錢形平次捕物控 寳掘りの夜 野村胡堂 Guide 扉 本文 目 次 錢形平次捕物控 寳掘りの夜 一 二 三 四 五 六 七 一 「親分、金儲けを好きですか」  ガラツ八の八五郎、また飛んでもないことを言ひ出すのです。  櫻は過ぎたが、遊び足りない江戸の人達は、ゆく春を惜んで、ほろ醉心地のその日〳〵を送つてゐるやうな、ウラウラとした日が續きます。  相變らず神田明神下の平次住居の段、親分は怠け者で、子分は呑氣者で、お米の値段と係はりのない掛け合ひ噺ばかりしてゐるのかと思ふと、豈計らんや、今日はまた金儲けの話を持込んで來る八五郎です。 「毆るよ、八。金儲けが好きで、こんな稼業が勤まるかよ。小泥棒を追ひ廻してるこちとらぢやないか、馬鹿々々しい」  平次は腹を立てる張合もなかつたのです。 「でも、今晩お膝元の櫻の馬場で、寶掘りが始まるんですぜ」 「何んだえ、その寶掘りてえのは?」 「親分は御存じないんで、そいつは燈臺下暗しだ」 「生意氣なことを言ふなよ。お前は近頃、油斷大敵だの、燈臺下暗しだの、妙なことを言ふやうだが、何處で仕入れて來るんだ」 「悧巧者の吉太郎が教へてくれますよ。寶屋の居候で、馬鹿の宇八と、鶴龜燭臺見たいに對になつて居る人氣者だ」  それは神田宮本町の大地主、金貨で肥り過ぎた身上を、近頃は扱ひ兼ねてゐると言はれる程の、寶屋清右衞門の居候で、野幇間も兼ねてゐる、跛者で眇目で、リゴレツトに丁髷を結はせたやうな中年者でした。  馬鹿の宇八といふのは、町内の厄介者、本人は決して馬鹿ではないと威張るのですが、調子が變で、藪睨みで、音痴で、何んとなく釘が一本足りない男。使ひ走りや、小用を足して、誰が飼つて居るともなく、一年ほど前から此邊を塒にして居る三十男、のんびりした江戸の世界には、よく斯う言つた屑のやうな人間が餓ゑも凍えもせずに存在して居たのです。  その頃は『居候の名人』といふものがあつたとさへ言はれて居ります。器用に障子を貼つたり、子供の守が上手で、掃除もすれば、文使ひもする。何處へ行つても調法がられるが、決して惡事は働かず、缺點は物事に辛抱がないから、きまつた職業も持たないだけのこと。たとへば、テント虫のやうに無害で、誰にも嫌はれることのない、不思議な存在だつたに違ひありません。 「成程、近頃お前の樣子が變だと思つたら、悧巧者の吉太郎といふ振り附けがあつたのか、あんな男の眞似をしてゐると、人には調法がられるが、段々縁遠くなるばかりだよ」  平次にして見れば、八五郎が何時まで獨りでゐるのが氣になつてならなかつたのですが、近頃は街の人氣者になり過ぎて、嫁の口も聟の口も、持つて來る者のなくなりかけてゐるのが、子分思ひの惱みだつたのです。 「安心して下さいよ。八さんと一緒になり度いといふのが三四人はあるから、いづれあの妓とあの妓の年が明けたら、入れ札で決めようと思つてゐるくらゐだから」  そんなことを言ふ八五郎です。お勝手の方では、平次の女房のお靜が、たまらなくなつて吹き出してゐる樣子。 「その氣で居るから、お前といふ人間は何時までも若いんだらうよ。ところで寶掘りはどうしたんだ、燈臺下暗しの因縁を聽かせる筈ぢやないか」 「そのこと、そのこと」 「忘れちやいけねえ」 「櫻の馬場で、今晩暮れ六つを合圖に寶掘りが始まるんですが、親分も行つて見ませんか。運がよく小判でも掘り當てると、こいつは一つ呑めますぜ」 「佐渡の國なら金を掘る話は聽いたが、江戸で通用金の小判を掘る話は初耳だよ」 「へエ、親分が知らなかつたんですか、現に此間──と言つても、まだ櫻の咲いてゐる頃、向島に一度、飛鳥山に一度あつて、大變な騷ぎをやつたんですが」 「聽いたやうな氣もするが、花見の趣向の一つだらうと思つて、あまり氣にも留めなかつたよ」  平次はそんな遊びの相手になるほど暇ではなかつたのです。 「花見の趣向には違ひありませんが、こいつは矢張り金儲けの興行物ですよ。最初は飛鳥山の花の下で、山の中腹に二三十間四方の繩張りをして、二十四文の木戸錢を取つて多勢の者を入れ、藪の中で寶搜しをやらせたんで、一等の大當りは一分金、それから豆板銀に南鐐、あんなに出しちや、勸進元が損をするだらうと思つたくらゐ、いやもう山中の人氣をさらつて、何千人と入り込み、飛鳥山を禿ちよろにしましたよ」 「驚いたのは蚯蚓」 「それに一分金を掘り當てた奴」 「そいつは、勘進元の仲間ぢやなかつたのか」 「親分はさすがに目は屆くが、大丈夫、仲間ぢやありません。三河島の百姓で、親孝行で評判の良い男」 「それから?」 「向島では三圍樣の境内を半分借り切つてやりました。この時は小判が出たから驚くでせう」 「小判を景品に出しちや、少しくらゐの入りぢや追つくまい」 「多分、花見の客が落したのを、寶搜しで拾つたのだらうといふことでした。勸進元の山の宿の喜三郎も膽をつぶして居たくらゐだから」 「その小判を拾つたのは誰だえ」 「馬鹿の宇八で」 「成程」 「尤も馬鹿の宇八は一と月經たないうちに、その一兩の小判を崩して費つてしまつたやうで」 「それで、三度目は櫻の馬場か」 「花は散つてしまつて、向島も飛鳥山も毛虫だらけ、當分人寄せも出來ないと思つて居ると、二三日前から馬鹿の宇八が神田中を觸れて歩きましたよ。丁度今日の暮れ六つ、櫻の馬場に寶搜しが始まる──とね、今度は木戸錢は要らねえ、心願の筋があつて、小判三枚と小粒を十枚隱して置く、望みの者は勝手に搜せ──とね」 「心願の筋があつて──と。馬鹿の宇八は本當に言つたのか。燈臺下暗しの傳で、お前の受賣の作ぢやないのか」 「確かに言ひましたよ。あつしも現に聽いたんだから、間違ひはありません」 「さて、八」 「へエ?」  平次は急に改まりました。 「今晩は何んか始まるに違ひないよ」 「寶搜しで?」 「寶搜しの外に、何んか企らみがあるだらう。この土地の下つ引を、三人でも五人でもかり集めて、櫻の馬場を見張らせろ。間違つても寶搜しの仲間へ入つちやならねえよ。今晩に限つて、小判を猫の玩具だと思へ」 「へエ、猫の玩具ね」 「それから、山の宿の喜三郎と、馬鹿の宇八を搜し出して、寶搜しがお仕舞になるまで見張らせろ」 「そいつは少しむづかしいぞ」 「櫻の馬場を、掘り散らしたら、うるさいことになるかも知れないが、俺とお前はその騷ぎに入らずに、明神樣の境内と、聖堂裏から見張つて居ることにしよう。解つたか、八」 「へエ」  この意味は八五郎には一向わかりませんが、兎も角一應は承服して、その夜に備へました。 二  寶掘りといふものは、どんなに慘憺たるものか、今の人は大方忘れてしまつたことでせう。徳川時代の江戸には、これは興行的に、又は宣傳のために頻繁に行はれ、明治大正になつてからも幾度かくり返されました。  由井ヶ濱の海水浴場の寶掘りは、今でも時々行はれ、まことに無害な遊びですが、町の眞ん中で行はれると、これはなか〳〵に深刻です。  明治の三十年代、ある大新聞社が計畫して、東京を中心に、日本各地で寶掘りをやつたことがあります。その第一回は確か明治三十五六年の頃、新聞の記事の中に謎を隱して『淺草でなく鐘は何處』と言つた第一句から、二句、三句と判じて、上野山内の黒門に小判形の寶を隱し、それを搜り當てて新聞社へ持つて行くと、十圓の勸業債券が一枚貰へる仕組みでした。  十圓の勸業債券といふと、今の金にして、一萬圓にも匹敵したでせう。東京中の彌次馬が上野に集まつて、山下から山内の東照宮前に移してあつた黒門が、その根を掘り荒されて、危ふくブツ倒れさうになつたのを、淺ましいが、面白いことに私なども見て居ります。  その新聞の寶搜しの第二問は『美しき女神の門』といふので、池の端の辨天樣の門のやうに記憶して居ります。何問目かは仙臺に飛んで、『鼻を算へて耳』といふ文句で、櫻の花を算へて三十三本目といふ皮肉なもので、その謎の面白さを、五十年後の今まで記憶して居るくらゐですから、寶掘り又は寶搜しといふものは、パチンコも競輪も寶籤もなかつた、明治の頃の健康な社會人に、どんなに面白い遊びだつたか想像がつくでせう。  平次が關係した、この時の寶掘りも、最初は大したことでもなかつたのですが、兎も角飛鳥山の一角を禿げチヨロにし、三圍樣樣の境内を土龍の古戰場のやうにした上、今の神田宮本町、その頃の櫻の馬場を、大根島のやうに掘り荒したのも無理のないことです。  神田明神と聖堂の間、葉櫻で圍まれた一角に、その日の晝過ぎから集まつた彌次馬が、ざつと二三千人、日の暮れるまでは、互に牽制し合つて、手を出しもせず、出させもせずに居りましたが、暮六つの鐘──三つの捨て鐘が鳴り始めると、馬場一面に散つた數千の手が、パツと大地に飛付いて、得物々々や、十本の指で、恐ろしい熱心さで掘り始めたのです。  寶は決して深くは埋めて居ないのですが、四方はもう薄暗くなり始めると、數千人の慾が、大地も爛れさうに燃え立ちます。 「あつたツ」 「小判を一枚掘り當てたさうだ」 「どれ」  人は八方から集まりましたが、掘り當てた若い男は、それを掻きわけて、何處かに姿を隱してしまひました。 「まだ二枚殘つて居る」 「其處は俺の繩張りだ、退いてくれ」 「寶搜しに繩張りがあるか。野郎ツ」 「何をツ」  中には喧嘩まで始まる騷ぎでした。  四邊がとつぷり暗くなると、中には提灯を用意したものもありましたが、多くは一歩も去らじと、大地に噛りついて、泥と雜草を嘗め盡すやうに、十本の指で掘つて居ります。 「二枚目が見付かつた」 「南鐐が出たさうだよ」 「向うでは丁銀が一枚」  掘り出した噂が傳はると、寶掘りの熱は加はるばかり。 「もう一枚小判がある筈だ」 「三枚一ヶ所に埋けてある筈はない。向うを搜せ」 「夜の明けるまでやつて見よう」  斯う言つた、寶搜し根性の彌次馬の熱心さは、想像以上のものがあります。これを仕事に振り向けたら、さぞ身上も拵へるだらうと思はれる熱心さです。が、畢竟は慾張りと怠け者の熱心さで、氣狂ひ染みた雷同性に引摺られて、春の夜の薄寒さも、餓も疲れも物の數ではありません。  最初から小判が出ないか、又は三枚の小判が、一ぺんに出てしまへば、此騷ぎはなかつたでせう。夕方から宵へかけて、二枚の小判が出て、あとの一枚がなか〳〵出なかつたばかりに、彌次馬の未練は夜半過ぎまで引きずられたのです。若し、計畫的にやつたことであつたら、これは實に巧妙極まる作戰でした。  小判一枚と言つても、純金四匁、今の評價で一萬圓以上になるでせう。一と口に小判と言つても、その頃の小判は非常に貴いもので、田舍の貧しい人などは、生涯小判といふものを、見ずに終る人も少なくなかつたと言はれるくらゐ、櫻の馬場に集まつた數千の彌次馬が、眞夜中まで粘つて、大地を掘つて居たのも無理のないことでした。  大地主で金貸の寶屋清右衞門は、苦々しさが一杯でこの騷ぎを見て居りました。困つたことに、寶屋の裏は櫻の馬場の土手の下で、寶搜しの騷ぎは手に取るやう。家中の者は、主人の眼玉をのがれるやう、一人拔け、二人拔け悉く櫻の馬場に飛出して、寶掘りの仲間に加はつてしまつたのです。  寶屋の家に殘つたのは、主の清右衞門と娘のお島だけ、そのお島は風邪の氣味で引籠つて居り、櫻の馬場の騷ぎを遠音に聽いて、自分の部屋に引つ込んで居りました。此時、 「あツ」  主人の清右衞門は、ハツと氣が付くと、天地晦其になつて居りました。頭から風呂敷か何にかを被せられたのです。 「靜かにしろ。命までは取ると言はない」  ドスのきいた、變な聲が、耳のそばで囁きました。どうせ作り聲でせう。 「──」  清右衞門は、さう言はれなくとも、靜かにする外はなかつたのです。スポリと被せられた風呂敷は厚く、息も詰りさうな上に、あつと言ふ間に兩腕を後ろに廻され、キリキリと縛り上げられて、身動きも出來なかつたのです。 「騷ぐな。いや、口をきくと、土手つ腹へズブリと行くぞ。立つて倉へ案内するのだ。鍵は何處だ」  曲者は二人のやうです。一人は中年の男、圖太い聲でわかりますが、もう一人は、肌ざはりが柔かくて、プーンと鼻へ來る艶めかしい匂ひ、それは人肌で蒸された香油と白粉の匂ひで、長い間獨り者で暮した、寶屋清右衞門に取つては、絶えて久しき女の匂ひだつたのです。 「手荒なことをするな、──鍵は此處にある」  腰をさぐつて、清右衞門は大振りな鍵を取出しました。 「これつきりか」 「あとは私の手で開く」  清右衞門は少し顫へて居りました。 「さア、歩け」  厭も應もありません、眼隱しをされたまゝの清右衞門は、後ろから匕首らしいもので小突かれ、チクチクするのを我慢して、渡り廊下傳ひに、手近かの土藏に案内するのです。 「此處だよ」  清右衞門は、土藏の大海老錠を指さしました。見えない乍らも、馴れた自分の家で、足探りの見當はつくのです。  曲者の一人は默つてその錠に鍵を差し込むと、土藏は至つて手輕に開けられます。 「さア、金のあるところへ案内しろ」 「──」  清右衞門は足さぐりで、默つて入りました。續いて二人の曲者は、提灯やら手燭を持つて、それに續くのがよくわかります。  土藏の板敷の上を歩いて、清右衞門はフト妙なことに氣がつきました。身體はガタガタ顫へて、齒の根も合はない癖に、心氣は水の如く冴えて、妙なことが氣になるのです。  現に二人の足音が、妙なリズムになつて、清右衞門の耳に響くのです。靜まり返つた土藏の中、その四本の足の踏み出す、特別のリズムが、執こくくり返されます。 「金箱は何處にあるんだ。四つも五つも持出しやしない、たつた一つで澤山だ」  又も匕首が、背中へチクチクしますが、曲者の素晴らしいバリトンは、作り聲をしてゐるので、聽いたことのある聲のやうであり作ら、誰とも見當はつきません。 「此處だ。梯子段の下、その扉を開けるのだ」  曲者は聲に應じて梯子段の下の隱し扉を開けた樣です。ガタガタと重いものを動かす音。二人は千兩箱を一つ取おろして、 「宜いか」 「──」 「それぢや御主人、一と箱借りて行くぜ。どうせ此世では返せまい、あばよ」  諜し合せた二人の者、主人の清右衞門を土藏の中に殘して、元入つた入口から、外へ飛出すと共に、表の大扉を、ガラガラピシツと締めてしまつたのです。  あとは眞の闇、兩手を後ろ手に縛られた上、猫に紙袋の體では、氣は確かでも、年寄の主人清右衞門、どうすることも出來ません。 三 「あつた〳〵、三枚目の小判が見付かつたぞ」  誰やらが大きい聲で觸れると、櫻の馬場の一角に、バラバラと寄つて來た人波、其處に小判が落ちてでも居るのかと思ふやうに、暫らくは渦を卷きます。 「何んだ、つまらねえ」 「これで明日の仕事を休めば、飛んだ草臥儲けだ」 「ざまア見やがれ」  バラバラと彌次馬の大群は、夜の町に散つて行きます。  寶屋の雇人達も、これで漸く本心に立ち還りました。小判三枚を皆んな掘出されてしまへば、家が近いのが徳みたいなもの、狐の落ちたやうな心持で、コソコソと家へ戻りました。  手代の與左吉、下女のお作、これは寶掘りのチヤムピオンで、それに掛り人のお富、養子の草之助、居候の吉太郎まで、ぞろ〳〵とつながつて歸りました。その上年甲斐もなく番頭の庄六まで、面白くも何んともなささうな顏をして引揚げの殿について來るのです。  どか〳〵と家へ入つた七人、主人に顏を合せるのが、さすがに後ろめたいと思つたか、默つてそれ〴〵の部屋に引取りましたが、下女のお作は、居候の吉太郎と共に、一應戸閉りを見て廻つて、さて、お孃さんのお島が、氣分が惡くて寢て居るのへ、外から聲を掛けました。灯が點いて居るのに、返事がありません。 「お孃樣、どうなさいました」  下女のお作は、心安だてといふよりは、日頃の不作法さで、廊下から障子をサツと開くと、 「あ、大變ツ」  一ぺんにのけ反つてしまつたのも無理はありません。娘お島、十九になつたばかりの、あまり、綺麗ではないにしろ、若くて、達者で、背負切れないほどの大身代の跡取りの娘が、紅に染んで、死んで居るではありませんか。  一瞬、寶屋の上下は、騷ぎの坩堝に叩き込まれました。下女のお作の悲鳴に驚いて飛んで來た人達も、あまりのことに、何をどうして宜いかわからず、唯呆然として顏を見合せるばかり。 「旦那は? 早く旦那に申上げなきや」  番頭の庄六が漸くそれに氣がつくと、手代の與左吉は、奧の主人の部屋に飛びましたが、暫くすると、つまゝれたやうな顏をして、呆然と戻つて來るのです。 「旦那がいらつしやらない」 「そんな馬鹿なことがあるものか」 「雪隱にも見えない、──どうしたことだらう」 「搜して見ろ」  家中の者は、娘のお島のことも氣になりますが、それよりは、姿を隱した主人を見付けるのが急務になりました。 「寢間着に着換へた樣子もない」 「手燭がなくなつて居る」 「外ではないか」  それは併し、無駄な努力でした。土藏は二た戸前とも、嚴重に外から閉つて居り、主人清右衞門の履物もなくなつては居なかつたのです。  この騷ぎを聽いて、櫻の馬場の寶探しに、何にか異變がありはしないかと、宵から張つて居た錢形平次は、八五郎と一緒に乘込んで來ました。それはもう眞夜中過ぎの丑刻近い頃です。 四 「あ、錢形の親分、丁度宜いところで」  平次の顏を見ると、番頭の庄六は顎で這ひ出すやうに飛んで出ました。この騷ぎに面喰ひ乍らも、年甲斐だけに漸く本心を取戻して、これから醫者やら屆出やら、萬端の手配を始めようといふ矢先だつたのです。 「こんなことにならなきや宜いがと思つたら、矢張り」  平次は自分の家から數丁とも離れて居ない櫻の馬場に、斯んな異變が起らうとは、さすがに思ひも寄らなかつたのでせう。 「お孃さんが殺されました」 「それも聽いたが、現場を見せてくれ」  番頭に案内されて行くと、寶屋の廣い構の一番奧、東向の小さい部屋を紅に染めて、娘のお島はもう冷たくなりかけて居りました。  斯うなつては最早醫者も藥も及びません。平次は這ひ寄つて、八五郎に抱き起させました。 「可哀想に」  それは無慙な姿でした。あまり綺麗ではないと言つても、若さの痛々しさで、斯うなると八五郎を涙ぐませます。  柄は大きい方、この眞夜中に裝ひ凝して、紅も白粉も匂ふのは、若さのたしなみとばかりは言へないものがあります。  傷は左の喉笛、二丁剃刀か、細身の匕首か、さう言ふもので掻き切り、あまり聲も立てずに死んだことでせう。 「灯が點いては居たのだね」 「行燈が灯いて居りました」 「この騷ぎの中に、お孃さんは、寶搜しにも行かなかつたのか」 「少し風邪の氣味だと仰しやつて、──尤も小判の一枚や二枚を、泥だらけになつて搜すやうな御身分でもありません」  番頭は言ふのです。尤も至極な言葉ですが、平次にはそれが腑に落ちないのでせう。 「風邪を引いたものが、紅白粉で、晝の着物のまゝ、夜中過ぎの部屋に坐つて居るだらうか」 「さア、其處までは」  番頭の智惠はすぐ行止ります。 「御主人はどうしたんだ」 「先刻から搜して居りますが、お姿が見えません」 「それは放つて置けまい」  平次は立上がりました。事件のあまりにも容易ならぬ形相に驚いた樣子です。  其處に集まつた、七人の顏を見比べ乍ら、平次は順序よく答を整理して行きます。主人は夕方まで確か御自分の部屋に居たこと、不斷着のまゝ見えなくなつたこと、手燭はなくなつて居るが、履物を穿いた樣子のないこと、廣い家中の部屋々々は、念入りに搜したが見えないこと、そんなことを整理した平次は、履物を履かずに行ける、たつた一つの道、土藏に續く渡り廊下に踏出しました。  平次は默つてその行き着く先、土藏の大扉の前に立ちました。 「此處の鍵は?」 「旦那が腰につけていらつしやいます」 「外には」 「代りの鍵は私がお預りしてあります」 「開けてくれ」  番頭の庄六が鍵を持つて來ると、何んの苦もなく土藏が開きました。そして其處には、散々氣を揉んで半死半生になつた主人の清右衞門が、梯子の下に倒れて居るのを發見したのです。  清右衞門は弱り果てて居りました。宵から夜半過ぎまで、頭に風呂敷を冠せられ、兩手を縛られたまゝ、土藏の中を驅けめぐつて居たのです。それでも、事件が事件で、娘お島の死を隱して置くわけにも行かず、暫らく休ませた上、番頭から靜かに打ち明けて貰ひました。 「何、お島が殺された」  清右衞門の驚きは、痛々しいほどでした。六十歳の老人、長い間の滿ち足りた生活が、此處に眞つ黒な溝で斷ち割られ、一瞬失望のドン底に蹴落されたのです。  暫らくは涙もない老人の深い嘆きを、七人の家の子郎黨は、默つて見詰める外はありません。 「行つて見よう」 「大丈夫ですか、旦那」 「何が何んであらうと、此眼で見なきや、本當と思へない」  何遍か崩折れて、やつと立上がつた老主人清右衞門は、辛くも娘の部屋に轉げ込みました。 「あ、お島、矢張りお前は」  娘を抱き上げて清右衞門は、聲のない嗚咽に、顏が歪みます。 「御主人、誰が斯んなことをしたのです。心當りはありませんか」  と平次。 「ない、ない。人に殺されるやうな娘ではなかつた」 「でも此通り」 「敵を討つて下さい。親分、──錢形の親分は、親の代からの懇意だ。私の身上を半分──いやみんな投出しても宜い。娘の敵を討つて下さい。頼む、親分」  清右衞門──日頃貧乏人を虫ケラのやうに見下す寶屋の主人は、平次の前へ深々と頭を下げるのです。 「旦那、お氣の毒なことです」 「だから、今すぐでも下手人を縛つて下さい。土藏へ押入つて、千兩箱を一つ持出した奴と、娘を殺した奴は、同じ野郎に違ひない。千兩箱は惜しくもないが、娘を殺したのは、噛み殺しても飽足りない、お願ひだから親分」 「──」 「今直ぐ縛つて下さい。夜の明ける前に下手人を擧げて下されば、寶屋の身上を半分熨斗をつけて差上げる。親分はイヤな顏をなさるが、氣に入らなきや、貧乏人にバラ撒いても、ドブへ捨てても構はない。私が一代に溜めた身代だが、娘が死んでは讓る子もなく、後へ遺す張合もない」  主人の清右衞門は娘の死骸をかき抱き乍ら、此時始めて滿面の涙にむせ返るのです。 「御主人、少し待つて下さい、必ず下手人は擧げて見せるが、今となつては」  平次は此事件のむづかしさを嗅ぎ知つたのでせう、日頃にも似ず尻込みして居るのです。 「私はもう、明日といふ日を待つ氣になれない。無駄だらうが親分、明日まで待てば、私は死んでしまひます」 「──」 「今夜のうちに下手人を搜し出し、この藏の前で縛らせて、私は寶屋の身上を投出して、西國巡禮にでも出かけます」  娘の死骸を抱きしめ抱きしめ、清右衞門はわめくのです。愚に返つた親心の激しさを、平次もさすがに持て餘してしまひました。 「では、念のために、日が暮れてからのことを順序よく話して下さい。それから、近頃變つたことはなかつたか、お孃さんの婿はどうなつて居るか、寶屋を怨んで居るものはないか」  平次はこの動亂の中にも、組織的な問ひを設けて、清右衞門の答を引出しました。  が、その答と言つたところで、まことに頼りないものでした。お島の婿は、養子の草之助に決つて居り、寶屋を怨む者と言つても心當りがなく、今晩千兩箱を持つて行つた二人組の泥棒は、全く聲に覺えがなく、一人はたしかに女であるらしい外には、何んの證據もつかめません。  二人の足音に、不思議に一種のリズムがあつたと言つたところで、シンコペーテイングな調子は、説いてもわからず、話しても呑込ませやうはありません。 五  丁度その時でした。外から一隊の人數が、ドカドカと押込んで來たのです。 「錢形の親分、この褒美は、氣の毒だが、この三輪の萬七が貰つたぜ」  先に立つたのは、顏の古い御用聞で、事毎に平次と張合つてゐる、中年男の三輪の萬七、續いてその子分のお神樂の清吉、そして二三人の子分に守られて、繩付が二人、その一人は寶掘りの勸進元で、よくない金儲けばかりやりたがる山の宿の喜三郎で、後の一人は、ポカリと口を開いた、馬鹿の宇八その人だつたのです。 「おや、三輪の親分」  平次はあつけに取られました。下谷の奧から、山谷あたりをかけて繩張りにして居る、三輪の萬七の出る幕ではありません。 「寶掘りは飛鳥山が最初で、向島が二度目、今度は錢形の親分のお膝元の宮本町へ來たが、飛島山以來のことだから、俺が顏を出して惡いわけはあるまい」 「それはもう」 「あの時から調べ掛つて、山の宿の喜三郎が、馬鹿の宇八を使つてやつた細工と知り、二三日前から後をつけて、今日も此邊をウロウロして居るのを、フン捉へただけのことさ」 「──」 「これ丈けの細工をするために、飛鳥山と向島は潮踏みだつたのさ。寶屋へ押し入つて、千兩箱を一つ持出すのは、みんなこの二人の筋書通りだ」 「お孃さんを殺したのは?」  平次はツイ問ひ返しました。 「行きがけの駄賃さ。千兩箱を持出したところを、お孃さんに見付けられて、聲でも立てられては大變と、ブツリとやつたんだらう」 「それにしては、お孃さんが、此夜中に床も敷かず、紅白粉で、身扮まであの通り綺麗なのはどういふわけだ。灯のある部屋へ入つて聲も立てさせずにお孃さんを刺したのは、顏を知つてゐる者の仕業だ」 「そんなことを、俺が知るものか。若い娘の身だしなみは、こちとらに見當もつかないよ」 「いや、お孃さんは、風邪を引いたと言つて外へも出ず、あの騷ぎもよそに、誰かを待つて居たんだ」 「それが、どうしたといふのだ」  三輪の萬七は少し喧嘩腰でした。 「それに、土藏から千兩箱を奪つた二人組の一人は女だつたと、御主人が言つて居る。もう一つ」 「勝手にしろ。俺は兎も角、夜が明けさへすれば、喜三郎と宇八を擧げて、番所で叩いて見る」 「それぢや、夜の明ける迄、この俺に任せてくれるだらうな」 「宜いとも。二人共恐ろしく口が固いが、石を抱かせる前に口を割らせるのも、せめて錢形の手柄だらう。あとは清吉に頼んで、俺は曉方まで、一と寢入りとやらかすぜ」  三輪の萬七は言ひたいだけのことを言つて、一と間へ引揚げるのです。 「親分、大丈夫ですか」  三輪の萬七の後ろ姿を見送つて、八五郎はソツと囁くのです。 「少しも大丈夫ぢやないよ。でも、斯うなれば行がかりだ、夜の明ける迄に、下手人を搜し當てる外はあるまいよ」  錢形平次も心細いことを言ふのです。 六 「ところで、最初に喜三郎に訊き度いが」  平次は喜三郎の繩尻を持つて居るお神樂の清吉に訊ねました。 「どうぞ、御勝手に、──頼むぜ、八兄哥」  お神樂の清吉は、喜三郎の繩尻を八五郎に渡して、親分の萬七の後を追ふやうに別間に退きました。どうせ大したことは出來ないと言つた、多寡を括つた態度です。 「ねえ、おい、山の宿の」 「へエ、へエ」  平次に呼ばれて、喜三郎は卑屈らしく二つ三つお辭儀をしました。 「正直のことを言つてくれ。正直に言ひさへすれば、お前の命は助けてやる」 「へエ、お願いたします。みんな申上げます。私は決して惡いことをしなかつたとは申しませんが、首を切られるやうな事をした覺えはございません」 「寶さがしの興行を思ひ付いたのは、お前に違ひあるまい」 「それはもう、決して私でないとは申しません。二十四文の木戸を取つて、小粒を二つ三つ掘らせました。それでも人氣に叶つて結構儲けになりました」 「待てよ、向島の三圍では、小判を拾つた客があるさうぢやないか」 「私はそんなことをした覺えは御座いません。花見客の落したものでも御座いませう」 「誰かが、わざと寶搜しの中へ小判を投げ込んで、次の催しの餌にしたとは思はないか」 「そんな事があつたかも知れません。現に私のやつた寶搜しは、飛鳥山と向島の二度だけで、今晩の櫻の馬場は、全く私の知らないことで」 「それは間違ひあるまいな」 「小判三枚も拾はせては、商法になりません」 「成程な」 「私の工夫を盜んだ奴は誰だらうと、宿に居さへすれば無事なのを、櫻の馬場の樣子が見たさにウカウカ明神樣までやつて來ると、いきなり三輪の親分に縛られました。聽けば、寶搜しは全くの人寄せで、その裏の樂屋を無人にして、千兩箱を盜んだとか、人を殺したとか、大變なことがあつたさうで、私は惡黨に違ひありませんが、首の飛ぶやうな危ないことは致しません。ヘイ」  喜三郎の言ふのは、どうも拵へ事らしくも思へないのです。 「それぢや、宇八に訊かう」 「へエ」  馬鹿の宇八は、八五郎に負けないほどの長んがい顏を一倍長くしました。 「お前は寶搜しで、何をやつた」 「寶搜しがあるといふことを、親方に頼まれて、精一杯觸れただけだよ」 「親方といふのは」 「向島と飛鳥山の時は、山の宿の親方に頼まれたが、今夜の櫻の馬場のことは、他の人に頼まれたよ」 「他の人、──そいつは大事だ、誰だ」 「知らねえよ、──女の人だつたが、若くて綺麗な人だらうと思つたよ」 「誰だえ、それは?」 「顏を隱して、そつと頼んだから、何處の誰か、知らないよ」 「何にか、お禮を貰つたのか」 「小粒と青錢を一と掴み。勘定はしねえが、隨分費ひでがあつたぜ」 「その人に何處で逢つたんだ」 「俺の泊るとこをよく知つて居て、二度くらゐ路地で逢つたよ」  これでは手のつけやうもありません。  平次は暫らく考へて居りましたが、八五郎と下つ引二人を、何やら言ひ含めて八方に散らしました。  もう曉方近く風は薄寒くなりますが、三輪の萬七と約束した刻限は次第に近づきます。 七  平次は子分の者に二人の繩付を預けて、もう一度家中の者に逢つて見る氣になりました。主人清右衞門は、娘の死に打ちひしがれて、何を訊いても、はか〴〵しくは行きませんが、養子の草之助は思ひの外ハキハキして、 「お島が死んでしまへば、他人の私は此家から出る外はありません。寶屋の後を繼ぐのは遠縁の者でも、改めて養子に入れることでせう」  と諦めた調子で言ふのです。二十五といふ血氣盛んな年齡ですが、色も青白い、何んとなく弱々した感じの青年です。  お島の聟になつて、寶屋を繼ぐ筈だつたとすれば、成程身を引くのが當然で、これはお島の死によつて一番大きな打撃を受けたことになります。  手代の與左吉は二十三、色の淺黒い、頼もし氣な男でした。 「私は若旦那と一緒に飛出して、始終傍に居りました。實は二つ目の小判を見付けたのはこの私で、──此通り此處に持つて居りますが、それで引揚げようとすると、若旦那は、一つ見付けたものなら、此邊にもう一つあるかも知れない、とさう申しますので、二人で又搜しました。それから間もなく若旦那と別れ〳〵になりましたが、三つ目の小判を誰か見付けたとき、又二人は一緒になつて家へ入りましたが」  さう言ふ與左吉は、お島の死骸を直したりしたらしく、手にも着物にも少し血が附いて居ります。  お富といふのは二十七八の平凡な女で、これは出戻りの掛り人、皆んなと一緒に寶掘りをやつて居たといふだけのことです。  下女のお作は三十七八の醜い女、これも夢中になつて泥を掻き廻しただけのことでせう。  吉太郎といふ居候は、悧巧者といふ綽名で、通るくらゐで、いかにも、目から鼻へ拔けるやうな四十男です。輕口の上手で、眇目で跛者で、見るかげもない男ですが、使ひやうによつては、成程調法な男かもわかりません。  最後に番頭の庄八、これは平凡な中老人で、胡麻鹽頭の頼りない男ですが、そのくせ慾だけは深いらしく、櫻の馬場に眞つ先に飛出して居候の吉太郎と、せつせと泥を掘つた樣子です。 「大概吉太郎と一緒に居りましたよ。時々は別々になりましたが、それでもお互によく見付けて、引揚げは一緒でした」  こんな事を言ふのです。 「ところで、皆んなの居た場所を、この櫻の馬場の繪圖面に印しを附けて貰ひ度いが」  平次は半紙を持つて來さして、ザツと櫻の馬場の繪圖面を描き、それに、七人の居た場所を印させました。 「それからもう一つ、皆んなの手を見せて貰ひ度い」  それは不思議な頼みでしたが、目の前に出した七人の十四本の手を見比べて、平次は恐ろしく細かく、爪際までも調べて居るのです。大抵の人は一と通り拭いて居りますが、まだ洗ふ隙はなかつたと見えて、若旦那の草之助や掛り人のお富の華奢な手などは、まことに慘憺たる泥まみれです。  こんな事をして居るところへ、八五郎が、何やらキナ臭さうな顏をして入つて來ました。 「わかりましたよ親分」  さう言ふのを、そつと物蔭へ引つぱつて行き乍ら、 「齒こぼれのある剃刀は誰のだ」 「手代の與左吉ので」 「それから」 「與左吉の拾つた小判は、若旦那が懷ろから取出して、そつと滑らせ、與左吉に拾はせたに違ひない──と吉太郎が言ひますぜ」 「──」 「居候の吉太郎は、あんな不景氣な男ですが、飛んだ働き者で、掛り人のお富と馬鹿に仲が良いさうで」 「フム」 「もう一つ。今夜、お孃さんのお島さんと、手代の與左吉は、寶搜しの騷ぎの最中、そつと逢ふ約束だつたんですつて」 「誰がそんな事を言つた」 「下女のお作ですよ。お孃さんは若旦那の草之助を嫌つて、手代の與左吉に親しくして居たんですつて」 「よし、もうわかつた」 「何がわかつたんです、親分」 「お孃さんを殺した下手人だよ」 「へエ?」 「外の人の手は、泥の上に血が附いて居たが、たつた一人、血の上に泥のついた手をして居るのがあつた。爪際などは、泥で隱せないほどの血だ」 「あ、若旦那」 「その通りだ、來いツ」  八五郎が飛んで行つた時、逃出さうとする若旦那の草之助は、それを引留めようとする居候の吉太郎と、取つ組み合つて居りました。 「親分、お氣の毒だが、此處で若旦那を縛つて下さらなきや、諸人の迷惑になります。私は親旦那の御恩を受けて居りますから」  さう言ふ居候の吉太郎の顏は悲壯でした。 「ところで、千兩箱を盜つたのも、若旦那ですか」  八五郎は若旦那の草之助を縛つた後で、平次に囁きます。 「いや違ふ。默つて居さへすれば、寶屋の身代が轉げ込む草之助が、そんな事をする筈はない」 「すると?」 「待て〳〵、主人に訊き度いことがある」  平次はもう一度主人に逢つて、何やら確かめました。いや、何やらと言ふよりは、主人の床の前に据ゑた、小机の上を、妙な調子で叩いて聽かせると、 「その通りですよ、私が風呂敷を冠せられて聽いた足音は」  それは正常な二つの足音に交つて、シンコペーテイング(切分的)に響く不思議な調子の音だつたのです。 「八、主人を倉の中へつれ込んで千兩箱を持出したのは、女と、もう一人は足の惡い男だ。慾は深いが、千兩箱を一つづつは持てなかつたわけだ」 「よし、あの畜生奴ツ、若旦那まで縛らせた──」  八はもう一度店へ飛んで行きました。が、その時はもう平次と八五郎の話を漏れ聽いたお神樂の清吉が、拔けがけの功名のつもりか、親分の萬七と一緒に、お富と吉太郎を縛つて居たのです。 「何んといふことだ」  ぺツ〳〵と唾をする八五郎を、平次は精一杯に宥めました。 「締めろ。三輪の親分も何にか手柄をしなきや引つ込みがつくまい。お前は若旦那の草之助を引立てて威張つて行け」 「おや、もう夜が明けましたね」 「丁度良い舞臺だ」  平次と八五郎は、吉太郎とお富を三輪の萬七とお神樂の清吉に任せて、宮本町の往來へ乘出しました。  櫻の馬場はメチヤメチヤに掘り荒されて、人間の慾の皮のやうに醜くなつて居ります。これを掘らせたのは吉太郎とお富の細工で、草之助はその密計を聽いて、嫉妬のお島殺しを便乘させたのだと、後で精しくわかりました。 底本:「錢形平次捕物全集第二十一卷 闇に飛ぶ箭」同光社    1954(昭和29)年2月15日発行 初出:「オール讀物」文藝春秋新社    1953(昭和28)年6月号 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2016年11月23日作成 2017年3月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。