簪を挿した蛇 中谷宇吉郎 Guide 扉 本文 目 次 簪を挿した蛇  石川県の西のはずれ、福井県との境近くに大聖寺という町がある。其処に錦城という小学校があって、その学校で私は六年間の小学校生活を卒えた。たしか尋常六年の時に、明治天皇が崩御されたように記憶しているので、私の小学校時代は、明治の末期に当るわけである。  この町は、子爵の方の前田家の旧城下町であって、その頃の小学校は旧藩主のもとの屋敷をそのまま使ったものであった。それで学校といっても、現在普通に見られるような半洋風の建物ではなかった。もっとも一部は建て増されたもので、二階建の普通の小学校の形になっていたが、雨天体操場の方などは、昔の建物をそのまま使っていたので、今から考えてみれば、随分古風な学校であった。在学中にこの雨天体操場の方も改築されたように憶えているが、印象に残っているのは、妙に改築前の旧い体操場の方である。  雨天体操場といっても、旧藩主の大きい邸宅の襖をとりはずしただけのものであったから、中には柱が一杯立っていた。大広間と次の間に当るところが、この体操場の中心部で、その両側に広い廊下があったらしい。柱がずっと一列に立っていた。奥の半分は、小さい部屋が沢山あったところを、壁と襖をはずしてそのまま使ったらしく、その部分には沢山の細い柱がそれこそ林立していた。  この雨天体操場は、式や会の時には講堂となり、休み時間には児童の遊び場であった。実際は雨天体操場などという新しい名前はなくて、私たちは溜りと呼んでいた。十分の休み時間には、この溜り一杯胡麻を散らしたように、児童たちが真黒く群って走り廻っていた。その中には四十年前の自分もいたわけである。柱が沢山あるので、陣取りには誂え向きであった。五組も十組もの陣取りが、それぞれ好みの柱の群を占領して、縦横に馳け廻るので、呼び声叫び声が、薄暗いこの体操場に一杯に満ちあふれていた。  薄暗いといえば、この体操場の奥の半分、柱が林立していたところは、昼でも本など読めないくらい暗かった。その中心部に、何のあとかは考えたこともなかったが、三尺四方の四隅に、四本の柱が立っているところがあった。林立する柱の中で、この四本の柱だけが何となく目に立った。其処は「四本柱」という名前がついていた。何か気味の悪いところで、子供たちの間には、一種の魔所に考えられていたようであった。何年の時か忘れたが、この「四本柱」の床の下には、女の髪の毛が埋められているという風説が流布され、私たちは真面目にそれを信じていた。  明治の末期といっても、北陸の片田舎までは、まだ文明開化の浪は押し寄せて来ていなかった。たしか六年生の頃に、初めて電燈がついたくらいで、徳川時代からずっとおどんでいた空気は、まだこの小さい旧い城下町の上を低く蔽っていた。旧藩主は町の一部に、別の御屋敷をもって、一年の半ばは其処に住んでおられた。そして人々はお正月には「殿様のところへ伺候する」習慣をずっと守っていた。  小学校のすぐ後は、小さい山に続いていた。錦城山という山であった。この山には前田家の以前に、山口玄蕃とかいう豪族の城があったそうである。そしてその城が落城する時に、奥方や姫たちが、池に入るか崖からとび降りるかして死んだというような伝説が残っていた。この小高い山は、その当時の子供たちの間には、全く人跡未踏の魔境であった。山は二段になっていて、頂上に本統の城の趾があるという話であったが、其処は怖ろしくて、とても子供たちの行ける場所ではなかった。私などは六年間の小学校生活中に、一度もその城趾までは登らなかった。其処には、簪をさした蛇だの、両頭の蛇だのがいるという噂があった。もちろん一つ一つに落城の伝説がからまっていて、子供たちは誰もそれを疑わなかった。  中腹の小高いところに、ちょっと平らな場所があって、其処には下屋敷があったということになっていた。其処までは一、二度行ったことがあるが、鬱蒼と茂った暗い森の中に、細い径がたえだえについていたような気がする。そしてその場所に著くと、急に平らな如何にも屋敷趾らしい開けた土地があった。開けたといっても、それは亡霊の住む土地である。やっと木の間から盗み見るくらいで、匆々に逃げ帰って来るのが普通であった。今から考えてみれば、せいぜい二十分くらいの行程のところであったように思われる。しかし子供たちにとっては、その探険には非常な勇気が必要であった。  子供たちはもちろん和服で、みな木綿の袴をはいていた。私の父は当時のハイカラであったらしく、いつか洋服を一著作ってくれたことがあったが、そんなものを著て外を歩くことなどはとても出来なかった。雨の多い土地であったが、傘を持って来るのは極く少数で、大抵は茣蓙帽子という茣蓙で作った一種のマントを頭からかぶって学校へ通った。雨風の強い日などは、茣蓙を通した雨でびしょ濡れになって学校へ著いた。そしてずらりと並んだ下駄箱に下駄を納め、藁草履にはきかえて、溜りに集った。草履をはかない素足の子供たちも沢山いた。  先生たちは、一人ずつ交代に宿直することになっていた。可愛がってくれる受持の先生が宿直をされた次の朝は、よく六時頃に学校へ行って、宿直室で八時の授業開始まで遊んだものであった。若いざん切り頭の先生は、蒲団を隅の方へ押しやって、褐い畳の上で火鉢で御飯をたいていた。そして飯の出来るまでと言って、将棋を教えてくれたりしたものであった。  ピアノなどというものは、名前も聞いたことがなかったし、理科の実験などももちろんなかった。仏教の盛んな土地だけに、町全体の雰囲気には近代の匂いが全くなく、科学などというものには、凡そ無縁の土地であった。子供たちは、大人の読み残した貸本の講談本を盗み読むくらいで、その当時あこがれの的であった『少年世界』や『日本少年』を毎月とっているなどという子供は、級に一人か二人という程度であった。それは遥かなる土地の文明の余光であって、年寄りたちがお説教できいてくる仏教の因果話と地獄極楽の絵とで培われた子供たちの頭には、幻惑的な閃光をもたらすものであった。  そういう中にあって、たしか五年生の時だったかと思うが、珍しい先生が新しくみえて、その先生が私たちの受持となった。そして理科の時間に、進化論の話と、カント─ラプラスの星雲説とを説明してくれたことがあった。その先生の進化論というのは、少し極端であって、人間からアメーバに遡って、そのアメーバが更に無機物から出来たというのであった。もっともそれは子供心にそういう風に受け取ってしまったのかもしれないが、とにかくそれは当時の私には驚愕に近いものであった。  そしてそれが星雲説になると、更に展開するのであった。遥かなる昔、まだ太陽も月も地球もなかった時代に、星雲が宇宙の片隅に渦を巻いていた。その渦がだんだん凝って固体になるというのであるが、その瓦斯状の星雲の前には、宇宙にはただ力だけが渦を巻いていたという話を聞かしてくれたように憶えている。これも幼い頃の夢であったのかもしれないが、私の頭に残った印象は、そのような形のものであった。  学校から帰ると、よく夕飯前に、奥の暗い六畳の仏壇の間で、老人たちの御まいりの座につかせられた。燈明の光がゆらぐごとに、仏壇の中の仏様の光背が鈍く金色にゆれた。ぼんやりとその光に見入りながら、遠い遠い昔、まだ星雲すらもなかった頃の宇宙創成の日を頭の中に描いてみる癖がいつの間にかついた。本統に何物もない虚空に、眼に見えない力の渦巻があって、その廻る速さがだんだん速くなって行く。するとその中心のあたりからほの白く瓦斯状の物質が生まれて来る。そういう夢と老人の読経の声とがもつれ合って、いつの間にか、生まれたばかりの星雲の姿が、ぼんやりと眼に見えて来るのであった。  今の科学精神などという流儀から言えば、とんでもない教育を受けたものである。生活の中に科学をとり入れるようなことも、全く縁のない話であった。そして学校では実物を完全に離れた文字だけの理科を教り、家へ帰っては『三国志』と『西遊記』とに凝っていた。たまさか新しい科学の知識を授けられれば、それは「断片的な科学知識」と「出来上った理論の外面」だけであった。それらは『西遊記』と仏説寓話とで養われた荒唐な少年の日の夢に、益々非科学の拍車をかけるような結果に陥ってしまった。科学者にでもなろうというのだったら、典型的な悪い教育を受けたものである。  ところがこの頃になって考えてみると、こういう少年の日の反科学的な教育が、自分のその後の科学にとって、そうひどく邪魔になったとは思われない。そういう天邪鬼な考えをするから何時まで経っても一人前の科学者になれないのだと言われれば、それまでの話である。しかしあの当時に、現在の立派な科学普及書がふんだんに与えられ、文部省御自慢の啓発的とかいう今日の物象の教科書で理科を教っていても、やはり偉い物理学者にはなれなかっただろうと思う。それよりも恐らく物理学などは専攻していなかったかもしれないという気もする。別に確固たる理由はないが、唯何となくそういう気がするだけである。強いて理由をつければ、大人が余りやきもきすると、子供は興味を失ってしまうことが多いからである。  星雲の夢が再び蘇って来たのは、高等学校へはいってからである。ヘッケルの『宇宙の謎』の翻訳が出て、その一元論が我が国の読書界に紹介されたのが、丁度私たちが高等学校へ入学した頃であった。ヘッケルの進化論というのは、正しく私たちが小学校で聞かされた話を、少し鹿爪らしくしたようなものであった。そしてその最後のところは、物質と勢力との一元論に落著くというのであった。別に根拠のある説ではないが、物質不滅の法則と勢力不滅の法則とが自然界を貫く二つの根本原理である、その両者を綜合したような宇宙一元論を心に描いてみるのが科学者の最後の夢である、という風な議論であったように憶えている。  もう二十五年以上も昔の話であるから、もちろん詳しいことは記憶にない。しかしヘッケルの本の最後の数節は、いろいろな科学的な言葉は使ってあったが、詮じつめたところは、物質と勢力との一致という夢を描いたもののようであった。物質と勢力との転換が、理論的にまた実験的に物理学の問題として確認されたのは、ずっと後のことである。ヘッケルの時代にはもちろんのこと、それを読んだ私たちの高等学校時代の頃でも、それは精密科学の立場から見れば、全くの荒唐無稽な空想にすぎなかった。  しかしこの本は、私には少年の日の夢を再び呼び返してくれたという意味で大切な本であった。今読み返してみたら、そういう意味に書いてあったものではないかもしれないが、熱中しやすい高等学校時代の自分の頭に残された印象は、そのようなものであった。もし自分が勝手にそういう風に解釈して、興奮にほてる頬を輝かしながらこの本を読んだのであったならば、それは少年の日の非科学的教育の影響によったものであろう。物心一如というような、この荒唐な夢が余りにも明らかに実現され、その原理に従って現実に原子爆弾が出来たのである。簪をさした蛇と原子爆弾の原理とが仲よく組合わされていた幼年の日の夢を、今更のようになつかしく思い見る次第である。 『宇宙の謎』の思出には、まだ後がある。ずっと後になって、大学を出て寺田寅彦先生の助手をつとめていた頃、忘年会か何かで、研究室の若い連中大勢揃って、先生の御馳走になったことがある。所は忘れたが何処かのビルディングの五階か六階の西洋料理店であった。食後パーラーで先生の話をきいているうちに、ウェーゲナーの大陸移動説の話が出た。先生はこの説には前から深く興味をもたれ、ウェーゲナーの有力な同情者であった。 「ウェーゲナーの説には、いろいろ反対もあるが、あの本は面白い本だよ。とにかく大陸が移動するということはたいへんな事なんだから、反対のあるのも当然だ。しかしその反対はどうも細い点が多くて、考えようによっては、どうにでも説明出来ることが多いようだ。ウェーゲナーの本の中に科学者は木を見て森を見ないと書いてあったが、実に巧いことを言ったものだ。大いにその傾きがあるからね。ところでその木を見て森を見ないというのは、誰かの文句らしいので、引用マークがついているんだが」という話であった。 「それはヘッケルの『宇宙の謎』の序文にある言葉で、科学者は木を見て森を見ない、哲学者は森の絵を見て満足しているというのの前半でしょう」と言ったら「たいへんなことを知ってるね」と褒められた。  自分はその後ずっと森を見ているというわけではない。しかしそういう言葉があることだけは、忘れないでいる。戦前、日本の科学は世界の第一線に伍したということがよく言われた。それは嘘であるが、世界の科学の進歩にほぼ踵を接して追従して行けるくらいのところまでは進歩していた。しかし後進国の悲しさには、どうしてもその研究態度が、木を見るというよりも、皮か葉の一部を見るような傾向に走りやすかったのは致方ないことであった。そして終戦後、日本の国が戦前のような条件で研究することが出来なくなった今日、なお皮の一部を調べる学者を養成するような科学教育策が、惰性的に採られているのではないかという気もする。  そういうことを言うと、折角子供たちの科学的なものの考え方を啓発しようと努力されている文部省の方たちや、科学精神の涵養に立派な普及書を出しておられる先生方に、礼を失するかの如く誤解されるかもしれない。しかしそれは全くの誤解であって、科学精神を涵養したり、幼いうちからものごとを科学的に考察する癖をつけたりすることが、もし出来るならば、それに越したことはない。しかし私にはそれだけで科学教育の問題が全部解決したとは言えないような気がするだけである。  科学の本質論には此処では触れないことにしても、本統の科学というものは、自然に対する純真な驚異の念から出発すべきものである。不思議を解決するばかりが科学ではなく、平凡な世界の中に不思議を感ずることも科学の重要な要素であろう。不思議を解決する方は、指導の方法も考えられるし、現在科学教育として採り上げられているいろいろな案は、結局この方に属するものが多いようである。ところが不思議を感じさせる方は、なかなかむつかしい。  物象の何年生だったかの教師用に、秋の山へ児童をつれて行くと、楓だの漆だのが美しく紅葉している、その葉の色の美しさを示して、自然界の美に驚嘆するように児童の情操を涵養せよというような意味の説明がある。しかし本統の驚異はなかなかそう手軽には感じさせられないものである。それに注文通りの秋の山など、そうざらに見付かるものでもない。もっとも紅葉の美しさに注意を向けさすことが悪いと言うのではない。それもたいへん結構なことではあるが、それだけで、という意味は、その系統に属する各種の指導だけで、驚異感の方は片がつくと思っては不十分であろう。  近代の専門的な教育法のことは知らないが、私には自分の子供の頃の経験から考えて、思い切った非科学的な教育が、自然に対する驚異の念を深めるのに、案外役に立っのではないかという疑問がある。幼い日の夢は奔放であり荒唐でもあるが、そういう夢も余り早く消し止めることは考えものである。海坊主も河童も知らない子供は可哀想である。そしてそれは単に可哀想というだけではなく、余り早くから海坊主や河童を退治してしまうことは、本統の意味での科学教育を阻害するのではないかとも思われるのである。  いつか紙芝居を利用して児童の教育をやろうとしている会の人が来て、何か案はないかという話があった。目的は紙芝居で科学普及をやりたいというのである。あいかわらず電気の知識とか、飛行機の原理とかを、漫画風に子供にもよく分るように面白くやる案はないかという話で、うんざりした。そういうこともそれ自身は悪いことではないが、もしやるのだったら映画を用いた方がよいので、紙芝居には映画とは別の分野がある。紙芝居が映画と異なる点は、実物の写真を用いなくて絵を用いることと、各画面の時間を相手とその時の雰囲気とに従って勝手に変えられる点にある。その両者ともに、見ている子供たちの想像力を誘発するのに適当な条件なのである。それで紙芝居では電気技術だの機関車だのという野暮な話は取り上げない方が利巧である。妖女か孫悟空を主人公とした夢幻的で物凄じい紙芝居が出来たなら、一度見たいものである。 「電気の知識なんか、紙芝居には勿体ないですよ。それよりも孫悟空でもおやりになったら如何です。その方が科学の普及と言ってはどうか分りませんが、将来の日本の科学のためには役に立つでしょう」と返答したのであるが、よく納得はゆかなかったようである。孫悟空に凝って、金箍棒や羅刹女の芭蕉扇をありありと目に見た子供は、やがて原子の姿をも現身の形に見ることが出来るであろう。  生物は細胞からなり、細胞は蛋白質から成る。蛋白質以外の外のものももちろんあるが、いずれにしてもそれらは全部分子から成り、分子は原子から、またその原子は核と電子とから出来ている。もしこういうことが分ったとしたら、生命の神秘が消え失せてしまうように考えるのは誤謬である。寺田先生の言葉を借りれば、それは「生命の不思議を細胞から原子に移したというのみで原子の不思議は少しも変りはない」のである。  人聞には二つの型があって、生命の機械論が実証された時代がもし来たと仮定して、それで生命の神秘が消えたと思う人と、物質の神秘が増したと考える人とがある。そして科学の仕上仕事は前者の人によっても出来るであろうが、本統に新しい科学の分野を拓く人は後者の型ではなかろうか。科学知識の普及も結構ではあるが、原子や分子を日常茶飯事の如く口にするだけでは無意味である。それは得るところが何もなくて、反対に物質の神秘に対する驚異の念を薄くするような悪影響だけが残る虞れが十分ある。  以上の話は、戦前の日本の科学についても言えることであるが、終戦後の科学再建については、一層大切なことのように自分には思われる。戦前の悪夢時代には、科学というものは、意識的な場合も無意識的な場合もあろうが、結局は外国に負けないような飛行機を作るとか、重工場を進歩させるとかいう風な工業技術の基礎として、一般に考えられていた。そういう意味での科学ならば、いわゆる科学普及でも結構であろう。余り得な方法ではないが、どうにか外国の進歩にくっついて行くことも、努力さえすれば可能である。そして現にそれは或る程度まで可能であったのである。  しかし今日では事情は一変した。以前のような意味での科学は、影が薄くなったわけである。国防の問題はなくなったが、民生的な近代機械文明を建設する意味で科学技術は必要である。しかしその基礎としての科学というだけでは、非常に影の薄いものであることは事実である。終戦後の日本の科学振興とか科学再建とかいうものが、何を意味しているかは、誰に聞いてみてもよく分らないようである。私自身にも分らない。むしろこの際科学など止めてしまった方がよいのではないかとも考えられるが、政府の方で科学再建を唱えられる以上、それに協力しないわけにもゆかない。しかし同じ協力をするのならば、意味のある協力をしたいものである。  ところで今後の日本において、意味のある科学を振興させようと思えば、本来の姿においての科学を進歩させるべきであろう。科学が戦争の役に立つのは事実であるが、それは科学の本然の姿ではない。科学は自然と人間との純粋な交渉であって、本来平和的なものであるからである。そういう意味での科学は、自然に対する驚異の念と愛情の感じとから出発すると考えるのが妥当であろう。  こういう風に考えてみると、今後は私たちが受けたような非科学的な教育ももっと必要になるのではなかろうか。反語的な言い方になるが、科学精神の涵養もあまり型にはまって来ると、こういう逆説的な言葉も或る場合には必要になって来るように思われる。少くも刺身に対する山葵くらいの役をするのではなかろうか。碧の湖の岸に建っている白い塔の中に、金髪の王女が百年の眠りを眠っている。少年の日にその姿を現実の形に見ることの出来た人が、案外科学上の新分野を開拓して、新しい日本の存在意義を世界に示すようなことになるかもしれない。どうも私には、子供の時から眼覚時計を直すことが好きだったり、機関車の型を皆覚えたりする子供よりも、その逆の型の方が有望なように感ぜられる。子供の頃に正則な科学教育を受けられなかった田舎者のひがみかもしれないが、そういう気がするのだから仕方がない。  それでは仮に以上のような奇矯の説が、一面の真理を含んでいるとしたら、実際に科学教育をどうするかという問題が出て来る。大人が余りやきもきしないで放っておくというのも一法であるが、それでは少し乱暴である。それにせっかく当局の方でいろいろ苦心をして、理科を物象に変えたり、小学校を国民学校に変えたりしておられるのに、その苦心を全然無にしてはよくない。事柄を教えてはいけない、考え方を啓発しなければならないというのも結構である。絵やグラフを見せて「以上の事から何が分るか」というような問題を出すのも悪くはない。少くも先生はどういう答を期待しているだろうかと子供たちに興味を持たせる点で、十分頭の訓練になる。それで現在の教育法はそのまま是認すればよいので、その上に子供たちに夢をもたせればよいことになる。少くも荒唐無稽な夢をみることを余り阻止しなければよいであろう。迷信や怪異譚なども、実害のない限りは、何も禁止する必要はないと思われる。簪をさした蛇など甚だ結構である。  本の方は、近年面白くて為になるといういい本が沢山出て来たようである。そういうバターと蜂蜜とをねったような本が沢山あって、それらを自由に読むことが出来れば、子供たちはたいへん仕合わせである。しかし余り栄養物ばかり食べさせておくと、芯が弱くなる虞れがありはしないかという気もする。たまには面白くて為にならない本も読ませた方が良さそうである。少くも自分の経験から言えば、少年の日のなつかしい印象として残るものは、面白くて為にならない本に熱中して頬をほてらせていた思出ばかりである。それはなつかしいというだけで、何の役にも立っていないだろうと言われれば、あるいはそうかもしれない。しかし四十年の間自分の頭の奥にずっと存在を続けていた記憶が、その後の自分の科学に、何らかの影響を与えていないはずはない。そしてその影響は必ずしも悪い方とばかりは言えないような気がする。  この頃今度の大戦争で科学はB29や原子爆弾やD・D・Tのような偉大なる発明を産んだというような記事をちょいちょい見受ける。しかし私は少くもそれほど馬鹿なことは言わないつもりである。原子爆弾は近代人類の希臘以来の物質の概念を変更した大発明であって、鳥の先生や除虫菊の親玉と比較すべきものではない。そういうことを混同する人は、ものの価値判断の出来ない人であって、科学知識の問題ではない。そしていやしくも物を書くほどの人が、そういう間違いをするという責の一半は、いわゆる科学普及にありはしないかという気がする。その点では、思い切った非科学的教育を受けた自分などは仕合わせであったわけである。  眼に見えない星雲の渦巻く虚空と、簪をさした蛇とは、私にとっては、自分の科学の母胎である。人には笑われるかもしれないが、自分だけでは、何時までもそっと胸に抱いておくつもりである。 (昭和二十一年十二月一日) 底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店    1988(昭和63)年9月16日第1刷発行    2011(平成23)年1月6日第26刷発行 底本の親本:「楡の花」甲文社    1948(昭和23)年 初出:「文藝春秋」    1946(昭和21)年12月1日 ※表題は底本では、「簪を挿した蛇」となっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月4日作成 青空文庫作成ファイル: 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