錢形平次捕物控 禁制の賦 野村胡堂 Guide 扉 本文 目 次 錢形平次捕物控 禁制の賦 一 二 三 四 五 六 一  笛の名人春日藤左衞門は、分別盛りの顏を曇らせて、高々と腕を拱きました。 「お師匠、このお願ひは無理でせうが、亡くなつた父一色清五郎から、お師匠に預けた禁制の賦、あれを吹けば、人の命に拘はるといふ言ひ傳へのあることも悉く存じて居りますが、お師匠の許を離れる、この私への餞別に、たつた一度、此處で聽かして下さるわけには參りませんでせうか」  一色友衞は折入つて兩手を疊に突いて、斯う深々と言ひ進むのです。春日藤兵衞に取つては、朋輩でもあり、競爭者でもあつた一色清五郎の忘れ形見、一時は酒と女に身を持ち崩しましたが、近頃はすつかり志を改めて、藝道熱心に精進し、今度は愈々師匠藤左衞門の許を離れて、覺束ない乍らも一家を興さうとしてゐる男でした。取つて二十七、少し虚弱で弱氣ですが、笛の方はなか〳〵の腕前で、もう一人の内弟子の、鳩谷小八郎と、孰れとも言はれないと噂されました。 「一々尤も、お前の言葉に少しの無理もない。が、『禁制の賦』は三代前の一色家の主人、一色宗六といふ方が、『寢取り』から編んだ世にも怪奇な曲で、あれを作つて間もなく狂死したと言はれる。その後あの曲を奏する毎に、人智の及ばぬ異變があり、お前の父親一色清五郎殿が、嚴重な封をしてこの私に預けたのだ。流儀の奧傅祕事、悉くお前に傅へた上は、あの『禁制の祕曲』も還しても宜いやうなものだが、何んと言つても、まだ三十前の若さでは、萬一の過があつては取返しがつかぬ。決してあの曲を憎むわけではない、せめてあと三年待つがよからうと思ふがどうだ」  春日藤左衞門は道理を盡して、斯う言ふのです。 「よく判りました、お師匠。でも、私のやうな若い者には、笛を吹いて祟があるといふことは受け取れません。それはほんの廻り合せか、吹く人の心構への狂ひから起つた間違ひでございませう。それに私は自分の未熟もよく存じて居ります、『禁制の祕曲』をこの私に渡してくれといふやうな、そんな大それた事は申しません。たつた一度で宜しうございます。後學のために、お師匠の許を去るこの私に、一色家に傅はる祕曲を、吹いて聽かして下さればそれで堪能するのでございます」 「──」  藤左衞門は口を緘んで友衞の後の言葉を待ちました。 「禁制の曲に魔がさすと言ふのは、夜分人に隱れて、そつと吹くからでございませう。一日中で一番陽氣の旺んな時、例へば正午の刻と言つた時、四方を開け放ち、皆樣を銘々のお部屋に入れ、火の元の用心までも嚴重に見張つて、心靜かに奏したなら、鬼神と雖も乘ずる隙が無いことでせう」  一色友衞は、藝道の執心のために、どんな犧牲でも忍び兼ねない樣子でした。 「いかにも尤も、──それほど迄に言ふなら、この祕曲の封を解いて、お前にも聽かせ、この私も心の修業としよう」  春日藤左衞門は到頭折れました。この話の始まつたのは丁度辰刻半(九時)それから準備を整へ、正午刻少し前には、妻玉江、娘百合、あやめ、下女お篠、下男作松、内弟子鳩谷小八郎を、それ〴〵の部屋へ入れ、主人春日藤左衞門は、一色友衞とたつた二人、奧の稽古部屋に相對して、三十年前友衞の父一色清五郎の封じた、禁制の賦の包を解きました。  中から出たのは、平凡な能管の賦が一册、それを膝の前に開いて春日藤左衞門は見詰めました。 「よいか」 「はツ」  一色友衞は五六尺下がつて、疊の上に兩手を突きます。  虻が一匹、座敷を横切つて庭へ飛去ると、眞夏の日はクワツと照り出して、青葉の反影が、藤左衞門の帷子や、白い障子を、深海の色に染めるのでした。  高々と籐を卷いたぬば玉の能管、血のやうな歌口をしめし乍ら、藤左衞門はさつと禁制の賦に眼を走らせます。  一寸見たところでは、何んの變哲もない、『寢取り』の變奏曲ですが、心靜かに吹き進むと、その旋律に不思議な不氣味さがあつて、ぞつと背に水を流すやうな心持。藤左衞門は幾度か氣を變へて途中から止さうとしましたが、唇は笛の歌口に膠着して、不氣味な調べが劉喨と高鳴るばかり。  これは併し、いろ〳〵の先入心が、強迫觀念になつて、技倆に自信を持ち過ぎる、春日藤左衞門の心を脅かすのでせう。 「──」  吹き了つた笛を、流儀の通り膝の前に置いて、藤左衞門はホツと溜息を吐きました。暫くは師匠も弟子も、物を言ふことさへ忘れてゐたのです。 「有難うございました」  やゝ暫く經つて、緊張の弛んだ一色友衞は、丁寧に一禮しました。  その時、── 「わツ、た、大變ツ」  下男の作松の凄まじい聲が、遙かの方から眞晝の部屋々々を筒拔けて響きます。 二 「何うした」 「何が大變だ」  家中の者が、八方から集まりました。作松が怒鳴つてゐるのは、中庭に背いて、庭木戸に面した、二番目娘あやめの部屋の前、踏石の上に立つたまゝ、縁側へ手を突いて、部屋の中を覗く恰好になつたまゝ、尚ほも氣狂ひ染みた聲を張り上げてゐるのです。 「お孃さんが、──お孃さんが」 「娘がどうした」  一番先に驅込んだのは、春日藤左衞門、それに一色友衞が續き、鳩谷小八郎が續きました。 「あツ」  凄まじい恐怖が、花火のやうに炸裂したのも無理はありません。部屋の中に若い娘が一人、首に強靱な麻繩を卷かれ、その繩尻を二間ばかり疊から縁側に引いて、俯向になつたまゝ死んでゐたのです。 「お、あやめツ」  が、引起した藤左衞門は、一と目、それは妹のあやめで無いことに氣が付きました。 「あ、百合だ」 「お姉さん、まア」  妹のあやめは涙聲になつて、姉の死骸に縋りつきました。  無殘な姿になつてゐるのは、少し足が惡い上、ひどい疱瘡で見る影もないきりやうになつた姉娘のお百合、二十四になるまで兩親の側に居て、藝事に精を出してゐる、日蔭の花のやうな娘でした。  十九になる妹のあやめは、姉に比べるとびつくりするほどの綺麗さ、その方は幸に無事だつたのです。 「まア、どうしたことでせう」  母の玉江は、一番遲れて縁側へ顏を出しました。十九の時あやめを生んで、今年は三十七、繼子のお百合よりは、遙かに美しく、若々しくさへ見える内儀振りです。  それから際限もなく混亂が續きました。醫者が來る前に、呼び掛ける者、泣き叫ぶもの、水をかける者、背中を叩くもの、滅茶々々な介抱をしましたが、お百合はもう息を吹き返しさうもありません。  町内の御用聞、佐吉が驅け付けたのは、それから又一刻も經つた後のことです。  一と通り樣子を聽いて、お百合の死骸を見ると、 「すまねえが、お内儀に番所まで來て貰はうかえ」  錆のある聲が、藤左衞門とその若い女房の玉江を縮み上がらせます。 「親分、──繼しい仲には違ひないが、この女は、そんな大それたことの出來る女ぢやありませんよ」  藤左衞門は一應女房を庇護しました。 「いや、配偶の言ふことなどは當になるものぢやねえ」  佐吉は少し光澤のよくなつた頭を頑固らしく振ります。 「御新造さんぢやありませんよ、親分さん」  下女のお篠です。二十一歳の純情をぶちまけて、自分達には此上もなく良かつた、主人の妻を救ふ氣になつたのでせう。 「お前なんかの口を出す場所ぢやねえ、引込んでゐるがいゝ」 「だつて御新造さんは、上野の午刻の鐘が鳴るズーツと前から、ツイ今しがたまで、私と一緒にお勝手に居たんだもの」 「何んだと?──そいつが嘘だつた日にや、手前も牢へ叩き込まれるよ」 「いゝとも、舌を拔かれても驚かないよ」  お篠は一歩も退きません。その眞つ正直らしさも、佐吉の疑ひをケシ飛ばしましたが、それよりも縁側にしよんぼり坐つたまゝ、一言も辯解がましい事を言はない玉江の態度が、今まで惡者ばかり見て來た佐吉の眼にも、かなり不思議なものに映つたのでした。 「よし、それぢやお前の顏を立ててやらう、──ところで、その繩を見せてくれ」  佐吉は死骸から外した繩を受取つて、念入りに調べました。 「その尖端が罠になつて居るやうだが──」  鳩谷小八郎はツイ口を出しました。この男は一色友衞より四つ年下の二十三で、武家出の腕も才覺も出來た男、わけても妹娘のあやめと、何かの噂を立てられてゐる、立派な男でもあつたのです。 「成程、こいつは罠だ、──どんな具合に首に掛けてあつたか、ちよいとやつて見てくれ」 「──」  佐吉の頼みに、皆んな顏見合せるばかり、一人も立たうとする者はありません。 「親分さん、──繩の先が罠になつて居ましたよ。投げ罠で獸を捕る時にやる──あの調子で──」  作松は何の作意もなく、そんな事を言ふのです。 「ちよつとそれをやつて見てくれ」 「いやな事だが、やりますよ。大きいお孃さんの敵を討つためなら、これも仕方があるめえ。南無阿彌、南無──」  作松は念佛を稱へ乍ら、百合の死骸の首に繩を卷いて見せるのでした。 「成程、それなら遠くから投つて、首へ引つ掛けられる、──お前は何處の生れだ」  佐吉は變なことを訊きました。 「信州ですよ、尤も十七の時江戸へ出て、二十五年も奉公してゐるが──」 「すると前厄か」 「へエ──」 「信州に居る時は、ちよく〳〵その投げ罠で獸を捕つたんだらう」 「時々はやりましたよ、親分」 「今でも、人間位なら捕れるだらうな」 「と、飛んでもない」  作松は愕然としました。首尾よく佐吉の訊問の罠に掛つたのです。 「まア宜い、──ところで庭木戸は内から締つてゐるやうだが──」 「此處は滅多に開けません」  一色友衞はしかと言ひ切りました。 「下手人は家の中の者で、たつた一人で居た者となると──」  佐吉の眼は兎もすれば繼母の玉江と、下男の作松の面上に探り寄ります。 三 「親分、お助けを」  その日の夕刻、下男の作松は、辛くも春日家を脱け出すと下谷竹町から神田明神下まで一氣に飛んで、錢形平次の家へ轉げ込んだのです。 「あツ、脅かすぜ、爺さん」  平次はそんな無駄を言ひ乍ら、この闖入者を迎へました。 「錢形の親分さん、お助け下さい。一生のお願ひ、親分を見込んで、命がけで飛んで來ました」 「おだてちやいけねえ、俺は人に拜まれるやうな惡いことをした覺えはねえ、──まア、落着いて話して見るが宜い」  平次はお靜を頤で呼ぶと、冷たい水を一杯持つて來させ、それを作松に呑ませて、兎も角も落着かせました。 「親分、お願ひ──」 「又拜むのかい爺さん、わけも言はずに、いきなり拜まれちや、面喰らつてゐるだけだ。わけを話して見ねえ」  平次と、ガラツ八の八五郎に慰められて、作松は漸く落着いた心持になりました。  そつ訥々とした口調で、何うにか呑み込ませたのは、今日の晝頃から起つた、笛の春日藤左衞門一家に起つた出來事の顛末です。 「──こんなわけでございます、親分さん。禁制の賦とやら、不氣味な笛の音のする最中、私は裏の物置の中を片付けてゐました。笛も濟んだやうだから、庭でも掃く心算で、お孃さんの部屋の前まで來ると──」 「──」  作松はゴクリと固唾を呑みます。無言でその先を促す平次。 「お孃樣は首に繩をつけて、部屋の眞ん中に俯向に倒れて居なさるぢやありませんか」 「部屋の眞ん中に、俯向だね──仰向ぢやあるまいな」 「間違ひはございません。着物や、髮形がよく似てゐるので、最初は見馴れた私も、妹のあやめさんと間違へたほどですから、玉子を剥いたやうなあやめさんと、疱瘡で菊石になつたお百合さんとは同じ姉妹でも大變な違ひやうで、仰向になつてゐれば、間違へるやうなことはありません」 「成程」 「疑ひはお内儀の玉江樣に掛りました。お百合さんとはたつた十歳しか違はない繼母ですから、佐吉親分が一應さう思ふのも無理のないことです。が、お内儀は心掛の立派な方で、そんな淺ましい事をなさるやうな人柄ではございません」 「──」 「それに繼しい仲の──殺されたお百合さんは、ひどい菊石の上に、足も惡く、尼さんのやうな淋しい心掛で暮して居る方でしたが、そのお心持の立派なことと申しては──」  作松はツイ涙繁くなる樣子です。四十男の作松は、長い〳〵奉公の間に、生ひ立ちからの二人の姉妹を見て、きりやうは醜くとも、心掛の美しいお百合に、淡いあこがれを持つやうになつてゐたのでせう。 「で?」  平次は又その先を促しました。 「佐吉親分は、投げ罠を死骸の首に掛けさせて見るやうな、隨分イヤな事をさせた上、いきなり私を縛ると言ひ出すぢやありませんか。信州の山奧に居る時は、隨分投げ罠も使ひましたが、それはもう二十何年も昔のことで、江戸へ出て人間を害めることなどは、夢にも考へちやゐません」 「成程、そいつは放つて置いちや氣の毒だ」  平次はツイツイそんな事を言ふのでした。 「有難い、それぢや錢形の親分さん、乘出して下さいますか」 「待つた、そんなに夢中になつちやいけねえ。御用聞にも繩張りがある、下谷竹町は佐吉の繩張りだ、俺はあんなところまで乘出すわけには行かねえ」 「さう言はずに、親分」  作松は拜んでばかりは居ませんでした。いきなり平次の手を引立てて、力づくでも引張つて行かうとするのです。 「冗談ぢやねえ。そんなつまらねえ事をしたところで、親分はどうにもなるわけはねえ」  ガラツ八の八五郎ツイ立上がりました。 「親分さん、お願ひだ。俺はどうなつても構はねえ。が、殺されたお孃さんのお百合さんは、本當によく出來た方だ。あの敵を討たなくちや、この腹の蟲が癒えねえ」  作松は、平次の手に取りすがつたまゝ、ポロポロと泣くのです。 「よし、それ程に言ふなら行つて見よう。が、下手人は並大抵の人間ぢやあるめえ、どんな人間を縛つたところで、後で怨んぢやならねえ、判つたか」 「それはもう親分さん」 「それからもう一つ、お前に訊いて置くが、娘の部屋の前の裏木戸は、本當に閉つて居たんだね」 「間違ひはありません。先刻私が縛られさうになつて、飛出さうとすると、木戸は内から閉つて居るぢやありませんか」 「そいつは大事なことだ、──八、行つて見ようか」 「親分」  平次の持前の探究心は、佐吉への氣兼も忘れて、到頭この事件の眞ん中に飛込ませたのでした。 四  竹町へ着いたのはもう夕刻。肝心の作松が大きな疑ひを背負つたまゝ行方不知になつて、佐吉がカンカンに怒つてゐる最中へ、錢形平次と八五郎をつれて、ノツソリと歸つて來たのです。 「何處へ行つて來やがつた、野郎ツ」  飛付く佐吉。 「兄哥待つてくれ、──樣子は此男から聽いたが、どうも下手人は外にあるやうだ」  と平次は見兼ねて割つて入りました。 「お、錢形の、兄哥の智慧を借りるほどの事でもないやうだ。人間の首つ玉へ、投げ罠なんか引つ掛ける野郎は、どう考へたつてその男の外にはねエ」  佐吉は憤々として作松の物悲しい顏を指すのです。 「さう思ふのも無理はねえが、自分で殺したのなら、わざ〳〵罠を人樣に見せて、疑ひを背負ひ込むやうな馬鹿はあるめえ」 「その野郎は賢い人間だといふのかえ、錢形の」 「賢くはねえだらうが、滿更馬鹿でもねえ樣子だ。それに兄哥」  平次は一向こだはりのない調子で、其處に固唾を呑む圓陣の顏を一とわたり見やり乍ら、部屋の中に眼を移しました。 「──」  佐吉の憤懣は容易に和められさうもありませんが、此處でムキになつては、後の不面目を救ふ由もないことを知つて居るのか、次第に職業的な冷靜さを取戻す樣子です。 「ね、兄哥。死骸は仰向ぢやなくて、俯向になつて居たさうぢやないか」 「ウム」  佐吉は不承々々にうなづきました。 「投げ罠を首に掛けて、遠くから引いて殺したものなら、後ろ向になつて居るところをやられた筈だから、死骸は仰向になつて居なきやならない」 「──」 「死骸は俯向になつて居るし、作松は草鞋を穿いてゐる」 「──」 「ノコノコ部屋に入つて、後ろから絞めて置いて、仰向に轉がしたのはどう考へても作松ぢやねえ」 「──」 「身に覺えがあるなら、其處で怒鳴つて居るわけもなく、俺のところへ飛んで來る道理もねえ。まア作松は放つて置いて外を搜して見ようぢやないか、兄哥」  平次の調子は慇懃ですが、條理は櫛の齒のやうに眞つ直ぐに通つて、佐吉も今は爭ふ餘地もありません。 「すると下手人は?」 「困つたことに、俺にも判らねえよ」 「ハツハツハツ」  平次の言葉の唐突な調子に、佐吉は思はず笑つてしまひました。  佐吉の大笑ひで二人の間の蟠りが取れると、平次は改めて春日家の一人々々に當つて見ました。主人の春日藤左衞門は、 「何んにも心當りはありません。不具ではあつたが、あの娘は心掛の良い娘で、人樣に怨まれる筈もなく、こんなことになつては、可哀想でなりません」  そんな事を言ふだけの事です。 「縁談の事とか、聟の話は」  と平次。 「そんな事は耳を塞いで、聽かうともしなかつた娘です。可哀想に、諦めてゐたのでせう」 「それから、話は違ふが、その禁制の曲とやらは、本當に祟るものでせうか」 「さア──、まさかね」  平次の眞面目な態度に引入れられて、春日藤左衞門は本當の事を考へて居たのです。家柄だけに、笛の奇蹟を信じ度いことは山々でせうが、娘一人を殺した相手が、鬼神や魔神の仕業では、親心が承知しなかつたのです。 「二人の内弟子のうち、どつちが笛がうまいでせう」  平次の問ひはいよ〳〵定石外れです。 「一色友衞の方が少しうまいでせうが──」  若い時分に道樂強かつたことや、師匠の伜といふ遠慮や、性格的ないろ〳〵の缺點が、春日藤左衞門の心を、武家出の鳩谷小八郎の方へ傾けてゐる樣子です。  平次はそれ位にして、内儀の玉江を別室に呼んで見ましたが、この美しい繼母からは何んにも引出せません。お百合の死んだ驚きと悲しみに顛倒して、何を訊ねても、世間並の返事しか聽かれなかつたのです。  續いてあやめ、これは大變な收獲でした。 「惡者は、どうかしたら、此私を殺す心算ではなかつたてせうか」  姉に似ぬ美しい顏を硬張らせて、そのつぶらな眼をしばたゝくのです。 「どうしてそんな事が」  と平次。 「だつて、笛の音のする間、皆んな自分の部屋に居るやうにと言はれたのに、私は、怖いからお母さんのお部屋へ行つたんです」 「──」 「すると、お母さんはお勝手へ行つて、お部屋にはいらつしやらなかつたから、お歸りを待つて居たんです」 「──?」 「その間に、姉さんは、私に用事があるかなんかで、私の部屋へ行き、うつかり手間取つて居るところを、後ろ姿が似てゐるので、私と間違へて殺されたのではないでせうか。年は隨分違つてゐるけれど、あんまり着物の柄が違つては、嫁入前の姉さんに氣の毒だからと仰しやつて、お母さんのお指圖で、私とお姉さんと似たやうなものを着てゐるんです」  あやめの話は、處女らしくたど〳〵しいものでした。でも平次は巧みにその話を整理していくと、曲者の意圖が何處にあつたかが判るやうな氣がしました。  このすぐれて美しい娘が、事件の原動力になつて、氣狂ひ染みた殺戮へ、誰かを引込んで行つたのでせう。この娘の命を狙ふ者は誰? 平次の眼は、若い二人の男、鳩谷小八郎と一色友衞に釘付けになりました。  もう一度、その微妙な消息を春日藤左衞門に訊くと、 「一色友衞にも鳩谷小八郎にも、娘をやると約束した覺えはありません」  とはつきり言ひ切ります。  一色友衞は藤左衞門の昔の朋輩の子ですが、放埒で、弱氣で、笛の腕前は確かでも、娘をやる氣にならず、鳩谷小八郎は、武家の出で腕もよく、男振りもなか〳〵立派ですが、人柄に氣に入らないところがあつて、娘の養子にはし度くないと言つた心持が、藤左衞門の言葉の外に溢れるのでした。  もう一度あやめに訊くと、これは眞つ赤になつて何にも言はず、母親の玉江は、 「何んと言つてもまだ十九ですから、人柄を見拔くことなどは思ひも寄りません」  と謎のやうな事を言ふだけでした。 五  平次は庭に降りて、庭石の配置や、かなり深い植込みの樣子や、裏木戸の具合を調べて見ました。  作松が言つたやうに、裏木戸は内から輪鍵が掛つて居りますが、釘はさしてゐず、その下のあたりはよく踏み堅められて、變つた足跡などを付けられさうもありません。  引返して一色友衞を搜すと、何時の間にやら稽古場に引込んで、春日藤左衞門が置き忘れたままの『禁制の祕曲』の前に、愛管に息を入れて、一生懸命工夫をして居ります。斯う音を立てずに吹いてゐても、その道の者には、曲の感じが判るのでせう。 「それが禁制の賦とやらで?」  平次は靜かに近づきました。 「え」  一色友衞の振り返つた眼には、藝術的陶醉ともで言ふのでせうか、夢見るやうなものがありました。 「それを吹くと人が死ぬほどの祟りがあると言ふのでせう」 「私は、そんな事を本當には出來ません。この曲は、少し變つては居るけれど、『寢取り』には違ひないのですよ」  寢取りとはどんなものか、それさへ平次には解りません。 「ところで一色さん、死んだお百合さんは、どんなお孃さんでした?」 「申分のない人でした。優しくて、慈悲深くて、お氣の毒な──」 「妹のあやめさんは?」 「あの人は綺麗でせう、あんなお孃さんは滅多にありませんね」  一色友衞の眼は藝術的な陶醉からさめて、現實の世界のあこがれに活々と輝きます。  平次はそれ以上に追及する題目も無かつたのでせう。一色友衞と別れて、今度はあやめと廊下で立話をしてゐる鳩谷小八郎を見付けて、人の居ないところに誘ひました。 「鳩谷さんは御武家の出ださうですね」 「三男ではどうにもならない、──笛でも稽古しなきや」  少し捨鉢な調子です。 「死んだお百合さんはどんなお孃さんでした」 「良い人だつた、あんな人は滅多にないな」 「妹のあやめさんは?」 「さア」  小八郎は含蓄の深い笑ひを殘して、平次の思惑に構はず、サツと向うへ行つてしまひました。 「親分、下手人の當りはつきましたか」  ガラツ八は心配さうな顏を出しました。平次の動きを、不愉快な顏で見守つてゐる、佐吉の態度に、少しばかりムシヤクシヤしてゐる樣子です。 「解つても縛るわけに行かないよ」 「へエ──」 「餘つ程巧んだ仕事だ。こんな恐ろしい人間を、俺はまだ見たこともない──」  平次は何となく萎れ返つて居ります。 「男ですかい、女ですかい」 「それがね」 「驚いたね」  ガラツ八は恐ろしく酢つぱい顏をして見せるのでした。 「解つてゐるぢやないか、八兄哥」  佐吉は苦り切つた顏を持つて來ます。 「佐吉兄哥、──俺も解つた心算だが、どうも腑に落ちないことがある。一と晩よく考へて、明日の巳刻過ぎに、又此處で逢ふことにしようか」  平次は變なことを言ひ出しました。 「そんな手數のかゝる事をしなくたつて、下手人の匂ひのするのを擧げたら宜いぢやないか」  と佐吉。 「それがいけない」 「作松でなきや、繼母の玉江さ、──下女と一緒にお勝手に居たつて言ふが、あの下女だつて一と役買つてゐるかも知れねえ」 「まア、待つてくれ、佐吉兄哥。下手人はどうせ逃げつこはねえ、何事も明日のことだ」  平次は何か考へたことのある樣子で、サツサと引揚げましたが、一二町行くと小戻りして、主人の春日藤左衞門を呼出し、門口で何やら念入りな注意を與へる樣子でした。  それから眞つ直ぐに神田へ──。 「八、これから一と晩かゝる心算で、一色友衞と鳩谷小八郎の身許を洗つてくれ。親兄弟のことも出來るだけ詮索するんだよ」 「そんな事ならわけはねえ」 「それから、下ツ引を狩出して、あの家の通夜にやつてくれ。一人へ一人づつ見張りをつけるやうにするんだ、判つたか」 「へエ──」 「油斷をすると恐ろしい事になるぞ」  何が何やら解りませんので、八五郎は面喰らつて飛出しました。平次の言ひ付けたことを、忠實過ぎるほど忠實にやり遂げるのが此男の取柄です。 六  翌る日、平次と八五郎と佐吉が、竹町の春日家に顏を揃へたのは、巳刻半少し過ぎでした。  平次の警戒を裏切つて、無事な一と晩が明けると、春日家の空氣もさすがに、いくらか冷靜さを取戻した樣子です。 「少し解りかけた事があります。面倒でも、もう一度昨日の通りの事をやつて下さい」  平次は變なことを言ひ出しました。 「昨日の通りと言ふと?」  驚いたのは春日藤左衞門でした。 「皆んな昨日の晝の通りに、──お勝手にはお内儀と下女、お孃さんは親御さんの部屋に、鳩谷さんは御自分の部屋、作松は物置、──御主人と一色さんは稽古部屋、そして昨日と同じやうに、上野の午刻が鳴つたら、禁制の賦を吹くのです」 「そんな事が──」  あまりの事に、春日藤左衞門はさすがに尻ごみしました。 「いや、これをやらなきや、お孃さんを殺した下手人は解りませんよ。さア、もう正午が近い、銘々の部屋に入つて下さい」  平次は假借しません。八五郎に手傳はせて押込むやうにそれ〴〵の部署に就かせると、家の中は暫く、死の寂寞が領しました。  シーンとした、眞晝の淋しさ。  やがて上野の正子刻の鐘が鳴ると、奧の稽古部屋から、不氣味な笛の音が、明る過ぎるほど明るい眞晝の大氣に響いて、地獄の音樂のやうに聞えて來るのです。  やゝ暫くすると、裏木戸は、外から靜かに開きました。輪鍵がかゝつて居なかつたのでせう。と、木戸を押してそつと入つて來た怪しの者が一人、跫音も立てずに部屋の外へ忍び寄ると、戸袋の蔭から、スルリと縁側に滑り込みました。  見ると、疊の上を膝で歩いてゐるのです。  部屋の中には、後ろ向になつた女が一人。怪しい者の手から、それを目がけてサツと繩が伸びました。と、女と見たのはクルリと振り返つて、投げかけた繩の下をくゞると、曲者の身體に素晴らしい體當りをくれました。錢形平次です。 「わツ」  逃げ出す曲者。 「御用ツ」  羽織つた女の單衣をかなぐり捨てると、平次は曲者の利腕を取つて、縁側にねぢ伏せたのです。 「親分」  飛んで來たのはガラツ八と佐吉。  平次は曲者の始末を二人に任せて、靜かに庭へ飛降りた時、奧から、勝手から、藤左衞門と二人の弟子と女達は、一ぺんに飛込んで來ました。 「この通り、皆んなの氣のつかないやうに、裏木戸を閉める隙はある」  平次はその間に裏木戸の輪鍵をかけて、元の縁側へ歸つて來たのです。  ガラツ八と佐吉が滅茶々々に縛り上げた曲者を見ると、下谷から淺草の界隈を、物貰ひをして歩く馬鹿の馬吉といふ達者な三十男。 「あれ、何をするんだよ。俺は何にも惡いことをしねえよ」  襤褸だらけの裝束をゆすぶり乍ら、大聲にわめき散らすのでした。 「馬吉、──飛んでもねえ野郎だ。何だつてこんな所へ入つて來たんだ」  平次は靜かに訊きました。 「一貫の大仕事だよ、一貫ありやお前何だつて食へるぢやないか」 「その錢をくれたのは誰だ」  佐吉は少しあせります。 「知らねえよ、言つちやならねえことになつて居るんだ」 「よし〳〵、お前は良い男だ。俺が二貫やるから、その錢をくれたのは誰だか言つてくれ」  平次は餌を抛つたのです。 「二貫? 嘘だらう」 「嘘ぢやない、ほら此通り」  平次は一と掴の錢と小粒を交ぜて馬吉の膝小僧の下に竝べたのです。額は二分以上あつたでせうが、馬鹿に取つては、一貫の上は二貫でなければなりません。 「やア、隨分あるな。それだけありや、馬だつて殺してやるぜ、──錢をくれた人かい、顏は判らなかつたよ。この暑いのに、頭巾を冠つた侍だつたよ」  さう言ふうちにも、馬鹿の目は、好ましさうに一と掴みの錢の山を眺めるのでした。 「皆さんに聽いて貰ひ度いことがあります。稽古部屋へ集つて下さい、──馬鹿の馬吉は、そのまゝ物置へ抛り込んで置けば、錢を眺めて遊んで居ますよ」  平次は春日家の人達を、下女のお篠から下男の作松まで、奧の稽古部屋に入れました。 「親分、馬吉を嗾けたのは誰でせう」  春日藤左衞門はさすがに氣が氣でない樣子です。 「今に判りますよ、──これで皆んなかしら、──いや頭數なんか數へるまでもない、──そこで、馬鹿の馬吉を使つてお孃さんを殺した曲者は誰か、これから考へて見ませう」  これから考へる──といふ悠長な言葉に、藤左衞門は眉をひそめました。 「曲者は、──びつくりしちやいけませんよ、實は、妹のあやめさんを殺す氣だつた。馬鹿の馬吉を手なづけ、膝で歩くことや、繩で締めることまで仕込んで、あの日裏木戸から植込の蔭へ誘ひ入れて隱した」 「──」 「馬吉には、上野の正午が鳴つて、奧で笛の音がしたら、そつとお孃さんの部屋へ入つて、害めるやうに教へて置いた。笛の音と一緒にやるのは、その時刻には、皆んな銘々の部屋に入つて、怖々時の經つのを待つてゐるから、あの部屋のあたりには人目が無い上に、自分は何の關係も無いことを他の人に見せ付けて置くことが出來る。それから、何も彼も禁制の賦の崇と思はせることも出來るかも知れず、それがいけなければ、平常投げ罠の自慢をして居る、作松に罪を被せることが出來る」  平次の説明の恐ろしさに、思はず一同は顏を見合せました。 「それは誰だ。親分、言つて下さい。その娘の命を狙つたのは誰だ」  春日藤左衞門はたまり兼ねて、平次の方ににじり寄りました。娘の敵が判つたら、即座にも斬つてかゝる心算でせう。 「あれ、──あれが下手人ですよ」  平次は耳をすまして、遠く物置の方を指しました。 「御用ツ、御用だツ。野郎ツ」  八五郎の叱咜と、刄と十手の相搏つ音が、明るい眞晝の空氣に、ジーンと響きます。平次を先頭に皆んな飛んで行きました。物置の前では、八五郎に組み敷かれた一人の曲者、まだ精一杯に爭ひ續けて居ります。 「あツ、友衞」  藤左衞門も、玉江も、あやめも色を失ひました。その曲者といふのは、禁制の祕曲を、あんなにせがんだ、──猫の子のやうに弱々しい、あの一色友衞の、取亂した凄まじい姿だつたのです。 「此野郎が、馬鹿の馬吉を、後から匕首で刺さうとしましたよ」  ガラツ八の威勢のよさ。 「そんな事だらうと思つたよ、恐しく惡智慧の廻る野郎だ」  平次はガラツ八に手を貸して、一色友衞を縛り上げます。 「親分、これが曲者? あの娘を殺したのがこの男でしたか」  藤左衞門はよろ〳〵と崩折れて、鳩谷小八郎に援けられました。 「一色家の何も彼も、──格式も、藝も、皆んな春日家のお前さんに奪られたと思ひ込んで居るのですよ。根性の曲つた人間の考へることは、まともな人間には判らない」  不意に縛られた友衞は立上がりました。 「そればかりぢやない、あやめまでこの俺を踏付けやがつた──賣女」 「あれエ──」  物凄い呪の叱咜を浴びて、あやめは暴風の前の草花のやうに大地に崩折れました。 「八、向うへつれて行け」  平次は八五郎に目配せして、必死と狂ふ一色友衞を遙かの方に違ざけ乍ら續けました。 「皆んなあの男のひがみだ。が、内弟子も、外弟子も、あんな綺麗な娘を勘定に入れずに、藝事にばかり打込んで殘ると思ふのも間違ひだ。──人間は人間が考へるよりは弱い。早く聟を決めることですね」  平次はさう言ひ捨てて、八五郎の後を追ひます。何時もの人を縛つた後口の惡さを舐めて居るのでせう。  馬鹿の馬吉は、物置の中で何時までも錢の勘定をして居りました。手にをへない夥しい寳に陶醉した顏を擧げて、時々ニヤリニヤリとするのを、手柄をフイにした佐吉は忌々しく睨め付けて居ります。 底本:「錢形平次捕物全集第十六卷 笑ひ茸」同光社磯部書房    1953(昭和28)年9月28日発行 初出:「オール讀物」文藝春秋社    1939(昭和14)年7月号 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2014年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。