錢形平次捕物控 鬼女 野村胡堂 Guide 扉 本文 目 次 錢形平次捕物控 鬼女 附け文ごつこ 一 二 三 四 血の天井裏 一 二 三 お粂 一 二 三 孫右衞門夫妻 一 二 三 四 小判で九百兩 一 二 三 女小間物屋 一 二 惡鬼跳梁 一 二 三 四 五 お玉の戀人 一 二 三 殺しの虐さ 一 二 三 小紋縮緬 一 二 三 四 恐怖の夜 一 二 三 灰吹の酒 一 二 三人目の死 一 二 謎の箱 一 二 三 最後の冐險 一 二 二 四 半型丁型 附け文ごつこ 一 「あら、八五郎親分」  神田お臺所町、これから親分の錢形平次の家へ朝詣りに行かうといふところで、八五郎は馥郁たる年増に抱きつかれてしまひました。  櫻の蕾もふくらみさうな美しい朝、鼻の穴を大きくして、彌造を二つ、七三に拵へて、間伸びのした小唄なんかをひよぐりながら、親分の錢形平次の家へ、その日の新聞種を持つて行くのが、長い間の八五郎の慣はしだつたのです。 「わつ、びつくりするぢやねえか、いきなり飛付いたりして」  八五郎は立ちどまつて、精一杯の見榮をきりました。双腕の彌造は、何處に敵がゐるかもわからない御用聞のたしなみにはないことですが、鼻唄の旋律をこね回すのには、かう二た子山を拵へて、長んがい顎で梶を取らないと、うまい具合には行きません。 「でも、鼻の頭を嘗めるのだけは、勘辨して上げたわよ」 「御遠慮には及ばない、嘗めてもらひたかつたよ」 「でも、ね、顎が邪魔になるから」 「畜生ツ、いつたね」  八五郎は大きく拳固を振り上げました。錢形平次の子分で、足でネタをあさつて歩く愛稱ガラツ八は廣い江戸中に、バラ撒いたほどの友達を持つてをりますが、この馥郁たる年増もその一人、八五郎の鼻ぐらゐは嘗め兼ねない、いとも勇敢なる女性の一人だつたのです。  名前はお粂、下谷長者町の金貸俵屋孫右衞門の娘、凄いほどのきりやう、浮氣で、陽氣で、少々は嘘つきで、無類の愛嬌者でした。これだけの條件が揃つて、嫁入先から追出されたのは、どうにもならぬ尻輕のためだともいはれ、持前の愛嬌を、相手構はず振り撒いて歩くので、亭主の燒餅がひどかつたためともいはれてをります。 「本當に、此處で逢つたは百年目よ」 「敵討ち見たいなことをいふな」 「今日こそは錢形の親分に引き合せて下さるでせうね」 「引合せるのは御安い御用だが、お前は親分に岡惚れをしてゐるさうぢやないか、下谷中の評判だぜ」 「私がいひ觸らしたんだもの、評判になるのは當り前よ」 「呆れてモノがいへねえ」 「正直で可愛らしいぢやありませんか、ね、連れて行つて下さいよ、八五郎親分」 「御免蒙らうよ、錢形の親分の鼻へ噛みつかれちや、俺はお靜姐さんに濟まねえ」 「そんなことをいはないで、ね、八五郎親分──これは人の命にかゝはることよ」  お粂は眞劍になりました。キツとなると、百媚悉く影を潜めて、怖いほど美しくなります。 二 「何處へ行くんだ、お前は?」  八五郎は、平次の家の前で立ちどまりました。まいた積りのお粂が、何處の路地から飛出したか、チヨコチヨコとよく馴れた小犬のやうに、八五郎の後ろからついて來るのです。 「あら、錢形の親分に引合せて下さる筈ぢやありませんか」 「そんなことを引受けた覺えはないよ」 「意地の惡いことを言はないで連れて行つて下さいよ、錢形の親分に逢つてゐる間は、ニコリともしないから」  さう言ふくせに、こぼれる愛嬌を持て餘して、頬をつねつたり、額を叩いたりするお粂です。 「そんなに逢ひたきア、お前一人で行くがいゝ、お前みたいなものを連れて行つて、あとで親分に小言をくひたくないよ」 「私が一人で行けるくらゐなら八五郎親分を頼むものですか、去年の秋の大さらひの後で、お友達と附け文ごつこをして、錢形の親分を引き當てたばかりに私はうんと怒られてしまつたんですもの」  町の稽古場、摘み綿の師匠などが、碁會所や床屋の男達のクラブに相對して、蓮葉娘達の寄合ひ場所になつてゐた頃、縁結びから嵩じて、附け文ごつこにまで發展し、町内から隣町へかけての、若い男を惱ませたのは、江戸娘の行き過ぎた惡戯でもあつたのです。 「おい、八、何をしてゐるんだ、路地の中で、風の惡い」  錢形平次は、格子の外へ顏を出しました。相手は誰であらうと、路地うちの揉め事は、物見高い近所の手前も放つては置けなかつたのです。 「長者町のお粂さんが、親分に逢はせろと言つて聞かないんですよ、どうしませう」 「逢つてやらうぢやないか、お取次ぎに及ぶものか、──お粂さんの惡戯が過ぎるから、八五郎にまで嫌がられるぢやないか」 「濟みません、──附け文ごつこなんて、流行るから惡いんです。尤も書くのはこつちの勝手、相手は維盛樣だつて勝頼樣だつて、惚れて惡いつて法はないけれど、それを相手に屆けるからうるさいことになるんでせう。あの手紙を親分の家の格子の中に投げ込んだ、玉ちやんが惡いぢやありませんか」  お粂は格子に獅噛みついて、精一杯の言ひわけをするのです。狹い家は表から裏まで筒拔け、井戸端にゐる平次の女房のお靜は、それを擽ぐつたく、面白く、そして少しは極りが惡く聽いてゐたのです。 「ところで、俺にどんな用事があるんだ、男出入と金のことは御免だよ」 「それどころぢやない、長者町の私の家の者が皆んな殺されかけてゐるんです」  お粂は飛んでもないことを言ふのです。 三  家中のものが皆殺される──といふのは、言葉は簡單ですが、その意味はいかにも重大です。 「それはどういふわけだ、お粂さん」  平次は八五郎とお粂を六疊に案内して、心靜かに問ひを進めました。  いかに浮氣で、愛嬌もので、少々は嘘つきであつたにしても、長者町の俵屋といへば、下谷一番といはれた身上、その孫右衞門の娘のお粂が、冗談や嘘にこんな事がいへる筈もありません。  その時お粂は二十五、出戻りになつてから、鐵漿も落し、眉も生やして、元の娘姿にかへりましたが、少しもをかしくないほど、若くて陽氣で、溌剌としてをりました。 「私がこんな事をいつたと知れたら、どんなに叱られるでせう、でも默つちやゐられません、二人は死にかけたし、一人は怪我をしたんですもの、父さんは暖簾にかゝはるからといつて、内證で療治させたけれど、暖簾なんて、そんなに大事なものでせうか、親分」  お粂はまくし立てるのです。舊弊な父親と、散々いひ爭つた揚句家を飛出して來た樣子です。 「詳しく話してくれ、どうも聽き捨てにならない事らしい」 「それどころぢやありませんよ、去年の夏霍亂で死んだ小僧の友吉だつて、私は暑さ中りや霍亂とは思へなかつたんです、町内のお幇間醫者が、胡麻化してしまつたけれど、霍亂が、あんなひどい苦しみやうをするでせうか」 「待つてくれ、まるで、おれのせゐみたいぢやないか、誰が一體殺されかけたといふんだ」 「叔父さんの孫三郎──御存じでせう、あの氣むづかしやの」 「知つてるとも、長者町の貧乏神──」  八五郎は口を容れて、あわてて頭を引つ込めました。その長者町の貧乏神といはれた、俵屋の支配人孫三郎の姪の前でいふべきことではありません。 「その叔父の孫三郎さんがどうしたのだ」 「昨夜少し遲くなつてから、床屋へ行つて戻つて來ると、裏口を入らうとしたところ、いきなり後ろから突かれたんださうです。變だなと思つて、身をかはして助かりましたが、それでも、脇腹を縫はれて、大きい引つ掻きを拵へました、日頃の氣丈で苦にもしないけれど」 「?」 「そればかりなら、叔父さんを怨んでゐる者を搜せば濟むことですが、二三日前には、朝の味噌汁に、石見銀山を投り込んだ者があります、幸ひ曲者は鍋を間違へたので私達は皆んな無事で、下女のお徳と、手代の金之助と下男の五助が少し胸を惡くしましたけれど」  まさに容易ならぬことがありさうです。 四 「お粂さん、一人の思ひつきで俺の家へやつて來たのか」  平次は煙草盆を引寄せて落着き、一服煙草をつけました。お勝手の方ではコトコトと女房のお靜がお茶の仕度をしてゐる樣子です。自分の亭主に、冗談にもせよ戀文をつけた相手ですが、それを根に持つて、お茶も出してやらないといつた氣持になれるお靜ではありません。 「私は前から、錢形の親分にお願ひして、惡戯者を調べるやうにと、父にも母にも申しましたが、暖簾の手前とやらで聽いてくれません。で、今日は我慢がならなくなつて、親分と顏を合はせるのは少しばかり極りが惡いけれど、手代の金之助と相談して、そつと脱け出して來ました」 「お前が此處へ來たことは、その金之助の外には、知つてるものはないわけだな」 「その通りです、それから」 「それからどうした」 「叔父さんを突いた曲者は、闇の中に姿を隱してしまつたけれど、どうも女に違ひないと、本人がいふんです」 「女?」 「身のこなしがやさしくて器用だつたし、白粉の匂ひがしたやうだと、叔父さんが申しました」 「女が何人ゐるんだ、俵屋には?」 「私も入れて三人」 「誰と誰だえ」 「妹の玉ちやんと、私と、母と、あゝそれから、下女のお徳と、このうちに人殺しでもしようといふのは」 「誰だと思ふ」 「母は病氣で臆病だし、妹はお轉婆だけれど、まだ十八になつたばかり、猫の子が死んでも二日も物を食はないくらゐだから、そんな大外れたことが出來さうもないし、お徳は給金をためるほかに望みもない人だから、──」 「殘るのは、お前ぢやないか、お粂さん」 「ま、怖い、──私が」 「まアいゝ、お前は眼で殺す方だ、──兎も角、それだけワザをするのを放つてもおけまい、一度覗いて樣子を見て置かう」 「來て下さるの、親分」  お粂の聲ははずみます。事件の輕重はどうあらうと、錢形平次をおびき出せば、それで氣が濟む樣子です。 「尤も、朝の味噌汁の鍋を間違へて、奉公人達に毒を盛るやうぢや、家の者でないかも知れない」 「さうでせうか」 「明るいうちから、御用聞が乘込んぢや、俵屋の旦那が嫌がるのも無理はない、今晩、暗くなつてから、そつと覗いて見るとしようか」  平次は到頭この仕事に首を突つ込む相談をしてしまひました。 血の天井裏 一  その晩、思ひも寄らぬ妨げが入つて、平次と八五郎が、明神下を出たのは、やがて亥刻(十時)近い刻限でした。 「親分ほどの人も、たうとうあの女には口説き落されましたね」  八五郎は面白さうに顎を撫で回すのです。 「人聽きの惡いことをいふな、──お粂の口から聽いただけのことでも、俵屋に祟つた惡企みの底が深いやうな氣がしてならない」 「矢張り惡企みですかね」 「俵屋は金があり過ぎるよ、それに後添の内儀──お春さんとか言つたね、あれは若過ぎるし、娘のお粂とお玉は綺麗過ぎる、もう一つ主人の孫右衞門は六十八といふ年で、病身で身動きも出來ないといふぢやないか」 「さう言はれると、お家騷動の卵があり過ぎますね、お粂さんが心配するのも無理はない」 「あの女も卵の一つかも知れないぜ」 「附け文ごつこで、巫山戯て書いた手紙を、親分の家へ投り込まれて、あんなに小さくなつてゐるんだから、あの女は思ひのほか善人かも知れませんね」 「お前が見ると、綺麗で若い女は皆な善人さ」 「違えねえ」 「おや、俵屋に何んかあつたんぢやないか、大騷ぎをしてゐる樣子だが」  長者町へ入ると、向うに見える一劃、それは俵屋の大きな構ですが、その中に一パイの灯が點いて多勢の人が、出たり入つたり、まさに右往左往してゐるのです。 「何んかありましたね、親分、飛込んで見ませう、もう遠慮なんかしちやゐられませんよ」 「よし、來い」  二人は店口から堂々と名乘つて出ました。 「御免よ、何んか變つたことがあつたのかい」  霧拂ひの八五郎の聲が、店中に響きます。 「あ、八五郎親分、大變よ、矢張り私が言つた通り」  飛出したのは、少し取り亂してゐる、出戻りのお粂でした。一度もう床へ入つたらしく、長襦袢の上に絆纒を引つかけて、だらしはないけれど、いかにも仇つぽい姿です。 「何がどうしたんだ」 「叔父さんが殺されましたよ」 「何?」 「錢形の親分さんも御一緒で、さア、此方へ──」  横合ひから割込むやうに、店暖簾をかきわけて、二人を案内してくれたのは、二十歳くらゐの若い男、月代の青々とした、なか〳〵の美少年で、それは手代の金之助といふ、久松型の奉公人とあとでわかりました。  家中の者はあちこちに固まつて臆病らしく眼を光らせるだけ、その中でお粂と金之助だけが、僅かに冷靜を取戻した樣子です。 二 「この上が、孫三郎樣のお部屋でございます」  階子段の下で、手代の金之助は顏を硬ばらせるのです。 「お前が案内してくれるのだらう」  平次は後ろから催しました。 「へエ、でも、あまり良い役ぢやございません」  金之助は振り返つて、淋しく苦笑ひするのです。あまり外へ出ないせゐか、病身らしく蒼白い顏ですが、男のくせに笑くぼが寄つて、細面の素晴らしい男振り。 「何んだ、進んで案内したのが今さら怖くなつたのか、こちとらは死人を恐れた日にや稼業にならねえ、おつかねえのは此家にうんとある金ばかりさ」  八五郎はそんな無駄をいひながら、金之助に取つて代つて、階子段を驅けあがりました。  裏二階は六疊と四疊半、孫三郎は主人の義弟で店の支配をしてをり、かなり存分に暮してゐたらしく、調度の末までも、なか〳〵に贅を盡してをります。  唐紙は開けつ放しのまゝ。一と目、八五郎もたじろぎました。 「こいつは凄いや」  平次はかきのけて中へ入りました。左横手の押入の襖は開いたまゝ、中段から血潮の瀧を掛けたやうになつて、人間が一人、押入の天井から、逆樣にブラ下つたまゝ死んでゐるではありませんか。 「灯が足りない、手燭を借りて來い、八」 「へエ」  八五郎は階子段を飛降りると、まだそこに立つてゐる金之助を促し立て、手燭を持たせて、またも二階へ取つて返します。  その間に平次は、たつた一つの行燈を掻き立てて、押入を覗いて見ました。  何しろ大變な血ですが、その源泉は、押入の中で、逆樣になつたまゝ、右の首筋を深々と刺された、孫三郎の死體から噴出したものでせう。刄物は細刄の匕首、首筋へ突つ立てて、頸動脉を切つた上、肺まで刺した樣子、冷酷無殘な昆虫のやうな離れ業です。  押入にブラ下がつてゐるのは、四十七、八の薄汚い男、月代が剥げちよろで、高い鼻筋が曲つて、クワツと開いた金壺眼、いかにも繪に描いた貧乏神のやうな感じです。長者町の貧乏神と言はれたのは、その強慾非道さのせゐばかりではなかつたでせう。 「誰がこれを見付けたんだ」  平次は後ろに物の氣はひを感じて、誰にともなく訊ねました。 「お粂さんでした、二階で變な聲がするので、寢卷のまゝ來て見たんださうです──お粂さんの部屋は、丁度この眞下ですから」  應じたのは恐る〳〵ついて來たらしい金之助でした。 三 「お前はそれを聽かなかつたのか」  平次は脅え切つてゐる金之助を振り返りました。 「私は表二階で、旦那樣のお肩を揉んでをりました、裏二階とは階子が別になつてをりますので、少しぐらゐの物音や聲は聞えません」 「旦那はどこが惡いのだ」 「お醫者はいろ〳〵のことを申しますが、痛風と喘息の持病があつて、三年前から寢たつ切りでございます」 「それは氣の毒な」 「毎晩寢る前に、身體を揉んであげるのが私の役目になつてをります、女どもでは力がなくていかず、男達は亂暴なので、私が一番宜しいさうで、──揉んであげるとよく寢られると申して喜んでをります」  なるほど、この物柔かな美少年は、老人が身體を揉ませるには、丁度手頃なのかも知れせません。 「兎も角、お粂さんを呼んでくれ、それから佛を疊の上へおろして、夜中でも一と通りのことはしなきやなるまい」  平次の指圖で、奉公人達は一ぺんに入つて來ました。孫三郎の死骸を押入から取おろして、隣の部屋へ入れると、内儀のお春と、娘のお玉もやつて來て、下男の五助や、手代の金之助や、下女のお徳などを指圖してをります。  内儀のお春は、平次と八五郎に輕く挨拶しただけで、この不氣味な作業に取りかゝりました。年は三十八ときゝましたが、綺麗ではあるにしても、どこかに弱々しい病的なものを感じさせる女です。  娘のお玉は唯おど〳〵するだけ、丸顏の色白で、十八の可愛らしい盛り、どうかすると白痴美を思はせるのは、特別に美しい笑顏のせゐで、こんな娘が、案外性根が確りしてゐるのかもわかりません。 「親分」  お粂を呼びに行つた八五郎が、ぼんやり戻つて來ました。 「何んだ、八」 「お粂は來ませんよ、あんな氣味の惡い二階なんか嫌だつて」 「勝手な女だ」 「先刻一と眼覗いただけで、血の道が起きたくらゐだから、二度とあれを見せられると、眼をまはすかも知れないんですつて」 「あの女は、そんな事で眼をまはすものか、──でも、お粂の部屋も見ておきたい、此方から行つてやらう」 「さうですか、──四の五の言へば、下手人の疑ひで引つ括られるぞ、とでも脅かして見ませうか」 「そんな殺生なことは止せ、本當に眼をまはされると厄介だ」  平次は氣輕に立つて、階下のお粂の部屋へ行く氣になりました。 お粂 一  眞下の部屋は、矢張り六疊で、これは思つたよりも、ひどく御粗末でした。二階の孫三郎の部屋に比べると、これは全く奉公人の部屋と言つても宜いくらゐ。  唐紙を開けると、中には床が敷いてあつて、 「あ、錢形の親分」  驚いて飛起きたお粂は、床の上にまじ〳〵と坐り直すのです。嫁入道具をそのまゝ不斷用にしたらしい、派手な夜の物も、四方の簡素さにそぐはないけば〳〵しさです。 「氣持が惡いさうぢやないか、どうしたんだ」  平次はお粂の床から遠く離れて中腰になりました。さすがにその調子には、勞はりがあります。 「濟みません、親分、私はもう打つ倒れさうなんですもの」  お粂は掻卷を抱くやうに、枕に顏を埋めるのでした。首筋が伸びて、鬢から髱への、線の美しさ。生え際が青くて、桃色の耳朶、これはまことに非凡の可愛らしさです。 「氣持が惡きや、仕方はないが、最初にあれを見付けたといふお前に、訊くだけのことを聽かなきやならない」 「──」 「お前は階下にゐて、少しは氣取つてゐるだらうが、叔父さんの孫三郎は、何んのために押入へ入つたんだ」 「私にはわかりません、わかるはずもないぢやありませんか、──でも叔父さんは、夜中に家中を歩く癖がありました、私は眞夜中に納戸にゐる叔父さんを見たり、落しに首を突つ込む叔父さんを見たこともあります」  お粂の話は、なか〳〵に奇つ怪です。 「あれだけの傷だから、刺されて間もなく死んだことだらうが、物も言はずに死んだとは思はれない、お前が行つたとき、何んか言はなかつたのか」 「二階で變な物音がしたので、私は、飛起きて階子段を登りました」 「誰にも逢はなかつたのか」 「誰にも逢ひません、二階の廊下は眞つ暗でしたが、叔父さんの部屋には行燈が點いてゐました、唐紙は開いたまんまでしたが、私が飛込むと」 「飛込むと、それから、どうした」  お粂は絶句して、ゴクリと固唾を呑みました。 「やられた、──あの女だ──と叔父さんは言つたやうでした」 「あの女──と言つたのか」 「聲をかけて飛付くと、叔父さんはもう」 「それつ切り息を引取つたのだな」 「私の聲を聽いて、五助とお徳が飛んで來ました。それから母と玉ちやんと、少しおくれて金之助が──」  お粂は自分の肩を抱いて、顫へながら言ふのです。 二 「その叔父さんを、うんと怨んでゐる者はなかつたのか」  平次は平凡過ぎるほど平凡な問を持出しました。こんな問を出したところで、あまり結構な答へを得たためしはありませんが、それでも相手の語氣や、表情や、言葉の含みを察する手掛りにはなるのです。なぜと言へば、人の命を狙ふほど憎み拔いてゐるものは、大抵は表向き至極仲の良ささうな顏をしてゐるものであり、反對に、打ち殺してでもやるやうなことを人樣の前で言ひ觸らす者には、人を殺すやうな膽つ玉の持主でないのが、平次の永い間の經驗で明らかだつたのです。 「皆んな叔父さんを怨んでましたよ」 「?」 「金貸の支配人ですもの、世間の人はゲジゲジ見たいにいふし、叔父さんもまた、金の借り手に甘い顏なんか見せられないから、何時でも苦虫を噛みつぶしたやうな顏をしてゐました、その上──」 「──」 「強情で、しみつ垂れで、女は大飯を食つたり着物を買つたり、費えだからつてお内儀さんも持たない人ですもの」 「念入りだな」 「そのくせ、時々は安い遊びにも行くやうで、──金之助が素破拔いてゐました」  さすが出戻りだけに、お粂はヌケヌケとこんなことまでいふのです。 「その心掛けでは、主人の孫右衞門さんには評判が良かつたことだらう」 「飛んでもない、敵同士でしたよ」  お粂は以てのほかの手を振るのです。 「主人と孫三郎は兄弟ぢやないか、それに主人が床についてからは、隨分役に立つた支配人だらうと思ふが──」 「兄弟と言つても義理のある中で、──以前は良い支配人でしたが、父が患ひついて、身動きも出來なくなると、自分の懷ろばかり肥したやうで、──惡い叔父さんでしたよ、亡くなつた後で調べて見たらびつくりするほど金を隱してゐることでせう」  姪のお粂の口から、まことにさん〴〵の評判です。 「滅茶々々だな、──他の人達とも仲が惡かつたのか」 「奉公人達には思ひのほか評判がよかつたやうです。どうせ俵屋の身上は主人のものだと思つたか、隨分パツパと撒き散らしたやうですから」 「手代の金之助も奉公人なみだらうな」 「仲が惡くなかつたやうです、尤も下男の五助は、時々叔父さんに盾をついて、ひどく叱られたりしましたが」  お粂は元氣を取戻して、かなり突つ込んだことまで言つてくれるのです。 三  平次は擽ぐつたいやうな心持でお粂と相對しました。赤い夜具の裏をハネ返して、長襦袢に小掻卷の、寒々と膝を揃へた、お粂のポーズは哀れ深くも色つぽいものだつたのです。 「もう少し訊きたい、構はないだらうな」  平次は念を押しました。 「え、どうぞ、親分と差向ひなら」  拷問でもされて見たいくらゐ──と言はうとして、さすがに氣がさして、お粂は默つてしまひました。 「二階へは行きたくないと言つたのはどういふわけだ」 「だつて、あれを見せられちや私は眩暈がして──」  お粂は手の甲を、額に當てるのです。美しいポーズです。押入からブラ下がつた逆さまの死骸と、部屋一パイの血の海、それを平氣で眺められたら、若い女の膽力ではありません。 「まア、宜い、俺はこの家の皆んなの係り合ひを聽きたいのだよ、最初に先づお前、お粂さんだ」 「あら、皆んな御存じの癖に、私は浮氣で、出戻りで、阿婆摺れで──」 「それは解つてゐるが、主人の孫右衞門の眞實の娘ではないといふことだな」 「その通りです、私は先代の主人の娘、眞實の父が亡くなつて、今の父が母のところに入聟になり、間もなく私を生んだ母も死んで、今の母が三十も年下で後添に入りました、俵屋の本當の血筋は、この私といふことになるわけね」 「その總領娘のお前は、此家の跡取りになるのが順當ぢやないか、他へ嫁に行つたのは、どういふわけだ」 「俵屋の跡取り娘には違ひないけれど、父も母も他人とわかつてゐるくせに、この身上が欲しさに默つてゐられるでせうか、私はそんな柄の女ではない」 「?」 「藝人を情夫に持つて、下谷中の評判になり、親に勘當されたことも御存じでせう、男は江戸一番の薄情者、俵屋の身上を貰ふ見込がないとわかると、難癖をつけてわたしと別れてしまひました」 「──」 「それを良い仕合せに、知り合ひを辿り歩いて女居候を渡世にしてゐると、お節介な親類の小父さんが、俵屋に詫を入れ、身上を狙はないといふ證文まで書いて、生れた家へ戻りました、──少しは可哀想ぢやない? 錢形の親分」 「身から出た錆のやうだな、それから?」 「妹のお玉は今の母の生んだ娘。鳶鷹でちつとも似てゐないけれど、今の父親の娘に違ひありません、殺された孫三郎叔父さんは、先代の弟で、私の本當の叔父、手代の金之助は、今の父孫右衞門が何處かで拾つて來て白雲頭から育てた子、下男の五助と下女のお徳は、一期半期の奉公人」 「内儀のお春さんは、大層若いやうだな」 「母と言つても、まだ三十八ですもの、それにあの通り綺麗だから、よく姉妹と間違へられますよ」  お粂は語り終つて、ホツと溜息をつくのです。 孫右衞門夫妻 一  二階から降りて來た、内儀のお春を呼び留めて、平次は納戸の前の長四疊に入りました。 「何んか、御用で?」  相手は名ある御用聞、お春は氣味惡さうに跟いて來るのです。 「手間は取らせません、ほんの少しばかり」 「?」  お春は諦めた樣子で、座布團のない、疊の上へ六つかしく坐りました。三十八といふにしては、驚くべき若さです。青々とした眉、大きい表情的な眼、小さすぎる唇から、物を言ふ度に鐵漿をつけた齒が覗いて、非凡の色つぽさです。 「孫三郎さんの殺されたことで何んか心當りがあると思ひますが」  平次は少し高飛車でした。この優しく美しい内儀が、病人の主人の代りに、俵屋の實權を握つて、何彼と評判のあることは、あまり遠くないところに住んでゐる、錢形平次も一應は知つてをります。 「さあ、心當りと申しても」  内儀のお春は、ひどく用心深くなつてゐる樣子で、なか〳〵平次の誘ひにも乘つて來ません。 「姪のお粂さんに訊くと、滅茶々々でしたよ、あんなに言はれては、死んだ叔父さんも浮ばれない」 「あの人は、遠慮がありませんから、それにお粂が家出したときも、男に捨てられた時も、孫三郎さんは、少しも世話をしてやらなかつたやうです」 「そんなこともあるでせうね、ところで、孫三郎さんは、御主人との仲も惡かつたさうですね」 「孫三郎さんといふ人は、自分のことしか考へない人でした」 「例へば?」 「いづれわかることでせうが、お金も何處かに確かり溜めてゐることでせう」 「それで」 「これは申していゝことか惡いことかわかりませんが、私も長い間隨分迷惑をしてをりました」  お春はたつたこれだけいふのですが、その口ぶりから察すると、この若くて美しい内儀は、義弟といつても、主人の孫右衞門よりは、二十も年下ですが、自分よりは十も年上の男に、しつこく附き纒はれてゐたことは想像に難くありません。 「?」  平次は先を促しました。内儀のお春はまだいゝそびれてゐることが澤山ある樣子です。 「御存じのことでせうが、私はもと勤めをしてをりました。此家に嫁入してその年、娘を生みましたが、孫三郎さんは、あの娘──お玉だつて、誰の子かわかつたものぢやない、母親は素人でなかつたし、言はば賣物買物だつたから、現に私も──などと、飛んだことまで言ひ觸して歩きました、町内の方は皆な御存じですから、孫三郎さんが死んだ今となつては、他から親分のお耳に入つて、變に思はれるといけませんから、私の口から皆な申上げて置きます」  お春はハキハキと思ひ切つたことを言ふのです。世間の噂の先を潛つたやり方は、さすがに俵屋を切つて回す才女の氣の働きです。 二 「親分さんに、私からお願ひがあるんですが──」  内儀のお春は、平次の態度の穩かさに、いくらか落着きを取戻したらしく、顏の色も次第に冴えて、話の調子も滑らかになつて來ました。  青い襟、黒い帶、膝の上に置いた、白い華奢な手の顫へも止んで、平次を仰ぐ眼には、年増女らしい、複雜な媚に似たものさへ動くのです。 「私に、頼みといふのは」 「他でもございません、──この家で狙はれてゐるのは、孫三郎さんばかりではございません、確かにもう一人、命を狙はれてゐるやうな氣がして──」  お春は右の手で、左の肩を細々と抱くのです。 「それは、容易ならぬことだが」 「今までは、隨分隱してをりましたが、孫三郎さんの死にやうの恐ろしさを見て、私はもう我慢が出來なくなりました」 「──」 「去年の夏、小僧の友吉が霍亂で死にましたが、あれはどうも人に殺されたやうな氣がします。金之助と五助とお徳も味噌汁に中てられたのも、皆んな私と娘のお玉を狙つたやうな氣がしてなりません。お玉に若しものことがあつたら、私はどうしませう」 「それは私も聽いたが、どうしろと言はれるので」 「親分のお力で、その惡戯者を調べて頂きたいのでございます。孫三郎さんを殺した下手人と、同じ人かも知れず、違つた人かも知れませんが、お玉が狙はれてゐるやうな氣がして、私はもう氣が變になりさうです」 「お孃さんが狙はれてゐるに違ひないといふ、證據でもあるのかな」 「證據も何んにもありません、でも私は」 「──」 「あの娘の母親ですもの」  お春の言葉は含蓄がありました。母親だけが感ずる恐怖、娘の命が狙はれてゐるといふ、手のつけやうのない豫感、お春はそれを言葉を超えて、平次に感じさせようとするのです。 「そいつは困つた、お孃さんを狙つてゐるといふ、相手だけでも判れば、どうにか工夫もあるが──」 「女ですよ、親分、相手は鬼のやうな女ですよ」 「鬼のやうな女」  平次は鸚鵡返しに言ひましたが、お春、お玉二人の母娘をのぞけば殘るのは、下女のお徳と、お玉の姉のお粂だけ、そのお徳は主人のお玉の命を狙ふ筈もなく、殘るお粂は、少し浮氣つぽくて鐵火でさへありますが、鬼のやうな女とは思はれません。 「どうして女とわかるのだ」 「石見銀山を白粉の包紙に包んだのを、下男の五助が庭で拾つたこともあります」 「──」  平次は默つてしまひました。疑問は深くなるばかりです。 三  主人孫右衞門の寢間は、一番奧の、南に突き出した六疊でした。調度は思ひのほか質素で、唐紙を開けると、ムツと病床特有の臭ひがします。 「旦那は、氣分が宜しいさうで、錢形の親分さんに是非お目にかゝりたいと申してをります、どうぞ」  取次がせた手代の金之助は、薫風を殘して立去りました。松坂木綿の、唯のお仕着せ、やゝ小柄で元服したばかりの、青々とした額、いかにも爽やかな感じのする青年です。  入れかはつて部屋の中へ入つた平次、 「あつしは明神下の平次で、御病中に無理を申して濟みません」  丁寧に挨拶すると、 「いや〳〵、飛んだお手數で、何んとも申譯のないことでございます、この通りの病人ですが、万事は私の不行屆からでございます」  と枕から首を浮かして恐ろしく丁寧です。 「お氣の毒なことで、孫三郎さんは、餘つぽど、怨まれたやうですね」  平次は口を切りました。主人の孫右衞門はそれには急に答へず、呻吟するやうな苦澁な顏を伏せました。  床に就いたまゝ、右手を布團の上へ出してをりますが、痩せこけて靜脈が浮いて、生きてゐるのが不思議なくらゐ、頭は胡麻鹽の虫食い、顏色は痙攣性の病氣の人によく見かける、鉛のやうな色で、落ち窪んだ眼だけが、曾ては帳場格子の中で、店中を支配した、昔の精氣が殘つてをります。 「私には義理の弟で、先代から引續いて店の支配をしてをりますが、隨分評判は惡かつたやうで御座います。尤も、あれだけの人間でないと、なか〳〵この商賣はやつて行けません」  主人孫右衞門は、孫三郎の評判の惡さも承知、その刻薄無殘な性格も、利用價値があると思つてゐる樣子です。 「隨分、自分の金を溜めたことでせうが、配偶も子もない孫三郎さんの後は、どういふことになります」 「さア、其處までは考へたこともありませんが」  孫右衞門は覺束ない口調です。長年に亙つて店からくすねたものが、店へ返るとすれば、隨分氣の毒でもあり、馬鹿々々しくもあり、孫右衞門に取つては、可笑しくもあるでせう。 「孫三郎さんには變な癖があつたさうですね、天井裏を歩いたり、落しへ首を突つ込んだり」 「それは、私もよく存じてをります。以前はそれほどでもなかつたが、私が寢込んでから、誰憚るものもなくなりました」 「何んのための家搜しで?」 「私が、大金を何處かに隱してあるに違ひないと思ひ込んだことでせう、二つの土藏を搜し拔いた上、床下から天井裏、壁を叩いたり、落しに首を突つ込んだり」 「本當に金は隱してあるので?」 「いや、有るやうでないのは金ですよ、大金など、──孫三郎の知らないものが、あるわけはない、淺ましいことで」  孫右衞門は枯木のやうな手を振りながら、淋しく笑ふのです。 四 「それからもう一つ」  平次は粘りました。この老人は三年も床の中にゐる癖に、思ひのほか何も彼も知つてゐる樣子です。 「何んなりと、私も口だけでも達者なうちに、錢形の親分のやうな方に、いろ〳〵の事を聽いて戴くのが本望ですから」 「では、これだけは是非伺ひたいのですが、俵屋の家督はどうなります。それをはつきり決めて置かないと、かへつていろ〳〵厄介なことが起りさうですが」  平次はこの騷ぎの裏には、万兩分限の俵屋の身上があることに氣が付いてゐたのです。 「よく訊いて下さいました。世間なみから申せば、私の本當の子ではないが、先代の遺した一人娘のお粂に聟を取つて、この俵屋の跡を取つて貰ふのが順當でございます。ところがお粂はあの通りの娘で、年頃になると、勝手に藝人と一緒になり、家出をしてしまひました。親類や世間の手前、懲らしめのために勘當いたしましたが、俵屋の身上目あての男は、間もなくお粂を捨ててしまひ、仲に入るものがあつて、勘當は許しました」 「すると?」 「勘當を許せば、お粂は矢張り俵屋の總領娘で、何んにも言ふことはありません、改めて親の私の眼鏡に叶ふ聟を貰ひ、お粂夫婦に跡を讓るのが順當のことでございます」 「すると、妹のお玉さんは」 「あれは私の娘ですが、妹を家督に直すわけに參りません、何處かへ嫁にやることになりませう、自分の生んだ娘ですから、女房のお春には、兎角の不服もあることでせうが、世間の義理には徒はなければなりません」  孫右衞門は確と言ひ切るのです。 「成程それは立派なことで」 「これは、私の遺言状にも認めて、そつと隱してありますが、孫三郎のやうな不心得者があつて、その遺言状を盜み出さないものでもありません、──よく親分も、お心に留めて、私が死んだ後で、間違つたことをする者がありましたら、はつきり仰しやつて下さるやうにお願ひいたします」  孫右衞門は仰向いたまゝ、シカと眼をつぶつて見せるのです。平次への會釋の積りでせう。 「よくわかりました、お粂さんにもさう言つて置きませう」 「いや、お粂はそれを百も承知の筈ですが、あの娘はお轉婆者のくせに、妙に義理堅いところがあつて、お玉をそつちのけにして、この家の跡取りになるのを喜ばないのです。それとも勝手な男を拵へて、勝手な眞似がしたいのでせうか、若い女といふものは、まことに仕樣のないもので」  孫右衞門は苦笑ひをしてをります。 「お仕舞に、御主人は、毎晩あの金之助といふ若い手代を、傍に寢かして置きなさるので?」 「いや、そんな可哀想なことはしません、若い者が、年寄の病人の側を好きなわけはないから、身體を揉んだり、足腰を擦つたりする時だけ申付けます」  恐らくこの老朽ちた主人の側には、美しい内儀のお春は泊つてくれないのでせう。 小判で九百兩 一 「親分、ちよいと見て下さいよ、大變なものが──」  八五郎が二階から、階子段を二つづつ飛降りて、平次のところへ御注進に來るのです。死に神に憑かれたやうな靜かな家の中に、素つ頓狂な八五郎の聲と、そのフオツクス・トロツトを踊るやうな、凄まじい足音だけが響き渡ります。 「騷々しい野郎だな、二階は片付いたのか」  平次は死骸の取りおろしと片付けを見張るやうにと八五郎に言ひつけてあつたのです。 「片付けは濟みましたよ、一と通り清めて、佛樣を隣の部屋へ移した後で、天井裏に一體何があるのかと思つて、押入から這ひ上がつたと見たと思つて下さい」 「思つたつて仕樣があるまい、天井裏にあるのは、大概きまつたものだ、それとも鼠の死骸かな」  二階に取つて返しながら、八五郎の少しあわてた緊張を和める積りか、平次は、氣の拔けたことを言ふのです。 「金ですよ、親分、小判が何んと五、六百兩、いや、千兩ばかり、淺黄のボロ片を包んで──」  二人はもう、階子を登り切つて、二階の孫三郎の殺された部屋に入つてをりました。  其處には、八五郎に頼まれて、若い手代の金之助が一人、部屋の中に取り降したボロ片の中に、燦として輝く小判の小山を見張つてゐるのでした。 「──」  默つて二人を迎へた金之助の眼は、無表情のうちにも、異樣な緊張を示してをります。大金を扱ひなれた金之助も、血潮の汚れを洗つたばかりの部屋に、小山ほど積んだ小判には、何んか知ら異状なものを感じないわけに行かなかつたでせう。 「ね、親分、この通り、──孫三郎が天井裏で何を搜したか、念のため、手燭を借りて這ひ上がつて見ると、奧の奧でもあることか、押入のすぐ上、天井裏のトバ口にこれがあつたんです」  八五郎は白痴が大きな鯰でも釣つたやうな大袈裟な顏をするのです。 「俵屋にしても、これだけの小判が天井裏に隱してあるのは容易ぢやない、もう一度天井裏に潛つて搜して見ろ、俺は主人に逢つて訊いて見る」 「あ、旦那の方は、私が訊いて參りませう、お心當りがあるかも知れません」  金之助は早くも立ち上がつて、主人の部屋の方へ飛んで行き、八五郎はもう一度、尻を端折つて、濡れた押入にもぐり込みました。  平次は默つて考へてをりました。孫三郎がこれを搜しに入つたために、殺されることになつたかも知れないのですが、下手人はこれだけのことをして置いて、ツイ死骸の傍にあつた、大金に手を觸れなかつたのはどういふわけでせう。  どうかすると、お粂が二階へ來たのが早過ぎて、下手人は折角狙つたこの大金を、取出す隙がなかつたのかも知れません。すると、目的がこの金であつたとすれば、最初に死骸を見付けて、大騷ぎをしたお粂は、下手人でないことになります。 二  やゝ暫らくすると、金之助が戻つて來ました。 「旦那樣に申上げると、大層驚いた樣子で、その金は、旦那樣がまだお丈夫なころ、天井裏の大梁の上に、そつと隱して置いた、三千兩の小判のうちに相違ないと申します」  金之助の報告は、豫想したことではあるにしても、その額の大きいのに驚きました。小判で一兩の値打は今の一万圓以上にも通用するでせう。三千兩といふ金を持つてゐるのは、なか〳〵の大分限です。 「三千兩もあつたのか」  平次もつい、釣られます。 「それも千兩箱では目立つていけないと思ひ、三百兩づつ、男手で拵へた、花色木綿の財布のやうなものに入れてあつたと申します」 「あゝ、なるほど、これだ」  布團裏などに使用した花色木綿、男手で拵へた不手際な財布を、ボロ片と見たのも無理のないことでした。  俵屋孫右衞門はまだ足腰の達者なころ、天井裏を金庫にして、この花色木綿の財布を拵へては、貯へた金を、三千兩までも溜めたことでせう。女房子にも、番頭や手代にも相談せずに、老人獨りで始末したところに、何んかしら、陰慘な空氣と意圖が感じられます。 「まだ、七つ殘つてゐる筈です、私も天井裏へ潛つて見ませう」  金之助はフト尻を端折りかけましたが、そんなことをするのは、極りが惡かつたものか、女の子のやうに、裾を兩腰の間に挾んで、それでも至つて身輕に押入の中から、天井裏へ八五郎を追ふやうに潛り込みました。  久松型の美少年金之助が、かうしたたしなみや、輕捷な身のこなしは、妙に可愛らしさと、好感を持たせます。  その頃の町人達、わけても、現金を相當に用意しなければならぬ、質、兩替、金貸しなどは、現金の保有に、どんなに苦心したことか、想像に餘りあります。金庫もなく、銀行もなく、證券もない時代には、小出しの金は金箱に入れて店に置いたにしても、纒まつた大金は、瓶に入れて大地に埋めるか、ボロ片に包んで屋根裏に忍ばせるほかには、安全な隱し場所がなかつたわけです。 「ありませんよ、親分」  八五郎の長い顎が、天井裏から押入の中を覗きました。 「念入りに見たのか」  平次は天井へ答へます。 「天井裏は見通しですよ、二人で搜したんだから、このうへは屋根を剥すよりほかに術はありません」  八五郎と金之助は、煤と埃だらけになつて降りて來ました。 「男つ振りが代なしぢやないか、手足と顏を洗つて來いよ」 「そんなにひどくなりましたか」  八五郎と金之助が、あわててお勝手へ驅け出すと、それとすれ違ひに、階子段を登つて來る足音、 「まア、八五郎親分つたら、顎から煤が下がつてゐるぢやありませんか、女の子を口説く顏ぢやありませんよ」  それはお粂の、いま啼いた烏見たいな陽氣な聲です。 三 「お粂さんか、氣持はもう癒つたのか」  平次は六つかしくそれを迎へました。 「でも、この騷ぎでは眞階下に休んでゐられませんよ、八五郎親分と來たら、太神樂と仁輪加をけしかけたやうで」 「そいつは氣の毒だつたな、その代り、お前の顏色も良くなつたぢやないか」 「お蔭樣でね、あれを聽くと氣が晴々としますよ」 「ところで、お前も天井裏に大金を隱してあつたことを、薄々は知つてゐたことだらうな」 「口惜しいけれど、何んにも知りやしません、出戻りで肩身を狹く暮してゐるから、お小遣も儘ぢやない、氣が付けば、天井裏を煤だらけになつて這ひ回り、たまに小判といふものを拾ふ氣になつたかも知れないけれど、──でも、色消しねえ、いざとなつたら、私にそんなこと出來るか知ら?」  お粂は面白さうに笑ふのです。 「お前も聽いたことだらうが、天井裏に旦那の隱したのは三千兩、三百兩包みが十箇だといふが、死骸の傍で見付けたのは三つだけだ、あと二千兩といふ金は、何處へ行つたか、見當はつかないか」  平次は大事な問に入りました。 「さア、口惜しいけれど、ちよいと見當はつかない──が」 「何んだ、妙に奧齒に物の挾まつた口吻ぢやないか」 「あの人のところに運んだのぢやないか知ら?」 「あの人とは?」 「裏の小間物屋のお辰さん、──女のくせに、高荷を背負つて、大店のお勝手をお得意先に回つて歩く、女小間物屋のお辰さんは、叔父さんと、そりや仲が良かつたんですもの、世間では何んとか言つてゐましたよ」 「──」 「叔父さんが、俵屋の帳尻を胡麻化して、確り溜めた上で、お辰さんと一緒になつて、大きな小間物の店を持つに違ひない──と、まあ、死んだ叔父さんのことを、こんなに惡く言つて、どうしませう」  などと、お粂は自分の口に蓋などをするのです。 「そのお辰の家へ行つて見るのだ、八」  丁度顏から手足を洗つて來た八五郎に、平次は言ひつけました。 「行つて見ますが、あの女は苦手ですよ、親分もあとから來て下さい、うんと脅かさなきや、こちとらの手にをへる女ぢやない」  八五郎はそんなことを言ひながら、出て行きました。あとは平次と金之助、 「もう一度、佛樣を」  平次は獨り言のやうに言つて、隣の部屋に行つて見ました。其處には下男の五助と下女のお徳に手傳はせて、孫三郎の死骸を一應清めさせ、形ばかりではあるが、一と通りお通夜の用意までしてあつたのです。  指圖をしてゐるのは、内儀のお春、弱氣で臆病を賣物にしてゐるやうですが、この女は美しさも非凡ですが、いざとなると、なか〳〵心持も確りしてをります。 女小間物屋 一 「ちよいと、お徳どん」 「へエ、へエ、私に御用で?」  下女のお徳は、平次に呼留められて、キヨとんと階子段の下に佇みました。 「まア、それを下へ置いて、此處へ入つてくれ、少し聞きたいことがある」  平次は下女の持ち扱つてゐる、いろ〳〵の小道具を廊下の隅に置かせて、お粂の部屋とは反對側の物置のやうな小部屋に入りました。 「へえ、どんなことを申上げるんでせう、私は何んにも知らねえだが」  頑丈な相模女で、三十五、六の働きもの、給金を溜めて、故郷に歸るほかには樂しみはないといつた、醜い女ですが、こんな女は妙に性根がすわつてゐて、お先つ走りの才女肌の女より、飛んだ洞察力のあることを、平次もよく知つてをります。 「ほかでもない、旦那とお内儀さんとは仲が良いのか──奉公人のお前が、同じ屋根の下で暮してゐて、それを知らない筈はないと思ふが」  平次は、返事に困つたらしいお徳の顏を見ると、その言ひ遁れを封じるやうに、かう先を潛りました。 「昔は、そりや仲が良かつたと言ひますよ」  その答へは變哲なものでした。 「今はどうだ」 「何分、お内儀さんは忙しいだよ、帳場も見なきやならないし、金の出し入れ、掛け合ひ事、寄附諸掛りから、町内づき合ひ、それにお勝手を見張つたり、お菜の世話までやくんだから、身體が三つあつても足りねえだよ」  お徳はおろ〳〵と讀み上げる調子です。いつも内儀本人がかうこぼすのを聽いて、一つ覺えに覺え込んでしまつたのでせう。 「お内儀さんが忙しきや、御主人とも仲をよくしてゐられねえといふわけか」 「そんなわけはないけれど、朝から晩まで病人の世話ばかりはしてゐられねえのも、無理はないと──」 「待つてくれ、俺はお前の口から、お内儀さんの辯解を聽きたいのぢやない、お内儀さんは毎晩旦那と別の部屋に休んでゐるかといふことを訊いてゐるのだよ」 「それはもう、年は三十違つても五十違つても、御夫婦に違ひないから偶には一つ部屋に休みなさることもあるが」 「偶にか、すると、毎晩、あの病人は獨りぼつちにされてゐるのか」 「獨りぼつちでも、隣りの部屋には金之助どんが寢てゐて、呼ばれると行つてやるし、咳き込んだりすると、擦つてもやるだよ、それで金之助どんの眼が覺めないときは、二た間置いて先に休んでゐる、お粂さんが起きて來て世話をしますだ」 「お粂さんがか?」 「おの人は口が惡いし我儘だけれど、根が親切なところがあつて、私などにもよくしてくれますだよ」 「人は見掛けによらないものだな」  平次はツイ皮肉なことを言つてしまひました。どう考へても、義理の父親などを、親切にしてやりさうもないお粂です。 二  潮時を見て、平次はお勝手口から外へ出て見ました。もう眞夜中近いでせうか、木戸を押すと狹い路地で、その向うの黒く小さい家から、女の凄まじい啖呵が闇に響くのです。 「何をしやがるのさ、いきなり人の家へ入つて來て、夜中に夜搜しが聽いて呆れるぢやないか」 「──」 「岡つ引だ? 嘘をつきやがれ、そんな顎の長い間拔けな面を、御上が雇ひ入れるものか、──さては玩具の十手なんか振り回して、私を手籠めにする氣で來たんだらう、惚れたら惚れたと、戀文でも書いてよ、順當に渡りをつけてから口説きに來やがれ」 「──」  まさに、八五郎がクシヤクシヤに小突き回されてゐる樣子が手に取るやう。  平次は默つて聽いてもゐられず、 「御免よ」  開いたまゝの戸を大きく引開けて、そのまゝ、ヌツと顏を出しました。  中は六疊と二疊のたつた二た間、入口の方から番傘が覗いて、お勝手の方から柄杓と俎板が覗いてゐる世帶、淺ましくも凄まじい家居ですが、八五郎にのしかゝるやうに啖呵を浴びせてゐる女は見事でした。  三十二、三の大年増で、陽に焦けて申分なく黒くはなつてはゐるが、眼鼻だちのはつきりした、鼻の下の寸の詰まつた、江戸前の美人型で、高荷を背負つて、町から町へと歩く商賣だけに、身體も確りして、なか〳〵の魅力です。 「おや、錢形の親分」 「大きな聲だぜ、明神下まで筒拔けだ、八五郎の顏を滿更知らないわけぢやあるまい。見ろ、お前の啖呵に脅えて、眼ばかりパチパチさせてゐるぢやないか」 「相濟みません、女一人を夜中に叩き起して、家搜しといはれると、ツイ、かつとしますよ」 「そいつは濟まなかつたな、ま、勘辨してくれ、お隣の支配人の孫三郎が、ツイ先刻殺されたんだぜ。お前も騷ぎに氣が付いたはずだ。隣の家の家搜しが氣に入らなきや、家主、五人組に立會つて貰つて──」 「そんな、親分」 「それぢや訊くが、お隣の孫三郎が、お前と大層眤懇だつたといふが、若しや、二千兩といふ金を預けては置かなかつたか」  平次は眞つ向から問ひかけました。 「そんな大金なんか、預かるものですか、死んだもののことをさういつちや惡いけれど、あれはケチで剛情で、長者町の貧乏神といはれた人ですもの?」 「本當か、それは?」 「嘘だと思つたら、搜して下さい、こんな火打箱ほどもない小さい家だもの、煙草三服のうちに、天井裏から床下まで見つくせますよ、私があの人から預つたか貰つたか、兎も角受取つた金は、たつた三兩二分、それもさん〴〵に恩にきせてさ、馬鹿々々しい、──今にも觀音樣の御堂のやうな、十八間間口の小間物屋を開いてやるやうなことを言つて、執こく口説き回すんだもの、やり切れたものぢやない」  お辰の氣焔は虹のやう、さう言はれる孫三郎が、ツイ隣の家に冷たい死骸になつてゐることなどは勘定にも入れてない樣子です。 惡鬼跳梁 一  その夜、俵屋の主人孫右衞門は、二度も三度もくり返して起る發作に惱まされて、手代の金之助を呼びました。が、あいにく金之助は前の日から、貸金の取立てに、八王子まで行つてまだ歸らず、下女のお徳は持て餘して、姪のお粂に相談をして見ました。 「お願ひだから、お母さんを呼んで來ておくれ、こんなとき金之助どんがゐると助かるのだが」  氣丈なお粂も、父親の發作のひどい時は、手を拱いて見てゐるほかはありません。その騷ぎがきこえない筈はないのに、娘のお玉と一緒に早寢をして、顏も見せてくれない、繼母のお春の仕打ちが、お粂には氣に入らなかつたのです。 「金之助どんは、明日の晝頃でなきや戻りませんよ、八王子の千人同心を、十軒ぐらゐは歩かなきやならないが、この取立ては手間が取れて──と言つてゐましたゞよ」 「困つたねえ、この夜更けぢやお醫者樣も來ては下さるまいし」  そのころの八王子同心は、數も多かつた上に、極めて小祿で、川柳に「八王子ガタガタするがよつく賣れ」などといふのがあり、ろくな刀も買へなかつたことを諷したのがあります。 「あ、お粂や」  病人の孫右衞門は、僅かに頭をあげました。 「身體を動かすと、また咳が出ますよ、お父さん」  お粂にあわてて小掻卷を引つ張つて、父親の肩を包んでやつたりしました。 「少し用事があるのだよ──私はいよ〳〵助からないのかも知れない──息切れがして、胸も張り裂けさうな氣がしてならない」 「そんなことはありませんよ」 「いや、さうぢやない、──どうも死にさうな氣がしてならない、ちよいと、お母さんを呼んでくれ、氣の確かなうちに、言つて置きたいことがある」 「そんなことを、お父さん」 「いや、俵屋の身上のこと、有金のことなど、誰も知らない」 「まア、そんなことまで」  お粂に取つては、あんな冷淡な繼母のお春に、死にかけてゐる父親の孫右衞門が、かうまで愛着を持つてゐるのが、不思議でたまらなかつたのですが、自分の考へはとも角、死にかけてゐる父親の意志は、何が何んでも尊重しなければなりません。  お粂はすぐ、その旨を、繼母に傳へました。それを聽くと、お春は長襦袢の上に、袢纒を引つかけて飛んで來たのです。 「お前さん、まア、どうなすつたの? まさか、死ぬんぢやないでせうね、──確りして下さいよ」  枕元にペタリと坐つたお春は、孫右衞門の額ににじみ出した汗を拭いてやつたり、藥湯を煎じる手順をしてやつたり、行燈の丁子を切つたり、布團の端を押へたり、まことに行屆くのです。  こんな女房が、どうして病人の夫の側に、あまり顏を見せなかつたか、それはお粂の眼にも不思議なくらゐです。 二 「其處に誰がゐるのだ?」  少し發作が收まると、孫右衞門は四方を見廻すのです。 「誰もをりませんよ、お粂もお徳も、自分の部屋へ歸つて、此處にゐるのは、私一人」  お春は、優しく應へて、そつと華奢な掌を老夫の布團の襟にかけるのです。 「それならいゝが──この話は誰にも聽かせたくない」 「さう仰しやられると、私は怖いやうな氣がします、──どんなことでせう、旦那樣」  お春は主人の床の傍に、ピタリと寄り添ひました。眞夜中のことで、少し寢亂れてはをりますが、少しばかりの興奮に上氣せて、年増女の仇つぽさは容易ならぬものがあります。 「この家の身上のことだよ」 「身上?」 「地所やら家作やら、貸金から手持ちの現金まで、ざつと三萬兩」 「ま、そんなに」 「驚くことはない、もう少しあるかも知れない、が、地所や家作はわかつても、現金のある場所は誰も知らない、金之助の耳に入れても惡いから、今までは言はずに置いたが、この容態では、私も長い命はあるまいから、お前にだけ教へて置かうと思つてな──それには、こんな良い折はない」 「まア、どうしませう、本當に怖いやうな話で」 「怖くはない、嬉しい話だ、その代り、今夜は一と晩、私が丈夫だつたころのやうに、お前に守りをして貰ひたいのだ」 「それはもう、一と晩と言はずに、一生でもお側を離れやしません、晝間は忙しいし、夜は夜で、お玉が一人では淋しがるけれど」 「お玉はもう十八、淋しがる年でもあるまい」 「でも」  お春は澁りました。三十も年上の、この病人臭い老人と一緒にゐるのは、假りに夫婦といふ名はあつたにしても、まだ〳〵若くて脂が乘つて、溌剌としてゐる、お春の若さにはたまらない苛責だつたのでせう。  兎も角、それから夜明けまで二た刻(四時間)ばかり、お春は神妙に病人の看護をしました。幸ひ孫右衞門の發作も止んでスヤスヤと眠るのを、お春は辛抱強く眺めてゐたのです。その代り三萬兩の身代は、間違ひもなく、お春の手に握つたも同樣です。  鷄の聲、雀の囀り、曉の空氣は春ながら肌に泌みて、街はもう、彼方此方で起き出した樣子、 「──」  孫右衞門がスヤスヤと落着いたのを見ると、お春はそつと起き出しました。何より先づ娘のお玉の樣子を──、  唐紙をあけて、何心なく、娘の寢てゐる部屋を覗いたお春は、 「わツ、誰か來て、お玉が、お玉が」  ヘタヘタと腰を拔かして、部屋の中へ這ひ込んだのです。窓の戸は開いたまゝ、娘お玉は、布團の上に赤い扱帶で首を絞められて死んでゐるではありませんか。 三  急使が曉の街を飛んで、明神下の平次の寢込みを驚かすと、少し回り道をした平次は、向柳原に、八五郎の叔母さんの家を叩きました。たつた一人でも埒があきさうですが、最初からの係り合ひで、ガラツ八もつれて行かうといふのが、平次のさゝやかな仁義だつたのでせう。 「八、起きろよ、大變も大變、古渡り大變だ」  平次は路地の中から、張り上げるのです。 「眞似しちやいけませんよ」 「俵屋の娘が殺されたんだぜ、こいつは驚くだらう」 「どの娘です? お粂か、お玉か」 「お玉だよ」 「あの可愛らしいのが、お轉婆で、泣き虫で、あまり利口ではないけれど」  それはまた、八五郎に取つて一つの魅力だつたことでせう。お粂のやうな氣の勝つた女は、八五郎にはどうも扱ひ兼ねるのです。 「さア、行かう、顏なんか歸つて來てからでもいゝ」 「驚いたなどうも、まだ飯も食ひませんよ」 「そんなものは、昨夜も食つた筈だ」 「呆れてモノが言へねえ」  そんなことを言ひながら八五郎は、錢形の親分が、わざ〳〵誘つてくれたのが嬉しくてたまらないらしく、帶を締め直して麻裏を突つかけて、押し並んで下谷長者町に向ひました。  俵屋は大變な騷ぎでした。平次が着く前に、土地の御用聞下つ引が二、三人、内も外も、一應の調べが始まつてゐたのです。 「あ、錢形の親分」  店を入ると、飛んで出たのは、姉娘のお粂でした、本當に首つ玉へ噛りつき兼ねまじき勢ひで、 「──何んとかして下さいよ、親分、私がお玉を殺したつて言ふんですもの、私がそんな惡いことするかしないか、錢形の親分が來て下されば解る──と言つたつて聽きやしません、あの通り」  八方から見張る目、平次には顏見知りの仲間でも、睨まれてゐるお粂の身になつては、我慢が出來なかつたでせう。 「本當に覺えがなきや、騷ぐまでもあるまいよ」 「でも、私は」  お粂は顫へてゐるのです。 「親分、その女の言ふことなんかに取合つちやいけませんよ」 「なんだ、湯島の吉か」  それは平次の息のかゝつた下つ引の一人で、若くて少し無鐵砲で、恐れを知らない巾着頭です。 「あつしの見當ぢや、下手人は女ですぜ、この家の中で、お玉を殺しさうな女と言や、それね」 「待つてくれ、何んか、確かな證據でもあつたのか」 「縮緬の赤い扱帶で絞め殺されてゐるが、その扱帶は、その女のものだとわかつてゐるんで」  湯島の吉は、さう言つて、ピタリとお粂の顏を指すのです。 四 「扱帶は私のでも、私に覺えはない、人の扱帶を盜んで玉ちやんを殺したら何んとします?」  お粂は猛然と反抗するのです。身扮を整へる暇もなかつたか、これも寢卷に袷を引つ掛けたまま、寢亂れた姿が反つて仇めいて見えると言つた、世にも惠まれた年増です。 「まア、見て下さいよ親分、その赤い扱帶が、女結びになつてゐたんですぜ」 「首を締めた扱帶が女結び?」  それは實に前代未聞です。 「だから、この女が怪しくなるぢやありませんか、あとは母親と下女のお徳だけ」 「待つてくれ、早合點をしちやならねえ、縮緬の扱帶を女結びにして、聲も立てさせずに、人が殺せるものかどうか」  そんなことを言ひながら、平次と八五郎は、湯島の吉に案内されて、奧の部屋に通されました。主人孫右衞門の部屋とは、全く反對側、東に向いた一角の六疊で、地味ではあるが、なかなかに凝つた部屋です。  一歩踏み込むと、平次は、またも女に抱きつかれました。今度はやゝ年を取つた──と言つても、三十臺の白粉つ氣のない青い眉、それは言ふまでもなく、殺されたお玉の母親、これもまだ昨夜のまゝの怪しい姿のお春です。 「親分、どうしてくれるんですツ、矢張りお玉が殺されてしまひました、あのとき親分が引受けて下されば──」  お春は遠慮もたしなみも忘れて泣くのです。 「待つてくれ、氣の毒なことになつてしまつたが、俺もこいつは引受けやうはなかつたんだ」  平次も持て餘しました。胸にすがり付いて、泣き崩れるお春を、引離すのが精一杯。 「それぢや、敵を討つて下さい、親分、娘を殺したのは、あの女に違ひない」 「あの女?」 「お玉が生きてゐると、この家の跡が取れないぢやありませんか、誰が何んと言つても、お玉を殺したのはあの鬼のやうな女に違ひありません」  それは、お玉には腹違ひの姉、お粂を指してることはあまりに明かです。  平次は何心なく振り返つて見ました。後ろの方に物の氣はひを感じたのです。  と、八五郎の後ろ、湯島の吉の横手に、こんなにも疑はれてゐる、當のお粂が、眞つ蒼な顏をして、此方を見詰めてゐるのと、ハタと瞳が逢ひました。それは實に、間の惡い場面でしたが、お粂もそれを感じたものらしく、フト顏を反けると、踵を返して、店の方へ行つてしまつたのです。 「ま、待つて下さいよ、お内儀さん、下手人は名乘つて出たわけぢやない、いづれわかるにきまつたことだから」  平次は内儀をながめながら、それを掻きのけるやうに、お玉の死骸に近づきました。  今朝の騷ぎで、其處までは手が屆かなかつたが、母のお春の床も、ろくに疊みもせずに部屋の隅に押しつくね、その側に娘のお玉が、冷たい死骸になつて痛々しくも横たはつてゐるのです。 五  赤い裏の絹布團、それが町人の娘の夜の物だつたのです。この節はもう、金持ちの町人の奢り僭上も相當で、小大名や旗本御家人などは、及びもつかぬ暮し向でした。  その絹布團の上に横たへられたお玉は、死の變貌で不氣味な歪みを見せてをりますが、それでも、お轉婆らしい白痴美は、死もまた奪ふに由なく、頬に殘る、異常な緊張さへも、アブノーマルな美しさと言へないこともありません。 「これが、その扱帶か」  平次は床の側にあつた、緋縮緬の扱帶を指しました。 「へエ、さうで」  フトその扱帶に手を觸れた平次は、この柔かく細く、性の損んだところもない扱帶で、健康な十八娘を、聲を立てさせずに殺せるものか、それを考へてゐた樣子です。それに、なほも念入りに見ると、ふくよかに括れた、美しい顎の下、柔かな喉へかけて、扱帶の跡などは殘つてゐず、少し去つて下の方から覗くと、豊かな双頬に、匂ふばかりの微笑さへ殘つてゐるではありませんか。 「この扱帶で殺されたのではないよ、死んでから、首へその扱帶を卷きつけられたのだ」  平次は確と言ひ切りました。 「すると親分?」  八五郎と湯島の吉は、あわてて問ひ返しました。 「何んで殺したか、それとも頓死でもしたのか、俺にはまだわからない」 「頓死? 頓死した娘の首へ、誰が赤い扱帶などを卷いたでせう」  八五郎はやつきとなりました。 「そんなことがわかるものか、でも、これだけのことが言へるよ、お孃さんが殺されたとしたら、死ぬまでそれに氣がつかなかつたことだらう──といふことと、下手人はお孃さんのよく知つてゐる人間で、相手の顏を見ても起き出さうともしなかつたといふことだ」 「へエ、そんなことがあるでせうか、親分」  八五郎が變な顏をするのも無理のないことです。十八娘が、床に寢たまゝ、につこり相手の顏を迎へるといふのは、容易ならぬことです。 「八、吉、二人手わけをして、このお玉さんに、仲の良い男がなかつたか、それを訊いてくれ、俺は、お内儀さんに用事がある」  平次は八五郎と湯島の吉を追ひやると、母親のお春と、たつた二人、氣まづく相對しました。 「──」  振り仰いだお春は、何んか、モノ言ひたげでもあります。 「ね、お内儀さん、お聽きの通りだ、お孃さんを殺した下手人は、女と限つたわけでもないやうだ、お孃さんと言ひ交した男でもなかつたでせうか」 「さア、私も其處までは」 「名前がわからなくとも、見當ぐらゐはつくでせう」  平次はなほも追及します。 「私も薄々それに氣がついて、夜分は娘の側を離れないやうにしてをりましたが」  お春の話は思ひも寄らぬ方に發展します。 お玉の戀人 一  平次はもう一度孫右衞門に逢つて見る氣になりました。が、部屋の入口まで行くと、下女のお徳に止められてしまつたのです。 「親分さん、待つて下さい、とても、お目にかゝれさうな樣子ではございません」 「それはどういふわけだ」  平次はこの心得顏の中年女に押し返しました。 「でも、大變な取り亂しやうで、誰も此方へよこしてくれるなと言ひますだよ、金之助どんでも戻つてくれなきや」  この相模女も、すつかり取逆上てをります。 「尤もなことだが、どんな樣子か、せめて一目でも」  平次はお徳に構はず、押しのけるやうにして、細目に唐紙を開けました。と、床の上に靜かに横たはつてゐる主人の孫右衞門は、僅かに頭を動かして振り返りましたが、熱つぽい眼は乾いて、深い慨きといふよりは、燃えつくやうな、忿怒を感じたのは何んとしたことでせう。  それを見ると平次は靜かに唐紙を締めました。入つて行つて、これ以上煩らはせるには忍びなかつたのでせう。 「親分、親分」  八五郎が戻つた樣子です。相變らず、家中筒拔ける遠慮のない聲です。 「靜かにしろ、佛樣がゐるんだぞ」 「濟みません、兎も角も、親分に聽いて貰ひたいことが一パイでね」 「どんなことがあつたんだ」 「近所の噂をかき集めて見たが、俵屋に遠慮して、田螺のやうに口を緘んでしまひますよ、成程、俵屋に睨まれちや、この土地で暮しが立たない」 「で?」 「うまいことに氣がつきましたよ、親分も御存じの背負ひ小間物のお辰、あの女はばらがきで遠慮がない上に、うんと俵屋を怨んでゐる、ちよつとおだてると、皆んなしやべつてしまひましたよ」 「?」 「殺されたお玉と仲のよかつたのは、昔は手代の金之助だつたが、どんなわけがあつたか、近頃は金之助の方から避けるやうにしてゐたといふことから」 「──」 「お玉の方も近頃すつかり色氣づいて、裏のお長屋に住む、若い浪人者、江柄三七郎と物蔭に立つては、何やら話し込んでゐるといふことで」 「フーム」 「十八の小娘と二十三の若い男と、人目を忍んで暮し向のことなんか話し込むわけがないぢやありませんか、こいつは唯事でないと思つたから、早速裏の六軒長屋の江柄三七郎の浪宅を覗いて見ましたよ」 「そいつは良いところへ氣が付いた、ところで?」 「本人はしよんぼり泣きさうな顏をしてゐましたが──良い男でしたよ、色の淺黒い、背の高い、武藝などは出來さうもないが、女の子には持てますね」  餘計な鑑定までする八五郎です。 二 「無駄はそれぐらゐにして、浪人者は何んと言つた」  平次は訊ねました。 「お氣の毒でならないが、あの騷ぎの中で俵屋へお線香を上げにも行けない、──といふ愚痴で、お玉さんと大層仲がよかつた相で、と突つ込むと、此方は貧乏浪人でどうにもなるわけはない──と苦笑ひしてゐました」 「昨夜は?」 「それも如才なく訊きました、すると、何よりの道樂は釣だけ、昨夜も夜釣に行つて曉方歸つたといふことでしたよ、こいつは突つ込みやうがありませんよ、尤も連れがあつたわけでないから、疑へば疑へるわけだ」 「それだけか」 「もう一つこれは大したことでありませんが、お玉さんは昨夜淺草の叔母さんのところへ行つて泊る筈になつてゐたが、少し風邪の氣味だと言つてゐたところを見ると、叔母さんのところへ行かずに、殺されたのかも知れない、運の惡いといふことは、人間業でどうにもならない──と江柄三七郎は生悟りの坊さん見たいなことを言つてゐました」 「よくわかつたよ、それで、いろ〳〵の手掛りを手繰り出せるだらう」  平次は滿足さうにうなづくのです。 「ところで親分」 「何んだえ、急に改まつて」 「湯島の吉もさう言つてゐましたが、お玉は何んで殺されたんでせう、絞め殺されたのではないとわかつても、毒を呑んだ樣子もなく、傷らしいものもなかつたやうですが、──尤も、親分は何も彼もわかつてゐるに違ひない、何んかわけがあつて言はないのだらう──とこれはあつしの見立てで」 「見立て──つて奴があるかい」 「見立てが氣に入らなきや、あつしの見當といふことにしませう、おや、おや、店の方が、急に賑やかになりましたね」  八五郎は話半分にして飛んで行きましたが、やゝ暫らくすると、ボンヤリした顏で戻つて來ました。 「どうした八、面白くねえ顏をしてゐるが」  平次はその間に庭を一と廻り、元のお勝手へ歸つて來ると、 「手代の金之助が歸つて來ましたよ」 「昨夜何處へ泊つたか聞いたか」 「八王子を出たのが遲かつたので、淀橋へ來ると晩くなつてしまひ、掛を集めて大金を持つてゐるので、夜道は物騷だから、淀橋の叶屋で泊つて、柄にもなく一杯呑んでぐつすり寢込んでしまつて、今朝目が覺めたのが卯刻半(七時過ぎ)驚いて飛んで來た──と斯ういふ話で」 「それは逆に辿つて行けばわかることだ、俺はもう少しお玉の部屋の窓の下から、雨戸の工合をしらべたい、お前は向うへ行つて、皆んなの樣子を見張つてくれ」 「へエ、湯島の吉はどうします」 「ほかに用事がなきや、御苦勞だが淀橋まで行つて、叶屋で昨夜のことを訊かしてくれ、金之助の言ふことに嘘はあるまいが、いろ〳〵の證據を固めて置きたい」  平次は八五郎と吉を出してやると、お玉の殺された部屋へ取つて返しました。 三  暫らくすると、八五郎はまた平次の後を追つて庭へ出て來ました。平次はそれまで、格子を叩いたり、雨戸を搖すぶつたり、窓の下の足跡を見たり、恐ろしく念入りに曲者の入つた形跡を搜してゐる樣子です。 「親分、何んかわかりましたか」 「わかつたよ」 「へエ?」 「曲者は、外から入つたのではないと、はつきりわかつたよ」 「すると」 「あれだけ嚴重な、締りの家だから、外から押入つたとすれば、何處かに變なところがあるわけだ」 「?」 「敷居に鑿を押し込んだ損所があるとか、雨戸に破れがあるとか、格子に動くか拔けるのがあるとか──」 「縁の下から入る術もありますよ」 「それも見たが、床下は掃いたやうに綺麗だ、それから、窓の下にも、一つも足跡はない」 「あの部屋の窓は開いてゐたぢやありませんか」 「曲者は此方から忍び込んで逃げましたといふ證據に、一枚雨戸をはづしてあつたか、それは術だ」 「すると、家の中の者が、夜半過ぎにお玉を殺して、窓の戸を一枚開けて置いたといふことになりますね」 「その通りだ」 「昨夜家の中にゐたものといふと、主人の孫右衞門と、内儀のお春さんと、殺されたお玉の姉のお粂と、それから、下女のお徳に、下男の五助といふことになりますね」 「どれも、お玉を殺しさうな人間ではない」 「すると、小間物屋のお辰と、浪人の江柄三七郎はどうでせう」 「それは家の者ぢやない」 「家の者が手引をしたとしたらどんなものです」 「お前は變なことを言ふ、──誰が一體手引をしたといふのだ」  平次はひどく聞きとがめました。 「あつしにはわかりませんよ、錢形の親分がわからないくらゐだから」  ──」  平次は默り込んでしまひました。何んか深々と考へてゐる樣子です。 「親分」 「──」 「あつしはイヤなことを聽きましたがね」 「嫌なこと?」 「親分は、これを聽いても怒つちやいけませんよ、──餘つ程、親分に言ふのをよさうかと思つたけれども」  八五郎は頬を叩いたり、襟を直したり、モヂモヂしてゐるのです。 「いやに奧齒に物の挾まつたやうなことを言ふ野郎だな、耳にしたことがあるなら、皆んなブチまけてしまひなよ、何を奧床しく構へてるんだ」 「そんなわけぢやありませんがね」  八五郎はまだ、フン切りの惡い顏をしてるるのです。 殺しの虐さ 一 「嫌な野郎だな、何を聽いたか知らないが、腹の中に溜めて置くと、毒だぜ」  平次は何んかありさうな匂ひがするので、日頃にもなく執こく追及しました。 「本當に怒らないでせうね、親分」 「怒らないとも、俺は親の命日には怒らないことにしてゐるんだ」 「そいつは知らなかつた、今日は親分の親の命日だつたんで」 「間拔けだなア、三百六十五日、皆んな親の命日だと思へ、腹の立たない禁呪になるぜ」 「何んだ、あつしはまた、お線香代の工面でもしなきやなるまいと、──」 「無駄が多いな、──そのお前が聽いたといふ話は何んだ」 「あ、さう〳〵忘れちやいけませんよ」 「忘れたのはお前だ」 「先刻、手代の金之助が歸つたでせう」 「主人の孫右衞門のところへ行つてるさうぢやないか」 「忠義者ですね、留守中、旦那がどうもしなかつたか、そればかり心配して、私が食ひ下がつて、いろ〳〵のことを訊くのを振り切るやうに、旦那の部屋へ──」 「それつきりの話か」 「ところが、廊下でお粂につかまつたんで、これは金之助も振り切らなかつたやうで──お前の歸りが遠いから、私まで飛んだ目に逢つたとか、可哀想に玉ちやんまで殺されたぢやないか──とか、いろ〳〵絡みつくと、金之助の野郎──錢形の親分が來てゐるのに、まだ下手人もわからないのは、間拔けな話ぢやないか──とやりましたぜ、あの青二才が錢形の親分を、間拔けにして宜いものですか、あつしはもう癪にさはつて、癪にさはつて」 「そんなことで腹を立てる奴があるものか、まだ孫三郎殺しもお玉殺しも、下手人の見當のつかないのは、我ながら大間拔けだと思つてゐるよ」  平次までが諦らめたことを言ふのです。 「そればかりぢやありませんよ、お粂の阿魔までが、それに合槌を打つて、──私も長い間の岡惚だけれど、今度といふ今度は、錢形の親分に愛想が盡きた、下手人どころの沙汰ぢやない、玉ちやんがどうして殺されたか、半日玉ちやんの死骸をいぢくり廻して、まだわからないんだから、呆れて物が言へない──んですつて、あの阿魔に飛付いて頬桁を、叩き曲げようかと思つたが」 「フーム、面白いことを言ふ女だな」 「ちつとも面白かありませんよ、そのうへ言ふことが宜い、いづれ十八になつたばかりの玉ちやんが、酒毒か卒中で死んだことになるだらうよ──と吐かしましたぜ、え、親分、それを默つて聽いて宜いものですか」  八五郎がカンカンに腹を立てるのも、全く無理のないことでした。 「そいつは俺の狙ふ壺だつたんだ、お玉は卒中か心の病で頓死したことにされると此方の仕事は樂だつたが、今となつては、白痴になり切つてゐるわけにも行くめえ、お玉の殺されたわけを話してやらう、家中の者を皆んな集めてくれ」  平次は自信に充ちて、さう言ふのです。 二  お玉の部屋へ、一番先にやつて來たのは、姉のお粂と、母親のお春でした。それに手代の金之助が續き、下男の五助が、縁側の板敷に、中腰になります。 「お徳は、主人の側に置きましたよ、用事があるといけないから」  お春がさう言ふのに、平次はうなづいて見せながら、 「これで皆んな揃つたらしいな」 「お隣の浪人者と、あのばらがきお辰も呼びませうか」  八五郎は腰を浮かせてをります。 「それにも及ぶまいよ、──ところで、お孃さんがどうして殺されたか、あつしが間拔けになりさへすれば宜いのだから、正直のところこいつは言ひたくなかつた。それを聽かされた身内もの、とりわけ母親はたまるまいと思つたのだ」  平次は靜かに始めました。母親のお春は、何を言ひ出されるか、その期待に脅えて、そつと丸い肩を押へます。 「──」 「お玉さんの身體には、見たところ何處にも傷がない、首に緋縮緬の扱帶を卷いてあつたが、絞め殺されたものなら、首に跡が殘るものだ、この通り、死骸の首は玉のやうで、何んの跡も殘つてはゐない。身體に斑なく、舌にも眼にも何んの變りもなく、血が一雫も出てゐないとすると、──お粂さん、俺は白痴にされても宜いから、こんなことは氣がつきたくなかつたよ、あんまり虐たらしい」  平次はさう言つて、姉のお粂と母親のお春の方を振り返ります。 「お内儀さん、綺麗な小菊を一枚頂けませんか、あつしの鼻紙ぢや、お孃さんが痛々しい」 「──」  内儀のお春は、懷中から二つ折の小菊を一帖取出して、平次の前へそつと押しやるのです。  その紙の中から、一枚だけ拔いた平次は、死骸の前に置いた手習机の上の、佛に供へた水に浸し、くる〳〵と卷いて、火箸の尖ほどに絞りあげました。そしてお玉の死骸の側に膝行寄ると、そのこめかみのあたりへ左手を掛け、右手の生濕りの小菊を、死體の耳の穴へ、そつと差込むのです。 「あツ」  思はず人々は聲を出しました。お玉の死骸の耳から拔いた小菊には、べつとり水にやゝぼけてはをりますが、明かに血がついてゐるではありませんか。 「まア、可哀想に」  母親のお春は、飛付くやうに、お玉の半身を抱き上げて、どつとはふり落ちる涙を、拂ひも敢へぬ姿でした。今はもう、この母の歎きの深さを、慰める者もありません。 「多分、疊針か、千枚通しか、鋭い逞ましいものを突き立て、引拔いて、丁寧に耳の穴を拭いたことだらう、鬼のやうな仕業だ」  平次は言ひ切つてホツとした樣子です。 「親分、止して下さい、私はもう」  お春は娘の髮に、涙の顏を埋めて、僅かに手を振りました。あまりの痛々しさに、聽くに耐へなかつたのでせう。 三 「お内儀さん、聽きたくないのも尤もだが、もう少し我慢して聽いて下さい、──三人殺しの下手人は、容易ならぬ曲者だ」 「三人殺しですつて? 殺されたのは、二人ぢやありませんか」  八五郎が口を容れました。主人の弟の孫三郎と、末娘のお玉、幾度指を折つても、殺されたのは二人きりです。 「いや、去年の夏、霍亂で死んだといふ、小僧の友吉も、毒害されたに違ひあるまいよ、鳥兜の根などで殺されると、霍亂とよく似てゐる、多分小僧の友吉は誰かほかの人に盛つた毒を、意地汚をして食ひ、身代りになつて死んだことだらう」 「さう言へば友吉は、良い子だつたけれど、盜み食ひをする癖がありましたよ」  手代の金之助は、昔の朋輩だけに、よく知つてをりました。 「そんな恐ろしい人間を、放つては置けないが、容易ならぬ智惠者で、どうしても尻尾をつかませない。お玉さんを殺した奴は、お玉さんの寢てゐるところへ入り込み、そつと側へ寄つて、──可哀想に耳の中へ、錐を突き立てたに違ひない、──寢入りばなではない、夜中過ぎだ、若い娘だから、目を覺さなかつたかも知れないが、目を覺して顏を見ても、驚かない相手だつたかも知れない」 「──」 「そんな時、寢てゐる顏の側へ寄つて、耳に錐か千枚通しを突つ立られるまで、安心してゐられる相手は誰だらう、母親のお内儀さんにはわかる筈だが」  平次はそれが聽きたかつたのです。死顏にほのかに殘る微笑も、夢の裡に殺されたとばかりは言ひ切れないものがあるのです。 「私か、お粂さんか」  母親のお春はさう言ひかけて、ハツと氣が付いたらしく、繼娘のお粂の顏を振り返りました。自分は構はないとしても、お粂の名前まで出したのは、明かに行き過ぎです。 「男ではどんなもので?」  平次は訊き返しました。 「さア」  お春は涙の顏をあげて、さすがに言ひ澁つてをります。 「江柄三七郎さんぢやありませんか、近頃玉ちやんが、すつかり夢中だから」  それはお粂でした。年増女らしい無遠慮さです。 「まさかね」  お春は漸く深い悲歎から這ひ出したやうに、娘の死骸を床の上に返して、後から〳〵と湧く涙を拭いてをります。 「江柄三七郎さんは、夜釣りに行つてゐる、尤も、誰もそれを見た人はないが、友吉も孫三郎さんも、お玉さんも、同じ下手人の手にかゝつたと思ふが、江柄三七郎といふ人は、友吉や孫三郎さんには、何んの係り合ひもあるまい」  平次は獨り言のやうに言ふのです。 「親分、早く敵を打つて下さいよ、三人殺したものは、四人目を殺さないとも限らないから、私は怖くなつちやつた」  お粂が斯う言ふのでした。 小紋縮緬 一  錢形平次は漸く本氣になりました。平次と八五郎が、土地の御用聞と連絡して、八方から見張つてゐるにも拘らず、想像も及ばぬほどの殘酷な手段で、娘のお玉を殺した曲者は、それつ切り影法師も捕ませなかつたのです。  一應明神下に引揚げた平次のところへは、八方から報告が集ります。淀橋の叶屋にやつた湯島の吉が、巾着頭を振り立てて歸つたのは二日目の晝過ぎ。 「今もどりましたよ、親分」 「御苦勞々々、どうだつたえ、あの晩の金之助の樣子は?」  平次はそれを待ち構へてゐたのです。 「本人の言ふ通りで、淀橋へ行くまでもなかつたやうで」  湯島の吉は草臥儲け見たいな顏をしてをります。 「そいつは氣の毒だつたな」 「叶屋の番頭に訊くと、あの日は暗くなつてから、顏見知りの俵屋の若い手代がやつて來て、八王子へ行つた戻りだが、下谷まではとても歸れさうもないから、泊めてくれと、階下の六疊に通り、若いくせに、二合の晩酌をペロリと片付け、下女に床を取らせて早寢をしてしまひ、翌る朝少し朝寢をして發つた──とそれだけのことですよ」 「成程、無事過ぎるな、ほかに變つたことは?」 「何んにもありませんが──八王子で集めた二百兩の金は、小粒と小判を取りまぜて、物騷だからと言つて、帳場へ預けたさうです」 「用心深いな、尤も叶屋の番頭は、金之助のことを、顏見知りと言つたやうだな」  平次は報告の片言隻句も聞き逃しませんでした。 「八王子の百人同心に、細いが口數の多い貸しがあるさうで、俵屋は先代から三月に一度ぐらゐは八王子へ金を集めにやるさうで、金之助も孫三郎も、よく顏を知つてゐました」 「それから?」 「さア、そんなことでお了ひですね、──尤も、殺された孫三郎は飛んだ道樂者で、叶屋へ泊ると四宿の遊びは堪へられねえ──と言つて、毎晩拔け出しては、新宿へ遊びに行つたんださうで、下谷まで伸せば伸せるほど陽があるにも構はず、淀橋で一と晩過したんださうですよ、尤も金之助は二十歳そこ〳〵の若さだから、まさか、そんなことはしなかつた樣子で」 「金之助のことも訊いたことだらうな」 「叶屋の番頭が呑込んだ顏をしてゐるから、改めて訊きませんでしたよ」 「そいつは惜しかつたな、まア宜い、ところで、浪人者の江柄三七郎の方は?」  平次は湯島の吉の子分に訊きました。 「あの浪人者の釣の供をしてゐる、あたけの定吉といふ船頭に逢つて見ましたが、あの晩は船を貸したが、供はしなかつたといふことです」 「?」 「江柄三七郎は櫓が自慢なんださうで、船だけ借りて獨りで出かけ、朝歸つたとき見ると、まるつ切り漁がなかつたさうです」  下つ引は斯う言ふのです。 二  お玉と關係のありさうな、二人の若い男は、兎も角も不在證明を持つてをります。そのうちの江柄三七郎は、船を何處かへ寄せて、夜中に長者町へ歸れないこともないわけですが、それはしかし、俵屋へ忍び込んで、お玉を殺したといふ直接の證據にはなりません。 「親分、あつしは近頃どうかしてゐませんか」  俵屋を見張らせて、一日に一度は明神下へ報告に來る八五郎は、その日特に長んがい顎を長くして來ました。 「どうかしてゐるのは陽氣のせゐだよ、日が長くなりや、お前の顎だつて少しは長くなるよ」  平次はこの男の報告を待つてゐましたが、挨拶だけ聽くと、一向にそんな氣ぶりもありません。 「そんな話ぢやありませんよ、この二、三日、お粂の阿魔がいやにチヤホヤするんですが、萬一、萬一ですよ、一緒になつてくれとでも言はれたら、どうしませう」  そんなことを臆面もなく言つて顎のあたりを逆撫でにする八五郎です。 「毆るよ、この野郎、それとも水でもブツ掛けてやらうか、お靜、しつかり水を汲んで置け」 「ハイハイ」  お靜はお勝手から應じました。可笑しくてたまらない樣子です。 「それには及びませんよ、氣は確かなんだから、──ね、少し聽いて下さいよ、お粂が斯う言ふんです、──私は岡惚れの相手を八五郎親分にきめちやつた、父さんが好きな相手があつたらさう言へ、少しは金をわけて、世帶を持たせてやつても宜い──つて、ウ、フ」 「馬鹿野郎、涎を拭け、呆れてモノが言へねえ、──お粂は叔父の孫三郎と、妹のお玉を殺した疑ひが、自分へ來さうなので、ビクビクしてゐるんだ、三日も四日も同じ屋根の下で、岡つ引に睨まれてゐると、そんな氣持にもなるだらうよ」 「へエ、そんなもんですかねえ」 「繼母のお春は、娘のお玉を殺したのは、姉のお粂に違ひないと思ひ込んでゐるんだ、お粂が氣を揉んで、お前の御機嫌を取結ぶのも、無理はないよ」 「へエ」  八五郎はひどく不服さうです。 「それよりほかに、何んか變つたことはないのか」 「主人の孫右衞門は、お玉が殺されてから、すつかり不機嫌になつて、容體も惡かつたやうですが、近頃、手代の金之助が、心魂を打ち込んで介抱したせゐか、大分容體も機嫌もよくなつたやうで、昨日あたりから、床の上へ、金之助に助けられて、起き上がつたりしてゐるさうです」 「それは結構なことだが、機嫌の良いところで、俺はあの人に訊きたいことがあるが」 「で、明日は孫三郎の初七日だから、親類達を呼んで、俵屋の跡取りのことを、確ときめて置きたい、と言つてるさうで」  孫右衞門がその氣になれば、俵屋を包む妖しい局面が、また一轉回しさうな氣もするのです。 三 「俵屋の主人は、跡取りのことを、ひどく氣にしてゐるやうだから、明日の親類方の寄合の前に、またどんなことが起らないとも限らない、確り見張つてくれ」  平次は改めて八五郎に鎹を一本極めました。 「そいつは怖いことですね、──尤も、昨日も變なことがありましたが」 「何んだえ、變なことといふのは」 「つまらねえことで、お粂が物置の中をかき廻してゐて、女物の袷を一枚見付けたんですよ、内儀のお春が、大事にしてゐた袷で」 「物置の中に袷は變だな」 「それも、埃だらけになつてゐる、古い空樽の中に突つ込んで、棧俵法師で蓋をしてあつたさうで」 「念入りだな」 「それだけぢやありません、その袷はズタズタに切り小間裂いてあつたとしたら、どんなものです」 「まつてくれ、その袷に血は附いちやゐなかつたか」  平次は急所を押へて訊きました。 「血なんか附いちやゐません、──が」 「それを切つたのは、鋏か、小刀か」 「さア、そいつは氣が付きませんが、何んでも、滅茶々々に切つてあるところを見ると、内儀を怨んでゐるものが、呪ひの五寸釘のつもりで、袷を盜み出して切つたり突いたりしたんぢやありませんか」  八五郎には、八五郎だけの鑑定はあつたのです。 「お粂は何んと言つてゐた」 「見付けたのはお粂ですが、あとは氣味を惡がつて、手も出しませんよ、兎も角内儀を呼んで見せると、一と目見て膽をつぶし、──この間から見えないと思つた袷がこんなところにあつたのかねえ、誰が一體こんな惡戯をしたんだらう──と口惜しがつてゐました」 「どんなに切りきざんでも、模樣か縞を合せると、元の袷になるだらう、そこで、切り取つてなくなつてゐる巾があれば──」 「?」 「それは、血の附いたところを切り取つたのだ」 「あ、成る程」 「血が附いたと言つても、ほんの少しばかりなら、すぐ洗ひさへすれば、大抵は綺麗になるものだが、日が經つたり、斑點が大き過ぎたり、洗ふことの六づかしいものだと、切り取つて捨てるほかはない、袷一枚捨てるのは厄介だが、切り取つた小さい巾なら、どこへでも捨てられる、沖釣に行つて捨てゝ來る術もあり、家の中で寵の下か風呂場の鐵砲に投り込む術もある」  平次の觀察は、細かいところまで行屆きます。 「なるほど、そいつは氣が付かなかつた、直ぐ引返して調べて來ませう」  八五郎はもう起ち上がるのでした。 「待て〳〵八、お前一人ぢや六づかしい、それに、今夜は何んか厄介なことが起りさうな氣がしてならねえ、俺も一緒に行つてやらうよ」  珍らしく平次は、自分から乘出しました。 四  平次と八五郎が、長者町に着いたのは、もう夕方でした。 「暗くなると厄介だ、陽のあるうちに調べたいことがある」  さう言ふ平次の言葉に激勵されて、 「何んの、あつしは馬より早く驅けるが、親分は大丈夫ですか」  八五郎はすつかり張り切つて、俵屋の店へ入つた時は本當に泡を吹いてゐた程です。 「袷は何處にあるんだ」 「物置ですよ、親分に見せるまでは、そつとして置かせたんで、尤も氣味が惡いから、誰も手を付けやしません」 「行つて見よう」  俵屋は妙に陰氣で、家族は銘々の部屋に閉ぢ籠つてしまひ、平次と八五郎は無人の境を行くやうな心持で、母屋の廊下を突き拔け、眞つ直ぐに物置の中に入りました。  夥しいガラクタ、それを掻きわけて、棚の上から取りおろしたのは、タガの弛んだ二斗樽が一つ、その上に蓋をした棧俵法師を取ると、下には女袷が一枚、滅茶々々に切り破られたのが、淺ましくも押しつくねてあるのです。 「これです、昔は立派だつたでせうね」  年増向きの小紋縮緬、まことにリユウとしてをりますが、引上げて透すと、肩のあたりから胴へ、裾へと、滅茶々々に切り破つてあるのです。 「鋏ではない、切出しか庖丁で切つたものだよ、こんなのは、調べて置け、八」 「へエ」 「下へ置いて、よく延して見るのだ、──おや、おや、大分切り取られて、巾がなくなつてゐるぜ」 「これぢや繕ひも繼はぎもきゝませんね」 「惜しげもなくやつてゐる──女はどんな時でも、自分の着物を斯うまで滅茶々々には切り刻む氣になれないよ」 「切り取つた巾を、何處へ持つて行つたでせう」 「品川の沖か、寵の中か、いづれそんなところだ──幸ひ縮緬は燒いても次が確り殘るものだ、木綿では手のつけやうもないが、これは品の良い縮緬だから、燒いたものなら何處かに灰だけでも殘つてゐるかも知れない」 「それぢや、待つて下さい」 「待て〳〵、八」  八五郎は平次の止めるのもきかず飛んで行つてしまひましたが、暫くすると、 「見付かりましたよ、親分、この通りツ」  何やら大事らしく手に持つて、元の物置へ戻つて來ました。 「何が見付かつたんだ」 「幸ひ、あれから風呂を立てたのが一度切りで、忙しいのに紛れて、鐵砲の灰の始末もしてゐなかつたさうで、この通り、鐵砲の灰に、小紋縮緬の燒けたのが、そつくりそのまゝ殘つてゐましたぜ、──こいつは天罰だね」 「どれ〳〵」  風呂の焚きつけに使ふ大きな澁團扇の上に後生大事にのせたのは、成程小紋の跡も鮮やかに、灰になつた縮緬の小巾ではありませんか。 恐怖の夜 一 「八、思ひ付いたことがある、俺は今すぐ旅に出るよ」  平次は飛んでもないことを言ふのです。 「親分、あつしはどうなるんで?」  八五郎の心細がるのも無理のないことでした。明日は親類會議、その前の晩で、何があるかわからないといふ口の下から、肝腎の親分平次が旅に出るとは何んとしたことでせう。 「お前は此處で見張つてゐるのだよ、安心しねえ、誰も取つて食ひはしない」 「心細いなア、湯島の吉の野郎も、内儀の身許を洗つて來ると言つて、木更津まで出かけてしまつたし」 「意氣地のないことを言ふな、──尤も、手代の金之助と、下男の五助は、明日の親類會議に、親類方を集めるのだと言つて、目黒から川崎、神奈川の方まで手わけをして回り、明日でなきや歸らないさうだから、この廣い家に、男の切つ端は、主人の孫右衞門と、お前の二人つ切りだ」 「家が廣いだけに、留守番も氣味がよくありませんね」 「戸閉りを念入りにして、一と晩見張つてゐるが宜い、俺は氣になつてならねえことがあるから、兎も角ちよいと行つて來る」 「何處へ行くんです、親分」 「安心しなよ、まさか京大阪へ行くわけぢやない、明日は間違ひなく戻つて來る」 「へエ、餘つ程急ぎの用で?」 「その通りだよ、手遲れになると、證據が逃げる、いや、こいつはいひ過ぎだ、ところで、出かける前に、俵屋の家中の締りの具合を、もう一度念入りに見て置きたい、曲者が外からコジ開けて入るところはないか」 「そんなところはありやしません、まるで鐵の桶見たいな家で」  その頃現金を澤山持つた町人は、今日の人の想像も及ばぬ用心深さでした。銀行も金庫もなく、何千兩も何萬兩も、木と紙とで造つた家の中へ置くのですから、戸締りの嚴重さは、言ふも愚かです。  現に、私がこの眼で見た、半世紀前の東京の下町の大金持でさへ、雨戸の内側に通しの大閂をはめ込み、一枚々々は、外から絶對に外されないばかりでなく、棧と掛金と心張りで三ヶ所も留めて、更に犬を飼ひ、飛道具まで用意してありました。まして平次の時代の江戸の大分限、わけても現金を扱ふ商賣の俵屋が、戸締りに手ぬかりのある筈はありません。  平次は家の内外を一と廻りして、外からは絶對に入れないことを確かめました。序でに今日はひどく機嫌が惡いといふ主人の孫右衞門の部屋に入り、後ろ向になつた孫右衞門の枕元を通つて、窓の締りまで見せて貰ひましたが、此處も二重の締りで、外からは絶對に開けられる筈もなく、また無理にコジ開けた形跡がないのを確めて、 「飛んだお邪魔をしました、──でも、お蔭で、曲者が外から入つたのでないことがよくわかりましたよ」 「──」  默つてうなづく主人の孫右衞門に、丁寧な挨拶だけを殘して、平次はこの調べを切り上げたのです。此處まで來ると、このお玉の部屋の窓の開いたのは、曲者が内から開けて外へ逃げたか、それとも殺されたお玉自身が、窓を開けて、曲者を引入れたか、この二つの解釋しかないことになります。 二 「八五郎親分、お退屈ぢやない?」  外から聲をかけて、障子へ寄り添ふやうに開けると、身を飜して、女はスルリと入つて來ました。お粂です。手には酒の道具が一と揃ひ、これを持つて立ち身のまゝ障子を開けたのですから、余つ程お轉婆な恰好をしたことでせう。 「あ、お粂さんか」  八五郎は歡迎の聲をかけました。全く以て退屈し切つてゐたのです。 「見たでせう、親分?」 「何を?」 「手が塞がつてゐるんですもの、足で障子を開けたところを、ウフヽヽ」  さう言ふお粂です。酒の道具を下へ置いて、それを滑らせながらニツコリすると、四方がほのぼのと暖まる感じです。 「その藝當を見たかつたな」 「よく死んだおつ母さんに叱られましたよ、でも障子は足で開ける方が、滑りが宜いでせう」 「呆れたものだ」 「その呆れて塞がらない口へ一杯」  お粂は猪口を二つ、徳利を二本、八五郎の眼の前へ並べて、先づ一つを差すのです。 「有難てえな、恐ろしく氣がきくぢやないか」 「だつて、ケチな長屋のお通夜だつて、酒ぐらゐは出るでせう、八五郎親分を一と晩渇ゑさしちや、俵屋の暖簾は兎も角、私の顏に拘はるでせう」 「良い心掛けだが、今晩は呑んぢやゐられないよ」 「義理堅いことねえ、錢形の親分に言ひ含められたんでせう」 「そんなわけぢやねえが」 「それぢや受けて下さいよ、八五郎親分に頼みがあるんですもの、少し醉つて下さらなきや、私は言ひ出し憎い」  そんなことを言つて、お粂は歡め上手でした。 「お、とゝ、さう注がれちや」  八五郎は警戒しながらも、一本をあけてしまつて、二本めに取かゝつてをります。尤も勸める方のお粂も、お付き合ひに一杯呑み、二杯呑み、八五郎が陶然とした頃は、お粂もやがてほろりとしてをりました。 「もう少し威勢よくやつて下さいよ、二本目はまだ一杯あるぢやないの?」 「もう宜い加減にしようよ、俺には勤めがあるんだ、ところで、頼みといふのは何んだえ、氣になるぢやないか」  八五郎はとろりとしながらも、お粂の氣持をくみ兼ねて、それにこだはつてをります。 「口説くかも知れませんよ、ね、八五郎親分、私は近頃つく〴〵淋しいんだから」  お粂はグイと身體を曲げて、八五郎の膝のあたりを、自分の肘で小突くのです。 「あ、宜いとも、お粂さんに口説かれりや本望さ、夜逃げでも心中でもお望み次第何んでも付き合つてやるぜ」 「まア、嬉しいねえ、──だけど、私のお願ひといふのは、そんなことぢやない」 「?」 「今晩、この部屋へ泊めて下さらない? ね、ね、八五郎親分」  お粂は妙なことを言ひ出すのです。 三 「そいつは有難いが、これでも俺は獨り者だよ」  八五郎は少しうろたへました。隨分いけぞんざいな口は利きますが、お粂の美しさは非凡であり、これは、出戻りの勘當娘の、始末の惡い女であつたにしても、下谷一番の身上と言はれた、俵屋の先代の娘には違ひなく、この上、名題のお轉婆で、錢形平次に附け文ごつこまでした、大變な相手です。 「八五郎親分は、飛んだ臆病者ね、我が此處へ泊つたところで、誰にも何んにも言はせはしない」 「驚いたね、どうも」 「驚くことなんかあるものか、酒はいくらでもあるし」 「酒はもう澤山だ、──お粂さんが泊るにしたところで、此處には、布團が一と組しかないぜ」  八五郎は、部屋の隅に敷いてある、お客用のかなり贅澤な夜のものを指すのです。 「一と組ありや澤山ぢやないの、その布團の上へ、背中合せに寢るのも、洒落れてゐるわねえ、桃太郎の話か何んかしてさ」  お粂は本當に醉つた樣子です。八五郎の前でクルクルと帶を解いて、長襦袢一つの姿になり、お先へとも何んとも言はずに、床の中にもぐり込むのです。 「おい冗談ぢやない、泊つて行つても構はないが、せめて布團だけは持つて來てくれよ」 「そんなことをしたら、皆んなに知れるぢやないの、イヤなこつた」 「そいつは弱るな」 「弱ることなんかないぢやないの、こんな結構な年増が泊つてやらうと言ふんだもの、文句を言ふのは親分の贅澤よ」  お粂は布團へもぐり込んだまゝ小掻卷に襟を埋めて勝手なことを言ふのです。 「まだ、お見立ても引付けも濟まないんだぜ、おい」 「ウ、フ、八五郎親分は、私が考へた通りの人ねえ、あ、あ、もう一度娘に返つて、そんな男と苦勞がして見たい」  さう言つてお粂は、布團の中で身を揉んで、ク、ク、クと笑ふのです。  何處まで眞氣で、何處からが洒落か? 八五郎をからかつて遊ぶ氣で來たのか、それとも、本當に八五郎にいどむ氣で來たのか、思ひのほか正直者の八五郎には、暫らくは見當もつきません。  だが、斯んな途方もない樣子を見せながら、お粂には何んとなく、犯し難いものがあつたのです。色つぽくて綺麗で、申分なく仇めいてゐる癖に、冷たい事務的なもの、──または言ふことと行ひとの間に、大きな距りのあることを感じさせるのでした。 「頼むからお粂さん、歸つておくれよ、俺はまだ若いんだぜ」 「嬉しいねえ」 「お前に口説かれた積りで、眞氣になつたら、どうする?」 「御自由に、私はどうせ出戻りの勘當娘の」 「下谷一番のお轉婆娘か」 「よく御存じねえ、その氣で、夜つぴて枕元で張番をしていらつしやいよ」  全く手のつけやうがありません。 灰吹の酒 一  一方は錢形平次、淀橋の叶屋に着いたのは、その日の夕方でした。 「江戸は目の前だが、草臥れた顏を見せたくねえ、一と晩厄介になるぜ」 「入らつしやいませ、お早いお着きで」  などと番頭は平次を裏の小さい部屋に通しました。  江戸は鼻の先と言つても、この頃の淀橋はまた田舍も同樣、旅籠屋も至つて粗末です。案内してくれた係りの下女は、中年近い醜い女、平次はそれをからかひながら江戸から百里も離れたやうな心持で、晩酌などを申しつけます。 「疲れてゐるから、酒はよく利くぜ、五臟六腑を驅けめぐるやうだ、ところで──」  平次は下女を相手にすつかり良い心持さうになつてをります。 「──」 「ツイこの間、下谷二長町の俵屋の手代が、八王子歸りに泊つた筈だが、その時出たのは、お前ぢやなかつたか、あの手代はなか〳〵の良い男だが、叶屋の姐さんの客扱ひを、うんと褒めてゐたぜ」  平次は陣を敷きました。 「それは、私ぢやありませんよ、多分お房さんだと思ひましたが」 「さう〳〵お房さんとか言つたよ、あの手代の金之助に、ちよいと頼まれたことがあるんだ、お房さんを呼んでくれないか」 「まア、私ではいけませんの」  醜い下女が、ちよいと嫌味を言つて、バタバタと帳場へ行くと、代つて十八、九の、これは可愛らしい娘でした。 「入らつしやいまし、私に何んか御用ださうで」 「俵屋の金之助の傳言を持つて來たのだよ、まア、一つ酌をしてくれ、呑みながらゆつくり話さうぢやないか」 「まあ、うつかりいたしました」  お房は酌などをして、借りて來た猫の子のやうに、チンマリと坐りました。 「俵屋の手代が泊つたのは、何處の部屋だえ」 「一人客は、こゝか、この隣の部屋に御案内いたします、──あの人はたしかこゝだつたやうで」 「若い癖に、大層呑んださうぢやないか、十九や二十歳の者が、一夜泊りの旅籠で、二合も三合も呑めるものぢやねえ」 「お帳場でも、さう申してをりました、でも」 「半分は捨てたんぢやないか、この吐月峯が奈良漬臭いところを見ると、俺は妙なことに氣が付いたんだ」 「へエ?」 「大一座の振舞酒ならそんなこともあるだらうが、一人旅の客が、旅籠屋の吐月峯に酒を捨てるのは、理由のあることに違ひない」 「──」 「お前は何んか隱してゐる樣子だ、──金之助が、いくらか握らせて、お前の口を封じたか知らないが、俺はその倍だけ奮まうぢやないか、──實は金之助に良い嫁がきまりかけてゐるんだが、八王子へ行くと言つて飛出しちや、新宿あたりで流連をしてゐる樣子だ、何處のどんな女が深間なのか、それが知りたいのだよ」  平次は巧みに持ちかけました。 二  可愛らしい娘──宿屋の下女のお房は、興奮してをりました。美少年の手代金之助に、少しばかり氣があつたかも知れません。 「でも、私は口留されたんですもの、どんなことがあつても言つてはいけないつて」 「それがあの男の惡い癖さ、その手でどんなに、多勢の若い娘を泣かせたことか」 「いえ〳〵、そんなことぢやございません、あの人は、私に何んにもしたわけではなく、唯─」  お房の口は漸くほぐれて行きます。尤も平次は、煙草入から小粒を一つ掴み出して、鼻紙に包んで、お房の膝の下に押し込んだ早業も相當藥味がきいたことでせう。 「お酒を二合呑んで、醉つ拂つたことにしたが、實は素面も同樣で、裏の窓から拔け出して、新宿へ遊びに行つたといふのだらう──それはもう、良くわかつてゐるよ、お前に聽くまでもない、だが相手の女の名前がわからなくて、手を切らせることも出來ない、金之助を聟にといふ娘の親の年寄達も、氣を揉んでゐるのは無理もないことぢやないか」  平次の拵へごとは、なか〳〵の筋です。お房の淡い戀心に、少しばかり嫉妬を煽りさへすれば、風呂敷をほどくやうに簡單に、この娘は何も彼もさらけ出してくれるでせう。 「でも、私は何んにも知らないんですもの」 「金之助は相手の妓の名前も教へてくれなかつたのか、そいつは水臭いね」 「寢たことにして燈を消させ、亥刻(十時)過ぎに、そつとその窓から忍び出し」 「履物は?」 「草鞋を回してやりました」 「女郎買ひに草鞋履きか、そいつは念入りだ」 「實があるつてあの妓が喜ぶんですつて、隨分ねえ、──あの人はさう言ひましたよ」  お房の舌は滑らかにほぐれて行きます。 「で、此家へ戻つたのは?」 「曉方近かつたやうです、──尤も、窓は開けたまゝで、何時戻つたか、私も確かなことは知りませんが、夜が明けてから覗いて見ると、もう戻つていらつしやいました」 「草鞋はどうした、ひどく切れてゐたことゝ思ふが」 「いえ、大して損じてもゐなかつたやうです」 「途中で履きかへたのではないか」 「そんなことはないと思ひます、鼻緒のお乳を、小巾で卷いて、目印しがありました」  この下女の、なか〳〵眼の屆くのに、平次は感服してしまひました。 「そいつはよく氣が付いたね、──四、五里も歩くと、大抵の草鞋は長刀になるものだが」 「まだ確かりしてをりました、そんなに歩いた筈はありません」 「駕籠かな」  金之助が本當に新宿で一夜を過したとすれば問題はなくなりますが、淀橋から長者町へ飛んで行つて、すぐ引返したとすると、草鞋が無事な道理はありません。  だが、萬々一金之助が下手人だとしたところで、俵屋の家は鐵桶のやうに嚴重に締つてゐた筈です。それを外から開けて入るといふことは、先づ絶對に不可能のことです。 三人目の死 一  翌る朝、下女のお徳は、下谷中一パイに響くほどの悲鳴をあげたのです。 「大變ツ、誰か來て下さいツ」  その聲を聽いて、家中の者が廊下の一端に驅けつけました。其處は内儀のお春の部屋で、唐紙を開けた敷居際まで、首に細引を卷かれた死骸が轉げ出してゐたのです。  殺されたのは、言ふまでもなく内儀のお春で、ひどく抵抗をしたらしく、投出して取亂した足が、入口の唐紙を蹴つてをりますが、此處は皆んなの部屋から離れてゐるのと、昨夜はひどい無人だつたので、誰もその騷ぎに氣が付かなかつたのでせう。  飛んで來た家中の者と言つても、主人の孫右衞門は身動きも出來ず、手代の金之助と下男の五助は、神奈川まで親類回りに出かけて、現場に顏を出したのは、寢卷姿のお粂と、眠り足りない顏の八五郎だけ。 「あツ、これは」  八五郎は暫らく立ち竦みましたが、十手の手前、我に返ると、下女のお徳を町役人のところに走らせ、錢形平次の眞似事で、忙しく四方を調べ始めました。  内儀のお春は、これも寢卷のまゝ、逞ましい細引を首に卷かれて、最早冷たくなつてをりますが、曲者は恐ろしく念入りで、内儀を絞めた後で、また細引で締め直し、殘つたのを二つ三つ首に卷きつけてあります。結び目は嚴重な男結び、死骸の顏は紫色に充血して、日頃の蒼白い内儀とは大變な違ひです。  部屋の中は大して取亂した跡もなく、窓の戸は、お玉の殺された場合と同じやうに、一枚だけ開けてあります。其處から爽やかな初夏の朝日が覗いて、陰慘な部屋を照してをります。  窓の外を覗いて見ましたが、相變らず足跡らしいものもなく、曲者が其處から入つた證據もない代り、此處から逃出したといふ證據も殘つてはをりません。  急を聽いて、町役人達や、物好きさうな近所の衆、それに八五郎とは顏見知りの、土地の御用聞などが集まつて來ました。が、それは、大騷ぎをするだけで、何んの役にも立たず、八五郎の心の中では、此處へ親分の錢形平次が來さへすれば──と言つた一縷の望みに燃えて、店先から往來ばかり眺めてゐるのでした。  が、物事はそんなうまい具合には行かず、錢形平次の代りに、事毎に平次と手柄爭ひをする、強引苛辣な岡つ引、三輪の萬七親分が、子分のお神樂の清吉と共に乘込んで來ました。 「おや、八五郎兄哥か、下谷は錢形の親分の繩張りだが、錢形がゐなきや、俺が出娑婆つても文句はあるまいね、俵屋に三人も殺しが續いちや放つても置けめえ、今すぐ下手人を擧げなきや、此方へ引渡して貰はうかの」 「──」  八五郎は唇を噛みました。煮えくり返るやうな心持ですが、相手とは貫祿が違ひ過ぎるので、文句の言ひやうはありません。 「それ、清吉、その女を擧げてしまへ、殺された内儀とは敵同士だ」  三輪の萬七は十手を擧げて、お粂の額をビタリと指すのです。 二 「あ、その女は下手人なんかぢやありませんよ、三輪の親分」  八五郎はあわてゝお粂を庇ひました。 「何んだと、俺が何んにも知らないと思ふのか、この間から子分達を手一杯に動かして、俵屋のことを、一から十まで探らせてゐたんだ、この女と繼母の内儀と、どんなに仲が惡かつたか、世間樣の方がよく知つてゐるぜ」 「でも、その、お粂さんは昨夜一と晩このあつしと一緒にゐたんですぜ」  八五郎は一生懸命でした。 「へツ〳〵、飛んだ辯解だ、八五郎兄哥は夜つぴてこの女を離さなかつたと言ふのかえ、そいつは結構過ぎて、そのまゝぢや八丁堀の旦那方も受取つては下さるまいよ」  三輪の萬七は中年者の太々しさをむき出しに、お神樂の清吉に顎をしやくるのです。 「さア、來いツ女、言ひわけはお白洲で聽かう」  清吉の手がお粂に觸れると、繩はもうキリキリとお粂の柔かい手首に卷きつくのです。 「八五郎親分、──昨夜は私が殺されるのかと思ひましたよ、私はそれが怖さに、あんなことをしたのに、──殺されたのは私ではなくて、お母さんだつたのです、お願ひだから八五郎親分、錢形の親分さんに、皆んな話して下さいよ、──私は、私は」 「えツ、歩けツ」  繩尻がピシリと鳴ると、お粂は泣きながら、店の外へ、多勢の彌次馬の眼の前へ、しを〳〵と引かれて行くのです。  間もなく、手代の金之助が、大汗になつて戻つて來ました。續いて、下男の五助、そして晝近くなつて、錢形の平次も歸りました。 「親分、遲かつた」  八五郎はそれを見ると、飛出してすがりつくのです。 「どうした、八」 「お粂さんが縛られて行きましたよ、三輪の萬七親分に」 「縛られた?」 「内儀のお春さんを殺した疑ひで」 「待つてくれ、お前は少しのぼせてゐるやうだ、落着いて詳しく話せ」 「のぼせもしますよ、お粂は昨夜──一と晩このあつしと一緒にゐたんですもの」  八五郎は平次の胸にかぶりついて、言ふこともしどろもどろです。 「お前とお粂が、夜つぴて一緒にゐたといふのか」 「その通りですよ、親分」 「嘘だとは言はないが、お粂はあれでなか〳〵の確りものだぜ」  平次は妙に胡散な顏をするのでした。 「お粂は私と一と晩、一緒にゐたのは、色戀の沙汰ぢやありませんよ、お粂は昨夜自分の身が危ないと思ひ込み、冗談らしく私の部屋へ飛込んで來て、夜の明けるまで一緒にゐました。夜中に脱出して、人などを殺せる筈はありません」  八五郎は躍起となつて言ひ解くのです。 「成程な、お前の言ふのも尤もだ、が──待てよ、するとあの内儀を殺したのは誰だ、昨夜は此の家にゐたのは、主人の孫右衞門と下女のお徳だけぢやないか」  平次は斯う言ふものゝ、別に、何んか考へてゐるのです。 謎の箱 一 「お願ひだ、親分、お粂を助けてやつて下さい、今日中に口書きを取つて、八丁堀へ送ると、お神樂の清吉の野郎があつしの前でフヽンと鼻を鳴らしましたよ」  八五郎は明神下までついて來て、執こく平次に食ひ下がるのです。 「清吉とお前の角突き合ひに、俺まで引合ひに出されてたまるものか」  平次は冷靜に突つ放しますが、お靜がくんでくれた茶にも手を出さず、パクリパクリと煙草ばかり吸つて考へ込んでゐる樣子でした。 「でも、お粂は可哀想です、一と晩あつしと一緒にゐたものが、脱け出して母親を殺せるわけはないぢやありませんか」 「お前が居眠りでもしてゐたんだらう」 「飛んでもない、あんな結構な年増と一と晩睨めつこをして、居眠りが出來るか出來ないか、考へて見て下さいよ」 「一と晩、どんな話をしてゐたんだ、まさか、猿蟹合戰や桃太郎の話ぢやあるまい」 「それなんですよ、甘いやうでビリヽとして、柔かいやうで芯があつて、口説けさうにして、その實口説かせないのがあの女なんで」 「何んだつまらない、──尤も、お前などに隙を見せる女ではあるまいよ」 「その代り、良い話を聽きましたよ」 「良い話といふと?」 「繼母のお春は、弱氣で臆病で風が吹けば飛ぶやうに見えるが、性根の確かりした女で、元が元だけに、隨分男出入りもあつたらしく、現にこの間殺された主人の弟孫三郎も、昔お春が商賣をしてゐる頃の深間だつたといふ話──」 「それは俺も聽いた」 「もう一つ怖い話は、娘のお玉は、母親のお春が落籍されて、此家へ入つた年に生れたので──來た月を入れてハツハツぐらゐなり──などと世間で言ひ囃したといふ話」 「お粂はそんなことまで話したのか」 「自棄でしたよ、──どうせ私は殺されるに違ひない、父親も母親も義理のある仲だし、その母親に散々の目に逢はされて、出戻りになつたり居候扱ひされたり、この通り滅茶々々の評判女になつてしまつたが、元をたゞせば誰が惡いか、私は殺される前に、八五郎親分に皆んな言つて置きたい、──俵屋の身代を、何處かへ隱してしまつたのは、あのお春に違ひないし、私を殺すものがあれば、それもお春に違ひないと」 「待つてくれ、すると、主人の弟の孫三郎とお春の娘の玉を殺したのは誰なんだ」 「そいつはあつしにもわかりませんよ、お粂は、多分お春だらうと思つてゐる樣子でしたが」 「そのお春も殺されたのだよ」 「それは、その」  八五郎も斯う問ひつめられると一言もありません。 「俺には、大方下手人の見當は付いてゐるが──」 「親分が? それは本當ですか、どうして縛らないんです」 「確とした證據がないよ、アヤフヤな見當で人を縛りたくねえのさ」  相變らず平次の潔白さが齒痒くなります。 二 「金之助さんといふ方が見えましたよ」  お靜は取次ぎました。 「さうか、丁度宜い、八五郎も來てゐる、三人寄ればの譬の通り、下手な智慧でも出し合つて見よう」  平次は機嫌よく迎へました。長者町の俵屋の手代金之助は、お靜に案内されて、部屋へ通つて來たのです。 「親分さん、お邪魔をいたします」  少し高いピツチで、折目の正しい慇懃な調子、銀を燻して血を通はせたやうな、珍らしい男つ振りです。尤もまた二十歳になつたばかり、月代が青々として、下つ脹れの顎のあたり、僅かに童顏の殘るのも、限りない愛嬌でした。 「いや、邪魔どころぢやない、待つてゐたんだ」  平次はいかにもさり氣ない調子でした。 「さう言はれると極りが惡いくらゐで、矢張り馴れないことは仕方のないもので、一向に埒があきません」 「そんなことはあるまい、この仕事はお前に打つてつけだと思つたよ、──なア、八、こちとらは武家が苦手だから、幸ひ隣同士で眤懇にしてゐなさるやうだから、江柄三七郎の調べを、金之助さんに頼んだのだよ」  平次は八五郎の方を振り返つて二人の氣持を取なすのです。 「御懇意に願つてるには違ひありませんが、いざとなると、江柄さんも感づいたらしくて、大事のところを打ち明けては下さいません、たとへば」 「?」 「あの晩の夜釣に限つて、船頭を歸してしまひ、一人で漕ぎ出して行つたとか、誰にも逢はなかつたとか、まことにたよりない話で」 「釣の獲物は?」 「何んにも釣れなかつたと申してをります、尤も江柄さんに暗いところがあれば、活きの良い魚を買つて、釣つたやうな顏をして歸る手もある筈ですから」  金之助は、江柄三七郎のために、辯解までしてやるのです。 「それは辯解にならないな」  平次は澁い顏して見せました。 「私もそれを申しましたが、江柄さんは一向に取り合ひません」 「仕方があるまい、證據は此方の手で集めることだ」  平次は諦めた樣子で、話題を換へました。 「それから、下男の五助の身許のことも調べるやうにとお頼みでしたが、あれは葛西の百姓の子で、確かなものでございます、年に三兩の給金を後生大事に溜める方ですから」 「有難たう、あの男は人殺しとは拘はりがなささうだ、──ところで」  平次は押入を開けて、妙なものを持出しました。 「何んです、それは?」  八五郎は物好きさうに乘出しました。 「箱根へ湯治に行つた知合ひからお土産に貰つたのだよ、昔々、朝鮮の國から、日本の朝廷に御使者が來た時、持つて來た寶の箱に一八と書いてあつた、叩けば開かれる──といふ謎だつたと物の本に書いてあるさうだよ」  平次は妙な話を始めました。 三 「そいつは、何時の話です、親分」  八五郎は、もどかしさうに口を入れました。平次の話は、日頃にない、寛々たるテムポです。 「昔々大昔の話だよ、千年も前の」 「へエ、桃太郎が生れる前のことで」 「無駄を言ふな、──ところで、その話から思ひ付いて、箱根細工の金箱を拵へたのだよ。金箱と言つたところで、千兩箱ぢやない、女子供のほまちを入れる箱だ、こんな箱はわけもなく開けられちやほまちが溜らないから、容易のことでは開けられないやうに出來てゐるのだ」 「成程ね」 「これを俺にくれた人は、中へお祝ひに小粒をいくらか入れたさうだが、さつそく煙草錢が欲しいと思つても開けるわけに行かねえ、二日ばかりおもちやにしてゐるが俺の智惠では矢張り駄目とわかつたよ、二人で一つ、工夫をして開けて見てくれないか、開けさへすれば鹽煎餅ぐらゐは奢るぜ──引つ張つたつて駄目だよ、何處か斯う拍子をつけて叩くんださうだ『叩けば開かれる』といふ昔の人の工夫にあやかつたものだ」  平次がさう言ふ間にも、八五郎は金箱を受取つて、無闇やたらに叩きました。上から、下から、右から、左から、拍子をつけて叩いて見ましたが、箱は思ひのほか嚴重に出來てゐて何處も開けられさうはなく、その癖中では、思はせ振りにカラカラと金が鳴つてゐるのです。 「ちよいと拜借いたします」  それを齒痒さうに見てゐた金之助は、我慢がなり兼ねて横合ひから手を出しました。 「俺に開けられないものが、お前に開けられるわけはないよ、──錢形の親分さへ、この箱と二日角力を取つたんだ」  さう言ひながら八五郎は、澁々錢箱を金之助に渡しました。今日では何處の湯治場でも賣つてゐるやうな箱根細工の貯金箱で、火打箱の半分ほどしかありませんが、何處に仕掛けがあるのか、八五郎の智慧では手に及びません。 「成程よく出來てゐますね」  金之助は箱を受取つて、暫らく調べてをりましたが、やがて、前後左右から、一種の拍子で叩き始めました。 「どうだえ、開かないぢやないか」  八五郎は少しばかり溜飮を下げてをります。 「そんな筈はないと思ひますが──おや、おや、小口に釘が打つてありますよ」 「そんな馬鹿なことが」  平次も覗きました。 「でも、この通りですよ、仕掛けのあるのは構はないが、釘でとめるのは卑怯ですね、この通り釘を拔くと──」  金之助は箱の隅から發見した隱し釘を拔くと、箱は何んの苦もなく開いて、中に入つてゐる一朱銀が三つ四つ、コロコロと疊の上へ轉げ出すのです。 「あ、成る程、でも、その釘を見付けたのは、矢張り金之助どんの手柄だよ」 「こんなことは、手柄にもなりません」  金之助は極り惡さうに箱を置きました。 「あつしはまた一生懸命叩きましたよ、馬鹿囃子か何んかで」  八五郎は意味もわからず面白さうです。 最後の冐險 一  その晩平次は、不思議な指令を八五郎に與へました。 「お前は俵屋の金之助と馬が合ふやうだな」 「それほどでもありませんがね」  平次の調子が至極眞面目なので、八五郎もツイ遠慮しました。 「お前と金之助では、どう見ても、まるつ切りあべこべだ」 「へエ?」 「金之助は才走つて人間が鋭くて、調子がよくて、男が良い」 「さう言ふとあつしは、間拔けで、ぼんやりで、醜男見たいですが」  八五郎は顎をしやくりました。 「こんなあべこべな肌合ひの人間は不思議に反の合ふものだ」 「褒められてるのか、くさゝれてるのかわかりませんね」 「兩方だと思へ、ところで、今夜金之助をおびき出して貰ひたいのだよ」 「何處へ行くんです」 「それはお前の働きだ、尤もらしい用事を拵へて引つ張り出し、精一杯呑飮せるのだ」 「谷中あたりのいろは茶屋ぢやいけませんか、近過ぎて」 「宜いとも、その代り子刻(十二時)前に歸しちやならねえよ、上野の鐘を數へて子刻過ぎたら、お前も一緒に歸つて來るが宜い」 「──」 「氣のない顏をしやがる、それ、これが軍用金だ」  前の日、謎の金箱から出た小粒を三つ四つ、平次は八五郎の手に握らせるのです。 「これだけありや、剩錢が來ますよ、平常坊主客にもたれてゐる女どもが、若くて毛の長いのが二人揃つて行くと、持てますよ」 「そんな氣でゐるから、お前は何時までも若いのだよ」 「どなたもさう仰しやいます」  八五郎は小粒を懷中に押し込んで、下谷に向ひました。それから日が暮れるまで、平次は所在もなく暮しました。植木にも飽き、茶にも飽き、煙草にも飽き、そのくせ女房のお靜が話しかけても、あまり返事もせずに、夜になるのを待つたのです。やがて亥刻半(十一時)といふ頃、平次は漸く活氣づきました。身輕に仕度を整へると、十手を腰に、 「ぢや行つて來るよ、今夜は歸れないかも知れない、お隣の小母さんでも頼んでおくが宜い」  お靜の心配さうな顏を後に、下谷長者町に向ひました。  目的は言ふまでもなく、俵屋の堂々たる構へ、今は主人孫右衞門と、下男の五助と、下女のお徳のほかには、この構への中に生活してゐる者もない淋しさです。  たつた一人だけ、ものゝ役に立つ手代の金之助は、多分八五郎が誘ひ出してくれたことでせう。裏木戸を押して入ると、最早とがめる者もありませんが、締りは恐ろしく嚴重で無人とわかり切つてゐても、外からは潜り込む隙間もありません。  平次は家を一と回り、主人孫右衞門の部屋の窓の外に立ちました。 二  平次の立つたのは俵屋の母屋の奧、凹んだやうな建物の袖の下ですが、この邊はよく南陽が當るので、曲者がお百度詣りをしたところで、足跡のつく心配はありません。  窓の下に立つたまゝ、平次は物を考へてをりました。これからやつて見る自分の冒險の、結果の恐ろしさを案じてゐるのでせう。  爽やかな夜風が襟に吹いて、上野の鐘が頭の上で鳴るやうに、九つを告げます。その最後の音が余韻を殘して闇の中に消えると、平次は何んとはなしに武者振ひを感じました。一とたび鐘の音にかき亂された闇は、元より靜かな閑寂さに返つて、町の遠音も死んだやう。  暫らくすると、平次は腰高窓の戸に近づいて、爪立ち氣味に外からその戸を叩くのです。三つづつ、三つづつ、三つ、四方は靜かなせゐか、雨戸の音は思ひのほか高々と響きます。  平次は暫らく待ちました。──恐ろしい待遠しさです。内から何んの反響もなければ、その次はどうしたものか、平次も其處までは考へなかつたらしく、窓を眺めて固唾を呑みました。  と、不意に、恐ろしいことが起つたのです。平次は何んの手も加へないのに、窓の戸は内から、靜かに開いて、手燭を持つた老人の顏が、重々しく外を眺めてゐるではありませんか。 「──」  窓の内の老人の顏は、手燭の灯で前に立つてゐる平次の顏を見ると、ハツとした樣子で顏を引込め、窓の戸をハタと鎖さうとしました。が、平次の手は早くもそれ止めました。そして次の瞬間、引込んだ老人の影を追ふやうに、窓框に手を掛けた平次の身體が、輕々と窓に撥ね上がつて、老人の部屋へ飛込んでゐたのです。 「お前は誰だ」  老人は、いふまでもなく、俵屋の主人の孫右衞門でした。身動きも出來ないといはれた重病の老人が寢卷の上に半纒を引つかけて、思ひのほかシヤンとしてをります。 「明神下の平次ですよ、ご主人──變なところから御挨拶申しますが」 「何んの用事だ」 「ご主人が自分の手でこの窓を開けると氣がついたのは、少し遲過ぎました」 「それは何んのことだ」 「御主人が曲者を此處から引入れて、二人まで殺させたとは思ひも寄らなかつたのです。尤も、最初支配人の孫三郎を殺させた時は、夜つぴて御主人を介抱させてゐたことにした、──」 「──」  平次の論告の前に、主人孫右衞門は、床の上へ、ヘタヘタと崩折れました。これが起き出して、窓から曲者を引入れたとは思へないほどの、朽木のやうな哀れな姿です。 「たつた一つ伺ひませう、御主人は、なんだつて、あの鬼のやうな男を引入れて、義理の弟や、たつた一人の娘御を殺させたのです」  平次は主人孫右衞門の床の前に中膝になつて、逃れる隙もなく詰め寄るのです。 「いや、違ふ、殺したのは俺だ」 「?」  孫右衞門は飛んでもないことを言ひ出しました。 「弟の孫三郎も、女房のお春も、娘のお玉もこの俺の手で殺したのだ、──あれは俺にとつては、弟でも女房でも娘でもない、皆んな敵同士だ」  主人の擧げた顏は紫色の忿怒に彩られて、この世の人とも思へぬ姿です。 二  主人孫右衞門の抗議の奇つ怪さに、平次も暫らくたじろぎましたが、やがて陣を立て直すと、 「今になつて卑怯ですぞ御主人、證據はあり過ぎるほどある、たゞ、御主人が同腹とは氣がつかず、その御主人が窓を開けて、あの鬼のやうな下手人を引入れる力があるとは思ひも寄らなかつた」 「いや、嘘だ」 「嘘ではない、御主人は押入へ這ひ上がつて孫三郎を殺す力もなく、馴々しくお玉さんの傍に寄つて、可哀想に耳に錐を叩き込むやうな恐ろしいことの出來る筈はない」  平次は最早容赦はありませんでした。この燃え立つ朽木のやうな、執念だけで生きてゐる老人を相手に、ヒタヒタと詰め寄るのです。 「親分、もう澤山だ、──どこ〳〵までも、あの子を庇つてやる積りであつたが、小僧の友吉を、入れると、四人までも虫のやうに殺す人間は、私もつく〴〵恐ろしくなつた」 「すると、御主人は?」 「いかにも、私は金之助を庇ひ過ぎた、が、私ももう生きてはゐられまい、地獄の使ひが其處まで來てゐるやうな氣がする」 「金之助は、何者です、御主人」  精一杯の努力で話し續ける孫右衞門に、平次は心せく樣子で最後の問を投げかけたのです。この老人の樣子を見ると、生命の力を費ひ果して、何時どんなはずみで、ポキリと折れて仕舞ふかもわからなかつたのです。 「私の子だよ」 「えツ」 「あれ一人だけが、私の本當の子だよ、お粂は俵屋の先代の子で私の子ではなく、お玉も私の子ではない、女房のお春が俵屋へ嫁入して、月足らずで産んだ子だ、世間では私の義理の弟の孫三郎の子だと言つてゐる、度々お春を責めたが、たうとう白状せずに死んでしまつた」 「──」  それは恐ろしいことでした。さすがの平次も、受け答へも出來ないほど、人の憎しみの恐ろしさに、固唾を呑んで次の言葉を待つばかりです。 「あの子は、町の遊び女に産ませた、私の本當の子だ、母に別れて、男の子に仕立てられ、樽拾ひをしてゐるのを、私が搜し出して、知り合ひの子といふことにして、俵屋で使つたのだ」 「男の子に仕立てられ?」  平次は聞きとがめました。老人は妙なことを言つたのです。 「金之助は男ではない、あれは女の子だよ」 「あツ」  平次はこの時ほど驚いたことはありません。さう言へば金之助の美少年振りに、何處か線の柔か過ぎるところがあり、脂の乘りやう、乳のふくらみなど、妙に氣になるものがあるやうな氣がしたのです。 「あの子は男姿で育つたためか、年頃になつても男姿が好きで、それで押し通して、娘姿になれと言つても聽かなかつたのだよ」  主人孫右衞門の話は益々奇怪になります。 四 「それに、困つたことに、女房のお春は、世にも珍らしい氣象者で、燒餅も一段と凄まじかつた、私に隱し子があるなどとわかつたら、どんな騷ぎになるかわからない、金之助のお金は、男姿のまゝ、我慢に我慢をして、年頃まで過したのも無理のないことであつたよ」  老人は苦しい息を繼ぎながら愚痴つぽく話し續けるのです。 「孫三郎を殺したのは」  平次はそれをレールの上へ引き戻しました。 「放つた置けば、孫三郎は床屋の身上を皆んな取込みさうであつたよ、何處かへ隱した現金だけでも、何千兩、お金の金之助はそれを見兼ねて殺す氣になつたのだ」 「お玉さんを殺したのは」 「あれは私の子ではない、──金之助のお金にとつては敵同士のやうなものであつた」 「内儀を殺したのは?」 「金之助はお春を憎んでゐた、──お春はまた、近頃薄々金之助の素姓を見破り、あれを女の子と氣が付いてゐたらしい」 「その内儀を、一度は介抱にこと寄せて、御主人が助けたぢやありませんか」 「私はお春が憎かつた、何年越し私のところへは寄りつきもしなかつた、でも、その晩金之助に殺されるとわかると、氣の毒にもなり、少しばかり未練もあつて、身上をわけてやる相談と言つて、お春をこの部屋に呼び寄せたが、その代り、その晩叔母のとこへ泊る筈だつたお玉が殺されてしまつた」 「その時、危ふくお粂さんに疑ひがかゝる筈だつたが、お粂さんが、不氣味がつて八五郎の部屋へ飛込んだばかりに助かつた」  主人孫右衞門と、錢形平次は、互に補ひ合つて、事件の眞相は、明かに浮び上がるのです。 「だが、私はあの子が可愛いゝ、が、怖ろしい、人を殺すことを、何んとも思はない、鬼のやうな娘だ」  主人孫右衞門は床の上に仰向けになつたまゝ、靜かに眼を閉ぢるのです。 「御主人」 「靜かにしてくれ、私はもう、精も根も盡き果てた、──この儘、死なしてくれ」 「御主人」  丁度その時でした。谷中のいろは茶屋へ行つたはずの、手代の金之助と、子分の八五郎が、少し醉つたらしい足取りで、バタバタと入つて來たのです。 「親分」 「此方だよ、八、御主人の部屋だ」  二人は繋がつて廊下を。唐紙を開けると、窓は開け放つたまゝ、主人孫右衞門は床の上に横たはつて、靜かに眼をつぶつてゐるのです。 「旦那樣」  金之助がその傍に寄つて手を添へると、 「お金、諦めてくれ、──俺は、皆んな、錢形の親分に話してしまつたよ」 「えツ」 「俺はもう死ぬ、──これうへお前に罪を重ねさせたくない、──せめてお粂だけは助けてやりたい」 「何んといふことをしたんだ、父さん」  死にかけてゐる父親の胡麻鹽の髻を取つて、ゆすぶり加減にグワツと睨んだ、金之助の顏は、男姿ながら、鬼女そのまゝの物凄さだつたのです。 半型丁型  孫右衞門はその晩のうちに死んで、金之助のお金は間もなく處刑されました。  俵屋に覆ひ冠さつた暗い雲は、一夜にして取拂はれましたが、その代償の大袈裟なのに、誰も彼もが膽をつぶしたことです。 「まア、何んといふことだらう、あの良い男の金之助が、女だつたりして」  お粂はさう言ひながらも、親類達に相談をして、五助やお徳に援けられながら、あとの始末に面食らつてをります。 「でも、俵屋の跡は先代の娘のお粂が立てるんだから、何處からも文句は出ないだらうよ。あの女は、浮氣つぽくて飛上がりで、自分で自分を嘘つきにしてゐるが、根が正直で何處かに良いところのある女だよ。金之助ほどの恐ろしい人殺しでも、お粂だけは憎めなかつたやうだ」  平次はつく〴〵さういふのです。 「あつしにはわからないことばかりだが、繪解をしてくれませんか、親分」  八五郎がさういふと、 「皆んなわかつてゐるぢやないか、どこが呑込めないんだ」 「あの鐵の箱のやうな、締りの嚴重な俵屋へ、夜中にどうして親分はもぐり込んだのです?」 「主人の孫右衞門の部屋の窓を、外から叩いて開けて貰つたのさ、三つづつ三つ叩く暗號を見付けたんだ」 「どうしてそんな手品を?」 「金之助に箱根細工の箱を叩かせたことがあるだらう、あの時悟つたのだよ。一體人が物を叩くとき、それ〴〵の癖があるものだ、三つづつ叩く人と、二つづつ叩く人と、四つづつ叩く人と、二つと三つ交る〴〵叩く人と」 「へエ?」 「つまり、叩き癖にも、丁型の人と半型の人と、丁半入れ交ぜに叩く人とあるわけだ。金之助は箱根細工の箱を三つづつ叩いて開けようとしたから、これは半型の癖があると見破り、主人孫右衞門の窓を三つづつ三つづつ叩くと、主人は金之助の合圖と思ひ込み、やつとこさと起き出して開けてくれたよ」  この考へ方の微妙さは八五郎の太い神經ではわかりませんが、金之助が三拍子型のリズムを好む癖を知つて暗號を見破つたのは、兎も角も平次の聰明さです。 「淀橋にゐる筈の金之助が、どうして下谷で人殺しをしたんでせう」 「旅籠屋でうんと酒を呑んで寢たと見せかけて、酒を灰吹に捨て、新宿へ遊びに行くことにして、駕籠を飛ばして下谷の長者町に歸り、人を殺して曉方までに淀橋の叶屋へ、また駕籠で戻つたのだ、草鞋が切れなかつたのはそのためだよ」 「あ、成る程」 「目黒から川崎へ回つた時も、同じ術さ、もう一つ金之助は本來女だから、時々女に化けたかつたらしい、紅、白粉も好きだつたに違ひない」 「へエ」 「何にしろイヤなことだよ、尤もお粂といふ女は見直したが──」  さう言ひながら平次は、お勝手のお靜に合圖を送つて、一本つけさせるのでした。 底本:「錢形平次捕物全集第十二卷 鬼女」同光社磯部書房    1953(昭和28)年8月25日発行 初出:「報知新聞」    1953(昭和28)年3月 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2014年7月3日作成 2016年5月10日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。