春着 泉鏡太郎 Guide 扉 本文 目 次 春着 あら玉の春着きつれて醉ひつれて  少年行と前がきがあつたと思ふ……こゝに拜借をしたのは、紅葉先生の俳句である。處が、その着つれてとある春着がおなじく先生の通帳を拜借によつて出來たのだから妙で、そこが話である。さきに秋冷相催し、次第に朝夕の寒さと成り、やがて暮が近づくと、横寺町の二階に日が當つて、座敷の明い、大火鉢の暖い、鐵瓶の湯の沸つた時を見計らつて、お弟子たちが順々、かく言ふそれがしも、もとよりで、襟垢、膝ぬけと言ふ布子連が畏まる。「先生、小清潔とまゐりませんでも、せめて縞柄のわかりますのを、新年は一枚と存じます……恐れ入りますが、お帳面を。」「また濱野屋か。」神樂坂には、他に布袋屋と言ふ──今もあらう──呉服屋があつたが、此の濱野屋の方の主人が、でつぷりと肥つて、莞爾々々して居て、布袋と言ふ呼稱があつた。  が、太鼓腹を突出して、でれりとして、團扇で雛妓に煽がせて居るやうなのではない。片膚脱ぎで日置流の弓を引く。獅子寺の大弓場で先生と懇意だから、從つて弟子たちに帳面が利いた。たゞし信用がないから直接では不可いのである。「去年の暮のやつが盆を越して居るぢやないか。だらしなく飮みたがつてばかり居るからだ。」「は、今度と言ふ今度は……」「お株を言つてら。──此の暮には屹と入れなよ。」──その癖、ふいと立つて、「一所に來な。」で、通へ出て、右の濱野屋で、御自分、めい〳〵に似合ふやうにお見立て下すつたものであつた。  此の春着で、元日あたり、大して醉ひもしないのだけれど、目つきと足もとだけは、ふら〳〵と四五人揃つて、神樂坂の通りをはしやいで歩行く。……若いのが威勢がいゝから、誰も(帳面)を着て居るとは知らない。いや、知つて居たかも知れない。道理で、そこらの地内や横町へ入つても、つきとほしの笄で、褄を取つて、羽子を突いて居るのが、聲も掛けはしなかつた。割前勘定。乃ち蕎麥屋だ。と言つても、松の内だ。もりにかけとは限らない。たとへば、小栗があたり芋をすゝり、柳川がはしらを撮み、徳田があんかけを食べる。お酌なきが故に、敢て世間は怨まない。が、各々その懷中に對して、憤懣不平勃々たるものがある。從つて氣焔が夥しい。  此のありさまを、高い二階から先生が、 あら玉の春着きつれて醉ひつれて  涙ぐましいまで、可懷い。  牛込の方へは、隨分しばらく不沙汰をして居た。しばらくと言ふが幾年かに成る。このあひだ、水上さんに誘はれて、神樂坂の川鐵(鳥屋)へ、晩御飯を食べに出向いた。もう一人お連は、南榎町へ淺草から引越した万ちやんで、二人番町から歩行いて、その榎町へ寄つて連立つた。が、あの、田圃の大金と仲店のかねだを橋がかりで歩行いた人が、しかも當日の發起人だと言ふからをかしい。  途中お納戸町邊の狹い道で、七八十尺切立ての白煉瓦に、崖を落ちる瀑のやうな龜裂が、枝を打つて、三條ばかり頂邊から走りかゝつて居るのには肝を冷した。その眞下に、魚屋の店があつて、親方が威勢のいゝ向顱卷で、黄肌鮪にさしみ庖丁を閃かして居たのは偉い。……見た處は千丈の峰から崩れかゝる雪雪頽の下で薪を樵るより危かしいのに──此の度胸でないと復興は覺束ない。──ぐら〳〵と來るか、おツと叫んで、銅貨の財布と食麺麭と魔法壜を入れたバスケツトを追取刀で、一々框まで飛び出すやうな卑怯を何うする。……私は大に勇氣を得た。  が、吃驚するやうな大景氣の川鐵へ入つて、たゝきの側の小座敷へ陣取ると、細露地の隅から覗いて、臆病神が顯はれて、逃路を探せや探せやと、電燈の瞬くばかり、暗い指さしをするには弱つた。まだ積んだまゝの雜具を繪屏風で劃つてある、さあお一杯は女中さんで、羅綾の袂なんぞは素よりない。たゞしその六尺の屏風も、飛ばばなどか飛ばざらんだが、屏風を飛んでも、駈出せさうな空地と言つては何處を向いても無かつたのであるから。……其の癖、醉つた。醉ふといゝ心持に陶然とした。第一この家は、むかし蕎麥屋で、夏は三階のもの干でビールを飮ませた時分から引續いた馴染なのである。──座敷も、趣は變つたが、そのまゝ以前の俤が偲ばれる。……名ぶつの額がある筈だ。横額に二字、たしか(勤儉)とかあつて(彦左衞門)として、圓の中に、朱で(大久保)と云ふ印がある。「いかものも、あのくらゐに成ると珍物だよ。」と、言つて、紅葉先生はその額が御贔屓だつた。──屏風にかくれて居たかも知れない。  まだ思ひ出す事がある。先生がこゝで獨酌……はつけたりで、五勺でうたゝねをする方だから御飯をあがつて居ると、隣座敷で盛んに艷談のメートルを揚げる聲がする。紛ふべくもない後藤宙外さんであつた。そこで女中をして近所で燒芋を買はせ、堆く盆に載せて、傍へあの名筆を以て、曰く「御浮氣どめ」プンと香つて、三筋ばかり蒸氣の立つ處を、あちら樣から、おつかひもの、と持つて出た。本草には出て居まいが、案ずるに燒芋と饀パンは浮氣をとめるものと見える……が浮氣がとまつたか何うかは沙汰なし。たゞ坦懷なる宙外君は、此盆を讓りうけて、其のままに彫刻させて掛額にしたのであつた。  さて其夜こゝへ來るのにも通つたが、矢來の郵便局の前で、ひとりで吹き出した覺えがある。最も當時は青くなつて怯えたので、おびえたのが、尚ほ可笑い。まだ横寺町の玄關に居た時である。「この電報を打つて來た。巖谷の許だ、局待にして、返辭を持つて歸るんだよ。急ぐんだよ。」で、局で、局待と言ふと、局員が字數を算へて、局待には二字分の符號がいる。此のまゝだと、もう一音信の料金を、と言ふのであつた。たしか、市内は一音信金五錢で、局待の分ともで、私は十錢より預つて出なかつた。そこで先生の草がきを見ると「ヰルナラタヅネル」一字のことだ。私は考一考して而して辭句を改めた。「ヰルナラサガス」此れなら、局待の二字分がきちんと入る、うまいでせう。──巖谷氏の住所は其の頃麹町元園町であつた。が麹町にも、高輪にも、千住にも、待つこと多時にして、以上返電がこない。今時とは時代が違ふ。山の手の局閑にして、赤城の下で鷄が鳴くのをぽかんと聞いて、うつとりとしてゐると、なゝめ下りの坂の下、あまざけやの町の角へ、何と、先生の姿が猛然としてあらはれたらうではないか。  唯見て飛出すのと、殆ど同時で「馬鹿野郎、何をして居る。まるで文句が分らないから、巖谷が俥で駈けつけて、もう内へ來てゐるんだ。うつそりめ、何をして居る。皆が、車に轢かれやしないか、馬に蹴飛ばされやしないかと案じて居るんだ。」私は青くなつた──(居るなら訪ねる。)を──(要るなら搜す。)──巖谷氏のわけの分らなかつたのは無理はない。紅葉先生の辭句を修正したものは、恐らく文壇に於て私一人であらう。そのかはり目の出るほどに叱られた。──何、五錢ぐらゐ、自分の小遣ひがあつたらうと、串戲をおつしやい。それだけあれば、もう早くに煙草と燒芋と、大福餅になつて居た。煙草五匁一錢五厘。燒芋が一錢で大六切、大福餅は一枚五厘であつた。──其處で原稿料は?……飛んでもない、私はまだ一枚も稼ぎはしない。先生のは──内々知つてゐるが内證にして置く。……  まだ可笑しい事がある、ずツと後で……此の番町の湯へ行くと、かへりがけに、錢湯の亭主が「先生々々」丁ど午ごろだから他に一人も居なかつた。「一寸お教へを願ひたいのでございますが。」先生で、お教へを、で、私はぎよつとした。亭主極めて慇懃に「えゝ(おかゆ)とは何う書きますでせうか。」「あゝ、其れはね、弓、弓やつて、眞中へ米と書くんです。弱しと間違つては不可いのです。」何と、先生の得意想ふべし。實は、弱を、米の兩方へ配つた粥を書いて、以前、紅葉先生に叱られたものがある。「手前勝手に字を拵へやがつて──先人に對して失禮だ。」その叱られたのは私かも知れない。が、其の時の覺えがあるから、あたりを拂つて悠然として教へた。──今はもう代は替つた──亭主は感心もしないかはりに、病身らしい、お粥を食べたさうな顏をして居た。女房が評判の別嬪で。──此のくらゐの間違ひのない事を、人に教へた事はないと思つた。思つたなりで年を經た。實際年を經た。つい近い頃である。三馬の浮世風呂を讀むうちに、だしぬけに目白の方から、釣鐘が鳴つて來たやうに氣がついた。湯屋の聞いたのは(岡湯)なのである。  少々話が通りすぎた、あとへ戻らう。  其の日、万ちやんを誘つた家は、以前、私の住んだ南榎町と同町内で、奧へ辨天町の方へ寄つて居る事はすぐに知れた。が、家々も立て込んで、從つて道も狹く成つたやうな氣がする。殊に夜であつた。むかし住んだ家は一寸見富が着かない。さうだらう兩側とも生垣つゞきで、私の家などは、木戸内の空地に井戸を取りまいて李の樹が幾本も茂つて居た。李は庭から背戸へ續いて、小さな林といつていゝくらゐ。あの、底に甘みを帶びた、美人の白い膚のやうな花盛りを忘れない。雨には惱み、風には傷み、月影には微笑んで、淨濯明粧の面影を匂はせた。……  唯一間よりなかつた、二階の四疊半で、先生の一句がある。 紛胸の乳房かくすや花李  ひとへに白い。乳くびの桃色をさへ、蔽ひかくした美女にくらべられたものらしい。……此の白い花の、散つて葉に成る頃の、その毛蟲の夥多しさと言つては、それは又ない。よくも、あの水を飮んだと思ふ。一釣瓶ごとに榎の實のこぼれたやうな赤い毛蟲を充滿に汲上げた。しばらくすると、此の毛蟲が、盡く眞白な蝶になつて、枝にも、葉にも、再び花片を散らして舞つて亂るゝ。幾千とも數を知らない。三日つゞき、五日、七日つゞいて、飜り且つ飛んで、窓にも欄干にも、暖かな雪の降りかゝる風情を見せたのである。  やがて實る頃よ。──就中、南の納戸の濡縁の籬際には、見事な巴旦杏があつて、大きな實と言ひ、色といひ、艷なる波斯の女の爛熟した裸身の如くに薫つて生つた。いまだと早速千匹屋へでも卸しさうなものを、彼の川柳が言ふ、(地女は振りもかへらぬ一盛り)それ、意氣の壯なるや、縁日の唐黍は買つて噛つても、内で生つた李なんか食ひはしない。一人として他樣の娘などに、こだはるものはなかつたのである。  が、いまは開けた。その頃、友だちが來て、酒屋から麥酒を取ると、泡が立たない、泡が、麥酒は決して泡をくふものはない。が、泡の立たない麥酒は稀有である。酒屋にたゞすと、「拔く時倒にして、ぐん〳〵お振りなさい、然うすると泡が立ちますよ、へい。」と言つたものである。十日、腹を瀉さなかつたのは僥倖と言ひたい──今はひらけた。  たゞ、惜しい哉。中の丸の大樹の枝垂櫻がもう見えぬ。新館の新潮社の下に、吉田屋と云ふ料理店がある。丁度あの前あたり──其後、晝間通つた時、切株ばかり、根が殘つたやうに見た。盛の時は梢が中空に、花は町を蔽うて、そして地摺に枝を曳いた。夜もほんのりと紅であつた。昔よりして界隈では、通寺町保善寺に一樹、藁店の光照寺に一樹、とともに、三枚振袖、絲櫻の名木と、稱へられたさうである。  向う側の湯屋に柳がある。此間を、男も女も、一頃揃つて、縮緬、七子、羽二重の、黒の五紋を着て往き來した。湯へ行くにも、蕎麥屋へ入るにも紋着だつた事がある、こゝだけでも春の雨、また朧夜の一時代の面影が思はれる。  つい、その一時代前には、そこは一面の大竹藪で、氣の弱い旗本は、いまの交番の處まで晝も駈け拔けたと言ふのである。酒井家に出入の大工の大棟梁が授けられて開拓した。藪を切ると、蛇の棄て場所にこまつたと言ふ。小さな堂に籠めて祭つたのが、のちに倶樂部の築山の蔭に谷のやうな崖に臨んであつたのを覺えて居る。池、亭、小座敷、寮ごのみで、その棟梁が一度料理店を其處に開いた時のなごりだと聞いた。  棧の亭で、遙にポン〳〵とお掌が鳴る。へーい、と母家から女中が行くと、……誰も居ない。池の梅の小座敷で、トーンと灰吹を敲く音がする、娘が行くと、……影も見えない。──その料理屋を、狸がだましたのださうである。眉唾。眉唾。  尤もいま神樂坂上の割烹(魚徳)の先代が(威張り)と呼ばれて、「おう、うめえ魚を食はねえか」と、醉ぱらつて居るから盤臺は何處かへ忘れて、天秤棒ばかりを振りまはして歩行いた頃で。……  矢來邊の夜は、たゞ遠くまで、榎町の牛乳屋の納屋に、トーン〳〵と牛の跫音のするのが響いて、今にも──いわしこう──酒井家の裏門あたりで──眞夜中には──鰯こう──と三聲呼んで、形も影も見えないと云ふ。……怪しい聲が聞えさうな寂しさであつた。 春の夜の鐘うなりけり九人力  それは、その李の花、花の李の頃、二階の一室、四疊半だから、狹い縁にも、段子の上の段にまで居餘つて、わたしたち八人、先生と合はせて九人、一夕、俳句の會のあつた時、興に乘じて、先生が、すゝ色の古壁にぶつつけがきをされたものである。句の傍に、おの〳〵の名がしるしてあつた。……神樂坂うらへ、私が引越す時、そのまゝ殘すのは惜かつたが、壁だから何うにも成らない。──いゝ鹽梅に、一人知り合があとへ入つた。──埃は掛けないと言つて、大切にして居た。  ──五月雨の陰氣な一夜、坂の上から飛蒐るやうなけたゝましい跫音がして、格子をがらりと突開けたと思ふと、神樂坂下の其の新宅の二階へ、いきなり飛上つて、一驚を吃した私の机の前でハタと顏を合はせたのは、知合のその男で……眞青に成つて居る。「大變です。」「……」「化ものが出ます。」「……」「先生の壁のわきの、あの小窓の處へ机を置いて、勉強をして居りますと……恁う、じり〳〵と燈が暗く成りますから、ふいと見ますと、障子の硝子一杯ほどの猫の顏が、」と、身ぶるひして、「顏ばかりの猫が、李の葉の眞暗な中から──其の大きさと言つたらありません。そ、それが五分と間がない、目も鼻も口も一所に、僕の顏とぴつたりと附着きました、──あなたのお住居の時分から怪猫が居たんでせうか……一體猫が大嫌ひで、いえ可恐いので。」それならば爲方がない。が、怪猫は大袈裟だ。五月闇に、猫が屋根をつたはらないとは誰が言ひ得よう。……窓の燈を覗かないとは限らない。しかし、可恐い猫の顏と、不意に顱合せをしたのでは、驚くも無理はない。……「それで、矢來から此處まで。」「えゝ。」と息を引いて、「夢中でした……何しろ、正體を、あなたに伺はうと思つたものですから。」今は昔、山城介三善春家は、前の世の蝦蟆にてや有けむ、蛇なん極く恐ける。──夏の比、染殿の辰巳の山の木隱れに、君達、二三人ばかり涼んだ中に、春家も交つたが、此の人の居たりける傍よりしも、三尺許りなる烏蛇の這出たりければ、春家はまだ氣がつかなかつた。處を、君達、それ見よ春家。と、袖を去る事一尺ばかり。春家顏の色は朽し藍のやうに成つて、一聲あつと叫びもあへず、立たんとするほどに二度倒れた。すはだしで、その染殿の東の門より走り出で、北ざまに走つて、一條より西へ、西の洞院、それから南へ、洞院下に走つた。家は土御門西の洞院にありければで、駈け込むと齊しく倒れた、と言ふのが、今昔物語りに見える。遠きその昔は知らず、いまの男は、牛込南榎町を東状に走つて、矢來中の丸より、通寺町、肴町、毘沙門前を走つて、南に神樂坂上を走りおりて、その下にありける露地の家へ飛込んで……打倒れけるかはりに、二階へ駈上つたものである。餘り眞面目だから笑ひもならない。「まあ、落着きたまへ。──景氣づけに一杯。」「いゝえ、歸ります。──成程、猫は屋根づたひをして、窓を覗かないものとは限りません。──分りました。──いえ然うしては居られません。僕がキヤツと言つて、いきなり飛出したもんですから、彼が。」と言ふのが情婦で、「一所にキヤツと言つて、跣足で露地の暗がりを飛出しました。それつ切音信が分りませんから。」慌てて歸つた。──此の知合を誰とかする。やがて報知新聞の記者、いまは代議士である、田中萬逸君その人である。反對黨は、ひやかしてやるがいゝ。が、その夜、もう一度怯かされた。眞夜中である。その頃階下に居た學生さんが、みし〳〵と二階へ來ると、寢床だつた私の枕もとで大息をついて、「變です。……どうも變なんです──縁側の手拭掛が、ふはりと手拭を掛けたまゝで歩行んです。……トン〳〵トン、たゝらを踏むやうに動きましたつけ。おやと思ふと斜かひに、兩方へ開いて、ギクリ、シヤクリ、ギクリ、シヤクリとしながら、後退りをするやうにして、あ、あ、と思ふうちに、スーと、あの縁の突あたりの、戸袋の隅へ消えるんです。變だと思ふと、また目の前へ手拭掛がふはりと出て……出ると、トントントンと踏んで、ギクリ、シヤクリ、とやつて、スー、何うにも氣味の惡さつたらないのです。──一度見てみて下さい。……矢來の猫が、田中君について來たんぢやあないんでせうか知ら。」五月雨はじと〳〵と降る、外は暗夜だ。私も一寸悚然とした。  はゝあ、此の怪談を遣りたさに、前刻狸を持出したな。──いや、敢て然うではない。  何う言ふものか、此のごろ私のおともだちは、おばけと言ふと眉を顰める。  口惜いから、紅葉先生の怪談を一つ聞かせよう。先生も怪談は嫌ひであつた。「泉が、又はじめたぜ。」その唯一つの怪談は、先生が十四五の時、うらゝかな春の日中に、一人で留守をして、茶の室にゐらるゝと、臺所のお竈が見える。……竈の角に、らくがきの蟹のやうな、小さなかけめがあつた。それが左の角にあつた。が、陽炎に乘るやうに、すつと右の角へ動いてかはつた。「唯それだけだよ。しかし今でも不思議だよ。」との事である。──猫が窓を覗いたり、手拭掛が踊つたり、竈の蟹が這つたり、ひよいと賽を振つて出たやうである。春だからお子供衆──に一寸……化もの雙六。……  なき柳川春葉は、よく罪のない嘘を言つて、うれしがつて、けろりとして居た。──「按摩あ……鍼ツ」と忽ち噛みつきさうに、霜夜の横寺の通りで喚く。「あ、あれはね(吼え按摩)と云つてね、矢來ぢや(鰯こ)とおんなじに不思議の中へ入るんだよ」「ふう」などと玄關で燒芋だつたものである。花袋、玉茗兩君の名が、そちこち雜誌類に見えた頃、よそから歸つて來るとだしぬけに「きみ、聞いて來たよ。──花袋と言ふのは上州の或大寺の和尚なんだ、花袋和尚。僧正ともあるべきが、女のために詩人に成つたんだとね。玉茗と言ふのは日本橋室町の葉茶屋の若旦那だとさ。」この人のいふのだからあてには成らないが、いま座敷うけの新講談で評判の鳥逕子のお父さんは、千石取の旗下で、攝津守、有鎭とかいて有鎭とよむ。村山攝津守有鎭──邸は矢來の郵便局の近所にあつて、鳥逕とは私たち懇意だつた。渾名を鳶の鳥逕と言つたが、厚眉隆鼻ハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町の教會を背負つて立つた色男で……お父さんの立派な藏書があつて、私たちはよく借りた。──そのお父さんを知つて居るが、攝津守だか、有鎭だか、こゝが柳川の説だから當には成らない。その攝津守が、私の知つてる頃は、五十七八の年配、人品なものであつた。つい、その頃、門へ出て──秋の夕暮である……何心もなく町通りを視めて立つと、箒目の立つた町に、ふと前後に人足が途絶えた。その時、矢來の方から武士が二人來て、二人で話しながら、通寺町の方へ、すつと通つた……四十ぐらゐのと二十ぐらゐの若侍とで。──唯見るうちに、郵便局の坂を下りに見えなくなつた。あゝ不思議な事がと思ひ出すと、三十幾年の、維新前後に、おなじ時、おなじ節、おなじ門で、おなじ景色に、おなじ二人の侍を見た事がある、と思ふと、悚然としたと言ふのである。  此は少しくもの凄い。……  初春の事だ。おばけでもあるまい。  春着につけても、一つ艷つぽい處をお目に掛けよう。  時に、川鐵の向うあたりに、(水何)とか言つた天麩羅屋があつた。くどいやうだが、一人前、なみで五錢。……横寺町で、お孃さんの初のお節句の時、私たちは此を御馳走に成つた。その時分、先生は御質素なものであつた。二十幾年、尤も私なぞは、今もつて質素である。此の段は、勤儉と題して、(大久保)の印を捺しても可い。  その天麩羅屋の、しかも蛤鍋三錢と云ふのを狙つて、小栗、柳川、徳田、私……宙外君が加はつて、大擧して押上つた、春寒の午後である。お銚子は入が惡くつて、しかも高値いと言ふので、式だけ誂へたほかには、町の酒屋から、かけにして番を口説いた一升入の貧乏徳利を誰かが外套(註。おなじく月賦……這個まつくろなのを一着して、のそ〳〵と歩行く奴を、先生が嘲つて──月府玄蝉。)の下へ忍ばした勢だから、氣焔と、殺風景推して知るべしだ。……酒氣が天井を衝くのではない、陰に籠つて疊の燒けこげを轉げ𢌞る。あつ燗で火の如く惡醉闌なる最中。お連樣つ──と下階から素頓興な聲が掛ると、「皆居るかい。」と言ふ紅葉先生の聲がした。まさか、壺皿はなかつたが、驚破事だと、貧乏徳利を羽織の下へ隱すのがある、誂子を股へ引挾んで膝小僧をおさへるのがある、鍋へ盃洗の水を打込むのがある。私が手をついて畏まると、先生にはお客分で仔細ないのに、宙外さんも煙に卷かれて、肩を四角に坐り直つて、酒のいきを、はあはあと、專らピンと撥ねた髯を揉んだ。  ──處へ……せり上つておいでなすつた先生は、舞臺にしても見せたかつた。すつきり男ぶりのいゝ處へ、よそゆきから歸宅のまゝの、りうとした着つけである。勿論留守を狙つて泳ぎ出したのであつたが──揃つて紫星堂(塾)を出たと聞いて、その時々の弟子の懷中は見透しによく分る。明進軒か島金、飛上つて常磐(はこが入る)と云ふ處を、奴等の近頃の景氣では──蛉鍋と……當りがついた。「いや、盛だな。」と、缺け火鉢を、鐵火にお召の股へ挾んで、手をかざしながら莞爾して、「後藤君、お樂に──皆も飮みなよ、俺も割で一杯やらう。」殿樣が中間部屋の趣がある。恐れながら、此時、先生の風采想ふべしで、「懷中はいゝぜ。」と手を敲かるゝ。手に應じて、へいと、どしん〳〵と上つた女中が、次手に薄暗いからランプをつけた、釣ランプ(……あゝ久しいが今だつてランプなしには居られますか。)それが丁ど先生の肩の上の見當に掛つて居た。面疱だらけの女中さんが燐寸を摺つて點けて、插ぼやをさすと、フツと消したばかり、まだ火のついたまゝの燃さしを、ポンと斜つかひに投げた──(まつたく、お互が、所帶を持つて、女中の此には惱まされた、火の用心が惡いから、それだけはよしなよ。はい、と言ふ口の下から、つけさしのマツチをポンがお定まり……)唯、先生の膝にプスツと落ちた。「女中や、お手柔かに頼むぜ。」と先生の言葉の下に、ゑみわれたやうな顏をして、「惚れた證據だわよ。」やや、と皆が顏を見る。……「惚れたに遠慮があるものかツてねえ、……てね、……ねえ。」と甘つたれる。──あ、あ、あ危ない、棚の破鍋が落ちかゝる如く、剩へべた〳〵と崩れて、薄汚れた紀州ネルを膝から溢出させたまゝ、……あゝ……あゝ行つた!……男振は音羽屋(特註、五代目)の意氣に、團十郎の澁味が加つたと、下町の女だちが評判した、御病氣で面痩せては、あだにさへも見えなすつた先生の肩へ、……あゝ噛りついた。  よゝつツと、宙外君が堪まらず奇聲と云ふのを上げるに連れて、一同が、……おめでたうと稱へた。  それよりして以來──癇癪でなく、憤りでなく、先生がいゝ機嫌で、しかも警句雲の如く、弟子をならべて罵倒して、勢當るべからざる時と言ふと、つゝき合つて、目くばせして、一人が少しく座を罷り出る。「先生……(水)……」「何。」「蛤鍋へおともは如何で。」「馬鹿を言へ。」「いゝえ、大分、女中さんがこがれて居りますさうでございまして。」傍から、「えゝ煩つて居るほどだと申します事ですから。」……かねて、おれを思ふ女ならば、目つかちでも鼻つかけでもと言ふ、御主義?であつた。──  紅葉先生、その時の態度は…… 采菊東籬下、 悠然見南山。 大正十三年一月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「春着」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。