錢形平次捕物控 万兩息子 野村胡堂 Guide 扉 本文 目 次 錢形平次捕物控 万兩息子 一 二 三 四 五 六 一 「世の中には變つた野郎があるものですね、親分」  ガラツ八の八五郎は、又何やら變つた噂を持つて來た樣子です。 「大抵の人間は、自分は世間並より變つた人間だと思つて居るよ」  錢形平次は、相變らず、はなつから茶化してかゝります。  結構な冬日向、何が無くとも豆ねぢに出がらしの番茶、お靜は目立たぬやう、そつと滑らせてお勝手に引下がると、晝下がりの陽を膝に這はせて、八五郎の話は面白く彈むのです。 「深川入船町の鍵屋源兵衞──親分も御存じでせうね」 「大層な身上だつてね、生憎親類でも何んでも無いが、明暦の大火でうんと儲けて、江戸一番の材木屋になり、その上苗字帶刀を許されて、日光山の御用も勤めると聽いたが」  錢形平次もそれはよく知つて居ります。後の世の奈良茂、紀文と共に、百萬兩の富を積んだといふ、江戸暴富傳中の一人です。 「その伜が噂の種で、深川中で知らないものはありやしません──廣い江戸にも、あんな息子は二人とはあるまいと──」 「親孝行でもするのか」 「飛んでもない、金持の子に孝行息子なんかあるものですか、何しろ甘やかし放題に育てたのが、年頃になつて遊びを覺えたからたまりませんよ、辰巳藝者を總嘗めにして、此節は吉原まで荒し廻る」 「達者だな、名は何んといふんだ」 「万兩さんで通つてますよ、万兩分限の息子だから万兩息子、はつきりして居まさあ、尤も親のつけた名は、半次郎といふんで、人間が半端だから半次郎、これも理詰めで」 「話はそれつ切りか、金持の馬鹿息子が、馬鹿遊びをしたところで、俺は可笑しくも面白くもないよ」  平次は相變らず氣の乘らない樣子です。 「それが一と通りの女遊びぢや無いんで、係り合つた女といふ女、華魁も新造も、藝子も素人衆まで、一々二の腕に、自分の名を彫らせるといふから、大したものでせう」 「一人の客に名前を彫られちや、商賣人は上つたりだらう」 「そこが、それ金の有難味ですよ。身請をするほど金を積むと、大抵の女は、イヤとは言はないさうですよ、その彫つた後が落着くと、すぐ灸で燒切る」 「熱い商賣だな」 「あの世界には、女に小指を切らせる虐たらしい男だつてあるんだから、刺青なんか優しい心中立かも知れませんね」 「その万兩息子は、さぞ良い男だらうな」 「ウ、フ、お目にかけ度い位、冬瓜を水ぶくれにして、鰶の袷を着せて、オホンとやらかすと、丁度あんな工合」 「手數のかゝつた色男だな」 「眉毛が薄くて、有るか無きかのお團子つ鼻で、二十歳の白雲頭で、青瓢箪で、赤眼で」 「まるで五色息子だ」 「その上五尺八寸といふのつぽで、足袋は十三文半甲高、鼻へ拔ける甘酢つぱい聲、大變な息子ですよ、──尤も力もあつて、腕も出來る」 「そんなのは友達にしたくないな」 「ところが費ひ切れないほど金があるから、何處へ行つても業平朝臣の御通りで御座いだ」 「たまらねえな」 「親分だつてさう思ふでせう、大抵なら見て見ぬ振りで、行儀の惡い野良犬だと思つて居れば濟むことですが、茲に一つ──」 「茲に一つと膝を立て直したね、勘辨ならねえことでもあつたのか」 「ありましたよ、女道樂が嵩じて變な野郎だけでは濟まないことになりましたよ」 「何をやらかしたんだ」 「心中ですよ」 「心中? 万兩息子が心中をしたといふのか?」  平次も膽をつぶしました。心中などといふものは、金持で薄情で、この世の榮華に未練のある人間のすることゝは思はれなかつたのです。 「ところが、やらかしたからお話になるでせう。万兩さんの半次郎が思ふには、女といふ女は、皆んなチヤホヤしてくれるが、どうも心の中は當てにならない。私に惚れてゐるのではなくて、バラ撒く金に惚れて居るとしたら、我慢がならないことだ──と」 「其處まで氣がつけば大したものだ」 「それを試して見るには、心中話を持ちかける外は無い。大變なことを考へたもので、差當り人身御供に上がつたのは、近頃熱くなつて通つて居る、深川の踊り子、辰巳で一番と言はれた、美乃屋のお小夜といふ妓ですよ」 「災難だな」 「こいつは良い女だ。少しピンシヤンするけれど、色白の素顏が自慢で、浮氣つぽいが、何んとも言へない情愛がある、──そのお小夜が、人もあらうに、万兩さんに心中の相談を持ちかけられた」 「斷わつたことだらうな」 「そんな馬鹿なこと、何が不足で死ぬ氣なんか起すんです、と訊くと、万兩さんの言ふことには──實は親の金を費ひ込んで、──などと世間並のわけを話したが、お小夜はまるつ切り本當にしない」 「當り前だ」 「──で本當の事を言ふが、氣に染まぬ嫁を貰へと、親の無理を斷わり兼ねて──と言ふと、その娘を貰ひなさいよ、願つたり叶つたりぢやありませんか、とお小夜はこれも本當にしない」 「で?」 「ところが、お小夜の方にも、軍師がついて居ましたよ、やくざの猪之松といふ男で、──万兩さんの半次郎の心中話は、皆んなお前の心底を試して見る狂言だ。川へ飛込めば下には船が待つて居て救ひあげてくれるし、往來の松の枝に首を吊ればそつと後ろから抱き上げてくれる黒衣が着いて居る。安心して心中の相談を引受けろ、その代り、死んでから後に借金も殘し度くないし、母親に苦勞もさせ度くないから、借金を拂つて母親の老後の小遣に、せめて五百兩は欲しいと言つて見ろ──と斯ういふ智惠をつけた」 「ありさうなことだな」  八五郎の話の馬鹿々々しくはあるが、常識を飛躍した面白さに、平次もツイ〳〵膝をすゝめました。 「さて、五百兩といふ金をせしめると、お小夜はお袋も借金もありやしません、早速万兩さんと心中の仕度をした。淨瑠璃の文句の通り、覺悟の經帷子、首には水晶の珠數をかけて、そのまゝ舞臺に押し出せさうな晴小袖、男の方もそれに劣らず、錢に飽かして死出の晴着だ」 「ト書きは細かいな」 「お約束は兩國か永代だが、それぢや橋から水肌まで高過ぎて危ないからと、飛込む場所は元柳橋と決めた、ところで心中にはお誂への出語りが無くちやと、出入りの太夫に言ひ含めて、藥研堀の埋立地に出張らせ、新内を一とくさり」 「冗談ぢや無いぜ、馬鹿々々しい。此寒空に河へ飛込んだのか」 「大丈夫、それは三月も前のことですよ。まだ寒いほどの時ではなく、その上米澤町のお茶屋に風呂が立つて居て、船へ這ひ上がるとすぐお茶屋に送り込まれ、濡れた裝束を脱いで、一と風呂温まり、賑やかに囃し乍ら改めて女夫の盃といふ寸法になつて居たんで」 「呆れたものだな」 「全く呆れましたよ。新内の合の手で、二人欄干の前に押し並び、南無阿彌陀佛か何んかで、ドボンと威勢よく飛込んだが──」 「まだ話があるのか」 「話はこれからが面白くなるんで、橋の下に船を入れて待ち構へた船頭が、すぐ万兩息子の半次郎を引あげましたが、どうしたことか、肝腎の心中相手のお小夜が見付からない」 「──」 「船の中にはこの心中狂言の作者猪之松と、船頭の爲五郎、救ひあげられた若旦那の半次郎の三人だけ、埋立地の出語りは、何んの役にも立たず、提灯が一つでは眞黒な水の中に落ちた、男と女を救ふ手が廻らなかつたのも無理はありません。大變な騷ぎになりました。その騷ぎに驚いて驅けつけた近所の人達も、灯が無くてはどうすることも出來ず、船頭の爲五郎が水の中に飛び込んで、船の下に吸ひ込まれて、船底に張りつくやうになつて居た女を救ひ上げたときは、宜い加減時が經つたので、可哀想にお小夜は綺麗な人形のやうになつて、死んでゐたといふのです」 「藝子が一人、元柳橋から身投げをして死んだと聽いたやうに思ふが、それはその心中の片割れだつたのか」  三月前、秋の初めの頃の話、平次も漸くその事件を思ひ出しました。 「これが表沙汰になれば、万兩息子の半次郎は、相對死の片割れで、日本橋の袂に三日晒された上、非人頭の手に引取られ、人別を拔かれることになります」 「──」  それは江戸の法規で、心中の流行に手を燒いた幕府は、心中崩れの男女に、念入りの醜體をさらさせることを考へたのです。 「ところが、鍵屋の伜半次郎が、日本橋に曝し物になつたとも、非人にされたとも聽かなかつたでせう──皆んな金ですよ、鍵屋の主人源兵衞が、千兩箱を持出して、思ふ存分の金をバラ撒き、お小夜が一人水死したといふことで市が榮えましたよ」 「それが本當なら隨分氣の毒なことだな。ところで、話はそれつ切りか」 「癪にさはるがそれつ切りですよ、尤も、お小夜が万兩さんから貰つた筈の五百兩は、それつ切り見當らず、本當に貰つたか貰はなかつたか、それとも、人に盜られたか、今では見當もつきません。五百兩は大金だが、死んだお小夜が六道錢の代りにあの世へ持つていつたかも知れませんね」 「馬鹿なことを」  八五郎の話に、平次は苦笑ひしましたが、事件はこれでは濟まなかつたのです。 二  心中崩れの詮索は、平次も諦らめる外は無かつたのです。鍵屋の黄金が急所々々にバラ撒かれた上、死んだ者に口が無く、五百兩の行方さへ、突き留める方法はありません。  それから幾日か經ちました。薄寒い日が續いた揚句、妙に生暖かい日が續いて、此まゝ春になるのではあるまいかと思ふやうなある朝、地震か、世直しか、それとも、 「親分、大變ツ」  と、八五郎の大變が飛込んで來る陽氣だつたのです。 「何んだ八、相變らずそゝつかしいぜ。いきなりドブ板を二枚跳ね返し、野良犬を蹴飛ばして格子を外すのは大した藝當だ」 「それどころぢやありませんよ。又良い女の子が死んでしまつたんで」 「良い女の子が死ぬ度毎に驚かされた日にや、壽命の毒だよ」 「良い女の子にもよるんで、こいつは親分だつて驚きますぜ」 「誰だい」 「永代寺門前山本町の美乃家のお吉──さう言つた丈けぢや、辰巳にも岡場所にも縁の無ささうな親分は御存じないでせうが、近頃深川一番の美人で、三月前に死んだ、万兩息子の心中の相手、お小夜の妹分と聽いたら、何んか斯う、唯事でないやうな氣がするでせう」 「大層な能書きだな、四六のガマだつて、そんなに長い口上ぢや無かつた筈だ」 「からかつちやいけません、──昨夜八丁堀の組屋敷に泊つて、笹野の旦那のところで、少しばかりお調べの手傳ひをしてゐると、今朝、まだ薄暗いうちに、蛤町の久七親分がやつて來て、昨夜鍵屋の若旦那の圍つてゐる女が變死したと言ふぢやありませんか。押し返して訊くと、その女といふのは、心中崩れのお小夜の妹分で、姉より綺麗だと言はれた、美乃屋のお吉とわかつて、兎も角も、永代を渡つて、深川まで行つて見ましたよ」 「?」 「お吉は十九になつたばかり、本當にポチヤポチヤした可愛らしい娘でしたよ、踊り子には違ひありませんが、あんなうぶで綺麗な娘は、滅多にあるわけはありません。それが綿に包んだ姉樣人形のやうに、自分の床の上でそつと死んで居るんです。口を少し開いて、眞珠のやうな前齒が見えて、頬が生きてるものゝやうに、ポーと赤味が差して、眼を半眼に開いて、額が青白くて、──あんまり綺麗だから、そつと頬にさはつて見ると、氷のやうに冷たくなつて居るんで、膽をつぶしましたよ」 「で、身體に傷も何んにも無いのか」 「毛程の傷もありません。胸を開けて見ましたが、斑も何んにも無く、口の中にも怪しいところが無いから、夜中に頓死でもしたとしか思へませんが、十九や二十歳の、あんなに丈夫で綺麗な娘が、夜中にコロリと頓死して宜いものでせうか、親分」 「俺へ喰つてかゝつても仕樣があるまい」 「だから、ちよいと行つて見てやつて下さいよ。万兩息子の半次郎もさう言ふのです、錢形の親分にでも調べて貰つて、人手にかゝつて殺されたものなら敵を討つてやり度いし、頓死とわかつたら?」 「頓死なら諦らめるか」 「飛んでも無い、あんな娘の命を召上げた、閻魔大王を取つ締めて──」  斯う言つた八五郎です。  万兩息子の妾が、二人續けて死ぬ、──それも綺麗な姉妹であつたと聽くと、平次も捨て置き難い氣持になりました。何んか、金にあかして美人を漁るといふ、半次郎に仇をするものか、又は姉と妹に、含むものがあるかも知れず、そのまゝに放つて置く氣がしなかつたのです。 三  平次と八五郎は直ぐさま、深川入船町に向ひました。昨夜の生暖かさが後を引いて、櫻もほころびさうな日和です。  鍵屋といふのは、一代に暴富を積んだ材木屋で、江戸の建築の半分は引受けて居ると言はれ、その金に物を言はせる横暴振りも、上を怖れぬ凄まじいものがありました。主人源兵衞は商略にかけては、油斷も隙もない人間でしたが、たつた一人の伜半次郎に取つては、蜜よりも甘い父親で、女房のお紋と共に、親馬鹿の見本のやうな存在でした。  母屋は入船町の一角を占めて、間口十何間の繁昌、使つて居る番頭小僧、日雇、人足も夥しいことですが、裏には三棟の土藏があり、その土藏の間に、さゝやかな離屋が挾まれ、その離屋の中に、半次郎の妻お吉が棲んで居るのでした。  平次と八五郎が鍵屋の店口を避けて、お勝手口から入つて行くと、下女の取次に驚いて、主人の源兵衞が頭を出しました。 「錢形の親分ださうで、いやもう、飛んだ人騷がせをして濟みません、お吉と申す奉公人が、病死した位のことで」  と、揉手をし乍ら恐縮して居るのです。 「ちよいと現場を見せて頂きます、若旦那の半次郎さんも、それが望みだ相で」 「それはもう、親分方に見て戴いて、どうして斯んなことになつたか、後々のためにも、はつきりして置くに越したことは御座いません、これよ、九八郎どん、親分方を離屋へ御案内申すがよい」  源兵衞の聲に應じて、 「へエ、へエ、どうぞ此方へ」  と飛んで來たのは、主人と同年輩の五十五六、主人の源兵衞が、運動不足で、肥り過ぎた身體と、大町人らしい鷹揚さを持つて居るのと反對に、痩せて、皺だらけで、蒼黒くて、老狐のやうな感じのする男でした。  お勝手口を離れて、土藏の間を縫ひ乍ら、 「そのお吉とやらを、どうして家へ入れなかつたので?」  と平次が聽くと、 「へエ、お吉さんは踊り子で、金がかゝつて居るにしても、奉公人でございます。家へ入れると、嫁見たいになりますから、これから先、若旦那の縁談にも差支へます」 「すると、お吉といふものがあつても、若旦那は別に嫁を貰ふ氣だつたのか」 「そんな事になりませう、現に隣町の和泉屋さんのお孃さん、お照さんと言ふ方と、春になれば祝言することになつて居ります」 「フン、そんな事があつたのか」  平次も妙な氣持になりました。『妾手掛は男の働き』と言はれた時代でも、親がかりの若い男が嫁を貰ふ前から、妾を抱へて置くといふのは、一寸想像も出來ない途方もなさだつたのです。 「それにしても、母屋から遠過ぎるやうだが」  八五郎はそれが不思議でならないやうでした。 「御尤もですが、元御隱居樣が住んで居られた離屋を、その儘使つたのと、若旦那樣が、これがお好きだ相で」  番頭九八郎の皺の中に落窪んだ口邊には、ほのかな冷笑が浮ぶのを、平次は見のがしませんでした。  離屋は六疊と四疊半とそれにお勝手のついたさゝやかなものですが、材木屋の鍵屋の造らせたものだけに、それはなか〳〵數寄を凝らしたものでした。鍵屋全部の敷地にめぐらした板塀の中に圍まれて、少しの不要心さも無いばかりでなく、土藏の間の日向を受けて、これは飛んだ住心地が良ささうでもあります。 「錢形の親分、飛んだ御苦勞で」  迎へてくれたのは、八五郎とはもう、朝のうちに一度逢つて居る、若旦那の半次郎──謂ふところの万兩さんでした。八五郎が形容したやうに、冬瓜にどうとかした樣な、非凡の醜男でもあります。  甘やかされ、おだてられて育つた一種の鷹揚さはありますが、小才がきいて、諸藝に一と通りは通じて、人を人とも思はない始末の惡さがあり、決して感じの良い男ではありません。フト氣がつくと、兩手に引つ掻きでも拵へて居るらしく、二三ヶ所に膏藥を貼つて居ります。  案内されて六疊に入ると、お吉の死骸は、床の上にそのまゝ、美しく冷たく横たはり、葬ひの事を訊くと、 「奉公人のことだから、いくら金のかゝつた身體でも、身内のものに引取らせる外はありません」  万兩さんの半次郎は、はつきりしたことを言ふのです。寵愛度を越しては居ても、死んで仕舞つては、葬式をしてやる氣も無かつたのでせう。それにしても、この美女を手活けにするためには、平次や八五郎には、想像もつかぬ大きな散財をしたことでせう。  平次は一應お吉の死骸を見せてもらひました、出入りの本道(内科醫)も、間違ひもなく頓死ときめた死骸から、平次は何を發見する自信もないのですが、それでも、續いて姉妹の美女の死は、唯事でないやうな氣がしてならなかつたのです。  打見たところ、死顏には殆んど苦惱の痕も無く、清潔で綺麗で、僅かに、ハツと驚いた小娘のやうな無邪氣な表情があるだけ、頬のあたりに、生々した血色さへ殘つて居るのが、不自然な美しさでもあります。  十九になつたばかり、お小夜の妹と言つても肉身でなく、恐らく親らしい親も無かつたでせう。生きて居るうちの華やかさに比べて、踊り子の死は、哀れ深いものさへありました。一と通り調べが終ると、 「飛んだお邪魔を」  と平次は外へ出ましたが、フト小戻りして、 「若旦那、ちよいとお伺ひしますが、死んだお吉は、此離屋に一人で住んでゐても、怖がるやうなことは無かつたのですか」  と妙なことを訊くのです。 「そんなことはありませんよ。板塀にはあの通り忍び返しが打つてあるし、土藏と土藏の間で、何處からも來る道がありません」 「──」 「それに、晝は多勢の奉公人も居ることだし、一つ手を拍てば、掛りの小女が飛んで參ります。夜は、私が來るだけで、尤も、この二た晩ばかりは、風邪の氣味で、私も此離屋へは參りませんでしたが」 「──」 「親分には御存じの無いことでせうが、戀の通ひ路は、遠く淋しいほど面白いもので、ヒ、ヒ、ヒ」  お吉の死骸を前にして、ヒ、ヒ、ヒと笑ふ万兩さんです。  八五郎はそれを聽くと、プイと外へ飛出しました。この万兩息子の頬桁を、思ひ切り毆つてやり度い心持で一パイだつたでせう。 四  平次は蛤町の久七の家に一と休みして、その間八五郎にいろ〳〵の噂を聽き出させ、平次自身も、土地つ子の久七から、鍵屋とその伜をめぐる、數々の話を引出しました。 「あの萬兩息子の半次郎は、芝居氣で一パイさ。本人は一とかどの濡事師の積りだから手に了へないよ。掛り合つた女の子に、門並み刺青をさせたり、心中ごつこをやつて見たり、近頃は綺麗な妾を庭先に圍つて、忍ぶ戀路と來やがる、──自分の部屋の窓から脱出して、離屋の窓から這上るんだつてね、誰も見て居る者が無いのに、頬冠りなんかして」  中年者の久七は、いかにも苦々しさうですが、それも露骨に非難すると、貧乏人のひがみらしく聞えるので、日頃は見て見ぬ振りをたしなみと心得て居たのでせう。 「そのお吉に、親しい男でも無かつたのか」 「十九であのきりやうで、踊り子だもの、親しい男が無かつたら片輪だらう。それも遠くにでも居ることか、あの鍵屋の手代で、伊與之助といふ若い男、──夫婦約束までした踊り子のお吉を主人の伜に攫はれて、蔭で泣いて居るといふ噂だよ」 「その伊與之助とかに、逢つて見たいが」 「宜いとも、わけも無いことだよ。今頃は材木置場の方に居る筈だ、人をやつて見よう」  久七はすぐ子分の一人を走らせました。間もなくその子分が、厚い帳面を持つて、耳に筆を挾んで、氣ぜはしさうにして居る、若い男を一人つれて來ました。 「私に御用だ相で」  小腰を屈めるのを見ると、二十四五の、これは本當に良い男振りでした。外に居ることが多いせゐか、色は黒い方、眼鼻立がくつきりして、筆を噛む癖があるらしく、唇に一寸墨のついて居るのも、妙に愛嬌になるのです。 「仕事のあるのを、呼出して濟まねえが、錢形の親分が、少し訊き度いことがあると言ふのだよ」  久七は取なし顏に平次を引合せるのです。 「へエ、へエ、どんな事で」 「お前は、大層お吉と親しかつた相ぢやないか」  平次はズバリとやりました。 「飛んでもない、親分さん。あの方は私の主人の思ひもので、私など、──尤もお吉さんが踊り子だつたころ、二三度逢つたことはありますが、近頃はもう」  伊與之助はひどく恐れ入るのです。 「まア宜い、戀仲のせんさくをするわけぢや無い。死んだお吉のために、お前の知つてるだけを、皆んな話して貰ひ度いのだ。隱し立てなんかすると、お吉は可哀さうに浮ばれまいぜ」 「すると、親分」  伊與之助は少し屹となりました。屹となると、この若い男は、なか〳〵良いところがあります。 「お吉が死んだのはどうといふわけぢやないが、お吉は不斷なんか心配して居たことは無かつたのか」 「さア、こんな暮しを、ひどく嫌がつては居りましたが──」  伊與之助は、たまり兼ねたやうに斯う言ふのです。たつた一人、土藏の間の離屋に圍はれた美しい囚人に、惱みが無かつたとすれば、それこそ、どうかして居るわけです。 「それはどういふわけだ」 「さア、よくはわかりませんが、若旦那の可愛がりやうは、有難いけれど、──といふやうなことで」  伊與之助は明らさまには申しませんが、あの怪奇な万兩さんの愛撫に、お吉は少なからず參つて居たことは想像されます。 「昨夜、お前は何處に居たんだ」 「店二階に休んで居りました、朋輩等二三人一緒に」 「若旦那は?」 「お風邪の氣味だとかで、奧のお部屋に宵から籠つて居たやうで」  これが伊與之助から引出した全部で、これより突つ込んで訊くと、口を緘んでしまひます。伊與之助を歸すと、入れ代りに八五郎が戻つて來ました。 「親分、あまり良い聽き込みはありませんよ」 「でも、少しはあるだらう」 「鍵屋の伜に娘をやるといふ、和泉屋平左衞門の店を覗きましたが、隣町の小さい材木屋で、日頃世話になつて居るから、望まれて一人娘のお照をやると言つた、通り一ぺんのことだけですよ。鍵屋の伜が、少々身持が惡かつたところで、屋敷内に妾を飼つて置いたところで、和泉屋にして見れば百萬兩といふ分限に娘をやるのが、家の譽れで娘の出世のやうに思ひ込んでゐる樣だから、コチとらとは、物の考へやうが違つて居ますね」 「それで?」 「平左衞門に逢つたところで、そんな事ぢや仕樣が無いから、裏へ廻つて下女を拜んで、そつと娘のお照を呼出して貰ひました」 「そいつは大手柄だ」 「百萬兩の嫁に望まれただけあつて、良い娘でしたよ。お品がよくて、優しさうで、あつしなら、百萬兩とあの娘と、何方を取ると言はれたら」 「安心しろ、誰もそんな事を言やしないから」 「物の譬ですよ、──全く大した娘で、娘は、何んにも言ひませんが、腹の中ぢや泣いて居ますね、可哀想に」 「それつ切りか」 「何を訊いても、涙ぐんで居て、おしまひには、クルリと後を向いて、家の中へ飛込んでしまひました、──それから」 「まだ話があるのか」 「心中崩れで死んだお小夜のことも、序に聽き出して來ましたが」 「そいつはよく氣が付いた、どんな事があつたんだ」 「山本町のお小夜の家へ行つて、元の朋輩にいろ〳〵訊きましたよ。お小夜には、良い男があつたんですつてね」 「フーム」 「門前町の呉服屋、巴屋の伜で重三郎、勘當されて出入りの職人の家に厄介になつて居るが、こいつは鍵屋の伊與之助を草書で書いたやうな良い男で、その男と一緒になり度いが、お定まりの金が無い、嫌々ながら、お小夜は万兩さんの半次郎の無理を聽き、五百兩の褒美を手に入れて、二人は世帶を持つ約束だつたといふから、可哀想ぢやありませんか」 「で?」 「お小夜は死んでしまつて、五百兩の金もウヤムヤになり、重三郎は出入りの職人のところにも、何時までも厄介になつて居るわけにも行かず、地紙賣りも季節外れだし、先から先と、知合や友達を便つて、野良犬のやうな暮しをして居るといふことで」  これは八五郎の持つて來た話の全部でした。 「どうも腑に落ちないことばかりだ、此上とも念入りに見張つて居てくれ」 「何を見張るんです、親分」 「重三郎と伊與之助と、お小夜が死んだ時側に居た、やくざの猪之松と、船頭の爲五郎と、それから、お小夜の死んだ晩、埋立地で淨瑠璃を語つた二人の男、──そんな者の中に、近頃ひどく金づかひの荒い奴は無いか」 「成程ね」 「お小夜と半次郎は泳ぎを知らなかつたか」 「それならわかつて居る、お小夜は深川育ちで、海も川も近いから子供の時は河童のやうによく泳いだし、半次郎は材木屋の若旦那で、たまには筏にも材木にも乘るから、泳ぎはうまい筈だ」  蛤町の久七は言ふのです。 「成るほど、泳ぎの心得が無くちや、心中ごつこは冗談でも、橋から川へは飛込めまい」  錢形平次も思ひ當るのでした。 五  それから三日も經たぬうちに、万兩息子の半次郎が、殺されかけたといふ、思ひも寄らぬ騷ぎになりました。  八五郎が聽いて來たところでは、万兩息子の半次郎が歩いてゐるところへ、屋根の上からいきなり石が降つて來たとか、材木置場の塀に投り込まれたとか、いろ〳〵の事があつた末、相も變らぬ夜遊びの歸り、入船町の入口で、暗がりから襲はれて脇腹を刺され、厚着のお蔭で、傷は引つ掻きほどであつたが、曲者は幸ひ、少しは武藝の心得もあつた半次郎に取つて押へられ、蛤町の久七が番屋で調べ中といふ話です。 「その曲者は誰だ、巴屋の重三郎か、それとも」 「その重三郎なんで。重三郎は島田町の和泉屋を覗いて見る氣で來たので、何んにも知らないと言ひ張る相ですよ、──和泉屋のお照は鍵屋の嫁にといふ話のあつた前は、巴屋の重三郎の許婚だつたといひますよ」 「そいつは久七親分の見込違ひかも知れない、暫らく樣子を見るが宜い、餘計なちよつ介を出さずに」 「へエ」  平次は一應注意して置きましたが、その翌る日、妙な訪問者に平次も驚かされました。 「あの、錢形の親分さんにお願ひがありますが」  と言つて來たのは、四十前後の分別者らしい女と、十七か八の、眼のさめるやうな娘でした。 「どなたでせう」  お靜が訊くと、 「深川の島田町の和泉屋のものでございますが」  兎も角も招じ入れて、平次が逢つて見ると、それは鍵屋の嫁になる筈の和泉屋の娘お照と、その叔母のお今だつたのです。八五郎が居さへすれば、名乘らせるまでもなく、よくわかつて居たことでせう。 「どんな御用で?」  と訊くと、和泉屋の主人の妹といふお今は、 「巴屋の若旦那の重三郎さんが、久七親分に縛られて行きました。あの優しい若旦那が、腕自慢で智慧自慢で、深川中のやくざ者でさへ、道をよけて通るといふ、鍵屋の若旦那を殺す氣になる筈もございません。あの時巴屋の若旦那は、姪のお照に逢ひ度さに、島田町から入船町あたりを、ウロウロして居たことでせう、どうぞ、重三郎さんをお助け下さい」  お今が辯じ立てるのを、お照は後ろに引添ふやうに、袖の下からそつと、可愛らしい兩掌を合せるのです。  詳しく訊くと、巴屋の若旦那重三郎は、和泉屋の娘お照と許婚の間柄であつたのを、和泉屋の主人、即ちお今の兄で、お照の父親の平左衞門が、金に困つて鍵屋の世話になり、それから義理に絡まれて、望まれるまゝに、娘のお照を半次郎の嫁にすることを承知したといふのです。  許婚のお照を、万兩さんの半次郎に奪られさうになつて、重三郎が惡遊びを始めたのは無理のないことでした。その相手が踊り子のお小夜だつたのは、万兩息子の半次郎に對する、復讐の積りだつた事もまた肯づかれます。  併し、道樂が過ぎて重三郎は勘當になり、お小夜は五百兩の餌に釣られて水死してしまひました。重三郎は今更の後悔も及ばず、そつと和泉屋のお照、──曾ての許婚の顏を見る氣で、深川へやつて來たところを、いきなり鍵屋の半次郎に取つて押へられ、久七に縛られたに違ひないと、叔母のお今は言ふのです。現に重三郎は、此間から幾度も島田町のあたりをうろ付いて、世間の人の眼にも留つて居るといふのも、決して拵へ事とは思へません。  お今とお照が歸つて間もなく、元柳橋から永代へかけて、猪之松と爲五郎の評判を聽き出しに行つた八五郎が、 「親分、いろんなことを聽きましたよ」  白痴が鯉でも釣つたやうな勢で飛んで來ました。 「金費ひの荒くなつた奴は誰だ」  平次は先をくゞりました。 「猪之松も爲五郎も、近頃は大盡のやうな顏をして居ますよ」 「何時の頃からだ」 「猪之松は三月も前からだが、爲五郎はツイ此間からだ相で、飮む、打つ、買ふの三道樂で、金山を掘り當てたやうな景氣で」 「賭事の好きなものは、金を持つちや居られないものらしい。船頭の爲五郎もそれに誘はれて遣ひ始めたことだらう、それから、新内の太夫は?」 「あの二人は、相變らず貧乏臭くて、變つたところも無いやうで、それから、親分、變なことを聽きましたが」 「何んだえ?」 「元柳橋で、船の底にヒツ付いて死んだお小夜の死骸を、船頭の爲五郎が引揚げたとき、お小夜の身體も着物も、大變な引つ掻きだつた相ですが、その時立會つた町役人が言ふんだから、嘘ぢやないでせう」 「だん〳〵わかつて來るやうだ、猪之松に逢つて見たいが、何處に居るだらう」 「濱町の賭場にもぐつてるやうで」 「つれて來てくれ、少しは脅かしても構はないから、俺は淺草橋の番屋で待つて居る」 「へエ」  八五郎は飛んで行きました。 六 「野郎ツ、眞つ直ぐに白状しろ、ネタは皆んな擧がつてるぞ」  錢形平次は、いつもに無く高飛車でした。繩こそ打ちませんが、やくざ者の猪之松は、番屋の土間に引据ゑられて、すつかり顫へあがつて居ります。 「何を白状するんで? あつしはまるつ切り見當もつきませんが」 「馬鹿ツ、そんなことで誤魔化せると思ふか、此間からお前の費つた金は、五十兩や百兩ぢや無え。その金を何處から出した、博奕で儲けたなんて嘘を吐いても通らないぞ、お前は博奕が空つ下手で、勝負事で儲けた例の無い人間だ」 「それは、親分」 「まだ言はない氣か、よし、お小夜殺しの下手人で、擧げちまつても怨んぢやならねえよ」 「言ひますよ、親分、言や宜いんやせう。金はお小夜をつれ出したお禮に、鍵屋の若旦那から貰ひました。あつしはたつた二百兩で、爲五郎は三百兩」  猪之松は、それが少し不平だつた樣子で、案外ペラ〳〵としやべつてしまひました。 「爲五郎は何をやらかして三百兩貰つたんだ。川から這ひ上がつたお小夜を、又水へ突き落しでもしたんだらう」 「そんなことをするわけはありません。船には灯があつてあつしもよく見て居たんですもの。一ぺん水の上へブクブクと浮き上がつたお小夜が、船の底の方へ、引込まれるやうにもぐると、それつ切り水の上へは出なかつたんで、暫らく經つてから爲五郎が、川へ飛込んで、船の底の方から、お小夜の死骸を引出しましたが」  猪之松の言ふことはなか〳〵よく筋が通つて居ります。なほも追及すると、心中を企てたのは若旦那の半次郎で、猪之松はお小夜を口説き落して誘ひ出す役目を引受け、爲五郎は船を出してお小夜と若旦那を救ふ役目、そしてこの心中ごつこを首尾よく果した上は、五百兩の褒美が出る筈で、その金はお小夜にやる筈のを融通したものかどうか、其處までは判らない樣子です。 「その時使つた船はまだあるだらうな」 「元柳橋のところに、繋いである筈です。爲五郎が釣船に使つて居ましたが、近頃金が入つて、稼業も投つたらかしのやうですから」 「それぢや案内しろ、一寸船を見たい」  平次と八五郎は、猪之松に案内させて、元柳橋まで行つて見ました。 「あの船ですよ、親分」  爲五郎の船は、水垢だらけになつて、橋の側に繋ぎ捨てゝありましたが、平次は何を考へたか、五六人の人足を雇ひ、自分や八五郎も手をかして、船を岸に引あげると、いきなりそれを、川岸の草の上に俯伏せに引つくり返してしまひました。 「あ、これだ」  何んと船の底には、逆樣に植ゑた一パイの五寸釘、 「どうしたことでせう親分」  八五郎にはまだ呑込めない樣子です。 「水に落ちたお小夜が、浮び上がつたところを、もう一度引込まれ、船の底に押し込まれて、此釘に引つ掛つて出られなくなつたのさ、泳ぎの心得のあるお小夜は、一度水の上へ浮み上つて、又船の下に潜り込んで死ぬわけは無いと思つたよ」 「すると」 「船頭の爲五郎を縛つて來い、──猪之松は元の淺草橋の番屋に預けて置く」 「親分は?」 「俺は深川へ行つて見る」  平次の活動は、疾風迅雷です。  その足で平次は深川入船町に驅けつけました。爲五郎などの連絡を惧れて、助手も下つ引も誘ふ隙が無かつたのです。だが、鍵屋の若旦那、半次郎に逢つて見て、今更事件の容易ならぬ仕組を覺つただけのことです。 「飛んでも無い。私が、お小夜を殺させて宜いものですか、あれは大金のかゝつた女で」  と金持らしい尊大さで言はれて腹を立てたところで何んにもなりません。 「心中に誘つただけでも罪にはなりますぜ」 「冗談言つちやいけません、私が踊り子などを心中に誘ふものですか、橋の上で凉んでゐて、ツイ川へ落ちただけのことで」 「でも、船の底には、五寸釘が──」 「それは、爲五郎に訊いて下さい。船底に釘を打つたのは、岸へあげる時、滑らないためかもわかりませんよ」  これでは手のつけやうがありません。 「若しや、お小夜を怨んでゐる者でも無かつたか、そんな事を訊き度かつたんで」 「踊り子も、あれ丈けの人氣者は、隨分人からも怨まれませう」 「ところで、若旦那は劍術の方も大したものだ相で、お道具を拜見出來ませんか」 「そんな事なら、──此方へ來て下さい、私のはまことにつまらない腕立てで」  半次郎は自分の部屋へ案内しました。申分の無い普請で、部屋の外、納戸になつて居る板敷の長四疊には、面や籠手、塗胴や、竹刀などが、物々しくも掛けてあるのです。 「おや、この面は少し濡れて居るやうですね」  平次は面に附いた、刺子の巾にさはつて、何氣ない調子でそんな事を言ひます。 「そんな事はありませんよ、尤も使つたばかりの時は、人間の息で少しは濡れますがね」 「面の下に、變なものが掛けてあるぢやありませんか」 「?」 「眞綿が十五六枚、それもしつとり濡れて居ますね。厚く重ねた眞綿は、三日や五日では乾かないから」 「──」 「これを人間の顏に冠せて、劍術の面で押へたら、相手はわけも無く死んで了ふことでせうね」 「そんな馬鹿なことが、第一息がつけないから、必死と暴れ出すことだらう」 「強い力で押へ付ければ、女子供はどう仕やうもありませんよ。さう言へば、あの日、若旦那は手に怪我をして居たやうで、二三ヶ所膏藥を貼つて居ましたね」 「親分、言葉が過ぎはしないか、まるでこの私が、お吉を殺しでもしたやうに聽えるが」  半次郎は勃然として喰つてかゝるのです。町人の子でも、鍵屋は江戸一番の長者で、苗字帶刀まで許され、日光山修覆の御用も勤める家柄、町方の御用聞平次では、これ丈けの證據があつても、その跡取りに齒が立ちません。  平次がスゴ〳〵と歸つたのはその日も暮れてからで、明神下の家には、八五郎もぼんやり待つて居りました。 「どうした、八、元氣がないね」 「船頭の爲五郎は飛んでしまひましたよ。上方通ひの船へ乘つた相ですから、當分江戸へは來さうもありませんね、ところで親分は?」 「俺の方も大縮尻さ、お小夜とお吉を殺した下手人はわかつたが、動きの取れない證據は無いから、ヌケヌケと眼の前に居ても、縛るわけに行かない」  錢形平次も、此時ほど弱つたことは無い樣子でした。         ×      ×      ×  でも天網恢々でも、何處かに緊め括りがあつたのでせう、その晩、鍵屋の息子半次郎が、手代の伊與之助に刺し殺され、伊與之助は神妙に其場から自訴しました。その頃の掟で、主殺しは磔刑と決つて居り、伊與之助もこの極刑は免れなかつたのですが、それつ切りお處刑がウヤムヤになつてしまひました。  町内から助命の歎願が出たのと、錢形平次の働きのせゐもあつたでせう、伊與之助は三宅島に流されたとも、大阪で生きて居るとも傳へられました。  その後平次は、八五郎にせがまれて、 「あの万兩息子の半次郎は、惡い奴だよ。利巧馬鹿で、燒餅がひどくて、あれが本當に人間の屑といふものだらう。お小夜が金を山に積んでも思ふやうにならないので、心中ごつこに誘ひ出し──半次郎は泳ぎがうまいから、船の底へ引ずり込んだのさ。着物が逆さに打つた釘に引つ掛つて、少々位の泳ぎぢや自由になるものぢやない。釘を打つたのは、三百兩の金を貰つた爲五郎だ」 「へエ、惡い奴等ですね」 「お吉は前々から伊與之助と親しく、金で根引いても半次郎の儘にならないから、これも逢引ごつこ見たいな事をして、そつと殺したのさ。濡らした眞綿で鼻と口を塞ぎ、劍術の面を冠せて押へたら、そのまゝ息が詰つて、虫のやうに死んだことだらう。後で幇間醫者が診たつて、殺しとはわかるまい。半次郎の手の傷跡は、お吉に引つ掻かれたのだ」 「成る程ね」 「一度お小夜にやつた金を、お小夜を殺した上で、猪之松と爲五郎にわけてやる根性は憎いぢやないか、──それにあの芝居氣と嫉妬はひど過ぎるよ。尤も、男の嫉妬は女の燒餅よりもひどいといふよ。世上に亭主殺しより女房殺しの方がぐんと多いのでも判るやうに」 「へツ風上にも置けねえ奴等で──」  八五郎はぺツ〳〵と唾を吐くのです。 「でも嬉しいことが一つあるよ。巴屋の重三郎は勘當が許りて、いよ〳〵和泉屋のお照と祝言することになつたとさ、めでたし〳〵ぢやないか」 「此方は八丁堀の旦那にお小言を頂戴してちつとも目出度かアありませんよ」 「さう言ふな、お小言言ひ乍らも、笹野の旦那は、八五郎にも呑ませろ──と、大した酒手を下すつたぜ、氣のつく方ぢや無いか、磔刑になる科人を、そつと逃した御褒美だ。そんな事は誰にも言ふな」  平次は滿更でもない樣子でした。 底本:「錢形平次捕物全集第四卷 からくり屋敷」同光社磯部書房    1953(昭和28)年5月10日発行 初出:「オール讀物」文藝春秋新社    1953(昭和28)年1月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:門田裕志 2015年12月29日作成 2017年3月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。