都会はぜいたくだ 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 都会はぜいたくだ  デパートの高い屋根の上に、赤い旗が、女や子供のお客を呼ぶように、ひらひらとなびいていました。おかねは、若い、美しい奥さまのお伴をしてまいりました。  そこには、なんでもないものはありません。みるもの、すべてが、珍しいものばかりでした。  東京へ出てきてから、奥さまにつれられて、方々を歩くたびに、田舎のさびしいところで働いて暮らす、お友だちのことを思わぬことはなかったのです。 「おつねさんなんか、こんなにぎやかなところは知らないのだ……。」と思うと、青々とした田圃の中に立っている、友だちの姿がありありと見られました。  千円、二千円という札のついた、ダイヤモンドの指輪が、装飾品の売り場にならべてありました。それを見ただけでもびっくりしたのです。また、食料品を売っている場所には、遠い西の国からも、南の国からも名物が集まっていました。そして、それにも高い値段がついていました。 「まあ、こんな高いものを、東京には、食べる人があるのだろうか?」と、疑われたのであります。 「おかねや、おまえの国の名物には、どんなものがあって?」と、奥さまは、ふりかえって、聞かれました。  おかねは、なんだろう? と思いました。小学校にいる時分、地理の時間に、自分の国の名産をいろいろ教えられましたが、この東京にまで出されているような名物は知らなかったのでした。 「わかりません。」と、耳を赤くしながら、答えるよりほかなかったのです。  見て歩くうちに、相模川のあゆや、八郎潟のふなまで、ならべられてありました。 「まあ、川魚までが、方々から、汽車で送られてくるのかしらん。」  このとき、彼女の頭に、弥吉じいさんの顔が浮かびました。じいさんは、川魚をとって生活したのであります。どんな暗い雨の降る晩も出かけてゆきました。なんでも、青いかえるを針につけて、どろ深い川で、なまずを釣り、山から流れてくる早瀬では、あゆを釣るのだという話でした。  夏、秋、冬、ほとんどおじいさんの休む日はありませんでした。ちょうど百姓が米を作ると同じように、また、職工が器具を造ると同じように、魚をとるのも、一通りでない骨おりでありました。心ある人なら、だれでもこのようにして作られた、食物はむだにし、また器具を粗末に取り扱うことをよくないと思うでありましょう。  このおじいさんが、これほど、骨をおって釣り上げた魚を、だれが、食べるのだろうか? そう思ったことに、無理はなかったのです。  なぜなら、雪の降る寒い晩に、おじいさんは、出かけてゆきました。村の子供らは、窓の外で鳴り叫ぶあらしの音に耳を澄まして、幾枚も蒲団をかぶっても、まだ震えがちにちぢこまっているのに、おじいさんは出かけなければなりませんでした。  川の上には雪が積もっていました。そして、その下の流れは、止まっていました。おじいさんは雪を掘り氷を破ると、その下に、黒い水がものすごく、じっと見上げています。おじいさんは、カンテラの火で水の面を照らしました。これは、眠っている魚を呼び寄せるためであります。  もう長い間、穴の中に、または、深い水底に眠って、春のくるのを待っていた魚たちは、ふいに明るくなったので、びっくりしました。 「なんだろうな。」 「月でないかしらん?」 「雪が積もっているのに、月のさすはずがないじゃないか。」 「でも、明るく、なにか、水を照らしているようだ。」 「それにちがいない。おれたちは、もう長い間眠った。いつのまにか、雪が消えて春になったのでないだろうか。」 「そんなことはない。まだ、水が、こんなに冷たい。そして、どこにも春らしい気分はこない。こんな変わったことのあるときは、要心が必要なのだ。」 「どれ、出かけて、みとどけてこよう。」 「それがいい。それがいい。」  魚たちは、半分おそれながら、ちらちら動く、カンテラの火の方に近づいたのです。火は赤い花が、風に吹かれて、地面をはいながら頭を振るように、暗い水の面にゆれていました。 「もう、だいぶ、魚の寄った時分だな。」  おじいさんは、手網で、ふいにすくうこともあれば、また糸を垂れて釣ることもありました。  おかねばかりでない。村の子供たちも、大人も、人のいい弥吉じいさんが、魚をとる苦心を知らないものはありませんでした。それですから、おじいさんのとった魚は、いくらうまくても、村のものは、もったいなくて食べられない気がしました。  おじいさんは、とった魚は、ふなでも、なまずでも、またあゆでも、みんな町へ持っていって売ったのであります。 「おじいさん、命がけでとった寒ぶなだ。いい値に売れるだろう。」と、人が聞きますと、 「なんの、おかゆがすすられるだけのものです。」と答えて、頭を振りました。 「だれが、おじいさんのとった、魚を食べるだろうか。」と、おじいさんに聞きますと、 「さあ、だれが食べるものか、そればかりは、わしにもわからない。」と、おじいさんは、答えたのでした。  お金がいくら高くても、うまいものを買う人のたくさんいる東京へ、あのおじいさんのとったなまずや、寒ぶなは、この遠い北の八郎潟から送られてきたふなのように、送られたのではないだろうかと、おかねは考えました。 「奥さま、どうして、東京の人は、高いお金を出して、めずらしい、うまいものを食べるんでしょうか。」と、おかねは、ききました。 「おまえ、それは、都と田舎とは、いっしょにならないよ。東京の人は、口がおごっているから。しかし、このごろは、田舎も、だんだん東京と同じになってきたという話だよ。」と、奥さまは、おっしゃいました。  しかし、おかねは、自分の生まれた村は、昔とかわらないと思っていました。 「奥さま、そんなことをすると、私どもには、罰があたります。」と答えた。 「ほほほ。」と、奥さまは、笑われました。  いろいろ外国からきた、びんにはいったよい酒のならべてあるところへきて、奥さまは、青い色の酒をお買いになりました。 「奥さま、お酒をめしあがるのでございますか?」と、おかねは、ききました。 「これは、甘いお酒なのよ。」  ほんとうに、家へ帰ると、かわいらしいグラスのコップについで、奥さまは、青いお酒をめしあがりました。 「おかね、おまえも一杯飲んでごらん。」といわれたので、おかねは、びっくりして、 「私は、まだ、お酒を口にいれたことがありません。」と、辞退しました。 「いいえ、このお酒は、けっして、毒にはならないの。そして、それを飲むと、なにかしらん、昔のことを思い出すから……。」と、奥さまは、おっしゃいました。 「奥さま、昔のことといいますと……。」と、おかねは、なんとなく、なつかしいような不思議な気がしたのです。 「そうなの、忘れてしまったことを思い出すのだよ。」  おかねは、そういわれると、飲んでみたくなりました。 「すこしばかり、いただきます。」といいました。  青い夕空のように、淡いかなしみをたたえたお酒が、小さなコップにつがれました。おかねは、それに、くちびるをつけると、甘くて酒という感じはしませんでした。これなら、もっと飲めるように思いましたが、やはりそれは、酒でありました。いつしか、いい心地となったのであります。  しばらくすると、胸の中が熱くなりました。そして、おかねは、飲むのでなかったと思いました。 「忘れてしまった、昔のことって、いつ、思い出すのだろう? 奥さまは、私をおだましになったのかもしれない。」と思って、床につきました。        *   *   *   *   *  弥吉じいさんの孫に、新吉という少年がありました。おかねとは仲よしでありました。新吉には両親がなく、おじいさんに育てられたのであります。  ある日、二人は、草原の上で遊んでいました。すると、新吉は、ぼんやりと立って、あちらの高い山の方を見ていましたが、急に、しくしくと泣き出しました。おかねは、驚いて、 「どうしたの? 新ちゃん。なぜ、泣くの……。」と、たずねました。  新吉は、だまって、両手で自分の目をこすって、涙をふきました。 「どうしたの? 新ちゃん。」と、おかねは、かさねて、たずねました。けれど、新吉は、さびしそうな顔つきをして、だまっていました。そして、いまのことは、すぐに忘れてしまって、二人はそれから、おもしろそうに遊んだのであります。  新吉は、九つのとき、ほんの一夜、病気になって臥たばかりで死んでしまいました。弥吉じいさんの、歎きは一通りでありません。その後、おじいさんは、さびしい、頼りない生活を送らなければなりませんでした。おじいさんは、孫の新吉と仲よしであった、おかねをいつまでもかわいがってくれました。  いつのまにか、おかねは、床の中で、忘れていた昔のことを思い出していました。すると、急に、昔がなつかしく、ふるさとが恋しくなって、床の中ですすり泣きをしました。そのうちに、眠入ってしまったのです。  眠りがさめると、いいお天気でありました。おかねは、もう昨日のことは忘れて、せっせと働きました。夏の日は、はやくから庭さきに当たって、まつばぼたんの花が、黄・紅・白、いろいろに美しく燃えるように咲いていました。 「まあ、きれいだこと。」と、見とれていると、小ばちが、羽を鳴らして、花の上を飛んでいます。そこへ、奥さまは、お見えになって、笑いながら、 「おかねは、昨夜、なにか、夢を見たね?」と、おっしゃいました。  おかねは、頭をかしげましたが、思い出すことができません。しかたなく、下を向いて笑っていました。 「怖ろしい夢でも見たのか、大きな声を出してよ。」と、奥さまはいわれました。  おかねは、久しぶりに、子供の時分のことを床にはいってから思い出したことだけはわかりました。けれど、そのほかのことは、わかりませんでした。彼女は、また、はればれとした顔をして、おもしろそうに、仕事をつづけました。 底本:「定本小川未明童話全集 7」講談社    1977(昭和52)年5月10日第1刷発行    1982(昭和57)年9月10日第6刷発行 底本の親本:「未明童話集 5」丸善    1931(昭和6)年7月10日発行 初出:「教育研究」    1930(昭和5)年8月3日 ※表題は底本では、「都会はぜいたくだ」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:館野浩美 2019年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。