南画を描く話 中谷宇吉郎 Guide 扉 本文 目 次 南画を描く話  昨年の春から、自分では南画と称しているところの墨絵を描くことを始めた。  南画を描くなどというと、段々年をとると、油絵よりも墨絵の方が良くなるそうだねなどと冷かされることもある。しかし私の場合は、そういう趣味が枯れて来たなどという洒落れた話ではなく、もっと現実な理由があるのである。  それはこの頃のように段々忙しくなって来ては、どうにも油絵など描いている閑はなくなってしまったからである。  閑のあるなしは、時間の問題ではなくて、心持の問題だということは真理であるが、それにしても、油絵のように、正味十時間とか十五時間とかとられるのでは、どうにもやり切れない。  その点墨絵の方は大変便利であって、描きかけたら、一時間か二時間あれば大抵の絵は出来上る。もっともいくら初年生の絵描きでも、少しは構図も考えたり、物を見たりする必要はあるので、全体としたら一時間で出来上るわけではない。しかし物を見たりする方は、いくらも時間のやり繰りが出来るので、正味の時間が潰れることはないので、大変助かるのである。少し不心得な話であるが、興味も必要も余りない会議の席などに何時間も唯顔を並べているだけの時などは、卓の上にある羊歯の葉の形を見ているというような場合もあり得るわけである。  この正味の時間をとられるかとられないかということが、私の南画を始めた決定的要素であったのであるが、少し描いて見ると、段々面白くなって来て、この頃は自分ながら少し可笑しいくらいの熱の揚げ方である。もっともそんなに時間がないのなら、何も新しい道楽など始める必要もないはずである。それにはたから見たら随分無理なやり繰りをして、妙な墨絵を描いているところを見ると、よほど道楽者に生れついているらしい。  その弁解をするようであるが、実はこういうことも少し考えているのである。  それは、前に「墨色」という雑文を書いた時に詳しく言ったように、寺田先生の墨流しの研究や、墨と硯に関する物理的研究を読んで、東洋の精神の一つのあらわれといわれている墨色という現象について、非常な興味をいだいたことがあった。そして今に停年にでもなったら、少し墨色の科学的な研究をして見たいという希望をもったことがある。  それで機会があるごとに、良い墨絵を見たり、墨の話を聞いたりしていたので、非常な名墨と駄墨との色の差くらいは分るようになった。そうなると、やはり自分でも少し描いて見たくなって、とうとう墨色の科学的研究に関する基礎技術の練習を始めることになったわけである。  前に油絵を始めたのは、寺田先生の油絵を見て羨しくなったのが機縁であった。大学を卒業して、先生の助手になった時に、初めて油絵具というものを買った。そして油絵具にはいくら油をさしても色は淡くならない、そういう場合には白を混ぜるのであるという知識だけを基にして、十枚ばかり色々と工夫して油絵を描いて見た。  十枚目くらいになって、やっと自信のある作品が出来たので、先生の御宅へ持って行って御目にかけた。そしたら先生から「ふうん、およそ油絵というものを少しでも習った人ならば、こうは描くまいという風な工合に描いてあるね。なかなか面白い」と褒められた。それに勇気を得て、その後益々精進することになったわけである。  ところで、今度の南画にも、もう亡くなられた先生との直接な機縁があるのには、自分でも少し驚いている。  もう一昨年のことであるが、その頃まだ伊東で病後の静養をしていた私のところへ、津田青楓さんから、或る日小さい小包が届いたことがあった。あけて見たら、一尺五寸角くらいのくしゃくしゃになった紙片に淡彩の墨絵を描いたものがはいっていた。書架と花の絵で、その下に、大正八年一月五日寺田寅彦と、毛筆でローマ字の署名がしてあった。  同時に手紙が来て、戸棚の隅を整理したら、反古にまじってこの絵が出て来たから君にあげると書いてあった。大正八年といえば、丁度先生があの大患でずっと休まれる直前のことであって、胃の工合がもう大分良くなかった頃である。  その前年の秋には『中央公論』に「津田青楓君の画と南画の芸術的価値」が出ているが、この頃は、時々先生は津田さんのところへ遊びに行かれて、毛筆淡彩の素描などを試みておられたらしい。その時の絵が一枚反古にまぎれ込んだまま二十何年ぶりで見つけ出されたのである。  私は先生の絵は一枚も持っていなかったので、本当に夢かとばかり喜んだ。特にこの絵は非常な傑作で、簡単な素描ながら、その気韻と香りの高さとには心のしずまるものがあった。覗き込んだ細君まで「何だか音が聞えて来るような絵ですね」とわけの分らぬことを言う始末であった。  早速表装をしてもらったら、すっかり新生して、見ちがえるようになった。私は嬉しくてたまらないので、上京の時持って行って、誰れ彼れに見せて廻って、大得意であった。  岩波さんの所へ行った時に、丁度安倍能成さんが見えていたが、この絵を見せたら、「うん、これは寺田さんの生涯の傑作だ。大事にし給え」と言われた。岩波さんは残念がって「君がそれを専有するのは少し怪しからん。僕にくれないか。そうすれば皆に見せられるから」と言われたので、慌ててしまいこんで伊東へ逃げ帰った。  こういう掛物は三日以上かけ放して置いてはいけないということなので、時々かけて見ては独りで喜んでいるうちに、とうとう自分でも何か描いて見たくなってしまった。そして本当に始めてしまったのである。  初めに描いて見たのは、雪の結晶の絵である。この題材は後から考えて見ると、なかなか巧いものを選んだものと自分にも思われる。第一今までに余り知られていない型の結晶を描いておくと、少しくらい口の悪い連中に見せても「へえ、こういう結晶もあるかね」と、その方に気をとられるという利得がある。その上、雪に興味をもっている人たちに見せると、大抵は一枚欲しいものですねと言ってくれる。  もっともそれもこの頃のように、少し絵らしくなってからの話であって、初めに描いて見た頃は、どうにもならないものであった。淡墨でしかも相当墨を淡くして描く方が有利であることは直ぐ分ったが、それでは沢山の結晶を並べると、余り単調になる。というよりも、どうにも絵にならない。  それに立体的に発達した結晶は、やはり濃淡をつける必要があるし、その上省略がなかなかむつかしい。おだやかな伊東の冬を火燵にあたりながら、顕微鏡写真を眺めては、結晶の特徴を考えて見るのは、ちょっとよかった。その方はすぐ考えがまとまって、必要な線も案外簡単に発見出来た。少くともそういう風な気持にはなれたのであるが、表現しようとなると、話がまた別になる。散々苦心をして結局出来上ったものは、雪菓子の包紙のようなものであった。気韻どころの騒ぎではない。二、三枚描いて見たが、ちっとも進歩の形跡が見えないので、そのままにして、時機の熟するのを待つことになってしまった。  その後大分経ってからのことであるが、或る日新聞の写真を見て、一つの発見をした。それは知った人の顔が沢山並んで小さく写っている写真であったが、それが皆ちゃんと誰れ彼れの顔に見える。一人の顔が小豆粒大に写っている写真である。よく気をつけて見ると、顔の形をなすものは大部分が黒くて、その一部に白い斑点があるだけのものである。中間の墨色のような所は殆んどないし、白い斑点の形も殆んどどの顔でも同じような恰好である。それでいて皆の顔にそれぞれの特徴が出ていて、表情までも分るのであるから、これは大したことだと感心した。後から考えて見れば、専門の絵描きの人には一笑に附されるにちがいない分り切った常識であろうが、その時はひどく感心した。  こういう場合、原因としては、人間の眼が恐ろしく敏感であるからだと言っておけば、先ず無難である。しかしそれは全くの逃げ口上で、敏感といっても、何にどう敏感なのかが分らなくては余り意味がない。それで虫眼鏡を持ち出して、その写真の部分を拡大して調べて見ることにした。巧く行ったら、黒く出ている顔の輪郭とか、光の当っている所即ち顔立を示す白い斑点とかの形に、微小ながらちゃんとした差があることが、分るかもしれないというつもりであった。  ところが新聞のあの粗い網目では、拡大して見ると、点ばかり見えて、とても輪郭の差などが測れるわけのものでないことが直ぐ分った。もっともあくまで分析的に調べたら、勿論点の大小や濃淡、それに僅かなその配置の差などがあるにはちがいない。そしてそういう色々な要素の差の綜合効果が、顔立や表情の差となって見えるのである。  この議論は、結局顔が似るということの形態学まで行かなければ話が納らない。しかしそういう千古の謎にかかわっていることは止めて、先へ急ぐことにする。  今の場合と同じことを絵について言うと、極めて簡単なタッチで、小豆粒大の人の顔を見分けさせ、その上表情まで出していることになる。そしてそういうことが可能である所以は、描かれたものの形や色にあるというよりも、むしろ見る人の眼と頭とに具有されている各種の要素についての差の綜合認識作用にあるのであろう。  そう考えれば話は大変巧いので、絵の良し悪しの責任は、半分は見る人に負わせられることになる。特に墨絵のように簡単な線と一色の濃淡だけしか使わないものでは、この見る人の眼と頭との作用を極度に利用する必要がある。  こういう風に言って見ると、結局東洋画の真髄は観者を共同製作者とするにあるという昔からの言い旧された言葉を、妙な理窟で解説しただけのことだといわれるかも知れない。しかしまあそれでも良いということにしよう。  ところでこういう理窟が分ったとして、それを実際に応用して名画を描くとなると、どうしてよいか、ちょっと困ってしまう。以上はいわば精神論だけであって、それを活かす技術を研究しないでは、この頃流行の或る種の議論見たようなものである。もっとも蘭の葉一枚描くことも習わないで、名南画を描こうというのであるから、困るのは当然である。  それから暫く経ってのことである。  或る日驪山荘の秦さんのところで、秋田のきりたんぽだの雪菜だのというものを、津田さんと二人で御馳走になったことがあった。その時津田さんが、画帖に印度林檎を素描で描かれるのを側で見ていて、はたと思い当ることがあった。津田さんは初めに皿を描いて、その上に林檎を描かれたのであるが、じっと林檎を眺めながら、輪郭の一部を描き、ついであの印度に特有な縦の凹みに当る部分に一本の線を入れられたのであるが、その線をひくのに、津田さんは余所眼にも見える位極めて慎重であった。そうしたら急にただの林檎が印度になった。あの石を真綿できゅっと締めつけたような感じの縦の凹みが、一本の線だけで出るというのは、観者の頭の作用を巧く利用しているからにちがいない。  要するに人間というものは誰でも、すべての物について、単にいくつかの要素を抽象した像だけを頭の中にもっているものらしい。それでそういう像を頭の中に再現してやれば、それで満足するのではないかと思ってみた。そうすると、観者を共同製作者とするための一つの技術は、観者の頭の中にある沢山の線の中の一本をぴんと鳴らしてやればそれで良いので、後は共鳴現象に似た作用で、観者が初めからもっている像が再現され、それが立派な絵に見えるものらしい。  随分独断的な話であるが、南画の秘訣はここにあるということに決めた。こういう妙なしかもぼんやりしたことでも、とにかく何かの手掛りが出来たので、大いに勇気を得て、また勉強を始めることにした。  そういうつもりになって、色々のものをよく見ようとしたのではあるが、勿論肝腎な線がそう簡単に見えるはずはなかった。それでも頭の中の像と実物とを見較べながら、そういう線を探して行くと、時にはそれらしいと気のつくこともあった。しめたと思って早速描いて見ると、勿論思うような形の線にはならない。しかしその方は単に練習の問題であるから、話は簡単である。練習の方もそう時間はかけられないので、なるべく最小労力でとにかく見られる程度のことで我慢することにした。最小労力で胡魔化す術は実験の方で大分こつが分っているので、墨の濃度を色々かえたり、線の形だの太さだのを工夫したりして、順序立てて色々やって見て、偶然に巧いところにぶつかろうという余り正当でない方法を採用することにした。  どうも不心得な南画家であるが、こういう調子で二、三カ月大分描いて見た。  大抵は描いた直後はなかなかの傑作に見えて、翌日の朝出して見るとひどく下手な絵に見えた。そういうことを繰り返しているうちに、今度は段々墨色が気になり始めた。  腕の方を目立たなくするには、比較的淡い墨を使った方が無難らしいのであるが、淡くすると、今度は墨色がいかにも汚く見えて来て困った。どうせ三円か五円の油煙墨のことであるから、淡くすると妙に汚い茶色になって、一度気になり始めると、どうにも我慢が出来なかった。なまじっか昔金沢で中村皓さんの『名墨墨色図鑑』などを見せてもらって、その印象が残っているだけに厄介である。  中村さんの『墨色図鑑』には、唐墨の思わず眼をみはるような美しい墨色がいくつも載っていた。中村さんは「この色でしょうね、幼児の瞳をのぞいたような感じというのは」とそのうちの一つを指して教えてくれた。その青みを帯びた透明な黒さとでもいうべき墨色を思い出して、ああいう墨で描いたら、僕の絵だってきっと巧く見えるだろうがと思っているうちに、段々それが確信に変って来て、今までの墨では余り描く元気がなくなってしまった。  ところが世の中は不思議なもので、思いがけぬ所から、思いがけぬ名墨が手に入るようなことになった。或る所で臆面もなくこの頃南画を練習していますなどと話をしたら、暫くして、判を作ったらどうだといって、丁度その頃札幌へ来ていた篆刻家を紹介してくれた人があった。それは平井榴所氏といって、陶印が得意な人であった。  さすがに少し恥かしい気もしたが、度胸をきめて、一組頼むことにした。大分経ってから、平井さんがやっと出来ましたと言って、その判を持って来てくれた。早速拝見すると、大変よい出来で、特にそのうちの一つがひどく気に入ったので、御礼を言った。そうしたら平井さんが大変喜んで「実は私もこの方は近来にない出来だと思っていたんです。この判の味が分るようなら、先生もなかなか眼があります」と褒めてくれた。そして「僕は滅多に人に頼まないのだが、一つ何か絵を描いて、この判を押してもらいたいが」ということになった。それではと、速座に雪の絵を描いた。  平井さんは、その後間もなく九州へ帰って行ったが、暫くして手紙と小さい小包とが届いた。手紙には「先日の雪の絵はなかなか良いが、あの判を貴方の所の朱肉で押されてはちょっと困る。別便で朱泥を少々送ったから、今後はそれを使ってもらいたい。それから墨もあの墨では困る。唐墨を一本送ったから、それで今一枚雪の絵を描いてもらいたい。それから紙もあの紙では困るので、玉版箋を送った」という意味のことが書いてあった。  小包をあけて見たら、その通りにちゃんと揃っていた。どうも少し驚いたが、唐墨の試験に絶好の機会と、早速磨って色を見ることにした。ところが、その墨は正に夢想していた通りのものらしく、秘蔵の竜渓石でそっと磨って見たところ、最初の手触りからもうただの墨でないことがすぐ分った。なるほどフライパンの上でラードを磨るような手触りとは、こういうのを言うのだと感心した。墨は軟くしかも硯の面に吸いつくように動いた。  墨色も申し分なかった。僅かばかりの青みが深い所でその黒の基調をなしているような色であった。この墨を思い切って淡くして、玉版箋の上に、雪の結晶を一つ描いて見た。なかなか良い出来である。すっかり乾くのを待って、つくづく眺めると、どうも墨とは思われないような色である。雪の結晶はあの透明な水晶細工の姿を白い紙の上に現わし、初めて顕微鏡で結晶を覗いた時の感じが出て来た。あとになって見ると、それほどでもないのであるが、その時はそういう気がした。  墨色は濃淡によってまるでちがった色になった。それで今度は線の形と色の濃淡との組合せになるので、急に実験の範囲が広くなって来た。ところが困ったことには、平井さんの手紙にはまだあとがあった。「朱泥は呈上可仕候唐墨の方は進呈致兼候間存分御試用の後御返送を願上候」というのである。当然のことである。  それでは実験は急がねばならないので、手当り次第に色々なものを写生してみた。中には巧く出来たものもあるし、むずかしくて急にはどうにもならないものもあった。それでも熱帯魚のグピーだの、コスモスだの、雑草の図だのというものは、どうやら絵になったらしい。  少し熱中して来たので、今度は鑑賞家を必要とすることになった。その厄に遭ったのは、近所に住んでいる吉田洋一さんである。余り度々見せるので、少々うるさくなったらしく、なかなか褒めてくれない。グピーの図を見せると、「これは八大山人の焼直しだね」とすぐ見破ってしまうし、コスモスの絵は矢車草かと思ったというので、いささか出鼻を折られた。もっとも説明をきくともっともなので、要するに墨色が余り良いので、花が紫色に見えたというのである。しかし全体としては、進歩の傾向にあると褒めてくれた。  もう一日もう一日と思っているうちに、一カ月近く経ってしまった。どうしても墨を返さなくてはならない。とうとう決心して「今この墨と別れるのは女房と別れるよりも辛いが」という手紙をつけて、送り返してしまった。手紙の方は家庭争議の種になるし、今更もとの駄墨で描く気はなし、当分のうちは意気銷沈していた。  これで南画とも縁切りになりそうなくらい銷沈していたので、色々な同情者があらわれた。そして様々な経緯の末、結局二本唐墨を貰ったので、急に家が賑かになった。しかし同じく唐墨といっても、墨色はそれぞれちがって、やはり平井さんの墨のような色は出なかった。結局散々頭をしぼった末、一生一代の名文の手紙を書いて、とうとう平井さんからその墨を譲り受けて、やっと落付いた。誠に芽出度い結末になったわけである。  何でもこの墨は、まだ北京に日本の大使館のあった時代に、その武官が或る人に頼まれて、三本北京で手に入れたのだそうである。そしてその一本は誰とか、今一本は誰とかの手許にあるという由緒付きの墨だという話であった。  この墨色が如何に美しいかということを語る話がある。それは或る晩吉田さんが遊びに来ていて、また私が南画を描き、吉田さんがそれを見るということになった。そのうちに一つ合作を武見国手に贈ろうじゃないかという話が持ち上った。それで先ずあいかわらずの雪を描いた。そしたら吉田さんが、速座に Il neige doucement sur la ville と仏蘭西語で賛をした。私は聊か度胆を抜かれて「巧いものだなあ」とひどく感心した。吉田さんはにやにやしながら「なに、ランボウの焼直しさ」と済ましていた。  それを送ってから一月くらいして、上京のついでに武見さんの家を訪ねた。そしたらその絵がちゃんと表装されて、床の間にかかっていた。大変よい表装なので、大いに感謝の意をこめて、一体何処でこういう表装をしたのかと聞いて見た。そしたら「博物館でいつも国宝の修理をしている表装屋に頼んだんだよ」という答であった。そして「なかなか良い墨だそうだね。その表装屋さんが、こういう墨は珍しいと大変褒めていたよ」ということであった。大いに力を得て、「それだけですか」と聞いたのであるが、「うんそれだけさ」という返事で、聊か物足らなかった。  紙は満洲へ行った時に、奉天の城内までわざわざ行って沢山買って来たし、墨も待望の品が手に入ったし、判も朱泥も揃ったので、もうあとは描きさえすればよいわけである。ところがそのうちにそろそろ北海道の早い木枯が吹き始める頃になった。写生をするにも野趣のある草花はないし、花屋で売っている華かな花を描くには実力が要るし、ちょっと困った。  それでやはり摸写をすることにした。もっとも今更蘭竹から始めて、十年猛勉強をして、やっと田舎廻りの安画家の高弟程度の絵が描けるようになったのでも余り面白くない。色々考えた末、今までの日本画家が余り描かなかったような題材を選べば一番安全であるという明白な事実に気がついた。それで『日本魚類図説』と『日本蟹類図説』とを買って来た。  この本はどちらも原色版の写真の集成で、ちゃんとした学術的なものである。芸術的な意図は全然ない本であるが、精密な写真と忠実な色彩とでなっている魚や蟹の図は、よく見ていると益々美しく見えて来る。ちょっと時間の半端が出たりくたびれたりした時などに、当てもなく開いて、色々な魚や蟹の姿に見入りながら、どう描いたらこれが名画になるかなと、ぼんやり考えているのは、大変楽しみなものである。そういう目的には、どうも絵よりも写真の方が良いらしい。その良い例は内田清之助氏の『画と鳥』という本に沢山出ている。その中には、色々な鳥の生態写真と、丁度それに相応した姿の絵とが沢山あるが、開いて行くうちに、はっと「これは絵になる」という気がするのは、殆んど全部生態写真の方である。もっとも絵の方は抽象した像であり、写真の方は「全体」であるから、それが当然なのかもしれない。  二つの図説を根気よく見ているうちに、大分魚と蟹の顔をおぼえた。丁度脇本楽之軒氏から『新撰名品綜覧』の第一輯が届けられたが、そのうちの崋山先生の異魚図なども、一目見てすぐつばめうおと分って、独りで得意になった。異魚不知其名云々と賛をしてある絵であるが、あそこの所に Platax teira と学名の賛をしたら、ちょっとペダンティックで面白いかもしれないと、つまらぬことを考えて一人で悦に入っていた。こういう本はいわば文明の利器であって、或る場合にはなかなか便利なものである。  魚はかさごといしだいとを描いて見たが、この方は崋山先生の絵があるので、どうも見劣りがしていけない。それよりもはなびしがにの方がよほど上出来である。この蟹は螯脚がむやみと大きく、それが小さい甲羅から二本ぬっと出ている姿は、まるで団子に丸太をつきさしたような恰好である。四本の歩脚は、これがまた全く釣合というものを無視した細いもので、妻楊子を両側に四本ずつさしたような始末である。一体こういう馬鹿げた形のものが、生きていることさえ不思議なのに、実際に南海の磯のほとりに地質年代の昔からずっと生存を続けて来ているということは、全く論外の沙汰である。こういう形が一番生存に有利だとはどうしても考えが及ばない。しかし其処にはやはり何か本当のものがあるらしく、なるべく特徴を現すようにと忠実に描きあげて見ると、やはり蟹の化物には見えなくて、奇妙な形の蟹に見えるところが面白かった。  この蟹の怪奇な面影は、勿論その巨大な螯脚にある。そして螯の恐ろしく力強い形がそれに或る美しさを附与している。その力を表現するためには、うんと墨を重ねて濃くする必要があるらしい。それで今度は墨の重ね方の研究を必要とすることになった。  前に寺田先生の墨流しの研究で、水面に墨膜を作っておいて、その真中に第二の墨滴を落してやると、その墨が前の墨膜上に一様に拡って行くという実験がされてある。その時、後の墨が前の墨膜上に拡がる速度とか、その到達する距離とか、両者の境界がはっきりつくかぼけてしまうかということは、前に墨膜を作ってから、次の墨汁を加えるまでの時間によってきまることが分っている。この実験では、墨膜は水面上に浮いているので、乾燥の問題ははいらない。それで両者の墨の融合の度合は、時間と共に墨膜の墨の実質が変化する度できまるらしい。  紙に描いた場合は、この墨膜の性質の変化と、外に前の墨が乾燥するための影響があるので、話はもっとむつかしくなる。それに濡れている間と乾いてからとの効果の著しい差が、初めのうちは見当がつかないので、大分失敗した。それでも色々やって見ているうちに、そのこつも少しはのみこめた。  螯脚の力の表現はこれで出来たとして、爪楊子のような弱々しい細い歩脚がこれと何らかの意味で釣合って、とにかく生存をつづけている蟹として完成している姿を作るには、ちょっと工夫が要りそうだった。それには一つ巧いことを思いついた。それは秦さんの所で見た蟹の絵である。  秦さんは、足利時代の墨絵を沢山集めていたが、或る時蟹を一匹描いた小品を手に入れて以来、もう外の絵はいらなくなったという執心ぶりをその絵に示していた。その蟹はなるほど名品であって、少し身を起して石の上に立ち上ろうとした姿が如何にも生きていた。よく見ると、どうもその秘訣の一つは、歩脚の先の指節にあるらしく、針のように細いしかし強い線で描かれた指節の突端が、石に喰い入っていた。それが効いているらしい。  それで早速それを応用して見ることにした。結果はなかなかの好成績である。少し気が咎めるが、絵が巧く出来たのだから、まあ我慢することにしよう。こういう時に、創意は摸倣の集積なりという言葉は、ちょっと便利である。  こうして名画が出来上って見ると、今度はその上に素晴らしい賛が欲しくなった。今までの賛は大抵女学生向きだとの吉田さんの評が前にあったので、一つ相談をして見た。「自然は人間よりも空想的であるというのはどうだろう」と聞いて見たら「今度の蟹はなかなか傑作だから、一つ僕が賛をしよう。その文句をラテン語に翻訳して書いてやろうか」と言う。吉田さんのラテン語には私は余り信用を置いていないので、それは断った。そしたら「それでは英語で我慢しよう」と言って、速座に「To create is divine; To imagine, human」と書いた。こういう文句がすらすらと出るようなら、あるいはラテン語でもよかったかもしれないと思った。  賛といえば、これはなかなか大切なものである。絵の方が巧く行かない時でも、適当な配置を考えて、ちょっとはぐらかすような文句を書いておくと、大抵の人はその方に気をとられるらしい。もっともいつか東京から或る有名な先生と、聡明をもって鳴るその奥さんとが来られて、私の家を訪ねられたことがあった。話のついでに、新一楽帖と自称している自分の画帖を見せた。そしたらその奥さんから「中谷さんの南画というのは、配置と文句で胡魔化しているのね」と言われた。しかしこういう御難に遭うことは稀れで、一般には賛を入れておいた方が通りがよい。  もっといい方法は、誰かに賛を入れてもらうことである。以前から、東京への往き帰りに、時々仙台で下車しては、小宮さんのところで一泊して休ませてもらって来ることがあった。南画が始まってからは楽しみが一つ増えた。墨と判とをもって行って、私が絵を描いて、小宮さんに賛をしてもらうという計略をたてたのである。  昨年の秋、まだ本気に南画を始めてから半年も経たぬというのに、大胆にもすっかり道具を持って仙台へ乗り込んだ。その時は家族のものも皆一緒だったので、子供たちを秋晴れの庭で遊ばせながら、私たちは、縁側をすっかりあけ放した広い座敷で、朝から絵を描いた。「人間一度度胸をきめれば平気さといつかおっしゃいましたが、その通りですね」というような話をしながら、私はせっせと描いた。小宮さんは「うんなかなか巧いものだ」と言いながら、片っ端から賛を入れて行かれた。世の中で何が面白いといっても、こういう楽しみなことはちょっと外にはないようである。後になってその話を悪友の一人にしたら「そうか、そんなに面白いものなら、強いて禁止するまでのこともないだろう」と言った。  その時の絵の中では、コスモスがちょっとよく出来た。小宮さんは「これには俳句でなくちゃうつらないな」と言いながら、頭をひねっておられた。そして後廻しにしているうちに、どんどん時間が経って、気がついたらもう汽車の時間が迫っていた。時を惜しむというのは、こういうことを言うのであろう。「それではもう時間ですから。その絵は置いて行きますから、今度までに何か書いておいて下さい」と言ったら、小宮さんは、「うん、出来た」と筆をとって、 コスモスに句をいそがるる別れ哉     蓬 と賛をされた。  この幅が立派に表装されたところで、書斎の床の間にかけて、一人で眺め入った。そしたら仙台の秋が近々と蘇って来た。鵯の来る高い欅の梢はすっかり秋の色にそまり、芝生の中に一叢咲き乱れているコスモスの花は、強い日差しに照り映えていた。子供たちは、広い芝生を喜んで、いつまでも馳け廻っている。六尺の縁をへだてて広い座敷には、朱の毛氈がしかれ、真白な紙がちらばっていた。澄んだ秋の空気は、座敷の隅まではいって来た。そして床の間には、漱石先生の詩の双幅がかかっていた。  一年南画を勉強して、誰の前ででも平気で描くには、相当の修養が要る。それよりもそれを随筆に書くのは一層むつかしい。しかし人間一度度胸をきめれば、それくらいのことは出来るものである。 (昭和十六年七月一日) 底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店    1988(昭和63)年9月16日第1刷発行    2011(平成23)年1月6日第26刷発行 底本の親本:「第三冬の華」甲鳥書林    1932(昭和7)年 初出:「中央公論」    1941(昭和16)年7月1日 ※表題は底本では、「南画を描く話」となっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。