錢形平次捕物控 どんど燒 野村胡堂 Guide 扉 本文 目 次 錢形平次捕物控 どんど燒 一 二 三 四 五 六 七 八 一 「あ、あ、あ、あ、あ」  ガラツ八の八五郎は咽喉佛のみえるやうな大欠伸をしました。 「何と言ふ色氣のない顏をするんだ。縁先で遊んで居た白犬が逃出したぢやないか、手前に喰ひ付かれると思つたんだらう」  のんびりした春の陽ざしの中に、錢形平次も年始疲れの、少し奈良漬臭くなつた足腰を伸ばして、寢そべつたまゝ煙草の烟の行方を眺めて居たのです。 「だがね、親分、正月も三ヶ日となると退屈だね。金は無し、遊び相手は無し、御用は無し、──そこで考へたんだが、二度年始廻りをする術はないもんでせうか──明けましてお目出度う、おや八さん、昨日も年始に來たぢやないか、へエー、そんな筈はないんだが、あつしは暮から風邪を引いて今日起き出したばかりですよ、それは多分八五郎の僞者でせう──なんて上り込む工夫はないものかな」  八五郎の想像は、會話入りで際限もなく發展して行きます。 「馬鹿野郎、──よくもそんな間拔けな事が考へられたものだ」 「──それも樽を据ゑた家に限るね、一升買ひの酒ぢや、飮んでも身にならねえ」 「呆れた野郎だ」 「でなきア、御用始めに、眼の玉のでんぐり返るやうな捕物はないものかなア。親分の前だが、今年こそ、うんと働きますぜ。江戸中の惡黨が、八五郎の名を聞いただけで眼を廻す──てな事になると──」 「八、氣を付けるがいゝぜ、雪の無い正月で、いやにポカポカするから」 「ね、親分、今度はあつしに任せて下さいな、どんな事でも、一人で捌いて世間の人をアツと言はせますから」 「いゝ氣なものだ、──おや、さう言へば御用始めらしいぜ、手前逢つて見るか」  平次が隣室に隱れる間もありません。バタバタと入つて來たのは、若い男。 「錢形の親分さん、た、大變、──すぐお出で下さい」  突きのめされさうな聲です。二十五六、大店の手代風ですが、餘程面くらつたものと見えて、履物も片跛、着物の前もろくに合つて居りません。 「お前さんは、何處から來なすつたえ」  八五郎は精一杯の威儀を作ります。 「安針町の、さ、相模屋から參りましたが、──わ、若旦那が昨夜──」  手代はゴクリと固唾を呑みました。 「これを飮んで少し落着いてから話すがいゝ。さうあわてちや却つて筋が通らねえ」  平次がぬるい茶を一杯くんで出すと、それを一と息に呑ほして、暫くホツと胸を撫でおろします。 「若旦那が何うした──」  と平次。 「昨夜殺されましたよ」  手代はぞつと身を顫はせます。 「昨夜殺されたと、何だつて今頃あわてゝ飛んで來るんだ。あの邊は第一、小網町の仙太の繩張ぢやないか」  ガラツ八は少しむくれて見せました。 「さう言ふな、八、──ね番頭さん、お前さんが下手人の疑ひを受けたんだらう」 「えツ、どうしてそれを、親分さん」 「昨夜の殺しを、今頃あわてゝ俺のところへ言つて來るのは、よく〳〵困つたことがあるからだらう」  平次は落着いた調子で圖星を指します。 「小網町の親分が、──一人も外へ出ちやならねえ、世間の口にのぼる前に、下手人を搜し出すから──つて」 「仙太兄哥のやりさうなことだ、──ところでどんな事になつて居るんだ、詳しく話して見るがいゝ、次第によつちや、──お前さんが本當の無實なら力になつて上げないものでもない」 「有難う存じます、──私は相模屋の手代の與母吉と申しますが、災難は何處に轉がつて居るかわかりません。斯う言ふわけで──」  手代の與母吉は漸く落着いて話し始めました。 二  安針町の相模屋の若旦那の勘次郎は、正月二日の晩、離屋のやうになつて居る別棟の二階六疊の部屋で、小形の出刄庖丁に喉笛を刺され、冷たくなつて居るのを、嫁のお清が見付け、大變な騷ぎになりましたが、小網町の仙太が驅け付け、内々檢屍だけを濟ませて、嚴重に口止めをしたまゝ、下手人の探索を續けて居るのでした。  勘次郎は二十三になつたばかり。日本橋業平と言はれた好い男で、隨分罪も作つた樣子ですが、一年前に遠縁のお清を嫁に貰つてから、これが思ひの外の氣象者で、巧に勘次郎の浮氣を封じ、大した噂もなく過して居りました。 「近頃は女出入では人に怨まれるやうな筋はございません。──そこで仙太親分は、若旦那と一緒に育つて、お清さんに思ひを掛けたことのある私が、怪しいと、睨みなすつたわけで──」  與母吉は泣き出しさうでした。 「それは、どんな御用聞でも考へる筋だ、──ところで、お前さんは今嫁のお清さんを何とも思つちや居ないのか」  平次は要領の搜りを一本入れました。 「思はないわけぢや御座いませんが、主人の嫁ではどうにもなりません。お清さんが行儀見習で、相模屋に三年も居たんですから、昔思ひを掛けたのが怪しいと言へば、店中潔白なのは一人もありません」 「成程な」 「尤も、三ヶ日は休みも同樣で、昨夜店に居たのは私と小僧の寅松と二人切り、納屋の方には人足が二三人居たやうですが、これは棟が違ひますから、裏からこつそり入つて、若旦那を殺してそつと歸るわけには參りません」 「親旦那や、下女が居るだらう」 「御親類の方が年始に見えて、親旦那はそれを相手に、奧で飮んでいらつしやいました。夕方から酒が始まつて、お客の歸つたのは亥刻頃、──お清さんがそれから間もなく、若旦那の殺されて居るのを見付けたので御座います」 「奉公人は?」 「皆な出拂つて、店には私と寅松だけ、嫁のお清さんは客の相手で、お勝手には飯炊きのお熊どんと行儀見習に下田の取引先から來て居るお濱さんが、燗を付けたり、料理の世話をしたり、一寸の暇もなく立働いて居たさうでございます」 「殺された若旦那は、宵から二階などへ上がつて居たのか──此節は御觸がやかましくて、町家の二階では灯を點けてはならぬことになつて居る筈だが──」  萬治三年は正月から大火があつて、湯島から小網町まで燒き拂ひ、二月は人心不安の爲將軍日光社參延引を令し、六月には大阪に雷震、火藥庫が爆發し、到頭江戸町家の二階で紙燭、油火、蝋燭を禁じたのです。 「年始疲れと二日醉の氣味で、日暮前から離室の二階で休んで居ました」 「その離屋は、母屋の者に知れずに外から出入りが出來るかい」 「雨戸は酉刻前に締めます。用心のやかましいお店ですから、外から離屋へ出入は出來ません」 「中に居る若旦那が開けてくれたら──」 「そんな事はございません、締りは内からしてありますし、若旦那は二階で殺されて居りました」 「母屋からは?」 「三尺の廊下で續いて居ります。土藏の前を通つて、これはわけもなく行けます」  與母吉の話で、大體の樣子は判りますが、下手人の見當までは、錢形の平次でも付けやうがなかつたのです。 「八、──手前一人で行つて見るがいゝ、望み通り、眼の玉がでんぐり返るやうな話らしいぜ」 「へエ──」  さう言はれて見ると、八五郎も少しばかり不安がないでもありません。 「親分は?」  與母吉は不安らしく平次を顧みました。あまり賢さうに見えないガラツ八に委ねるのが、何としても心配でならなかつたのでせう。 「俺が行つちや、仙太兄哥に惡からう。八五郎で手に負へなくなるまでは顏を出したくない」 「──」  與母吉は押してとも言ひ兼ねた樣子で、ガラツ八と一緒に、安針町の店へ歸つて行きました。 三 「番頭さん、何處へ行つたんだ、俺の言ふことを聽かなきア、繩ア付けて引立てなきアならないが──」  與母吉の顏を見ると、仙太は以ての外の樣子で斯う極め付けました。その後から相模屋の敷居を跨いだガラツ八は、厭も應もなく、それと顏を合せて了つたのです。 「小網町の親分、──これはあつしのせゐだ、勘辨しておくんなさい」 「おや、錢形親分のところの、八五郎兄哥か。大層鼻が良いやうだが──」  仙太は苦り切ります。 「ツイ日本橋に用事があつて來ると、其處で與母吉さんに逢つてネ、──なアに、前から少しばかり知つて居るんだ、──大層顏色が惡いから、何うしたのかと訊くと、斯う〳〵──」  八五郎もなか〳〵うまい事を言ふやうになりました。 「うまく言ふぜ──まアいゝ。どうせ錢形の兄哥にも來て貰はうかと思つて居るところだ。差し當り一の子分の八五郎兄哥の見込を聽かして貰はうぢやないか、近頃は大した評判だぜ」  仙太は日本橋界隈を繩張にして居りますが、向う息の荒い割には氣の良い男で、平次の腕には、及びも付かぬことをよく知つて居たのです。 「それほどでもないが」  ガラツ八は長い頤を撫でます。  店には二三人の番頭が居りますが、それは昨夜の事件とは關係のない者ばかり、宵の行先は仙太の手で調べて、一人殘らず解つて居りますが、さすがに恐ろしい事件の壓迫感で、青白く緊張した顏を見合せて、言葉少なに慎しんで居ります。 「飛んだ事でしたね、旦那」  奧で火鉢に頤を埋めるやうに、深々と思案に暮れて居るのは、主人の勘兵衞でした。まだ五十五六の働き者ですが、親一人子一人の伜を喪つて、さすがにがつかりして居ります。 「有難う御座います、──御苦勞樣で──」 「下手人の心當りはありませんか」 「それがあれば宜しいでせうが──何分私は二た刻もお客の相手をして居ましたんで──」  ガラツ八の恐ろしい愚問に舌を卷き乍らも、商人らしく、勘兵衞は素直に相槌を打ちます。  小僧の寅松は庭を掃いて居りましたが、これはやつと十二、人を殺す年でも柄でもありません。 「あれがお清さんとか言ふ?」  お勝手から出て來た若くて美しい女を、薄暗がりの中にガラツ八は指しました。 「いえ、お濱と言つて、行儀見習に下田の取引先から來て居る娘ですよ」  勘兵衞は訂正してくれます。さう言へば、美しさも、身扮の整つて居るにも拘らず、眉も齒も、娘姿に間違ひはありません。 「下田から──? 何時頃から來て居なさるんで」 「半歳ほど前でした、──十九の厄で、年を越さないうちは嫁にもやれないから、暫らく江戸の水を呑ましてくれといふ親元の頼みでしてな」  勘兵衞はさう説明して居るうちに、お濱は自分の噂に追はれて身を細らせ乍ら、奧の方へ消えます。さう言へば、心持野暮つたいところはありますが、如何にも健康さうで、ハチ切れさうな美しい娘です。 「あれは間違ひもなくお熊さんでせう」  お勝手に居る四十恰好のお熊さん──耳の少し遠いのをガラツ八はのぞくやうにしました。 「もう十年も奉公して居ります、家の者も同樣の女で──」 「お熊さん、昨夜離屋の二階へ行つた人は誰と誰だい」  ガラツ八は尤もらしく訊ねました。 「御新造さんと、お濱さんが一度づつ行つたやうですよ。御新造さんは酉刻半頃樣子を見に行つて、若旦那樣が頭痛がすると仰しやるんで、窓を明けて來なすつたとかで、それから半刻ばかり經つて、お濱さんが閉めに行きましたよ」 「二階の窓が開いて居たのか?」 「開いて居たつて曲者の入れる氣遣ひはないぜ、梯子があるなら知らず」  仙太はガラツ八の間拔けさを笑つて居る樣子です。 「梯子を持つて來て掛けたとしたら?」 「二階を見てからそんな事を言つた方がいゝよ。梯子なんか持つて入られる場所ぢやねえ、それに、雨戸はお濱さんが閉めて來たんだ、その時まで若旦那はピンピンして居たんだぜ」  さう言はれると一句もありません。 「お濱さんが──」  ガラツ八はまだ腑に落ちないものがある樣子ですが、 「お濱さんが一應疑はれるわけさ、が、正面から喉笛へ突き立てた出刄が、後ろへ突き拔けるほど深く刺してあるんだぜ、全く恐ろしい力だ。誰が見たつて、女や子供の手際とは思はないよ、──まさか、咽喉笛へ出刄を當てさしてよ、槌で叩かせる者もあるめえ」 「成程ね」  仙太の話を聞くと、お濱には少しの疑ひも掛けて居ません。 「それに、正面からあれだけの事をやつて、返り血を浴びない筈はない、──お濱の着物は殘らず見たが、汚點一つないよ」  最後の止めを刺され乍ら、ガラツ八は離屋に向ひました。納戸の前から、土藏の前を通つて、三尺の廊下の盡きるところに、離屋の二階の登り口が開きます。  上には親類の年寄が二三人と、嫁のお清が、まだ入棺も濟まぬ死骸の前に、濕つぽく坐つて引つ切りなしに線香を上げて居るのでした。 「御骨折で──有難う存じます」  お清はふり返つてガラツ八に挨拶しました。二十歳と言ふにしては少しふけて居りますが、拔群のきりやうで、身體のひ弱さと反對に、氣象はすぐれて居るらしく、此騷ぎの中にも、一番取亂した樣子はありません。 「飛んだ事ですね、──昨夜、一番後で逢つた時は、どんな樣子でした」  とガラツ八。 「寢んで居りましたが、──私が行くと眼を覺して、少し頭痛がするから、窓を明けてくれと申しました」  言葉少なに、窓を指します。  敷居に飛沫いた血潮は、大方拭き取つたやうですが、まだ生々しく殘つて、何となくぞつとさせます。  窓の外は四間ばかりの空地を隔てゝ、乾物を積んで置く納屋の二階に面して居りますが、左右の木戸が狹いのと、空地一杯に商賣用のガラクタで、三間梯子などを持ち込めないのは、たつた一眼でわかります。その上窓の下は切立てたやうな壁で、這ひ上がるたよりもありません。  曲者が窓から入つたのでないことは、お濱の證言がなくとも、あまりに明かです。 「この通りだ、見てくれ、八兄哥」  仙太は線香を一本上げると、片手拜みに近付いて、死體の上の白布を取りました。 「ウ──ム」  ガラツ八が唸つたのも無理はありません。恐怖に歪んだ勘次郎の死顏は、男が好いだけに一きは物凄く、少し左に寄つた頸筋は、細目の出刄に割かれて、凄まじい口を開いて居るのです。 「どうだ、女や子供の力ではあるまい」  仙太はさう言ひ乍らお清の顏を見ました。 「出刄庖丁はどうしたんだ」 「此處にあるよ」 「どれ」  白い晒木綿に包んだのは、何處のお勝手にもあると言ふものではなく、時々は刺身庖丁の代りにもなつたらしい、細作りの出刄で、血に染んで慘憺たる色をして居りますが、よく砥ぎ澄ましたものらしく、紫色にギラギラと光つて居ります。 「どうだい八兄哥、これぢや昨夜戌刻から亥刻(八時から十時)まで此家に居た者で、人の頸へ正面から三寸も出刄を突き立てる力のある者が怪しいといふことになるだらう」 「その通りだ」  仙太とガラツ八は、離屋を引揚げて、土藏の前から、空地へ降りて來ました。 「親旦那は伜を殺すわけはないし、小僧の寅松は十二だ。客は醉つて居たし、一度も席を立たないとすると、何うだ八兄哥、手代の與母吉があやしくなるだらう。あの野郎は嫁のお清が此店へ行儀見習で來て居る時から夢中だつたんだ」  仙太に言はれて見ると、ガラツ八もツイそんな氣になります。 「さうかも知れない──が、序に奉公人達に逢つて見よう」 「初荷の仕事はあつたが、手燭がうるさいから、夜業はしねえ、──昨夜納屋に來たのは、仁助と吉三郎の二人つ切りだ」 「そいつに逢つて見よう」 「足止めをしてあるから、來るがいゝ」  二人は其儘納屋へ入つて行きました。納屋と言つても、乾物の荷物を扱ふ定雇ひの人足が二人三人は泊まれるやうになつて居るので、裏の方には二疊ほどの部屋を取つて、寢道具もひと通りは揃へてあります。 「へエ──、昨夜此處に居たのは、私と、この吉三郎だけで──、朝から飮み續けて、日の暮れる頃はもう高鼾でした、何にも存じませんよ」  信州者だといふ仁助は三十二三、如何にも酒好きらしい、一と癖も二た癖もある赭ら顏の男です。 「二人共外へは出ないんだね」 「亥刻過ぎに、御新造さんの聲で眼を覺しました、──何しろ大變な騷ぎで──」  吉三郎は少しおろ〳〵して居ります。相模者だといふ、これは二十三四の平凡な男です。  仙太とガラツ八は二人に案内さして、乾物臭い納屋の二階に登りましたが、勘次郎の殺された部屋とは四間餘り隔てゝ、此處からは鐵砲でなければ、人一人を殺せる道理はありません。 四 「親分、こんな事だ、──まるで見當が付かねえ」  ガラツ八の八五郎は、それから半刻も經たないうちに歸つて來ました。 「一人で捌いて、世間をアツと言はせる筈だつたぢやないか、遠慮することはないよ」  平次は意地惡く動かうともしません。 「そんな事を言はずに、ちよいと行つてやつて下さいよ、──仙太兄哥は、與母吉を縛つて了ひましたよ」 「俺が行つたところで、それより解る道理はない、誰か下手人を庇つて居るんだ」 「へエ──、そんな事がどうして解るんで」 「テニヲハの合はない殺しがあつたら、さう思へ。與母吉でなきア、女三人のうち、誰かゞ下手人を知つて居るに違げえねえ」 「だから行つて見て下さいな」 「厄介な野郎だ、そんな事ぢや、何時まで經つても、一人立ちは出來ないぜ」 「へエ──」  叱られ乍らもガラツ八は、いそ〳〵と先に立ちました。  相模屋へ着いたのはもう夕刻、大きな門松を潜つて入ると、中は御通夜の支度で、勘次郎の死體を階下に移し、晝來た時とは打つて變つて賑やかになつて居ります。 「親分、旦那に逢ひますか」 「いや、納屋と外廻りを先に見よう」  平次は店口から直ぐ裏へ廻つて、勘次郎の殺された部屋の下へ立つて見ましたが、ガラツ八が説明した通り、此處からは梯子がなければ二階へ入る方法はなく、梯子があつたところで、狹い木戸や土藏の間を、人に知られずに持ち込む工夫はありません。 「お」 「親分、血ぢやありませんか」 「さうだよ、だから明るいうちに外廻りを見ようと言つたんだ」  窓の下に置いた乾物の俵の端つこに、ほんの二三點、飛沫いたやうに黒くなつて居るのは、馴れた者の眼から見れば、紛れもなく血の跡です。 「此店ぢや生物は扱はないだらうな」 「そりや親分」  言ふだけ野暮で、相模屋は聞えた乾物問屋ですから、血の滴るやうな魚を扱ふ道理はありません。 「その邊を丁寧に探して見な、何かあるかも知れない」  平次に言はれると、八五郎は馴れた獵犬のやうに、眼の及ぶ限りを搜し廻りましたが、それつきり、あとは何んの變つたものもなかつたのです。  納屋へ入ると、仁助と吉三郎は足止めを喰つて、すつかり悄氣返つて居ります。 「正月の三日ですよ、親分、足止めは殺生ぢやありませんか」  さう言ふ吉三郎が、若くて遊び好きさうに見えるのも不憫です。 「まア、長い事はない、辛抱するがいゝ、ところで二階へ行つて見るが、二人共一緒に來て貰はうか」 「へエ──」  平次はガラツ八と仁助と吉三郎を從へて、ガタピシする梯子を踏んで二階へ登りました。 「成程、此處からは手が屆かない」  窓を開くと、勘次郎の殺された部屋までは四間あまり、此處から向うへ屆くやうな踏板もなく、先づ綱でも張つて、輕業の太夫でも伴れて來なければ、向うへ渡る見込みはありません。 「親分、母屋へ行きませう」  ガラツ八は、平次の落着拂つた樣子が不思議でならなかつたのです。 「まア急くな、──ところで、二人のうち綱渡りの出來るのはないだらうな」 「冗談で、親分」 「冗談ぢやないよ、綱を張つて渡る工夫が出來れば、向うの窓へ樂に行ける」  平次は日本一の眞顏でした。 「あつしは獵師の眞似をしたこともありますから、鐵砲なら撃てますが、綱渡りなんて藝はありません、──吉三郎は魚取りの方で、相模灣で波の上は渡つたでせうが、これも綱を渡つた話は聞きませんよ」  仁助は少し向つ腹を立てた樣子です。 「獸や魚を相手に暮したら、刄物を抛ることもあるだらうな」 「そりやありますとも」 「手鎗とか、銛とかを──」  平次の調子は滑かです。 「出刄庖丁は抛りませんよ」  仁助は恐ろしくきかん氣です。 「猪や鮪へ出刄庖丁を抛つた話は聞かないな、ハツハツハツ」  平次はカラカラと笑ひました。 「手槍がありや抛つてお目にかけますぜ、猪や熊だつて一と突きだ、人間なんざ甘めえもんで」  仁助がヌケヌケとそんな事を言ふと、 「兄哥、餘計なことは言はない方がいゝぜ、俺だつて、銛なら抛るが」  吉三郎はニヤリニヤリして居ります。 五  家へ入つて、ガラツ八がやつたやうに一人々々當つて見ましたが、別に變つた手掛りはありません。  離れの二階へ行くと、もう薄暗くなりましたが、それでも、窓から疊の上へ、まざ〳〵と血の痕が殘つて居ります。 「拭かなきやアよかつたなア」  平次は窓のあたりを覗いて居りましたが、やがて雨戸と障子を閉めて、薄明りの中からすかしてをります。 「八、これに氣が付かなかつたか」 「何です、親分」 「障子にも雨戸にも血が着いてゐない」 「成程」 「窓の下の空地には血飛沫があるだらう」 「──」 「勘次郎が殺された時は、窓が開いて居たんだ」 「それはどう言ふことになるでせう、親分」 「それから、寢て居てやられたんではない、立つて居るところをやられたに違ひない」 「──」  窓に掛つた血から判斷すると、それ位のことは直ぐ判る筈なのに、──ガラツ八は凡そ酢ぱい顏をしました。 「お清さんを呼んで來てくれ、それから、お清さんが濟んだら、お濱を呼ぶんだ」 「へエ──」  ガラツ八は母屋へ行つて、間もなくお清を呼んで來ました。が、その時はもうすつかり暮れて、お互の顏もはつきり判りません。 「灯りを持つて參りませうか」 「いや、二階の灯は御法度だ、──それはいゝが、お清さん、こんな事は訊きにくいが、勘次郎さんに近頃親しい女はなかつたのかね」 「──」 「隱さずに言つて貰ひたいが──」  お清は暫らく躊躇して居りましたが、やがて思ひ定めた樣子で、 「お濱が、──あの」 「そんな事ではないかと思つたよ、──」 「これは内證にして置いて下さいませんか」 「いゝとも。ところで、──昨夜お濱は幾度此處へ來たか、──お前さんは知らない筈はないと思ふが、──」  自分の夫と變な素振のある女の擧動を、お清が見のがす筈はありません。 「一度──戌刻過ぎに來たやうでした」 「長く二階に居た樣子はなかつたらうか」 「え、ほんのちよいとで」 「樣子は」 「落着いては居りましたが、青い顏をして居たやうな氣がします」 「その後で何か粗忽をしなかつたらうか」 「氣丈な娘ですから、尤もちよつと外へ出て風に吹かれたやうでしたが」  人一人を殺せば、茶碗を落すとか、物を轉がすとか、何か一つ位は粗忽をするだらうと思つたのでせう。平次の考へさうな事でした。 「外に氣の付いたことは?」 「何にも御座いません」 「どうも有難う──だん〳〵判つて來るやうな氣がする」  お清が下へ降りて行くと、入れ違ひにお濱が昇つて來ました。  お清の智的な美しさに比べて、健康さうな多血質なお濱は、別種の美しさを持つた娘で、氣の多い勘次郎に附け廻されたのは無理のないことでした。 「お濱さん、大分若旦那と親しかつたさうだが、昨夜、何か混み入つた話をしたのかい」  平次は齒に衣着せずに浴びせかけます。 「いえ、──御新造さんが、そんな事を言ふんでせう」 「お前は、もう少しいろ〳〵の事を知つてる筈だ、──第一、あの庖丁は誰のだ」 「知りませんよ」 「江戸では滅多に見かけない形だが──」 「──」  妙な睨み合ひ、──空氣は次第に硬張るばかりです。 「ね、お濱、──お前は下田の生れだと言つたが、吉三郎を知つて居るかい」 「いえ」 「吉三郎は相模者で、お前は伊豆──海一つ向うだな、──番頭の與母吉は何うだ。ちよいちよいお前を附け廻したと言ふではないか」 「いえ、與母吉さんは御新造さんの方で──」 「仁助は?」 「──」  お濱はそれつ切り口を噤んで了ひました。 「親分、娘は苦手だね」  ガラツ八は、階下へ降りて行くお濱の後姿を見送つて斯んな事を言ひます。 「俺はさう思はないよ、娘は正直だ、口で言はなくたつて、顏色が物を言ふ」 「成程ね、──ところで親分、この窓から帶でも下げて、男を引上げる事がむづかしいでせうか」 「誰が」 「お清さんか、お濱だ」 「それを勘次郎が默つて見て居るのか」 「でも、納屋の二階から庖丁を投げるよりは確かですぜ」 「下らない事を言ふ」  二人はそれつ切り下へ降りて行きました。 六  錢形平次はガラツ八を伴れて、それつ切り引揚げ、二三日は樣子を見る氣で居りました。後は小網町の仙太と、その子分共が詰め切つて、鵜の目鷹の目で見張つて居ります。  小網町の仙太は大童でした。勘次郎が昔關係した女と、その女達を繞る男を、虱潰しに擧げましたが、何分古いことで、本人達が勘次郎の存在を忘れて居るのと、お清が思ひの外確り者で、近頃すつかり堅くなつて居たので、此方面には何の手掛りもなかつたのです。 「親分、妙なことを聞込みましたよ」  ガラツ八がさう言つて來たのはそれから四五日經つてからでした。 「何だ、八」 「吉三郎が十四日に暇を取つて歸るさうですよ」 「十四日とは何う言ふわけだ、出代り季節ぢやあるまい」 「田舍の小正月に間に合せるんですつて」 「それつ切りか」 「それから、嫁のお清さんが、錢形の親分さんに、──妙なものを見付けたから、お目にかけたい──といつて居ましたよ」 「フーム、それは耳寄りだ」  平次はその足で直ぐ相模屋へ行つたことは言ふ迄もありません。 「あら、親分さん、──」  お清はいそ〳〵と藏へ案内すると、 「お濱が妙なものを隱して居るんですよ」  押入を開けて、隅つこの方を指します。 「何だ、箱枕ぢやないか」  取出したのは朱塗の女枕、至つて古いもので、抽斗もなにもありません。横の穴から覗いて見ると、中に一本の紐が── 「あツ」  引出して見ると、血に染んで黒ずんだ眞田紐が、膠が中から引上げたやうに、ベツトリ疊の上へ這ひます。 「これは何に使つた紐だらう」 「前掛の紐ですよ」 「男物のやうだが、──心當りは?」 「──」  お清は言はうか止さうか、餘程迷つて居る樣子です。 「それを言つて貰はなきや、何にもならない。尤も、お熊か寅松に訊けば解ることだが」 「申します、──どうも、與母吉の前掛の紐のやうで」 「何? 與母吉?」  これは平次にも豫想外でした。 「その眞田紐は古い品で、滅多にはありません」 「どうしてお濱が此藏の中へ隱したと解りなすつた?」 「ちよい〳〵覗いて居ますよ」 「フム」  お清の答は簡單ですが、至極明らかです。 「八、お濱を呼んでくれ」 「へエ──」  出て行つた八五郎、暫らくすると疾風のやうにスツ飛んで來ました。 「親分、た、大變、お濱が見えません」 「何? お濱が居ない? 惜しいところで逃げられたか」  それから又一と騷ぎが始まりましたが、用事を言ひ付けられたやうな顏をして、表口から堂々と出て行つたお濱を、仙太の子分もツイ見逃して了つたのです。 七  翌日、寢込んで居る平次は、思ひも寄らぬ客に起されました。 「親分、大變な者が來ましたよ」  ガラツ八は敷居の外から、帆つ立て尻になつて、部屋の中を覗いて居ります。 「何だ、松の内から、借金取でもあるまい」 「そんな氣障なもんぢやありません、お濱が來ましたよ」 「何? 相模屋のお濱が、逃すなツ」  平次は飛起きると、ろくに顏も洗はずに、お濱を案内させました。 「親分さん、飛んだお騷がせしました。若旦那を殺したのは私で御座います」  お濱は一と晩寢なかつたらしい顏を擧げて、斯う言ひ切るのです。 「何を言ふんだ、そんな事を聽くなら、早起をするものか、本當の事を言つてくれ」  平次は相手にもしません。 「これが本當の事ですよ、親分さん、私を縛つて突出して下さい──」 「それぢや訊くが、何だつて若旦那を殺す氣になつたんだ」 「あの晩二階へ上がつて、雨戸を閉めようとすると、私をつかまへて、厭な事を仰しやるんです」 「それだけか」 「──」 「なんだつて大きな聲を出さないんだ」 「御新造さんがいや味を言ひます」 「それなら、まア、お前の言ふ事を本當にしよう。が、刄物は何處から出した、──若旦那が口説くだらうと思つて、出刄庖丁を用意して行つたのか」 「──」 「與母吉の前掛の紐は何處から出したんだ」 「──」 「サアサア、そんなつまらない事を言はずに歸るがいゝ。相模屋では大變心配して居るぜ。唯の奉公人と違つて、下田の親元へ濟まないつて──、一人で歸るのが極りが惡きア、俺が送つてやらう」  平次はガラツ八と一緒に、お濱を相模屋へ送つて行きましたが、何か、新しい暗示を得たものか、もう一度家の中から納屋まで、ガラツ八を手傳はせて、洗ひざらひ探し拔きました。  が、何にもありません。 「八、又見當が違つたぞ」 「何を搜すんで、親分」 「前掛と──もう一つは言はない方がいゝ」 「前掛なら前掛と言へばいゝのに──これでせう、親分」 「あ、それだ〳〵、何處にあつた」 「母屋の押入ですよ」 「お濱の行李の中か」 「親分はどうしてそれを?」 「まさかと思つたよ」  平次はそれつきり、お濱のことを主人の勘兵衞に頼んで歸りました。  與母吉は拷問にまで掛けられて居ると聽きましたが、頑固に口を噤んで白状せず、事件はそれつ切り足踏みをして、正月十五日になつたのです。 八 「今日はどんどだね」(一に左義長、門松や書初めや、いろ〳〵正月の物を燒く儀式) 「今年は火の用心の御布令があつて、江戸の町ではどんど燒が御法度ださうですよ」  ガラツ八は忌々しさうでした。一つでも年中行事の減つて行くのが、江戸つ子には淋しいことだつたのです。 「相模屋の吉三郎が、昨日歸る筈だつたが、何うした」 「仙太が止めたさうです」 「──行つて見よう、少し心當りがあるやうだ」  平次とガラツ八は直ぐ安針町へ。 「おや、大變な煙だが」  裏口から入ると、平次は直ぐ氣が付きます。 「どんどが御法度で、町内で焚火が出來ないと言ふ話で、門松の始末に困つて、風呂場で焚いて居ますよ」  主人の勘兵衞がこんな事を言ひます。 「お店なんか大きな門松を建てるから、こんな時は不自由なわけで」 「へエ──」 「門松は誰が燒いてゐるんです」 「お濱ですよ、女のくせに、妙な事に氣が付いたもんで」 「あツ、それだツ」  平次は何に驚いたか、一足飛に風呂場へ──。 「あ、親分さん」  サツと顏色を變へて立上がるお濱の手から、一と抱の松と竹を奪ひ取りました。 「八、納屋へ行つて吉三郎を縛れ」 「合點」  飛んで行く八五郎を尻目に、平次の片手は女を押へ、片手を働かせて門松の束をほぐしました。  中から選り出したのは、枝のない竹が一本、長さ六尺ほど、尖端は泥に塗れて、黒ずんだ膠のやうに見えるのは、紛れもない血の古くなつたものです。 「これだ〳〵、どうして、こんな見え透いた事に氣が付かなかつたんだらう」 「親分、──吉三郎は逃げて了ひましたよ」  八五郎は此時空手でボンヤリ歸つて來ました。 「薄情な野郎だ、女を捨てゝ行きやがつて──」         ×      ×      ×  お濱は危ふく處刑されるのを、平次の情で助られました。吉三郎はそれつきり行方知れずになりましたが、間もなく平次の手で捕まつて獄門臺に登つたといふことです。お蔭であんなに庇つたお濱も、吉三郎に未練がなくなつたことでせう。 「親分、あつしには薩張わからねえ、あれは一體どうした事で?」  ガラツ八が繪解をせがんだのは、それから大分經つてからでした。 「吉三郎は相模者だと言つたが、實は下田の者さ。お濱に懸想して江戸へ追つかけて來たが、お濱も滿更でなかつたんだらう、何べんも助けようとした位だから」 「勘次郎を殺したのは?」 「あの晩、お濱が、雨戸をしめに二階へ行くと、若旦那の勘次郎が手籠にしようとしたんだ。大きな聲を出すわけにも行かず、揉み合つて居ると、豫て勘次郎を狙つて居た吉三郎が、納屋の二階から見て、荷造に使ふ青竹へ、出刄庖丁を括り付け、投げ銛の呼吸で向うの二階へ抛つたんだ。竹へ庖丁を縛つた前掛は、與母吉が納屋へ忘れて行つたのから、紐だけ取つたのさ」 「そんな事が出來るでせうか、親分」 「三崎や下田には投銛の名人が居るよ、十間も二十間も離れたところから、岩鯛の眼を貫くと言ふ手練だ、──血染の紐が見付かつて、吉三郎の仕業だらうと大方の見當は付いたが、庖丁を括り付けた竹が見付かる迄、縛るわけには行かなかつたよ、──その竹をお濱が門松へ突つ込んだとは氣が付くまい」 「へエ、──前掛がお濱の荷物から出たのは?」 「お清の嫉妬さ、納屋であれを見付けて、お濱の行李へ入れたんだ、惡氣ぢやあるまいが、少し罪が深い」 「お濱はどんな氣で吉三郎を庇つたんでせう」 「自分の爲に人まで害めたからさ。娘心は不思議なものだ、投銛から紐を解いて、竿だけ窓から捨てゝ翌る日門松へ隱し、紐は藏の中へ入れたのさ、──それにしちや、逃出した吉三郎は薄情だ」 「成るほどね」 「尤もなまじつか、未練を殘すより、その方がよからう。──だが、人殺しに門松を使つたのは俺も始めて見たぜ、これは誰だつて驚く」  平次はつく〴〵さう言ふのでした。 底本:「錢形平次捕物全集第九卷 幻の民五郎」同光社磯部書房    1953(昭和28)年7月20日発行 初出:「オール讀物」文藝春秋社    1936(昭和11)年1月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2014年3月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。