船路 田山録弥 Guide 扉 本文 目 次 船路  大華表の下には既に舟の支度で出来て、真中の四布蒲団の上に、芝居で使ふやうな小さな角な火鉢が置かれてあるのをかれは目にした。  それは最早夕暮に近かつた。向うの長い丘には、まだ夕日の影が微かにさし残つてはゐたけれども、冬の日脚の短かさ、それも忽ち消えてなくなつて了ふであらうと思はれた。かれは急いで船に飛び乗りながら、 『日のある中に、潮来までは行けるかね?』 『さうですな。』まだ比較的若い船頭は、船尾のところで徐かに綱を解いてゐたが、仰ぎ見るやうにして、『何しろもうお天道さまがあんなところにゐますからな。暮れますな? 何うしても……』 『それでも半分くらゐは、明るい中に行かれるだらう?』 『さうですな。』  正木は其時は既に四布蒲団の上に坐つて、傍にあつた小ざつぱりした木綿のどてらを角火鉢の上にかけてゐた。 『好いだらう? このどてら借りて?』 『好う御座んすとも。』  船頭は素直に点頭いた。 『何しろ、この頃の寒さではね? 船はちよつと物好だつたけども、汽船が六時過ぎでなくつてはやつて来ないつていふからねえ。』 『その六時も何うだかわかりませんや。何しろ、此頃の寒さで、氷が張つちやつたでね? さつき此処に来た汽船が、いつもなら鉾田まで行つて、今夜は泊りになるだが、そこまで入れねえで引かへして来るだでな? 何うしても二時間や三時間はおくれらア……』  軽い動揺を感じたと思ふと、船はもはや岸を離れて、五六間湖上に浮び出してゐた。船頭は頻りに竿を突張るやうにした。 『えらい寒さだね? 今年は!』  正木は言つた。 『本当でさ! こんなことは、何年にもありやしませんや。わしら覚えてから始めてでさ。大正六年にも少しは張つたには張つたが、こんなぢやねえ。横利根は丸で氷で張詰めてるつていふぢやねえか?』 『汽船もその氷を壊し壊しやつて来たんだよ。』 『ぢや、おめさん、さつきの汽船で来たんだな? 鹿島さまけえ?』 『うむ、ちよつとお詣して来た。もう度々来るには来たんだけども──』かう言つた正木の眼には、さつき汽船から上つてからのことが歴々と浮んで来た。車が検査で皆な鹿島の町の方へ行つてゐて、此処には一台もないと言ふので、仕方なしにあの長い阪を登つて歩いて行つた。そこには蓮の枯れた池があつたり、刀の研師の看板の出てゐる家があつたりした。阪の上から振返つた時には、思はずかれは立留つて声を立てた。そこからは、午後の日影に半ば照された北浦が手に取るやうに見えた。  鹿島の町ではもとそこの神宮の禰宜をしたことのある人が死んで、今、葬式が出るところだとか言つて、細い通りに大勢人が羽織袴で集つて立つてゐるのをかれは目にした。かれはさびしい気がした。自分も一度はあゝいふ風にして人々に送られるのだなと思つた。正木はこれまでに既に世間の辛酸を十分に甞めて来てゐた。髪ももう半ばは白くなつてゐた。鹿島の祠は寂寞として日影が樹間から線を成して斜にさし込んでゐるのを見たばかりであつた。  帰りに、かれは阪の中途の左にある根本寺に寄つて見る気になつた。かれは十年ほど前に、そこの住職のCが古蹟保存でかれの家にも寄附を頼みにやつて来たことを思ひ起した。是非そつちへ来たら寄つて呉れと言つたことを思ひ起した。⦅こんなところか? 此処が根本寺か? 芭蕉がやつて来て滞在してゐた寺が?⦆かう思ふとかれはなつかしくなつた。ちよつと寄つて見やうと思つた。Cが居れば面白いと思つた。しかし心の中では、もう長い月日が経つてゐることではあるし、Cとて一度か二度しか逢つたことはないのだから、ゐないかも知れないし、ゐても忘れてゐるかも知れないと思つた。しかしかれは入つて行つた。  ところが、何うだ! そこにそのCがゐたではないか。今ではこの破れ寺は弟子に譲つて、自分は土浦のある寺に住職をしてゐるのであつたが、そのCが、矢張かれと同じ汽船で、もう少しさつきやつて来たところだと言つて、驚き喜んでかれを迎へ入れたではないか。そしていろいろな寺の宝物を見せて呉れたではないか。『貴方に今、お目にかゝらうとは思はなかつた。これも仏縁だ! 是非ゆつくりして呉れ!』かう言つて喜んで引留めたではないか。現に芭蕉の書いた日記なども見せて呉れたではないか。否、Cはかれの頭の白くなつたのを見て、『貴方も矢張お年をお取りになりましたな!』と言つてそれをその身に引きくらべるやうにしたではないか。これにも人生はなかつたか。忽ちすぎ去つて了ふ人生はなかつたか。  向うの丘の上に次第に消えて行く夕日の影をかれはじつと見詰めた。  だしぬけにかれは訊いた。 『さつきのは、お前の子かね?』 『何れな?』  まだ竿で漕いでゐる船頭はかう反問した。 『そら、さつき、船に乗る時、船を押してた?』 『あれかな? あれはそぢやねえ……』 『でも子はあるにはあるね?』 『俺か? さうかな、さう見えるかな?』船頭は笑つた。 『二人ぐらゐあるだらう?』 『さうかな?』  船頭は竿を捨てて櫓を小さく押し出した。  振返ると、大きな華表も、華表の傍の旅籠屋も、その向うに長く連つてゐる丘も、いつか遠く遠くなつて来てゐた。湖は渺漫として濶く、銀色をした水の上には、一帆の影すら見出すことが出来なかつた。岸には芦荻の枯れたのが疎らに残つてゐるのが見えた。 『あそこの宿屋の若夫婦は何うだね? 仲が好いかね?』 『よく知つてるな? 旦那──?』 『それは知つてるさ。』 『だつて、旦那は東京ぢやねえか?』 『東京だつて知つてるさ。』正木は笑つて、『子供が出来たやうかね?』 『出来た──』 『実際田舎にはめづらしいな。あの上さんは?』 『だから、おつ惚れて来たゞよ。養子が──。何も、あんな宿屋になんか来ねえだつて好いのに……。おつ惚れたでな……』 『さうだつてな?』 『この向うのな?』若い船頭は下の方を指して、『Hといふところの物持の次男だアな……。早稲田の学校に行つてゐたゞアよ……』  しかしさうした話も、長く興味を繋いでゐるわけには行かなかつた。北浦から横利根へと次第に狭く入つて来るにつれて、船頭もMも黙つて了つた。次第に日は暮れつゝあつた。延方の丘の上には星がキラキラと光つた。  幸ひなことには、その火鉢には桜炭の大きいのが入れられてあつた。それは行つても行つても暖かであつた。容易に消えやうとはしなかつた。否あまりに木の縁があつくなるので、時にはどてらを上に持ちあげるやうにしなければならなかつた。  櫓の音につれて静かに静かに船は動いて行つた。もう全く薄暮だ。遠くの丘や森は夕闇の中に半ばは見えなくなつて了つた。濶々とした北浦はいつか後に、次第に川らしい感じになつて来た。氷の塊のそここゝに動いてゐるのが微かに見えた。  かれはまた話し出した。 『船頭さんなんか、のんきで好いな?』 『さうかな? さう見えるかな?』 『かうして船さへ漕いでゐれば好いんだからな……。別に、心配といふこともないだらうからな?』 『さうでねえぜ!』 『矢張、心配があるかね?』 『それは同じこんだな……。矢張、その日その日を送らねえぢやならねえでな?』 『子供はいくたりだね?』かれは再びその問を繰り返した。 『三つになるのが、一人ゐるがね……。それつきりだアよ。』 『ぢや、まだ上さんが可愛い盛りだね?』 『さうでもねえな。』  船頭はにや〳〵笑つた。 『上さんの可愛い時分が一番好いよ……。その時分には、どんなにでも稼ぐ気になるからね?』 『もうそんな時代は通り越して了つたよ……。矢張、ひとりでゐた時分の方が面白いな。何処に行かうと、勝手だでな。その時分にはな、一週間も十日も家に帰らねえでゐることがあるだア。米を一二升持つてせいゐりやな、金なんか一文なくつたつて好いだで。稼いぢや飲んで了つたもんだアな。何アに、銭がねえけりや、船の中に寝てるだ。一日でも二日でも……。そして稼ぎたくなれば稼ぐだ。あの時分はのんきで好かつた。』 『ぢや、この船の中に寝ることはよくあるんだね?』 『それはあるどころぢやねえ! 今夜だつて、この船の中に寝るだアよ。』 『寒くないかね?』 『ちつとも寒くねえ! 暖けえだよ。これでな、苫を葺いて、その中に寝るだが、内で寝るより余程暖けいな。』 『それはのんきで好いな。』 『だから、ひとりの時は、三日も四日も帰らねえ。佐原でも、牛堀でも、潮来でも、息栖でも、津の宮でも、行きあたりばつたりに寝て了ふだよ。そして、一週間も経つと、お袋が心配してゐべいなんて思つて、それでやつと帰つて行く気になるだが、今はさうは行かねえな。』 『そこが上さんの可愛いところぢやないか?』  正木は笑つて見せた。 『さうさ、さういへば、さうかも知れねえな? 昔は金は取りせいすりや使つて了ふものとばかり思つてゐたが、今ぢや、使はずに、家に持つて行く気になるでな……。しかしつまんねえな? 矢張、昔の方が面白いな。』 『それで、船は何ういふところに置くんだね? きまつた場所があるのかね?』 『きまつたところなんかありやしねえだよ。何処だつて構ふことはねえだ。ところがな、ある時かういふことがあつただ……』かう言つて船頭は話し出した。その話すところに由ると、潮来で遊んで閘門の傍に繋いで置いた自分の船に帰つて来たまでは覚えてゐるが、あとは知らない、ちつとも知らない……。丁度五月ごろのことであつたが、翌朝目を覚して見ると、船は何処ともわからないところに来てゐる。芦荻がある。土手がある。日が当つてゐる。びつくりしたが、何うしてもわからない。『段々考へて見ると、あんな馬鹿なことはない、息栖のちよつと此方の方まで流されて来てゐたんだからな!』 『潮の加減かね?』 『いや、潮は此処まではさして来ねえがな。北利根があれで流れが迅いでな。』櫓の音は頻りにあたりに響いてきこえた。船は絶えず動いて行つた。 『旦那、今夜は潮来へ泊つて、明日は何うするだな?』  かう船頭は訊いた。もうすつかりあたりは夜になつて了つてゐた。岸の灯がちら〳〵と長く水に落ちて伸びたり縮んだりしてゐた。  かれ等は氷の塊の中を辛うじて通つて来た。砕けた氷塊の流れにつれて触れ合ふ音は、何のことはない、岸に虫でも鳴いてゐるやうな感じであつた。カラ、カラ、カラ、カラ──さういふ風にきこえた。さういふところをかれ等は漕いで通つて来た。  もう少し手前で、かれ等はこんな話をした。 『まだかね? 潮来は?』 『もうぢきだ。もう十町とねえ!』 『中々遠いね?』  船頭はその返事をせずに、 『火が消えたかな? 旦那?』 『いや、まだある!』  かれ等はまた黙つて了つた。正木の吸ふ煙草の火がをりをり赤く夜の闇の中に見えた。しかし其処等に来ると、あちこちから帰つて来る船が急に多くなつて、あとからあとへと櫓の音が軋つた。あとから来てグングンかれ等の船を追ひ越して行くものなどもあつた。岸の人家の影は黒く水に落ちて、櫓に由つて起された波と一緒に大きくなつたり小さくなつたりした。時には赤く竈の火を燃してゐるのなどもあつた。『オイ、栄ちやんぢやねえか? 何うした? 今、来たんか?』後からかう声を懸けて二挺櫓で追越して行くのなどもあつた。『旦那、あゝいふ連中でさ! 五日も六日も家に帰らねえのは?』遠くすれ違つてから、船頭はこんなことを正木に言つた。 『え? 旦那?』  かれが黙つてゐるので、船頭はまた聞きかへした。 『さア、何うしようかと思つてるんだ? 息栖に行つて、あそこで汽船を待つて、銚子に行かうとも思つてゐるし、それともまた霞ヶ浦の方へ出て了はうかとも思つてゐるんだ?』 『息栖、行くなら、おら、お伴しても好いがな? 明日──』 『今夜、帰らないのか?』 『泊つて行くだ、今夜は?』 『好いところがあると見えるな?』 『なアにさ……』船頭は笑つて、『こゝに寝るだよ……』 『息栖に行くやうだツたら、また世話になるがね? 本当にまだそれときまつてゐないんだから、そのために引張つて置くは気の毒だな。』 『いや、何うしても泊るだよ、此処に!』船頭はかう言つて、『貴方が行かねえけりや、積んで行く荷物もあるでな──』 『それなら、さうしやう──大抵は息栖の方に行くよ。』  もう仙台河岸はとうに通つた。家屋の黒い影と、灯の明るく水に落ちてゐる影とが次第に多くなつて行つた。河楊の空しい枝や、枯れた芦荻の夜風に戦いでゐる傍に、大きな船の碇泊してゐるのが二つも三つもあらはれ出して来た。黒い船体の底深く灯が覗かれるやうなのもあつた。  急に夜の静かな水を渡つて太皷の音がきこえて来た。 『やつてるね?』 『旦那は何うです?』  船頭は笑ひながら言つた。 『さうだな、五六年も前だとな。あゝいふ音をきくと堪らなかつたもんだけどもな。もう今は駄目だな! あゝして騒いでゐても、せいぜい二時間か三時間だ! とすぐさう思ふからね!』 『本当ですね、考へちや、あゝいふことは出来ませんな!』  しかしその音はいかにも水郷の狭斜らしい感じをかれに誘つた。闇を透してさういふ家々の灯の連つてゐるさまがはつきりとかれにも想像されて来た。曾て十年以前に一度見たことのある菖蒲踊のさまなども思ひ出された。  やがて閘門の形が黒く夜空の中に見えたと思ふと、船はぐるりと廻つて、その中へと入つて行つた。船頭の手には長い竿があつた。 『もう来たね?』 『来ました!』  船は静かに閘門を通過して行つた。と、箒を倒さに立てたやうなポプラの並木がずつと闇につゞいて、やがて狭い狭い河岸のやうなところへと入つて行つた。橋の下を通つてゐるのが夜目にもそれとわかつた。  河岸に来ると、急にあたりが明るくなつた。それは他でもなかつた。そこらに灯が沢山にあるからであつた。灯に明るくかゞやいてゐる二階屋が二軒も三軒もあつた。  しかもそこには船が既に多く碇泊してゐた。何処からも上陸することが出来なかつた。船頭は為方がなしに、『こつちにしませう!』と言つて、また橋の下を潜つた。辛うじて船を岸につけることが出来た。船頭はかれを旅舎に導くべく先に立つた。  翌朝早く眼を覚した正木は、三階の雨戸をガラガラと開けた。それは冬でなければ見ることの出来ないといふやうな美しく冴えた朝であつた。水郷の到るところに残雪が白くかたまつて残つてゐて、横利根から北利根の方までずつと一目に見わたされた。香取の方の丘の上には、朝炊の煙の静かに颺つてゐるのが指さゝれた。  横利根は狭く、丸で帯でも流したやうであつた。あれが昨夜通つて来たところかと思はれるばかりに、露はに且つ手近く人家や川や船や橋が混雑と一かたまりになつて見えてゐた。昨夜くゞつて来た閘門はすぐそこにあつた。  順序として、かれの眼は、すぐその下にある船の混雑と集つてゐる河岸の方へと落ちた。そこには少くとも七八隻の船が仮泊してゐた。新しい苫の上に朝霜が白く置いてゐるのなども見えた。ある船からは、朝炊の煙が寒い空気の中に細々とのぼつてゐた。 ⦅あそこに、奴は本当に寝てゐるかしら?⦆こんなことを思ひながら、かれはその船頭の船を眼でさがしたが、橋近く、隅の方に押しつけられるやうになつて、半は苫を葺いてゐる船があつたが、それがその船であるらしかつた。かれは一種の面白さを感ぜずにはゐられなかつた。この水郷の狭斜街に来て、一人は旅舎の三階の一間に、一人は船の苫の下にひとしく相対して眠つたといふことは、奇蹟のやうな気がした。  もう一人の方の女中が船頭の来たことを知らせに来たのは、かれが朝飯を食つてゐる時であつた。 『あの息栖の方へいらつしやいますか何うですか、ちよつとうかゞつて来て呉れツて申すので御座いますが──?』 『あ、さう……? それぢやね、行くから、支度をして待つてゐるやうにツて言つてお呉れ?』  女中は下りて行つた。やがて勘定をすまして階段を下りると、そこに、その旅舎の店のところにその船頭は立つて待つてゐた。で、昨夜の河岸の方へと並んで歩きながら、『本当にあそこに寝たかね?』 『わしかね?』 『とても、あそこに寝てゐられなかつたらう? お馴染の一人や二人は此町にあるだらうからな?』  船頭は笑ひもせずに、 『なアに、寝やしたよ。ちよつと用があつて十一時頃までは他に行つてゐたけれども、帰つて来て寝やした……』 『その用ツていふのがあやしいんぢやないか?』 『なアに──』昨夜に比べていやに真面目な顔を船頭はしてゐた。 『飯は食つたんだらう?』 『あそこで、船の中で焚いて食ひやした……』 『寒かつたらうな、昨夜は?』 『なアに……』  かう言つて橋の下にもやつてゐる船の方へと行つた。見ると、そこはもうちやんと片附けられて、昨日と同じやうに四布蒲団の上に角火鉢が置いてあるのが眼に入つた。正木は下駄を脱いでそのまゝ船に乗つた。  昨夜の調子ならば、『何うでしたな? 旦那は? 廓へ行きましたかな?』とか何とか言ふ筈であるのに、今朝は何うしてか、全く口を噤んで、唯、此方の言ふことに受け答へするばかりであつた。やがて船は閘門を潜つて、昨日とは別に、北利根の方へとそのまゝ出て行つた。  寒い、寒い朝だつた。延方の丘の方から吹いて来る風は、ヒユウ〳〵と切るゝばかりに顔を掠めた。朝日が一面に川に、岸に、岸の楊に、黄い芦荻に、向うに動いて行つてゐる帆に照つてゐるにも拘らず、昨夜の船の中よりももつと寒かつた。どてらの下の角火鉢に手を遣つてゐても、それでもひとり手に胴震ひが出た。  少し出たところで、船頭は柱を立てた。つゞいて丸まつた帆布を船の底から出した。此方の紐と其方の紐とを結び合はせた。ぐつと引上げた。つぎはぎだらけの茶色をした帆が川風にはた〳〵動いた。  やがて船頭はその離れて動いてゐる綱を引張つて、舳先の方に行つて、それをそこに結びつけた。船は急に風を満面に受けて孕んだ。船はいくらか傾くぐらゐになつた。 『好い風だね?』 『少しならひ過ぎるがな?』こんなことを言ひながら、船頭は船尾のところに行つて急いで楫を取つた。今まで岸の方に曲りかけてゐた船は、急にひろ〴〵とした浪逆浦の方へとその進路を取つた。  正木は寒いので、そこにあつた、恐らく昨夜船頭が蒲団の上にかけて寝たであらうと思はれる二三枚の苫を取出して、それを屏風のやうにその後に立て廻した。そして風に倒されないために帆を張つた綱にそれを寄せかけた。と、急に、そこは暖かい山ふところのやうな形になつた。『これは好い、これなら上等だ──』こんなことを言ひながら、かれは今朝飲まずに持つて来た正宗の二合瓶をトンビのポツケツトから出した。 『何うだ、一杯?』 『難有う──』  船頭は寄つて来た。 『楫は大丈夫かね?』 『大丈夫でさ……』振返つて見て、『少し西になつたで──』 『帆だと、楽だな? これなら、ぢき行つて了うね?』  茶碗に波々と酒をついで貰ひながら、『旦那だから言ふがな? 昨夜困つちやつたゞ?』 『何うして? 矢張、何か事があつたんだな?』  顔を仰向けて、咽喉仏を見せて、茶碗の酒をぐつと船頭は呷りながら、『困つたにも何にも……何うしたら好いだか、本当に困つちやつた──』 『何うしたんだ?』 『泣かれちやつてな?』もう一杯ついで貰つたのを船頭はぐつと飲み干した。 『それぢや矢張、さうだつたんだね? 想像した通りだつたんだな?』  しかし船頭は笑ひもせず、またかれの軽い気分に誘はれもしなかつた。真面目だツた。 『しかし、何うもしやうがねえでな? おらには嬶があるしな、向うだつて、ちやんとした亭主があるで──』 『いよいよお安くないツていふわけだな?』  船頭は正木の顔を見て、『さういふんぢやないんだ……。その女、昔から知つてゐるだが……可哀相なんだ──亭主が三拍子揃つた道楽者だでな。』 『すつかり話し給へ? ポツ〳〵きいただけではよくわからないから?』 『なアに、それほどのことでもねえがな──』船頭は楫をギイと動して置いて、また此方へと来た。『その女ツ子、ちひせい時から知つてるだよ。それに、気も合つてただ。夫婦になるべいかなんて思つたこともねえぢやねえだよ。しかしな、丁度その時分にいろんなことがあつてな、喧嘩もしたゞよ、その女ツ子と……? それで、おらはおらで嬶を持つて了うし、向うは向うでな、今の亭主を持つただよ。』 『関係があつたのかね?』  正木は突込んで訊いた。 『それヤな……。若いもの同志だでな……。それにその時分は一緒になると思つてゐたでな?』 『それでまた昨夜ひよつくり逢つたツていふわけかね?』 『いや──何でもねえのよ。昨夜な、旦那を送つてな、それから、ひよくら思ひついて、何んなにしてるだらうと思つてな、行つて見たんだよ。あの河岸の炭問屋の上さんになつてるでな……』 『ふむ──』 『それもな、滅多にそんな気を起したことはねえだな。潮来には、月に五度も六度も来るだけども、丸で忘れたやうになつてゐたゞな。それが、何うしてだか、昨夕はひよつくり行く気になつた──』 『それで何うした?』 『亭主が女と賭博で、もう三日もゐねえツていふだよ。それにな、いろんな話をきかせられてな。おら、困つちやつた──何うして好いかわかんなくなつたゞ……』 『ふむ──』  正木はかう点頭いて見せた。かれはもう冷かしたり笑つたりするやうな軽い気持ではゐられなくなつてゐた。人生にはよくあることだ──ことに、子供が三歳になる時分には、よくあることだ。かうも思つたけれども、しかしさうした言葉は口から出て来なかつた。 『そしてな。女ツ子が言ふだよ、今更後悔してもしやうがねえけれど……何故、あの時、あんなことになつたかと言ふだよ……。さうかてな、今更何うにもならねえでな。』 『本当だな。』  正木は茶碗にまた酒をついでやつた。あとは残り少なになつた。  帆は満面に風を孕んで、舷側に波を立てながら、早く早く進んで行つた。もうそこは濶い濶い浪逆浦で、右には浮洲を隔てゝ香取の丘が見え、左には鹿島からやゝ南に下つてゐる神の池のあるあたりの樹木の多い丘陵が展げられて見えた。向うには、一本松あたりの人家が樹立に混つて湖の上に浮き出すやうになつてゐた。午前の日影はキラ〳〵と金属か何かのやうに美しく水に砕けた。 『旦那さ、何うしたら好いだな? さういふ時は?』 『………………?』  かれは何う返事して好いかわからなかつた。  それは昨夜は何の事なく帰つて来たに相違なかつた。あそこに寝たに相違なかつた。しかしその事を深かく考へたら、船頭は碌々寝られなかつたに相違なかつた。しかしそれは本当に何うして好いかわからない問題であつた。家庭を捨てゝ互ひに一緒になるといふことは、二人のために幸福であらうか、それともまた不幸であらうか、かれはつゞいて自分でもさうした恋の境を通つて来たことを思ひ起した。と、その時分泣いて別れた女の顔がぼんやりと浮び出して来た。しかし今はそれは何の印象をも、また何の感想をもかれに起させなかつた。当時は死ぬか生きるかの大きな創傷を総身に受けたに相違なかつたが、いつ治つたともなく治つて、今ではその痕跡をすら見出すことが出来なくなつた。否、そればかりではなかつた。かれはそれからもつと深い赤裸々な肉体的な恋の苦悩を苦しんで来たことを思ひ起した。生か死か。それどころではない、かれを殺してかの女を奪うか。それともその身がかの女のためにかれに殺されるか。さういふ境をもかれは通つて来た。振返つて見ても、危なかつた断崖がそここゝにあつた。よく無事で此処まで通つて来たものだと思つた。しかし、今はもう大丈夫だ……。もう恋の深淵の危い縁は通りすぎて来た。こんなことを思ひながら、かれはぼんやりしてゐた。  船頭は黙つて了つた。 『あれがさうだね。あの鳥居のあるところが息栖だね?』遠く小さくあらはれ出した華表を指して正木は訊いた。 『さうだア?』 『此方はもうすつかり船は通らなくなつて了つたんだね……?』 『河川の工事の都合で、利根川の水を向うに落すやうにしたでな?』 『僕等の若い時分には、こゝが利根の本水路で、息栖のあのお宮の前のところで汽船が留つたんだがな。賑かだつたがな。すつかりさびれて了つたね? 息栖は……?』 『昔の形はもうありませんや……』 『でも、宿屋はあるかね?』 『柏屋が一軒残つてゐますよ。あそこに行つてとまるものなんか、今はもうねえだでな。』 『さうだらうな……』  次第にその息栖の華表は大きくなつて行つた。樹立や、人家や、浮州の上に立てられた三角の屋根などもはつきりとして来た。帆の孕んだのが一つ、玻璃のやうな滑かな湖上を滑るやうにして通つて行つた。  ふと汽笛が微かにきこえた。正木が振返ると、香取の丘陵の下のあたりに、その汽船らしい煙がぽつかり日影に明るく照されて浮んでゐるのが見られた。 『下りが来た?』 『もう間に合はんな。あれが十一時のだな!』正木は時計を出して見て、『この次は何時だな?』 『二時だんべ?』 『大分間があるな!』  しかし何うすることも出来なかつた。もう少し早く今朝出て来れば好かつたことを思つたところで為方がなかつた。『まア、ゆつくり昼飯でも食ふだな?』こんなことを正木は言つた。  息栖のさびれたさまは、思つたよりもひどかつた。もうそこにはかゝつてゐる船もなければ、掠めて通つて行く帆影もなかつた。あれほど軒をつらねてゐた旅舎──汽船がつく度に、赤い襷や前垂れをして、揃つて客引に声を張りあげた女達も、ぞろ〳〵と船から下りて、先づ参詣にとお宮の方へ歩いて行つた人達も何もなかつた。唯、此処等から出来る荷物を包む筵をせつせと並べてゐる男達が二三人あるばかりであつた。全くさびれ果てて了つた。全く荒れ果てゝ了つた。もうそこには恋の色彩もなければ、賑かな三味線の音もなかつた。あの華表の傍にある有名な男甕女甕のあとさへすつかり埋れ尽して了つた。かれはこの荒廃したあたりのさまが自分のこの心の境涯にそつくりであることを思つた。で、かれはさびしく船頭と別れた。かれはこのつぎの下りの汽船の来るまで三時間もそこに待たなければならなかつた。 底本:「定本 花袋全集 第二十二巻」臨川書店    1995(平成7)年2月10日発行 底本の親本:「草みち」宝文館    1926(大正15)年5月10日 初出:「太陽 第二十八巻第四号」    1922(大正11)年4月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:津村田悟 2019年3月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。