死の接吻 ──スウェーデンの殺人鬼── 南部修太郎 Guide 扉 本文 目 次 死の接吻 ──スウェーデンの殺人鬼──     猫の唸聲 「ふウん、臺所に電氣がついてる‥‥」  凍りついた雪の道に思はず足を止めて、若い農夫のカアルソンは宵闇の中に黒く浮んでゐる二階建の別荘の方へおびえたやうな視線を投げた。  千九百三十二年三月四日、ちやうど金曜の晩のこと、ストツクホルムから程近いモルトナス島のゼッテルベルグ老人の別荘へ昨日から度々電話を掛けてみるのだが一向に返答がない、日頃からごく懇意にしてゐる老人のことなのでひどく氣に掛かつて、その日の仕事をやつと片附けると、カアルソンは自分の農場から一マイルほどの道を大急ぎで駈けつけて來たのだつた。  別荘は玄關にも裏口にも固く錠が降りてゐた。そして、扉を叩いてみても、中はしいんと鎭まり返つてゐた。 「今晩は、今晩は‥‥」  さすがに胸騷ぎを感じながら、カアルソンは二三度大聲に呼んでみた。が、答へるのは自分の聲の木魂ばかり‥‥。  カアルソンは何とはなしにぞつとした。老人夫婦がこんな宵の内に家を締めるなどは今までにないことだ。それに、かちかちに凍りついた物干綱にさがつてゐるあの洗濯物! それは一昨日訪ねて來た時とそつくりそのままではないか? 「こいつアただ事ぢやないぞ。」  さう呟くと、カアルソンはもう夢中で駈け出した。そして、老人が毎日牛乳を買ひに行く、すぐ近所の農夫仲間ロフベルグの家の門口をやけに叩いた。 「己アたつた今ゼツテルベルグさんのところを訪ねて來たんだが‥‥」  と、カアルソンは息を切らしながら、 「と、ところが、臺所にやアちやんと電氣がついてるのに、うんともすんとも返答がないんだよ。」 「ヘエ、そりや妙だな。」  と、ロフベルグも怪訝らしい顏附で、 「實ア己も何か變つたことがあるんぢやないかと思つてたとこさ。と言ふのは、一昨日ちやアんと牛乳を買ひに來なすつたあのお年寄が昨日も來なさらねエし、今日もまだなんだよ。何しろ奧さんの怪我はまだ治らねエ筈だから、家中でストックホルムへ行きなさる譯アなしね。」  「そ、さうだとも‥‥」  不安な樣子でカアルソンは相槌打つた。  ゼッテルベルグ老人はもと株式仲買人で、今は財産の利息で暮してゐる氣樂な體だつたが、その收入が幾分減つたので、寒くて不自由でも少し暮しを詰めようといふ譯で、今年の冬はストックホルムからわざわざ寒氣の嚴しい島の別莊へ移り込んだ。ところが、つい一月ほど前、夫婦でスケイト遊びの最中に細君は過つて薄氷の割れ目に落ち込み、幸ひ老人の手に救ひ上げられたが、その時足をひどく挫いたのだつた。  とにかく中を調べようといふ事になつて、間もなく二人の農夫はまた別莊の方へ歩いて行つた。と、臺所の窓には相變らずぽつと明りが差して、白い洗濯物が突風に吹かれて暗い夜空に搖れ動くのが如何にも薄氣味惡かつた。別莊は灰色の可成り大きな建物だが、階下はすつかり締めきつて、階上の四部屋だけが老人夫婦に使はれてゐるのだつた。 「さア、どうしたら中へはいれるかね?」  さうロフベルグが尋ねかけると、カアルソンは暫く首をひねつてゐたが、 「さうさう、たしか庭に梯子があつたよ。そいつであの臺所の窓からはいつたら?」  やがて梯子を掛けると、カアルソンはすぐそれを昇り出したが、忽ちぎよつとした樣子で足を止めた。別莊の中から恐怖の叫びに似たやうな凄まじい唸聲が不意に聞えて來たのだ。カアルソンは梯子を握り締めながら、 「な、何だらう、ありや‥‥」  と、聲顫はせて囁いた。 「猫だ、ゼッテルベルグさんの猫の聲だ。」  と、ロフベルグは落ち着いて答へながら、 「だけど、何か厭やなことでもないと、あアいふ凄い唸聲は立てねエもんだぞ。」  びくびくものでまた梯子を昇り出したが、やがて顏が一番低い窓硝子の所へくると、カアルソンはぼやつと明るい臺所の中を覗き込んだ。可成りな廣さ、弱い光は向ふ隅の料理竈の上にさがつたたつた一つの電球から來てゐる。暫くしてもう一段昇ると、窓硝子に顏をくつつけてぢつと中を眺めつづけてゐたが、突然ぎくりと動いた兩足が段をはづれたかと思ふと、カアルソンは手袋をはめた兩手で梯子の兩脇を掴んだままずる〴〵と滑り落ちて地面へぐしやつと潰れたやうになつてしまつた。 「どうした? な、何が見えたんだ」  近寄りざまにロフベルグはカアルソンの肩を劇しく搖す振つた。 「た、大變だ。ゼッテルベルグさんが竈の脇の血溜りに倒れてる‥‥」  顏青ざめ、がたがた顫へながら、カアルソンは息詰まるやうな聲で叫んだ。 「そして、そして、料理臺の上にやア頭をぐしやぐしやに割られた女が突つ伏してる。ち、畜生つ、猫の野郎め、その脇に突つ立つて己をぢつと睨みつけやがつたよ。」     慘劇の現場  夜の十時、グスタフソン警視がストックホルム警察廳の自室で煙草をふかしてゐると、あわただしくはいつて來たのは主任警部のソオルで、いきなり呶鳴りつけるやうに、 「ただ今モルトナス島の派出所からえらい事件を報告して來ました。ゼッテルベルグと申す老人夫婦とその義理の妹にあたるヘドストロムといふ細君が殺害されたさうです。グスタフスブルグ署のジヨンソン署長とベルントソン醫師は現場の別莊へ急行したと言ひますが、わたしもこれからすぐ出掛けようと思ひます。」  首も埋まりさうな厚ぼつたい外套の釦をせかせかとはめながら、ソオルは言つた。 「宜しい。無論、僕も一緒に行かう。とにかく現在までに君が聞き込んだ委細のことを話してくれ給へ。」  落ち着いた樣子でさう言ふと、ソオルの話を聞きながらも一方上役のゼッテルクイスト刑事部長を電話口へ呼び出して、グスタフソンは事件の概略を報告しこれから現場へ出掛ける由を傳へた。  數分の後、ソオルとグスタフソンを乘せた警察自動車は現場へ疾走してゐた。 「さうだ。ゼッテルベルグといふ老人のことを今はつきり思ひ出したよ。」  と、グスタフソンは深々と座席に埋めた大きな體を重たさうに動かしながら、 「どうも聞き覺えのある名前だと思つて今まで頭をひねつてゐたんだが、そいつは金貸し兼仲買人のやがて七十になる爺さんだよ。夫婦とも相當工面のいい譯だが、をかしいのはこの冬何だつてあんな寒い島で暮してゐるかといふことさ。」 「なるほど。ですが、わたしにはまるで覺えのない人物ですな。」  二人が現場へ着いた頃は夜も可成り更けてゐたが、澤山の島人達が寒さにもめげずに別莊のまはりに集つて、今は電燈の光り輝く窓窓に好奇の眼を注いでゐた。ソオルが扉を叩くと、ジョンソン署長が迎へ出て來て、 「さア、どうぞ。いやはや、全くもう身の毛のよだつやうな有樣でございますて‥‥」  二人はすぐに階下の應接間へはいつて行つたが、寒々とした部屋ながらそこは家具一つ亂れてはゐなかつた。すべては階上での出來事で、更に署長の案内で階段を昇ると、ひどく天井の低い廊下へ導かれたが、そこの一隅の小卓の上には電話器が置いてあつて、その傍には銀貨が一つ光つてゐた。そして、天井と壁の所々には黒ずんだ血痕が幾つか縞を作つてゐた。 「こちらがその臺所で‥‥」  と、ジョンソンは奧の方へ進んで行つた。  無殘な修羅場だつた。フリツツ・ゼツテルベルグは毛布の帽子をかぶり毛皮の靴をはいたまま仰向きになつて血溜りの中に倒れてゐた。その兩手は恐ろしい運命に悲しく服從するかのやうに、掌を上に向けて體の兩側に投げ出されてゐた。また老人の義理の妹にあたるクリスチナ・ヘドストロムはうつ伏せになり、兩手をだらりと垂れたまま料理臺の上に横たはつてゐた。そして、その傍には一人の男が體をかがめて、打ち碎かれた顏の模樣をしきりに調べてゐた。 「醫師のベルントソン君です。」  ジョンソンはその男を二人に紹介した。  グスタフソン警視は會釋しながら、 「二人とも前頭部を割られとるやうだね。死後およそどのくらゐになるかな?」 「さやうですな‥‥」  と、醫師は立ち上り、姿を正しながら、 「死體收容室で十分研究しないと正確には申し上げられませんが、先づ水曜の夜か木曜の明方にやられたものと推定します。つまり死後三十六時間乃至四十八時間ぐらゐです。」  グスタフソンとソオル警部は狹い廊下を戻つて左に曲ると、臺所と隣り合つた寢室へはいつて行つた。と、片側に二つの寢臺が並んでゐて、その間に夜の飾衣を着たヒルマ・ゼッテルベルグの死體が横たはつてゐた。この老婆もやつぱり頭蓋骨を碎かれ、片足を左側の寢室の端に引つ掛けた妙な恰好で突つ伏してゐる。そこから少し離れた床の上には鐵の管が投げ出されてゐたが、長さ一メートル太さ五センチばかりで、一方の端には血がねばりついてゐた。そして、床、壁、天井にまでも血が飛び散つて一面に凄慘な唐紅だつた。 「この細君が最後に殺されたやうですな。」  と、ソオルはグスタフソンを振り返つて、 「臺所の恐ろしい物音を聞くと、細君は毛布を撥ねのけて不自由な足で寢臺を飛び出さうとしたんです。が、一足出した途端に犯人の一撃を浴びたんでせう。で、うつ伏せに倒れて、片足が寢臺に殘つた‥‥」 「うん、たしかにさうだね。」  と頷いて、グスタフソンはすぐにジョンソンの方を振り返ると、 「外に何か發見はないかね? 犯人がここへはいるのを見たやうな者はをらんかね?」  ジョンソンはかぶりを振つて、 「まだ見當りません。然し、ただ今島の者達を調べてをります。それからこの兇器ですがこれはたしかに犯人が近所で得ました物でございます。島ではかういふ種類の管を垣根の柱に使ひますんですが、その證據にわたくしは臺所の扉の邊に泥の塊を幾つか見つけましてございます。」  探偵達は今度は表側のもう一つの寢室と大きな居間を取り調べたが、格別かき亂されたやうな形跡は見えなかつた。然し、居間の一隅の小型金庫の扉が明けつ放しになつてゐた。そして、内部には事務用書類がきちんと收めてあつたが、金は少しも見當らなかつた。かうして警視、主任警部、署長の三人はそちこちで幾らかづつ證據物件を拾ひ上げながら二階の諸部屋を隅々まで尋ね歩いた。鐵の管、扉の取手、椅子類、壁などからは綿密に指紋を調べ上げた。     探偵の苦心  寒い階下の廣間。厚い外套、毛皮の帽子、無恰好な靴、見るからに筋骨たくましい島の農夫や漁師達の十二三人が不安らしい眼差でグスタフソン警視達と向ひ合せに腰掛けてゐる。早速はじまつた證人調べだつた。先づ最初の現場發見者のカアルソンとロフベルグがその經過をざつと話すと、警視はカアルソンの顏を見守りながら、 「木曜の夕方何度も電話を掛けたといふが、いつたい何の用でかね?」 「なアにね、ちよつと相談事に行かうと思つたんです。實はゼッテルベルグさんが抵當の事でいい智慧を貸して下さる筈でしたが。」 「どうだ、水曜か木曜にあの老人に會やアせんかね? またこの近所へやつて來たことはなかつたかね?」 「いいえ、もう決して‥‥」  率直なカアルソンの詞に打ち頷くと、警視はその隣の漁師のダアルベルグに視線を移した。と、途端に自分から進んで口を開いて、 「さう言やア思ひ出すことがありますよ。水曜の夕方己が漁から戻つてくるとね、別莊の方へ歩いてく奴を見ましたつけ‥‥」 「ふウん、そりや島の者だつたかね?」 「さア、分らないね。何しろずいぶん遠くの事だつたで‥‥」  警視は鋭い眼で暫くダアルベルグの顏を探るやうに見詰めてゐたが、やがて次のペタアソンの方へ向きなほつた。 「さうさね、實ア己もこの別莊の方へ歩いてく見慣れねエ男を見ましたよ。そいつはそこの石段のところに立ち止まつて、靴の雪をかいてやがつたつけ。何しろもう薄暗かつたんではつきりとは見えなかつたが、風體ぢやアたしかに町の人間みてエだつたなア‥‥」  證人調べはまアそんな工合に進んで行つた。或る男は老人が土曜日にストックホルムへ行つたこと、行く前に或る用件を片附けるつもりだと話してゐたといふことを述べた。また島人の一人は暫く島に暮してゐた或る男が水曜日に姿を隱したといふ事實を洩らした。警視は勿論その男の名を問ひ質した。また他の一人は水曜日の午後別莊から半マイルほどの所で二人の男の乘つた自動車を見たと申し立てた。そして、その二人はフエドラ帽を眞深にかぶり、一人は角縁の眼鏡を掛けてゐたといふ事だつた。その他細君の妹のクリスチナが姉の怪我の看護や家政を見に泊りに來てゐて、慘酷な災難に逢つた事情も分つたが、とにかくゼツテルベルグ一家には敵などは全然ないらしく、誰もが老人夫婦の善良さ深切さを口々にたたへるのだつた。  念入りな取調べにたうとう夜が明けてしまつた。運搬自動車は三つの死體をストックホルムへ運んで行つた。そして、別莊に錠を降し、二人の巡査を張番に殘すと、グスタフソンとソオルは數多くの證據品を携へ、他の警察官や助手達と二臺の自動車に乘り込んで現場をあとにした。 「どうも大した手掛りはございませんな。」 と、ソオルは疲れたやうな聲で言つた。  グスタフソンは空を見詰めたまま詞もなく廣い肩をただ物懶げに搖すつた。そして、その双の瞳は明かに煩ひ惱んでゐたが、老人が土曜日に銀行へ出掛けたといふ事實を心ではしきりに考へてゐた。手掛りは或はその方面にあるのではないか?  明くる土曜日の午前十時、警察廳の刑事部長室では眼鏡を掛けた、優型の、神經質らしいゼツテルクイスト部長を中心にしてグスタフソン警視とソオル主任警部が搜査會議を開いてゐた。部長は警視を振り返つて、 「何か方針が立ちましたかね?」 「さア、有力な手掛りは二三掴めましたが、一刻も早く犯人を捉へるのが重大で‥‥」 「と言ふと?」 「つまりです。若し犯人がわたしの推察通り殺人狂だとすると、更に慘劇の繰り返される恐れがあるからです。とにかく報告書で御覽の通り殺害の手口は鬼畜に類してゐます。で、金錢もこの兇行に多少の關係はあるでせうが、何しろゼッテルベルグは明かに窃盜の被害は受けてをりません。無論、犯人が實際は金庫から何かを窃み出しながら、内部にちつとも手を觸れなかつたやうに見せ掛けることも容易ではありますがね‥‥」  と、熱心に詞をつづけて、グスタフソンはそこでちよつと一息入れながら、 「それから金庫の扉が明けつ放しになつてゐたのは注意すべき事實です。そして、あらゆる状況は犯人が老人と知合ひの間柄だつたことを示してゐます。たとへば犯人が借金の返濟に來たとほのめかし、金庫にしまつてある借用證文を老人に戻してくれと言つたとしますね。すると、恐らく老人は金庫を開いて證文を取り出すでせう。その咄嗟に犯人はそれを奪ひ取り、慘虐な襲撃を加へる‥‥」 「なるほど、一つの考へ方です、而も、如何にも頷ける‥‥」  と、ゼッテルクイストは強い同感の色を見せた。グスタフソンはソオルを顧みながら、 「君、今朝の内に何か獲物があつたかね?」 「さうでございますな。先づ第一に‥‥」  と、ソオルは明快な句調で受け答へて、 「鐵の管にあつた指紋を調べました。正しく男子のものです。然し、指紋臺帳に全然載つてない所を見ると、前科者でないのは明瞭です。第二に各方面を搜査しましたが、島から姿を隱したといふ例の男の居所はまだ突き留めることが出來ません。それから第三は水曜の午後二人の男を島まで乘せたといふ自動車の運轉手ルンドベルグを發見したことです。二人は釣に行くと申しとつたさうですが、一人が角縁の眼鏡を掛けてゐたといふ點は島の者の證言と全く符合してをります。なほその眼鏡の男は貴族風に見え、詞に外國訛りがあつたさうです。」  ここでソオルは急に語調を改めながら 「それから今一つは老人が先週の土曜に銀行へ出掛けたといふ例の聞込みです。行員に質してみますと、その時格別の大金などは引き出さなかつたさうですが、をかしいのは銀行へはいつて來た時非常に苛立つてゐたといふ事實です。そして一先づ立ち去つて二時間ばかりで戻つてくるとまた暫く銀行にゐて一人の行員と何か話し合つてゐたと言ひます。で、さきほどその行員を訪ねてみましたが、折惡しく不在で、暫くしたらもう一度行つてみるつもりでをります。」 「ふふウん、そりや素晴しい手掛りだ。」  と、グスタフソンは我が意を得たりとばかりに力強い調子で言つた。 「何しろ時間を空費しない事だね。そして、何か重大な發見があつたら、時を移さず電話を掛けてくれ給へ。さつきも言ふ通り、この際緊急事は一刻も早い犯人の捕縛だよ。」     意外な展開  三十分ほどの後、ソオル主任警部は銀行の一室で尋ねる行員と膝を突き合せてゐた。行員はその日のゼッテルベルグ老人の樣子をあらまし語り終ると、何の用事でどこへ行つたかは分らぬが、その時老人がすぐ近所の町角に駐車してゐる辻自動車に乘つたといふことを傳へて、ひよいと傍の窓を開くと、 「あア、あすこにゐるあの自動車ですよ。」  その詞に躍り上つてそこへ駈けつけると、ソオルは件の辻自動車運轉手ヘルベルグを發見した。早速老人の人相を語り聞かせると、運轉手は合點しながら、 「ヘエたしかに乘せましたよ。人相もよく覺えてまさア。おつしやる通り先週の木曜のお晝過ぎでしたが、北マラアストランド街の素晴しい屋敷まで行きました。何でもフオン・シイドウ男爵を訪ねるんだが、おいでになるかななんて言つてでした。」  どきりとして、ソオルの顏は思はず固くなつたが、その驚きの色はうまく胡麻化してしまつた。ヤルマア・フオン・シイドウ男爵と言へばスウェーデン切つての金持で、大資本家の一人だつた。 「やア、どうも有り難う。」  と、さりげなく言つて、ソオルはその町角を立ち去つた。  一町場ほど行くと、ソオルは別の辻自動車を北マラアストランド街へ急がせた。車中、ソオルは胸の中に自問自答しつづけた。音に聞えた富豪の男爵と名も無い金貸の老人との間にいつたいどういふ繋りがあるのか? 例の金庫の中にも二人の關係を示すやうな何物も見當りはしなかつた。況してやモルトナス島のあの兇惡な慘劇とストックホルムの富の王者とを結びつけるなどは?  北マラアストランド二十四番街、宏壯な五階建てのアパアトメント・ハウス、その三階の八室全部を領するシイドウ男爵家、程なくソオルが、そこの玄關に案内を乞ふと、暫くして戻つて來た若い小間使は、男爵が書齋で面會する旨を傳へた。  ソオルは廊下を通り、豪奢に華麗に飾りつけた應接間を横切ると、やがてちよつとした部屋へはいつて行つた。すると、もう老年に近い、丸顏の人間が裝飾的な彫刻のある机を前にして、背中の高い椅子に大きな體をゆつたりと凭せてゐた。そして、表情のない眼でぢつとソオルの方を見守りながら、 「どういふ御用向きかな?」  ソオルはモルトナス島の慘劇をざつと語り聞かせてゼッテルベルグ老人の殺される前の行動を取り調べてゐる事情を説明すると、 「それで、先週の土曜に老人が御當家へ參上したことが判明しました譯ですが、その點に就き搜査の御援助を戴きたい次第で‥‥」 「さやうさ、たしかにやつて來ましたよ。」  と、男爵は重苦しい聲で言つて、 「だがな、あの老人とは久しい以前からの知合ひでして、心安立てにちよつと訪ねて來たに過ぎませんのぢや。で、今朝方の新聞であの老人夫婦が殺されたと知つて誠に驚いとる譯です。從つて、搜査のお役に立つやうなことは格別お聞かせも出來ませんですて‥‥」  靜に打ち頷きながらも、ソオルは密に探るやうに男爵の顏を見詰めてゐた。次の刹那、もうこれ以上何も聞くまいと決心の臍を固めて、そのまま暇を告げた。そして、警察廳へ歸るや否や待ち兼ねてゐたゼッテルクイスト部長とグスタフソン警視と會見した。 「男爵はたしかに何かを隱してゐます。」  と、ソオルはさすがに興奮の色を浮べて、「聲はしつかりと落ち着いてゐましたが、眼が神經過敏に瞬いてるんですな。とにかくありやア何かにひどくおびえてゐる證據で、どうも見るに忍びなかつたもんですから、強ひて問ひ重ねることはしませんでした。」  部長と警視は頷き返したが、正に呆然自失の體だつた。男爵の沈默の蔭には果して何が潜んでゐるのか?  土曜と日曜の終日ストックホルム警察廳は犯人の捕縛に必死となつたが、いろいろな手掛りも空に歸して、警察官や探偵達もただ疲れるばかり、すると、モルトナス島の慘劇發見からわづか五日目の三月七日の月曜の夕方午後五時といふに主任警部室の電話の鈴がけたたましく鳴り響いた。 「えつ、な、何だつて?」  受話器を耳に當てたソオルの顏は忽ち眞青になり、あたふたと自席を飛び出して警視室の扉を荒々しく引きあけると、今耳にしたばかりの驚くべき報告を傳へた。  瞬間、グスタフソンの大きな顏もさつと青白み、肩先ががくりと戰いた。果然、ゼッテルベルグの別莊の物凄い殺戮は何等かの祕密な筋道で百萬長者フオン・シイドウ男爵へ繋がつてゐたのだ。グスタフソンはその丸々とした兩手を机の面に突つ張つてぐいと立ち上ると、呶鳴りつけるやうな聲で、 「さア、すぐ出掛けよう。」  そとはひどい雪で、警察自動車は獨特の無氣味なサイレンを絶えず響かせながら進んで行く。ソオルは暗い行手をぢつと見守つてゐたが、やがてグスタフソンに囁きかけた。 「一昨日訪ねた時、男爵がもつと率直に打ち明けてくれましたらね! たしかに何か祕密を胸にたたんでゐたやうですが‥‥」  グスタフソンは無言だつた。そして、警察自動車は街燈の光りも見え分かぬ、雪の深い通をのろくさい速度で走つてゐたが、やつとのことで、シイドウ男爵の住ふアパアトメント・ハウスの廣大な入口に辿り着いた。     解き得ぬ謎  グスタフソンとソオルは早速昇降機で三階へ急いだ。そして、二人の巡査の張番してゐる玄關を通ると、ソオルは先に立つて例の豪奢な應接間へはいつて行つた。と、數人の警察官に取りかこまれた一つの安樂椅子、その上に顏の上半を打ち碎かれて血みどろになつた男爵のでつぷりした體が横たはり、椅子にも高價な敷物にも血が流れてゐた。 「もう事切れてゐるのかね?」  と、ソオルはその傍に膝まづいてゐた警察醫に向つて聲高く尋ねかけた。 「はい、たうとう意識を回復なさらないで、今し方息を引き取られました。」  醫師がさう答へると同時に一人の巡査部長が進み出て、堅苦しく一禮しながら、 「血の痕を見ますと、男爵は食堂で打ち倒され、ここまで引き摺つて來られたもののやうです。犯行は男爵の姪御のモニカ・シユワルツ孃によつて三十分ほど前に發見されたんでありますが、裏側の部屋にも同樣な手口で殺害された死體がございます。それ等はわたし共が來た時には全く絶命してをりました。」 「それ等とは?」  と、グスタフソンが尋ねかけた。 「雇女であります。一名は老家政婦のカロリナ・ヘルウ、一名は若い小間使のエツバ・ハム、どうぞあちらで御見分願ひます。」  巡査部長の案内で食堂を横切ると、住居の裏側へ進んで行つた。先づ臺所には顏をぐざぐざに碎かれた小間使が仰向きに倒れて、床にも家具にも血が飛散してゐた。そして、無慘にも剥がれた兩手の爪、それは死に面して娘が如何に狂ひもがいたかを語り、頭蓋からへぎ取られた一束の髮の毛さへ死體の傍に投げ出されてゐた。 「一昨日取次に出たのはこの娘でした。」  と、ソオルは死體の傍に膝まづきながら、 「この娘も男爵もゼッテルベルグの一家と全く同じ手口で殺害されてをりますな。」  グスタフソンは頷いた。巡査部長は更に隣の小部屋へ導いて行つた。そこの床にはうしろの頭蓋骨を打ち碎かれた老婆がうつ伏せに倒れてゐた。巡査部長は上役を振り返つて、 「この婆さんは戸口に背中を向けて搖り椅子に凭つてゐた所をやられた模樣です。で、犯人の一撃を受けると、一溜りもなくうつ伏せに倒れてしまつて、小間使のやうに抵抗する隙は全然なかつたものと考へますが‥‥」 「君、兇器は見つからんかね?」  と、グスタフソンは尋ねかけた。 「それから、犯人をどこかで見掛けたといふやうな者は?」 「はい、兇器はまだ見つかりません。」  と、巡査部長はかぶりを振つて、 「それから、犯人の目撃者に就きましては部下に申しつけまして、この建物や近所の住居人を早速調査させてをりますが‥‥」  グスタフソンとソオルは住居の表側の方へまた戻つて行つた。グスタフソンは相變らずすべての點に機敏で拔目がなかつた。そして、部下に適宜の指示を與へたりしたが、相つぐこの恐ろしい慘劇にはさすがに打ちのめされた樣子だつた。ヨオロツパでも警察力の完備した所と聞えたストツクホルム、當然喧々囂々たる非難の矢面に立つ責任者だつたから‥‥。  檢視を濟ましたグスタフソンが間もなく引き揚げて行くと、ソオルは早速證人喚問に取りかかることにしたが、男爵の行動を調べさせてゐた刑事の報告がそこへ屆いた。それに依ると、男爵は四時少し前に事務所を引き揚げアパアトメント・ハウスの入口で自動車を降りたが、それがお抱へ運轉手の眼に殘る生きた主人の最後の姿で、溜間からすぐ昇降機で三階へ昇ると、自分で鍵をあけて住居の中へはいつて行くのを昇降機のボオイも見屆けてゐたといふのだつた。ソオル巡査部長、警察醫の三人はたつた二日前に老富豪がソオルを引見した書齋で暫く協議を重ねた。 「女達が先に殺されたのはたしかかね?」 「たしかですとも‥‥」  と、醫師はソオルの問ひに答へて、 「二人の死體の模樣では、男爵が戸口をはひつた時には全く絶命してゐたことでせう。」 「ふむ‥‥」  と、ソオルは男爵の机の端に腰掛けて鉛筆でその面をこつこつ叩きながら、 「すると、二つの場合があり得る譯だな。男爵が犯人を驚かしたか? 或は犯人が殺意を以て用意周到に待ち伏せしてゐたか? それにしても、まるで物取の形跡がないとは?」 「全くですな。」  と、巡査部長は肩を搖す振つた。 「とにかく男爵の姪を先づ調べてみよう。それからこの住居へその娘さんをはいらせたといふ昇降機のボオイをね。」  立ち上つた巡査部長は間もなく十三歳の可憐なモニカ・シユワルツとボオイの制服を着た若者を連れて引き返して來た。 「お孃ちやん、どういふことがあつたか、すつかり話して下さいな。」  と、ソオルは優しく問ひ掛けた。  すつかりおびえきつてゐるモニカは咽び泣きしながら、やつとのことで口を開いた。 「あたし四時に學校を引けて來たの。そしてお玄關の呼鈴を押したんだけど、誰も返事しないんだもの、變だと思つたわ。だつて、その時間にはエツバもカロリイナもきつとおうちにゐる筈なのよ。」  と、ちよつと小首をかしげて、 「どうしていいか分んないから、あたし四階のヘイマンさんとこへ行つて譯を話したの。さうすると小母樣がこのボオイさんにそ言つて鍵をあけさせて下すつたわ。そいから應接間へはいつて行くと、叔父樣が顏を血だらけにして安樂椅子に横んなつてらつしやるんだもの。あたしきやアつてつて‥‥」  瞬間、誰しも思はず息を呑んだ。やがてソオルは穩かな、いたはるやうな調子で、 「叔父樣が誰かに會つたなんておつしやりはしなかつた? つまりお客樣か何か‥‥」 「そんなこと、あたし分んないわ。」  と、モニカはかぶりを振つた。ソオルはボオイの方へ向きなほると、 「今日の午後外には誰もここへ案内しなかつたといふが、間違ひないかな?」 「はい、モニカ樣と男爵樣の外にはたしかにどなたも‥‥」  と、ボオイは躊躇なく答へて、 「それから門番さんも別にはいつた者は見ないと言つてますが、門番さんのゐなくなつたちよつとの隙に、犯人が通りから溜間へこつそりはいることは出來なかアありませんや、さうだと、あたしの眼にも着かずに階段の方から階上へ昇つて行けまさア。」 「やア結構結構」  と短く言つて、ソオルは突然立ち上つた。部長はすぐに二人の證人を連れて去つた。  ソオルは改めて現場を綿密に調べ歩いた。そして、人目に觸れずに玄關に達した犯人は無理な侵入の跡のない點から見ると小間使と知合ひか何かで簡單に中へはいつたものと推定したが、この邊ゼッテルベルグの慘劇と類似の點があるのに注目した。それから犯人は先づカロリイナを難なく慘殺し、つづいて小間使のエツバを襲つたが、その必死の叫びも抵抗も非常に厚い壁のためにどこへも聞えず、さうして間もなく主人の老男爵が死の罠へ歩み込んで來たのに相違なかつた。  それにしても、いつたい何の目的で少しも防禦力のない二人の女を殺害したのか? 一方、男爵はいつも紙入に大金を入れて置くといふことだが、死體の懷中には一文の金もなく紙入も見つからなかつた。この點ちよつと強盜の仕業らしくもあるが、物取が目的ならただの追剥ぎでも濟む譯。尤も、何かの理由で殺害の後、犯人が出來心で奪ひ取ることもあり得るが、どうにも不可解なのはその二人の女の慘虐な殺し方だ。  今やソオルはゼッテルベルグ、シイドウの兩慘劇が同一犯人の仕業であることを固く信じた。そして、それが一種の殺人狂の兇行だとするグスタフソン警視の見込が正しいこと、犯人が少くともシイドウ男爵家に何かの縁故を持つ者だといふことをはつきりと感じるに至つた。     淡紅色の下袴  三つの死體を運搬自動車で送り出したあと、ソオルは更に辛抱強い探査をつづけてゐたが、やがて何の氣もなく應接間の長椅子の褥をひよいと持ち上げた途端に突如として眼に著いた生々しい血染めの布、何とそれは婦人の肌に著ける贅澤なレイスで縁取りした絹の下袴の斷片ではないか? 「大發見、大發見‥‥」  と、もとは淡紅色なのだが今は血で眞紅に染まつたその下袴の兩端をつまんで眺めてゐると、巡査部長が飛び込んで來て、 「な、何でございますか、それは?」 「血を拭いた布だよ。」  と、ソオルはその發見に大滿足の體で、 「然し、いつたい誰の物かね? 無論、あの孃ちやんや雇女達の用ゐる奴ぢやない。こりやア非常に金持の女の肌着の一部分だよ。」  部長はひどく驚いた樣子で小聲になり、 「まさか犯人が女なんていふことは‥‥」 「いや、どんな女だつてあんな打撃を加へ得る力があるものか。だが、女が犯人と一緒といふことはあり得る。若しかすると、この兇行には何かの形で女が交つてるぞ。」  間もなく、戸棚の中の重ねた食卓掛布の下から血染めの下袴の殘りの隱してあるのが見つかつた。それは肩の釣革を引きちぎつた下袴の上半だつたが、その無氣味な第二の發見物を調べてゐたソオルは突然呶鳴つた。 「圖星だ! 正に女が登場してゐる。つまり着物の下から下袴を引きちぎつて、そいつで血をぬぐつたんだよ。」  その時玄關の扉を強く叩く音がした。そして、やがて一人の巡査が制服を着た郵便集配人を伴つて來ながら、 「實はこの男が犯人らしい者を目撃しましたさうで‥‥」 「そ、そりやアどういふ奴だつたね?」  と、ソオルはひどく熱心に尋ねかけた。 「さやうさ、四時に十分ほど前でした。」  と、集配人は考へ考へ話し出した。 「ここへ配達にやつて來て、溜間に郵便物を置くとすぐ表へ出ましたが、途端に一臺の自動車が入口の正面に止まつたんです。何しろひどい雪降りで十分には分りませんでしたが、どうも辻自動車だつたやうで、中から一人の男が降りてくると入口の方へ歩いて行きました。そして、ふと扉の所に立ち止まると車の中の誰かに聲を掛けたやうでしたが、その時あたしは歩き出してましたんで‥‥」 「外には誰も車から降りて來なかつたかね? そして、門番は入口にゐたやうかね?」  と、ソオルの問ひに集配人は首を振つて、 「いいや、門番はをりませんでしたよ。それから他には誰も降りて來なかつたやうです。何しろちやうど歩き出してたんで、その男の顏もよくは見ないやうな譯なんで‥‥」  何か犯人の人相風體を聞き出さうと必死になつてゐたソオルは、可成りがつかりした樣子だつた。が、その辻自動車に乘つて來たといふだけでも正に絶好の手掛りだつた。  次の刹那、ソオルは電話器に飛びついて、グスタフソン警視を呼び出し、いろいろの發見や自分の斷案をてきぱきと語り傳へた。すると、今度は警視の方で何か話し出した樣子だつたが、ソオルの顏は急に緊張した。 「は、は、早速出掛けることにします。」  と答へて、ソオルは手荒く受話器を掛けるや否や部長に張番のことを命じ、ひどく氣ぜはしげな樣子で門口を出て行つた。     青天の霹靂  吹雪の夜、ソオルの乘つた警察自動車は十五分ばかりでストックホルムの中心地、上流人士の集ふ料理店テグネルの電光映え輝く玄關に横づけになつた。早速支配人に面會を求めると、優雅な音樂の響き漂ふ大食堂の方を眺めながら、ソオルは溜間の一隅で首を長くしてゐた。と、やがて支配人が姿を見せて、 「これはこれはソオル樣で? そのお品はたしかに事務室の方に保管してございます。」  案内されて事務室へはいると、机の上にハトロン紙で包んだ物が横たへてあつた。可成りな重さ、開いてみると、長さ半メートル餘の鐵の管で、綺麗に拭ひ取らうとした形跡が見えたが、端の方になほ血が殘つてゐた。 「三十分ほど前でしたか、殿方の手洗所でこの品を見つけましたんで‥‥」  と言つて、支配人は誰が持つて來たものか誰がそこに置いたのか、給仕人達も手洗所の番人も一向氣が附かなかつた由を説明した。 「切斷したばかりの新品だな。」  と、ソオルは愼重に管を調べながら、 「それにこの包紙はたしかにこいつを買つた店の物だね。こりやア調べがつくぞ。一つ電話を貸してくれ給へ。」  ソオルは再度グスタフソンを電話口に呼び出して發見品のことを報告した。すると、警視はまた何かの命令を與へたらしかつた。 「畏りました。わたくしから十分御注意なさるやうにお傳へしませう。」  と答へて、ソオルは管の指紋と包紙の出所を調べることを警視に依頼した。  數分の後、ソオルを乘せた自動車はまだ鎭まらぬ吹雪を衝いてストツクホルムから程近い有名な大學都市のウプサラへ再び急いでゐた。そこには殺された百萬長者の後嗣で、貴公子風な若男爵のフレデリック・フオン・シイドウが學生生活を送つてゐる。その青年を殺人狂の毒手から守ること、その口から何か犯人の手掛りを掴むこと、それがグスタフソンのソオルに與へた命令だつた。  二十分ほどで自動車はウプサラ警察署の前に止まつた。そして、緊張の面持でソオルが署長室へ駈け込んだその時、署長のエリクソンはちやうど受話器を掛け降した所で、 「ただ今若男爵のをられる場所を部下から報告してまゐりましたんです。」  と、署長は早速自分から口を切つて、 「實はお住居の方においでがないんで少々氣をもんでをりました所、若夫人と御一緒にヂレツト・ホテルで御晩餐中と分りました。何でも御友人方と賑かなお集りださうで、わたしが參るまでお父上の御最後に就いてはお聞かせするなと命じて置きました。すぐにお伴してあちらへ參りませうか?」 「よからう‥‥」  と頷いて、ソオルは署長が外套を着るのを待つてゐた。そして、あはや二人が出掛けようとした刹那、けたたましい電話の鈴! 「警部殿へです。」  さう署長に言はれて、受話器を受け取るなり耳に當てたが、向ふはグスタフソン警視でその聲は凄まじいばかりの興奮に殆ど聞き取れないほどだつたが、ソオルの顏は忽ちさつと灰白色に變つてしまつた。 「な、何事ですかつ?」  と叫んで一歩前に出た署長を制しながら、暫く貪るやうに耳を傾けてゐたソオルはやがてがちやんと受話器を降すと、聲ひそめて、 「ヂレツト・ホテルへ急行だ。一刻も猶豫はならん。正に青天の霹靂‥‥」     死の接吻  ウプサラ社交界の華ヂレツト・ホテル、裝飾電燈輝く溜間には夜の裝ひを凝らした紳士淑女の群、その玄關先に自動車を乘り捨てたソオル主任警部とエリクソン署長は外套を預所に置くと、すぐ支配人に面會を求めた。 「若男爵御夫妻はただ今大食堂の方においででございます。御友人六名樣と‥‥」  慇懃にさう言つて、支配人は二人を早速大食堂の入口へ案内して行つた。と、折柄ダンスの一くさりが終つたばかりで、亞麻色髮の若男爵フレデリックはその踊相手と、黒髮の持主の美しい夫人のイングンは夫の友達の一人と、何れも自分達の食卓に戻る所だつた。そして、その食卓の上には大きな花鉢に盛られた赤い薔薇が鮮かな色に映えてゐた。 「若男爵にここへお出で戴きませうか?」  支配人がさう尋ねると、ソオルはちよつと躊躇の色を見せたが、とにかく一人の紳士がお眼に掛かりたいから、その邊に小部屋はないかね?」 「ございますとも、あすこに‥‥」  ソオルとエリクソンは溜間を横切つてその方へ歩いて行つた。一方支配人はフレデリックの食卓に近寄ると、ソオルの詞のままをその耳元に囁いた。 「ふふん‥‥」  と、フレデリックは唇に微笑を浮べた。そして、食卓の向ふ側にゐる妻の不審げな眼差をじろりと眺めやりながら、 「誰かが僕に會ひたいんださうな。」  と、陽氣な調子で言つてひよいと立ち上つた。すると、イングンも立ち上り食卓を廻つて來て夫と腕を組み合せながら、 「あたしも一緒に行きますわよ。」  そのまま輕い足取で溜間へ出て來た若男爵夫妻の姿を見ると、支配人は指差しながら、 「あすこの部屋にお待ちでございます。」 「や、有り難う。」  と、フレデリックは輕く言つた。  その時、イングンは傍の椅子にぐつたりと腰を降した。とフレデリックはその脇に佇んで、微笑しながら暫く妻を見降してゐたが、やがて體をかがめるとその美しい顏をぐいと引き寄せて貪るやうに接吻した。そして、イングンの眞白い兩腕が夫の首筋にからむと見えたその一瞬時だつた「パアン‥‥」  と、轟然たる爆音。そして、フレデリックがすつくと立ち上つたかと思ふと、顳顬から眞紅の絲を引いてイングンの體は崩れるやうにその足下に倒れ伏した。  あたりは忽ち阿鼻狂喚の巷! 小部屋から躍り出したソオルとエリクソンは、烟の出てゐる拳銃を手にして刹那に息絶えた妻の傍に突つ立つてゐるフレデリツクの方へまつしぐらに駈け寄つた。と、なほも靜かな微笑を浮べながら、いきなり拳銃を顳顬に當てると、フレデリツクは一度、二度引金を引いた。恐怖の靜寂、その丈高い體は急にぐらぐらと搖れて妻の體に折り重つて倒れてしまつた。     悲しき宿命  七つの殺人と一つの自殺、かくしてシイドウ・ゼッテルベルグ事件は恐ろしい大團圓を告げた。若男爵フレデリック・フオン・シイドウこそ正しくその兇惡な犯人だつた。  それにしても、この慘劇は何故に起つたのか? これより先フレデリックはゼッテルベルグから多額の金を借りたが、期限が來ても返濟しないので、老人は老男爵に苦情を申し出た。當然來た父の劇しい叱責、その動機を作つたことに狂暴な怒りを發して、フレデリックは先づ老人一家を慘殺してしまつた。而も、警察の手を遁れようと必死になつて、海の彼方コペンハアゲンの或るホテルに妻との部屋の豫約までしてあつたが、先立つ物は何より金、結局若男爵夫妻は父の金を盜出さうとした。戰慄すべきことに、まかり間違へば父殺しさへ敢へてするつもりで‥‥。  或る町角から兇器の管を買つた金物店、更に半時間餘待たされた北マラアストランド街のアパアトメント・ハウス、最後に料理店テグネルへと、まるで死の使ひのやうな二人を乘せた辻自動車運轉手のエドヴインソンが探し出された時、事件は急展開して意外な犯人の追跡となつたが、ヂレツト・ホテルで拳銃所持を警戒したソオル達が小部屋へ誘ひ出さうとした時、二人は早くもその意味を感づいて一緒に死ぬといふ最後の目的を見るも鮮かに仕遂げたのだつた。  ウプサラ署の死體收容室でイングンの體から絢爛たる銀色の夜會服を脱いでみると、言ふまでもなくその下は下袴をまとはぬ素肌だつた。若男爵とお揃ひで赤い薔薇と三鞭酒と血潮に飾られた贅澤な最後の晩餐へ急ぐ身には、下袴を著け換へるのも面倒臭かつたのであらう。そして、それと並んで横たはつたフレデリックの體を調べてみると、果然、その懷中に多額の金のはいつた老男爵の紙入が潜めてあつた。  ともあれ、すべては血に燃え、肉慾に狂ふ、放逸な若人達の織りなした一つの悲劇だつた。フレデリックもイングンもスウエーデン貴族社會の甘やかされた子供達で、共にウプサラの大學に學んでゐたが、不良な道樂者のお先棒だつた。無論、教室よりも夜倶樂部の御常連で、爛れた歡樂の擧句に懷胎を知るとイングンはその子の父親がフレデリツクであることを臆面もなく兩親に打ち明けた。  名望ある兩家は色を失つた。そして、協議の後、こつそりイタリイ行きの汽船に乘せられ、二人は向ふで結婚の式を擧げたが、花嫁は間もなく女兒を産んだ。然し、二人はすぐにウプサラへ舞ひ戻つて以前に變らぬ逸樂の生活をつづけてゐたが、老男爵がまるで燒石に水のやうな金の流れをせき止めた時、二人は借金の味を覺え出したのだつた。  さりながら、フレデリックは畢竟悲しき宿命の子だつた。慘劇の三月ほど前、住居に起つた突然の火災、火を烟に卷かれながらも二階の窓から飛び降りて危く遁れた。が、腦震盪を起して人事不省のまま二三週間生死の境をさまよつてゐた。そして、やつと回復はしたが、腦を痛めたか、時々盲目的な憤怒や途方もない慾情の發作に襲はれるやうになつてしまつた。  若樣育ちの一遊蕩兒が身の毛もよだつやうな兇猛な殺人鬼と變つた眞の原因は、傷ましくもそこに潜んでゐたのだつた。 ──をはり── 底本:「文藝春秋 七月特別號」文藝春秋社    1936(昭和11)年7月1日発行 ※「ゼッテルベルグ」と「ゼツテルベルグ」の混在は底本通りとしました。 ※「支配人がさう尋ねると、ソオルはちよつと躊躇の色を見せたが、とにかく一人の紳士がお眼に掛かりたいから、その邊に小部屋はないかね?」」に、はじめ鍵括弧がないのは、底本通りです。 入力:小林 徹 校正:松永正敏 2003年12月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。