錢形平次捕物控 頬の疵 野村胡堂 Guide 扉 本文 目 次 錢形平次捕物控 頬の疵 一 二 三 四 五 一 「わツ、親分」  まだ明けきらぬ路地を、鐵砲玉のやうに飛んで來たガラツ八の八五郎。錢形平次の家の格子戸へ、身體ごと拳骨を叩き付けて、お臍のあたりが破けでもしたやうな、變な聲を出してわめき散らすのです。 「何といふ聲を出すんだ、朝つぱらから。御近所の衆は番毎膽を冷やすぜ」  平次は口小言をいひ乍らも、事態重大と見たか、寢卷の前を掻き合せて、春の朝靄の中へ、眠り足らぬ顏を出すのでした。 「大變なんだ、親分。早く、早く支度をして下さい。あつしはもう腹が立つて、腹が立つて」 「腹が立つて飛び込んで來たのか。こんなに早く叩き起されて、お前の腹の始末までしなきやならないのかえ──俺は斯う見えても滅法寢起きが惡いんだぜ」  平次はさう言ひ乍らも、八五郎の取亂した姿を眺めてニヤリニヤリ笑つて居るのです。 「親分の寢起きなんかに構つちや居られませんよ。何しろ神田から下谷一圓の御用聞が狩出されて、錢形の親分には内密で、夜つぴて網を張つたんだ」 「何んの網だ、鰯網か鰤網か」 「左傷の五右衞門が、今晩あたりは、何處かへ出るに違ひねえといふ見込で、下つ引交りに三十八人と出ましたよ。いつも錢形の親分にばかり手柄を持つて行かれるから、今度こそはこちとらだけで、左傷の五右衞門を擧げようといふ目論見だ。捕頭は秋葉の小平親分」 「お前も一枚入つたのか」 「あつしもたまには仲間の義理でね」 「仲間の義理で俺を出し拔いたといふのか。まア宜いや、そんな事はどうでも構はねえが、首尾よく左傷の五右衞門を捕つたのか」 「宜い鹽梅に捕り損ねましたよ」 「宜い鹽梅といふ奴があるか、間拔けだなア」 「兎に角、左傷の五右衞門の野郎が、鍛冶町の質屋上總屋勘兵衞の店に押し込み、有金三百兩を出させた上、主人の勘兵衞に傷を負はせて逃げ出したところを突き留め、三十八人の人數が八方から取詰めて、動きの取れない雪隱詰にしたことは確かなんで」 「フーム、それは大變なことだな」  平次は唸りました。自分だけこの捕物陣から除け者にされたのは、まことに苦笑ものですが、左傷の五右衞門を、雪隱詰にしたといふのは、大した手柄でなければなりません。  左傷の五右衞門──それはまことに恐るべき兇賊でした。暮から活動を始めて、この三月末までには、神田から下谷、淺草、本郷へかけて、十五六軒も荒したことでせう。門も戸も締りも錠前も左傷の五右衞門の前には、何の役にも立たず、隙間漏る風の如くに入つて來て、少なきは三十兩五十兩、多いのは五百兩八百兩と奪ひ取り、少しでも手向ひする者は、生命には別條ないまでも、手足か顏かに、手ひどい傷を負はされたのです。  兇賊はたつた一人ですが、仕事振りの落着き拂つた態度から押して、外に一人や二人の仲間が頑張り、見張りを兼ねて何にかの時の助勢に備へて居ることは確かでした。狙ふものは金錢ばかり、七珍八寶山とつんであつても、それには眼もくれません。  何より驚く可きは、戸締りや錠前を、紙の如く切り破る手際で、門は乘越え、錠前は捻ぢ切り、棧や輪鍵は、薄刄の凄い刄物で外から綺麗に切取つて、コトリとも音を立てないのです。  荒す範圍は錢形平次の繩張内に限られ、あまり遠走りしないのは、町々の木戸や、橋番や、自身番などを警戒するためとすれば、曲者は神田明神を中心に、此邊に住んでゐるものと見なければならず、その上、時々平次に宛てて『近いうちに何町の何某の家を見舞ふぞ、隨分要心するがよからう』とか、泥棒に入つた翌る日など、『どうぢや平次親分、昨夜の手際は』などと、からかひ面の手紙を投り込むことがありました。  その手紙は紙も墨もよく、筆跡も相當なら、文句もギゴチない侍言葉で、妙に人を苛立たせます。 「──一度雪隱詰にしたが、矢張り逃げられましたよ。曲者は昌平橋を見張つて居る、仲間の彌吉を川へ投り込んで、明神下に逃げ込んだことは確かだが、それつきり行方がわかりません」 「明神下といふと、此邊ぢやないか」 「親分のお膝元ですよ、曲者が潜り込んだのは間違ひもなく此町内だ。三十八人の仲間が手をわけて八方を固め、蟻の這ひ出る隙間もなくした上、町内の人手を狩り集めて、一軒々々家搜しが始まりましたぜ」  八五郎が血眼になつて飛込んだのは、この重大報告があつた爲だつたのです。まさかと思つて、親分に内緒で勢子の一人に加はつたのは宜いが、獲物が親分の羽掻の下に逃げ込んで、うつかり知らずに居る錢形平次の家へ、家搜しの一隊が乘込むやうな事になつては、ガラツ八の一分が立ちません。 「一軒々々の家搜しは、少し無法ぢやないか。御奉行の御指圖でもなきや、そんな出過ぎたことは出來ない筈だ」  平次は憤然としました。如何に封建制度の惡政の下でも、一町内の家搜しは、岡つ引風情には許されるべきことではありません。 「あつしもそれを言ひ張りましたが、秋葉の小平親分は聽きやしません。日頃の鬱憤の晴らし時とでも思つたか、錢形の親分の町内に曲者が逃げ込んだとわかると、すつかり張りきつて眼の色を變へて──後のおとがめはこの小平が一人で引受けた。構ふことはねえから、一軒一軒虱潰しに調べろ。いづれは浪人者か主人持か、二本差の仕業に違ひあるめえが、腕の立つ奴に油斷をするな。左の頬に傷のある人間が見付かつたら、庄屋樣でもお狐でも、有無を言はせず縛り上げろ──といふ騷ぎで」 「成程そいつは打つちやつては置けねえ」  平次は手早く顏を洗つて、着換へると、十手を腰に、おろ〳〵する女房のお靜に、──安心しろ──と言つた一瞥を與へたまゝ、ガラツ八を先に立てて、朝の路地へパツと飛出しました。 二  秋葉の小平を捕頭にした、三十八人の組子に、町の彌次馬を加へてざつと六七十人の一隊は、錢形平次の家を中心に、神田明神下の町家を、虱潰しに家搜しを始めたのです。  それは無遠慮で猛烈で、恥を知らない沙汰でさへありました。が、後難を恐るゝ町人達は、この無法な岡つ引陣の暴擧に抗議することなどは思ひも寄らず、中には迎合さへして、自分達の家の中を土足の蹂躙に委ね、天井裏から床下までも、殘る隈なく搜索させるのでした。  この家搜し隊の活動を援けて、別働隊は町の出口々々を堅め、路地も塀の穴も、屋根の上までも見張つて、鼠一匹這ひ出させまいと眼を光らせて居ります。其處へ、 「やア、秋葉の親分、大變な騷ぎだね」  さり氣ない調子で、平次は顏を出しました。言葉には言ふまでもなく非難の響は匂ひますが、顏にも態度にも、少しの激しさもありません。 「お早やう──錢形の親分に渡りもつけずに、町内を騷がせて濟まねえが、昨夜鍛冶町上總屋に入つた、左傷の五右衞門が、間違ひもなく此町内に追ひ込まれたのだよ。斯うなりや桝落しの中の鼠だ、今度こそは逃しつこはねえ」  秋葉の小平は少し得意さうでした。元氣さうな四十男で、日頃平次にばかり手柄をさらはれ、江戸中に御用聞がないやうに思はれて居るのが心外でたまらなかつたのでせう。 「そいつは宜い鹽梅だが、此町内と言つても、圍みの中だけで五六十軒はあるだらう。その中に住んでゐる者が三百人として、一々首實驗してゐる隙に、曲者は姿も變へるだらうし、細工もするだらうぢやないか」  平次の調子は穩かですが、非難の意味は充分受取れます。 「だがな、錢形の、曲者は腕の立つた浪人者か何んかで、左の頬にかなり大きい古傷があるんだぜ」 「身扮は?」 「羊羹色の紋附さ、短いのを一本差したつきりで、覆面頭巾は冠つて居たさうだが、顏はこれを見てくれと言はぬばかりに、さらして居たさうだよ。三十五六の苦味走つた良い男で、髯の跡の青い、眉毛の濃い──その上左の頬に二寸ほどの古傷が、赤々と眼立つて居たといふから、赤ん坊が見たつて一と眼でわかるよ──何處に潜り込んで居るか知らないが、晝前には請合ひ縛つて見せるぜ。錢形の親分も氣が向いたら、少し手を貸してくれないか」  それは嫌味でしたが、平次は默つて秋葉の小平の放言を聽く外はなかつたのです。 「それにしても、こんな彌次馬が多勢集まつちや、皆の衆の迷惑は大變だらう」 「なアに、彌次馬と言つたところで、皆町内の衆だ。井戸替へか神田祭のやうな心持で手傳つてくれるよ、なア、海老床の親方」  秋葉の小平が後ろを振り向くと、 「へエ、今日は、錢形の親分さん」  町内の海老床の親方、喜八といふ剽輕男が、下剃の周吉と一緒に、煤掃きほどの裝束で、家搜しの一隊に面白さうに手傳つて居るのでした。  いや、手傳ひは海老床の喜八親方ばかりではありません。叩き大工の三五郎も、古着屋の石松も、魚屋の菊治も、大肌脱の向う鉢卷か何んかで、此家搜しの一隊に加はつて居るのです。錢形平次が苦い顏した位のことでは、この大勢をどうすることも出來ません。 「それで何が見付かつたんだ」  平次は穩かな調子で續けました。 「何んにも見付からないから不思議さ。曲者は此町内に逃げ込んだことは確かだ。それつと言ふ間もなく三十八人の仲間で、八方の出口を塞いだから、逃がす隙がないばかりでなく、裝束を變へる隙もなかつた筈だ。曲者は此一町四方ほどのところに、必ず潜り込んでゐるに違ひない」 「町内の衆が多勢手傳つてゐるやうだが、これは秋葉の親分が呼んだのか」 「いや、皆んな勝手に手傳つてくれてゐるよ。いの一番は海老床の喜八親方さ、まだ起きたばかりで、顏を半分洗つて飛出して來たが──」  小平が説明する側から、 「錢形の親分、おせつかいをして惡かつたでせうか。ツイ斯んな騷ぎがあると、ヂツとして居られない性分で、ヘツヘツ」  愛嬌者の喜八は、少し卑屈らしいが、邪念のない世辭笑ひをして居ります。 「續いて、三五郎、石松、菊治──井戸替へと煤掃が一ぺんに始まつたやうな騷ぎだ」 「で、秋葉の親分の見込みは?」 「曲者は紋所はわからないが、兎も角も羊羹色の紋附を着て居るし、短いのを一本差したきりだといふが、腕は確りして居る。間違ひもなく喰ひ詰めた浪人者だらう──ところで錢形の親分も知つての通り、この町内には浪人者が二人居る。藤波龍之進、間部三十郎、石山大八──」  秋葉の小平は指などを折つて見せるのでした。 「喰ひ詰めた浪人者でも、二本差は妙に見識張るものだ。短いのを一本差して夜盜に出るのは變ぢやないか」  平次の胸にはフトこんな疑問が動きます。 「兩刀を閂にして夜盜に入る方がをかしくはないか、婿入ぢやあるめえし──それに錢形の親分の前だが、忍術の流派の中には、長物を嫌ふのがあつたと思ふが」 「暮から何千兩と稼いだ曲者が、喰い詰め者らしく何時までも羊羹色の紋附は變な裝束だな」 「それは仕事着だよ、錢形の、職人の袢纒と同じことだ。夜盜や押込みが、金襴緞子も着飾つては行けまいぢやないか」  あゝ言へば斯うで、思ひ上つた秋葉の小平を、平次も説き伏せやうはありません。 三 「親分、どこへ行きなさるんで?」  昌平橋を渡つて、八つ小路へ差かゝつた平次の後ろから、八五郎は泳ぐやうに追ひすがりました。 「お膝元を荒されるのを見ちやゐられないよ──平次は何をして居るんだ──と御町内の衆から顏を見られさうで」 「そんなものですかえ。で、行く先は」 「鍛冶町の上總屋へでも行つて見ようか。飛んだ結構な智慧が浮ぶかも知れねえ」 「ぢや、あつしもお供しませう」 「お前は秋葉の親分と一緒に、俺のお膝元でも荒すがよからう」 「皮肉ですね、親分」  二人はそんな事を言ひ乍ら、ツイ鼻の先の鍛冶町の上總屋の暖簾を潜つて居りました。 「今日は取込みがあつて、稼業を休んで居りますが」  番頭は店を締め忘れたことに氣が付いて、あわてて入口に立ち塞がりました。 「質を置きに來たんぢやないよ。少し調べ度いことがあるんだ」  八五郎は平次の露拂ひらしく、先に立つて長い顎をしやくりました。 「へエ、これは親分さん方、飛んだお見それ申しました」 「まア、宜い、曲者は何處から入つたか。先づ、それから見せてくれ」 「へエ、へエ、どうぞ此方へ──」  番頭に案内されてグルリと路地を廻ると、高塀に圍まれた裏口で、三尺の潜戸はかまち寄りの薄板を三寸四方ほど鋭利な刄物で切拔かれ、其處から手を差込んで、易々と輪鍵を外し、棧を拔いて潜戸を開けた樣子は、物凄いほど鮮やかな手際です。  潜戸を入ると裏口で、此處も同じ手口で、雨戸に穴を開けてあります。 「八、此穴をあけた刄物は何だと思ふ?」  平次は、陽に晒されてひどく脆くなつて居る二分枚と、それを紙のやうに切つた、刄物の切れ味、凄い手際などを、熱心に調べ乍ら言ふのでした。 「鋸ぢやありませんね、切出しかな」 「いや、肉の厚い刄物ぢや、斯うは切れないよ」 「剃刀」 「やつて見るが宜い、剃刀といふ奴は、峯があるから、思ひの外使ひにくいものだ」 「匕首、脇差──」 「その次は長刀に鉞と來るか──匕首や脇差は刄が長いから、こんな細工は危なくて出來ないよ」  平次はその問題を其儘にして、曲者の足跡ををたどるやうに、家の中へ入りました。 「曲者は一人でございました。覆面はして居りましたが、顏はムキ出して、髯の跡の青々とした三十男で、眉の濃い、眼に愛嬌のある──人を馬鹿にしたやうに、笑ひを含んで居りました。左の頬に二寸位、赤い古傷の痕があつて、下の方は覆面に隱れて居りましたが」  番頭の説明はなか〳〵よく行屆きます。 「身扮は」 「羊羹色のひどい紋附で、紋所もはつきりはわかりませんでした。羽二重なんかぢやございません。木綿の怪し氣な品で、それに何んかの彈みに裾がまくれた時氣が付くと、裏に縞物の双子の巾が當ててあつたやうで御座います」 「有難う。それだけわかると、大變助かるよ。ところで主人の容態は?」 「幸ひ大したことは御座いません」 「一寸逢つて行き度いが」 「どうぞ、此方へ──取亂して居りますが」  番頭は平次と八五郎を、奧の六疊に案内してくれました。 「これは錢形の親分さん」  顏中晒木綿を卷いた主人の勘兵衞は、あわてて床の上に起直りました。 「おつと、動いちやいけない。其儘で宜いから、昨夜の事を詳しく話して下さい」 「へエ、有難う御座います。全く飛んだ災難で──昨夜と申しても、今朝曉方でございました。物音に眼を覺すと、枕元に大きな男が、ニヤニヤし乍ら突つ立つて居るぢやございませんか。多分私の頭位は蹴飛ばしたことでせう、ハツとして飛起きると──騷ぐな、金を出せ──とたつたこれだけでございます。言葉は少し作り聲で、丁度芝居の惡方の臺詞廻しのやうでございました」  主人も思ひの外元氣で、小さい聲ですが、説明はよく行屆きます。五十前後でせう、何んとなくきかん氣らしい中老人でした。 「それから?」 「女や子供に怪我をさせてはつまらないと思ひまして、帳場にあつた金を五六十兩纒めてやると、上總屋の身上はこれつきりか、と相變らずニヤリニヤリして居ります。あんまり癪にさはるから、泥棒にやる金はそれつきりだと──ツイやり返しますと、何をツと手が動いたと思ふと、刀を拔いた樣子もないのに、私の小鬢がヒヤリとして、タラタラと頬から襟へ血が流れました。傍に居た女房がびつくりして、枕元の用箪笥から、二百四五十兩入つて居る財布を出してやると、最初からこれを出しや宜いのに、馬鹿な奴だと捨ぜりふを殘して歸つてしまひました」 「確かに刀を拔いた樣子はなかつたのだね」 「居合拔の名人でも、手の動くの位は見えますが──灯が疎かつたにしても、全く拔く手も見せない早業でございました」 「その傷を見せてもらへまいか」 「どうぞ御覽下さいまし、もう破傷風の心配もないと思ひます」  主人は傍に居る女房に手傳はせて、頭から顏へ昆布卷にした晒木綿を解きました。 「フーム、成程」  薄刄で切つたらしい傷は、鬢から頬へかけて三寸ほど、絲を引いたやうに血がにじんで居ります。 「親分、この傷は刀や匕首ぢやありませんね」 「薄刄の刄物だよ──いや、有難う、風を當てない方が宜い。これでいろ〳〵の事がわかつた」  平次は丁寧に禮を言つて外へ出ました。 四  神田明神下のもとの町へ歸ると、秋葉の小平は、五十何軒の町家を虱潰しに調べ拔いて、家主の佐兵衞の縁側に、鼻の穴を大きくして休んで居りました。 「錢形の親分、遲かつたよ」  小平の聲は得意さうに彈みます。 「遲かつたといふと?」 「左傷の五右衞門の正體が判つたのさ。錢形の親分に渡りをつけなくて惡かつたが、まア勘辨してくれ、お互に十手一本の附合ひだ」 「すると?」 「この町内に腕の立つ浪人は三人、石山大八といふ方は六十過ぎの老人で、裕福に暮してゐるし、間部三十郎さんは土地に十年も住んでゐて、年は若いが神田中に知られた顏だ。殘る藤波龍之進これは一年前に此處へ越して來て、病氣と言つて滅多に外へも出なかつたといふぢやないか。町内でも知つてゐるのは、ほんの向う三軒兩隣の二三人だけ。年恰好も四十そこ〳〵、髯の跡が青くて、左の頬に色は薄くなつてゐるが、確かに古い傷痕がある」 「え?」  平次は驚きました。藤波龍之進は平次の家からは丁度背中合せの町裏に住んでゐるので、一年前に越して來たことは知つてゐ乍ら、まだ顏を合せる機會もなかつたのです。 「無理もないよ、同じ町内に住んでゐても、藤波龍之進は隣町の風呂へ行くさうだから、錢形の親分とは、滅多に顏が合はないだらう。それにしても、明神下で左傷の五右衞門を擧げちや、錢形の親分に濟まねえわけだ。八丁堀の旦那方へは、錢形の親分が手を貸したことにして置かうよ。せめてさうでも言はなきや──」  秋葉の小平は全く良い心持さうです。 「親分、親分それを默つて────」  聽き兼ねたのは八五郎でした。が、平次はそれを眼顏で押へて、 「それはお手柄だつたな──お上の御用に遠慮はないよ──ところで、盜み溜めた金は三四千兩ある筈だが、それは見付かつたのか」 「まだ口を割らないが、多寡が棟割長屋だ。家の外へ隱すやうなこともあるまいから、床下でも掘ればいづれは出て來るよ」 「羊羹色の紋附や、覆面頭巾、それから短い刀や、薄刄の刄物は?」 「それもいづれ出て來るだらう──尤もそのうちの一つ、覆面頭巾だけは、藤波の裏口のゴミ箱に突つ込んであつたが、これだ」  小平はさう言つて、懷中から黒の覆面頭巾を取出して見せるのでした。 「恐ろしく不器用な縫ひ方ぢやないか。こいつは男の仕事だ」 「藤波龍之進が自分で拵へたんぢやないか」 「娘があつた筈だが──」  平次はさう言ひ乍ら、不器用な覆面頭巾を調べて居りましたが、フト、 「おや、この頭巾の顎のところに、青いものが附いて居るぜ──青黛ではないかな」  妙なものを見付けたのです。が、強ひてそれを追及しようともせず、 「それぢや、秋葉の」  自分の手柄に陶醉する小平に挨拶して、ほろ苦い心持で自分の家へ引揚げる平次でした。考へると起きぬけをガラツ八に誘ひ出されて、まだ朝飯も食はずに居たことに氣が付いたのです。 「親分」  不意に家から飛出したのは、何時の間にやら歸つて居た八五郎でした。 「何んだ八、相變らずお前は神變不可思議だぜ。何時の間に此處へ歸つたんだ」 「そんな事はどうでも構ひませんよ、藤波龍之進のお孃さんの多與里さんが、泣き込んで來て、お靜姐さんを困らせて居りますよ」 「そのお孃さんは若くて綺麗だらう」 「その通りで、そりや大したきりやうで」 「お前の顏にさう書いてあるから不思議さ」  無駄を言ひ乍ら家へ入ると、女房のお靜を相手に、大泣きに泣き乍ら訴へて居るのは、十八九の武家の娘でした。  藤波龍之進の一人娘で多與里、その可愛らしさは平次も聽いて居りましたが、顏を合せるのは始めてです。 「お前さん、藤波さんのお孃さんが、お父さんが惡い事をなさる筈がない、昨夜も現に何處へも出なかつたと仰しやるんですよ」  お靜は取なし顏にいふのでした。何時まで經つても若くて新鮮で、情愛の濃やかな女房振りです。 「親分さん、お願ひでございます。父をお助け下さい──父は西國のさる大藩の御留守居でしたが、惡人の讒言で浪々の身となり、貧しいうちにも眞つ直ぐに世を渡つて、歸參の日を待つて居る身でございます。それに喘息の持病があつて、夜分は滅多に外へ出られる身體ではございません」  涙の隙から、多與里の訴へは縷々として續くのでした。 「お孃さん、御心配なさることはありません。お父樣が惡いことをなさらない事は、此平次がよく知つて居ります。必ず無事で戻るやうにいたしますが、その代り私のお訊ねすることに、眞つ直ぐに──包み隱しをせずにお答へ下さるでせうね」 「それはもう」  涙を含んで擧げた顏、雨に濡れた果物のやうな、それは香ばしくも新鮮な表情でした。 「お父樣を怨んでゐる方はありませんか。いえ〳〵、舊御藩中でなく、この町内の人で」 「心當りは御座いませんが。父は滅多に外へ出ませんので」 「では、お孃樣に縁談を申込まれて、斷わられた者はある筈ですが」 「それなら御座います──御近所の間部三十郎樣」 「外に」 「さア」 「お孃樣に言ひ寄つた者は」  平次も若い娘に對して言ひにくいことを言はなければなりませんでした。 「それなら二三人ございます」 「例えば?」 「御町内の方では古着屋の石松さん、海老床の親方──」 「有難う、先づ差當りそれを手ぐつて見るとしませう。おい、八」 「へエ」 「お前は古着屋の石松のところへ行つて、羊羹色の紋付がないか、念入りに調べてくれ」 「へエ、親分は?」 「俺は髯を當つて來るよ」 五  町内の騷ぎは一應納まりましたが、まださすがに床屋へ來るほどの暇人もなく、平次が海老床へ入つた時は、親方の喜八は下剃の周吉を相手に、人待顏に煙草にして居るところでした。 「親方、ちよいと當つてくれないか」 「あ、親分さん──まだ當るほど伸びて居ないぢやありませんか」 「なアに、日暮から柳橋まで行かなきやならないんだ。この騷ぎぢや參會でもあるまいと思つたが、何んとかの五右衞門がお手當になりや、こちとらは暇だ」 「へツへツ、綺麗なところが、首を長くして待つて居るといふ寸法で。あやかりものですね」  無駄を言ひ乍らも立ち上つた喜八は、煙草をポンと叩くと、煙草盆を押やつて、手馴れた剃刀を取上げました。 「ところで、今朝は飛んだ骨折だつたね」 「へツ、物好きですね──あとでつまらねえおせつ介をしたものだと思ひましたよ。剃刀を持つて居ればこそ、こちとらも一人前のつもりだが、相手が腕が出來て居るさうですから、暴れ出された日にや無事で濟みません」 「さうでもあるまいよ。親方は身のこなしが型にはまつて居るから、町道場へ通つて柔の一手くらゐは稽古したことがあるんだらう」 「とんでもない。年期を入れたのはヘボ將棋くらゐのもので」  無駄を言ひ乍ら、喜八は平次の後ろに廻りました。手には今磨いだばかりの剃刀を持つて、右の袖だけ捻り上げた片襷。その袖口からチラリと見える袷の裏が、定石通りの花色木綿でもあることか、何んと、少し色の褪せた黒木綿ではありませんか。  平次はハツとして振り返りました。喜八の顏には、言ふに言はれぬ嚴しさがありますが、その眼はトロトロと愛嬌がこぼれて、一寸類のないものです。  上總屋に入つた曲者──左傷の五右衞門の着てゐた、羊羹色の紋附の裏は、双子縞であつたといふ番頭の言葉が、咄嗟の間に平次の記憶に蘇返つたのです。  上總屋の裏の潜戸や、雨戸に穴をあけた刄物は、刀や匕首や切出しではなく、剃刀のやうな薄刄のもので、手際よく靜かに扱つたものでなければなりません。若し此處に、峰のない剃刀があつたら? そして床屋のやうに剃刀を使ひ慣れた者の手際で、髯を削るやうに切つたとしたら、陽に晒された二分板の雨戸は、紙のやうに切れないとは限らないのです。  もう一度振り返ると、思ひなしか喜八の顎には、青黛を塗つたやうな不自然な青さがあり、左の頬にも、繪の具を洗ひ落した跡とも見える、淡い跡が殘つて居るやうでもあります。 「親方、さすがは稼業柄で良い道具を持つて居るね。その剃刀箱をちよいと見せてくれないか」 「つまりませんよ、親分」 「いや、ヤスリで峰を削つた剃刀があるやうだが、あれは何處を剃る時使ふんだえ」  平次の手はツイと伸びて、剃刀箱を引寄せようとした時でした。その時早く──かう言つた古い言葉が、こんな時最も有效に働きさうです。平次の顎に臨んで居た喜八の剃刀が、生命を吹込まれたやうに躍動して、そのまゝ平次の喉笛へ──、 「あツ、何をする」  平次は危ふくその手首を押へて、逆に捻りました。眞に危機一髮の離れ業です。 「野郎ツ、くたばつてしまへツ」  それを見て飛込んで來た下剃の周吉、三人三つ巴になつて爭ふ中へ、 「親分、羊羹色の紋附なんかありませんよ」  ガラツ八の八五郎が、ぼんやり古着屋の石松のところから引揚げて來たのです。  まんじ巴になつた激しい爭ひの後、ガラツ八が剃刀の薄傷を負ひ乍ら、漸く喜八と周吉の二人を取つて押へたことは言ふ迄もありません。         ×      ×      ×  左傷の五右衞門といふのは、海老床の親方の喜八で、少しばかり武藝の心得のあるのを資本に、下剃の周吉を見張りに使つて、大それた荒稼ぎを始めて居たのです。 「藤波龍之進の娘の多與里に彈かれて、フト左の頬に傷を拵へることを思ひ付いたのさ。人相といふものは騙され易いもので、あんな大きい傷を頬に拵へておくと、見る人はそれにばかり氣が取られるから、眼鼻立ちなどは覺えちや居ないよ。うまい事を考へたもんぢやないか。喜八の顏を知つて居る者まで、左の頬の古傷にばかり氣を取られるから、一度や二度顏を見ても喜八とは氣がつかないよ」 「成程ね」  喜八と周吉が擧げられてから、平次は例によつて八五郎の爲に斯う説明してやります。 「あの追ひ込み騷ぎが始まつた時、喜八は自分の家へ逃げ込んだが、あんまり急で着物を着換へる隙がなかつた。幸ひ日頃姿を變へる用意に拵へた羊羹色の紋附を裏返しにして、双子縞の方を着て飛出したが、その時──顏を半分洗つて飛出した──と言つた筈だ。眉の墨と顏の疵と、顎の青黛を洗つたのだ──俺はあの時からこれは臭いなと思つたよ。あんな騷ぎの最中に、顏を洗つて來た言ひわけなどはしなくても宜いぢやないか」 「へエ」 「雨戸を切つたのも、上總屋の主人を斬つたのも、剃刀だらうとは思つたが、峰のない剃刀とまでは思ひ付かなかつたよ──何? 盜み溜めた金か、それは遠くへ行くものか。そんな隙はなかつた筈だ。海老床の前の天水桶──あの水がやけに濁つて、春先だといふのに、水草の枯れたのが一パイ浮いて居たらう。あの中を掻き廻して見るが宜い」 「へエ、さうですかね──それにしても秋葉の小平親分が馬鹿を見て、宜い心持でしたね」 「馬鹿野郎、人の縮尻を宜い心持にする奴があるか──秋葉の親分は、手柄をあせり過ぎたんだ。氣の毒なことぢやないか」  さう言ふ平次だつたのです。 「でも、あの多與里さんといふお孃さんは、たまらねえ可愛らしい娘ぢやありませんか」 「當つて見ろ、お前も彈かれて男手で覆面頭巾を拵へ度くなるから」  平次はさう言つてカラカラと笑ふのでした。 底本:「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」同光社磯部書房    1953(昭和28)年11月5日発行 初出:「オール讀物」文藝春秋新社    1948(昭和23)年4月号 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2016年6月10日作成 2017年3月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。