空の悪魔(ラヂオ・ドラマ) 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 空の悪魔(ラヂオ・ドラマ) 酒井欽蔵   (四十八) 解説  東京山の手の裏通りに、さゝやかな店を構へてゐる時計商、酒井欽蔵の一家、物語の中心はこの一家であります。帝都は既に敵機襲来... 酒井欽蔵   (四十八) 妻 いく   (四十五) 娘 加代   (二十四) 息子 鉄蔵  (十八) 娘 美代   (十六) 店員 庄市  (三十)   其他 解説  東京山の手の裏通りに、さゝやかな店を構へてゐる時計商、酒井欽蔵の一家、物語の中心はこの一家であります。帝都は既に敵機襲来に備へて、警戒管制が敷かれてゐるのです。蒸し暑い真夏の夜のことです。 店先に並んだ大小幾十の時計が一斉に時を刻んでゐる。やがて、オールゴール入りの眼覚し時計が平和なメロデイを奏ではじめる。これは、今、主人欽蔵が店先で修繕をしてゐるのだ。 奥の部屋で 妻いく  こんな晩に、仕事をする人つてあるか知ら……全く変りもんだよ、お父つあんは……。 娘加代  鉄ちやん、もう起しといた方がよかない? 若しか、急に出て行くやうなことがあると、晩御飯も食べないぢや、お腹を空かすわよ。 いく  さあ、お腹もお腹だけど、昨夜からあの通り眠つてないんだからね。お握りでもこさへといてやらうよ。 加代  なんだか元気がなささうなんだもの。いやだわ、あたし。かういふ時は、もつと勇ましさうにしてゝくれなきあ、張合がないぢやないの。 いく  そこへ行くと、兵隊に行つてただけあつて、庄さんなんかきびきびしたもんさ。まるで、お祭へでも出掛けるやうな……。 加代  さうよ、あれも普通ぢやないけど、鉄ちやんみたいにしてると、人が変に思ふわね。臆病なんだと思はれてよ。 いく  臆病かね、あれで……。 加代  ほんとはどうだかわからないわ。十八の子供にしちやあれで、なかなか図太いところがあるんだけど……五円のお小遣ひきりで、北海道を一とまはりして来るなんて、ちよつと出来ない芸当よ。 いく  (突然、頓狂な声で)あゝ、びつくりした。いやな美代ちやんだよ。そんなもの、今頃からくつつけてどうすんの。 娘美代  (防毒マスクをつけた声で)兄さんのをちよつと借りたのよ。これをつけて、毒瓦斯の中へ飛び込んで行くんだわ。重いわよ。 いく  また、兄さんに叱られるから……。 美代  (マスクを外して)ほんとに戦争あるの。嘘見たいでしやうがないわ。お父つあん、だつて、あんな平気な顔してお店に坐つてるぢやないの。 欽蔵  (はじめて)お美代……。 美代  なあに? 欽蔵  鉄蔵を起して来い。 美代  よく眠てるわよ。 欽蔵  いゝから起して来い。 時計のねぢを巻く音。オールゴール。 美代が階段を走り上る音。 美代  兄さん。 鉄蔵  …………。 美代  兄さんつたら……。 鉄蔵  …………。 美代  可哀さうね。こら、兄さん、起きるのよ。 鉄蔵  (飛び起きたらしい) 美代  あら、そんなに吃驚りしないだつていゝわ。 鉄蔵  畜生……。 美代  お父つあんが起して来いつて云ふんだもの。 鉄蔵  おやぢ、なにしてるんだ。 美代  眼覚しを直してるわ。 加代  (上つて来て)鉄ちやん、眠いでせう。 鉄蔵  当りめえよ。おやぢ、なんの用があるんだい。 加代  あんた、あんまり元気がなささうだからよ。心配してるんだわ。きつと。 鉄蔵  やい、マスクをどうしたんだい、こいつ……入れとけよ。 加代  お父つあんと喧嘩しちや駄目よ。なに云はれても、ハイハイつて云つてなさい、(間)鉄ちやん、なにぼんやりしてんのよ。 鉄蔵、急に起ち上つて、階段を下りはじめる。 鉄蔵  お父つあん、なにか用? 欽蔵  まあ、そこへ坐れ。 鉄蔵  そんな時計、何時だつていゝんぢやないか。それより松田さんの懐中、早く頼むつて云はれてるんだぜ。あの人警報班で、時計がないと不自由だらう。 欽蔵  わかつてる。さつき代りを渡しといたよ。時に、お前からだの具合でも悪いんぢやねえか。 鉄蔵  どうして? 欽蔵  浮かねえ顔をしてるからさ。 鉄蔵  戦争で浮いた顔ができるかい。 欽歳  出来ないつてのは、生命が惜しいからだ。やい、男なら男らしく、腕つ節をみせろ。日本男児は、理窟を云はずに、悦んでお国のために働くんだ。手前は、防護団の一員ぢやねえか。毒瓦斯班といふ大事な役目を云ひつかつてるんだ。葬式へ参列するやうな面をして、そんな任務が勤まると思つてゐるのか。第一、見つともねえぢやねえか。 鉄蔵  第一、毒瓦斯班なんてものはありやしないよ。防毒班だよ。それから、お父つあんは、僕の面が葬式へ参列するみたいだつて云ふけど、全く、さういふ気がしてるんだ。悲しいやうな、じれつたいやうな、早く云や、面白くもなんともないんだ。 欽蔵  何が面白くねえんだ。 鉄蔵  今度の戦争がさ。文明人なら文明人らしい戦争をしたらよささうなもんぢやないか。 欽蔵  ところが、空中戦なんてえのは、文明が進んだ証拠ぢやねえか。 鉄蔵  抵抗力のない女子供を、空の上からおどかすなんて、全く、強盗か野蛮人の仕業だよ。 欽蔵  そんなこと云つたつてしやうがねえ。だから、その女子供を、われわれ男が……。 鉄蔵  (夢中で)僕の声が若し千里先まで聞えるなら「やい貴様達恥を知れ」つて云つてやるよ。 加代  鉄ちやん、御飯をおあがりよ。 鉄蔵  なんにも食ひたくないんだ。 加代  夜中にまた、お腹がすくわよ。交代は十一時なんだから、まだ時間があつてよ。 鉄蔵  ぢや、食ひ納めに食つてやらあ。 欽蔵  敵が攻めて来るからつて、飯が喉へへえらねえやうでどうする。あきれた野郎だ。 沈黙。 波の音に交つて、電話の呼鈴。 「小笠原島東方五キロ、はい聞えます。敵の主力艦隊……はい……航空母艦二隻を有する……はい……千葉監視隊本部へ……はあ……無線電信の故障で……はい……はい、わかりました」 波の音が次第に消えて、再び時計のチクタク。 欽蔵  戦争が好きだとか嫌ひだとか云つてみたところではじまらねえ。だからよ。どうしても戦争をしなけれやならんと云ふんなら、勝つより外に道はあるめえ。負けたら最後おれたちや、犬猫同然だ。手前のやうな、煮えきらねえ男ばかりだつたら、それこそ、勝つ戦もどうだかわからなくなるぞ。 鉄蔵  そんなこと云つて、お父つあん、僕たちや、手の出しやうがないぢやないか。爆弾にしろ、毒瓦斯にしろ、相手は喧嘩にならない代物なんだぜ。敵の飛行機は、味方の軍隊がやつつけようとする。それやいゝさ。だけど、僕たちや、地べたの上で、何をしてるんだ。武器を執つて堂々とわたり合ふことも出来ず、たゞ殺されない工夫ばかりしてなきやならないんだ。 欽蔵  それが間違えだ。手前は、自分のことばかり考へてる。なぜ「殺させない工夫」と云はねえんだ。自分を守るんぢやねえ。同胞を守るんだ。帝都を守るんだ。日本といふ国を守るんだ。そんなことがわからねえのか。 鉄蔵  わかりすぎるくらゐわかつてるよ。僕の云ふのは、なんのために働くかといふことぢやない。同じ働くにしても、受身ぢや張合がないと云つてるだけだ。 欽蔵  なんだ。張合がねえ! 鉄蔵  言葉は悪るいかも知れないよ。ぢや、なんて云つたらいゝかな。 欽蔵  なんにもいはないのが一番いゝ。 鉄蔵  だから、僕は、なんにもいはずにゐたんぢやないか。お父つあんが、余計なことを訊くからさ。僕は、空元気をつける必要はないんだ。 欽蔵  みんなが気もちを揃へようと思つたら、ちつたあ、大きな声ぐらゐ出すもんだ。 鉄蔵  ヨイトマケ、ヨイトマケつてかい。 欽蔵  畜生、このおれだつて、何時までも、ぢつとしちやゐねえぞ。防護団の連中に欠員が出来たら、何時でも出掛けてくから、手前さう伝へてくれ。 鉄蔵  そんなこたあ、云はなくつたつてわかつてるよ。 加代  食べたくないなんて、随分食べるぢやないの。 美代  兄さん、お弁当つけて何処へ行くの……。 鉄蔵  おつ母さん、服部の息子ね、僕と同じ班なんだぜ。昨日、戦友の契を結ぼうなんて、レモン・テイイをおごりやがつた。あいつ、センチだからなあ。 美代  もう、頭髪分けてんのね。 いく  あんな大きなお店でも、息子さんが毒瓦斯の組へはひりなさるのかね。 鉄蔵  鼻の利くやつがとられたんだよ。試験にパスしたんだからしやうがないや。 美代  あら、どんな試験? オールゴールの音が次第に消え、波の音がだんだん高く聞え出す。犬吠崎附近の海岸監視哨。波の音。 A  来たぞ、来たぞ。 B  待て、落着いて聴け。 C  距離は? A  確かにさうだ。ちよつと、測つてくれ。 B  懐中電燈を見せろ。 C  おい、伝令。 電話の呼鈴。 声  銚子第二監視哨報告……午後八時五十分、東北二千五百、重爆三機、高度三千、海岸に沿ひ南進す。 電話の呼鈴。 別の声  東金防空監視隊本部報告……午後八時五十二分、鳴浜東方三千、重爆三機、高度二千五百、九十九里海岸に沿ひ南進…………。 電話の呼鈴。 別の声  関東防衛司令部ですか。こちらは、千葉監視隊本部です。 電話の呼鈴……(前の文句に重つて) 防衛司令部 A別の声  警報係! 非常燈火管制……。 B別の声  こちらは防衛司令部です。司令官命令、各部隊は戦闘配備に就け。 C別の声  飛行隊は速かに出動せよ。 D別の声  消防、防毒機関、直ちに警戒配備につけ。 これに重ねて、遥かに砲声。砲声が消えると、もとの、時計のチクタク。 加代  あゝ、さうさう、さつきお父つあんの留守に、あの方が、ほら、予備の少将つて方がいらしつたわ。時計はまだ出来ないかつて……庄さんもゐないし、あたしぢやわからなかつたの。 欽蔵  ありや、ヒゲが錆びてたから取替へたんだ。今時間の調節をしてゐるとこなんだが、二三日待つて貰ふよりしやうがねえ。畜生、手がふるへてやがら。敵の飛行機なんかちつとも怖かねえが、どうも、空襲つてものにや慣れてねえからなあ。 急にサイレンの音。 美代  あ、電気が消えたわ……。 加代  ぢつとしといで。 いく  また点いた。なんだい、あのサイレンは……。 美代  来たんだわ。飛行機が来たんだわ。 いく  ちよいと、あんた……ほんたうですか。 欽蔵  静かにしろ。雨戸はしめたか。 加代  二階の電気。 サイレンの音に交つて、(空襲、空襲)とさけぶ警報班員の声。 某地点にある照空隊長の号令。 定位に就け。 目標、東方上空の爆音。 航速四十。 運転始め。 照射用意。 照空隊分隊長の号令。 A  第一分隊聴音よし。 B  第二分隊聴音よし。 C  航速四十。 A  運転始め。 (発電自動車の機関の音) A  照射用意、送電。第一分隊点燈よし。 B  第二分隊点燈よし。 照空隊長の号令。 統一照射。 十秒照射始め。 用意、測れ。 照空隊分隊長の号令。 A  統一照射、十秒照射始め。 B  用意、測れ。 C  零五二、四三(射手の報告) A  照射。 照空隊長の号令。 目標発見。 目標追随。 聴音機は東方上空を警戒せよ。 高射砲隊長の号令。 目標、東方上空の射光内の重爆。 高度千二百。 始め。 航速十秒。 航路角五百。 五発。 (砲声続いて五発)弾丸を装填する音。発射。弾丸の空気を裂く音。爆裂する音。薬莢の落ちる音。飛行機の爆音。機関銃の音(空中戦に於ける)やがて凄じい爆弾の音。悲鳴。その余韻に続いて、再び、時計のチクタク。 欽蔵  出掛けるか。よし、しつかり頼むぞ。 鉄蔵  姉さん、水筒……。 加代  気をつけてね。 美代  兄さん……。(泣声になる) また、爆弾の音、続いて二つ。 美代  お父つあん……。 欽蔵  大丈夫、大丈夫……。 爆弾、砲声、機関銃、プロペラの音、しばらく止まず。あちこちに、悲鳴が聞える。警報班員及び交通班員の声。 警報班員A  なるべく家の外に出ないで下さい。 交通班員  避難者は道路の右側をあけて下さい。 消防自動車のサイレン。呼子、拍子木。 B  第二小学校附近に毒瓦斯弾を投下しました。防毒マスクを用意して下さい。 C  この辺は風下ですから、急いでマスクをつけて下さい。 A  早く用意をして下さい。 避難する群集の騒音。 加代  鉄ちやんの組が行くんだわ。 いく  防毒班つていへばさうだね。あのマスクをしてゐれば、大丈夫なんだらう。 欽蔵  鉄のことはどうでもいゝ。早く、お前たち、マスクをかけろ。糊刷毛は何処へやつた。 表の戸をたゝく音。 欽蔵  なんですか。 声  旦那、わたしです。庄市です。 欽蔵  あゝ、庄さんか、どうしたい? 庄市  どうも、この辺は危いですよ。避難した方がよささうです。猛烈な毒瓦斯らしいです。普通のマスクぢや、駄目と見えて、ばた〳〵やられます。 欽蔵  何処へ避難するんだい? 庄市  ですから、わたしが御案内します。早く、みなさん出て下さい。 群集の叫び声、砲声に交つて、愈々はげしくなる。 欽蔵  やめたよ、庄さん、おれたちは動くまい。行つた先でまたやられやおんなじこつた。それより、救護班の方は忙がしかないかね。 庄市  あゝ、忙がしいには忙しいやうですが、救護班も今、避難準備をしてゐるところです。なにしろ、一度にどつとやつて来たもんですから……。 欽蔵  よし、おれはそつちへ行くよ。旭市場だつたね、救護所は……いゝから、君はほかを廻れ。おい、お加代、あとを頼むぞ。 加代  お父つあん、あんたみたいな半病人が行つたつて、なんにもならないわよ。 欽蔵  馬鹿吐かせ。子供をおぶふぐらゐのこたあ、おれにだつて出来ら。 加代  人手が足りなけれや、予備班つていふのがあるんだから、お父つあんなんか行つたつて、追ひ返されるだけよ。 直ぐ近くに、爆音。美代をはじめ、女共のけたゝましい悲鳴。 庄市  あ、飛行機が落ちた。 欽蔵  敵のか。 庄市  さあ……あゝ、燃える、燃える。こりやいけない。 加代  どこ? どこ? しばらく、砲声と、プロペラの爆音。群集のどよめき、電話の呼鈴。 声  防衛司令部参謀です。敵機主力は千葉方面に一部は東京湾に向つて退却。友軍戦闘機は、これを急追中であります。は? いえ、まだ、そつちの方面からは情報が上がりません。は? あゝ、さうですか、敵の航空母艦、艦名はわかりませんか。それや御目出度う。いえ、大したことはありません。 電話の呼鈴。 声  下田監視哨報告。三十機以上より成る敵の爆撃機編隊はその先頭を以て、只今、大島南端上空を北進中。高度三千。 電話の呼鈴。 別の声  海軍飛行隊の一部は直ちに出動、大島の上空に於てこれを邀撃せんとす。 電話の呼鈴。やがて、底鳴りのやうなどよめきの中に、時計のチクタク。警報班員の声。 A  敵機は退却しました。しかし、まだ油断はできません。非常管制を継続します。 B  救護所の手は揃ひました。却つて混雑を出しますから、もうどなたも手伝ひを御遠慮下さい。 C  毒瓦斯は空気より重いのですから、縁の下へ逃げ込まないで下さい。臭ひがしたら、取りあへず、濡れ手拭で鼻をおさへて下さい。 欽蔵  それみろ、なんでもありやしない。万事早く片づくところはえれえもんだ。おい、かうして、もしやうがねえ。仕事台をこつちへ持つて来るから、お加代、ちよつと手を貸してくれ。 いく  こんな明りで。あんた……。 欽蔵  黙つてろ。駄目だよ、そつちをそんなに持ち上げちや……ほら、ピンセツトがおつこちた。どつこいしよつと……坐蒲団をよこせ。こら、お前たちも、うろうろしてないで、針仕事でもしろ。 いく  戯談ぢやありませんよ。ほんとに、そんな呑気な真似してゝいゝんですか。 加代  いゝぢやないの、お父つあんはお父つあんで、したいことをさせといてあげたら……あゝしてないと、気が落ちつかないのよ。 美代  あたし、御不浄へ行つてもいゝか知ら……。 加代  いけないわよ。 いく  馬鹿だねえ。さつさと行つといで。明りを点けつぱなしにしちや駄目だよ。 欽蔵は、また眼覚の修繕にかゝつたらしい。ねぢを巻く音。やがて、例のオールゴールのメロデイ。 いく  鉄ちやんはどうしてゐるだらうね。 加代  人並のことはするわよ。 いく  どういふもんだろね。息子が戦争に出る時、母親はこんなぢやいけないと思ふんだけれど、やつぱり、普通の気になり方と違ふんだから……。 加代  だつて、おつ母さん、鉄ちやんばかりが危い目に会ふんぢやないわよ。あたしたちも戦争の真中にゐるのよ。 いく  それやさうだけどもさ。あの子は、毒瓦斯の中へはひつて行くんだつていふぢやないか。それに、なんといつても家の中とは違ふからね。 欽蔵  うるせえな、そんなお袋だから、鉄みたいな愚図々々ができちまふんだ。 いく  それや、あたしだつて、あの子の前でこんな事云やしませんよ。 欽蔵  思つてることは顔色に出る。 いく  思つてることだつて、それが全部ぢやありませんからね。あの子が立派な働きをしてくれゝばいゝ、さうも思つてるんですよ。 欽蔵  立派な働きをして……まあ、どうでもいいや、そんなこたあ……おい、お加代、表の戸棚へはひつてる油砥石を持つて来てくれ。それと、序に、機械止の捻廻し……。 加代  表ぢや、まだ人が騒いでるわよ。いやだ、誰か大きな声で泣いてるわ。 その泣声が次第に聞えて来ると、それがまた、だん〳〵遠ざかる、救護所である。様々な声。うめき声。 男A  重症患者は、向うのテントへ運んで下さい。 男B  もつと担架を持つて来なくつちや駄目だぜ。 女甲  今、先生が見えますから、少し我慢なすつて下さい。 女乙  あら、困るわ。今こゝへ置いた繃帯、誰が持つてつたの。 女丙  ちよつと、オキシフル、もうないぢやないの。 女甲  先生、先生、この方を早く診てあげて下さい。 女丁  いけません。勝手におはひりになつてはいけません。あとでお会はせします。治療の邪魔になりますから、一切面会は禁じることになつてゐます。 患者  あ痛い、痛い、痛い……あゝ、苦しい。 その声がかすかに消えると、けたゝましい電話の呼鈴。 声  大磯監視哨報告、三機より成る敵の軽爆撃隊は驚くべき快速力を以て、大磯上空を通過せり。高度二千、北進。北進。 防衛司令部参謀の声  おい通信手、横浜地区司令部へ接続。 遥かに機関砲の音。やがてサイレン。 高射砲隊長B  目標、西方上空の射光内の軽爆。 プロペラの爆音。 「高度二千」 「始め」 「航速十五秒」 「航路角六百」 「六発」 (砲声六発) 喊声とも悲鳴ともつかぬどよめき。 防護団分団本部員A  毒瓦斯弾無数に投下さる。警戒せよ。 B  防毒班、防毒班。 C  第一班、出動準備。 D  第二班、準備。 E  第三班。 F  旭市場の附近だ。救護所だ。 その声の上にかぶさつて呼子拍子木。機関砲の音。 救護班員C  患者を運び出せ。 D  風の方向は? E  東南…………。 D  ようし、避難所は佐竹子爵の邸内。 C  慌てるな、慌てるな。 F  防毒班はまだ来ないか。 C  救護班の予備班徴集。 女甲  さ、しつかりつかまつて下さい。 D  担架々々。 E  軽症患者は歩かせろ。 女患者B  とても駄目だわ。もう呼吸が、あゝとても苦しいわ。 D  しつかり、しつかり。 E  眼をやられるぞ。 女患者D  早く連れてつて下さあい。子供を子供を……。 その声がかすかに消えると、それにかぶせてかすかな砲声、時計のチクタク、オールゴール。 加代  美代ちやん……ちよつとこゝしばつて……あゝ袂が面倒臭いなあ。お父つあん、今度こそは、こゝにゐちや駄目よ。 欽蔵  やかましい奴だなあ、さつきも庄市がさう云ひに来たぢやないか。消毒薬がとてもよく効いて、こんなことなら毒瓦斯はちつとも怖くないつて……第一、まだ臭ひもなんにもしやしないぢやないか。軍隊は強いし、防護団の諸君はなか〳〵訓練が行届いてるし、われわれ非戦闘員はなるだけぢつとしてゐて、お互にぶざまなところを見せ合はない方がいゝんだ。その代り、いざ手がいるとなつたら、どんなことでも引受けるさ。 いく  なんだい、あの騒々しい音は……。 警報班員の声。 A  只今、旭市場前に毒瓦斯弾が落ちましたが、この辺は避難の必要ありません。救護班の第一予備員の方は、至急マスクをつけて、旭市場救護所へお集り願ひます。 いく  加代ちやんの番かい。 加代  あたしは第二よ。 瞥報班員の別の声。 B  救護班第二予備員の方は、至急佐竹子爵邸仮救護所へお集り下さい。 加代  第二ですか。 B  さうです、佐竹子爵邸ですよ。 加代  はい、わかりました。きつと救護所の引越しだわ。 いく  足袋をはいといでよ。 美代  姉さん…………。 加代  行つて参りまあす。 欽蔵  さう〳〵、さう来なくつちや。 戸の開く音。戸外のどよめきが流れる中を、草履の音を高く、加代は走り出す。 消毒液を撒布する音。 防毒班A  やあ、まだこの辺は臭いぞ、みんな来てくれ。 B  家の中が大変だ。 C  逃げ遅れたものはゐないか。 D  おい、酒井君、何処へ行くんだ。 鉄蔵  君達、その辺を頼むぜ。まだ奥の方が残つてるから、僕ちよつと行つて見てくらあ。 酒井鉄蔵は、かうして、ある長屋の路地へ進入して行く。 鉄蔵  おや、誰か倒れてるぞ。もし〳〵、どうしたんです。小母さん、マスクはないんですか。早く逃げなきや駄目ですよ。弱つたな。もう起てないんだね。待ち給へ、おゝい、救護班……救護班来てくれ。苦しいの。さう〳〵、喉が苦しい。ぢや、しかたがない。僕のマスクを貸してあげよう。さ、その代り大急ぎだ。フウ……フ……いゝですか、しつかりおぶさつて下さい……(咳入る)……うむ。…… 鉄蔵は、老婆を負ぶつたまゝ、その場に倒れる。 A  今、誰か呼んでたやうだぜ……こんなところは、いゝ加減にしとかうよ。酒井君はどうしたんだい。しやうがないなあ、一人で行つちまつちや……おゝい、酒井君……鉄蔵君……。 高射砲の音、遥かに……やがて、遠くで(万歳)といふ歓声。 BC  酒井君……鉄蔵君……。 女の声(無論加代である) 加代  あなた、服部さんのお子息さんでしたね。鉄蔵がどうかいたしましたんですか。 A  暗くなつてよくわからないんですが、探してるんです。たつた今、一緒にゐたんですけど、なんでも、この奥へ入つて行つたらしいんです。駄目ですよ、まだ毒瓦斯が残つてゐますから……。 B  お待ちなさい。今、消毒薬を撒きますから……。 機関銃の音。続いてまた(万歳)といふ声。 加代  あの黒いのはなんでせう? A  懐中電燈をつけませう。 加代  あ、鉄ちやん……鉄蔵ですわ。鉄ちやん……どうしたの……こんなとこで……。 B  無茶だ、こいつ、マスクを脱ぐなんて……。 C  酒井君……(半ば憤り)このお婆さんは一体、だれだい? 加代  鉄ちやん、あんたは、この人を助けようと思つて……。 機関銃の音、ひとしきり。やがて、この音に交つて、電話の呼鈴。 もし、もし、こちらは大島監視哨であります。わが海軍飛行隊は、敵機十数機を射落し(電話の呼鈴)残余十三機は一斉に白旗を掲げたるにより、(電話の呼鈴)これを波浮港外に誘導着水せしめたり。終り。 この報告は二度、電話の呼鈴で遮られ、次第に低く聞える。これに代つて、時計のチクタクがはつきり聞えて来る。 欽蔵  どうも御苦労様でした。加代は、すると一緒に救護所の方へ行つて居りますんですな。 防毒班A  えゝ、あちらへは、どなたもおいでにならないやうにつていふ御言伝でした。 欽蔵  駄目ときまつたなら、遺骸はすぐにこちらへ、引取らしていたゞけませうか。 A声  さあ、僕にはよくわかりませんが……その事だけなら、お伝へして置きませう。 欽蔵  何分よろしく。 戸を閉める音。 美代  お父つあん。 欽蔵  馬鹿野郎! その面はなんだ。今は戦争ぢやねえか。貴様たちは、大体、生きてゐてなんになるんだ。かういふ時は、死ぬのが当り前ぢやねえか。畏れ多い事だが、上御一人に御障りさへなければ、日本国中、誰一人、死んぢやならねえといふ人間はねえんだ。畜生め、承知しねえぞ。 欽蔵は、やけに時計のねぢを捲く。戸の開く昔。人声。 加代  お父つあん。鉄ちやんを、連れて来ましたよ。おつ母さん、蒲団を敷いてやつて下さい。 沈黙。時計のチクタク。 遠くで万歳といふ声。電話の呼鈴。 東金監視隊本部報告。両翼を大破せる敵重爆一機、只今、九十九里海岸片貝町の海上に不時着。直ちに、その乗組員四名を捕虜とす。なほ、他の一機は、同町二千米の沖合に墜落せるものゝ如く、捜索の結果、遂に機影を発見せず。 時計のチクタク。 欽蔵  白いきれはないか。 加代  今ガーゼを出します。おつ母さん、金盥に水をくんで来て頂戴。それから美代ちやん、二階の机の上の花瓶から桔梗の花を二つぬいて来て……萎れてないのをね。 近所からのラヂオが聞え出す。 JOAK……こちらは東京放送局であります。只今から、東京防衛司令部発表のニュースを放送いたします……今夕、八月八日午後八時五十五分、同じく九時二十分の二回に亙り、帝国の領土上空を襲ひたる敵機は、総数合せて三十六機、疾風暗黒の夜に乗じて巧に我が攻撃を避け、遂にその数機は、帝都中心圏内に侵入して、若干の損害を与へたるも、天佑、海陸皇軍の作戦を利あらしめ、市民並に隣接諸県官民の沈着剛毅、よく非常防空の実を挙げ、茲に、第一回空襲の敵機を文字通り撃滅し得たり……。 この放送の終らない中に、軍楽隊は荘厳勇壮な君ヶ代マーチ(或いは『海行かば』)が吹奏される。 庄市がかけ込んで来る。 庄市  旦那、どうもとんだことで……たつた今、救護所でその話を聞いたんです。 欽蔵  うむ、聞いたか。 庄市  えらい評判です。 加代  あたしが見つけたのよ。 庄市  さうですつてね。あ、あの婆さんは、助かつてますよ。 万歳、万歳。 欽蔵  (『万歳』といふ声に耳をすまし)やい、鉄蔵、あの『万歳』が聞えるか。あの楽隊が聞えるか。 急に、いくが声をあげて泣き出す。美代も、これにつれて泣く。 庄市  お神さん、泣くつて法はないや。名誉の戦死でさあ。 欽蔵  なに、かまふこたあねえ、泣きてえものは泣け〳〵。けちな涙たあ、わけがちがはあ。おい、お加代、祝盃だ。冷でいゝから、一本持つて来い。(胸が一つぱいだといふことがわかる) マーチ、万歳の声。 底本:「岸田國士全集6」岩波書店    1991(平成3)年5月10日発行 底本の親本:「花問答」春陽堂書店    1940(昭和15)年12月22日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:kompass 校正:門田裕志 2011年7月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。