原子爆弾雑話 中谷宇吉郎 Guide 扉 本文 目 次 原子爆弾雑話  昭和十二年の七月、北支の蘆溝橋に起った一事件は、その後政府の不拡大方針にもかかわらず、目に見えない大きい歴史の力にひきずられて、漸次中支に波及して行った。そして、十月に上海が陥ち、日本軍が首都南京に迫るに到って、漸く世界動乱の萌しが見えて来た。  丁度その頃、私は「弓と鉄砲」という短文を書いたことがある。切抜帖を開いてみると、それは十二年十一月の『東京朝日』に書いたものである。  弓と鉄砲との戦争では鉄砲が勝つであろう。ところで現代の火器を丁度鉄砲に対する弓くらいの価値に貶してしまうような次の時代の兵器が想像出来るであろうか。  火薬は化合しやすい数種の薬品の混合で、その勢力は分子の結合の際出て来るものである。その進歩が行き詰って爆薬の出現となったものであるが、爆薬の方は不安定な化合物の爆発的分解によるもので、勢力の源を分子内に求めている。勿論爆薬の方が火薬よりもずっと猛威を逞うする。この順序で行けば、次にこれらと比較にならぬくらいの恐ろしい勢力の源は、原子内に求めることになるであろう。  原子の蔵する勢力は殆んど全部原子核の中にあって、最近の物理学は原子核崩壊の研究にその主流が向いている。原子核内の勢力が兵器に利用される日が来ない方が人類のためには望ましいのであるが、もし或る一国でそれが実現されたら、それこそ弓と鉄砲どころの騒ぎではなくなるであろう。  そういう意味で、現代物理学の最尖端を行く原子論方面の研究は、国防に関聯ある研究所でも一応の関心を持っていて良いであろう。しかしこの研究には捨て金が大分要ることは知って置く必要がある。剣橋のキャベンディシュ研究所だけでも、六十人ばかりの一流の物理学者が、過去十年間の精神力と経済力とを捨て石として注ぎ込んで、漸く曙光を得たのであるということくらいは覚悟しておく必要がある。  この短文を書いた頃は、今回の原子爆弾の原理であるウラニウムの核分裂などは勿論知られていなかったし、キャベンディシュの連中を主流とした永年にわたる研究も、漸く原子核の人工崩壊の可能性を実験的に確めたという程度であった。しかし現代の方向に発展して来た科学の歴史をふり返ってみると、順序としては次の時代の勢力の源は原子の内部、即ち原子核の中に求めることになると想像するのが一番自然な考え方のように私には思われた。  分子と分子との結合による火薬、分子の破壊による爆薬、分子の構成要素である原子の崩壊による「原子爆弾」と並べてみて、その順序をつけるのは、勿論人間の頭の中でのことである。ところが本当にその順序の通りが実現するところに、自然科学の恐ろしさがあるのである。  この短文を書いた頃の二、三年前、私は二、三の国防関係の要路の人に会った時に、こういう意味のことを話したことがある。勿論我国でもこの時代に既に理研の仁科博士の下や、阪大の菊池教授の所で、原子物理学関係の実験が開始されていたので、そういう方面からも進言があったことであろう。しかし何十年か先のことで、しかも果して兵器として実用化されるかどうかもまるで見当のつかない話を、本気で取り上げてくれる人はなかった。やれば出来るに決っていることをやるのを研究と称することになっていた我国の習慣では、それも致し方ないことであった。  ところが、当時海軍の某研究所長であった或る将官が、真面目にこの問題に興味を持たれて、一つ自分の研究所でそれに着手してみたいがという相談があった。理研や阪大の方に立派なその方面の専門家が沢山おられるのに、何も私などが出る必要はないのであるが、話をした責任上とにかく相談にはあずかることになった。  今から考えてみれば、あの時それだけの研究費を、既に原子物理学方面の実験を開始している専門家たちの方へ廻してもらった方が、進歩が速かったことであろう。しかし何万円という研究費を毎年出すとなると、やはりその研究所の中で仕事をしなければならないというのが、当時の実情であった。何万円というのは、その研究所としてもかなり多額と考えられていた時代のことである。  当時私の教室では、原子物理学の研究によく使われる或る装置を使って、電気火花の研究をしていた。それで実験技術としては満更縁のない話でもないので、私の所の講師のT君が私の方を辞めて、その研究所へはいって、専心その方面の仕事を始めることになった。  もっともこれは随分無理な話で、英米の世界一流の学者が集まって、金に飽かし鎬を削って研究している方面へT君が一人ではいって行って、その向うが張れるはずはない。それでこういう条件をつけることにした。それは、もともと無理な話であるから、初めから英米の学者と太刀打をさせるつもりでなく、先方の研究の発表を待って、その中の本筋の実験を拾って、こちらでそっくりその真似をさせてもらいたいというのである。随分卑屈な話のようであるが、それが巧く行って、英米の研究にいつでも一歩遅れた状態で追随して行けたら大成功である。そうなっていれば、先方で原子核勢力の利用が実用化した時には、こちらでも比較的楽にその実用化にとりかかれるはずである。原子兵器の出現に遭ってから、慌ててその方面に関係した器械を註文するというのでは仕様がない。しかしそれに類したことが、実際にしばしば起っているのである。器械に馴れているということの強味は、実際に実験をしたことのある人でないとちょっと分らないくらい有力なことである。もっとも新しい下駄でさえ履きづらいものであるから、新しい物理器械がそう簡単に働いてくれるはずはない。  その将官の人は大変理解のある人であって、この話にすぐ賛成してくれた。そしてT君が入所したらすぐ一通りの器械の註文をすまさせて、欧米の関係研究室を見学させるという話になった。とりあえず設備費として十万円くらいは出してもいいということである。今度のアメリカの原子爆弾の研究費二十億弗と較べては恥ずかしい話であるが、当時の我国としてはそれでも破天荒なことであった。  此処までは話は大変面白いのであるが、いよいよT君がその研究所の人となって、一通りの器械をととのえるべくその調査にかかったら、間もなくその所長が転出されることになった。一方国際的には、支那事変が漸く本格的な貌を現して来て、今更研究どころではないという風潮がそろそろ国内に漲り出した時期である。それで真先に取止めになったのは、この原子関係の研究であった。折角勢い込んでいたT君は「もう戦時態勢にはいったのだから、そういう研究は止めて、砲金の熱伝導度の測定を始めてくれ」ということで、急に金属物理学の助手に早変りすることになった。これで「私の原子爆弾」の話はおしまいである。誠に飽気ない話である。  ところで人類科学史上未曾有の大事件たる原子爆弾の研究に、こういう企てを試みることすら、いささかドン・キホーテ的であったことが、今度のアメリカの発表でよく分った。T君はいわばいい時にドン・キホーテの役割を免ぜられたものである。と言うのは、もしあの時の将官がそのまま続いて在任され、どんどん研究費を出し、学者の数も増やし、大いに頑張ってみても、我が国ではとても原子爆弾が出来る見込はなかったと私には思われるからである。それは日本には原料たるウラニウムがないとか、ラジュウム源の貯蔵が少いとかいう問題ではない。それは国民一般特に要路の人たちの科学の水準と、今一つは国力の問題とである。  私たちが「弓と鉄砲」の話をかつぎ廻っていた翌年には、独墺合邦という爆弾的宣言が、欧洲を一挙に驚愕の淵に陥れた。そして次の年には独ソ不可侵条約が締結され、秋にはもうポーランド問題をめぐって、英国が独逸に対して宣戦を布告したのである。翌十五年は欧洲平野における大機動戦、巴里の開城、倫敦の大爆撃に暮れ、十六年には今次の戦争は遂に独ソの開戦、米国の参戦というクライマックスに達している。この間勿論我が国でも、支那事変が遂に世界戦争の面貌を現して来て「研究どころの騒ぎではなく」なっていたのであるが、英米側にとってみれば、それこそ日本の立場どころではなかったのである。  その間にあって英米両国の原子方面の科学者たちは、まるで戦争など何処にもないかのように、宇宙線の強さを測ったり、原子の崩壊に伴う放射線の勢力の測定をしたりしていたのである。この方面の実験には厖大な設備と莫大な費用とを要するのであるが、米国では殆どこの方面の研究を一手に引き受けた形で、どんどん施設をして行ったのである。そして米国の参戦と同時に先ず行ったのは科学研究の協定であって、目ぼしい英国の学者たちはアメリカに渡って、それに協力することになった。独逸から追われたユダヤ人の科学者たち、それは独逸の科学を建設した人たちであるが、それらの人々も殆ど全部アメリカに渡って、甚大な貢献をしたのである。そういう大事な学者を追放したヒットラーは、自分で自分の腕を切り落したようなものである。昭和十五年、ヒットラーが欧洲を平定して巴里に入り、ドーバー海峡越しに英本土を指呼の間に睨んでいたあの最得意の時期において、既に伯林の悲運の萌しが見えていたのである。この間の消息は、昭和十五年の十月、『東京朝日』に書いた「独逸の科学誌」を転載させて頂くのが早道である。  同僚の物理学者で、新しい論文をよく読んでいる男が、この一、二年来独逸の雑誌に出る論文が著しく質が低下したように思うという話をした。私もうすうすそういう気がしていたので、直ぐ賛成して、この調子で行くと、結局米国が物理学界で覇をとなえるようになるかもしれないなどと話し合ったことがある。  独逸科学の心酔者に言わせれば、外に発表するのはつまらぬことだけで、本当に大切な研究は隠しているから、一見独逸の学問の水準が下ったように見えるのだというかもしれない。しかし、それだと論文を読んで見れば、何となくそういう気配が感ぜられるはずである。  そうすると、独逸が今度の戦争で使っている科学兵器の優秀さには異論がないから、基礎科学などは、どうでもよいもののように見えることになる。しかし私たちは、現在の独逸は、ナチに追放された偉い学者たちがまだ独逸にいた頃の学問的遺産を、いま力一杯に使い切っているのではないかと思っている。  事実独逸が遺産を喰い潰している間に、米国ではどんどん貯蓄して行っていたのである。あらゆる種類の元素について、その原子を人工的に崩壊してみて、その時に出る勢力と放射線の性質とを調べるという風な同じような論文が、いつまでも根気よく米国最大の科学誌『物理評論』に毎月いくつと出ている。見る方で根気負けがするくらい沢山の論文が出ても、何時になったらそれが次の時代の勢力源として実用化されるか、まるで見当がつかない状勢で過ぎて行った。  ところが昭和十五年になって、遂にウラニウムの核分裂という新しい現象が恐るべき勢力源として現われて来たのである。その論文が日本に届いたのは、確か太平洋戦争勃発の一年くらい前であった。ラサフォードがキャベンディシュ研究所の俊秀を総動員して、世界の物理学の主流を原子構造論から一歩進め原子の内部に足を踏み込ませ、原子核構造論の樹立に眼を開かせてから約十年、それを受けたアメリカが、莫大な物と金と人とを困難な実験に注ぎ続けて約十年、やっとこのウラニウムの核分裂の発見によって、原子内に秘められた恐るべき力が、科学者の前に初めてその姿の片鱗を現したのである。  しかしこの現象の発見によって原子爆弾が半ば出来たのではない。原子の性質として知られたこの核分裂現象の発見は、いわば富士山を作っている土の粒子の性質が知られたようなものである。その土の粒子を一粒一粒集めて富士山を作る仕事が、本当に原子爆弾を作る仕事なのである。  ウラニウムの核分裂の発見から原子爆弾に到達するまでに、平時だったら三十年とか五十年とかの年月を要するだろうと考えるのが普通である。実際のところ私なども、原子爆弾が今度の戦争に間に合おうとは思っていなかった。太平洋戦争勃発直前ルーズベルトがこのウラニウムの核分裂の研究に着目し、これを新兵器として使うべく、チャーチルと協力して、両国の物理学者を総動員したという噂をきいても、聊か多寡をくくっていた。いくらアメリカが金を使い人を集めたところで、二年や三年で出来るべき性質の仕事ではないと考えられたからである。  ところが実際にそれが使用され、やがてその全貌が明かにされて来て、初めて今度の戦争の規模が本当によく理解されたのである。アメリカのことであるから、何百人の科学者を動員し、何千万円という研究費を使っているのかもしれないが、それにしても今度の戦争にすぐ間に合うというような生易しい仕事ではないはずである。こういう風に考えていたのは私たちばかりではないらしい。ところがそれがまるで桁ちがいの数字であったのである。「発見までには二十億ドルを費」し「六万五千を超える」技術作業員を擁した大工場の作業が、極秘裡に進められていようとは夢にも考えていなかったのである。  この金額や人員の数は、航空機の生産の場合などには、我が国でも何も珍しいことではない。しかし驚異的の超速度で進められたとはいうものの、この原子爆弾の完成には四カ年近い年月を要している。そして今年の七月十四日に「全計画の成否を決定すべき一弾」がニューメキシコ州僻陬の荒蕪地に建てられた鉄塔の上に吊されるまでは、それが本当に全世界を震駭させる爆弾として完成されたか否かは分らなかったのである。科学者たちは多分出来るであろうと言うが、果して必ず出来るか否かは分らない仕事に、これだけの費用と人とをかけるということは、われわれには夢想だに出来なかったのである。  少し笑話になるが、我が国でも今度の大戦中、或る方面で原子核崩壊の研究委員会が出来ていた。そこの委員である一人の優秀な物理学者が、関係官庁の要路の人のところまでわざわざ出かけて来て、その研究に必要な資材の入手方の斡旋を乞われた。その時の要求が真鍮棒一本であったという話である。冗談と思われる人もあるかもしれないが、私は自分の体験から考えて、多分それは本当の話であろうと思っている。  いくら日本が資材に乏しいといっても、こういう重要な問題の研究に、真鍮棒一本渡せないはずはない。ないものは真鍮棒ではなくて、一般の科学に対する理解なのである。そしてそれほどまでに科学者以外の人々が科学に無理解であるということは、煎じつめたところ国力の不足に起因するのであろう。  新しい日本の建設は、先ず何よりも国力の充実に始まらねばならない。そして本当に充実した国力からのみ新しい次の時代の日本の科学が産まれるのである。もっともこういう風に言うと、そのようにして産まれた次の時代の日本の科学というものが、今日のものよりも更に強力な新しい原子爆弾の発明を目指しているように誤解されるかもしれない。しかし私は負け惜しみでなく、原子爆弾が我が国で発明されなかったことを、我が民族の将来のためには有難いことではなかろうかと思っている。「原子核内の勢力が兵器に利用される日が来ない方が人類のためには望ましい」という考は、八年前も今も変らない。今回の原子爆弾の残虐性を知ってからは、科学もとうとう来るべき所まで来たという気持になった。  遠い宇宙の果の新星の中では起っていることかもしれないが、われわれの地球上ではその創成以来堅く物質の窮極の中に秘められていた恐るべき力を、とうとう人間が解放したのである。開けてはならない函の蓋を開けてしまったのである。これは人類滅亡の第一歩を踏み出したことになる虞れが十分にある。今回の原子爆弾は原子火薬を使うものとしては火縄銃程度と考えるのが至当であろう。この火縄銃が大砲にまで進歩した日のことをありありと想像し得る人は少いであろう。  新しい発明の困難さはそれが果して本当に出来るか否かが分らない点にある。一度何処かでその可能性が立証されてしまえば、もう半分は出来たようなものである。米英両国以外でも間もなく色々な型の原子爆弾が出来る日はもう遠くはあるまい。そしてそれが長距離ロケット砲と組合わされて、地球上を縦横にとび廻る日の人類最後の姿を想像することは止めよう。 「科学は人類に幸福をもたらすものではない」という西欧の哲人の言葉は、益々はっきりと浮び上って来そうな気配がある。しかし科学というものは本来は、そういうものではないはずである。自然がその奥深く秘めた神秘への人間の憧憬の心が科学の心である。現代の科学は余りにもその最も悪い一面のみが抽出されている。われわれの次の時代の科学はもっとその本来の姿のものであって欲しい。そういう願いを持つ人は、我国ばかりではなく、米国にも英国にも沢山いることであろう。 (昭和二十年十月一日) 底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店    1988(昭和63)年9月16日第1刷発行    2011(平成23)年1月6日第26刷発行 底本の親本:「春艸雑記」生活社    1947(昭和22)年 初出:「文藝春秋」    1945(昭和20)年10月1日 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。