錢形平次捕物控 花嫁の幻想 野村胡堂 Guide 扉 本文 目 次 錢形平次捕物控 花嫁の幻想 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 一  錢形の平次は、椽側の日向に座布團を持出して、その上に大胡坐をかくと、女房のお靜は後ろに廻つて、片襷をしたまゝ、月代を剃つて居りました。  八五郎は少し離れて、頬杖を突いて足を投げ出し、お先煙草を立てツ續けに燻して、これも引つきりなしに、無駄の掛け合ひをして居ります。 「お願ひだから八五郎さん、その冗談は止して下さいな。今丁度髯にかゝつてゐるんですもの、吹き出すたびに、危なくて危なくて──」  お靜は困じ果てて、剃刀を持つた白いかひなをあげました。不斷着の粗末な身扮、八つ口の赤いのだけが眼に沁みますが、身體にも若さと優しさがあつて、何んとも言へない良いポーズです。 「剃刀を使つてるものを笑わせるのは危ないぢやないか。一つ間違へば、下手人はお前だ」  平次は扇面型になつた、毛受けを下に置いて、方圖もなく冗談を言ふ八五郎をたしなめました。 「私は不器用で、剃刀はそりや下手なんだから」  お靜は自分のせゐにして、それとはなしに八五郎を庇つてやるのです。 「不器用は俺さ。貧乏人は、自分で月代をするくらゐの修業をするのもたしなみだが、知つての通り、俺は、髯を剃つても無事ぢや濟まないから、女房を仕込んでゐるんだが──」  平次はさう言つて、苦笑ひをするのです。平次の不器用は通りもので、ろくな棚も釣れないくせに、捕物となると、用意周到で、鬼神の働きをするのを、八五郎は不思議でたまらなかつたのです。尤もさう言ふ八五郎も、あまり器用ではなく、お靜の手から剃刀を取上げて、親分の月代をしてやるほどの自信はありません。  その頃の女は、剃刀を使へるのが一つのたしなみで、姑の眉を剃つてやつたり、亭主の髯を剃つたり、赤ん坊の罌粟坊主を剃つたり、なか〳〵に利用價値があつたわけです。安全剃刀のなかつた時代、亭主が度々髮結床へ行つて、將棋を指してばかり居られなかつた社會の、それは親しみ深い、つゝましやかな風景の一つだつたのです。 「ところで、どうした、まだ顎の下が殘つてゐるやうだが、急に止したりして」  平次は首をねじ曲げて、後ろを振り返りました。髯を剃るのを半分にして、肝心のお靜が、立ち縮んでしまつたのです。 「でも、私、急に怖くなつたんですもの、──濟みませんけれど、八五郎さん代つて下さいな」  お靜は何を考えたか、心持顏色が惡く、白い額に、僅かながら、冷汗が浮いて居るのです。 「代つて上げても構はないが、あつしも器用ぢやないから、親分の喉笛を掻き切るかも知れませんな」 「あ、宜いとも、思ひ置くところなくやつてくれ」  あゝ言へば斯うです。眼を半眼に、首を伸ばして見せる平次です。 「お願ひだから、そんな話は止して下さいな。私はもう」  お靜は剃刀を箱の中に入れて、小娘のやうに自分の眼を蔽ふのでした。 「おい、どうしたんだ。このまゝぢや外へも出られないぜ」 「でも、本當に怖いことを思ひ出したんですもの、それもツイ昨日」 「何があつたんだ、話して見な」  平次は問ひ返しました。どうかすると、自分の胸一つに疊んで、つまらない苦勞してゐる、日頃のお靜の氣性を知つてゐる平次には、その日のお靜の恐怖が、尋常でないものを見拔いたのです。 「お話して宜いでせうか」  御用のことに口を出すな──と、日頃嚴しく言はれてゐるお靜は、何處までが御用に關することか、それがわからなかつたので、ツイ言ひそびれて居たのでせう。それに平次が忙し過ぎて、この二三日は靜かに話す隙もなかつたのです。 二 「昨日は三月の十五日、お母さんと一緒に、谷中のお父さんの墓にお詣りをして、天王寺前の茶店に休んで、お茶を頂いてゐると、珍らしい人に逢つたんです」 「珍らしい人?」  お靜は手早く剃刀を片付けて、あとの始末をすると、襷を外して話し始めました。何處かの飼ひ鶯が啼いて、明神樣の森が紫に霞む、うつら〳〵とした結構な日和です。 「私の幼な友達のお仙さん、──御存じないか知ら、私が阿倍川町で育つた頃、御近所の荒物屋の娘で、私より四つ五つ歳下、抱いたりおんぶしたり、そりや可愛がつて育てました。私が兩國の水茶屋へ奉公に出る頃は、まだ十二三でしたから、本當に綺麗な娘でした。でも、その綺麗なのが、反つて不仕合せだつたのかも知れませんね」  綺麗なのが不仕合せ──不思議な言葉ですが、封建的に煉り堅めたやうな江戸時代には、さう言つた例も少なくなかつたのです。  椽側の眩しい陽を避けながら、平次の後ろに並んだまゝ、お靜の話は續きました。いつもは無口で、年よりは若々しい、邪念のない笑顏の外には、愛想もないお靜ですが、フトきり出した幼な馴染の、お仙の身の上話になると、妙に鼓舞される氣持になるらしい樣子です。  それは去年の春のことでした。十八になつたばかりの、咲き初めた櫻のやうに美しいお仙は、町内の花見の連中に加はつて、飛島山へ行つたのです。  その頃の江戸の娘達は、滅多に外へ出る折もなく、町内の錢湯や、髮結ひ、きまつた道順の稽古事、年に精々一度の芝居遊山が、人樣に顏を見られる機會で、出雲の神樣が、この折を狙つて、もろ〳〵の縁結びをしたのも無理もないことだつたでせう。お仙は繪に描いたやうな江戸娘でした。母親の振袖を直した花見衣裝は、貧しさのせゐでいたし方はなくとも、その美しさは飛鳥山の全山がこの娘あるが故に、クワツと明るくなつた程です。  表情的な大きい眼、少し公卿眉で、柔かい鼻筋、鼻の下が短かくて、心持受け口で、端麗と言つても宜い、輪廓の正しい瓜實顏、笑ふと僅かに笑くぼが淀んで、背は少し高い方──手足の華奢な、柔かいメツオ・ソプラノ、それが江戸娘の典型的な美しさで、お仙はまさに、さう言つた『ミス江戸型』の良い娘だつたのです。從つて、縁談は降るやう、まことに引く手あまたではあつたが、父親の見識が高かつたので、さだまる縁談もなく、『あれは將軍樣の妾にでも出す氣だらう』と、町内の若い衆が、蔭での不平も、必ずしもやつかんで言ふ惡口とも言へなかつたのでせう。父親のスケジユールは、左前の荒物屋を立て直すための、よき祝言へのコースで一杯だつたのです。  その條件にピタリとする婿が、飛島山の花の下で、お師匠さんの三味線で、踊を踊つてゐる、お仙を見染めてしまつたのです。花見手拭を襟に卷いて、早くも散り始めた櫻吹雪の中で、差す手、引く手、いとも鮮かに踊るお仙の十八姿が、全山の見物を、夢中にさしたのも無理のないことでした。その中で、車坂の酒屋、東叡山の御用を勤める、池田屋八郎兵衞の總領、二十三になつたばかりの眞太郎が、フラフラと思ひついたのも無理のないことでした。  眞太郎は堅い息子で、弱氣でした。色白で華奢で、好い男ではあつたが、身體もあまり丈夫ではなく、町内の道樂息子達に誘はれても、遊びに行く勇氣もなく、吉原の大門が何方を向いてるかも知らないやうな、當時の常識で言へば、唐變木であり變人であり、不具ぢやないかなどと、惡口を言はれるほどの謹直さでした。  それがどつと寢付いて、父親を心配さしたことは一と通りでなく、それが戀患ひとわかり、相手が阿倍川町の荒物屋の娘、お仙とわかるまでには、どれだけ骨を折つたかわかりません。  戀患ひ──こんなロマンチツクな流行病が、江戸時代にはまだあつたのです。社交機關を持たない娘達や、遊里に出入りするのを潔よしとしない純情な息子達の間に、かうした病氣の流行るのも、嬉しくしをらしい現象であつたかも知れません。でも、池田屋の眞太郎の場合は簡單に埒があきました。夥しい支度金と、顏の良い媒人と、そして、たつた一ぺんの見合ひで、話はトントン拍子に進み、その年の秋には、ケチな荒物屋の一人娘が、江戸でも有名な分限者、車坂の池田屋の嫁御寮として、下谷淺草を湧かせて輿入を濟ませました。 三 「お仙さんは、皆んなに羨まれて、池田屋に嫁入りしましたが、可哀想に、少しも仕合わせにはなれなかつたと泣くんです」 「それはまた、どういふわけだ」  平次は漸くとぐろをほぐしました。鶯の聲がまた一と囀づり、日向はほか〳〵と暖まつて、貧乏臭い長屋住ひですが、お靜は自分の幸福を、胸一杯に抱きしめたい氣になるのです。 「お婿さんの眞太郎さんは、好い男だけれど生れつき身體が弱い上に、──お舅さんの八郎兵衞さまは、そりや良いお年寄だけれど、小姑や、かゝり人が三人もあるんですもの」 「鬼三匹か、そいつは大變だ」  八五郎は額を叩いて、舌出し人形のやうに、ペロリと赤い舌を出すのです。 「先づ、眞太郎さんの姉さんで、二十八になるといふ出戻りのお清さん、姑と折合ひが惡くて出たといふ、恐ろしく氣の強い人。それから、その從妹のお才さん、良いきりやうだけれど、あまり賢こくてよく出來て居るので、選り好みがひどくて、二十三にもなるのに、嫁の口もきまらない、白齒の娘。内々は同じ年の眞太郎さんに、氣があるのかも知れない──と、これは、お仙さんの推量だけれど」  そう言つて、まだ若いお靜は、自分の顏を染めるのです。 「その二人だけでも、閻魔大王も裁ききれめえ」  八五郎は人事になると、少し面白さうです。 「その上、お谷といふ掛り人があります。二十一の働き者で、お勝手も帳場も、お得意まはりも手傳へるといふ、大變な娘で、たゞ、ひどいきりやうで、本人もあきらめて居るやうですが、氣性の激しい人ださうです」 「その中に泳がせられちや、大概の金魚も、身は細る」 「いえ、もう一人、お稻といふ四十がらみの下女が居るんです」 「勝手にしやがれ、──意地の惡い女護ヶ島で」 「それでも、お仙さんは、齒を喰ひしばつて辛抱したさうです。ところが、そのお仙さんは、この春になつて、唯の身體でないとわかり──」 「目出度いぢやないか」  平次は重い口を挾みました。 「いつまでも、眉も齒もそのまゝにして置くわけに行かず、いよ〳〵七所から鐵漿を貰ひ、池田屋には女親がないから、阿倍川町から里の母親が來て、眉を落してやることになりました」  嫁の元服は、身籠つた時がきつかけで、それは封建的な怪しからぬ習慣であつたにしても、青々と剃り落した眉や、眞つ黒な齒は、また一つの女の魅力でした。嫁の眉は、一方だけ剃り落すと、思はず掌で隱して鏡を覗くと言つた川柳の情景詩があり、七ヶ所から貰つて、最初の鐵漿をつける儀式も、いろ〳〵の民俗詩に殘つてをります。 「で──?」  平次は促しました。一向つまらない話ですが、お靜の語氣には妙に含蓄があるのです。 「阿倍川町のお母さんが、風邪を引いて來られないとわかつて、從妹のお才さんがその役目を引受けることになりました。お清さんといふ人もあるけれど、お才さんといふ人は萬事器用で剃刀も一番うまかつたといふことです」 「──」  鐵漿だけの半元服姿のお仙は、鏡の前に坐りました。鏡は丸形の白銅、池田屋の先代の内儀が使つたといふ豪勢なもの、ギヤマンよりも玲瓏としてをります。 「その時、フト顏をあげると、縁側で多勢の人が覗いて居たといふことです。下男の嘉七といふ三十男、品吉といふ十六の丁稚、それから下女のお稻、──まア、お前達、そんなところから覗いたりして、見世物ぢやないわよ──氣の強いお才さんは、さう言つて怒鳴つたさうです。──見物はすぐ散りましたが、後で丁稚の品吉にきくと、お仙さんの樣子が首の坐にすわつてるやうで、妙に痛々しかつたといふことです。尤も、品吉は十六と言つても、ひどく子供つぽい、扱ひ難い子なんださうです」 「?」 「いざといふ時、眉毛を濕されると、全身に身顫ひが走りました。娘もそれつきり、といふ氣持なんです。妙に悲しくなつて、フト顏を擧げると──お仙さんは、生れてから、この時ほど驚いたことはないさうです。顏一面に藍を塗つて、墨で隈取つたやうな無氣味な顏が、自分の顏の横から、そつと覗いてるではありませんか。片手にはドギドギする剃刀を持つて、喉笛を狙ひ寄るやうに──思はずアツと聲をあげて、その剃刀の手を掴んだのも無理でせうか」 「それは誰の顏だつたのだ」 「從妹のお才さんを、──見直すと何んでもない顏だつたんですつて。でも、お仙さんはものの彈みで、首のあたりを少し斬り、手にも少し怪我をしました。たいした傷ではなかつたけれど、眉を落すのはそれつきり沙汰やみ、天王寺で私に逢つたときも、半元服の御新造姿、そりや綺麗でしたけれど、爭はれないもので、矢張りやつれが見えたやうです」  お靜の話は、それでざつと一段落のやうです。 「それつきりの話なら、御用にも十手にも及ぶまいよ、從妹の顏が藍隈の鬼女に見えたのも、大方身持のせゐだらう。身持になつたばかりの女は、妙なことを氣にするものだよ」  平次に言はせると、大した問題でもありません。 「でも、お仙さんはさう言ひました。──近いうちに、何んか變つたことがあるかも知れません。あの人(眞太郎)は頼りにならないし、萬々一私の身體に間違ひがあつたら、お前さん──平次親分にお願ひしてくれつて、その氣持が可哀さうぢやありませんか。あの人は、本當に死ぬほど脅えて居るに違ひありません」  お靜は言はうか言ふまいかと、良い加減迷つた揚句、これだけのことを言つてしまつた安心感で、ホツとした樣子で立ち上りました。そして、もう晝近い陽射しを眺めて、いそ〳〵とお勝手に立去るのです。 四  この邊で、事件は急轉直下しました。 「ね、お前さん、一寸逢つてあげて下さいな。車坂の池田屋から、お使ひが來たんです」  お靜に搖り起されて、平次は澁い眼を開けました。  昨日、御用の筋で品川まで出かけ、歸つたのが夜半過ぎ、トロトロとしたばかりのところを起されたやうな氣がしますが、雨戸を開けさして見ると、成程日はもう三竿、明神樣の森の烏も、餌をあさりに出かけて歸つて來る頃です。  井戸端で嗽ひ手洗を濟ませて、大急ぎで入口に顏を出すと、遠州縞のお仕着せに、店の名『池田屋』と染めた前掛をした、十五六の小僧が、突つ立つたまゝ顫へてをりました。 「お前は、池田屋の小僧さんか。品吉とか言つたね、御新造お仙さんがどうかしたのか」  平次は先を潜りました。前掛に染めた店の名と、眠さうな顏と、年頃と、そのくせ緊張しきつた顏で大方見當はついたのです。 「いえ、御新造樣が、明神下の錢形の親分のところへ行つて、お願ひして見ろと言ふんです」  丁稚の品吉は、あまり賢こさうではありませんが、粘液質らしくて、正直さうな少年です。 「一體、何があつたといふのだ」 「昨夜お才さんが死んだんです。自害したのかも知れません。騷ぎ始めると、町役人と三輪の萬七親分が乘り込んで來て、お才さんは殺されたに違ひないと言ひ出し、今朝になつて御新造さんを納戸の中に閉ぢ籠めて、御神樂の清吉とかいふ岡つ引が、大きな眼を剥いて張り番をして居ります。寄り付けやしません」 「お前はどうして口を利いた」 「そつと手招ぎするから、外から廻つて、庭から顏を出すと、──早く明神下へ飛んで行つて、錢形の──」 「よし、わかつた。俺はすぐ車坂へ行くが、お前はこれから直ぐ、向柳原に廻つて、八五郎にさう言つてくれ。岡つ引の八五郎と訊けば直ぐわかるよ。まだ寢て居るに違ひない、顎も長いが、氣も長い男だ」  平次はさう言ふうちにも手早く仕度を整へて、十手を一本懷にブチ込むと、鼻緒の堅い麻裏を突つかけるのです。 「あれ、お前さん」  驚いてそれを引留めるお靜。 「宜いつてことよ、飯なら昨夜も鱈腹詰め込んだ筈だ。──斯んなことは、人一人の命に拘はることだから、放つちや置けねえ。それにお仙といふ新造は、お前の幼な友達だといふぢやないか」  さう言つて飛んで行く夫の後ろ姿を、お靜は拜み度いやうな氣持で見送るのです。  車坂まで着くと、池田屋は町役人と三輪の萬七の子分達で、まさに重圍のうちでした。 「おや、錢形の、大層良い鼻ぢやないか、下手人はもう擧つたも同樣だが」  と、目ざとくも平次を見付けた萬七は、相變らず意地の惡さうな眼を光らせます。 「それは宜い鹽梅だが、その下手人といふのは誰だえ」  平次はこの大先輩の御用聞、三輪の萬七には逆らはないことにしてゐるのです。そのくせ事件に平次が顏を出すと、三番勝負を三番までさらつて行くので、萬七たるもの先輩風を吹かせて、精一杯嫌なことでも言はなければ、腹の蟲が癒えません。 「御新造のお仙さ。面は菩薩樣のやうに綺麗だが、ありや、内心如夜叉といふ奴だな」  萬七はさとつたことを言ふのです。 「何處に居るんだ、ちよいと逢つて見たいが」 「そのお仙の部屋で、從妹のお才が殺され、まだ死骸もそのまゝにしてあるから、嫁のお仙は隣りの納戸に、清吉に見張らせてゐるよ。一つ二つ證據が手に入れば、すぐ繩を打つて引立てるが」 「でも、證據がないのに」 「いや、殺されたお才と新造のお仙は仲が惡かつたさうだ、──それだけで澤山だよ」  萬七は斯う言つた、逞ましい神經の持主だつたのです。  平次はそれには答へず、目で下女のお稻を呼んで──いや、これは名乘るまでもなく、平凡な四十女で、自分の名前を頬つぺたに書いてゐるやうな女で、お勝手を我物顏にして居る樣子を見るまでもなく、お勝手口から入つた平次にはよくわかります。 「親分さん、御新造樣はこゝでございます。お可哀さうですから、早くなんとかしてあげて下さい。──人くらゐ殺し兼ねなかつたのは、佛樣のことをさう言つちや惡いけれど、お才さんの方で」  下女のお稻は、平次の後ろからそつと囁やくのです。  平次はそれには、うなづいて見せて、納戸の入口に近づきました。板戸の前には萬七の子分のお神樂の清吉が頑張つて居りますが、平次の顏を見ると、白い眼を見せながらも、そつと側に身を寄せます。  戸をあけると、中は長四疊、格子の前まで布團を積んで、薄暗く淋しいところに、チラリと白いもの、それは平次を迎へに出した、若い嫁──お仙──の涙に濡れた顏でした。 「──」  默禮してそつと擧げた顏、十九になつたばかりの初々しさ、打ち萎れては居りますが、清らかさと輝やかしさは、窓の外の丁度眞つ盛りの櫻を背景に、それはまことに非凡でした。  俯向いた前髮は重さうで、脅えて剃らなかつたといふ、半元服の公卿眉が、眞珠色に見える豊かな頬に影を落して、この女の悲劇的な陰翳を、ひときは深く見せるのです。 「御新造、──言ふことはありませんか」  平次はたつたこれだけ訊ねました。 「私は、本當に殺し度いと思ひました。昨夜も私の部屋へ、お才さんが、あの人を呼出して居たんですもの、──私はそれを知つて居るくせに、どうすることも出來なかつたんですもの、──私は、お才さんを殺す、なんて、飛んでもない──」  十九の花嫁の胸に、どんな憎惡と嫉妬が渦を卷いてゐても、それを賓行の出來るお仙でないことは、平次の眼にもあまりにも明かです。  でも、この正直さが、三輪の萬七に疑はれた原因になるのでせう。 「その時のことを、詳しく聽き度いが」  平次は疊の上に膝を立てました。いつもは、先づ死骸を見て、その周圍の事情と時間の關係を考へて、それからいろ〳〵の人の調べにかゝるのですが、今日はお勝手から入つた道順と、三輪の萬七の調べた後を、そのまゝ辿る常套主段を嫌つたのと、幼な友達の身の上を頼んだ、女房のお靜の意嚮を考へて、先づ嫁のお仙から調べを始める氣になつたのです。 「昨夜の戌刻(八時)過ぎ、私は二階の私達の部屋で、箪笥の中などを片付けてをりました。三日前の花見衣裳が、乾したまんまで、まだよく片付いて居なかつたんです。すると、下からお稻どんがあの人を搜しに來た樣子です。いつものことで、お才さんがあの人を呼出しに來た樣子です。でも、あの人は町内の櫻湯へ行つたばかりでした」 「──」  平次は默つてその先を促しました。 「あの人は、いつも長い方だけれど、それでも昨夜は長過ぎるし、お才さんのことも氣になるから、そつと階下へ降りて行つて、お才さんの部屋を覗くと──」  その時の凄まじさを思ひ出した樣子で、お仙は絶句してしまひました。 「其處には誰も居なかつたのか」 「え、誰も。でも、窓は開いて居りました。良い月で」 「灯は?」 「灯はなくても、窓際の疊の上に、突つ伏したお才さんの樣子は唯事でないとわかりました」 「血は?」 「何んにも見えなかつたやうです」 「御新造とお才さんは、隨分仲が惡かつたやうだな」 「──」  お仙は默つてしまひました。二人の激しい爭は、平次にもよくわかるやうな氣がするのです。  窓の外の櫻を眺めながら、從兄妹同士ではあるにしても、女房持ちの眞太郎を、自分の部屋に呼ぶ態度は容易ではありません。  平次は納戸の外へ出ると、人々の立ち騷ぐ聲をしるべに、廊下の少し先を西へ廻つて、お才の殺された部屋を覗きました。  其處には主人の池田屋八郎兵衞を始め、伜の眞太郎、眞太郎の姉のお清、三輪の萬七まで顏を揃へて、御檢屍を待つて居るのでした。  もう晝近い陽ざしですが、その頃の御檢屍は手間取つたもので、それが濟むまではお葬ひの支度も出來ず、人々はたゞザワザワと騷ぐだけ、御近所の衆は、一應顏を出して居る樣子ですが、掛り人で遠縁のお谷が、一手に引受けて、お勝手と居間でそれに應對してをります。 「錢形の親分、お仙は人などを害める女ぢやございません」  平次の顏を見ると、飛び付くやうに言ふのは伜の眞太郎でした。蒼白い華奢な若者で、成程好い男振りには違ひありませんが、決して頼母しさうではなく、痛々しい感じさへするのです。 「飛んだことで」  平次は當らずさはらずに挨拶しました。そして膝行り寄るやうに顏だけ隱したお才の死骸を調べるのです。  二十三の眞太郎と同じ年、利口過ぎて嫁きおくれたといふ、それは一かどの美人です。從兄妹の眞太郎を深く思ひながらも、自尊心と痩せ我慢に引き摺られて、縁談まで斷わり續けて來た癖に、眞太郎が飛鳥山の花見でお仙を見染め、戀患ひまでして祝言をすると、急に自分が裏切られたやうな氣になつて、恥も外聞もなく眞太郎にへばり付き、花嫁のお仙までも敵のやうに思つた、二十三の賢こ過ぎる女の死顏を、平次は痛々しい氣持で調べました。  ひどく血の氣を失つて居りますが、細面のキリリとした女振りで、化粧の濃さも尋常ではなく、夕櫻を眺めながら、自分の部屋の窓で、眞太郎の來るのを待つた、邪まな誇りは、この凄まじい死顏に、一種媚にも似て怪しい表情をコビリ付かせてをります。 「刄物はこれですね」  平次は死骸の側に置いた、合せ剃刀を取上げました。 「外に何んにも道具はなかつたやうで」  主人の八郎兵衞は、消極的に肯定します。  剃刀は二梃ともよく使ひ込んだもので、背と背を合せて、元結でキリキリと縛つてありますが、斑々たる碧血が、膠のやうに附いて見るからに無氣味なものです。  日本風の剃刀は、峰が高くなつて居るので、振り廻したところで薄傷を負はせるだけ、命取りの兇器にはなりませんが、背と背を合せて縛つた二梃剃刀は、使ひやうに依つては、匕首のやうに鋭利な兇器になるのです。  その代り、合せ剃刀は兇器以外には使ひ道がなく、死骸の側にこれが落ちて居れば、先づ間違ひもなく殺しと斷定してよいわけです。 「この剃刀の持ち主は?」  平次は左右を顧みました。 「不思議なことに、二梃ともお才の持つて居たものです。一梃は自分ので、一梃は私の剃刀で、古くなつて使はずに置いたのを、磨ぎ減して反つてよく切れるからと、私から貰つて、自分で使つて居りました」 「黒い元結は──こりや、誰か使つて居る人があるでせうね」  平次は合せ剃刀を結へた、黒元結を指摘しました。元結は白いのが通常で、黒い元結は滅多に使ふものではなく、それで剃刀を縛つてあるのが、異樣に眼につきます。 「お才さんのですよ。あの人は若いくせに中剃りがひどく禿げて居るので、中結へに黒元結を使つて居ります」  姉のお清が説明してくれました。女でなければ、わからない消息です。 「二階の部屋からお仙さんが誰にも見とがめられずに此處へ降りて來られるでせうか」  平次はもう一度主人の八郎兵衞を顧みました。 「それは出來ないこともありません。が」  八郎兵衞は考へ〳〵、斯う言ひました。 「お才さんは、この頃、若旦那に何にかせがんでは居なかつたでせうか」 「さア」 「隱さずに打ちあけて下さい、大事のことですから」 「死ぬとか生きるとか、人困らせなことを言ふ人でした。でも、お才はいつでもその調子で、芝居氣が多いから、あまり氣にもしなかつたのです」  若旦那の眞太郎は澁々斯う言ふのです。 「それで大方わかりましたよ。三輪の親分には氣の毒だが、お才さんを殺したのは、嫁のお仙さんぢやありません」 「何を言ふのだ、錢形の」  平次がズバリと言つてのけると、三輪の萬七は顏色を變へて詰め寄りました。 「お仙さんが二階から降りて來て、廊下から入つたとすると、お才さんは窓に後ろ向きに凭れて居た筈だ。窓の外の櫻なんか見て居たわけぢやない。若旦那の眞太郎さんが入つて來るのを、廊下の方を向いて待つて居たのだらう。其處へ前から來て喉笛を掻き切れば、下手人は身體一パイに反り血を浴びなきやならない。──お仙さんにはそんな樣子もなかつた。それにお才さんは敵同士のお仙さんに前から切り付けられるのを待つてる筈はない」 「たつたそれだけの事で──」 「いやまだある」  平次は萬七の言葉を押へて靜かに説き進むのです。 五  お才は、從兄の眞太郎が、町内の櫻湯から歸つて來るのを、窓わくに背を當てて、廊下の方を向いたまゝ、自信に充ちて、──そのくせわく〳〵した心持で、わき眼も振らずに待つて居たのです。  こんな時、お才のやうな若い女の心には、背後に展開する、櫻月夜の美しい景色も眼に入らず、庭から忍び寄る曲者の足音にも氣が付かなかつたでせう。  その不安と緊張をなひ交ぜた、焦げつくやうな瞬間、窓の外なる曲者に、喉笛を掻き切られたのでせう。死骸はやゝ斜めに、前のめりに倒れて居り、血潮はお才の前半身を浸して、部屋の半分を染めて居りますが、家中の者には、返り血を受けた者が一人もなく、平次の言葉を證據立てるのです。 「そんな馬鹿なことがあるものか、お才を怨んでゐる者は、嫁のお仙の外にはないぜ。そのお仙が二階から降りて、そつと外へ廻る手だつてあるわけぢやないか」  三輪の萬七は、四角な顏を精一杯角張らせて抗議するのです。 「そいつは一應尤もだ。が、店には御主人始め多勢居るから、表の梯子から降りて、店からは庭に廻るわけに行くめえ。裏梯子をお勝手口へ出る術もあるわけだが、お勝手口の關所には、まだ宵のうちだとすると、下女のお稻と、掛り人のお谷さんが居た筈だと思ふが──」  平次の言葉の終らぬうちに、 「え、私とお稻は、まだお仕舞をしてをりましたが、お勝手口からは、誰も出た者はありませんよ」  掛り人のお谷は、確とした調子で言ふのでした。地味な木綿物、前掛だけを外して、髮形ちも投げやりの、肥つちよで、鼻が低くて、なか〳〵の不縹緻ですが、正直者らしい好感の持てる顏です。 「ところで、もう一つ、皆んなに訊き度いが、この家で、物を盲目結びにする癖のある人はないだらうか。紐でも、風呂敷でも、結び目にうつかりその癖の出るものだが」 「お才さんですよ。あの人は、利巧で器用な癖に、ひどい左利きを直したさうで、うつかり物を盲目結びにする癖がありました」  眞太郎の姉のお清は、廊下にハミ出した人の中から應えました。二十八の出戻りで、氣の強さうな年増ですが、眞太郎の姉だけに、なか〳〵のきりやうです。 「器用な癖に、盲目結びの癖があつた──ありさうなことだな。利巧者で才氣走つた人に、反つてそんな妙な癖があるものだ。この通り」  平次は血潮に汚れた二梃剃刀を取上げてその柄と柄を縛つた、黒元結を見せました。幾重にも幾重にも卷いて、堅く二カ所で縛つてありますが、その結び目は二カ所とも、醜い盲目結びになつて居るのです。 「そんな馬鹿なことが──」  萬七は肩を聳やかしました。才氣走つて疳の昂い人間、増長慢でたしなみの惡い人間に、さう言つた妙な癖や落度のあることは、さう言ふ萬七にもわかつて居ります。 「これは、他の者が眞似ようとしても、餘程落着いてやらなきや出來ないことだ。──が、その二梃剃刀を、どこへ、何をする氣で用意したのか、──?」  平次は自分へ問ひかけるのです。下手人は嫁のお仙ではないとわかつても、では、一體誰がお才を殺したのか、さすがの平次もハタと行詰つてしまひました。 「ちよいと、親分」  八五郎の顎が、廊下の薄暗いところから招きます。 「どうした、八」 「夜分が、萬七親分と渡り合つてゐる間、あつしはあつしなりに、昨夜の皆んなの動きを調べて見ましたよ」 「それは大層氣の利いたことだな、どんな具合だ」  二人は、人の聽くのを避けて、梯子の下の四疊に入りました。晝近い陽も此處までは射さず、薄暗くて妙に濕つぽい部屋です。 「驚いたことに、昨夜、お才が殺された戌刻(八時)時分に、たしかに下手人でないといふあかしを立てられるのは、主人の八郎兵衞と、掛り人のお谷のたつた二人だけですよ」 「それは本當か」 「主人は店から動かなかつたし、掛り人のお谷は、お勝手から動かなかつたことは確かで、あとは下男の喜七は急の注文があつて、隣り町のお華客まで、酒を持つて行つて居るし、丁稚の品吉は、店から出たり入つたり、四半刻とも落着かないし、若旦那の眞太郎は、町内の櫻湯へ行つたといふのは大嘘で、番臺でも見掛けなかつたさうだし、下女のお稻は、忘れた洗濯物を取入れたり、ゴミ箱へ行つたり、お勝手に落着く隙もなかつたといふし、それから」 「それから?」 「眞太郎の姉のお清は、暫らくの間、何處にも姿を見せやしません。嫁のお仙は──」 「それはわかつて居るが、──不思議なことだな、氣を揃へて變な素振りのあつたのは、──兎も角、若旦那の眞太郎を此處へ呼んでくれ。いろ〳〵訊き度いことがある」 六 「何んか御用で?」  八五郎に呼込まれて、若旦那の眞太郎は、オドオドしながらやつて來ました。脅えきつた姿です。  お才と同じ年の二十三、蒼白くて若々しくて、心身共に脆弱な感じですが、こんな弱さうな男は、一心不亂に思ひ詰めると、戀の病と言つた、古風な患ひをするのかも知れません。  それにしても、華奢で色白で、なか〳〵の好い男振りでもあります。 「打ちあけて言つて下さいよ、若旦那。うつかりすると、御新造のお仙さんが、下手人にされるかも知れないから」 「ハイ、へエ」  眞太郎は少し顫へて居りました。いつでも涙を溜めて居るやうな、大きいうるんだ眼、口許に女の兒のやうな愛嬌があつて、手足が不安定で、引つきりなしに、兩手を揉み合せて居ります。 「お前さんは、昨晩お湯へ行くと言つて出たさうだが、櫻湯に顏を見せなかつたさうぢやないか。番臺の娘は若旦那に岡惚れしてゐるから、見のがす筈はないぜ」  八五郎は平次に代つて、もどかしさうに突つ込みました。櫻湯の番臺の娘──といふ動かない證據が擧げたかつたのです。 「ハイ、實は」 「實は、お才さんを殺したとでも言ふのか」  八五郎は先を潜ります。 「飛んでもない。私は、そのお才に逢ふのが辛さに、一刻近くも町内をブラブラして居りました。薄寒くなつて戻ると、家の中は大變な騷ぎでした。お才が殺されたさうで」 「待つてくれ、そのお才さんに逢ふ約束といふのを訊き度いが、──從兄妹同士でも、若い男と女だ」 「──」 「逢ふのが辛いといふのも唯事でないが」  平次は押し返しました。眞太郎の態度が煮えきれないのを見て、八五郎がひどく焦れ込んでゐるのを、目顏で押へて、平次は靜かに相手の出やうを待ちます。 「お才が、無理を言ふんで」 「無理?──誰も聽いては居ない、そのわけを打ち明けて下さい。八、お前は向うへ行つて待つて居ろ」 「へエ」  八五郎は不足らしく、唇を尖らせて引つ込みました。 「さア、誰も聽く者はない、──お才が何を若旦那にせがんでゐたんだ」  平次は靜かに訊ねます。 「あの人は無法でした。──お仙を追ひ出すか、それが出來なければ、私の眼の前で死んで見せるといふんです」 「それは又、厄介なことだが」 「あの人はさう言ふ人でした。今から十二、三年も前のことでした。私もお才も、同じ年の十一二の頃喧嘩をしたり、仲直りをしたり、時には一緒になつて飯事遊びをしたこともあります。その頃のこと、物置の日向で遊んでゐて、飯事が嫁入りごつこになり、二人は夫婦約束をしてしまひました」 「夫婦約束?」 「夫婦約束と言つても、十一や十二の子供の遊びで、後々まで覺えてゐる筈もなく、私などは、それつきり忘れてしまひました。お才に言ひ出されるまで、そんなことがあつたのをさへ思ひ出さなかつたほどでございます」 「──」  飛躍的な話に、平次も默り込んでしまひました。 「お才が、年頃になつても嫁入りを嫌ひ、どの縁談もどの縁談も斷わり續けたのは、私も、私の父親も、世間でも、お才が利巧過ぎて、どの男も不足に見え、片つぱしから縁談を斷わつたのだと思つて居りましたが、お才に言はせると──これはツイこの間私に言つたことですが、──十二年も前、物置の中で、飯事をして遊んだ時、日向の筵の上で、夫婦約束をしたことが忘れられず、二十三になるまで、降るほどあつた縁談を斷わり續けて來た──と斯う申します」 「──」 「私は膽をつぶしました。その時はもう私にはお仙といふ女房があつたのです。──どうしてそれを早く言はなかつた。今となつては遲いではないかと言ふと、お前が忘れてしまつた樣子だから、言ひ出すのも極りが惡いし、そのうちにお仙さんを見染めて、戀患ひをする騷ぎだもの。私が十年前のことを言ひ出せば、恥をかくばかりぢやないか──と斯う申します」 「ところで、若旦那は、お才さんが一時でも好きだつたのか」  平次は妙なことを訊ねました。 「飛んでもない、私はあんな女を、好きだと思つたこともありません。利巧で、意地つ張りで、──十二年前、日向の筵の上で、指切りをしたり、頬摺りをしたことが、そんなに厄介なことになるとは思ひも寄りません。その上、お仙といふ嫁まで貰つて、二人は仲よく暮して居るのに」  眞太郎は泣き出しさうな顏をするのです。 「お才さんが、何時頃それを言ひ出したんで?」 「去年の秋頃からでした。それまでは、素振りにも見せなかつたお才が、ある日、私が物置の片付けをして居ると、用事があつて物置へ來たお才が、いきなり私に囓り付いて氣でも違つたやうに泣くのです。丁度土間には筵が敷いてあり、秋の陽が一パイに射して居りました。酒樽の匂ひがして、十二年前のあの日と、そつくりそのまゝの心持だつたと──後でお才が言ひます」 「──」  斯う言つた女の氣持は、もとより平次にも呑込めません。默つて後を促すばかりです。 「私とお仙の仲の好いのを見て、お才は我慢がならなかつたと申します。そして今年になると、間がな隙がな私を呼出して、お仙を離縁して、私と一緒になるか、それがイヤなら、私はこの手でお仙を殺す──とお才が申します。しかし、それは出來ないことで、お仙を出すなどといふことは、父親が承知をする筈もなく、第一この私が、そんな氣になれません。さう言つた私の氣持を見拔いて、近頃のお才は、自分が死ぬかお仙を殺すか、二つに一つの兼ね合ひだと言つて、刄物を離さなかつたやうで、何やら手拭に包んで帶の間に挾んで居りましたが、それが二梃剃刀とは、お才の死骸の側にあつたので漸くわかりました。──あんな恐ろしい女はございません」  眞太郎は、その弱さと意氣地なさを隱さうともせず、斯う言つて溜息をつくのです。 「それで大方わかつたが、昨夜はどうしたのだ」 「宵のうちに、そつと忍んで、自分の部屋へ來てくれとお才は申します。そこでしかとした返事を聽き度い、來てくれなければ、お仙を殺すといふ脅かしやうです。私は櫻湯へ行つて來るからと、一時のがれのことを言ひましたが、湯へ行く氣などは少しもなく、どうしたものかと迷ひながら、町内をグルグル歩きました。自身番の前を四度も通つて、變な眼で見られたくらゐですから、訊いて下されば直ぐわかります」  眞太郎の話は、まことに途方もないものでありました。それだけに眞實性があり、弱氣の眞太郎が、お才に絡みつかれた困惑は思ひやられます。 「どうして、それを、親旦那に言はなかつたんで?」  平次の問ひには、激しい非難が籠ります。 「飛んでもない。親父にさう言へば、お才は追ひ出されるにきまつて居りますが、この家を出るとき、きつとお仙を殺して行くと言ふんです。それくらゐのことを、やり兼ねない女でした」  眞太郎は、死んだお才が、まだその強大な意志を働きかけさうな氣がして、斯う言ふのさへビクビクもので聲をひそめるのです。 七  平次はすつかり憂欝になりました。女の歪んだ自尊心と、ヒステリツクな我意がもたらした結果には違ひありませんが、最初は、物置の日向ぼつこが釀した、花嫁ごつこの飯事が結んだ、ほのぼのとした童心の畸型的な戀に由來したものでは、この解決は十手にも捕繩にも及びません。  だが、殺しといふ現實は、外の因縁の糸を引いてゐる筈です。お才がお仙を殺したのなら、因果關係は極めて明らかですが、嫉妬と憎惡に燃えたお才が、自分の用意した二梃剃刀で、窓の外から伸びた手で殺されてゐるのです。 「八、ちよいと來てくれ」 「へエ、もう用事は濟んだんで?」  思ひの外近いところに、その長んがい顎の主は居るのでした。 「若旦那の話を聽いたらう。お前は自身番へ行つて、昨夜池田屋の若旦那が、この邊をウロウロして居なかつたか、詳しく聽いて來てくれ。それから、家中の者──わけても奉公人達の身許と身持、それから、殺されたお才に、親しい男はなかつたか」 「そんなことならわけはありません。それぢや、親分」 「待つてくれ、もう一つ、此處へ若旦那の姉のお清さんを呼ぶのだ」 「へエ」  八五郎は飛んで行きました。その後ろ姿を見送つて、小さい窓のところに引返すと、小僧の品吉が、せつせと庭の掃除などをして居ります。  十六と聽きましたが、柄の大きい少年で十七でも十八でも通るでせう。遠州縞のお仕着せ、前髮姿、丸顏で健康さうで少し粘液質で、動きは敏活ではありませんが、正直さうな良い少年です。 「大層精が出るぢやないか」  平次は聲を掛けて見ました。 「へエ、入棺が始まるさうで、御近所の衆や親類方が見えますから、少し家の廻りでも綺麗にしようと思ひまして」  品吉は顏を擧げました。魯鈍で忠實で、誰にか言ひつけられさへすれば、どんないやな仕事でも、辛棒強くやり遂げさうな少年です。 「それは感心なことだな。──どうだ、この家は、住み心地は?」 「皆んな良い人達で、こんな家は滅多にございません」 「お前の生れは何處だ」 「土地の生れで」 「下谷か」 「いえ、淺草で、阿倍川町でございます」 「嫁のお仙さんも、阿倍川町の荒物屋の娘ださうぢやないか」 「子供のうちから、よく存じて居ります。年は私より三つ上ですが」 「良い人かえ」 「あんな人はありません。若い嫁で、何彼と遠慮はあるでせうが、でも、影になり日向になり、よく庇つて下さいます」  さう言ふ品吉は、感激に頬をほてらせて、少し涙ぐんでさへ居ります。 「若旦那との夫婦仲は好いのか」 「戀女房ですもの、惡い筈はありません。でも、近頃はお氣の毒でした」 「どうかしたのか」 「お才さんが、意地惡をしたり、水を差したり」 「姉のお清さんはどうだ」 「あの人は、氣の強い利巧な人ですが、お仙さんにはよくしてくれます」  氣の強い利巧な小姑は、自分が出戻りといふ、弟妹への遠慮もあるのでせう。 「お清と、お才の仲は?」 「どつちも負けず嫌ひで、きりやう自慢で、──あまりよくはありません」  品吉は賢こさうにも見えない癖に、なか〳〵よく觀察は屆きます。 「二階から、お勝手や店を通らずに、庭へ降りる工夫はないのか」 「そんなことが出來るわけはないぢやありませんか」  品吉はやつきとなつて反對するのです。 「それから、もう一つ、掛り人のお谷といふのは、どんな人だ」 「働き者ですよ。遠い縁續きださうですけれど、不きりやうで嫁きおくれだから、私などは働くより外に能はないと言つて居ます。感心な人で」 「眞太郎さんとは?」 「相手にもしないし、相手にされないのを何んとも思つて居ない樣子です」 「まだあつたな、下男の嘉七は?」 「三十にもなるのに、遊びも勝負も嫌ひ、給金をためることばかり考へて居ます」  その嘉七は信州者で、平常はおとくゐ廻りの御用聞にもなり、今日は受付けに廻つて、店口で一生懸命働いて居る樣子です。平凡な三十男、好奇心も情熱も何處かへ拂ひ落したやうな、醜い男です。 八 「私に御用ださうで、錢形の親分」  お清は廊下から聲をかけて、入口の唐紙から覗きました。御用聞風情に用のない姿といふよりは、いかにも面倒臭さうです。 「まア、中へ入つて貰はうか、其處ぢや話も出來ない」 「おや、さう、お白洲に呼出されたやうで、氣味がよくないわねえ。錢形の親分は好い男だけれど」 「冗談は冗談として、お前さんは、殺されたお才とは、仲がよくなかつたさうだね」 「仲が好いと言ひ度いけれど、あの氣性のお才さんと、敗けず劣らず鼻つ張りの強い私と、仲が好いわけはない。それに、この家の總領の弟に、執こく絡みついてゐることを、薄々は知つてる私ですもの」  お清は齒に衣きせずに、斯うズケズケ言ふのです。 「新造のお仙さんとは?」 「大の仲好し──と言つたつて、誰も本當にはしてくれないでせうよ、出戻りの小姑と、十九になつたばかりの嫁ですもの。でもあの人は、そりや可愛らしい、花嫁人形のやうな人よ。口數も少ないし、いつもニコニコして居るし、──近頃少し沈んでゐるけれど──あんな可愛らしい嫁は、江戸にもたんとはないでせう。私は時々抱いて寢て添乳して上げ度いくらゐ。ウ、フ」  お清は斯んなことを、ヌケヌケと言ふ女でした。激しいところはあるが、好いきりやうで、身振りは澁い方、たしなみの良い、二十八の石婦です。 「お前さんは、夜分は何處に居るんだ」 「二階に居ますよ、眞太郎夫婦の部屋の隣りに」 「昨夜の騷ぎのあつたときも、其處に居たことだらうな」 「階下で、お才さんが、悲鳴をあげるから膽をつぶして飛び降りて行きましたよ」 「二階から、お勝手も店も通らずに、庭へ降りる工夫はないのか」 「さア」 「どこかにある筈だと思ふが、大きい家はそんな無用心な造りはしない筈だ。不意に火事騷ぎでもあつた時の用意に」 「さう言へば、物干へ出て、九つ梯子で庭へ出られないこともありません」 「其處を見せてくれ」  平次は妙に活氣づきました。無造作にさへ見えるお清を案内に、二階へ行つて廊下の突き當りの開き扉から物干臺に出ましたが、其處には取外しの出來るやうに、粗末な九つ梯子が掛けてあり、其處から庭へ降りさへすれば、お才が凭れて居た窓へ忍び寄れないこともありません。  物干の上には一足の草履がありますが、不思議なことにその裏は、おろしたばかりの眞新らしさで、曲者が二階からこの草履をはいて庭へ降りた樣子は見えず、若しその道を通つたとすれば、窓の下へ跣足で近づいて、お才を殺したことになるでせう。それを見窮めると、平次はお清を階下へ追ひやりました。そして、物干から隣りの窓を覗くと、そこは嫁のお仙が、軟禁された納戸で、當のお仙は、ガラクタ道具の中に、ちんまりと坐つて、淋しさうに空を眺めて居るのです。 「御新造」 「あ、錢形の親分さん」 「お靜に聽きましたよ、いろんなことを。──でも、心配することはありません」 「有難うございます、親分さん。私は隨分お才さんを怨んでは居たけれど、あの人はどつか怖いところがあつて、私などは、側へも行けなかつたんですもの」  お仙はおど〳〵した調子でした。死んでまでも祟るお才といふ女が、お仙に取つては、手のつけやうのない呪だつたのでせう。 「御新造はこの物干臺へ出ることはありませんか」 「時々は登りますが、でも、私は怖いんです」 「何にかあつたんで」 「梯子が外れて、下へ落ちたこともあります。幸ひ品吉が傍に居て、途中で私の身體を受け留めてくれましたが」 「あの品吉も、阿倍川町の生れださうで」 「私は子供の時から知つて居ます。良い子でした、正直で親切で。──でも、近頃は、その品吉も、變な樣子だから、氣をつけるが宜いと、あの人が言ひます」  あの人、──それは言ふまでもなく、若旦那の眞太郎でせう。 「その品吉が、御新造を庇つてくれましたよ。三輪の萬七親分も、もう御新造を下手人だとは思はないだらうし、──さう言へば先刻まで廊下で眼を光らせてゐた御神樂の清吉兄哥も何處かへ行つてしまつた樣子だ」  さう言へばお仙は、誰も監視してゐないところに、神妙に籠つて居たことになります。 「あの子は好い子だけれど、──ヂツと私を見張つて居るやうで、そりや氣味が惡いんです。物の蔭からでも、暗がりの中からでも、──どうかすると」  お仙はハツと口を緘みました。はしたない言ひ過ぎに氣が付いたのでせう。 九 「さア、親分、何處に居るんです」  八五郎の姿が、階下から鳴り渡ります。 「此處だよ。親分の賣物ぢやあるめえし、少しはたしなめ」 「へエ、物干臺で天文を見てゐるんですか、──殺しは階下ですよ、親分」 「そんなことは、どうでも宜い。お前の眼で見ても、物干臺の草履に汚れはなく、梯子の下にも足跡はないだらう」 「それがどうしたんです」 「下手人は二階に居た姉のお清と、新造のお仙ではなかつたといふことさ。──ところでお前の方の調べは?」 「若旦那の眞太郎は、昨夜自身番の前をウロウロ歩いて居たことは確かで、二度までは見かけたさうですよ」 「それつきりか」 「家中の者の身許から、日頃の心掛け、懷具合まで訊いて廻りましたが」 「懷具合は餘計だ」 「主人の八郎兵衞はお人好しの上、少し御座つて居る」 「何が?」 「中氣の輕いので──若旦那の眞太郎は弱氣で、意氣地なし、男つ振りは好いが、頼りない男ですよ。あつしが女なら、あんな男には惚れない」 「誰もお前にそんな事を頼みやしない」 「お才とお清は負けず劣らず、勝氣で利口で、お谷は働き者で正直だが、可哀さうにあの不きりやうで縁が遠い。尤も、今の新造が嫁に來る前、若旦那が戀患ひをする前といふから、多分去年の春でせう。妙なものを落して、お才に見付けられ、飛んだ恥をかいたさうで」 「何んだい、それは」 「それ川柳に良い句があるでせう、『若旦那樣と書いたを下女落し』とね」 「お谷はそんなものを書いたことがあるのか」 「名前がないからわからないけれど、無類の惡筆だつたから、誰の鑑定にも、お谷がのたくらせたものとわかつた。──それを氣性の激しいお才に拾はれて、家中囃し立てられたからたまらない、お谷は居たたまらなくなつて、逃げ出したり、井戸を覗いたり、隨分可哀さうだつたといふことですが、逃げ出しても、掛り人の悲しさで、此處より住み心地の良い家はなく、井戸へ飛込む氣にもなれなかつたか、そのまゝズルズルと、居据つてしまつたさうで」 「氣の毒だな」 「それから少しばかりの身だしなみから化粧まで、サラリと捨てて、あの通り汚な作りの働き者になつたといふことですよ」 「眞太郎は、その時、どうした」 「面白がつて笑つて居たさうですよ、薄情な野郎で。尤も、それから直ぐ飛島山の花見で、戀患ひでせう。戀患ひでもしようと言ふ太え野郎は、他の女の子のことなんか、思ひやりがないわけで」  八の哲學は相變らず、途方もないところまで發展するのです。 「話はそれつきりか」 「まだありますよ。昨夜お勝手に居たのは下女のお稻とお谷の二人だと言ひましたね」 「?」 「お勝手に居た二人の女が、睨めつこをして居たわけでないから、交る〴〵外へ出て用をたしたところで、一々覺えても居ないでせう」 「さう言ふわけだな」 「現に、お稻は三度、お谷は二度外へ出て居ますよ」 「フ──ム」 「斯うなると、誰が下手人か、ちよいと見當もつきませんね」 「殺されたお才が氣を許して居るものだよ。廊下から入つて、正面から斬りつけたのでないとすると、後ろから廻つて、庭から聲でも掛けながら、お才が敷居の上にでも置いた、合せ剃刀を取上げて、後ろから喉笛を斬りつけたのだらう。そんな事の出來るのは誰だ」 「──」 「お才は若旦那の眞太郎の來るのを待つて、張りきつて居たに違ひない。後ろから下手人が忍んで來て、夜の庭を、お才に氣付かれずに、後ろへ近寄れるわけはない。お才は下手人が背後へ近づくのを知つて居ながら、知らん顏をして背を向けて居たのだ」 「その曲者は足跡くらゐは殘した筈ぢやありませんか」 「それはないよ」 「?」 「丁稚の品吉が、念入りに足跡を掃いてしまつた」 「へエツ、そいつは?」  八五郎も少し驚きました。  事件は併し、これからが厄介でした。池田屋を繞る悲劇が、又一轉して、豫想も許さぬ破局に陷込むのです。 十  その夜は、一應明神下の平次の家へ引揚げました。池田屋は三輪の萬七とその子分のお神樂の清吉が見張り、平次が頑張つて調べを續けると、氣拙いことになりさうだつたのです。 「だが、變なものですね、親分」  お仕着せの一本づつを平げて、八五郎は陶然としましたが、まだお勝手ではコトコトとお料理の品を揃へてゐる樣子です。 「何が變なんだ。一本ぢや不足だから、謎を掛け度くなつたんだらう」  平次は空つぽの徳利を振つて居る八五郎の、怪しい手つきを眺めながら、相變らずの推理を働かせるのでした。 「おつと、酒ぢやありませんよ。姐さんに無理をいつて、この夜更けに酒屋へやらないで下さいよ」  八五郎にも、それぐらゐの思ひやりはあつたのです。そのくせ喉がグイグイ鳴りさうで、空つぽになつた徳利を思ひきり惡さうに、横から覗いたりするのです。 「それぢや何が變なんだ。池田屋の騷ぎで、何にか、氣のついたことでもあるのか」 「何んにもわかりませんが、あれだけの騷ぎを起したのも、男の子と女の子のいきさつ、つまりその戀といふ曲者でせう」 「古風に、『戀は曲者』と來やがつたね。そいつは小唄の文句だ」 「考へて見て下さいよ。池田屋の若旦那は、戀患ひをやり、その從妹のお才は、まゝ事遊びの夫婦約束を忘れ兼ねて殺され、掛り人のお谷は、若旦那と書いたのを落して、大耻を掻いて、小僧の品吉は──」 「もう宜いよ。お前なんかと來た日にや、毎日三人か五人に懸想してゐるぢやないか。湯屋で一人、往來で一人」 「まさか、それ程でもありませんがね。──でもあつしのは、すぐ忘れるから、後腐れがありませんよ。湯屋の番臺で見染めても、床屋の暖簾をくゞる時はキレイに忘れてゐる」 「呆れた野郎だ」 「ところで、この變な騷ぎも、今夜一パイで片付きさうですよ。明日といふ日になれば、三輪の萬七親分の鼻の先で、あつしがこの手で下手人を縛つてお目にかけます」  八五郎は、アルコールで少し赤くなつた、鼻の先を撫で上げるのです。 「大層なことだな、お前がね、へエ」 「さう言つたものでもありませんよ。この八五郎にも、キメ手といふものがありますよ、いざとなると」 「オイオイ頼むから、一人呑込んだ顏をせずに、俺にも話して見な。折角の證據を掴んだのなら、お前一人に任せて置くのは危なくて仕樣がない」 「大丈夫ですよ。今度だけは私一人の手柄にさして下さい」 「宜いとも、お前も皆んなにビツクリさせる程の手柄を立てて、八丁堀の旦那衆からも、さすがは八五郎──と褒めさしてやり度いのは、腹一杯だ」 「濟みません。──あつしは決して手柄の獨り占めをしようとは思ひませんが、──相手の女は、一と晩だけ默つてゐてくれ、明日の天道樣が出たら、お才殺しの下手人が誰か、そつと教へて上げられるかも知れないと──斯う言ふぢやありませんか」 「下手人を知つてゐると言ふのか」 「──」 「女だと言つたな」 「あ、しまつた。其處まで言ふつもりはなかつたんで」 「女──といふと、お清かな、お谷かな、それともお稻かな。──まさか新造のお仙ではあるまい。女の顎を取ることにかけては、お前は名人だよ。相手が油斷をするせゐだらうが」 「へツ、褒められて居るやうな氣がしませんね」  無駄な話に夜は更けて、その晩は明神下の平次の家に、八五郎も泊つてしまひました。そして翌る日の朝。 十一  平次と八五郎が車坂の池田屋に行つたのは、まだ巳刻(十時)前、騷ぎの後で、さすがに酒を買ひに來る者もありませんが、それにしても、店はシーンとして、妙な壓迫感さへあるのは、何んとしたことでせう。 「どうした品吉、ぼんやりして居るぢやないか。お前も戀患ひぢやないのか、相手は誰だ。まさか、お谷ぢやあるまいな」  八五郎は店に入るといきなり、其處を片付けてゐる丁稚の品吉の肩をポンと叩きました。誰とでも、この術で懇意になる八五郎です。 「ところが親分、そのお谷が昨夜殺されかけて、一と騷ぎやりましたよ」  下男の嘉七が横から口を出しました。いかにも慾の深さうな男ですが、その代りこの男は、色戀とは關係がなささうです。 「そいつは大變だ、誰がそんなことを?」 「相手がわかれば、私でも縛りますよ」 「殺されかけたと言ふんだから、命だけは助かつたのだらう。行つて見よう、八」  平次は店から入つて、暗い廊下をお勝手に拔けました。摺れ違ふやうになつて、ヒラリと横に外れて目禮したのは、外から不意に入つて、暗さに馴れない眼にも、匂ふやうな眉、新造のお仙に紛れもありません。この邪念もない美しい人のために、幾人が命を賭けることでせう。平次はフトそんな氣になつて後ろ姿を見送りました。 「好い女ですね、親分。あんなのが百人に一人、千人に一人あつただけで、あつしはこの世に生き甲斐があると思ひますが──親分はさう思ひませんか」 「馬鹿野郎、俺はそんな間拔けなことを考へちやゐないよ。──お才を殺したのはあの女でないことは確かだが、あの女は萬事を知つて居さうで、それが氣になつてならなかつたんだ」  が、御新造のお仙は何んにも言はなかつたにしても、お勝手近くなると、緊張と騷ぎの渦は次第に強大になつて、通る人達の顏も、容易ならぬものを感じさせます。 「おや、錢形の親分で、又飛んだ騷ぎが始まりました。幸ひお谷は助かりましたが──」  と、迎へてくれたのは、主人の八郎兵衞でした。少し足が不自由ですが、話も、考へも、少しの歪みもありません。 「どうしたんです、旦那」  平次の調子には、僅かに非難が匂ひます。この家の總元締の主人が病氣のせゐであるにしても、少し放漫なやうに感じて居たのです。  掛り人のお谷の部屋は、お勝手から二つ目、下女のお稻の部屋でもありました。四疊半へ二人休んでゐるやうです。 「あ、錢形の親分、私は、もう」  寢て居たお谷は、平次の顏を見ると起き上がりました。其處に居る多勢の人に氣を兼ねたらしく、もとの枕にガツクリ首を落して、醜い顏が割きれない苦惱に歪みます。 「皆んな、暫らく遠慮して下さい。私はお谷さんだけに訊き度いことがある」  平次は四方を見廻しながら言ふと、若主人の眞太郎を始め、その姉のお清、主人の八郎兵衞までが、ゾロゾロと廊下に退きました。お互に警戒して、ザワザワしないやうに坐を滑るのですが、今まで賑やかだつたので、急にシーンとした心持になります。 「さア、誰も聽いてるものはない、俺と八五郎の二人きりだ、──昨夜お前が、八五郎に話さうと言つたことを聽かうぢやないか」 「──」 「それから、昨夜、お前を殺さうとしたのは誰だ」 「──」  平次がさう訊くとお谷の顏は急に警戒的になつて、上眼使ひに平次を眺めたまゝ、蟲のやうに默り込んでしまひました。青黒いコメカミが激情のためらしく、ヒクヒク動きますが、閉ぢた唇は醜い貝殼のやうに、頑固に引締つて閻魔の廳の釘拔を借りて來ても開けられさうもありません。 「な、お前は何を言はうとして居るのだ。お才さんを殺した相手の名か」 「──」 「言つた方が宜いぜ、人を殺して知れずに居るものぢやない。いつかは知れるに決つて居るが、知つて居て口を緘むのは、仲間と思はれても仕方があるまい」  平次は懇々と事をわけて話しますが、お谷は頑固に默りこんで、なか〳〵唇を開けさうもないのです。 「親分さん、皆んな私の思ひ違ひでした」  いきなりお谷は、斯う言ふのです。 「何? 思ひ違ひ?」  平次は問ひ返しました。 「あの晩、お稻さんと私がお勝手に居て、洗濯物を取込んだり、井戸端へ行つたり、引つきりなしに外へ出て、月の光の下で、お才さんを殺す人の姿を見たやうに思つたんです。あんまり思ひも寄らない人なので、一と晩考へた上、八五郎親分に申上げようと思つたけれど、昨夜といふ昨夜、それが人違ひだつたといふことがよくわかりました」  お谷は思ひ入つた調子で言ふのです。隨分廻りくどい話ですが、調子にはなか〳〵眞實性があり、一概には聽き流せません。 「それぢや、昨夜お前を殺さうとしたのは誰だ」 「──」 「後前の樣子だけでも話してくれ」 「私はいつものやうにお仕舞をして、井戸端から家へ入らうとすると、いきなり建物の蔭から飛び出した者が、私の首に紐を卷いて、力任せに締めるんですもの。苦しくて、苦しくて聲も出せやしません」 「その紐は?」 「紐が太いから助かつた──とお醫者もさう言ひます。お勝手に投り込んであつた洗濯物の中から、私の扱帶を持出して締めました」  掛り人の貧しい扱帶で、それは赤い模樣こそ入つて居りますが、太くて逞しい木綿物で丈夫な代りに、喉佛は無事だつたわけです。 「私は持つて居た物を投り出して引つくり返つてしまひました。そして少しは暴れたかも知れませんが、相手の力に敗けて眼を廻してしまつたんです」 「──」 「すると、お勝手に居たお稻さんが、私の遲いのに氣が付いて、外を覗いてくれました。御存じの良い月でした。私が井戸端で引つくり返つてるのを見付けて、それから大騷ぎになつたさうです。幸ひ時が經つて居なかつたので、私は間もなく呼吸を吹き返しました。でも、喉をひどく痛めたから、暫らく休んで居るやうに、お醫者がさう言ひます」  さう言はれたせゐか、思ひの外美しい聲のお谷も、今朝は鵞鳥のやうなしやがれツ聲をして居ります。 「昨夜は良い月だつた──お前はその曲者の顏を見なかつたのか」 「グイグイ後ろから喉を締められて目を廻したんですもの、顏なんか見られやしません。でも、手足の樣子や、身體つき、もつと大事なことは、その人の身體の匂ひで、私が八五郎親分に申上げようと思つた、お才さんを殺した下手人でなかつたことは確かです。イエ、お才さんを殺したのも昨夜の人だとすると、私はすつかり間違つて居たんです。あの人はそんな事をする筈はない」  お谷は後ろから首を締められながらも、若い女の鋭い本能で、その曲者の、印象だけは掴んだ樣子です。  それが、一昨夜、お才を殺した下手人でないとわかると、成程うかつに口は滑らせられません。 十二 「八、此處へ來て見るが宜い」 「へエ」  平次に手招きされて、八五郎は物干臺の上に登りました。此處からは、川開きの花火もよく見える自慢の物干臺、町内は申す迄もなく、池田屋の裏表、一と目で見盡されます。 「人間の眼といふものは不都合なもので、自分の背の高さしか行き屆かないものらしいな」 「何を言ふんです、親分」 「あれを見るが宜い、此方は陽が當つて高いから、向うから見えないのも無理はないが」  平次はさう言つて、物干の北側、物置の蔭のあたりを指すのです。 「何んです、丁稚の品吉ぢやありませんか。泣いたり、膝を折つたり、おや〳〵土の上に坐つてしまひましたね。──一人居芝の稽古でせうか。それとも、何んか御信心ごとでせうか」 「お前のとこからは、相手が見えないのだよ。此方へ寄つて見るが宜い」 「おや、相手は、御新造のお仙さんですね。物置の後ろに追ひ詰められて逃げるに逃げられず、困つて居る樣子ですね、行つて小僧を叱つてやりませうか」 「待て〳〵、折角の一と幕を、ブチこはしちや何んにもなるまい」 「でも、主人の嫁を掻き口説くなんて、前髮も取れない小僧の癖に、太てえ了簡ぢやありませんか」 「掻き口説くのか、お小遣をねだつて居るのか、此處までは聲が屆かないが、──兎も角も尋常ぢやないよ」 「變な家ですね、下女が若旦那に戀文をやつたり、丁稚が若い新造を口説いたり」 「兎も角も、わけがありさうだ。お前は二人を逃さないやうに、この物干からよく見張つてくれ。俺は庭から廻つて一人づつ捉まへて見る」  平次は八五郎を殘して、九つ梯子を踏んで庭に降りました。其處から母屋を廻つて、グルリと物置の裏へ出ると、丁稚の品吉はもう姿はなく、新造のお仙だけが、間の惡さうに物蔭から出て來るのです。 「御新造ちよいと待つて下さい」 「私に御用で?」  お仙の顏は、朗らかで何んの陰翳もありません。 「外でもない、丁稚の品吉は、何をせがんで居りました?」  平次の話は遠廻しのさぐりです。 「──」 「何んの氣もなく、母屋の物干の上から、皆んな見てしまひました。品吉は何にか、うるさく絡んでゐたやうで」 「あの人には、本當に困つてしまひます」  お仙はこれだけ言ひきるのが精一杯の樣子です。 「何が困つたので?」 「──」 「皆んな話して下さい、これは大事なことです。うつかりすると、もう一度、御新造は、イヤな目に逢はなきやなりません。──品吉は何を申しました」  平次は押して訊ねました。柔々としたやうでも、若い女に口を開かせるのは、平次に取つては樂な仕事ではありません。 「申しますワ、品吉は私をつかまへて一緒に逃げてくれと、そんな大變なことを言ふんです」 「それは大變なことだが」 「私も大變だと思ひました。──そんなことは出來ないと言ふと、今直ぐ逃げなければ、私の命が危ないと言ふんですもの」 「──」 「そして、泣いたり、おどかしたり、私はどうしようかと思ひました」 「御新造さんは、品吉が嫌ひですか」  平次は妙なことを訊ねます。 「いえ、嫌ひなんかぢやありません。阿倍川町で、子供の時から、仲よく育つたんですもの。私のことを心配してくれるのも無理はありません。でも」 「でも?」 「私が品吉と一緒に逃げられるかどうか、考へて見て下さい親分さん」  お仙は詮方もなく、平次に訴へるのです。品吉の方には、よしや、激しい戀心はあつても、お仙の方には、それほど激しい童心の戀を享け入れるほどの余裕も、成熟した情熱もなかつたでせう。 「何が何んでも、逃げ出したりしちやいけませんよ。そんなことをすると、飛んだことになり兼ねない」  平次はあわててこの純情らしい幼い嫁をとめました。 十三 「親分、こんな混がらかつた殺しも始めてですね。──まだ下手人の見當はつきませんか」  八五郎は物干から降りて平次の方へ長い顎を持つて來るのです。 「お前とたいした變りはないよ。──若旦那が出かける時、どんな樣子をして居たか、それが知り度いが。身なりや履物や、丁稚の品吉と間違へられるやうなことはなかつたか、それが知り度いが」  平次は妙なことを言ふのです。 「品吉は前髮があるし、身體つきや背の高さは似てゐても、間違へるやうなことはありません」 「いや、明るいやうでも、月の光の下では、見違へることがあるものだ。頬冠りでもすると、華奢な若旦那と、十六の丁稚品吉は、間違へられないものでもあるまい。おや物置の前に下男の嘉七が居るぢやないか、訊いて見よう」  平次は嘉七を呼んで、近くに誰も居ないことを確めると、それとはなしに、一昨日の晩、若旦那の眞太郎は、どんな樣子で外へ出たか、それを訊くのです。 「サア、別に變つたところもなかつた樣子ですが、お湯へ行くとか言つて、手拭だけはブラ下げて居たやうで、──ア、さう〳〵店口から出かける時、何をあわてたか、姉さんのお清さんの駒下駄を履いて出て、あとで、お清さんに小言を言はれて居りました。──若旦那はそゝつかしいから」  嘉七はつまらなさうに、そん怒事を言ふのです。 「姉さんの下駄、それはどんな下駄だ」 「幅の狹い、齒の薄い女下駄ですよ。若旦那は華奢だから、あの女下駄が履けるんだが、あつしなんかぢや、とても突つかけられません」 「女下駄を履いて湯へ行くのは、隨分あわてた話だね」  平次は何やら、深々と考へて居ります。 「尤も、店へ置いて、女達が皆んなで履くから、齒は摺り減つてゐるし、鼻緒も緩くなつて、誰でも突つかけられないことはありません」 「有難う、それで、いろんなことがわかつたやうな氣がするよ。八、お前は店口に頑張つて、暫らくの間、誰も外へ出しちやならねえ、裏には──嘉七が宜い、その男に見張らせろ」  平次は、その邊の手配を濟ませると、お勝手に近い、掛り人のお谷の部屋に入つて行きました。 「あ、錢形の親分さん」  起き直らうとするお谷を、平次は輕くとめて、その枕許に坐りました。 「そのまゝで宜いよ。まだ聲が變だ、ひどい目に逢つたものだな」 「──濟みません」  布團を直してやる平次に、お谷は目禮しました。 「ところで、くり返すやうだが、お前の考へも定まつたことだらうと思つて、やつて來たよ。お前の首を絞めた相手の名、お前は顏を見なかつたと言つたが、命まで奪らうとした相手の名を、知らない筈はない」 「──」 「それを言はないと、皆んな飛んだ迷惑をするばかりでなく、これは脅かすわけぢやないが、もう一度お前の命を狙はれるかも知れないよ。思ひきつて言つて見たらどうだ」 「申上げますわ、親分。少し待つて下さい」 「それは宜い心掛けだが、この上待たせるのは良くない了簡だぜ。お前は本人に逢つて、本心を聽く氣かも知れないが、一度でもお前の命を取らうとした相手だ、余計な思ひやりが反つて危ないことになりはしないか」 「──」 「お前の口から言ひ難ければ、俺が代つて言つてやらう。宜いか、昨夜井戸端で首を締めたのは、丁稚の品吉だらう」 「どうしてそれを親分は?」 「品吉でなきや、若旦那の眞太郎さんだ」 「いえ、品吉です。若旦那なんかぢやありません。若旦那にはあんな力がないし、私は洗濯物でよく知つてますが、品吉には少しばかり腋臭があります。品吉に間違ひありません」 「よし〳〵、それで宜い。が、お前は八五郎に教へる筈だつた、お才さんを殺した下手人、それは品吉ではなかつた筈だ」 「──」 「お前が井戸端から月の光で見た一昨日の晩の人影、──それはお才を殺した下手人に違ひないが、それは誰だ」 「翌る晩私の喉を絞めた品吉ぢやありませんか」 「いや、違ふ。お前が前の晩見かけたのは品吉ではあるまい。──品吉に首を絞められて、見當がつかなくなつた」 「──」  お谷は頑固に默つてしまひました。  正直のところは、お谷自身にも判斷がつかなくなつてしまつた樣子です。 十四 「あツ」  平次が不意に障子を開けると、廊下から飛び退いた者があります。平次とお谷の話を立ち聽きして居たに違ひありません。 「品吉、待てツ」  品吉はあわてて廊下の行止り飛び込み、逃げるに逃げられず、間が惡さうに引ツ返して來たのです。 「へエ」 「へエぢやないぜ、──お前は人殺しをやりかけたんだ。お谷は放つて置けば死んだことだらう。繩を打つて引かれても文句はあるめエ」 「──」  品吉の顏はサツと蒼くなりました。臆病な獸物のやうな眼が、平次の救ひを求めます。 「お上にもお慈悲がある、縛られるのが嫌なら眞つ直ぐに言へツ。お谷の首を締めたのは、お谷がお才殺しの下手人を知つてゐて、それを八五郎に教へようとして居るのを知り、そのお谷の口を塞ぐためだつた──それに違ひあるまい」 「──」  品吉の蒼い顏は僅かにうなづきます。 「昨日の朝、お才の殺された窓の下を掃いたのは、どういふわけだ」 「──」 「あの窓の下には、足駄の跡があつた。俺はその足駄の主を調べようとして居ると、お前は先を潜つて、ある足跡を掃き消した」 「──」 「窓の下の足跡は女だつた。窓の敷居の上には、死骸から少し離れて、血染の二梃剃刀があつた──お前はあの足跡を御新造のお仙さんの足跡と思ひ込んで、掃き消したに違ひあるまい」 「親分、御新造は人などを殺すやうな人ぢやございません」 「この平次が、それを間違へて、御新造のお仙さんを縛るとでも思つたのか」 「親分」  品吉の顏は苦しさうでした。十六の少年の果敢ない戀、幼馴染ではあるが、今は人妻になつて居る、お仙にかゝる、恐ろしい疑ひを掻き消すために、窓の下の女下駄の足跡を消したり、下手人を見掛けたに違ひないお谷の首を絞めたのでせう。 「お才さんを殺した下手人は女ぢやない、女の下駄を履いた男だ。──窓の外から近づいて、窓に凭れて居るお才と話をして居た男だ」 「親分」 「どうだ、言ふことがあるか」 「相濟みません。皆んな親分の言ふ通り、私は、御新造を助け度いばかりに、いろ〳〵のことをしました」  品吉はたうとう我慢の角を折つて、少年らしくサメザメと泣くのです。 「さう打ちあけさへすれば、手數をかけずに濟んだのだ。──お前は助けてやる、逃げ隱れしちやならねえよ、宜いか」 「ハイ」  品吉の打ち萎れるのを見て、平次は斯う言ひました。 「お前は二階へ行つて、若旦那の眞太郎さんを呼んでくれ、平次が階下のお才さんの部屋に居りますとね。──お才さんの死んだ部屋だよ、一人で來て貰ひ度いと、わかつたか」 「へエ」  品吉は漸く許されて、放たれた小鳥のやうに、一足飛びに二階へ行きます。 十五 「おや?」  若旦那の眞太郎は、空つぽになつて居る、お才の部屋に入つて、不氣味さうに立つて居ります。その部屋は何一つなく、血潮の跡も洗ひ清められて、寒々と開け放してあつたのです。窓の外には人影、──それは外から廻つた平次でした。 「若旦那、此處で待つてましたよ」 「錢形の親分」 「この上默つて居ると、いろ〳〵の人が迷惑をしますよ、お谷が首を絞められたり、御新造が下手人の疑ひをかけられたり、それでも若旦那は默つて見て居るつもりですか」  平次の調子には激しい非難の響きがあります。華奢で色白で、美男ではあるだらうが、これはまた、あまりにも意氣地がなさ過ぎます。 「親分、私は途方にくれました。お才を殺したのは、私のやうな氣がしませんが、私に違ひないのです」  若旦那の眞太郎は思ひきつた樣子で、漸く打ち開けるのです。 「お才さんの使つた二梃剃刀が、死骸から三尺も離れて、窓の敷居の上に載せてあつた。唯の自害でないことは確かだが、殺しでもなささうだ。人を殺さうといふ程の人間なら、死骸の手に刄物を握らせて自害と見せかけるか、せめて死骸の側に刄物を置くに違ひない」  平次は此處まで見拔いて居たのです。 「皆んな申し上げませう。お才はこの半年私に絡みついて、お仙を離縁するか、でなければ、お仙を殺すか、自害すると言つて聽かなかつたのです。刄物を手離さずに持つてゐるので、私は氣味が惡くて」 「──」  平次はその先を促しました。 「一昨日の晩もこの部屋へ忍んで來てくれ、いよ〳〵死ぬか生きるかの返事を訊くといふのです。私は散々迷つた揚句、お湯へ行くといふことにして、町内を半刻も歩き、思案に余つて庭からそつとこの窓の外へ來ると、お才は窓に凭れて、私の來るのが遲いのに業を煮やし、ヂリヂリして居る樣子でしたが、私の顏を見ると、『お仙を殺す氣になつたか、それとも追ひ出すか』と言ふんです。私は首を振りました。そんな氣は毛頭なかつたのです」 「──」 「すると、それぢや、私に死ねと言ふも同じことだ。お前さんの目の前で死んで見せると、二梃剃刀を自分の首へ持つて行くぢやありませんか。私は驚いて窓に飛び付き、その手を取つて引止めました、ひどい力でした。と、窓越しの私の身體が崩れて手を離すと、お才は自分の持つた剃刀で、思ひ切り自分の首を掻き斬つてしまつたのです。──止める間もありませんでした。私が驚いてお才の手から剃刀を取り上げた時は、ひどい血で、──お才はそのまゝ窓の中に俯向に倒れてしまつたのです。──私は二梃剃刀を何處かに置いてそのまゝ、裏口から逃げ出してしまひました。これが本當のことです。自分の手で殺したやうな氣がして、私は、それを親分にも打ち明け兼ねて居りました。さあ、どうぞ、何んとでもして下さい。私は全く殺す氣なんかなかつたんです」  若旦那の眞太郎は、言ひ了ると、一昨夜お才がしたやうに、窓の内、疊の上に兩手を突くのです。         ×      ×      ×  事件はそれだけ、お才は自害で事は濟みました。丁稚の品吉は、嫁のお仙を庇ひ過ぎて、危ふくお谷を殺しかけましたが、平次の目こぼしで、手當を貰つて親許に歸され、掛り人のお谷は良い娘には違ひないのですが、若旦那に戀文を書いたのを耻ぢて、可哀想に自分から身を引きました。 「これで萬事落着か、最初驚かされたほどのことはありませんが、いろ〳〵結構なことを教はりましたね」  八五郎は鼻の下を長くして言ふのです。 「へエ、大層悟りやがつたな。まア、一つ仕事の片付いたところで、一杯つけよう」  平次はお勝手に合圖を送つて、一本つけさせることにしました。お靜は呑込んで要領よくお膳立てをして居ります。銅壺の中に一本お尻が入ると、八五郎の威勢のよくなること。 「お才といふ女は、あれだけのきりやうを持ちながら、氣が勝ち過ぎて、智慧があり過ぎて氣の毒でしたね」 「それがお前の悟りか、──女は利巧でない方が宜いなどといふのは、男の勝手といふものだよ」 「でも、お仙を見て下さい。少し弱氣で、利巧さうではないけれど、申し分のない嫁ぢやありませんか」 「綺麗でありさへすれば、お前には申し分なく見えるのさ。尤も、綺麗でも、眞太郎のやうなのはいけないよ。金があつて男つ振りが好くても、男はあんなに氣が弱くちや」 「男の屑見たいなもので」 「そこへ行くと、八五郎なんかは大したものさ、金もないし、男つ振りも大したことはないが、──氣の強いことだけは、江戸一番と言つても二とは下るまいよ」 「その氣で附き合ひませう」 「良い氣のものだ、──どりやお燗も丁度頃合ひだ、一つ行かうか」  平次は面白さうに徳利を引出して八五郎の前へ持つて行くのです。 底本:「錢形平次捕物全集第三十五卷 花嫁の幻想」同光社    1954(昭和29)年11月15日発行 初出:「主婦と生活」    1954(昭和29)年4月~6月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 ※「嘉七」と「喜七」の混在は、底本通りです。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2017年1月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。