十六夜 泉鏡太郎 Guide 扉 本文 目 次 十六夜 一 二 三 四 五 一  きのふは仲秋十五夜で、無事平安な例年にもめづらしい、一天澄渡つた明月であつた。その前夜のあの暴風雨をわすれたやうに、朝から晴れ〴〵とした、お天氣模樣で、辻へ立つて日を禮したほどである。おそろしき大地震、大火の爲に、大都は半、阿鼻焦土となんぬ。お月見でもあるまいが、背戸の露草は青く冴えて露にさく。……廂破れ、軒漏るにつけても、光りは身に沁む月影のなつかしさは、せめて薄ばかりも供へようと、大通りの花屋へ買ひに出すのに、こんな時節がら、用意をして賣つてゐるだらうか。……覺束ながると、つかひに行く女中が元氣な顏して、花屋になければ向う土手へ行つて、葉ばかりでも折つぺしよつて來ませうよ、といつた。いふことが、天變によつてきたへられて徹底してゐる。  女でさへその意氣だ。男子は働かなければならない。──こゝで少々小聲になるが、お互に稼がなければ追つ付かない。……  既に、大地震の當夜から、野宿の夢のまださめぬ、四日の早朝、眞黒な顏をして見舞に來た。……前に内にゐて手まはりを働いてくれた淺草ツ娘の婿の裁縫屋などは、土地の淺草で丸燒けに燒け出されて、女房には風呂敷を水びたしにして髮にかぶせ、おんぶした嬰兒には、ねんねこを濡らしてきせて、火の雨、火の風の中を上野へ遁がし、あとで持ち出した片手さげの一荷さへ、生命の危ふさに打つちやつた。……何とかや──いと呼んでさがして、漸く竹の臺でめぐり合ひ、そこも火に追はれて、三河島へ遁げのびてゐるのだといふ。いつも來る時は、縞もののそろひで、おとなしづくりの若い男で、女の方が年下の癖に、薄手の圓髷でじみづくりの下町好みでをさまつてゐるから、姉女房に見えるほどなのだが、「嬰兒が乳を呑みますから、私は何うでも、彼女には實に成るものの一口も食はせたうござんすから。」──で、さしあたり仕立ものなどの誂はないから、忽ち荷車を借りて曳きはじめた──これがまた手取り早い事には、どこかそこらに空車を見つけて、賃貸しをしてくれませんかと聞くと、燒け原に突き立つた親仁が、「かまはねえ、あいてるもんだ、持つてきねえ。」と云つたさうである。人ごみの避難所へすぐ出向いて、荷物の持ち運びをがたり〳〵やつたが、いゝ立て前になる。……そのうち場所の事だから、別に知り合でもないが、柳橋のらしい藝妓が、青山の知邊へ遁げるのだけれど、途中不案内だし、一人ぢや可恐いから、兄さん送つて下さいな、といつたので、おい、合點と、乘せるのでないから、そのまゝ荷車を道端にうつちやつて、手をひくやうにしておくり屆けた。「別嬪でござんした。」たゞでもこの役はつとまる所をしみ〴〵禮をいはれた上に、「たんまり御祝儀を。」とよごれくさつた半纏だが、威勢よく丼をたゝいて見せて、「何、何をしたつて身體さへ働かせりや、彼女に食はせて、乳はのまされます。」と、仕立屋さんは、いそ〳〵と歸つていつた。──年季を入れた一ぱしの居職がこれである。  それを思ふと、机に向つたなりで、白米を炊いてたべられるのは勿體ないと云つてもいゝ。非常の場合だ。……稼がずには居られない。  社にお約束の期限はせまるし、……實は十五夜の前の晩あたり、仕事にかゝらうと思つたのである。所が、朝からの吹き降りで、日が暮れると警報の出た暴風雨である。電燈は消えるし、どしや降りだし、風はさわぐ、ねずみは荒れる。……急ごしらへの油の足りない白ちやけた提灯一具に、小さくなつて、家中が目ばかりぱち〳〵として、陰氣に滅入つたのでは、何にも出來ず、口もきけない。拂底な蝋燭の、それも細くて、穴が大きく、心は暗し、數でもあればだけれども、祕藏の箱から……出して見た覺えはないけれど、寶石でも取出すやうな大切な、その蝋燭の、時よりも早くぢり〳〵と立つて行くのを、氣を萎して、見詰めるばかりで、かきもの所の沙汰ではなかつた。 二  戸をなぐりつける雨の中に、風に吹きまはされる野分聲して、「今晩──十時から十一時までの間に、颶風の中心が東京を通過するから、皆さん、お氣を付けなさるやうにといふ、たゞ今、警官から御注意がありました。──御注意を申します。」と、夜警當番がすぐ窓の前を觸れて通つた。  さらぬだに、地震で引傾いでゐる借屋である。颶風の中心は魔の通るより氣味が惡い。──胸を引緊め、袖を合せて、ゐすくむと、や、や、次第に大風は暴れせまる。……一しきり、一しきり、たゞ、辛き息をつかせては、ウヽヽヽ、ヒユーとうなりを立てる。浮き袋に取付いた難破船の沖のやうに、提灯一つをたよりにして、暗闇にたゞよふうち、さあ、時かれこれ、やがて十二時を過ぎたと思ふと、氣の所爲か、その中心が通り過ぎたやうに、がう〳〵と戸障子をゆする風がざツと屋の棟を拂つて、やゝ輕くなるやうに思はれて、突つ伏したものも、僅に顏を上げると……何うだらう、忽ち幽怪なる夜陰の汽笛が耳をゑぐつて間ぢかに聞えた。「あゝ、(ウウ)が出ますよ。」と家内があをい顏をする。──この風に──私は返事も出來なかつた。 カチ、カチ、カヽチ カチ、カチ、カヽチ  雨にしづくの拍子木が、雲の底なる十四日の月にうつるやうに、袖の黒さも目に浮かんで、四五軒北なる大銀杏の下に響いた。──私は、霜に睡をさました劍士のやうに、付け燒き刃に落ちついて聞きすまして、「大丈夫だ。火が近ければ、あの音が屹とみだれる。」……カチカチカヽチ。「靜かに打つてゐるのでは火事は遠いよ。」「まあ、さうね。」といふ言葉も、果てないのに、「中六」「中六」と、ひしめきかはす人々の聲が、その、銀杏の下から車輪の如く軋つて來た。  續いて、「中六が火事ですよ。」と呼んだのは、再び夜警の聲である。やあ、不可い。中六と言へば、長い梯子なら屆くほどだ。然も風下、眞下である。私たちは默つて立つた。青ざめた女の瞼も決意に紅に潮しつゝ、「戸を開けないで支度をしませう。」地震以來、解いた事のない帶だから、ぐいと引しめるだけで事は足りる。「度々で濟みません。──御免なさいましよ。」と、やつと佛壇へ納めたばかりの位牌を、内中で、此ばかりは金色に、キラリと風呂敷に包む時、毛布を撥ねてむつくり起上つた──下宿を燒かれた避難者の濱野君が、「逃げると極めたら落着きませう。いま火の樣子を。」とがらりと門口の雨戸を開けた。可恐いもの見たさで、私もふツと立つて、框から顏を出すと、雨と風とが横なぐりに吹つける。處へ──靴音をチヤ〳〵と刻んで、銀杏の方から來なすつたのは、町内の白井氏で、おなじく夜警の當番で、「あゝもう可うございます。漏電ですが消えました。──軍隊の方も、大勢見えてゐますから安心です。」「何とも、ありがたう存じます──分けて今晩は御苦勞樣です……後に御加勢にまゐります。」おなじく南どなりへ知らせにおいでの、白井氏のレインコートの裾の、身にからんで、煽るのを、濛々たる雲の月影に見おくつた。  この時も、戸外はまだ散々であつた。木はたゞ水底の海松の如くうねを打ち、梢が窪んで、波のやうに吹亂れる。屋根をはがれたトタン板と、屋根板が、がたん、ばり〳〵と、競を追つたり、入りみだれたり、ぐる〳〵と、踊り燥ぐと、石瓦こそ飛ばないが、狼藉とした罐詰のあき殼が、カラカランと、水鷄が鐵棒をひくやうに、雨戸もたゝけば、溝端を突駛る。溝に浸つた麥藁帽子が、竹の皮と一所に、プンと臭つて、眞つ黒になつて撥上がる。……もう、やけになつて、鳴きしきる蟲の音を合方に、夜行の百鬼が跳梁跋扈の光景で。──この中を、折れて飛んだ青い銀杏の一枝が、ざぶり〳〵と雨を灌いで、波状に宙を舞ふ形は、流言の鬼の憑ものがしたやうに、「騷ぐな、おのれ等──鎭まれ、鎭まれ。」と告つて壓すやうであつた。 「私も薪雜棒を持つて出て、亞鉛と一番、鎬を削つて戰はうかな。」と喧嘩過ぎての棒ちぎりで擬勢を示すと、「まあ、可かつたわね、ありがたい。」と嬉しいより、ありがたいのが、斯うした時の眞實で。 「消して下すつた兵隊さんを、こゝでも拜みませう。」と、女中と一所に折り重なつて門を覗いた家内に、「怪我をしますよ。」と叱られて引込んだ。 三  誠にありがたがるくらゐでは足りないのである。火は、亞鉛板が吹つ飛んで、送電線に引掛つてるのが、風ですれて、線の外被を切つたために發したので。警備隊から、驚破と駈つけた兵員達は、外套も被なかつたのが多いさうである。危險を冒して、あの暴風雨の中を、電柱を攀ぢて、消しとめたのであると聞いた。──颶風の過ぎる警告のために、一人駈けまはつた警官も、外套なしに骨までぐしよ濡れに濡れ通つて──夜警の小屋で、餘りの事に、「おやすみになるのに、お着替がありますか。」といつて聞くと、「住居は燒けました。何もありません。──休息に、同僚のでも借りられればですが、大抵はこのまゝ寢ます。」との事だつたさうである。辛勞が察しらるゝ。  雨になやんで、葉うらにすくむ私たちは、果報といつても然るべきであらう。  曉方、僅にとろりとしつゝ目がさめた。寢苦い思ひの息つぎに朝戸を出ると、あの通り暴れまはつたトタン板も屋根板も、大地に、ひしとなつてへたばつて、魍魎を跳らした、ブリキ罐、瀬戸のかけらも影を散らした。風は冷く爽に、町一面に吹きしいた眞蒼な銀杏の葉が、そよ〳〵と葉のへりを優しくそよがせつゝ、芬と、樹の秋の薫を立てる。……  早起きの女中がざぶ〳〵、さら〳〵と、早、その木の葉をはく。……化けさうな古箒も、唯見ると銀杏の簪をさした細腰の風情がある。──しばらく、雨ながら戸に敷いたこの青い葉は、そのまゝにながめたし。「晩まで掃かないで。」と、留めたかつた。が、時節がらである。落ち葉を掃かないのさへ我儘らしいから、腕を組んでだまつて視た。  裏の小庭で、雀と一所に、嬉しさうな聲がする。……昨夜、戸外を舞靜めた、それらしい、銀杏の折れ枝が、大屋根を越したが、一坪ばかりの庭に、瑠璃淡く咲いて、もう小さくなつた朝顏の色に縋るやうに、たわゝに掛つた葉の中に、一粒、銀杏の實のついたのを見つけたのである。「たべられるものか、下卑なさんな。」「なぜ、何うして?」「いちじくとはちがふ。いくら食ひしん坊でも、その實は黄色くならなくつては。」「へい。」と目を丸くして、かざした所は、もち手は借家の山の神だ、が、露もこぼるゝ。枝に、大慈の楊柳の俤があつた。  ──ところで、前段にいつた通り、この日はめづらしく快晴した。  ……通りの花屋、花政では、きかない氣の爺さんが、捻鉢卷で、お月見のすゝき、紫苑、女郎花も取添へて、おいでなせえと、やつて居た。葉に打つ水もいさぎよい。  可し、この樣子では、歳時記どほり、十五夜の月はかゞやくであらう。打ちつゞく惡鬼ばらひ、屋を壓する黒雲をぬぐつて、景氣なほしに「明月」も、しかし沙汰過ぎるから、せめて「良夜」とでも題して、小篇を、と思ふうちに……四五人のお客があつた。いづれも厚情、懇切のお見舞である。  打ち寄れば言ふ事よ。今度の大災害につけては、先んじて見舞はねばならない、燒け殘りの家の無事な方が後になつて──類燒をされた、何とも申しやうのない方たちから、先手を打つて見舞はれる。壁の破れも、防がねばならず、雨漏りも留めたし、……その何よりも、火をまもるのが、町内の義理としても、大切で、煙草盆一つにも、一人はついて居なければならないやうな次第であるため、ひつ込みじあんに居すくまつて、小さくなつてゐるからである。 四  早く、この十日ごろにも、連日の臆病づかれで、寢るともなしにころがつてゐると、「鏡さんはゐるかい。──何は……ゐなさるかい。」と取次ぎ……といふほどの奧はない。出合はせた女中に、聞きなれない、かう少し掠れたが、よく通る底力のある、そして親しい聲で音づれた人がある。「あ、長さん。」私は心づいて飛び出した。はたして松本長であつた。  この能役者は、木曾の中津川に避暑中だつたが、猿樂町の住居はもとより、寶生の舞臺をはじめ、芝の琴平町に、意氣な稽古所の二階屋があつたが、それもこれも皆灰燼して、留守の細君──(評判の賢婦人だから厚禮して)──御新造が子供たちを連れて辛うじて火の中をのがれたばかり、何にもない。歴乎とした役者が、ゴム底の足袋に卷きゲートル、ゆかたの尻ばしよりで、手拭を首にまいてやつて來た。「いや、えらい事だつたね。──今日も燒けあとを通つたがね、學校と病院に火がかゝつたのに包まれて、駿河臺の、あの崖を攀ぢ上つて逃げたさうだが、よく、あの崖が上られたものだと思ふよ。ぞつとしながら、つく〴〵見たがね、上がらうたつて上がれさうな所ぢやない。女の腕に大勢の小兒をつれてゐるんだから──いづれ人さ、誰かが手を取り、肩をひいてくれたんだらうが、私は神佛のおかげだと思つて難有がつてゐるんだよ。──あゝ、裝束かい、皆な灰さ──面だけは近所のお弟子が駈けつけて、殘らずたすけた。百幾つといふんだが、これで寶生流の面目は立ちます。裝束は、いづれ年がたてば新しくなるんだから。」と蜀江の錦、呉漢の綾、足利絹もものともしないで、「よそぢや、この時節、一本お燗でもないからね、ビールさ。久しぶりでいゝ心持だ。」と熱燗を手酌で傾けて、「親類うちで一軒でも燒けなかつたのがお手柄だ。」といつて、うれしさうな顏をした。うらやましいと言はないまでも、結構だとでもいふことか、手柄だといつて讚めてくれた。私は胸がせまつた。と同時に、一藝に達した、いや──從兄弟だからグツと割びく──たづさはるものの意氣を感じた。神田兒だ。彼は生拔きの江戸兒である。  その日、はじめて店をあけた通りの地久庵の蒸籠をつる〳〵と平げて、「やつと蕎麥にありついた。」と、うまさうに、大胡坐を掻いて、また飮んだ。  印半纏一枚に燒け出されて、いさゝかもめげないで、自若として胸をたゝいて居るのに、なほ万ちやんがある。久保田さんは、まる燒けのしかも二度目だ。さすがに淺草の兄さんである。  つい、この間も、水上さんの元祿長屋、いや邸(註、建つて三百年といふ古家の一つがこれで、もう一つが三光社前の一棟で、いづれも地震にびくともしなかつた下六番町の名物である。)へ泊りに來てゐて、寢ころんで、誰かの本を讀んでゐた雅量は、推服に値する。  ついて話しがある。(猿どのの夜寒訪ひゆく兎かな)で、水上さんも、私も、場所はちがふが、兩方とも交代夜番のせこに出てゐる。町の角一つへだてつゝ、「いや、御同役いかゞでござるな。」と互に訪ひつ訪はれつする。私があけ番の時、宵のうたゝねから覺めて辻へ出ると、こゝにつめてゐた當夜の御番が「先刻、あなたのとこへお客がありましてね、門をのぞきなさるから、あゝ泉をおたづねですかと、番所から聲を掛けますと、いや用ではありません──番だといふから、ちよつと見に來ました、といつてお歸りになりました。戸をあけたまゝで、お宅ぢやあ皆さん、お寢みのやうでした。」との事である。 「どんな人です。」と聞くと、「さあ、はつきりは分りませんが、大きな眼鏡を掛けておいででした。」あゝ、水上さんのとこへ、今夜も泊りに來た人だらう、万ちやんだな、と私はさう思つた。久保田さんは、大きな眼鏡を掛けてゐる。──所がさうでない。來たのは瀧君であつた。評判のあの目が光つたと見える。これも讚稱にあたひする。 五  ──さてこの日、十五夜の當日も、前後してお客が歸ると、もうそちこち晩方であつた。  例年だと、その薄を、高樓──もちとをかしいが、この家で二階だから高いにはちがひない。その月の出の正面にかざつて、もと手のかゝらぬお團子だけは堆く、さあ、成金、小判を積んで較べて見ろと、飾るのだけれど、ふすまは外れる。障子の小間はびり〳〵と皆破れる。雜と掃き出したばかりで、煤もほこりも其のまゝで、まだ雨戸を開けないで置くくらゐだから、下階の出窓下、すゝけた簾ごしに供へよう。お月樣、おさびしうございませうがと、飾る。……その小さな臺を取りに、砂で氣味の惡い階子段を上がると、……プンとにほつた。焦げるやうなにほひである。ハツと思ふと、かう氣のせゐか、立てこめた中に煙が立つ。私はバタ〳〵と飛びおりた。「ちよつと來て見ておくれ、焦げくさいよ。」家内が血相して駈けあがつた。「漏電ぢやないか知ら。」──一日の地震以來、たばこ一服、火の氣のない二階である。「疊をあげませう。濱野さん……御近所の方、おとなりさん。」「騷ぐなよ。」とはいつたけれども、私も胸がドキ〳〵して、壁に頬を押しつけたり、疊を撫でたり、だらしはないが、火の氣を考へ、考へつゝ、雨戸を繰つて、衝と裏窓をあけると、裏手の某邸の廣い地尻から、ドス黒いけむりが渦を卷いて、もう〳〵と立ちのぼる。「湯どのだ、正體は見屆けた、あの煙だ。」といふと、濱野さんが鼻を出して、嗅いで見て、「いえ、あのにほひは石炭です。一つ嗅いで來ませう。」と、いふことも慌てながら戸外へ飛び出す。──近所の人たちも、二三人、念のため、スヰツチを切つて置いて、疊を上げた、が何事もない。「御安心なさいまし、大丈夫でせう。」といふ所へ、濱野さんが、下駄を鳴して飛んで戻つて、「づか〳〵庭から入りますとね、それ、あの爺さん。」といふ、某邸の代理に夜番に出て、ゐねむりをしい〳〵、むかし道中をしたといふ東海道の里程を、大津からはじめて、幾里何町と五十三次、徒歩で饒舌る。……安政の地震の時は、おふくろの腹にゐたといふ爺さんが、「風呂を焚いてゐましてね、何か、嗅ぐと矢つ張り石炭でしたが、何か、よくきくと、たきつけに古新聞と塵埃を燃したさうです。そのにほひが籠つたんですよ。大丈夫です。──爺さんにいひますとね、(氣の毒でがんしたなう。)といつてゐました。」箱根で煙草をのんだらうと、笑ひですんだから好いものの、薄に月は澄ながら、胸の動悸は靜まらない。あいにくとまた停電で、蝋燭のあかりを借りつゝ、燈と共に手がふるふ。……なか〳〵に稼ぐ所ではないから、いきつぎに表へ出て、近所の方に、たゞ今の禮を立話しでして居ると、人どよみを哄とつくつて、ばら〳〵往來がなだれを打つ。小兒はさけぶ。犬はほえる。何だ。何だ。地震か火事か、と騷ぐと、馬だ、馬だ。何だ、馬だ。主のない馬だ。はなれ馬か、そりや大變と、屈竟なのまで、軒下へパツと退いた。放れ馬には相違ない。引手も馬方もない畜生が、あの大地震にも縮まない、長い面して、のそり〳〵と、大八車のしたゝかな奴を、たそがれの塀の片暗夜に、人もなげに曳いて伸して來る。重荷に小づけとはこの事だ。その癖、車は空である。  が、嘘か眞か、本所の、あの被服廠では、つむじ風の火の裡に、荷車を曳いた馬が、車ながら炎となつて、空をきり〳〵と𢌞つたと聞けば、あゝ、その馬の幽靈が、車の亡魂とともに、フト迷つて顯はれたかと、見るにもの凄いまで、この騷ぎに持ち出した、軒々の提灯の影に映つたのであつた。  かういふ時だ。在郷軍人が、シヤツ一枚で、見事に轡を引留めた。が、この大きなものを、せまい町内、何處へつなぐ所もない。御免だよ、誰もこれを預からない。そのはずで。……然うかといつて、どこへ戻す所もないのである。少しでも廣い、中六へでも持ち出すかと、曳き出すと、人をおどろかしたにも似ない、おとなしい馬で、荷車の方が暴れながら、四角を東へ行く。……  醉つ拂つたか、寢込んだか、馬方め、馬鹿にしやがると、異説、紛々たる所へ、提灯片手に息せいて、馬の行つた方から飛び出しながら「皆さん、晝すぎに、見付けの米屋へ來た馬です。あの馬の面に見覺えがあります。これから知らせに行きます。」と、商家の中僧さんらしいのが、馬士に覺え、とも言はないで、呼ばはりながら北へ行く。  町内一ぱいのえらい人出だ、何につけても騷々しい。  かう何うも、番ごと、どしんと、駭ろかされて、一々びく〳〵して居たんでは行り切れない。さあ、もつて來い、何でも、と向う顱卷をした所で、馬の前へは立たれはしない。  夜ふけて、ひとり澄む月も、忽ち暗くなりはしないだらうか、眞赤になりはしないかと、おなじ不安に夜を過ごした。  その翌日──十六夜にも、また晩方強震があつた──おびえながら、この記をつゞる。  時に、こよひの月は、雨空に道行きをするやうなのではない。かう〴〵しく、そして、やさしく照つて、折りしもあれ風一しきり、無慙にもはかなくなつた幾萬の人たちの、燒けし黒髮かと、散る柳、焦げし心臟かと、落つる木の葉の、宙にさまよふと見ゆるのを、撫で慰さむるやうに、薄霧の袖の光りを長く敷いた。 大正十二年十月 底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店    1942(昭和17)年10月20日第1刷発行    1988(昭和63)年11月2日第3刷発行 ※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。 ※表題は底本では、「十六夜」とルビがついています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2011年8月6日作成 青空文庫作成ファイル: 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