明治の文学の開拓者 ──坪内逍遥── 内田魯庵 Guide 扉 本文 目 次 明治の文学の開拓者 ──坪内逍遥──  坪内君の功労は誰でも知ってる。何も特にいわんでも解ってる。明治の文学の最も偉大なる開拓者だといえばそれで済む。福地桜痴、末松謙澄などという人も創業時代の開拓者であるが、これらは鍬を入れてホジクリ返しただけで、真に力作して人跡未踏の処女地を立派な沃野長田たらしめたのは坪内君である。  有体にいうと、坪内君の最初の作『書生気質』は傑作でも何でもない。愚作であると公言しても坪内君は決して腹を立てまい。私が今いうと生意気らしいが、私は児供の時からヘタヤタラに小説を読んでいた。西洋の小説もその頃リットンの『ユーゼニ・アラム』を判分教師に教わり教わりながらであるが読んでいた。(これが私の西洋の小説を読んだ初めで。)であるから貸本屋の常得意の隠居さんや髪結床の職人や世間普通の小説読者よりは広く読んでいたし、幾分かは眼も肥えていた。であるから坪内君の『書生気質』を読んでも一向驚かず、平たくいうと、文学士なんてものは小説を書かせたら駄目なものだと思っていた。格別気にも留めずにいた。その時分私の親類の或るものが『書生気質』を揃えて買って置きたいからって私に買ってくれといった時、私はあんなツマラヌものはおよしなさい、アレよりは円朝の『牡丹燈籠』の方が面白いからといって代りに『牡丹燈籠』を買ってやった事がある。『牡丹燈籠』は『書生気質』の終結した時より較やおくれて南伝馬町の稗史出版社(今の吉川弘文館の横町)から若林玵蔵氏の速記したのを出版したので、講談速記物の一番初めのものである。私は真実の口話の速記を文章としても面白いと思って『牡丹燈籠』を愛読していた。『書生気質』や『妹と背鏡』は明治かぶれのした下手な春水ぐらいにしか思わなかった。  私のような何にも知らないものさえ実はこの位にしか思わなかったのだから、その当時既にトルストイをもガンチャローフをもドストエフスキーをも読んでいた故長谷川二葉亭が下らぬものだと思ったのは無理もない、小説に関する真実の先覚者は坪内君よりは二葉亭であるといっても坪内君は決して異論なかろうと信ずる。私は公平無偏見なる坪内君であるが故に少しも憚からずに直言する。  けれども『書生気質』や『妹と背鏡』に堂々と署名した「文学士春の屋おぼろ」の名がドレほど世の中に対して威力があったか知れぬ。当時の文学士は今の文学博士よりは十層倍の権威があったものだ。その重々しい文学士が下等新聞記者の片手間仕事になっていた小説──その時分は全く戯作だった──その戯作を堂々と署名して打って出たという事は実に青天の霹靂といおう乎、空谷の跫音といおう乎、著るしく世間を驚かしたものだ。  自分の事を言うのは笑止しいが、私は児供の時から余りアンビションというものがなかった。この点からいうとよほど馬鹿だった。それ故大学を卒業して学士になろうなどという考は微塵もなく、学士というものがどれほどエライものであるか何かそんな事は一向念頭になかった。であるから『書生気質』や『妹と背鏡』を見て、文学士などというものは小説が下手なものだと思ったばかりであるが、親だとか伯父だとかが私が小説に耽溺するのを頻りに喧ましくいって「下らぬ戯作などを読む馬鹿があるか」と叱られるたんびには坪内君を引合に出しては「文学士でさえ小説を書く、戯作戯作と軽蔑するようなものではない」というと、親や伯父は文学士をエライものだと思ってるから聊かヘコタレの気味であった。  こんなわけで「文学士春の屋おぼろ」というものは非常な権威があった。かつ坪内君は同時に小説論をしばしば書いた。後の『小説神髄』はこれを秩序的に纏めたものだが、この評論は確かに『書生気質』などよりは重かった。世間を敬服さした。これも私は丁度同時にバージーンの修辞学を或る外国人から授かって、始終講義を聞いていた故、確かにその一部をバージーンから得たらしき(坪内君には聞いて見ないが、)『小説神髄』を余りに驚かなかったが、シカシ例証として日本の作物を挙げて論じられた処は面白くも読みかつまたお庇で蒙を啓いた処もある。二葉亭はこの『小説神髄』に不審紙を貼りつけて坪内君に面会し、盛んに論難してベリンスキーを揮廻したものだが、私は日本の小説こそ京伝の洒落本や黄表紙、八文字屋ものの二ツ三ツぐらい読んでいたけれど、西洋のものは当時の繙訳書以外には今いったリットンの『ユーゼニ・アラム』だけしか知らず、小説論如きは皆目解らなかったから、『書生気質』こそ下らぬものだと思っていたが『小説神髄』には大分お庇を蒙むった。  その後私は一年ばかり専門学校に籍を置いた事がある。坪内君、大阪朝日の土屋君、独逸のドクトルになってる渡辺龍聖君なぞと同時代だった。尤も拠ろない理由で籍を置いたので、専門学校の科程を履修しようというツモリは初めからなかったのだから、籍を置いたというだけで、殆んど出席しなかったが、坪内君の講義はその時分評判であったゆえ数回聞いた事がある。であるから坪内君は私の先生ではあるが、多勢の聴講者の中に交ってたッた二、三回しか講義を聞いただけの頗る薄い関係であるし、平生先生呼ばわりをされる事が嫌いな人だから一度も先生といった事はないけれども、たしかに明治二十二年頃の初対面以後今日まで始終往来して少からずお世話になってる。実に親切な人だ。親身になって世話をしてくれる。私はお世話になったが、お世話を甘受しなかった事もあるから、事に由ると世話甲斐のない男だと思われてるかも知れぬがシカシ心中では常にお世話になった事を感謝しておる。故二葉亭に関する坪内君の厚情は実に言舌を以て尽しがたいほどで、私如きは二葉亭とは最も親密に交際して精神上には非常に誘掖されてるにも関わらず、二葉亭に対していまだかつて何も酬うておらぬ。坪内君に対して実に恥入る。かつまた二葉亭に対して彼ほど厚情を寄せられるのを深く感謝しておる。  話は見当違いに飛んで終ったが、坪内君の世間に及ぼした勢力は非常なもので、いやしくも文芸に興味を持った当時の青年は、「文学士春の屋おぼろ」の名に奮起して身を文壇に投ずる志を立てた。例えば二葉亭の如き当時の造詣はむしろ坪内君を凌ぐに足るほどであったが、ツマリ「文学士春の屋おぼろ」のために崛起したので、坪内君莫かっせばあるいは小説を書く気には一生ならなかったかも知れぬ。また『浮雲』の如き世論『書生気質』以上であるが、坪内君の合著の名でなかったなら出版する事は出来なかったのだ、出版しても恐らくアレほどに評判されなかったろう。  尾崎、山田、石橋の三氏が中心となって組織した硯友社も無論「文学士春の屋おぼろ」の名声に動かされて勃興したので、坪内君がなかったならただの新聞の投書ぐらいで満足しておったろう。紅葉の如きは二人とない大才子であるが、坪内君その前に出でて名を成したがために文学上のアンビションを焔やしたのでさもなければやはり世間並の職業に従事してシャレに戯文を書く位で終ったろう。従来片商売として扱われ、作者自身さえ戯作として卑下していた小説戯曲などが文明に貢献する大なる精神的事業である事を社会に認めしめたのは全く坪内君の功労である。  坪内君はイツでも新らしい道を開く。劇の如きも今日でこそ猫も杓子も書く、生れて以来まだ一度も芝居の立見さえした事のない連中が一と幕物を書いてる。児供のカタゴトじみた文句を聯べて辻褄合わぬものをさえ気分劇などと称して新らしがっている事の出来る誠に結構な時勢である。が、坪内君が『桐一葉』を書いた時は団十郎が羅馬法王で、桜痴居士が大宰相で、黙阿弥劇が憲法となってる大専制国であった。この間に立って論難批評したり新脚本を書いたりするはルーテルが法王の御教書を焼くと同一の勇気を要する。『桐一葉』は勿論『書生気質』のようなものではない。中々面白い。花見の夢の場、奴の槍踊の処は坪内君でなくてアレほど面白く書くものは外にあるまい。が、今日坪内君はこれを傑作とも思うまいし、また坪内君の劇における功労は何百年来封鎖して余人の近づくを許さなかったランド・オブ・シバイの関門を開いたのであって『桐一葉』の価値を論ずるが如きはそもそも末である。  早稲田における坪内君の功蹟は、左も右くも文壇に早稲田派なるものがあって、相応に文学に貢献もすれば勢力も持ってる一事が明白に証明しておる。これ以上一語を加うる必要がない。早稲田大学は本と高田、天野、坪内のトライアンビレートを以て成立した。三君各々相譲らざる功労がある。シカシ世間が早稲田を認めるのは、政治科及び法律科が沢山の新聞記者や代議士や実業家を輩出したにも関らず、政治科でも法律科でもなくて文学科である。何といっても日本の最高学府たる帝国大学に対しては民間私学は顔色なき中に優に大学と拮抗して覇を立つるに足るは実業における三田と文学における早稲田とで、この早稲田の文学をしてシカク威力あらしめたるは一に坪内君の功労である。文部大臣が三君の中先ず第一に坪内君を擢んで報ゆるに博士の学位を以てしたのは推薦者たる大学もまた坪内君の功労を認めざるを得なかったのであろう。下らぬ比較をするようだが、この三君を維新の三傑に比べたなら高田君は大久保甲東で、天野君は木戸である。大西郷の役廻りはドウシテモ坪内君に向けなければならぬ。坪内君がいなかったら早稲田は決して今日の隆盛を見なかったであろう。  文芸協会の成功は更に一層明白な事実である。腹蔵なくいえば文芸協会の芝居がそれほど立派なものだとは思わぬ。少くも見物してそれほど面白いとも思わぬ。沙翁劇にしろイブセンにしろ、本を読んだ時に与えられた以上の印象を受けたという事は出来ぬ。私は坪内君が諛辞を好む人でない事を知ってるから少しも憚らずに直言する。シカシ世間に与えた感動は非常なもので、大多数は尽くヒプノタイズされてしまって、紅隈の団十郎が大眼玉を剥いたのでなければ承知出来ぬ連中までが「チンプンカンで面白くねェ、馬鹿にしてやがる」といいながらも一種の暗示を与えられてこれを迎えずにはいられなくなってしまった。坪内君の威力はエライものだ。これが時勢であろうけれども、この時代の汐先きを早くも看取して、西へ東へと文壇を指導して徐ろに彼岸に達せしめる坪内君の力量、この力量に伴う努力、この努力が産み出す功労の大なるは誰が何といっても認めなければならぬ。  近来はアイコノクラストが到る処に跋扈しておるから、先輩たる坪内君に対して公然明言するものはあるまいが、内々では坪内君の文学は自分等とは交渉しないナドトいってるものもあるかも知れぬが、坪内君が新らしい文学の道を開いてくれなかったなら今日の文学はこれほどまでに進歩しなかったかも知れぬ、諸君のようなアイコノクラストが沢山生じたのは即ち飛りも直さず坪内君の功労である。坪内君は明治の文学の大いなるエポック・メーカーである。 底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店    1994(平成6)年2月16日第1刷発行    2008(平成20)年7月10日第3刷 底本の親本:「新潮」    1912(明治45)年1月初版発行 初出:「新潮」    1912(明治45)年1月号 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。