なら、時々夜中に脱け出すのも本當ださうですよ、いやになるぢやありませんか。尤も横町の奎齋先生に訊くと、──戀患ひや貧の病ひなんてのは、病氣ぢやないさうですね。その證據は、戀ひ焦れてゐる相手に添はせてやると、厚紙を引つぺがすやうに治るんだつて、隨分勝手な話ぢやありませんか。あつしも話の種に一度くらゐは戀患ひてえのをやつて見ようと思ふが、いけませんね。どんなにあの娘のことを思ひ詰めても、時分時になると、意地が惡く腹が減つて、我慢にも寢ちやゐられませんよ」  などと、八五郎の脱線振りは際限もありません。 「無駄はよい加減にして、お前の調べはそれつきりか」 「まだありますよ。尺八吹きの竹童は三輪の親分に縛られましたが、あの男はお月樣の良い晩なんか、江島屋の裏へ行つて尺八を吹くんださうですよ、──戀慕流し──つて言ふんですつてね、手數のかゝつた野郎で、尺八で思ひのたけなんか吹いたつて、相手に通じるわけはありませんよ。面と向つて、手つ取り早く惚れたら惚れたと──」 「お前の話を聽いてゐると日が暮れるよ、もう少し先を急げ」 「御家人の伊保木金十郎樣の伜金太郎、こいつは名前が馬鹿に強さうな癖に、本人は青瓢箪の大腰拔けの、柔弱野郎で──この柔弱野郎──てえのは、あつしの學で考へた名前ぢやありませんよ、親父の金十郎樣が、伜の顏を見ると、時も所も構はず、『この柔弱野郎』ときめつけるんださうで、御近所ぢや伊保木樣とも、金太郎樣とも言やしません、頭から柔弱野郎樣で通つてゐるから面白いぢやありませんか」 「面白かないよ、それがどうしたんだ」 「癆症だか戀患ひだか知らないが、青くてヒヨロヒヨロしてゐるくせに、どう渡りをつけたか、江島屋の下女のお六を手に入れ、毎日一本づつ、一年も續けて戀文を取次がせるんださうですよ。お六に取つては一番の大檀那で、取込んだ金は三兩や五兩ぢやあるまいといふ評判ですよ」 「──」 「その上、返事を書かせれば二朱、お艶の身についた物を、そつと持つて來てくれると一分、──鼻紙の濡れたのが一分になるんだから、たいした商法ぢやありませんか」 「それから?」 「江島屋の養子の與茂吉は、いづれお艶と一緒になる約束でせうが、この騷ぎを見せつけられて氣が揉めない筈はありません。それにお艶と同じ屋根の下で暮してゐるだけに、このお預けは骨身にこたへますよ。薄つぺらで、男のくせにおしやべりで、ちよいと好い男でもありますが、近頃は少し氣が變になつてゐるんぢやないか──と、これは下女のお六の見立てですがね」 「何にか變なことでもあるのか」 「許嫁の娘にこき使はれて、色文の使ひまでさせられるんだから、正氣の沙汰ぢやありませんね、──尤も親兄弟もなく、身寄りもなくて、江島屋に引取られて育つた人間だと言ふから、腹を立てて飛び出したところで、行く當てもないことでせう、──これがあつしなら、お艶をさらつて山の中へでも逃げ込み、思ふ存分苦勞をさしてやるが」 「物騷なことを考へる奴だな、お前は」 「大丈夫ですよ、あつしには許嫁も何んにもありやしません」 「それつきりだつたな」 「もう一人、江島屋の下男の幹助、あれは好い男ですね。色が赤黒くて、恐ろしく達者で、秩父山中から生捕つて來た熊の子見てえな野郎ですが、無口で無愛想で、お孃さんのお艶に白い齒も見せないのは、あの男ばかりですよ」 「性分だらう」 「そのくせ、あつしなんかには當りがよくて、最初から馬が合ひましたよ。何んだつてそんなにお孃さんに素氣なくするのかと訊くと、女の高慢なのと坊主の腰の低いのは大嫌ひだつて言やがる」 「それぢや、お孃さんを綺麗だとは思はないかと訊くと、──梨でも桃でも、虫がつくと不思議に綺麗になる──つて言やがる、皮肉な野郎ですね」 「生れは?」 「あんなのは間違ひもなく信濃者ですよ」 「下女のお六は」 「相模女で、あんなに慾の皮の突つ張つたのは、場違ひですね、あの女は三十兩は溜めてゐるに違げえねえといふ評判ですよ」 「外には?」 「主人の鹿右衞門は、上へ馬といふ字のつく方」 「何んだえそれは?」 「馬鹿右衞門とね、内儀のお淺はちよつと好い大年増で、氣性者で、利巧で、少し扱ひにくい方でせうな」 「ところで、そのうち、誰が一體三之助殺しの下手人だと思ふ」  平次は八五郎に訊くのではなくて、以上の報告から自分の結論を引出さうとしてゐる樣子です。 八  八五郎の『大變』が舞ひ込んだのは、それから又三日も經つてからでした。 「サア、親分、御輿を上げて下さいよ。今度こそ本當の大變、──古渡りの大變ツ」  髷節で拍子を取つて、格子の外から怒鳴り込むのです。 「何がどうしたてんだ、相變らず騷々しい野郎だ」  南町御奉行指圖の仕事も一段落になつて伸々と煙草にしてゐるところへ、八五郎が新しい種を持つて來たのでした。 「二本差が自分の刀を、尻から胴中まで突き立てられて死んでゐるんだ。まるで燒鳥ですぜ、親分」 「何? 自分の刀を尻から、──何處でそんなことがあつたんだ」 「金澤町の江島屋──この間薊の三之助が殺された場所、今度は塀の下の、犬潜りの穴に首を突つ込んだ伊保木金太郎がやられましたよ」 「成程そいつは厄介だ、行つて見よう」  平次はかうして二度目の出動になりました。やくざの三之助が、忍び返しに引つ掛つて死んだのと、侍の子の金太郎が、塀の下で刺されて死んだのと、たいした違ひのあるわけはないのですが、武家の子が野良犬のやうに殺されたとなると、その頃の世界では、實際上の影響が小さくはなかつたのです。  江島屋の裏路地は、相變らずの彌次馬の人波で一杯、こいつは蠅と同樣、追つても怒鳴つても、たいしたきゝ目にありません。  金太郎の死骸は、この前の三之助と同樣、江島屋の主人の嫌がるのも關はず、一應江島屋の裏手の椽側に取込んで、佐久間町の伊保木家から、引取りに來るのを待つてをります。 「錢形の親分、又困つたことになりました」  江島屋の主人鹿右衞門は泣き出したいやうな顏で平次を迎へました。椽側に取込んだ伊保木金太郎の死骸は、町役人が二人、迷惑さうに番人をしてをります。 「伊保木樣へは知らせてやつたことでせうな」  平次は町役人へ話しかけました。 「もう四半刻も前に人をやつたが、何んとも返事がありません。跡取りがこんな死樣をしたことが世上の噂に上ると、家名に拘はるとでも思つてゐるんだらう」  町役人の一人は、いかにも苦々しいと言つた調子です。家名を救ふためには、伜の一人くらゐを犧牲にしても、たいした不都合とも思はないのが、その頃の武家の慣はしだつたのです。 「でも、知らぬ存ぜぬでは濟むまいよ。これが佐久間町の伊保木樣の跡取りといふことは、路地へ入つた來た、何百といふ彌次馬が皆んな知つてゐるから」  もう一人の町役人は口を尖らせます。  平次は筵をあげて、一應死骸を見ましたが、あまりの虐たらしさに、ハツと眼を閉ぢたのも無理はありません。  伊保木金太郎は二十一二、まだ蔓草のやうな匂ひのする青侍でした。色白の華奢の方で、身體も手足も細く、薄肉で眼鼻の無暗に大きいところや、顎のあたりが歪んでゐる樣子は、肉體的にも性格的にも、畸型な感じを抱かせるに充分です。  身扮は案外地味で、眼立たぬ紬の小袖、木綿の黒つぽい袴、忍ぶ身にはふさはしい身扮でせう。それが下半身夥しい血潮に濡れて、病的な顏にコビリ着いた、恐怖と苦惱の表情は、無氣味といふ一語に盡きました。  兩刀は鞘に納めたまゝ、死骸の側にありますが、 「長い方でやられたんですよ。一應拭いて鞘に納めてはあるが──」  町役人の説明です。 「いかに華奢な身體でも、兩刀を腰に差してゐちや、あの犬潜りの穴は脱けられない、──そこで、腰の兩刀を鞘ごと拔いて穴の傍に置き、穴の中へ身體が半分潜つて、途中でつかへて前へも後ろへも行かなくなり、聲を立てることもならずに、藻掻いてゐるところを、後から跟けて來た曲者が、塀の下に置いてある刀を拜借して、力任せに尻から突つ立てた──といふことになりませう」  もう一人の町役人、金澤町の家主で、外神田では顏の通つた大川屋五郎兵衞といふ中老人が、見てゐたやうに説明するのです。 「持ち物は?」 「印籠一つ、紙入一つ、──その紙入の中に、鼻紙に挾んで、これがありましたよ」  五郎兵衞は、懷中から取出して、平次に見せます。手紙一枚を結び文にしたもので、 こんや、うらぐちの、犬くぐりからおいでをまちあげます──  とたつたこれだけ、恐ろしく拙い字で書いてあるではありませんか。 「この手蹟は?」 「──」  平次は四方を眺めました。二人の町役人の外に、主人鹿右衞門、養子與茂吉などがをりますが、誰も應へる者はありません。 「御主人、この手に見覺えは?」 「一向見たこともない字で」 「お孃さんの手に似ちやゐませんか」 「飛んでもない、お艶さんは字が上手で、町内の手習師匠の折紙つきですよ」  養子の與茂吉は憤然として答へました。 九 「お孃さん、この手紙に覺えはありませんか」  平次の調子は穩かですが、言葉には妥協を許さぬはげしさがありました。  伊保木家から死骸を引取りに來る樣子もなく、暫らくの事件の空白を利用して、平次は急所急所に釘を打ち込む氣だつたのです。  主人に頼んで、問題の娘お艶を呼出してもらつたのは、お勝手に近い裏の四疊半、多分それは、下女のお六の部屋でせう。 「いえ、少しも」  お艶は肩を竦めて、自分の袖を爪さぐつてをります。少し伏目に八五郎を讃歎させた白い額を見せて、柔かい公卿眉と、美しい鼻筋、ほのかな唇の紅が、幾人かに戀患ひさせた魅力でせう。 「でも、見當くらゐはつくだらうと思ふが」 「──」 「お孃さんの手紙と思ひ込まなきや、二本差の立派な若侍が、犬潜りから這ひ込むやうな、恥曝しなことはしなかつたでせう」  平次は伜の手紙を疊の上に置いて、なほも詰め寄るのでした。 「でも、私、何んにも知つてはゐません」  お艶は追ひ詰められた兎のやうに、部屋の隅に少さくなつて、怨めしさうに平次を振り仰ぐのです。 「薊の三之助がどうして死んだか、──伊保木金太郎樣が、こんなことをしなきやならない、突き詰めた心持になつたわけも、お孃さんは知らないといふのだね」 「私は、私は何んにも知らないんです。皆んなは、どうして、あんなに騷ぐのか──」  お艶は到頭泣き出してしまひました。長い睫毛に傳はる涙が、大粒の眞珠のやう、柔かい頬から、赤い鹿の子の襟へ──。  それは言ひやうもなくいぢらしい姿でしたが、平次は日頃にもなく執拗に、この泣き濡れる娘から、何にか引出さうとしてゐるのでした。 「お孃さんは、あの伊保木金太郎樣から、毎日手紙を受取つてゐるさうですね」 「──」 「それに返事を書いたことがあるでせう、──お六にせがまれるか何んかして?」 「書きました、二度か、三度。もうこれからは、こんな手紙を下さらないやうに──と」 「昨日も書いたことでせう」 「──」 「その文句を聽かして下さいな、お孃さん」 「──お覺召しは有難いけれど、身分の違ひもあり、人目もうるさいことですから──と書きました」 「すると、この假名書の手紙──犬くゞりから忍べ──とは書かなかつたわけで?」 「そんな失禮なことを、書くわけございません」  お艶は必死と抗辯するのです。涙は漸く乾きましたが、銀の粉を吹いたやうに薄桃色の頬が、不思議に涙に洗はれながら、溶けて流れもせずに、反つて新しい光澤と、美しい色調を持つたのは、何んといふ美女の奇蹟でせう。 「その手紙は、下女のお六が取次ぐのでせうな」 「──」  お艶はうなづきました。 「八、其處にゐるなら、ちよいと下女のお六を呼んでくれ」  平次は庭のあたりに、ウロウロしてゐる八五郎に聲をかけました。 「あつしも先刻からあの女を搜してゐますが、何處にも見えませんよ」 「何んだと?」  平次は椽側に飛び出しました。 「荷物もそのまゝだし、三十兩といふ大金は主人に預けてあるといふから、逃げも隱れもする筈はありませんがね」  八五郎の言葉の裏には、何やら重大なものが匂ふのでした。 十  江島屋の下女お六の行方不明は、事件を急角度に展開させました。 「八、お前一人では手が廻るまいが朝つから誰も外へ出た者はないか、外から來た者はないか、第一番にそれを調べるんだ。一人も出入りした者がなきや、下女のお六はこの家の何處かにゐるに違ひない」 「そんなことなら、あつし一人で澤山で」  八五郎は氣輕に飛んで行きます。  その後ろ姿を見送つて平次は、養子の與茂吉に案内させて裏木戸の方に廻つて見ました。  裏木戸の近く、板塀の裾にあいてゐる犬潜りの穴は、飼犬や野良犬が往來するために、板の割れ目を押し破つて作つたもので、素より人の手でわざ〳〵拵へたものではありませんが、横七寸、縱一尺ほどで、華奢な身體なら、存分人間も潜れないことはなかつたのです。 「これは何時頃から出來てゐるんだ」  平次は與茂吉を振り返りました。 「この春までは犬を飼つてをりましたが、さかりがつくと、どんなに嚴重に繋いで置いても、綱を噛み切つて、塀を押し破つて飛び出してしまひます。あんまり度々のことで、そのまゝに放つて置きましたが、ツイ一と月ばかり前、その犬も番木鼈か何んかを食はされて、殺されてしまひました。犬潜りの穴は塞がうと思ひながら、ツイそのまゝになつてをりましたので」  與茂吉の話は、よく筋が通ります。尤もこの男は多辯で輕薄らしささへなければ、立派に若旦那で通る男前です。  平次は念のために、穴を搜つて見て、あわてて手を引込めました。穴を形作る板の縁には、幾個所かに釘を植ゑて、その錆びた釘で、少しばかりの引つ掻きを拵へてしまつたのです。 「この釘は、誰が打つたんだ」 「少しも氣が付きませんでしたが」  よく見ると、その穴の方へ尖端を向けて、横木や兩側の板から逆に打つた釘の先には、この穴に引つ掛つて死んだ、伊保木金太郎の着物から毮られたらしい、糸屑や小さい巾などが引つ掛つてゐるではありませんか。  一歩退いて見ると、路地の方には、穴から一尺ほど離れた下水へかけて、夥しい血潮が、昨夜の殺しの凄慘さを物語つてをります。  丁度その時でした。 「親分さん、伊保木樣から、死骸引取りのお使ひの方が見えましたが、お渡し申して宜しいでせうか」  江島屋の主人鹿右衞門は、恐る〳〵顏を出します。 「あつしが立會はう」  平次は氣輕に庭の中へ入ります。相手は武家それも小祿の御家人だけに、うるさいことを言ひさうで、江島屋鹿右衞門少なからず恐れをなしてゐるのです。 「さう願へれば──」  平次の蔭へ隱れるやうに、金太郎の死骸を置いてある部屋の前へ引返します。其處では、 「それでは御主人、若樣お遺骸は引取つて參る」  などと、少し權柄づくになつてゐるのは五十前後の用人らしい男、あとは二人の折助で、店先には死骸を運んで行く駕籠が用意してある樣子です。 「これは伊保木樣御使ひの方で、あつしは町方の御用を承つてゐる明神下の平次でございますが」  平次は丁寧に挨拶しました。 「あ、錢形の親分か、いろ〳〵手數をかけたさうだが」 「飛んだことで」 「私は用人の川村左馬太と申すものだが、伊保木家も悉く閉口をして居られる。事公けになれば、若樣一人のお命では相濟まぬ。相成るべくは、このまゝ内分にいたして貰ひたいが、どうぢや。早速急病にてお隱れといふことにして、公邊の屆けを濟まし、その上で、いづれは親分に、御挨拶も御禮の沙汰もあらう」  川村左馬太は、當り前のことを言ふ調子でヌケヌケとこんなことを言ふのです。 「あつしは町方の御用聞で、別に武家方の内輪事に立入る筋はございません。が、御覽の通りの彌次馬で、何處からどう御目付の御耳に入らないものでもございません。その時うるさいことのないやうに、ありのまゝお屆けになつては如何でございませう。──飛んでもない、あつしにお禮など、そんな物をお受けするわけには參りません」 「まア、さう堅いことを言はずに。頼むぜ、平次親分」  などと、川村左馬太は、平次の肩をポンと叩くのでした。 「では、一つだけ伺ひますが、御屋敷では金太郎樣が江島屋の娘のことで夢中だつたことを、御存じはなかつたのでせうか」 「いや、薄々は知つてをられた。相手は町人とは申しながら、大地主の江島屋のことでもあり、その娘とあれば、世間への聞えもたいして惡い筈はない。いづれは假親でも立てて、二人を一緒にしてやりたい──と、御兩親の間では話もないではなかつたが、親御の方ではそんなことをうつかり口にするわけにも行かず、若い者はまた、取りのぼせて、一日も待つてはゐない」  悲劇の原因はその邊にあつたのでせう。用人川村左馬太は、年配の者らしく、主家の總領の無分別さが、苦々しくてたまらない樣子です。 「恐れ入りますが、そのお腰の物を」  平次は死骸の側に進み寄ると、其處に並べてあつた大小を取上げ、先づ長い方を先に拔いて見ました。  それは反りの少ない新刀で、一應拭いたとはいふものの、斑々たる血糊ががこびりついてをります。言ふまでもなくそれは、金太郎自身が命を奪られた得物で、痛々しさは平次の顏を曇らせるに充分です。  もう一つ、短い方のを手に取つて、平次は何心なく拔いて見ました。 「あ」  一應拭き清めてありますが、それにもまた血脂が浮いて、どんより鐵色の曇つてゐるのは唯事ではありません。 「御用人樣、金太郎樣一昨日の御召物に、何にかお氣付のことはございませんか──今お召しになつてゐるのではなく、その前のでございますが──」  平次は押して尋ねました。 「左樣」 「お屋敷にお歸りになりましたら、金太郎樣の部屋と、お風呂場などをお調べ下さいませんか、萬一血に染んだお召物でもあつたら、そつと御知らせを願ひます、──金太郎樣御最期のことは町方からは何事も申上げないことにいたします」  平次は明かに交換條件を持出したのです。 「左樣か、確と承知いたした」 「金太郎樣は御病死と決れば、少しばかりのことは、御係の方も御聞流しのことと存じます」 「いかにも、では萬事お頼み申すぞ、錢形の親分」  などと、川村左馬太は急に態度を變へると、二人の折助に金太郎の死骸を運ばせ、待たせてあつた駕籠に乘せて、追はるゝ者のやうに退散したのです。 十一 「親分、下女のお六が見つかりましたよ」  ドタドタと飛んで來たのは八五郎でした。 「何處にゐたんだ」 「後ろ手に縛られて首を絞められ、眼を廻して鼻汁だらけになつて、大納戸の布團の中に投り込まれてゐましたよ」 「生命は?」 「息は吹返しましたが、まだ正體はありませんよ。あれは絞められたくらゐで死ぬやうなやはな女ぢやありませんが、何しろ半刻近く布團の中で蒸されたやうで」 「よし行つて見よう」  事態容易ならずと見て、平次は家の中に飛び込みました。大納戸といふのは、大町人の家などによくあつた夜具部屋で、お六の部屋の丁度眞上に當り、その隣りは娘のお艶の部屋になつてをりますが、お艶は朝から取込みで、階下の兩親の部屋に逃避してをり、この邊は家中でも一番人眼の疎いところで、下女のお六の達者さでも、不意を喰つては、助けを呼ぶ方法はなかつたのでせう。  平次が行つた時は、下男の幹助と養子の與茂吉に介抱され、口に水を注ぎ込まれたり、脇腹を擽ぐられたり、百方手を盡して、漸く正氣づいたところでした。 「どうしたお六、飛んだ目に逢つたぢやないか」  平次は一應皆んなを次の間にやると靜かに衣紋を直させてお六とたつた二人相對しました。 「あ、親分さん私は、私は」 「誰がそんな目に逢はせたんだ」  平次が顏を持つて行くと、お六は夢から覺めたやうに、眼ばかりパチパチさせながら、 「押入へ首を突つ込んだところを、背後から不意に首を紋められて、フラフラと氣が遠くなつてしまひましたよ、──誰が絞めたかわかるもんですか、振り返つて見る隙もなかつたんですもの──でも、プーンと良い匂ひがしたやうですよ、恐ろしい強い力で──おゝ痛い、喉がヒリヒリする」  と、自分の喉をさすりながら、言ふこともしどろもどろです。 「良い匂ひ──といふと、どんな匂ひだ」  平次は重大な鍵を掴んだのです。 「香油の匂ひ──いえ、白粉の匂ひだつたかも知れません」 「相手の頭のあたりが匂つたのか、──それとも顏」 「いえ、私の頭は、相手の懷中のあたりに觸つたやうでした。無我夢中でしたが、それでも夢のやうに、何んか良い匂ひがプーンとして來たやうで」  お六の言葉から、これ以上のことを搜る工夫はありません。 「お前は、何にか大事なことを知つてはゐないか、──お前に口を開かれると、ひどく困る人がある筈だが」 「──」  お六は默つて首を振りました。 「お前は薊の三之助か、伊保木金太郎さんを殺した相手を知つてはゐないのか」  平次はなほも突つ込みました。曲者はこの女の口を塞ぐ氣になつたことは、あまりにも明かです。 「私は何んにも知りません。内證事といふと、いろ〳〵の人の手紙をお孃樣へ取次いただけ」 「それをお前の手から、相手へ直にやつたのか」 「私は外へ出られないんですもの、それは無理ですよ」 「すると」 「外の方は、幹助さんが取次いでくれました」 「駄賃は二人でわけたのか」 「あの人は馬鹿正直で、恐ろしく堅いから、私がわけてやつても取りやしませんよ」 「その手紙をお前は一々見ることだらうな」 「見たいことは山々ですよ、──四十にはなつても獨り者の女ですもの、でも、口惜しいけれど、私は」  四十女の頬には赤黒い羞恥の色が浮びました。 「字が讀めないといふのだらう」 「手習ひをさせなかつた、親が惡いんです」  妙な話になつてしまひました。 「ところで、あの納戸へ何んの用事で入つたんだ」 「季節の變り目には、布團を入れ換へなきやなりません。取込みはあつたところで、この天氣ですもの」  その邊はまことに忠實なものだつたのでせう、平次はその辯解をよい加減に聽いて、納戸の窓から首を出して見ました。 「?」  其處で平次は、思ひも寄らぬ發見をしたのです。窓は一間の腰高ですが、格子はなくて二枚の雨戸があり、その一端に逞ましい柱があつて、柱にはほんの微かながら摺り剥きの傷のあることがわかつたのでした。  見下ろすと、庇のすぐ先は嚴重な塀とその上の忍び返しが突つ立ち、忍び返しの外は、細い路地を隔てて、江島屋の持家の、二階建の空家と相對してゐるのです。  平次はお六を家の者に任せて、お勝手から飛び出すと、その邊にウロウロしてゐる八五郎と、養子の與茂吉を誘つて、裏木戸から路地へ出ました。江島屋の大納戸と相對してゐるのは、まだ建つたばかりの新しい長屋で、與茂吉に開けさせて中へ入り、二階に飛び上がつて雨戸を開けると、 「あ、矢つ張り此處だ」  平次が歡呼をあげたのも無理はありません。二階正面の柱が一本、中程がひどく傷んで、向うの江島屋の大納戸の柱の傷と、まさに呼應してゐるのです。 「八、其處の押入を見てくれ、綱がある筈だ」 「よし來た」  八五郎の引開ける手に從つて、空つぽの押入の中にとぐろを卷いてゐる、逞ましい綱が一本。 「それだよ、八。出して見てくれ」  平次が聲をかける迄もなく、八五郎はもうそれを手ぐり出してをります。 「あ、この綱は、家の物置にあつたものですが、何うして此處へ」  與茂吉は聊か呆氣にとられた形です。 「あ、痛ツ」  八五郎は飛び上がりました。何んかにさゝれでもしたか、無闇に左の手を振つてをります。 「どうした、八」 「綱に棘がありますよ」 「そんな馬鹿なことが」  平次は八五郎の手繰り出した綱を、丁寧に調べ始めました。 「成程、これは大變だ。針だよ、八。それも三本や五本ぢやねえ」  綱の中程のところに、一寸では見えないやうに刺し込んである針が五本、十本、それは布團針の太く逞ましいので、そのあたりの綱に、少しばかり血がにじんでゐるのも無氣味です。 「薊の三之助は、身輕で元氣な男だつたね」  平次は與茂吉に向つてつかぬことを訊きました。 「へエ、梯子乘も建前も自慢で、良い職人でしたよ。男つ振りが好いのと、いかさま博奕が器用なので、身を持崩しましたが」  與茂吉の答へには、日頃の鬱憤も交つてゐるのでせう、褒めるやうなくさしつけるやうな皮肉な調子です。 「この家の締りは恐ろしく嚴重な樣子だが、誰がそれをやるんだ」  平次は新しい問ひを持出しました。 「父親と私がしてゐます。恐ろしく念入りで、店の方は父親が見廻り、裏の方、勝手口から裏木戸は私の受持で、一々錠をおろした上、鍵は肌身を離さないことになつてをります」 「すると、夜中裏木戸からは入れないわけだね」 「戌刻(八時)には潜りの大海老錠をおろします。それから先は私が開けにかゝらなければ、外からは入れないことになつてをります」 「有難う、そんなことでよいだらう」 「へエ、何分宜しく願ひます」  與茂吉を歸すと、平次は少し離れて待機してゐた八五郎を呼びました。 「八、いよ〳〵むづかしいことになるよ。お前は家中の者を嗅ぎ廻してくれないか、相手に氣がつかれぬやうに、それとはなしにやるんだ。突んのめして抱きついてもいゝし、後ろから肩を叩いてもいゝ、兎も角良い匂ひをさせてゐる奴を搜すんだ」 「女にやつても構やしませんか」 「よいとも」 「有難てえ、天下御免であの娘にかじりついて見せますよ」 「天下御免といふ奴があるものか、手荒なことをするな」 「ところで親分は?」 「一寸外へ行つて來るよ」 十二  平次が行つた先は、練塀小路の油屋、和泉屋嘉七の店でした。 「若旦那に逢ひたいが」  といふと、主人の嘉七が、 「伜は大病で、どなたにもお目にかゝりませんが──」  と、いふのを振りきつて、無理に嘉三郎の病間へ通ると、奧の四疊半に寢てゐた嘉三郎は、 「あ、錢形の親分か」  と、豫期したことでもあるやうに、あわてて床の上に起き直ります。年の頃二十一、二、少々馬面で、丈夫で、そのくせ意志が弱さうで癇が強さうで、どう見ても戀患ひなどをしさうもない人柄です。 「氣の毒だがお前さんに、今日は八丁堀まで行つて貰はなきやならねえ。江島屋のお艶のことで、人が二人まで殺されたことは知つてるだらう、戀患ひの仲間を、一人々々調べることになつたんだ」 「親分、私はこの通りの病人で、一と足も外へ出られませんが」  嘉三郎は手を合せて拜まないばかり。すつかり顫へ上がつて、床の上に並べた膝小僧までガタガタしてをります。 「何を言ふんだ、お前は戀患ひだつて言ふぢやないか。大の男が戀患ひで死ぬ氣遣けえはねえ。それに、夜中にそつと拔け出して、金澤町のあたりをフラフラ歩くことまでわかつてゐるんだ」 「親分、私は──」  嘉三郎はまさに追ひ詰められた鼠でした。平次は滅多にこんな手は用ひないのですが、相手が戀患ひの假病をつかつて、容易のことでは落ちさうもないと見ると、珍らしく十手などを取出して、逆手に疊の上に突つ立てるのです。 「お調べは八丁堀へ行くまでもなく、正直に言ひさへすれば、此處でも濟むことだ。お艶に附き纒つてゐるのが五人、それ〴〵どんなことをして張り合つてゐるか、それから聽かして貰はうぢやないか」 「申上げます、親分、──私どもは何時の間にやら敵同士になつて、お互に爪を磨いでをりました。この間殺された薊の三之助は、男がよくて、氣がきいて、調子が派手で、一番女に持てました。その上地本問屋の知合ひがあるとかで、お艶さんの姿を一枚繪にして貰つて恩を賣り、それを種に一番よく取入つてをりました」 「──」  平次は默つて次を促しました。 「伊保木金太郎はお武家で、身分が身分ですから、お艶さんも心引かれてゐる樣子です。竹童師匠はたいしたこともありませんが、江島屋の養子の與茂吉も大敵で、私はうか〳〵してはゐられません」 「──」 「そこで、考へたのはこの戀患ひでございます。力も金も智慧もない私は、命がけの戀患ひでもして、お艶さんに可哀想だと思はせる外は術がなかつたのでございます。私は患ひました。もう一月も前から床に就いてをりますが、思つたやうに痩せないのが情けないと思ひながら、こればかりはどうすることも出來ません」  嘉三郎は感慨無量な聲を振り絞つて、平次を相手に掻き口説くのです。 「良い心掛けだよ、『私は患ひました』──と聽かされちや腹も立たねえ、精々患つてこがれ死をするがよからう。兩親は蔭で泣いてゐるぜ、馬鹿々々しい」  平次は珍らしく激しいことを言つて立ち上がりました。先刻店口へ迎へて、涙ぐんで伜のことを話してゐた父親嘉七のことを考へると、二つ三つ張り倒してやりたくなるほど腹が立つたのです。  江島屋へ歸つて來ると、伊保木家の折助が、用人の川村左馬太の手紙を持つて來てをりました、開いて見ると、 ──平次殿の仰しやる通り、風呂場には強かに血のついた、袷が一枚、盥につけてありました。これは御厚志に酬ゆるために、密かに申し上げる。萬事御内分に──  と、これだけ書いてあつたのです。素より署名も何んにもありません。 「御主人、御店にゐる者で、無筆は下女のお六だけでせうな」  平次は川村左馬太の手紙を讀むと、何やら思ひついたやうに主人鹿右衞門を顧みて、妙なことを訊ねました。 「いや、下男の幹助も、無筆同樣と自分で言つてゐるが」 「その幹助の部屋を見せて貰ひませうか」 「どうぞ」  家の反對側、物置の隣りに下男幹助の部屋がありました。幸ひ本人は留守、搜して見ると、押入から、矢立が一梃と、紙が少しばかり出て來たのには主人鹿右衞門を驚かしました。丁度其處へ、 「親分、──良い匂ひをさせてゐるのがわかりましたよ」  相變らず、飛び込むやうに八五郎がやつて來ます。 「誰だ」 「お孃さんのお艶さん。滑つて轉げるやうな恰好をして、首つ玉へかじりついてやりましたが──」 「ひどいことをするぢやないか」 「天下御免で──良い匂ひでしたよ」 「それだけか」 「下男の幹助の懷中も匂ひました。嫌がるのを無理に押へて取出させると、あの野郎親の遺言で女を斷つたやうなことを言つてゐるくせに、内懷中に、お孃さんの手絡だの半襟だの、赤い可愛らしいものをくすねてうんと温めてゐるぢやありませんか」 「それだよ、八」 「何が、それで?」 「伊保木の伜を殺して、下女のお六を絞めたのは、矢つ張りあの野郎だ」 「大丈夫逃げはしません。裏でお孃さんと話をしてゐるから」  八五郎は飛んで行きました。お艶の見てゐる前で、それは難儀な捕物でしたが、兎にも角にも、下男幹助に繩を打つて引立てたのです。 「野郎、神妙にせい」         ×      ×      ×  一件落着の後、 「あの幹助といふ下男は、薊の三之助も殺したのでせうね」  と、八五郎は平次の説明を引出しにかゝります。 「いや、薊の三之助を殺したのは幹助ぢやない。三之助はお艶を一枚繪に描かせる世話をしたので、それを恩に着せて口説き廻したことだらう、───お艶はまた、綺麗に生れついたのが災難で、きりやう自慢が嵩じた果て、何んとかして自分を江戸一番の美人と言はせようと思つたことだらう」 「たいした望みですね」 「魔がさしたのだよ。そんなことで薊の三之助と逢引をする約束をさせられたが、戸締りが嚴重で引入れる工夫はない。そこで、身輕な三之助は、輕業をやつてお艶の面白がるのを見ようと思ひ立ち、お艶に手傳はせて、路地の先の長屋の二階から、お艶の部屋の隣りの大納戸まで忍び返しを越して綱を手繰つて行くことを思ひつき、二三度はそれで逢引を重ねたことだらう」 「この節の娘は物好きなんですね」 「ところが、下男幹助がそれに氣がついた。幹助は熊の子のやうに不意氣で醜男だから、口ではお艶を大嫌ひで仕樣がないやうに言つてゐるが、實は戀患ひ組の一人で一番深く思ひ詰めてゐた──三之助とお艶が綱を渡つて逢引してゐるのを見て業を煮やし、綱の途中──丁度忍び返しのあたりに針を植ゑて置いたのだ──それとは知らずに綱を傳はつて來た三之助は塀の眞上で掌をやられ、あツと言ふ間もなく忍び返しの眞上に落ちた」 「ひどいことをやつたものですね」 「戀の怨みだよ、──其處へ、その晩も人目を忍んで、お艶の樣子を見ようとして來た、伊保木金太郎が通りかゝり、逢引の縮尻と見ると、憎さも憎しと、一刀を引拔いて忍び返しに引掛つてゐる三之助を刺した──が、さすがに武士の子で、長いので刺すのは刀の汚れとでも思つて、短かいのでやつたらしい」 「あとで綱の始末は?」 「多分、幹助に始末をさせたことだらう。その時手傳つて、馴れないお艶も、荒い綱で左手を擦り剥いた」 「あくる日の晩、伊保木金太郎を殺したのは?」 「お艶から金太郎へやる手紙をお六に頼まれたのは幹助だ。幹助は無筆と言つてゐるが實は假名文字くらゐは書ける。──その手紙をすつかり書き直して、翌る日の晩金太郎をおびき寄せ、板塀の穴の犬潜りから半分入つて、釘に引つ掛り、出ることも入ることも出來ずにもがいてゐる時を狙つて、金太郎の刀──長い方を取つて思ふ存分尻から突いた」 「ひどい野郎ですね」 「綱の始末をする時、幹助は裏木戸の鍵をどうして手に入れたか、そればかりはわからないが、多分晝のうちに錠前へ仕掛をして、與茂吉が鍵をかけたつもりでも、實はかゝらないやうに細工をしてゐたのかも知れない」 「へエ?」 「もう聽くことはないのか」 「あの娘はどうなるでせう」 「氣がもめるか、八」 「少しはね」 「きりやう自慢も、あそこまで行くと怖いよ。娘の綺麗なのは嬉しいことだが、江戸一番になりたかつたり、五人も六人も夢中になり手を拵へたりするのは、淺ましいことだな」 「一番馬鹿を見たのは養子の與茂吉で」 「いや、あれは馬鹿ぢやないよ。お艶の逆上がさめて、尋常な娘になるのを待つてゐたんだ。惡く賢こい男だよ」 「へエ?」 「一番氣の毒なのは和泉屋の伜嘉三郎さ。戀患ひの假病なんてものは、ゴロゴロ寢てゐるんだから、樂なやうだが、本人にして見れば、ハタで見たほど樂ぢやあるめえ」 「それぢやあつしも、戀患ひだけはよしませうよ、──ちよいとやりたい氣になることもあるが──」  面白さうに笑ふ八五郎です。 底本:「錢形平次捕物全集第三十五卷 花嫁の幻想」同光社    1954(昭和29)年11月15日発行 初出:「サンデー毎日」    1950(昭和25)年8月13日号~27日号 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2017年4月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。