婦人十一題 泉鏡太郎 Guide 扉 本文 目 次 婦人十一題 一月 二月 三月 四月 五月 六月 七月 八月 九月 十月 十一月 一月  うまし、かるた會に急ぐ若き胸は、駒下駄も撒水に辷る。戀の歌を想ふにつけ、夕暮の線路さへ丸木橋の心地やすらむ。松を鳴らす電車の風に、春着の袖を引合す急き心も風情なり。やがてぞ、内賑に門のひそめく輪飾の大玄關より、絹足袋を輕く高廊下を行く。館の奧なる夫人の、常さへ白鼈甲に眞珠を鏤めたる毛留して、鶴の膚に、孔雀の裝にのみ馴れたるが、この玉の春を、分けて、と思ふに、いかに、端近の茶の室に居迎ふる姿を見れば、櫛卷の薄化粧、縞銘仙の半襟つきに、引掛帶して、入らつしやい。眞鍮の茶釜の白鳥、出居の柱に行燈掛けて、燈紅く、おでん燗酒、甘酒もあり。 ──どツちが好いと言ふんですか── ──知らない── 二月  都なる父母は歸り給ひぬ。舅姑、知らぬ客許多あり。附添ふ侍女を羞らひに辭しつゝ、新婦の衣を解くにつれ、浴室颯と白妙なす、麗しき身とともに、山に、町に、廂に、積れる雪の影も映すなり。此時、われに返る心、しかも湯氣の裡に恍惚として、彼處に鼈甲の櫛笄の行方も覺えず、此處に亂箱の緋縮緬、我が手にさへ袖をこぼれて亂れたり。面、色染んぬ。姿見の俤は一重の花瓣薄紅に、乳を押へたる手は白くかさなり咲く、蘭湯に開きたる此の冬牡丹。蕊に刻めるは誰が名ぞ。其の文字金色に輝くまゝに、口渇き又耳熱す。高島田の前髮に冷き刃あり、窓を貫くは簾なす氷柱にこそ。カチリと音して折つて透かしぬ。人のもし窺はば、いと切めて血を迸らす匕首とや驚かん。新婦は唇に含みて微笑みぬ。思へ君……式九獻の盞よりして以來、初めて胸に通りたる甘く清き露なりしを。──見たのかい──いや、われ聞く。 三月  淺蜊やア淺蜊の剥身──高臺の屋敷町に春寒き午後、園生に一人庭下駄を爪立つまで、手を空ざまなる美き女あり。樹々の枝に殘ンの雪も、ちら〳〵と指の影して、大なる紅日に、雪は薄く紫の袂を曳く。何に憧憬るゝ人ぞ。歌をよみて其の枝の紅梅の莟を解かんとするにあらず。手鍋提ぐる意氣に激して、所帶の稽古に白魚の魥造る也。然も目を刺すがいぢらしとて、ぬきとむるは尾なるを見よ。絲の色も、こぼれかゝる袖口も、繪の篝火に似たるかな。希くは針に傷つくことなかれ。お孃樣これめせと、乳母ならむ走り來て捧ぐるを、曰く、ヱプロン掛けて白魚の料理が出來ますかと。魚も活くべし。手首の白さ更に可三寸。 四月  舳に肌ぬぎの亂れ姿、歌妓がさす手ひく手に、おくりの絃の流れつゝ、花見船漕ぎつるゝ。土手の霞暮れんとして、櫻あかるき三めぐりあたり、新しき五大力の舷の高くすぐれたるに、衣紋も帶も差向へる、二人の婦ありけり、一人は高尚に圓髷ゆひ、一人は島田艷也。眉白き船頭の漕ぐにまかせ、蒔繪の調度に、待乳山の影を籠めて、三日月を載せたる風情、敷波の花の色、龍の都に行く如し。人も酒も狂へる折から、ふと打ちすましたる鼓ぞ冴ゆる。いざ、金銀の扇、立つて舞ふよと見れば、圓髷の婦、なよやかにすらりと浮きて、年下の島田の鬢のほつれを、透彫の櫛に、掻撫でつ。心憎し。鐘の音の傳ふらく、此の船、深川の木場に歸る。 五月  五月雨の茅屋雫して、じと〳〵と沙汰するは、山の上の古社、杉の森の下闇に、夜な〳〵黒髮の影あり。呪詛の女と言ふ。かたの如き惡少年、化鳥を狙ふ犬となりて、野茨亂れし岨道を要して待つ。夢か、青葉の衣、つゝじの帶の若き姿。雲暗き山の端より月かすかに近づくを、獲ものよ、虐げんとすれば、其の首の長きよ、口は耳まで裂けて、白き蛇の紅さしたる面ぞ。キヤツと叫びて倒るゝを、見向きもやらず通りしは、優にやさしき人の、黄楊の櫛を唇に銜へしなり。うらぶれし良家の女の、父の病氣なるに、夜半に醫を乞へる道なりけり。此の護身の術や、魔法つかひの教にあらず、なき母の記念なりきとぞ。卯の花の里の温泉の夜語。 六月  裾野の煙長く靡き、小松原の靄廣く流れて、夕暮の幕更に富士山に開く時、其の白妙を仰ぐなる前髮清き夫人あり。肘を輕く窓に凭る。螢一つ、すらりと反對の窓より入りて、細き影を捲くと見る間に、汗埃の中にして、忽ち水に玉敷ける、淺葱、藍、白群の涼しき草の影、床かけてクシヨンに描かれしは、螢の衝と其の裳に忍び褄に入りて、上の薄衣と、長襦袢の間を照して、模樣の花に、葉に、莖に、裏透きてすら〳〵と移るにこそあれ。あゝ、下じめよ、帶よ、消えて又光る影、乳に沁むなり。此の君、其の肌、確に雪。ソロモンと榮華を競へりとか、白百合の花も恥づべき哉。否、恥らへるは夫人なり。衣絞明るく心着きけむ、銀に青海波の扇子を半、螢より先づハツと面を蔽へるに、風さら〳〵と戰ぎつゝ、光は袖口よりはらりとこぼれて、窓外の森に尚美しき影をぞ曳きたる。もし魂の拔出でたらんか、これ一顆の碧眞珠に、露草を鐫れるなるべし。此の人もし仇あらば、皆刃を取つて敵を討たん。靈山の氣、汽車に迫れり。──山北──山北── 七月  其の邊の公園に廣き池あり。時よし、風よしとて、町々より納涼の人出で集ふ。童たち酸漿提灯かざしもしつ。水の灯美しき夜ありき。汀に小き船を浮べて、水茶屋の小奴莞爾やかに竹棹を構へたり。うら若き母に伴はれし幼兒の、他の乘るに、われもとて肯かざりしに、私は身弱くて、恁ばかりの船にも眩暈するに、荒波の海としならばとにかくも、池の水に伏さんこと、人目恥かしければ得乘らじとよ。強ひてとならば一人行け、心は船を守るべし。舳にな立ちそ、舷にな片寄りそ。頼むは少き船頭衆とて、さみしく手をはなち給ひしが、早や其の姿へだたりて、殘の杜若裳に白く、蘆のそよぎ羅の胸に通ふと、星の影に見るまゝに、兒は池のたゞ中に、母を呼びて、わツと泣きぬ。──盂蘭盆の墓詣に、其のなき母を偲びつゝ、涙ぐみたる娘あり。あかの水の雫ならで、桔梗に露を置添へつ、うき世の波を思ふならずや。 八月  若きものの、山深く暑を避けたるが、雲の峰高き巖の根に、嘉魚釣りて一人居たりけり。碧潭の氣一脈、蘭の香を吹きて、床しき羅の影の身に沁むと覺えしは、年經る庄屋の森を出でて、背後なる岨道を通る人の、ふと彳みて見越したんなる。無地かと思ふ紺の透綾に、緋縮緬の長襦袢、小柳繻子の帶しめて、褄の堅きまで愼ましきにも、姿のなよやかさ立ちまさり、打微笑みたる口紅さへ、常夏の花の化身に似たるかな。斷崖の清水に龍女の廟あり。われは浦島の子か、姫の靈ぞと見しが、やがて知んぬ。なか〳〵に時のはやりに染まぬ服裝の、却つて鶯帶蝉羅にして、霓裳羽衣の風情をなせる、そこの農家の姉娘の、里の伯母前を訪ふなりしを。 九月  洪水は急なりけり。背戸續きの寮屋に、茅屋に侘ぶる風情とて、家の娘一人居たる午すぎよ。驚破と、母屋より許嫁の兄ぶんの駈けつくるに、讀みさしたる書伏せもあへず抱きて立てる、栞の萩も濡縁に枝を浪打ちて、早や徒渉すべからず、あり合はす盥の中に扶けのせつゝ、盪して逃るゝ。庭はさながら花野也。桔梗、刈萱、女郎花、我亦紅、瑠璃に咲ける朝顏も、弱竹のまゝ漕惱めば、紫と、黄と、薄藍と、浮きまどひ、沈み靡く。濁れる水も色を添へて極彩色の金屏風を渡るが如く、秋草模樣に露敷く袖は、丈高き紫苑の梢を乘りて、驚き飛ぶ蝶とともに漾へり。山影ながら颯と野分して、芙蓉に咽ぶ浪の繁吹に、小き輪の虹が立つ──あら、綺麗だこと──それどころかい、馬鹿を言へ──男の胸は盥に引添ひて泳ぐにこそ。おゝい、おゝい、母屋に集へる人數の目には、其の盥たゞ一枚大なる睡蓮の白き花に、うつくしき瞳ありて、すら〳〵と流れ寄りきとか。 十月  藍あさき宵の空、薄月の夜に入りて、雲は胡粉を流し、一むら雨廂を斜に、野路の刈萱に靡きつゝ、背戸の女郎花は露まさる色に出で、茂れる萩は月影を抱けり。此の時、草の家の窓に立ちて、秋深くものを思ふ女。世にやくねれる、戀にや惱める、避暑の頃よりして未だ都に歸らざる、あこがれの瞳をなぶりて、風の音信るともあらず、はら〳〵と、櫨の葉、柿の葉、銀杏の葉、見つゝ指の撓へるは、待人の日を算ふるや。爪紅を其のまゝに、其の木の葉一枚づゝ、君來よ、と染むるにや。豈ひとり居に堪ふべけんや。袖笠かつぎもやらず、杖折戸を立出づる。山の根の野菊、水に似て、渡る褄さき亂れたり。曼珠沙華ひら〳〵と、其の左右に燃えたるを、あれは狐か、と見し夜戻りの山法師。稻束を盾に、や、御寮、いづくへぞ、とそゞろに問へば、莞爾して、さみしいから、田圃の案山子に、杯をさしに行くんですよ。 十一月  朝の雲吹散りたり。風凪ぎぬ。藪垣なる藤豆の、莢も實も、午の影紫にして、谷を繞る流あり。穗たで露草みだれ伏す。此の水やがて里の廓の白粉に淀むと雖も、此のあたり、寺々の松の音にせゝらぎて、殘菊の雫潔し。十七ばかりのもの洗ふ女、帶細く腰弱く、盥を抱へて來つ。汀に裂けし芭蕉の葉、日ざしに翳す扇と成らずや。頬も腕も汗ばみたる、袖引き結へる古襷は、枯野の草に褪せたれども、うら若き血は燃えんとす。折から櫨の眞紅なるが、其のまゝの肌着に映りて、竹堰の脛は霜を敷く、あゝ、冷たからん。筧の水を受くるとて、嫁菜の莖一つ摘みつゝ、優しき人の心かな、何のすさみにもあらで、其の盥にさしけるが、引とき衣の藍に榮えて、嫁菜の淺葱色冴えしを、菜畠の日南に憩ひて、恍惚と見たる旅の男。うかと聲を掛けて、棟あちこち、伽藍の中に、鬼子母神の御寺はと聞けば、えゝ、紅い石榴の御堂でせうと、瞼に色を染めながら。 大正十二年一月─十一月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「婦人十一題」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。