みつ柏 泉鏡太郎 Guide 扉 本文 目 次 みつ柏 曠野 買はれた女 狐 曠野 「はゝあ、此の堂がある所爲で==陰陽界==などと石碑にほりつけたんだな。人を驚かしやがつて、惡い洒落だ。」  と野中の古廟に入つて、一休みしながら、苦笑をして、寂しさうに獨言を云つたのは、昔、四川酆都縣の御城代家老の手紙を持つて、遙々燕州の殿樣へ使をする、一刀さした威勢の可いお飛脚で。  途次、彼の世に聞えた鬼門關を過ぎようとして、不案内の道に踏迷つて、漸と辿着いたのが此の古廟で、べろんと額の禿げた大王が、正面に口を赫と開けてござる、うら枯れ野に唯一つ、閻魔堂の心細さ。 「第一場所が惡いや、鬼門關でおいでなさる、串戲ぢやねえ。怪しからず霧が掛つて方角が分らねえ。石碑を力だ==右に行けば燕州の道==とでもしてあるだらうと思つて見りや、陰陽界==は氣障だ。思出しても悚然とすら。」  飛脚は大波に漾ふ如く、鬼門關で泳がされて、辛くも燈明臺を認めた一基、路端の古い石碑。其さへ苔に埋れたのを、燈心を掻立てる意氣組で、引毮るやうに拂落して、南か北か方角を讀むつもりが、ぶる〳〵と十本の指を震はして、威かし附けるやうな字で、曰く==陰陽界==とあつたので、一竦みに縮んで、娑婆へ逃出すばかりに夢中で此處まで駈けたのであつた。が、此處で成程と思つた。石碑の面の意を解するには、堂に閻魔のござるが、女體よりも頼母しい。 「可厭に大袈裟に顯はしたぢやねえか==陰陽界==なんのつて。これぢや遊廓の大門に==色慾界==とかゝざあなるめえ。」  と、大分娑婆に成る。 「だが、恁う拜んだ處はよ、閻魔樣の顏と云ふものは、盆の十六日に小遣錢を持つてお目に掛つた時の外は、餘り喝采とは行かねえもんだ。……どれ、急がうか。」  で、兩つ提へ煙管を突込み、 「へい、殿樣へ、御免なせいまし。」と尻からげの緊つた脚絆。もろに揃へて腰を屈めて揉手をしながら、ふと見ると、大王の左右の御傍立。一つは朽ちたか、壞れたか、大破の古廟に形も留めず。右に一體、牛頭、馬頭の、あの、誰方も御存じの──誰が御存じなものですか──牛頭の鬼の像があつたが、砂埃に塗れた上へ、顏を半分、べたりとしやぼんを流したやうに、したゝかな蜘蛛の巣であつた。 「坊主は居ねえか、無住だな。甚く荒果てたもんぢやねえか。蜘蛛の奴めも、殿樣の方には遠慮したと見えて、御家來の顏へ辵を掛けやがつた。なあ、これ、御家來と云へば此方人等だ。其の又家來又家來と云ふんだけれど、お互に詰りませんや。これぢや、なんぼお木像でも鬱陶しからう、お氣の毒だ。」  と、兩袖を擧げて、はた〳〵と拂つて、颯と埃を拭いて取ると、芥に咽せて、クシヤと圖拔けな嚏をした。 「ほい。」と云ふ時、もう枯草の段を下りて居る、嚏に飛んだ身輕な足取。  まだ方角も確でない。旅馴れた身は野宿の覺悟で、幽に黒雲の如き低い山が四方を包んだ、灰のやうな渺茫たる荒野を足にまかせて辿ること二里ばかり。  前途に、さら〳〵と鳴るは水の聲。  扨は流がある。里もやがて近からう。  雖然、野路に行暮れて、前に流れの音を聞くほど、うら寂しいものは無い。一つは村里に近いたと思ふまゝに、里心がついて、急に人懷かしさに堪へないのと、一つは、水のために前途を絶たれて、渡るに橋のない憂慮はしさとである。  但し仔細のない小川であつた。燒杭を倒したやうな、黒焦の丸木橋も渡してある。  唯、其の橋の向う際に、淺い岸の流に臨んで、束ね髮の襟許白く、褄端折りした蹴出しの薄ら蒼いのが、朦朧として其處に俯向いて菜を洗ふ、と見た。其の菜が大根の葉とは違ふ。  葡萄色に藍がかつて、づる〳〵と蔓に成つて、葉は蓮の葉に肖如で、古沼に化けもしさうな大な蓴菜の形である。  はて、何の菜だ、と思ひながら、聲を掛けようとして、一つ咳をすると、此は始めて心着いたらしく、菜を洗ふ其の婦が顏を上げた。夕間暮なる眉の影、鬢の毛も縺れたが、目鼻立ちも判明した、容色のいゝのを一目見ると、呀、と其處へ飛脚が尻餅を搗いたも道理こそ。一昨年亡くなつた女房であつた。 「あら、丁さん。」  と婦も吃驚。──亭主の亭と云ふのではない。飛脚の名は丁隷である。 「まあ、お前さん、何うして此處へ、飛んだ事ぢやありませんかねえ。」  人間界ではないものを……と、唯た今、亭主に死なれたやうな聲をして、優しい女房は涙ぐむ。思ひがけない、可懷しさに胸も迫つたらう。  丁告之以故。──却説、一體此處は何處だ、と聞くと、冥土、と答へて、私は亡き後、閻魔王の足輕、牛頭鬼のために娶られて、今は其の妻と成つた、と告げた。  飛脚は向う見ずに、少々妬けて、 「畜生め、そして變なものを洗ふと思つた。汝、そりや間男の鬼の腹卷ぢやねえかい。」  婦は、ぽツと瞼を染めながら、 「馬鹿なことをお言ひでない。丁さん、こんなお前さん、ぺら〳〵した……」 「乾くと虎の皮に代る奴よ。」 「可い加減なことをお言ひなさいな。此はね、嬰兒の胞胎ですよ。」と云つた。  十度、これを洗ひたるものは、生れし兒 清秀にして貴し。洗ふこと二三度なるものは、尋常中位の人、まるきり洗濯をしないのは、昏愚、穢濁にして、然も淫亂だ、と教へたのである。 「内職に洗ふんですわ。」 「所帶の苦勞まで饒舌りやがる、畜生め。」  とづか〳〵と橋を渡り掛ける。 「あゝ、不可い、其處を。」と手を擧げて留める間もなく、足許に、パツと火が燃えて、わツと飛び移つた途端に、丸木橋はぢゆうと水に落ちて、黄色な煙が──濛と湧立つ。 「何が、不可え。何だ内職の葉ツ葉ぐれえ。」  女房は、飛脚を留めつゝ驚く發奮に、白い腕に掛けた胞胎を一條流したのであつた。 「否、まあ、流した方は、お氣の毒な娑婆で一人流産をしませうけれど、そんな事よりお前さん、橋を渡らない前だと、まだ何うにか、仕樣も分別もありましたらうけれど、氣短に飛越して了つてさ。」 「べらぼうめ、飛越したぐらゐの、ちよろ川だ、また飛返るに仔細はあるめえ。」と、いきつて見返すと、こはいかに、忽ち渺々たる大河と成つて、幾千里なるや果を見ず。  飛脚は、ハツと目が眩んで、女房に縋着いた。  強ひても拒まず、極り惡げに、 「放して下さい、見られると惡いから。」 「助けてくれ。」 「まあ、私何うしたら可いでせう。……」  と色つぽく氣を揉んで、 「とに角、家へおいでなさいまし。」 「助けてくれ。」  川の可恐しさに氣落がして、殆ど腰の立たない男を、女房が手を曳いて、遠くもない、槐に似た樹の森々と立つた、青煉瓦で、藁葺屋根の、妙な住居へ伴つた。  飛脚が草鞋を脱ぐうちに、女房は褄をおろした。  まだ夕飯の前である。  部屋へ灯を點ける途端に、入口の扉をコト〳〵と輕く叩くものがある。  白い頬へ口を寄せつゝ、極低聲で、 「誰だい、誰だい。」 「内の人よ。」 「呀、鬼か。」  と怨めしさうに、女房の顏をじろり。で、慌てて寢臺の下へ潛込む。  布で隱して、 「はい、唯今。」  扉を開ける、とスーと入つた。とゞろ〳〵と踏鳴らしもしない、輕い靴の音も、其の筈で、ぽかりと帽子を脱ぐやうに角の生えた面を取つて、一寸壁の釘へ掛けた、顏を見ると、何と! 色白な細面で、髮を分けたハイカラな好男子。 「いや、何うも、今日は閻王の役所に檢べものが立込んで、甚く弱つたよ。」  と腹も空いたか、げつそりとした風采。ひよろりとして飛脚の頭の前にある椅子にぐたりと腰を掛けた、が、細い身體をぶる〳〵と振つた。 「人臭いぞ、變だ。甚く匂ふ、フン、ハン。」  と嗅𢌞して、 「これは生々とした匂ひだ。眞個人臭い。」  前刻から、手を擧げたり、下げたり、胸に波を打たして居た女房。爰に於て其の隱し終すべきにあらざるを知つて、衝と膝を支いて、前夫の飛脚の手を取つて曳出すとともに、夫の足許に跪いて、哀求す。曰く、 「後生でござんす。」──と仔細を語る。  曳出された飛脚は、人間が恁うして、こんな場合に擡げると些しも異らぬ面を擡げて、ト牛頭と顏を見合はせた。 (家内が。)(家内が。)と雙方同音に云つたが==毎々お世話に==と云ふべき處を、同時に兩方でのみ込みの一寸默然。 「其の時のよ、己の顏も見たからうが、牛頭の顏も、そりや見せたかつた。」  と、蘇生つて年を經てから、丁飛脚が、内證で、兄弟分に話したと傳へられる。  時に其時、牛頭は慇懃に更めて挨拶した。 「貴方、お手をお擧げ下さい。家内とは一方ならぬ。」と云ひかけて厭な顏もしないが、婦と兩方を見較べながら、 「御懇意の間と云ひ、それにです。貴方は私のためには恩人でおいでなさる。──お前もお聞きよ、私が毎日出勤するあの破堂の中で、顏は汗だらけ、砂埃、其の上蜘蛛の巣で、目口も開かない、可恐く弱つた處を、此のお方だ、袖で綺麗にして下すつた。……お救ひ申さないでおかるゝものか。」 買はれた女 「故郷を離れまして、皆樣にお別れ申してから、ちやうど三年でございます。私は其の間に、それは〳〵……」  と俯目に成つて、家の活計のために身を賣つて、人買に連れられて國を出たまゝ、行方の知れなかつた娘が、ふと夢のやうに歸つて來て、死したるものの蘇つた如く、彼の女を取卷いた人々に、窶れた姿で弱々と語つた。支那に人身賣買の公に行はれた時の事である。 「……申しやうもござんせん、淺ましい、恥かしい、苦しい、そして不思議な目に逢ひましたのでございます。  國境を出ましてからは、私には東西も分りません。長い道中を、あの人買に連れて行かれましたのでございます。そして其の人買の手から離れましたのは、此の邊からは、遠いか、形も見えません、高い山の裾にある、田舍のお醫師の家でございました。  一晩、其のお醫師の離座敷のやうな處に泊められますと、翌朝、咽喉へも通りません朝御飯が濟みました。間もなくでございましたの。  田舍の事で、別に此と云ふ垣根もありません。裏の田圃を、山の裾から、藜の杖を支いて、畝路づたひに、私が心細い空の雲を見て居ります、離座敷へ、のそ〳〵と入つて來ました、髯の白い、赤ら顏の、脊の高い、茶色の被布を着て、頭巾を被つた、お爺さんがあつたのでございます。私は檀那寺の和尚の、それも隱居したのかと思ひました。  其の和尚が、私の目の前へ腰を屈めて、支いた藜を頤杖にして、白い髯を泳がせ泳がせ、口も利かないで、身體中をじろ〳〵と覗込むではござんせんか。  可厭なねえ。  私は一層、藥研で生肝をおろされようとも、お醫師の居る母屋の方に逃げ込まうかと思ひました。其の和尚の可厭らしさに。  處が不可ないのでございます。お察し下さいまし。……  私が逃げようと起ちます裾を、ドンと杖の尖で壓へました。熊手で搦みましたやうな甚い力で、はつと倒れる處を、ぐい、と手を取つて引くのです。  あれ、摺拔けようと身を踠きます時、扉を開けて、醫師が顏を出しました。何をじたばたする、其のお仙人と汝は行くのだ、と睨付けて申すのです。そして、殿樣の前のやうに、お醫師は、べた〳〵と唯叩頭をしました。  すぐに連れられて參つたんです。生肝を藥研でおろされる方がまだしもと思ひました、其の仙人に連れられて──何處へ行くのかと存じますと、田圃道を、私を前に立たせて、仙人が後から。……情なさに歩行き惱みますと、時々、背後から藜の杖で、腰を突くのでございますもの。  麓へ出ますと、段々山の中へ追込みました。何うされるのでございませう。──意甚疑懼。然業已賣與無如何──」  と本章に書いてある、字は硬いが、もの柔にあはれである。 「……目を確り瞑れや。杖に掴まれ。言を背くと生命がないぞ。  やがて、人里を離れました山懷で、仙人が立直つて申しました。  然うした身にも、生命の惜さに、言はれた通りに目を瞑ぎました後は、裾が渦のやうに足に煽つて搦みつきますのと、兩方の耳が風に當つて、飄々と鳴りましたのばかりを覺えて居ります。  可し、と言はれて、目を開けますと、地の底の穴の裡ではなかつたのです。すつくり手を立てたやうな高い峰の、其の上にもう一つ塔を築きました臺の上に居りました。部屋も欄干も玉かと思ふ晃々と輝きまして、怪いお星樣の中へ投込まれたのかと思ひましたの。仙人は見えません。其處へ二十人餘り、年紀こそ十五六から三十ぐらゐまで、いろ〳〵に違ひましたが、皆揃つて美しい、ですが、悄乎とした女たちが出て來ましてね、いづれ、同じやうなお身の上でおいでなさいませう。お可哀相でございますわね、と皆さんで優しく云つて下さるのです。  私は、私は殺されるんでございませうか、と泣きながら申しますとね、年上の方が、否、お仙人のお伽をしますばかりです、それは仕方がござんせん。でも、こゝには、金銀如山、綾羅、錦繍、嘉肴、珍菓、あり餘つて、尚ほ、足りないものは、お使者の鬼が手を敲くと整へるんです、それに不足はありません。毎日の事は勿體ない、殿樣に擬ふほどなのです。其の代り──  其の代り、と聞いただけで身がふるへたではありませんか。──えゝ、其の代り。……何、其だつて、と其の年紀上の方が又、たゞ毎月一度づゝ、些と痛い苦しい思をするだけなんですツて──  さあ、あの、其の、思をしますのを、殺されるやうに思つて、待ちました。……欄干に胸を壓へて、故郷の空とも分かぬ、遙かな山の頂が細い煙を噴くのを見れば、あれが身を焚く炎かと思ひ、石の柱に背を凭れて、利鎌の月を見る時は、それも身を斬る刃かと思つたんです。  お前さん、召しますよ。  えゝ! さあ、其の時が參りました。一月の中に身體がきれいに成りました、其の翌日の事だつたんです、お仙人は杖を支いて、幾壇も壇を下りて、館を少し離れました、攀上るほどな巖の上へ連れて行きました。眞晝間の事なんです。  天狗の俎といひますやうな 大木の切つたのが据置いてあるんです。其の上へ、私は内外の衣を褫られて、そして寢かされました。仙人が、あの廣い袖の中から、眞紅な、粘々した、艷のある、蛇の鱗のやうな編方した、一條の紐を出して絲ほどにも、身の動きませんほど、手足を其の大木に確乎結へて、綿の丸けた球を、口の中へ捻込みましたので、聲も出なくなりました。  其處へ、キラ〳〵する金の針を持つて、一睨み睨まれました時に、もう氣を失つたのでございます。  自分に返りました時、兩臂と、乳の下と、手首の脈と 方々に血が浸んで、其處へ眞白な藥の粉が振掛けてあるのが分りました。  翌月、二度目の時に、それでも氣絶はしませんでございました。そして、仙人の持ちましたのは針ではありません、金の管で、脈へ刺して、其の管から生血を吸はれるつて事を覺えたのです。一時ばかり、其の間の苦痛と云つてはありません。  が、藥をつけられますと、疵あとは、すぐに次の日に痂せて落ちて、蟲に刺されたほどのあとも殘りません。  えゝ、そんな思ひをして、雲も雨も、みんな、目の下に遠く見えます、蒼空の高い峰の館の中に、晝は伽をして暮しました。  つい此の頃でございます。思ひもかけず、屋根も柱も搖れるやうな白い風が矢を射るやうに吹きつけますと、光り輝く蒼空に、眞黒な雲が一掴、鷲が落しますやうな、峰一杯の翼を開いて、山を包んで、館の屋根に渦いてかゝりますと、晝間の寢床──仙人は夜はいつでも一睡もしないのです、夜分は塔の上に上つて、月に跪き、星を拜んで、人の知らない行をします──其の晝の寢床から當番の女を一人、小脇に抱へたまゝ、廣室に駈込んで來たのですが、皆來い! と呼立てます。聲も震へ、身も慄いて、私たち二十人餘りを慌しく呼寄せて、あの、二重三重に、白い膚に取圍ませて、衣類衣服の花の中に、肉身の屏風させて、一すくみに成りました。  此が禁厭に成るのと見えます。窓を透して手のやうに擴がります、其の黒雲が、じり〳〵と來ては、引返し、じり〳〵と來ては、引返し、仙人の背は波打つやうに、進退するのが見えました。が、やがて、凄じい音がしますと、雲の中に、龍の形が顯はれたんです。柱のやうに立つたと思ふと、ちやうど箕の大さに見えました、爪が電のやうな掌を開いて、女たちの髮の上へ仙人の足を釣上げた、と見ますと、天井が、ぱつと飛散つて、あとはたゞ黒雲の中に、風の荒狂ふのばかりを覺えて、まるで現に成つたんです。  村の人に介抱されると、知らない國の、路傍に倒れて居ました。  其處で訊ねまして、はじめて、故郷は然まで遠くない、四五十里だと云ふのが分つて、それから、釵を賣り、帶を賣つて、草樹をしるべに、漸つと日をかさねて歸つたのでございます。」  あはれ、此の婦は、そして久しからずして果敢なく成つたと傳へられる。 狐  傳へ聞く、近頃、天津の色男に何生と云ふもの、二日ばかり邸を明けた新情人の許から、午後二時半頃茫として歸つて來た。 「しかし奧も美人だよ。あの烈しく妬くと云ふものが、恐らく己を深く思へばこそだからな。賣色の輩と違ふ、慾得づくや洒落に其の胸倉を取れるわけのものではないのだ。うふゝ。貴方はな、とそれ、赫と成る。あの瞼の紅と云ふものが、恰是、醉へる芙蓉の如しさ。自慢ぢやないが、外國にも類ひあるまい。新婚當時の含羞んだ色合を新しく拜見などもお安くない奴。たゞし嬌瞋火に似たりと云ふのを思つたばかりでも、此方も耳が熱るわけさ。」  と六月の日の照らす中に、寢不足の蒼白い顏を、蒸返しにうだらして、筋もとろけさうに、ふら〳〵と邸に近づく。  唯、夫人の居室に當る、甘くして艷つぽく、色の濃い、唐の桐の花の咲いた窓の下に、一人影暖かく彳んだ、少年の書生の姿がある。其の人、形容、都にして麗なり、と書いてある。若旦那には氣の毒ながら、書いてあるので仕方がない。  これが植込を遙かに透し、門の外からあからさまに見えた、と見る間もなく、件の美少年の姿は、大な蝶の影を日南に殘して、飜然と──二階ではないが──窓の高い室へ入つた。再び説く。其處が婦人の居室なのである。  若旦那は、くわつと逆上せた頭を、我を忘れて、うつかり帽子の上から掻毮りながら、拔足に成つて、庭傳ひに、密と其の窓の下に忍び寄る。内では、媚めいた聲がする。 「よく來てねえ、丁ど待つて居た處なんですよ、心が通じたんだわね。」  と、舌つたるさも沙汰の限りな、それが婦人の聲である。  若旦那勃然として怒るまいか。あと退りに跳返つた、中戸口から、眞暗に成つて躍込んだが、部屋の扉の外に震へる釘の如くに突立つて、拳を握りながら、 「りんよ、りんよ、權平、權平よ、りんよ、權平。刀を寄越せ、刀を寄越せ、刀を。」と喚かけたが、權平も、りんも、寂然して音も立てない。誰が敢て此處へ切ものを持出すものか。  若旦那、地たゝらを踏みながら、 「汝、汝、部屋の中に居るのは誰だ、誰が居るんだ、汝。」  と怒鳴つた。裡に敵ありと見て、直ぐに猪の如く飛込まないのが、しかし色男の身上であると思へ。  婦人の驚駭は蓋し察するに餘りある。卓を隔てて差向ひにでも逢ふ事か、椅子を並べて、肩を合はせて居るのであるから、股栗不能聲。唯腕で推し、手で拂つて、美少年を、藏すよりも先づ、離さうとあせり悶えて、殆ど虚空を掴む形。  美少年が、何と飛退きもしよう事か。片手で、尚ほつよく、しかと婦人の手を取つたまゝ、その上、腰で椅子を摺寄せて、正面をしやんと切つて、曰く此時、神色自若たりき、としてあるのは、英雄が事變に處して、然るよりも、尚更ら驚歎に價値する。  逃げようと思へば、いま飛込んだ、窓もあるのに── 「然うだ。一思ひに短銃だ。」  と扉の外でひき呼吸に呟く聲、彈丸の如く飛んで行く音。忽ち手負猪の襲ふやうな、殺氣立つた跫音が犇々と扉に寄る。剩へ其の扉には、觀世綟の鎖もさゝず、一壓しに押せば開くものを、其の時まで美少年は件の自若たる態度を續けた。  然も、若旦那が短銃を持つて引返したのを知ると、莞爾として微笑んで、一層また、婦人の肩を片手に抱いた。  其の間の婦人の心痛と恐怖はそも、身をしぼる汗は血と成つて、紅の雫が垂々と落ちたと云ふ。窘も又極つて、殆ど狂亂して悲鳴を上げた。 「あれ、強盜が、私を、私を。」 「何が盜人です、私は情人ぢやありませんかね。」  と高らかに美少年が言つた。 「何だ。強盜だ、情人だ。」と云ひさま、ドンと開けて、衝と入つて、屹と其の短銃を差向けて、一目見るや、あ、と叫んで、若旦那は思はず退つた。  怪事、婦人の肩に手を掛けて連理の椅子を並べたのは、美少年のそれにあらず。  此がために昨夜も家を開けて、今しがた喃々として別れて來た、若旦那自身の新情婦の美女で、婦人と其處に兩々紅白を咲分けて居たのである。  此の美女、姓は胡で、名はお好ちやんと云ふ。  一體、此の若旦那は、邸の河下三里ばかりの處に、流に臨んだ別業があるのを、元來色好める男子、婦人の張氏美而妬なりと云ふので、浮氣をする隱場處にして、其の別業へ、さま〴〵の女を引込むのを術としたが、當春、天氣麗かに、桃の花のとろりと咲亂れた、暖い柳の中を、川上へ細い杖で散策した時、上流の方より柳の如く、流に靡いて、楚々として且つもの思はしげに、唯一人渚を辿り來た此の美女に逢つて、遠慮なく色目づかひをして、目迎へ且つ見送つて、何うだと云ふ例の本領を發揮したのがはじまりである。  流水豈心なからんや。言を交すと、祕さず名を言つた。お好ちやんの語る處によれば、若後家だ、と云ふ。若旦那思ふ壺。で、親族の男どもが、挑む、嬲る、威丈高に成つて袖褄を引く、其の遣瀬なさに、くよ〳〵浮世を柳隱れに、水の流れを見るのだ、と云ふ。あはれも、そゞろ身にしみて、春の夕の言の契は、朧月夜の色と成つて、然も桃色の流に銀の棹さして、お好ちやんが、自分で小船を操つて、月のみどりの葉がくれに、若旦那の別業へ通つて來る、蓋しハイカラなものである。  以來、百家の書を讀んで、哲學を修する、と稱へて、別業に居續けして、窓を閉ぢて、垣を開いた。  其のお好ちやんであつたのである。……  細君の張氏より、然も、五つばかり年少き一少女、淡裝素服して婀娜たるものであつた。  時に、若旦那を見て、露に漆したる如き、ぱつちりとした瞳を返して、額髮はら〳〵と色を籠めつゝ、流眄に莞爾した。  が、椅子を並べた張婦人の肩に掛けた手は、なよ〳〵としつゝも敢て離さうとはしなかつた。  言ふまでもなく婦人の目にも、齊しく女に成つたので、驚駭を變へて又蒼く成つた。  若旦那も、呆れて立つこと半時ばかり。聲も一言もまだ出ない内に、霞の色づく如くにして、少女は忽ち美少年に變つたのである。  變れば現在、夫の見る前。婦人は身震ひして飛退かうとするのであつたが、輕く撓柔に背にかかつた手が、千曳の岩の如く、千筋の絲に似て、袖も襟も動かばこそ。おめ〳〵として、恥かしい、罪ある人形とされて居る。  知是妖怪所爲。 「退け、射殺すぞ。」  詰寄る。若旦那の手を、美少年の方から迎へるやうに、じつと握る、と其の手の尖から雪と成つて、再び白衣の美女と變つた。 「忘れたの、一寸……」  で、辷らした白い手を、若旦那の胸にあてて、腕で壓すやうにして、涼い目で熟と見る。其の媚と云つたらない。妖艷無比で、猶且つ婦人の背を抱いて居る。  と知りつゝ、魂から前へ溶けて、ふら〳〵と成つた若旦那の身體は、他愛なく、ぐたりと椅子に落ちたのであつた。于二女之間恍惚夢如。 「ほゝゝ、色男や、貴女に馴染んでから丁ど半年に成りますわね。御新造に馴染んでからも半年よ。貴方が私の許へ來て居るうちは、何時でも此方へ來て居たの。あら、あんな顏をしてさ。一寸色男。私と逢つて居るうちは、其の時間だけも御新造は要らないものでせう。要らないものなら、其間は何うされたつて差支へないぢやありませんか。  ねえ、若旦那、私は貴方は嫌なの。でも嫌だと云つたつて、嫌はれた事は分らないお方でせう。貴方は自分の思つた女は、皆云ふ事を肯くんだと思つて居るもの。思はれるものの恥辱です。  だから、思はれた通りに成つて──其のかはり貴方に差上げたものを、御新造から頂戴しました。可かありませんか。  最う此だけで澤山なんです。」  言ふと、齊しく、俄然として又美少年と成つて、婦人の打背く頬に手を當てた。が、すらりと身を拔いて、椅子に立つた。  若旦那、氣疲れ、魂倦れ、茫として手もつけられず。美少年の拔けたあとを、夫婦相對して目を見合せて、いづれも羞恥に堪へず差俯向く。  頭の上に、はた〳〵と掌を叩いて、呵々と高笑ひするのを、驚いて見れば、少年子、擧手高揖して曰く、吾去矣。 「御機嫌よう、失禮。」  と、變じて狐と成つて、白晝を窓から蝙蝠の如くに消えぬ。  此は教訓ではない、事實であると、本文に添書きがあるのである。 大正三年三月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「みつ柏」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。