すみだ川 永井荷風 Guide 扉 本文 目 次 すみだ川 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 一  俳諧師松風庵蘿月は今戸で常磐津の師匠をしてゐる実の妹をば今年は盂蘭盆にもたづねずにしまつたので毎日その事のみ気にしてゐる。然し日盛りの暑さにはさすがに家を出かねて夕方になるのを待つ。夕方になると竹垣に朝顔のからんだ勝手口で行水をつかつた後其のまゝ真裸体で晩酌を傾けやつとの事膳を離れると、夏の黄昏も家々で焚く蚊遣の烟と共にいつか夜となり、盆栽を並べた窓の外の往来には簾越しに下駄の音職人の鼻唄人の話声がにぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝に注意されてすぐにも今戸へ行くつもりで格子戸を出るのであるが、其辺の凉台から声をかけられるがまゝ腰を下すと、一杯機嫌の話好に、毎晩きまつて埒もなく話し込んでしまふのであつた。  朝夕がいくらか凉しく楽になつたかと思ふと共に大変日が短くなつて来た。朝顔の花が日毎に小さくなり、西日が燃える焔のやうに狭い家中へ差込んで来る時分になると鳴きしきる蝉の声が一際耳立つて急しく聞える。八月もいつか半過ぎてしまつたのである。家の後の玉蜀黍の畠に吹き渡る風の響が夜なぞは折々雨かと誤たれた。蘿月は若い時分したい放題身を持崩した道楽の名残とて時候の変目といへば今だに骨の節々が痛むので、いつも人より先に秋の立つのを知るのである。秋になつたと思ふと唯わけもなく気がせはしくなる。  蘿月は俄に狼狽へ出し、八日頃の夕月がまだ真白く夕焼の空にかゝつてゐる頃から小梅瓦町の住居を後にテク〳〵今戸をさして歩いて行つた。  堀割づたひに曳舟通から直ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先の分らないほど迂囘した小径が三囲稲荷の横手を巡つて土手へと通じてゐる。小径に沿うては田圃を埋立てた空地に、新しい貸長屋がまだ空家のまゝに立並んだ処もある。広々した構への外には大きな庭石を据並べた植木屋もあれば、いかにも田舎らしい茅葺の人家のまばらに立ちつゞいてゐる処もある。それ等の家の竹垣の間からは夕月に行水をつかつてゐる女の姿の見える事もあつた。蘿月宗匠はいくら年をとつても昔の気質は変らないので見て見ぬやうに窃と立止るが、大概はぞつとしない女房ばかりなので、落胆したやうに其のまゝ歩調を早める。そして売地や貸家の札を見て過る度々、何ともつかず其の胸算用をしながら自分も懐手で大儲がして見たいと思ふ。然しまた田圃づたひに歩いて行く中水田のところ〴〵に蓮の花の見事に咲き乱れたさまを眺め青々した稲の葉に夕風のそよぐ響をきけば、さすがは宗匠だけに、銭勘定の事よりも記憶に散在してゐる古人の句をば実に巧いものだと思返すのであつた。  土手へ上つた時には葉桜のかげは早や小暗く水を隔てた人家には灯が見えた。吹きはらふ河風に桜の病葉がはら〳〵散る。蘿月は休まず歩きつゞけた暑さにほつと息をつき、ひろげた胸をば扇子であふいだが、まだ店をしまはずにゐる休茶屋を見付けて慌忙て立寄り、「おかみさん、冷で一杯。」と腰を下した。正面に待乳山を見渡す隅田川には夕風を孕んだ帆かけ船が頻りに動いて行く。水の面の黄昏れるにつれて鴎の羽の色が際立つて白く見える。宗匠は此の景色を見ると時候はちがふけれど酒なくて何の己れが桜かなと急に一杯傾けたくなつたのである。  休茶屋の女房が縁の厚い底の上つたコツプについで出す冷酒を、蘿月はぐいと飲干して其のまゝ竹屋の渡船に乗つた。丁度河の中程へ来た頃から舟のゆれるにつれて冷酒がおひ〳〵にきいて来る。葉桜の上に輝きそめた夕月の光がいかにも凉しい。滑な満潮の水は「お前どこ行く」と流行唄にもあるやうにいかにも投遣つた風に心持よく流れてゐる。宗匠は目をつぶつて独で鼻唄をうたつた。  向河岸へつくと急に思出して近所の菓子屋を探して土産を買ひ今戸橋を渡つて真直な道をば自分ばかりは足許のたしかなつもりで、実は大分ふら〳〵しながら歩いて行つた。  そこ此処に二三軒今戸焼を売る店にわづかな特徴を見るばかり、何処の場末にもよくあるやうな低い人家つゞきの横町である。人家の軒下や路地口には話しながら凉んでゐる人の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立つて白く見えながら、あたりは一体にひつそりして何処かで犬の吠える声と赤児のなく声が聞える。天の川の澄渡つた空に繁つた木立を聳かしてゐる今戸八幡の前まで来ると、蘿月は間もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豊と勘亭流で書いた妹の家の灯を認めた。家の前の往来には人が二三人も立止つて内なる稽古の浄瑠璃を聞いてゐた。  折々恐しい音して鼠の走る天井からホヤの曇つた六分心のランプがところ〴〵宝丹の広告や都新聞の新年附録の美人画なぞで破れ目をかくした襖を始め、飴色に古びた箪笥、雨漏のあとのある古びた壁なぞ、八畳の座敷一体をいかにも薄暗く照してゐる。古ぼけた葭戸を立てた縁側の外には小庭があるのやら無いのやら分らぬほどな闇の中に軒の風鈴が淋しく鳴り虫が静に鳴いてゐる。師匠のお豊は縁日ものゝ植木鉢を並べ、不動尊の掛物をかけた床の間を後にしてべつたり坐つた膝の上に三味線をかゝへ、樫の撥で時々前髪のあたりをかきながら、掛声をかけては弾くと、稽古本を広げた桐の小机を中にして此方には三十前後の商人らしい男が中音で、「そりや何を云はしやんす、今さら兄よ妹と云ふに云はれぬ恋中は………。」と「小稲半兵衛」の道行を語る。  蘿月は稽古のすむまで縁近くに坐つて、扇子をぱちくりさせながら、まだ冷酒のすつかり醒めきらぬ処から、時々は我知らず口の中で稽古の男と一しよに唄つたが、時々は目をつぶつて遠慮なく噯をした後、身体を軽く左右にゆすりながらお豊の顔をば何の気もなく眺めた。お豊はもう四十以上であらう。薄暗い釣ランプの光が痩せこけた小作りの身体をば猶更に老けて見せるので、ふいと此れが昔は立派な質屋の可愛らしい箱入娘だつたのかと思ふと、蘿月は悲しいとか淋しいとか然う云ふ現実の感慨を通過して、唯だ〳〵不思議な気がしてならない。其の頃は自分も矢張若くて美しくて、女にすかれて、道楽して、とう〳〵実家を七生まで勘当されてしまつたが、今になつては其の頃の事はどうしても事実ではなくて夢としか思はれない。算盤で乃公の頭をなぐつた親爺にしろ、泣いて意見をした白鼠の番頭にしろ、暖簾を分けて貰つたお豊の亭主にしろ、さう云ふ人達は怒つたり笑つたり泣いたり喜んだりして、汗をたらして飽きずによく働いてゐたものだが、一人々々皆死んでしまつた今日となつて見れば、あの人達はこの世の中に生れて来ても来なくてもつまる処は同じやうなものだつた。まだしも自分とお豊の生きてゐる間は、あの人達は両人の記憶の中に残されてゐるものゝ、やがて自分達も死んでしまへばいよ〳〵何も彼も煙になつて跡方もなく消え失せてしまふのだ………。 「兄さん、実は二三日中に私の方からお邪魔に上らうと思つてゐたんだよ。」とお豊が突然話しだした。  稽古の男は小稲半兵衛をさらつた後同じやうなお妻八郎兵衛の語出しを二三度繰返して帰つて行つたのである。蘿月は尤もらしく坐り直して扇子で軽く膝を叩いた。 「実はね。」とお豊は同じ言葉を繰返して、「駒込のお寺が市区改正で取払ひになるんだとさ。それでね、死んだお父つアんのお墓を谷中か染井か何処かへ移さなくつちやならないんだつてね、四五日前にお寺からお使が来たから、どうしたものかと、其の相談に行かうと思つてたのさ。」 「成程。」と蘿月は頷付いて、「さういふ事なら打捨つても置けまい。もう何年になるかな、親爺が死んでから………。」  首を傾げて考へたが、お豊の方は着々話しを進めて染井の墓地の地代が一坪いくら、寺への心付けが何うのかうのと、それについては女の身よりも男の蘿月に万事を引受けて取計らつて貰ひたいと云ふのであつた。  蘿月はもと小石川表町の相模屋と云ふ質屋の後取息子であつたが勘当の末若隠居の身となつた。頑固な父が世を去つてからは妹お豊を妻にした店の番頭が正直に相模屋の商売をつゞけてゐた。処が御維新此の方時勢の変遷で次第に家運の傾いて来た折も折火事にあつて質屋はそれなり潰れてしまつた。で、風流三昧の蘿月は已むを得ず俳諧で世を渡るやうになり、お豊は其の後亭主に死別れた不幸つゞきに昔名を取つた遊芸を幸ひ常磐津の師匠で生計を立てるやうになつた。お豊には今年十八になる男の子が一人ある。零落した女親がこの世の楽しみと云ふのは全く此の一人息子長吉の出世を見やうと云ふ事ばかりで、商人はいつ失敗するか分らないと云ふ経験から、お豊は三度の飯を二度にしても、行く〳〵はわが児を大学校に入れて立派な月給取りにせねばならぬと思つて居る。  蘿月宗匠は冷えた茶を飲干しながら、「長吉はどうしました。」  するとお豊はもう得意らしく、「学校は今夏休みですがね、遊ばしといちやいけないと思つて本郷まで夜学にやります。」 「ぢや帰りは晩いね。」 「えゝ。いつでも十時過ぎますよ。電車はありますがね、随分遠路ですからね。」 「我輩とは違つて今時の若いものは感心だね。」宗匠は言葉を切つて、「中学校だつけね、乃公は子供を持つた事がねえから当節の学校の事はちつとも分らない。大学校まで行くにやまだ余程かゝるのかい。」 「来年卒業してから試験を受けるんでさアね。大学校へ行く前に、もう一ツ………大きな学校があるんです。」お豊は何も彼も一口に説明してやりたいと心ばかりは急つても、矢張り時勢に疎い女の事で忽ち云淀んでしまつた。 「たいした経費だらうね。」 「えゝ其ア、大抵ぢや有りませんよ。何しろ、あなた、月謝ばかりが毎月一円、本代だつて試験の度々に二三円ぢやきゝませんしね、其れに夏冬ともに洋服を着るんでせう、靴だつて年に二足は穿いてしまひますよ。」  お豊は調子づいて苦心の程を一倍強く見せやうためか声に力を入れて話したが、蘿月はその時、其れ程にまで無理をするなら、何も大学校へ入れないでも、長吉にはもつと身分相応な立身の途がありさうなものだといふ気がした。しかし口へ出して云ふほどの事でもないので、何か話題の変化をと望む矢先へ、自然に思ひ出されたのは長吉が子供の時分の遊び友達でお糸と云つた煎餅屋の娘の事である。蘿月は其の頃お豊の家を訪ねた時にはきまつて甥の長吉とお糸をつれては奥山や佐竹ツ原の見世物を見に行つたのだ。 「長吉が十八ぢや、あの娘はもう立派な姉さんだらう。矢張稽古に来るかい。」 「家へは来ませんがね、この先の杵屋さんにや毎日通つてますよ。もう直き葭町へ出るんだつて云ひますがね………。」とお豊は何か考へるらしく語を切つた。 「葭町へ出るのか。そいつア豪儀だ。子供の時からちよいと口のきゝやうのませた、好い娘だつたよ。今夜にでも遊びに来りやアいゝに。ねえ、お豊。」と宗匠は急に元気づいたが、お豊はポンと長煙管をはたいて、 「以前とちがつて、長吉も今が勉強ざかりだしね………。」 「はゝゝゝは。間違ひでもあつちやならないと云ふのかね。尤もだよ。この道ばかりは全く油断がならないからな。」 「ほんとさ。お前さん。」お豊は首を長く延して、「私の僻目かも知れないが、実はどうも長吉の様子が心配でならないのさ。」 「だから、云はない事ツちやない。」と蘿月は軽く握り拳で膝頭をたゝいた。お豊は長吉とお糸のことが唯何となしに心配でならない。と云ふのは、お糸が長唄の稽古帰りに毎朝用もないのに屹度立寄つて見る、其れをば長吉は必ず待つてゐる様子で其の時間頃には一足だつて窓の傍を去らない。其れのみならず、いつぞやお糸が病気で十日程も寝てゐた時には、長吉は外目も可笑しい程にぼんやりして居た事などを息もつかずに語りつゞけた。  次の間の時計が九時を打出した時突然格子戸ががらりと明いた。其の明け様でお豊はすぐに長吉の帰つて来た事を知り急に話を途切し其の方に振返りながら、 「大変早いやうだね、今夜は。」 「先生が病気で一時間早くひけたんだ。」 「小梅の伯父さんがおいでだよ。」  返事は聞えなかつたが、次の間に包を投出す音がして、直様長吉は温順しさうな弱さうな色の白い顔を襖の間から見せた。 二  残暑の夕日が一しきり夏の盛よりも烈しく、ひろ〴〵した河面一帯に燃え立ち、殊更に大学の艇庫の真白なペンキ塗の板目に反映してゐたが、忽ち燈の光の消えて行くやうにあたりは全体に薄暗く灰色に変色して来て、満ち来る夕汐の上を滑つて行く荷船の帆のみが真白く際立つた。と見る間もなく初秋の黄昏は幕の下るやうに早く夜に変つた。流れる水がいやに眩しくきら〳〵光り出して、渡船に乗つて居る人の形をくつきりと墨絵のやうに黒く染め出した。堤の上に長く横はる葉桜の木立は此方の岸から望めば恐しいほど真暗になり、一時は面白いやうに引きつゞいて動いてゐた荷船はいつの間にか一艘残らず上流の方に消えてしまつて、釣の帰りらしい小舟がところ〴〵木の葉のやうに浮いてゐるばかり、見渡す隅田川は再びひろ〴〵としたばかりか静に淋しくなつた。遥か川上の空のはづれに夏の名残を示す雲の峰が立つてゐて細い稲妻が絶間なく閃めいては消える。  長吉は先刻から一人ぼんやりして、或時は今戸橋の欄干に凭れたり、或時は岸の石垣から渡場の桟橋へ下りて見たりして、夕日から黄昏、黄昏から夜になる河の景色を眺めて居た。今夜暗くなつて人の顔がよくは見えない時分になつたら今戸橋の上でお糸と逢ふ約束をしたからである。然し丁度日曜日に当つて夜学校を口実にも出来ない処から夕飯を済すが否やまだ日の落ちぬ中ふいと家を出てしまつた。一しきり渡場へ急ぐ人の往来も今では殆ど絶え、橋の下に夜泊りする荷船の燈火が慶養寺の高い木立を倒に映した山谷堀の水に美しく流れた。門口に柳のある新しい二階家からは三味線が聞えて、水に添ふ低い小家の格子戸外には裸体の亭主が凉みに出はじめた。長吉はもう来る時分であらうと思つて一心に橋向うを眺めた。  最初に橋を渡つて来た人影は黒い麻の僧衣を着た坊主であつた。つゞいて尻端折の股引にゴム靴をはいた請負師らしい男の通つた後、暫くしてから、蝙蝠傘と小包を提げた貧し気な女房が日和下駄で色気もなく砂を蹴立てゝ大股に歩いて行つた。もういくら待つても人通りはない。長吉は詮方なく疲れた眼を河の方に移した。河面は先刻よりも一体に明くなり気味悪い雲の峯は影もなく消えてゐる。長吉は其の時長命寺辺の堤の上の木立から、他分旧暦七月の満月であらう、赤味を帯びた大きな月の昇りかけて居るのを認めた。空は鏡のやうに明いのでそれを遮る堤と木立はます〳〵黒く、星は宵の明星の唯た一つ見えるばかりで其の他は尽く余りに明い空の光に掻き消され、横ざまに長く棚曳く雲のちぎれが銀色に透通つて輝いてゐる。見る〳〵中満月が木立を離れるに従ひ河岸の夜露をあびた瓦屋根や、水に湿れた棒杭、満潮に流れ寄る石垣下の藻草のちぎれ、船の横腹、竹竿なぞが、逸早く月の光を受けて蒼く輝き出した。忽ち長吉は自分の影が橋板の上に段々に濃く描き出されるのを知つた。通りかゝるホーカイ節の男女が二人、「まア御覧よ。お月様。」と云つて暫く立止つた後、山谷堀の岸辺に曲るが否や当付がましく、 〽書生さん橋の欄干に腰打かけて─── と立ちつゞく小家の前で歌つたが金にならないと見たか歌ひも了らず、元の急足で吉原土手の方へ行つてしまつた。  長吉はいつも忍会の恋人が経験するさま〴〵の懸念と待ちあぐむ心のいらだちの外に、何とも知れぬ一種の悲哀を感じた。お糸と自分との行末………行末と云ふよりも今夜会つて後の明日はどうなるのであらう。お糸は今夜兼てから話のしてある葭町の芸者屋まで出掛けて相談をして来ると云ふ事で、其の道中をば二人一緒に話しながら歩かうと約束したのである。お糸がいよ〳〵芸者になつてしまへば此れまでのやうに毎日逢ふ事ができなくなるのみならず、それが萬事の終りであるらしく思はれてならない。自分の知らない如何にも遠い国へと再び帰る事なく去つてしまふやうな気がしてならないのだ。今夜のお月様は忘れられない。一生に二度見られない月だなアと長吉はしみじみ思つた。あらゆる記憶の数々が電光のやうに閃く。最初地方町の小学校へ行く頃は毎日のやうに喧嘩して遊んだ。やがては皆なから近所の板塀や土蔵の壁に相々傘をかゝれて囃された。小梅の伯父さんにつれられて奥山の見世物を見に行つたり池の鯉に麩をやつたりした。  三社祭の折お糸は或年踊屋台へ出て道成寺を踊つた。町内一同で毎年汐干狩に行く船の上でもお糸はよく踊つた。学校の帰り道には毎日のやうに待乳山の境内で待合せて、人の知らない山谷の裏町から吉原田圃を歩いた………。あゝ、お糸は何故芸者なんぞになるんだらう。芸者なんぞになつちやいけないと引止めたい。長吉は無理にも引止めねばならぬと決心したが、すぐ其の傍から、自分はお糸に対しては到底それだけの威力のない事を思返した。果敢い絶望と諦めとを感じた。お糸は二ツ年下の十六であるが、此頃になつては長吉は殊更に日一日とお糸が遥か年上の姉であるやうな心持がしてならぬのであつた。いや最初からお糸は長吉よりも強かつた。長吉よりも遥に臆病ではなかつた。お糸長吉と相々傘にかゝれて皆なから囃された時でもお糸はびくともしなかつた。平気な顔で長ちやんはあたいの旦那だよと怒鳴つた。去年初めて学校からの帰り道を待乳山で待ち合はさうと申出したのもお糸であつた。宮戸座の立見へ行かうと云つたのもお糸が先であつた。帰りの晩くなる事をもお糸の方が却て心配しなかつた。知らない道に迷つても、お糸は行ける処まで行つて御覧よ。巡査さんにきけば分るよと云つて、却て面白さうにづん〳〵歩いた………。  あたりを構はず橋板の上に吾妻下駄を鳴す響がして、小走りに突然お糸がかけ寄つた。 「おそかつたでせう。気に入らないんだもの、母さんの結つた髪なんぞ。」と馳け出した為めに殊更ほつれた鬢を直しながら、「をかしいでせう。」  長吉はたゞ眼を円くしてお糸の顔を見るばかりである。いつもと変りのない元気のいゝはしやぎ切つた様子がこの場合寧ろ憎らしく思はれた。遠い下町に行つて芸者になつてしまふのが少しも悲しくないのかと長吉は云ひたい事も胸一ぱいになつて口には出ない。お糸は河水を照す玉のやうな月の光にも一向気のつかない様子で、 「早く行かうよ。私お金持ちだよ。今夜は。仲店でお土産を買つて行くんだから。」とすた〳〵歩きだす。 「明日、きつと帰るか。」長吉は吃るやうにして云ひ切つた。 「明日帰らなければ、明後日の朝はきつと帰つて来てよ。不断着だの、いろんなもの持つて行かなくつちやならないから。」  待乳山の麓を聖天町の方へ出やうと細い路地をぬけた。 「何故黙つてるのよ。どうしたの。」 「明後日帰つて来てそれから又彼方へ去つてしまふんだらう。え。お糸ちやんはもう其れなり向うの人になつちまふんだらう。もう僕とは会へないんだらう。」 「ちよい〳〵遊びに帰つて来るわ。だけれど、私も一生懸命にお稽古しなくつちやならないんだもの。」  少しは声を曇したものゝ其の調子は長吉の満足するほどの悲愁を帯びてはゐなかつた。長吉は暫くしてから又突然に、 「なぜ芸者なんぞになるんだ。」 「又そんな事きくの。をかしいよ。長さんは。」  お糸は已に長吉のよく知つてゐる事情をば再びくど〳〵しく繰返した。お糸が芸者になると云ふ事は二三年いやもつと前から長吉にも能く分つてゐた事である。其の起因は大工であつたお糸の父親がまだ生きて居た頃から母親は手内職にと針仕事をしてゐたが、その得意先の一軒で橋場の妾宅にゐる御新造がお糸の姿を見て是非娘分にして行末は立派な芸者にしたてたいと云出した事からである。御新造の実家は葭町で幅のきく芸者家であつた。然し其の頃のお糸の家はさほどに困つても居なかつたし、第一に可愛い盛の子供を手放すのが辛かつたので、親の手元でせいぜい芸を仕込ます事になつた。其後父親が死んだ折には差当り頼りのない母親は橋場の御新造の世話で今の煎餅屋を出したやうな関係もあり、萬事が金銭上の義理ばかりでなくて相方の好意から自然とお糸は葭町へ行くやうに誰れが強ひるともなく決つて居たのである。百も承知してゐるこんな事情を長吉はお糸の口からきく為めに質問したのでない。お糸がどうせ行かねばならぬものなら、もう少し悲しく自分の為めに別を惜しむやうな調子を見せて貰ひたいと思つたからだ。長吉は自分とお糸の間にはいつの間にか互に疎通しない感情の相違の生じて居る事を明かに知つて、更に深い悲みを感じた。  この悲みはお糸が土産物を買ふ為め仁王門を過ぎて仲店へ出た時更に又堪へがたいものとなつた。夕凉に出掛ける賑かな人出の中にお糸はふいと立止つて、並んで歩く長吉の袖を引き、「長さん、あたいも直きあんな扮装するんだねえ。絽縮緬だねきつと、あの羽織………。」  長吉は云はれるまゝに見返ると、島田に結つた芸者と、其れに連立つて行くのは黒絽の紋付をきた立派な紳士であつた。あゝお糸が芸者になつたら一緒に手を引いて歩く人は矢張あゝ云ふ立派な紳士であらう。自分は何年たつたらあんな紳士になれるのか知ら。兵児帯一ツの現在の書生姿が云ふに云はれず情なく思はれると同時に、長吉は其の将来どころか現在に於ても、已に単純なお糸の友達たる資格さへないものゝやうな心持がした。  いよ〳〵御神燈のつゞいた葭町の路地口へ来た時、長吉はもう此れ以上果敢いとか悲しいとか思ふ元気さへなくなつて、唯だぼんやり、狭く暗い路地裏のいやに奥深く行先知れず曲込んでゐるのを不思議さうに覗込むばかりであつた。 「あの、一ィ二ゥ三ィ………四つ目の瓦斯燈の出てるところだよ。松葉屋と書いてあるだらう。ね。あの家よ。」とお糸は屡橋場の御新造につれて来られたり、又はその用事で使ひに来たりして能く知つてゐる軒先の燈を指し示した。 「ぢやア僕は帰るよ。もう………。」と云ふばかりで長吉は矢張り立止つてゐる。その袖をお糸は軽く捕へて忽ち媚るやうに寄添ひ、 「明日か明後日、家へ帰つて来た時きつと逢はうね。いゝかい。きつとよ。約束してよ。あたいの家へお出よ。よくツて。」 「あゝ。」  返事をきくと、お糸は其れですつかり安心したものゝ如くすた〳〵路地の溝板を吾妻下駄に踏みならし振返りもせずに行つてしまつた。其の足音が長吉の耳には急いで馳けて行くやうに聞えた、かと思ふ間もなく、ちりん〳〵と格子戸の鈴の音がした。長吉は覚えず後を追つて路地内へ這入らうとしたが、同時に一番近くの格子戸が人声と共に開いて、細長い弓張提灯を持つた男が出て来たので、何と云ふ事なく長吉は気後れのしたばかりか、顔を見られるのが厭さに、一散に通りの方へと遠かつた。円い月は形が大分小くなつて光が蒼く澄んで、静に聳える裏通りの倉の屋根の上、星の多い空の真中に高く昇つて居た。 三  月の出が夜毎おそくなるにつれて其の光は段々冴えて来た。河風の湿ツぽさが次第に強く感じられて来て浴衣の肌がいやに薄寒くなつた。月はやがて人の起きて居る頃にはもう昇らなくなつた。空には朝も昼過ぎも夕方も、いつでも雲が多くなつた。雲は重り合つて絶えず動いてゐるので、時としては僅かに其の間々に殊更らしく色の濃い青空の残りを見せて置きながら、空一面に蔽ひ冠さる。すると気候は恐しく蒸暑くなつて来て、自然と浸み出る脂汗が不愉快に人の肌をねば〳〵させるが、然し又、さう云ふ時にはきまつて、其の強弱と其の方向の定まらない風が突然に吹き起つて、雨もまた降つては止み、止んではまた降りつゞく事がある。この風やこの雨には一種特別の底深い力が含まれて居て、寺の樹木や、河岸の葦の葉や、場末につゞく貧しい家の板屋根に、春や夏には決して聞かれない音響を伝へる。日が恐しく早く暮れてしまふだけ、長い夜はすぐに寂々と更け渡つて来て、夏ならば夕凉みの下駄の音に遮られてよくは聞えない八時か九時の時の鐘があたりをまるで十二時の如く静にしてしまふ。蟋蟀の声はいそがしい。燈火の色はいやに澄む。秋。あゝ秋だ。長吉は初めて秋といふものは成程いやなものだ。実に淋しくつて堪らないものだと身にしみ〴〵感じた。  学校はもう昨日から始つてゐる。朝早く母親の用意して呉れる弁当箱を書物と一所に包んで家を出て見たが、二日目三日目にはつく〴〵遠い神田まで歩いて行く気力がなくなつた。今までは毎年長い夏休みの終る頃と云へば学校の教場が何となく恋しく授業の開始する日が心待に待たれるやうであつた。其のうひ〳〵しい心持はもう全く消えてしまつた。つまらない。学問なんぞしたつてつまるものか。学校は己れの望むやうな幸福を与へる処ではない。………幸福とは無関係のものである事を長吉は物新しく感じた。  四日目の朝いつものやうに七時前に家を出て観音の境内まで歩いて来たが、長吉はまるで疲れきつた旅人が路傍の石に腰をかけるやうに、本堂の横手のベンチの上に腰を下した。いつの間に掃除をしたものか朝露に湿つた小砂利の上には、投捨てた汚い紙片もなく、朝早い境内はいつもの雑沓に引かへて妙に広く神々しく寂としてゐる。本堂の廊下には此処で夜明ししたらしい迂散な男が今だに幾人も腰をかけて居て、其の中には垢じみた単衣の三尺帯を解いて平気で褌をしめ直してゐる奴もあつた。此頃の空癖で空は低く鼠色に曇り、あたりの樹木からは虫噛んだ青いまゝの木葉が絶え間なく落ちる。烏や鶏の啼声鳩の羽音が爽かに力強く聞える。溢れる水に濡れた御手洗の石が飜へる奉納の手拭のかげにもう何となく冷いやうに思はれた。其れにも拘らず朝参りの男女は本堂の階段を上る前に何れも手を洗ふ為めにと立止まる。其の人々の中に長吉は偶然にも若い一人の芸者が、口には桃色のハンケチを啣へて、一重羽織の袖口を濡すまい為めか、真白な手先をば腕までも見せるやうに長くさし伸してゐるのを認めた。同時にすぐ隣のベンチに腰をかけてゐる書生が二人、「見ろ〳〵、ジンゲルだ。わるくないなア。」と云つてゐるのさへ耳にした。  島田に結つて弱々しく両肩の撫で下つた小作りの姿と、口尻のしまつた円顔、十六七の同じやうな年頃とが、長吉をして其の瞬間危くベンチから飛び立たせやうとした程お糸のことを連想せしめた。お糸は月のいゝあの晩に約束した通り、其の翌々日に、其れからは長く葭町の人たるべく手荷物を取りに帰つて来たが、其の時長吉はまるで別の人のやうにお糸の姿の変つてしまつたのに驚いた。赤いメレンスの帯ばかり締めて居た娘姿が、突然たつた一日の間に、丁度今御手洗で手を洗つてゐる若い芸者その儘の姿になつてしまつたのだ。薬指にはもう指環さへ穿めてゐた。用もないのに幾度となく帯の間から鏡入れや紙入を抜き出して、白粉をつけ直したり鬢のほつれを撫で上げたりする。戸外には車を待たして置いていかにも急しい大切な用件を身に帯びてゐると云つた風で一時間もたつかたゝない中に帰つてしまつた。其の帰りがけ長吉に残した最後の言葉は其の母親の「御師匠さんのをばさん」にもよろしく云つてくれと云ふ事であつた。まだ何時出るのか分らないから又近い中に遊びに来るわと云ふ懐しい声も聞れないのではなかつたが、其れはもう今までのあどけない約束ではなくて、世馴れた人の如才ない挨拶としか長吉には聞取れなかつた。娘であつたお糸、幼馴染の恋人のお糸はこの世にはもう生きてゐないのだ。路傍に寝て居る犬を驚して勢よく駈け去つた車の後に、えも云はれず立迷つた化粧の匂ひが、いかに苦しく、いかに切なく身中にしみ渡つたであらう………。  本堂の中にと消えた若い芸者の姿は再び階段の下に現れて仁王門の方へと、素足の指先に突掛けた吾妻下駄を内輪に軽く踏みながら歩いて行く。長吉は其の後姿を見送ると又更に恨めしいあの車を見送つた時の一刹那を思起すので、もう何としても我慢が出来ぬといふやうにベンチから立上つた。そして知らず〳〵其の後を追ふて仲店の尽るあたりまで来たが、若い芸者の姿は何処の横町へ曲つてしまつたものか、もう見えない。両側の店では店先を掃除して品物を並べたてゝゐる最中である。長吉は夢中で雷門の方へどん〳〵歩いた。若い芸者の行衛を見究めやうと云ふのではない。自分の眼にばかりあり〳〵見えるお糸の後姿を追つて行くのである。学校の事も何も彼も忘れて、駒形から蔵前、蔵前から浅草橋………其れから葭町の方へとどん〳〵歩いた。然し電車の通つてゐる馬喰町の大通りまで来て、長吉は何の横町を曲ればよかつたのか少しく当惑した。けれども大体の方角はよく分つてゐる。東京に生れたものだけに道をきくのが厭である。恋人の住む町と思へば、其の名を徒に路傍の他人に漏すのが、心の秘密を探られるやうで、唯わけもなく恐しくてならない。長吉は仕方なしに唯だ左へ左へと、いゝかげんに折れて行くと蔵造りの問屋らしい商家のつゞいた同じやうな堀割の岸に二度も出た。其の結果長吉は遥か向うに明治座の屋根を見てやがて稍広い往来へ出た時、其の遠い道のはづれに河蒸汽船の汽笛の音の聞えるのに、初めて自分の位置と町の方角とを覚つた。同時に非常な疲労を感じた。制帽を冠つた額のみならず汗は袴をはいた帯のまはりまでしみ出してゐた。然しもう一瞬間とても休む気にはならない。長吉は月の夜に連れられて来た路地口をば、これは又一層の苦心、一層の懸念、一層の疲労を以つて、やつとの事で見出し得たのである。  片側に朝日がさし込んで居るので路地の内は突当りまで見透された。格子戸づくりの小い家ばかりでない。昼間見ると意外に屋根の高い倉もある。忍返しをつけた板塀もある。其の上から松の枝も見える。石灰の散つた便所の掃除口も見える。塵芥箱の並んだ処もある。其の辺に猫がうろ〳〵して居る。人通りは案外に烈しい。極めて狭い溝板の上を通行の人は互に身を斜めに捻向けて行き交ふ。稽古の三味線に人の話声が交つて聞える。洗物する水音も聞える。赤い腰巻に裾をまくつた小女が草箒で溝板の上を掃いてゐる。格子戸の格子を一本々々一生懸命に磨いて居るのもある。長吉は人目の多いのに気後れしたのみでなく、さて路地内に進入つたにした処で、自分はどうするのかと初めて反省の地位に返つた。人知れず松葉屋の前を通つて、そつとお糸の姿を垣間見たいとは思つたが、あたりが余りに明過ぎる。さらば此のまゝ路地口に立つてゐて、お糸が何かの用で外へ出るまでの機会を待たうか。然しこれもまた、長吉には近所の店先の人目が尽く自分ばかりを見張つて居るやうに思はれて、とても五分と長く立つてゐる事はできない。長吉は兎に角思案をしなほすつもりで、折から近所の子供を得意にする粟餅屋の爺がカラカラカラと杵をならして来る向うの横町の方へと遠かつた。  長吉は浜町の横町をば次第に道の行くまゝに大川端の方へと歩いて行つた。いか程機会を待つても昼中はどうしても不便である事を僅かに悟り得たのであるが、すると、今度はもう学校へは遅くなつた。休むにしても今日の半日、これから午後の三時までをどうして何処に消費しやうかと云ふ問題の解決に迫められた。母親のお豊は学校の時間割までをよく知抜いてゐるので、長吉の帰りが一時間早くても、晩くても、すぐに心配して煩く質問する。無論長吉は何とでも容易く云紛らすことは出来ると思ふものゝ、其れだけの嘘をつく良心の苦痛に逢ふのが厭でならない。丁度来かゝる川端には、水練場の板小屋が取払はれて、柳の木蔭に人が釣をしてゐる。其れをば通りがゝりの人が四人も五人もぼんやり立つて見てゐるので、長吉はいゝ都合だと同じやうに釣を眺める振で其のそばに立寄つたが、もう立つてゐるだけの力さへなく、柳の根元の支木に背をよせかけながら蹲踞んでしまつた。  さつきから空の大半は真青に晴れて来て、絶えず風の吹き通ふにも拘らず、ぢり〳〵人の肌に焼附くやうな湿気のある秋の日は、目の前なる大川の水一面に眩しく照り輝くので、往来の片側に長くつゞいた土塀からこんもりと枝を伸した繁りの蔭がいかにも凉しさうに思はれた。甘酒屋の爺がいつか此の木蔭に赤く塗つた荷を下してゐた。川向は日の光の強い為に立続く人家の瓦屋根をはじめ一帯の眺望がいかにも汚らしく見え、風に追ひやられた雲の列が盛に煤煙を吐く製造場の烟筒よりも遥に低く、動かずに層をなして浮んでゐる。釣道具を売る後の小家から十一時の時計が鳴つた。長吉は数へながら其れを聞いて、初めて自分はいかに長い時間を歩き暮したかに驚いたが、同時に此の分で行けば三時までの時間を空費するのもさして難くはないと稍安心することも出来た。長吉は釣師の一人が握飯を食ひはじめたのを見て、同じやうに弁当箱を開いた。開いたけれども何だか気まりが悪くて、誰か見てゐやしないかときよろ〳〵四辺を見𢌞した。幸ひ午近くのことで見渡す川岸に人の往来は杜絶えてゐる。長吉は出来るだけ早く飯でも菜でも皆な鵜呑みにしてしまつた。釣師はいづれも木像のやうに黙つてゐるし、甘酒屋の爺は居眠りしてゐる。午過の川端はます〳〵静になつて犬さへ歩いて来ない処から、流石の長吉も自分は何故こんなに気まりを悪がるのであらう臆病なのであらうと我ながら可笑しい気にもなつた。  両国橋と新大橋との間を一𢌞した後、長吉はいよ〳〵浅草の方へ帰らうと決心するにつけ、「もしや」といふ一念にひかされて再び葭町の路地口に立寄つて見た。すると午前ほどには人通りがないのに先ず安心して、おそる〳〵松葉屋の前を通つて見たが、家の中は外から見ると非常に暗く、人の声三味線の音さへ聞えなかつた。けれども長吉には誰にも咎められずに恋人の住む家の前を通つたと云ふそれだけの事が、殆んど破天荒の冒険を敢てしたやうな満足を感じさせたので、これまで歩きぬいた身の疲労と苦痛とを長吉は遂に後悔しなかつた。 四  その週間の残りの日数だけはどうやらかうやら、長吉は学校へ通つたが、日曜日一日を過すと其の翌朝は電車に乗つて上野まで来ながらふいと下りてしまつた。教師に差出すべき代数の宿題を一つもやつて置かなかつた。英語と漢文の下読をもして置かなかつた。それのみならず今日は又、凡そ世の中で何よりも嫌ひな何よりも恐しい機械体操のある事を思ひ出したからである。長吉には鉄棒から逆にぶらさがつたり、人の丈より高い棚の上から飛下りるやうな事は、いかに軍曹上りの教師から強ひられても全級の生徒から一斉に笑はれても到底出来得べきことではない。何によらず体育の遊戯にかけては、長吉はどうしても他の生徒一同に伴つて行く事が出来ないので、自然と軽侮の声の中に孤立する。其の結果は、遂に一同から意地悪くいぢめられる事になり易い。学校は単にこれだけでも随分厭な処、苦しいところ、辛い処であつた。されば長吉はその母親がいかほど望んだ処で今になつては高等学校へ這入らうと云ふ気は全くない。若し入学すれば校則として当初の一年間は是非とも狂暴無残な寄宿舎生活をしなければならない事を聴知つてゐたからである。高等学校寄宿舎内に起るいろ〳〵な逸話は早くから長吉の胆を冷してゐるのであつた。いつも画学と習字にかけては全級誰も及ぶものゝない長吉の性情は、鉄拳だとか柔術だとか日本魂だとか云ふものよりも全く異つた他の方面に傾いてゐた。子供の時から朝夕に母が渡世の三味線を聴くのが大好きで、習はずして自然に絃の調子を覚え、町を通る流行唄なぞは一度聴けば直ぐに記憶する位であつた。小梅の伯父なる蘿月宗匠は早くも名人になるべき素質があると見抜いて、長吉をば檜物町でも植木店でも何処でもいゝから一流の家元へ弟子入をさせたらばとお豊に勧めたがお豊は断じて承諾しなかつた。のみならず以来は長吉に三味線を弄る事をば口喧しく禁止した。  長吉は蘿月の伯父さんの云つたやうに、あの時分から三味線を稽古したなら、今頃は兎に角一人前の芸人になつてゐたに違ひない。さすればよしやお糸が芸者になつたにした処で、こんなに悲惨な目に遇はずとも済んだであらう。あゝ実に取返しのつかない事をした。一生の方針を誤つたと感じた。母親が急に憎くなる。例へられぬほど怨しく思はれるに反して、蘿月の伯父さんの事が何となく取縋つて見たいやうに懐しく思返された。これまでは何の気もなく母親からも亦伯父自身の口からも度々聞かされてゐた伯父が放蕩三昧の経歴が恋の苦痛を知り初めた長吉の心には凡て新しい何かの意味を以て解釈されはじめた。長吉は第一に「小梅の伯母さん」と云ふのは元金瓶大黒の華魁で明治の初め吉原解放の時小梅の伯父さんを頼つて来たのだとやら云ふ話を思出した。伯母さんは子供の頃自分をば非常に可愛がつて呉れた。其れにも係らず、自分の母親のお豊はあまり好くは思つてゐない様子で、盆暮の挨拶もほんの義理一遍らしい事を構はず素振に現してゐた事さへあつた。長吉は此処で再び母親の事を不愉快に且つ憎らしく思つた。殆ど夜の目も離さぬ程自分の行ひを目戍つて居るらしい母親の慈愛が窮屈で堪らないだけ、もしこれが小梅の伯母さん見たやうな人であつたら───小梅のをばさんはお糸と自分の二人を見て何とも云へない情のある声で、いつまでも仲よくお遊びよと云つて呉れた事がある───自分の苦痛の何物たるかを能く察して同情して呉れるであらう。自分の心がすこしも要求してゐない幸福を頭から無理に強ひはせまい。長吉は偶然にも母親のやうな正しい身の上の女と小梅のをばさんのやうな或種の経歴ある女との心理を比較した。学校の教師のやうな人と蘿月伯父さんのやうな人とを比較した。  午頃まで長吉は東照宮の裏手の森の中で、捨石の上に横はりながら、こんな事を考へつゞけた後は、包の中にかくした小説本を取出して読み耽つた。そして明日出すべき欠席届にはいかにして又母の認印を盗むべきかを考へた。 五  一しきり毎日毎夜のやうに降りつゞいた雨の後、今度は雲一ツ見えないやうな晴天が幾日と限りもなくつゞいた。然しどうかして空が曇ると忽ちに風が出て乾ききつた道の砂を吹散す。この風と共に寒さは日にまし強くなつて閉切つた家の戸や障子が絶間なくがたり〳〵と悲しげに動き出した。長吉は毎朝七時に始る学校へ行くため晩くも六時には起きねばならぬが、すると毎朝の六時が起るたびに、だん〳〵暗くなつて、遂には夜と同じく家の中には燈火の光を見ねばならぬやうになつた。毎年冬のはじめに、長吉はこの鈍い黄い夜明のランプの火を見ると、何とも云へぬ悲しい厭な気がするのである。母親はわが子を励ますつもりで寒さうな寝衣姿のまゝながら、いつも長吉よりは早く起きて暖い朝飯をばちやんと用意して置く。長吉は其の親切をすまないと感じながら何分にも眠くてならぬ。もう暫く炬燵にあたつてゐたいと思ふのを、無暗と時計ばかり気にする母にせきたてられて不平だら〳〵、河風の寒い往来へ出るのである。或時はあまりに世話を焼かれ過るのに腹を立てゝ、注意される襟巻をわざと解きすてゝ風邪を引いてやつた事もあつた。もう返らない幾年か前蘿月の伯父につれられお糸も一所に酉の市へ行つた事があつた………毎年その日の事を思ひ出す頃から間もなく、今年も去年と同じやうな寒い十二月がやつて来るのである。  長吉は同じやうな其の冬の今年と去年、去年とその前年、それから其れと幾年も溯つて何心なく考へて見ると、人は成長するに従つていかに幸福を失つて行くものかを明かに経験した。まだ学校へも行かぬ子供の時には朝寒ければゆつくりと寝たいだけ寝て居られたばかりでなく、身体の方もまた其程に寒さを感ずることが烈しくなかつた。寒い風や雨の日には却つて面白く飛び歩いたものである。あゝ其れが今の身になつては、朝早く今戸の橋の白い霜を踏むのがいかにも辛くまた昼過ぎにはいつも木枯の騒ぐ待乳山の老樹に、早くも傾く夕日の色がいかにも悲しく見えてならない。これから先の一年〳〵は自分の身にいかなる新しい苦痛を授けるのであらう。長吉は今年の十二月ほど日数の早くたつのを悲しく思つた事はない。観音の境内にはもう年の市が立つた。母親のもとへとお歳暮のしるしにお弟子が持つて来る砂糖袋や鰹節なぞがそろ〳〵床の間へ並び出した。学校の学期試験は昨日すんで、一方ならぬ其の不成績に対する教師の注意書が郵便で母親の手許に送り届けられた。  初めから覚悟してゐた事なので長吉は黙つて首をたれて、何かにつけてすぐに「親一人子一人」と哀ツぽい事を云出す母親の意見を聞いてゐた。午前稽古に来る小娘達が帰つて後午過には三時過ぎてからでなくては、学校帰りの娘達はやつて来ぬ。今が丁度母親が一番手すきの時間である。風がなくて冬の日が往来の窓一面にさしてゐる。折から突然まだ格子戸をあけぬ先から、「御免なさい。」と云ふ華美な女の声、母親が驚いて立つ間もなく上框の障子の外から、「をばさん、わたしよ。御無沙汰しちまつて、お詫びに来たんだわ。」  長吉は顫へた。お糸である。お糸は立派なセルの吾妻コオトの紐を解き〳〵上つて来た。 「あら、長ちやんも居たの。学校がお休み………あら、さう。」其れから付けたやうに、ほゝゝほと笑つて、さて丁寧に手をついて御辞儀をしながら、「をばさん、お変りもありませんの。ほんとに、つい家が出にくいものですから、あれツきり御無沙汰しちまつて………。」  お糸は縮緬の風呂敷につゝんだ菓子折を出した。長吉は呆気に取られたさまで物も云はずにお糸の姿を目戍つてゐる。母親も一寸烟に巻かれた形で進物の礼を述べた後、「きれいにおなりだね。すつかり見違へちまつたよ。」と云つた。 「いやにふけちまつたでせう。皆さう云つてよ。」とお糸は美しく微笑んで紫縮緬の羽織の紐の解けかゝつたのを結び直すついでに帯の間から緋天鵞絨の煙草入を出して、「をばさん。わたし、もう煙草喫むやうになつたのよ。生意気でせう。」  今度は高く笑つた。 「此方へおよんなさい。寒いから。」と母親のお豊は長火鉢の鉄瓶を下して茶を入れながら、「いつお弘めしたんだえ。」 「まだよ。ずつと押詰つてからですつて。」 「さう。お糸ちやんなら、きつと売れるわね。何しろ綺麗だし、ちやんともう地は出来てゐるんだし………。」 「おかげさまでねえ。」とお糸は言葉を切つて、「あつちの姉さんも大変に喜んでたわ。私なんかよりもつと大きな癖に、それア随分出来ない娘がゐるんですもの。」 「この節の事たから………。」お豊はふと気がついたやうに茶棚から菓子鉢を出して、「あいにく何にも無くつて………道了さまのお名物だつて、鳥渡おつなものだよ。」と箸でわざ〳〵摘んでやつた。 「お師匠さん、こんちは。」と甲高な一本調子で、二人づれの小娘が騒々しく稽古にやつて来た。 「をばさん、どうぞお構ひなく………。」 「なにいゝんですよ。」と云つたけれどお豊はやがて次の間へ立つた。  長吉は妙に気まりが悪くなつて自然に俯向いたが、お糸の方は一向変つた様子もなく小声で、 「あの手紙届いて。」  隣の座敷では二人の小娘が声を揃へて、嵯峨やお室の花ざかり。長吉は首ばかり頷付せてもぢ〳〵してゐる。お糸が手紙を寄越したのは一の酉の前時分であつた。つい家が出にくいと云ふだけの事である。長吉は直様別れた後の生涯をこま〴〵と書いて送つたが、然し待ち設けたやうな、折返したお糸の返事は遂に聞く事が出来なかつたのである。 「観音さまの市だわね。今夜一所に行かなくつて。あたい今夜泊つてツてもいゝんだから。」  長吉は隣座敷の母親を気兼して何とも答へる事ができない。お糸は構はず、 「御飯たべたら迎ひに来てよ。」と云つたが其の後で、「をばさんも一所にいらツしやるでせうね。」 「あゝ。」と長吉は力の抜けた声になつた。 「あの………。」お糸は急に思出して、「小梅の伯父さん、どうなすつて、お酒に酔つて羽子板屋のお爺さんと喧嘩したわね。何時だつたか。私怖くなツちまツたわ。今夜いらツしやればいゝのに。」  お糸は稽古の隙を窺つてお豊に挨拶して、「ぢや、晩ほど。どうもお邪魔いたしました。」と云ひながらすた〳〵帰つた。 六  長吉は風邪をひいた。七草過ぎて学校が始つた処から一日無理をして通学した為めに、流行のインフルヱンザに変つて正月一ぱい寝通してしまつた。  八幡さまの境内に今日は朝から初午の太鼓が聞える。暖い穏な午後の日光が一面にさし込む表の窓の障子には、折々軒を掠める小鳥の影が閃き、茶の間の隅の薄暗い仏壇の奥までが明く見え、床の間の梅がもう散りはじめた。春は閉切つた家の中までも陽気におとづれて来たのである。  長吉は二三日前から起きてゐたので、此の暖い日をぶら〳〵散歩に出掛けた。すつかり全快した今になつて見れば、二十日以上も苦しんだ大病を長吉はもつけの幸ひであつたと喜んでゐる。とても来月の学年試験には及第する見込みがないと思つてゐた処なので、病気欠席の後と云へば、落第しても母に対して尤至極な申訳ができると思ふからであつた。  歩いて行く中いつか浅草公園の裏手へ出た。細い通りの片側には深い溝があつて、それを越した鉄柵の向うには、処々の冬枯れして立つ大木の下に、五区の揚弓店の汚らしい裏手がつゞいて見える。屋根の低い片側町の人家は丁度後から深い溝の方へと押詰められたやうな気がするので、大方其のためであらう、其れ程に混雑もせぬ往来がいつも妙に忙しく見え、うろ〳〵徘徊してゐる人相の悪い車夫が一寸風采の小綺麗な通行人の後に煩く付き纏つて乗車を勧めてゐる。長吉はいつも巡査が立番してゐる左手の石橋から淡島さまの方までがずつと見透される四辻まで歩いて来て、通りがゝりの人々が立止つて眺めるまゝに、自分も何といふ事なく、曲り角に出してある宮戸座の絵看板を仰いだ。  いやに文字の間をくツ付けて模様のやうに太く書いてある名題の木札を中央にして、その左右には恐しく顔の小い、眼の大い、指先の太い人物が、夜具をかついだやうな大い着物を着て、さまざまな誇張的の姿勢で活躍して居るさまが描かれてある。この大きい絵看板を蔽ふ屋根形の軒には、花車につけるやうな造り花が美しく飾りつけてあつた。  長吉はいか程暖い日和でも歩いてゐると流石にまだ立春になつたばかりの事とて暫くの間寒い風をよける処をと思ひ出した矢先、芝居の絵看板を見て、其のまゝ狭い立見の戸口へと進み寄つた。内へ這入ると足場の悪い梯子段が立つてゐて、其の中程から曲るあたりはもう薄暗く、臭い生暖い人込の温気が猶更暗い上の方から吹き下りて来る。頻に役者の名を呼ぶ掛声が聞える。それを聞くと長吉は都会育ちの観劇者ばかりが経験する特種の快感と特種の熱情とを覚えた。梯子段の二三段を一躍びに駈上つて人込みの中に割込むと、床板の斜になつた低い屋根裏の大向は大きな船の底へでも下りたやうな心持。後の隅々についてゐる瓦斯の裸火の光は一ぱいに詰つてゐる見物人の頭に遮られて非常に暗く、狭苦しいので、猿のやうに人のつかまつてゐる前側の鉄棒から、向うに見える劇場の内部は天井ばかりがいかにも広々と見え、舞台は色づき濁つた空気の為に却て小さく甚遠く見えた。舞台はチヨンと打つた拍子木の音に今丁度𢌞つて止つた処である。極めて一直線な石垣を見せた台の下に汚れた水色の布が敷いてあつて、後を限る書割には小く大名屋敷の練塀を描き、其の上の空一面をば無理にも夜だと思はせるやうに隙間もなく真黒に塗りたてゝある。長吉は観劇に対する此れまでの経験で「夜」と「川端」と云ふ事から、きつと殺し場に違ひないと幼い好奇心から丈伸びをして首を伸すと、果せるかな、絶えざる低い大太鼓の音に例の如く板をバタバタ叩く音が聞えて、左手の辻番小屋の蔭から仲間と蓙を抱へた女とが大きな声で争ひながら出て来る。見物人が笑つた。舞台の人物は落したものを捜す体で何かを取り上げると、突然前とは全く違つた態度になつて、極めて明瞭に浄瑠璃外題梅柳中宵月、勤めまする役人………と読みはじめる。それを待構へて彼方此方から見物人が声をかけた。再び軽い拍子木の音を合図に、黒衣の男が右手の隅に立てた書割の一部を引取ると裃を着た浄瑠璃語三人、三味線弾二人が、窮屈さうに狭い台の上に並んで居て、直ぐに弾出す三味線からつゞいて太夫が声を合してかたり出した。長吉はこの種の音楽にはいつも興味を以て聞き馴れてゐるので、場内の何処かで泣き出す赤児の声と其れを叱咤する見物人の声に妨げられながら、而も明かに語る文句と三味線の手までを聴き分ける。 〽朧夜に星の影さへ二ツ三ツ、四ツか五ツか鐘の音も、もしや我身の追手かと………  又しても軽いバタ〳〵が聞えて夢中になつて声をかける見物人のみならず場中一体が気色立つ。それも道理だ。赤い襦袢の上に紫繻子の幅広い襟をつけた座敷着の遊女が、冠る手拭に顔をかくして、前かゞまりに花道から駈出したのである。「見えねえ、前が高いツ。」「帽子をとれツ。」「馬鹿野郎。」なぞと怒鳴るものがある。 〽落ちて行衛も白魚の、舟のかゞりに網よりも、人目いとうて後先に………  女に扮した役者は花道の尽きるあたりまで出て後を見返りながら台詞を述べた。其の後に唄がつづく。 〽しばし彳む上手より梅見返りの舟の唄。〽忍ぶなら〳〵闇の夜は置かしやんせ、月に雲のさはりなく、辛気待つ宵、十六夜の、内の首尾はエーよいとのよいとの。〽聞く辻占にいそいそと雲足早き雨空も、思ひがけなく吹き晴れて見かはす月の顔と顔………  見物が又騒ぐ。真黒に塗りたてた空の書割の中央を大きく穿抜いてある円い穴に灯がついて、雲形の蔽ひをば糸で引上げるのが此方からでも能く見えた。余りに月が大きく明いから、大名屋敷の塀の方が遠くて月の方が却つて非常に近く見える。然し長吉は他の見物も同様少しも美しい幻想を破られなかつた。それのみならず去年の夏の末、お糸を葭町へ送るため、待合した今戸の橋から眺めた彼の大きな円い〳〵月を思起すと、もう舞台は舞台でなくなつた。  着流し散髪の男がいかにも思ひやつれた風で足許危く歩み出る。女と摺れちがひに顔を見合して、 「十六夜か。」 「清心さまか。」  女は男に縋つて、「逢ひたかつたわいなア。」  見物人が「やア御両人。」「よいしよ。やけます。」なぞと叫ぶ。笑ふ声。「静かにしろい。」と叱りつける熱情家もあつた。  舞台は相愛する男女の入水と共に𢌞つて、女の方が白魚舟の夜網にかゝつて助けられる処になる。再び元の舞台に返つて、男も同じく死ぬ事が出来なくて石垣の上に這ひ上る。遠くの騒ぎ唄、富貴の羨望、生存の快楽、境遇の絶望、機会と運命、誘惑、殺人。波瀾の上にも脚色の波瀾を極めて、遂に演劇の一幕が終る。耳元近くから恐しい黄い声が、「変るよ───ウ」と叫び出した。見物人が出口の方へと崩を打つて下りかける。  長吉は外へ出ると急いで歩いた。あたりはまだ明いけれどもう日は当つて居ない。ごた〳〵した千束町の小売店の暖簾や旗なぞが激しく飜つて居る。通りがゝりに時間を見るため腰をかゞめて覗いて見ると軒の低い其れ等の家の奥は真暗であつた。長吉は病後の夕風を恐れてます〳〵歩みを早めたが、然し山谷堀から今戸橋の向に開ける隅田川の景色を見ると、どうしても暫く立止らずにはゐられなくなつた。河の面は悲しく灰色に光つてゐて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞めてゐる。荷船の帆の間をば鴎が幾羽となく飛び交ふ。長吉はどん〳〵流れて行く河水をば何がなしに悲しいものだと思つた。川向の堤の上には一ツ二ツ灯がつき出した。枯れた樹木、乾いた石垣、汚れた瓦屋根、目に入るものは尽く褪せた寒い色をして居るので、芝居を出てから一瞬間とても消失せない清心と十六夜の華美やかな姿の記憶が、羽子板の押絵のやうに又一段と際立つて浮び出す。長吉は劇中の人物をば憎い程に羨んだ。いくら羨んでも到底及びもつかないわが身の上を悲しんだ。死んだ方がましだと思ふだけ、一緒に死んでくれる人のない身の上を更に痛切に悲しく思つた。  今戸橋を渡りかけた時、掌でぴしやりと横面を張撲るやうな河風。思はず寒さに胴顫ひすると同時に長吉は咽喉の奥から、今までは記憶してゐるとも心付かずにゐた浄瑠璃の一節がわれ知らずに流れ出るのに驚いた。 〽今さら云ふも愚痴なれど……… と清元の一派が他流の模すべからざる曲調の美麗を托した一節である。長吉は無論太夫さんが首と身体を伸上らして唄つたほど上手に、且又そんな大きな声で唄つたのではない。咽喉から流れるままに口の中で低唱したのであるが、其れによつて長吉は已みがたい心の苦痛が幾分か柔げられるやうな心持がした。今更云ふも愚痴なれど………ほんに思へば………岸より覗く青柳の………と思出す節の、ところ〴〵を長吉は家の格子戸を開ける時まで繰返し繰返し歩いた。 七  翌日の午後に又もや宮戸座の立見に出掛けた。長吉は恋の二人が手を取つて嘆く美しい舞台から、昨日始めて経験した云ふべからざる悲哀の美感に酔ひたいと思つたのである。其ればかりでなく黒ずんだ天井と壁襖に囲まれた二階の室がいやに陰気臭くて、燈火の多い、人の大勢集つてゐる芝居の賑ひが、我慢の出来ぬほど恋しく思はれてならなかつたのである。長吉は失つたお糸の事以外に折々は唯だ何と云ふ訳もなく淋しい悲しい気がする。自分にも何う云ふ訳だか少しも分らない。唯だ淋しい、唯だ悲しいのである。この寂寞この悲哀を慰める為めに、長吉は定め難い何物かを一刻〳〵に激しく要求して止まない。胸の底に潜んだ漠然たる苦痛を、誰と限らず優しい声で答へてくれる美しい女に訴へて見たくてならない。単にお糸一人の姿のみならず、往来で摺れちがつた見知らぬ女の姿が、島田の娘になつたり、銀杏返の芸者になつたり、又は丸髷の女房姿になつたりして夢の中に浮ぶ事さへあつた。  長吉は二度見る同じ芝居の舞台をば初めてのやうに興味深く眺めた。其れと同時に、今度は賑かな左右の桟敷に対する観察をも決して閑却しなかつた。世の中にはあんなに大勢女がゐる。あんなに大勢女のゐる中で、どうして自分は一人も自分を慰めてくれる相手に邂逅はないのであらう。誰れでもいゝ。自分に一言やさしい語をかけてくれる女さへあれば、自分はこんなに切なくお糸の事ばかり思ひつめては居まい。お糸の事を思へば思ふだけ其の苦痛をへらす他のものが欲しい。さすれば学校とそれに関連した身の前途に対する絶望のみに沈められて居まい………。  立見の混雑の中に其の時突然自分の肩を突くものがあるので驚いて振向くと、長吉は鳥打帽を眉深に黒い眼鏡をかけて、後の一段高い床から首を伸して見下す若い男の顔を見た。 「吉さんぢやないか。」  さう云つたものゝ、長吉は吉さんの風采の余りに変つて居るのに暫くは二の句がつげなかつた。吉さんと云ふのは地方町の小学校時代の友達で、理髪師をしてゐる山谷通りの親爺の店で、此れまで長吉の髪をかつてくれた若衆である。それが絹ハンケチを首に巻いて二重𢌞の下から大島紬の羽織を見せ、いやに香水を匂はせながら、 「長さん、僕は役者だよ。」と顔をさし出して長吉の耳元に囁いた。  立見の混雑の中でもあるし、長吉は驚いたまゝ黙つてゐるより仕様がなかつたが、舞台はやがて昨日の通りに河端の暗闘になつて、劇の主人公が盗んだ金を懐中に花道へ駈出でながら石礫を打つ、其れを合図にチヨンと拍子木が響く。幕が動く。立見の人中から例の「変るよーウ」と叫ぶ声。人崩れが狭い出口の方へと押合ふ間に幕がすつかり引かれて、シヤギリの太鼓が何処か分らぬ舞台の奥から鳴り出す。吉さんは長吉の袖を引止めて、 「長さん、帰るのか。いゝぢやないか。もう一幕見ておいでな。」  役者の仕着せを着た賤しい顔の男が、渋紙を張つた小笊をもつて、次の幕の料金を集めに来たので、長吉は時間を心配しながらも其のまゝ居残つた。 「長さん、綺麗だよ、掛けられるぜ。」吉さんは人のすいた後の明り取りの窓へ腰をかけて長吉が並んで腰かけるのを待つやうにして再び「僕ア役者だよ。変つたらう。」と云ひながら友禅縮緬の襦袢の袖を引き出して、わざとらしく脱した黒い金縁眼鏡の曇りを拭きはじめた。 「変つたよ。僕ア始め誰かと思つた。」 「驚いたかい。はゝゝゝは。」吉さんは何とも云へぬほど嬉しさうに笑つて、「頼むぜ。長さん。かう見えたつて憚りながら役者だ。伊井一座の新俳優だ。明後日から又新富町よ。出揃つたら見に来給へ。いゝかい。楽屋口へ𢌞つて、玉水を呼んでくれつて云ひたまへ。」 「玉水………?」 「うむ、玉水三郎………。」云ひながら急しなく懐中から女持の紙入を探り出して、小さな名刺を見せ、「ね、玉水三郎。昔の吉さんぢやないぜ。ちやんともう番附に出て居るんだぜ。」 「面白いだらうね。役者になつたら。」 「面白かつたり、辛かつたり………然し女にやア不自由しねえよ。」吉さんは鳥渡長吉の顔を見て、「長さん、君は遊ぶのかい。」  長吉は「まだ」と答へるのが其の瞬間男の恥であるやうな気がして黙つた。 「江戸一の梶田楼ツて云ふ家を知つてるかい。今夜一緒にお出でな。心配しないでもいゝんだよ。のろけるんぢや無いが、心配しないでもいゝわけが有るんだから。お安くないだらう。はゝゝゝは。」と吉さんは他愛もなく笑つた。長吉は突然に、 「芸者は高いんだらうね。」 「長さん、君は芸者が好きなのか、贅沢だ。」と新俳優の吉さんは意外らしく長吉の顔を見返したが、「知れたもんさ。然し金で女を買ふなんざア、ちツとお人が好過らア。僕ア公園で二三軒待合を知つてるよ。連れてツてやらう。万事方寸の中にありさ。」  先刻から三人四人と絶えず上つて来る見物人で大向はかなり雑沓して来た。前の幕から居残つてゐる連中には待ちくたびれて手を鳴すものもある。舞台の奥から拍子木の音が長い間を置きながら、それでも次第に近く聞えて来る。長吉は窮屈に腰をかけた明り取りの窓から立上る。すると吉さんは、 「まだ、なか〳〵だ。」と独言のやうに云つて、「長さん。あれア𢌞りの拍子木と云つて道具立の出来上ツたつて事を、役者の部屋の方へ知らせる合図なんだ。開く迄にやアまだ、なか〳〵よ。」  悠然として巻煙草を吸ひ初める。長吉は「さうか」と感服したらしく返事をしながら、然し立上つたまゝに立見の鉄格子から舞台の方を眺めた。花道から平土間の桝の間をば吉さんの如く𢌞りの拍子木の何たるかを知らない見物人が、すぐにも幕があくのかと思つて、出歩いてゐた外から各自の席に戻らうと右方左方へと混雑してゐる。横手の桟敷裏から斜に引幕の一方にさし込む夕陽の光が、其の進み入る道筋だけ、空中に漂ふ塵と煙草の煙をばあり〳〵と眼に見せる。長吉はこの夕陽の光をば何と云ふ事なく悲しく感じながら、折々吹込む外の風が大きな波を打せる引幕の上を眺めた。引幕には市川○○丈へ、浅草公園芸妓連中として幾人となく書連ねた芸者の名が読まれた。暫くして、 「吉さん、君、あの中で知つてる芸者があるかい。」 「たのむよ。公園は乃公達の縄張中だぜ。」吉さんは一種の屈辱を感じたのであろう、嘘か誠か、幕の上にかいてある芸者の一人々々の経歴、容貌、性質を限りもなく説明しはじめた。  拍子木がチヨン〳〵と二ツ鳴つた。幕開の唄と三味線が聞え引かれた幕が次第に細かく早める拍子木の律につれて片寄せられて行く。大向から早くも役者の名をよぶ掛け声。たいくつした見物人の話声が一時に止んで、場内は夜の明けたやうな一種の明るさと一種の活気を添へた。 八  お豊は今戸橋まで歩いて来て時節は今正に爛漫たる春の四月である事を始めて知つた。手一ツの女世帯に追はれてゐる身は空が青く晴れて日が窓に射込み、斜向の「宮戸川」と云ふ鰻屋の門口の柳が緑色の芽をふくのにやつと時候の変遷を知るばかり。いつも両側の汚れた瓦屋根に四方の眺望を遮られた地面の低い場末の横町から、今突然、橋の上に出て見た四月の隅田川は、一年に二三度と数へるほどしか外出する事のない母親お豊の老眼をば信じられぬほどに驚かしたのである。晴れ渡つた空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につゞく桜の花、種々の旗が閃く大学の艇庫、その辺から起る人々の叫び声、鉄砲の響。渡船から上下りする花見の人の混雑。あたり一面の光景は疲れた母親の眼には余りに色彩が強烈すぎる程であつた。お豊は渡場の方へ下りかけたけれど、急に恐るゝ如く踵を返して、金龍山下の日蔭になつた瓦町を急いだ。そして通りがゝりの成るべく汚い車、成るべく意気地のなさゝうな車夫を見付けて恐る〳〵、 「車屋さん、小梅まで安くやつて下さいな。」と云つた。  お豊は花見どころの騒ぎではない。もう何していゝのか分らない。望みをかけた一人息子の長吉は試験に落第してしまつたばかりか、もう学校へは行きたくない、学問はいやだと云ひ出した。お豊は途法に暮れた結果、兄の蘿月に相談して見るより外に仕様がないと思つたのである。  三度目に掛合つた老車夫が、やつとの事でお豊の望む賃銀で小梅行きを承知した。吾妻橋は午後の日光と塵埃の中におびたゞしい人出である。着飾つた若い花見の男女を載せて勢よく走る車の間をば、お豊を載せた老車夫は梶を振りながらよた〳〵歩いて橋を渡るや否や桜花の賑ひを外に、直ぐと中の郷へ曲つて業平橋へ出ると、この辺はもう春と云つても汚い鱗葺の屋根の上に唯だ明く日があたつてゐると云ふばかりで、沈滞した堀割の水が麗な青空の色を其のまゝに映してゐる曳舟通り。昔は金瓶楼の小太夫と云はれた蘿月の恋女房は、綿衣の襟元に手拭をかけ白粉焼けのした皺の多い顔に一ぱいの日を受けて、子供の群がめんこや独楽の遊びをしてゐる外には至つて人通りの少い道端の格子戸先で、張板に張物をして居た。駈けて来て止る車と、其れから下りるお豊の姿を見て、 「まアお珍しいぢやありませんか。ちよいと今戸の御師匠さんですよ。」と開けたまゝの格子戸から家の内へと知らせる。内には主人の宗匠が万年青の鉢を並べた縁先へ小机を据ゑ頻に天地人の順序をつける俳諧の選に急がしい処であつた。  掛けてゐる眼鏡をはづして、蘿月は机を離れて座敷の真中に坐り直つたが、襷をとりながら這入つて来る妻のお滝と来訪のお豊、同じ年頃の老いた女同士は幾度となくお辞儀の譲合をしては長々しく挨拶した。そしてその挨拶の中に、「長ちやんも御丈夫ですか。」「はア、然し彼にも困りきります。」と云ふやうな問答から、用件は案外に早く蘿月の前に提出される事になつたのである。蘿月は静に煙草の吸殻をはたいて、誰にかぎらず若い中は兎角に気の迷ふことがある。気の迷つてゐる時には、自分にも覚えがあるが、親の意見も仇としか聞えない。他から余り厳しく干渉するよりは却つて気まかせにして置く方が薬になりはしまいかと論じた。然し目に見えない将来の恐怖ばかりに満された女親の狭い胸には斯る通人の放任主義は到底容れられべきものでない。お豊は長吉が久しい以前から屡学校を休む為めに自分の認印を盗んで届書を偽造してゐた事をば、暗黒な運命の前兆である如く、声まで潜めて長々しく物語る……… 「学校がいやなら如何するつもりだと聞いたら、まアどうでせう、役者になるんだツて云ふんですよ。役者に。まア、どうでせう。兄さん。私やそんなに長吉の根性が腐つちまツたのかと思つたら、もう実に口惜しくツてならないんですよ。」 「へーえ、役者になりたい。」訝る間もなく蘿月は七ツ八ツの頃によく三味線を弄物にした長吉の生立ちを囘想した。「当人がたつてと望むなら仕方のない話だが………困つたものだ。」  お豊は自分の身こそ一家の不幸の為めに遊芸の師匠に零落したけれど、わが子までもそんな賤しいものにしては先祖の位牌に対して申訳がないと述べる。蘿月は一家の破産滅亡の昔を云出されると勘当までされた放蕩三昧の身は、何につけ、禿頭をかきたいやうな当惑を感ずる。もと〳〵芸人社会は大好な趣味性から、お豊の偏屈な思想をば攻撃したいと心では思ふものゝそんな事から又しても長たらしく「先祖の位牌」を論じ出されては堪らないと危むので、宗匠は先づ其の場を円滑に、お豊を安心させるやうにと話をまとめかけた。 「兎に角一応は私が意見しますよ、若い中は迷ふだけに却つて始末のいゝものさ。今夜にでも明日にでも長吉に遊びに来るやうに云つて置きなさい。私が屹度改心さして見せるから、まアそんなに心配しないがいゝよ。なに世の中は案じるより産むが安いさ。」  お豊は何分よろしくと頼んでお滝が引止めるのを辞退して其の家を出た。春の夕陽は赤々と吾妻橋の向うに傾いて、花見帰りの混雑を一層引立てゝ見せる。其の中にお豊は殊更元気よく歩いて行く金ボタンの学生を見ると、それが果して大学校の生徒であるか否かは分らぬながら、我児もあのやうな立派な学生に仕立てたいばかりに、幾年間女の身一人で生活と戦つて来たが、今は生命に等しい希望の光も全く消えてしまつたのかと思ふと実に堪へられぬ悲愁に襲はれる。兄の蘿月に依頼しては見たものゝ矢張安心が出来ない。なにも昔の道楽者だからと云ふ訳ではない。長吉に志を立てさせるのは到底人間業では及ぬ事、神仏の力に頼らねばならぬと思ひ出した。お豊は乗つて来た車から急に雷門で下りた。仲店の雑沓をも今では少しも恐れずに観音堂へと急いで、祈願を凝した後に、お神籤を引いて見た。古びた紙片に木版摺で、  お豊は大吉と云ふ文字を見て安心はしたものゝ、大吉は却つて凶に返り易い事を思ひ出して、又もや自分からさま〴〵な恐怖を造出しつゝ、非常に疲れて家へ帰つた。 九  午後から亀井戸の龍眼寺の書院で俳諧の運座があるといふので、蘿月はその日の午前に訪ねて来た長吉と茶漬をすました後、小梅の住居から押上の堀割を柳島の方へと連れだつて話しながら歩いた。堀割は丁度真昼の引汐で真黒な汚ない泥土の底を見せてゐる上に、四月の暖い日光に照付けられて、溝泥の臭気を盛に発散して居る。何処からともなく煤烟の煤が飛んで来て、何処といふ事なしに製造場の機械の音が聞える。道端の人家は道よりも一段低い地面に建てられてあるので、春の日の光を外に女房共がせつせと内職して居る薄暗い家内のさまが、通りながらにすつかりと見透される。さう云ふ小家の曲り角の汚れた板目には売薬と易占の広告に交つて至る処女工募集の貼紙が目についた。然し間もなくこの陰鬱な往来は迂曲りながらに少しく爪先上りになつて行くかと思ふと、片側に赤く塗つた妙見寺の塀と、それに対して心持よく洗ひざらした料理屋橋本の板塀のために突然面目を一変させた。貧しい本所の一区が此処に尽きて板橋のかゝつた川向うには野草に蔽はれた土手を越して、亀井戸村の畠と木立とが美しい田園の春景色をひろげて見せた。蘿月は踏み止つて、 「私の行くお寺はすぐ向うの川端さ、松の木のそばに屋根が見えるだらう。」 「ぢや、伯父さん。こゝで失礼しませう。」長吉は早くも帽子を取る。 「いそぐんぢや無い。咽喉が乾いたから、まア長吉、鳥渡休んで行かうよ。」  赤く塗つた板塀に沿うて、妙見寺の門前に葭簀を張つた休茶屋へと、蘿月は先に腰を下した。一直線の堀割はこゝも同じやうに引汐の汚い水底を見せてゐたが、遠くの畠の方から吹いて来る風はいかにも爽かで、天神様の鳥居が見える向うの堤の上には柳の若芽が美しく閃いてゐるし、すぐ後の寺の門の屋根には雀と燕が絶え間なく囀つてゐるので、其処此処に製造場の烟出しが幾本も立つてゐるに係らず、市街からは遠い春の午後の長閑さは充分に心持よく味はれた。蘿月は暫くあたりを眺めた後、其れとなく長吉の顔をのぞくやうにして、 「さつきの話は承知してくれたらうな。」  長吉は丁度茶を飲みかけた処なので、頷付いたまゝ、口に出して返事はしなかつた。 「兎に角もう一年辛抱しなさい。今の学校さへ卒業しちまへば………母親だつて段々取る年だ、さう頑固ばかりも云やアしまいから。」  長吉は唯だ首を頷付かせて、何処と当もなしに遠くを眺めてゐた。引汐の堀割に繋いだ土船からは人足が二三人して堤の向うの製造場へと頻に土を運んでゐる。人通りと云つては一人もない此方の岸をば、意外にも突然二台の人力車が天神橋の方から駈けて来て、二人の休んでゐる寺の門前で止つた。大方墓参りに来たのであらう。町家の内儀らしい丸髷の女が七八ツになる娘の手を引いて門の内へ這入つて行つた。  長吉は蘿月の伯父と橋の上で別れた。別れる時に蘿月は再び心配さうに、 「ぢや………。」と云つて暫く黙つた後、「いやだらうけれど当分辛抱しなさい。親孝行して置けば悪い報はないよ。」  長吉は帽子を取つて軽く礼をしたが其のまゝ、駈けるやうに早足に元来た押上の方へ歩いて行つた。同時に蘿月の姿は雑草の若芽に蔽はれた川向うの土手の陰にかくれた。蘿月は六十に近いこの年まで今日ほど困つた事、辛い感情に迫められた事はないと思つたのである。妹お豊のたのみも無理ではない。同時に長吉が芝居道へ這入らうといふ希望もまたわるいとは思はれない。一寸の虫にも五分の魂で、人にはそれ〴〵の気質がある。よかれあしかれ、物事を無理に強ひるのはよくないと思つてゐるので、蘿月は両方から板ばさみになるばかりで、何れにとも賛同する事ができないのだ。殊に自分が過去の経歴を囘想すれば、蘿月は長吉の心の中は問はずとも底の底まで明かに推察される。若い頃の自分には親代々の薄暗い質屋の店先に坐つて麗かな春の日を外に働きくらすのが、いかに辛くいかに情なかつたであらう。陰気な燈火の下で大福帳へ出入の金高を書き入れるよりも、川添ひの明い二階家で洒落本を読む方がいかに面白かつたであらう。長吉は髯を生した堅苦しい勤め人などになるよりも、自分の好きな遊芸で世を渡りたいと云ふ。それも一生、これも一生である。然し蘿月は今よんどころ無く意見役の地位に立つ限り、そこまでに自己の感想を暴露してしまふわけには行かないので、其の母親に対したと同じやうな、其の場かぎりの気安めを云つて置くより仕様がなかつた。  長吉は何処も同じやうな貧しい本所の街から街をばてく〳〵歩いた。近道を取つて一直線に今戸の家へ帰らうと思ふのでもない。何処へか𢌞り道して遊んで帰らうと考へるのでもない。長吉は全く絶望してしまつた。長吉は役者になりたい自分の主意を通すには、同情の深い小梅の伯父さんに頼るより外に道がない。伯父さんはきつと自分を助けてくれるに違ひないと予期してゐたが、その希望は全く自分を欺いた。伯父は母親のやうに正面から烈しく反対を称へはしなかつたけれど、聞いて極楽見て地獄の譬を引き、劇道の成功の困難、舞台の生活の苦痛、芸人社会の交際の煩瑣な事なぞを長々と語つた後、母親の心をも推察してやるやうにと、伯父の忠告を待たずともよく解つてゐる事を述べつゞけたのであつた。長吉は人間といふものは年を取ると、若い時分に経験した若いものしか知らない煩悶不安をばけろりと忘れてしまつて、次の時代に生れて来る若いものゝ身の上を極めて無頓着に訓戒批評する事のできる便利な性質を持つてゐるものだ、年を取つたものと若いものゝ間には到底一致されない懸隔のある事をつくづく感じた。  何処まで歩いて行つても道は狭くて土が黒く湿つてゐて、大方は路地のやうに行き止りかと危まれるほど曲つてゐる。苔の生えた鱗葺きの屋根、腐つた土台、傾いた柱、汚れた板目、干してある襤褸や襁褓や、並べてある駄菓子や荒物など、陰鬱な小家は不規則に限りもなく引きつゞいて、其の間に時々驚くほど大きな門構の見えるのは尽く製造場であつた。瓦屋根の高く聳えて居るのは古寺であつた。古寺は大概荒れ果てゝ、破れた塀から裏手の乱塔場がすつかり見える。束になつて倒れた卒塔婆と共に青苔の斑点に蔽はれた墓石は、岸と云ふ限界さへ崩れてしまつた水溜りのやうな古池の中へ、幾個となくのめり込んで居る。無論新しい手向の花なぞは一つも見えない。古池には早くも昼中に蛙の声が聞えて、去年のまゝなる枯草は水にひたされて腐つて居る。  長吉はふと近所の家の表札に中郷竹町と書いた町の名を読んだ。そして直様、此の頃に愛読した為永春水の「梅暦」を思出した。あゝ、薄命なあの恋人達はこんな気味のわるい湿地の街に住んでゐたのか。見れば物語の挿絵に似た竹垣の家もある。垣根の竹は枯れきつて其の根元は虫に喰はれて押せば倒れさうに思はれる。潜門の板屋根には痩せた柳が辛くも若芽の緑をつけた枝を垂してゐる。冬の昼過ぎ窃かに米八が病気の丹次郎をおとづれたのもかゝる佗住居の戸口であつたらう。半次郎が雨の夜の怪談に始めてお糸の手を取つたのも矢張斯る家の一間であつたらう。長吉は何とも云へぬ恍惚と悲哀とを感じた。あの甘くして柔かく、忽ちにして冷淡な無頓着な運命の手に弄ばれたい、と云ふ止み難い空想に駆られた。空想の翼のひろがるだけ、春の青空が以前よりも青く広く目に映じる。遠くの方から飴売の朝鮮笛が響き出した。笛の音は思ひがけない処で、妙な節をつけて音調を低めるのが、言葉に云へない幽愁を催させる。  長吉は今まで胸に蟠つた伯父に対する不満を暫く忘れた。現実の苦悶を暫く忘れた………。 十  気候が夏の末から秋に移つて行く時と同じやう、春の末から夏の始めにかけては、折々大雨が降つゞく。千束町から吉原田圃は珍しくもなく例年の通りに水が出た。本所も同じやうに所々に出水したさうで、蘿月はお豊の住む今戸の近辺はどうであつたかと、二三日過ぎてから、所用の帰りの夕方に見舞に来て見ると、出水の方は無事であつた代りに、それよりも、もつと意外な災難にびつくりしてしまつた。甥の長吉が釣台で、今しも本所の避病院に送られやうと云ふ騒の最中である。母親のお豊は長吉が初袷の薄着をしたまゝ、千束町近辺の出水の混雑を見にと夕方から夜おそくまで、泥水の中を歩き𢌞つた為めに、其の夜から風邪をひいて忽ち腸窒扶斯になつたのだと云ふ医者の説明をそのまゝ語つて、泣きながら釣台の後について行つた。途法にくれた蘿月はお豊の帰つて来るまで、否応なく留守番にと家の中に取り残されてしまつた。  家の中は区役所の出張員が硫黄の煙と石炭酸で消毒した後、まるで煤掃きか引越しの時のやうな狼藉に、丁度人気のない寂しさを加へて、葬式の棺桶を送出した後と同じやうな心持である。世間を憚るやうにまだ日の暮れぬ先から雨戸を閉めた戸外には、夜と共に突然強い風が吹き出したと見えて、家中の雨戸ががた〳〵鳴り出した。気候はいやに肌寒くなつて、折々勝手口の破障子から座敷の中まで吹き込んで来る風が、薄暗い釣ランプの火をば吹き消しさうに揺ると、其の度々、黒い油煙がホヤを曇らして、乱雑に置き直された家具の影が、汚れた畳と腰張のはがれた壁の上に動く。何処か近くの家で百萬遍の念仏を称へ始める声が、ふと物哀れに耳についた。蘿月は唯た一人で所在がない。退屈でもある。薄淋しい心持もする。かう云ふ時には酒がなくてはならぬと思つて、台所を探し𢌞つたが、女世帯の事とて酒盃一ツ見当らない。表の窓際まで立戻つて雨戸の一枚を少しばかり引き開けて往来を眺めたけれど、向側の軒燈には酒屋らしい記号のものは一ツも見えず、場末の街は宵ながらにもう大方は戸を閉めてゐて、陰気な百萬遍の声が却つてはつきり聞えるばかり。河の方から烈しく吹きつける風が屋根の上の電線をヒユー〳〵鳴すのと、星の光の冴えて見えるのとで、風のある夜は突然冬が来たやうな寒い心持をさせた。  蘿月は仕方なしに雨戸を閉めて、再びぼんやり釣ランプの下に坐つて、続けざまに煙草を喫んでは柱時計の針の動くのを眺めた。時々鼠が恐しい響をたてゝ天井裏を走る。ふと蘿月は何かその辺に読む本でもないかと思ひついて、箪笥の上や押入の中を彼方此方と覗いて見たが、書物と云つては常磐津の稽古本に綴暦の古いもの位しか見当らないので、とう〳〵釣ランプを片手にさげて、長吉の部屋になつた二階まで上つて行つた。  机の上に書物は幾冊も重ねてある。杉板の本箱も置かれてある。蘿月は紙入の中にはさんだ老眼鏡を懐中から取り出して、先づ洋装の教科書をば物珍しく一冊々々ひろげて見てゐたが、する中にばたりと畳の上に落ちたものがあるので、何かと取上げて見ると春着の芸者姿をしたお糸の写真であつた。そつと旧のやうに書物の間に収めて、猶もその辺の一冊々々を何心もなく漁つて行くと、今度は思ひがけない一通の手紙に行当つた。手紙は書き終らずに止めたものらしく、引き裂いた巻紙と共に文句は杜切れてゐたけれど、読み得るだけの文字で十分に全体の意味を解する事ができる。長吉は一度別れたお糸とは互に異なる其の境遇から日一日と其の心までが遠かつて行つて、折角の幼馴染も遂にはあかの他人に等しいものになるであらう。よし時々に手紙の取りやりはして見ても感情の一致して行かない是非なさを、こま〴〵と恨んでゐる。それにつけて、役者か芸人になりたいと思定めたが、その望みも遂に遂げられず、空しく床屋の吉さんの幸福を羨みながら、毎日ぼんやりと目的のない時間を送つてゐるつまらなさ、今は自殺する勇気もないから病気にでもなつて死ねばよいと書いてある。  蘿月は何と云ふわけもなく、長吉が出水の中を歩いて病気になつたのは故意にした事であつて、全快する望はもう絶え果てゝゐるやうな実に果敢ない感に打たれた。自分は何故あの時あのやうな心にもない意見をして長吉の望みを妨げたのかと後悔の念に迫められた。蘿月はもう一度思ふともなく、女に迷つて親の家を追出された若い時分の事を囘想した。そして自分はどうしても長吉の味方にならねばならぬ。長吉を役者にしてお糸と添はしてやらねば、親代々の家を潰してこれまでに浮世の苦労をしたかひがない。通人を以て自任する松風庵蘿月宗匠の名に愧ると思つた。  鼠がまた突如に天井裏を走る。風はまだ吹き止まない。釣ランプの火は絶えず動揺く。蘿月は色の白い眼のぱつちりした面長の長吉と、円顔の口元に愛嬌のある眼尻の上つたお糸との、若い美しい二人の姿をば、人情本の作者が口絵の意匠でも考へるやうに、幾度か並べて心の中に描きだした。そして、どんな熱病に取付かれてもきつと死んでくれるな。長吉、安心しろ。乃公がついてゐるんだぞと心に叫んだ。 (明治42年12月「新小説」) 底本:「明治の文学 第25巻 永井荷風・谷崎潤一郎」筑摩書房    2001(平成13)年11月20日初版第1刷発行 底本の親本:「荷風全集 第5巻」岩波書店    1963(昭和38)年1月 初出:「新小説 第14年第12巻」    1909(明治42)年12月 入力:阿部哲也 校正:米田 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。