南京虫日記 斎藤茂吉 Guide 扉 本文 目 次 南京虫日記  西暦一九二三年八月十三日、Rothmund 街八番地に貸間があるといふので日本媼の息子が案内してくれた。そこの女主は Prörtzl といつて、切りに訛のある言葉を使つた。左の方の顔面神経麻痺があるから笑ふたびに顔が右の方に歪んだ。部屋は古くて余り清潔ではないが、裏に面して一間、往来に面して一間ある。今は塞がつてゐるけれど、四五日経てばどれかが明くといふことである。かへり途で、日本媼の息子は、『民顕人は何でも真直に物いふから喧嘩してはいけませんよ』などと云つた。これが候補になつた第一の部屋である。  八月十四日。火曜。教室で為事をしてゐる独逸人の医学士が下宿してゐる家に一つ部屋があるから、若し借りる意志があるなら世話しようといふことであつた。家は Lindwurm 街の二十五番地四階で、女あるじの名を Maistre と云つた。部屋は小さいが我慢が出来る、ただ毎日四階まで昇降することは如何にも大儀だから、第一の部屋が借りられるならばその方にしようと思ひ、明瞭な返詞を与へずに帰つて来た。これが候補になつた第二の部屋である。  八月十八日。土曜。朝食まへに、第二の部屋は、四階だから不便だといふので断りに行つた。それから、朝食を済まして、Landwehr 街三十二番地Cに一間、Sonnen 街二十八番地に一間あるが、いづれも一週間ぐらゐ経たねば明かなかつた。これが候補になつた第三第四の部屋である。  八月二十日。月曜。午前も午後も教室で為事し、夕景に第一候補の家を訪ねた。上さんは顔が歪んで醜いが、率直でいいところがあるらしい。私は部屋を借りようと思ふ。そこで、いくら支払ふかと問うた。上さんは熟慮する暇もないほど速かに、毎日、丸麺麭三つの代価だけ支払つて呉れないかと云つた。いま時、小さい丸麺麭一つの価は一万五千麻克である。私は大体好からうと答へた。上さんいふ。『どうか貧しい寡婦のためになるべく余計に払つてください』それから、またいふ。『ドクトルは麦酒一杯二十五万麻克するといふことを御存じでせうねえ。噫、麦酒が飲みたいですねえ』云々。それから、上さんは靴下の繕ひを自慢して見せ、他所行の著物を持つて来て見せ、次いで一足の靴を持つて来て見せ、墺太利の Salzburg 製だと云つた。その靴を切りに自慢し、めつたに穿かないといふことをも云つた。四十を越した寡婦の上さんは、その靴を大切にして飾つてゐるのであつた。  八月二十一日。火曜。午前は教室で為事し、午食後日本媼の所に置いてあつた荷物を全部 Rothmund 街の第一候補の家に運び、ミユンヘンに来て初めて自分の部屋に落付いたやうな気がしたので、午後も教室での為事がなかなか捗つた。夕景に新しい家に立寄り上さんから鍵を貰ひ、友と夕食をしに行つた。心がおのづと開いて、麦酒が咽喉を通過して行く工合が何とも云へない。九時半ごろ新しく借りた居間に帰り、体を拭き、足を洗ひ、小さい方のトランクから日用品やら文房具やら書物やらを取出して調へた。今日から此の部屋を独占するのだと思ふと気持が如何にも落付いて来る、今までは窮屈して他人の部屋に寄生してゐたのであるが、けふからは自分の部屋に寝るのである、さう思つて私は軽い催眠薬を飲んだ。さて暫くまどろんだと思ふ時分に頸の処に焼けるやうな癢さを覚えて目を醒ました。私は維也納以来の屡の経験で直ぐ南京虫だといふことを知つた。困つた困つたと思つたが、辛抱して三十分余りかかつて大小二匹の南京虫を捉へ、それを紙に包んで置いて、日用品だけ大急ぎで調へ、日本媼の処に逃げて来た。すでに夜の十二時を過ぎてゐたが、媼は戸をあけて呉れ、私は他人の部屋のソフアの上に体を縮めて寝た。この日本媼のところの部屋は、借りてゐる日本人が目下旅行中なので、その留守に私は寄生してゐるのであつた。実に変な気がする。  八月二十二日。水曜。けふ媼が一しよに行つて呉れるといふので、第三第四の候補の部屋をたづねて談合したがどうも煮え切らない。そこで、兎に角もう一度新聞に広告を出して置いて、Lindwurm 街二十五番地の第二候補の部屋に行つて見たところが、まだ借手が附かずに居た。私は決断して借りることにした。雨が非常に強く降る日で、四階まで昇つて行くのにひどく息切がした。間代は一月三百万麻克だと云つたが値切る勇気もなかつた。  八月二十三日。木曜。午前中教室で働き、午食すまして荷運びの赤帽二人を雇ひ、第一の部屋に行つて荷を運び、第二の部屋に運ぶやうに言附け、上さんに南京虫の談合をすると、『あなたが旅舎から持つて来たのだらう』といふ。『いやさうではないこれが証拠だ』などといひながら私は捉へて置いた大小二匹の南京虫を上さんに示した。それから、五十万麻克を上さんに渡してその家を辞し、第二の部屋に来ると、荷物は四階までもう運ばれてゐた。赤帽に勘定を済まし、この日は、日本媼のところに寝た。英貨一磅の相場が、千五百万麻克である。  八月廿五日。土曜。一日ぢゆう教室で為事し、夕食後は暫く珈琲店で時を移し、疲労し切つて新しく借りた部屋に来た。息切のするのを途中で数回休み休み到頭四階まで来て、今夜こそ安眠しよう。毎日の昇降は苦痛であり、朝日も当らぬ部屋であるが、南京虫さへゐなければ辛抱しようと思つて、床の上に横はつた。そして会話の本など少し読んでゐるうちに少しく眠つた。  然るにこの床でも忽ち南京虫に喰はれた。私は余りいまいましいので、直ぐ日本媼のところに逃げ帰らうとしたが、夜が既に更けてゐるし、度々南京虫のことを訴へるのは自矜を害されるやうな気もするし、忍べるだけ忍ばうとした。私は三時半まで起きてゐ、二たび寝て大小数匹の南京虫を捕へ、碌々眠らずして一夜を明かした。  八月廿六日。日曜。けふは頭が朦朧として不愉快で溜まらない。一層のこと下宿住ひをしてもいいと思立つて、午前中から、教室から程遠くない所といふ見当を附けて下宿を見廻つて歩いた。下宿は実に幾軒もあるが、時節が悪いので大抵塞がつてゐるし、明間があるのを見れば不潔で住む気にはなれない。私は一人さびしく途中で午食を済まして、それから日本媼を訪ねた。媼は愛想よく、『南京はゐませんでしたか、nichts?」などと云つたが、私はただ苦笑せざることを得なかつた。  媼は、私が一両日まへ出した間借の新聞広告の返詞十通ばかりを持つて来て私に示した。そのうちから、教室に余り遠くないところ四五ヶ所を選び、いい部屋のあるやうな気持をなるべく自分で極めて媼の家を辞した。夜更けて南京虫のゐる自分の部屋に帰り、催眠薬を飲み、南京虫に食はれて一夜を明かした。  八月廿七日。月曜。昼のうちは教室で働き、夜は出来るだけ晩く帰り、虫除けの粉などを振まいて、南京虫に食はれて寝た。  八月廿八日。火曜。いい部屋が無くてどうも困つた。郊外の方か、新市街地に行けば虫の出ない部屋が幾らもあるといふが、為事のためには矢張り教室の近くでなければならない。今までは余り人に頼り過ぎた、けふからは自力で自分のこれから住むべき部屋を求めようと思ふ。さう思つて私は先づ宗教の方で関係してゐる〝Hospitz〟に行つた。部屋には古い基督の木像などが掛かつて居り水道の設備も附いてゐた。値段は相当に高いが候補の一つにして、それから Schwanthaler Str. の数軒を見た。Pension Moralt といふところを見、Frau Keim の部屋を見、Frau Valentin の部屋を見、Hotel Schneider の部屋を見た。最後の部屋を見た時に上さんは、若し借りるなら百万麻克の手金を置けなどと云つた。  心が落付かず街頭を急いで来ると計らず二人の日本人に逢つた。一人は不思議にも維也納で知つた医者であり一人の老翁と一しよであつた。老翁は齢已に古稀を越したT氏であつた。私も元気づきミユンヘンの事では一日の長がある様な態度を自づから示して、夕食を共にした後、けふ見て来た宗教関係の下宿〝Hospitz〟に案内し、私は日本媼にたのんでソフアの上に寝た。連夜南京虫に苦しめられたので、自分の今借りてゐる部屋に帰つて寝る気になれなかつたのである。  八月廿九日。水曜。朝便の配達のとき長兄から、午後便の配達のとき妻から、実父伝右衛門の死を報じて来てゐた。午前も午後も教室で為事をし、夕食のとき維也納から来たきのふのT翁に逢つたところが、私の世話した〝Hospitz〟で昨夜南京虫に襲はれたことを報じ、頸のあたりの赤く脹れた痕を示した。私は気の毒になり、一しよに行つて部屋を取換へるやうに談合した。それから今夜も日本媼の一室に寝せてもらつた。夜半に屡目が醒め、実父の死んだといふのは夢ではないかなどと思つた瞬間もある。  八月三十日。木曜。けふは好い天気なので気を立て直して働き、夕食して、手金をやつて置いた Frau Valentin の処に行き部屋と入口の戸の鍵を受取り、日本媼の処に寄つて、今夜一晩試して見て若しまた虫に襲はれたら逃げて来る旨をいひいひ出ようとすると媼は『幸運をいのります』などといつた。それから Valentin の所に行つて愛想のいい上さんといろいろの話をし、『僕の部屋には虫は出ないでせうね』『虫? 御笑談でせう』『そんなら受合ひますか』『受合ふどころではございません』こんな会話などがあつた。私は屡の苦しい経験の後なので、懐中電燈を用意し全くの裸裎になつて床にもぐつた。それからいろいろ生れ故郷の日本の事などに空想を馳せながら、一時間ぐらゐも経つたころであらうか、眠つたか眠らないかまだ分からないうちに南京虫に襲はれてしまつた。私は一瞬はげしい憤怒を感じたが、今度は直ぐ心が元に帰つた。そして急いで著物を著、戸を開けて往来に出た。街上には人の往来が未だ絶えてゐなかつた。私は途中で麦酒の大杯を飲みほし、日本媼のところに逃げ帰つた。そして、誰にも会はずに秘かに部屋に入つてそこに寝た。  八月三十一日。金曜。朝から教室に行き為事を一通りして置いて、小使に貸間の世話を頼み、三四軒見て廻つた。Pestalozzi Str. 十四番地の一間を見た。これは現在学生が借りてゐるが十一月に帰つて来るまで貸してもいいと云ふのであつた。Ziemsen Str. 二番にも一間見た。それは現在夫婦者がゐるが近々に明くといふことである。Tahlkirchner Str. 十六番地の一間を見た。ここでは頑丈な男が挨拶して私を連れて行つて呉れた教室の小使に、部屋は貸したくないと云つた。  午後、日本媼に頼んでもう二回ばかり新聞に広告してもらふやうにした。夕がた教室のかへりに寄ると新聞に広告を出して呉れたといふことであつた。今夜も日本媼の処に泊つた。  九月一日。土曜。けふの朝刊新聞に私の間借の広告が出た。夜食後に日本媼のとこに来ると、広告に対して十数通の返事が来てゐた。そこで媼と二人で大体の候補を極め、今夜も此処のソフアの上に寝た。  九月二日。日曜。早朝から、Klenze Str. 三十番地の二階右側に一室あるといふので見に行つた。ここの上さんは Marie Mair といつてしとやかで人相もいい。此処に十四ばかりになる娘も一人ゐる。部屋は大きく光の当りも好く、教室から遠いのが欠点だが、それさへ我慢すれば大体いいと思つた。そこで明晩一夜とめて見て呉れるやうに頼んでそこを出た。それから同胞のN君を訪ね、一しよに散歩に出た。けふは日曜で天気が好いので、町の人も他所行の著物を著て歩いてゐる。宗教上の何とか謂ふ行列を一時間ばかり見、それからイーサル川の川原を歩いた。連日教室で根をつめて為事し、連夜南京虫のために気を使ふ身にとつては、今日の散歩は何とも云へぬ気持である。川は急流でところどころに瀬を作り、また潭を作つてゐる。潭のところで若者らは童子をも交へて泳ぎ、寒くなると川原の砂に焚火してあたつてゐる。川原には短い禾本科の草などのほかに一めんに川柳が生えてゐる。  午後三時ごろ歩き疲れ、途中で麦酒を飲み、薬種屋に寄つて南京虫退治の薬を買つた。これは硫黄を主薬としたもので、一夜焚いて退治するのであつた。それを持つて、現在借りてはゐるが暫く寝に帰らなかつた Lindwurm Str. 廿五番地の四階に行つて、今夜ぢゆうこの薬を焚くやうに上さんに依頼して置いた。これは、どうしても他所に部屋がないなら、南京虫を退治して置いて此処に住まうといふ計画なのである。それから、日本媼のところに来ると、Bavariaring の三十一番地に部屋が一つあるといふので見に行つた。部屋は申分なく、教室も直ぐ近くであり、南京虫のゐない事も確からしいが、値段が部屋代だけで邦貨に換算して一日二円ばかりかかるので借りることを止めた。今夜は、N君と共に活動写真を見、日本媼の所に寝た。  九月三日。月曜。午前中教室に行き、午食のついでに、Mozart Str. 七番地に部屋を見に行き、午食後日本媼のところに寄ると、まだ数通の間貸の郵便が届いてゐた。それから、きのふ大体約束して置いた Mair のところの娘が今夜是非来るやうにといふ母の言伝を以て訪ねて居た。眠くて溜まらぬのを我慢し、日本の茶などを媼から入れて貰つて飲み、それから夕方まで教室にゐて、今日は新しい部屋に試さうといふことを媼に話して、夕食して行つた。けふは誰も連がなく寂しく食事したが、夕刊で日本大地震の記事を読んだ。  それから、Mair のところに行つた。部屋も床も綺麗に掃除がしてあり、卓のうへには置物なども置いて呉れてあつた。家族のものは此部屋を私に貸して手狭いところに移つたらしい。私は日本の事が気になつてならぬが、も少し委しい通信を読んでから事を極めようと思ひ、持つて来た小さい座布団を牀上に置き、うへに腰をおろして両足を牀上に延ばした。靴をぬいでくつろぐと実に久しぶりで静かな気持になるのであつた。  さうして置いて、新聞の夕刊を読みかへすと、地震はどうしても大事件である。東京・横浜・伊東・熱海一帯が全く破壊されて第一通信だけでも東京の死人が十万を超えたと註してある。部屋の掛時計は余韻を引いて十時を報じた。  夜半過ぎから度々眼を醒ましたけれども南京虫は襲つて来ない。私は感謝と不安と危懼と実に複雑した気持を経験しながら夢とも現ともなしに暁に及んだ。然るにいまいましいではないか、暁になつて遂にまた手の甲と咽のところを南京虫に襲はれたことを知つた。いまいましくて溜まらない。  九月四日。五十万麻克やつて、もう一両日待つてくれるやうに談合すると、あのやさしい上さんは、借手が幾人も附いてゐるから待てないといふ。さうか、そんならいい。といつて百万麻克おいて其処を去つた。朝食をせずに日本媼のところへ行く途中、N君に会つた。N君も日本の地震を心配して朝食もせずに日本媼のところに来たのである。二人は近所で朝食をし、日本のことを談りあつた。  日本媼のところに、部屋を貸したいといふ人が数人たづねて来てゐた。そこで是等の部屋を見まはり、Dachauer Str. 廿五番地。Ringseis Str. 六番地と廻つて、Thorwalsen Str. 六番地に落付くことに極めた。なぜ極めたかといふに、ここは教室から遠くて不便であるが、新市街地で南京虫がゐない。Sさんといふ日本人夫婦が住んで居り、間代の値上げのことで余り乱暴をいふから引越したと云ふ部屋であつて、南京虫のゐないことは確実である。  不便なところだが、住宅地だから寂しいくらゐ静かな処である。窓から直ぐ中庭に出られるやうになつてゐる。私は九月六日に其処に引越して、十二月十五日二たび日本媼の処に厄介になるまでゐた。その間、教室の近くの貸間をいろいろ心掛けて捜したのであつたけれども、南京虫を恐れて引越さずにしまつた。  私は志を抱いて維也納からミユンヘンに転学した当時は、部屋を得るに困難なこと如是であつた。但し是は貧しい留学生の私を標準としての有様である。豪奢の身分者にとつては、縦ひミユンヘンと雖決して事を欠かせるやうなことはないのである。 底本:「斎藤茂吉選集 第九巻 随筆」岩波書店    1981(昭和56)年2月27日 第1刷発行 初出:「改造」    1929(昭和4)年10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:しだひろし 校正:門田裕志 2012年4月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。