吉良上野の立場 菊池寛 Guide 扉 本文 目 次 吉良上野の立場           一  内匠頭は、玄関を上ると、すぐ、 「彦右衛と又右衛に、すぐ来いといえ」といって、小書院へはいってしまった。 (そらっ! また、いつもの癇癪だ)と、家来たちは目を見合わせて、二人の江戸家老、安井彦右衛門と藤井又右衛門の部屋へ走って行った。  内匠頭は、女どもに長上下の紐を解かせながら、 「どうもいかん! また物入りだ! しょうがない!」と、呟いて、袴を脱ぎ捨てると、 「二人に早く来るよう、いって参れ!」と催促した。  しばらくすると、安井彦右衛門が、急ぎ足にはいって来て、 「何か御用で!」といって、座った。 「又右衛は?」 「お長屋におりますから、すぐ参ります」 「女ども、あちらへ行け! 早く行け!」と、内匠頭が手を振った。女は半分畳んだ袴、上下を、あわてて抱いて退ってしまった。 「例の京都からの勅使が下られるが、また接待役だ」 「はっ!」 「物入りだな」 「しかし、御名誉なことで、仕方がありませんな」 「そりゃ、仕方がないが……」と、内匠頭がいったとき、藤井又右衛門が、 「遅くなりました」といって、はいって来た。 「又右衛門、公儀から今度御下向の勅使の御馳走役を命ぜられたが、それについて相談がある」 「はい」 「この前──天和三年か、勤めたときには、いくら入費がかかったか?」 「ええ……」二人は、首を傾けた。藤井が、 「およそ、四百両となにがしと思いますが」 「そのくらいでした」と、安井が頷いた。 「四百両か! その時分と今とは物価が違っているから、四百両では行くまいな。伊東出雲にきくと、あいつの時は、千二百両かかったそうだ」 「あの方のお勤めになりましたのは、元禄十年──たしか十年でしたな」 「そうだ」 「あのとき、千二百両だといたしますと、今日ではどんなに切りつめても、千両はかかりましょうな」  内匠頭は、にがい顔をした。 「そんなにかかっちゃ、たまらんじゃないか。わしは、七百両ぐらいでどうにか上げようと思う」 「七百両!」と、二人は首を傾けた。 「少なすぎるか」 「さあ!」  二人は、浅野が小大名として、代々節倹している家風を知っていたし、内匠頭の勘定高い性質も十分知っていたので、 「それで、結構でしょう」と、いうほかはなかったが、伊東出雲とて、少しも裕福でないのに、その伊東が千二百両かけたとしたら、御当家が七百両では少しどうかしらと、二人とも思っていた。 「第一、近頃の世の中はあまり贅沢になりすぎている。今度の役にしても、肝煎りの吉良に例の付届をせずばなるまいが、これも年々額が殖えていくらしい」 「いいえ、その付届は、馬代金一枚ずつと決っております」 「それだけでも、要らんことじゃないか。吉良は肝煎りするのが役目で、それで知行を貰っているのだ。わしらは、勅使馳走が役の者ではない。役でない役を仰せつかって、七、八百両みすみす損をする。こっちへ、吉良から付届でも貰いたいくらいだ」  二人の家老は頷くよりほかはなかった。           二  用人部屋へ戻って来た二人は、 「困ったなあ!」といって、腕組みをした。 「吉良上野という老人は、家柄自慢の臍曲りだからな」 「家柄ばかり高家で、ぴいぴい火の車だからなあ」 「殿様は、賄賂に等しい付届だと、一口におっしゃるが、町奉行所へだって献残(将軍へ献上した残り物と称して、大名が江戸にいる間、奉行の世話になった謝礼として、物品金子を持参することをいう)を持ち込むのだからな。大判の一枚や小判の十枚ぐらいけちけちして、吉良から意地の悪いことをされない方がいいがな。もしちょっとした儀式のことでも、失敗があると大変だがな」 「しかし、前に一度お勤めになったから、その方は大丈夫だろうが、七百両で仕切れとおっしゃるのは、少し無理だて」 「無理だ」 「勅使の御滞在が、十日だろう」 「そうだ」 「一日百両として、千両。前の時には日に四十両で済んでいるが、天和のときの慶長小判と今の鋳替小判とでは、金の値打が違っているし、それに諸式が上っているし……」 「御馳走の方も、だんだん贅沢になってきているし……」 「そうさ。出雲だって千二百両使っているのに、浅野が七百両じゃ……ざっと半分近いのでは、勅使に失礼に当るからなあ」 「困った」 「困ったな。急飛脚でも立てて、国元の大野か大石かに殿を説いてもらう法もあるが、大野は吝ん坊で、七百両説に大賛成であろうし、大石は仇名の通り昼行灯で、算盤珠のことで殿に進言するという柄ではないし……」 「困ったな。できるだけ切りつめて、目立たぬところは手を抜くより法はない」 「黙って家来に任しておいてもらいたいな、こんなことは」 「いくらか、こんなときにいつもの埋合せがつくくらいにな」 「悪くすると、自腹を切ることになるからな」 「そうだ!」 「とにかく、まず第一に伝奏屋敷の畳替えだ」二人は、接待についての細かな費用の計算を始めた。           三  殿中で高家月番、畠山民部大輔へ、 「今度の勅使饗応の費用の見積りですが、ちょっとお目通しを」といって、内匠頭が奉書に明細な項目を書いたのを差し出した、畠山は、それをしばらく眺めていたが、 「わしには、こういうことは分からんから、吉良に──ちょうど、来ているようだから」と、いって鈴の紐を引いた。坊主が、 「はい」といって、手を突いた。 「吉良殿に、ちょっとお手すきなら、といって来い!」 「はっ!」  坊主が立ち去ると、 「とんだ、お物入りですな」と、畠山がいった。 「この頃の七、八百両は、こたえます」 「しかし、貴殿は塩田があって裕福だから」 「そう見えるだけです」 「いや、五万三千石で、二百何十人という士分がおるなど、ほかでは見られんことですよ。裕福なればこそだ」といったとき、吉良上野がはいって来た。 「浅野殿の今度の見積りだが、今拝見したが、私には分からん。肝煎指南役が一つ!」  畠山が書付を、吉良へ渡した。 「なかなか早いな。どうれ」  吉良は、じっと眺めていたが、 「諸事あまりに切りつめてあるようじゃが」と、内匠頭の顔を見て、 「これだけの費用じゃ、十分には参らぬと思うが」と、つけ足した。 「七百両がで、ございますか」 「そうだ」 「しかし、これまでのがかかりすぎているのではありませんか、無用の費は、避けたいと思いますので」  上野は、じろっと内匠頭をにらんで、 「かかりすぎていても、前々の例を破ってはならん。前からの慣例があって、それ以下の費用でまかなうと、自然、勅使に対して失礼なことができる」 「しかし、礼不礼ということは、費用の金高にはよりますまい!」 「それは理屈じゃ。こういうことは前例通りにしないと、とかく間違いができる」 「しかし、年々出費がかさむようで……」 「仕方がないではないか。諸式が年々に上るのだから、去年千両かかったものが、今年は千百両かかるのじゃ」 「しかし、七百両で仕上りますものを、何も前年通りに……」 「どう仕上る?」 「それは、ここにあります」そういって、内匠頭は書状を差し出した。 「それは、とくと見た。しかし、そうたびたびの勤めではないし、貴公のところは、きこえた裕福者ではないか。二百両か五百両……」 「一口に、おっしゃっても大金です。出す方では……」 「とにかく、前年通りにするがいい」吉良の声は少し険しくなっていた。 「じゃ、この予算は認めていただけませんか」 「こんな費用で、十分にもてなせると思えん」 「おききしますが、饗応費はいくらの金高と、公儀で内規でもございますか」 「何!」上野は赤くなった。 「後の人のためにもなりますから、私このたびは七百両で上げたいと思います」 「慣例を破るのか」 「慣例も時に破ってもいいと思います。後の人が喜びます」 「ばか!」 「ばかとは何です」  畠山が、 「内匠っ!」といって、叱った。 「慣例も時によります」  内匠頭は、青くなっていいつづけた。 「勝手にするがいい」吉良は拳をふるわせて、内匠をにらみつけていた。           四  藤井が去ると、 「怪しからんやつだ」と、上野は呟いた。  用人が、 「浅野から」といって、藤井の持って来た手土産を差し出した。 「それだけか」 「はい」 「外に、何にも添えてなかったか」 「添えてございません」 「彼奴め、近年手元不如意とか、諸事倹約とか、内匠と同じようなことをいっていたが、そうか」  上野は冷えたお茶を一口のんで、 「主も主なら家来も家来だ」 「何か、申しましたか」 「ばかだよ。あいつらは。揃いも揃って吝ん坊だ!」 「どういたしました」 「浅野は、表高こそ五万三千石だが、ほかに塩田が五千石ある。こいつは知行以外の収入で、小大名中の裕福者といえば、五本の指の中へはいる家ではないか。それに、手元不如意だなどと、何をいっている!」 「まったく」 「下らぬ手土産一つで、慣例の金子さえ持って来ん。大判の一枚、小判の十枚、わしは欲しいからいうのじゃない。慣例は、重んじてもらわなけりゃ困る。一度、前に勤めたことがあるから、今度はわしの指図は受けんという肚なのだろうが、こういうことに慣例を重んじないということがあるか。馳走費をたった七百両に減らすし、わしに慣例の金子さえ持って来ん。こういうこと、主人が何といおうと、家の長老たるべきものが、よきに計らうべきだが、藤井も安井も算勘の吏で、時務ということを知らん。国家老の大石でもおれば、こんなばかなことをすまいが。浅野は、今度の役で評判を悪くするぞ。公儀の覚えもめでたくなくなるぞ」  上野は、内匠頭にも腹が立ったが、江戸家老の処置にも怒りが湧いてきた。 (わしのいうことをきかないのなら、こっちにもそのつもりがある)  そう考えて、 「手土産など、突っ返せ!」といった。用人が、 「それはあまり……」といった。  上野は、だまって何か考えていた。           五  竜の口、堀通り角の伝奏屋敷は、塀も壁もすっかり塗り替えられて、庭の草の代りに、白い砂が、門をはいると玄関までつづいていた。  吉良が、下検分に来るという日なので、替りの人々は、早朝から詰め切って、不安な胸でいた。 「どこも、手落ちはないか」 「無いと思う」 「思うではいけない」 「じゃ断じてない」 「でも、七百両ではどこかに無理が出よう」 「相役の伊達左京の方は、いくら使ったかしら?」 「それはわからん!」 「伊達より少ないと、肩身が狭いぞ」 「第一評判が悪くなる」と、人々がいっている時、 「吉良上野介様あ!」と、玄関で呼ぶ声がした。 「そらっ!」  人々が立ち上った。玄関の式台、玄関脇には、士が、小者が、つつましく控えていた。玄関の石の上に置いた黒塗りの駕から上野介が出て、出迎えの人々にかるく一礼して、玄関を上った。人々は、上野の顔色で、上野の機嫌を判断しようとした。 「内匠頭は?」 「只今参上いたします」  上野は、内匠頭が玄関に出迎えぬので、いよいよ腹立ちと不愉快さとが重なってきた。そして式台を上って、玄関に一足踏み込むと、 「この畳は?」と、下を見た。 「はっ!」 「取換えた畳か?」 「はっ!」 「何故、繧繝縁にせぬ?」  人々は、玄関を上るが早いか、すぐ鋭く咎めた上野介の態度と、その掛りも内匠頭もいないのとで、どう答えていいかわからなかった。 「内匠を呼べ!」 「はい只今!」 「殿上人には、繧繝縁であることは子供でも知っている。この縁と繧繝とでは、いくら金がちがう?」 「玄関だけは、繧繝でなくてもよろしかろうかと……」士の一人が答えかけると、 「だまんなさい! お引き受けした以上、万事作法通りになさい! 出費が惜しいのなら、なぜ手元不如意を口実に断らんか。お受けした上で、慣例まで破って、けちけちすることがあるか。内匠を早く呼びなさい!」  上野が、こういっていたとき、内匠頭が険しい目をして、足早に家来の後方へ現れて来た。 「何か不調法でもいたしましたか」上野に、礼をもしないでそういった。 「不調法?」上野は頷いて、「不調法だ! この畳の縁は何だっ!」 「繧繝です」 「繧繝にもいろいろある。これは、何という種類か」 「それは知りません。しかし、畳屋には、繧繝といって命じました。確かに繧繝です」 「模様が違う。取り換えなさい!」 「取り換える?」 「そうだ!」 「今から」 「作法上定まっている模様は、変えることにはなりませぬぞ。いくら、貴殿が慣例を破っても、こういうことは勝手には破れんからな。即刻、取り換えなさい。次……」  そういうと、上野は内匠頭の返事も待たず、次の間にはいった。  内匠頭は、蒼白になって、その後姿をにらんでいた。           六  明日の、勅使の接待方の予定が少し変ったときいて、内匠頭は、伊達左京を探してきこうとしたが、茶坊主が、 「もう、お下りになりました」といった。 「吉良殿は?」 「おられます」  内匠頭は、廊下へ出で、高家衆の溜へ歩きつつ、 (上野にきくのは、残念だが……)と思った。 (しかし、伊達にききにやるのも面目にかかわるし……)  そう思って、松の間の廊下へ出たとき、上野が向うから歩いて来た。 「しばらく」  上野は、じろっ! と内匠頭を見て、立ち留った。 「明日、模様替えがありますそうで、どういう風に……」 「知らないのか」 「ききもらしましたが、どうかお教えを!」 「ききもらした! 不念な。どこで何をしていた?」 「ちょっと忙しくて」 「忙しいのは、お互いだ」  上野は、行き過ぎようとした。 「しばらく、どうぞ明日の」といって、右手で上野の袖をつかんで引いた。 「何をする!」上野は、腕を振って、大声を出した。腕が内匠頭の手に当った。 「何一つ、わしのいうことをきかずにおいて、今更のめのめと何をきく?」  上野が、大声を出したので、梶川が襖を開けて、顔を出した。内匠頭は蒼白になっていた。 「わしを、あるか無しかに扱いながら、自分が困ると、袖を引き止めて何をきくか?」  上野は、内匠頭がだまっているので、 「ばかばかしい!」と呟いて、行き過ぎようとした。 「教えて下さらんのか?」 「教えて下さらんというのか、内匠、貴殿、わしが教えてきいたことがあるか?」 「明日のことは、儀式のことにて、公事ではござらぬか」 「公事なればこそ、先刻通達したときに、なぜききもらした?」 「それは、拙者の不念ゆえ、お教えを願っているのに」 「貴公の不念の尻拭いをしてやることはない!」上野は、そういって歩き出した。 「教えんと、おっしゃるのか」内匠は、後から必死の声で呼んだ。 「くどい!」 「公私を混同して……」と、内匠がいうと、 「それは、貴公だろう。金の惜しさに、前例まで破って!」 「何!」  梶川が、 「あっ!」と、低く叫んで立ち上った。上野は、 「何をする!」と、叫んだ。内匠頭の手に、白刃が光っていた。  上野は、よろめいて躓くように、逃げ出した。内匠頭が及び腰に斬りつけたとき、梶川が、 「何をなさる!」と叫んで、組みついた。           七 「内匠頭は、切腹と決りました」と、子の左兵衛が枕元へ来ていった。  上野は、横に寝て、傷の痛みに顔を歪めていたが、 「そうだろう」と答えた。 「お上では、乱心者としてもっと寛大な処置を取ろうとなさいましたが、内匠頭は、乱心でない、上野は後の人のために生かしておけんなどと、いろいろ理屈をいったそうで、とうとう切腹に……」 「あの意地張りの気短め、どこまで考えなしか分かりゃしない。そして、殿中ではどう評判をしている。どちらが悪いとかいいとか」 「ええ、内匠頭の短慮と吝嗇はよく知っていますが、殿中で切りつけるには、よくよく堪忍のできぬことがあってのことだろうというので、やはり同情されています。梶川の評判はよくないようです。どうしてもっと十分にやらせてから、抱きとめなかったかと……」 「無茶なことをいう、十分にやられてたまるものか。わしは軽い手傷だし、向うは切腹で家断絶だから、向うに同情が向くだろうが、といって、わしを非難するのは間違っている」 「いや、父上を一概に非難してはいませんが」 「いや、事情の分かっている殿中でそのくらいなら、ただことの結果だけを見る世間では、きっとわしをひどくいうだろう。わしは、今度のことでわるいとは思わん、わしは高家衆で、幕府の儀式慣例そういうものを守って行く役なのだ。その慣例を無視されたのでは、わしにどこに立つ瀬があるか。ことの起りは、あちらにある。ところが、殿中でわしに斬りつけるという乱暴なことをやったために、よくよくのことだということになって、たちまち彼奴が同情されることになるのだ。わしが、あの時殺されていても、やっぱり向うが同情されるだろう。あいつが、でたらめのことをやったということが、世間の同情を引くことになるのだ。ばかばかしい」 「しかし、わけを知っている人は、よく分かっています」 「そうだろう。だから、お上からも、わしはお咎めがなくて、あいつは切腹だ。しかし、世間は素直にそれを受け入れてくれないのだ。彼奴が乱暴なことをしただけで、向うに同情が向くのだ。思慮のない気短者を相手にしたのが、こちらの不覚だった。まるで、蝮と喧嘩したようなものだ。相手が悪すぎた」 「まったく」 「内匠も内匠だが、家来がもっと気が利いていれば、こんな事件にはならないのだが。わしは、迷惑至極だ。斬られた上に世間からとやかくいわれるなんて。こんな災難が、またとあるか」  医者が次の間から、 「あまり、お喋りになっては」と注意した。           八  上杉の付家老、千坂兵部が、薄茶を喫し終ると、 「近頃、浅野浪人の噂をおききになりましたか」と、上野にいった。 「どんな?」 「内匠頭のために、御隠居を討つという」  上野は笑って、 「何でわしを討つ? 内匠頭に斬られそこなった上に、まだその家来に斬られてたまるか」 「なるほど、内匠頭が切腹を命ぜられたのは自業自得のようなもので、恨めば公儀を恨むべきで、老公を恨むところはないはずですが、ただ内匠頭が切腹のとき、近臣の士に、この怨みを晴らしてくれと遺言があったそうで、家臣の者の中に、その遺志を継ごうというものが数多あるそうで……」 「主が、自分の短慮から命を落したのに、家来がその遺志を継ぐという法があるものか」 「ところが、世間の者は、くわしい事理は知らずに、ただ敵討というだけで物を見ます。こういう衆愚の力は、恐ろしいものです。その吹く笛で踊る者が出てきます。それに、浅野浪人も、扶持に放れた苦しみが、この頃ようやく身にしみてきましたから、何かしらやりたいのです。仕官も思い通りにならないとすると、局面打開という意味で、何かやり出すにきまっています。彼らは、位置も禄もありませんから、強いのです。何かしてうまく行けば、それが仕官の種になりますし、失敗に終っても元々です。だから、この際、思い切って上杉邸へお引き移りになったらいかがですか」 「いやなことだ!」上野介は、首を振った。 「わしは、ちっとも悪いことをしたと思っていない。わしと内匠頭の喧嘩は、七分まで向うがわるいと思っている。それを、こんな世評で白金へ引き移ったら、吉良はやっぱり後暗いことがあるといわれるだろう。わしは、それがしゃくだ」 「御隠居も、なかなか片意地でございますな」 「うむ。だが、わしはつまらない喧嘩を売られたとしか思っていない。わしは、喧嘩を売った内匠の家来たちに恨まれる筋はないと思っている」 「理屈は、そうかも知れませぬが」 「一体、浅野浪人の統領は誰だ!」 「大石と申す国家老でございます」 「大石内蔵助か。あの男なら、もっと事理が分かっているはずだ。わしを討つよりか、家再興の運動でもすると思うが。わしを討ってみい、浅野家再興の見込みは、永久に断たれるのだが」 「さようでございましょうが、禄を失いました者どもは、それほどの事理を考える暇がございますまい。公儀という大きい相手よりも、手近な御隠居を……」 「分かった! 分かった! しかし、内匠頭をいじめたようにとかく噂されている上に、今度はその敵討を恐れて逃げ回っているといわれて、わしの面目にかかわる。来たら来たときのことだが、千坂、結局噂だけではないか」 「なれば結構でございますが。しかし、万一の御用意を」 「だが、引き移るのはいやだよ」 「それならば、、お付人として、手の利いたものを詰めさせる儀は」 「うむ。それもいいが、なるべく世間の噂にならぬように」 「はは」  千坂は、この頑固な爺と気短な内匠頭とでは、喧嘩になるのはもっともだと思った。しかし、この頑固さを、世間でいうように、強欲とか吝嗇とかに片づけてしまうのは当らないと思った。           九  どどっと物の倒れる、めりめりと戸の破れる、すさまじい響きが遠くの方でして、人の叫びがきこえてきた。上野介は、耳をすました。 「火事だ」という声がした。 (この押しつまった年の暮に不念な。邸内かな、それとも隣屋敷か……)と、思いながら上野は、 「火事か」と、隣にいるはずの近侍に声をかけた。そして、半身を起すと、畳を踏む音、家来の叫びが、きこえた。 「火事はどこだ。誰かいないか!」  気合をかけたらしい、鋭い声がした。近い廊下の雨戸が、叩き落されたらしい音がした。同時に、どっかの板塀にかけやを打ち込んでいるらしい音が、つづけざまにきこえた。 「浅野浪人かな?」  上野は、有明の消えている闇の中で脇差をさぐり当てた。  と、薄い灯の影がさして、 「御前」側用人が、叫んではいって来た。 「狼籍者が、押し込みました」 「浅野浪人か」 「そうらしいです。すぐお立退きを」  上野は、あわてて起き上った。太刀打ちの音がした。掛け声がきこえた。人の足音が、庭に廊下に部屋に、入りみだれかけた。 「こちらへ!」 「どこへ行く」 「お早く、お早く」  側用人は、勝手口に出て、戸を引き開けた。雪あかりであった。いろいろな物音が、冴えかえって、はっきりときこえてきた。用人は、炭小屋の戸をあけて、 「ここへ!」といった。上野は、裸足のまま中へはいると、用人はすぐ戸をしめてしまった。 「大勢か」 「五、六十人。裏と表から」 「五、六十人!」  上野は、そんなに大勢の人間が、浅野の家来の中から、自分を討つために残っていようとは思えなかった。 「外の加勢でもあるのではないか」 「さあ」 「別に悪いことをせん人間が、喧嘩を売られて傷を受け、世間からは憎まれた上に、また後で敵として討たれるなんて、こんなばかなことがあるものか」  上野は、世間や敵討といったような道徳に、心の底からしみ出て来る怒りを感じた。 「御前、しっ、黙っていないと、見つかります」  上野は、呟くのを止めた。炭小屋の中はしんしんとして冷え渡っていた。外の人の叫び、足音は、だんだん激しくなってきた。 「本当に、浅野浪人か」 「そうらしいです」 「これで、俺が討たれてみい、俺は末世までも悪人になってしまう。敵討ということをほめ上げるために、世間は後世に俺を強欲非道の人間にしないではおかないのだ。俺は、なるほど内匠頭を少しいじめた。だが、内匠頭は、わしの面目を潰すようなことをしている。わしの差図をきかない上に、慣例の金さえ持って来ないのだ。これはどっちがいいか悪いか。しかし、先方が乱暴で、刃傷といった乱手をやるために、たちまち俺の方が欲深のように世間でとられてしまった。あいつはわしを斬り損じたが、精神的にわしは十分斬られているのだ。それだのに、まだ家来までがわしを斬ろうなどと、主人に斬られそこなったからといって、その家来に敵と狙われる理由がどこにあるか。まるで、理屈も筋も通らない恨み方ではないか。わしに何の罪がある。ひどい! まったくでたらめだ!」  上野介は、寒さと怒りとに、がたがたふるえながら首を振った。  物音が、少し静かになった。 「行ったのかな」 「いいえ。まだまだ」  二人は、炭俵の後方に、ちぢんでいた。雪を踏んで、足音が小屋を目指して近づいて来るのがきこえた。           十  戸が軋って、雪明りがほのかにさしこんだ。 「しまった、だめだ」と思ったとき、戸口へ火事装束らしい姿の男が現れて、槍をかまえながらはいろうとした。用人が、薪を掴んで立ち上ると、投げつけた。その男は、たちまち戸口へ飛び出すと、 「この中が怪しいぞ」と、叫んだ。そして、もう一度槍を構えて、 「出ろ!」と、叫んでじりじりとはいって来た。用人は、炭を、薪を、投げつけたが、用人の後の白衣を着た上野の姿を見つけると、 「ええい!」と、叫んで、突きかけて来た。上野は、後へ下ろうとして、荒壁へ、どんと背をぶっつけたとたん、太股をつかれて尻餅をついた。 (何の罪があって、わしは殺されるのだ。どこに、物の正不正があるのだ。わしは、殺された上に、永劫悪人にされてしまうのだ。わしの言い分やわしの立場は、敵討という大鳴物入りの道徳のために、ふみにじられてしまうのだ)  上野は、炭を掴んで投げつけた。用人が、槍を持っている男の側を兎のようにくぐって、外へ出たとたん、雪の上に黒い影が現れて、掛け声がかかると、用人はよろめいて手を突いた。 「この中が、怪しいのか」  もう一人の男が、ずかずかとはいって来て、上野の着物の白いのを見当に、 「参るぞ!」と、刀を振り上げた。 「大石がいるか」上野がきいた。 「誰だ! 貴公は」 「大石がいたら……」 「いなさる」  上野は、 (大石がいたら、この筋の立たない敵討を詰じってやろう)と、思いながら、立ち上ろうとして、よろめいた。後から来た男が、襟首を掴んで、引きずろうとした。  上野は、 (主も無茶なら、家来も無茶なことをする連中だ)と感じたが、恐怖に心臓が止りそうで声が出なかった。そして、ずるずると引きずられて出た。 「やあ! 白綸子を着ている」  外で待っていた一人がいった。誰かが、呼子の笛を吹いた。 (白綸子を知っている。何も物事がわからんくせに、白綸子だけを知っている。わしはどうして浅野主従のために、重ね重ねひどい目に遭うのか)  上野は混乱した頭の中で、 (わしは内匠頭に殿中で斬られたために、強欲な意地悪爺のように世間に思われた。わしの方が何か名誉回復のために仕返しでもしたいくらいだ。それだのに、わしが前に斬られかけたということが、なぜ今度殺される理由になるのか。まるきり物事があべこべだ)  人々が黒々と集って来た。  小肥りの、背のあまり高くないのが来ると、 「大夫、どうも上野殿らしく!」と、一人が丁寧にいった。 (これが、大石か)と、上野が思ったとき、 「傷所を調べてみい」  二、三人が手早く肩を剥き出して、手燭をさしつけた。 「あります」  大石は、頷くと、雪の中へ膝を突いた。上野は、おやっと思いながら、ちらっと見ると、 「吉良上野介殿とお見受け申します。われわれは元浅野内匠頭の家来──大石内蔵助良雄以下四十六名の者でありますが、先年は不慮のことにて……」  と、雪の中に手をついて名乗りかけた。 (なるほど、これだ。大石は、やはり大石だ。なぜ、あのとき江戸におらなんだ。大石がおれば、わしもお前もこんなことにならずに済んだのだ。大石だけが、わしの心をいくらか知っている。そうだ、すべてが不慮のことなのだ。わしのばかばかしい災難なのだ。災難とあきらめて討たれてやろうか)  上野が、混乱した頭で、自分勝手なことを考えていると、大石は何かいい終って、短刀を差し出すと、 「いざ!」といった。  短刀を突きつけられると、上野の頭に、わずか萌していたあきらめは、たちまちまた影をかくした。自分の立ち場も言い分も、敵討というもののために、永久にふみにじられてしまう怒りが、また胸の中に燃え上っていた。  彼は、浅野主従、世間、大衆、道徳、後世、そのあらゆるものに刃向って行く気持で、その短刀を抜き放ってふらふらと立ち上った。 「未練な!」 「卑怯者め!」 (何が卑怯か、わしには正しい言い分があるぞ!)そう思いながら、あてもなく短刀をふり回していると、 「間! 切れ!」と、大石がいった。 (大石にも、不当に殺される者の怒りが分からんのか)と思ったとき、 「ええっ!」と、掛け声がかかった。 底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:大野 晋 2000年2月8日公開 2005年10月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。