一僧 トゥルゲニエフ Ivan Tourguenieff 上田敏訳 Guide 扉 本文 目 次 一僧  わが知己に一人の僧ありき──世を遁れ、行ひすましぬ。ひたぶるに、祈祷を淨樂として、一念これに醉ひぐれたれば、精舍のつめたき床にたちても、膝より下の、ふくだみて、全身、石柱をあざむくに至るまで、ひるまざりき。すべてのおぼえ、うせぬるまでも、そこに佇みて祈り念じぬ。  この人の心、われよく識りぬ。こゝろ妬たくさへおもほゆ。彼また吾を解したれば、おのれが悦にえとゞかねばとて、卑しみ果つることつゆなかりき。  この人は、憎むべき『我』をほろぼしつ。しかはあれど、吾の祈りえざるは、あながちに、唯我のたかぶりあるのみにあらじよ。  わがもてる『我』は、この人のもてる『我』よりも、更に重くして、更に憎々しかるなり。  おのれを忘ずる術、かれ、既にみいだしぬ。われもまた、いつも〳〵といふにあらねど、『我』を脱離する法を悟れり。  彼は、矯飾の徒にあらず、われまたさにあらじかし。 底本:「上田敏全訳詩集」岩波文庫、岩波書店    1962(昭和37)年12月16日第1刷発行    2010(平成22)年4月21日第38刷改版発行 初出:「明星 三ノ二」    1902(明治35)年8月 入力:川山隆 校正:岡村和彦 2013年1月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。