一席話 泉鏡太郎 Guide 扉 本文 目 次 一席話  上總國上野郡に田地二十石ばかりを耕す、源五右衞と云ふ百姓の次男で、小助と云ふのがあつた。兄の元太郎は至極實體で、農業に出精し、兩親へ孝行を盡し、貧しい中にもよく齊眉き、人づきあひは義理堅くて、村の譽ものなのであるが、其の次男の小助は生れついたのらくらもの。晝間は納屋の中、鎭守の森、日蔭ばかりをうろつく奴、夜遊びは申すまでもなし。色が白いのを大事がつて、田圃を通るにも編笠でしよなりと遣る。炎天の田の草取などは思ひも寄らない。  兩親や兄の意見などは、蘆を吹く風ほども身に染みないで、朋輩同士には、何事にも、直きに其の、己が己ががついて𢌞つて、あゝ、世が世ならばな、と口癖のやうに云ふ。尤も先祖は武家出であらうが、如何にも件の、世が世ならばが、友だちの耳に觸つて聞苦しい。自然につきあつて遊ぶものも少なくなる。對手もなければ小遣もなく、まさか小盜賊をするほどに、當人氣位が高いから身を棄てられず。内にのら〳〵として居れば、兩親は固より、如何に人が好いわ、と云つて兄じや人の手前、据膳を突出して、小楊枝で奧齒の加穀飯をせゝつては居られぬ處から、色ツぽく胸を壓へて、こゝがなどと痛がつて、溜息つく〴〵と鬱いだ顏色。  これが、丸持の祕藏子だと、匙庵老が脈を取つて、氣鬱の症でごわす、些とお氣晴を、と來て、直ぐに野幇間と變化る奴。父親合點の母親承知で、向島へ花見の歸りが夜櫻見物と成つて、おいらんが、初會惚れ、と云ふ寸法に成るのであるが、耕地二十石の百姓の次男では然うは行かない。  新田の太郎兵衞がうまい言を言つた。小助が鬱ぐなら蚯蚓を煎じて飮ませろと。何が、藥だと勸めるものも、やれ赤蛙が可い事の、蚯蚓が利く事の、生姜入れずの煎法で。小判處か、一分一ツ貸してくれる相談がない處から、むツとふくれた頬邊が、くしや〳〵と潰れると、納戸へ入つてドタリと成る。所謂フテ寢と云ふのである。  が、親の慈悲は廣大で、ソレ枕に就いて寢たと成ると、日が出りや起る、と棄てては置かぬ。  傍に着いて居て看病するにも、遊ぶ手はない百姓の忙しさ。一人放り出して置いた處で、留守に山から猿が來て、沸湯の行水を使はせる憂慮は決してないのに、誰かついて居らねばと云ふ情から、家中野良へ出る處を、嫁を一人あとへ殘して、越中の藥賣が袋に入れて置いて行く、藥ながら、其の優しい手から飮ませるやうに計らつたのである。  嫁はお艷と云つて、同國一ノ宮の百姓喜兵衞の娘で、兄元太郎の此が女房。束ね髮で、かぶつては居るけれども、色白で眉容の美しいだけに身體が弱い。ともに身體を休まして些と樂をさせようと云ふ、其にも舅たちの情はあつた。しかし箔のついた次男どのには、飛だ蝶々、菜種の花を見通しの春心、納戸で爪を磨がずに居ようか。  尤も其までにも、小當りに當ることは、板屋を走る團栗に異ならずで、蜘蛛の巣の如く袖褄を引いて居たのを、柳に風と受けつ流しつ、擦拔ける身も痩せて居た處、義理ある弟、内氣の女。あけては夫にも告げられねば、病氣の介抱を斷ると云ふわけに行かないので、あい〳〵と、内に殘る事に成つたのは、俎のない人身御供も同じ事で。  疊のへりも蛇か、とばかり、我家の内もおど〳〵しながら二日は無事に過ぎた、と云ふ。三日目の午過ぎ、やれ粥を煮ろの、おかう〳〵を細くはやせの、と云ふ病人が、何故か一倍氣分が惡いと、午飯も食べないから、尚ほ打棄つては置かれない。  藥を煎じて、盆は兀げたが、手は白い。お艷が、納戸へ持つて行く、と蒲團に寢て居ながら手を出した。 「姉さん、何の所爲で私が煩つて居ると思つて下さる、生命が續かぬ、餘りと言へば情ない。人殺し。」  と唸つて、矢庭に抱込むのを、引離す。むつくり起直る。 「あれえ。」  と逃げる、裾を掴んで、ぐいと引かれて、身を庇ふ氣でばつたり倒れる。 「さあ、斷念めろ、聲を立てるな、人が來て見りや實は何うでも、蟲のついた花の枝だ。」  と云ふ處へ、千種はぎ〳〵の股引で、ひよいと歸つて來たのは兄じや人、元太郎で。これを見ると是非も言はず、默つてフイと消失せるが如く出て了つた。  お艷は死ものぐるひな、小助を突飛ばしたなり、茶の間へ逃げた。が、壁の隅へばつたり倒れたまゝ突臥して、何を云つてもたゞさめ〴〵と泣くのである。  家中なめた男でも、村がある。世間がある。兄じやに見着かつた上からは安穩に村には居られぬ、と思ふと、寺の和尚まで一所に成つて、今にも兩親をはじめとして、ドヤ〳〵押寄せて來さうに思はれ、さすがに小助は慌しく、二三枚着ものを始末して、風呂敷包みを拵へると、直ぐに我家を駈出さうとして、行がけの駄賃に、何と、姿も心も消々と成つて泣いて居るお艷の帶を最う一度ぐい、と引いた。 「ひい。」  と泣く脊筋のあたりを、土足にかけて、ドンと踏むと、ハツと悶えて上げた顏へ、 「ペツ、澁太い阿魔だ。」  としたゝかに痰をはいて、せゝら笑つて、 「身體はきれいでも面は汚れた、樣あ見ろ。おかげで草鞋を穿かせやがる。」  と、跣足でふいと出たのである。  たとひ膚身は汚さずとも、夫の目に觸れた、と云ひ、恥しいのと、口惜いのと、淺ましいので、かツと一途に取逆上せて、お艷は其の日、兩親たち、夫のまだ歸らぬ内に、扱帶にさがつて、袖はしぼんだ。あはれ、兄の元太郎は、何事も見ぬ振で濟ます氣で、何時より却つて遲くまで野良へ出て歸らないで居たと言ふのに。  却説小助は、家を出た其の足で、同じ村の山手へ行つた。こゝに九兵衞と云ふものの娘にお秋と云ふ、其の年十七になる野上一郡評判の容色佳し。  男は女蕩らしの浮氣もの、近頃は嫂の年増振に目を着けて、多日遠々しくなつて居たが、最う一二年、深く馴染んで居たのであつた。  此の娘から、路銀の算段をする料簡。で、呼出しを掛ける氣の、勝手は知つた裏口へ𢌞つて、垣根から覗くと、長閑な日の障子を開けて、背戸にひら〳〵と蝶々の飛ぶのを見ながら、壁は黒い陰氣な納戸に、恍惚ともの思はしげな顏をして手をなよ〳〵と忘れたやうに、靜に、絲車を𢌞して居ました。眞白な腕について、綿がスーツと伸びると、可愛い掌でハツと投げたやうに絲卷にする〳〵と白く絡はる、娘心は縁の色を、其の蝶の羽に染めたさう。咳をすると、熟と視るのを、もぢや〳〵と指を動かして招くと、飛立つやうに膝を立てたが、綿を密と下に置いて、立構へで四邊を見たのは、母親が内だと見える。  首尾は、しかし惡くはなかつたか、直ぐにいそ〳〵と出て來るのを、垣根にじり〳〵と待ちつけると、顏を視て、默つて、怨めしい目をしたのは、日頃の遠々しさを、言はぬが言ふに彌増ると云ふ娘氣の優しい處。 「おい、早速だがね、此の通りだ。」  と、眞中を結へた包を見せる、と旅と知つて早や顏色の變る氣の弱いのを、奴は附目で、 「何もいざこざはない、話は歸つて來てゆつくりするが、此から直ぐに筑波山へ參詣だ。友達の附合でな、退引ならないで出掛けるんだが、お秋さん、お前を呼出したのは他の事ぢやない、路用の處だ。何分男づくであつて見れば、差當り懷中都合が惡いから、日を延ばしてくれろとも言へなからうではないか。然うかと云つて、別に都合はつかないんだから、此の通り支度だけ急いでして、お前を當にからつぽの財布で出て來た。何うにか、お前、是非算段をしてくんねえ。でねえと、身動きはつかないんだよ。」  お秋は何も彼も一時の、女氣に最う涙ぐんで、 「だつて、私には。」  と皆まで言はせず、苦い顏して、 「承知だよ、承知だよ。お鳥目がねえとか、小遣は持たねえとか云ふんだらう。働のねえ奴は極つて居ら、と恁う云つては濟まないのさ。其處はお秋さんだ。何時もたしなみの可いお前だから、心得ておいでなさらあ、ね、其處はお秋さんだ。」 「あんな事を云つて、お前さん又おだましだよ。筑波へお詣りぢやありますまい。博奕の元手か、然うでなければ、瓜井戸の誰さんか、意氣な女郎衆の顏を見においでなんだよ。」 「默つて聞きねえ、厭味も可い加減に云つて置け。此方は其處どころぢやねえ、男が立つか立たないかと云ふ羽目なんだぜ。友達へ顏が潰れては、最う此の村には居られねえから、當分此がお別れに成らうも知れねえ。隨分達者で居てくんねえよ。」  と緊乎と手を取る、と急に樣子が變つて、目をしばたゝいたのが、田舍の娘には、十分愁が利いたから、惚拔いて居る男の事、お秋は出來ぬ中にも考慮して、 「小助さん、濟みませんが、其だけれど私お鳥目は持ちません。何か品もので間に合はせておくんなさいまし。其だと何うにかしますから。」 「……可いとも、代もの結構だ。お前、眞個にお庇さまで男が立つぜ。」  と、そやし立てた。成たけ人の目に立たないやうに、と男を樹の蔭に、しばしとて、お秋が又前後を見ながら内へ入つたから、しめたと、北叟笑をして待つと、しばらく隙が取れて、やがて駈出して來て、手に渡したのが手織木綿の綿入一枚。よく〳〵であつたと見えて、恥しさうに差俯向く。  其の横顏を憎々しい目で覗込んで、 「何だ、これは、品ものと云つたのは、お前此の事か。お前此の事か。品ものと云つたのは、間に合はせると云ふのは此かな、えゝお秋さん。」  娘はおど〳〵して、 「母さんが内だから、最う其外には仕やうがないもの、私。」 「此ぢや何うにも仕樣がねえ。とても出來ねえものなら仕方はねえが、最う些と、これんばかしでも都合をしねえ、急場だから、己の生死の境と云ふのだ。」  最う此の上は、とお秋は男のせり詰めた劍幕と、働きのない女だと愛想を盡かされようと思ふ憂慮から、前後の辨別もなく、着て居た棒縞の袷を脱いで貸すつもりで、樹の蔭ではあつたが、垣の外で、帶も下〆もする〳〵と解いたのである。  先刻から、出入りのお秋の素振に、目を着けた、爐邊に煮ものをして居た母親が、戸外に手間が取れるのに、フト心着いて、 「秋は、あの子や。」  と聲を掛けて呼ぶと、思ふと、最うすた〳〵と草履で出た。 「あれ、其は、」  と云ふ、帶まで引手奪つて、袷も一所に、ぐる〳〵と引丸げる。 「秋やあ。」 「あゝい。」  と震聲で、慌てて、むつちりした乳の下へ、扱帶を取つて卷きつけながら、身體ごとくる〳〵と顛倒して𢌞る處へ、づかと出た母親は驚いて、白晝の茜木綿、それも膝から上ばかり。 「此の狐憑が。」  と赫と成ると、躍上つて、黒髮を引掴むと、雪なす膚を泥の上へ引倒して、ずる〳〵と内へ引込む。 「きい。」  と泣くのが、身體が縁側へ橋に反つて、其のまゝ納戸の絲車の上へ、眞綿を挫いだやうに捻倒されたのを、松原から伸上つて、菜畠越に、遠くで見て、舌を吐いて、霞がくれの鼻唄で、志す都へ振出しの、瓜井戸の宿へ急いだ。  が、其の間に、同じ瓜井戸の原と云ふのがある。此なん縱に四里八町、横は三里に餘る。  村から松並木一つ越した、此の原の取着きに、式ばかりの建場がある。こゝに巣をくふ平吉と云ふ博奕仲間に頼んで、其の袷と綿入を一枚づゝ、帶を添へて質入れにして、小助が手に握つた金子が……一歩としてある。尤も使をした、ならずの平が下駄どころか、足駄を穿いたに違ひない。  此の一歩に、身のかはを剥かれたために、最惜や、お秋は繼母には手酷き折檻を受ける、垣根の外の樹の下で、晝中に帶を解いたわ、と村中の是沙汰は、若い女の堪忍ばれる恥ではない。お秋は夜とも分かず晝とも知らず朧夜に迷出でて、あはれ十九を一期として、同國浦崎と云ふ所の入江の闇に身を沈めて、蘆の刈根のうたかたに、其の黒髮を散らしたのである。  時に、一歩の路用を整へて、平吉がおはむきに、最う七ツさがりだ、掘立小屋でも一晩泊んねな兄哥、と云つてくれたのを、いや、瓜井戸の娼妓が待つて居らと、例の己が、でから見得を張つた。内心には、嫂お艷の事、又お秋の事、さすがに好い事をしたと思はないから、村近だけに足のうらが擽い。ために夕飯は匇々燒鮒で認めて、それから野原へ掛つたのが、彼これ夜の十時過になつた。  若草ながら曠野一面、渺々として果しなく、霞を分けてしろ〴〵と、亥中の月は、さし上つたが、葉末を吹かるゝ我ばかり、狐の提灯も見えないで、時々むら雲のはら〳〵と掛るやうに、處々草の上を染めるのは、野飼の駒の影がさすのである。  小助は前途を見渡して、此から突張つて野を越して、瓜井戸の宿へ入つたが、十二時を越したと成つては、旅籠屋を起しても泊めてはくれない。たしない路銀、女郎屋と云ふわけには行かず、まゝよ、とこんな事は、さて馴れたもので、根笹を分けて、草を枕にころりと寢たが、如何にも良い月。  春の夜ながら冴えるまで、影は草を透くのである。其の明が目を射すので、笠を取つて引被つて、足を踏伸ばして、眠りかける、とニヤゴと鳴いた、直きそれが、耳許で、小笹の根。 「や、念入りな處まで持つて來て棄てやあがつた。野猫は居た事のない原場だが。」  ニヤゴと又鳴く。耳についてうるさいから、シツ〳〵などと遣つて、寢ながら兩手でばた〳〵と追つたが、矢張聞える。ニヤゴ、ニヤゴと續樣。 「いけ可煩え畜生ぢやねえか、畜生!」  と怒鳴つて、笠を拂つて、むつくりと半身起上つて、透かして見ると、何も居らぬ。其の癖、四邊にかくれるほどな、葉の伸びた草の影もない。月は皎々として眞晝かと疑ふばかり、原は一面蒼海が凪ぎたる景色。  ト錨が一具据つたやうに、間十間ばかり隔てて、薄黒い影を落して、草の中でくる〳〵と𢌞る車がある。はて、何時の間に、あんな處へ水車を掛けたらう、と熟と透かすと、何うやら絲を繰る車らしい。  白鷺がすうつと首を伸ばしたやうに、車のまはるに從うて眞白な絲の積るのが、まざ〳〵と見える。  何處かで、ヒイと泣き叫ぶうら若い女の聲。  お秋が納戸に居た姿を、猛然と思出すと、矢張り鳴留まぬ猫の其の聲が、豫ての馴染でよく知つた。お秋が撫擦つて、可愛がつた、黒、と云ふ猫の聲に寸分違はぬ。 「夢だ。」  と思ひながら、瓜井戸の野の眞中に、一人で頭から悚然とすると、する〳〵と霞が伸びるやうに、形は見えないが、自分の居まはりに絡つて鳴く猫の居る方へ、招いて手繰られるやうに絲卷から絲を曳いたが、幅も、丈も、颯と一條伸擴がつて、肩を一捲、胴へ搦んで、 「わツ。」  と掻拂ふ手を、ぐる〳〵捲きに、二捲卷いてぎり〳〵と咽喉を絞める、其の絞らるゝ苦しさに、うむ、と呻いて、脚を空ざまに仰反る、と、膏汗は身體を絞つて、颯と吹く風に目が覺めた。  草を枕が其のまゝで、早しら〳〵と夜が白む。駒の鬣がさら〳〵と、朝かつらに搖いで見える。  恐しいよりも、夢と知れて嬉しさが前に立つた。暫時茫然として居た。が、膚脱ぎに成つて冷汗をしつとり拭いた。其の手拭を向う顱卷、うんと緊めて氣を確乎と持直して、すた〳〵と歩行出した。  ──こんなのが、此の頃、のさ〳〵と都へ入込む。 明治四十五年一月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「一席話」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。