世界の裏 国枝史郎 Guide 扉 本文 目 次 世界の裏 一 十六堂会 二 死を以て生を 三 鎧袖一触 四 急ぎ給え 五 ネバ河 一 十六堂会  この面では理屈は云わない。イデオロギーなどというものも書かない。この面では、世界中の、政治や外交や軍事や、その他、社会のあらゆる部面に実在した面白い事件ばかりを書く。それもメンスツリートの事件ではなく、塵埃や黴の花の咲いている露路や、裏通りで起った事件、乃至は、サロンのカーテンの蔭や、宮殿の廊柱の背後などで起った事件を書く。  さて、上海の、ある秋の日の出来事であるが、N国の、N博士が、ある世界的有名な国際会議へ列席すべく、上海へ行った。  その秘書S氏に関する出来事なのであるが、重要書類と現金とを入れた鞄を持って、黄包車に乗った。ところが下車して気がついてみると、盗まれたのか、置忘れたのか、鞄が無い。  S氏の仰天しまいことか! すぐに工部局や領事館にとどけ出て、鞄の取り戻しに狂奔した。無能では世界第一の名をほしいままにしている上海の警察が、こんな場合に役立たないことはわかりきったはなしで、いつまで経っても鞄は出て来ない。そのうちに会議の日は近づく。重要書類がないことには、N博士が、いかに有名な雄弁家でも、国際的識人でも、ものが云えない。国家の恥辱となる。 (どうしよう)  と、N博士は、B秘書と一緒に蒼くなった。その時、上海通の知人が、 「工部局などを手頼りにしないで、十六堂会へ行って相談してみたまえ、現金は出まいが、書類は出るだろう」と教えてくれた。 「十六堂会とは?」 「青帮の中にある特殊の機関だよ」 「青帮とは?」 「上海へ来て、青帮のことを知らないような君だから、重要書類を紛失するような間抜けたことをやるのさ」  それでS氏は、半信半疑ながら、十六堂会へ行って、鞄を取り戻してもらいたいものだと相談した。  すると、十六堂会の要人は頷いて、 「明朝おいで下さい」と云った。  そこで又S氏は、半信半疑ながら、翌朝、十六堂会の事務所へ行ったところ、 「これでしょう」と云って鞄を出してくれた。  見ると、失った自分の鞄であった。S氏は雀躍して、内味を調べたところ、現金は無くなっていたが、重要書類は、一枚の脱落もなく、存在していた。 「何んだい、一体、十六堂会とは?」  と、S氏は、数日後、十六堂会の事を教えてくれた上海通の知人に訊いた。 「化物さ」これが上海通の返事であった。「上海の化物の一つさ」  全く、欧亜の掃溜のような上海などには、十六堂会のような一国の警察権以上の勢力を持っている秘密結社があるらしい。  でも、十六堂会の真相を知ろうと思ったら、今回の支那事変以来日本人ともお馴染みの青帮のことを知らなければならないし、青帮のことを知りたいと思ったら、その兄弟分の紅帮のことや、それらの現世的勢力秘密結社の祖先たる、三合会や哥老会や、白蓮会や、六祖の故事や銅銭会の茶碗陣などを、順を追って調べなければなるまい。  どっちみち、現在の十六堂会の──従って青帮の大親分は、数年前からチョイチョイ日本の新聞へも名の出る吐月笙であることと、吐月笙は蒋介石の一党であったが、最近汪兆銘派に帰順したらしいということだけは知って置く必要があるだろう。 二 死を以て生を  五千の大砲、三万の機関銃、三千の投擲弾、二千の飛行機、五千の機関車、十五万の客貨車、五千の自動車を、連合軍に引渡し、潜水艦の全部、装甲巡洋艦六隻、海防艦十隻、小巡洋艦八隻、新式駆逐艦五十隻の破壊。その他の軍艦と商船全部の連合軍への引渡し。──こうして、前世界大戦は独軍の大敗を以って休戦となり、次いで、独逸国内に起ったのは、革命、反革命の内乱であり、そうして最後に来たものは、不名誉にして絶望的なるヴェルサイユ講和條約と一三二、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇金マルクという天文学的数量の賠償金であり、そうして、その後に来たものは独逸と、その国民との悲惨きわまる飢餓であった。  女は、貞操を売らなければ、その日その日の生命が保てなくなった。  その一例を……  ヘレーネ・レンクという娘があった。名門の出であったが、国内事情がそうなれば、そういう娘ほど悲惨で、とうとう街の天使の身上に堕ちて了った。しかし、この頃には、ベルリンには、そういう街の天使が汎濫していたので、商売は楽でなかった。彼女は、N国の留学生を主としてお客としていた。そのお客の中にO君という青年があった。最初は親切にしてやったがやがて飽きてかえりみなくなった。その時娘から速達が来て、 「あなたに逢えない絶望から、わたしは、某日の某時間に、自宅で瓦斯自殺をします」と書いてあった。O君は驚いて、その時間に彼女のアパートへ駆付けた。部屋へ入ってみると、彼女は半死半生の有様で、ベッドに倒れてい、瓦斯ランプから瓦斯が音を立てて洩れていた。O君は感動し、瓦斯を止め、彼女を介抱した。そうして、このことを友人に話した。すると友人は酸を嘗めた時のような顔をし、 「君もやられたのか、僕もやられたよ。ありゃあの女の手でね、君の足音が廊下に聞えた時、瓦斯の栓をひねったのさ」 「そういやァ、瓦斯の臭いが稀薄だったっけ」──そこでO君は、もうその娘に対して感動しないことにして了った。  ところが、その娘には、ほかにP氏という、これもN国の若い医学士のお客があったが、そのP氏までが、O君と、彼女との瓦斯事件を聞くと、気をわるくして、彼女へ興味を持たないことにきめて了った。  しかるにそのP氏の許へ彼女から速達が来て「あなたに逢えない絶望から、わたしは、某日の某時間に自宅で毒薬自殺をします」と書いてあった。 「今度は毒薬をご使用なさると見える。……ご自由に……ベロナールであろうと、モルヒネであろうと勝手に用いて、なるたけ楽に天国へ行くんだね」  と、P氏は笑って呟いたが、矢張り苦になるところから、その日になると、──時間だけはグット遅くらせて──彼女の部屋へ行ってみた。彼女はベットの上に、白い顔をして死んでいた。多量の昇汞水を飲んで── 「てには相違なかったんだが……」と、他日、若い医学士は泣きながら話した。「僕が医者だったので、多量に昇汞水を飲んでも、僕がその時間に駆付けて来て、嘔吐させてくれるものと信じて……わずか二三十マルクの生活費を得たいばかりに、貞操ばかりか、命を賭けて……僕はその時間に行ってやればよかった。……僕の来るのを待って、眼に一杯涙を溜めながら、刻々に死んで行ったあの娘のことを思うと……」  ──此処で僕は云う! それほどの窮乏のドン底にあった独逸が、現在の如き、世界第一の強国に、わずか、二十年の間に復活しようとは!  日本人よ! しっかりしろ! 三 鎧袖一触  日本のやくざは親分乾児の間に仁義があって、親分は乾児を引立て、乾児は親分を立て、それで、だんだんに勢力を得、同輩同職に対しては、競争する。  しかるに米国のギャングは、親分乾児の間に仁義がなく、乾児は親分を凌ぐことによって自分の勢力を張り、同輩同職に対して競争するばかりか、しろうと衆に対しても、悪辣な行為をする。  日本の夫れは大家族主義的、相互扶助的であるが、米国の夫れは、利己主義的、弱肉強食的である。  米国ギャングのその例は、有名な「暗黒の王」アル・カポネの所業によって立証される。  カポネをギャング界に送り出したのは紐育の親分エールで、「カポネ、おめえ、市俄古の親分コロジモのところへ行って、用心棒にでもなりな」と紹介した。それは一九二〇年一月のことであった。  カポネは、そこでコロジモのところへ行き、厄介になったところ、その年の三月に、自分の自動車を、停車中のタキシーにぶっつけた上、拳銃で、その運転手を嚇したという廉によって拘引されたのを、コロジモが貰い下げてくれた。  ところが同じ年の五月十一日には、その恩ある親分のコロジモを、カポネは、「鉛の犠牲」にしたのであった。すなわち、機関銃で射殺したのであった。  この日コロジモは、自分の経営している南ワパッシ街二一二六番の料理店で、いいご機嫌で酒をのんでいた。その時、窓から機関銃の筒口が出て、タ、タ、タ……それで、片付いた。コロジモは天国へ行ったのである。  カポネの悪業は、こればかりではなかった。最初の親分エールをも、殺したのである。  それは一九二八年七月一日のことであった。──だから、エール親分が、カポネを、この世界に於ける、一人前の人間にしようとして、コロジモに紹介した時から、八年後のことにあたるのであるが、エール親分は、乾児のカポネが、市俄古で、いい顔になっているということを聞き、喜んで、市俄古へ行き、カポネを祝福した。  カポネは、エールを、大いに歓迎したそうである。 「お帰りでござんすか。じゃアこのくるまに乗って」  とカポネは、エールを自動車に乗せた、然う、「自動車に乗せた」のである。そうして、「くるまに乗せる」ということは、郊外におびき出して、殺すということなのである。  エールの自動車が、四辻へ来た時、一台の自動車が、後から追っかけて来て、それと平行した。途端に、窓から機関銃の筒口が出て、タ、タ、タ……お解りでしょう! エールは天国へ行ったのである。  しかし、何故、こんな、古くさい、カポネ事件などを、私が今更、持出して、ここに書くのであろう?  一国の士気は、上流社会に於て見るよりも、下流の──ギャングとか、やくざの世界に於て見る方がよい。       ×     ×      ×  そんな米国だ!  ABCD包囲陣などを日本に向かってやった所で……  鎧袖一触さ!  こいつが云いたかったからである。 四 急ぎ給え  カルタゴの市民が、真に挙国一致の精神に燃立ち、その態勢をととのえ、実行に移った時には……  ──老幼男女の別なく、昼夜休まず神廟内、その他、手広い建物の内に集まり、俄に兵器の製造に着手し、日毎に、楯百四十箇、刀剣三百振、鎗五百筋、矢一千本ずつを作り、同時に、無数の投石機をつくり、尚、婦女は頭髪を切って弓弦とし、又、あらゆる方面の、鉄を採集し、刀鎗の原料とし、奴隷を解放して兵役に服せしめたり──  と、いう状態にまで立至った。  しかし、もう、この時には、手遅れであった。ローマの大軍が、城壁十里の地点にまで逼っていたのであった。  しかし、尚、その決死態勢があったため、カルタゴは、その後、相当長い間、独立を保っていた。  カルタゴとローマとの戦闘は二十数年間行われた。その間にカルタゴには、シーザーやナポレオンが、兵術の祖として、その兵術を学んだ、曠古の名将にして、しかも、大政治家、加うるに、尽忠報国、至誠そのものの如き、真人間のハンニバルが出て、国力を恢復しようとした。しかし、ハンニバルは、貴族、富豪、特権階級の集まりであるところの、最高政治機関の元老院、及びそれに追随するある衆愚の排撃によって、故国を去り、流離の後に自殺した。  こうしてローマによって突付けられた講和条件なるものは、(一)兵器一切をローマに引渡すべし。(二)カルタゴ市民は、海岸より十二哩後方に移転すべし(カルタゴは、地中海を生命とした海運国なのである)  というのであった。  これはカルタゴに執っては、滅亡しろ、ということに他ならないのである。  そこで、はじめて、カルタゴ市民は(カルタゴは、都市国家であったから、市民は国民なのである)挙国一致、国難に赴く決心をし、如上の如き態度を執ったのであったが、時既に遅く、前記の如く、相当の期間独立を保ったが、遂には亡ぼされた。  いかに、挙国一致国難に赴くの態勢を執ったところで、時期に遅くれては何んの効果も無いという、よい例の一つである。  現下の日本など何うであろうか?  カルタゴは、ローマと戦端をひらいた当時に於ては、ローマよりも富んでおり、武備も完成しており、特に海軍に至っては、ローマなど、足下へも寄れないほど精鋭完備だったのである。  それで、負けた。  尤も、カルタゴは、アフリカの植民地から発達した国家であったため、自由精神を尊び、経済(主として貿易)に於ては、自由主義を用い、個人の生活様式に於ては、享楽主義を旨とした。  しかし然ういう国家であっても、前記の如く、曠古の英雄ハンニバルを産んだ如き、質素良好の国家だったのである。  では、もし、挙国一致、婦人が髪を切って弓弦として、国難に赴く如き態勢を、時期に遅くれずに採用したならば、せいぜい擡頭期に於けるローマ如きにああもミジメに亡ぼされなかったであろう。  胄の緒を締めるのは、戦いに勝っている時でなければいけない。  日本など、臨戦態勢総強化をもっと急ぎ給え。 五 ネバ河  レニングラードの陥落も時間の問題となった。レニングラード攻防戦がはじまって以来、ネバ河の名が度々新聞紙上にあらわれる。ネバ河と聞くと、私はすぐに、この河へ死骸を投げこまれた妖僧ラスプーチンのことを思い出す。  それは、ロマノフ皇朝の末期、一九一六年十二月十六日、金曜日の夜のことであった。この妖僧へ着せようが為めか、経帷子のような雪が、レニングラード(その頃ペトログラード)の大都会に降っていた。  この頃、露国の名門、ユウソムポフ公爵の持家の一つに、その一階の居間に、四人の男女がいた。公爵その人と、ドミトリー大公と、大公の愛人の踊子のカロリと、右党の闘将ブリスケウィッチとであった。いずれもラスプーチン排撃の急先鋒であった。  やがてラスプーチンは、オフィザスカイヤ通りに面している裏門から、この館へ入って来た。彼は、この館の主人公が、自分の教義に帰依すると聞かされ改宗させるために来たのであった。  公爵は、ラスプーチンを階上の食堂へ案内し、毒薬入りの葡萄酒をすすめた。ラスプーチンは平然と飲みつづけた。死ぬ様子など見えなかった。公爵は恐ろしくなり、居間へ馳せかえり、三人の同志へ云った。 「あれは、どうしても死なない」 「では、これで、やりたまえ」  と大公は云って、拳銃を渡し、 「わしは家へ帰って自動車を持って来よう」  そこで公爵は食堂へ引返した。見ればラスプーチンは、息をはずませながら、室の中を、よろめきながら歩いていた。公爵はその胸をめがけ、二発打った。弾丸は二発ながら命中し、妖僧は仆れた。 「とうとう仕止めた」と、居間へ駆込んだ公爵は三人へ云った。 「ロシアは救われた」これはブリスケウィッチで、 「あたしをいやらしく口説く奴が一人消えたというものね」と云ったのはカロリであった。  しかし、その声の終らないうちに、階段の方から、重い足音がきこえて来た。三人が扉まで行って窺うと、胸から血を流し木沓をひきずりながら、ラスプーチンが、階段を降りてくるところであった。彼はまだ死ななかったのである。亡霊のようなラスプーチンは、三人の前を通り、モイスカイヤ通りに向った正面の玄関から、冬の薔薇が咲いている花園へ出た。  三人は追っかけ、ブリスケウィッチは、二発拳銃を打った。その弾丸も、みんな命中し、ラスプーチンは仆れた。  やがて大公が自動車をもって駆けつけて来た。  それへラスプーチンの死骸を載せ、トロブスキー橋の方へ走らせた。  橋の中央で車を停め、ラスプーチンの死骸を引出し、ネバ河へ投げ込もうとした時、ラスプーチンの手が、公爵の肩章をむしり取った。まだ、生きていたのである。  しかし、その次の瞬間には、氷塊の流れているネバの河水が、この露国宮廷と、上流社会とを腐敗させ、君寵を頼んで、政治外交にさえ口を入れ、ロマノフ皇朝を没落させた、稀世の妖僧の死骸を呑んだ。  以上は前期欧洲大戦中での出来事で、ラスプーチンは、露国皇帝をして、敵国独逸と、単独講和させようとしていたのであった。  宗教の仮面をつけ、芸術のヴェールをかむって、反戦思想や敗戦主義を、感情的に、国民に瀰漫させる程危険なことはない。厳に警戒すべきである。 底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社    2006(平成18)年3月30日第1刷発行 底本の親本:「外交」    1941(昭和16)年8月21日、9月1日、9月11日、9月21日、10月1日 初出:「外交」    1941(昭和16)年8月21日、9月1日、9月11日、9月21日、10月1日 入力:門田裕志 校正:阿和泉拓 2010年11月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。