お姫さまと乞食の女 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 お姫さまと乞食の女  お城の奥深くお姫さまは住んでいられました。そのお城はもう古い、石垣などがところどころ崩れていましたけれど、入り口には大きな厳めしい門があって、だれでも許しがなくては、入ることも、また出ることもできませんでした。  お城は、さびしいところにありました。にぎやかな町へ出るには、かなり隔たっていましたから、木の多い、人里から遠ざかったお城の中はいっそうさびしかったのであります。  お城の中には、どんなきれいな御殿があって、どんな美しい人々が住んでいるか、だれも知ったものがなかったのです。旅人は、お城の門を通り過ぎるときに、足を止めてお城のあちらを仰ぎました。けれど、そこからは、なにも見ることができませんでした。 「なんでも、きれいな御殿があるということだ。」と、一人の旅人がいいますと、 「美しいお姫さまがいられて、いい音楽の音色が、夜も昼もしているということだ。」と、また他の一人の旅人がいっていました。  こうして、旅人は、いろいろなうわさをしながら、そのお城の門の前を去ってしまったのであります。  お城の中には、美しい御殿がありました。そして御殿の一室に、美しいお姫さまが住んでいられて、毎日、歌をうたい、いい音色をたてて音楽を奏せられ、そして、窓ぎわによりかかっては、遠くの空をながめられて、物思いにふけっていられました。そのことはだれも知ることができなかったのです。  お姫さまは、このお城の中で大きくなられました。そして、このお城の内しかお知りになりませんでした。お城の中には、大きな林がありました。また、大きな濠がありました。林の中には、いろいろな鳥がどこからともなく集まってきて、いい声でないていました。またお濠や、池の中には、珍しい魚がたくさん泳いでいました。そのほか、御殿の中には、この世の中のありとあらゆる珍しいものが飾られてありました。けれどお姫さまは、もはや、そんなものを見ることに飽きてしまわれました。 「ああ、わたしは、このお城の中にばかりいることは飽きてしまった。このお城の中から外へ出てみたいものだ。」と、お姫さまは思われました。  このことをおつきのものに話されますと、おつきのものは、びっくりして、目を円くしていいました。 「それはとんでもないことです。このお城の内ほどいいところは、どこへいってもありません。お城の外に出ますと、それはきたないところや、暗いところや、また悪い人間などがたくさんにいまして安心することができません。お城のうちほど、いいところがどこにありますものですか。」と申しました。  しかし、お姫さまは、だれがなんといっても、やはり、お城の外に出て、世の中というものを見たいと思われました。 「世の中というところは、どんなところだろう。そこには、にぎやかな町があるということだ。その町へいったら、きっと自分の知らないおもしろいことがたくさんにあるに相違ない。そして、いろいろな歌を聞かれるにちがいない。どうかして、わたしは、その世の中を見たいものだ。」と、お姫さまは思われたのであります。  林の中には、いろいろな小鳥がきてさえずっていましたけれど、その小鳥は、もはやお姫さまには珍しいものではなかったのです。しかるに、あるとき、遠い南の方から渡ってきたという、赤と緑と青の毛色をした、珍しい鳥を献上したものがありました。  お姫さまは、この鳥が、たいそう気にいられました。そして、自分の居間に、かごにいれて懸けておかれました。小鳥は、じきにお姫さまになれてしまいました。しかし、小鳥も、自身の生まれた、遠い国のことをときどき、思い出すのでありましょう。かごの中のとまり木に止まって、遠くの青い、雲切れのした空をながめながら、悲しい、低い音色をたててなくのでありました。するとお姫さまも悲しくなって、涙ぐまれたのであります。そして、やはり、あちらの空を見ていられますと、白い雲が夢のように飛んでゆくのでありました。 「おまえは、なにをそんなに考えているの? しかし、おまえはこんなに遠い他国にくるまでには、さだめしいろいろなところを見てきたろうね。町や、海や、港や、野原や、山や、河や、また珍しいふうをした旅人や、その人たちの歌う唄などを聞いたり、見たりしてきたにちがいない。しかし、わたしは、そんなものを聞くことも見ることもできない。」  お姫さまは、こういってなげかれたのであります。  お城の内には、さびしい秋がきました。つぎに木の葉のことごとく落ちつくしてしまう冬がきました。いろいろな木の実が紅く熟し、それが落ちてしまうと雪が降りました。そして、しばらくたつとまた、若草が芽をふいて、陽炎のたつ、春がめぐってきたのであります。  お城の内には、花が咲き乱れました。みつばちは太陽の上る前から、花の周囲に集まって、羽を鳴らして歌っていました。ほんとうに、のびのびとした、いい日和がつづきましたので、お城の門番は、退屈してしまいました。どこからともなく、柔らかな風が花のいい香りを送ってきますので、それをかいでいるうちに、門番はうとうとと居眠りをしていたのであります。  ちょうど、そのとき、みすぼらしいようすをした女の乞食がお城の内へ入ってきました。女の乞食は門番が居眠りをしていましたので、だれにもとがめられることがなく、草履の音もたてずに、若草の上を踏んで、しだいしだいにお城の奥深く入ってきたのであります。  お姫さまは、おりから、怪しげなようすをした女がこちらに近づいてくるのをごらんになりました。そして、よくそれをごらんになると、自分と同じ年ごろの美しい娘でありました。お姫さまはこんなに美しい娘が、どうして、またこんなに汚らしいようすをしているのかと怪しまれたのです。 「おまえは、だれだ?」と、お姫さまは、おたずねになりました。  すると女の乞食は、悪びれずに、 「わたしは、貧しい人間です。親もありませんし、家もないものです。こうして諸方を歩いて、食べるものや、着るものをもらって歩く人間なのでございます。」と答えました。  お姫さまは、その話を聞いていられる間に、幾たび、びっくりなされたかしれません。そして、この女が、乞食であることをはじめてお知りになりました。 「おまえは乞食なの?」と、お姫さまはお問いになされました。 「さようでございます。」と、汚らしいようすをした女は答えました。 お姫さまは、つくづくと女の乞食をごらんになっていましたが、小さな歎息をなされました。 「なんという、おまえの目は美しい目でしょう。」とおっしゃられました。  女の乞食は、お姫さまを見上げて、 「そんなに、わたしの目がよろしければ、あなたに、目をさしあげましょう。」と申しました。  お姫さまは、なおつくづくと女の乞食をごらんなされていたが、小さな歎息をなされて、 「まあ、なんというおまえの髪の毛は美しいのだろう。」といわれました。  女の乞食は、長い、黒い髪の毛を手でかきあげながら、 「わたしの髪の毛が、そんなによろしければ、あなたにさしあげましょう。」と申しました。  お姫さまは、前後のわきまえもなく、女の乞食に抱きつかれました。 「ああ、なんというおまえの心はやさしいのでしょう。目も髪の毛もみんなおまえのもので、だれもおまえから取ることができはしない。わたしがどうして、これをおまえからもらうことができましょう。わたしは、それをほしいとは思いませんが、どうか、おまえのきている着物をおくれ。そして、おまえは、わたしの着物をきて、わたしのかわりとなって、しばらく、このお城の内に住んでいておくれ。わたしは、おまえになって、広い世の中を見てきたいから……。」と、お姫さまは、女の乞食にむかって、ねんごろに頼まれました。  女の乞食は、下を向いて、しばらく考えていましたが、やがて顔を上げて、 「お姫さま、わたしは、なんでもあなたのおっしゃることを聞きます。しかし、わたしみたいなものが、お姫さまのかわりとなっていることができましょうか。」と申しました。  お姫さまは、軽くうなずかれ、 「わたしがよく、侍女に頼んでおきます。そして、そんなに長くはたたない。じきにもどってくるから、どうかわたしのいうことを聞いておくれ。ぜひお願いだから……。」といわれましたので、女の乞食は、ついにうなずいて、お姫さまのいうことを聞きました。  お姫さまは、侍女をお呼びになって、そのことを話されますと、侍女は、びっくりして目を円くしました。 「お姫さま、そんなお考えをお起こしになってはいけません。どんなまちがいがないともかぎりません。」と、おいさめ申しましたが、お姫さまは、どうかわたしの希望をかなえさせておくれ、きっとその恩は返すからといって、ついに、女の乞食に姿をやつされました。そして、城を立ちいでられることになりました。  門番が見つけたら、またひと災難であろうと、お姫さまは心配をなされましたが、門番はこのときまで、まだいい心地に居眠りをしていましたので、乞食のふうをした若い女が、自分の前を忍び足で通り過ぎたのをまったく知らなかったのであります。  お姫さまは、往来の上に出られました。その道を歩いてゆくと、どこまでも道はつづいています。そして、ゆきつきるということがありませんでした。お城の内は、いくら広くても、一日の中には、まわりつくしてしまうことができますのに、往来はどこまでいっても、はてしがなかったのです。そればかりでない、青々とした野原や、花の咲く圃などを右に左に見ることができました。緑色の空は、円やかに頭の上に懸かって、遠く地平線のかなたへ垂れ下がっています。春風は、遠くから吹いて、遠くへ去っていきます。百姓が愉快そうに働いています。お姫さまは、なにを見ても珍しく、心も、身ものびのびとなされました。 「ああ、世の中というものは、なんという楽しいところだろう。」と、お姫さまは思われました。そして、いままでお城の内でしていた生活は、なんという窮屈な生活であったろうと思われました。  あるところでは、山が見られました。また、あるところでは、大河が流れていました。その河には橋がかかっていました。お姫さまは、その橋を渡られました。すると、あちらに、にぎやかないろいろな建物のそびえている町があったのであります。この乞食のようすをした、お姫さまに出あった人々の中には、気の毒に思って、お姫さまの側に寄ってきて、 「どうして、おまえさんは、そんなに若いのに乞食をするのですか?」と、聞いたものもありました。  お姫さまは、こういって聞かれると、なんといって答えたらいいだろうかとまどわれましたが、 「わたしには、両親もなければ、また家もないのです。」と、いつか乞食の女がいったことを思い出して答えられました。  すると、その人は、たいそうお姫さまを気の毒に思って、銭を出してくれました。  お姫さまは、旅費などは用意してきたので、べつにお金はほしくもなかったが、こうしてしんせつに知らぬ人がいってくれるのを、あだに思ってはならないと思って、深くお礼を申されました。  夜になったときに、お姫さまは、みんな自分のような貧しいようすをした旅人ばかりの泊まる安宿へ、入って泊まることになされました。そこには、ほんとうに他国のいろいろな人々が泊まり合わせました。そして、めいめいに諸国で見てきたこと、また聞いたことのおもしろい話や、不思議な話などを語り合って、夜を更かしました。また、それらの中には、自分と同じ年ごろの唄うたいがいて、マンドリンを鳴らして、いろいろな歌をうたって、みんなを楽しませていました。  お姫さまはもとからマンドリンを弾くことが上手であり、また、歌をうたうことが上手でございましたから、自分も、明日からは、唄うたいとなって、旅をしようと思われました。夜が明けて、太陽が、花の咲いたように空に輝きわたりますと、その宿に泊まったすべての人々は、思い思いに旅をつづけて、散っていってしまいました。お姫さまは、それを哀しいことにも、また、たのしいことにも思われました。そこで、自分は、すっかり唄うたいのふうをして、この町を立って、さらに遠い遠い、自由な旅をつづけることになされました。  お城の内に、お姫さまのかわりになって残った女の乞食は、その日からは、なに不足なく暮らすことができましたけれど、退屈でしかたがありませんでした。 「いまごろ、お姫さまは、どうなさっていられるだろう。早く帰ってきてくださればいい。」と、明け暮れ思っていました。  女の乞食は、ふたたび、気ままな体になって、花の咲く野原や、海の見える街道や、若草の茂る小山のふもとなどを、旅したくなったのであります。  女は、柱にかかっている小鳥に目をとめました。その小鳥は、お姫さまがかわいがっていられた美しい小鳥でありました。小鳥は、かごの中でじっとして考えています。女は、顔をかごのそばに近寄せました。 「小鳥や、おまえも産まれたふるさとが恋しいだろう。さあ、わたしが、いまおまえを自由にしてあげるから、早く飛んでおゆき。」と、女はいいました。  そして、女は、お姫さまの大事にしていられた小鳥を、放してやりました。赤と、緑と、青の羽色をした美しい小鳥は、いい声でないて、お城の上を舞っていましたが、やがて雲をかすめてはるかに、どこへとなく飛び去ってしまったのであります。  お姫さまは、足にまかせて、いっても、いっても、はてしのない遠くへといってしまって、帰ろうと思っても、そこがどこやらまったくわからなくなってしまったのです。お姫さまは、自分の国をばたずねても、だれもその名を知っている人はなかったのです。 「そんな国がどこか、遠いところにあるとは聞いたが、私どもはいってみたことも、またはたしてほんとうにあるのかさえも知りません。」と、人々は答えました。  お姫さまは、悲しくなりました。たとえこうしていることが、どんなに自由であっても、ふるさとのことを思い出さずにいられなかったのです。お姫さまは、いまは、ふるさとを恋しく思われました。晩方の雲を見るにつけ、空を飛んでゆく鳥の影を見るにつけ、ふるさとを思い出しては涙にむせばれていたのであります。  ある日のこと、お姫さまは、海の見える港のはずれで、独りマンドリンを弾き、ふるさとの唄をうたっていられました。そこは、ずっとある島の南の端でありまして、気候は暖かでいろいろな背の高い植物の葉が、濃い緑色に茂っていました。女の人は、派手な、美しい日がさをさして、うすい着物を体にまとって路を歩いています。男の人は、白い服を着て、香りの高いたばこをくゆらして歩いていました。  お姫さまは、太陽の輝いた、海の面をながめながら、心をこめて唄を歌っていられました。そのときお姫さまは、聞き慣れた、なつかしい小鳥の声を耳にされたのであります。  それもそのはずのこと、お姫さまの大事にされていた小鳥は、かごを出て、自由な身になりますと、夜も昼も旅をして、自分の産まれた南の方の島に帰ってきたのです。  そして毎日、のどかな空に、舞いさえずりながら遊んでいますうちに、ある日のこと、下の方の港で、御殿にいた時分、お姫さまのよくうたわれた唄と、そしてまさしく、なつかしい同じ声とを聞いたから、そばの木におりてみたのであります。  すると、まちがいなくお姫さまでありました。小鳥はすぐに、お姫さまが国へ帰りたいと思っても、その方角も、また道もわからなくて、困っていられるのを察したのでありました。 「おお、きれいな小鳥だこと、あの鳥は、わたしの飼っていた鳥とよく似ている……。」と、お姫さまは、目ざとくその鳥を見つけると、思われました。  小鳥は、すぐにお姫さまのそばまでやってきて、なつかしそうにくびをかしげてさえずっています。 「おお、おまえは、まさしくわたしの大事にしていた小鳥なのだ。どうして、ここへやってきたの? わたしは、国へ帰りたいと思っても、道がわからなくて困っています。どうか、わたしをつれていっておくれ?」と、お姫さまは、小鳥に向かって話されました。  それから、お姫さまは、小鳥について、その飛んでゆくままに、旅をされたのであります。  小鳥が、船のほばしらの先に止まって鳴いたときに、お姫さまは、船に乗られました。そして、はるばると波路を揺られてゆかれました。小鳥が岸に上がって、木に止まって鳴いたときに、お姫さまは、船から上がられました。そして、そこに休んでいたろばに乗られて、砂漠の中を過ぎられました。  お姫さまは、その道は、自分のきた時分に通った道でないので、ほんとうに、故郷に帰ることができるだろうかと、不安に思われましたが、小鳥がどこまでもついていってくれるのを頼りに旅を続けられていますと、ある日のこと、お姫さまは見覚えのあるお城の森が、あちらにそびえているのをごらんになりました。 「おお、わたしはお城へ帰ってきた!」と、お姫さまは覚えず叫ばれました。  小鳥は、「いま、あなたは、なつかしいふるさとにお帰りなったのです。あなたが、私をかわいがってくださった、ご恩を返すために、ここまで、あなたをおつれ申しました。」といわんばかりに、木の枝に止まってないていました。 「ほんとうに、ありがとう。」と、お姫さまは、涙に輝いた瞳を上げて、小鳥をじっとごらんなさいますと、小鳥は、やっと安心をしたように、空高く舞い上がって、どこへともなく、雲を遠く飛び去ったのであります。  ちょうどお姫さまが、お城を出られてから、三たびめの春がめぐってきたのでありました。その間に、どうしたことか、門番の姿は見えませんでした。お姫さまは、乞食の女のことが気にかかりながら、お城の内へとしずみがちに歩みを運ばれました。 「まあ、お姫さま、お帰りでございますか。」と、侍女は、お姫さまの姿を見ると、目にいっぱい涙をためて抱きつきました。 「おまえも無事でよかったね。そしてあの女はどうしました?」と、お姫さまも目に涙をためて聞かれました。  侍女は、声を忍んで泣きました。そして、 「お姫さま、まことにかわいそうなことでございます。去年の春、御殿にお客がありまして、ご宴会のございましたときに、殿さまから、お姫さまに歌をうたって舞うようにとのご命令がありました。あの女は、そんな歌も知らなければ、また舞いもできませんでした。それを知らぬというわけにもいかず、その前夜、井戸の中に身を投げて死んでしまいました。」と申しました。  お姫さまは、あの女が、自分の身がわりになったばかりに死んだことを、たいそうかわいそうに思われました。そして、女の身を投げて死んだという井戸のそばへいって、深く、深く、わびられますと、その井戸のそばには、濃紫のふじの花が、いまを盛りに咲き乱れていたのであります。 ──一九二一・一二作── 底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社    1977(昭和52)年1月10日第1刷    1981(昭和56)年1月6日第7刷 初出:「童話」    1922(大正11)年4月 ※表題は底本では、「お姫さまと乞食の女」となっています。 ※初出時の表題は「お姫様と乞食の女」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:本読み小僧 2012年9月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。