華嚴瀧 幸田露伴 Guide 扉 本文 目 次 華嚴瀧 一 二 三 四 五 六 七 八 一  昭和二年七月の九日、午後一時過ぐるころ安成子の來車を受け、かねての約に從つて同乘して上野停車場へと向つた。日本八景の一と定められた華嚴の瀑布及びその附近景勝遊覽のためであつた。  二時五分の日光直行の汽車はわれ等二人を乘せてはしり出した。車窓の眺めは例によつて例の如しであるから退屈の餘りの時間を雜談に消すほかはなかつたが、安成子は職分に忠實なので、しきりに八景論を提出して老人の談話を引出さうとつとめる。景勝などといふものは論談の對象にするには聊か宜し過ぎるものであつて、山にしろ、水にしろ、たゞこれに打ち對つて怡然として神喜び心樂めばそれで宜いので、甲地乙地の比較をしたり上下をしたりするのは第二第三の餘計な事で、眞にいはゆる蛇足を畫くものであるから、ナアニ八景は勿論好いサ、二十五勝もまた勿論好いサ、百景の中へ入れられた地にも中々好いところが有るのサ位に片づけてしまつても、それでは先生承知しない、風景論の投繩を頻に投げ掛けて、野馬的に勝手氣隨に奔逸したがる老人の意馬の頭を主要問題の方に向はせようとする。とう〳〵八景の談に引張りこまれてしまつた。  一體八景といふのは隨分長い間の流行言葉であつて、何八景彼八景、しまひには吉原八景、辰巳八景とまで用ゐられて、ふけて逢ふ夜は寢てからさきのなぞと、イヤハヤ途轍も無い邊にまで利用されるに至つたほどであるが、最初はこれも矢張り支那文學美術すべて支那影響を受けた頃に起つたことである。八景といふ字面は唐あたりからある、イヤ景色に八ツを取立てゝいつたのは南齊の沈約の八詠樓など、或はもつと古いところにあるか知らぬが、金華の元暢樓に沈約が八篇の詩を題してその景色をほめたところから、後に八詠樓と人が呼んだ。李太白が金華開二八景一と吟じたのも即ちその八詠樓の事で、任華といふ男が太白に寄せた詩に、八詠樓中坦腹にして眠るといふ句のあるのも、即ち同じその元暢樓をいつたのである。又たゞ單に八景といふ字面は別にあるが、それは三元や三聖といふ言葉と對になるので、景色の事では無い、黄庭内景などといふ景の字と同じ意味に用ゐられたもので、人の身體に上部中部下部の八景がある。上部の八景は腦、髮、眼、耳、鼻、口、舌、齒であるといふのであつて、道家の語である。そんなことはどうでもよい。が、古い詩の句の八景といふのは、この道家の語の八景を知らぬと解がとゞかぬやうになる。今の何々八景といふのは、白石手簡に八景のはじめは宋人か元人かにて宋復古と申す畫工云々とあるが、それは夢溪筆談に出てゐる度支員外郎宋迪の事で、平沙落雁、遠浦歸帆、山中晴嵐、江天暮雪、洞庭秋月、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、漁村夕照、之を八景といつて得意の畫であつたといふのである。後の八景といふのがこれに基づいてゐることは疑はれない。美術天子の宋の徽宗皇帝が、張戩といふ畫人をして舟に乘じて往いて山水の勝を觀て八景の圖を作るやうに命ぜられたといふことも、傳へられてゐる談であるから、八景のはじまりは宋であつて、そしてその山水は平遠山水であつたことも疑はれない。  我邦では東山の頃、玉澗の八景の畫が珍重されて、それから八景々々といひ出されたのだが、その玉澗の八景が宋迪の八景から系統を引いたものであることも想像されるに難くない。それからその後慶長元和の頃、京の圓光寺の長老がゆゑあつて近江蟄居の時、琵琶湖付近の景を瀟湘八景に擬して當時の人々から詩歌などを得た。それがいはゆる近江八景のはじまりだが、白石でさへ、好い景色は何も八景には限らないことだのに、景としては夜雨、秋月、歸帆、落雁ならぬはないのは餘り不雅なことである、と厭はしく思つてゐる。も一つ又八景については、徳川期最初の大儒の惺窩先生がその市原山莊に八景を擇んで人々の詩歌を得たことがある。そんなこんなで八景といふことを段々人がいふやうになつたのだが、その市原山莊の八景沙汰も契沖は雜々記に餘りよくはいつてゐない。とにかくに江戸期はこんな譯で八景を擇むことは大流行を來し、少し眺望が好いところは何八景彼八景といつたものだが、いづれも復古や玉澗の餘唾で、有難くないことだつた。ところが今度の八景は、すつかりさういふ古軌道にあづからず、新眼新選、廣く大八洲内から八勝を選んで、一景一面目、各〻その美を揚ぐるやうにせしめたのは、景色觀賞においての畫時代的記録を作つたもので甚だ愉快である。  と、こんなことを語つたり思つたりしてゐる中に、晴れたり曇つたりする日の右手の車窓には梅雨の雲の間に筑波の山が下總の青田の上、野州の畑の上から美しいその姿を見せ、左方の日光つゞきの山々はなほ薄雲の中に隱れてゐて、早くも宇都宮に着き、やがて日光驛に着いた。 二  停車場を出ると直に自動車に乘つて山上へと心ざした。本來今市から日光までの路は、例の杉並木の好い路であるから、汽車で乘越すのは惜いのであるが、時代を逆行させて、白地の夏の衣の袖さへ青む杉の翠の蔭を、煙草の烟吹きながら歩くむかしに返すことも出來ないことであるから是非無いとして、日光へは一夜宿つて東照宮其他を拜觀すべきであるが、それはすでに二人共に幾度か濟ませてゐることでもあり今度の目的でもないから、いきなりプー〳〵と山へ上つたが、馬返しまではたゞ一飛びであつた。それからは地名があらはしてゐる如く山路けはしくなるので、道路は文明のお蔭で汗も流さず車中に安坐しながら登り得るものゝ、時々急勾配の電光形状の屈曲角になると、車も一寸逆行して方向を鹽梅しなければ登れぬところも有つて、山嘴突端の逆行は餘り好い心持では無い。けれど日光自動車に事故はかつて無いといふ歴史を信じて談笑してゐる中に、般若方等の瀧徑も後に段々樹深く山深く入つて、溪添路は殊更に夕霧の深くなる中を大平へ着いた。  霧は可なり濃くなつて何もはつきりとは見えず、夏の長き日も暮かゝつて來るので、わが乘つた車の轟きも或時は奇妙に反響して、瀧の轟きが聞えるのでは無いかと疑つたりした。大平と聞いたので車を止めて下り立つた。瀧見臺へかゝつた。こゝは華嚴の瀧をその三分の二位の高さに當るところから望むところで、三十年も前には人々は大抵こゝから瀧を見るのみであつた。古い記憶は丁度今起つてゐる霧の立隔てゝゐるやうになつてゐるその中をたどつて、瀧を見るべき突端に至つた。客を接する人も居らず、岑閑とした霧の暮に、あらい金網を張つてゐる危ふげな突端にいたると、一谷呀然として開けて、たゞ白煙蒼霧の埋めてゐるかなたに、恐ろしい瀧の音が不斷の響きを立てゝゐるばかりであつた。心當にかなたと思はるる方をぢつと見てゐると眞白な霧の中に薄々と、薄青い帛を下げたやうにそれとうなづかるゝものがかすかに透かして見えた。山氣と嵐氣と暮氣とは刻々に懷に迫つて、幽奧の境、蒼茫の態、一聲鳥だに啼かず、千古水いたづらに落つる景、丁度人去つて霧卷くこの時に會つて、却つて原始的の状を味はふことは出來て幽趣無きにあらずでは有つたが、これだけでは仕方が無い、いづれあとは又明日と車に上つた。  時計を見ると七時五分であつた。そこで東京上野からは正しく僅々五時間で八景の一たる景勝が連接されてゐると思ふと、莞爾として滿足欣快の感のわき上るのを覺えた。五時間である。僅に五時間である。それで海拔四千尺の地に、直下七十何間(七十五丈ともいふ、説はまち〳〵だ)の大瀑布に對し、白樺や山毛欅や唐松の梢吹く凉しい風に松蘿の搖ぐ下に立つことが出來るかと思ふと、昭和の御世が齎らしてゐる文明が今のわれ等を祝福してゐてくれると誰も感ぜずには居られまい。  車は忽ち電燈の光の華やぐ旅館の門並の前を過ぎて、朱の鳥居の見ゆるところに來た。中禪寺へ着いたなと思ふ間もなく、華嚴の瀧の上流である湖尻の川にかゝつてゐる橋を渡ると、周圍七里の一大湖は眼前に開けたが、霧が來去するので何程の濶さがあるか朦朧として、たゞ人の想像に任せるものとして見えたのも却つて興があつた。以前は橋を渡らずに二荒山神社の方へ湖畔に沿うて行つて、そこらに點在する旅館に泊つたものであるが、われ等は歌が濱の米屋といふに着いた。樓に上つて欄によると、湖を壓して立つてゐる筈の男體山もぼんやりとして、近き對岸の家々の燈火も霧のさつと風に拂はれる時は點々と明るく、霧のおほひかゝる時は忽ち薄れ忽ち見えずなつた。雲霧は山につきものであり、塵埃は都の屬物であるが、萬丈の塵は景氣が好い代りに少し息苦しい。山の湖の霧は凉やかでこそあれ、安らかに吾人の睡眠を包んでくれた。夢を訪ふものは銀鈴を振るやうな河鹿の聲ばかりであつた。 三  平和の夢からさめて十日の朝だなと意識した時には、昨夜は少し厚過ぎるやうに思つた夜被も更に重く覺えなかつた。湖に面した廣縁に置かれた籐椅子によつて眺めると、昨日は水の面をはつて一望をたゞ有耶無耶の中に埋めた霧が、今朝はあとも無く晴れて、大湖を繞る遠い山々の胸や腰のあたりに白雲が搖曳してゐるばかりで、男體山は右手の前面に湖岸から直ちに四千尺の高さをもつて美しい傾斜で、翠色滴るばかりに聳え立つてゐる。山が自然の作用によつて條をなして崩れて襞襀のやうなものを造り出すのを、ゾレといふ國もありナギといふ國もあるが、男體山は頂上まで滿山樹木が茂つてゐるので、そのいはゆるナギの少いのは、人をして山に對してなつかしい和らかな感じをもたしむる所以で、それが加之清らかに澄みきつた萬頃の水の上にノッシリと臨んでゐるところは、水晶盤上に緑玉を堆うすとでもいひたい氣がする。二荒山神社及びその附近の人家が昨夜は霧のために遠く想はれたが、今朝は近々と指點し得るだけ空氣が明るいので、眼を男體山から左方へ移すと、連山が肩をつらね手を接して爭ひ立ち並び圍んでゐる中に、前白根奧白根が流石にそれとうなづかせるだけの勇姿を示して、まだ殘つてゐる谷の雪が銀白の光を見せてゐるのもうれしい景色であつた。  朝食を終つてから宿の主人や東日の通信員の案内を得て復び華嚴の瀧へと向つた。大平の瀧見臺へ到る途中、瀧の流れる見當へと行く右手の、道も無い林間叢裏に處々鐵網を張つて人の通行をさせぬやう用心してあるのが見えた。無理に瀧の上へ出て生命を粗末にしようとする狂人共を制する爲の手配であるが、見るさへにが〳〵しい。  瀧見臺に立つて見ると、昨夜の幽味は少しも無くて瀧は明らかに見え、無數の岩燕が瀧飛沫の煙の中を、朝の日の光を負ひながら翼も輕げに快く入亂れて上下左右してゐる。この臺から瀧を望むのも惡くは無いが、瀑布といふものの性質が俯瞰もしくは對看するよりは、その下にゐて仰望する方がその美を發揮する。然なくばやゝ離れた位置から遠くわが帽子の簷のあたりに看る方がおもしろい。李太白の廬山の瀑布を望む詩の句にも、仰ぎ觀れば勢轉雄なり、壯なる哉造化の功、といつてゐるが、瀑布の畫を描けば大抵李太白は點景人物になつてゐるほど瀑布好きの詩人で、自分からも、仍て諧ふ夙に好む所に、永く願はくは人間を辭せん、といつてゐる位に、名山の中に飽までも浸りたがつた先生である。その李太白先生も仰觀の一語を道下してゐる。どうも瀑布そのものが高處より落ちるところがその生命なのであるから、仰ぎ觀るのがよいに相違無く、さうしてからこそ、初めて驚く河漢の落つるを、半灑ぐ雲天の裏、なぞといふ詩句も出來て來るのである。また遠望するのも宜しい。同じ人が、日は香爐(峯の名)を照して紫煙を生ず、遙に看る瀑布の長川を挂くるを、といつてゐるのは遠望の觀賞である。華嚴は遠望する譯にはゆかぬが、瀑布の下へは幸にして下りられる。そこで瀧見臺より少し下つて、休み茶屋のあるところから谷底へと下りた。丁度瀧見臺の眞下へ下りるのだから、徑は甚だ危急であるが、老人の自分が靴をはいたまゝで下りられるのであるから、さして老人の冷水業といふほどでもない。勿論巖岨を截り削つて造つた道だから、歩を誤つては大變であるが、鐵の棒を巖へ立てたり、力になるやうに鐵線を架してあつたり、親切に出來てゐるから危いことも無い。  次第々々に下りて行くと華嚴の瀑布は見えなくなるが、やがてどう〳〵といふ瀑布の音が聞えて、右手に立派な瀧が見える。それは白雲の瀧といふので、その瀧の末の流れを鵲の橋によつて渡つて對岸へ路はつゞく。橋の上は丁度白雲の瀧を見るによい。これは屈折はしてゐるが五十間であるから、他の土地に在つたら本尊樣になるだけの立派な瀧だが、華嚴の近くにあるので月前の星のやうに人に思はれるのは是非が無い。併し鵲の橋の上に立つてゐると瀧が近いので、瀧飛沫は冷やかに領に下ちて衣袂皆しめり、山風颯然として至つて、瀧のとゞろき、流の沸りと共に、人をして夏のいづこにあるかを忘れしむるところ、捨て難いものがある。橋の名も宜い、瀧の名も宜い、紅葉の頃には特にウツリが宜からうと思はれる雅境である。橋を渡つて巖路を一轉囘すると、やがて華嚴の大觀は前面に現れた。 四  大谷川の源頭の流れに對し、華嚴の大瀑布を右手の軒近く看て、小茶亭が立つてゐる。それが即ち五郎兵衞茶屋であつて、今日のところではこの茶店又はその附近程、天下の名瀑布たるこの瀑布の絶景を賞するに適した處は無い。大谷川となつて瀧の水が流れ出す東の一方を除いては、三方は翠峯青嶂に包まれてゐるその中央の高處から雪と噴き雷と轟いて、岩壁にもさはらずに一線に懸空的に落ちて來るのが華嚴の壯觀である。瀧の幅と高さの比例も自然に甚だ審美的であり、瀧壺の大きさもこれにかなつてゐる。瀧の背景になつてゐる岩壁も上半部が三段ばかりに横襀になつて見えるが、その最上部のものは恰も屋簷のやうに張出してゐて、その縁邊が鋸齒状をなしてゐるので鋸岩といふさうであるが、若しそれ近くついて視る時は、屋簷のやうに張り出してゐるその出が五間餘もあるといふのであるから驚く。これ等の巖壁の罅隙は、無數に亂飛してゐる巖燕の巣であつて、全く燕でなくては到る能はざるところである。巖壁の中部より下は、幾條となく水がほとばしり出してゐて各〻衞星的小瀑布をなしてゐる。その中で數へるに足りるのが十二もあるので、十二の瀧といふ名を與へられてゐる。十二の瀧の一つで、華嚴に近く、向つて右手のものは、高さが百三十尺もあるといふから、たとへ衞星的のものですらも他處へ持出せば、壯觀だの偉觀だのといはれるに足りるのである。これを以て推して華嚴の雄大を知るべしである。  まして此境が冬になつて氷雪の時にあへば、岩壁四圍悉く水晶とこほり白壁と輝いて、たゞ一條長へに九天より銀河の落つるを看る、その美しさは夏季に勝ることは遠いものであらうが、今は、千年流れて盡きず、六月地長へに寒しといふ詩の句の通り、人をして萬斛の凉味に夏を忘れしめ、飛沫餘煙翠嵐を卷いて、松桂千枝萬枝潤ひ、龍姿雷聲白雲を起して、岩洞清風冷雨鎖してゐる快さをもつて吾人を待つてくれる。この華嚴の景を直寫しようとして、石偏や山偏や散水や雨冠の字を澤山持ち出したら千言二千言の文の綴るのも難事では有るまいが、活字制限の世の中に文選的の詞章を作つて活字の文選者を弱らせたとて野暮なことであるし、女學生や小學生も修學旅行で昵懇になつてゐる場所のことを、今更らしく艮齋張りの文なぞにするのも餘り小兒臭いから、夏向はすべて抛下著にかぎると、あつさり瀧の水に流してしまつて、煙草のしめる瀧壺の冷え、その煙草から李白の詩句では無いが紫煙を生じさせてゆつくり一休み。  五郎兵衞茶屋の主人、名は五郎作、六十餘の好人物的風采を具した男で、茶屋開始者五郎兵衞老人の子である。五郎兵衞老人は華嚴の瀧が立派な瀧であるに拘らず適當な觀賞場所が無くて、たゞ瀧見臺から觀望するに過ぎぬ事を他國の人々が飽かず思ふのを道理と感じた。そしてこれは瀧壺へ下りさせるに足る徑を開くに限ると考へた。本業は人を使つて山深く入つて曲物(日光名物であるに拘らず、今はこれを鬻いでゐることの少いのは遺憾だ)の材料たる木をとるのであつたが、その事を思ひ立つてから、獨力で測量し、獨力で開鑿しはじめた。人々はそんな無理な事が出來るものかと嗤笑した。非難や嗤笑は、世の中の賢顏する詰らない男、ガスモク野郎、十把一からげ野郎の必ず所有してゐる玩具である。五郎兵衞老人は玩具におどかされるやうな男では無かつた。その鶴嘴を手にしだした時はすでに六十三歳であつたが、せかず忙がず、毎年々々コツ〳〵と路を造つた。七年の歳月は過ぎた。明治三十三年に至つて路は成就した。それが即ち今の路である。三十三年以前は瀧壺へは下りられなかつたが、徑が出來てから世人は華嚴を十分に觀賞するを得るに至つたのである。耶馬溪も昇仙峽も、これを愛しこれを開く人が有つてから世にあらはれるに至つたのである。華嚴も五郎兵衞老人を得てから愈〻その美を發したのである。瀧の神も吾人も五郎兵衞老人に滿腔の謝意を致さねばならぬ。 五  對岸の高處に明智平といふのがある。馬返しからそこを經て中禪寺へケーブルカー敷設の企てがある。それが成就すれば、八分乃至十二三分で馬返しから中禪寺へ行く事が出來るやうになる筈であるとのことだ。五郎兵衞老人の工事は誠意と勇氣との自力で出來たのだが、この工事は資本と巧智との衆力で出來るのである。出來上つた上はいづれも感謝に値するが、ケーブルカーの工事が勝景の風致の上に十分の考慮を拂つて施行されんことを望む。叡山筑波山の如きは無くもがなのものだといふ評さへ聞くが、こゝのは蓋し出來れば出來た方が婦女老幼のために甚大の利を餽ることにならう。  歸路についた。白雲の瀧、かさゝぎの橋は矢張り好い感じを人に與へる。歸りは上りになるのと、一度でも歩いた路なのとで、嶮峻の感じを大に薄くする。上り了つて一休みしながら、下までの深さを考へると、箱根の大路から堂ヶ島へ下りる位、或はそれより一二丁少しくらゐのものであつた。  中禪寺の區長に迎へられて、人々と共に宿に還ると直に湖に泛んだ。モーターボートで湖を一周しようといふのである。四山環翠、一水澄碧の湖上に輕艇を駛らすれば、凉風面を撲つて、白波ふなばたに碎くるさま、もとより爽快の好い心持である。歌が濱の佛國、英國、獨國大使別館、いづれも景勝の地を占めて湖に臨んでゐる。立木觀音で艇を出でゝ、立木をきざんだ本尊の古拙ではあるが面白い像を見、勝道上人の所持であつたといふ傳の刀子だの錫杖だのを見た。  勝道上人は日光の開山者で、日光を開くために前後十數年を費し、それまでは世に知られ無い神祕境であつたのを遂に開いたのである。その事は空海の性靈集中の碑文に見え、またそれによつて書いたと見える元亨釋書にも見えてゐる。神護景雲から延暦にわたつての事で、弘法大師よりは少し前の人である。この頃は有力の佛者が諸所の山々を開いた時代で、小角が芳野を開き、泰澄が白山を開いたのなどは先蹤をなしてゐる。上人の所持物だつたといふものが眞實であるならば、相當に貴族的有力者的生活者だつた事が窺ひ知られる。おもふに地方において中々の權力地位を有してゐた人であつて、それでこの山をも開き得たのであらう。元來この山の名は二荒山であつて、音讀して美しい字面を填めて日光山となつたのは、たとへば赤倉温泉の中の嶽が名香の嶽の字で填められ、名香を音讀して妙高山となり、今日では妙高山で通るやうになつたと同じである。また二荒を普陀落にあてゝ觀音所縁の山名に通はせ、それで觀音をきざみ、勸請などもしたのであらう、弘法の文にもはやくその洒落が見えてゐる。とにかく勝道上人のおかげで好い山が開けたものであるから、感謝の情を起さずにはゐられない。  堂を出て心づくのは、華嚴の瀧に飛び込んだ馬鹿者どものために供養塔が建てられたり、地藏尊がきざまれたりしてゐることである。これは死者をかなしむ美しい人情のあらはれであるが、死者は眞に人をわづらはし地を汚したものである。死にたくなるには何れそれだけの事由があつてだらうから、一概に罵倒したくも無いことでは有るが、同胞の一人が飛び込んだとすると、さあ大變だ、大騷ぎをしてその死骸を搜し出す、それ〴〵の公私手續きを取る、その面倒さは一通りのもので無い。死んだ人は彼の恐ろしい瀧の中へ飛込んだなら一切この世とは連絡が絶えてしまふ位に考へてでも有らうが、何樣してそんなに容易に一切が水の泡となるものでは無い。瀧壺は三十何尺の深さが有つても、屍骸を食つて消化するのでも何でも無いから、必ず之を吐き出す。大勢の土地の人々は必ず之を見付け出す。見るも物憂い醜い屍は、煩雜な手續きを經て後に適法に處理される。その厄介を人々に掛ける事は一通りや二通りで無い。死者もその間は死恥をさらさぬ譯にはゆかぬし、死者の遺族などは重々困難の立場に立つ譯だ。自殺は人の勝手のやうなものだが、華嚴飛び込くらゐ智慧の無い、後腐れの多い、下らない死方は無い。生を否定してゐるに近い佛教ですら自殺は禁ぜられてゐて、釋迦存生當時厭世觀の極點に立つて、獵師であつたものに自分を殺させた者、その他の自殺をはかつた者等が釋迦の彈呵を被つたことは記録に明らかである。西藏や印度の蒙昧信者が身を棄てる如きも誰か今日之を是認しよう。まして宗教的からでも何でも無い、詰らないことから自殺しようとして華嚴を擇ぶ如きやからには、自分の權利も何も有るものでは無い。特に華嚴をえらぶ如き下らぬわがまゝを許せる理由が何處に有らう。涅槃の瀧といふのが何處かに有つたら知らぬこと、華嚴は高華偉麗の世界である、白牡丹花に蟻の這ひ上るのはまだしも許し得るとしても、華嚴に汚穢い馬鹿者の屍體を晒さうといふ場席は無いわけだ。華嚴行願には火の中へ飛び込んで清凉世界を得る談はあるが、それも淺間山へ飛び込めといふやうな譯ではない。華嚴へ飛び込みたいやうな氣のする人があつたら、六十三歳から瀧壺道を七年かゝつて造つた人にも慚ぢて、せめて故郷へかへつて半年なりと鍬でも鋤でも振廻して働いて見て貰ひたい。「石塔に鉢卷」といふ壯んな諺が日本にはあるが、石塔になつた氣で鉢卷をして働いたなら、華嚴の瀧はその人の棺前の華では無くて、必ず酒の下物たる好い眺めであらう。と先亡諸靈を哀むにつけて、つく〴〵と心中に思つた。 六  復び艇へ戻つて寺ヶ崎の端を廻り、上野島かけて大日崎の方を走ると、艇の位置が變るにつけて四圍の山々も動き、今までは見えなかつた山が姿をあらはしたり、今まで見えた山が隱れて行つたり、青山翠巒應接にいとまがない。その中に足尾方面の山だけが、その鑛毒に蒸されて焦枯れた林木の見るも情ない骨立した姿を見せてゐる。あれだけに育つた木々だから、何とかしたらば繁茂をつゞけられるのだらうが、二十世紀的、資本的、ドシ〳〵バタ〳〵的に無遠慮に採鑛精煉の事業をやられては、自然も破壞潰裂させられるのを如何ともし難い。地獄變相の圖の樣な景色が出來ても是非に及ばないが、何人にも詩人的情緒は有るから、生氣に充ちた青々とした山々の間に、鬼々しくなつた枯木の山を望んでは黯然としてこれを哀しまないものは無い。段々走つて白岩あたりに行くと、岸のさま湖のさまも物さびて、巨巖危ふく水に臨み、老樹矮びて巖に倚るさまなど、世ばなれてうれしい。仰げば蓋を張つたやうな樹の翠、俯けば碧玉を溶いたやうな水の碧、吾が身も心も緑化するやうに思はれた。  千手が濱から赤岩、丁度白岩に對してゐるが、岩こそ赭色なれ、こゝも宜い景色である。千手が濱で艇を出て、アングリング・エンド・カウンツリー・クラブの養魚場を見たが、舟から上つて平地の林の中へ入つて行く感じは眞に平和な仙郷へでも入るやうで、甚だ人に怡悦の情を味はしめた。緑蔭鮮かなるところ、小流れの清水を一區畫一區畫的に段々たゝへて、川マス、ニジマス、ブルトラウト、スチールヘッド等の各種鱒族の幼魚を養つてある。水清く魚健やかに、日光樹梢を漏りてかすかに金を篩ふところ、梭影縱横して魚疾く駛るさま、之を視て樂んで時の經つのを忘れしむるものがある。  菖蒲ヶ濱にも養魚場がある。これは帝室關係のもので、野趣は少い代り堂々たる設備で、養魚池もひろく、鱒も二尺位になつてゐるのが數多く見えた。釣魚もおもしろいが養魚はなほ更佳趣の多いことで、二ヶ所の養魚場を見て、自分も一閑地を得たら魚を養ひたいナアと、羨み思ふを免れなかつた。莊惠觀魚の談このかた、魚を觀るのは長閑な好い情趣のものに定つてゐるが、やがて割愛して、今度は艇を捨て、自動車で龍頭の瀧へと向つた。  龍頭の瀧もまた別趣を有してゐる好い瀧である。水は斜に巨巖の上を幾段にも錯落離合してほとばしり下るので、白龍競ひ下るなどと古風の形容をして喜ぶ人もあるのだが、この瀧の佳い處はたゞ瀧の末のところに安坐して、手近に樂々と見ることと、巖石の磊砢たるをば眼前にする所にある。  路は男體山の西へ廻り込んで、さしたる傾斜もない野を知らず識らずに上つて戰場ヶ原にかゝる。古は湖底か沮洳地ででもあつたかと思はれるのが戰場ヶ原である。可なり濶い面積の平野に躑躅や山菖蒲が咲いてゐて高原氣分を漂はせてゐる荒寞の景が人を襲ふが、此處は雪がまだ山々にむら消むら殘りの頃か、さなくば秋の夕べの物淋しい頃が、最も人に浸み入る情趣をもつところで、日光や中禪寺の人々が「歡びの花」といふよしの躑躅花(この花が咲けばやがて多くの遊覽者が入込んで土地がにぎやかに潤ふ)が咲いてゐる、今はむしろ特有の持味を漲らせてゐないのを遺憾とする。  車はやがて湯元に着いた。湯の湖は左手にその幽邃味の溢るゝばかりなすがたを、沈默のうちに見せてゐる。湯元は山奧の突き當りのやうな感じのする地であり、古風の湯宿と今樣の旅館とが入り交つてゐる温泉の香の高い小さな村であるが、何となく人をゆつたりと沈着かせてしまふやうなところが、實際山奧の湯村の氣分でもあらう。  一浴して晝餐を取ると、村の人々が東京日日に對する好感を表示して訪うてくれた。その人々に擁されて、特に仕立ててくれた手剗舟二隻に分乘して、湯の湖を廻つた。湖は中禪寺湖より遙に小さいが、周圍の樹木の鬱々と茂つて、その枝も葉も今將に水に入らんとするほど重げに撓々に湖面に蔽ひかぶさつてゐるところや、藻の花が處々に簇れ咲いたり、杉木賊といふ杉菜の如く木賊の如き一種の水草が淺處にすく〳〵としてゐたりするさまは、まるで繪の如く小じんまりしてゐて、仙人の庭の池では無いかと思はれるやうな氣がする。南岸には石楠花が簇生してゐて、今は花はすがれてゐるが、花時の美しさは思ひ遣られる。兎島といふ半島的突出の北部の灣形に入り込んだところなどは、何樣見ても茶人的の大庭の池の甚だ寂び古びたやうな感じで、幽雅愛すべきである。この景色を取入れて別莊を設けた人の無いのが不思議な位である。 七  三十七八年前になる。自分は湯元から金精峠を越えて沼田の方へ出たことがあるが、今はその頃よりは甚だ開けて、西澤金山などがその後開けたために、又群馬の方の菅沼等も遊覽地になつたために、道路は北へも西へも通じてゐて、實際に突きあたりの地では無くなつたのである。しかし自動車で行ける路でも無いので、昔日の健脚、今の寢足、しかた無いからまた中禪寺へ歸つた。  湯瀧は湯の湖より落つる水である。たきといふ語の通りに、眞白になつて岩の傾斜面をたぎり落つるのである。兒童のすべり臺を水が落ちると思へば間違ひはない。今に遊戲的にこの瀧を落下する設備をする人があるかも知れない、といふのは戲諢談だが、ほんとにさういふことをしたら、可なり突飛なことの好きな人を滿足させ得るだらう。  車は夕暮に迫つて菖蒲が濱から歌が濱へと走つたが、この間のドライブは實に愉快である。右は中禪寺湖水なり、左は男體山なり、道は好し、樹木の茂れる中を走るのであるから、そのさわやかさは幾度も繰返して味はひたいと思ふくらゐである。車中から偶然見る湖岸に漣波が立つて赤腹といふ小魚が群騷いでゐる。産卵のために雌魚雄魚が夢中になつてゐるのである。古い語で「クキル」とこれをいふ。北海道では今、群來の二字を充てるが、古は漏の字を充てゝゐる。鯡のくきる時は漕いでゐる舟の櫂でも艫でも皆、かずの子を以てかずの子鍍金をされてしまふ位である。今雜魚はその生殖期の特徴たる赤い線を身側に鮮かにして、騷ぎまはつてゐる。と見るや否や土地の人は忽ち車を止めさせた。人々は渚に歩み寄つて、各〻手取りにせんとした。安成子も早速に水の中へ手を突つ込んで首尾よく手づかみにしたのは、時に取つての無邪氣な餘興であつた。宿へ歸つて鹽燒にさせて、先生大得意で天賜の佳肴に一盞の麥酒を仰いだところは如何にも樂しさうであつた。但しその魚の大さ三尺五寸也、十倍にして。  十一日。人力車をやとひて馬返しまで下る。途中、かごの岩、屏風岩など、いづれも他所にあつては名を高くするに足りるものであると賞した。馬返しより自動車を頼んで日光へ下り、東照宮大猷廟その他は今囘は遙拜のみして、稻荷川を渡つて霧降の瀧へと向つた。瀧見臺の茶屋まで車で行ける樣になつてゐるので勞は無い。そこから細徑を少し行くと、俄然として路は巖端に止まつて、脚下は絶壁の深澗になり、眼前の對ひの巖壁に霧降の麗はしい相は見えた。華嚴は男性美、霧降は女性美、一は直條的、一は曲折的、一は太い線、一は纖い線、巖の樣子もまた二者の間に相應した差があつて、霧降の瀧の美しさは、瀑布の形容によく素練などといふ字を使ふが、素練などといつたのでは端的にその實は寫し得ない。しなやかに細い多くの線をなして麗はしく輝やかしく落下る美しさは、恰も纖く裂いた絖を風に晒して聚散させたを觀るやうな感じである。雄偉は華嚴にとゞめをさす、妍麗は霧降を首位とする。わざ〳〵鑑賞するだけの價値は十分にある。  日光の美の中で、他にまだ看過し難いものがある。それは街道の杉並木である。平泉澄氏の撰の東照宮志にこの並木の事は詳しく出てゐる。並木といへば何でも無いもののやうであるが、實に此も亦人の爲たことの美しい一つである。で、今市までその並木の下を走らせて、わが國人の心の姿であり、神の愛したまふ相である正直其物の杉の樹蔭に、翠影甚だ濃く凉氣おのづから湧くすが〳〵しさを十分に味はつた。神路山の山路、日光の例幣使街道、春日の參道、芳野の杉山、碇が關の杉山、いづれも好い心持のところであるが、特に此處は好い。たゞ行末齒の脱けたやうにならぬことを望むのみである。  今市より北折して會津へ至る道も、神々しさは餘程缺けるが同じく杉並木が暫くは續く。田舍びて好い路で、菅笠冠つた人でも通りさうな氣がする。大谷川がもう恐ろしく發達して大きな河原になつてゐるのを越して、車はひた走りに大桑といふを過ぎると、頓て稀有なる好景に出會した。それは石壁の岸高きが下に碧潭深く湛へてゐる一大河に架つてゐる橋が、しかも直に對岸にかゝつてゐるのでは無く、河中の一大巨巖が中流に蟠峙して河を二分してゐる其巨巖に架つてゐるので、橋は一旦巖上に中絶した如くなつて後に、また新に對岸に架されてゐるのである。丁度東京の相生橋と同じやうな状であるが、其の中島が素ばらしい大きな一つ巖であるのが、目ざましくも稀らしい景色をなしてゐる。自分は初めてこの路を通つたのであるが、こゝに差掛かると同時に、これが鬼怒川の中岩であるなと心付いて車を止めさせた。舊い頃では橘南谿と共に可成り足跡が廣く、且又同じく紀行(漫遊文草)を遺した澤元愷が、この中岩を稱して、その上で酒など飮んでゐる事がその文によつて記臆に存してゐたからである。車を下りて靜かに四方を見ると、鬼怒川が北から來つてこの巖にせかれて、分れて深潭をなし、縈廻して悠揚逼らず南に晴れやかに去る風情はまことに面白く、兩岸の巖壁沙汀のさまも好く、松や雜樹の畫意に簇立つてゐるのもうれしい。安成子は河原へ下り立つて寫眞を撮つた。 八  中岩より以北の道路は水をはなれるので景色は平凡になる。中岩の奇は平凡の中に突として奇をほしいまゝにしてゐるので愈〻妙なのである。しかし鬼怒川の兩岸は、中岩以北も相當に太古よりの秋霖春漲に洗ひ出されて巖壁を露はしてゐることだらう、隨つて細かに川筋を見たら美しいところもあるだらうと思はれる。  車は高徳、大原を經て、遙に左方對岸に鬼怒川發電の設備を見、それから鬼怒川に架つてゐるよぼ〳〵橋を渡りかゝつた。橋上の眺めは左右に岸壁を見、白沫立つてたぎり流るゝ川に臨むのであるから、緑蔭水聲、おのづから兩袖に清風を湧かす概があつて、名も餘り高く無いところだが、小じんまりして溪谷美のあることを感じさせられる。橋を渡ると下瀧温泉の旅舍があつて、溪に臨んで樓を起してゐる。われ等は此處の草分の麻屋といふに投じて晝餐を取つた。  樓上の一室の欄に凴ると、溪は目の下に白くなり碧くなつて流れてゐる。水聲は中々激しくて、川といはうよりは瀧といつた方が好い位であり、成程「瀧」といふ地名も名詮自性であると首肯かせた。下瀧より少し上に河一體が大瀧になつてゐるのが眞白に見えて、そこより上は上瀧と小名に呼ぶところだ。川上は高原、鷄頂の諸山が聳えて、海拔はさほどに高いところでは無いが山懷の窄いところを鬼怒川が怒流してゐるので氣流の加減によつてか、他處では雨が無かつたのに、聞けば毎日雨があつたといふことで、この日も驟雨的の雨が颯然と降り澆いだ。山間の私雨といふ言葉は實に斯樣いふのをいふのであらう。我等は此地の探勝を他日の樂みにして復び車上の人となつた。それより船生、玉生、田所の地を矢板へ走らせて、それから那須野が原の一部分を突破し、關谷から山へ入つて鹽原へ行かうといふのである。  車を出すとやがて驟雨は沛然として到つた。爽快を呼んで走ると、船生に到る頃に止んだ。船生は知人の經營した銅山の所在地で、地名だけは自分も親しみを有つてゐたが、山岳地ではない、むしろ平野の地であつた。玉生もその他も山といふほどのものはない。矢板へは僅かの間に着いた。矢板から那須野へとかゝる頃に、雨はまた來つた。那須野が原へかかつて雨煙が野を籠めて路に塵も無く、一路坦々、砥の如く平らかに矢の如く直くして、目地遙かに人影を見ざる中を、可なりの速力で駛らせると、恰も活動寫眞を觀るが如くに遠くの小さな物が忽ち中位になり、大きくなつて、そして飛ぶやうに背後へ、抛げ遣るが如くに過ぎ失せてしまふのも一種の快味がある。これからの人々は自動車ぐらゐは自分で操縱して、遊覽旅行の一程にドライブの一項を揷入するやうにならうと想つた。  關谷からは鹽原山である。入勝橋あたりからの道路は實に樂しい美しいところだ。路幅はあり、屈折は婉曲であり、樹蔭は深いし、左手の帚川の溪は眼に快いし、右手の山は高し、時々小瀑布を景物に視すし、山嵐溪風いづれにしても人の膚に清新其物の氣味を感ぜしめる。必ずしも取出でゝ一々何の景彼の勝といふを須ひない、全體が一致して人に清凉感を起させるのである。花氣人を襲ふ、必ずしもその薔薇たり芍藥たるを問はずして名園の春に醉ふやうに、何が齎すといふことも無しに鹽原の溪は人を好い氣持にする。松、五葉松、楢、桂の類から、アクダラの樹や橡の樹のやうな樹でも、それが損傷はれずに老いて巨大になれば、それ〴〵の美しさをもて人に酬いる。日光でも鹽原でも箱根でも、今は景勝地の人民は樂しんで樹木を大切にする。それは眞にその土地を愛し、且土地を品位づける所以である。山高きがゆゑに貴からず、樹あるを以つて貴しとするといふ古い語は今でも生きてゐる。樹が多ければ、山が潤ふ、水が清くなる、空氣が好くなる、景色が乾枯と怪詭といふイヤな味を出さなくなる、人をして親しみと懷かしみとを覺えさせる。縣廳の世話の屆くからでもあらうが、土地の人民の聰明と善良とが何程その土地をよくするかも知れぬ。二十何年ぶりかで鹽原へ來て、前の鹽原より今の鹽原が便利で、そして平安であるのみならず、到るところ清潔になつて、しかも幸に俗趣味にも墮せぬ公園的の美に仙郷的の幽を兼ねた土地と發達したのを見て、愉悦の情に堪へぬ氣がした。魚どめ、左靱、寒凄橋、一々列擧していふまでもない、皆好い〳〵とほめちぎつて、福渡戸の桝屋に投宿した。日はまだ高かつたが、雨ははら〳〵と降つてゐた。  翌十二日は天狗岩、野立岩、七ツ岩を賞し、門前、古町、木の葉石、畑下、須卷、小太郎ヶ淵、玉簾の瀧、鹽の湯等を見めぐつて、晝過ぎに西那須發車、夕暮上野着、この三泊の旅を終つた。鹽原にも瀧は多く、仁三郎の瀧、萬五郎の瀧、龍化の瀧等、觀るべきものであるが、わざと觀ないで濟ませたのは、いくら夏の日の瀧見でも、重複は暑苦しいからと、華嚴に敬意を表して、今度の秋の紅葉の頃の樂みに殘したのであつた。 底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版    1976(昭和51)年8月1日初版発行 初出:「東京日日新聞」    1927(昭和2)年8月1日~8日 入力:林 幸雄 校正:松永正敏 2004年5月1日作成 2014年4月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。