胡瓜の種 鈴木三重吉 Guide 扉 本文 目 次 胡瓜の種  小さいときから自分を育てゝ來たお千は、下女と祖母とを伴れて、車に乘つて一足先に移つて出た。  自分は宿屋の拂ひをして、一二の用事に𢌞つてあとから行つた。荷車に托した行李と蒲團とが已に運ばれて、上り口に積み上げてあつた。見すぼらしいがた〴〵の格子戸を這入つて靴を解く。お千は下女に指圖をして、がさごそそこらを拭き𢌞つてゐた。 「どうだ。掃除は片づいたか?」と言ひつゝ上ると、 「まあ隨分まごつきましたのい。いくら探してもこの家が別らないで、この邊を幾度もぐるぐる𢌞つて辛との事で探し出したんですのい。」と、お千は脇を向いたまゝかう言ひながら、泥水になつたバケツの水を提げて裏口へ出る。  お千がその外に何を言ひたいかといふ事もそれで別つてゐる。自分は何だか、自分の外には誰一人自分に同情するものがゐない事を見せつけられるやうな、冷い孤獨を感じずにはゐられなかつた。さう考へるせゐか、下女が自分のために氣の毒さうな顏をしてゐる容子までが、反對に自分をさげすみでもしてゐるやうに小惡らしい。  けれども、そんな拙らない事がいつまでも自分の氣分を支配するわけもない。自分は考へると直ぐにそれは忘れて、表の一と間の襖を開けて祖母に挨拶をした。  そこにはお千たちの手提袋や、いろんな持物が散らかつてゐた。目の見え惡い祖母は、變な方に向いてしよんぼりと坐つてゐる。自分が耳に口を寄せて物をいふまでは自分が來た事が別らないのであつた。五月といへど、かういふどんよりとした日には、老いた膚がほろゝ寒いと見えて、汽車で布いた膝掛に脊中を包んでつくねんとしてゐる。 「もうこれが落ち附けば世話はないぞのい。」と安心したやうにいふ。 「どこかこの邊が開いてるのかのい? 何だかすう〳〵風が來るい。」と、見えぬ目をして見探るやうにする。どす汚い床屋の店のやうな硝子障子の硝子が一枚とれてゐるのである。障子の外は、足を踏みはづしさうな、狹い縁側が附いてゐて、その下には炭俵の切れや、食ひ捨てた蛤の殼が、雨の日に刎ねた泥に塗れて散らかつてゐる。土の黒ずんだ、一坪ばかりの庭である。ひよろ〳〵に痩せた小さい無花果の木が、乏しい若葉をつけて垣の根に植つてゐる。  自分は風呂敷を解いてその日の新聞を出して、硝子の落ちたところを塞ぐために寸を合はせて切つた。それから下女を、差配の家へ飯粒をもらひに出した。 「隨分ひどい家ですぞのい。」と、それを貼つてゐる後へお千が來た。 「まあね、あそこの押入れの中に、竹の皮や反古や古手拭なんかゞ、かうやつて抱へる程、突つゝき込んであつたのですのい。板の間に這入ると蜘蛛の巣が顏にかゝつて。──御覽なさい、これ。」  まだ髮にかゝつてゐるのを探つて、顏をしかめて指先で取つて見せる。  自分はその容子が可笑しいのでくす〳〵笑ひながら、買つて來た机を床屋の硝子戸の下に据ゑて、風呂敷から硯と原稿紙を出して並べた。 「のい、あなた、私たちはどうでもよいけれど、こんなところへ樫田さんの奧さんでも入らつしたらどうしませう。」と、お千はよう子さんのために借りた家かなぞのやうな下らない事をいふ。自分はわざと默つてゐた。  机の位置が面白くない。もつと壁の方へ寄せるといゝが、それだとこの疊の破れたところが外へ出る。かうすれば丁度机の下に隱れる。坐つて周圍を見ると、壁の落書や襖のぼろ〴〵に煤けたのが目障りだけれど、その内には馴れて來よう。──  このやうな事を考へて少らく茫んやりと坐つてゐると、 「のい、あなた。」とまた始める。 「炭屋と米屋とへは來がけにさう言つて下さつたのでせうのい。もうそろ〳〵御飯の仕度をしなければ。」と、お千は疲れたやうに、足を崩して坐つてゐる。下女も暗い中の間に、伏し目になつてぽつんと坐つて、所在ない指先に白前垂の紐をいぢくつてゐる。自分は米屋の事なんか忘れてゐた。 「あなたは私たちの頼んだ事は何でもあれですけ。」と下らない事に直きつんとするお千は、 「ぢや、私が探してさう言つて來ます。外に、千葉から荷物が來るまでに買つて置くものがありますけ。つね、一緒にお出でよお前も。」と、浮かぬ顏をして仕度をして出て行つた。 「この下駄にしようか。こんなものを履いて出ては可笑しいだらうか? 買はなければよかつたぞのい。」などゝ、戸口でひそ〳〵言つてゐる。  祖母はいつの間にか膝掛を被つたまゝ臺所の方をうろ〳〵してゐる。家の容子を見るのだといふ。 「あなたには見えもしないのに。」 「ふゝゝそれでも少しは見えるもの。そこに青いものがあるぞのい。土手があるのかい。」 「あれは麥の畑です。蠶豆の花がぐるりにさいてゐます。」  祖母は四疊の竹格子の下に坐つて、見えぬ目で透して見つゝ、千葉はどちらに當るか、國許はどの方角か、今度は月給はいくら貰ふのか、なぞと聞く。自分はいゝ加減な事を言つて安心させた。それから矢つぱり話の相手をしながら、ぽつ〳〵蒲團や行李を解いて着物を出して着換へたりした。  畠を隔てた裏向うの家で三味線をひく。どんな人がゐるのか、一寸氣の利いた構への家である。田舍から千葉の田舍へ來たばかりで少しもこちらを知らないお千は、馴れもせぬところをうろついて迷ひでもしたのではあるまいかと、歸りの遲いのを氣にしてゐると、その内に下女に風呂敷包みを抱へさせて、自分も色んなものをごた〴〵持つて歸つて來た。 「こんなところだと思つて馬鹿にしてゐたらそこまで出ると何でもありますぞのい。」と、つまらない事を感心してゐる。それから第一に包みを解いて、甘くもなさ相なパン菓子を取り出して祖母に持つて行つた。それから手提袋に納めて大切に持つて來た厨子を取り出して、型ばかりの置床の上に、私の父の位牌とならべて祀つて、今のパン菓子を供へようとする。 「御免だよ、お千。佛さんなんかそんなところへ置いては目障りでいけない。僕は位牌も厭だ。そんな不愉快なものを。」と顏をしかめると、お千はむきになつて、 「そんな出任せな事を仰しやると罰が當りますぞい。」といふ。 「だつて僕は位牌といふものを好かないのだもの。陰氣でいけない。人の死骸を見るやうな氣がして氣味が惡いから、そこへ置くのは怺へておくれでないか。」 「何とでも仰しやい。」と、例のつんとした膨れ面をしたが、 「ではどこへ置くんです?」 「どこへなりと置くさ。」  こんな事を言つて半ばは調弄つてゐる間に、下女は、板の間に買ひ立ての焜爐や鍋などを並べて、自分の鉛筆を削るナイフを持つて玉葱の皮を剥いたりしてゐる。あとでお机の上に揷すのですと言つて、虞美人草の花を五六本バケツの水に揷してゐる。 「厭な位牌を床の上に並べてくれたりするやうな深切なお千よりか、つねの方が氣が利いてゐら。お前生れ變つて來たら奧さんにしてやるから、よく働きなよ。」と冗談を言ひながら湯へ出かける。  それから歸りに、近くにゐる知人のところで油を賣つて、日暮時分にのそ〳〵歸つて來ると、見窄らしい住居の入口は、夕方はなほ更物淋しい。家の内はもう薄暗かつた。お千や下女はどうしたのか、内にゐない。日が這入るとすぐに床につく習ひの祖母さんが、一人四疊に薄暗く寢てゐる。 「つね。」と呼んで見たが返事がない。と、お千が裏口から小暗く出て來た。 「お歸りなさい。私うつかりしてゐて洋燈を買ふのに氣がつかなんだものですけ、今つねをやりましたのい。暗くても一寸の間我慢してゐて下さいな。」と、流しもとで手を洗つて上つて、 「私のい、あんまりお歸りが遲いけ、あなた怒つてどこかへ行つてお了ひなしたのかと思つて心配しましたのい。怺へて下さいよのい、さつきの事なんか。」 「何を?」 「まあそんならよかつた。私は今裏へ胡瓜を蒔いて置きましたのい。見てゝ御覽なさい。今に芽が出て、だん〴〵に延びて行きますけ。去年千葉で澤山果らせたでせう。私はこれからあれが大きくなるのを樂しみにして、毎朝出て見ますのい。」 「家で出來た胡瓜なぞが食へるかね。」 「あれ、あんな事を仰しやる。毎朝漬け物に召し上つたぢやありませんか。あれを忘れなしたのかい。────を毎日書いてゐなす時分でしたらうがの。あの時には立派な家にゐましたぞのい。私はどうも月給がないと心細いやうな氣がしますがのい。あなたのは書くと言つてもうんうん苦しんで一日に一囘が出來ん日が幾度もあつたでせう?」と言つたが、自分が默つて相手にしないでゐるものだから、 「今度は何といふのをお書きなさるの? また毎日癇癪が起きる事でせうぞのい。あゝ〳〵────の時は私は作るあなたよりも辛かつた。」 「嘘を。」 「嘘ぢやありません。おや、それを裂りなした。反古ぢやないのですぞい。中に胡瓜の種があるのですに。御覽なさい、みんな無くなつて。」 「無くなるもんか。後で拾へばいゝよ。」 「あの、のい、それはさうと、今日私買物の歸りに好い貸家を見て來ましたい。家賃が十八圓でのい、二階も離れも湯殿も附いてゐますぞい。中々洒落れてゐますいの、十八圓にしては。」 「さうかい。おや胡瓜の種つて、吹けば飛びさうな薄いものだね。ほう、澤山ある。まだあら。」と拾ひ上げながら、自分は、下女が歸るまでの暗がりに寢そべつて、お千がいろんな贅澤な御託を並べるのを聞いてゐた。それから胡瓜の種といふものを噛んで見た。  お千が蒔いた種がまた胡瓜を生むまでには、これから三月もかゝる。今日は五月の十日である。 「十日だつたねお千。」  私は再び苦しい創作にかゝらなければならない。 (明治四十四年五月) 底本:「鈴木三重吉全集 第二巻」岩波書店    1938(昭和13)年5月15日第1刷発行    1982(昭和57)年2月8日第2刷発行 入力:林 幸雄 校正:noriko saito 2010年7月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。