あさひの鎧 国枝史郎 Guide 扉 本文 目 次 あさひの鎧 観世縒りの人馬 妖怪屋敷 無礼講 後苑の尊貴 野の宮の妖精 まどわしの声 美しき妻 親と子 朗らかな団欒 六波羅探題 そちが頼春! 大木戸の異変 悲痛の頼春 沼辺の鬼火 沼辺の飛天夜叉 怪火点々 密林の乱闘 水精の群れ 流浪の人々 洞窟の中 写経の桂子 あらそう姉妹 猪小屋の内外 小次郎と右衛門 生死卍巴 赤坂城を中心に 歓楽陣 谷間の人々 生ける白布 活躰解剖 聖雄と英雄 戸野の館 十津川の錦旗 吉野へ! 道中ご難 悪霊殿 吉野の城戦 高燈籠の家 尊い犠牲 女仙 観世縒りの人馬 「飛天夜叉、飛天夜叉!」 「若い女だということだね」 「いやいや男だということだ」 「ナーニ一人の名ではなくて、団体の名だということだ」 「飛天夜叉組ってやつか」 「術を使うっていうじゃアないか」 「摩訶不思議の妖術をね」 「宮方であることには疑がいないな」 「武家方をミシミシやっつけている」 「何がいったい目的なんだろう?」 「大盗賊だということだが」 「馬鹿を云え、勤王の士だよ」 「武家方が宮方を圧迫して、公卿衆や坊様を捕縛しては、拷問をしたり殺したりする。そこで捕縛をされないように、宮方の人々を逃がしてやったり、捕えられた人を取り返したり、いろいろやるということだ」  正中年間から延元年間へかけて飛天夜叉の噂は大変であった。  昭和年間から推算すると、その時代はおよそ六百年前で、後醍醐天皇、大塔宮、竹の園生の御方々は、申すもかしこき極みであり、楠木正成、新田義貞、名和長年というような、南朝方の勤王の士や、北条高時、足利尊氏、これら逆臣の者どもが、歴史の上に華やかに、名を連ねていた時代なのである。  そういう時代のある一日──詳しくいえば正中元年八月××日の真昼時に、土岐小次郎という若い武士が、洛外嵯峨の草の上に、ボンヤリとして坐っていた。  近くの丘には櫨の叢が、熖のように紅葉し、その裾には野菊や竜胆の花が、秋の陽を浴びて咲いていた。  不意に横から声がかかった。 「小次郎様愉快ですか?」  小次郎は吃驚してそっちを見た。  二十三四の美しい女が、いつの間にどこから来たものか、彼の横に坐っていた。 「愉快でないです」  と小次郎は云った。 「それほどの美貌を持ちながら、愉快でないとは変ですね」 「何を厭なことをおっしゃるんです」 「年はたしか二十歳でしたね」 「どうしてそんなことをご存知なので?」 「妾は何んでも知っているのです」  その女は微妙に笑った。  顔の筋肉は笑っているが、眼だけは決して笑っていないと、そう云ったような笑い方なのである。 「美濃の名族土岐蔵人頼春、このお方の一族で、学問も武芸もお出来になるが、美貌が祟って身がもてない、それに気が弱くて感情ばかり劇しい、その上に徹底した放浪性の持ち主、そこで何をしても満足しない。することもなくボンヤリしておられる。──というのがあなたのお身の上でしょうね」 「どうしてそんなことまでご存知なのです?」 「わたしは何んでも知っているのです」  またその女は例の笑いを笑った。 「その美貌をわたしに売ってください」 「何んですって! 何をおっしゃるんです」 「それをわたしに使わせてください」 「…………」 「あなたを仕込んであげましょう」 「あなたはいったい誰なんです」 「一芸のある人間や、特色のある人間を集め、仕込んでやるという道楽を持った、そういう女なのでございますの」 「でもどういうお方なのです?」 「こんなことの出来る人間なのですよ」  云い云いその女は懐中へ手を入れた。  小次郎は思わず首をちぢめた。  何か飛んでもない恐ろしいものでも引っぱり出されはしないだろうかと、そう思ったからである。  女の取り出したのは一枚の紙で、引き裂くと観世縒りを縒りだした。  縒りが出来ると器用な手つきで、馬の形をつくり出した。  出来あがったところで草の上へ投げた。  と、どうだろう観世縒りの馬が、四足を動かして駈け出したではないか。 「あれあれ」  と小次郎は頓狂に叫んだ。 「観世縒りの馬が走り出した。これは不思議だ、生きて動き廻る!」  女は今度は観世縒りで、人間の形をこしらえた。  そうしてそれを抛りだした。  観世縒りの人間は走る馬を追って、自分も一散に走って行き、追いつくとその背へ飛び乗った。 「あれあれ」  と小次郎はまた叫んだ。 「観世縒りの人間が動き出した。これは凄い! 魔法だ! 幻術だ!」  女は次々に馬と人間とを、無数に観世縒りでこしらえた。  みんな生きて動き出した。  丈のびた雑草の緑にまじって、萩だの女郎花だの桔梗だのの、秋草の花が咲いている、飛蝗や螽蟖や馬追などが、花や葉を分けて飛び刎ねている。  そういう地面を戦場にして、その観世縒りの人馬の群れは、やがて合戦をはじめだした。 「こっちが宮方京師方で、こっちが武家方鎌倉方ですの。──さあどっちが勝つことやら」  女はそう云って指さした。  観世縒りの人馬は討ちつ討たれつ、斬りつ斬られつ戦いつづけた。  一間四方ほどの戦場で、小人国の武士たちが、音のない戦いをしているのである。  と、女は手を延ばし、無造作に戦場を一撫でした。  すると人馬は仆れてしまった。  その人馬を女は片手で集め掌の中で一握りし、また無造作に地上へ投げた。  一握りほどの紙の束が、草の上にころがっているばかりであった。 「一切空ね」  と女は云って、小次郎の顔を覗くように見たが、 「こういうことの出来る女なのですよ」 「ド、どなた様でござりまするかな?」  小次郎はしたたか怯やかされたので、いくらか顫えを持った声で、そう慇懃に問いを発した。 「飛天夜叉なのよ。飛天夜叉の中の一人! ……さあ名は桂子とでも云って置きましょう」 「…………」  小次郎は刺されたように飛び上がった。  がすぐに膝を揃えて坐り、まぶしそうに桂子の顔を見た。  素晴らしい奇蹟的の飛天夜叉の噂を、以前から彼も聞いていたからであった。  京都二条の外れにあたって、宏大な古館が立っていた。  その周囲をかこんでいるのは、榎や槻や朴の巨木で、数百年を閲しているらしかった。  門はあったが崩れていた。  築地も荒れて崩れていた。  それは桂子の館であった。  すっかり桂子の家来のようになって、──むしろ寵愛のお小姓のようになって、桂子のお供をして小次郎が、その館へ行った時には、日が暮れて夜になっていた。  二人が玄関へかかった時、可愛らしい美しい十六ばかりの娘が、屋内から出て来て二人を迎えた。  と、その娘は小次郎を見たが、やにわに桂子へ縋りつき、声を上げて泣き出した。 「浮藻や、どうしたの、え、浮藻や?」  桂子は驚いてその娘へ云った。 妖怪屋敷  浮藻は顔を桂子の胸へ埋め、しゃくり上げながら呟くように云った。 「こわいの、妾、あのお方が!」 「こわい? どうして? 何故こわいの?」 「お姉様、怖いの、あのお方が!」 「そんなことはないよ、そんなことはないよ。……あのお方あんなに綺麗じゃアないか」 「ええ、そうですわ、お綺麗ですわ。……ですから怖いの。……綺麗過ぎますわ」  そう云って浮藻は顔を横にし、額を姉の胸へ着けたままで、小次郎の方を盗み見た。 「ああなるほど」  と桂子は頷き、改めて小次郎を眺めやった。  玄関に置いてある燈火に照らされ、少しくテレ、随分当惑し、ぼんやり立っている小次郎の姿は──わけても容貌の美しさは、何んと形容してよいか、形容を絶したものがあった。  もちろん多少田舎びていた。  がそれは山から掘り出し、まだ磨きをかけないところの、宝玉のそれに等しいもので、その初々しさが女人の心を、かえって強く引くらしかった。  ローズベリー卿夫人が夜会の席で、はじめて詩人バイロン卿に、紹介された時相手の容貌が、あまりに美しく気高かったので、咽喉に瘤でも出来たかのように、物が云えなかったということである。  周の穆王が美少年慈童の、紅玉を薄紙で包んだような、玲瓏とした容貌を眺めた時、後室三千の美姫麗人が、芥のように見えたということである。  小次郎の美貌もそうなのであった。  で、浮藻は泣き出したのであった。 「そうねえ」  と桂子は眉をひそめて云った。 「小次郎は少しばかり綺麗すぎるねえ。……でもそれが取り柄なんだよ。……そんなに小次郎が美しいから、妾は連れて来たのだよ。……役立てることがあろうよ。……でも充分仕込まなけりゃアならない。……一磨きも二磨きも磨きをかけなけりゃア」  間もなく小次郎は姉妹に連れられ、館の奥へ通って行った。  驚くべき光景がそこにあった。  見霞むばかりの広い部屋で、二十人あまりの男や女が、立ったり坐ったり飛んだり刎ねたり、泣いたり喚いたり、笑ったり吼えたり、歌ったり舞ったりしているではないか。  眉も眼も口もペロリと下がった、いかにも悲しそうな顔をした、四十あまりのしなびた男が、涙を流し眼を手で蔽い、ウロウロと部屋を歩きながら、 「おお悲しや何んとしようぞ。ご主人は死なれましてござります。永い永いご病気の果てに、死なれます。……おおおお何んとご生前には、ご親切で情深こうございましたことか! ……あのご主人様に死なれましては、明日から私はどうしようぞ。……食う事が出来ない。いる所がない。……首でもくくって死ぬとしようか。川へはまって死ぬとしようか。……おおおおおお、どうしようぞ!」  こう云いながら泣いていた。  と、部屋の中央に、弓の折れを鞭のようにひっさげた、五十あまりの逞しい、頤髯を生やした巨大な男が、両足をふんばり立っていたが、 「おいおい東吾、まずいなアそれじゃアちっとも実感が出ない。泣いているように聞こえないじゃアないか。……お芝居じみていて空々しいや。『おお悲しや何んとしようぞ!』この云い出しからゾッとしないなア。こうもう少オし憐れっぽい口調で、しんみりと下から出さなけりゃア嘘だ。聞いていなよ、こうやるんだ」  こう云いながらやり出した。 「『おオお、悲アしや、何アんしよオぞオ──』どうだこうやると実感的になる。いかにも本当に悲しそうになる。さてそれからその後だが、どうもこいつもうまくなかった。ざっとこんなようにやるんだなア、『ご主人様は──、ア──ア──ア──、死なれましてエ────、エ──エ──エ──、ござりまする──、ウ──ウ──ウ──』こう永アく引っぱるのよ。するといかにも悲しそうになる。さあさあもう一度練習練習!」  そうかと思うと部屋の隅では、二十一、二の小綺麗な女が、鶏の啼き声を練習していた。 「コケッコッコ──、コッコッコ──。……トテッコッコ──、コッコッコ──。……」  それから両手で股の辺りを、 「パタパタパタ! パタパタパタ!」  羽搏きのようにひっ叩き、 「コッコッコ──、トテコ──ヨ──ッ」 「おいおい薬子、何んてえ態だ」  と、弓の折れの鞭を持った例の男が、 「それじゃ近所のどんな鶏だって、騙されて鬨なんかつくりゃアしないよ。……そいつア鶏の啼き声じゃアない。人間が鶏の啼き声を真似て、吼えているとしか思われやアしない」 「だって小父さんその通りだもの」  と、薬子も負けてはいなかった。 「わたし鶏の真似をしているんですよ」 「鶏の真似には違えねえが、真似になっちゃアいけねえんだ」 「だって妾鶏の真似をしているんですもの」 「くどい!」  と男は弓の折れで、薬子の肩をひっぱたいた。 「痛いヨ──、あンあンあン」 「おい泣き男泣き男!」  と、弓の折れの男は振り返って云った。 「あンあンあンという薬子の泣き声、こいつこそ本当の泣き声だ、参考にしろ参考にしろ」 「あンあンあン」  と泣き男は、すぐに薬子の泣き声を真似た。  そうかと思うと部屋の一所で、三十がらみの元気のよい男が、笑い上戸の練習をしていた。 「アッハッハッ、こりゃおかしい。執権高時ともあろうお方が、田楽が好きで田楽を舞い、アッハッハッ、ヘッヘッヘッ、それを天狗にからかわれ、天狗などとは夢にも知らず、新座本座の田楽法師が、伺候したものと思い込み、舞って舞い仆れたそうな。エッヘッヘッ、イッヒッヒッ、クッ、クックッ、こりゃたまらぬ」  この広大な部屋のかなた、三間ほど距てた奥の部屋に、燐火を想わせる蒼い燈火が、細々と一筋ともっていたが、それの周囲を廻りながら、胸へ血のように赤い色をつけ、髪を解いて肩へ振りかけ、白衣の裾を床の上に敷いた、幽霊姿の痩せた女が、 「怨めしや判官殿、わらわに恋のわずらいさせ、想いをつのらせ死なせしを、そなたには何んの苦にもせで、ほかに増す花の女をつくり、わらわの供養も仏事も空に、日夜にお通い遊ばすとは。怨みあるものかないものか、思い知らせでおくべきや、祟るぞえ祟るぞえ! 怨めしや判官殿!」  と、幽霊の稽古をやっていた。  広大なこの部屋のずっと外れは、縁越しの広庭となっていたが、そこには二人の壮漢がいて、二頭の猛犬の手綱を握り、向かい合って意気込んでいた。 「相模入道を食い殺せ!」 「ソレ宮方を噛み仆せ!」  二頭の猛犬は猛烈と吼えた。 「ウオ──ッ」 「ウオ──ッ」 「ワ、ワ、ワ、ワ──ッ!」  闘犬の稽古をしているのであった。 (これはいったい何んということだ! 妖怪屋敷だ! 化物部屋だ!)  小次郎は茫然と佇んで、四辺の光景を悪夢かのように眺めた。  桂子も浮藻も彼を置き去って、奥の部屋の方へ行ったことにさえ、彼は全く気づかなかった。  と、一人の二十八、九の男が、気安そうに彼の側へやって来たが、 「新米殿、ひと稽古たのむ」  こう云うとドンと衝突った。  その男が肩で小次郎の胸を、正面からドンと突いたのであった。 「あッ、乱暴な何をする!」  少し怒って小次郎は怒鳴った。 「稽古じゃ、アッハッハッ、怒ってはいけない」 「稽古? 稽古とは? 何んの稽古?」 「何か紛失物ありませぬかな?」 「紛失物? 何をつまらない」  そう云ったものの不安になって、小次郎は懐中を探ってみた。  小金を入れた小袋が、懐中からいつか失われていた。 「ない! 金が! 金を入れた袋が!」 「すなわちこれでござろうがな」  その男は小次郎の鼻の先で、皮の小袋を振ってみせた。 「それじゃ! さては……」 「掠りましたよ」 「はあ」 「我が身掠りましたよ」 「…………」 「密書があれば密書を掠る。小柄ほしければ小柄を掠る」 「はあ」 「我が身は掏摸の係りでしてな」 「はあ」 「ほかにもいろいろ係りの人があります」 「はあ」 「一日に五十里走る男」 「はあ」 「どのような堅牢の錠前であろうと、針一本で開ける男」 「はあ」 「細作の名手、放火の上手、笛の名人、寝首掻きの巧者、熊坂長範、磨針太郎、壬生の小猿に上越すほどの、大泥棒もおりまするじゃ」 「はあ」 「で、我らは飛天夜叉じゃ」 「あッ、飛天夜叉! おおそうそう! 飛天夜叉の方々に相違ない。私は同じ飛天夜叉の、桂子様に召しつれられて……」 「叱!」  と男はたしなめるように云った。 「桂子様などと仰せられてはならぬ」 「では、ナ、なんと申しますので?」 「姫君様よ、お解りかな」 「姫様君、はあさようで」 「若君様と仰せられてもよろしい」 「若君様? では男で?」 「男になられる場合もある」 「はあ」 「老婆になられる場合もある」 「老婆に?」 「怨敵『鬼火の姥』などを相手に競争される場合には、老婆姿にもなられるのじゃ」 「はあ」 「老爺になられる場合もある」 「やれやれ」 「やれやれとも」 「化物のようで」 「さよう」 「で、あのお方様が飛天夜叉の、お頭なのでござりまするかな?」 「疑問じゃ」 「はい?」 「そうらしくもあればそうらしくもない」 「はてね」 「さよう」 「…………」 「万事はてねさ」  小次郎は家へ帰りたくなった。 無礼講  ちょうどこの頃のことであった、洛外栗栖野小野の里の、日野資朝卿の別館で、無礼講の宴が行われるという、そういう噂が立っていた。  噂ばかりでなくて事実であった。  さてある夜のことであったが、その夜も無礼講が行われていた。  銀燭台に身を背けて、夜食をベラベラ食べているのは、大原の住職法印良忠で、法衣はつけず白衣ばかりの丸腰、禿げ頭を光からせていた。  ムッチリとした白い素肌へ、褊一枚着たばかりの、だから体がまると見えている、そういう白拍子と戯むれているのは、右少弁藤原俊基であり、縁先に立って庭を見ながら、これも素肌に褊一枚の、遊君に何か囁いているのは、多治見ノ四郎二郎国長であり、禿二、三人を相手にして、双六の骰子を振っているのは土岐十郎頼兼であり、茶筌頭に烏帽子も冠らず、胸もとをはだけて汗をかき、なお大盃をあおっているのは、尹大納言師賢であり、それと向かい合って大口を開き、唐詩らしいものを吟じているのは、四条中納言隆資であり、その横で素肌に褊一重の、同じ姿の白拍子や遊君を三人がところ引きつけて、 「太液の芙容新たに水を出づ……という文句を知っているかな? ナニ知らぬ、無学の奴らじゃ! 白くて柔らくて艶があって、白芙容の花のように見える肌、そちたちの肌は白芙容じゃ、それが水のように透けている褊、それ一枚につつまれている。……そこでそれ太液の芙容新たに水を出づさ。アッハハ、わかったかな」  と、結構な説明をやっているのは、洞院左衛門督実世であった。  聖護院庁の法眼玄基と、伊達三位房游雅とは、『鬼火の姥』と呼ばれているところの、不思議な女修験者のことで、ひそひそ話を交わせていた。 「八百年生きているということで」 「百八十年だということでござる」 「一見すると六十歳ぐらいじゃ」 「髪の毛が卯の花のように真っ白でござるな」 「加持祈祷がうまいそうじゃな」 「七尺もあろうかと思われるような身長の、しかも糸のように痩せている体で、あの道の方は凄いということで」 「美童を好むということじゃな」 「われらが美女を好むようにな」 「お互いあの道の方は凄うござるて」 「眷族にも変なやつが多いそうじゃ」 「山伏、修験者、巫女、官主、こういう手合いが従っているそうじゃ」  そうかと思うとこの大広間の、裏庭へ向いた縁の近くで、足助次郎重成と、川越播磨守とが下帯一つで、無粋な𦙾相撲を取っていた。  この間に狼藉として取りちらされてあるのは、盃盤であり瓶子であり、楽器であり筆墨であった。  そうして楣間に掲げてあるのは『無礼講』と大書した額であった。  一人憂欝な顔をして、公卿と僧侶と武士と遊女との、乱痴気騒ぎを眺めながら、廊に近い席に坐っているのは、土岐頼兼の一族で、清和源氏の流れを汲んだ、北面の武士の一方の将、土岐蔵人頼春であった。  まだ若く美男であったが、神経質の眼で心おちつかないように、人から人へと眼を移していた。  同族の十郎頼兼や、多治見ノ四郎二郎に口説かれて、北条氏調伏、六波羅征め、関東退治のこの陰謀の中へ、その一員として加わって、無礼講へは出たものの、まだ決心がついていないのであった。  無礼講の催しを思い立ったのは、日野中納言資朝卿なのであった。  卿は味方の公卿や僧侶や、武士達の気心を知ろうとし、そうして一方には六波羅方や、六波羅に心を寄せている諸臣の、猜疑の眼をたくみに眩ませて、自由に六波羅征伐や、北条氏討伐の計を語ろう。──そういう目的から乱痴気さわぎの、この無礼講を試みたのであった。  反間苦肉の計なのであり、だから一見あさましく見える乱痴気さわぎの最中においても、真面目な計画的の秘密話が、とり交わされているのであった。  錦織の判官代が、褊一枚の若い白拍子を、横抱きにして躍り出したとたんに、瓶子が仆れて土器を割った。 「やれ大変、割れたわ割れたわ」  と、不めでたい前徴でも見たかのように、こう云って判官代は額を叩いた。  と、側にいた赤松則祐が、 「めでとうござる、めでとうござる、六波羅殿の氏は平氏、平氏は瓶氏に通じまする。その瓶子が仆れまして、土器が六つに割れましたわ、六つにかたどる六波羅殿が、割れて亡びるという前徴で」  こう云ってすかさずバツを合わせた。 「いかさまめでたい、これはめでたい」  ドッと人々は声をあげて笑った。  と、その陽気の席を遁がれて、土岐頼春は庭へ出た。  定まらぬ心を持ちながら、そういう席に連らなっていることが、堪えがたくなって来たからであった。  秋の夜風は酔った頬に涼しく、ほてった体にさわやかだった。  桜や松や梧桐や梅や、そういう植え込みの間々に、泉水、土橋、築山、亭、別殿などがしつらえてあり、ほそぼそと灯された石燈籠の燈に、盛りの萩の白い花が、波頭のようにおぼめいて見え、いかにも高雅につくられてある後苑──そこを頼春はさまよって行った。 (お味方すべきか、辞退すべきか?)  なお迷っているのであった。 (道理よりすれば、禁裡方に、お味方すべきが至当ではあるが……妻が……六波羅殿の……斎藤殿の……)  このことを思えば迷うのであった。  六波羅探題の奉行職、斎藤太郎左衛門利行の娘が、かれ頼春の妻なのであった。  添って三年経っていた。  美女と美男との夫婦であり、人が羨んで噂するほどの、まことに仲のよい夫婦でもあった。 (禁裡様方にお味方すれば、六波羅方に背かねばならぬ。……舅の斎藤太郎左衛門殿にも……)  このことが彼には苦痛なのであった。 (禁裡様方お勝ちになれば、六波羅殿は亡ぼされ、太郎左衛門殿もお討ち死に……どんなに女房は悲しむだろう。……お味方破れれば我が身は死ぬ。……どんなに女房は嘆くだろう。……勝っても負けても辛い身の上だ。いっそこのような計画の中へ、わしを引き入れてくれなかったら。……)  自分を口説いて厭応なしに、このような計画の中へ引き入れた、土岐十郎頼兼や、多治見ノ四郎二郎国長が、いまさら怨めしく思われるのであった。  鹿の鳴き声が聞こえて来た。  露を踏み、萩を分け、妻を恋い、野の中に、鳴いている鹿の声であった。 (寂しいなあ)  とつくづく思った。  と、その時足音がして、 「兄上」  という声がうしろからした。  頼春は驚いて振り返った。 「なんだ、お前か、小次郎ではないか」  うしろに長閑そうに立っていたのは、頼春にとってはまた従兄弟にあたる、土岐小次郎の姿であった。 「はい、私でございます」 「なんと思ってこんな所へ……」 「供待ちにお待ちしておりましたが、お館の中があまりに賑やか、そこで羨ましく存じまして、後苑の中へまぎれ入り、今までこっそりご酒宴のご様子を……」 「不躾け千万、何んということだ」 「綺麗な白拍子がざっと二十人、素肌へ褊一枚を着て」 「馬鹿な奴だ、何を云うか」 「尹の大納言様が茶筌髷を散らし、指貫一つで道化た踊りを、たった今しがた踊りましたっけ……」 「アッハハ、とんだものを見たなあ」 「兄上お一人がお寂しそうに、取り澄ましておいでなさいましたが、水に油でございましたよ」  小次郎は頼春とはまた従兄弟なのであったが、きわめて親しい仲だったので、兄上兄上と呼んでいた。  そうして頼春と同じ館に、兄弟のようにして住んでいた。  身内であって主従関係──いわば居候の関係なのであった。  で、この夜もこの館まで、頼春の従者として来たのであった。 「小次郎」  とにわかに厳めしく、頼春は言って小次郎を見詰めた。 「云おう云おうと思っていたが、云う機会がなくて今日まで過ごしたが、その方この頃館を忍び出で、二条あたりの怪しげな館へ、しげしげ通うということだが……」 「はい、通いますでございます」 「さてはその方例によって、たわれ女などにうつつを抜かし……」 「違いまする、ちと違いまする」 「なんの違うことがあるものか」 「ヒンヒン、ワンワン、ニャンニャン、コケコッコ──」 「ナ、なんだ、いったいそれは⁉」 「という稽古なども致しますので」 「たわけめ、こやつ、気が狂ったか」 「ヒンヒンというのは馬の啼き声、ワンワンというのは犬の啼き声、ニャンニャンというのは猫の啼き声、コケコッコーと申しますのは、鶏の啼き声にございます」 「いいかげんにしろ、つまらないことを」 「こいつを一続きにいたしますと、ヒンヒンワンワン……」 「そちの方が酒に酔っているようじゃ」 「という稽古などもいたしますので。……そうかと思うと幽霊女が、『怨めしや判官殿……』」 「小次郎!」 「という稽古もいたします」 「稽古稽古とそちは申すが……」 「この小次郎に至りますると、いかにして女をたらすべきか? ……」 「立ち去れ!」 「という稽古をいたしおりまして。──年増女に対しましては……」 「さてさて困った奴だのう」 「まずこのような色眼を使い……」 「薄気味の悪い男ではあるぞ」 「次にやんわりと手を握り……」 「よせ、馬鹿者、わしの手などを……」 「次には大胆に頬を寄せ……」 「ホホウ、そうか頬を寄せるのか」 「次にはひしと……」 「うむうむひしとな……」 「これで卒業にござります」 「面白いな、そうかそうか」 「初心娘に対しましては……」 「いずれたらし方違うであろうな」 「大違いにござりまして、まずしなやかに笑いかけ、次に鼻にかかる優しい声で……」  ──しかしこの時後苑の奥から、人の話し声が聞こえて来たので、小次郎は云いやめて耳を澄ました。  一人がつつましく言上するのを、一人が黙って聞いていて、時々簡単に質問すると、そういったような話し声であった。  場所が場所であり時が時であった。ひどく頼春には気にかかった。 「小次郎、わしも直きに帰る。お庭などあまり歩き廻らず、供待ちに穏しく待っているがよいぞ」  云いすてて頼春は足音を忍ばせ、話し声のする方へ歩いて行った。  小次郎も引っ返した。 (無礼講っていうやつ、面白いものだなあ)  好色で放蕩で剽軽者の彼には、褊一枚の白拍子を抱いて、乱痴気さわぎをやっているところの、この無礼講というものが、どうにも面白くてならないようであった。 (もう一度隙見をしてやろうか)  こんなことを思いながら小次郎は、館の方へ歩いて行った。 (それにしても桂子様のお館へ、わしがこっそり通うということを、どうして兄上には知ったのであろう?)  面栄ゆいような気持ちがした。  あの日以来彼は桂子の館へ、しげしげ通って行くのであった。  得体の知れない大勢の男女が、変な稽古をやっている。これが彼には面白かった。  桂子という女に対しては、彼は一面恐かったが、一面なつかしくてならなかった。  それに桂子の妹だという、浮藻という娘に対しては、可愛らしさを覚えていた。  それやこれやで通って行くのであった。 (兄上を宿所へ送りかえしてから、今夜も二条へ行きたいものだ)  こんなことを考えて歩いて行った。 (おや)  と不意に足をとめた。  行く手の萩の叢の根もとの辺りに、一人の男が身を伏せて、そこから透けて見える館の座敷の、無礼講の様子を見ているからであった。 (俺のような人間もあるものと見える)  小次郎はニヤリとした。 (褊一枚の女の体! こいつを見るのは悪くないからなあ)  しかしにわかに小次郎は、 (少し変だぞ)  と呟いた。  その男が顔を黒頭巾で包み、そうして黒の忍び衆の衣裳で、全身を包んでいるからであった。 (あんな扮装をした人間は、お供衆の中にはいなかった)  こう思ったからである。  なお見るとそこから十数間はなれた、満天星の木の蔭の暗い所にも、同じ姿をした二人の人間が、館の方を睨みながら潜んでいた。  見ると否々そればかりでなく、築山の裾にも土橋の袂にも、同じような人間が隠れていて、館の様子をうかがっていた。 (大変だあ──ッ)  と小次郎は思った。 (細作だ細作だ細作の群れだ! 細作の群れが何百人となく、お庭の中に入り込んでいる!)  何百人はないでしょう。  が、十数人はいるらしかった。 (細作だとすると、細作だとすると……六波羅方の細作に相違ない!)  大変だあ──ッといよいよ思った。  頼春は庭の奥の方へ歩いて行った。  と、数人の人影が見え、そこから話し声が聞こえて来た。 「楠木兵衛尉正成なども……」  そういう声がハッキリ聞こえた。 後苑の尊貴  それは日野資朝であった。  いつの間に無礼講の席を遁がれて、このような所へ来たものか、白芙容の咲いているそれを横手に大地に跪座して謹ましく、そう言上しているのであった。  資朝の前に立たせられたは、まだ御年御十七歳ばかり、はなはだお若くはあらせられたが、ご身長抜群の御方で、白の練絹で御顔を包まれ、黒の道服を召されていた。ご微行なるがゆえであろう。高貴の御方だということは、神采奕々とでも形容しようか、その御方ただご一人が、そこに粛然と立たせられたばかりに、周囲の自然──花木緑葉が、清浄にすがすがしく感じられる、そのことだけでも頷かれた。  すこし引きさがって一人の武士が、御刀を捧げて立っていた。  村上彦四郎義光であった。  その背後にも数人の武士が、寂然と佇み警護していた。 「楠木兵衛尉正成なども、いざ事あがりましたる際におきましては、一族郎党をこぞりまして、金剛山の険によりお味方仕ると力強き誓言、播磨の赤松則村も、必ずお味方仕ると、いさぎよき誓約にござりまする。伊予にありましては土居、得能、勤王の兵を挙げますこと、火を睹るより明らかにござりまする」  資朝の言葉は凛然としていた。 「…………」  高貴の御方は無言のままで、御頷きあそばされたばかりであった。 「南都北嶺の僧徒衆の、御味方あるはかねてよりのこと、お心がかりはござりませぬ」 「…………」 「番直の土岐、多治見の徒も、数度の無礼講にことよせまして、その志試みました結果、二心なき頼もしき心栄え、あらかた知れましてござりまする」 「…………」 「今は急速に兵を挙げ、一挙に六波羅を討伐し、探題北条範貞を誅し、宮方の堅き決心のほどを、天が下に知らしめますること、何より肝要かと存ぜられまする」 「うむ」  とはじめて力強い御声が、高貴の御方の御口より洩れた。 「そちどもの辛労察するぞ」 「お言葉勿体のう存じまする。……資朝ごときわずかに先年、山伏に姿変えまして諸方の豪族をかたらいましたまで……」 「俊基も心労したであろうよ」 「有難きお言葉に存じまする。俊基聞かばいかばかりか喜び。……その俊基儀も私めとおなじく、昨年湯治に事よせまして、紀伊の国へまかり下り、土地の豪族南海の諸将と、ことごとく謀議仕りまして、お味方にいたしましてござりまする」 「諸臣の尽忠うれしく思うぞ」 「勿体なきお言葉に存じまする」  ここでしばらく話が絶えた。  木蔭にひそかに身をかくして、聞き澄ましていた頼春は、この時、 「はあ──」と声を洩らし、静かに大地に膝をつき、両手を延べて平伏した。  誰あろう高貴の御方こそ、今上第一の皇子にましまし、文保二年二月二十六日、仏門に帰せられ比叡山に上らせられ、梨本門跡とならせられた、尊雲法親王に御在されたからであった。(後の大塔宮護良親王) (かかる尊貴の御方が、このような所へ御座あるとは?)  頼春は全身に汗を覚えた。  と、御門跡の御声が響いた。 「今上の御宸襟推察し奉れば、我れ仏門に帰せし身ながら、法の衣かなぐり捨てたく思うぞ」 「…………」  御門跡の御声はなおも響いた。 「院政より今上のご親政となられ、いかに日本安らかになったか。大津、葛葉の二関の他は、関所ことごとく開放し、商売往来の弊をはぶき、また元亨元年の夏、大旱あって地を枯らし、甸服の外百里の間、赤土のみあって青苗なく、餓莩巷に横仆わり、飢人地上に倒れし時、主上御宸襟を悩ませられ、朕不徳あらば朕一人を罪せよ、黎民何んの咎あるべき、しかるに天この災いを下すと、ことごとく嘆き思し召し、朝餉の供御を止めさせらる。さらに主上におかせられては、庶民訴訟出来の時、下情上に達せざるあらば、公平裁断を欠くものあらんと、記録所を置かれて出御ましまし、直きに訴えを聞こしめす。さらに八ヵ条の徳政を行い、仁政の範を垂れ給う。しかるに何んぞや北条高時、陪臣執権の身をもって、文保のご和談に口を藉り、今上を廃し奉り、持明院統を立てんとす。人臣の身をもって皇位継承に、容喙するの無道なる、不忠不義至極とおぼゆるぞ」  御門跡の御声はいよいよ鋭く、ますます熱を持って響かれた。 「しかも高時その者たるや、性昏愚にして放縦無頼、酣飲を事として政を忘れ、闘犬、田楽にその日を過ごす。補佐する高資に至っては──長崎高資に至っては、貪慾にして苛察の小人、賄賂を貪り訴訟を決し、私情をもって人事を行い、ひたすら威服を擅にす。……人心北条氏を離れおるぞ!」  叱咤するような御声であった。  資朝をはじめ附き添う人々、ことごとく頭を地に垂れている。 「ここに至って主上におかせられては、後鳥羽上皇の御志、朝権恢復の御志を継がれ、そちをはじめとして俊基など、誠忠志を同じゅうするもの、主上を翼賛しまいらせて、今度の挙を計りたるに、われ若年とはいいながら、仏門に帰せし身とはいえ、直接謀議にあずからず、遺憾至極におぼゆるぞ」  御声に曇りが帯ばれて来られた。 「その後のなりゆきも心もとなく、無礼講ありと聞いたれば、そのありさまも見届けたく、今宵忍んで参ったのであるが、そちに逢い事情をつまびらかにし、心おちい安堵はしたが、……資朝!」  と御声が精気を帯ばれた。 「朝権恢復、平天下、万民和楽の大目的と、仏法における衆生済度と、何の異るところがあろう! ……この頃われしきりに思うぞ、如かず忍辱の袈裟を脱ぎ、無上菩提の数珠を捨て、腰に降魔の剣を佩き、手に大悲の弓矢を握ろうと! ……還俗して戦場に立ちたいのじゃ!」 「……………」  無言ではあったが手を上げて、資朝は抑止の形をした。 「方今天下の武士という武士、わずかの数をのぞきましては、他はおおよそ鎌倉幕府に、今に帰属しおりまする。朝家頼むは南都北嶺、爾余の僧衆にござりまする。かかる情勢の今日にあって、宮家御門跡にあられますること、いかばかりか力強くいかばかりか……」 「…………」 「なにとぞご自重! なるべくご韜晦! ……しかる後に獅子王檻を出で!」 「うむ」 「百獣を慴伏あそばしませ。……」 「うむ」 「宮!」  と資朝は仰ぎ見た。 「やがてご令旨四方に飛び、勤王の諸将雲のごとくに起こり……」  この時「曲者だ──ッ」と喚く声が、遥か後苑のあなたから聞こえた。  喚いたのは小次郎であった。  小次郎の声に驚いて、諸所に潜んでいた忍び姿の者は、一斉に地から立ち上がった。  小次郎を目がけて飛びかかる者、門を目がけて逃げて行く者、館を目がけて斬り込んで行く者! ……後苑は喧騒の場裡となった。  館からも怒号や悲鳴が起こった。 「六波羅勢だ!」 「討手だ! 討手だ!」 「討ち取れ!」 「遁がすな!」 「敵は小勢じゃ!」  褊一枚の遊君白拍子は、悲鳴をあげて奥へ駈け込み、燭台を仆し盃盤を蹈んだ。  館の中は闇となった。  土岐頼兼の叫ぶ声が聞こえた。 「六波羅方の討手ではござらぬ。しかも小勢十数人の、野武士か夜盗か忍び姿の、とるにも足らぬ相手でござる! 見苦しゅうござるぞ、お立ち騒ぎなさるな!」  つづいて多治見ノ四郎二郎の、甲高に叫ぶ声が聞こえた。 「門々をことごとくお閉じなされ! 一人も館から出してはならぬ! 遁がして内情を六波羅方へ、注進されては一大事!」  門々を固める音が聞こえた。  館から庭へ飛び下りて行く、錦織判官代や赤松則祐や、川越播磨守や平賀三郎などの、颯爽とした姿が見えた。  太刀音!  閃光!  仆れる音!  呻き声!  怒号!  悲鳴!  叫喚!  むこうの隅へ追いつめられ、こっちの隅へ追いつめられ、無造作にバタバタ斬り仆される、忍び姿の者どもの姿が見えた。  と、突然館の奥から、俊基の甲ばしった大音が聞こえた。 「連判状を奪われましたぞ! 一大事! 一大事!」  この時一人の忍び姿の男が、木の間をくぐり灌木を踏み越え、庭の奥の方へ走って行くのが見えた。 「あの男じゃ! あの男じゃ!」  二、三人がそっちへ追っかけた。  が、見る見るその男の姿は、闇に隠れて見えなくなった。  この混乱の場にあって、お怪我あっては一大事と、梨本御門跡様をお急きたて申し、従者ともども裏の門から、資朝はお帰し申し上げた。  それをそこまで見届けておいて、土岐頼春は館の方へ、一散に走って帰って来た。  と、行く手から忍び姿の、見なれない男が走って来た。  云わずと知れた曲者の一人──と見てとった頼春は、 「おのれ!」  抜き打ち! 「ワーッ」  悲鳴!  虚空を掴んで倒れた奴を、見返りもせず後に残し、頼春は館の方へ突き進んだ。  と、満天星の叢の蔭から、一人の男がソロリと出て来た。  ほかでもない小次郎であった。 「チェ、もろく斬られたわい。……兄上なかなか手利きじゃなア」  こんなことを口の中で呟いて、死骸の側へ寄って行った。 「おや、こんなものが落ちている」  一個の巻軸を拾い上げた。 野の宮の妖精  これより少しく前のことであるが、栗栖野小野の一所に、木深い野の宮が立っていて、社殿の前の荒れた庭で、一人の老婆が焚火をしていた。  屋根は崩れ縁は腐ち、狐格子はなかば外れ、枯れ草落ち葉でその屋根も縁も、その本質の解らないまでに蔽われ埋ずめられ隠されていた。  焚火はトロトロと燃えていた。  焚火の上には巨大な土釜が、蜘蛛のような形にかかっていて、蓋の隙から湯気が立っていた。  それを見詰めながら切り株に腰かけ、その老婆はいるのであった。  いただいている髪は卯の花のように白く、火の光で銀色に光って見えた。  身長は七尺もあるであろうか、それだのに全身は痩せていて、細い枯れ木を連想させた。  そういう体へ着けているのは、巫女の着る白衣であり、そういう足に穿いているのは、一本歯の木履であった。そうして腰の辺りに差しているのは、四尺ほどの御幣であった。  この鷲のような鼻を持ち、鎌形の大きな口を持った、妖精のような老婆こそ、ほかならぬ鬼火の姥なのであった。  それにしてもその姥の足もとの辺に、ヌクヌクと体をあたためながら、縞蛇ややまかがしが渦を巻いてい、その側にその蛇を恐れようともせず、数匹の蝦蟇が腹這ってい、少し離れた枯れ草の中に、山猫が二匹金の眼を光らせ、黙然と焚火を見詰めてい、その側に立っている櫟の枝に、梟が止まって眠っているのは、いったいどうしたというのだろう?  焚火を慕い、暖気を恋い、集まって来たのだということは出来る。  それにしても老婆がいる。  ではそれらの動物は、この老婆を恐れないのであろうか?  そうとしか思われない。  鬼火の姥は黙ったままで、そろそろたける土釜の中の粥の、香ばしい匂いを嗅いでいた。  だが時々眼窩の奥に、刃物のように光っている眼を、野の一方に押し据えて、じっと何かを見るようにした。  彼女の視線の向けられた方には、荒野と丘とが起伏してい、京へ通う道が通ってい、そうしてそれらを距てながら、日野資朝の別館が、築地に囲まれて立っていた。  二町足らずの距離であった。  華やかに彼女に見えて来るものは、築地の上に盛り上がっている、広大な楼にともされている明るい燈火の色であった。  館では無礼講の乱痴気さわぎが、今行われていなければならない。  不意に女の声が聞こえた。 「夜食のお粥たけたかえ?」  声は社殿の縁から来た。  若い女がそこにいた。  縁に腰かけているのであったが、丈延びた草が胸の辺りまで届いて、半身を蔽うているがために、人がいるとも見えなかったのである。  それは飛天夜叉の桂子であった。 「ああもうソロソロたける頃さ」  鬼火の姥は眼も上げないで云った。 「お前さん一人で食べるにしては、その夜食多すぎはしないかえ」  そう桂子は笑いながら云った。 「なんの一人で食べるものかよ、あの子にもやらなけりゃアならないし、この子にもやらなけりゃアならないのだよ」 「どこにそんな子供いるのだえ?」 「まあ黙って見ているがいいよ。今に沢山の子供たちが、ガツガツとお腹をへらしながら、闇の中から素っ飛んで来るから。……それよりお前さんそんな所にいずに、ここへ来て火にでもおあたりな」  こう云うとはじめて鬼火の姥は、社殿の方へ眼をやった。 「行きたいけれど行けやアしないよ」  桂子は暗い中で微笑した。 「そんな恐ろしい眷族が、お前さんの周囲にいるんだものねえ。……蛇だの蝦蟇だの……恐や恐や!」 「ふふん」  と姥は鼻で笑った。 「そんなしおらしいお姫様でもないに」 「あたしゃアしおらしいお姫様さ。お姫様は長虫がお嫌いだよ」 「ふふん」  とまたも鬼火の姥は、鼻で笑ったばかりであった。  二人はしばらく黙っていた。 「何んと思って鬼火の姥には、こんな森の中へ入り込んだやら」  ──ややあって桂子は皮肉に云った。 「何かと思って飛天夜叉殿には、こんな森の中へ入り込んだのやら」  鬼火の姥も皮肉に云った。 「無礼講のご様子遠見に来たのさ」 「わたしゃアとげられない謀反たくんで、あがき廻る馬鹿な人間どもの姿を、嘲笑ってやろうと入り込んだのさ」 「さあとげられるかとげられないか、お前さんなんかにわかるものか」 「鬼火の姥は見透しじゃよ」 「せいぜいのところ一、二年の先が」 「お前さんなんかには明日のことさえ、てんから見透しつくまいに」 「勝負はどっちが勝つかねえ」 「とにかくわたしゃアこう云っておくよ。武家方のご運強いとねえ」 「せいぜいそれも数年のうちさ」 「今度の企て破れるよ」 「…………」 「裏切り者があらわれてねえ」 「…………」 「妻子には心ひかれるものさ」 「…………」 「この眼力狂わないよ」 「…………」 「…………」  二人はここで黙った。  それにしても何んという対照だろう!  野を越えたかなたにお館があって、そこでは無礼講の乱痴気さわぎが、華やかに享楽的に人間的にさも陽気に行われているのに、同じ野を越したこちらには、荒れた野の宮を中心にして、年を経た松や桧や杉、梧桐や柏の喬木が、萩や満天星や櫨などの、灌木類とうちまじり、苔むした岩や空洞となった腐木が、それの間に点綴され、そういうおそろしい光景を、焚火の光が幽かに照らし、幽暗とした他界的な、非人間的なたたずまいを、現出させているではないか。  しかもそういう自然に包まれ、話しているところの生物といえば、人間には相違なかったが、人間的の力を持った、妖精じみた女性なのであった。  が、それにしても鬼火の姥とは、どういう素性の女なのであろう?  飛天夜叉の素性が解らないように、この老婆の素性もわからないのであった。  しかし一般に知れていることは、深山で長く修行をして、超人間的の魔力を持った、恐ろしい巫女だということと、飛天夜叉とは反対に、武家方の味方だということと、木精や水の精や山神をさえ眷族として自由に使う、そういう女だということであった。 「や、燈火が消えた! どうしたというのだ!」  鬼火の姥は不意に云って、不安そうに野を越えて館の方を見た。  日野資朝卿の館の燈火が、いかさまこの時不意に消えて、その上そこから叫び声や喚声が、風に乗って聞こえて来た。  鬼火の姥は立ち上がった。 「さては子供たちやりそこなったか」  突っ立ったままで茫然と、館の方をいつまでも眺めた。  と、桂子が嘲けるように云った。 「姥よ、見透しはどうなったかよ」 「…………」 「ははあさては鬼火の姥よ、手下を──子供をお館へ忍ばせ、何か悪いこと巧らんだね」 「…………」 「今度の企て破れると云ったが、どうやらお前さんの企ての方が、破れたような格好だね」 「剣戟の音が聞こえるわ! ……あッ、斬られた! 子供が斬られた! ……あッ、また斬られた、子供が斬られた!」  鬼火の姥は地団太を踏んだ。  嵐が勢いを加えて来た。  枝葉が揺れ、病葉が舞い落ち、焚火が靡き、草が翻り、そうして姥の白髪と白衣とが、白い熖のように閃いた。 「宮方に加担し味方をして、謀反を企てる奴ばらの、連判状を奪い取り、探題様へ差し上げようと、子供達を多数忍び込ませたが……あッ、庭の隅へ追いつめられ、また斬られた斬られた!」  姥の怒りと焦燥とが、虫や鳥獣にも伝わったらしい、山猫は背を立て毛を逆立て、足を踏ん張って唸り声を上げ、梟は枝から舞い上がり、焚火の上を輪のように舞い、蛇はとぐろをほぐし出した。  と、一匹の縞蛇が、五尺あまりの太紐のような体を、焚火にテラテラ光らせながら、鬼火の姥の足に搦み、胴の方へ這い上がった。  姥はほとんど夢中であった。 「しめたぞ! 奪った! 連判状は奪った! ……逃げる逃げる逃げる逃げる! ……それさえ奪ったら大丈夫! 逃げな逃げな早く逃げな!」  蛇は胸まで這い上がった。 「あッいけない! 斬られた──ッ」  と、姥はバリバリと歯を噛んだが、夢中で蛇を両手で握り、 「ム──、残念、取り返された──ッ」  蛇は二つに千切られて、ダラリと延びて下がったが、千切れた口から滴った血が、焚火の上へこぼれたらしく、腥い匂いがひろがった。 「範覚範覚! 範覚!」  と、突然姥は呼ばわった。 「行ってみようぞ、館の前まで」  すぐに、 「オ──ッ」  という声が聞こえた。  社殿の横に碑があって、なかば雑草に蔽われていたが、その蔭に若い山伏が、さっきから膝を抱き首を垂れ、コクリコクリと居眠りをしていた。  呼ばれて眼をさまし立ち上がり、側の金剛杖をひっさげると、ノッソリとばかり立ち現われた。 「眠い、疲労じゃ、昨夜のつかれじゃ。……姥のせめ方ははげしいからのう。……ようこれは飛天夜叉殿か。……桂子殿おいでと知ったなら、お伽かたがた出て来たものを」  社殿の方へ好色らしい、いやらしい眼付きを流してやった。  年は二十六、七であろうか、厭らしいところはあったけれど、たしかに美貌の山伏であった。  気になるのは唇が貝の蓋のように薄く、茱萸のように赤いこと、焚火に照らされておりながら、その顔色が蒼味を持って白く、気味悪いほどだということである。  これらの特色はその性質が、残忍であり酷薄であり、好色である証拠であった。  鬼火の姥の手下であり、かつ情慾の相手なのであった。  焚火の側へノッソリと佇み、眼はなお桂子へ注いだままで、 「恋の相手が鬼火の姥でなくて、飛天夜叉殿であろうものなら……何んだ畜生! 薄っ気味の悪い!」  金剛杖に搦みつき、ウネウネと蛇が上がって来たのを、一振り振って大地へ叩きつけた。 「鬼火の姥と来たひには、肌といえば苔の生えた枯れ木じゃ。コツコツしていて水気がなく、カサカサしていて粘り気がない。……それでいてヽヽヽヽヽヽヽヽヽ、いやもう力の強いことは。……わが身苦しくて苦しくてな。……お役目と観念すればこそ、じっとがまんをしているが……しかしどうにも恋ではなくて、姥とのつきあいは拷問じゃよ。……畜生!」  とその時腹の辺りを目掛けて、巨大な蝦蟇が飛びかかって来たのを、片手をあげて叩き落とし、足をあげて踏み潰した。  鬼火の姥が怒鳴り立てた。 「館の門々がとざされたわ! 子供たちが可哀そうにとじこめられ、一人残らず殺されるわ! ……範覚範覚、行って見ようぞ!」  腰から御幣を引っこぬくと、額の辺りへ捧げ持ち、呪咀の言葉を喚きながら、鬼火の姥は走り出した。  依然として縁へ腰かけたまま、範覚の言葉へは耳も藉さず、鬼火の姥の狂態ばかりを、気持ちよさそうに眺めていた、飛天夜叉の桂子が声をかけた。 「鬼火の姥よ、鬼火の姥よ、とうとうお前さんの今夜の企て、木ッ葉微塵にこわれたねえ」  すると突然鬼火の姥は、野に足を止どめ振り返ったが、 「第一の企ては破れたよ。……が、第二の企てがある! ……女房に心とらわれる男を──わしが……誘って……見てごらん! ……範覚おいで、何をしているのだ!」  云いすてて姥は走り出した。 「待ちな、姥、俺らも行く。……あの走りざま、色気がないなあ……役の行者に呪縛されたという、鬼子母神様にそっくりじゃ。飛天夜叉殿、ではご免。……未練のこして行くとしようぞ」  ノソリノソリと金剛杖をつき、金地院範覚は歩き出した。 「いいとりあわせの二人だよ」  云い云い笑止らしく桂子は笑い、社殿の縁から飛び下りたが、 「おや」  と不意に彼女は云った。 「皇子様お通りじゃ、尊い御方が!」  なるほど、荒野を京の町の方へ、一筋通っている道を辿って、館の方から一団の人影が、足早に歩いて来るのが見えた。  梨本御門跡様が従者に囲まれ、歩を運ばれる御姿であった。 「御栄えあれ皇子様御栄えあれ! ……御父君様は御今上様、御母君様は北畠氏、権大納言師親様のご息女、民部卿三位局親子様、……ご幼年から御聡明で御濶達、帝のご寵愛もおいちじるしく、ご兄弟様との御仲も御むつまじく、四方よりのご人望は富岳よりも御高く、御在しますところの御皇子様! いよいよ弥栄えましまして、やがてはこの御国の御礎石となられ、現身さながら御神として、崇められまするでござりましょう! ……御栄えあれ皇子様御栄えあれ!」  桂子は讃め言葉をお送りした。  なお焚火はトロトロと燃え、土釜からは湯気が薄白く立ち、風に煽られて病葉が、ひっきりなしに、散って来た。  今は野の宮はひっそりとしていた。  そういう境地に佇んで、遥かに野路を京の方へ、一団となって御歩きなされる、梨本御門跡様のご一行を、つつましく眺めている桂子の姿は、この野の宮の御神体が、仮りに女人に現われたようであった。  ふと桂子は眼を伏せて、さびしそうに呟いた。 「日野様別館には小次郎様も、今夜おいでになった筈だ。……妾の所へは来られないだろう。……妹が、浮藻、あのお方を、ああも恋しているのだから……恋! いいわねえ、何んていい……でも妾は封じられている! ……永久に恋は封じられている」  それは悄然とした姿であった。  ひっきりなしに病葉が散った。  意外の出来事に時を費し、土岐蔵人頼春が、小次郎を連れて日野別館から、三条堀川の自分の宿所へ、帰りの足を運んだのは、暁に間近い頃であった。 「兄上、大変でございましたなあ」  そろそろ水色を産み出しそうにしている、東の空を仰ぎながら、小次郎はそう頼春へ云った。  小次郎と肩を並べながら、これは空など仰ごうともせず、思案に余ったというように、足もとばかりを見詰めながら、黙々と歩いていた頼春は、 「うむ」  と一言云ったばかりであった。  京の町々は眠りの中にあって、家々の雨戸も窓も蔀も、ことごとく閉ざされて寂としてい、天の河ばかりが屋根に低く、銀の帯を引いていた。  と、頼春は譫言のように云った。 「連判状を奪われたそうな」 「…………」  小次郎は微笑した。  そうして懐中をヒョイと抑えた。 (俺、その連判状を持っているんだぜ)  だが言葉には出さなかった。 「わしは今夜血判したのだ。……お企てへ一味し忠誠仕る。もし偽りあるにおいては、梵天帝釈四大天王、日本六十余州の神祇より、きっと冥罰を受くべきものなりと、誓ったあげく姓名したため、しかと血判いたしたのだ」  依然として頼春は譫言のように云った。  小次郎はまた微笑した。 (その連判状おれ持っているんだ。……兄上が叩き斬ったあの男の手から、ころがり落ちた連判状をよ)  二人は無言でしばらく歩いた。 「その連判状奪われたそうな。……奪った奴が六波羅方で……」 「アッハハハ」  とおかしくてたまらず、とうとう小次郎は声を立てて笑った。 まどわしの声 「何がおかしい!」  と頼春は怒鳴った。 「この身の心の苦しさも察せず」 「じゃと申しても、兄上兄上、どうにもおかしゅうございます。アッハッハッハッ、イッヒッヒッ」 「何がおかしい、この馬鹿者!」 「じゃと申しても、アッハッハッ、その連判状と申すやつが、誰かの懐中にありまして、この辺にまごまごしているとあっては、何がおかしいと仰せられても、やはりメチャメチャにおかしくて、アッハッハッ、エッヘッヘッ、クックックッ、ピッピッピッ──」  と、桂子の館で笑い上戸の稽古に、憂身をやつしている一人の男の、その笑い方を知っているだけに、小次郎の笑い方は堂に入っていて、なかなか立派なものであった。  だが小次郎は笑っていながらも、ああまで連判状の行衛について、兄上が心配しているのだから、いいえさ兄上ご心配なさるな、兄上があの時お斬りになった奴が、その連判状を持っておりまして、それを私が横から出て奪い、今懐中に持っておりますと、こう云って安心させてやろうか。──こう思わざるを得なかった。 (が、まアもう少しジラシてやろう)  与太でナンセンスでいたずらっ児の彼は、ここでも本性を発揮して、明かさないことにきめてしまった。 「小次郎」  と頼春は沈痛に云った。 「女房というものいとしいものだぞ!」 「はあ」  と馬鹿らしくなったので、小次郎は冷淡な返辞をした。 「私には女房はございません」 「戦場に出て功をたてる、主君に日常お仕えして、お覚えよかれと苦心する、みな妻子のため家のためじゃ」 「はあ」 「大義も、節義も、忠も、士道も……」 「妻子には代えられませんでござりまするかな」 「迂濶にも俺は血判したのだ! ……ご謀反へお味方仕ると!」 「…………」 「迷うぞ!」 「…………」 「迷う!」 「…………」 「男心だ!」 「…………」 「が、もう仕方がないかもしれぬ。──その血判した連判状は……」 (ちゃアんとここに鎮座ましましている)  ヒョイと小次郎は懐中を抑えた。 (で、絶対に安全なんだがなあ) 「六波羅方へ渡ろうものなら」 (渡りませんな、大丈夫です。……ここにちゃアんと鎮座ましましている) 「旗あげせぬうちに捕えられ、打ち首じゃ! 梟し首じゃ!」 「…………」 「いっそ!」 「兄上」 「男らしく、盟約の義を貫いて……」 「兄上」 「それとも……それとも……思い切って……」  この時嗄れた女の声が、どこからともなく聞こえて来た。 「頼春殿、それがよろしい!」 「誰だ!」  と頼春は仰天して、せわしく四方を見廻した。  暁の光のさし出る前に、夜というものはその暗さを、ひときわ強めるものであるが、その時刻が今であった。  で、暗い巷には、それらしい人影は見られなかった。 「小次郎」  と頼春は怪訝そうに云った。 「お前いま何んとか云ったか?」 「はい、兄上と申しました」 「そうではない、それ以外に……」 「いえ、なんとも申しません」 「お前に何か聞こえなかったか?」 「さあ、遠くで鶏の声が……」 「いやいや嗄れた女の声じゃ」 「聞こえませんでございますな」 「頼春殿、それがよろしいと……たしかに、このように聞こえたが……」  するとこの時同じ声が、どこからともなく聞こえて来た。 「武士は武家方へつくものじゃ、宮方へつくのはかえって不忠。……武家方に返り忠なさりませ」 「小次郎」  と頼春は顫えを帯びた声で云った。 「聞こえたであろう、あれじゃあれじゃ!」 「変ですなあ」  と小次郎は云った。 「私には何んにも聞こえませんが」  そう、小次郎には遥かの方角から、鶏の声が幽かに聞こえ、近くの小路で蔀を上げるらしい、軋り音が聞こえたばかりであって、そんな嗄れた女の声など、全然聞こえては来ないのであった。 「そうか」  と頼春は腑に落ちないように云った。 「ではわしの空耳かもしれぬ。……行こう」  と二人は歩き出した。  が、またも頼春の耳へ、追い縋るように同じ声が聞こえた。 「ご謀反ことごとく失敗に終り、お味方をした武士衆は、あるいは討ち死にあるいは斬り死に、公卿衆は遠島となりましょう。……難をまぬかるる手段は一つ、返り忠ばかりにござりますぞ!」  それは怯やかすような声であった。  もう頼春は動けなくなった。  往来の真ん中へ足を止どめ、胴顫いする心持ちで、もう一度あたりを見廻してみた。  と、十数間離れたあなたに──もと来た方の家の軒に、その軒よりも高いほどに、身長高い一本の御幣のようなものが、風に靡いて立っていた。  巫女姿の老婆であった。 「あいつだ!」  と頼春は呻くように云った。  そうしてあたかもその御幣に、人を引きつける魔力があって、その力に引かれたかのように、頼春はそっちへ走って行った。 「誰だ!」  と老婆と顔を合わせた時、頼春は焦噪した怒声で叫んだ。 「そちであろう! そちであろう! 俺に言葉をかけたのは⁉」 「頼春殿」  と老婆は云った。 「あなた様にお言葉をかけましたは、いかにも妾にござりまする。……返り忠おすすめしましたも、この姥にござりまする」 「宣れ! 誰じゃ! 名を宣れ!」  頼春は刀へ手をかけた。 (俺の心を見抜いた女、生かしてはおけぬ! 生かしてはおけぬ!)  柄を握った指の間が、膏汗で粘っていた。 「承久以来武家方に対し、宮方の謀反成功ませぬ! ……この度のご謀反とて何んの何んの……」 「黙れ!」  頼春は一喝した。 「この身の心を見抜いた女、素性が知りたい! 宣れ宣れ!」 「世間の人達は妾のことを、鬼火の姥と申しております」 「おおおのれが鬼火の姥か!」  暗い空間を上斜めに、星が飛んだかと感じられた。  抜き打ち!  大蛾が地から舞い上がったかと見えた。  鬼火の姥が二間あまり飛んで、御幣を頭上に振りかぶったのである。 「お斬りなさる気か、駄目じゃ駄目じゃ! ……人間の造った刃物では、この姥の体斬れぬ斬れぬ! ……さような考えおやめなされて、姥の言葉にお従いなされ! ……元亨二年の春の頃より、宮方においては諸山諸寺の、高僧名僧を召し寄せられ、関東調伏の大法秘法を、ひそかに行わせおらるること、姥においては夙に承知じゃ。……仏眼金輪五壇の法、一字五反孔雀経、七仏薬師燃盛光、烏芻沙摩変成男子の法、五大虚空蔵、六観音、六字訶臨訶利帝母、八字文殊普賢延命、護摩の煙りを内苑に満たせ、振鈴の音を掖殿に響かせ、祈り立て祈り立てしている筈じゃ。……が、何の利益があろう! ……武家が武力で取った権じゃ、宮方がそれを取り返そうとなら、やはり武力で取り返さねばならぬ。……坊主、山伏の修法なんどで、何んの政権がとられようぞ! ……しかるに当今日本の武士、ほとんどことごとくが武家方に属し、わずかに宮方に属するもの、そちたち一族の土岐と多治見、これでは大事とげられまいがな。……六波羅殿へ返り忠し、宮方の陰謀内通なされ! 身の安穏たもたれるばかりか、恩賞かならずありましょうぞ! ……いとしいそなたの奥方の、早瀬殿の心持ちにも同情せねばなりますまい! 早瀬殿のお父上は、六波羅の奉行でござりまするぞ!」  云い云い頭上の柄長の御幣を、姥は揉み立て揉み立てした。  暁の風に姥の裳裾も、袖も白髪も靡き翻り、波が砕けて作られた水泡が、涌き立ち踊り騒ぎ立つように見えた。 「妻! ……早瀬! ……おおおお妻よ! ……お前を思えば、お前を思えば! ……」  限りなく愛している妻であった。  この妻のことを思えばこそ、大義も士道も捨てようかと、心を惑わしているほどであった。  その妻のことを云われたのである。頼春は心をとり乱した。  相手に抜き身の太刀を差しつけ、ジリジリと逼って行きながらも、頼春は言葉を上ずらせた。 「おお汝が鬼火の姥か、不思議な力を持っていると、噂に立っている鬼火の姥か! ……さればこそ俺の心持ちを、そうあからさまに見抜いたのであろう! ……姥よ、おおおお姥よ姥よ! ……助けてくれ! 教えてくれ! ……どうしたらいいか、俺はどうしたら! ……黙れ!」  と頼春は覚醒めたように叫んだ。 「遁がさぬ! 殺す! 生かしてはおかぬ! ……己の心を見抜いた汝、生かしておいては後日の祟り! 六波羅殿へでも内通されては! ……死ね!」  と飛び込み斬りつけた。  また大蛾が空へ舞うと見えた。  翩翻と姥が身をかわしたのである。  とたんに活然と音がして、御幣が地上へ落ちて来た。  白一条!  四尺の戒刀!  御幣に仕込れている戒刀が、今や抜かれて姥の頭上に、高く斜めに振りかぶられている。 「小冠者! すされ! フ、フ、フ! ……わしを斬るとな! 笑止千万! ……親切を仇で返す奴! ……その儀ならばよ──し、引導渡すぞ──ッ」  ユサユサユサユサと寄って来た。  が、その前へ小次郎が、この時走って来て身を挺した。 美しき妻  この時東の空の裾が、暁の色に染められて、あたりが仄かに明るくなった。  と、奇蹟が行われた。  猛り立っていた鬼火の姥が、その暁の水色の光に、照らし出された小次郎の姿──類まれなる美貌を見るや、振りかぶっていた戒刀を下げ、眼を細くし、口をあけ、二、三歩ヨロヨロとよろめいたが、恍惚とした表情で、 「人間か? ……男か? ……さてもさても! ……美しいのう! 美しいものじゃ!」  と、譫言を云ったことである。  呪咀も、予言も、闘志も、魔力も、姥からことごとく失われたようであった。  厭らしい、穢い、好色無慚の、鬼火の姥のこの様子には、頼春も小次郎も呆気にとられ、むしろ戦慄をおぼえて来た。  頼春の危険を助けようとして、馳せつけ身を挺した小次郎は、刀も抜かず背後へさがり、身をそむけ眼をそらし、頼春は差しつけた刀を引いて、これは憎悪の切歯をした。  姥は小次郎を見詰めたまま、今度はフラフラと寄って来た。 「さわらしてくだされ、抱かしてくだされ! ……姥の通力やぶれてもよい! ……本望じゃ、さわらせてくだされ! ……柘榴のようなその唇へ、練絹のようなその頬へ!」  フラフラと寄って来た。 「人殺し──ッ」  と小次郎は叫んだ。  咽喉へ切っ先がつきつけられても、武士である小次郎は気が弱くとも、まさかに人殺しとは叫ばなかったであろう。  が、女怪さながらの姥に、唇や頬へさわられるとあっては、恐怖し叫ばざるを得なかった。 「助けてくれ──ッ、おれ敵わん!」  果然助け船があらわれた。  この時まで附近の小路の中に、ひそかに佇み身を隠し、様子を見ていた一人の男が、ツカツカとこの時出て来たのであった。  鬼火の姥の情夫であり、山伏である金地院範覚であった。  金剛杖で大地を叩いた。 「姥よ、病気か、また病気か! ……美少年好みの悪食病か! ……エッヘッヘッ、情けねえなあ」  それから小次郎を睨むように見たが、 「なるほどなあ、こりゃア凄い! 男の俺でさえこりゃア参る! 美しいものじゃ、業平朝臣じゃ! ……やい!」  と威猛高に吼えるように云い、金剛杖を振りあげた。 「行け! 二度とあらわれるな! 鬼火の姥の眼前へよ! ……あらわれたが最後一夜のうちに、骨と皮ばかりにされてしまうぞ! ……な」  と急に声を落とし、 「な、俺にまかせて置け。……姥のような絶倫の精力家には、俺のような絶倫の精力家でないと、ソレ間に合わないというものだ。……それにさ俺にしても姥を取られると、ほんとうのところちと不便だ。……だからよ俺にまかせて置け!」  頼春の妻は早瀬と云った。  大変美しい情の深い、良人思いの女であった。  まだ年も若かった。  この頃彼女は心配であった。  良人の頼春の様子が変わって、憂欝になったからである。 (辛いことよ)  と早瀬は思った。 (何か隠しておいでになる)  そんなように思われてならなかった。 (年月つれ添う妻の妾に、ものをかくすとは何んということぞ!)  こう思うと悲しく怨めしく、見すてられたような気持ちもし、すこし良人が憎くさえ思われ、どうあろうと良人の心の秘密をさぐり、自分の力でそれを消して、以前のように朗らかで気軽な、坊やのような人にしなければならないと、こう思ったりするのであった。  日野別館の無礼講に列し、連判状へ血判して以来、事実頼春は憂欝となった。  心が迷っているからであった。  宮方へお味方仕ると、血判までして誓った以上、宮方へつくのが至当なのであるが、さてそうして合戦となる、と、可愛い妻の父、斎藤太郎左衛門利行殿を、敵に廻して戦わなければならない、ではいっそのこと返り忠をして、武家方すなわち六波羅方へつこうか? 一族の十郎頼兼や、多治見ノ四郎二郎と戦わねばならぬ。 (どっちへ廻っても苦しい身の上だ)  このことが彼の心持ちを、憂欝にしているのであった。 (それより血判をした連判状を、あの夜曲者に奪われた筈だ。それが六波羅方の手にはいろうものなら……)  一網打尽謀反のともがらは、六波羅方に捕えられよう!  今日は捕り方が来るだろうか? 明日は縄目の恥に逢おうか? ──このことが彼の心持ちを、さらに憂欝にするのであった。  秘密を心に持っている。  それを妻に知らすまいとする。  で、自然と彼の起居動作、言語応対眼づかいなどが、陰険となり不正直となり、隠しだて式となるのであった。  早瀬にはそれが悲しかった。  その良人の隠しだて式が! (あのお方の朗らかだった心持ちを、ああも陰欝にした悪い何かを、どうあろうとわたしは探し出して、わたしの力で消さなければ)  で彼女はカマをかけては、いろいろ良人へ話しかけた。  よく晴れた今日は九月××日で、坪庭では萩と木犀と菊と、うめもどきと葉鶏頭と山茶花とが、秋のお祭りを行ってい、空では雁が渡来したばかりの、元気のよい声でうたっていた。 「あなた」  縁に近く円座を敷き、その上に坐り脇息により、物憂そうに坐って、三白眼で、庭を見ている頼春に向かい、早瀬は坪庭から声をかけた。 「お父様よりお使いが参り、明後日は吉例の菊花の宴、二人うち揃って参るようにとのこと、ねえ参ろうではございませんか」  夫婦となって三年を経た。そういう二人でありながら、その仲の親しさ睦まじさは、ほとんど新婚と変わりなく、人眼なければ呼び合う言葉など、甘く、遠慮なく、舌たるいのであった。 「うむ」  と頼春はただに答えた。  心はそこにはないのであった。 (宮方へ附こうか? 六波羅方へ行こうか?) 「ねえ」  と早瀬はまた甘えた声で、 「蜜柑が葉の下に生るということ、あなたご存知でございまして?」 「何に?」  と頼春は不思議そうに訊いた。  突然変なことをいい出されたので、物憂かった心が急に解けて、ついそんなように云ったのである。 (よかった!)  と早瀬は嬉しく思った。 (何んでもわたしはこの人の心を、カラリと軽いものにしてやって、ズンズンものを云わせなければならない)  そこで彼女は云いつづけた。 「地震のあるのを知っているものは、鯰が一番だと申しますね」 「アッハッハッ何を云うやら」 「海嘯のあるのを知っているものは、蟹が一番だと申しますね」 「アッハッハッ何をつまらない」 「今年は雪が多いか少ないか? ── ということを知っているものは、蜜柑の実だそうでございます」 「そうかねえ、わしは知らん」 「雪の多い年だと知ると、蜜柑は葉下へしがみつきますけれど、雪が少ない年だと知ると、葉の上へ顔を出しますそうで」 「ははあさうかねえ、面白いねえ」 「蜜柑は気候を知っておりますのね」 「そうらしいなア、偉いものだ」 「良人の心を知っているものは、誰が一番でございましょう?」 「…………」 「妻ですの! 女房でございます!」  とうとうここへもって来たのであった。  頼春はヒヤリとした。 (俺の秘密に感づいているらしい)  こう思ったからである。  椋鳥が群れをなして翔けて来たが、坪庭の柿の木へ一斉に下り、いかにもガサツに啼き立て、騒ぎ立て、しばらく喧騒をつづけたかと思うと、真昼の陽のひかりのみなぎっている空を、なんの屈托もなさそうに、また打ちそろって翔けて行った。  早瀬は欄干へ背をもたせかけ、涙ぐんだ眼でそれを見送った。  その横顔が頼春に見えた。  薄桃色をした可愛い耳たぶ、額から何んの窪みも持たず、真っ直ぐにつづいているおっとりした鼻、──六波羅第一と賞讃れた美貌が、娘時代と変わりはなく、今につづいているのであった。  が、思いなしか頬のあたりへ、すこしく陰影が出来たようであった。 (痩せた)  と頼春には思われた。  それが痛々しくてならなかった。 (俺にもしものことがあったら、この女はどうなるだろう)  寡婦! ……美貌! ……うら若い身の上! ……自分の妻となる前に、幾人、いやいや幾十人、この女を射落とそうと、六波羅武士や北面の武士が、狙い、口説き、誘惑したことか! ……では独身となったと知ると、同じような種類の若武士どもが、手を変え品を変え立ち代わり入り代わり! (たまらない事だ! たまらない事だ!)  頼春の血は煮え返った。 (人手に渡してたまるものか!) 「早瀬!」  と思わず情の逼った声で、頼春は云って身をのり出した。 「…………」  その烈しい愛情の声に、早瀬の体は引かれたかのように、庭から部屋へ駈け上がった。 「あなた!」 「うむ」 「お心割って……」 「…………」  早瀬の手は良人の膝へかかり、その眼は良人の眼へ食い入った。  ──が、頼春は首をふった。  首を振った頼春ではあったけれど、その夜妻との添い臥しの床で、未練の言葉をふともらした。 「一樹の蔭に共にやどり、一河の流れを共に汲む、それさえ多生の縁だという、まして相馴れて三年となる、等閑でないわしの心、折りにふれ物につけ、お前も知ってくれたと思うよ。……それにしても人は老少不定、いつわしが敢なくなろうもしれぬ。……わが身はかなくなったと知らば早瀬、なき後も志かわらず、貞女の心を! 心を貫いて! ……」  不覚にも頼春は落涙さえした。  ほそぼそとともされている有明の灯で、良人の顔を見詰めていた早瀬は、起き上がってにわかに居住居を直した。 「怪しの節々この日頃中、心にかかりおりましたが、ただ今のお言葉きくからに、いよいよ怪しく存じまする。……明日死ぬか今日死ぬか、お言葉どおり人の身の上は、老少不定にござります。……明日さえたのまれぬ人の身の上、それを後世までのあらましごとを、お云い出でてのご落涙、ひとかたならぬご辛労が、お心にあるからと存じまする。……それをお隠しあそばすとは、あまりといえば薄なさけ! お怨みいたすでござりましょう。……三年の間の夫婦仲、人がうらやみ笑うほどに、……笑われますのも至極のほどに……そうありましたは偽りか! ……それならいっそ! ……いっそ妾を!」  膝にとりつき歯を食いしばり、しゃくり上げしゃくり上げた。 「あなたに心底うたがわれ、かくしだてされまするほどならば、この先いきて何んのたのしみ! ……愛想つかされぬ今のうちに、いつそあなた様のお手にかかり! ……妾を殺してくださりませ! ……それも厭か! ……それほどなら、この身でこの身を……」  と枕刀を、早瀬は取って鞘を払った。 「早瀬!」  と仰天して頼春は、必死と早瀬の手を抑えた。 「死なばもろとも! ……なんのそち一人を! ……短気な! ……えい、タ、短気な! ……放せ! 放せ! これ放せ!」  刀をもぎ取って大息を吐いた。  戸外には夜風が出たと見えて、坪庭の植え込みのざわめく音や、落ちる木の実が池を叩く音が、幽かながらも聞こえて来た。  館の内はひっそりとしていた。  今夜も小次郎は宵のうちから、この館をぬけだして、二条あたりの怪しげな館へ、どうやらこっそり行ったらしく、早くから姿を見せなかったが、今に帰ってはいないようであった。  心をほそめた燭台の灯は、涙にぬれて色蒼ざめて、なお顫えている早瀬の顔と、背後のあたりに投げ出された抜き身を、怪しく凄じく照らし出していた。 「早瀬!」  と頼春は声を忍ばせて云った。 「…………」  早瀬は眼を据えて良人を見詰めた。 「早瀬!」  とまたも頼春は云った。  うわずった苦しそうな声であった。 「わしは苦しい」  と溜息を吐いた。 「明かせば武士がすたれよう! ……が、わしにはそなたが可愛い! ……そなたと別れるほどならば……そなたに疑がわれるほどならば……武士も、男も、なんの惜しかろうぞ! ……早瀬! 宮方ご謀反じゃ! ……それへわしも……わしも加担!」 親と子  その同じ夜の深夜であった。  六波羅探題の奉行職、斎藤太郎左衛門利行は、にわかに眠りからさまされた。 「お嬢様おこしにござります」  と、侍臣が知らせて来たからであった。 「ナニ嬢が? 早瀬が来たと?」 「はい、おこしにござります」 「で、頼春も一緒にか?」 「いえ、お一人にござります。……それもお供もお連れ遊ばさず」 「…………」  太郎左衛門は立ち上がった。  先年妻を先立たせて以来、側室も置かない男鰥の生活、それだけ真面目な人物であったが、娘を愛する心持ちは、人いちばい勝れていた。 (この深夜に女の身一人で、三条堀川からこの六波羅まで、何用あって来たのであろう?) (──大事が! 何か一大事が!)  ふとそんな予感がした。 (夫婦あらそいかも知れぬわい。あまりに仲がよかったから)  こんなようにも思われて、つい微苦笑が浮かびそうになったが、恋婿頼春にかたづいて、三年をけみした今日が日まで、ついぞ一度としてそのような始末を、持ちこんで来たことのない彼女であった。そうではあるまいと考えられた。 「よいわ、ここでよい、寝所へとおせ」  立ち上がった太郎左衛門はまた坐った。  間もなく侍女に案内されて、素足の指に血などにじませ、かむって来たらしい被衣を手に持ち、髪を乱し顔蒼ざめた早瀬が、ソワソワした様子ではいって来た。 「お父様!」  と縋るように坐った。 「…………」  無言でそういう様子を見詰め、太郎左衛門はとむねをついた。 (尋常でない出来事らしい)  そう思ったからである。 「頼春は?」  とまず訊ねた。 「は、はい、良人頼春は……」  バラバラと涙をこぼしたが、 「わたくし無理に酒すすめまして、酔わせて深い眠りに入らせ……」 「…………」 「わたくし一人家をぬけ出し、ま、参りましてござります」 「…………」  親子は烈しく眼を見詰め合った。  六十近い太郎左衛門の、白髪の多い鬢の毛が、黒塗り燭台の灯に照らされて、銀線のように顫えて見えた。 「早瀬!」  と忍ばせた声ではあったが、強い烈しい力を持った声で、 「父を信じて……さあ何事も……心しずめて……云うがよいぞ。……頼春何んとかいたしたかな!」 「お父様!」  とこちらも必死! ──早瀬も必死の声を顫わせ、 「宮方ご謀反! 良人頼春も! ……」 「娘!」 「あッ……いえいえ……お父様!」  早瀬はグッと唾をのんだ。  親子ではあるがこれを機会に、敵味方になろうもしれぬ! では迂濶には! 迂濶には云えぬ! 今になって早瀬は感付いた。 (知りたいはお父様のお心持ち!) 「お父様!」  とさぐるように、 「宮方ご謀反あそばすやもしれずと、この頃世上に行われまする取り沙汰、お父上には、お父上には? ……」 「うむ」  と太郎左衛門は頷いたが、 「鎌倉の悪虐日ごとに増し、両六波羅の非義非道、事ごとに加わるとの非難高く、天の憎しみ神の怒り、北条一族の滅びること、三年は過ぎじと取り沙汰されおること、この父も承知ではあるが……」  ここで云いやめて娘の顔を見た。  ──宮方ご謀反、良人頼春もと、こう一気に云って来ながら、にわかに語を変え様子を変え、世上の取り沙汰などと云い出したことが、不思議に思われたからであった。 (娘といっても心許されぬ。家を去って良人にかしずけば、親より良人に従くが至当! ……これは様子を見ねばなるまい)  こう思ったからである。  が、早瀬は父親の心が、そうあろうとは感づかなかったらしい。 「お父様!」  とはずんだ声で、 「取り沙汰真実となりまして、宮方武家方お手切れとなり、もしも合戦となりましたなら?」 「大日本はいわゆる神国、朝敵となって栄えしもの、古往今来一人もなし、近くは平相国清盛入道、唐土天竺が征めて来ようと、傾くまじき勢威であったが、頼朝義経院宣を奉じて、仁義の戦起こして以来、たたかえば敗けたたかえば破れ、一門ことごとく西海に沈み、子孫ほろびしが何より証拠……」 「おおおおそれでは宮方武家方、お手切れ合戦となりましたら、宮方ご勝利でござりまするか⁉」 「宮方ご勝利! 何んの疑がい! つもっても見よ当今の鎌倉、また南北六波羅の殿ばら、奢り増長我慢熾烈、神明仏陀の怒りの矢先、眼にこそ見えね迫りおるに、一朝宮方と干戈に及ばば、土崩瓦壊疑がいなし!」 「それでは……それでは……お父様も……身六波羅殿のご被官ながら……お心はとうから宮方へ?」 「この国に生きとし生けるもの、心はことごとく宮方よ!」 「それ聞いて安堵いたしました。……どうなることかと思ったに……それ聞いて安堵いたしました」  早瀬は太郎左衛門へひしと縋った。 「宮方ご謀反にござりまするぞえ!」 「…………」 「この日頃良人頼春の様子、ソワソワとしておちつかず、そうかと思うと物憂そうに……それで妾いろいろさまざま、言葉設けて探りましたところ、今宵になって寝所の床で、はじめて明かした一大事! ……お父様、宮方ご謀反! 日野中納言様や俊基様や、そのほかの公卿衆や坊様にまじり、多治見ノ四郎二郎国長様も、土岐十郎頼兼様も、そうしてそうして良人頼春も!」 「うむ」 「ことごとく一味徒党となり、無礼講と称しては相集まり、その実ひそかに六波羅征めの……」 「うむ」 「謀議をいたしておりますとか」 「うむ」 「聞きました時には胸つぶれ、良人は宮方父上は武家方! 揷まった妾はどっちへつこうかと! ……でも安堵いたしました。……お父上のお心が宮方へ……」 「…………」  太郎左衛門はヌッと立った。 「娘!」  その声の凄じさ! 「不愍な!」  眼には涙があった。 「不覚者は土岐頼春!」 「お父様!」 「よく聞け!」  と太郎左衛門は悲哀と苦痛と、怒りとをこきまぜた烈しい眼で、早瀬を上から見下ろした。 「『春の野に、あさる雉子のつま恋に、おのが在所を人に知れつつ』と、うたわれた古歌を存じおるか! その雉子こそ土岐頼春! あっぱれ右近府の蔵人として、若いながらも武名高く、素破や合戦とある時には、一方の物頭ともなる男が、女房の愛に引かされて、さほどの大事をうかうかと明かし、頼まれたお方を裏切るとは! ……我は鎌倉譜代の武士、六波羅の重恩受けたる身、七百余騎を預かりおる、軍奉行の職にある者じゃ! ……かからん時に何んの何んの、宮方なんどに心寄せようや! ……そうとも知らずうかうか参り、良人の秘密を告げた汝、早瀬、汝も汝も不覚! ……が、不愍!」  と太郎左衛門は、また坐って腕を組んだ。  早瀬の顔色は藍のようであった。  その唇は土気色で、体はガタガタ顫えていた。  はじめて知った父の心! つれて危険な良人の身の上! (どうしようどうしよう!)  あさはかとも不覚とも、云いようない自分の所業! (どうしようどうしよう!)  おどついた眼で父の顔色を、ただに窺うばかりであった。 「娘!」 「は、はい」  といざり寄った。 「父はこれより六波羅殿へ伺候し……」 「…………」 「事情つぶさに言上し、今宵のうちに手配りし、一挙に宮方を討って取る!」 「…………」 「不愍なはそち! ……そちたち夫婦!」 「…………」 「生きていたいか⁉」 「お父様!」 「頼春といつまでも添っていたいか⁉」 「…………」 「であろうよ、添っていたいであろうよ。……では……」  とグッと眼を据えた。 「日本一の不覚者、前代未聞の臆病者、士道の廃れ、人の裏切り者! ……この汚名を末代まで背負い、返り忠の焼き印を顔に押し、頼春も生きろそちも生きろ! ……生き得る手段はただ一つ!」 「は、はい」 「頼春をここへ呼び……」 「は、はい」 「彼の口より謀反のあらまし……」 「は、はい」 「云わせて密告させることじゃ!」 「は、はい」 「人やって即刻呼び寄せようぞ」 「は、はい」  と早瀬は手を合わせた。 「嬉しいか?」 「添うてさえ……」 「添うてさえおれれば嬉しいか」  無言で早瀬は頷いた。 「未練! ……が、女心だ!」  閉じた太郎左衛門の眼頭からも、涙がバラバラと膝に落ちた。  この夜小次郎は桂子の館の、奥の部屋で話していた。 朗らかな団欒  どこからまぎれこんだ馬追であろうか、燭台の裾を巡りながら、時々たちどまって鳴いたりした。  鳴く時青い羽根がこまかく顫えた。  桂子と浮藻と小次郎とが、その横でしめやかに話していた。  そうしてこの部屋の出入り口に近い、片寄ったところには大蔵ヶ谷右衛門が、大鉞を砥石へかけて、ゴシゴシと磨いでいた。  右衛門は桂子の股肱の臣で、桂子のためなら水火の中であろうと、笑って平然とはいって行くほどの、忠誠の心の持ち主であり、仁に近いほどの木訥漢であったが、剛勇無双膂力絶倫、二十貫の鉞を揮わせたら、面に立つ者はないほどであった。  それでいて他面諧謔漢で、見かけに似合わぬ多才児でもあり、この道場では桂子に代わって、泣き男だの幽霊女だのの、稽古をつけてさえいるのであった。  小次郎がこの館へはじめて来た時、弓の折れの鞭をひっさげて、例の稽古をつけていた男が、この大蔵ヶ谷右衛門なのである。 「……ウナイ男に慕われて、もう一人の男にも慕われて、どっちへも行けずにママのテコナは、真間の入江へ身を沈めて、若い身空を死んでしまったんですものねえ、テコナはほんとうに可哀そうよ」  いろ紙で雛を折りながら、そう浮藻は小次郎へ云った。 「はあ」  と小次郎は返辞をした。 「阿呆な女とも云えますなあ」  滑らかな細い浮藻の指先が、器用に動くのをうっとりと見ながら、小次郎は云いつづけた。 「もう少し気の利いたやり方だって、ありそうなものに思われまするがなあ」 「どうして?」  と浮藻は眼をあげた。  不平そうな色が眼に出ていた。 「二人の男を順番に取って、二人ながら満足させ、自分でも満足するという法など……」 「小次郎や」  とたしなめるように、今夜は不思議と女らしく、膝の上へ派手やかな縫い物を置き、針をはこばせていた桂子が云った。 「娘に頬を染めさせるようなことは、なるべく謹んで云わない方がいいよ」 「はあ」 「小次郎や」  とまた桂子は云った。 「すこしわたし苦になっているんだよ」 「はあ」 「その『はあ』という言葉だがねえ」 「はあ」 「それそれ、それがいけないのさ。田舎びていて間が抜けていて、下卑てさえいる『はあ』という言葉、それを使うとお前さんの縹緻が、──綺麗すぎるほど綺麗な小次郎が、一度に田舎者になってしまって、どうにも嬉しくないのだよ」 「へい」 「あれ、『へい』はもっと悪いよ」 「はあ」 「あれあれ元へ戻ってしまった」 「…………」 「今度は唖者になったのね」 「何んと云ったらいいのです」 「『はい』とお云いな、ただ『はい』とねえ」 「はい」 「及第だわ、満点よ」 「はあ」 「おや」 「ハッハッハッ『はい』」  ここでみんなは笑いだしてしまった。  で、この部屋にはなごやかな気分が、ひとしきり拡がりただよった。  馬追は燭台を巡りながら、毛のような触覚をふるわせたり、青い羽根を時々ほころばせたりした。 「右衛門や、まだ磨ぐのかい」  と桂子は右衛門へ話を向けた。 「いいかげんでおいたらよいではないか」 「お姫様」  と右衛門は云った。 「この鉞を磨ぐということは、私の趣味でござりましてな。これさえ磨いでおりますると、私は心持ちよろしいので」 「大変物騒な趣味なんだねえ」 「世間が物騒になりますると、趣味までが物騒になりまする」 「蹴球だの双六だのというようなものは、どうやらお前には向かないそうな」 「ありゃア公卿方の遊戯でございますよ。私どもには向きませんなあ」 「そう公卿方をコキ下ろしてはいけない。どうして当今のお公卿様方は、勇猛果敢でいらっしゃるよ」 「そういうお方もいらっしゃいますとも。たとえば日野資朝様、たとえば藤原俊基様など。……が、少数でございますよ。……爾余のお公卿様と来たひには、アッハッハッハッ、他愛ありません。……ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ! ……大分磨げましてござります」  鯖の腹のようないさぎよい光に、大鉞は光り出した。 「ねえ小次郎さま」  と浮藻は云った。 「ではあなたはママのテコナは、阿呆の女だとおっしゃるのね。……ではあなたにはママのテコナの、純な生一本の心持ちが、ちっともおわかりになりませんのね」  ずいぶん不平だというように、そう浮藻は云い出した。 「と云うわけでもありませんが……ええと、さあ、何んて云おう……融通の利かない不経済な……ええと、さあ何んて云おう」  すこしこわそうに桂子の方を見、当惑したように鼻に皺をよせ、 「わたしでありましたら死ぬことだけはやめて……ええと、それから、ええと、それから……」 「ええとそれからどうなさいますの?」  浮藻はひどく好奇心を持って、その後の言葉を待つらしく、雛を折る手を止めてしまった。 「さっきも私申しましたとおり、まず一人を満足させ、そうして自分も満足し……」 「それだけでいいじゃアありませんか。……一人と一人とだけでネエ小次郎様!」  熱を持った烈しい処女の眼で、浮藻は小次郎を見詰めながら云った。 「一人と一人だけでネエ小次郎様!」 「はい、しかし、もう一人の男に、テコナという女は恋された筈で……」 「ですから自分から死んだのよ」 「そいつが私にはわからないんで……」 「どうしてお解りになりませんの?」 「どうしてといってそんな場合には……」 「死ぬよりほかはありませんわね」 「え、そいつが私にはわかりませんので」 「どうしてですの、小次郎さん?」 「二人の男に恋された以上……」 「どっちへも行けなければ死にますわねえ」 「いえ、両方へ行きますので」 「あら、そんなこと出来ると思って!」 「何んですって!」  とかえって驚き、 「私はいつもそうして来ましたので……」 「小次郎や」  と桂子が云った。  とたんに鉞が宙へ上がった。  右衛門が鉞をふりあげたのである。 「さあ磨げた! 斬れるぞ斬れるぞ! 時々鉞も血を吸わないと、精気を失い元気を失う! ……斬られて血祭りにあげられたい奴、どこかにないか、あれば出て来い! ……女たらし、軟弱漢、不正直者、謀反人、忠義の心忘れた奴! ……北条高時、弓削ノ道鏡、蘇我の入鹿、川上梟帥、こういう奴ならいつでも斬る! ……われらがご主人桂子様ご姉妹、ご姉妹に、盾つく人間あらば、それこそ情け用捨はせぬ! ……すぐに斬る、遠慮なく斬る!」  頭上で鉞をふり廻した。  燈火に反射した鉞の刃は、蛍合戦の時数千の蛍が、塊まって巨大な球となり、それが虚空に渦巻くがように、青光り閃き渦をまいた。  小次郎は顫えて首をちぢめた。 (おれ斬られる! あぶねえあぶねえ!) 「右衛門や」  と桂子は云った。たしなめるような声であった。 「お前の心持ちはわかっているよ。……口に出してあまり云わないがいいよ。……お前の武勇も解っているよ。……大事に蔵っておくがいいよ」 「はい」  と右衛門は穏しく云った。  そうして鉞を床の上へつき、その柄へ躰をもたせかけた。 「こうしてこのお部屋の出入り口を、この鉞で守りますのが、私の趣味でござります」  ──で、もう首をうなだれて、立ったままで居眠りをはじめ出した。  頤髯たくましい彼の顔は、すぐに無邪気なものになった。 「小次郎様」  と浮藻は云った。 「ママのテコナの心持ちが、ではどうしてもあなた様には……」 (おれ降参だ)  と小次郎は思った。 (おれ、とんだことを云い出してしまった。おれ、一生云われるぞ) 「小次郎様」  と浮藻は云った。 「ママのテコナの心持ちが、わたしの心持ちでございますの。……でも妾はテコナのように、けっして二人の男などに、思われても恋されてもおりませぬ。……いいえいいえ誰も一人も、わたしなど恋してはくださいませんの。……でもわたしは、妾の方では、一人のお方を、たった一人のお方を……とても恋しておりますのよ。……でもそのお方は妾のことなど……」  この時この館の玄関の方から、人の声が聞こえて来た。  桂子はそれへ聞き耳を立てた。  右衛門もカッと眼をあいた。 「小次郎様」  と浮藻は云った。  浮藻には玄関からの人の声など、耳に聞こえては来ないらしかった。 「ママのテコナは二人の男に……」  人声は乱れた足音と共に、この部屋の方へ寄せて来た。  右衛門はユラリと鉞をあげた。 「でも妾は一人のお方に……」  足音はこの部屋の前まで来た。 「お姫様、一大事!」  部屋の外の男の声が叫んだ。 「誰だ──ッ」  と右衛門は怒号した。 「右衛門か俺じゃ、袈裟太郎じゃ! ……ここ開けてくれ一大事じゃ!」 「うむ袈裟太郎か! 何んだ何んだ!」  右衛門はガラガラと扉をあけた。  と、廊下には細作係りの、風見の袈裟太郎が額に汗かき、大息ついてかしこまっていたが、 「両六波羅騒動じゃ! 内裡攻めんと大騒動じゃ!」 六波羅探題 「ナニ六波羅が内裡を攻める⁉」  こう云いながら立ち上がったのは、身をひきしめていた桂子であった。  ツカツカと戸口へ近寄ったが、 「袈裟太郎や、くわしくお云い!」 「は」  と袈裟太郎は一揖し、 「お命令によりまして私はじめ、雉六、石丸、椋右衛門など、六波羅方の動静を、日夜うかがいおりましたるところ、今夜にいたりまして活溌となり、早馬数騎鎌倉さして、馳せ下るよう見うけましたれば、途中に要して取って抑え、事情責め問いいたしましたるところ、宮方ご謀反内通者あって分明、そこで鎌倉へ注進し、兵を乞うとの意外の話……」 「内通者あって分明というか? 内通者あって! 内通者あって?」  桂子の顔には不安と疑惑とが、この時にわかに現われた。 「で、まずこの旨何より先に、お知らせいたそうと存じまして……」  袈裟太郎の言葉の終わらぬうちに、またもや足音あわただしく響かせ、二人の男が駈け込んで来たが、 「姫君様一大事!」 「六波羅にては、兵どもを集め、到着づけはじめましてござります!」  一人は細作の石丸であり、もう一人も細作の椋右衛門であった。 「仔細をお云い! さあさあ早く!」 「は」  と云ったは石丸で、 「六波羅探題の大門ひらき、篝火さかんに燃えたたせ、軍奉行の斎藤太郎左衛門、同じく隅田弾正少弼、床几を立てての検分のありさま、あまりに由々しく存じましたれば、雑兵をとらえ訊しましたるところ、姫君様にも夙にご存知の、摂州葛葉の荘園において、地下侍ども代官に反き、合戦に及びおりまするが、その合戦に兵を送って、鎮定するまでの話よと、その雑兵めは申しましたが……」 「それは偽りでござりまして、そのように世間態をとりつくろい、その実は四十八箇所の警護の武士と、在京の武士とを召し集め、内裡攻めんとの謀りごとの趣き、探り知りましてござりまする」  と、すぐに椋右衛門が後をつづけた。 「おおおおそれから、おおおおそれから⁉」  と桂子はイライラと後をうながした。 「内通者は誰だ! お云いお云い!」 「美濃ノ国は土岐の住人、土岐右近ノ蔵人頼春とか!」 「いけねえ!」  と思わず叫んだは、この時まで桂子の背後に立ち、浮藻に片手を握らせたまま、話を聞いていた小次郎であった。 「兄上じゃ! 内通者は!」  ──ギラギラとこの時光るものがあった。  右衛門のひっさげていた大鉞で、それがこの時頭上に高く、ユラユラユラと上がったからである。 「さあこの鉞血が吸えるぞ! 裏切り者の血が吸えるぞ!」 「兵どもの噂によりますれば……」  と石丸が忙しく後をつづけた。 「土岐頼春その最初は、宮方のお味方でありましたところ、妻の愛に雄心ゆるみ、裏切り内通いたしました由!」 「やられた!」  と桂子が地団太を踏んで叫んだ。 「鬼火の姥めにしてやられた! ……あの女の予言にそっくりじゃ! ……が、こうしてはいられない! せめて気の毒な人々の、家族なりとも家族なりとも! ……」  ここは五条松原で、六波羅探題の大屋敷が、篝火、幔幕、槍、長柄、弓矢によって厳めしく、さも物々しく装われていた。  この六波羅の探題は、京都及び畿内近国、関西諸国一般の政務と、軍事とをつかさどる重職で、その威権の重いことは、鎌倉の執権につぐほどであり、必ず北条氏一族に限って、任ぜられることになっていた。  この時の探題は北条範貞で、いま甲胄に身を固め、侍所の奥に控えていた。  左右に居流れたは検断所の司、評定衆、問注所の司、引付衆、越訴奉行、祗候人の人々で、同じくいずれも武装していた。  大庭は雑沓そのものであった。  三鱗の定紋の大幔幕を、三方一面に引きまわし、大篝火でそれを照らし、板盾、竹盾で四方を固め長柄、薙刀で警護した中を、行く人々来る人々、ことごとく甲胄で身を鎧っていた。  聞こえるものは馬の嘶き、武器の触れ合って立てる音、怒声、制止声、撃柝の音。輝くものは抜き身の刃。  中央の床几に腰うちかけ、到着を告ぐる人々に、いちいち会釈をしている者は、斎藤太郎左衛門利行で、その傍らに引き添っているのは、土岐蔵人頼春であった。  小桜縅の胴丸に、五枚兜をわざと外し、丸鞘太刀を佩いている彼は、裏切りをした罪悪に、良心苦痛を覚えると見え、顔色蒼ざめ唇ふるえ、視線定まらずただあちこちと、狐つきかのように見廻していた。  舅太郎左衛門より使者が来て、その館へ行ってみれば、妻の早瀬の姿があった。  それで一切の事情が解った。  舅に強請されるままに、彼は舅と連れ立って、この夜ただちに探題へ伺候し、宮方ご謀反の一切を、返り忠して密告したのである。  で、今は武家方の一人として、ここに並んでいるのであった。  この物々しい騒動も、自分の密告のためかと思えば、恐ろしく思われてならないのであった。  まず軍の血祭りとして、土岐十郎頼兼と、多治見ノ四郎二郎国長とを、その館にこれより攻めて討ってとるということであった。 (二人ながら俺の一族だ!)  その一族が自分の密告で命を捨てなければならないのであった。 (密告! 裏切り! 返り忠! ……武士として風上に置けぬ所業! ……それをしたのがこの俺なのだ!)  身の置き所ない思いであった。  その思いが刻一刻に、彼の心に強まって来た。 (それもこれも女房可愛さからだった!) 「ベッ」  と思わず唾を吐いた。  今ではその妻が穢らしいものに、しきりに思われてならないのであった。 (なぜあれほどの一大事を、妻などに俺は話したのだろう⁉)  次第に後悔が濃くなって来た。 (俺に酒を強い酔わせて眠らせ、出しぬいて舅の屋敷へ行き、俺の話した宮方ご謀反──この話を舅に打ち明けたとは! これが人の妻のやり口か!)  良人可愛さの心持ちから、行なった所業だということは、もちろん頼春にもわかっていた。 (とはいえそれも一つの裏切りだ!)  愛から出た妻の裏切り! (良人が妻の愛に溺れ、頼まれたお方を裏切れば、妻は良人を愛するあまりに、良人を裏切って人非人とする! ……裏切り者と裏切り者! ……それも愛から! 呪うべき愛から!)  この間も到着の武士どもは、一方の木戸から現われて、さも勇ましく宣りをあげ、到着の帳へ名を記させ、別の木戸から出て行った。  唐綾縅の鎧を着、柿形兜を猪首にかむり、渋染め手綱に萠黄の母衣、こぼれ桜の蒔絵の鞍、五色の厚総かけたる青駒、これに打ち乗ってあらわれた武士は、 「清の党の旗頭、葛西ノ忠太候うなり、お書き留めくだされい」  と宣って通った。  白糸縅に胡麻幹小札、この大鎧を一着し、真紅の鉢巻をムズと締め、黄母衣に木地の鞍置かせ、浅黄手綱の黒駒に乗ったは、濃州方県の城の主、明石播磨之介貞朝であったが、 「談天門の攻め口は、わが手にて候うぞ」  と大音に呼ばわり、カラカラと笑って通りすぎた。  桐原駒に沃懸地の鞍、萠黄縅に紅裾濃、桃形兜に白の母衣、この武士も悠々と通ったが、 「名古屋の前司候うなり、美福門はわが手にて攻める、余人かならず手出し給うな」  と、颯爽と宣って通りすぎた。  間もなく二騎が並んで通った。  一人は陶山時秀で、山吹縅の鎧を着、火焔鍋尻の兜をかむり、宿月毛の駒に乗り、紫手綱を握っていた。もう一人の武士は河野治国で、卯の花縅の鎧を着、兜はわざと侍者に持たせ、浅黄欝金の母衣をかけ、紅手綱の白駒にのり、時秀と並んで歩ませて来たが、 「安嘉、達知の二つの門は、我ら両人にて受け取るべし、違算あるべからず」  と豪笑し、別の木戸から引き上げて行った。  来る武士通る武士みな朗らかで、ただ戦場での功名手柄に、心を打ち込んでいるらしく、ほかに憂いはなさそうであった。  伊勢平氏美濃侍、近江の山本姉川衆、伊賀の服部三河の足助、矢矧衆の兵どもが、色さまざまの旗標立て、黄や緋縅や白檀磨きや、啄木、花革、藤縅や、さては染め革や柑子革や、沢瀉などの鎧を着、連銭葦毛、虎月毛、四つ白足や白額や、柑子栗毛や姫栗毛や、好みの駒にまたがって、暁近い空の光と、篝火とに姿明るめて、雄々しく来ては宣りをあげ、別の木戸から消えて行った。  来る人の姿、行く人の姿、頼春の眼には夢の中の人物、遠い他国の武者押しの場の、他人かのように思われ見えた。  心がそこにないからであった。  と、一人の若い武士が、幔幕をかかげてはいって来たが、太郎左衛門に近寄って、その耳もとで囁くと、ふたたび幔幕をかかげて去った。 「頼春」  と太郎左衛門は厳めしく云った。 「北殿(探題北条範貞の事)ご諚じゃよ! そちへのご諚じゃ!」 「…………」  ハッと夢から覚めたように、頼春は舅の顔を見た。 「十郎頼兼と多治見ノ四郎二郎、この二人を討って取る。ついてはそち勢に加わり、二人の者の首級の真偽、見究めかたがた参れとのこと! 早々出発するがよかろう」 「あの私が頼兼、国長の……」  頼春はガチガチ歯を鳴らした。 「討手の勢に加わりますので?」 「そうだ」  と太郎左衛門は鋭く云った。 「北殿ご諚じゃ、すぐ打ち立て!」 「私が一族の頼兼と国長を! ……ソ、それはあまりに無惨!」 「黙れ!」  と太郎左衛門は一喝した。 「そちの返り忠神妙ながら、なお本心心もとないと、おぼしめしての北殿ご諚! これ解らぬか、迂濶者め!」 「じゃと申して、じゃと申して、現在一族の頼兼、国長を……」  頼春はハラハラと涙をこぼした。 「この儀ばかりは! この儀ばかりは!」 「私情じゃ!」  と太郎左衛門は吼えるように云った。 「北殿ご諚は公ごと! 私情をもって拒むとあっては、頼春、せっかくの返り忠むだになるぞよ、水の泡となるぞよ」 「たとえ水の泡になりましても……」 「これ」  と太郎左衛門も涙を眼に溜め、声を沈ませて囁くように云った。 「早瀬の心思わぬか」 「早瀬! ……妻! ……おお妻ゆえに!」 「そちこのご諚拒んだが最後、謀反の心根いまだ消えずと、捕えられて縛り首! しかも頼兼、国長は、運命変わらず討たれるのじゃ!」 「…………」 「そち死なば早瀬は生きていまい」 「…………」 「娘と婿とに先立たれて、ワ、わしも生きていぬ!」 「舅殿!」 「頼春行け!」 「は、はい」 「〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔の道、贖罪の浄め、他にあろう、他日ほかに……」 「は、はい」 「な」 「はい」  とフラフラと立った。 (廃れた武士だ、廃れついでに!)  頼春はフラフラと歩いて行った。  三鱗の旗をたまわって、宮方征討に向かったのは、小串三郎左衛門尉範行と、山本九郎時綱とであった。  従う勢は五千余騎、六条河原へ打って出で、ここで勢を二手にわけ、時綱はそのうち二千余騎を率い、土岐頼兼を討ってとるべく、三条堀川へ寄せて行った。  が、時綱は兵法巧者の、心掛けある武士だったので、このように大勢して押して行ったならば、四辺動揺して人も出で、それに紛れて十郎頼兼遁がれて、故郷へ帰ろうもしれぬ。──こう思ったので三条河原へ、わざと兵を屯させ、 「頼春殿それがしと参られい」  こう云ってこの軍に附けられて来た、返り忠の土岐蔵人頼春を連れ、他に二人の郎党を従え、頼兼の館へ忍びやかに向かった。  門前に馬をとどめ、小門よりつと中へはいった。  中門の方を窺い見た。  宿直の武士とおぼしい者が、物具、刀、太刀など散らし、枕を外して眠っている姿が、有明の灯で幽かに見えた。 「よし」  と呟いて館を巡り、厩の方へ潜行した。  それから館の背後へ廻った。 (抜け道などあっては一大事)  こう思ったからであった。  が、背後はことごとく築地で、門より外には道はなかった。 「よし」  と時綱はまた呟いたが、 「頼春殿、駈け入りましょうぞ」  と、この時まで無言で従って来ていた、頼春の方へ振り返って云い…… そちが頼春!  ……その返辞を待とうともせず、廊から客殿へ駈け上がり、二間ばかり馳せ通り、ここぞと思われる一間をあけた。 「誰だ!」  と叱るように声をかけ、ふり返り睨んだ武士があった。  たった今しがた起きたばかりの、そうしてそこで髪を調えていた、土岐十郎頼兼であった。  武装している時綱の姿を見ると、一切の事情を知ったらしく、 「心得たり!」  と大音に呼ばわり、傍らの太刀を取り上げて立った。  つづいて側なる障子一枚を、無造作に足で踏み破り、六間の客殿へ躍り出た。  時綱もすぐに後を追った。 「…………」 「…………」  問答をする必要はなかった。  当面の敵を討って取り、ともかくも遁がれようと思ったらしく、頼兼は奮迅の勢いをもって、ただし天井に鋒をあてては、刀折れて不覚をとるであろうと、掬い斬りに斬りかかった。 (この敵広庭へおびき出し、あわよくば生け捕りにしてやろう)  こう時綱は考えた。  で、うち払いうち払い、背後さがりに退いた。とうとう広庭まで走り出た。  が、必死の頼兼の、鋭い太刀先には敵すべくもなく、次第に時綱はあやうくなった。 「頼春頼春!」  と時綱は叫んだ。 「背後に廻れ! 加勢頼むぞ!」  頼春は時綱の遥か背後の、木立の蔭に佇んで、茫然とした心持ちで眺めていたが、こう云われてフラフラと木蔭を出た。  ほとんど機械的に太刀を抜き、アヤツリ人形のようにその太刀をふり上げ、夢遊病者のように進み出た。  その姿を頼兼が見た。 「おお?」  と彼は疑がわしそうに云い、 「ああ!」  とすぐに放心したように云った。  彼は太刀をダラリと下げ、押されたように後へさがった。  その眼は空洞さながらとなり、その唇はポカンと開き、極度の意外にぶつかった人間が、瞬間に現わす痴呆的表情! ──その表情をあらわした。  不意に彼は呻くように云った。 「そちが! ……頼春! ……裏切ったとは! ……一族の……同じ血の……一族のそちが……」  にわかに彼の表情が、何んともいえない変なものに変わった。  怒りか? 恨みか? 咒咀か? 悲しみか? ……  いやそれ以上のものであった!  それは憐愍であるようであった!  つづいて彼の顔に恥辱の色が、稲妻のようにあらわれた。  名誉ある土岐の一族から、裏切り者の出たことを、自分自身に恥じるかのような、そういう色があらわれた。  彼はにわかに首をちぢめ、肩を下げ背を曲げ、何者かにお詫びでもするように、居縮むような格好をしたが、時綱と頼春とに背を見せて、館の方へクルリと向き、元の寝所の方へ走り出した。  すぐに時綱がその後を追った。と、鬨の声が門の方から起こった。三条河原に屯していた、二千の兵が寄せて来たのである。  門を破り築地を乗り越え、六波羅勢はこみ入って来た。  土岐の郎党は眠りからさめ、物具もつけず走り出で、死に物狂いに防戦した。  比較にもならぬ多勢に無勢、頼兼の家臣は一人で十人、二人で百人の敵を受け、けなげに力戦苦闘はしたが、またたく間に斬り立てられた。  と、館の縁の上へ、時綱の姿が現われた。 「土岐頼兼を討ち取ったり。……敵ながらも天晴れ腹切って死んだわ! ……首級取ったは山本九郎時綱!」  と大音声に呼ばわって、鋒に貫いた頼兼の首級を、高くかざして味方に示した。  ドッと喊声が湧き起った。 「主君討たれて候うぞ! お供仕れ! 一人も生くるな!」  名を惜しむ源氏の流れであり、美濃の名族の土岐の家臣は、こう声々に呼ばわって、眼にあまる大軍の六波羅勢の中へ、駆け入り駆け入りして切り結び、相撃ちとなって死ぬ者あり、刺し違えて死ぬ者あり、一人のこらず死に果てた。  生け擒りされた者は一人もなかった。  頼春はただ茫然としていた。  自分の周囲で討ちつ討たれつ、斬りつ組みつ殺しつ殺されつしている、人と人との戦いも、槍、長柄、太刀の閃きも、馳せ違い入り違う人馬の姿も、ただ「一団となって動く物」──そうとしか見えなかった。  その混乱の人馬の渦に、自分も巻かれておりながら、そうして押しやられ突きやられ、怒涛の中の小舟のように、めちゃめちゃに揉まれておりながら、彼は何んにも出来なかった。  ただ一つの恐ろしいものが、幻影のように見えるばかりであった。  憐愍を現わした頼兼の眼!  そう! そればかりが幻影のように見えた。  それにもう一つ、一つの声ばかりが、周囲の叫び声や苦痛の声や、馬の嘶きや太刀打ちの音や、矢叫びの声を貫いて、彼の耳に聞こえて来た。 「そちが! 頼春! 裏切ったとは! ……一族の……同じ血の……一族のそちが!」  この声ばかりが聞こえて来た。 (頼兼は俺を憐れんだのだ!)  怒りならば、軽蔑ならば、憎悪ならば、ないしは呪咀ならば、怨みならば、まだまだ救われる余地がある!  そうではなかった!  憐れんでくれたのだ! (おおおお可哀そうに頼春よ、一族の同じ血の俺達を裏切り、生きていたいのか、栄達したいのか!)  こういって憐れんでくれたのだ! (たまらない!)と頼春は思った。  渦巻き乱れていた兵どもが、 「引きあげろ! ソレ引きあげろ! ……錦小路高倉へ行け! 多治見ノ四郎二郎の館へ行け!」  と、口々に叫ぶ声が聞こえて来たのは、それから間もなくのことであった。と潮の引くように六波羅勢は門から出た。  それに紛れ、それに引かれ、頼春も門から外へ出た。  二千の人馬が京の町を、錦小路高倉の方へ、無二無三に押して行った。  昨夜多治見の館では、盛んな酒宴が行なわれ、暁近くなって一同は寝た。呼びよせた遊君や白拍子も、そのまま館に泊まり込んだ。  と、ドッと鬨の声があがった。 「素破や!」  とばかり四郎二郎は、枕を蹴って立ち上がった。  傍らに寝ていた白拍子は、五条の白菊という女であったが、心が健気で機転も利いていた。  隣室へ駈け込むと鎧櫃をあけ、四郎二郎へ打ちかけた。 「神妙!」  と四郎二郎は感謝しながら、手早く上帯をひきしめた。  この間に白菊は館を駈け廻り、眠っている人々を呼びさました。  四郎二郎国長の郎党に、小笠原孫六という豪の者がいた。  鬨の声を聞くやすぐに飛び起き、鎧はつけず太刀ばかり佩いて、部屋から駈け出で中門へ行き、大門の方を屹と見た。  と、築地の上を越して、車の輪の旗一流が、風に靡いているのが見えた。 (小串三郎左衛門範行の旗だ! さては!)  と仰天し引き返したが、館の四方を駈け巡りながら、 「寄せ手は六波羅の小串の一党! かかればご主君宮方に附属し、近日事を挙ぐべきの計画、敵に知られての討手なるぞ! ……やわか敵も逃がすまじ! 我らも敵には従いがたし! ……末代までの語り草に、斬って斬って斬りまくり、力尽きなば腹切って死ねや! 降るまじきぞ敵に降るな!」  と、大音声に呼ばわった。  これに勇気を猟り立てられ、窮鼡の多治見の郎党ばらは、籠手脛当てそこそこにして、太刀を抜き長柄を揮い、槍をしごいて館を走り出で、ヒタヒタと門ぎわへ押し出した。  孫六は手早く甲胄をつけ、二十四差したる胡籙を負い、重籐の弓を小脇に抱き、門の上なる櫓へのぼり、中差しとって打ちつがえ、狭間の板八文字に押しひらき、 「あらことごとしの大勢や、我らの武勇こそ証拠立てられたり! ……寄せ手の大将は小串殿か! 不足なき相手なり! ……近づきて矢一筋請け候え!」  と、大音に呼び大音に呼び、十二束三伏充分に引き、矢筈かくるるばかりとなし、矢声高く切って放した。  と、真っ先に進んだは、狩野下野前司の郎党、衣摺助房という猛者であったが、鉢附けの板まで矢先白く射ぬかれ、馬から真っ逆さまに落ちて死んだ。  孫六はこれをはじめとし、差しつめ引きつめさんざんに射、鎧の袖、草摺りの間、胄の鉢下、胸板、脇腹、相手かまわず敵を射た。位置はよし、手練は無双、ただ一本の空矢もなく、二十三人を射て取った。  一筋の矢が後にのこった。  これを抜きとって腰へ差し、胡籙を外して櫓より投げ、 「冥途の旅の用心に、矢一筋残したり、思いのこすこと今はなし、日本一の剛の者の、死に様よくご覧じて、やがて貴所方の運命となる日の、お手本なりとなしたまえや!」  こう呼ばわると刀の鋒を、孫六はガバと口にくわえ、真っ逆さまに櫓より飛んだ。  太刀先およそ一尺あまり、頸に抜けて息絶えた。  この間に多治見の郎党ばらは、館の四方の門をかため、閂をかい重石を宛てがい、籠城の手筈をととのえた。  ──いずれはことごとく討たれる身! が死ぬ前に六波羅勢を、一人なりと多く討って取ろうと、心を定めての兵法であった。  この決死の兵法には、雲霞のように寄せて来ていた、六波羅勢も恐れをなし、左右なく門を押し破って、乱人することが出来なかった。  門ぎわまでは寄せたものの、躊躇せざるを得なかった。  が、無鉄砲のはやり雄はあった。  伊藤彦四郎父子兄弟で、門の扉の破れ目から、向こう見ずに這い込んだ。 「来たわ!」 「鼡め!」 「不愍な馬鹿者!」 「志は猛く殊勝ながら、この智恵のなさ、討ちとれ討ちとれ!」  多治見の郎党は声々に呼ばわり、相手に一太刀さえ合わさせず、ことごとく門ぎわで討ってとった。  寄せ手の勢はこれを知るや、いよいよ恐怖の思いを強め、かえって門ぎわから退いた。  と、多治見の郎党たちは、あべこべに門をおしひらき、 「討手を承わるほどの人々の、何んという穢き振る舞いぞ、あなたよりおいでないならば、こなたより推参仕る!」  と、傍若無人の声をかけ、嘲笑って突っ立った。  さすがに怒った寄せ手の勢は、欺かれるとは夢にも知らず、先陣にあたった五百余人、馬乗り放して歩だちとなり、喚いて門内へ駈け込んだ。 「得たりや痴漢、討ってとれ!」  と、多治見の郎党は扶助け合い、面もふらず斬り立てた。  死を恐れざる二十余人に、斬りたてられ突き立てられ、五百余人の六波羅勢は、ここに討たれかしこに討たれ、爾余の輩算を乱し、門の外へ退いた。  が、眼にあまる大勢であった。  忽ち二陣が駈け入った。 「ござんなれ、斬り崩せ!」  多治見勢は競ってかかった。  これも見る間に斬り立てられ、ダラダラと門外へ退いた。  辰の刻よりはじまって、午の刻まで戦いつづけたが、二十余人の多治見勢に、二千の六波羅勢は敵しかね、要害とてない館一つを、陥落しかねて持てあました。  が、この時新手の勢が──すなわち土岐十郎頼兼を討った、山本九郎時綱の姿が、この館の背後に廻り、館に続いている民家を破壊し、館の築地と門とを破り、大挙して乱入した。  と、見てとった小串勢は、 「多治見の討手は我らが役目、余人に功を奪われるな! 今こそ進め! 揉みつぶせや!」  と、表門から乱入した。  腹背に大軍を引き受けて、今はこれまでと覚悟を定めた、多治見ノ四郎二郎国長は、この時まで中門に床几を立て、大将軍のごとく控えていたが、 「今はこれまでぞ、死に恥じさらすな! 殺生もこれまでぞ、雑兵ばら討つな! いさぎよく刺し違えて死ねや死ねや!」  と、大音声に呼ばわった。  この一言に多治見の郎党は、持ち場持ち場からことごとく離れ、国長の周囲に集まった。  と、見てとった裏門方の勢は──すなわち時綱の一隊は、先を争って寄せて来た。  その勢の中に頼春がいた。  土岐蔵人頼春がいた。  放心状態でありながら、押され、引かれ、揉まれ、突かれて、ここまで走って来たのであった。  それへ国長の瞳が向いた。 「おお!」  と彼は怪訝そうに云った。 「ああ!」  と続いて驚いたように云った。 「おのれは頼春! ……そちが、頼春が! ……六波羅方にいようとは! ……おおおおさてはおのれが裏切り! ……おのれが裏切りいたしたな!」  国長は叫ぶと床几からはなれ、大勢の敵のいるものも忘れ、ツカツカと中門から外へでた。 「われらが宮方へ加担のこと、いかがあって敵に知られ、今暁討手下ったかと、心にいぶかしく思っていたが、これでわかった、汝の裏切り! おのれの裏切りによって知れたのじゃな! ……何んといおうぞ、大虐極悪! ……天も許さぬ地も許さぬ! ……ヨ、頼春ウーッ! おのれがおのれが!」  国長の声は血を吐くようであった。 「おのれの裏切り、おのれの返り忠、尋常一様のものではないぞ! ……日本は神国そのご皇統は、一筋にして御神より出ている! ……われらが今回の企てこそは、この大本に帰さんとして、なかごろ大本をあやまったるところの、越権専横の武臣北条を、ほろぼすところに関っておるのじゃ! さればこのたびの汝の所業は、神の界への裏切りじゃぞ! ……許さるる期あるまいぞよ! ……日夜念々神の怒り、おのれの心を苦しめるであろうぞ! 承久以来、この日本に、大間違いの言葉が起こった! 『宮方ご謀反』というこの言葉じゃ! ……神の界に属する宮方に、いっさい何んのご謀反あろうぞ! ……この一点に心づかば、行動に間違いなかったであろうに! ……が、国長一族の誼みに、最後の䬻別そちに進ぜる! 『現世において安心を得、後世成仏せんと思わば、神の界に属しまつる御一方より、許すとの一言承われ!』これが䬻別、今はこれまで! ……おおおおそれにしても死の間際に、真個の謀反人を一族に持ち、恥じなきその顔を見ようとは! ──冥路の障り、あら無念や! ……が、そのためこの国長、いよいよ今生に未練失せたわ! 頼春ウーッ」  とズカズカまた前へ出た。 「行く道をあやまらぬこの国長が、一族の不覚者の裏切り行為を、恥じながら死ぬ死にざまを見て、おのれ〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔の心を起こし、余生をあやまらず踏み行なえ!」  突っ立ったまま卯の花縅の、鎧の胴をユサと掻き上げ、草摺りの上を一文字に、鎧通しで掻っ切った。  ほとばしる血をものともせず、傷口から片手さし入れて、腸ムズと引きちぎるや、頼春の顔めがけて投げつけ、自身は仆れて息絶えた。 「素破ご主君ご生害ぞ! 死ねや死ねや我らも死ねや! ご主君のお供仕れ!」  と、中門に並居た郎党たちは、こう叫ぶと互いに刺し違えた。  二十余人のことごとくの郎党、敵を二百七十三人まで殺し、自分たちは一人も捕えられず、立派にこうして死んだのである。  この振る舞いには六波羅勢も、感に堪えて泣く者さえあった。  が、やがて人々は叫んだ。 「勇士の首級申し受けよ!」  死骸へ向かって走りかかった。  頼春はこの時気絶して、地に俯向けに仆れていたが、蘇生って顔を上げた。  その顔には国長によって投げつけられた腸が、赤黒くベッタリと着いていた。 「夜か! 暗い! 闇だ闇だ!」  譫言のように頼春は云い、両手で顔を掻きむしった。腸が爪によって剥ぎとられた。 「眼が見えぬ!」  と頼春は呻いた。  国長の腸が──悪血が──いやいや怨恨と呪咀の血が、頼春の両眼へしたたかはいり、その眼を盲目にしたらしい。 大木戸の異変  それから三日の日が経った。  山伏の金地院範覚が、伏見街道の出入り口で、群集を相手に吼えていた。 「宮方ご謀反とうとう潰えた。……ナニサこんなことはとうの昔から、俺らや姥には解っていたのさ。……姥というのはほかでもねえ、みなさまご存知の鬼火の姥さ。……姥の明察神のごとしだからなあ。……裏切り者があらわれて、宮方ご謀反潰えるとな、ちゃアんと予言をしていたものさ。……その姥は何者か? 探題北条範貞様の、カ、隠し、メ、目付け! ……おっといけねえ、ここまで云っちゃアいけねえ。……が、ともかくも今日じゃア、大変もねえ勢力だ。……今回の勲功いやちことあって、凄いようなご褒美いただいた上に、私設の女検非違使──のようなものにご任官だ! ……待ったり、任官はちとおかしい。官位を貰ったんじゃアないからなあ。……私事に過ぎないんだからなあ。……何んといおう? さあ困った。……ナーニ構うものか、困ったことなど、いっさい学者におしつけてしまって、やっぱり任官ということにしよう! ……女検非違使に任官した姥、昨日今日の忙しさといったらないよ。……洛の内外を駆け巡り、宮方に属した奴ばらの余類を、神変自在の見通しで、さがし求めているのだからなあ。……縁につながるこの範覚殿も、そこで忙しいという次第さ。……ナ、何んだって、因縁を云えって? 俺と姥との因縁を云えって? ……アッハッハッ、こいつは困る! ちと云いにくい因縁だからなあ。……が、要するに色っぽい、色っぽい因縁というやつさ」  酒に酔っている範覚でもあった。  得意絶頂の彼でもあった。  頼春をして裏切りさせた、その功の一半は鬼火の姥が、頼春の心をそそのかし、それに押しやったということを、鬼火の姥の言上によって、北条範貞は知ることが出来、事実姥に褒美をとらせ、姥の同類一統にも、厚く物を賄った上、なお今後ご用をつとめるようにとの、ご諚をさえ内密に賜わったのであった。  姥の一党で姥の情夫の、この金地院範覚など、もっとも多額に賄われた方で、得意はまさに絶頂なのであった。  行衣の下へ腹巻を着、籠手さえつけた範覚は、一方の物頭にでもなった気で、厳めしく物々しく振る舞うのであった。  が、素性は争われず、それにそうでない平素の時でも、度外れたお喋舌りの彼だったので、まくし立てることまくし立てること!  そういう彼をとりまいて、黒木をいただいた白河女や、壺装束の若い女や、牛を曳いた近郊の農夫や、高足駄をはいた北嶺の僧や、御幣を手に持った清水の巫女や、水干に稚子輪の僧院の稚子や、木匠や魚売りや玉工や鏡師が、あるいは笑いあるいは怒り、あるいは軽蔑の表情をし、時々揶揄の声をかけたり、叱るような声を発したりして、でも去りもせず聞いていた。  街道の出入り口の広い地域には、巨材と青竹とで厳重な柵と、いかめしい門とが作られてあった。そうして弓や槍や長柄や、薙刀や鉄杖で固められていた。  急ごしらえの関所であり、人別あらための吟味所であり、人馬の往来を調節して、非常に備える大木戸でもあった。  数十人の六波羅の甲胄武士が、鋭い眼を八方へ配りながら、関門を通る人々の姿を、仔細に厳重に調べている様子が、殺伐の気を二倍にした。 「土岐十郎頼兼の妾、同じくその子の六歳になる朱丸、この二人を捕えようと、鬼火の姥めは死に物狂いなのじゃ」  と、範覚は吼え出した。 「頼兼も多治見ノ四郎二郎も、敵ながら天晴れに討ち死にし、一族郎党一人残らず、この世を去ってしまったのじゃ。……そこで六波羅方大狼狽よ、宮方に一味し徒党した輩の、姓名人数がわからないからなあ。……それにもう一つ困ったことは、今回の宮方ご謀反の次第を返り忠して、内通した男、土岐蔵人頼春という男が、行方不明になってしまったことさ。……戦場から身をかくしてしまったのだそうな。……そこでいよいよ六波羅方では、宮方に加担した人間の名を、知ることが出来なくなったという次第なのさ。……ところが十郎頼兼の妾の、千寿というのが子供と一緒に、高倉辺に住んでいたそうな。……で、その女でも引っとらえて、拷問糺明でもやらかしたら、その宮方に加担した輩の、一部の名ぐらいわかるかもしれぬと、そこで姥が探しにかかったのだが、いちはやくその女身をかくしてしまって、どこへ行ったかわからぬそうな………よいか、お前方も京の住人で、六波羅様の並々ならぬご恩に、常日頃からなっている以上、俺らや姥と心を合わせ、その女とその子供とを、目付け出さなくばすむまいがな。……合点だな! そうともそうともそうとも! ……ところでその女の顔形だが、まずザッとこうだそうだ。……」  ベラベラ範覚は喋舌り続けた。  周囲の群衆は好奇心をもって、今は熱心に範覚の言葉へ、聴き耳をかたむけて静まってい、大木戸警護の武士たちは、眼を見合わせたり渋面をつくったり、時には舌うちをしたりしながら、範覚の方を眺めていた。  そうしてこの間にも京へ入る者、また京から外へ出る者、往来の旅人は武士たちによって、厳重に身分を調べられたり、そのある者は怪しまれて、大木戸の横手の詰め所の構内へ、乱暴に連れて行かれたり、そうでない者は追われるようにして、めいめいの目的の方へ行かせられたりした。  今日はよく晴れた秋日和で、時刻も真昼であたりは明るく、空では鳶が銀笛をころがし、浮かんでいる雲にたわむれてい、陽のあたっている地面では、犬が幾匹となく狂っていた。  が、遙かの京の町の、西七条あたりで火事でも出したか、黒煙が高く上がっているのが、何んとなくたたずまいを殺気立たせて見せた。 「……ところでその女の顔形だが……ええと、こうと……いけねえ忘れた! ……はてな、俺、酔ってるかな?」  したたか酔っている彼であった。それに秋陽にカンカン照らされ、さらにベラベラ喋舌ったため、その酔いが加速度に進行し、ひどいものになっている彼でもあった。 「酔っちゃいない!」と彼は怒鳴った。 「せいぜいのところ生酔いだ! ……こうと、生酔いというやつは……酔っていないということであって……酔っていないというからには、正気であるということであって……正気であるということは……生酔いであるということであって、……生酔いであるということは……まてよ、こいつ、どうも変だ! ……いろいろのものがグルグル廻り、遠くに見えている比叡山めが、四つにも五つにも見えるように……俺の云うことどこまで行っても、一向埓があかないが……こうと生酔いというやつは……妾の顔形ということであり……その顔形は美人でなくてはならず……美人だとすると生酔いで……どうも変だ! 少し違う! ……どっちに致しても美人でなければならず……美人ということであってみれば……飛天夜叉殿がまず美人! こいつだ! わかった! やっと埓があいた! ……俺酔っていない、その飛天夜叉だが……汝ら頼春を知っていようがな!」  と金剛杖で大地を叩き、 「その飛天夜叉の頼春が! ……また待ってくれ少し違う! ……ヤイ生酔い正気になれ!」  にわかに範覚は笑い出した。 「あやまる俺が悪かった。生酔いはどうやら俺らしいからな。……さあて生酔いの俺様だが、飛天夜叉殿の美しさには、ほとほと参っているのでな。どうかなるまいかと思うのだが、一向どうにもならないどころか、あべこべに俺たちの敵となってな、鬼火の姥殿に盾つくのよ。……で、当然宮方なのじゃ。……そこで当然頼兼の妾と、その小伜とを隠したのさ。……が姥はこう云うのだ『京の町からは出ていない』とな。……妾と小伜とが京の町に、まだ住んでいるとこう云うのさ。……そこは見通しの利いている姥じゃ、言葉に間違いはなかろうというものさ。その姥だがこうも云うのじゃよ。『いずれは最近にその妾と小伜、大木戸を脱け出し他国へ走ろう。とり逃がしては一大事、是が非でも大木戸で捕えねばならぬ』と。……で、この金地院範覚様が、この大木戸に頑張って、見張りをしているというものさ。……姥の片腕金地院範覚、姥にも負けない見通しでな、金輪際見落としはしない。……こうベラベラお前たちを相手に、駄弁を弄しておりながらも、浄玻璃の眼で一人一人、往来の奴ばらを睨んでいるという訳さ」  範覚はいかにも得意そうにこう云うと、ご自慢の筋金入りの杖──金剛杖をつき反らし、自分でも胸を反らして見せた。  と、この時一人の盲人が、町の方から竹の杖を突き、その杖の先で覚束なげに、地をさぐりながら歩いて来た。  俄盲目に相違なく、その探りかたも歩き方も、あぶなっかしく不慣れであった。  深い編笠で顔をかくし、素足に草履を突っかけている。まだ年も若いらしく、武士あがりとみえて肩にも腰にも、いかついところが残っていた。 「鬼火の姥は欲張りでな」  と、範覚はまた喋舌り出した。 「土岐頼春という男をも、懸命にさがしているのじゃよ」 「何故じゃい?」  とこの時群集の中から、一人の武士がいぶかしそうに訊いた。 「それはな一旦宮方に従き、思い返して返り忠をし、宮方の謀反六波羅殿へ、密告をした男じゃからよ。……四郎二郎の錦小路の館を、六波羅の討手攻め滅ぼした際に、戦場から遁がれて身をかくしたが、こやつを捕えて訊ねたならば、宮方一味の輩の姓名、人数もわかろうというところから、姥はさがしにかかっておるのさ」  いつか盲人は群集に雑って、範覚の言葉に耳を立てていた。  肩を落とし首を垂れた、それは寂しそうな姿であった。 「土岐蔵人頼春といえば、六波羅、北面ひっくるめての、美男の武士だということじゃの」  と、もう一人の武士が呟くように云った。 「さよう、美男の武士でござる」  と、もう一人の武士が相槌をうった。  ずんぐりと肥えた赧ら顔の、鷲っ鼻をした武士であった。 「拙者頼春を存じております。……というのは数回逢ったからで」  と、鷲っ鼻の武士は云い足した。  と、盲人はその武士の側に、同じ姿勢で立っていたが、ソロソロと身を引き歩き出した。  その素振りに鷲っ鼻の武士は、何やら審かしさを感じたらしかった。  身をかがめると盲人の顔を、編笠の下から覗いて見た。 「や、貴殿は? ……」  と、云ったとたん、盲人の手が電光のように延びて、その武士の太刀の柄へかかった。 「わッ」  キリキリと舞って虚空をつかみ、やがてすぐに大地へ仆れ、のたうち廻り、間もなく息絶えた。鷲っ鼻の武士の体を見れば、鳩尾から背中まで充分に、太刀が貫き通されていた。 「斬られた!」 「死んでる!」 「お侍さんだ!」 「誰がいったい殺したんだ!」  忽ち混乱が湧き起こった。  そういう混乱を後にして、大木戸の方へ寂しそうに、肩を下げ首を垂れた盲人が一人おぼつかなげに歩いて行った。  大木戸警護の武士たちは、混乱の渦や喚声に驚き、その数人が走って来、爾余の者も怪訝そうな顔をして、混乱の方へ注意を向け、誰一人盲人が裾のあたりへ、血のしぶきを付けた姿で、大木戸を通りぬけ、伏見街道へ出たのに、注意を払おうとはしなかった。  範覚もポカンとして立っていた。 (俺の人気を誰が攫ったんだ)  と、云うような顔をして、ポカンとして立っていた。  と、そこへ異様な行列が、町の方からやって来た。  それは諸国を巡って歩く、大掛かりの香具師の群れであった。  数台の牛車には、熊や狼や、猿や狐や狸や猪や、鹿など入れた巨大な檻が、幾個となく積まれてあった。  そうして、それの前後左右には、二十余人もの同勢が、陽気に囃しながら従いていた。  男もいれば女もい、老人もいれば老婆もい、子供もいれば小娘もいた。  赤い頭巾をいただいたり、鬱金のくくり袴を着したり、紫の被衣をかずいたり、緋の襷であやどったりそうかと思うと男の中には、熊の皮の胴服を着たのや、猪皮の脚絆をつけたのや、そんな風采の者もあった。  つくり物らしい槍や長柄や、大鉞などをひっさげて、それらを時々宙で舞わし、踊りらしい所作などをした。  先頭には大幟りが翻っていた。  それに書かれてある文字といえば、 「東大寺勧進、諸国行脚、寄進奉謝、茨組」  という、訳のわからない文字であった。  今日で云えばサーカス団で、だから数頭の飾り立てた馬も、一行の中には雑っていた。  一行は大木戸の前まで来た。  と五六人の警護の武士が、バラバラとその方へ駈け出して行った。 「これこれ貴様たちは何者だ」  すると、彼らは愛想よく笑い、至極無造作に至極大胆に、いくらか人を食ったひょうきんな口調で、 「東大寺勧進、諸国行脚、寄進奉謝つつしんで頂戴の、茨組と申す興行者……」 「丹後の国をふり出しに、但馬、因幡、播磨、摂津と、打って廻りましてござりまして……」 「昨日この都へ参りましたところ……」 「何やら市中さわがしく……」 「斬った斬られた討った討たれた、謀反じゃ裏切りじゃと人心兢々……」 「これでは興行はおぼつかなし……」 「というところへ眼星をつけ……」 「ただ今都を退散仕り……」 「伏見か奈良か、宇治か大津か、その辺を打って廻ります所存……」 「大木戸お通しくださりませ」  と、口々に喋舌り立て、まくし立てた。  と、そこへ金地院範覚が、酔いのさめきらぬ足どりで、よろめきながら寄って来たが、 「ナニ香具師だ。旅芸人だと。……よしよしそれに偽りなくば、関所を通る切手がわりに、得意の芸当演じろ演じろ!」  と、さも横柄に罵るように云った。 「これはこれは山伏殿、ごもっともなその仰せ、では仰せに従いまして、おぼえの芸当仕りましょう。……やあやあ泣き男と笑い男、幽霊女と鶏娘、まかり出て芸当仕れ」 「オーッ」  というと四人の太夫が、一行からぬけて前へ出た。 「悲しや悲しや、九郎判官義経公には、あれほどの功をたてましたに、酬いられずに奥州落ち、安宅の関では弁慶の忠義、やっと関守をたぶらかし、脱け出すことは出来ましたものの、落ち行く先は辺鄙の奥地、ろくなたべ物とてはありますまいし、ろくなお伽衆とてもありますまいし、思えばお気の毒なお身の上、オーオーオお気の毒な」  と、まず泣き男が見事な芸を──泣きぶりのよさを披露した。 「アッハッハッ、ワッハッハッ、ヘッヘッヘッ、ヒッヒッヒッ………こりゃおかしい、何が何んでえ! 落人の身で贅沢な、お伽女のあるなしまで、考えるとは何事じゃ! こりゃおかしい、こりゃたまらぬ! ……そればかりでない女好きの、判官殿ときたひには、吉野あたりまで側室を連れ──静御前とやらを引き連れて、遊山かのようにノラリクラリと、遊ばれたと云うことじゃ! ピッピッピッ、クックック、嫉妬したのがお供の弁慶、忠信や常陸坊の面々で、そのようにお見せつけ遊ばすなら、我らお供仕らぬ。……これには判官すっかり驚き、そこで静には因果を含め、吉野山中で暇を出す。……クックックッ! アッハッハッ……静の行くのが悲しいとて、判官殿には泣いたそうな。……ピッピッピッ、ホッホッホ──ッ」  笑い男がこう後を受けて、横腹を抑えながら笑いこけた。  と、その後を幽霊女が、怨めしそうに受けて云った。 「怨めしき、判官殿、わらわはそなたに嬲られたあげく、捨てられました浄瑠璃姫の、その亡霊にござりまする。捨てたばかりかあなたさまには、皆鶴姫殿やら京の君様やら、ありとあらゆる女に手を出し、その後もずっと女狂い、怨めしや怨めしや! その天罰が覿面にむくい、今は落人のお身の上、少しは思い知りましたか! あらここちよや怨めしや」  長い黒髪を前へ垂らし、両手を胸の辺で泳がせて見せた。 「バタバタバタ! コケコッコ──」  と、その時、鶏娘が羽搏き出した。 「夜が明けた──コケコッコ──、木戸ひらけ──コッコッコ──」  武士も範覚も群集たちも、腹を抱えて哄笑した。 「よしよし」  と、警護の武士たちは云った。 「諸国を巡る芸人香具師、その一行に相違ない。木戸を通す、早く行け早く行け」 「待ったり待ったり」  と、範覚が云った。 「念には念を入れろと云う。……獣を入れた檻の中を、一応調べる必要がある」 「なるほどそうじゃ」  と、武士たちは、牛車の上に積まれてある檻を、一つ一つ念を入れて覗き廻った。 「熊がいる。これはよろしい」 「ここにいるのは狼じゃ。凄い眼付きをしているわい」 「猪めが一匹眠っている。そのほかには何んにもいない」 「ははあ、こいつが山猫か、普通の猫よりはずいぶん大きい」  こうして最後にとりわけ巨大な、しかも四方とも部厚い板で密閉してある檻の前へ来た。 「こいつ怪しい」  と、範覚は云った。 「この檻ばかりが密閉してある。頼兼か国長の残党ばらを、ひそかに隠してあろうも知れぬ。檻を破って検分検分!」 「いかにも怪しい。檻をひらけ! これこれ香具師ども、檻をひらけ」  ──すると檻の横につくり物としては、真に迫っている大鉞をつき、ノッソリと立っていた頤髯のある男が、 「はいはいおのぞみでござりましたら、この檻ひらくでござりましょうが、その代わり警護のお武士さま方や、そこにいられる山伏殿は、命のご用心なさらねばならず、それご承知でござりまするかな」  と、物々しい声で嚇すように云った。 「何を馬鹿な、たわごと申すな! ……何かと申して開けまいとするこの檻、いよいよ怪しい開けろ開けろ!」  範覚は威猛高に怒号した。 「はいはいそうまでおっしゃいますなら、お開けいたしますでござりまするが、それはそれは恐ろしいものが、はいっているのでござりまするぞ」 「えい、くどい! 早くあけろ!」 「それじゃアお開けいたします。……この鉞でガ──ンと一撃! と板がバラバラになる。その瞬間に恐ろしい奴が……」 「飛び出すというのか、ナーニナーニ」  と、云いながらも範覚は一足さがった。 「が何事もご用心、ご用心が専一にござります。……山伏殿などズーッとうしろに、お引きさがりなされておられました方が……」 「それもそうだな、ではソロリと……何を馬鹿な、たかが知れてる! えい開けろ! 開けろ開けろ!」 「ではソロソロあけまする」  頤髯の男は大鉞を、頭上に高くふり冠った。  が、もう一度嚇してみようと、そう思ったように範覚の方へ、ジロリと視線を送ったが、 「よろしゅうござるかな、ガ──ンと一撃! と、世にも恐ろしいものが……」 「まあ待て待て、何だそいつは?」 「ただもう世にも恐ろしい……」 「虎か? 唐土の……獅子か? 天竺の……」 「なかなかもちましてそんなものでは……」 「フーン」  と云ったがまた一足下がった。 「申せ申せ、正体申せ!」 「ガ──ンと一撃いたしまして、そのものが飛び出して参りましたら、おのずと解るでござりましょうよ。……さあ一撃! 命の用心!」  ギラギラと光る鉞を頭上で縦横に振り廻したが、 「イヤ──ッ」  ド──ッと一撃した。 「それッ」  と範覚が真っ先に逃げ、つづいて警護の武士たちが逃げ、群集たちもバラバラと逃げた。  檻の戸は微塵に砕かれた。  檻は大きい黒い口を、ワングリと開けて陽を吸っていた。  が、何んにも出て来なかった。  しかし人々は気味悪そうに、その口ばかりへ眼を集めた。  と、そういう人々の眼に、白い小さい握り拳ほどのものが、暗い檻の奥の方から、口もとへ蠢めいて来るのが見えた。 「出た──ッ」 「いたぞ──ッ」 「何んだ何んだ!」  白い物は檻の口で足を止め、しばらく動こうとはしなかった。  でもとうとう飛び下りた。  叫喚!  人々はサ──ッと逃げた。  小さい動物は白鼡であった。  あまりのことに武士たちも範覚も、群集たちも度胆をぬかれ、茫然として声も出なかった。  と見てとった頤髯のある男は、鉞を肩にして唄うように叫んだ。 「大山鳴動して鼡一匹! これがよき例にござります! そうしてこれこそ我ら茨組の、最後の芸当にござります」  当意即妙のこの言葉には、武士たちも群集も範覚も、笑うよりほか仕方なかった。 「やられた」 「いやはや」 「ひどい奴らだ!」 「はなから終いまで嬲りおった」 「こうまで嬲られれば腹も立たない」 「通れ通れ、さっさと通れ!」  武士たちは笑いながらそう云った。 「お許しが出た、さあ行こうぞ」 「方々しからばご免候らえ」 「ソレ」  とばかりに茨組たちは、牛車の牛に鞭をくれ、一斉に走らせて自分たちも走り、砂煙りを立てて景気よく、悠々と大木戸をおし通り、伏見の方へ消えてしまった。  後には揚げられた砂煙りが、薄黄色く立ち迷い、晴れた大空をひとしきり、曇天にしたばかりであった。 「いや面白い奴らだった」 「おかげで我ら眠気ざましをした」  武士たちはかえって朗らかでさえあった。  が、それから半刻経った時、一つの意外の事件が起こった。  町の方から砂塵を蹴あげて、五十人あまりの異様な一団が、この大戸へ来たことであった。  いずれも腹巻や籠手脛当てをし、槍や長柄などをひっさげた、雄々しく物々しい連中であったが、しかしそれらは武士ではなく、禰宜、修験者、陰陽師、屠児、人相見、牙僧、圉人、──といったような輩であり、そうして例の鬼火の姥に、扈従している眷族であった。  先頭に鬼火の姥がいた。  例によって白の行衣を着、一本歯の木履をはき、長目の御幣を持っていた。 「範覚はいぬか、範覚範覚!」  と、大木戸まで来るとけたたましい声で、こう姥は呼ばわった。  群集を相手になお範覚は、この時も駄弁を弄していたが、 「姥か、これはこれは、あわただしいことで! ……町に事件でも起こったのか⁉ ……この大木戸だけは大丈夫じゃ! ……範覚控えている以上、宮方に属した奴ばらの残党、一人として通すことでない! ……土岐頼兼の妾や小伜、目付け次第ふん縛る! ……ここばっかりは大丈夫じゃ!」  酔いの残っている範覚は、こう云うと仰々しく胸を張り、金剛杖をつき反らして見せた。 「そうかよ」  と姥は歯茎を見せて笑った。 「立派な関守、それでこそ範覚、わしの仲間での大立て者じゃ! ……さてその大立て者の範覚殿に、至急たずねたいことがある。……旅まわりの香具師の一団、茨組と称する奴ばら、ここへ来かかりはしなかったかな?」 「来た来た」  と、範覚は愉快そうに云った。 「いや面白い奴らだった。芸当をしてな、素晴らしい芸当を! ……最後に大きな檻をひらき、鼡一匹を飛び出させたよ、その口上が気が利いていた。大山鳴動して鼡一匹さ、アッハッハッハッ、見せたかったよ姥に!」 「餓鬼め!」  と、鬼火の姥は吼えた。 「その香具師の群れ、おのれどうした⁉」 「ド、どうしたと? どうするものかよ、仕った芸当が関所の切手、という次第で、伏見の方へ……」 「通したというのか、この大木戸を!」 「ソ、そうさ、それがどうした?」 「餓鬼め!」  と、姥は再度吼えた。 「おのれがおのれがその二つの眼、節穴かそれとも蜂の巣空か! ……その香具師の群れ茨組こそ、飛天夜叉なのじゃ、飛天夜叉組なのじゃ!」 「バ、馬鹿な、そんなこたアねえ」 「餓鬼め!」  と、姥はまた吼えた。 「しかも檻には頼兼の妾と、小伜とが隠してあったのじゃ!」 「うんにゃ、違う、そんな筈はねえ、念には念を入れたがいいと、こう思ったので警護衆と一緒に山猫の檻から猿の檻、密閉してあったでっかい檻まで、いちいち刻明に調べたが、密閉してあった檻の中からは、さっきもいったが鼡一匹……」 「黙れ、迂濶者、この阿呆! ……密閉してある檻なんぞ、カラクリじゃ、まやかしよ! そのようなものに何んの何んの、落人なんど隠して置こうか! ……獣の檻に、獣の檻に!」 「マ、まってくんな、そんな筈はねえ。獣の檻には獣の類が……熊や猪めが、まさしくいたに!」 「熊は熊だが熊の皮じゃ!」 「皮! 皮と? クマカワと?」 「頼兼の妾千寿めには、熊の生皮をうちかぶせ……」 「…………」 「六歳になる小伜には、猪の生皮をうちかぶせ……」 「…………」 「獣に仕立てた飛天夜叉の才覚!」 「ふーん」 「範覚!」 「おれどうしようぞ!」 「大木戸通ったは何時じゃ!」 「おおよそ半刻、半刻前じゃ」 「二里とは行くまい、ソレ追っかけろ!」  阿修羅となった鬼火の姥は、裾ひっからげ御幣ふり立て、 「おのれら来い! おのれら続け!」  一本歯の木履宙に飛ばせ、真一文字に走り出した。  範覚をも雑えて五十余人の眷族、一斉にその後を追っかけたが、ひとりみじめなのは範覚であった。 (呆れたね、なんということだ! クマノカワにシシノカワと! その中に千寿と朱丸とがいたと! ……ふーん、呆れた。いや呆れた! ……ほんとだとすると──ほんとらしい! ……とすると俺阿呆かなア)  酔いなど、すっかり醒ましてしまった。  その日も暮れて夜となった。  伏見街道を五里ほど行った地点の、街道を外れた広大な藪地に、うごめく一つの人影があった。  盲目の土岐頼春であった。  俄盲目の悲しさに、道に迷って来たものらしい。  この藪地は四方十里、それほどにも渡る広大なもので、沼あり河あり丘あり谷あり、それを蔽うて松、杉、柏、桧、からまつ、櫟、栗、白楊などの喬木類が、昼は日光、夜は月光を遮り、そうして茨だの櫨だの水松だの、馬酔木だの、満天星だの這い松だのの、潅木類は地面を這い、鷺、鶉、雉、梟、鷹、鷲などの鳥類から、栗鼡、鼯鼡、𫠘、猯、狐、穴熊、鹿などという、獣類を住ませ養っていた。雨の夜は腐木が燐火のように燃え、白昼沼沢地の芦の間では、蟒が野兎を呑んでいたりした。  ここを今、頼春は歩いているのであった。 悲痛の頼春  盲目の彼には見えなかったが、馬酔木の叢が小山かのように、ワングリと高くもりあがって茂り、そういう茂りが前後左右に、起伏をしているその中ほどを、彼はさまよっているのであった。  その頭上には梣や槲が、半かけの月光や星の光を、枝葉の隙からわずか零し、野葡萄や木賊や蕁麻や芒で、おどろをなしている地面の諸所へ、銀色の斑紋を織っていた。  枝などに引っかかったためであろう。冠っていた編笠も今はなく、盲目となって人相変わり、美男をもってうたわれた顔が、妖怪のような顔になっていたが、ところどころに負傷して、流れ出た血がこごって黒く、色づいている手や足と共に、光の斑紋裡へはいった時、もの恐ろしく眺められた。  これが命の竹の杖で、おぼつかなさそうに足もとをさぐり、的なしに彷徨っているのであった。  多治見ノ四郎二郎国長の館が、六波羅勢に攻め落とされ、勝ちほこった勢がひきあげた時、彼も雑ってひきあげたが、しかし六波羅の探題へも帰らず、自分の館へも帰って行かず、甲胄ぬぎすて庶人となり、右近ノ蔵人の官位も捨て、あの愛していた妻も捨て、武士も捨て名も家も、財宝も金も一切捨てて、浄罪と〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔と試練との旅へ、誰にも告げずに出て来たのであった。  盲目の彼には夜も昼も、朝も夕も空も地も、人間も草木も山川も、万象ことごとくが暗かったが、しかし心眼にはハッキリと、恐ろしい物が見えていた。  土岐頼兼が示したところの、憐愍をこめた死の前の顔と、死んで山本時綱の太刀に、貫かれた首級それであった。  そうしてさらに多治見ノ四郎二郎の、立ち腹を切り腸つかみ出し、投げつけた姿、それであった。  さうして心耳には夜昼となく恐ろしい声が聞こえて来た。 「そちが! ……頼春! ……裏切ったとは! ……一族の……同じ血の……一族のそちが!」  と、こう云った頼兼の声と、 「日本は神国そのご皇統は、一筋にして神の界より出でおる! ……われらが今回の企てこそは、この大本に返さんと、中頃大本をあやまったるところの、越権専横の武臣北条を、亡ぼすところにかかわっておるのじゃ! ……されば今度のおのれの所業は、神の界への裏切りじゃぞ! ……日夜念々神の怒り、おのれの心を苦しめるであろうぞ!」  こう云った四郎二郎の声とであった。  家を出て今日で三日になる。その間彼の心を襲い、魂を怯やかしているものといえば「身も心も一つ所へ、決して安らかに置きはしない!」という、そういった強迫観念であった。  その強迫観念が彼をして、この漂泊、この流浪の、果てなき旅へ出したのであった。 (このままでは俺は死ぬことさえ出来ない。……おお死ぬことさえ出来たならば! ……即座に死ぬ即座に死ぬ!)  しかしこのまま自殺したならば、あの世において頼兼や国長に、どうして合わせる顔があろう! (浄罪!)  と彼は思うのであった。 (安心して死んで行けるまでに、この世で浄罪しなければならない!)  何をおいても強迫観念から──心耳と心眼とにつきまとっている、恐ろしい形と恐ろしい声の、それから醸し出されている──強迫観念から遁がれなければならない!  こう彼は思うのであった。  彼は大藪地をさまよって行った。  が、どうしたら救われるか? 身と心の置き所を、一つ所に保つことが出来るか? (許されるより他にはない!)  だがそれは誰が許すのだ?  この一族への裏切り者の俺を、この神の界への裏切り者の俺を!  誰がいったい許すのだ?  すると国長が最後に叫んだ、一連の言葉が思い出された。 「現世において安心を得、死後成仏せんと思わば、神の界に属する御一方より、許すの一言承われ!」  それはこういう言葉であった。  だがそれはどなたで在すか?  どなた?  どなた?  どなたで在すか?  そうしてどこに在しますのだ?  漠然としたたよりない目標ではあったが、しかしどこかにそういうお方がおわして、それへお縋りしてお許しを受けたら、救われることが出来そうだという、そういう目標のあるということは、彼にはまだしもの慰めであった。 (そのお方をおさがししよう。……そのお方におすがりしよう。……そうしてそのお方にお許しを受けよう)  彼は藪地をさまよって行った。 (ここはいったいどこなのだ?)  彼には見当がつかなかった。  京の町を出はずれて、伏見街道へ出たということは、食を乞うため門へ立った時、そこの家の者に教えられたが、その街道からはいつかはずれたと、そんなように思われてならなかった。  そうしてここが大藪地で、大密林であるということも、感覚によって感じられはした。  が、どこだかはわからなかった。 (どっちみち街道へ出なければならない)  彼はソロソロと歩いて行った。  大藪地であり大密林であった。では四辺が森閑としていて、寂しくなければならない筈だのに、彼にはそうとは思われなかった。  大勢の人間が遠巻きにではあったが、彼の周囲に集まっているように、そんなように思われてならなかった。  人声がし足音がし、時には叫喚の声さえ聞こえ、斬り合う音や仆れる音さえ聞こえるように思われた。  そう、彼の感覚は、決して間違ってはいなかった。  盲目の彼には見えなかったが、この大藪地大密林の、到る所に点々と、松火の火や篝火が燃え、人影が右往しまた左往し、小戦闘が行なわれているのであった。  飛天夜叉組が逃げ込んだ。それを追って鬼火の姥の組が、この地域へ入り込んだ。と、この地域にはそれ以前から、野武士や土兵や非人の群れが、職場のようにして住んでいたが、それが双方に加担した。  で、それらの者どもが小戦闘をしているのであった。  逆立った女の髪のような、大竹藪の裾を巡り、頼春はソロソロと歩いて行った。  と、突然五人の人影が、竹藪の蔭から走り出た。 「いた──ッ」 「いたいた!」  と頼春を見るや、五人のうちの幾人かが叫んだ。 「斬れ!」 「討ちとれ!」  殺到して来た。 「待て! ……いや、お待ちくだされい!」  驚きながら頼春は叫び、持っていた杖を差しつけて構えた。 「道ふみ迷った盲人でござる。──人違いでござろう、聊爾なさるな!」 「ナニ盲人? そんなことはあるまい!」 「盲人が大藪地へはいれるものか!」 「飛天夜叉じゃ、飛天夜叉組じゃ!」 「功名しろ! 討って取れ!」  五人の者どもは口々に喚いて、前後左右から斬りかかった。  鬼火の姥の眷族たちであった。  傍らの槻の木を楯にとり、大竹藪を背後にし、青竹の杖を差しつけたまま、頼春は途方にくれて立った。  飛天夜叉の噂は聞いていた。不思議な女だということである。それに属する眷族のことを、飛天夜叉組と称することも、久しい前から聞いていた。  が、自分はいうまでもなく、飛天夜叉組の者ではない。  それだのに自分を飛天夜叉じゃ、飛天夜叉組の者だといって、討ち取ろうとするこの連中は、いったいどういう者どもなのであろう? 「方々」と頼春は嘆願するように云った。「なんの盲人のこの拙者が、飛天夜叉組などでありましょうぞ。……が、拙者を飛天夜叉組じゃと申して、打ってかかられる貴殿方は?」 「鬼火の姥の一党よ、存じていながら何をいうぞ!」 「こうとり囲んだうえからは、遁がしはせぬ、討ってとる!」  眷族たちは口々に叫んだ。 「ナニおのれらは鬼火の姥の一党? ……フーム、そうか、鬼火の姥の一党!」  頼春の様子は俄然変わった。  青竹の杖をふりかぶり、一足ヌッと前へ出た。 「鬼火の姥というからには、この方にこそ怨みがある! ……この悲惨な境遇に、おとしいれた元兇こそ、あの悪婆じゃ、鬼火の姥じゃ! ……その眷族というからには、何んのおのれら許そうや! ……が、その前に訊くことがある、鬼火の姥、どこにおるぞ?」  変わった様子に驚きながらも、五人の者どもは口々に喚いた。 「沼辺にいるわい、眉輪の沼辺に」 「おのれら飛天夜叉の一党を、包囲した陣地にご安居じゃ」 「おっつけおのれの穢い首級も、姥の見参に入るというものじゃ」 「眉輪の沼辺?」  と首を傾げ、頼春は一瞬間考えたが、 「ではここは司馬の藪地か?」 「知れた話だ、何を云うか」 (そうだったか)と頼春は思った。(伏見街道を逸れたところに、司馬と称する大藪地があると、そういうことは聞いていたが、そこへ紛れ込んでいようとは! ……その大藪地の一所に、眉輪という周囲一里にも余る、大沼のあることも聞いていたが、そこに鬼火の姥がいる? ……よーし行って、逢って怨みを!)  彼が宮方を裏切ったのには、いろいろの事情があったけれど、資朝卿の別館の、無礼講の帰途深夜の町で、鬼火の姥に邂逅し、姥の不思議な魅力を持った言葉で、慫慂されたそのことが、潜在的に力あったことは、何んといっても争われなかった。  それが今では頼春にとっては、怨みであり怒りであった。 (よーし逢って怨みを晴らそう! ……が、その前に眷族どもを!) 「来い!」  とたんに斬り込んで来た。  と、その姥の眷族の一人、修験者風の大男の咽喉へ、身を真っ直ぐにした蝮が一匹、電光のように飛びかかった。  頼春の突き出した杖であった。 「ギャ──ッ」  まるで獣の悲鳴だ。  持っていた太刀を宙へ刎ね上げ、修験者は仆れてのたうった。 沼辺の鬼火  眉輪の沼の岸の腐木に、鬼火の姥は腰かけていた。  金地院範覚をはじめとし、十人ほどの眷族が、その周囲に集まっていた。  範覚は今は真面目であった。  金剛杖によりかかりながら、姥の話に耳を澄まし、時々沼を越したあなたの森へ、鋭い眼を走らせていた。  森林に囲まれた大沼は、黒漆の縁にふちどられた、曇った鏡のそれのようであった。沼は浅く水も少く、芦だの茅だの芒だのが、かなりの沖にまで生えていた。が、泥が深かったので、一足もはいることは出来なかった。半かけの月に照らされて、水は燻した銀のように、朦朧とした光を浮かべていた。黒漆の縁の森林からは、絶えず点々と火の光が、あるいは酸漿のようにあるいは煙火のように、木の間がくれに隠見して見えた。松火や提灯の火なのである。飛天夜叉組と姥の眷族と、ここの藪地に住居していて、双方の組に加担したところの、非人や野武士などの大勢が、攻め合い斬り合いしているからであった。で、悲鳴や叫喚や、剣戟の音なども聞こえて来た。 「……その連判状というやつがじゃ……」  と、白い行衣、白い髪に、月の光がこぼれているので、雪の塊りか卯の花の叢、そんなように見える鬼火の姥が、ひそめた物々しい声で云った。 「素晴らしく大事な料物でな。……それだけに六波羅の探題様にとっては、手に入れたい品物なのじゃ」 「なるほど」  と範覚は首を延ばして云った。 「どっちみち宮方へ加担した奴らの、姓名が記してあるだけだろうが……」 「そうとも、それだけに過ぎないのだが、そうして宮方に味方している、京都在住の者どもの名は、連判状がなかろうと、だいたいのところ目星がつき、たいして心配にもならないのだが、諸国諸地方の豪族のうちに、味方した奴らがあるらしく、それだけは連判状がなかろうものなら、かいくれ見当がつかないようなのじゃそうな」 「どうしてそいつらを引き入れたものかの?」 「資朝卿と俊基卿とが、先年諸国を巡られて、そいつらと逢い口説いたからじゃそうな」 「そいつらに次々に旗あげされたら、なるほど武家方は困るであろうよ」 「手がつけられないということじゃ」 「資朝卿や俊基卿をとらえ、糾問したらよかろうに」 「それが出来ないということじゃ。あそこまで官位の高い公卿は、めったに糾問出来ぬのじゃそうな」 「内裏攻めようと意気込んでいたに」 「あれも北殿一時の怒りで、土岐、多治見を討ちとったばかりで、後は当分穏便じゃとよ。……それにそういう一大事は、鎌倉よりの指揮を受けねば、行ないがたいということじゃ」 「いつ鎌倉から指揮が来るのじゃ?」 「早馬鎌倉へ馳せつくのさえ、相当日数がかかる筈じゃ。それからいろいろ評定があって、それから返辞の早馬が来る。…ずっとずっと先のことよ」  この時けたたましい叫び声が聞こえ、神主姿の眷族の一人が、全身朱に染みながら、林の中から走り出して来た。 「姥、あぶない、逃げな、あぶない! ……盲人が……竹の杖で……凄い腕だ! ……そいつが来るのだ! 姥を討とうと! ……みんなやられた! ……みんな殺された! ……俺もやられた! 俺も俺も!」  鬼火の姥の前まで来ると、地に斃れて手足を延ばした。 「どうした宗任!」 「や、死んでる!」 「咽喉をえぐられている!」 「鳩尾も!」  眷族たちは走りかかった。  鬼火の姥ばかりは嘲笑った。 「脆い奴じゃ、沼へでも捨てろ! ……盲人が……竹の杖で……凄い腕じゃと……アッハッハッ、何をいうやら! ……いずれは飛天夜叉の部下の奴らに、討ってとられたことであろうよ」 「円信!」  としかし範覚は怒鳴った。 「様子を見て来い、林へ行って!」  山伏姿の円信という男が、すぐに林の中に駈け込んで行った。 「頼春めは行衛不明になった」  姥は話をつづけて行った。 「内通をした頼春めがよ。……頼春さえ武家方についていたら、宮方一味の豪族ばらの名、一切知れて都合よかったに、行衛不明になったのじゃ」 「頼春の女房の早瀬とかいう女、この女など糾問したら、宮方一味の公卿や武士の名、すこしは知れるであろうにな。……なんでもその女が頼春をすすめて、裏切りさせたということじゃから」  こう範覚は利口ぶって云った。 「ところがどうだろう、その早瀬も、家出をしたということじゃ」  鬼火の姥は舌うちをして云った。 「良人の後を慕ってのう」 「へえ」  と範覚は興ざめたように、 「その女も家出、それはそれは。……近来家出が流行ると見える。……たいして楽しいことでもないに」 「土岐、多治見の郎党ばらは、一人のこらず討ち死にしてしまった。……で、どうにも宮方一味の、公卿や武士──豪族の名、ほとんど知ることが出来ないのじゃ。……そこでせめても頼兼の妾、千寿などでもひっ捕え拷問いたしたら知れようかとな。……」 「ところがそいつに飛天夜叉めが附いた」 「そうして大木戸を脱けられた」  姥はジロリと範覚を睨んだ。 「ウフ」  と範覚は首をすくめ、さもテレたような様子をしたが、 「そいつを云われると身が縮むて。……が、千寿や朱丸を籠めて、この大藪地へ追い込んだ上は、飛天夜叉にも遁がれられまい。……どっちみち千寿や朱丸めは、姥の手へはいったというものさ」 「さあそうなってくれればよいが」 「とにかく今はこうなんだな、千寿か朱丸を手に入れるか、頼春や早瀬を捕えるか、連判状を目付け出すか、そのうち一つでもとげることが出来たら、宮方一味の公卿や豪族の、確実の名を知ることが出来、六波羅殿には安堵が出来ると。……」 「そうじゃよそうじゃよ、そういうこととなるのじゃ」 「ところでこれからどうする気じゃな? ……こう飛天夜叉めと睨み合っていてよ」 「六波羅殿からの加勢を待って、一挙に猟り立て捕えるのじゃ」 「六波羅殿から加勢が来るとな?」 「とっくに注進してやったのじゃ。……五百か千の援兵が、もうソロソロ来る頃じゃ」 「へえ、そうか、知らなかった。いやそれなら安心だ。……それはそうときゃつどうしたか? 円信め、いつまで何をしているか⁉」  云い云い範覚は林の方を見た。  と、そっちから悲鳴が起こった。 「こいつおかしい、俺が行ってみて来る」  金剛杖を小脇にかかえ、林の方へ走って行った。 沼辺の飛天夜叉  沼の対岸の林の中に、飛天夜叉組は屯していた。  桂子と浮藻と千寿と朱丸と、そうして小次郎とを円く包み、鉞をひっさげた右衛門や、鶏娘や、泣き男や、笑い男や、幽霊女が、何の不安もなさそうに、安心しきった様子をして、小声でしめやかに話していた。  俺らの大将は桂子様だ。どんな大事にも驚かず、神変不思議の術を用いて、どんな危難でも突破して行く、そういう飛天夜叉の桂子様だ。何んの恐ろしいことがあるものか。──こういった心持ちがあるからであった。  で、安心しきっているのであった。  熊の皮や猪の皮が敷かれてあり、その上に桂子たちは坐っていた。  傍には牛車が幾台となく置かれ、幾箇かの檻も置かれてあり、その中には猿や山猫や狐が、これも何んの不安もなさそうに、寝たり起きたりしてノンビリとしてい、軛から放された牛や馬は、草を食み食みさまよっていた。  いくらか不安そうに見えているのは、頼兼の妾の千寿だけであった。  飛天夜叉桂子の性質と、その力量とを知らないかららしい。  千寿は二十二、三らしかった。下ぶくれのふっくらとした顔、のびやかな地蔵眉、おとなしい一方の女性らしかった。  朱丸は頑是ない六歳だけに、母の膝によって眠っていたが、濃い睫毛が下瞼を蔽うて、どこやらに寂しそうなところがあった。 「妾のために、このような騒ぎに……」  ふと、千寿はそう云った。 「何んと申してよろしいやら……」 「何んの」  と、桂子は笑いながら云った。 「わたしたちの酔狂からでございますよ」  酔狂ということは云えるかもしれない。  内裡攻めがあると聞いた夜、攻められる人々の家族なりとも、助け出して落としてやらねばと、そう決心した桂子は、部下を指揮してそれにかかった。  某の公卿の一族を、宇治の方へ落としてやったのも、某の豪族の一族を、南海の方へ渡らせたのも、資朝卿や俊基卿へ、いち早くそれとなく密使を送って、事件の発覚を知らせたのも、みんな桂子その人であった。  誰に頼まれてやったのでもなかった。自分の好きからやったまでであった。  ──土岐頼兼の妾と伜とを、いつ捕えて拷問にかけ、宮方一味の輩の、誰々であるかを調べるそうなと世間の噂に立った頃には、もうその人達は高倉あたりの、その住居から消えていた。  桂子が連れ出して、かくしたからである。  自分の好きでやった所業であった。  で酔狂とも云われるだろう。 「酔狂などとは勿体ない」  と、千寿は涙を浮かべながら云った。 「お助けなくばもう今頃は、わたくしども親子は六波羅の手に……渡され渡って恐ろしい目に……」 「そうねえ」  と桂子もこれには頷いた。 「情けしらずの六波羅に渡って、糾問されたかも知れませぬねえ。……が、それでは神も仏も、この世にないと申すもの。……そうあってはなりませぬ」 「わたしたち親子にとりましては、あなた様はまことに神か仏……でもこのように鬼火の姥とやらに、四方をかこまれてしまいましては……」 「アッハッハッ、大丈夫で」  こう云ったのは右衛門であった。 「われらの大将……いや姫君じゃ……桂子お姫様の力量技倆を、すこしでもご存知でございましたら、そのようなご心配はなさいますまいよ。……アッハッハッ、大丈夫で」 「右衛門や」  桂子は云った。 「そのような、バカらしい大袈裟なことは、あまり人前で云わない方がいいよ」 「はい」  と素直に右衛門は云った。 「では今後は無言の行! ということにいたしまする。……が、その前に思う存分、云いたいだけのことを申すことにしましょう! ……ヤイ泣き男泣き男、手前泣くという芸があったら、何故その芸を発揮して、オイオイワイワイ泣き立ててよ、鬼火の姥の眷族どもを、涙で押し流してしまわねえのだ! ……幽霊女も幽霊女だ、物凄い幽霊の真似でもして、鬼火の姥の眷族どもを、顫え上がらせてしまえばいいに! ……笑い男だってそうじゃアねえか、自分一人だけ面白そうに、バカのようにゲラゲラ笑っていずに、鬼火の姥の眷族どもをよ、一緒にゲラゲラ笑わせてよ、骨なしにしてしまえばいいじゃアねえか! ……鶏娘なんかもノンキ過ぎらあ。コケッコーと啼くもいいが、啼いたら啼いたでお日様でも昇らせ、世間を明るくするがいいんだ。……どだい俺は不平なんだ! 鬼火の姥ずれに取りかこまれてよ、飛天夜叉組ともあろうものが、こんなところにトグロをまき、身うごき出来ずにいるなんてなあ」  大鉞をブン廻した。 「右衛門や」  と桂子は云った。 「お前の不平はわかっているが、でも自分のそういう不平を、罪のない他人に移すってこと、不道徳でよくないよ」 「はい」  と右衛門は穏しく云ったが、 「もう不平など申しますまい。……が、もう一度だけもう一度だけ、云わせていただくことにいたしましょう」  大鉞をまた振り上げた。 「色がなま白くてグニャグニャで、意気地がなくて女たらしで、若い娘の純な心を、ひっ掻き廻す青二才、こういう奴は気に食わねえ! ……ましてやそいつの一族の中から、裏切り者が出たとあっては、どうにもこうにも腹が立ってならねえ! ……そういう青二才がこの辺にいるなら、この鉞で真二つにしてやる! 来い! 出て来い! さあ出て来い!」  云い云い小次郎をギラギラと睨んだ。  浮藻と仲よく並びながら、桂子の傍に坐っていた、土岐小次郎は首をちぢめた。 (あぶねえ、オレ殺される!) 「右衛門や」  と桂子が云った。 「そう一刻に云うものではないよ。……どんな人間にだってよいところはあるよ。……お前の攻撃しているその男だって、今に大功をあらわすよ。……それよか物騒な大鉞を、もう手もとへ引っ込ました方がいいよ」 「はい」  と右衛門は穏しく云い、少し離れて草の上へ坐った。 「小次郎や」  と桂子は云った。 「気を悪くしちゃアいけないよ」 「はい」  と小次郎も穏しく云った。 「いいえ何んとも思いはしません」 「ねえ小次郎様」  と囁くような声で、今度は浮藻が話しかけた。 「ではあなたにはママのテコナの……」 (アレいけねえ)  と小次郎は思った。 (またテコナでいじめられるのか。……大鉞で脅かされた後を、テコナでいじめられちゃアやりきれねえ)  でも小次郎の心持ちは、今たいへん寂しいのであった。  兄ともいうべき親しい仲の、また従兄弟の蔵人頼春が、宮方を裏切って武家方へついた。そのために今回の大騒動が起こり、土岐十郎頼兼も死ねば、多治見ノ四郎二郎国長も死んだ。そうして噂による時には、頼春も早瀬も家出をして、行方不明になったという。  で、本来なれば小次郎その者も、土岐一族として討たれて死ぬか、でなければ宮方の裏切り者として、武家方の禄を食むかして、生存しなければならなかったのであるが、あの夜幸い館にいずに、桂子のもとへ来ていたので、そのどちらの身の上ともならず、こうして桂子の一党として、このようにくらすことが出来るようになった。  が彼の一族に卑怯未練の、裏切り者が出たということが、彼の肩身を狭くして、爾来ずいぶん憂鬱なのであった。  幸い桂子が彼を支持し、浮藻が愛してくれるので、比較的ノンキにくらすことは出来たが。  それにもう一つ彼の心には、重い荷物が負わされていた。  連判状を持っていることである。  日野資朝卿の別館の、乱痴気さわぎの無礼講の夜、偶然手に入れた連判状で、はじめは彼らしいイタズラ心と、好奇心とからこっそり秘めて、誰にも明かさず持っていたのであるが、今回の騒動が起こってからは、その品物が非常に重大な、非常に大切な証拠品となり、武家方ではどうともして手に入れようと、苦心惨憺しているらしく、そういう噂も耳にはいった。  が、もしこの品が渡ろうものなら──武家方の手へ渡ろうものなら、著名な公卿や豪族が、六波羅や鎌倉の手によって、捕えられたり攻められたりして、一大騒動が起こらなければならない。  といって破って棄てることも出来ない。  宮方に対して申し訳ない。  事情を桂子へうち明けて、桂子の手へでも渡してしまったら、一番安心かとも思われたが、そうするには機会を失していた。  今回の事件の起こる前に、するならすべきものであった。今になって事情をうちあけて、連判状など渡そうものなら、そのような大切な物を持っていながら、何故今まで隠していたかと、さげすまれないものでもない。  きっとさげすむに相違ない。  と、桂子は支持を止め、浮藻は愛してくれなくなるだろう。 (これが俺には何よりも辛い)  そこで彼は今も連判状を、懐中に秘めているのであったが、心の重荷に堪えられないのであった。 「姫君様」  と右衛門が、また少しイライラしながら云った。 「いつまでこのような林の中に、鬼火の姥などと対陣し、止どまりおるのでござりまするかな?」 「右衛門や」  と桂子は云った。 「ほんのもう少しの辛抱だよ。……細作がかりの風見の袈裟太郎が、おっつけ京から帰って来ようから、そうしたらわたしたちは善処するよ」  その言葉の終らないうちに、林を分けて一人の男が、矢のような早さで馳せつけて来た。  それは風見の袈裟太郎であった。 「六波羅から出ました兵の数、おおよそ五百騎にござりまして、今街道を走らせおりまする。この大藪地へ到着しまするも、間のないことと存じられまする」 怪火点々  桂子は武者ぶるいして立ちあがった。 「六波羅勢わずか五百騎というか! ……牽制する手間暇はいらぬ! ……機会は来た、さあ右衛門、退き鉦をお打ち、さあ退き鉦を! ……」  声に応じて大蔵ヶ谷右衛門は、大鉞を抛り出し、傍らの陣鉦をムズと掴み、突っ立ち上がると見る間もなく、兵法に叶った桴さばき、哈々と鉦を打ち鳴らした。  一里のあなたへも届くであろうか、そういう鉦の音に調子を合わせて、四方八方から鬨の声が起こり、すぐに続々と百人二百人、桂子配下の兵や、この森を職場として住居してい、この日の闘いに桂子の方へ、味方したところの野武士や非人、盗賊の群れまで、木の間をくぐり、藪をひらいて引き上げて来た。  と、桂子はまた叫んだ。 「檻を開いて猿や狐、熊でも狼でも放しておやり! あの子たちには用がなくなった。この大藪地大密林をあの子たちの住居にしてやろう」  声に応じて幾人かが、檻へ走り寄って戸をひらいた。  獣たちは走り出た。  が、逃げようとはしなかった。  永年飼われていたからである。  猿は近くの木へ登り、狐は近くの藪へ駈け込み、山猫は腐木の周囲を巡り、熊はいかにも審かしそうに、少し離れた小丘の上から、主人たちの方を見詰めてい、五尺以上もある白猩々は、人間と変らぬ老獪さで、桂子や浮藻に可愛がられていたが、栗の木の叉に駈け上がり、人間さながらに腕を組み、(俺どうやら見すてられたらしいぞ。俺そいつ気に入らねえ)と、そんなことでも思っているかのような、寂しそうな顔をして動かなかった。  桂子は顔を千寿の方へ向けた。 「さて千寿様とも朱丸様とも、いよいよお別れでござります……妾の配下五人ばかりを、扈従させましてあなた様方を、故郷の美濃まで送らせましょう。……ここさえ出ましたら大丈夫! 鬼火の姥の眷族であろうと、六波羅方の兵であろうと、一人も追いはいたしません。いえ追わせはいたしません。……故郷美濃へお帰りの上は、立派なご一族もおありのこと、その方々に守られて、安楽におくらしなさりませ。……やがては六波羅も鎌倉も亡び、世は宮方となりましょう。……それまではただひっそりと、つつましくおくらしなさりませ! ……右近太、陣平、軍次、鷺内、将左衛門よ、お前達に頼む! お前達お二人をお送りいたせ!」  応と返辞る声あって、五人の屈竟の若者が、千寿と朱丸との側へ走った。  と、桂子は片手をあげ、遥かの一点を指さしたが、 「見ていてごらん、火がともるから! ……一ツ!」  はたして一点の火が、遥かの暗黒の密林の中へ、朱を打ったように現われた。 「二ツ!」  桂子はまた云った。  とまた熖の朱が打たれた。 「三ツ、四ツ、五ツ、六ツ!」  その声をことごとく裏書きして、三ツ、四ツ、五ツ、六ツと、順序ただしく一列縦隊に、松明らしい火の光が、密林の闇にともされた。  十、二十、三十、四十と、火の光は見る見る数を増し、それが一列縦隊となり、東南の方へ動き出した。  野武士や非人や盗賊の群れは、驚きの声をあげた。 「こりゃ不思議だ!」 「どうしたのだ!」  すると右衛門が笑って叫んだ。 「術よ! ハッハッハッ、何が不思議! ……我らの姫君飛天夜叉様の、術よ術よ何が不思議!」  この時密林の一所から、ドッと大勢の喊声が起こり、数百の騎馬武者が駈けて行くらしい、蹄の音や鎧胄の、触れあいせめぎ合う音が聞こえた。  桂子は雀躍りしてまた叫んだ。 「六波羅勢が到着したわ! あの火の光にまどわされて、はたして向こうへ追って行くわ! ……飛天夜叉の一団が伍を調え、松明の光に道を照らし、遁がれ出るものと思ったらしい! ……それが妾のつけめだったのさ! ……いやいや六波羅勢ばかりでなく、鬼火の姥の眷族どもも、それに味方して闘っていた、この大藪地の住人どもも、妾たちの一団が逃げるものと思い、向こうへ追っかけて行くだろう! ……それが妾のつけめだったのさ! ……さあこの隙に千寿様朱丸様、早々と出立なさりませ! ……間道づたいに五人の者が、ご案内いたすでござりましょう! ……爾余の者は妾に続け! ……鬼火の姥の本陣を、さあ沼づたいに攻めようぞ! ……あの姥ばかりはあの火の光に、たばかられるようなことはない! ……妾の所業だと見破るだろう! ……そうして姥めは姥の術で、妾の術を破るだろう! ……あの火の光を消すだろう! ……姥めに術を使われないうちに、姥めに火の光を消されない先にさあ押し寄せろ! さあ攻めろ!」  桂子は走り出した。 「行け!」  と右衛門が声をかけ、大鉞をひっさげて、すぐに桂子の後を追った。  つづいて小次郎と浮藻とが、手を取り合って走り出した。つづいて風見の袈裟太郎や、泣き男や笑い男や、幽霊女や鶏娘が、その他の桂子の配下と共に、そうして野武士や非人たちと共に、一団となって後を追った。  こうして後へ残ったのは、千寿とそうして朱丸と、その二人を送って行く、五人の桂子の部下であった。 「桂子様、桂子様!」  千寿は感謝の涙の声で、沼の岸辺をかなたへ走る、桂子に向かって呼びかけた。 「ご恩は海山! 何んとお礼を! ……今こそお別れ、ご無事でご無事で!」 「お姉様、お姉様!」  と、朱丸も思慕の声で呼んだ。 「桂子のお姉様!」  桂子はかなたで振り返った。 「千寿様、朱丸様! ……ご無事で……さあさあ! ……今こそお別れ! ご縁さえござれば……また逢われます!」 「お姉様ヨ──ッ」 「朱丸様ヨ──ッ……可愛い可愛い朱丸様ヨ──ッ」 「いざ千寿様朱丸様、お供仕るでござりましょう」  と、右近太が進み出て声をかけた。 「機会失っては一大事、いざいざ早うご出立」 「はい」  こうしてこの一団は、大藪地をくぐり密林を分け、美濃を目ざして落ちて行った。  沼のこなたでは鬼火の姥が、突っ立ち上がって叫び出した。 「やア退き鉦が聞こえるわ、さては桂子め落ち行く気か! ……やア松明の火が見える! ……一点、二点、……十点、二十点……縦隊をなして移って行くわ! ……はてな、あの光、こりゃ不思議? ……光はあるが熖が立たぬ! ……息づきもせぬ、生命がない! ワッハッハッ、火ではないわい! 飛天夜叉めのまどわしじゃ!」  その時ドッと喊声が起こり、数百の騎馬武者が轡を揃え、この大藪地の密林を分けて、移動する松明の方角へ、走って行く音が聞こえて来た。 「一大事、こりゃどうじゃ!」  また姥は叫んで地団太を踏んだ。 「ありゃア到着した六波羅勢じゃ! それがあの火にたぶらかされ、飛天夜叉組が落ちると観じ、追って行くわ、駈けて行くわ! ……こりゃたまらぬ、一大事じゃ! ……やアやア誰か退き鉦を打て! ……味方をここへ集めねばならぬ!」  声に応じて眷族の一人──鳶の七九郎という男が、用意してあった鉦を取るや、桴さばき荒く打ち鳴らした。  音は忽ち哈々と鳴り、大藪地の四方へ響き渡った。  が、どうだろう、その音に応じて、ここの陣地へ帰って来たものは、十四、五人に過ぎなかった。  その他の姥の眷族や、姥に味方して戦っていた、ここの大藪地の住人の、野武士や非人や盗賊の群れは、六波羅勢と同じように、移動する松明にたぶらかされ、飛天夜叉組落ちると観じ、追い討ちにかける気でその方角へ、いずれも馳せて行ったらしい。 「残念! ……一大事! ……無念! 南無三! ……飛天夜叉めにしてやられた!」  またも姥は地団太を踏み、狂うように躍り上がり躍り上がったが、 「向こうがそうならこっちはこうじゃ! ……火をともしたなら消すばかりよ! ……嵐を起こして、雨を降らして! ……姥の法力見よや見よや!」  御幣を額へ押しあてた。  が、その時沼の岸づたいに、一団の人影嵐のように、こっちに向かって殺到して来た。  眷族たちは騒ぎ出した。 「飛天夜叉だ!」 「飛天夜叉組だ!」  姥は凝然と突っ立った。 「打たれた! ……先手を! ……また打たれた! ……飛天夜叉組じゃ! ……いかにもそうじゃ! ……こうなっては法も祈祷も! ……間に合わない! 間に合わない! ……どうしようぞ、範覚範覚!」  見る見る飛天夜叉の一団は、距離間近く迫って来た。 「範覚範覚範覚ヨ──ッ」  大竹藪をうしろにとり、鬼火の姥の眷族の、四つの死骸を足もとに置き、眷族の一人から奪ったらしい、血にぬれた太刀を右手に持ち、それを頭上にふり冠り、左の手に青竹の杖を持ち、幽鬼さながらに構えている、盲目の頼春を向こうに廻し、金地院範覚は金剛杖を、八相に構えて睨んでいた。  好色で残忍でヨタで駄弁で、懦弱にさえ見える範覚ではあったが、その実「棒」の一手にかけては、鬼神をあざむく使い手で、金環金筋で堅固に作った、金剛杖の一薙ぎは、利刃よりも凄く鉄才棒よりも、恐ろしい力を持っているのであった。  がその範覚が杖を構えたまま、進みもしなければ打ってもかからず、じっといつまでも静まっているのは、いったいどうしたというのだろう?  と、範覚は呻くように云った。 「凄い! ……ウム……凄いのう!」  ジリリと一足後へ退った。  と、頼春は一足進んだ。  しかしわずかにそれだけであった。  依然として二人ながら静まっていた。 (何者だろう? この盲人? ……凄いのう、まるで剣鬼だ!)  ゾッとするような殺気を感じ、範覚はまたも一足さがった。 密林の乱闘  後年の武士が武勇を現わし、それを人に誇る時、 「身は頼兼に似たるかや?」  と、セリフのように云ったそうである。  土岐十郎頼兼の武勇は、それほどに勝れていたのである。  その頼兼の一族にあたる、土岐蔵人頼春の武勇──剣の技に至っては、頼兼に劣らないばかりでなく、たち勝っていたということである。  盲目の身ではあったけれど、心眼心耳には狂いがなかった。  対者の行動が歴々と、心眼に映じ心耳に聞こえた。  怨みある鬼火の姥の眷族、五人までを討って取り、姥のおり場所へ行こうとした時、また一人敵が現われて、いま立ち向かって来たのであった。 (今度の相手は腕の立つ、ずいぶん凄い奴らしい)  そう頼春には感じられた。  大刀を頭上にふり冠りながら、木の葉の落ちるのさえ感じられる、その霊妙の心耳を澄まし、相手の呼吸をうかがった。 「貴殿……」  と範覚は嗄れた声で、金剛杖を構えたままで、疑がわしそうに呼びかけた。 「貴殿……お名前……お明かしくだされい! ……あまりに美事なお腕前……お名前聞きたい……おあかしくだされい! ……拙者は金地院範覚と申す!」 「いや」  と頼春は言下に答えた。 「決して姓名申しますまい! ……誰にも云わぬ、何者にも明かさぬ。……が、このようにご記憶くだされい。……『裏切り者』と。……な、このように」 「裏切り者? とは?」 「またこのようにご記憶くだされい。『神の界に属する御一方に、許すとのお言葉うけたまわるまでは、死ぬことの出来ぬ男』じゃと。……」 「不思議なお言葉! ……気にもかかる! ……拙者も一人の裏切り者を、この頃尋ねているのでござるが……しかしその者は無双の美男、かつ立派な若い武士、貴殿のような盲人ではない。……」  さよう、範覚の尋ねているのは、──姥と共にたずねているのは、土岐蔵人頼春なのであった。  そうして頼春とはかつて一度、京の往来で姥と一緒に、暁方に逢ったことがあって、その風貌は知っていた。  が、まさかに現在自分と、向かい合っているこの男が、その頼春とは思わなかった。  乞食さながらであり盲人だからである。  頼春にしてからがそうであった。  ここに自分と向かい合っている男が、かつて鬼火の姥によって裏切りを慫慂された時、現われて来た若い山伏──それであろうとは知らなかった。  盲目で見えないからである。 「貴殿」  と範覚はやがて云った。 「我らが仲間を五人がところ、討って取られた上からは、我らにとって貴殿は敵、惜しい人物とは存ずるが、この範覚お助けは出来ぬ! ……覚悟なされい、観念なされい!」 「さようか」  と頼春は水のように云った。 「神の界に属する御一方に、許すというお言葉うけたまわるまでは、決して死ねぬこの拙者じゃ! ……行く手を遮る者があらば、誰彼問わず用捨いたさぬ! ……殺生ながら討って取る!」 「参るゾ──ッ」 「…………」  ガッ! 礫が飛び土煙りが上がり、真竹が十本束になって切られ、婆裟と地上へ仆れて来た。  金剛杖で薙いだのであった。  が、それをかわされたのであった。  三尺たらず後退った位置に、頼春は立っていた。右手で太刀をふり冠り、左手で青竹の杖を持ち、同じ姿勢で立っていた。  力負けして自分の方が、右手へよろめいた範覚は、 (凄いのう)とまた思った。(俺の方がやられる! 俺の方がやられる!)  かつてこれまで一度として、かわされたことのない一薙ぎであった。それをどうしてかわしたものか、盲人の身でありながら、眼にもとまらず引っかわし、寂然として立っているのであった。 (凄いのう。俺の方がやられる!)  範覚は恐怖を感じたが、さすがに逃げようとはしなかった。  左へ左へ左へと足音を忍ばせて廻り込み、隙を狙ってもう一度、足を薙いでやろうと構え込んだ。  と、どうだろう、相手の盲人は、両眼さながら見えるかのように、これも左へ左へと、同じように廻り込んだ。 (変だ。いや変ではない。……こやつ見えるのだ! 眼が見えるのだ!)  範覚はそう思った。 (それにしても何者だろう?)  なお範覚は執念深く、左へ左へと廻り込んだ。  と、そういう範覚の耳へ、鬼火の姥のいる沼の方から、けたたましい退き鐘の音が聞こえ、つづいて烈しい喊声が聞こえ、やがてこっちへ大勢の者が、走って来る音が聞こえて来た。 (どうしたのだろう? 何か起こったな!)  そう思った暇もなく、木の間をくぐり藪を踏み越え、数十人の人影がなだれて来た。  悲鳴! 叫び声! 喚き声! 切り合う音! 仆れる音! 「飛天夜叉だ!」 「鬼火の姥め!」  とっ組み合う者、斬られる者、追い詰める者、追い詰められる者!  それは飛天夜叉組に斬り込まれ、支えかねて鬼火の姥の勢が、沼辺からこっちに逃げて来たのを、飛天夜叉組が追って来たのであった。  松明が地上にころがった。  枯れ草に燃え移ってカッと立つ熖!  その横に首級がころがっている。  範覚も盲人も混乱の渦に、その所在を眩まされ、どこにいるともわからなくなった。  こんな場合にも恋人同志は手を取り合わなければならないものと見え小次郎と浮藻とが手を取り合い、戦いは味方が勝っているので狩場で獣でも追うかのように勢い込んで追い駈けて来た。  と、その前へ現われたのは、これも恋人同志であった。  少しばかり薹は立っていたが、恋人同志には相違ない、鬼火の姥と範覚とであった。 「やア汝は!」  と姥は云った。 「いつぞや京の町で逢った美しい若衆じゃな、若衆武士じゃな!」  小次郎に向かって云ったのである。 「頼春殿と連れ立って、歩いておられた若衆武士じゃな! ……美しや、おおおお! ……おお遁がさぬ! 取る! わしのものにする! ……美しや、おお、おお、おお!」 「助けてくれ──ッ」  と小次郎は悲鳴し、タジタジと背後へよろめいた。 「浮藻殿浮藻殿助けてくだされ!」  その浮藻は金地院範覚の、蛇のような眼に見詰められていた。 「いい娘じゃ! こりゃどうじゃ! ……処女の、未通女の、お手本じゃ! ……俺決定た! 俺のものにする!」  浮藻の方へ突き進んだ。  と、その範覚の眼を掠めて、カッと銀色に光るものがあった。  夢中で範覚は金剛杖で払った。  活然!  音!  流星だ!  斜めに光り物は地へ落ちた。  が、すぐにユラユラ、ふたたび宙へのし上がった。 「や──汝ア⁉」 「香具師よ香具師よ!」 「大木戸で逢った……」 「香具師よ香具師よ!」 「宣れ!」 「汝は?」 「金地院範覚!」 「鬼火の姥の眷族だな! ……俺ア大蔵ヶ谷右衛門よ!」 「飛天夜叉めの⁉ ……」 「忠義の家来だア──ッ」  いかにもそこへ走って来たのは大鉞をひっさげた、豪勇大蔵ヶ谷右衛門であった。 「鉞くらってくたばりゃアがれ!」  真っ向からビューッと振り下ろした。  受けたら最後金剛杖など、薪ざっぽうのように折れたであろう。  範覚も業師、飛んで避け、 「くらえ!」  と金剛杖を振り込んだ。  が、その時山崩のように、敵味方の勢一団にかたまり、二人の間に殺到して来た。  混乱!  閃光!  血!  飛ぶ首級!  が、人間の屠殺団は、屠殺し合いながら他の地点へ、すぐに雲のように移って行った。  脛当てのあてたまま斬られている脚!  たたきつぶされた陣笠や胄!  メラメラ燃えている数本の松明!  それだけで人間はいなかった。  が、すぐに藪の蔭から、鬼火の姥が走り出して来た。  キョロキョロあたりを見廻したが、 「あの美しい若衆武士を! ……わしゃどうしても! わしゃどうしても!」  小次郎をさがしに来たのであった。 「こりゃア何んだ?」  と不意に云って、姥は地面へしゃがみこんだ。  燃えている松明と生首級との間に、一本の巻軸が落ちている。  姥は取り上げて解いて見た。  日野資朝、  藤原俊基、  その他の人の名が記されてあり、その下に血判が捺してあった。 「連判状だ──ッ」  と姥は叫び、躍り上がってブン廻った。 「これさえありゃア! これさえありゃア!」  とたんに竹の林を分けて、一人の男が走り出して来た。 「さっきの娘、思い切れねえ!」  それは金地院範覚であった。 「や、姥か! ……少しばかり邪魔な」 「範覚ウ──ッ」  と姥は走り寄った。 「テ、手に入れたわ、レ、連判状オ──ッ」 「ホ、ほんとかア──ッ」  と首を延ばしたが、 「娘は?」  と尚もキョロキョロし、 「ホ、ほんとかア──ッ、偉い偉い! ……が、娘は⁉ 娘は娘は⁉」  この時傍らの大槻の木の、てっぺんあたりから雪のように白い、布のようなものが舞い下りて来た。 水精の群れ  雪のように白い布のような物は、鬼火の姥を上から蔽うた。 「ワ──ッ」 「ギャ──」  と、布のような物は、すぐに宙へ舞い上がった。 「連判状を取られた──ッ」 「ケダモノ──ッ」  と、範覚は槻の木の梢の、猩々を目掛けて金剛杖を投げた。 「ギャ──ッ」  と猩々は悲鳴を上げ、もんどり打って地へ落ちてた来たが、折られた片脚を引きずって、また槻の木へ掻き上がり、枝から枝、梢から梢へ、渡り伝わり姿を消した。 「取られた、連判状を! ……? あッ、あッ、取られた──ッ」  姥は地面へペッタリと坐り、阿呆のように空ばかり仰いだ。  戦いはしかしこの大藪地の、あなたに行なわれているらしく、喚声や剣戟の烈しい音が、嵐か怒涛のように聞こえて来た。  やがて数年が経過して、元弘元年七月となった。  比叡山の裏山の谷川で、三人の女が泳いでいた。  琵琶湖へ流れ込む谷川で、左右は樹木と岩組であり、遙かの上流には布を垂れたような滝が、白く巾広くかかっていた。  女たちの泳いでいるその辺りは、岩組が開らけ水がたたなわり、広い渕をなしていたが、蒼空を一片だけ切り取って来て、さながらそこへはめ込んだかのように、水は凄いまでに紺碧であった。  で、鵠の鳥を想わせるような、純白で艶のある女の裸身は、その色に染められて己自身、紺碧になるかと疑がわれさえした。  それは飛天夜叉桂子の身内の、幽霊女と鶏娘と、そうして、妹の浮藻であった。  三人の女は泳ぎながら、対岸の一所を絶えず眺めた。  そこには洞窟があるのであった。  それは、この世がまだ未開で、人間が穴居をしていた頃に、そういう人間が住んでいた洞窟で、その洞窟以外にも、この辺には同じような洞窟が、いくつか存在しているのであった。  が、洞窟は杉や、柏や、櫨や、野茨に蔽われて、その口を示してはいなかった。  滝や谷川にはつき物のような、岩燕は空に舞っているし、鶺鴒は岩の上を飛んでいるし、五位鷺は岸の蘆の中に、片足でいかめしく立っていて、カラリと晴れた今日の風景は、美しく清らかで幸福そうであった。  が、一つだけ気にかかることがあった。  それは洞窟のある一所から、絶えず煙りが出ていることであった。  それも尋常の煙りではなく、墨のような色をした煙りであり腥ささを感じさせる煙りであった。  煙りがそこから吐かれて来るからには、何者か住んでいなければならない。  でも、女たちは恐ろしげもなく、その洞窟の住人どもを、かえって誘惑でもするかのように、陽気にハシャイで泳ぐのであった。 「怨めしきは判官殿、わたしを恋死にさせながら、あなた様にはノンキらしく、ほかに増花の女をつくり……口惜しい──ッ」  と幽霊女は云ったかと思うと、ピシャリ! と水を掬ってかけた。  と、飛沫がパ──ッと立ち、日に射られて一刹那、そこへ鮮かに虹をかけたが、水をかけられた鶏娘は、 「キャ──ッ」  と、大仰に悲鳴をあげ、頭からドボ──ンと飛び込んだ。  と、綺麗な二本の脚が、水面から空へピーンと延び、しばらく宙でただよったかと思うと、グーッと水の中へ引き込まれてしまった。  死んだかな? 心配はない! 三間ばかりの下流へ浮かんで、 「コケコッコー、水あびたーッ、トテコーヨー、こん畜生!」  ピシャッ! と水を刎ねとばした。  と、また飛沫に虹が立ち、 「キャ──ッ」  と、今度は幽霊女が叫び、あおのけざまに引っくり返った。  で、少し痩せた胸から腹から、股から膝から爪先まで、ポカーンと水面へノビて浮かび、一間ばかり流れたかと思うと、こいつも水中へ引っ込まれてしまった。死んだかな? 心配はない! 二間ばかりの上流へ、頭から先に浮かび上がり、 「怨みあるものか、ないものか……」  ピシャッ! とまたも水を刎ね、 「思い知らさでおくべきか──ッ」 「キャ──」  ドボ──ン!  と、鶏娘が沈み浮かび上がると、 「コケッコッコ──」  ──で、大変陽気なのであった。  しかし浮藻だけは少し寂しく、水のかけっこの合戦から遁がれ、水中に立っている岩の上へ、一人で今登って行った。  年を加えた浮藻の体は、もうすっかり女になりきっていた。  円い肩、ふくよかの胸、ほどよく刳れた細い腰、ピチリと合わさって隙のない股、乳房の円味は半月形であり、脛の線など弓のようであった。水を浴びて少しばかり赤味ざした肌は、瑪瑙を薄絹で包んだようであり、踵まで届きそうな長い髪が、肩から背中を蔽うている様は、天使が黒い巨大な翼を背に畳んでいるそれのようであった。  黄金の雨のような陽の光の中に、そういう彼女の立っている姿は、艶美というよりも妖艶であった。  浮藻は髪を絞りながら、そこからしたたる水の滴を、水晶の簾さながらに、胸や腹に懸けながら、声を張って歌い出した。  澄んだ清らかな声ではあったが、烈しい情熱と悶えとが、その底に強くこもっていた。  それはもう決して無邪気な童心な、小娘などの声ではなく、肉体も感情も成熟し、異性に憧憬れ恋の苦しみに、さいなまれている女の苦しみ──それを現わした声であった。  でもその声は男を知らない、──だから男を知ろうとしている、発達した処女の声でなければならない。 高楼の欄干には姫が一人、 湖水の小船には武士が一人、 見交わす瞳には恋の熖、 来ませ来ませと呼び合う声  そう歌う浮藻のそういう声こそ、恋人を呼ぶような声であった。  一町も二町も響きそうな、そういう高い声であった。  小次郎を恋しているのであった。  とげられない恋の小次郎を!  でもどうして二人の恋が、今にとげられないでいるのであろう?  小次郎の心が変わったからであろうか?  いや決してそうではなかった。  恐ろしい邪魔がはいったからである。  姉の桂子その人であった。  邪魔の主は飛天夜叉なのであった。  そう、飛天夜叉の桂子が、小次郎に恋してしまったのであった。  すくなくとも浮藻にはそう思われ、そう思われる理由があった。  もう桂子は以前のように、浮藻と小次郎とを勝手自由に、接近させては置かなかった。時々接近しようとすると、一種の眼をもって二人を睨み、優しく穏かで上品ではあったが、一種の声をもって二人を制した。  そうしてそれはその二人が、成熟しきった男女なので、かるはずみの恋をとげることを、監督者として警戒するという、そういう意味のものではなかった。  その睨みは嫉妬の睨みであり、その制止も嫉妬の制止なのであった。  そうして桂子はいつの場合でも、小次郎を他所へやろうとはせず、自分の側へばかり引きつけて置いた。  そうして小次郎へ話しかける、桂子の声や態度には、媚があり艶きがあり、哀訴があり祈願があった。  恋でなくて何んだろう!  それにしても浮藻には不思議であった。 (恋を封じられているお姉様が、まあどうして今になって、小次郎様などを恋するのであろう?)  このことが浮藻には不思議であった。  そう、姉の桂子は、恋を封じられている筈であった。  それについて浮藻は姉の口から、以前こういうことを聞かされた。── 「浮藻や、妾は可哀そうなんだよ。妾は一生涯男の人とは、恋をすることは出来ないのだよ。恋をとげた刹那妾の力は──普通の人には出来ないことでも、妾だけに出来る超自然の力が、失われて返って来ないのだよ。……そう運命づけられているのだよ。……浮藻や、妾は美しいでしょう? だから妾から恋してもよければ、男の方からも恋されるのだよ。……そういう妾が恋を封じられている……でもその代わり超自然力を、与えられているのだよ。──ところがどうだろう鬼火の姥は、妾とは全然反対なのだよ、姥はあんなに穢いから、自分でも恋する資格がなく、男からも恋されはしないわねえ。……そういう姥はいつの場合でも、恋していなければいけないのさ。いつでも男と接していなければ、あの女の持っている通力が、妾と同じような超自然力が、失われてなくなってしまうのだよ。……それがあの姥の宿命なのさ。……だからあの姥から超自然力を奪おう、こう思ったら一切の男を、姥に接近させなければよく、持っている男を取り上げればよいのさ」  そういう桂子の身の上だのに、どうして小次郎などを恋し出したのだろう?  これが浮藻には不思議なのであった。  黒髪から水を絞り絞り、浮藻は尚も歌いつづけた。 月がかくれて鳥啼めきやめば 船もかくれて櫂の音ばかり 行きし恋人帰り来ずに 来ませと呼ばう声のみ残り…… 「コワイみたいなものだ」  と云いながら、周囲に集まっている仲間の者を、ニヤニヤ笑って見廻したのは、道楽のあげく悪疾を受けて、鼻と片眼とを失ったらしい、三十がらみの乞食であった。 「ウッフッフッ、悪かアねえ」  乞食と同じように木の間から、女たちの水浴を覗き見ていた、浪人くずれらしい男が云った。 流浪の人々  三人の女の水浴を見ながら、話し合っている人間は、男女とりまぜ八人であった。  世の廃人、社会の落伍者、いわゆる流浪の人々であった。  どこかしら彼らは不具であった。  片手ないもの片足ないもの、両耳を剃って落とされたもの、鼻や唇の欠けたもの。……  病気でそうなったものもあれば、刑罰によってそうされた者もあった。  その中に一人長方形の白布を、額からかけて頤の下までかけ、顔をかくしている若い女があった。  癩病患者ででもあるのであろうか?  それにして頸筋にも手足にも、それらしい徴候があらわれていず、むしろその手は細く白く、上流の産まれを想わせるほど、華車でもあり上品でもあった。垢づきよごれた襤褸をまとい、履物さえはいていなかったが、体つきには高雅な品があった。  容貌もおそらく美しかろう。  が垂れ布に蔽われて、誰も見ることは出来なかった。  あるいは容貌が醜くすぎるので、それを恥じてそのように垂れ布で、顔を隠しているのかもしれない。  前方谷川に向かっては、栗の木がまばらの林をなし、後方低い丘に向かっては、馬酔木が丈余の叢をなしてい、その中ほどの草の原に、襤褸と垢と蚤虱とに包まれている不具の流浪者が、八人がところかたまって、蠢めきながら話しあっている様子は、向こうで三人の妖艶の裸女が、水浴をしているのと対照的に、みにくく浅ましく奇怪でさえあった。 「岩の上に立って歌っている女、こっちへ向いてくれると嬉しいのだがな」  こう云ったのは前身が屠者で、他人の牡牛を盗んだ咎で、両耳を剃り落とされた中年者であった。 「ゆっくりここに構えていようぜ。するとあの娘がこっちを向いて、笑いかけてくれるというよい運命にだって、ぶつからないものでもないからなあ」  こう合槌をうったのは、以前は鎌倉の犬飼いであったが、あやまって長崎高資の犬を、自分の犬が食い殺した咎で、右の手を肘から切り取られたと、自称している老乞食であった。 「ナ、何事も辛抱が大事」  こう老乞食は言い足した。 「秘密のところは見たいものさ」  こう云ってニヤニヤ笑ったのは、先刻から顔へ白布を垂らした、若い女の顔を見ようと、横から覗いたり下から覗いたり、いろいろさまざま苦心したが、一向苦心が酬いられず、女の顔が見られないので、すくなからず心をイライラさせている、武士あがりらしい男であった。  左の手の指が五本ともなかった。  他人の女房をとった咎で、女の良人に私刑されたのだと、自慢らしく云っていた。 「向こうの女の前も見たいが、こっちの女の顔も見たいものだ。えい、いっそ!」  と云ったかと思うと、矢庭に白布をひったくろうとした。  とたんに彼は、 「ワッ」  と叫び、あおのけざまにひっくり返った。  女の懐中から菱形をなした、蝮の首が現われて、彼の手を目がけて延びたからであった。 「やったね、アッハッハッ、とうとうやったね」 「あの大将こいつを知らなかったそうな」 「懲りて二度とはやるまいよ」  爾余の者は面白そうにそう云って笑った。  蝮はしかし穏しく、銭形模様の美しい体を、五寸ばかり懐中から抜き出して、陽の中でその体をテラテラ光らせ、口から緋色の舌を吐いてみせた。が、やがて懐中の中へ、引かれた紐のようにはいって行った。  蝮の持ち主のこの女は、頼春の妻の早瀬であった。  早瀬が自家をさまよい出たのは、数年前のことであり、愛する良人の頼春が、多治見ノ四郎二郎国長の館を、六波羅勢と一緒に攻め、その戦場から行方不明になったと、そう耳にしたその日からであった。  彼女には良人の心持ちが、ハッキリわかるように思われた。 (あの人が宮方に一味したという、そういう秘密をわたしに話した。それをわたしがお父様に告げた。その結果あの人はお父様に強いられ、厭応なしに宮方を裏切り、武家方六波羅方に返り忠をなされた。その結果があんな騒動となり、あの人の一族の土岐頼兼様や、多治見ノ四郎二郎国長様が、むざむざ討たれてお果てなされた。……それをあの人は後悔されたのだ。そうして返り忠の武士として、六波羅方にお仕えし、安閑と生活なさることを恥じ、行方不明になられたのだ)  そう彼女には感じられた。 (浄罪の旅へ、〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔の旅へ、あの人は出かけて行かれたのだ)  そんなようにも思われた。 (あの人はわたしをどう思っているのだろう?) (憎んでいるに相違ない)  そう彼女には思われた。 (浄罪の旅へ、〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔の旅へ、追いやった元兇がわたしなのだから、あの人はわたしを憎んでいるだろうよ)  彼女にはこれがたまらなかった。 (どうともしてあの人にお逢いして、あの人の憎み、あの人の怨み、あの人の怒りの鞭を受けたい。……どんなにしてもわたしは謝罪したい。……お許しがなければ殺されたい)  彼女は良人に殺されようために、流浪の旅へ出たのであった。 (あの人なしではわたしは生きられない)  こういう感情ももちろんあった。  良人恋しさが根本となり、その良人に謝罪したい、その良人に許されたい、その上でなら殺されてもよい。  これが彼女が自家を出て、流浪の身となった原因であった。  数年に渡る流浪の旅が、いつか彼女を女乞食にした。  あらゆる苦難と迫害と、誘惑と陥穽とが彼女を襲った。  六波羅第一と謳われた美貌は、乞食となっても面影を残し、彼女の貞操を暴力をもって奪おう──そういう男が時々出た。  そこで彼女は考えた。 (わたしは誰にも顔を見せまい)  そこで癩病患者かのように、顔へ白い布を垂らしたのである。  それでも痴漢は彼女を襲って、その白布を取ろうとしたり、その貞操を奪おうとした。  懐剣などで防ぐことは、かえって危険を招くことであった。  奪いとられたらこっちが斬られる。  不思議にも彼女には子供の時から、長虫を恐れない性癖があった。  逝い母などは心配して、「この娘はきっと嫉妬ぶかいよ、この娘はきっと執着づよいよ、女の身で長虫を恐がらないのだから」と、溜息と共に云ったほどである。  これが彼女に幸いした。  彼女は蝮も手なずけた。兇猛の蝮も彼女にかかると、自由になる生きた紐かのようになり、穏しく懐中で眠りさえした。  もう彼女は安全であった。  うっかり彼女を襲った男は、したたか毒虫に噛みつかれた。  知っている者は襲おうとはせず、知らずに一度襲った者も、二度と襲おうとはしなかった。  こうして彼女は今日が日まで、貞操を安全に保つことが出来た。  悪あがきをした武士だけが、遠く群れから離れて立っていたが、爾余の者たちは早瀬の周囲で、また暢気そうに話し出した。 「『裏切り者』って男を知っているかい?」  頬からかけて頤の辺まで、刀傷のある男が云った。 「噂にだけは聞いているよ」  両足ともかくも揃ってはいるが、左の足がどういう加減か、発育不完全で竹のように細い、そういう不具者の五十男が云った。 「なんでも盲人だということだな」 「うん」  と刀傷の男が云った。 「俺は一度だけ逢ったことがある。盲人だよ、凄い盲人だ」 「むやみと人を斬るそうだが?」 「うん、むやみと斬るそうだ。……昔はそうでもなかったそうだが。……そうだ昔はその男の行く手を、変に遮って邪魔などすると、怒って斬ったということだが……今じゃアむやみと斬るそうだ」 「狂人だよ! 殺人狂さ!」  吐き出すようにこう云ったのは乳飲み子を膝へかかえ上げ、胸もとをひろげて乳房を出し、それを含ませている二十八、九の、痩せさらばえた女乞食であった。 「その狂人の人鬼でも、この可愛い子供を見たら、──この子供はずいぶん可愛いわね──殺生の気持ちなどなくなしてしまって、仏心になるだろうよ」 「駄目だよ」  と刀傷のある男が云った。 「その男は盲人なのだからな、子供を見せたって見えやアしないよ」 「では私は抱かせてやろう。その盲目の狂人にあったら、この可愛い子を抱かせてやろう」 「この女こそ狂人なんだがなあ」  と、片足竹のように細い男が、気の毒そうに小声で云った。 「誰だろう、こんな気の狂っている女に、殺生な子供なんかはらませたのは。……それはそうと盲目の殺人狂は、名を宣らないということだの」 「そうだ」  と刀傷のある男が云った。 「誰かが名を訊くとこう云うそうだ、『このようにご記憶くだされい、裏切り者とな』このように……またこんなように云うそうだ、『神の界に属する御一方に、許すとのお言葉うけたまわるまでは、死ぬことの出来ない男じゃ』と。……」 「竹の杖を使うということだが?」 「そうだ、……竹の杖が得物なのだ。それでズバリと咽喉をつくのだ。……狙いは絶対に狂わないのだそうだ。……が、相手が大勢の時には、相手の持っている太刀を奪って、そいつで斬って斬りまくるそうだ」 「名を宣らないという段になると、ここにいるお嬢様とおんなじだな」  こう皮肉に云いながら、耳を剃り落された浪人くずれの男が、早瀬の方へ頤をしゃくった。 「このお嬢様も名を宣らないて。お嬢様お名前をおきかせくだされと俺が以前お訊ねしたら『追い慕っている女でございます』とこうお返辞くだされたばかりさ。アッハッハッ追い慕っている女か!」  みんなはここでドッと笑った。  そうして一斉に早瀬の方を見た。  が、早瀬は黙っていた。そうして身動きもしなかった。  で、明るい陽の中に、顔にかけられた布ばかりが、変に気味悪く白々と浮き出し、妖怪画にあるのっぺら坊のように見えた。 「ところで……」  と片足細い男が、刀傷のある男へ云った。 「裏切り者というその男と、貴殿どこで逢われたかな?」 「美濃の青墓で逢いましたよ」 「今でもそこにおりましょうか?」 「さあそれは? ……どうであろうかな?」  この時不意に悲鳴が聞こえた。  みんなはギョッとしてそっちを見た。  と、早瀬に悪あがきをし、蝮に脅されて胆を冷やし、遠く離れた馬酔木の叢の、裾に、膝を抱いてこっちを眺めていた男が、あおのけざまに地に仆れ、手足を宙に泳がせていた。  みんなそっちへ走って行った。  その男の咽喉から血の泉が、頤の方へ吹き出していた。 「きゃつだ! ……裏切り者! ……きゃつがやったんだ! ……竹の杖で! ……ブツリと咽喉を! ……俺は知っている! ……きゃつの手口だ!」  刀傷の男がそう叫んだ。 「じゃアそいつこの辺にいるんだ!」 「逃げろ!」 「あぶない!」  と数人が叫んだ。  もうその次の瞬間には、乳飲み子を抱いている狂人の女と、早瀬とだけが後にのこり、ほかの者の姿が見えなくなっていた。  陽が明るくあたっていて、馬酔木の丘のような大きな叢が、その葉を銀色に光らしていた。 (まあ恐ろしい)  と早瀬は思った。 (白昼に人が殺されるなんて。……そうしてどうだろう殺した人の姿が、どこにもあたりに見えないなんて)  彼女は殺されている男の側に、首を垂れて立っていた。  顔の前に垂れている布の裾から、わずかばかり見える足もとの地面、それだけが彼女の視界であった。  彼女は非常に長い年月、布をかかげて遠くの世界や、身のまわりを見ようとはしなかった。 (わたしは誰も見たくない。わたしは何んにも見たくない。……そう、あの人を見るまでは!)  この心持ちが彼女をして布をかかげることをさせないのであった。 (良人頼春に逢うまでは、誰も見たくない、何も見たくない)  この心持ちがそうさせるのである。  彼女も杖をついていた。  その杖で行く手をさぐりながら、馬酔木の叢を巡りながら、当てなしにソロソロと歩いて行った。  近畿地方はいうまでもなく、山陰、山陽の方面まで、数年の間に良人を尋ねて、彼女は流浪し歩き廻った。  そうして京の地へ帰って来たのは、数日前のことであった。  実家へ帰ろうとはしなかった。  家のことも父のことも、彼女の心にないからであった。  ではどうしてこのようなところへ──比叡山の裏山というようなところへ、彼女はやって来たのであろう?  流浪中に彼女にも仲間が出来た。  その仲間がここへやって来たので、それで彼女も来たまでであった。  ではどうして彼女の仲間は、こんなところへ来たのであろう?  神社仏閣の所在地へは、世の廃人や社会の落伍者が、おのずと集まるからであった。  ことにこの頃の比叡山の裏山には、そういう廃人や落伍者ばかりでなく、盗賊、追い剥ぎ、悪祈祷者、そういう者まで集まっていた。殺生禁断の場所だけに、鳥獣なども無数にいた。それを狩るために猟師などまでが、弓矢をたずさえてはいって来、猪小屋をかけて住んでさえいた。娼婦の群れさえいたほどである。  早瀬は叢の向こう側へ行った。  と、自分の歩いて行く先を、何者か歩いて行く者があって、草を分ける音が幽かに聞こえた。  彼女は思わずゾッとした。 (裏切り者ではあるまいか? ……盲目の殺人狂ではあるまいか?)  彼女は佇んで耳を澄ました。  でも彼女は布をかかげて、前方を見ようとはしなかった。 (誰も見たくない、何物も見たくない!)  足音は馬酔木の叢を巡って、今まで彼女たちの一団がいた、その方角へ行くようであった。  不意に女の悲鳴が起こった。  つづいて嬰児の泣き声が聞こえた。 「おや」  と早瀬は呟いたが、何がなしに気にかかり、声のした方へ小走って行った。  元いた辺まで走って来た。  つまずいたので足を止めた。  布の裾からわずかに見える、地面の視界の一所に、咽喉をえぐられた女乞食の、その死骸の咽喉の一部と、乳房をあらわした胸の一部と、その胸の上へ乳房を求めて、這い上がって来た嬰児の顔とが、化物絵のように見えていた。 「まあ」  と早瀬は思わず叫び、ベタベタと地上へ坐ってしまった。 「殺されている! ……咽喉をえぐられて! ……では……」  と云ったが黙ってしまった。  しかし彼女の心の眼には、盲目の殺人狂の恐ろしい姿が、持っているという竹の杖と共に、──一度も見たことのない相手なのではあったが……想像によって映し出されていた。 (咒う! 私は、その男を咒う!)  早瀬はしばらく動かなかった。  嬰児がはげしく泣き出した。  乳房をさがし出して吸ったのであったが、死人から乳は出なかった。乳房にも血汐は流れ寄って来ていた。その血が口へはいったらしい。で、嬰児は泣き出したのであった。 「可哀そうに」  と早瀬は云った。  嬰児を膝へ抱き上げた。  母の死骸から流された血で、顔を染め指を染めたその嬰児は、抱き上げられて泣くのを止め、布の裾から顔を覗かせ、早瀬を見上げて無心に笑った。 (わたしこの児を見殺しには出来ない)  早瀬は烈しくそう思った。  殺されている狂人の女乞食が云った、さっきの言葉が思い出された。  ──その盲目の殺人狂に、この児を見せてやろう抱かせてやろう、そうしたらその男も仏心を起こして、殺生の真似などしないだろうと、……そういう意味のことを云ったその言葉を! (気の毒な殺された女の人の代わりに、わたしがこの児をその殺人狂に、抱かせてやろう、そうだ抱かせて!)  その男に対する憎悪の念が、早瀬の心に涌いて来た。 「悪人! ……鬼! ……無慈悲な悪魔! ……罪もないこの児の母親を殺し、無邪気なこの児を孤児などにして! ……」  この時早瀬の懐中から、銭形模様の艶のある紐が、五寸あまり延びて出た。彼女の懐中にいた蝮であった。  膝の上へ嬰児が抱え上げられ、懐中が外側から圧せられたので、苦しくなって出て来たものらしい。  怒った鋭い輝く眼で、嬰児の顔を睨みながら、どこを噛もうかというように、鎌首をユラユラと左右へ振った。  嬰児は恐怖を知らなかった。  珍らしそうに蝮を見詰め、その鎌首を掴もうとして、両手を延ばして揺れる後を追った。  早瀬は垂れ布の内側で、眼をとじ物思いにふけっていた。  そういう人々をこなたに置き、間に馬酔木の叢を置き、その馬酔木の向こう側を、血のついた竹の杖をつき、襤褸を着た痩せた乞食のような盲人が、肩を落とし首を垂れ、憔悴しきった足どりで、おぼつかなさそうに夏草を分け、谷川の方へ歩いていた。  土岐蔵人頼春であった。  対岸には墨のような異様な煙りを、しきりに吐いている洞窟があった。  そうして谷川の岩の上では、裸体の浮藻が髪をしぼりながら、情熱の歌をうたっていた。そうして水中では幽霊女と、鶏娘とが水浴をつづけていた。 洞窟の中  谷川の対岸の洞窟の中は、暗さと煙りと悪臭とで、人など住めそうにも思われなかった。  でも人が住んでいた。  十数人の男や女が、のたうったり搦み合ったり、転げ廻ったりして住んでいた。  鬼火の姥の眷族なのである。  洞窟は意外に広く高く、そうして奥は深いようであった。  どこまでもつづいているようであった。  ずっと向こうに数枚の荒筵が、つなぎ合わされて垂らしてあった。  その隙間から墨のような煙りが、束となって蜓って吹き出して来て、こっちの部屋に押しひろがり木の葉や枝に蔽われているが、しかし、さすがに昼の光によって、明るく窓のように見えているところの、洞の口から流れ出して行った。  これはいったいどうしたことか? 数匹の犬や、猫や、兎や、狐や、猯が四足をしばられ、地面にころがされているではないか。  荒筵の遥かの奥の方から、祈祷の声が絶えず聞こえ、鈴を振る音が合間合間に聞こえた。  人の呻き声や叫び声、犬の吠え声や狐の啼き声で、こっちの部屋は喧騒していたが、その喧騒を貫いて、鬼火の姥の上げる祈祷の声と、鬼火の姥の振る鈴の音とが、そんなように聞こえて来ることは、かなり怪奇で物恐ろしかった。  しかし十数人の男や女が、のたうったり転げ廻ったり、搦み合ったりして狂っているのは、決して闘っているのではなかった。  煙りに苦しみ、悪臭にもがき、二十日以上に渡る蟄居生活に、すっかり心身衰弱し、衰弱の余りの兇暴的発作、──それの現われに過ぎないのであった。  はだかった女の胸の上に、男の毛脛がのっかって、巨大な乳房をもみくちゃにしていたが、女は感付いていないようであり、男のムキ出された腹の上へ、女の手がのびて蠢めいていたが、男は一向気がつかず、白痴のように口を開け、ちっとでも清潔の空気があったら、吸ってやろうとでも云いたげに、ハーハー呼吸をついていた。  と、不意に荒筵の奥から、男の怒鳴る声がした。 「贄持って来オ──ッ、贄持って来オ──ッ」  金地院範覚の声であった。 「オ──」  と、こっちから一人が答え、屠者らしい男が立ち上がった。  それから、ヒョロヒョロした歩き方で、一匹の犬の側へ行ったが、やにわに頸がみを掴まえると、荒筵の方へ引きずって行った。  自分の運命を知ったと見え、犬は行くまいとして縛られている四足をしばられたままで、顫わせて、哀願するように悲鳴したが、噛みつく元気はなくなっていた。  筵の向こうへ犬を抛り込み、 「範覚殿、贄あげました」  云いすてると、その男は引っかえして来て、そこに寝ていた娘の横へ、へたばるように坐り込んだ。  すると、娘は憐れっぽく云った。 「可哀そうに、あの犬も殺されるのね。……心の臓をえぐられるか、肝の臓をくりぬかれるかして」 「そうさ、可哀そうに、贄だからなあ」  煙りが勢いを加えて来た。  臭気も勾いを強めて来た。  と、また範覚の声が聞こえた。 「贄持って来オ──、贄が足りねえ──ッ」 「オ──」  と、こっちからまた一人が云った、坊主あがりらしい円い頭の男が、ノッとばかりに立ち上がると、一匹の狐をひきずりながら、荒筵の前まで行き、狐を向こうの部屋へ投げた。  煙りの量が多くなり、臭気がひときわ濃くなった。  祈祷の声はなおも続き、振鈴の音もつづいて聞こえた。  と、不意に荒筵が、向こう側からかかげられ、金剛杖に身を縋らせた、金地院範覚がよろめき出た。 「たまらん、参った、オレ参った!」  そう云う声も息絶え絶えであった。 「鳴らんのだ、釜が、贄釜がよ! ……姥のご機嫌、それで斜めさ! ……姥のご機嫌もご機嫌だが、こっちのご機嫌だってナナメだあね。……同情してくれ、つもってもみてくれ! ……前七日、中七日、後七日で二十一日よ! ……今日が二十一日だ! ……二十一日のその間中、姥の調伏祈祷に殉じて、一切生物を断っていたばかりか、この洞窟から日の光の中へよ、一足も出ること出来なかったんだからなあ。……そこで肉バナレ女バナレさ。あれ、こん畜生、なんてえザマだ!」  突然範覚は金剛杖を振りあげ、屠者の肩の辺りをくらわせた。 「ナ、なんでえ、ソ、その態は! ……×を抱いてころがっていやがる! ……それで済むかよ! ……手前達も姥の祈祷に殉じ、この洞窟へこもった以上、生物断つなア当然だ! ……そいつを何んだ、そのザマは! ……アレいけねえあっちにもいやがる! ……×ッ子の首っ玉アひっ抱え、グーグー眠っていやがる! ……起きろ、外道め、起きろ起きろ! ……俺らの身にもなってくれ、人一倍その方は強い俺らだ! ……それがよ二十一日の間、オアズケ食っていたんじゃあねえか! ……オレ恐れるオレ心配だ。こんな時に、キレイな娘でも見てみろ、フラフラとなってボーッとなって、死にゃアしねえかと心配なんだ! ……」  喚きながら範覚は、あっちへヨロヨロ、こっちへフラフラよろめき歩き、出口の方へ歩いて行った。 「そりゃア姥も気の毒なものさ、宮方の調伏に対抗してよ、武家方の調伏を引きうけて、肉だち塩だち男だちして、二十一日の荒修行! ……そいつが効験あらわれず、贄釜が音を上げねえんだからなあ。今夜の丑の刻が勝負の別れ目さ、その時になっても効験なければ、犬や狐じゃア間に合わねえ。生き身の人間の男と女とを、贄釜の中へたたっ込まなけりゃアならねえ! ……ヤイヤイ汝ら用心しろ! ……悪くふざけると丑の刻に、贄釜の中へ叩っ込まれるぞ!」 「ヒーッ」  恐怖して叫ぶ女。 「俺イヤダ! かんにんしてくれ!」  と、今にも自分が贄釜の中へ、叩っ込まれて煮殺されるかのように、寝ていた所から飛び上がる男で、ひとしきり洞内は騒々しくなった。  範覚は出口の方へよろめいて行った。 「ここも煙い、ここも臭い! ……せめて呼吸でも、せいせいした呼吸でも!」  出口まで行った範覚は、そこで杭のように突っ立ってしまった。  洞の口を蔽うている杉や柏や、野茨や槇の葉や枝の隙から、崖下の谷川が眼の先に見え、そこに無邪気に水を浴びている、三人の女の鵠の鳥のような、皓々と白い全裸体を、金粉のように降り注いでいる、陽の光の中に見たからである。  範覚はまず唸り、つづいて顫え、さらに唸った。  水中にいる二人の女と、岩の上にいる一人の女とを、順々に範覚は眼で追った。  岩の上にこっちへ正面を向け、髪を絞りながら歌をうたっている女へ、とうとうその眼が食いついてしまった。 「おれもたん!」  と範覚は呻いた。  汗が胸から鳩尾の辺まで流れた。 「オレ死にそうだ! ……どうしたって死ぬ!」  彼の顫えはひどいものになった。 「眼が廻る! ……動悸がする! オレ死にそうだ、どうも変だ! ……血が頭に流れる! ……アッ、アッ、呕き気を催して来た」  金剛杖へ縋りつき、倒れまい倒れまいと努力しながら、なおも彼は女の姿を追った。 「オレ、ほんとうにせつないくらいだ! ……二十一日間断っていた俺だ! ……女をよ、断っていた俺だ! ……その俺にだ……あんまりひどいや! ……拷問だ──ッ、助けてくれ──ッ」  その時女は絞った髪をパ──ッと背後へ両手で払った。  黒い翼が背で羽搏き、女天使の白光体は、その瞬間にふくらむように見えた。  範覚の体は大きく揺れた。  口から泡が吹き出した。 「助けてくんな! ……タ、助けて!」  金剛杖がボタンと仆れ、つづいて範覚の大きな体が、洞の入り口へあおのけに倒れた。  気の毒に気絶したのであった。  この日もやがて夜となった。  晴れた夜空には天の河が、水銀のように流れていた。  同じ比叡山の裏山の、山の斜面に瘤のように、はみ出している丘の上に、沢山の樹木に囲まれながら、一宇のお館が建っていた。  万里小路中納言藤房卿が、数年前に建てた館で、山屋敷の一つであったが、この裏山が魑魅魍魎──流浪人や猟師や山賊や乞食、そういうものの巣窟となって美しい風景を穢し出して以来、すっかり見すてて手入れもせず、まして住もうともしなかった館で、狐狸など住んでいないだろうかと、そんなにまでも案じられるほどに、それは荒れはてているのであった。  でも今夜はどうしたことか、そこに燈の光がともっていた。  廻廊ごしに山の景色の見える、古びてはいるが高雅な部屋に、几帳を横にし経机に倚り、短檠の光幽かな中で、飛天夜叉の桂子が、観音経を書写していた。  廻廊のあなた前庭の一所、楓の老木の根もとにあたって、雪白の物がかしこまっていた。五尺にもあまる白猩々であった。  それも桂子には気にかかっていたが、遥か向こうの山の中腹に、木の間がくれに一点の火の光が動かずにともっていることが、いっそう桂子には気にかかっていた。 写経の桂子 (あれは無人の猪小屋の筈だが)  そう、火の光の見えている、山の中腹のその一所には、昨日まで一人の住人のなかった、ほとんど壊れた猪小屋が──猟師が鳥獣を待ち射つため、荒々しく作った三間ばかりの小屋が、寂しく立っていた筈であった。  それだのに今夜は火がともっている。 (変だねえ)  と桂子は思った。 (では猟師が入りこんだのかしら?)  そう思えば何んでもなかったが、何んでもなくない証拠には桂子の心が、その火にともすれば乱されることであった。  桂子は写経の手を止めて、しばらくその火を眺めたが、やがてその眼を猩々へ移した。  猩々は木もれの月光を受けて、雪の塊りでもあるかのように、黒い地面に浮き出ていたが、桂子の視線が向けられたと知るや、恭しく辞儀をした。 「卯ノ丸や、ここへおいで、ちょっとわたしのそばへおいで」  桂子はそう云って声をかけた。  彼女はそれが雪白であって卯の花のように見えるところから、卯ノ丸という名をつけて、長い間手もとに飼って置いたが、数年前に伏見街道横の、司馬の大藪地で他の獣と一緒に、放してやった猩々だということを、その猩々がそんなように、館の庭へあらわれた時から、その形によって感づいていた。  二十一日前に桂子は、写経の行を営むべく、この古館へ来たのであった。 「卯ノ丸や、どうしたのだえ、どうして側へ来ないのだえ」  また桂子は声をかけた。  と、また猩々は辞儀をしたが、そばへ来ようとはしなかった。  いや側へやって来ないばかりか、片手をあげると山の一方を指し、桂子をかえって誘うかのように、二度も三度も辞儀をして見せた。 「わたしを連れ出そうとするのかえ、でも幾度も云うとおり、わたしは今は行けないのだよ、お経を写さなければならないのだからねえ。……でももうそれも今夜かぎりさ。今夜で済んでしまうのだよ。……明日になったら行ってあげよう。……ね、お前の連れて行くところへ」  また猩々は辞儀をした。  そうしていつまでも同じところに坐り、なつかしそうに桂子を見守った。  桂子は筆をはこばせて行った。  でもどうにも進まなかった。  二十一日目の今夜までに、写し終えるという念願のもとに、企てた写経の行だのに、半分もとげられてはいないのであった。  絶えず小次郎の俤が、脳裡を掠めるからである。  しかも何んという××を持った、妄想の小次郎であることか!  強力のある逞しい×で、自分を抱きすくめて××している………そういう姿が見えるのであった。  経机の上の小壺の中には、もう染料がなくなっていた。  桂子は左の袖を捲くった。  白くて滑らかで脂肪づいていて、まことに珠をのべたような、桂子の左の二の腕に、無数に切り傷がついていた。  血を絞った痕なのである。  桂子は右手に小刀を握ると、刃の先で左の腕を引いた。  血が柘榴の果実のように産まれ、次々に産まれて紅紐のようになった。  壺の中へしたたらせた。  彼女は写経をつづけて行った。  彼女の写経は血書きなのであった。  でも何んのために血書きなどという、荒々しい写経をするのであろう?  この頃宮方では朝権恢復、鎌倉幕府討滅の、再度の計を企てられ、その最初の手段として、この年早々に法勝寺の円観、小野の文観、南都の知教、浄土寺の忠円、教円などという、名だたる高僧知識をして、北条家調伏の修法をせしめた。  もっともこの企ては宮方の一人、吉田定房の密告によって、北条氏の知るところとなり、その首謀者と目されたところの、藤原俊基その人と共に、如上の僧侶たちは捕縛され、京から鎌倉へ護送されたが、なお北条家では心休まらず、わけても両六波羅では不安にたえず、宮方が調伏で向かうなら、こっちも調伏で向かってやろうと、鬼火の姥にそれを命じた。  姥は勇んで引き受けた。  そうして比叡山の洞窟にこもって、その調伏にとりかかった。  と探り知った桂子は、 (ではわたしは観音経の血書き、これ一つで姥の調伏に向かい、その調伏を破ってやろう)  こう考えてこの館で、血書きの写経をやり出したのであった。  桂子は筆を運ばせて行き、それを見つめながら白猩々は、なお立ち去らずにかしこまっていた。  桂子は苦しそうに溜息をした。  小次郎の凛々しい俤と、それに関する妄想とが、払っても払っても脳裡に去来し、彼女の煩悩をそそるからであった。 (いっそ小次郎をここへ呼ぼうか)  ふと桂子はこう思った。  血書き写経のさまたげになると、そう思ったのでこの館へ、小次郎の来ることをかたくとどめ、二条の館へ止どめて置いた。  で、この館には浮藻のほかに、幽霊女だの鶏娘だのの、女の家来数人と、右衛門だの袈裟太郎だのの、男の家来五六人を、めしつれて来たばかりであった。  小次郎の姿を見なくなってから、二十一日経っていた。  そのためかえって彼女の心に、妄想が起こるように思われた。 (そうだ、小次郎を呼ぶことにしよう)  小次郎が側にいて何くれとなく話し、起居動作してくれたら、かえって心が慰められ、写経も進むように思われた。  桂子は側の鈴を振った。  鶏娘が襖をあけた。 「袈裟太郎を呼んでおくれ」  鶏娘が顔を引っこませ、代わって風見の袈裟太郎が来た。 「袈裟太郎や」  と桂子は云った。 「お前の早い歩き方で、京の二条の館へ行き、小次郎にすぐにここへ来るように、そう伝言しておくれ」 「かしこまりましてございます」  袈裟太郎は引っこんだ。  一日五十里は走るという、その袈裟太郎の風のような姿が、夜の比叡山の裏山の木の間を、やがて京の方へ走って行くのが見られた。  桂子は筆を運ばせて行った。 高殿の欄干には姫が一人 湖水の小船には武士が一人  と、不意に歌声が聞こえて来た。  浮藻の歌っている歌声であった。ムラムラと桂子の胸の中へ、嫉妬と憎悪との思いが湧いた。 (小次郎がここへ来ることを知って、浮藻め心をソワツカせ出したわ!)  こう思ったからである。  浮藻が小次郎を恋していることは、数年前からのことであった。小次郎の方でも浮藻を愛し、恋していることも数年前からで、桂子は自分が小次郎に対し、恋の想いをかけなかった頃には、むしろ二人のあどけない恋の保護者であり、誘導者でさえあったが、自分が小次郎を焼きつくばかりに、恋するようになってからは、浮藻と小次郎との恋仲が、嫉ましいものの代表となった。 (浮藻さえなくば! 浮藻さえなくば!)  こんな恐ろしい考えをさえ、浮藻に対して持つことさえあった。 (浮藻さえこの世にいなかったら、小次郎の心はひたむきに、わたしに向かってくるだろうに!)  とはいえ桂子はさすがにこれまでは、抑えに抑え、隠しに隠し、この感情を浮藻に対し、露骨にあらわしはしなかった。  ただそれとなく監視して、二人を一緒に置かないよう、二人を二人だけで話させないよう、掣肘するだけに止どめておいた。  そうして彼女は小次郎に対しても、これまで一度も自分の恋心を、うちあけて語りもしなかった。  これもひたすら抑えに抑え、隠しに隠していたのであった。 見交わす瞳は恋の焔 来ませ来ませと呼び合う声  また歌声が聞こえて来た。 「おのれ!」  と桂子は筆を捨てて立った。 (見交わす瞳は恋の焔! おおおお、おのれらの瞳ではないか! ……来ませ来ませと呼び合う声! ……おのれこの姉にあてつける気か!)  身を顫わせ歯を噛んだ。  丈なす髪が搖れて乱れ、蓬のように顔へかかった。  その顔の蒼さ物凄さ!  短檠の火が裾を照らし、床に引いている長い部分や、腰のあたりまでを玉虫色にしたが、肩のあたりは朦朧とぼけ、天井の闇に融けそうに見えた。  が、顔だけは夕顔の花か、芙蓉の花のように白く抽んで、それが歌声の聞こえて来る方へ──庭の方へ向けられた。  すさまじい姿に驚いたのであろう、猩々卯ノ丸は颯と立つと、傍らの楓の木へかけ上がった。  と、どうだろう、その時までは、いるとも見えず静まって、彼らの王なる卯ノ丸の動作を、凝視していた数百の猿猴が、八方の木々の枝葉の間で、嵐のように啼き出した。  彼らが揺するそのためでもあろう、木々は騒立ち軋り合い、にわかに山々谷々に、颪が吹くかと想われた。  が、卯ノ丸がまた静かに、楓の木の叉に蹲居して、桂子の様子を見守り出すと、猿猴の群れも啼き声をとどめ、木々の枝葉の間から、蛍火のような眼の光を、無数に点々と闇にともし、彼らの王を見守り出した。  その時、 「お姉様」  と呼びながら、館を巡って妹の浮藻が、浮き浮きと庭先へはいって来た。 「まだご写経でございますか」  ──桂子はツカツカと庭へ下りた。手にはいつかしら白磨きの、握り太の如意をひっさげていた。 あらそう姉妹 「浮藻!」  と、桂子は声をかけた。  何んとない姉の殺気立った様子と、鋭い声とに驚いて、浮藻は楓の根もとに佇み、返辞もしないで息を呑んだ。 「浮藻!」  と、桂子は憎さげに云った。 「そなた使命を果たしたかえ⁉」 「使命⁉」  と、浮藻は不思議そうに訊いた。 「お姉様、使命とは?」 「何んのために水浴に行くのだえ?」 「おいでとお姉様がおっしゃいますゆえ」 「で、使命を果たしたかえ?」 「…………」 「あの谷川の向こう岸に、何があるとお思いだ?」 「鬼火の姥の修法の洞が……」 「そうさ、修法の洞があるのさ、鬼火の姥の修法の洞が! そこには誰がいるのだろうね?」 「鬼火の姥や金地院範覚が……」 「そうとも金地院範覚がいるよ。姥にとっては無二の味方で、そうして情夫の範覚がねえ。……その範覚を迷わしたかえ?」 「…………」 「鬼火の姥が狂気じみた、男好きの女なら、金地院範覚は狂気じみた、女好きの男なのさ! ……その範覚を迷わしたかえ?」 「…………」 「あの二人が一緒に手を組んで、修法調伏を行なえばこそ、姥の調伏験を見せるのだよ」 「…………」 「姥の調伏を無為にしようと、こう思ったら姥の身辺から、範覚を放さなければならないのだよ……その範覚を迷わしたかえ?」 「それではお姉様は、そんなお心から……」  と、浮藻はなかば泣き声で云った。 「わたしを毎日あそこへやり……」 「そうとも!」  と、桂子は毒々しく云った。 「お前の綺麗な裸身を見せて、色情狂の範覚を迷わせてやろうと、もくろんだのさ!」 「お姉様!」  と、涙を流し、浮藻は腹立たしさと口惜しさの声で、 「姉妹の仲でありながら、そんなあさましい恥ずかしい所業に、わたしを妾を追いやるとは……」 「お黙り!」  と、桂子は裂帛のように叫んだ。  如意が高くかざされている。 「あさましいぐらい、恥ずかしいぐらい、血書き写経の荒修行に、たずさわっている妾に比べ、何が何が、何あろう! ……それとも綺麗な裸身は小次郎以外に見せたくないと、そう思ってのその言葉か!」 「お姉様……ア、あんまりな!」 「何を!」  一撃! 「ヒーッ」  と叫び、肩を打たれて浮藻は倒れ、地上を美しい蛾のように這った。 「淫婦よ! 多情者よ! 色餓鬼め! まだ処女の身でありながら、男の生肌恋しがり、あだ厭らしく小次郎を追い、ウカウカソワソワいたしおる! ……小次郎は姉の所有! 年月手がけて磨きあげ、あれまでの美玉に仕上げた宝! 何んのおのれに渡そうぞ! ……男欲しくば洞へ行け! ……行け!」  二撃! 「ヒーッ」  と悲鳴!  とたんに楓の叉からも、猩々卯ノ丸の悲鳴する声が、腸断つように聞こえて来た。  つづいて八方の木々の枝葉が、騒立ち群れ立ち軋り音をあげた。  卯ノ丸の眷族の猿猴たちが、王の真似をして騒ぎ出したのである。  逃げようともがく浮藻の裾を桂子は足で踏まえていた。  如意がまた高くかざされている。 「仏身より摩睺羅伽まで、三十三身に現じたまい、天人、人間、禽獣まで、解脱せしめたもう観世音菩薩の、観世音菩薩普門品を、血書きして今日で二十一日、写経は完成と思ったに、そのなかばにも達していない! 何故じゃ! そちがいるからよ! 色餓鬼の汝が側にいて、ソワソワ、ウカウカ邪魔するからじゃ! ……丑の刻が勝負の別れ目、この時刻までに写経終えねば、姥めに調伏されるであろう! ……立ち去れ、ここを! 行け、洞へ! 行って、範覚を迷わせろ! ……小次郎がおっつけここへ来る。お前がおってはわたしに邪魔! ……行け! 洞へ! 早う行け!」  三撃!  またも肩を打つ。  打たれて浮藻はうつ伏しに仆れ、爪で大地を引っ掻いたが、起き上がると腰を延ばし、桂子の腕へむしゃぶりついた。 「あさましいは姉上こそ!」  胴を抑えられた青大将が、鎌首を立て眼は血ばしらせ、相手を睨み睨んだように、浮藻は姉を睨み睨み、 「よう申されたな、とうとう本心を! ……姉上こそ邪淫の権化! 小次郎様を邪に恋し、四年も五年も思い詰めていた、このわたしから横取ろうとなさる! ……その姉上様どうかというに、男の肌には触れることのならぬ、女行者の身でござんす筈! ……行けと云う、妾に洞へ! ……それでご自分の血書き写経の、折伏の験を見ようと云われる! ……そればかりならば参りましょう! 姉上様の行のおためなら! ……厭じゃ厭じゃ何んのそればかりか! ……いいえ姉上のお心持ちは、わたしをそこへ追いやっておいて、おっつけそこへおいでなさる小次郎様をとらえ、煩悩とげるおつもりなのじゃ! ……むごいむごい姉上のお心! 行かぬ行かぬわたしは行かぬ!」 「何をほざくぞ、貪瞋癡女郎! ……三毒を備えた我執の塊り! ……この姉に楯つく気な! ……四年五年恋したという! 汝が小次郎に恋したという! それが何んじゃ、何んの手柄じゃ! ……その小次郎を連れて来たはこの身、その小次郎を四年、五年、養い育て磨いたもこの身! ……小次郎はこの姉のものじゃ! ……その小次郎を恋するという汝! 汝こそまことの横取り者よ! ……何を賢こがって汝が汝が、姉の身の上をあげつらい、男禁制の肌断ちのと、云わでものこと云いおるぞ! ……男禁制も肌断ちも承知の上でかかった恋、なんのとげいでおくものか! ……その後は凡婦に帰ろうとまま、堕地獄の苦に悩もうとまま! ……さあこう明かした上からは、肉親でもなければ姉妹でもない! 恋の敵情慾の仇! ……ええ贄なんどに追いやるより、いっそ手短かに命取ってやろうか! ……それより汝の愛嬌顔、潰して醜婦にしてやろうわ! ……如意くらえ!」  と浮藻の顔の、真ん中どころを狙い澄まし、風を切って力まかせに打とうとしたとたんに猩々卯ノ丸が、楓の叉から二人の間へ、白布のように舞い下りて来た。  そうして次の瞬間には、浮藻の体を軽々と抱いて、数間のあなたに飛んでいた。 「卯ノ丸!」  と桂子は怒声を飛ばせたが、事があまりにも意外だったので、早速には二の句がつげなかった。  その間に卯ノ丸は浮藻を地に置き、自分でも地上へひざまずき、両手を胸の辺で合掌し嘆願するように悲鳴した。 「おのれが! こやつ! 畜生の身で!」  赫怒が桂子へ返って来た。  如意を高々と振りかぶり、 「元の主人に刃向かう気か! ……打ち殺してくりょう! おのれ逃げるな!」  裾踏みしだきツカツカと進んだ。  と、遥かの峰の方から、あたかも颪が渡ったかのように、谷をうずめて群れ立っていた木々が、揺れ、靡き、騒立ち軋り、悲しそうに啼く猿猴の声が、腸断つように響き渡った。  と思う間もあらばこそであった。  四方の木々から庭を目がけ、飛礫のように十、二十、百、二百と無数の猿が、飛び下り馳け下り転び落ちて来た。  庭は猿で埋ずもれた。  桂子と卯ノ丸との間を距て、卯ノ丸と浮藻との間を充たし、一寸の隙も一分の空間も、この地上には見られなかった。  広い館の前庭は、毛皮を敷いたそれのようであった。  牡の猿、牝の猿、子を抱いた猿、老いたる猿──猿の数は千にも余るであろうか、ことごとく地にひざまずき、王なる卯ノ丸の真似をして、胸に両手を合せていた。  そうして桂子を見守った。  今は啼き声は聞かれなかった。  声のない生きた猿の毛皮は、しかし漣の打つように、絶えず起伏し動揺した。  王なる卯ノ丸の真似をして、桂子へ頭を下げるからである。  その中にあって雪のように白い猩々卯ノ丸の姿というものは、卯の花が円く叢をなして、そこに花咲いているようであった。  が、その背後に若い女の艶かしい装束がつかねられてあった!  そう、今は気も心も折れて、ただ悲しさに打ち勝たれて、地に冷たく額を押しあて、咽び泣いている浮藻の姿は、つかねられた装束さながらであった。  しかし浮藻の頭の横に、石像のように立つものがあった。  少し以前から物の蔭に佇み、あさましく凄じい姉妹二人の、恋の争いを見聞きしていたが、出場を失って出かねていたところの、大蔵ヶ谷右衛門がこの時出て、浮藻の傍に立った姿──その姿に他ならなかった。  大鉞を地について、その柄の石突きに両手を乗せ、その手の甲へ頤をのせ、黙然として動かなかった。  が心では考えていた。 (これもみんな小次郎のためだ!)と。  そうして窃かに決心していた。 (今こそ鉞へ血を吸わせてやろう)と。 (彼さえなくば主人ご姉妹に、みにくい争いは起こるまい!) (小次郎は俺が殺す!)  ──この時桂子の右の手から、如意が足もとへ力なく落ちた。 (あさましさよ!)  と彼女は思った。 (救いはないか⁉ 救いはないか⁉)  浮藻の泣き声が高くなった。 (おおおお妹にも救いはない!)  暗い谷を越した山の中腹の、猪小屋にともされた燈の光は、この時もなお見えていた。 猪小屋の内外  猪小屋の中から子守唄の声が、ほそぼそとして聞こえて来た。 泣きそ、な泣きそ、和子よ和子よ、泣けばお山で猿も啼く。  小屋の中には早瀬がいた。  膝の上へ嬰児をのせ、それを揺すりながら歌っていた。  部屋の片隅にともっているのは、早瀬のこしらえた松明であった。  垂れ布の内側で眼をとじて、早瀬は草原に坐ったまま、物思いにふけっている。  眼をあけて見ると何んたる危険、蝮が嬰児に食い付こうとしている。  あわてて蝮の頭を撫で、 「このイタズラモノ何をするのだよ、赤ちゃんを虐めてはいけないよ。……さあさあおとなしく巣でお休み」  と云った。  すると蝮は懐中の中へ、すぐに体を引っ込ませた。  そこで早瀬は立ち上がり、殺されている嬰児の母親へ、別れを告げて歩き出した。  そうして的なしに歩いているうちに、夕暮れとなり夜となった。  そのうち道に迷ってしまった。  でもこの小屋へ辿りついた。  窓から射している月光で見れば、猟師が置いて行ったのであろう、獣油のはいっている壺などがあった。  で、彼女は松葉や枯れ草で、急ごしらえに松明をこしらえ、獣油にひたして火を点じた。燧石なども壺の脇に置いてあったので。  その松明の光に照らされ、切ってある炉の脇に坐りながら、乳がないので腹がすいて、泣き立てる嬰児を搖すりながら、彼女はうたっているのであった。  全山を圧して猿の声が、気味わるく聞こえて来る。 泣きそ、な泣きそ、和子よ和子よ、泣けばお山で猿も啼く。  でも嬰児は泣きやまなかった。 (どこかでお乳を貰わなければ)  窓から見れば谷を越した向こうに、どうやら家があるらしく、燈火の光が明るく見えた。 (あそこへ行ってお乳いただこう)  そう彼女は決心した。  彼女はやおら立ち上がった。  こんな厄介な泣く嬰児などを、あんなことから手に入れて、迷惑を感じているべきだのに、彼女は全く反対であった。  幸福を感じているのであった。 (わたしの子よ、わたしの子よ)  こんなように感じて幸福なのであった。  これまでの彼女の子供といえば、泣きもしなければ笑いもしない、生きた紐のような蝮ばかりであった。  それでも彼女はその蝮が、おとなしく懐中にトグロを巻いていたり、時々顔を出して自分を眺めたり、焔のような舌を吐くのを見ては、可愛いものに思われてならなかった。  それだのに今はどうだろう、こんなにも熱心に一生懸命に泣いたり、そうしていずれ腹がくちたら、とても可愛らしく笑ってくれるであろうところの、ホンモノの人間の嬰児が、自分のものになったのであった。  可愛く思われてならなかった。 (燈火をつけたままで行こうかしら、それとも消して行こうかしら?)  と、早瀬は立ったままで考えた。  丸太と板とで出来ていて、天井の低い小屋の床には、猟師の食べのこした獣の肉の、干からびたのが捨ててあったり、頭葢骨や肋骨がとり散らされてあり、そこへ細長い早瀬の影法師が、焔の加減で顫えながら、延びちぢみして映っていた。 (帰って来る時の栞になる。燈火は消さずにつけたままで行こう)  で、早瀬は小屋を出た。  窓から射し出た松明の光で、小屋の外は少し明るかったが、その光の輪から出ると、嬰児を抱いた早瀬の姿は、夜の暗さに消されてしまった。  でも、木立の枝葉をもれて、星と月との空の光が、紫陽花色に降って来たので、その圏内へはいった時だけは、顔に白布をのっぺら坊のように垂らした、女怪のような早瀬の姿が、森の魔のように隠見して見えた。 (この嬰児のお母様の敵を、わたしどうあろうと取ってやらなければ!)  そう早瀬は考えていた。 (竹の杖をついた盲目の、『裏切り者』と宣る殺人鬼に、どうともしてわたしは巡りあいたい。そうして蝮を食いつかせ、早くあの世へ追ってやりたい。そうしてあの世でこの嬰児の親に、お詫びの言葉を云わせたい)  こんなことを考えていた。  また嬰児が泣き出した。 「おおよしよし、おおよしよし」  早瀬は嬰児をゆすりながら、谷を越えたあなたに幽かに見える、家の燈火を目あてとし、山の斜面を木立を分け、足の下に浅い谷を持ち、危険を犯して辿って行った。  で、彼女の立ち去った後の、猪小屋の中には人気もなく、ただ松明がパチパチと燃え、二つある窓のうちの一つの窓から、戸外の楓の木が枝を差し入れ、虫のために紅く色づいている葉を、いっそう紅く血のような色に、その焔は照らしていた。  でもすぐにこの猪小屋へ、気味の悪い訪問者があらわれた。  まず戸口から青竹の杖が、一本スッと突き出され、つづいて血飛沫の斑点をつけた裾と、土にまみれた足もとがはいって来た。  やがて全身をあらわした。  盲目の土岐頼春であった。 「嬰児の泣き声が聞こえたようだったが」  口の中で呟いた。 「でもここは無人らしい」  どうやら感覚でわかるようであった。 「暖たかい。……火があると見える」  松明の方へ寄って行った。  あやうく囲炉裡へ踏み込もうとした。 「あぶない」  と呟いて立ち止まった。  陽焼けした顔色はセピアのようであり、頬は落ちくぼんで剃いだようであった。盲目の眼は瞼で蔽われ、黒い隈が暈のように輪どっていた。これが頼春の顔であった。昔の俤などどこにもなかった。  肩は落ち胸はくぼみ、背は曲がり腰はくくれ、全身枝のように痩せていた。昔の俤などどこにもなかった。これが頼春の姿であった。 (今日も人二人殺したっけ)  それを頼春は考え出した。 (一人はどうやら女らしかった) (女を殺したのは今日がはじめてだ)  彼は持っている竹の杖を、一尺ばかり持ち上げた。  それでグッと突く真似をした。  床にあたって音を立てた。 (柔らかく、ねばっこく、暖たかくさえ、杖の先から腕を通し、全身にまでも感じられたっけ! ……悲鳴! ……そいつさえ男ののと異って、グ──ッと胸へ響いたっけ!) (女を殺したのははじめてだ!)  何かしら血を湧かせ、何かしら心を踊らせ、何かしらゾクゾクさせるものを、女性殺戮から彼は感じられた。 「悪くなかった」  と呟いた。  流浪の旅へ出て数年になる。  その間彼は一度として、女に接したことはなかった。  それを今日女を殺したことによって、間接ながらも接したのであった。  そう! 女の肉体に! 「悪くはなかった」  と呟いた。  〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔の旅へ、浄罪の旅へ、出て来た頼春ではなかったか。  それだのにどうしてこのようなものに──殺人鬼などになったのであろう?  最初は決してそうではなかった。  神の界に属しまつる御一方より、許すとのお言葉承わるまでは、決して死ねない彼の行く手を、遮る者のあった時、彼は用捨なく殺したのであった。  が、そうして次から次と、人を殺しているうちに、「人を殺すというそのことだけに」興味を感ずるようになってしまった。  断末魔のもがき、末期の悲鳴、それが身心に感じられたとたん、鬱結していた血汐が下がり、圧迫されている心持ちが、一時に緩んで生き生きとなった。  この快味、この愉悦が、彼を殺人鬼にしたのであった。  それでいてもちろん心の奥では、神の界に属しまつる御一方にお逢いし、許すとのお言葉承わって、裏切り者の悶え心を、解放させたいと思っていた。  お許しを乾くように望みながら、実際においてはいよいよ許されぬ、悪虐の殺人を行なって、彼は旅をしていたのであった。  その間も彼は絶える暇なく「許すとのお言葉をくだされる、神の界に属しまつる御一方」とは、いかなる御方で在しますぞや、それを求めそれを探した。  と、諸国の武士の口から、このような噂を聞くようになった。 「今上第一の御皇子にましまし、梨本御門跡とならせたまい、つづいて比叡山延暦寺の、天台座主に座らせられたまいし、尊雲法親王様におかせられては、二度目の座主をお罷めあそばされ、叡山の大塔にご起居ましまし、もっぱら武事を御練磨あそばされ、叡山大衆三千の心を、収攬せられおられますそうな」 「宮方ふたたび武家討伐、朝権恢復の御企てを、密々に行ないおらるるそうじゃが、その総帥こそ大塔宮様そうな」 「主上のご寵愛ご信任厚く、万事ご相談のお相手そうな」  それはこういうお噂なのであった。 (ああ梨本御門跡様!)  頼春は忽然数年前に、日野資朝卿の別館の夜の後苑でその御方の、御姿と御声とに接しまつった事を、まざまざと脳裡に映し出した。 「あの御方じゃ! あの御方じゃ!」  と、声を出して頼春は叫んだ。 「裏切り者のこの俺に、許すとのお言葉くださる御方は!」  彼は京の地へ引っ返して来た。  そうしてその御方にお縋りしようため、比叡山へ分け登った。  といつか道に迷い、この裏山に踏み入ってしまった。  そうして人二人を殺したのであった。  罪悪の塊り、矛盾の子、饑え乾くごとく救いを求める者──天国に入るか地獄へ堕ちるか、分れ目の煉獄の業火に焼かれて、悶え苦しんでいる頼春は、猪小屋の中に佇んで、いま松明の光に照らされている。 「早瀬!」  と不意に呟いた。  女を殺したことによって、女の肉体を感得し、その連想が妻の早瀬へ、この時自然に延びたらしかった。 (憎い女! ……いとしい女! ……早瀬! ……妻よ! ……どうしているか⁉)  頬の上に光るものがあった。  瞽いた眼からの涙であった。  この頃、早瀬は山の斜面を、あやうく覚束なく辿っていた。  と、行く手から足音が聞こえた。  早瀬はいそいで木蔭へかくれた。  その前を足早に歩いて行くのは、大鉞をひっさげた、大蔵ヶ谷右衛門であった。 (この鉞へ小次郎の血を、今夜こそたっぷりと吸わせてやろう)  こう堅く決心しながら、右衛門は歩いて行くのであった。 (風見の袈裟太郎に連れられて、小次郎めこの道を来るであろう。途中に要して真っ二つに!)  こう決心をして行くのであった。  彼は以前から小次郎に対して、いい感情は持っていなかった。  この頃になって浮藻ばかりか、桂子までが小次郎を恋し、そのため妹と争いさえし、今夜に至っては、あのありさまであった。 (小次郎が生きておればこそだ!)  で、殺そうとするのであった。  彼は朴訥で忠誠で、桂子と浮藻とのためであったら、何んでもやろうと思っていた。  桂子と浮藻とが彼にとっては、この世界の一切であった。  そんなにも大切なご主人姉妹が、小次郎を恋し合って争いをする!  これは堪えられないことであった。  以前には妹の浮藻ばかりが、小次郎を恋してつけ廻した。  それだけでも右衛門には苦々しく思われ、小次郎を白い眼で見たものであったが、現在は何んと桂子までが──飛天夜叉の総帥ともある桂子までが、小次郎を恋して狂態を演ずる! (殺さないでどうするものか!)  鉞の刃を月光に照らし、右衛門は小走り出した。  右衛門の姿の消えたのを見て、早瀬はそっと木蔭から出で、谷の向こう側の燈火を目あてにまたあぶなっかしく辿り出した。  泣きつかれた嬰児は死んだかのように、早瀬の腕の中で眠り出した。  早瀬自身も空腹であったが、この子の空腹を思いやっては、道を急がなければならなかった。 (あの燈火の見えるあそこのお家に、乳の出る人がいてくれればよいが)  このことが早瀬には重大問題であった。 (わたしも何かいただいて、少しでも腹をくちくしたいものだ)  彼女は道をいそぎ出した。  と、またも行く手から、人の歩いて来る足音がした。 (まあまあこんな山の奥の、こんな夜中に幾人となく、人が通るとはどうしたことか)  こう思いながら不安だったので、早瀬はまたも木立の蔭へかくれた。  現われたのは女であった。  そう、それは浮藻であった。  髪は乱れ、衣裳も乱れ、歩き方も乱れていた。  心も乱れているのであった。 (小次郎様がおいでになる。その小次郎様をわたしの手から、お姉様は取り上げようとなさる。……小次郎様にお逢いして、わたしの心をうちあけて、小次郎様のお心を聞いて、……死ぬとも、生きるとも、他国へ走るとも! ……何を置いても小次郎様へ、お姉様より先に逢わなければ! ……)  で、脱け出して来たのであった。  風見の袈裟太郎につれられて、やって来る小次郎を途中に要して、逢おうと思う一心から、館を脱け出して来たのであった。  と、その前へ木蔭から、異様の女が走り出して来た。 「お乳がおありでございましょうか⁉」  異様の女はそう云った。 「あッ……まあ……お前様は⁉」  浮藻は足を止どめ顫えながら、妖怪のっぺら坊さながらに、そうして姑獲鳥さながらに、顔の代わりに白布のある女、そうして両手に嬰児を抱いた女を恐怖をもって凝視した。 「怪しいものではございません。道に迷って山へはいった。子持ちの女乞食でございます」  と、早瀬はおずおずと弁解した。 「この子が可哀そうでございます。……おなかを空かせておりまする。……わたしには乳がございません。……あなた様にお乳はございますまいか」 「いいえ、わたしは……」  と、浮藻は云った。 「まだ娘でございますので。……乳など何んで……何んで出ましょう」 「…………」  早瀬は恥じて辞儀をした。  昼間はほとんど絶対的に、垂れ布をかかげない彼女ではあったが、夜は彼女の世界だったので──というのはいつも垂れ布のこなたで、薄暗く住んでいるがためで、そういう彼女の生きている世界は夜の世界といってよかろう。──だからまして本当の夜になると、彼女は大胆に垂れ布をかかげて、人をも物象をも見るのであった。そこでこの時も垂れ布をかかげて、やって来た人の姿を見た。と、若い女であった。そこで前後を忘れてしまい、可哀そうな嬰児に乳を飲ませてやりたい、その一心から走り出で、乳はあるまいかと訊いたのであったが、まだ娘だから乳は出ないと云われ、自分の行動のあわただしかったことが、にわかに恥しく思われたのであった。  彼女は、しばらく黙っていた。  浮藻はちょっとばかり躊躇したが、一刻も早く小次郎に逢いたい、この要求があったので、由緒ありげでもあり悲惨でもある、女乞食の身について、一応たずねたくは思ったものの、そうして親切な言葉などもかけて、そうして谷の向こうに見える、燈火のついている館こそ、自分達の住居であって、そこへさえ行ったら乳こそはないが、嬰児のたべられる食物も、お前さんの食べられる食物もあるから、おいでなさいよと云いたかったが、心の余裕がなかったので、思い詰めている男の名を、 「小次郎様! 小次郎様!」  と、思わず口に出して高く云い、よろめきながら、走るような足で、早瀬を見すてて歩いて行った。 「小次郎様? 小次郎様とは?」  歩いて行く浮藻を見送りながら、いぶかしそうに早瀬は呟いた。  良人頼春のまた従兄弟に、小次郎という若者があって、自分たちと一緒に三条堀川の館に、大変親しく住んでいたが、土岐、多治見攻めの起こった夜、館を明けて留守にした。そうしてそれっきり帰って来なかった。  その小次郎のことが、今の娘の言葉から、早瀬の記憶に甦えったからであった。 (あの小次郎様のことではあるまいか?)  ふと早瀬はそう思った。 (まさか)  と、しかしうち消した。 (小次郎という名を持った人間など、世間には沢山ある筈だ) (人違いよ)  と、そう思った。 (火影の見えるお家へ行って、お乳なり食物なりいただこう)  で、早瀬は歩き出した。  でも、その足はだんだん鈍った。 (よしんば人違いであろうとも、良人頼春のまた従兄弟にあたる、小次郎の名を呼んだからにはあの娘ごに追いついて、その小次郎様のどういう人かを、お訊ねするのが本当のような気がする。……あの娘ごの云われた小次郎様が、わたしたちの小次郎様と同じ人なら、この小次郎様に逢わせて戴き、良人頼春のことをお訊きしたい。……また従兄弟同志の仲なのだから、良人の消息を知っているかもしれない)  で、彼女は振り返って見た。  娘の姿は見えなくなっていた。 (急いで後を追って行こう)  が、この時眠っていた嬰児が、眼をさまして泣き出した。 (お乳を早く飲ませなければ……) (どうしよう?)  と進退に迷った。  浮藻は猪小屋の前まで来た。 「咽喉が乾いた! 足が疲労れた! わたしは一足も歩けなくなった!」  燈火の明るい猪小屋を見ながら、そう浮藻は呟いた。  姉と争いをして以来、彼女は湯も水も飲まなかった。半狂乱の心持ちで、かなり嶮しい歩きにくい山の斜面を谷に添って、ずいぶん長い時間走って来た。  小次郎に逢いたさで夢中になっていた彼女は、咽喉の乾きも足の疲労も今までほとんど忘れていた。  が、人の住んでいるらしい、燈火の明るい猪小屋を見るや、にわかにそれが感じられた。白湯ぐらいはあそこにもあるだろう、藁布団ぐらいはあそこにもあるだろう。ほんの少しの間休んで行きたい。せめて白湯で咽喉をうるおしたい。  こうしきりに思われて来た。  浮藻は猪小屋の門まで行った。  戸など外れている猪小屋であった。  ただ部屋の隅に松明があって、それが焔をあげていて、獣の骨や獣の乾いた肉が、とり散らされてある生臭いような床や、丸太と板とで造ってある壁や、切ってある炉などを照らしていた。  でも人はいなかった。 「ご免ください」  と彼女は云った。 「白湯などいただかせてくださりませ」  云い云い彼女は部屋の中へはいった。  と、奥にも部屋があるらしく、そっちから人の気勢がした。 「もし、ごめんくださりませ」  云い云い浮藻はそっちへ進み、隣りの部屋と境いをなしている、なかば外れた戸の側まで行った。  竹の杖が突き出された。 「あッ」  クルクルと体を旋回し、脇腹を両手で抑えた浮藻は、やがて床の上へ仰向けに倒れた。  もう彼女は動かなかった。  しばらくの間は寂然としていた。  松明が灰を一握りよりも多量に、ボッタリと床の上へ落としたばかりであった。  が、やがて痩せた骨ばった、垢づいた腕が隣り部屋から宙を泳ぎながら差し出され、それが浮藻の足へかかった。  浮藻の体は床を辷って、隣り部屋へ引き込まれた。  後はふたたび寂然となった。  窓から部屋の中へ差し出されている楓の、血のように紅い病葉が、吹き込んで来た風に揺れたばかりであった。 「待て小次郎!」  と右衛門の声が、大楠の樹の蔭から響いたのは、風見の袈裟太郎と連れ立って、二条の桂子の館からこの比叡山の裏山の、谷に添った山路を走って来た、土岐小次郎の端麗な姿が、その大楠の樹のすぐの手前まで、馳けつけて来た瞬間であった。  ギョッとして小次郎は足を止めた。  と、その前へ大鉞を下げた大蔵ヶ谷右衛門の姿があらわれた。 「右衛門殿か、いかがなされた」  そう云った小次郎の声の冴え冴えとしていることは!  四辺を黒い壁のように囲み、空をさえ黒い雲のように蔽うて、この辺りは木立が茂っていた。  それだのに銀色の月の光が、漏斗形に上から降りかかり、小次郎の全身を照らしているのは、いったいどうしたというのだろう?  男性としての完璧の美! それを備えている小次郎を、闇へ封じて隠してしまうことが、天がどうにも惜しく思って、そこだけへ巨大な隙間を作り、月光を降らしたに相違ないと、そう思うより仕方なかった。  そんなにも小次郎は美しくなっていた。 小次郎と右衛門 「小次郎!」  と右衛門は鉞を振り上げ、小次郎へ身近く逼って行った。 「元から気に入らねえ汝だった! が、今ではもっと気に入らねえ! ……汝がこの世に生きている限り、ご主人桂子様ご姉妹に、争いの絶える間ねえと睨んだ! ……不愍ではあるが命取るぞオーッ」  真ッ二つ!  ふり下ろした鉞!  隕石が空から落ちたようであった。  が、小次郎の端麗な姿は、毫も彫刻的な形を崩さず、二間あまりのうしろに立っていた。 「解った!」  その声は銀のようであった。 「右衛門、お前の心持ちは、この小次郎にもわかっている! ……それは忠誠で、それは朴訥で、そうして一本気で、そうして純粋だ! ……みんなひどく立派なものだ! ……が一つだけ欠点がある、勝手すぎるということだ! ……美徳を沢山持っているのはいいが、その美徳を押し通して、他人に迷惑をかけるってこと、コレ少オし勝手すぎると思うよ。……それもいい加減のものならいいが、他人の命をとるというのだから、勝手さがちっとばかり大袈裟だよ。……そこで右衛門やわしは云うが、立派な心持ちはわかっているのだから、あんまり荒けなく出さないで、そっと何気なく仕舞っておいでとねえ」  何んと悠然とした態度であることか!  そうして何んとその云い方が、彼をそのように名玉に仕立てた、玉磨きの名匠桂子のそれと──その云い方と似ていることか!  小次郎は太刀さえ抜いていなかった。 「わっぱ! 二才! 何をおのれ──ッ」  嘲弄されたとでも感じたのであろう、右衛門は闘牛のような吼え声を上げ、また鉞をふりかぶると、業もなく思慮もなく、一文字に小次郎へ走りかかった。 「モ、問答、ム、無用オ──ッ! くたばれ──ッ、狡童!」  ガッ!  真ッ二つ!  これは成功しなかった。  小次郎は決してノロマでなく、その反対の敏捷であり、かつは一族の土岐頼兼や、同姓頼春の血を受けていて、剣技も無鉄砲の右衛門などとは、ダンチに勝れているのだから。  で、真ッ二つにされたのは小次郎ではなくて、小次郎の背後に、これは一向逃げも走りもしない、臼のような杉の切り株であった。  鉞の刃が切り株に食い込み、ちっとやそっとでは抜けなくなった。 「右衛門や、わしはここだ」  小次郎の声が背後から聞こえた。  やっとこさで鉞を切り株から抜いて、懲りずまにそいつをまたふりかぶり、 「おのれ──ッ」  と繰り返して刻み足して進んだ。  と、この時谷を目がけて、石のように転がって行くものがあった。  それは風見の袈裟太郎であった。  右衛門が小次郎を殺そうとしている。  殺される小次郎ではなさそうだが、うっちゃっておいてはかたがつくまい。桂子様にお知らせして、桂子様に仲裁していただき、双方にひっこみをつけてやろうと、こう考えて袈裟太郎は、その得意の速走りで、谷を突っ切り走り出したのであった。 (袈裟太郎きゃつ頭がいいわい)  袈裟太郎の真意を早くも察して、小次郎はそう思った。 (このひとのいい右衛門を、殺すことはさて置いて、怪我をさせても気の毒だ。といっていつまでもあんな塩梅に、鉞をブン廻しているうちには、自分の脛ぐらいたたっ切るだろう。……だからどうともして止めなけりゃアならない。……頑固爺の鉞の舞い、こいつをやめさせる人といえば、桂子様以外にはないのだからなあ)  右衛門が身近く逼っていた。  鉞が頭上で揺れている。  右衛門の呼吸づかいは苦しそうであった。  数年の間に右衛門は、眼に見えて年を取ったのである。  その上二十貫の大鉞を、二度がところ空振りさせられた。  気があせり呼吸がはずむのであった。  それに右衛門は気おくれしてもいた。  女たらしの柔弱者と、そう思っていた小次郎が、何んと素晴らしい武道の達人で、しかも大胆不敵であることか!  思い違い!  見損ない!  で、右衛門は気おくれしていた。  それだけに彼は自分自身に対して、おそろしく腹を立てていた。  小次郎に対する憎しみと、自分に対する怒りとで、彼はアガッテいるのであった。 「右衛門や」  と小次郎は云った。 「わしは皮肉を云うのではないが、一つ話をしようと思う」  いまだに小次郎は太刀も抜かず、手に持っていた小扇を、前に差しつけ構えていたが、訓すような声で穏かに云った。 「昔力持ちがあったそうだよ。力自慢の力持ちがねえ、薪ざっぽうを、両手に握って脛で折って見せると、こう見物に吹聴して、さて太い薪ざっぽうを、両手に握って脛へあて、グッと力をこめたそうだよ。ポキンと見事に折れたそうだよ。薪ざっぽうではなくて脛の方がねえ。……右衛門や、止めた方がいいよ、大鉞を揮うってこと。……あぶない!」  と小次郎は横へ飛んだ。  と、小次郎の元いた辺から、土と小石が四散した。 「右衛門や」  と小次郎は云った。 「わしは皮肉をいうのではないが、今の程度ならまだいいのさ、撲られても痛痒を感じない、石っころや土くれを撲ったんだからねえ。でもそんなこと繰り返していると、力自慢の力持ちのように、自分で自分の脛を折るよ。……おや!」  と小次郎は呆れたように、二、三歩うしろへ退ぞいた。  右衛門が鉞を地上へ投げ捨て、組んで取ろうと両手を拡げ、押っかぶさるように進んで来たからである。 (オレ降参だ)  と小次郎は思った。 (こんなオトッツァンに抱き縮められるのは厭さ。……これが可愛らしい浮藻だったらなあ) 「首捻じ切るぞオ──ッ」  と猛然と、右衛門は小次郎へ躍りかかった。  一閃! 「わッ」  見よ、小次郎は、はじめて抜いた長目の太刀を、延び延びと構えて前へ差しつけ、その先で右衛門が海老のようにノケゾリ、まさに倒れようとしているではないか。 「右衛門や」  と小次郎は云った。 「わしはちょっとでもお前の体へなんか、太刀をさわらせやアしないじゃアないか。びっくりするにはあたらないよ」  そう、小次郎はただ太刀を抜いて、抱きつかれまいとして防いだままであった。  が、太刀の抜き方が、鋭くて素早くて機先を制していたので、右衛門ほどの豪勇も驚き、海老のように体を曲げたのであった。 「ウ、ウ、ウ、ウ!」  と右衛門は唸った。  重ね重ねの自分の醜態に、恥じ怒り、悲しくさえなり、口が利けなくなったのである。  しかし次の瞬間には、鉞の方へ飛んで行っていた。  柄をひっ掴むとグ──ッと振り上げ、 「今度こそ遁がさぬ、乳臭児めが──ッ」  振り返って躍りかかった。 「や⁉」  これはどうしたんだ?  小次郎の姿が見えないではないか!  でも十数間のかなたにあたって、抜き身を肩にし、裾をつまみ上げ、小鹿のように軽快に、藪を巡ったり木立をくぐったりして、木洩れの月光の燻し銀の光を、斑紋として全身につけた、小次郎その人が走っていた。  ポカンと右衛門は突っ立ってしまった。  機先を制されたからである。 (いけねえ俺、年イ取った)  刹那右衛門はそう思った。 (若い奴には敵わねえ)  が、すぐ猛然と思い返した。 (負けねえ、追いつく! 追いついて殺す!)  で、猪のように追っかけた。  しかしどんなにヒイキ目に見ても、深林地帯のこの競走は、オトッツァンの方が負けるでしょうよ。  第一オトッツァンは年寄りだし、それにさんざんジラサレテ、くたくたに体をつからせている上に、持ち物というものがご自慢物ではあるが、二十貫の鉞というのであるから。  そこへいくと青年小次郎は、年が若くて気力は旺盛、ジラした方でジラされていない、持ち物といえば細味の太刀で。  まさに小次郎は悠々としていた。  チョイチョイ背後を振り返りながら、 (あんまり速く走るのも、トシヨリに対して考えものだ)  こんなことを思っていたわるように、時々歩みをゆるめたりした。 (オレ少し皮肉すぎたかな?)  言葉もやり方も右衛門に対して、皮肉すぎたように思われて来た。 (ひとのいいオトッツァンには相違ないんだからなあ)  ひどく気の毒になって来た。 (さりとてオレ、あのオトッツァンに、殺されてやるほどの義理はなし。……そこで自然とあんな言葉や、あんな行動に出たというものさ。自然だアね、自然だアね)  冷静な人間の眼から見ると、カンカンにあがっている人間の姿がどうにも阿呆らしいものに見え、つい皮肉が云いたくなったり、皮肉なイタズラがしたくなったりする。  利口な人間からバカヤローを見ると……やっぱり皮肉がやりたくなる。  右衛門に対してこの小次郎のやり口も、ここへ帰納出来そうであった。 (自然だアね、自然だアね)  マラソンは尚もつづいて行った。  桂子は長柄をかい込んで、袈裟太郎と一緒に館を出た。  猪小屋の暗い奥の部屋では、盲目の頼春の鉤のような指が、浮藻の胸をさぐっていた。 生死卍巴  指は浮藻の軟らかい胸を、下の方へ探って行った。  浮藻は気絶しているのである。  そうして盲目の頼春は、色情狂となっているのである。  昼間杖で女を突き殺した。  それから感じられた女の肉体!  その女の肉体を、その瞬間頼春は感じた。  猪小屋の奥の部屋に佇んで、捨てて出た妻の早瀬のことなどを、それからそれへと思い出していた。  そこへ女の声が聞こえた。  水を求める女の声が。……  で頼春はほとんど夢中で、杖で女を気絶させ、この部屋へ引き入れたのである。  ここにも窓は二つあった。  谷の方へ向いた窓の口は、蒼い紗布を四角に切って、そこへ張ったように蒼白く見えた。  月夜の戸外に向いているからである。  その月夜の蒼白い光は部屋の中にも忍び込んでいた。  坐っている頼春の膝の上に、大輪の白い花が咲いていた。  浮藻のあおむいた顔であった。  その上の方一尺ばかりのところに、盲目の顔が浮いていた。  恍惚とした顔であった。  惨忍と淫虐とを現わした、醜い恍惚とした顔であった。  この時猪小屋の入り口へ、早瀬の姿があらわれた。  嬰児を抱き、顔に布をかけた、産女のような姿であった。  道で逢った娘が小次郎の名を、口ばしりながら小走って行った。  そのことがどうにも早瀬にとっては、心にかかってならなかった。  泣き出した嬰児はまた眠った。 (この子に乳を飲ませるより先に、あの娘さんに追いついて、小次郎様の素性を聞き、良人頼春のまた従兄弟にあたる、小次郎様であるようなら、その小次郎様に逢わせていただき、良人の居場所を知らせていただこう。……わたしが家を出旅に出て、このような身の上になったのも、良人に逢おうためなのだから)  で娘の後を追った。  猪小屋の見える辺まで来た。  するとさっきの娘らしい女が、小屋へはいって行く姿が見えた。  そこでここへ来たのであった。  早瀬は小屋を覗いて見た。  松明は明るく燃えていたが、娘の姿は見えなかった。 (どうしたのだろう?)  と不思議に思って、早瀬はしばらく佇んでいた。  隣り部屋から人の気勢がした。 (まあ隣り部屋にいるのだよ)  早瀬は小屋の中へ一足はいった。  と、男の嗄れた声で、 「この軟肌! 処女の肌!」  と、呻くがように聞こえて来た。  早瀬は小屋から走り出た。 (男の声だ! どうしたのだろう?)  何か恐ろしい出来事が、隣り部屋で行なわれているらしい。──そんなように感じられた。  早瀬は小屋の横手へ廻った。  山の斜面に口を開けて、窓が一つ開いていた。  そこからそっと部屋の中を覗いた。  さっきの娘が死んだかのように、あおむけに床に仆れていた。  娘の後脳を膝の上にのせて、一人の男が坐っていた。  その横に竹の杖があった。  男が顔を上向けて呻いた。 「麻痺れるわい、身も心も!」  それは盲目の顔であった。  早瀬は思わず叫ぼうとした。  しかしようやく自分で堪えた。 (あの男だ!)  と、瞬間に思った。 (この嬰児の母親を殺した『裏切り者』と宣る男だ!) (どうしよう! どうしよう!)  その男は、またも一人の女を──娘を犠牲にしようとしている! (この子の母親の敵を討ち、あの娘の危難を救ってやりたい!) (どうしよう! どうしよう!)  夢中で腕へ力をこめた。  嬰児が腕の中で苦しそうに動いた。  ギョッとして手をゆるめた。 (泣き出されては大変だ!)  この時胸を押されたため、苦しくなったか懐中の蝮が、五寸ほど体を外へ出した。 (そうだ!)  と、早瀬は突嗟に考えた。 (『裏切り者』は武術の達人、わたしなどには討てそうもない。この蝮を部屋へ放してやり、毒のある歯で噛ませてやろう)  彼女は蝮の頭を撫で、念ずるように口の中で云った。 「子供よ、お前、お願いします! 部屋の中へはいって、あの男に噛みついておくれ!」  間もなく蜒る長い紐が、板壁を伝って、床へ下り、薄蒼く月光の射している中を、鎌首を立て尾を揺すり、頼春と浮藻との方へ泳いで行くのが見えた。  一人は気絶していて何も知らなかった。  もう一人は盲目であった。  蝮はやがて二人の周囲を、円くウネウネと廻り出した。  桂子は谷を横切っていた。  袈裟太郎がその前を走っていた。  桂子のかいこんでいる長柄の刃へ、雑草が触れて切れて散った。  袈裟太郎の注進で右衛門が、小次郎を殺そうとしていると聞き、桂子はどんなに驚いたことか! (だいそれた奴、不届き者、止めて聞かずば手討ちにしてくれよう!)  血書き写経も行もなかった。  夢中で飛び出して来たのである。  二人の走る谷の木々は、嵐も吹かないに騒立っている。  猿猴の群れが枝を伝い、谷を渡っているからである。  この頃、小次郎も走っていた。 (右衛門め随分つかれたろうよ)  で、すこし足をゆるめ、肩ごしに背後をふりかえって見た。  右衛門のひっさげている鉞が、大儀らしく重そうに、地上一尺を、前後に揺れているのが見えた。 (ムダだ)  と、小次郎は気の毒そうに思った。 (トシヨリに鉞、荷が勝っている。……数年前ならよかったろうよ。が、今では荷厄介で、ムダさ。……ちょうど右衛門の忠義立てのように!)  また小次郎は足を早めて走った。  行く手の木の間から燈の光が見えた。 (ははあ小屋だな、猪小屋だな)  猪小屋を取り巻いて猿猴の声が、嵐のように響いていた。  頼春はノッと腰をあげた。  左右の手を床へついた。  左の手の下に蝮がいた。  キリキリ!  腕へ捲きついた。 「わッ!」  この時、純白の物が、谷に向かって開いている窓へ、卯の花が叢をなして咲いたように……。 (蝮に噛まれた!)  と、頼春は感じた。  一揮!  蝮を振り落とし、頼春は隣り部屋へ狂い出た。  猩々卯ノ丸が窓から飛び下り、浮藻を両腕に抱き上げた。  小屋の前まで小次郎は来ていた。  と、小屋から手負い猪のように、一人の男が飛び出して来た。 「あぶない!」  ぶつかられるのを防ぐつもりで、  一揮!  小次郎は太刀を振った。 「わッ」 「しまった!」  独楽のように、左の腕を肘のあたりから、切り落とされた頼春は、キリキリキリキリぶん廻った。  が、すぐその姿は見えなくなった。  猪小屋の燈を目あてにして、馳け上がって来た桂子の横手を、丸太のように転がって行く、人間らしい物の姿が見えた。  足を踏み外して谷へ落ちて行く、土岐頼春の姿であった。  卯ノ丸が窓から地上へ飛んだ。 「化物!」  人を誤まって斬り、呆然としていた小次郎の眼へ、女を抱えた大猿の姿が、まこと化物さながらに見えた。 「おのれ!」  やにわに峰打ちにかけた。  悲鳴!  浮藻を思わず放し、卯ノ丸は木へ馳け上がった。 「助けて──ッ」  と気絶からさめ、浮藻は叫ぶと飛び上がり、夢中で林へかけ込んだ。 「やア! 浮藻! 浮藻だ浮藻だ!」  追おうとした小次郎の背後から、 「くたばれ──ッ」  と大鉞が! 「助けて──ッ」  と浮藻の声! 「浮藻だ浮藻だ! ……おのれ右衛門、また邪魔な所へ! 邪魔な所へ!」 「くたばれ──ッ」  と二度鉞が!  ひっ外して、 「浮藻殿オ──ッ」  追おうとする小次郎の行く手を遮り、仁王のように突っ立った右衛門、 「そいつがいけねえ、その浮藻殿オ──ッが! くたばれ!」  とふり上げた大鉞!  それをあたかも支えるかのように、この時長柄が突き出された。 「右衛門!」 「あッ、お姫様ア──ッ」  桂子が高く立っていた。 「助けて──ッ」  と遠退く声!  そっちを目がけて小次郎は走った。  転落して行きながら頼春は思った。 「流れるわ流れるわ毒血が! 流れるわ流れるわ悪血が! ……頭から胸から腕を通して! ……快味! なぜだ、この快味は⁉ ……人を斬った時の快味より、斬られた今のこの快味は! ……何故だ? 何故だ? 何故だ何故だ?」  落ちて行く躰を止めるものがあった。  三尺ばかりの石の祠であった。  勢いで右手が扉を破った。  指にふれる物がある。  引き出して夢中で傷口を抑えた。  一本の巻軸であった。  彼の左右、彼の頭上で、猿猴の群れが啼き叫んでいた。  見えていた浮藻が見えなくなった。  小次郎が四辺を見た。  洞窟の口がそこにあった。 「もしや?」  小次郎ははいって行った。  天井へまでもとどきそうな、巨大な釜がかかっていた。  それを載せている巨大な炉は、獅子のような口をあけていた。  そうしてその中で燃えている火は、血を含んででもいるように見え、そこから吹き出している墨のような煙りは、黒駒の靡かせる鬣のようであった。  釜の周囲には心臓や肝臓や、眼球や四足や耳やそういうものを切られたり刳られたりした、犬や狐や猯の死骸が、とりちらされたり積まれたりしてあった。  釜からは湯気が立ちのぼり、岩の天井にぶつかって、滴となって落ちて来た。  釜の中でグラグラ煮えているものは、その犬や狐の臓器であった。  釜のかなた、この部屋の奥から、四筋の燈明が射して来ていた。  その光と炉の焔とに、朦朧と照らされて見えているものは、畳み上げられた岩の上に、白木で造られた戒壇であった。  御幣、七五三縄、真榊の類が、そこでも焚かれているごまの煙りや、炉から吹き出している墨のような煙りや、湯気などに捲かれて見え隠れしている。  壇上に坐りこちらへ背を向けた、鬼火の姥の行衣姿が、物の怪のように見えていた。  読経の声と鈴の音とが、絶えずそこから聞こえて来た。  釜の側に二人の男がいた。  二人ながら姥の眷族で、二人ながら屠者であった。  手に持っている薄刃の庖丁は、獣の血と膏とでネチネチしていた。  腕も胸も顔までも、獣の血で赤黒く穢れていた。  二人ながらクタクタに疲労れていた。  煙りと火気と臭気と殺戮とで、疲労しきっているのであった。  どうしても贄釜が鳴らないという、その恐怖と責任とですっかり心を怯えさせていた。  恐怖と当惑と疲労との眼を、二人は時々洞窟の隅へ、助けを乞うように投げることがあった。  金地院範覚がいるからである。  気絶から蘇生した範覚は、頓に気抜けして、白痴のようになった。  姥の調伏を助けようともせず、贄釜の音をあげさせようと、指揮しようともしなかった。  洞窟の隅から暗いところへ洞壁を背にして坐り込み、金剛杖を膝にのせ、ボンヤリ乎としているのであった。 (さっきの女! ……裸体! ……ワ──ッ)  と、こんなことばかり考えているのであった。  鬼火の姥は気が気でなかった、  満願の時刻が逼って来るのに、贄釜が音を上げようともしない。 「受け入れられない」証拠だからである。  今、姥は壇上の人形を取った。  紙で刻んだ人形である。  ごまの煙りの中へ投げ込んだ。  煙りに包まれ、火気に揚げられ、人形は白い蛾のように、天井の方へ舞い上がった。  やがて贄釜の真上まで行った。  真ッ逆さまに落ちなければならない!  が、人形はヒラヒラ揺れて、横へ流れて床の上へ落ちた。  石の床は滴で濡れていた。  その滴に意気地なくぬれて、ベットリと床へ、へばりついてしまった。 「受け入れられない」証拠である。  桂子が同じこの裏山で、血書き写経の行をして、こっちの行と対抗していることは、鬼火の姥も知っていた。  その桂子の対抗によって、こっちの行が妨げられ、験を現わさないに相違ないことも、彼女はとうに感付いていた。  そのために一層焦心るのであった。  丑の刻がだんだん近寄って来る。 「範覚ウーッ」  と、不意に姥は吼えた。 「贄釜の中へ、贄を入れろオ──ッ」 「オ──ッ」  と、範覚は立ち上がった。  が、すぐにフラフラして、金剛杖へすがりついた。 「たちくらみッていうやつだな。……無理アねえ。眼だって眩むさ! ……裸体の女を見たんだからなあ!」  遥か向こうの下手の方に、荒莚のたれが見えていた。  そっちへ範覚はよろめいて行った。 「野郎どもオ──ッ」  と、声をかけた。 「ハダカの女を持って来オ──ッ……違った! いけねえ! そうじゃアなかった! 贄持って来オ──ッ、裸体の贄を! ……と、ドッコイまた違った! ハダカの贄は、自分ながら変だ! ……贄のハダカを持って来オ──ッ! ……はてなおかしいぞ、少し違うようだ! ……贄のハダカ? 贄のハダカ? ……変なものか! これでいい! ……ヤイヤイ野郎ども持って来オ──ッ、贄のハダカを持って来オ──ッ、贄のハダカを持って来オ──ッ」  すると、彼方から声が聞こえた。 「贄のハダカって何んでござんす?」 「範覚さん、そんな物アこっちにゃアねえ」 「黙れ範覚!」  と、範覚は怒鳴った。 「文句を云わずとヤイヤイ範覚、贄のハダカ持って来オ──ッ」  笑う声が向こうから聞こえ、 「範覚さんは、お前さんなんだよ」 「お前さんこそ範覚さんなんだよ」 「そうだ」  と、範覚は足踏みをした。 「俺こそ金地院範覚だ! ヤイヤイ範覚ハダカ持って来──ッ」 「範覚ウ──ッ」  と、姥が壇上から叫んだ。 「贄釜の中へ贄を入れろ──ッ」 「ちげえねえ!」  と、範覚は答え、 「贄釜の中へ贄を入れろ──ッ、……贄持って来オ──ッ、犬、狐、猯、猫、兎、贄のハダカを持って来オ──ッ」  ドッと笑う声が向こうでしたが、犬と狐とが莚の間から、こっちの部屋へ投げ込まれた。  二人の屠者はすぐに飛びかかり、四足をしばられた二匹の獣を、釜の傍へ引きずって来た。  獣は悲鳴し体をもがいた。  しかしすぐに動かなくなった。  二本の庖丁が獣の胸に、柄を上にして立っていた。  やがて臓腑が掴み出され、釜の中へ投げ込まれた。  釜の横に積まれてある薪の束が、つづいて炉の中へ投げ込まれた。  枯れ木、枯れ草、馬糞、牛糞、獣皮、獣骨、髪の毛などによって、出来あがっている燃料であった。  炭のような煙りが炉の口から吹き出し、湯気が釜からひときわ立った。  が、釜は鳴らなかった。  時がズンズン経って行く。  煙りと湯気とは束となって蜒り、莚の隙から出て行った。  が、それとは反対の方へも、煙りの束が出て行った。  そっちにも口はあるものと見えた。  突然姥が立ち上がり、壇から床へ下りる姿が、巨大な御幣さながらに見えた。 「駄目じゃア──ッ」  と、姥は吼え声を上げた。  釜のまわりを馳け巡りながら、つづけざまに姥は吼え立てた。 「贄が不足じゃ! 受けてくださらぬ! ……叩っ込め男を! 叩っ込め女を! ……人柱じゃ! 人間の贄じゃ! ……可哀そうだが人身御供じゃ! ……範覚ウ──ッ」  と、範覚の前へ立った。 「連れて来オ──ッ、贄を! 人間の贄を!」  この時女の叫び声が、どこからともなく聞こえて来た。 「助けて──ッ」という声であった。  垂れている荒莚の向こうの部屋から、聞こえて来る声とは思われなかった。  反対の方から来るようであった。  この部屋を充たしている煙りや湯気が、莚の垂れている方とは反対の方へ、やはり束をなして流れて行ったが、その方角から来たようであった。  そう、そっちにも通路があった。  いわば、この洞窟の間道なのであったが、その間道の暗黒の中を、無我夢中で走りながら、時々「助けてえ──」と叫びながら、今浮藻は走っていた。  気絶させられた!  蘇生した!  と、恐ろしい光景が、猪小屋の周囲に展開っていた。  恐怖が彼女の心を搏ち、ほとんど思慮を失った。 (逃げなければならない! 遁がれなければならない!)  で、いわゆる盲目滅法界に、浮藻はその場を遁がれたのであった。  と、行く手に洞の口があった。  で、そこへ飛び込んだのであった。  背後から小次郎が追って来たことも、彼女はまったく知らなかった。  暗い、細い、洞窟の道を、ただ彼女は先へ先へと走った。 「助けて──ッ、助けて──ッ」  突然浮藻は光にうたれた。 「あッ」  と、叫んで立ち止まった。  巨大な釜が湯気を吐いている。  燈明の灯がともっている。  炉が真紅に燃えている。  白衣の老婆と、山伏と、二人の賎民のような男とがいる。  悪臭! 煙り! 獣の死骸!  地獄だ! 絵で見た地獄の光景だ。 「助けて──ッ」  と、恐怖を新たにし、浮藻は叫んで、ガタガタ顫えた。  と、老婆が吼えるように叫んだ。 「お誂え通りの贄が来たわ! 取り抑えろ! 釜へ入れろ!」  賎民のような二人の男が、左右から浮藻へ飛びかかった。 「助けて──ッ」  と、浮藻はもがいた。  と、二人の賎民のような男が、もんどり打って地へ仆れ、その間に金剛杖が延びていた。 「昼間の女だ──ッ、裸体の裸体の! ……オレ覚えている水を浴びていた女だ──ッ」  範覚は驚きと喜びとで、躍り上がり躍り上がった。 「気絶させた女だ──ッ、俺をよ! 俺をよ! ……オレもう一度気絶するぞ──ッ、この女でよ! この女でよ! ……やらぬ誰にも、オレのものだ──ッ……釜へ! 何云う! 入れるものか──ッ……贄釜なんどへ、入れるものか──ッ……」 「範覚ウ──ッ……」  と、姥は御幣へ仕込んだ、戒刀を頭上へふりかぶり、 「女を渡せ、渡せ渡せ! 渡さねば汝、汝を雑えて贄にするぞ──ッ、贄釜に入れて!」 「へ、へ、姥駄目だ──ッ」  と、浮藻を捉え小脇にかい込み、金剛杖を片手で差しつけ、範覚は冷笑してまくし立てた。 「姥ごときに、この範覚、贄釜なんどに入れられようや! ……姥おさらばじゃ、こっちから暇出す! ……オレ亭主じゃ、この娘のよ! ……行こうぞ娘! 来オ来オ来オ──ッ」  ──が、疾風! そのとたんに、間道から人影が飛び込んで来た。 「小次郎様ア──ッ」 「浮藻殿オ──ッ」 「汝ア!」と姥が素早く認め、「その方は、おおおお、知っとる知っとる!」  姥は戒刀をダラリと下げ、眼を細くし首を延ばし、糸の切れたあやつりの傀儡のように、フラフラと前へ出た。 「一度は夜の京の町で、一度は司馬の大藪地で、見かけた美しいお侍さんだ! ……年たけていっそう綺麗になられた! ……執心じゃ、さわらせてくだされ! ……頬へ、額へ、可愛らしい口へ!」 「姥ア──ッ」  と嫉妬して範覚は吼えた。 「病気が出たか、荒淫無慚! ……やあやあ汝ら出て来い出て来い! ……この男を贄釜へ叩っ込め!」  莚をかかげて隣り部屋から、姥の眷族たちがこみ入って来た。  混乱!  悲鳴!  燈明が消えた! 「小次郎様ア──ッ」 「浮藻殿こっちへ!」 「やらねえ──ッ」  杖!  刀光!  音! 「手へ、胸へ、円々とした肩へ! ……さわらせてくだされ、執心じゃ!」 「ワッ」  小次郎に誰か斬られた。 「強いぞ!」 「用心!」 「凄い技術だ!」 「オレ、もう一度、オレもう一度! ……キ、気絶、気絶してえ──ッ」 「ギャッ」  小次郎に誰か斬られた!  戒壇のこわれる音! 「小次郎様ア──ッ」 「もう大丈夫! ……しっかり縋って! ……もう大丈夫!」 「やらねえ──ッ」  杖!  払った刀光!  荒莚が千切れた!  誰か馳け行く! 「逃げた──ッ」 「追え──ッ」  足音!  足音!  丑の刻の鐘の鳴った時、桂子は写経を引き裂いて捨てた。 「右衛門!」  と桂子は突っ立ち上がり、館の庭にひざまずいて、手をついていた右衛門を睨んだ。 「そちの無謀を止めようと、走って行って時を費やし、血書きの写経のわしの行、三分の一を余したぞ!」  鬼火の姥はこわれた戒壇を、口惜しそうな眼で睨みながら、その横に気抜けして地面へ坐り、バカのようになっている範覚へ云った。 「調伏も祈祷もありゃアしないよ。……もう何もかも目茶苦茶さ」  その時丑の刻の鐘が鳴った。  比叡山延暦寺の大塔の座敷に、お若い一方の貴人がおわした。  丑の刻の鐘の音をお聞きあそばされるや、 「断行!」  と一言仰せられた。  後に大塔宮護良親王──尊雲法親王におわしました。  やがてこの年の九月となり、野山が紅葉で飾られるようになった。  河内国赤坂の地へ、楠木正成が城を築き、宮方ご加担武家討伐の、義兵を挙げたのはこの頃であった。  以前から正成は宮方として、義兵を挙げる機を窺っていたが、元弘元年九月十一日に、明瞭に兵を挙げたのである。 赤坂城を中心に  赤坂城は小城であった。にわかごしらえの小城であった。浅い堀、一重塗りの塀、櫓は三十足らずであった。全体の大いさは方二町。──豪族の館さながらであった。そうしてそれにこもっている兵も五百ぐらいといわれていた。  そういう小城が河内平野の、小高い所に立っているのである。  さてその赤坂城の可哀そうなほどの姿を、遠望出来る館の縁に、飛天夜叉の桂子が腰かけていた。  楠氏の一族の恩地太郎、その人の遠縁にあたるところの、恩地宗房の館なのであるが、主人と家来とはうち揃って、赤坂城へ入城した。女子供は和泉あたりの縁者のもとへ立ちのいた。で、この館は無人となった。それを桂子が借り受けて、家来たちと一緒に住んでいるのであった。  朝日が明るくあたっていて、葉を落としつくして果実ばかり残した柿の、紅玉のような肌を輝かせていた。 「さあお前たちは入城して、めいめい身にある芸を発揮し、多門兵衛様のお役にお立ち」  そう桂子は三人へ云った。  泣き男と、笑い男と、風見の袈裟太郎とへ云ったのである。 「かしこまりましてござります」  三人はそう云って辞儀をした。  人足募集の立て札が、赤坂城から立てられた。  で、それに応募するように、桂子は三人へ命じたのであった。 「袈裟太郎は時々ここへ来て、城内の様子を話しておくれ」 「承知いたしましてござります」 「一芸一能ある人間と見ると、きっとお用いになる楠木様だよ。お前たちきっと重用されるよ」 「へい」  と三人は薄ら笑いをし、 「役づきますでござりまするかな」 「自信をお持ち、きっと役づくよ」 「へい」  と三人はまたうすら笑いをした。  その三人が出て行ってしまうと、背後につつましく控えていた侍女へ、桂子は愛想よく話しかけた。 「お前たちにもそのうち役づかせてあげるよ」 「どうぞ」  と幽霊女が首をのばして云った。 「どうぞ、お姫様、わたくしにも」  と、鶏娘も首をのばして云った。その様子がおかしかったので、庭の隅で昔ながら倦きもしないで、鉞を磨いでいた右衛門までが笑った。  渡り鳥が木々を渡って通った。  声が秋を感じさせた。  不意に桂子は寂しそうに、 「浮藻や小次郎はどうしたかねえ」  と云った。  誰もが何んとも云わなかった。 「その後消息を聞いたものはないかえ?」  誰も返事をしなかった。  誰も知っていない証拠であった。  比叡山の裏山で起こった事件! ……あの事件以来浮藻と小次郎とは、行方不明になったのであった。  今の桂子その人は、あの頃の桂子とは違っていた。 (あの頃のわたしの心には、悪霊が憑いていたのだよ。自分の子のような小次郎に恋して、妹の恋を妨げたなんて、いったい何んということだろう)  今ではこう思っているのであった。 (どうぞして二人をさがし出して、わたしの手で夫婦にしてやりたいものだ)  死骸があったというわけではないので、浮藻も小次郎もどこかの世界で、生きているらしいということは、桂子にも感じられているのであった。  午後桂子は館を出て、宛なしに野路をさまよった。 (鬼火の姥め、どこにいるかしら?)  その居場所をつきとめようと、桂子は館を出たのであった。  正成が赤坂へ城を築いて、北条氏討伐の兵を挙げた。で、いずれは関東軍が、これを攻めるに相違ない、ではわしも出かけて行って、いろいろ策動してやろうと、鬼火の姥が眷族をひきいて既にその地に向かったそうな。──ということを桂子が聞き、 (男同志の合戦は、お侍さんたちに任せておけばよい。が、年来の讐敵ともいうべき、鬼火の姥めがまた出しゃばって、そんな態度をとるというのなら、わたしとしては黙っていられない。出かけて行って抑えてやろう)  そこで出かけて来たのであった。  姥めがどこに住居しているか、桂子にも見当がつかなかった。 (敵の根拠が知れなかったひには、何をやるにも不便だよ。どうともして居場所をつきとめなければ)  こう思ってこの地へ着いた日から、その捜索にとりかかったのであったが、今にそれが知れないのであった。  千早の方へつづいている雑木林を分けて、右衛門一人だけを供につれて、桂子は歩いて行った。  兎が草むらから飛び出したり、野猫がむささびを食っていたりしていた。  林をぬきんでて聳えているのは、四千尺に近い金剛山で、秋日に蒼い山肌が、瑠璃のような色に澄んでみえた。  不意に嬰児の泣き声が聞こえた。 「まあ」  と、桂子は眉をひそめ、右衛門の方をふり返った。 「どこかで赤ん坊が泣いてるのね」 「はい、赤ん坊が泣いておりまする」  右衛門も首をかしげた。  と、子守唄の声がきこえて来た。 泣きそ、な泣きそ、和子よ和子よ 泣けばお山で猿もなく。  三抱えほどもあるらしい、巨大な鉄のような老杉が、この林の王かのように、根をひろげて立っていたが、その蔭から子守唄は聞こえるのであった。  桂子たちは行ってみた。  顔の前へ白布を垂らし、膝の上へ嬰児をのせた、若い女の乞食がいた。  途方にくれたように、うずくまっていた。 「まあ子持ちのお菰なのね」  気の毒そうに桂子は云った。 「もし」  と、早瀬は声をかけた。 「お乳おありではござりますまいか。……もし、おありでございましたら、この子に飲ませてくださりませ」 「わたし、これでも娘なのだよ」  桂子は微笑してそう云った。 「だから、お乳は出ないのだよ」 「とんだ粗忽を申し上げました」 「あのね」  と、桂子は情け深く云った。 「この林を出て少し行くと、恩地という人のお館があるから、そこへ行って、何かいただくといいよ」 「ご親切にありがとう存じます」 「でも、お前さん何んと思って、こんな林の中などへ入り込んだの?」 「…………」 「いまにも合戦がはじまるというのに、野武士や追い剥ぎが群れをつくって、ここらへ入り込んでいるのだよ」 「はい」 「この林など物騒なのだよ」 「はい」 「人里へ早く行った方がいいねえ」 「はい、ありがとう存じます」  桂子と右衛門とは先へ進んだ。  嬰児の泣き声と子守唄の声とが、追っかけるように聞こえて来た。  桂子は何か心が引かれ、足を止めて振り返った。  女乞食が嬰児を抱いて、トボトボと歩いて行く姿が見えた。 (由緒ありそうな乞食だが?)  といって、立ち入って身の上を訊くのも、大人気ないように思われた。 (どうしよう?)  佇んでいた。  早瀬はトボトボと歩いて行く。  楠木正成が赤坂城を築いて、北条氏討伐の旗上げをしたと、人の噂で聞いた時、 (良人頼春は宮方に味方し、それを裏切って武家方についたが、それを後悔して行方不明になった。今の良人の心持ちは、宮方にあるに相違ない。ひょっとかすると赤坂城へはいって、宮方にお尽くししているかもしれない)  ふと、早瀬はこんなように思って、この地へさまよって来たのであった。  おぼつかない宛てではあったけれど、ほかに宛てのない彼女としては、そんなことでも宛てにして、良人をさがさなければならないのであった。  早瀬はトボトボと歩いて行く。  嬰児はなかなか泣きやまなかった。 「おおよしよし、おおよしよし。……すぐにお乳をのませてあげます。……恩地様とかいうお館へ行って、お乳をもらって飲ませてあげます。……お泣きでないよ、お泣きでないよ」  あやしながら、彼女は行くのであった。  彼女にとってこの嬰児は、もう何物にも換えがたい、大事なものになっていた。 (この子を立派に育てあげて、わたしの跡目を継がせなければならない。土岐の跡目を、土岐の跡目を!)  こんなことをさえ思っているのであった。  そうして彼女は、この嬰児の母の、憎い敵の殺人鬼へ、蝮を噛みつかせてやったことに、喜びを感じているのであった。 (蝮の毒が全身に廻って、あの殺人鬼は死んだに相違ない。この子に代わって母親の敵を、わたしは取ってやったのだよ)  彼女は足を急がせた。  と、不意に木蔭から、三人の野武士があらわれた。 「いい女らしいぞ」 「まだ若いな」 「業病じゃアないか、顔に垂れがある」 「手足を見ろ、綺麗で満足だ」 「お顔拝見」 「担いで行け!」  早瀬の周囲をとりまいた。  しかし早瀬は驚きもせず、垂れ布の内側で苦く笑った。 (わたしの懐中に蝮がいるってこと、この人達は知らないそうな)  しかし、その時淫らの様子の、若い女が二人あらわれ、野武士たちの間へ雑ったので、かえって早瀬は度胆を抜かれた。  桂子は先を歩いていた。  と、一座の丘があり、その裾を向こうへ廻った時、芒の中に野武士の死骸が、一つころがっているのが見えた。 「まあ」  と、桂子は小走って行った。 「ははあ咽喉をやられていますな」  右衛門、そう云って腰をかがめ、その傷口を覗くようにしたが、 「刃物で斬った疵ではない」 「おや、あそこにもう一つ」  こう云って桂子はまた小走って、これも芒の中にころがっている、同じような野武士の死骸の前に立った。 「こいつも咽喉をやられております。……刃物で突いた疵ではない」  大鉞を地につきながら、また右衛門は呟くように云った。  林が途切れて芒の原となり、その芒の原の一所に、松の林が立っていたが、そこから数人の云い争うような、高い声が聞こえて来た。 「右衛門や行ってみよう」  もう桂子は走り出した。  と、忽然と芒の原の、芒の上へ、青空の中へ、純白の物が躍り上がり、宙でヒラヒラと翻ったが芒の原へ隠れてしまった。  桂子と右衛門は、眼を見合わせた。  と、まだ白い物は宙へ刎ねた。 「猩々だ──ッ」 「卯ノ丸だよ」  松林の中からは云い争うような、数人の高い声が聞こえて来た。  松林の中では土岐頼春が、五人の野武士にかこまれていた。  左の腕が、肘のあたりから、綺麗さっぱりになくなっていた。  だからそこから長い袖が、ダラリと風わるく垂れていて、それがピラピラ搖れたりした。  裾に血のりがついていたが、右手に持っている杖の先にも、やはり血のりがついていた。  でも、何んと頼春の顔は、明るく愉快そうで朗らかなんだろう。  頼春をとりまいている野武士たちは、いずれも太刀を抜き持っていたが、相手がこわいといったように、かなり遠くへ離れていた。 「……で、われら申し上げるのじゃ」  と、その中の一人の武士が云いついだ。 「われらの住居へおいでくだされとな」  頼春は笑って云うのであった。 「斬ってくだされとお願いしながら、よしそれでは斬ってやると、貴殿方お仲間のお二人が、親切にも拙者を斬ろうとすると、何んと忘恩のこの拙者の右手が、拙者の意志を裏切って、あべこべに親切なお二人の人を、ブツリと突き殺した、それのように」 「…………」  五人の武士はバタバタと逃げた。  が、すぐに忍び足して、数間の近くまで帰って来た。 「行こうという拙者の意志に反して、この足がどうにも動かぬのでござるよ」  黄味の深い秋の朝の光が、松の林の梢から、縞をなしてここへも射して来て頼春の足もとに揺れそよいでいる。熊笹の葉の上の女郎蜘蛛を、鉱物かのように光らせていた。 「この足が、どうにも動かぬのでござるよ。……が、これはもっともとも云えるて。……よい条件ばかりが揃っていて、悪い条件がないのだからのう」  すると、もう一人の武士が後をつけた。 「本来なれば、我らの仲間を、二人理不尽に討って取られた貴殿、許して置くわけには参らぬのでござるが……」 「あんまりお技倆が立派じゃによって……」と、もう一人の武士が後をついで云った。「招待しようと申しておるので」 「盲目でしかも片腕で、得物といえば竹の杖で、われらの仲間のその中にあっても、そうとうな沖田と毛利氏とを、一突きずつで退治た技倆……」と、四人目の武士が感にたえたように云った。 「前代未聞、凄いといわねばならぬ。……で、ご招待いたしたいというので」 「感謝」  と、頼春は愉快そうに云った。 「女があって酒があって、ご馳走があって寝具がよい、そういう住居へ来いといわれる。感謝! よろこんで参りますとも! ……ただで養なってくれるという! 感謝! 何んのお断りしよう! ……その上そこへ参っても、これといってやるべき務めもなく、これといって持つべき責任もない。いてくれさえすればよいという! 極楽じゃ、極楽浄土じゃ! このセチガライ戦国の世に、そんな極楽浄土がある! 行かなかろうものなら罰があたる! ……行こうぞ行こうぞ、行かいでどうしよう!」  ニヤニヤ笑って云うのであった。 「おいでくださるか、それは重畳、さあではすぐに、案内仕る」  と、五人目の武士がせき立てるように云った。 「行きますとも、行きますとも。……さあご一緒に参るとしましょう」 「こっちでござる、さあ参られい」  五人の武士は歩きかけた。  が、頼春は動かなかった。 「どうなされた、なぜお歩きなさらぬ」 「変でござるよ、足が動かぬ」  頼春の云い方は皮肉でもなく、また揶揄でもないのであった。  心持ちがほんとうに愉快なので、それで何んでも本当のことを、ポンポン云うまでにすぎないのであった。  比叡山の裏山にいた頃の頼春と、何んとひとが違っていることか!  でもそれでいて相手から見ると、凄い人間に見えるのであった。  そうしていつも一道の殺気が、ほとばしって来るように思われるのであった。 「盲目で片手の乞食の身の上、これでも生きていたいのだろう」  と、通りすがりにそう云ったところ、 「ではお斬りくださりませ」  と答えた。 「よし、慈悲を出して斬ってやる」  と、沖田と毛利とが太刀を抜くと、ヒョイと杖を突き出した。 「わッ」  ヒョイとまた杖を突き出した。 「わッ」  それだけで可哀そうな二人の仲間は、他愛なくこの世から暇を取った。  そんな業をした相手であった。  だから五人の野武士から見ると、頼春という人間が、殺気に充ちた凄い恐ろしい、殺人鬼に見えてならないのであり、そうして彼がさも愉快そうに、こだわらずに云う云い方が、皮肉に聞こえてならないのであった。  五人の武士は息を呑み、体をかたくして黙っていた。 「よいことずくめのそういう所へ、さてうかうか行ったとする、行ってみるとこれはこれは、よい条件というやつ引っ込んでしまい、新規に悪い条件が、続々と出て来て充たしてしまう。──というのが浮世の常で。……ということであってみれば、行こうという意志の方が間違っていて、この動かない足の方が、ほんとうであるかもしれませぬのう」  ここでまた頼春は愉快そうに笑った。 「いや」 「違います」 「そんなことはござらぬ!」  と、野武士たちは口々に弁解し出した。 「迂散に思われるはごもっともでござるが、われらがご案内いたそうとするは、われらのお頭の館でござってな……」 「ナーニ山寨でござろうよ!」 「…………」  しかしもう一人の武士がつづけた。 「そのわれらのお頭というは……」 「泥棒であるに相違ない!」 「…………」  しかしもう一人の武士がつづけた。 「一芸一能に秀でたお方を……」 「豪族へ売り込むという手もござるて!」 「…………」 「どっちみち……」ともう一人の武士がつづけた。「百聞一見にしかずと申せば……」 「残念、拙者盲目でのう」 「ナール」 「とはいえ拙者見えまする!」 「さてこそ!」 「心眼で見えるのじゃ!」 「…………」  松の枯れ葉が針のようにこぼれて、いまだ抜いたままで、鞘へ納めない、五人の野武士の五本の太刀へ、ひっそりと触れて行ったりした。  不意に頼春は決心したように云った。 「せっかくのおすすめとやかく申さず、貴殿方のお住居へ参るとしましょう」  それから口の中で呟くように云った。 「笠置の城の落ちるのも、ここ数日のうちであろう。と、神の界に属しまつる御一方が、この赤坂へおいで遊ばす筈だ。……それまでどこにいようとままよ」 「卯ノ丸よ、ここへおいで!」  桂子はこう云って手を拍った。  呼んでも卯ノ丸は来なかった。  芒の中へひざまずいて、何か恐縮でもしているように、むやみと辞儀をするばかりであった。  そうして時々うしろの方を見ては、そっちへ指さしをするばかりであった。 「変だねえ」  と桂子はいぶかしそうに云った。 「叡山の裏山へあらわれた時にも、側へ来ずに辞儀ばかりしていたが、でも大変なつかしそうにして、恐縮なんかしなかったものだよ。……それにしてもあの時もそうだったが、今度もあんな方へ指をさして、わたしをどこかへつれて行こうとする。……いいよ、どこへでも行ってやろう。……右衛門や、行ってみようじゃアないか」 「馬鹿な人間などに比べましたら、比較にもならない利口な卯ノ丸、それにお姫様には忠実な卯ノ丸、あのようにお誘いするからには、わけがなくてはなりませぬ。参りました方がよろしいようで……」  そう右衛門は真面目に云った。 「では卯ノ丸や、一緒に行こうねえ」  桂子は足を進めた。  卯ノ丸はいかにも嬉しそうに、十数間の先へ立って、松林の方へ刎ねて行った。  桂子たちは松林の中へはいった。  さっきまで人声がしていたのに、行ってみれば人はいなかった。  でも林の外れにあたり、六人ばかりの人影が見えた。  五人は野武士らしい男であったが、一人はみすぼらしい乞食であった。  朝の陽が午後の陽に変わった頃、桂子と右衛門とは深い谷の底に、茫然として立っていた。  正面に城門のような岩壁があって、道を遮っているからであった。  赤坂からはおおよそ三里。それぐらい距った地点らしかった。  ではこの辺りは千早と金剛山との、中間にあたっていなければならない。  千年も経たかと思われるような、二抱えから三抱えもある、杉や桧や樫の巨木で、あたりは隙なく鎧われていて、空など蒼い帯のようであった。  宵闇のようにあたりは暗い。  金剛砂で出来ているからであろう、谷の道は白かった。  その谷の道の左右には、金剛山の山脈が、眉を圧して逼って来ていて、それにも老樹や灌木が、すくすくと隙間なく聳えていた。  白い地肌に黄だの茶色だのの、縞や斑紋を沁み出させている、人工のように見える天然岩が美しくしかし厳めしく、手をかけるところも足をかけるところも、絶望的にない垂直さで、正面に聳えているのであった。  城門というより云いようがなかった。  桂子と右衛門とはそれを見上げて、茫然と佇んでいるのであった。  というのはここまで案内をして来た、猩々卯ノ丸がここまで来ると、姿を消してしまったからである。  そうしてそれまではいつも前方に、見えがくれしていた六人の男が、やはりここまでやって来ると、姿を消してしまったからである。  それはあたかも岩の城門が、音なく開いてそれらの生物を、呑み込んだとしか思われなかった。  この月の二十八日に、笠置の城は落城した。そうしてその城にこもっておられた、主上をはじめたてまつり尊澄法親王、藤原藤房、同じく具行、千種忠顕、尊貴縉顕の方々は、関東軍の手に渡った。  月を越えて十月となり、その十日の午後となった時、 「お姫様いよいよでござります」  と、赤坂の城からぬけ出して来た、風見の袈裟太郎が注進に及んだ。 「何んだよ袈裟太郎、あわただしいではないかえ」  と、館の奥の書院の間で、塗り机に肘をもたせかけ、以前偶然行ったことのある、金剛山の谷間の城門のような岩壁のことを、思い出していた桂子は云った。 「いよいよ関東の兵ども、赤坂城を目ざしまして、押し寄せましてござります」  袈裟太郎は眼を据えて云った。 「その前衛の部隊としまして、勝間田彦太郎入道が、一千の兵を率いまして、伊賀路より、たった今しがた、白布の郷へ入りまして、農家に分宿いたしましたり、仮屋を建てましたり、幕屋をつくりまして、宿しましてござります」 「そうか、いよいよ来たのかい。そろそろ来る頃だと思ってはいたが。……お城の様子はどんなかしら?」 「赤坂の城内でござりましたら、士気旺盛と申しますより、ほとんど関東の寄せ手の勢など、眼中にないといったように、静まり返っておりまする」 「そうだろうねえ、そうなくてはならないよ」 「いずれもが申しておりまする。われらが御大将多門兵衛様は、智徳兼備わが朝での孔明、このお方をいただいている以上、戦いに負けよう筈はない。その上に我らは金枝玉葉の、大塔宮様をさえ奉戴いたしておる。死も生も問題でないと。……」 「その宮様のご機嫌はいかが?」 「いつも麗かにござりまする」 「随分ご苦労あそばしたのにねえ」  主上と計りたてまつり、大塔宮様が積極的に北条氏討伐のご計画を進め、まず六波羅を攻めようものと、ひそかに北畠具行をして、諸国に兵を徴させたのは、七月下旬からのことであった。  が、不幸にもこのことは、八月に至って北条方に洩れた。  高時は大いに狼狽したが、長崎高資の謀を用い承久の例に則って、人臣の身としては不埓にも、主上を絶島に遷し参らせ、大塔宮様をとらえたてまつり、ともかくもせんものと計画し、この旨を六波羅へ申しやった。  と、いうことを大塔宮様には、告ぐる者あってお知りになり、直ちに内裏へ密奏した。  そこで八月二十四日の夜、主上におかせられては勿体なくも、婦人車にお召しになられ、神剣、神璽を奉じたてまつり、ひそかに南都へご行幸あそばされ、ついで和束の鷲峯山へご行幸、ここも、危険とおぼしめされ、笠置の城へ入らせられ、ここを行在所とお定めあそばされた。  が、これ以前に大塔宮様と、ご談合あそばされた一事があった。  六波羅討伐の挙兵の際には、主上比叡山へ鸞輿を巡らさる。──というところの御打ち合わせであった。  そこで主上におかせられては、侍臣花山院師賢卿へ、兗竜の御衣をお着せになり、御輿に乗らせて比叡山へ遣わし、 「車駕、延暦寺に幸す」と宣せられた。  叡山の衆徒は感奮し、大塔宮様ともどもに、車駕を西塔に迎えたてまつり、おりから攻めよせて来た佐佐木時晴の、六波羅勢を打ち破ったが、その時心ない山風が吹いて、御車の簾を翻えした。  御車の中に坐せられたは、主上にはおわさで師賢であった。  いかに衆徒たちは失望したか。  次第に勢が離れ去った。  大塔宮様におかせられても、 (今はこれまで)  とおぼしめし、比叡山を捨てて大和路より、主上のおわす笠置へ入られ、さらに笠置もあやうしと見るや、回天の秘策を御胸に持たれ、正成のこもる赤坂城へ、数日前にお入りあそばされたのであった。 「袈裟太郎や」  と、桂子は云った。 「寄せ手の様子はどんな塩梅だえ?」 「お話にも何んにもなりませぬ。こんな小城、おとすの朝飯前だと、このように申して油断に油断し、京都や、淀や、神崎などより、めし連れました遊君を侍らせ、乱痴気さわぎいたしおりますそうで」 「そうかえ、それは面白そうだねえ。ではわたしは見に行こうかしら」 「何をお姫様おっしゃいますやら」 「戦陣での乱痴気さわぎ、わたしは一度も見たことがないよ。参考のため見たいような気がする……そう、見に行くときめてしまおう。……袈裟太郎やお前もおいで」 「へい……しかし……わたしはお城へ……」 「お城へ帰るのは見合わせとして、わたしと一緒に行くがいいよ」 「どちらでも結構でございます」 「ではお前を連れて行くときめたよ。……お前たちも一緒に行くがいいよ」  うしろに控えていた鶏娘と、幽霊女とを振りかえり、そう桂子は笑いながら云った。 「京男と異って東男には、よいところがあるかもしれないからねえ、お前達二人も連れて行って、東男を見せてあげよう」 「まあ、お姫様イヤでございますよ」  と、まんざら厭でもなさそうな様子で、幽霊女がしなをつくって云って、鶏娘の方をチラリと見た。 「オホホ、お姫様、オホホ、いやな」  と、これもちっともイヤでなさそうに、鶏娘も云ってしなをつくり、 (小次郎様に恋されて以来、お姫様も粋におなりになり、アジなことをおっしゃるよ)  と、こんなことを思っていた。  この月十五日に関東軍は、総勢こぞって京都を立ち大和路と佐々良路と天王寺路と、そうして伊賀路の四道から、赤坂の城へ向け出発した。  総勢二十万と号されていた。  中一日を旅に費やし、十七日赤坂へ到着した。  総大将は大仏陸奥守であった。  土地の豪族篠原左近、この人の館を本陣とし、その夜陸奥守は軍議を開いた。──というのは形式だけで、実は酒宴をひらいたのである。  部屋部屋の境いの襖を外し、こうこうとした広間とし、燈火のあかるくともしつらねた、その部屋の正面に毛皮を敷き、京都五条から連れて来たところの、白拍子鞍馬を膝へ引きよせ、これは五条の白拍子の、千山というのを胸へ寄らせ、悦に入っている坊主頭の、河越三河入道をニラメながら、 「三河どうじゃ、……いい女だろう。……千山、それでワザ師でな、……そうであろうがな、コーレ千山!」 「何を入道様仰せられますことやら」 「いやこの鞍馬もたいしたものじゃ」  と、陸奥守は咽喉を鳴らしながら、 「口舌がよいのじゃ……な、鞍馬」  しかし鞍馬はこう云われても、それには返辞をしようとはしないで、 「それよりも明日の赤坂の城ぜめ、どうなることでござりましょうねえ」  と、うまく話を反らせてしまった。 「城ともいえないあんな小城、朝飯前に踏みつぶすまでよ。……」 歓楽陣  そうかと思うと縁に近い座では、佐々良路の先頭を承わって来た、金沢武蔵右馬助が、千葉介貞胤を相手とし、神崎の遊君人丸や、同じく遊君中将を前に、無骨者だけに笠置ぜめの、手柄話を話していた。 「大手一の木戸口より、仁王堂まで寄せたと思え、ここを固めていた敵方の将は、足助次郎垂範であったが、三人張りの強弓に、十三束三伏の、雁叉の矢をひきつがえ、二町をへだてた我らの陣へ鳴り音たかく射てよこした」 「おおその矢をあなた様には、見事に受けて刎ね返し……」  と、愛想の合槌を打ったのは、右馬助などよりもずっと美男で、ひとがらでもある三浦若狭判官へ、それとなく秋波を送っていた、厚肉丸顔の人丸であった。 「ト、ところがそうではのうて、味方の豪勇荒尾九郎と、舎弟弥九郎とが田楽刺しに刺され、ために我らは総くずれよ……」 「これこれ」  と周章てて止めたのは、敵娼中将の白絹のような顔へ、虎髯の顎をしばしば寄せて、中将にひどく嫌われながら、自分では一人でいい気持ちになっている、千葉介貞胤で、 「それでは敵を褒めるようなものじゃ、とんと自慢にはならぬではないか」 「ほんにの」  と右馬助は気がついて、 「そういうこともあったなれど、われら恐れず搦め手へ廻り、木戸を焼きはらいなだれ込んだので、行在所は煙ぜめよ。……で城は落ちたというものじゃ」  こうしてどうやらバツを合わせた。  少し離れた一所では、 「昔平ノ重衡は、囚人として東海道を、関東へ降る道すがら、何んとかいう駅で白拍子の千寿と……で、わしも……行こう、亀千代」  と、天王寺路の大将の、仙馬越前入道が、淀の遊君亀千代の繊手を、爪のもとまで毛の生えている、熊のような手でグッと握り、奥へしょびいて行こうとするのを、同じ路からやって来たところの、狩野彦七郎左衛門ノ尉が、左の手をムズと掴み、 「こっちへ来い、こっちへ!」  と、反対の方へ引き入れようとした。 「あれ抜けまする、腕が抜けまする!」  と、左右の手を両方へ引っ張られ、亀千代は身もだえして悲鳴をあげた。  と、それがおかしいというので、小山判官秀朝や、佐々木入道貞氏や、大和弥六左衛門ノ尉や、長崎四郎左衛門ノ尉や、北条駿河八郎や、宇佐美摂津前司や、武田伊豆守や、渋谷遠江守、足利治部大輔高氏や、結城七郎左衛門ノ尉親光などが、手を拍ったり哄笑したりした。  そういう連中も白拍子や遊君や、またこの地の人買いの手から、早速ここへ売り込んでよこした、私娼たちを引きつけて、酒を飲み肴をくらっていた。  と、この時縁を越した、そうして幔幕を張り廻した、そうして篝火を焚きつらねた、中庭の明るい光の中へ、老婆と山伏とが現われた。  鬼火の姥と範覚とであった。 「や、何んだ⁉ あの化物は⁉」  と、大仏陸奥守が素早く目付け、胆をつぶしたようにそう云った。  と、その前に膝行して、お杯を頂戴いたしていた、六波羅探題より附けられて来た、軍監の大野信濃守が、 「北殿(六波羅北の探題)にも南殿(同じく南の探題)にも、ご贔屓にいたしおりまする、鬼火の姥と申すところの、験のある巫女にござりまする。山伏は金地院範覚と申して、姥の片腕にござりまする。……陣中お見舞いといたしまして、参りましたものと存ぜられまする」  と、とりなし顔に言上した。 「鬼火の姥の噂なりゃ、北殿南殿より承わり、この入道もつとに承知じゃ。……ほほうあれが鬼火の姥か、凄い形相をしておるのう」  と、大仏陸奥守は眉をひそめて云ったが、 「陣中見舞いに参ったとあっては、うっちゃって置くのも気の毒じゃ、呼んで杯をとらせよう。……金地院とやらも呼ぶがよい」  鬼火の姥と範覚との、物の怪じみた異様な姿は、間もなく大仏陸奥守のきらびやかな、ご前へ連れ出された。 「姥」  と陸奥守は声をかけた。 「北殿南殿に頼まれて、調伏やら細作やらに、よう武家方に尽くしてくれたそうじゃな。今後も尽くせよ、わしからも頼む」  大杯を突き出した。  その杯を両手で受けながら、関東北条家の歴々と、京都一流の白拍子遊君が、紅紫繚乱として入り乱れている、晴れがましいこの場のありさまにも、ちっとも心を驚かさず、範覚が日頃の𩜙舌を封じて、オドオドキョトキョトしている様子を、笑止らしく横眼で睨みながら、 「これはこれは勿体ないお言葉、お杯もろともに有難く、頂戴仕るでござりましょう」  と、そう云って姥は杯を干した。 「今日は陣中見舞いに来たか」 「はい、まずさようでござりまするが、実は飛天夜叉の桂子めが……」 「何?」  と陸奥守は眼を見張った。 「飛天夜叉の桂子が何とかしたか?」 「この陣中に変装しまして、紛れ入りおる由承わり、見あらわして捕えようと……」 「ほんとか?」  と陸奥守はギョッとしたように、 「飛天夜叉めがまぎれ入っておるとな?」 「入道様には飛天夜叉めを、ご存知あそばしておられますので?」 「そち鬼火の姥ぐらいには、飛天夜叉の噂も聞いておる。……若くて美しいということじゃの」  好色の大仏陸奥守なので、もうそっちへ持って行くのであった。 「その法力と通力も、そちに劣らず見事とのこと。……が、残念にも宮方だそうじゃの」 「宮方にござりまする」 「その飛天夜叉が何用あって、この陣中へなど紛れ入ったのじゃ?」 「宮方の女にござりますれば、関東方の名ある武将の、御首級掻こうと変装して……」 「ヒャッ」  と陸奥守は異様な声で叫び、自分の頸根ッ子を掌で抑えた。 「コ、こいつを掻こうというのか!」 「であろうかと存ぜられまする」 「こいつはたまらぬ、首掻かれてなろうか!」  これ以前から穢らしくて異様な、姥と範覚との出現によって、興を褪ましていた座の者は、この時ヒソヒソと囁き出した。 「飛天夜叉が忍び入っているとよ」 「われらの首を掻こうとよ」 「身を変じているそうじゃ」 「白拍子にか遊君にか?」 「あの女ではあるまいかな?」  飛天夜叉桂子の凄い噂を、聞き知っている彼らだったので気味悪く思われてならないのであった。  姥も座中の女たちを、鋭い眼で一人一人検査したが、 「飛天夜叉めとこの姥とは、相識の仲にござります。いずれに変身しておりましょうとも、余人は知らず姥の眼だけは、眩ませることなど、どうしてどうして! ……が、変じゃ、見あたらぬ!」  座中の女たちは姥に見られ、身の縮む思いするらしく、首をちぢめたり肩をすぼめたり、顔をそむけたり、俯向いたりした。  そうして自分たちの間でも、あの人がそうではあるまいか? この人が飛天夜叉ではあるまいかと、疑がい惑い怪しみ合っていた。  一道の鬼気が白々と、冷たく座を貫いたのである。  と、この時中庭の奥、張った幔幕の背後から、云い争うような声が聞こえて来た。 「ともかくもお知らせ致さねば……」 「興をさまそう、後刻に後刻に」 「いやともかくもお耳へだけは……」  幔幕をかかげて一人の武士が、おそるおそる中庭へ入って来た。  そうして縁へ両手をつくと、端近にいた高坂出羽権守の耳へ、何やらヒソヒソ囁いた。  平素はそのような細々しいことには、決して留意しない陸奥守ではあったが、恐怖らしいものに捉えられている今は、そんなことにさえ心が引かれ、 「権守権守」  と声をかけた。 「何事じゃな、何か起こったかな?」 「怪しい男女を捕えましたそうで」  と権守は物々しく云った。 「怪しい男女? ほほうどこでな?」 「拙者の陣前を忍びやかに、赤坂城の方へ歩みおりましたそうで」 「なるほどそれは怪しいの」 「斬りすてましょうや、捕え置きましょうやと、意見を訊ねに参りましたような次第で」 「さような者は斬りすてた方がよかろう」 「美しい若い男女の由で」 「ほほう」  と、陸奥守は微笑した。 「男などはどうでもよいが、女が美しいとは聞きずてにならぬの」 「しかし」  と、傍にいた三河入道が、 「飛天夜叉などであろうものなら……」 「なんの飛天夜叉が男などを連れて、陣前などを通るものか」 「いえいえ」  と、その時まで座中を眺めながら、話を聞いていた鬼火の姥が、 「飛天夜叉めは手下の一人、風見の袈裟太郎と申す者をつれて、忍び込んだと申しますことで」 「フーン」  と陸奥守は鼻を鳴らした。 「男と一緒に忍び込んだのか。……ではその男女もちと怪しいな」 「庭へ引き出し吟味したらどうじゃな」  と、三河入道が口を出した。 「さようさ、それも面白かろう。……権守、そやつらを引き出すようなされ」  間もなく叱咤する声などが、幔幕の背後から聞こえて来、やがて篝火で昼のように明るい、中庭へ四五人の武士に囲まれ、二人の男女が入って来た。  土岐小次郎と浮藻であった。  座中にわかに動揺した。 「なるほどこれは美しい」 「やつれてはおるが素晴らしい美女じゃ」 「売女と異って素人女は、まことに清らかでよいものじゃ」  女たちは女たちで囁き合った。 「よい殿ごぶり」 「光源氏じゃ」  鬼火の姥と範覚とは、小次郎と浮藻とを眼に入れるや、いかにも仰天したように、顔を見合わせ囁き合った。  そうだろう。姥は小次郎の美貌に、修験の道心を失って、叡山裏山の洞窟内での、調伏を仕損じたほどであり、範覚に至っては浮藻のために、気絶して仆れたほどなのだから、 「範覚よ、ありゃア小次郎じゃ」 「姥よ、浮藻じゃ、ありゃア浮藻じゃ!」  この時、陸奥守は座を立って、ツカツカと縁まで歩いて行った。 「これ」  と、男女へ声をかけた。 「何者じゃ、身分を宣れ!」 「云わぬよ」  と、小次郎は平然として云った。  叡山の裏山でのあの事件後、浮藻を助け出して事情を聞くと、飛天夜叉の桂子が、自分を恋し愛するあまりに、浮藻を迫害したという。 (このまま帰ったら桂子様が、何を浮藻に仕掛けるかもしれない。旅へ出てしばらく鋭鋒を避けよう)  で、小次郎は浮藻をつれて、あてのない旅へ出たのであった。  あしかけ三月の日が経った。  日数はわずかではあったけれど、浮世の相は、いちじるしく変わった。  宮方と武家方との確執が、合戦という形をとって、露骨に表面へあらわれて、世が殺伐となったのである。  こうなってみると小次郎も浮藻も、安閑と旅などにいられなくなった。  それに、おそらく桂子たちは、宮方に従いていずれ様々、画策していることであろう。心もとなく気にかかる。  で、二人は京都へ帰り、桂子の館へ行ってみた。  赤坂の方へ行ったという。  そこで二人は赤坂をさして、こうして旅をして来たのであった。 「宣らぬというか、不敵な奴め!」  陸奥守は憎々しく云ったが、 「汝らどこへ行こうとしたぞ? 赤坂であろう、赤坂の城へ!」 「知らぬ」  と、小次郎は平然として云った。 「どこへ行ってよいか知らぬのじゃ」 「痴者め!」  と、陸奥守は笑い、 「汝の行き場所、汝知らぬのか?」 「姉を尋ねて行くのであるが、どこにおわすか知らぬのよ」 「汝ら何んだ?」 「われらは兄妹じゃよ」 「黙れ!」  と陸奥守は嘲笑った。 「似ても似つかぬ顔を持った、そのような兄妹がどこにあろうか」 「兄妹じゃ、義兄妹じゃ」 「アッハッハッ、そうだろうと思った。今でこそ義兄妹、アッハッハッ」 「さよう、姉上さえお許しならば、われら夫婦になろうもしれぬ」 「また姉上か、そやつ何者じゃ!」 「云わぬよ」  と小次郎は素ッ気なく云った。  ここが関東軍の本営であり、そこへ捕えられた自分達であり、自分達の訪ねて行く姉というのは、宮方に味方する桂子なので、それを明かしたなら自分達の身は、安穏ではあるまいと思われたので、知らぬよと素ッ気なく云ったのであった。  それに桂子に養われていたため、小次郎の心は宮方であった。自然武家方のこの連中には、強い反感を持っていた。で、事ごとに素ッ気ない。ぶっきらぼうの返辞をするのであった。 (どうせ敵方に捕えられたわれらだ。殺すものなら殺すであろうし、生かすものなら生かすであろう、追従も軽薄も云う必要はない)  この心持ちが彼をして、素ッ気なくぶっきらぼうにするのであった。  陸奥守は舌うちしながら、元の座へもどって来たが、 「敵方の細作であろうもしれぬ、しばらく監禁いたして置け」  と云った。  小次郎と浮藻とが武士たちに連れられ、立ち去っての後、また座敷は、好色陣と一変した。  厩舎の横に納屋があって、その方へ忍んで行く女があった。  酒席にいた娼婦の一人であった。  館の中での乱痴気さわぎも、ここらあたりへまでは聞こえて来ず、厩舎で馬が地を蹴る音や、非常を警める巡視の卒の、撃柝の音ばかりが聞こえて来た。  娼婦は納屋の戸の前に立ち、あたりを見廻してから幽かに叩き、 「小次郎様、小次郎様」  と呼んだ。  浮藻と引き放されただ一人で、納屋にこめられていた小次郎は、闇の中に坐って冥想していたが、 「どなたでござるな?」  とそっと訊いた。 「妾でござります。幽霊女で。……小次郎様ご心配なされますな、桂子様におかれましても、変装なされてこの館の中に、おいであそばすのでございますから。……すぐにお助けいたしましょう。人が来たようです、ご免なさりませ」  娼婦に化けて入り込んでいた、幽霊女は立ち去った。  一人の侍女が寄って来て、 「お仕度出来ましてござります」  と、こう陸奥守へ囁いたのは、館の中の好色陣が、いよいよ本領を発揮して、武将が武将の体面を忘れ、白拍子や遊君と各自の部屋へ、こっそり隠れる頃であった。 「ウフ、さようか。……では馳走に」  ヌッと陸奥守は立ち上がった。 「どこへじゃ?」  と、三河入道が訊いた。 「よい所へじゃ。……いい所へ」  云いすてて陸奥守は蹣跚と、この座敷から出て行った。  この姿を見送っていたのは、まだこの席にいた鬼火の姥であったが、 「範覚よ、どうする気じゃ?」  とそそのかすように囁いた。  範覚はさもさもうらめしそうに、陸奥守の行った方角を、白い眼をして睨んだが、 「入道殿は殺生じゃ」 「では何んとかせずばなるまい」 「姥、どうしたらよかろうのう?」 「横どりされようとしているのじゃ。だからまたそれを横どるがいい」 「どうしたら取れる? え、姥よ?」 「智恵で取りな、智恵を働かせて」 「…………」  範覚一生懸命考え込んだが、 「やろう! 智恵で、やってみよう。……ところで姥、お前はどうする?」 「わしが何をよ? 何をするのじゃ?」 「小次郎をすてては置かれまい」 「…………」 「すてて置けば殺されよう」 「…………」 「助けずばなるまい。是が非であろうと」 「…………」 「姥の力でやるひになれば、助けることなど訳ない筈じゃ」 「わけないとも」  と、姥は云った。 「法力でやれば訳はないよ。……が助けてやった後で……」  鬼火の姥は好色残忍の、凄じい光を眼に漂わせた。  間もなく巫女と山伏とが、乱痴気さわぎから姿を消した。  でもしばらく経った時、厩舎の横の納屋の前に、鬼火の姥の御幣そっくりの、白い姿の立ったのが見えた。  両手が額に合掌されていた。  眼が納屋の戸を睨んでいた。  と、ひとりでに錠の外れる、ピーンと云う音が聞こえて来た。  小次郎が冥想からさめたのは、この錠の外れた音からであった。  小次郎はにわかに恍惚となり、心も体も自分の所有でなく、他人によって勝手自由に、使われているように思われて来た。  と、いつか小次郎は、暗い寒い納屋から出て、どこかへ連れて行かれるような、そんな気持ちにとらえられて来た。  ボッと薄青い光の中に、いつか小次郎は坐っていた。  側に一人女がいた。 「浮藻?」  そう浮藻であった。  浮藻は小次郎へ縋りついた。 「小次郎様! どんなにわたしは!」  もう後には言葉はなかった。  連続した叡山の裏山の危難、やっと遁がれて旅へは出たが、その旅も決して幸福ではなかった。そうして今は敵ともいうべき、関東軍に捕えられ、生死のほどもおぼつかない。……それらの艱難の重なりからでもあろう、浮藻は痩せて衰えていた。  ふくよかだった頬はこけ、眼の周囲には隈さえ出来ている。 「浮藻殿!」  と小次郎は云い、その可憐しい肩を抱いた。  旅へ出て以来小次郎は、むしろ厳格に過ぎるほどに、浮藻に対して振る舞った。  それは自分をこのような男に、育て上げてくれた桂子に対する、恩と義理とのためであった。  桂子その人に捧げている、小次郎の心持ちというものは、あの泰西の騎士なる者が、自分を庇護してくれる貴婦人に向かって、捧げているところの心持ちと、ほとんど変わりないものであった。  忠誠と犠牲と奉仕とであった。で、どのように浮藻に対し、愛を感じ恋を感じていても、桂子より許しのない限り、とげようなどとは思わなかった。  で、旅へ出てからも、一緒にいるというばかりで、指一本触れ合おうとはしなかった。  が、今はそうでなかった。  三月に渡ってともかくも、一刻として離れたことがなかった、それが敵陣に捕えられ、離れ離れに監禁された、どうしているか? どうかされはしなかったか? 不安と危惧とで一杯であった。その浮藻と逢ったのである。  その浮藻といえば面影やつれ、目には涙、唇には戦慄、小鳥のようにおどおどしている。 「可憐しや! 浮藻殿オーッ」  引き寄せ抱き締め頬に頬をつけた。  かつてない烈しい愛情が、小次郎の胸へ湧いたからである。  館の廻廊を別殿の方へ、大仏陸奥守は歩いていた。  寝衣に着代えた入道の姿は、蟇が人間の形をして、歩いているとしか思われなかった。  手燭を持って先に立って、案内をして行く侍女の後から、酒と慾望とで身も心も、燃えるがようにほてらせて、その入道は行くのであった。 (怒る、罵る、泣く、拝む! ……が、俺は承知しない。……)  広大な庭のあちこちに、篝火が楔形に焚かれている、甲胄姿の軍卒が、槍や長柄を輝かせながら、警護している姿が見えた。 (戦陣にての楽しみといえば一に高名、二に掠奪、三に敵方の女を捕えることさ)  別殿の建物が廻廊の外れに、植え込みにかこまれて見えて来た。  あるかなしかにともされた灯で、別殿の奥の寝室は、淡い桃色にほのめいてい、引き廻されている銀屏風や、その中に豊かに華美に艶かしく、敷き設けてある夜の衾や、脇床に焚きすてて置いてある、香炉などを朧ろに見せていた。  恐怖と疲労からとであろう、浮藻は衾を引きかずき、髪の一摘みを見せたばかりで、屏風の中に打ち伏していた。  不安におののいているからであろう、衾に荒い呼吸づかいが、動きとなって現われている。  と、隣室に人気がし、 「お奥に……」  と女の声がした。 「よし」  という男の声が応じ、つづいて静かに立ち去って行く、女の衣摺れの音がした。  衾が恐怖で烈しく顫えた。  香の煙りが流れて来て、屏風を越した衾の上で、淡くウネウネと蜒って見せたが、はかないものの例えかのように、次第に薄れて消えてしまった。  と、襖があけられて、大仏陸奥守が現われた。  屏風の上から覗くように、中の様子をうかがったが、満足らしく微笑した。  やや手荒く屏風をひらき…… 「わッ」  と陸奥守はノケゾッた。  衾を踏んで突っ立ったは、金剛杖を握った範覚であった。 「おのれ! 曲者オ──ッ」  と陸奥守が、喚きを上げて起き上がり、逃げようとする脾腹の辺りを、金剛杖の二度目の突きが突いた。  ノビて、気絶して、巨大な入道は、そのまま動かなくなってしまった。  範覚はヒョイとうすら笑った。 (もろいなア)  とでも云ったようである。  それから範覚は屏風から出て、地袋の戸を引きあけた。  範覚のやった所業なのであろう、両手両膝をしばられて、猿轡までかまされた浮藻の姿が、痛々しくその奥に横仆わっていた。  そういう浮藻を小脇に抱えた、範覚の姿が風のような早さで、別殿から庭へ躍り出したのは、それから間もなくのことであった。 「曲者オ──ッ」  警護の軍卒が二人、素早く目付けて遮った。 「わッ」 「キャッ」  金剛杖の二薙ぎ!  風のような早さで走って行く!  が、警護の武士たちは、至るところの庭にいた。 「曲者オ──ッ」 「ソレ捕えろ!」  別殿が怪しいと思ったのであろう、数人がそれへ馳け込んだ。 「一大事、御大将が!」 「陸奥守様が! 陸奥守様が!」  柝が烈しく打ち鳴らされ、松明が八方へ飛び廻り、注進が四方へ伝えられた。 「夜討ちだ!」 「寝首掻きだ!」 「飛天夜叉かもしれぬぞ!」  館は混乱の場となり、歓楽の陣営が修羅の場と化してしまった。  この時、庭の小暗い所で、娼婦に姿をやつしていた、幽霊女と鶏娘とが、ひそひそ話を交わせていた。 「面白いからやっつけようよ」 「鬨をつくってやろう。夜明けの鬨を」  でも仄かに薄青く、他界的幽暗な光の輪に、身のまわりを囲まれながら、小次郎と浮藻との烈しい恋は、なおこの時も続いていた。  烈しい、濃やかな、むさぼるような、二人のくちづけは長くつづいた。  しかしこの時清朗とした、朝の鶏の啼き声が響き、それに誘われたか諸方から、鬨をつくる鶏の声が聞こえた。  ハッと小次郎は正気に返った。見れば幽暗として薄青い光も、二人の周囲から消えてなくなり、暗い寒い納屋の中に、今は素早く突っ立ち上がった、鬼火の姥の御幣のような姿が、細く高く立っていた。 「おのれ──ッ」  と怒った小次郎は、猛然として飛び上がった。 「穢わしや汝姥! ……たばかられたか残念至極! ……死におろ──ッ」  と、躍りかかった。  が、いまだに姥の力が、彼に影響しているものと見え、足にも腕にも力がなく、後方へドッと仆れてしまった。  と、その時戸が開いて、出て行く姥の姿が見えた。 「遁がしてなろうか、おのれ待て姥! この恥辱晴らさで置こうか!」  小次郎は追って出た。  館も庭も混乱していた。  一所では篝火の火が、亭に燃えついて火事を出してい、一所では軍兵同志が、夜討ちと誤信し、疑がい合い、同志討ちをして斬り合っていた。  白拍手や遊君は泣きわめきながら、部屋や廻廊を走り廻っていた。  その数人が恐怖のままに、部屋から部屋、廊から廊と、奥へ奥へと逃げて行った。 「ヒーッ」  と、一人が悲鳴をあげ、のけざまに倒れて気絶した。  二人の遊君は抱き合ったまま、足をすくませて動かなくなった。  遥かの奥に御簾がかかってい、そこへ陰火が燃え上がり、髪ふり乱し血を流した、女の幽霊があらわれたからである。  鬼火の姥は混乱の場を、右に縫い左に縫いして走って行った。  小次郎はそれを追っかけて行ったが、それは自分から追っかけるというより、姥の力が小次郎に働き、誘なって行くといった方が、あたっているように思われた。  館の庭から遁がれ出た時、 「姥!」  と、呼びかける声がした。  浮藻を抱いた範覚であった。 「おお範覚か、首尾は首尾は?」 「ごらんの通りだ──ッ……小次郎は?」 「従いて来るぞよ、あの通りだ──ッ」 「これからどうする?」 「静かな所へ!」 「それじゃア、林へ!」 「うむ、行け行け!」  橅や羅漢柏や落葉松などで、出来あがっている林があって、十七日の冴えた月光に、紗のように捲かれて静もっていたが、その中へ一同が駆け込んだ。  この頃金剛山の方角から、数十人の人影が、この林つづきをこの方角へ、さんざめきながら歩いて来た。  私娼、傀儡師、金剛砂売り、ふたなり、侏儒、吐蕃人、──そういう人々の群れであって、先頭に立って歩いているのは、鬼火の姥と範覚とであった。 「ちと陣中見舞いとしては、遅くなったので気がかりじゃよ」  巨大な御幣を腰に差し、自分も御幣さながらの躰を、夜風に、ビラビラ翻しながら、そう姥は心配そうに云った。 「総大将の大仏陸奥守様は、短気なお方だというからのう」 「ナーニ」と、範覚は一向暢気に、「これだけのお伽衆を連れて行くのじゃ、姥も我が身も優待されるのであろうよ」  云い云い、金剛杖を振り廻し、行く手の露草を払ったりした。 「それはわしはな、関東の人たちに、面目ないことをしているのだよ」  と、鬼火の姥は心外そうに云った。 「まだ例の連判状を、手に入れることが出来ないのだからのう」 「猩々にさらわれた連判状か?」 「そうだよ、司馬の大藪地でのう」 「あんな連判状が今になっても、そんなに姥には大切なのかな」 「わしにとって何んの大切なものか、北条様や武家方にとって、大変もない大切な品なのさ。……楠木多門兵衛正成という男が、突然宮方加担の兵を、こんな所へ挙げてしまった。噂によると日野資朝卿と、とうに約束が出来ていて、連判状にも名を記していたとよ。……備後では桜山四郎入道がこれも北条家討伐の、宮方の兵を挙げたそうじゃ。……ひょっとかするとこの入道なども、連判状へ記名している。その一人かも知れぬではないか」 「そうさな、そうかもしれぬのう」 「日野資朝卿は佐渡の地で、俊基卿は鎌倉の地で、つい最近首を斬られてしまった。……大塔宮様は赤坂の城へ、ご入城遊ばしてお遁がれじゃ。……この方々を糾問して、宮方加担の人々の名を、きき出すことは出来なくなった。……で、どうでも、連判状を手に入れ、それを知るより法はないのじゃ。……楠木正成、桜山入道、これくらいならまだよいが、その他に続々と旗上げされたら、いかな関東の力でも、抑えることは出来ないからのう」 「旗あげするものそうあろうかの?」 「こんな形勢になってくると、どこからどんなものが飛び出して来るか、とんと見当がつかぬものさ。……四国、中国、九州あたりには、気心の知れない大小名どもが、様子をうかがっているからのう。……それにお味方の連中にしてからが、味方頽勢と目星をつけると、平気で宮方に款を通ずるいうことにだってなるからのう」 「そんな裏切りの心の持ち主、お味方にもあるだろうか?」 「足利殿などあぶないそうじゃ」 「足利殿? 高氏殿?」 「そうよ。足利高氏殿よ」 「でも、あのお方は笠置攻めから、この赤坂の城攻めまで、神妙にご従軍されたがな」 「不承不承にご従軍なされたのじゃそうな」  この時、姥たちの後について、さんざめきながら歩いて来た。娼婦だの金剛砂売りだのが、声を合わせて歌い出した。 天王寺の妖霊星 見ばや見ばや妖霊星  歌につれて踊り出したのは、三尺足らずの侏儒で、頭ばかりが人並よりも大きく、手足が子供さながらの体を、独楽のように廻したり、凧のように泳がせたりした。  それに続いて踊り出したのは、韃靼服を着た吐蕃人で、わからない西域の蛮音で、吐蕃歌をうたって踊り出した。  みんなドッと声を揃えて笑った。  秋深い十月で、落葉樹はおおよそ葉を落とし、林はカラッと隙けていた。その隙間からは月光が洪水のように流れ込んでいた。  その月光に溺れながら、妖怪じみた一団は、踊りはやして行くのであった。  が、そういう一団を、遠景のように向こうに眺めて、こんな林には珍らしい、大銀杏の木の根もとの辺りに、小次郎と浮藻とを前に据え、鬼火の姥と範覚とが、黙然として立っていた。  と、 「小次郎や」  と、姥が云った。 「わたしが誰だかお解りかえ?」  それは桂子の声であった。 「小次郎様、浮藻様」  と、金地院範覚がつづいて云った。 「わたくしがおわかりでござりまするかな?」  風見の袈裟太郎の声であった。 「小次郎とも浮藻とも、別れなければならない時節が来たよ」  桂子の声は咽ぶようであった。 谷間の人々  三人の男が手をつないで、その周囲を廻っても、まだ余りはしないだろうかと、そんなにも太い銀杏の幹で、月光は完全に遮られ、闇のようになっているその中に、顔を見られるのを恥じながら、でも自分では相手の顔を、これが見納めといったように、食い入るように見詰めながら、桂子は云いつづけた。 「どうしているかと案じていたに、でもよく無事に帰って来たねえ。……いろいろ苦労をしたことと思うよ。……せっかく帰って来たお前たちなのだから、本来なればわたしとしては、早速館へつれ帰り、これまでどおり一緒に住みたいのだが、でももうそれは出来なくなったよ。……小次郎にはそれがおわかりだろうねえ。……三人一緒に住もうものなら、小次郎も浮藻もわたしまでも、苦しまなければならないのだよ。……ねえ小次郎やそうではないか」  桂子の声はしばらく途絶えた。  鬼火の姥たちの一団は、もう向こうへ行き過ぎたと見えて、歌う声もはやす声も聞こえなくなった。  小次郎は大銀杏の影から外れた、月光の中に浸りながら、浮藻を横にして坐っていたが、心はいまだに夢のようであった。 (浮藻だと思ってくちづけしたら、それが鬼火の姥であり、鬼火の姥だと思った人が、桂子さまであろうとは⁉)  肉親相愛に似た感情が、今彼の心を苦しめていた。 (桂子様は恋人ではない。お母様だ、お姉様だ、お師匠様だ、恋人ではない! ……そのお方と愛し合ったとは!)  顔を上げることさえ出来なかった。 「小次郎や」  と桂子は云った。 「わたしは自分を信じ過ぎていたよ。……わたしの心は昔に返った、今度小次郎に逢おうとも、邪の心など起こしはしまいと! ……でもそれは駄目だったよ。……お前が美し過ぎるからだよ。……浮藻や」  と桂子はいたわるように云った。 「この姉が許すによって、小次郎と夫婦になるがよいよ。……愛し合って末永くお添い!」 「お姉様!」  と浮藻は咽んだ。  今も彼女は夢を見ているような、そんな気持ちでいるのであった。  小次郎と引き放されて館へ入れられ、綺麗な部屋の衾の中へ入れられ、 「陸奥守様のお伽をするのじゃ」  と、そう侍女に云いきかされた。 (もしそんなことになろうものなら、舌かみ切って死んでやろう)と、心ひそかに覚悟していた。  と、そこへ意外にも、金地院範覚が現われて、自分をいましめ猿轡をかい、地袋の中へ入れた。  それから連れ出されてここへ来た。  その範覚は袈裟太郎だという。  夢を見ているような気持ちであった。 「可哀そうだが旅へおいで」  桂子は二人へ訓すように云った。 「世の荒波に揉まれ揉まれて、立派な人間になっておくれ。……わたしも、わたしも、一人で寂しく、でも清浄潔斎して、やはりお前たちに負けないような、立派な人間になるからねえ」 「お姉様!」  と浮藻は叫んだ。 「旅へなど! ……何んで! ……お姉様と別れて! ……いえいえ妾は! 何んで旅へなど!」  姉に許されて恋しい小次郎と、夫婦になるということは、浮藻にとって、例えようもない、嬉しいことには相違なかったが、この乱れた世に二人ばかりで、当てのない旅へ出るということは、辛い悲しいことであった。 「浮藻、小次郎や、お別れだよ」  桂子の声は情愛深い中に、苦痛と威厳とを持っていた。 「将来逢えるか、生涯逢えぬか、それは神様のおぼしめし次第。……おお、でも、妾としては、逢いとうない! ……夫婦となったお前達には!」  桂子は歩き出した。 「お姉様!」  と追い縋って、浮藻はその腕へ縋ろうとした。  それを小次郎はしずかに止めて、 「お別れいたすでござりましょう」  と云った。  彼も桂子と住むことは、その心が許さなかった。  恐ろしい悲劇と不倫とが、一家の中に起こるだろう! そういう不安があったからである。  地に伏し仆れて咽び泣いている浮藻と、地につつましく両手ついて、顔も上げずに坐っている小次郎、この二人を後に見すてて、袈裟太郎を連れて桂子は、足早に林を出て行った。  林の中が静まったので、子を育ててでもいるらしい、母鳥の優しく啼く声が、小高い梢の塒の中から、歌うように聞こえて来た。  小次郎は立ち上がった。 「浮藻殿、参りましょう」 「…………」  嗚咽の声を立てながら、浮藻は弱々しく立ち上がった。  黙って二人は歩き出した。  晴れて夫婦になれるという、その喜びはあったけれど、桂子に永久見すてられたという、その悲しみが二人を圧し、かてて前途に光明のない、放浪の旅へ出たという、この不安が二人の心を、重く苦しく憂鬱にしていた。 (これからどうなることだろう?) (これからどうしたらよいだろう?)  黙々として二人は歩いて行く。  と、不意に二人の行く手の、煙りでもこめているかのように、蒼白く見えている月光の中へ、梢から舞い落ちた白い物があった。  それは巨大な猩々であった。  浮藻は思わず小次郎へ縋り、小次郎は足を止めた。  と、にわかに浮藻は喜びの声を、なつかしさをこめて響かせた。 「卯ノ丸だわ! 卯ノ丸だわ!」  そうしてそっちへ走って行った。  小次郎も後を追った。  赤坂城攻撃のはじまったのは、その翌日のことであった。  馬鹿にしきった寄せ手の勢は、馬乗り放し乗り放し、われ先にと堀へ飛び込み、櫓の下へ立ち並びこみ入ろうとひしめいた。  と、櫓の狭間から、二百人あまりの射手の射る矢が、拳下がりの狙いうちに、篠のように射出だされた。  密集した勢への狙いうちであった。ほとんど一筋の空矢もなく、わずかの間に千人あまり、寄せ手は死人と負傷者とを出した。  寄せ手は案に相違して、 「この城意外に手強いぞ、一旦しりぞき陣を立て直せ」  と、狼狽しいしい退いた。  と、左右の小山の蔭から、菊水の旗二流れあらわれ、三百余騎が殺到して来た。  正成の舎弟正季と、一族の和田正遠とが、隠し伏せて置いた勢であった。  二手は左右から寄せ手の勢の中へ、鶴翼をなして駆け入って、忽ち魚鱗に一変し、ふたたび鶴翼に散開し、さらに魚鱗に備えを変え、さながら一心同体かのように、開いては閉じ閉じては開き、眼にあまる寄せ手の大軍を、縦横無尽に駆け散らした。  と、城の三の木戸が開いて、二百人の射手が走り出して来、右往左往している寄せ手を目がけ、差しつめ引きつめさんざんに射た。  こうして寄せ手は全く敗れ、前の陣から後の陣と、次第次第と崩れ立ち、五十町あまりも退いて、ようやくそこへ止どまることが出来た。  で、その間の地上には、死骸や武器や旗さし物やが、狼藉として捨てられてあり、夜になった時、野武士の群れが、死骸の肌つき金を奪うために、また甲胄を剥ぐために、どこからともなくあらわれて来た。  そういう夜の宵月に照らされ、城門のような岩壁の前に、桂子が立っていた。  側には右衛門と袈裟太郎とがいた。  桂子は可愛らしい百姓娘、右衛門はその父親、袈裟太郎はその使僕──そんな風に身をやつしていた。  山へ枯れ木や枯れ草とりに行き、道に迷ったという風であった。  三人の前に聳えているものは、数日前に右衛門と一緒に、猩々卯ノ丸の後を追って来て、はからずもぶつかった城門のような、厳めしい姿の岩壁であった。 (何がなしに気にかかる)  で桂子は岩壁の奥を、こっそり探ってみようと思って、二人を供につれて来たのであった。  三人は木蔭に身をかくして、驚くべき光景を見ているのであった。  というのは岩壁の左側から、甲胄をつけた野武士らしい男が、五人十人あるいは二十人と、松明を振って現われ出で、罵ったり笑ったり歌ったりしながら、谷間の道を赤坂の方へ、さも元気よく行くかと思うと、そっちの方からは同じような野武士が、今日の戦場から剥いで来たらしい、鎧や胄や太刀や長柄や、旗さし物などを携えて、これも元気よく帰って来て、岩壁の右側からはいって行き、出る者と入る者とが顔を合せると、 「仕事はどうだった?」 「まず上首尾」 「まだ獲物はあるだろうな?」 「うむ、まだまだ獲物はあるが、東城の気の強い百姓どもが、本職の俺たちの真似をして、戦場あらしをやっているから、早く行かないとなくなってしまうぞ」  と、こんなことを云い合っているからであった。 「右衛門や」  と桂子は云った。 「岩壁の背後に何があるか、やっとわたしには見当がついたよ」 「何があるのでござりましょうかな?」 「野武士たちの巣窟があるのだよ」 「それに相違ございません」  と、風見の袈裟太郎が合槌を打った。 「それも大掛かりの巣窟が」 「面白い出来事にぶつかりそうだよ、さあ中へはいってみよう」  そこで三人は岩壁に添って、左側の方へ行ってみた。  岩壁につづいて平行している、山の斜面から灌木の枝葉が、こんもり外側へはみ出しているので、正面から見るとそんな所に、道などありそうにも思われなかったが、行ってみると細い道があった。  その道を通って進んで行った。  すぐに岩壁の内側へ出た。  と、そこに番小屋があって、得物をたずさえた武士が数人、守衛のように立っていた。 「これお前たちは何者だ?」  と、その中の一人が声をかけた。  三人は意外な厳重さに、ヒヤリと心を冷たくしたが、気転の利く袈裟太郎が進み出て、 「わたくしどもは東城の百姓、山へ枯れ木とりに参りましたところ、いつか道に迷いまして……」 「なるほど」  と武士は頷いたが、 「それで鉞など持っているのか」  と、右衛門が持っている自慢の品へ、苦笑しながら指さした。 「へい、さようでございます。枯れた大木などあの大鉞で、切り倒すのでございます」 「ここがどこだか知っているか?」 「存じませんでございます」 「はいったが最後出られない処だ」 「…………」 「漢権守様のご領地じゃ」 (まあ)  と桂子はそれを聞くと、心の中でそう思った。 (有名な漢権守の領地なのか。……恐ろしい処へ来てしまった)  漢権守はこの時代における──いやずっと上代から、そうしてずっと後世にまでも、謎の人物として恐れられ、また憎まれている怪物であった。  漢という姓が示しているとおり、これの祖先は漢土の帰化人で、その主長の一人には、飛鳥朝の大立て者、蘇我入鹿と結託し、わが国の朝野に大勢力を揮った、有名な漢直がある。  が、大化の新政が成って、蘇我氏一族が滅ぼされるや、漢氏もことごとく勢を失い、一族四方へ流遇し、その一派は武蔵へ流れ、これは高麗の帰化人であるところの、背奈氏と合してその土地に住み、他の一派は京都洛外の、太秦辺に住居して秦氏の一族と合体したりしたが、宗家は代々摂津、和泉、河内、この三国に潜在して、勢力を揮ったということである。  その職業とするところは、野武士や賎民の頭として、それを部下とし養って、合戦ありと聞き知るや、勝ちそうな大将の陣へ行って、我らお味方いたすによって、これこれのご褒美いただきたいと云い入れ、一隊を率いて戦場へ出、先陣をかけたり横槍を入れて、戦いを勝利に導くのが一つ、合戦の終えた後において、その戦場へ出かけて行き、落ちている武具や肌附け金を奪い、または敗れて逃げ行く武士を、途中に襲って首級を取り、勝った方の陣へ持って行き、恩賞にあずかったということである。  そうかと思うと美女を養い、娼婦としての訓練をし、諸大名や長者や廓などへ売り込み、また戦いの陣営などへも送って、利得あげたということである。  美少年もまた訓練し、売買したということである。  さらに諸国から不具の男女を、部下の手をもって誘拐して来、それにいろいろの芸を仕込み、一座を組ませて諸方へ送り、興行をさせたということでもある。  港々へ部下をやり、漂流して来た異邦人をさえ、自分の住居へつれて来て、特色に応じて芸を仕込み、お伽衆として売ったということでもある。  いわば香具師の大親方であり、また人買いの大親方でもあり、野武士の大将、娼婦の大主人、盗賊の巨魁でもあるのであった。  ところでもっとも奇怪なことは、誰一人として漢権守の、本当の姿を見た者がなく、だから事実は漢権守という、そういう人間は存在していないで、一つの団体の名称に過ぎないと、そう云われていることであった。  そうかと思うといやそうでない、漢権守は実は女で、それも非常な美人だよと、こんなように云う者があるかと思うと、老人だと主張する者などもあった。  が、偽りない真相は、やはり漢権守はあるのであるが、眼の所へ二つの穴をあけた、全身を包む黒の被衣で、その体を蔽うているので、同じ館にいる腹心の部下にも、本当の姿がわかっていない。──ということであるようであった。 「おいどうしよう?」  と番小屋警備の、守衛の武士が朋輩へ云った。 「こやつら三人どうしたものかな?」 「さようさ」  と朋輩の武士は云った。 「求めてこっちから連れて来たのでなく、向こうから迷い込んで来たのだから消してしまうのがいいだろう」  消すというのは殺すことらしい。 「が、娘はあのとおり綺麗だ」 「娘だけ送り込むか」 「ともかくも三人送り込んで、係りの者に取捨させたがいい」  と、三人目の武士が云った。 「では貴公送って行け」 「よし」  と、その武士は番小屋から出て、桂子たち三人の前へ立った。 「来い、よい所へ案内するから」 生ける白布  三人はその後へついて行った。  小広い道が出来ていて、その左右は杉並木であり、左側は山の斜面であったが、右側は丘から丘に通じた、丘陵地帯をなしていた。  並木道には松明の光が、行ったり来たりして織をなしていた。  戦場へ掠奪に行く者と、掠奪から帰って来た者との、振り照らしている松明であった。  おおよそ一里も歩いた頃に、小山の上に造られてある、城めいた建物を中心に、二百軒あまりの人家が立っている、そういう町のような一所へ来た。  ある一軒では武士の群れが、長柄の血のりを拭ったり鎧の千切れをつくろったり、鏃の錆びを落としたりしながら、碗で酒をあおりあおり、今日の赤坂の戦いについて、批評や噂をやっていた。  そうかと思うと一軒の家では、若い美しい女たちが、笛や鼓の稽古をしていた。物売る店があるかと思うと、刀鍛冶の工場などがあった。  露地や小路では男や女が、何やら話し合って笑ってい、犬はその間を駈け廻り、馬は、厩舎でまぐさを食い、子供は喧嘩をして泣いていたりしている。  漢権守の城下であって、元からの家臣はいうまでもなく、掠奪されて来た女たちや、誘惑されて来た不具者なども、この城下に家を構えて住み、各自の生活をいとなみながら、しかも漢権守の監督を受け、めいめいの身に相応した芸や、相応した業を修得し、売られて行く日や派遣される日を覚悟して待っているのであった。  そういう一画を桂子たちは、案内の武士に導かれながら、お城の方へ歩いて行った。  そういう三人を眺めながら、 「可哀そうにあの三人も、お城でさんざん虐められたあげく、俺たちの仲間へ下がって来るのだよ」  と、こんなことを云っている老婆もあった。  やがて小山の麓へついた。  そこに一つの石の門があった。  案内の武士が、衛兵らしい武士に、何やら数語かたったかと思うと、衛兵らしい武士は門をあけた。  で、三人はその門を通り、かなり急の坂を城の方へ登った。  道の左右は自然石を畳んだ、いかめしい石の垣であって、道が人間の腸のように、うねりくねっているのに添い、石垣もうねりくねっていた。  ところどころに門があり、門には衛兵が立っていた。  そうして門へ行きつくごとに、案内の武士は何か囁き、囁くと衛兵は門をあけた。  宏大な城を頂上に持った、この小山には樹木がなく、文字通りの禿げ山であった。  もちろん人工でそうしたので、それは城内で、苛責に堪えず、逃亡しようとする捕われ人どもが城から外へ逃げ出した時、樹木があったら隠れられるであろう。それを防ぐために、そうしたのであった。  とうとう城の前庭まで来た。  城の外廓が鉄板で鎧った、宏大極まる桶かのように、桂子たちの眼前に聳えていた。  と、桂子が二言三言、何やら袈裟太郎へ囁いた。  すると袈裟太郎は頷いて、そっと案内の武士の側へ寄り、横腹のあたりへ拳をあてた。 「!」  異様な悲鳴をあげたばかりで、案内の武士は気絶して仆れた。 「その男の上帯をお取り」  桂子はそう云った。  今は可哀そうな案内の武士の、一丈あまりの白い上帯が、袈裟太郎の手によってほぐされた。 「その男を始末おし、そうしてわたしがおいでというまで、お前たちはこの辺で待っておいで」  白の上帯を受取りながら、桂子は右衛門と袈裟太郎とへ云った。 「で、お姫様にはどうなされます?」  と、心配そうに右衛門は云って、大鉞の柄へ頤をのせた。 「わたしは一本の白布となって、お城の中へはいって行くのさ」 「ははあ上帯に身を変じて?」 「そうだよ、上帯に身を変じてね」 「お一人で大丈夫でございましょうか」  と、袈裟太郎が不安そうに云った。 「飛天夜叉には危険はないよ」 「さようで」  と右衛門が大きく頷いた。 「飛天夜叉様は術者でございますからなあ」  気絶して仆れている案内の武士の、死骸のような躰の横に、佇んでいる右衛門と袈裟太郎には、田舎娘に扮していたところの、桂子の姿が見えなくなり、鉄板でも張ったような城壁の裾を、白布が高く宙に延び、二尺あまり地上へ裾を引き、月光に全身を薄蒼く染め、煙りの棒のように揺れ顫えながら、玄関の方へ動いて行く姿が、悪夢のように見えるばかりであつた。  この前庭には人気がなく、遠くで鳴らしている撃柝の音が、間遠くに聞こえるばかりであった。  城壁の角を玄関の方へ、生ける白布は曲がろうとして、二人の方へ顔を向けた。  一本の白布に過ぎないのであるから、もちろん顔も手足もなかった。  が、顔のあるべきてっぺん所から、一尺ばかり下がった辺──だからそこは頸でなければならない。──その辺から白布が背後の方へ捻じれて、二人に向かって上下へ揺れた。  で、あたかも顔をねじ向けて、挨拶したように見えたのである。  二人の家来は辞儀を返した。  城内の廊下を生ける白布が、奥の方へ歩いていた。  足のない白布ではあったけれど、二尺あまり裾を床へ引いて、膝のある所と思われる辺へ、蜒りをつくり襞をつくり、しずしずと先へ辷って行く様子は、白衣を頭からスッポリとかずいた、上﨟が歩いて行くのと変わりがなかった。  廊下はぼっと明るかった。  曲がり角曲がり角に金網で葢うた、巨大な燭台が置いてあって、その光が遠くまで届くからであった。  と、行く手から腰元らしい姿の、若い女が二人来かかり、いぶかしそうに足を止めて、寄って来る白布を見寄った。 「…………」 「…………」  二人は声さえ立てられなかった。手を取り合い躰をもたれ合わせ、そのまま気絶して仆れてしまった。  この夜この城の一つの部屋に、土岐頼春が端座していた。  膝の上には巻軸が置いてある。  彼はどこからともなく聞こえて来る、嬰児の泣き声に耳を澄ましながら、心を滅入らせるのであった。  五人の野武士に誘われて、この城内へ来て以来、夜となく昼となくまれまれにではあるが、その嬰児の泣く声が聞こえた。  そうしてそれをあやすらしい、優しい細々とした女の声の、子守唄の声が聞こえることもあった。 泣きそ、な泣きそ 和子よ和子よ  と。……  頼春はその声を耳にするごとに、深い悲哀を感じるのであった。後悔に似た悲哀であり、郷愁に似た悲哀であり、過去に行なった罪悪を、霊魂によって責められている、と、そういったような悲哀でもあった。 「ああ今夜もまた聞こえる」 (この巻軸も不思議なものだ)  膝の上のその品をまさぐりながら、頼春はそう思った。  比叡山の裏山で、左の腕を斬り落とされ、谷の底へころがり落ちた時、偶然石の祠から、手に入れたところの品なのであるが、この品を手中に入れた時から、一匹の巨大な猿猴のような獣が、たえず自分の近くにいて、守護するように思われてならなかった。  盲目の頼春にはその巻軸に、何が書かれてあるものかは、まったく知ることが出来なかった。  時々その巻軸を人に見せて、読んで貰おうかと思うこともあったが、それが何んとなく非常に大切な、また重大な秘密を持った、尊い品物のように思われて、 (いやいや人などには見せない方がよかろう)  と今日まで誰にも見せることなく、秘密を保って来たのであった。  また嬰児の泣き声と、子守唄の声とが聞こえて来た。 (思い切って行って見ようか?)  珍しく頼春はそう思った。  こうまでも悲哀の心持ちを、こうまでも深刻に起こさせるところの、泣き声の主と唄声の主とが、何者であるかということについて、彼はこれまでは一度として、確かめてみようとはしなかった。  その真相を知ることによって、恐ろしい苦痛を覚えそうだと、こう思われたからであった。  それに彼はこの住居が、漢権守の居城だと、食膳の世話や寝起きの世話をする、若い女から聞かされた時以来、一足もこの部屋から出なかった。  捕えられたら遁がれられない。恐ろしい漢権守の住居の、身の毛の立つような噂話を、久しい以前から聞いていたからであった。 (笠置の城が陥落して、大塔宮様が赤坂の城へ、遁がれてお入り遊ばされたそうな。この御方にお眼にかかり、許すとのお言葉承わりたいばかりに、生きているような自分なのだが、はいったが最後出ることの出来ない、ここの住居へ来た以上、望みは絶えたというものだ! ……では俺は部屋から一歩も出まい!)  それで彼は出ないのであった。  盲目の身の燈火はいらず、部屋の中はほとんど闇であったが、金網をかけた火鉢があって、そこで炭火が盛んに熾っていて、その余光で頼春のこけた頬と、窪んでいる眼との寂しい顔が、赤くポッと見えていた。  不意に廊下から悲鳴が起こり、人の仆れる音が聞こえた。  素早く巻軸を懐中へ入れ、傍を放さない竹の杖を取ると、頼春は立ち上がり、ソロソロと引き戸をひきあけた。  そのほとんど鼻の先を掠めて、丈高い白布が裾を引き、垂直に立ちユラユラと揺れ、廊下を一方へ辷って行き、その後方に近習らしい武士が気絶して仆れていた。 (女が俺の前を通って行く)  頼春はそう思った。  盲目なるがゆえに気絶している武士も、生ける白布の辷って行く姿も、かいくれ認めることが出来ず、盲目になって以来鋭い感覚が、いよいよ鋭く磨ぎ澄まされた、それによって女が通って行くと、かえって真相を識ったのであった。  また嬰児の泣き声が聞こえた。 (行ってみよう、思い切って!)  頼春は廊下へ出、泣き声の聞こえる方へ足を運んだ。  それは白布の行く方角であつた。  廊下が鉤の手に曲がっていて、それを曲がって左へ行けば、広い中庭へ出ることが出来る。  白布と頼春とはそっちへ進んだ。  中庭にお長屋が立っていて、その一軒の窓に向いた部屋に、膝に嬰児を抱きながら、早瀬がうなだれて坐っていた。 (お月様でも見せてやったら、この子たいがい泣きやむかもしれない)  ふと、早瀬はこう思い、立ち上がって次の間へ出、土間へ下りて戸をあけた。  望を過ごした月の光が、すぐの足もとまで射して来ていた。  胸に嬰児を抱きながら、顔に依然として白布を下げた、姑獲鳥のような早瀬の姿は、やがて煙りか寒冷紗のような、月光の中へさまよい出た。  足もとを見詰め、物思いに耽けり、あたりなど見ようとしない彼女だったので、彼女の背後から白布の柱と、竹の杖を持った盲目の男とが、ひっそりと歩いて来ることなどには、気が付こうとはしなかった。  植え込みの少ない中庭ではあったが、桧の木ぐらいは立っていた。  頼春の姿があらわれた時、その葉の茂みから巨大な獣が、雪の塊りのように落ちて来て、頼春の背後から従った。  こうして片側は本丸の建物、反対側はお長屋の並び、それによって画され作られている、長方形の中庭を、姑獲鳥と布柱と盲人と、猩々との縦隊は声なく進み、その行く手の遥かのあなたには高く厳めしく聳えている、別櫓の方へ蠢めいて行った。 (やっと少し、わたしは幸福になった)  泣きやんだ嬰児を睡らせようと、拍子を取って揺りながら、この住居へ来てからの生活についてそう早瀬はつくづく思った。  赤坂のほとりの雑木林の中で、野武士と若い女とに、ついて来るように勧められて、彼女はここへ来たのであった。 「嬰児に飲ませるお乳もあります」 「綺麗なお部屋もおいしいご馳走も、清らかなお衣裳も差し上げましょう」 「わたしたちの住居へおいでなさいまし」  と、こう勧められて来たのであった。  嬰児に飲ませるお乳がある! このことが一番彼女の心を、ここへ来させるようにしたのであったが……  さて、本当にここへ来てみて、その人達の云ったことが、みんな真実であることを知って彼女は驚喜し感謝した。 (大慈善家のお城なのだよ)  こう思わざるを得なかった。 「何んというお方のお城なのですか?」  世話をしてくれる小娘へ、ある日彼女はこう云って訊いた。 「漢権守様のお城でございます」  と、その娘は言葉すくなに答えた。 「いつまでご厄介になれましょうか?」 「永久にでございます」 「永久に? ……でも、わたしとしましては……尋ねる人がありますので、早晩おいとまいたしませねば……」 「はいったが最後出られません」 「まあ」  と、早瀬は笑い出してしまった。  信じられないからであった。  城内はどこを歩いてもよいが、城外へは決して出てはいけない。誰と何を話してもよいと、そう娘は教えてくれた。 「下の町へも参れませんの?」  と、審しそうに早瀬が訊くと、 「いずれはあそこであなた様も、お住居になることでございましょうが、まだ時が参りませぬゆえ」  と、その娘は気の毒そうに答えた。  早瀬は、これまでの習慣から、人と話すことを好まなかった。  そうして、昼間は部屋から出ないで、夜になるのを待ちかまえて、一人でこっそり歩き廻ったりした。  お城にもお長屋にも沢山の人が、生活しているように思われた。 (それだのにどうして陰気なんだろう?)  これが早瀬には気にかかった。  妖怪画のような縦隊は、別櫓の方へ進んでいた。  五重の層を持った別櫓の、頂上の部屋に鬼火の姥が、水盤の水を見詰めながら、傍らの範覚へ云っていた。 「今夜は用心しなければいけない。変な者が入り込んだらしいぞ」 活躰解剖 「姥よ、何んだ、変なものとは?」  例によって金剛杖をつきそらせ、それへ体を縋らせながら、そう金地院範覚は云った。 「変なものとは変なものよ。それがハッキリわかるほどなら、変なものとは云いはしない」  姥の声は不機嫌そうであった。  櫓の部屋は広く頑丈で、正方形に出来ているらしく、床も天井も組細工で、壁には窓や狭間があって、格子がはまっているらしかった。  が、今は芯を細めた、一基の燭台の幽かな光が、わずかに四辺一間四方ぐらいを、明るめているばかりだったので、その光の輪の中にはいっている、範覚の姿と姥の姿と、姥の膝の前の床の上に、水を湛えて置いてある。白い陶器の円い水盤とが、ぼんやりと見えるばかりであった。  水盤の面は燈光を受けて、磨いた銅板のそれのような、気味の悪い光に輝いていた。  でも、そこには物の像など、何も映っていなかった。  で、範覚は首をのばし、水盤の面を凝視したが、 「わしには何も見えぬがのう」  と、云った。 「何が凡眼に見えるものかよ」  と、すぐに姥はセセラ笑うように云った。 「わしの眼にだけ見えるのじゃ」  そういう姥の眼は水盤の面に、食い入るように注がれていた。 「白い高い柱のようなものじゃ。そいつがユラユラと歩いて来るのじゃ。……その後から子を抱いた女が一人、その後から盲目の男が一人、その後から白い猩々が一匹、間をへだてて従いて来るのじゃ」 「人間ではないのか、柱なのか? ……柱が歩くとは変ではないか?」 「だから変な物といっているのじゃ! ……おかしいのう、どうもわからぬ」 「姥にもわからぬ事があるのかのう」 「わしと同じくらいの術者なら、わしより優れた術者なら、そいつのやる仕業は、わしにはわからぬよ」 「姥より偉い術者などあるものかのう」 「なければよいが、あるような気がする」 「飛天夜叉! ……飛天夜叉の桂子!」 「あいつにはこの頃、後手ばかり食うよ」 「大仏陸奥守様の陣中でも、ひどい後手を食ったのう」 「わしやお前の身に変身されて、とんでもない騒動を起こされてしまった」 「その後へ行ったわれら二人の、疑がわれようというものは!」 「冷遇され方というものは!」 「思っただけでも腹が立つわい!」 「ほうほうの態で逃げ帰ったわい!」 「白い高い柱のようなものが、飛天夜叉めの変身じゃとすると、姥うっちゃってはおけぬのう」 「何のうっちゃっておけるものかよ」 「さて、そこでどうする気じゃ?」 「今度は、わしが先手をうつのさ」 「打ちな、姥、先手を打ちな! ……が、何んじゃい、打つ先手は?」  すると、姥は水盤の面を、依然として熱心に見詰めたまま、あるかなしかに残忍に笑った。 「漢権守様の行なわせられる、活躰解剖の今夜の犠牲に、さあ何物があてられるかのう」  範覚は、ゾッと身顫いをした。 「ああ今夜もあいつがあるのか」 「女を男に変えるのじゃ」 「苦痛に充ちたあの悲鳴! あれにはわしもおののくよ」 「男を女のように一変して、宦官といって宮廷などへ入れる。そういうことは唐土にあるそうじゃ……女を男のように変えてしまって、変態ごのみの富豪へ捧げる、そういうことだって唐土にはあるそうじゃ。……漢権守様のご先祖は、唐土のお方であられる筈じゃ……嬰児の眼をわざと潰し、瞽婢といって色を売らせる、そういうことも唐土にはあるげな。……顔の前へ白い布をかけた、姑獲鳥のような女が抱いている子も、漢権守様のお手によって、やがては瞽婢にされるであろうよ」  範覚は突いていた金剛杖で、思わず床を烈しく突いた。 「そんな話はやめてくれ! あんまり酷い! あんまり惨酷だ! ……俺もずいぶん殺生な男で、殺人など何んとも思っていないが、嬰児の眼を潰すほどの、そんな惨酷だけは出来そうもない! ……姥、頼む、ここから出してくれ! ……いや一緒にこの城から出よう! ……それにしても俺には不思議でならない、何んと思って鬼火の姥には、こんなところへやって来たのだ⁉」 「帰って来たのじゃ、この城へよ! ……時々この城へ帰って来て、住まねばならぬわしなのじゃ」 「では何んだ、姥の身分は? この城での姥の身分は?」 「やがて知れよう、じっとしていな。……とにかくこの城へさえ帰って来れば、鬼火の姥の力も業も、外にいる時より百層倍も強まる! ……範覚よ、安心していな。安心してわしに縋っていな」  この時巨大な真鍮の銅鑼でも、強い力で打ったらしい、陰気な金属性の音が聞こえ、それが長い尾を引いて、城の隅々へまで行き渡った。 「漢権守様のお出ましの時刻じゃ」  姥はユラリと立ち上がり、燭台の灯を吹き消した。  と、この部屋は暗黒となり、巨大な御幣のような姥の姿が、ぽっと灰白くその闇を分けて、戸口の方へ歩くのが見え、その扉のひらく音が聞こえた。  範覚だけが後に残っていた。 (漢権守様のお姿を、俺は一度も見たことがない。……見てはいけないと云われてはいるが、今夜は是非とも見たいものだ)  範覚は闇の中に佇みながら、このことばかりを考えた。  一人の侏儒が長い廊下を、巨大な頭を左右に振り、子供のようにヨチヨチした歩みで、でも一生懸命にはしりながら、廊下の左右に出来ているところの賓客──むしろ囚人ともいうべき、捕われ人たちのいる部屋部屋の窓と、その扉とを閉鎖していた。  扉へは外から錠を下ろした。  その侏儒が廊下を曲がって、ほかの廊下の方へ姿を消した時、鈴の音が聞こえて来た。  と、廊下の遥か向こうへ、血紅色をした灯の光が、一点朱を打ったように現われたが、それがだんだん近寄って来た。  漢権守様の一行なのである。  黒の法衣を着た老いた僧が、青銅で造った大形の龕燈を、両手で重そうに捧げた後から、稚子輪に髪を結って十五、六の美童が、銀の鈴を振りながら、側目も振らず歩いて来、その後から具足をつけた二人の武士に、その左右を護衛されながら、眼のある位置へだけ二つの穴をあけた、白の裾長の被衣めいたものを、分銅形に着た漢権守が、その背後に活躰解剖の犠牲を、担架に載せたのを従えて、悠々と足を運んで来た。  担架の上の犠牲者の体には、布が一杯にかけられていたので、何者であるかわからなかった。  担架の後からは盆を捧げた、道服を着た医師めいた男が、盆の上に整然と並べられている、小刀、小槌、小鋸、生皮剥ぎの薄刃物、生き眼刳りの小菱鉾、生爪剥がしの偃月形の錐、幾本かの針といったような物を、大切そうに見守って、厳粛の顔をして従いて来た。 「漢権守様のお通りじゃ、覗いてはならぬぞ、隙見してはならぬぞ」  と、そう警戒を与えるかのように、鈴の音は絶えず鳴り渡っていた。  その一行が進み進んで、一つの賓客部屋の前まで来た時、漢権守は足を止めた。  と、みんな足を止めた。  何か権守は囁いたようであった。  すると、警護の一人の武士が、その部屋の窓の前へ行き、まず拳で戸を叩き、それからその戸を外から開けた。  と、鉄格子のはまっている窓から、一つの男の顔が覗いた。  また、権守は何か囁いた。  すると、龕燈を持っていた僧が、担架の側へ歩みより、蔽いの布の片隅をかかげた。  眼を閉じ口を閉じた女の顔が、血紅色の龕燈の光に、瑪瑙のような色艶を帯びて、悲しそうに浮かび出た。  と、窓の顔が悲鳴するように叫んだ。 「浮藻だ! 浮藻だ! 浮藻ヨ──ッ」  女の眼が瞼をあけた。 「あッ、あッ、あッ、小次郎様ア──ッ」  蔽いの布が波を立てた。  起き上がろうとするのであろう。  が、血紅色の龕燈の光を、血溜りのように、浴びている布の下の、浮藻の体は縛られていたので、血溜りに波を立てたばかりで、起き上がることは出来なかった。  浮藻の顔が布で隠され、小次郎の顔が閉じられた戸の、窓の向こう側に隠された時、漢権守の一行は、廊下を向こうへ歩み出した。  窓の戸を叩き、部屋の扉を蹴り、詈り、叫び、やがて嘆願する、小次郎の声が部屋の中から嵐のように聞こえて来ても、それに答える何物もなかった。  血紅色の龕燈の光が、遥かの廊下の向こうに見え、そこから鈴の音が聞こえるばかりであった。  それも廊下を曲がったと見えて、間もなく見えなくなってしまった。  叫びつかれ、狂いつかれて、小次郎は俯向きに仆れてしまった。 (おお浮藻はどうなるのだ! おお浮藻はどうされるのだ!)  活躰解剖の犠牲にされて、不具者にされるということだけは、疑がいないように思われた。  その活躰解剖の恐ろしい苦痛も、人に聞かされて知っていた。 (生きながら浮藻は切られ刻まれて、不具者にされるのだ)  その浮藻とは卯ノ丸に導かれ、この城の中へはいって以来、引き放されて別々にされ、今まで逢うことが出来なかった。  そうしてまことに不思議なことには、この城の他の囚人たちは、この城の中ならどこへなりと大概の所へは行くことを許され、ほとんど自由を許されていたのに、彼ばかりには許されていなかった。  で、彼はこの城へはいって以来、この部屋ばかりに寝起きしていて、食事の世話や身のまわりのことなどは、一人の老婆によって扱かわれていた。  そうしてここが漢権守の、恐ろしい住居ということや、活躰解剖の真相なども、その老婆から聞かされた。  もっとも彼はそれ以前から、漢権守という人物の噂や、 (はいったら永久出ることの出来ない、この世の活き地獄)であるその居城の、凄じい噂は聞き知っていた。 (それにしてもこの城へはいって早々、浮藻が活躰解剖の、犠牲などにされようとは!)  小次郎は猛然と床から飛び起き、扉の方へ走って行った。 「開けろ! あけてくれ! この扉をあけろ! ……助けないでおこうか、助けないでおこうか! ……浮藻よ浮藻よきっと助けるぞよ! ……おおおお頼む、この扉をあけてくれ! ……」  小次郎は全身を力まかせに、扉へ叩きつけ叩きつけた。  もちろん扉は開かなかった。  そうして誰もが答えなかった。  しかし小次郎は扉のあかないことも、そうして誰もが答えないことも、覚悟の前だといったように、いや誰かに答えさせてやる、きっと扉はひらいてみせると、そう決心しているかのように、いつまでもいつまでも執念ぶかく、叫び、呼び、喚きながら、躰をうちつけうちつけした。  活躰解剖の手術の部屋の、手術台の上に浮藻の体は、一人しずかに置かれてあった。  浮藻も小次郎と同じように、漢権守の人物と、その恐ろしい居城とについては、ずっと以前から、聞かされていた。  そうして卯ノ丸に導かれて、この城へはいって来て、小次郎とひき放され、一つの部屋に住居させられ、寝起きの世話や食べ物の世話などを、とりしきってやってくれる老婆から、ここが漢権守の居城であることを、言葉少なに説明された時、もう自分の運命の、窮まったことを覚悟した。 (泣いても喚いても遁がれることは出来ない)  でも彼女はこんな境遇にいても、自分のことよりは小次郎のことが、しきりに気づかわれてならなかった。 (生きているか、殺されたか、どこに住んでいるか、病んではいないか?)と。──  で、彼女は老婆に訊ねた。 「あのお方はおたっしゃでございます」  老婆の答えはそれだけであった。  彼女も小次郎と同じように、城内を自由に歩くことも、人と自由に話すことも、許されていなかった。  で、彼女はこの夜まで、自分の部屋にだけに住んでいた。  そこへさっきのあらくれた男が、二人突然はいって来て、彼女を縛り担架にのせた。  活躰解剖の恐ろしい噂も、彼女は聞かされて聞いていた。 (いよいよそれに!)  と彼女は思った。  抗うことの愚かしさ、許しを乞うことの無益さを、その瞬間から彼女は悟った。  ほとんど気死の状態で、彼女は廊下を揺られて来た。 (小次郎様は? 小次郎様は?)  その間も彼女の思っていることは、恋人小次郎のことばかりであった。  窓ごしにではあったけれど、その小次郎の顔を眼に入れた時の、彼女の心持ちというものは⁉  喜びでもあれば悲しみでもあった。  台の上で白布に蔽われ、今浮藻は眼を閉じている。  瞼の下の頬のあたりが、涙ですっかり浸されている。  睫毛の厚い切れの長い、でも泣いたため膨れぼったい瞼が、やがて痙攣して眼があいた。 「あッ」  足もとの方を眺めた時、彼女は思わず声を上げた。  巾三尺長さ六尺、そういう立て板に一人の男が、革紐で結いつけられていた。  それは裸体の男であり、活躰解剖を行なわれ、そのまま捨て置かれた犠牲者らしく、胸から腹、腹から股、股から爪先まで血の簾が、紅絹を裂いて懸けたかのように、いまだにヌルヌルと流れていた。  顔は全く解らなかった。  人間の男の頭髪の代わりに、何んの獣ともわからなかったが、獣の毛が頭に生えていて、それが前方へパーッと下がり、顔をかくしているからであった。  浮藻は眼を閉じ躰を固くした。  悪寒が全身を貫き通し、顫えがどうしても止まなかった。  そういう浮藻を枕もとの方から、これも立て板に結いつけられた、裸体の女が見下ろしていた。  が、その女の二つの乳房は胸のどこにも見られなかった。  その女には乳房がないのであった。  で、そこだけが窪んでいて、二つの珠が箝め込まれていて、その珠の中央に、漆が点ぜられていた。それはそっくり眼であった。  そうして、臍のある位置にあたって、三日月を下向きに懸けたような模様が、黒く刺青されていて、わずかにその女が呼吸をするごとに、それが口のように蠢めいた。  その女が黒い布でも冠って、そういう腹部を露出して、ムキ出しの脚で歩き廻ったとしたら、胴体がなくて巨大な顔から、足のつづいた化物として、何んとよい見世物になることだろう!  物の気配を感じたので、また浮藻は眼をあけて見た。  漢権守と医師とが、枕もとに立っていた。  分銅のように見える権守の、被布をかぶった丈高い体の、顔の部分にある二つの穴から、浮藻を見詰めている眼の光は、燃えている黒い熖のようであった。 「……脳髄の入れ替えじゃ。何んでもないよ、入れ替えじゃ」  枯れ葉が高い梢の先で、風に吹かれて揺れているような、嗄れたカサカサした声であった。 「脳髄の入れ替え? ちとそれは……」  と、生皮剥ぎの薄刃物の刃を、掌にあてて験しながら、当惑したように医師は云った。 「命もちませんでござります」 「ただ脳髄を入れ替えるだけじゃ。……何んでもないよ、入れ替えるだけじゃ」  医師は当惑したように、長い間の惨酷な所業に、無表情になっている仮面のような顔へ、皺をたたんで沈黙した。 「まず頭の生皮を剥いで、ついで頭葢骨を上手に割って、そっと脳髄を取り出だして、その後へ羊の脳髄を入れる。……アッハッハッ珍なものが出来るぞ。……それから上手に頭葢骨を継いで、そっと生皮をかぶせるのじゃ。……何んでもない、何んでもない」  そう云っている間も権守は、二つの穴から浮藻の顔を、食い入るように見詰めていた。 「しかし」  と、医師は恐る恐る云った。 「脳髄の組織に至りますると、まことに微妙でござりまして、なかなかもちまして入れ替えなど。……さようなことをいたしましたなら、この女の命はすぐに……」 「何んでもない、何んでもない」  と、漢権守は抑えるように云った。 「ほんの簡単な解剖なのだ。ほんの手軽な手術なのだ。苦痛もまことに少いし、命には何んの別状もないし……それに羊の脳を入れたら、この娘ごは以前よりもずっと、穏しやかになるであろうし……何んでもない何んでもない」 (変だ)  と医師は思ったようであった。 (これはこの女を殺すつもりなのだ) 「ではまず頭の生皮を剥ぎ……」  と、握っていた薄刃物を、天井から宙へ下がっている、唐土渡りらしい飾りのついた、切り子形の龕の燈火にかざしながら、医師は決心したように云った。 「試みますでござりましょう」 「早くおやり、時刻が経つから。……邪魔がはいらないものでもない」  冷たい医師の左の手が、浮藻の蒼褪めた額を抑えた。 「…………」  活躰解剖の犠牲者の口から──立て板にしばられている男女の口から、苦痛に充ちた呻き声が洩れた。  部屋は血腥い臭気ばかりであった。  範覚は廊下を歩いていた。 (漢権守様のお姿をとうとう俺は見損なってしまった)  コツンコツンと金剛杖の先で、幽かな音を立てながら、範覚は廊下を歩いていた。 (それというのも恐いからさ)  廊下の左右は囚人達の部屋で、部屋部屋からは囚人たちの、呟いている声、呪っているような声、突然恐怖に襲われたような、叫び声などが聞こえて来た。  でもそれらの声々は、漢権守の怒りを恐れ、自分たちの悪運命を観念した、低い押しつぶされたような声であった。 (浮藻とそうして小次郎とが、ここに捕えられて来ている筈だが……)  範覚は部屋部屋の声や音に、耳を澄ましながら歩いて行った。 (姥め俺にひし隠しにして、どこかへ隠してしまいおった)  いつか範覚は廊下を行きつくし、庭へ出られる出入り口まで来た。 「わッ」  と範覚は思わず叫んだ。  蒼白い月の光の中に、白布が柱のように宙へ延び、それがユラユラと歩いて来る後から、姑獲鳥のように子を抱いた女と、竹の杖をついた盲目の男と、猩々とが歩いて来るからであった。 (こいつが姥の云ったあれなんだな)  瞬間範覚はそう思い、悪寒が身の内を走るのを感じた。 「化物だア──ッ」  と悲鳴をあげ、範覚は奥へ逃げ込んだ。  廊下の曲がり角を曲がろうとして、範覚は背後を振り返って見た。  白布が後を追って来ていて、数間の背後に身長高く立ち、頭を天井へ届かせそうにしながら、走って来るのが見てとられた。 「助けてくれ──ッ」  と悲鳴をあげて、範覚は夢中で廊下を走った。  なおこの時も土岐小次郎は、部屋の扉を内から開けようとして、扉へ体をたたきつけたたきつけ、 「この戸をあけろ、開けてくれ! ……浮藻よ浮藻よ力を落とすな! ……この小次郎がきっと助ける!」  と、喚き声をあげていた。  するとこの時まで頑丈に、微動さえしなかった固い扉が、外側から自ずと錠が外れて開いた。 「浮藻よ──ッ」  と小次郎は驚喜し、廊下へ弾のように飛び出した。 「アッ」  白布が柱のように、すぐの眼の前に立っていて、それがユラユラ揺れながら、顔にあたる辺を上下に戦がせ、頷くような表情をしたが、やがて忽ち廊下の一方へ、辷るように走って行くではないか。  浮藻は医師の冷たい指が、額へ触れたと感じた時、これがこの世の最後だと思った。 「神様!」  と思わず口の中で云った。 (いいえ、妾には小次郎様こそ!) 「小次郎様! 小次郎様!」  絹を裂くような鋭い声で、そう悲しそうに二声呼ぶと、浮藻は気絶してグッタリとなった。  その時生皮剥ぎの薄刃物が、浮藻の額へあてられた。  と、薄刃物が床へ落ちた。 「不手際な!」  と権守が云った。 「時が経つ、早くやれ!」  医師は狼狽して薄刃物を拾い、浮藻の額へ刃先をあてた。  と、薄刃物はケシ飛んで、閉ざされてある扉へあたった。  二人は驚いて扉の方を見た。  徐々に扉がひらくではないか。  扉が開いた向こうの廊下の上に、巨大な白蛇が蜒りをなして、蟠まっているそれのように、長い白布が束ねられてあり、その中に可愛らしい田舎娘風の飛天夜叉の桂子が佇んでい、その背後に小次郎がいた。  それが漢権守の眼にはいった。 「…………」 「…………」  桂子と権守とは睨み合った。  この間も、 「化物だーッ、助けてくれーッ」  と叫び、夢中でこっちへ走って来るらしい、範覚の声が聞こえて来る。  右衛門とそうして袈裟太郎とは、城壁の裾、大門の横に、桂子の身の上を案じながら、黙々として立っていた。  と、にわかに城内から、叫喚の声や太鼓の音や、銅鑼の音が響いて来た。 「何か事件が起こったらしいぞ」 「脇門でも破ってはいってみようか」  右衛門は鉞を持ち直した。  と、その脇門が内側から開いて、浮藻を抱いた小次郎と、桂子とが走り出して来、それを追って大勢の者が、雲でも涌くように涌き出して来た。 「お姫様ア──ッ」  と右衛門は叫んだ。 「お逃げ、一緒に、右衛門、袈裟太郎!」 「おお小次郎様も浮藻様も」  と、袈裟太郎は驚いて叫んだ。  四人は一散に走り出した。  その行く手に廻り横から襲い、後から続いて武士や不具者──城兵と囚人の人の群れが、混乱し渦巻いた。  城兵たちは桂子たち一団を、ひっ捕えようとするのであったが、囚人たちはそうではなく、この機会にここから遁がれ出ようと、ひしめき合っているのであった。  その混乱の渦の中に、頼春もい、早瀬もいた。  頼春は盲目の悲しさに、突きやられ押しやられ蹴り仆されたりした。  起き上がって一人の手へ縋った。 「盲目じゃ、頼む、手を引いてくだされ!」 「お気の毒な」  とその手を引いて、人渦の中から遁がれようと、掻き分けて行くのは早瀬であった。  片手では嬰児をしっかりと抱き、片手では盲人の手を引いて、無我夢中に走るのであった。  もう今では城兵たちは、桂子たちの一団ばかりを、追っかけてばかりいることは出来なくなった。  囚人どもの逃げて行くのをも、遮らなければならなくなった。  で、城兵と囚人たちとの、格闘殺戮が行なわれた。  櫓の一つが燃え出した。  囚人の何者かが、いち早く放火したらしい。  熖が黒煙りを金襴のように縫い、火の粉が金粉のように蒔かれて見えた。  この騒動が麓の町へも、どうやら伝わって行ったらしく、松明の火が右往左往し、雑然たる物音が響いて来た。  思うに桂子たちの一団であろう、そういう混乱の麓の町へ行ったら、かえって危険と感じたかのように、城の断崖から続いている、曠野の方へ走って行くのが見えた。  と、その一団を執念く追って、もう一つの団体の走るのが見えた。  中に巨大な御幣があった。  戒刀を額に押しあてて、白衣の裾を翻して走る、鬼火の姥の姿であった。  それと並んで走って行くのは、金剛杖を斜めに構えた、山伏姿の金地院範覚で、その二人の後ろから続いて、屈竟の城兵が十人ばかり走った。 聖雄と英雄  その翌日のことであった。 「正成、お早う。よい朝だな」 「これは宮様お早うござります。……よい朝あけにござります」  という、さわやかな挨拶が赤坂城の、櫓の中で交わされた。  赤地錦の直垂に、色かんばしい緋縅の鎧、すなわち曦の御鎧を召された、大塔宮護良親王は、白磨きの長柄をご寵愛の家臣、村上彦四郎義光に持たせ、片岡八郎その他を従え、窓から窺われる河内平野の、朝霧の景色をご覧になりながら、舎弟正季と恩地太郎とを連れた、楠木正成と顔を合わした。 「今日はどんな兵法を使って、二十万の大軍に泡を吹かせるか、これがわしには楽しみだよ」  何事にも率直の宮家であられた、こう仰せられて正成を見詰めた。 「宮様の御感に入ろうものと、正成苦心しおりまする。……が、兵法にかけましても、ご鍛錬の宮様の御感に入ること、なかなか困難にござりまして、正成大汗にござります」  誠忠、律義、木訥、恭謙、そういう性質の正成ではあったが、宮家とはことごとく気心が合い、水魚の交わりを呈していたので、何事も気安く云うことが出来た。 (大汗)などとさえ云うのであった。 「いずれお前のことであるから、あッというような奇手を使って、敵を狼狽させることであろうよ」 「すくなくも向こう四日間は、奇手妙手を用いまして、敵を一足も城内へは入れぬ。──というのが、方寸にござります」 「向こう四日間? ふうん、四日間? ……五日目にはどうなるのか?」 「正成討ち死ににござります」 「ナニ討ち死に? すこしお待ち」  宮家は切れ長の睫毛の濃い、涼しい御眼をパチパチとさせたが、 「そんな筈ではなかったがな」 「正成討ち死ににござります……一族郎党もことごとく戦死で。……城は陥落にござります」  そのくせ正成は笑っているのであった。 (ははあ)  と宮家は感づかれた。 (これはまたわしをカツグ気だな。河内産まれのこの爺は、これでなかなか剽軽者で冗談を仕掛けるから油断が出来ぬ) 「さようか」  と宮家は仰せられた。 「お前に討ち死にされてしまっては、わしも生きている甲斐がないから、お前と一緒に討ち死にときめよう」 「宮様も討ち死ににござります」 「ほほう、それも決定っているのか」 「きまっておりますでござります」 「討ち死にをしてそれからどうする?」 「私は近くの金剛山へ分け入り、しばらく世の中のなりゆきを眺め……」 「変だのう」  と宮家は云われた。 「それでは死んではいないではないか」 「で、宮様におかれましても、しばらく草莽の間に伏され……」 「ああわしも生きているのかな」 「いえ、皆討ち死ににござります」 「…………」 「そこで敵は安心いたし、兵をひとまず諸国へ帰す……」 「ははあなるほど、そういう次第か。……おおかたそうだろうとは思ったが……つまり敵方をして我々一同が戦死したものと思わせるのだな」 「はいさようにござります」 「お前一流の兵法だな。……ではわしも戦死ときめて、戦死した後では熊野へでも行こうよ」  朝日が葛城の山脈の上へ昇り、霧が次第に晴れて来た。  烏の大群が空にあって、堀や野面に散在している、昨日の戦いで戦死した敵の、胄や鎧を剥ぎ取られた死骸を、啄もうとして気味悪く啼き立て、舞い下がり舞い上がるのが見てとられた。  宮家は正成と連れ立って、櫓を下へ足を運ばせた。  正季や義光たちも従った。  持ち場持ち場を固めている、将も卒もこの一団を見ると、恭しく頭を下げた。  二の木戸あたりまで辿って来た時、十数人の兵どもが、円くかたまって騒いでい、その中から悲しそうな泣き声が聞こえた。 「正成、何んだな?」  と宮家は訊かれた。 「泣き男にございます」  正成は微笑してそうお答えし、その方へ向かって足を進めたので、宮家もその群れへ寄って行かれた。  哀れっぽい顔をした年輩の男が、涙を流し鼻に皺を寄せ、 「悲しや悲しや我らのご主人様の、多門兵衛正成公は、戦い利あらずと観念あそばされ、昨日深夜にお腹を召され、この世を去りましてござります。……首級などあらば葬ろうものと、わが身探しているのでござるが、死骸へは火をかけ焼きましたとか、後に残ったは灰ばかり、あら悲しや何んとしようぞ」  オ──イ、オ──イと泣いていた。  宮家は呆気にとられながら、その男の顔から視線を反らし、正成の顔を見守った。 「なかなか上手にござります。……ああ云えとわたくしが申しましたので、稽古いたしておりますので、あれを聞きましたら寄せ手の者どもは、まこと正成が死んだものと、信じ込むことでござりましょう」 「ははあ」  宮家は吃驚したように仰せられた。 「そこまで手筈をつけているのか。……が、あの男は何者なのだ」 「人夫募集に応じまして、入城しました者にござりまするが、何やら由緒ある者のようで……」 「泣き声、真に迫っているので、まことお前が死んでしまったような気がする」 「この正成めったのことには死ぬようなことはござりませぬ。……正季、そちもそうであろうの」 「はい」  と舎弟の正季は云った。 「生きかわり死にかわり、七生までも、わたくしは生きて王事に尽くします」  兄にも劣らぬ誠忠で律義で、感激性の強い正季は、そう云っただけでも果たし眼であった。  宮家たちは城内を見廻って行った。  夜がすっかり明けはなれた頃、寄せ手はヒタヒタと攻め寄せて来た。  昨日の合戦に不覚を取り、多勢を討たれた寄せ手の勢は、 「後攻なきよう山を苅り、人家をことごとく焼き払い、心やすく攻めるがよかろう」  と、そういう評定もしたのであったが、本間党と渋谷党とが、承引しようとはしなかった。  というのは昨日の合戦で、最も手痛くこの二党が、敗北させられたからであって、 「東一方こそ山田の畔が、少しばかり重なってはいるものの、他の三方は平地つづき、堀一重塀一重のにわか造りの仮り城、こもる人数といえばわずか五百、このようなものを落とすというに、そのような用意いたしたとあっては、後日の批評恐ろしゅうござる。諸公方ご躊躇なさるるなら、我らが勢ばかりにてもヒタ攻めに攻めて……」  と、こう云って攻撃を進めた。 「では」  と、そういうことになり、大軍が一気にかかることになった。  本間、渋谷の手の者が、真っ先立って突き進み、堀の中へこみ入りこみ入り、忽ち切岸の下まで押し進み、逆茂木を引きのけ打ち入ろうとした。  城中は静まり返っていた。  矢一筋さえ射てよこさない。 (これはどうじゃ)  と寄せ手の勢は、かえって不安を感じたらしく、城を眺めてためらった。  しかし気負っている寄せ手であった。敵におびえているからであろうと、こう考えて四方の塀へ、熊手うちかけたり素手で縋ったりし、一気に城内へこみ入ろうとした。  と、合図らしい太鼓の音が、櫓の一つから鳴り渡った。  とたんに塀が一斉に崩れた。  塀は二重に拵えてあり、その一重を切って落としたからである。  千人あまりの寄せ手の勢は、折り重なって塀の下になった。  そこを目がけて櫓々から、大石大木を投げ下ろした。  七百あまり打ち殺され、寄せ手はにわかに怖毛立ち、潮の引くように退いた。 (ははあこれが今日の兵法か。……味方の一兵をも損じないで、大勢の寄せ手を退けたところ、正成らしいやり方じゃ)  西櫓の窓から見下ろしていられた大塔宮はそう思われた。  翌日も翌々日もその翌日も、寄せ手は懲りずまに攻めよせたが、そのつど正成の奇計によって、退却させられる憂目ばかりを見た。  四日目の夜は大暴風雨であった。  その暴風雨を貫いて城から不意に火の手があがった。 「や、燃えるわ、城が燃えるわ!」  と、寄せ手は事の意外に驚き、これも正成の奇計ではないかと、なかばは危ぶみながら眺めていた。  火はいよいよ燃え盛った。  そこで寄せ手の勢は門を破り、城の中へこみ入った。  ほとんど城兵の影はなく、大穴がいくつか掘られてあって、そこに死骸が投げ込まれてあり、積んだ焚木が燃えていた。  そうして一人の中年の男が、さも悲しそうに泣き喚きながら、穴の周囲をさまよっていた。 「おやさしかった多門兵衛様には、すでに矢折れ兵糧つき、この城保ちがたしとご覚悟なされ、ご自害あそばされましてござります。首級などあらば葬らうものと、このようにお探しいたしても、かけた火に焼かれてそれさえない。悲しやな、オーオーオー」  寄せ手の勢たちは凱歌をあげた。 「正成腹切って死んだそうな」 「一族郎党みな死んだらしい」 「大塔宮様もご薨去じゃ」  が、背後の山や谷には、五人十人と組をなして、落ちて行く城兵の姿が見られた。  誰一人悲しんでいる者はない。  これも「手」さ、多門兵衛様の「手」さと、かたく信じているからであった。  九人の者が簑笠を着て、熊野街道を通っていた。  そのお一方は大塔宮であらせられ、後の八人は家臣であった。  雨に叩かれ風に吹かれ、関東の兵の襲撃を避け、忍び忍びに落ちられるのであった。  先刻までは正成とも同伴であったが、今は別れて九人ばかりとなり、回天の雄志はお胸にあったが、現実には強いお味方もなく、心細く辿られているのであった。  と、この九人の一行は、その翌日も熊野街道を、うち連れ立って辿っていたが、その姿は武士でも農夫でもなく、兜巾篠懸金剛杖の、田舎山伏となっていた。  宮家の打ち上がったご風采は、つい人目に立つらしく、 「尊げな山伏殿、ご報謝しましょう」  と米などを掴んで、わざわざ捧げる者などがあった。  金枝玉葉の御身ではあるが、今は山伏にやつしおわされた。  微笑して施米をお受けになった。  藤代より切目王子、次いで熊野と辿り辿り、漸次一行は十津川の方へ向かった。 戸野の館 「気違いよ気違いよ! 気違いよ泡斎よ!」  自身気違いの戸野兵衛は、十一月の寒風に吹かれながら、大和十津川の自分の館から、往来へ走り出してそう喚いた。  吉野十八郷のその中でも、芋ヶ瀬、十津川、蕪坂といえば、肥沃の地として知られていたが、その三郷の主であるところの、戸野兵衛の狂乱なので、往来の人も子供たちも、気の毒とは思っても笑止とは思わず、遠くの方から見ているばかりであった。  と、二人の若い女が、兵衛の後から追っかけて来た。  嫁の蓬生と従妹の呉服とであった。  連れ帰ろうとするのである。  が、兵衛は帰ろうとはしないで、 「ナニわしが気違いだと、戸野兵衛が気違いだと、アッハッハッ何を云うか! 熊野三所の大権現人間の身に現われて、兵衛となったとは思わぬか! 気違いは汝らよ! ……気違いよ気違いよ! ……藤が咲いた? 棚の藤が⁈ それこそめでたいめでたいめでたい! ……新築をした大館の、飾りに植えた神木の藤じゃ! ……棚の大きさ二十間三十間! 館の結構はそっくりお城! ……ナニ贅沢じゃ慢心じゃと⁈ それで気違いになったというか⁈ アッハッハッ何が贅沢! アッハッハッ何が慢心! ……戸野兵衛ほどの大々名が、お城を築きお山の神木を移し植えたとて何が慢心! ……慢心とは汝らよ! ……気違いよ気違いよ!」  と、いよいよ狂いあばれるのであった。 「まあまあ何んで小父様が、気違いなどでありますものか、正気も正気ずっと正気。……さあさあお帰りなさりませ」  十八の呉服はなだめながら、兵衛の右の手に取り縋れば、 「あれほどのお館つくりましたとて、誰が贅沢じゃ慢心じゃなどと、蔭口きくものがありましょうや……お山の神木藤の大木を、移し植えたといいましても、お許しを受けお祓いをしてお所変えをしたばかり、誰が非難などいたしましょう。……さような事などお心にかけず、気をたしかにお持ちなさりませ。……今はともかく館へお帰り」  と、兵衛の子息大弥太の嫁は、左の腕を取って引くのであった。  そこへ下僕が二、三人、おくればせに走って来て、兵衛を介抱し歩ませた。  こうしてこの一群の立ち去った後は、嶮しい山と急流い渓川とで、形成られている十津川郷の、帯のように細い往来には、人の影さえまばらであった。  この日も暮れに近づいた頃、戸野兵衛の館の門を、数人の山伏が訪ずれて、 「これは三重の滝に七日うたれ、那智のお山に千日こもり、三十三ヵ所を巡礼いたすところの、山伏の身にござりまするが、路に迷いこの里に出でましてござる。一夜の宿をおかしくだされ」  と、難渋した態に申し入れた。  婢女が奥へ通じたと見え、ひき違いに蓬生が現われた。 「わたくしの舅様すこし以前より、物の怪にでも憑かれましたか、乱心の気味にござりまするが、ご祈祷をしてくだされましょうか」  と云った。 「われわれ事は平山伏、祈祷しても験少のうござりまするが、あれに見えまする辻堂に休まれる、先達殿は若年ながら、効験第一のお人にござりますれば、お宿してご祈祷願われませ」  こう一人の山伏が云った。 「まあまあそれは何よりのこと、では早々その御坊を……」  こうして九人の山伏が、戸野兵衛家の客となったが、これは大塔宮のご一行で、光林房玄尊、赤松則祐、木寺相模、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、平賀三郎の人々であった。  蓬生は山伏たちのいる部屋へ行って、 「去年の暮れ頃からでござりますが、舅様には程を越えたほどの、綺麗好きとなりまして、座敷座敷を直すやら、新しく館を建てますやらし、ご神木としてお山にありました藤を、庭へ移し植えるやらいたしましたが、この頃になってお心狂われ、何の彼のと、埓もないこと云われ、藤はお山へ返せなどとも云い、館を飛び出しては騒ぎ廻り、ほとほと困じはてておりまする。薬も療治も甲斐ないありさま、なにとぞご祈念くださいまして、少しなりとも正気になりますよう……」  と、誠心こめてそう云った。  先達姿の大塔宮は、自ら備わる威厳のあるお顔へ、幽かに微笑をうかべられ、 「それは気の毒祈って進ぜる。平賀坊用意あれ」  と、言葉少なに仰せられ、やおら茵からお立ちになり、蓬生の案内に従って、後に八人の従者を連れ、戸野兵衛の寝室へ入られた。  と、兵衛は眼をあげて見たが、これも威厳にうたれたものか、荒れもせず喚きもせず、そのまま眼を閉じ静まってしまった。  平賀坊の平賀三郎は、宮家の御笈を兵衛の枕もとへ立て、独鈷、三鈷鈴、錫杖、五十串、備うべき仏具を取り出して、笈の上へ置きならべた。  宮家は比叡山の元天台座主、僧家としても智行兼備の御方、何んのご躊躇するところもなく、珠数サラサラと押し揉んで、千手陀羅尼を高らかに読まれた。  部屋には兵衛の妻焚野をはじめ、兵衛にとっては叔父にあたる、竹原入道の娘の呉服や、腰元などが並居たが、宮家のお声の朗らかさと、その風采の尊げなのと、その容貌の端麗さにうたれ、 (病人は治るに相違ない)  と、信仰の心を持つようになった。  なかでも呉服は、処女心から、若い先達の優雅かぎりない、その姿に魅せられたものか、眼に愛慕の光を宿し、頬に羞恥の紅潮をさして、まじろぎせず、宮家を見守った。  宮家の唱名の後につづき、 「摩訶般若波羅蜜多、十六善神哀愍覆護、滅悪生善経々部、明王部天童部、七曜九曜十二宮、二十八宿三十番神、修行者猶如薄伽梵」  と、八人の山伏も珠数おし揉み、一斉に唱えて責めかけた。  と、にわかに戸野兵衛は、額から汗を流し、寝具から半身を起こして叫んだ。 「あら苦痛や、堪えがたや! 熊野三所の権現が、われに退けと責めかくるわ!」  が、それも一時で、やがて枕へ頭を落とすと、子供のように眠り出した。  そうして、翌日まで眠りとおし、眼がさめた時には、正気になっていた。 「狂気したとは武士として不覚な。……それにいたしても狂気のわしを、祈祷で本復させてくれたという、山伏殿こそわれには仏、とどめてご接待いたさぬばならぬ」  戸野兵衛はそう云って、髪を撫でつけ衣裳を着かえ、山伏たちのいる部屋へ行った。 「これはご主人、本復されたそうじゃの」  と、それと見て声をかけたのは、赤松坊こと赤松則祐で、 「正気に返られて何より結構。……今後はあまり気苦労せぬよう」  と、いたわるように云ったのは、村上坊こと彦四郎義光であった。 「おかげをもちまして戸野兵衛、いつまでも生き恥じさらすことなく、真人間に返ること出来ました。何んとお礼を申してよいやら」  と、兵衛はいかにも嬉しそうに云った。 「そのお礼なら、われらにではなくて、先達殿に申すがよかろう」  こう云ったのは光林房であった。  兵衛は云われて恭しく辞儀をし、 「お見受けいたせばまだお若く、少年と申してもよろしいほどでござるに、ご修行の力こそ恐ろしく、ようお治しくだされました。……それにいかにもお顔なりお姿なり、清く尊げに見えますことは……や、空言はさて置いて、これほどの恩こうむりました我が身、ご恩返さねばなりませぬ。つきましては先をお急ぎでなくば、なにとぞ十日なり二十日なり、このまま逗留くだされて、われらが接待お受けくださりませ」  と、心をこめて申し出た。  九人の山伏は顔を見合わせた。  願ってもない幸いだからであった。  宮家が楠木正成と共に、赤坂の城をふりすてたのは、赤坂の城が小城であり、兵も少く兵糧も乏しく、とうてい関東の大軍を引き受け、長期に渡って戦うことが不可能であるからではあったけれど、もう一つ宮家としてのご計画には、昔から宮方の味方として、忠烈の義士を輩出させている、十津川一帯の豪族や、吉野、熊野、高野の衆徒に、令旨を伝えて味方につけ、義兵を挙げさせるという一事があった。  で、中途で正成と別れ、正成は金剛山へ分けのぼったが、宮は十津川へ入られたのである。  そうして、戸野兵衛の館を訪ね、一宿したしと云い入れたのも、一宿して様子をうかがい、宮方に従う気勢があったら、身分を明かして宮方とし、それを縁にして十津川一帯の、豪族を糾合しようものとの、御下心からのことであった。  それだのに、兵衛の乱心を治した意外の出来事から歓待され、先方から逗留を進められたのである。満足せざるを得なかった。 「せっかくのお進めでござるによって、では遠慮なく逗留仕り……」 「荒行でいささか疲労した体を、休ませていただくことにいたしましょう」  と、片岡坊こと片岡八郎と、岡本三河房が隙かさず云った。  戸野兵衛は大満足で、新館一棟を九人にあてがい、手をつくして歓待した。  家人ことごとく喜んだ中に、わけても喜んだのは娘の呉服で、何かと用を目付けては、その新館へ姿を現わし、若い美貌の先達に近より、何くれとなく話すのであった。  十二月にはいると寒さが加わり、峰々谷々は雪と氷とで、白く堅くとざされてしまった。  鹿か、猪か、獣でなければ、容易に他郷へは出られそうもなく、天然の関所を据えられたのである。  ある日八人の山伏たちは、兵衛から届けられた般若湯を、炉の火であたため汲みかわしながら、山伏言葉で話していた。 「平賀坊よお主どうする。……河内国金剛山へ、楠木多門坊を訪ねて行き、その後の様子知りたい、などと昨日あたりまで申しておったが、この雪では行けそうもないぞ」 「そういう赤松坊こそどうする気じゃ。……播磨の国へ立ち越えて、苔縄山へ円心坊を訪ね、先達殿の御旨を伝えると、口癖のように云っていたが」 「この雪では閉口じゃ」 「村上坊ではなかったかな、吉野山に参詣し、庵室になるべき地形見立てようと、数日来大分意気ごんでいたが」 「行くことは行くが、先達殿が許さぬ。……道の開くまで待つがよいとな」 「その先達殿だが、ご覧なされ、また娘ごにとらえられ、ちとお困りのご様子じゃ」  幾間かへだてた向こうの座敷の、陽あたりのよい縁近くに、若い先達と娘の呉服とが、さも親しそうに話していた。 「まず来年の春までは、雪も氷も解けはしませぬ。そのうち中はあなた様には、この家の捕虜にござります。そうご観念あそばされませ」  そう、呉服は嬉しそうに云った。  雪と氷とが関所となって、この気高い美貌の山伏を、永くこの家にとどめておくことが出来る、このことは、ほんとうにこの処女には、嬉しくてならないことなのであった。 「先を急ぐ旅というではなし、置いてさえくださればいつまでなりと、私はここにおりましょうよ」  若い先達は微笑して云った。  優しい、含みのある、清らかな声は、恋を知り初めた処女の耳へは、楽の音のように響くのであった。 「まあ、置いてさえくださればなど、と……おいでくださいますれば、いつまでなりと……十年であろうと、二十年であろうと。……でも、いずれはあなた様には、ご修行にお立ちなのでござりましょうねえ」  細くはあるが切れの長い眼、小さすぎるほど小さい唇、呉服は京あたりの顕紳の姫とは、おのずから異った地方豪族の息女の、質朴の美しさを備えていた。 「さよう、参らねばなりませぬ」 「そのように、お若いお身の上で、荒いご修行などなさいまして……何んのお役に立つのでございましょう」 「仏の道は救いの道、自分を救い人を救う、その助けになるでございましょうよ」  若い先達は、いや宮家は、ふと昔のことを思い出された。  日野資朝卿の別館で、無礼講の催しのあった時、微行して庭まで行き、資朝と逢って話したことで、 「還俗して戦場に立ちたいものじゃ」  こう、その時云った筈である。 (それがとうとう現実となった。還俗し、甲胄をつけ、合戦の場に立つようになった) 「先達様」  と、呉服は云った。  熱を持った声であった。 「…………」  若い先達は、ただ見詰めた。 「呉服を何んとおぼしめしまして?」 「…………」 「可憐と……可憐と……おぼしめしましてか?」  懇願するような声であった。  若い先達は頷いて見せた。  呉服の口から溜息が洩れ、涙ぐんでいる眼の中に、喜悦と安心との光がさした。 (可憐とおっしゃった、この呉服を可憐と)  庭の一所に陽溜りがあって、そこだけ雪がとけていて、笹の葉が微風に揺れている。その側の梅の古木の根もとを、みそさざいが一羽行ったり来たりしている。  いつもひとりで寂しそうに、こそこそと忍び歩くこの鳥は、心に充たされない何物かがあって、それを求めて侶と離れて、探し廻っているかのようであった。  呉服のこれまでの心持ちが、そっくりそれに似かよっていた。  心に充たされない何物かがあって、たえずそれを求めていた。  若い先達に逢ってからは、その何物かの何んであるかが、やっと呉服にはわかって来た。  恋だった!  日一日と呉服の心へは、若い先達への愛慕の情が、増し、強まり、熖をあげて来た。 (でも、何んと云い出せよう)  言葉にも行為にも出だすべき術を、まだ彼女は知らなかった。 「先達様」  と、呉服は云った。 「いいえ」  と、すぐに自分で消した。 「可憐と……わたしを……ほんとうに可憐と?」 「…………」  先達は微笑してただ見詰めた。  と、不意に何気なさそうに云った。 「そなたのお父上は竹原入道殿、この地方では有名なお方、お健かでござるかな?」  話が横へ反れたので、呉服は失望を感じたが、 「たっしゃ過ぎるほどたっしゃでございますが、老年ゆえ頑なになり……」  と、云った。 「それにしても何故にそなたには、自分のお家へは帰られずに、兵衛殿のお家などにいられまするかな?」 「小父様乱心と聞きましたゆえ、見舞いかたがたお手伝いに参り……そのままずっと、ずっと、今日まで……」 「なるほど、さようでございましたか」 「帰れとの伝言はございますが……あなた様が、ここにおいでのうちは……なんのわたくし家へなど……」 「…………」 「先達様」  と、力をこめて、 「わたくしご案内いたしまする。そのうち是非ともわたしの家へも……」 「いずれ参るでござりましょうよ。……入道殿にもお目にかかり……お目にかかることになりましょうよ」  この言葉には深い意味があった。戸野兵衛が頼み甲斐ある、誠心を持った武士であることは、既に宮家には観察されておられた。  その一族の竹原入道宗規! これは兵衛よりも一段すぐれた、この地方での大豪族、もしこの者を味方として、引き入れることが出来たならば、鹿ヶ瀬、湯浅、阿瀬川、小原、この辺一帯の豪族を宮方にすることが出来るであろう。──  こう宮家にはおぼしめされ、逢うべき機会を待っていられたからである。  いや宮家におかれては、兵衛の館におられる間も、北条氏討伐朝権恢復の策を、不断に巡らされておられるのであった。  千早に城を築くといって、中途で別れ金剛山へ登った、楠木正成へ使者を送り、その後の様子を尋ねなければならない。  赤松則祐の一族で、以前から宮方に好意を寄せている、播磨の赤松円心のもとへ、則祐に令旨を持たせてやろう。  吉野は嶮岨要害の地、ここへ城など築き設けたなら、関東の大軍押し寄せても、相当長期防禦出来よう。その地勢も調べてみたい。  高野山や熊野の衆徒へも、令旨を送って奮起させよう。  ──こう画策しておられるのであった。  廻廊づたいに嫁の蓬生が、こなたへ歩いて来るのが見えた。 「お姉様お話しなりませ」  呉服は、いち早く声をかけた。  二つばかり年上の蓬生は、呉服よりは少し陰気であったが、しかし美しさは負けていなかった。 「はいはい」  と、微笑して蓬生は云い、二人の話へ加わった。 「お兄様いまだにお帰りがないとは……」  と、気の毒そうに呉服は云った。 「いずれもうもうあの人のことゆえ、ここの廓あそこの遊里と、遊びほうけておりましょうよ」  と、少し寂しそうに蓬生は云い、 「京の地へ行ったが最後、一月二月は帰らぬが普通、もし帰ったら病気か何かで……」  と、やはり寂しそうに云いついだ。 「あまりお姉様が穏しく、お小言おっしゃらないからでございますわ」  仲のよいこの二人の女は、姉妹のようにさえ見えるのであり、呉服は事実蓬生を呼ぶに、お姉様と呼んでいた。  蓬生の良人、この家の長男、戸野大弥太が父にも叔父にも、いや一族の誰にも似ないで、放蕩であり無頼であることが、父、兵衛の苦労の種、乱心の原因になっており、蓬生の陰気の種でもあることに、呉服はとうから感付いていたので、蓬生に同情しているのであった。 「先達様」  と、蓬生は云った。 「あなた様の勝れたご祈祷で、ねじけた男の心持ちをお治しくださることなりますまいか」 「さあ」  と、若い先達は、おおらかな微笑を頬にうかべ、貞節であり、苦労性らしい、蓬生の顔を眺めたが、 「すべて加持とか祈祷とかいうものは、受ける人の心の信不信によって、効験があったりなかったりします。……兵衛殿の病気の治られたは、心に信仰がありましたからで、……そなたの良人大弥太殿とやらには、一度も逢っておりませねば、その性質もとんと不明、従って信仰のありなしなども。……お眼にかかって性質を見、信仰ある人と存じましたら、お祈りをしてあげましょうよ」  と、優しく親切にいたわるように云った。 「あなた様のお力づよいご祈祷で、良人の放埓の心持ちが、少しなりと治ること出来ましたら、どのようにわたしは嬉しいことか。……舅ご様姑様にも安心しましょうし、近郷近在の人達までも、喜ぶことでございましょう」  蓬生は、しみじみというのであった。 「大弥太殿の放埓と申して、どのような所業なされますのかな?」 「これほどの大家の総領でいながら、あぶれ者などを集めまして、そのお頭などになりまして、近郷近在まで出かけて行き、面白ずくの殺傷沙汰。……いつもいつもその苦情が、舅ご様のもとへ参りますので……」 「なるほどこれはちと荒い」 「そういう驕慢心をなおしたさに、咲いていよいよ頭を下げる、お山の神木の藤の木を、舅ご様には移し植えましたが……」 「ははあ、そういうお心から、藤の神木を移し植えましたのか」 「館など建てましてやりましたら、家におちつくこともあろうかと、それで新館もしつらえましたような次第で……」 「親ごの心というものは、勿体ないほど有難いものです」  この時、率然と宮家の御心へ、父帝の御事が思いいでられた。  笠置落城後御いたわしくも、賊軍の手にお渡りになり、六波羅へ入御あそばされたとばかり、世上の取り沙汰で耳には入れたが、その後いかが遊ばされたか。  尊澄法親王、尊長親王、このお二方も賊の手に渡り、藤原藤房、花山院師賢、北畠具行、千種忠顕、これらの人々も賊の手に! …… (その後はいかに? その後はいかに?)  宮家には思わず沈思遊ばされた。  その夜蓑笠で体を蔽い、雪をしのいで一人の男が、戸野の館へ近寄って来たが、雪持ち松の逞しい枝を、笠のように着ている大門に寄り添い、しばらく様子をうかがってから、潜り戸を拳で、ホトホトと打った。 「誰じゃい」  と、内側から門番が云った。 「こんなに遅く、何んの用じゃい」 「あけろ、わしじゃ、大弥太じゃ! ……御曹司様のご帰館じゃ」 「や、ほんとに、大弥太様のお声じゃ」  すぐに潜り戸があけられた。 「そっとしておれよ、面映ゆいからの」  云いすてて大弥太は玄関へはかからず、裏口から、こっそり屋内へはいった。 「まあ若様!」  とその姿を認めて、二、三人の婢女の驚くのを、 「静かに静かに、ええ騒ぐな」  と、こわい眼付きをして睨みつけ、縁づたいに女房の部屋の方へ行った。  襖をそっと細目にあけて、内の様子をうかがってみると、かき立てた燈火の横に坐り、所在なさそうに慎ましく、蓬生は暦を繰っていた。 (美い女ぶりや、粗末にはしまいこと)  久しく留守にして見なかったからか、大弥太には女房が美しく見えた。  そこで大変満足して、 「女房、わしじゃ、帰ったぞ帰ったぞ!」  襖をあけて内へはいった。 「まあ」  蓬生は驚いて云い、繰っていた暦を横へ置いた。  その前へ大弥太は坐り込み、酒びたりや性慾づかれで、眼袋などの出来ている顔へ、多少テレた表情を浮かべたが、 「まずご免、のっけに謝まる。何んといっても家をあけて、一月も二月も帰らなかったのだからのう。……さて女房にもご両親様にも、お変わりござなく候や、うかがい上げ奉り候なりさ。……アッハッハッ、これくらいでよかろう。……当家の総領でありながら、玄関にもかからず下僕かのように、コソコソと裏口からあがり込んだ心状、察してこの辺で勘弁してくれ。……や、それにしても蓬生殿、しばらく離れて逢ってみれば、京女郎にも負けないほどの縹緻、美しいぞ美しいぞ! ……とんだ大弥太は果報者よ、よそへ行けばよその女にもて、家へ帰るとよい女房に……もてると思うがどうだろうかな」  ──少し酔ってもいるようであったが、それよりも家を久しくあけて、遊びほうけて来た心のひけめを、喋舌ることによってごまかそうと、大弥太はむやみとまくしたてるのであった。  暦をのせた塗りの小机を、しずかに横へ押しやって、側に立っている燭台に火を、少しかき立てて明るくし、蓬生はつくづくと良人の顔を、少し涙ぐんだ眼で見詰めたが、 「お父上ご病気ともご存知なく、二月に渡って、うかうかと他国へさまよい歩かれたあなた、何んと申してよろしいやら……」 「ナニお父上ご病気とな⁉」  輪廓はさすがに端麗ではあるが、荒んでいるため卑しく見える顔へ、驚きの色をにわかに浮かべ、大弥太は声をはずませて云った。 「ご病気とな? ご大病か?」 「ご大病もご大病、ご乱心あそばされたのでございます」 「乱心! それじゃア気違いだな!」 「それもあなた様のお身の上を案じて……」 「俺ア昔から気違いは嫌いだ」 「ご乱心なされたのでございます」 「ナーニ、俺としてもそういう親心や、お前のおろそかでない志に、まったく盲目というのではない。が、ただ俺としては狭くるしい、この十津川などに埋ずもれて、豪族でござるの土豪でござるのと、いわば井の中の蛙となって、一生を終わってしまうのが、どうにも我慢が出来ないのさ。そこでこの土地にいる間は、近在近郷へ出かけて行って、鬱憤ばらしの乱暴をやったり今度のように他国へ走って、羽根をのして一月でも二月でも、遊びほうけて帰らなかったりするのさ。……が、俺としての本心は、功名手柄勝手次第、下剋上のこの時代に、せめて大国の一つ二つ持った、大名になりとなりたいというのさ。……ところで今度京へ行ってみて、耳よりの噂を耳にしたので、こいつをうまく塩梅したら、六波羅殿より莫大もない、恩賞を得られるに相違ないと、それで急いで帰って来たのさ。……ところがせっかく帰ってみると、お父上が気違いじゃと。……これじゃアどうにもクサるなあ」 「いいえそのお父様のご病気も、この頃ご本復なさいまして……」 「ナニ本復? 治ったのか! ……馬鹿め、早くそういえばよいに!」 「それも尊い山伏殿のご祈祷のおかげでございます」 「ナニ山伏の? 山伏のご祈祷?」 「九人の山伏殿が参られまして……」 「九人の山伏? フーム、九人の……」 「そのうちのお若い先達様が……」 「その山伏、その後どうした?」 「家にご逗留でございます」 「この家に泊まっているというのか」 「はい、それでわたくしどもは、毎日毎日心をこめて、ご接待いたしておりまする」 「そうか」  と、いうと大弥太は、急にヌッと立ちあがった。  この夜呉服は自分の部屋で、一人物思いにふけっていた。  若い美貌の先達によって、自分を可憐と云われたことが、嬉しく思われてならないのであった。  恋盛りともいうべき十八歳だのに、これまで呉服は、一度として男を恋したことがなかった。  父なる竹原入道の、家庭教育の厳格さが、あずかって力あるのではあったけれど、呉服その人の心持ちが、真面目で無邪気で清浄であるのと、呉服の恋心に叶うような、相応した相手がなかったからであった。  そう、呉服その人は、美しく、気高く、智徳にも優れた、いわば理想的男性を、恋人として求めていたのであった。  でも、これはいうまでもなく、呉服という一人の女ばかりが、特に持つところの傾向ではなくて、若い思春期の処女でさえあれば、誰でも持つところの傾向なのであるが、それが呉服には特に烈しかったのであった。  そういう呉服の眼前へ、忽然あらわれた若い先達は、まことにその理想的の男性なのであった。  しかもその人は法の力で、一族の戸野の小父様の病気を、須臾の間に全治させたのであった。  恋心の上に尊敬の心が、加わり積もらざるを得なかった。 (可憐と思うてくださるそうな)  そのお方がそうなのである。  幸福と感謝と喜悦とで、彼女の心は充たされていた。 (もうあのお方はお休みであろうか、それともご同伴の方々と、お話をしておいでであろうか?)  逢いたい、話したい、見たいと思った。  几帳を横にし火桶を前にし、つれづれに眺めていた源氏絵巻を、ほぐしたままでかいやって、呉服はうっとりと考え込んだ。  雪に折れるらしい竹の音が近い庭先から聞こえて来るばかりで、あたりはひっそりと静かであった。  話し相手に顔を出した、二人ばかりの腰元もあったが、彼女は追いやったことであった。  恋の想いにふけるには、一人が一番よいからである。 (でも余りに気高すぎる)  ふと彼女はいつも思うことを、急にこの時思い出した。 (尋常の山伏などとは思われない)  熊野詣での山伏や、吉野参りの道者などが、この十津川へは絶えず入り込んで来た。  十津川は山伏や行者や修験者の、往来の中軸にあたっていた。  それでこの郷の人々は、それらの人々を接待することを、習慣としているほどであって、それらの人々には慣れきってい、それらの人々の修行の大小や、人物の高下を見抜くことにも、ことごとく勝れているのであった。  彼女もそういう人の一人であった。  その彼女の眼から見た時、若い美貌の先達様は、これまで見た名あるどの先達よりも、ずば抜けて気高く思われるのであった。 (あのお若さでどういうことであろう?)  同伴の八人の山伏も、いずれも勝れた人物揃いなのも、彼女には不思議でならなかった。 (お逢いしたい)  としきりに思った。 (でもこのような夜中などに……お訪ねしたらはしたないと……)  彼女はじっと耳を澄ました。  襖の外を足音を忍ばせて、誰やら通って行く者があった。  また庭で竹の折れる音がした。  呉服はとうとう立ち上がった。 (一眼お逢いして、一言お話して……)  で、彼女は部屋から出た。  九人の山伏を相手にして、この夜おそくまで戸野兵衛は、機嫌よく四方山の話をしていた。 「吉野十八郷十津川地方は、昔から宮方でございましてな、王事には尽くしたものでございますよ」  火桶に両手をかざしながら、兵衛の話はいつの間にか、お国自慢に移って行った。 「神武天皇様のご東征にも、吉野上市の井光とか、磐排分の子などという土人の酋長が、お従いしたものでございまするし、壬申の乱のみぎりには、吉野を出られました大海人の皇子、天武の帝でございまするが、このお方にお附きして、武功をたてましたのが十津川郷民で、そのため帝がご即位あそばさるるや、諸税免許という有難い恩典に、浴しましたにございます」 「なるほど」  と云ったのは村上坊こと、村上彦四郎義光であった。 「それに十津川の郷民とくると、武勇絶倫ということでござるな」 「さようで」  と兵衛は深く頷き、 「保元の乱におきましては、指矢三町、遠矢八町──などと呼ばれる騎射の名手が、南都興福寺の信実だの玄実だのの、荒法師ばらに召し具されまして、新院方にお味方し、比類ない武勇をあらわしましたそうで」 「いったいに郷民の性質が勤厚篤実に見うけられまするな」  こう云ったのは片岡坊こと、片岡八郎その人であった。 「さようで」  と兵衛は自分の郷民を、そんなように真面目に褒められたので、嬉しそうにまた頷き、 「平生は芋野老などを掘りまして、乏しく生活しておりますにも似ず、目前の利害などには迷わされず、義を先にし節を尚び、浮薄のところとてはございません。自慢するようではございまするが、頼み甲斐ある人間どもの巣、それが十津川でございます」  ひとしきり風が出たと見えて、庭の松の木から落ちるらしい凍てた、雪の音がした。  と、狐の啼く声が館を巡って数声きこえ、山国の冬の夜の荒涼さをしばらく聞く人の心に与えた。  火桶ばかりでは暖かさが足りぬと、部屋の一所に切ってある炉で、さっきから炭火を焚いていたが、兵衛はさらに炭を加えた。 「世上この頃の噂でござるが……」  と、兵衛は真面目な口調で云った。 「赤坂城を落ちさせられた大塔宮様には、山伏に姿をおやつしになり、熊野方面へお入りとのこと、おいたわしいことに存じまするな」  一座にわかに森然となった。  上座に端然と坐ったまま、兵衛の話に微笑を含みながら、耳を傾けていた若い先達も、その微笑を顔から消し、爾余の八人の山伏たちは、互いにそっと眼を見合わせた。  が、主人の戸野兵衛は、そういう変化などには気がつかないとみえ、 「神武天皇様ご東征の際、熊野において八咫烏が道案内をいたしまして以来、熊野地方も宮方でござって、王事に尽くしたものでございまするが、現在の熊野の別当職、定遍僧都は遺憾ながら無二の武家方でございますれば、大塔宮様熊野におわすと知らば、よもや見遁がしはいたしますまい……」 「ははあ」  とこの時平賀坊こと、平賀三郎が漠然とした声で、何んとなく曖昧にそう云った。 「熊野三山の別当定遍、そのように武家方でござるかな」 「無二の武家方にございます。……で大塔宮様におかれましても、そのような熊野においで遊ばすより、この十津川へお越し遊ばしたなら、私はじめ郷民こぞって、お味方仕りご起居も安泰に、万事とり計らうでございますものを、思うにまかせぬ儀にござりますよ」  兵衛はいかにも残念そうに云った。  矢田坊こと矢田彦七が、この時さりげない様子で云った。 「大塔宮様ご一行、まこと十津川へおしのびあらせられたら、兵衛殿には心をこめられ、真実お味方あそばさるるかな?」 「お味方いたさで何んとしましょう」  兵衛はいかにも凛然と云った。 「ご承知のとおりこの十津川は、分内こそ狭くはございまするが、四方嶮岨でございまして、十里二十里のその中へは、鳥さえ翔けがたしと云われおりまする。その上ただ今も申しましたとおり、郷民の心に偽りなく、弓矢取ってはことごとく武夫、で大塔宮様ご一行など、この地にお籠もりあそばされて、関東討伐北条氏覆滅の、策源地なんどにいたしましたならば、まことに恰好と存ぜられまする。……この戸野兵衛真っ先立って、お味方仕るはいうまでもなく、兵衛お味方仕ると宣らば、鹿ヶ瀬、蕪坂、湯浅、阿瀬川、小原、芋瀬、中津川、吉野十八郷の荘司ばら、こぞってお味方仕るか、すくなくも表立って指さす者は、一人もあるべからず存ぜられまする」  九人は顔を見合せた。  若い先達──大塔宮は、 (もうよい! 時期だ!)  とおぼしめした。 「相模!」  と傍らの木寺相模を呼ばれ、 「明かしてよかろう」  と、仰せられた。  と、相模は一揖したが、 「戸野兵衛殿」  と厳かに云った。 「ここにおわす御方こそ、今上第一の皇子にましまし、前の比叡山天台座主、ただ今はご還俗あそばされて、兵部卿大塔宮護良親王様におわすぞ! ……われらはお供の木寺相模」  すると次々にいずれもが宣った。 「光林房玄尊」 「赤松律師則祐」 「岡本三河房」 「武蔵房」 「村上彦四郎」 「片岡八郎」 「矢田彦七」 「平賀三郎」 「兵衛」  と宮家は仰せられた。 「笠置を落ち、赤坂を捨て、熊野へ入り、熊野を脱し、この十津川へ参ったも、郷民昔より王事に尽くし、誠忠であることを知ったからじゃ。……この日頃の起居動作により、兵衛、そちの赤心もわかった。……護良頼んだぞよ。味方仕れ!」  戸野兵衛は、呆然とし、しばらく宮家の御顔を見守り、それから次々に八人の者へ、驚きの眼を移して行った。  と、にわかに一間ほど辷り、兵衛は床へ額を押しあてた。 「かしこき極わみ! ……意外も意外! ……大塔宮様におわそうとは! ……尋常の山伏にはよもあるまいと、ひそかに存じてはおりましたものの……よもや、よもや、金枝玉葉の! ……それに致してもあさましや、この日頃の尾籠の振る舞い! ……それにもかかわらず御自ら、頼むぞよとのご一言! 兵衛身にとり生々世々の誉れ! ……お心安うこそおぼしめせ、戸野の一族身を粉に砕き、ご奉公仕るでござりましょう」  額からは流るる汗!  肩がこまかく顫えている。  雪を刎ね返して延びた竹に、払い落とされた雪の音が、窓のあなたから聞こえて来た。  立ち聞きしたらしい男の姿が、妻戸の蔭から廻廊の方へ動いた。  と反対の扉の蔭から、女の姿が素早く出て、その男の袖を掴んだ。 「大弥太様、立ち聞きされたな」 「誰だ? ……や、呉服殿か!」 「大弥太様、何んとなさるるお気じゃ?」 「何んとしようとわしの勝手じゃ! ……そういうそなたも立ち聞きされた筈じゃ!」 「立ち聞きしました、立ち聞きしました! ……聞けば何んとあの先達様は、おそれ多い大塔宮様!」 「わしもそれ聞いて身が顫えた! ……が、これこそ絶好の機会!」 「何んだとえ? さあその訳は?」 「云わぬ! 云うだけの義理もなし! ……えい放せ! 袖を放せ!」 「放さぬ、何んの放しますものか! ……心よこしまのお前様、おそらく何か慾心にかられて、……」 「何を囈言! えい放さぬか!」 「それにお前いつ帰られた?」 「たった今よ、今しがた帰って、蓬生に逢って話をきけば、九人の山伏が泊まっているとのこと……耳よりの話京で聞き、はてなと思ってここへ来て……」 「立ち聞きしたのでござんしょう。……いよいよ怪しいお前の振る舞い! ……心セカセカとつかわとして、これからそなたどこへ行くお気じゃ⁉」 「いつまでもクドクドとうるさいわい……そういうそなたこそ女の身で、このようなとこへやって来て……」 「わたしは若い先達様に……」 「ははあ読めた、懸想したな!」 「えい滅相な。……でもあのお方様は……」 「尊い尊いお方様よ! そなたなどの恋、何んの何んの……」 「恋どころか、今は必死! ……お尽くししたい心で一杯! ……その眼にどうにもお前の様子が……」 「いらぬ詮索、袖を放せ!」 「思うにそなた慾にかられて、熊野の別当定遍あたりへ……」 「密告すりゃア褒美も褒美、一国一城の主になれるわ!」 「やっぱりそれじゃア……」 「ナーニ違う!」 「見抜いたからは、やってなろうか! ……どなたか、どなたか、お出合いくだされ!」 「こやつめが!」  グ──ッ! 「あッ、あッ、……誰か!」  が、呉服は咽喉をしめられ、グッタリとなって廊下に倒れた。  向こうから来かかる人影があった。 (一大事)  と大弥太は呟き、雪の庭へ飛びおりた。  来かかったのは蓬生であった‼ 「まあ」  と云って足を止め、 「呉服様ア──ッ」  と仰天して叫んだ。 「気絶して……呉服様が……気絶して!」  雪明りの街道を、大弥太は一散に走っていた。  ──京都で耳にした噂というのは、大塔宮様が赤坂を脱し、山伏姿に身をやつされ、八人のお供を従えて、熊野の方へ落ち行かれたが、十津川を経て吉野か高野へ、いずれはご潜行なさるるであろう。居場所を突き止め密告した者には、一国一城を褒美として与える。──という、そういうことであった。 (熊野、十津川、吉野といえばいわば俺の縄張り領分、その辺に事実お忍びなら、探すに手間も暇もいらぬ。居場所つき止め密告し、その恩賞にあずかろう)  こう思って帰宅したのであった。  帰宅して見れば何んという僥倖、宮家はわが家におられるではないか!  そこで顔見知りの熊野の別当、定遍僧都に告げようものと、今走っているのであった。  積もった雪を足で蹴上げ、親に似ぬ子の鬼子の大弥太は、寒さも物かは走って行く。  と、嬰児の泣き声がし、それをあやす女の歌声が聞こえた。 泣きそ、な泣きそ 和子よ和子よ…… 十津川の錦旗 「や」  と大弥太は足を止めた。  こんな場合ではあったけれど、寒気のはげしい雪の夜に、嬰児の憐れな泣き声と、母親らしい若い女の、これも憐れな歌う声を聞いては、立ち止まらざるを得なかったらしい。 「どこだ?」  と、四辺を見廻してみた。  辻堂が道端に立っていて、黒い影を雪に印していたが、その中から声は来るようであった。  過ぐる日大塔宮護良親王が、戸野の館へおいでの前に、休息あそばされた辻堂なのである。 (乞食だな、嬰児をかかえた乞食)  惻隠の心はなかったが、女に眼のない大弥太であった、どんな女の乞食がいるのか? こう思って辻堂へ近寄って行った。  狐格子へ手をかけて、格子の間から覗き込んだ。  とたんに竹の杖が突き出された。 「わッ」  と、大弥太は脇腹を抑え、三間ばかりケシ飛んで、クルクルと二度ばかりブン廻ったが、そのまま倒れて、ノビてしまった。  森閑として物音もない。  が、遙かの谿間から、ゴ──ッという音が幽かに聞こえた。  雪なだれの音らしい。  ノビて動かない大弥太の体を、蔽うようにして立っているのは、巨大な松の老木であったが、やがて、その枝がユサユサと揺れて、大弥太の体へ雪の束を、間断なく落として来た。  木の股に大きな雪達磨がいて、蛍火のように緑色の眼を、二点鋭く光らせていた。  それは純白の猩々であった。  猩々卯ノ丸の落とす雪に、大弥太の体は埋ずもれようとしている。  この頃、二つの人影が、この方角へ近寄って来た。 「姥よ、参った。寒くてたまらぬ」 「暖め合って行こうではないか」  鬼火の姥と範覚とであった。 「こんな時にも、そんな言葉か」 「フ、フ、フ、あたため合って行こうぞ」 「そのカサカサした枯れ木のような肌でか」 「贅沢云うな、女の肌じゃ」 「どこか起こして泊まろうではないか」 「泊まるもよいが先もいそがるるよ」 「や」  と、範覚は足を止めた。 「姥見な、行き仆れじゃ」 「不愍やな、旅人らしい」 「うっちゃっても置かれまい」 「先が急がるる、捨てて行きな」 「その無慈悲、わしゃ嫌いじゃ」  範覚はヒョイと腰をかがめ、大弥太の額へ手をふれた。 「冷え切っていようの、うっちゃって行こう」 「うんにゃ、ヌクヌクじゃ、まだ暖かい」 「では死んではいないのか」 「気絶しているだけじゃ、そこで活じゃ。……エイ!」  と、一つ気合を入れた。 「ムーッ」  と、大弥太は呻いたが、 「人殺し──ッ」  と、不意に叫び、バタバタと手足をもがかせた。 「こやつ、何んじゃ、恩知らずめ! 助けてやったのじゃ、人助けじゃ! それを何んぞや、人殺し──ッとは!」  範覚は怒って大弥太の頬を、ガンと一つ喰らわせた。 「わッ、杖だ──ッ、そいつでグーッと腹を突かれた、脇腹をよ! ……まだ痛むわまだ痛むわ! ……や、あなた方は? ド、どなた様で?」  はじめて正気づいた大弥太であった。  いぶかしそうに二人を見た。 「汝を助けた恩人よ」 「熊野三山の別当職、定遍僧都にお眼にかかろうと、夜をかけて行くわしら二人に、逢ったお前さんは幸福者さ」  鬼火の姥も見下ろしながら云った。  その翌日から戸野兵衛は、溌剌と活動を開始した。  まず黒木の御所をつくり、大塔宮を奉戴し、四方の山々に関を設け、路を切りふさいで往来を吟味し、叔父竹原八郎入道へ、今回の事情を申しやった。  竹原入道は直ちに伺候し、一味誠忠の志を披瀝し、さらに謹んで言上した。 「戸野の館もさることながら、わたくし館はより手広にこれあり、しかも要害嶮岨にござれば、わたくし館へお移りくだされば、万事好都合かと存じまする」  戸野兵衛にも異存がなかった。  そこで大塔宮ご一行は、竹原の館へ移られた。  はたして兵衛の言明したとおり、十津川郷民は須臾にして、おおよそ宮家に帰服して、宮家を守護し奉るようになった。  やがて竹原入道の娘、呉服は宮家の愛を受け、入道は志しをいよいよ傾け、兵衛もことごとく悦喜して、一族心を一つにし、宮方加担に懸命した。  あわただしいうちにその年も暮れ、明けて元弘二年となり、その年の四月の候となった。  熊野本宮の別当館の、奥まった部屋で四人の者が、ひそかに話を交わせていた。  眉太く頬の肉の厚い、逞しい僧は館の主、すなわち定遍僧都であったが、脇息により中啓を突き、鬼火の姥と範覚と、大弥太とをこもごも眺めながら、 「忌惮なく申すがよい、忌惮なく申すがよい」  と、三人の云い条をうながすようにしていた。 「大弥太殿は十津川のお方、地理にも人情にも詳しゅうござれば、申すお言葉も正鵠を射ていて、胸に落ちるでござります。……大弥太殿、そなたの意見は?」  こう云ったのは鬼火の姥で、いくらか荒んでいるけれど、なかなか美貌の大弥太に対し、まんざらでもない心から、その歓心を迎えるように、こう追従らしく云ったのであった。 「これまでも幾度か申しましたとおり……」  と、大弥太は姥におだてられたので、小鼻などをうごめかせて、得意の様子で話をすすめた。 「あの十津川と申します土地は、嶮岨ならびなき地ではあり、郷民と申せば勇猛の者ばかり、力攻めにいたしましたら、五万八万の衆徒をもってしましても、従えますこと困難にござります。………で、これはどうありましょうと、智謀をもっていたしませねば、大塔宮様を討ちとりますること、おぼつかないよう存ぜられまする」 「もうその云い条聞き飽いているわい」  こう云ったのは範覚であった。  彼は姥が自分を袖にし、大弥太へ水を向けているのを、胸わるく思っているところから、ことごとにあたって行くのであった。 「智謀智謀と偉そうに云うが、智謀が往来にころがってはいまいし、そうそう目付かるものではない。……それともそなたによい智謀があらば、ちゃっと披露するがよいわえ」 「あるともよ」  と大弥太は云った。 「利を喰らわせて裏切らせるのよ」 「古い手だの、何が智謀じゃ」 「古い手も新しく用うれば、新しい手になるものよ」 「その新しい手聞きたいものじゃ」 「立て札を辻々に立てるのよ」 「何立て札? なんの札じゃ!」 「大塔宮様討ったる者へは、莫大の恩賞与うるの立て札!」 「それで裏切り者出ようかの?」  と、姥がいささか心もとなさそうに云った。 「そなたさっきも云われた筈じゃ、十津川郷民は勇猛じゃと。……いやいや勇猛ばかりでなく、利にくらまされず節義を尚ぶと、久しい前から聞いてもいるに」 「何んの」  と大弥太は一人のみ込み、 「おおよその郷民は仁に近い木訥、融通きかぬ手合いではござるが、中には利に敏い者もあって……」 「さようさ、ちょうどお前のように」  と早速範覚が横口を出した。 「何を!」  と、大弥太は怒鳴ったが、しかし図星をさされたので、怒鳴ったとたん、赤面した。 「これこれ」  と、はじめて声をかけたのは話を聞いていた定遍であった。 「範覚つつしめ、口がすぎるぞ。……大弥太気にかけるな、さてそれから」 「はい」  と、大弥太は一揖し、 「その立て札を見ましたならば、八荘司はじめ郷民たちは、動揺いたすでござりましょう。そこへつけ込み私はじめ、姥殿にも範覚殿にも、手を分けて裏面から、誘惑の腕ふるいましたら、宮様の御首級掻こうとする者、幾人か出るでござりましょう」 「なるほどのう」  と、定遍は云った。 「悪くない手じゃ、やってみようか‥…立て札へ書く文面が、そうなると大切なことになる」 「御意で」  と姥が口を合わせた。 「出来るだけ読む人の心持ちを、まどわすような文面を……」 「ひとつとっくりと考えてみよう」  定遍は眼をとじて考え込んだ。  密談に相違なかったので、襖はことごとく開けはなされていた。午後の中庭が見えていた。  泉水の岸、築山の裾に、盛りを過ごした桜の花が、それでも枝に群れていて、ひっきりなしに散っていた、老鴬の声もしきりに聞こえた。  四人はしばらく黙っていた。  それにしても姥や範覚は、どうしてこんなところへ来たのであろう?  漢権守の居城から、あんな事件で走り出し、飛天夜叉桂子の一団を討つべく後を追ったけれど、見失って討つことが出来なかった。  間もなく赤坂の城が落ち、大塔宮様や楠木正成が、自害をして果ててしまった。  が、慧眼の鬼火の姥には、詭計に思われてならなかった。  はたしてその後聞こえて来たのは、大塔宮様一行が山伏姿に身をやつされ、熊野から十津川方面へご潜行あそばされたということであった。  武家方である鬼火の姥は、そこでこのように考えた。 (大塔宮様こそ関東討伐の、宮方の総帥におわします。勿体ないけれど御首級頂戴せねば)と。  で、範覚と連れ立って、十津川へ入り込んで来たのであった。  しかし、単独では事なしがたい。無二の武家方の熊野の別当、定遍僧都のもとをたずねて、力を合わせて事を行なおうと、熊野に向かって、さらに進んだ。  その途中で大弥太を助けた。  すると意外にも、その大弥太が、宮家の居場所を知っていて、定遍僧都に密告しようものと、出かけて来たところだということであった。  そこで、連れ立ってここへ来たのであった。  定遍は三人の来訪により──主として大弥太の口により、大塔宮様一行が、戸野の館におわすことを知り、驚き喜び討ちとるべく計った。  しかしその時にはもう宮家には、竹原入道の館へ移られ、十津川一帯の荘司や郷民が、宮方に附いたと開き知って、手を出すことを躊躇した。  こうして、今日になったのである。  それから数日の日が経った時、鹿ヶ瀬、芋ヶ瀬、玉置、蕪坂、その他十八郷の辻々に、一夜にして頑丈な立て札が立ち、人々の眼を驚かせた。  さてその日のことであるが、玉置の辻に立てられてある、その立て札の前に立ち、武士や郷民や旅人が、女もまじえ子供もまじえ、ガヤガヤと罵っていた。 「誰かこいつを読んでくれ」 「お前読みな、遠慮はいらねえ」 「おれ読めぬ、鳥眼でな」 「朝見えない鳥眼なんて、おおよそ世間にあるものでねえ」  すると一人の山伏が、声高く立て札を読み出した。 「──大塔宮ヲ討チ奉リタラン者ニハ、非職凡下ヲイワズ、伊勢ノ車ノ庄ヲ恩賞ニ充テ行ナワル可キ由、関東ノ御教書有之、ソノ上ニ定遍先ズ三日ガ中ニ六千貫ヲ与ウベシ、御内伺候ノ人、御手ノ人ヲ討チタラン者ニハ五百貫、降人ニ出デタラン輩ニハ三百貫、イズレモ其日ノ中ニ必ズ沙汰シ与ウベシ。──とこう立て札には記してあるのじゃ」  すると群集は喚き出した。 「宮様を討てとは何事だ」 「熊野の定遍の悪巧みだな!」 「こんなものに何んでまどわされるものか!」 「こんな立て札ひき抜いてしまえ!」 「待て待て」  と山伏があわただしく止めた。 「まてまて、とはいえ、悪くないのう、非職凡下というからには、失業している平民どもじゃ、それが宮様さえ討ちとったら、一庄の主になれるのじゃ! 六千貫貰えるのじゃ! ……乞食が大名になれるというものじゃ! ……悪くないのう、悪くないのう!」 「黙れ、こやつ、とんでもない奴だ!」 「頬げた張り曲げろ、叩き殺せ!」  群集は怒って騒ぎ出した。  しかしその時にはその山伏は──それは金地院範覚であったが、もう姿をくらませていた。  芋ヶ瀬の郷の辻に立った、同じ種類の立て札の前でも、群集がたかって騒いでいた。  その中に雑って煽動しているのは、巫女姿の鬼火の姥であった。 「悪くないぞよ、悪くないぞよ、平民から一足とびに大名になれ、一文なしから大金持ちになれるのじゃ。……まだまだ世の中は武家の天下じゃ! 武家方に忠義をつくすがよいぞよ!」  群集が怒って喚き出した頃には、姥の姿は見えなくなっていた。  中津川の郷の四辻にも、同じような立て札が立っていて、黒木売りや干魚売りや、武士や農夫や、炭焼きが多勢その前に集まって、罵り騒ぎ批評していた。  顔を布で包んだ上に、塗り笠でさらに顔をかくした武士が、煽動的に喋舌っていた。 「断行! な、こいつが大事だ! 思い切った出世をしようと思ったら、思い切った仕事をやらなければ嘘だ! ……な、よいか、わかったか!」  しかし群集は怒鳴り出した。 「とんでもねえサムライだ、ぶち殺せ!」 「勿体ない奴だ、生かして帰すな!」  その武士の方へ押し寄せて行った。  しかしその武士はもうその時には、どこへか姿をかくしてしまった。  まだ群集は散ろうとはしないで、立て札の前に集まって、思うままのことを喋舌っていた。  そのうちに一種の群集心理で、立て札を抜いて倒そうと、大勢が立て札へ手をかけて、エイエイ声して引き抜きはじめた。  と、向こうから地頭の召使いらしい、横柄な様子をした侍が、息せききって走って来たが、二、三人を打擲して罵った。 「熊野別当様のたてられたお札を、おのれら抜くとは何事じゃ! 謀反人じゃぞ謀反人じゃぞ!」  しかしそう叫んだ次の瞬間に、その侍はのけざまに仆れ、しばらく手足をバタバタさせたが、やがて延びて動かなくなった。咽喉から血を吹き出している。  群集たちは仰天し、その周囲へ集まったり、その周囲から逃げたりした。  そういう混乱の人の渦から遁がれ、顔の前へ白布を垂らし、嬰児を抱いた姑獲鳥のような、女乞食に手を引かれ、少し血のついた竹の杖をついた、盲目の乞食がトボトボした足どりで、野の方へ歩いて行くのが見られた。  その時まで男女のその乞食は、群集にまじっていたものらしい。  でも誰もが竹の杖の先の、血粘に気のついた者はなかった。 「兄上参ろうではございませんか」  これも群集にまじりながら、立て札を見ていた一人の武士が、もう一人の武士へこう云った。 「参ろう」  ともう一人の武士は答え、誰にともなく突き殺された、地頭の召使いの死骸をかこんで、立ち騒いでいる人々から離れ、野路の方へ足を運んだ。  兄弟らしい二人の武士は、きらびやかな風をしていたが、二人ながら深い笠で、その容貌をかくしていた。  やがて二人は芒の原へ出た。  嶮しい山々に囲まれながら、起伏して拡がっている芒の原は、小松を雑えて青味立ち、ちょろちょろ水をところどころに流し、鶺鴒や山鳥の飲むにまかせていた。  ときどき雉子の啼き声がきこえた。 「右源次」  と兄らしい方の武士が云った。 「考えなければならぬのう」 「はい。……何んでございまするか?」  弟らしい武士は訊き返した。 「何んでございますかといったところで……いや、何んでございますかではないよ。……大塔宮様は我が家におられる。……で、我らどうとも出来る」 「はい。……さようにございます」 「お父上にはあのとおり、……戸野の小父様にもあのとおり、大変もない熱心さをもって、ご奉公申し上げてはいるけれど……」 「それに妹呉服ことも……」 「うむ、お仕えいたしているが……」 「…………」 「しかしだのう、しかしだのう……」 「…………」 「熊野の別当定遍殿が、こうも辛辣に敵対するからは……」 「…………」 「それにわが身の眼から見れば、宮方なんどまことに微力……」 「さようで」  と、弟の右源次は云った。 「承久以来幾度となく、朝権恢復を試みましたが、いつもほとんどひとたまりもなく、武家方によって粉砕されました」 「今回とてもその通りじゃ」 「そのとおりにござります」 「で、わしは思うのじゃ、父上や戸野の小父などと一緒に、宮方にご奉公いたそうものなら、数代つづいた竹原の家が、武家方によって滅ぼされようもしれぬと」 「わたくしにもそれが案じられまする」 「大塔宮様はわが家におわす」 「致そうと思えばどのようなことでも」 「うむ」 「それに……ともかくも致しますれば……車の庄はわが手に入ります」 「六千貫も手にはいる」  兄弟はここで沈黙した。  よしきりが群れて芒の中で、騒がしく啼き立て羽搏きしたが、一斉に立って晴れた空へ、碁石を蒔いたように散って見せ、すぐに一、二町はなれた野面へ、また一斉に落ち込んだ。 「……が、御方は宮家だからのう」  ややあって兄の左源太が、心弱そうに呟くように云った。 「……大逆の身になるのだからのう」 「が、先刻の顔を包んだ武士が、思い切って出世をしようと思ったら、思い切った仕事をやらねばと……」 「云ったのう、きゃつ云った。……それにしてもきゃつ何者であろう?」 「見覚えあるように思いましたが……」 「おお、お前もそうだったか、わしも見覚えあるように思った。……それにあの男にああいわれたので、わしとしては心を迷わしたのだが……」  この時背後から呼ぶ声が聞こえた。  兄弟の者は振り返った。  顔を包み笠をかぶった、先刻の武士が塵埃を蹴立て、陽炎立つ道を走って来ていた。 「わしじゃ、大弥太じゃ、待ったり待ったり!」  それは戸野大弥太であった。  大弥太は笠を取り頭巾を脱ぎ、額の汗をぬぐったが、 「追ったぞ追ったぞ、ずいぶん追ったぞ、でもよかった、追いついてよかった」 「大弥太!」  と、竹原入道の子息、その兄の方の左源太が云った。 「いま貴様いったいどこにいるのじゃ⁉」 「熊野にいるのよ、定遍様の館に」 「ふうん」  と、兄弟は顔を見合せた。 「妹から──呉服から聞いたところ、貴様京の地へ長旅をし、帰って来たと思ったところ、その夜すぐに飛び出してしまい……」 「しかも」  と、弟の右源次が云った。 「しかも行きしなに妹呉服の、咽喉を締めるという悪てんごうをして……」 「気絶させたということではないか!」 「云うな云うな過ぎ去った事だ」  と、大弥太はさすがに鼻じろみながら、手を振り振り打ち消すように云った。 「それというのも大塔宮様が、わが家においでと突き止めて、驚喜しての所業だからのう。……つまりわが身はその宮家を……と思うのに呉服にはあべこべに……そこで気絶させて飛び出したのだからのう。……ところで兄弟そちたちの心は、いったいどっちへ傾く気か?」 「どっちへとは何をよ、何んのことだ?」  左源太はわざと解らないように云った。 「わが身はすでに定遍様の方へ、随身をしてしまったのだから、宮家に対する心持ちが、どうあろうか解っておろう。……うちあけて云えばあの立て札を、あんなように辻々に立てて、御首級いただこうと企らんだのも、わしから定遍様へ建議したからよ」 「悪い奴じゃ! 逆賊め!」 「アッハッハッ、そうかもしれぬが、国主にはなりたいからのう」 「六千貫も欲しいからのう」  これは弟の右源次の方で、──兄よりも徹底的に現実主義者だったので、こうズバリと云ったのである。 「そうともよ」  と、大弥太は応じた。 「さて、ああいう立て札を立てて、吉野十八郷の者どもに、御首級掻きをそそのかし、裏手からわれらがそれを駆り立てる。……今朝からそいつで走り廻っていたら、ひょっこりお主ら二人を見かけた。……そこで追っかけて来たのだが……これ兄弟考えたがよいぞ。……やろうと思えば、お主らこそ絶好! ……宮家現在はお主たちの館に、御足とどめておられるのだからのう」 「そうともよ」  と、また右源次が云った。 「俺はもう心を決めているのだが、兄者人が右顧左眄、家のことを思ったり、大逆になるのを恐れたりして……」 「お父上のお心を推し計るとのう」  と、やはり左源太は二の足ふむように、 「妹の心根を思いやってものう」 「では、最初から云い出さねばよいのじゃ」  と、弟の右源次は歯痒そうに云った。 「来る道々宮家に対し、討とうか討つまいか考えものじゃの、宮家方に附いては家が持たぬのと、云い出したのは兄者人じゃ」 「それもさ家のことを思えばこそじゃ」 「それそれ」  と、大弥太はけしかけるように云った。 「うかうか宮方などに附こうものなら、竹原の家は滅びるぞよ」  この時芒の原の小松の蔭から、竹の杖をついた乞食の姿が、音も立てずにあらわれた。  それは土岐頼春であった。  首を垂れ肩をちぢめ、竹原兄弟と大弥太との方へ、芒を分けて寄って行った。  盲目の眼の辺りが落ち窪んでいて、そこへ黒い隈が出来ていた。  盲目の乞食が近寄るとも知らず、大弥太は二人へそそのかすように云った。 「俺はな、親父の兵衛に反いた、そちたちも親父に反くがいい、由来老人というものは、古いものを好んだり、古いことに執着を持つものじゃ。そこで宮方などというのであるが、若いわれらはそうはいかぬ、現在の勢力に眼をつける。そこで俺は武家方よ! ……そこで宮家を、な、宮家を!」  この時頼春は大弥太の背後へ、すでに近々と迫っていた。  竹の杖が持ち直された。  が、不意に嬰児の泣き声が、小松の蔭からけたたましく聞こえた。 「や」  と、大弥太は振り返った。 「嬰児が泣いてる、あの嬰児の声は?」  瞬間に竹の杖が突出された。 「わッ」  しかし辛く外して、大弥太は横手へ飛び退いた。 「乞食め! ……竹の杖! ……あッ竹の杖⁉」  いつぞやの晩辻堂の中から、嬰児の泣き声が聞こえて来たので、狐格子の外から覗いたところ、突然杖を突き出され、それに脇腹をしたたか突かれて、気絶したことを思い出した。 「汝は……汝は……汝は何んだ!」  刀の柄へ手をかけながら、顫え後退りし大弥太は叫んだ。 「乞食の分際で……汝、何んだ⁉」  狙いを狂わせ突き損じ、頼春は怒りと恥辱とを、心に深く感じながら、なおジリジリと刻み足で、大弥太の方へ進んで行った。 「俺はなお前達の先達だ。そうだ俺は裏切り者だ! お前達より先に裏切った者だ!」 「何を馬鹿な、が、汝は……」 「これよく聞け愚か者め! 日本は神国そのご皇統は、一筋にして神の界より出ている! ……この一事にさえ心づかば、進退あやまりなかろうに、汝らあやまろうといたしおる! ……宮家の御首級いただこうとな⁉ ……不忠、大逆、極重悪人め! ……われ裏切り者には相違ないが、そこまでの悪業はまだまだ! ……それ聞いては許すことならぬ! ……汝らが討とうとする御方は、私情から申してもわが身にとっては、かけがえのない御方じゃ! ……その御方のお口より、許すとの一言承わろうと、諸方を乞食して巡りおる者じゃ! ……汝等に討たれてたまろうや!」  云い云い頼春は大弥太の方へ、足の先にて地面を噛み、ジリリジリリと寄って行った。  大弥太はもちろん竹原兄弟も、幽鬼じみた相手の凄じい様子に、身の毛のよだつ思いしいしい、一歩一歩あとじさりしたが、 「宣れ! 汝は、汝は何者だ!」 「日本は神国そのご皇統は、一筋にして神の界より出ている──この大真理を見誤って、宮方より武家方に裏切った者じゃ! ……そうして〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔と浄罪との旅に、今は出ている憐れな乞食じゃ!」  云い云い頼春は大弥太たちの方へ、盲目とは思われない確かな足どりで、尚つめるように寄って行った。  斬られてなくなっている左の腕の、肘の辺りから長い袖が、潮垂れたように垂れているのが、歩くにつれてヒラヒラ靡き、小旗でもそこへつけているようであった。 「逃げろ兄弟! 左源太、右源次!」  不意に大弥太はこう喚くと、野路を一目散に売り出した。 「…………」 「…………」  それに続いて竹原兄弟も、同じ方向へ一散に走った。 「卑怯者」  と頼春は呟き、足を止めて地へ顔を向けた。 「いつかは餌食にしてくれようぞ」  この時芒の原の小松の蔭から、また嬰児の泣き声がしたが、やがて早瀬の姑獲鳥のような姿が、芒を分けて歩いて来るのが見えた。 「あなた」  と早瀬は声をかけた。 「頼春様」  とおずおずと呼んだ。  彼女の姿は頼春の横の、足もとの辺へうずくまった。 「でも今日は殺人は、一人だけで済みましてござりますのね」  怨むような恐れるような、非難するような声であった。 「あなた様とご一緒になりましてから、あなた様にはまア幾人、人を手にかけ殺しましたことか」 「誰だ!」  と不意に頼春は云った。  怒りと憎しみとを底に持った、表面冷淡な声であった。 「わしに物を云いかける女、いったいそちは何者だ!」 「あなた様の妻、妻の早瀬」 「昔はそういう女房もあった。……が、その女房は良人を裏切り、良人の大事を舅へ告げ、良人を裏切り者にした筈だ」 「ああまたそれを……それをあなた様には……」 「その女は蝮を良人に噛ませ、良人を不具者にした筈だ」 「存ぜぬことでござりました。……そうしてそのことはもうこれまでに、幾度お詫びを申しましたことか……」 「その女は良人の良心を、地獄の苛責に逢わせようと、良人の殺した女の嬰児の、泣き声を不断に聞かせる筈だ」 「この子ばかりは……可哀そうに……もうすっかりわたしになついて……どうぞお許しくださりませ」 「それでも妻か! 妻といえるか!」 「…………」 「あなた、ないしは頼春様などと、俺を親しそうに呼ぶ女は誰だ!」 「…………」 「漢権守の恐ろしい居城の、あの騒乱の際において、ゆくりなく互いに手を取った、それが縁となって二人は逢い、話し合ってみれば、話し合ってみれば……が、わしは云った筈だ、『漂浪人同士、乞食同士となら、ついて来い、一緒に行こう』と。……」 「漂浪人同士にござります。乞食同志にございます」 「そうだ、二人は他人同志だ」 「でも……ああ……いつになりましたら?」 「…………」 「良人じゃ妻じゃと……」  早瀬は泣いた。  風が顔の前の垂れ布を靡かせ、涙の伝わっている頤のあたりを、白っぽい陽にひとしきり曝した。 「わしの罪が許された時に……」 「…………」 「わしの心はのびやかになろう」 「…………」 「人を許す心にもなるだろう」 「その時妾の罪を許して……」 「うむ」  と頼春は頷いた。  茫々と展開けている芒の原には、春の陽がなんどりとあたってい、小松が斑点のようにところどころに生え、小丘が波の蜒りのように、紫ばんだ陰影をもって、芒の上に起伏していた。  と、犬の悲鳴が聞こえ、そこから忽然と空へ向かって、純白な毬のような物が飛び上がり、すぐに芒の中へ落ちてしまった。  芒の中に一匹の野犬が、腸を食い裂かれて斃れてい、その傍らに猩々卯ノ丸が、人間のようにうずくまり、白毛の生えている腕の先を、血で深紅に染めながら、犬の腸を引き出していた。  この獣にとっては遊戯らしかった。  と、卯ノ丸は立ち上がり、野路の方を凝視した。  夫婦とも見える男女の乞食が、野路を歩き出したからである。  竹原館へ入らせられてより、大塔宮は熊野、高野、吉野方面の衆徒の動静や、京都の動静へ御心を配られ、村上彦四郎以下八人の家臣や、竹原入道の家来をして、その様子をさぐらせられた。  と、ある日山伏姿をした、四条左少将隆貞卿が、竹原館へ訪ねて来た。 「おお隆貞か、よく参った」 「宮、ご壮健であらせられ、何よりの御事に存じ上げまする」  二人は館の奥まった部屋で、互いに無事を喜び合った。  隆貞は宮家と終始一貫、笠置の城へも籠もったのであり、赤坂の城へも籠もったのであるが、熊野落ちの際ひき別れ、一人京の地へ潜人し、この時まで様子を探っていたのであった。  痩せもしたり陽やけもしたりして、殿上人などとは思われない、野武士のような隆貞は、でも勇気は失わず、溌剌としたところを持っていた。 「父帝には? ……その後いかがか?」  宮家は真っ先にお訊ねになった。 「は」  と、隆貞はお答えしたが、しばらくの間は黙っていた。  甲胄の擦れ合う音をたてて、宮様ご警護の竹原家の家来が、館の庭を往来している姿が、簾越しに見えるのへ、隆貞は視線を投げていた。 「隠岐にご巡幸と事定まりまして、御いたわしくも三月十七日に……」  と、ややあって隆貞はポッツリと云った。 「ナニ隠岐へ? 遠い島へか」  宮家は不意に横を向かれ、両眼をしずかに閉じられた。  出雲のあなた、日本海の上に、潮煙りに巻かれて点在している、孤島の姿が映って見えた。 「尊良親王様におかせられましては……」  と、隆貞のしめった声が云った。 「土佐の国へ御流遷……尊澄法親王様におかせられましては、讃岐の国に御流遷……」 「承久の例そっくりじゃな!」  両眼を鋭く見ひらかれ、宮家は烈しい御声で云われた。 「不届きなは北条! ……陪臣の身をもって!」  また宮家には御眼をとじられた。  承久三年のことであった。北条氏の越権をお怒りになり、これを滅ぼして政治の大権を、朝廷に復して常道に帰そうと、こう思しめされた後鳥羽上皇には、仁科盛遠、三浦胤義、これらの武士を召させられ、北条氏討伐をお計り遊ばされた。  その結果は不幸にも、宮方のいたいたしい敗戦となり、本院には隠岐の島へ、新院には佐渡の島へ、中院には土佐の国へ、この日本に武将あって以来、もっとも腹黒き逆臣の代表、冷酷苛察の人畜ともいうべき、北条義時の手によって、それぞれ御配流のお身の上になられた。  この一事を卒然と宮家には、今お思い出し遊ばされたのであった。  隆貞も黙っていた。  で、部屋内はひっそりとなって、哀愁の気ばかりが漂って感じられた。  が、にわかに宮家の御顔へ、快然とした微笑が産まれ出た。 「隆貞ご覧」  と、仰せられ、背後の方へ御指をさされた。  見れば背後の床ノ間に、日月を金銀で打ちつけたところの、錦の御旗が一流れ尊厳そのもののごとく森然と、霊気を含んで立ててあるではないか。 「…………」  隆貞はただに頭を下げた。 「ね」  と、宮家は仰せられた。 「御旗が我らをお守りくださる。……いや我らが御旗を捧げて、まつろわぬ者どもを折伏するのだ」 「靡かぬものとてはござりますまい」 「日本ばかりか異国さえも靡くよ」 吉野へ!  幾日か日が経った。  宮家は令旨を竹原入道に与え、伊勢の国へ兵を出し、平定すべくお命じになった。  竹原入道は仰せかしこみ、その準備にとりかかった。  この頃楠木正成のもとより、 「千早に城を築く以前に、赤坂の城を奪回仕り、関東方の胆を寒からしむる所存」  という、痛快な報知がもたらされた。  さらに吉野の衆徒からも、また高野の衆徒からも、 「宮方へ加担」  という報知が来た。 「着々事が運んで行く」  宮家は悦喜しましました。  そうして宮家御自身には、一挙に京都へ征め上り、両六波羅を滅ぼそうものと、よりより軍備あそばされた。  しかし、この頃宮家の御心を、すこしく暗くする出来事が起こった。  熊野の定遍が狡智をもって立てた、例の立て札が功を奏し、吉野十八郷の荘司のうちに、武家方に加担し宮方を裏切り、この身に害を加えようとする者が、幾人か現われたことであって、玉置の荘司や芋ヶ瀬の荘司は、それに疑がいなさそうであった。 (油断は出来ない)  と、おぼしめした。  まめまめしく仕えていた竹原入道の息子、左源太、右源次の二人の若者が、この頃ほとんど館にいつかず、どこへ行くのか外出ばかりし、時々帰って来るかと思うと、宮家の御眼を避けるようにするのも、御心にかかってならなかった。  そうして、このことは、宮家ばかりでなく、宮家の家臣の誰彼の眼にも、疑がわしく見えるようになってしまい、ある日村上彦四郎が、ひそかに宮家へ言上した。 「竹原入道の二人の息子、この頃の振る舞いちと審しく……」 「それじゃよ」  と、宮家は仰せられた。 「入道の誠忠には疑がいないが、左源太、右源次の二人はのう」 「戸野兵衛の息子大弥太は、熊野定遍の部下となり、勿体なくも宮家のご身辺を……」 「うむ、過日も蓬生が参って、泣く泣くそのことを申しておった」 「彼らこそまことに親の心子知らず……」 「…………」 「表立って敵対う輩には、備うべき手段もござりまするが、内輪にあって逆意持つ者には……」 「備うべき策にも困ずるのう」 「所詮十津川も安泰の地にはおわさず」 「入道や兵衛には気の毒ではあるが、早晩この地も捨てずばなるまい」 「捨ててさて宮家には?」 「吉野へ行こう、要害の吉野へ」 「至極の御事と存じまする、……この頃しきりに吉水院のもとより、ご来駕促がしおりますれば……」 「吉水院は完全に宮方。が、執行の岩菊丸は、首鼡両端を持しておるとか……」 「宮家吉野へおいで遊ばし、吉水院に御力を添え、岩菊丸を御抑え遊ばすこそ、もっとも肝要かと存ぜられまする」 「いずれにいたしても十津川を去るべく、ひそかに用意いたすよう」 「かしこまりましてござります」  また数日の日が経った。  ふと宮家は詩情を催され、お供もつれられずただお一人で、館の裏庭へおでましになり、咲き垂れている藤の花の上に、朧ろに出ている月を仰ぎながら、朗詠を口誦さまれ彷徨われた。  中門の側まで来た時であったが槻の木の大木が立っていて、その裾に萩と卯木との叢が、こんもり丘のように繁っていたが、その蔭から男女の声が、ヒソヒソとしてきこえて来た。 「兄の頼みじゃ、妹の身として……」 「いかな兄上のお頼みでも、勿体ない、だいそれた……」  右源次と呉服との声であった。 「はてな」  と宮家はおぼしめし、じっとお耳を澄まされた。 「われらが事を行なわねば、大弥太が事を行なうまでじゃ! ……きゃつに功を奪われてはのう!」 「大弥太めが⁉ ……憎い憎い大弥太!」 「兄上は優柔不断! でもとうとう決心されて……玉置、芋ヶ瀬の荘司の方へ、……先刻内通に行かれた筈……」 「ええまア穢らわしい、聞けば聞くほど……あそこにもここにも不忠者ばかりが……」 「父上には昨日よりお留守……で、今夜あたりが絶好の機会……呉服たのむ、やってくれ!」 「ええもう聞く耳持ちませぬ! ……思っただけでも勿体ない……身の毛のよだつ大悪逆、それをわたしに勧めるとは! ……ひとでなし、何が兄妹! ……手助けはおろか改心なされずば、その旨すぐにも宮様にお告げし……」 「えい女郎、何を云うぞ、宮様に明かされてたまるものか! ……むずかしことを頼むのではない、ただお枕もとの御佩刀を、こっそり持ち出してくれさえすれば……宮家はご武勇でいらせられるからのう……得物をお手にされたひには……それで御佩刀をまず奪い……後はわれらが、われらがやる!」 「天魔に魅入られたと申そうか、その恐ろしいお心持ち! ……父上にお恥じなさりませ! ……宮様の御令旨かしこんで、近々伊勢へ打って出ようと、あのご老体で東奔西走、昨日もお留守今日もお出かけ、兵の催促やら、兵糧武器の仕入れやらに、懸命になっておいでなされます。……戸野の小父さまも同じお心で、父上と行動を一つにされ、父上ともども毎日の奔走! ……それを血気の兄上たちは、目前のわずかな利に迷い……」 「口賢しく小女郎が何を云うぞ!」 「いえいえ云います、云います云います! ……目前の利に心を眩ませ、順逆の道踏み迷い……」 「うるさい! 黙れ! 時刻が経つわい!」 「極悪といおうか大逆といおうか、この日本の人間として、行なうまじきを行なって……」 「まだ云うか! その頬げた!」 「ご先祖を恥ずかしめ家を穢し!」 「愚か者めが、何を云うぞ! その家を立てるため栄えさせようため、今度の企てたくらんだのじゃ!」 「やがては……すぐにも……兄者人の命も……」 「死なぬの、なかなか、それどころではない、車の庄の主として、長く栄えて冥加得る気じゃ!」 「あくまでご改心なされぬお気なら……」 「よく聞け、見ろ、今夜のありさまを! ……いつもは篝火諸所に焚き、宮様警護の家の子ども、槍薙刀をひっさげて、館の内外に充ちているのに、今夜に限ってこの寂しさ! 何故じゃ? 云おう、明かしてやろう! みんな俺のやったことよ! 彼らにしたたか酒くらわせ、遠侍や廊の詰め所に、夢こんこんと結ばせているのじゃ! ……さてそこでこの右源次様が、合図の太鼓をドンと打つ! と、玉置の荘司から、よこしてくれた荒くれどもが、伏せてあるところから一斉に立ち、館へこみ入りこみ入って! ……が、もしそいつが仕損なったら、戸野の大弥太が熊野定遍の……」 「恐ろしや、それほどまでに……すでに準備が……ではこうしては」 「やらぬ、女郎! 明かす気じゃな! ……もうこうなっては妹とは思わぬ! ……秘密を知られた汝は敵じゃ!」 「どなたか! 出合え……宮様一大事!」 「黙れ!」 「あッ」  首を締めたらしい。  宮家は思わず前へ出られた。  とたんに、 「わッ」  という男の悲鳴が──右源次の悲鳴が一声きこえ、 「宮様! 宮様!」  と叫びながら、槻の木を巡り館の方へ走る、呉服の姿が黒く見えた。 (?)  宮家は凝然と足を止められ、 (呉服が……よもや……右源次を?)  ──不安をもって見送られた。  呉服の姿が消えてしまうと、広大の館の庭の中には、一つの人影も見られなかった。  厩舎の方から仕入れ馬でもあろう、板壁を荒々しく蹴る音が聞こえ、槻の木の梢からは巣ごもっている鳥の、やわらかい啼き声が落ちて来た。 (右源次は?)  と御心にかかり、宮家は萩と卯木との叢を、向こうの方へ廻って行かれた。  それは右源次の死骸らしく、地にのびて俯向きに倒れていたが、杖をつき首を垂れ、物思わしそうにしょんぼりと、みすぼらしい姿の盲人が、その横に立っていた。  さすがに宮家もギョッとされて、歩みをとどめ見守られた。  盲人は人気を感じたと見え、垂れていた首をゆるやかに上げ、宮家の方へ差しのばし、 「どなたかおいででござりまするか?」  と云った。 「…………」  相手の何者かを計りかね、宮家は沈黙をつづけておられた。 「どなたかおいででござりましたら、この憐れな盲人を、お情けをもって大塔宮様の、ご前までお案内くださりませ」 (はてな?)  と宮家は意外に思われた。 (わしに逢いたいという、何者であろう?) 「宮様に直々お眼通り仕り、許すとのお言葉いただきたさに、流浪いたすものにござりまする」 (?) 「……返辞がない。……誰もいぬそうな……」  盲人はソロソロと歩き出した。  と、死骸につまずいた。 「大逆者め」  と呟いた。 「竹の杖で咽喉をえぐられ、息絶えたは天罰ぞ」  ソロソロと歩き出した。  槻の木の茂りから外れた時、月光が盲人に降りかかり、痩せた身長の高いその躰を、宮家の御眼に強く印した。  憐れにも見え怪しくも見えた。 (訊ねて見ようか? 何者であろう?)  宮家は二三歩あゆまれた。  と、その足音を聞きつけたらしく、盲人は振り返り首を傾げ、 「どなたにかおいででござりまするかな? おいででござらばお情けをもって、この哀れな裏切り者を、大塔宮様のご前まで、なにとぞご案内くださりませ。……許すとのお言葉をうけたまわりたさに、比叡山から赤坂から、熊野からこの地へまで、お後慕うて参りましたもの。……この館に宮様おわすと知り、お眼通りいたしたく存じながら、日夜にご警護きびしければ、今日まで希望とげがたく……しかるに今夜は館の警護、はなはだ手薄く存じましたれば忍び入りましてござります。……お情にご案内くださりませ」  云い云いまたも耳傾けたが、 「ご返辞がない。……誰もいぬそうな」  ソロソロと歩き出した。  宮家はその後を眼で追いながら、 (裏切り者だと云ったようだが。……どういう意味の裏切り者か? ……それにしてもわしの後を慕って、比叡山から赤坂、熊野と、この土地へまで来たとは気の毒、話して事情を訊ねるとしよう)  宮家は声をおかけになろうとした。  しかしその時足音がして、誰か走って来るようであった。  で、宮家は振返り見られた。  村上彦四郎が走って来ていた。 「宮」  と近寄ると囁くように云った。 「一大事! ……なにとぞこちらへ!」  先に立って引き返した。  盲目の乞食に御心引かれたが、彦四郎の様子がただならなかったので、宮家は黙々と御足を返された。  藤の棚の側まで来た時であった、一人の女が立っていたが、宮家のお姿を眼に入れると、地にひざまずいて額をつけた。 「蓬生ではないか」  と宮家は仰せられ、泣いている女をいぶかしそうに見られた。 「蓬生殿」  と彦四郎は云った。 「ただ今の事情を宮家のお耳へ」  すると蓬生は嗚咽しながら言葉せわしく言上した。 「良人ながらも大弥太こと、天魔に心魅入られましたと見え、熊野の定遍の味方につき、家を明けましてござりまするが、父、兵衛のこの頃の不在を、早くも探り知りましてか、定遍の手の者荒くれ武士どもを、今夜大勢ひきつれ参り、家にて評定仕り、勿体なくも宮様を。……立ち聞きしましたわたしの驚き! こは一大事と存じまして、裏口よりかちはだしで、走り出でまして駈けつけ参り……」 「さようか」  と宮家は仰せられた。 「そちの誠心うれしく思うぞ」 「は、はい、ただもうその御言葉、わたくしこそ妾こそ……勿体ないやら嬉しいやら……それにいたしても良人大弥太……」  蓬生は土へ食いついて泣いた。 「彦四郎」  と宮家は仰せられた。 「左源太、右源次の逆意の証拠も、たった今しがた確かめた」 「…………」  彦四郎は無言で一揖し──まだ事情を知っていなかったので──いぶかしそうに宮家を見詰めた。 「そのため不愍にも右源次は、不思議な盲人の杖で突かれ、命を奪われ槻の木の根もとに……」 「え⁉」 「まあ」  と彦四郎と蓬生とは、胆を奪われたように声をあげた。 「大弥太も逆意をあからさまにし、この館へとり詰めるという。……いよいよ十津川を去る期となったぞ」 「御いたわしや、おそれ多や……」  蓬生は声を立てて泣いた。 「叔父様や舅様、せめておいででござりましたら……」 「いやいや」  宮家は微笑さえされ、むしろ朗らかに仰せられた。 「入道や兵衛におられては、気の毒でかえって去りがたい。……それに大弥太や左源太や、定遍坊の手の者や、玉置荘司の家来など、われら駈け散らす所存ならば、九人だけでも事足りる。……が、それは大人気ない。……彦四郎、出かけようぞ」  ふたたび山伏のお姿になられた大塔宮の御袖に縋り、やるまい離れまいと泣きに泣きに泣く、憐れな呉服を気の毒そうに囲み、これも山伏の姿にやつした、四条左少将隆貞や、村上彦四郎ら九人の者が、竹原入道の館の裏木戸に、声なくしばし佇んだのは、それから間もなくのことであった。 「……この日頃まめまめしく、よう呉服かしずいてくれた。……その誠心忘れはせぬ。……別れじゃ! ……が、命さえあれば……縁さえあればまた逢えよう。泣くな! ……呉服、健かにくらせ……」  宮家の御声も湿りを帯びておられた。 「宮様!」  と呉服は咽びながら云った。 「お別れとは! ……夢にも! ……このような! ……おおこのようなお別れとは!」  若い気高い美貌の先達と、そう思ってひたむきに恋した人が、雲の上人も雲の上人、尊い宮様であったとは!  しかるにどうだろう、その宮様に、朝夕お仕えすることが出来、ご寵愛をさえ蒙ったとは! (女の身としてこれ以上の誉れ、これ以上の幸福はありはしない!)  こう思って呉服は身も心も、捧げつくしてお仕えした。  その宮様と兄達の裏切りや、一族の大弥太の裏切りからして、このようにあわただしくこのように飽気なく、お別れしなければならなくなったとは!  お別れ申し上げた宮様の前途が、はたして幸福でご安泰であろうか?  いや、いや、いや、そうではない!  行く手には敵や艱難が牙を磨いで待っている。 (どうしてやれよう、どうしてお別れ出来よう!)  どうでもこの地が御身に危険で、お去りにならなければならないのなら、妾もご一緒にお供して行き、いつもお側にお仕えして、その御体をお守りしたい! 「宮様!」  と呉服は御衣の袖を、自分の涙でぬらしながら、 「呉服もお供仕ります。……お連れなされてくださりませ。……どのような艱難に逢いましょうとも、きっとわたくしは堪えまする! ……お連れなされてくださりませ!」  御袖を放そうとはしないのであった。  しかしその時、四条隆貞が、訓すようにしみじみと云った。 「呉服殿のお心持ち、もっとも千万至極ではござるが、兵部卿大塔宮護良親王様が、関東討伐のご事業のために、吉野入りあそばさるるというご大切の御旅に、女人をお連れあそばされたとあっては、世間へ聞こえいかがであろうか? この辺おもんぱかりなさらではのう」  それにつづいて村上彦四郎が、 「お別れとはいい条大塔宮様は、程遠からぬ吉野の御山へわずかに、御住居を御移しになるばかり、しかもやがては高野も熊野も、御手にお入れあそばさるるご方寸、しかれば十津川は交通の要路、再々お通りあそばさるれば、そのつどお眼にかかれまする。……で、むしろ呉服殿におかれては、竹原入道殿のお側におられ、兄や大弥太の濁りに染まず、入道殿や兵衛殿と共々、陰に陽に宮様ご事業を、お助けなさるこそまことの誠忠、また貞節にござりまする」  と、これも訓すようにしみじみと云った。 「は、はい」  と呉服は消えがに答え、面を上げず泣き沈んだ。 「呉服」  と宮家は仰せられた。 「これまでそちに暇あるごとに、修験の大綱を話して聞かせたのう。……さてそこで今度逢うまでに『三種成仏』の三種の区別を、よくよく考え弁えて置いて、お前からわしに話しておくれ」  袖を払って御足を運ばれた。 「三種成仏? おおあれは?」  呉服はうっとりと考え込んだ。 「即身成仏、即身即仏、即身即身、これだった筈じゃ」  ──が気がついて四辺を見た。  と、宮様のご一行は、遥かかなたを歩いておられた。 「あっ」  と呉服は仰天し、飛び起きて後を追おうとした。  後方にいた蓬生が抱き止めた。 「未練な! 呉服様! ……でも可哀そうに……」 「お姉様!」  と呉服は咽び、ひしと蓬生を抱きしめた。 「宮様が、宮様が、わたしを見すてて」 「いいえ宮様はあなたお一人だけの、御方様ではござりませぬ! この日本のみんなの御方様!」 「おおそうしてわたしには」  と呉服はハタと合掌した。 「神様でござります! 仏様でござります!」  同じこの夜のことであった、紀州熊野中辺地街道の、野長瀬の郷を七人の男女が、不思議な振る舞いをして通っていた。 「今夜大塔宮護良親王様には、十津川の郷をお出ましになり、明日小原に差しかかられまするが、大不忠の者あらわれて、大難にお遭いあそばさるる御相、未然にまざまざ現われたり。……野長瀬の人々は昔より宮方、わけても豪族六郎殿、七郎殿には、現今もっとも誠忠無類の、宮方勤王の士である筈、早々兵をお率いになり、宮様のご難に馳せ参じ、宮様をお迎え奉れや」  と、往来の人に逢えば往来の人に呼びかけ、人家に逢えば人家の戸を叩いて、そう大声に呼びかけているのであった。  それは厳重に旅よそおいをした、飛天夜叉の桂子と浮藻と小次郎と大蔵ヶ谷右衛門と、風見の袈裟太郎と鶏娘と、そうして幽霊女とであった。  桂子の﨟たけた気高い姿、浮藻の処女らしい純の美貌、小次郎の男としては類少ない圧倒的な業平美、右衛門の松の老木のような四肢、袈裟太郎の飄乎とした様子、鶏娘の道化た物腰、幽霊女の痩せて身長高く、いかにも幽霊幽霊とした風姿など──特色いちじるしい七人の男女が、そんなことを云って歩くのであるから、郷民たちは怪しむと共に、動揺せざるを得なかった。 「これはうっちゃってはおかれない」 「野長瀬様のお館へ行って、この旨をお知らせしなければならない」  と、注進に走って行く者があった。 「事実とすれば一大事、ともかくも合戦の用意をしろ」  と、馬の手入れをし、武器をつくろい、旗指物を蔵から出し、家ノ子郎党を集める者も出て来た。 「彼ら七人は何者だろう?」 「人間ばなれしていたようだが」 「明日起こる事件を今日知るには、とうてい人間業ではない」 「熊野権現のお使いかな」 「狐狸のまどわしではあるまいか?」 「それにしては七人ながら立派だった」 「どこへ行ったかな、もう見えないが」 「いや向こうの辻にいるそうだ」 「野長瀬様のお館へ参って、殿様のご意見を聞こうではないか」  こうして郷士や地侍や、郷民の中での血気の者どもは、得物得物をひっさげて、野長瀬六郎兄弟の城廓さながらの大館へ、続々としてつめかけた。  この夜、野長瀬兄弟は、寝もせず居間で話していた。そこへこの事件の注進が来た。 「兄上」  と舎弟の七郎が云った。 「これは只事ではござりませぬな」 「そうだな」  と六郎は頬髯の濃い、律儀そのもののような赭ら顔へ、疑惑の色を浮べたが、 「その七人の男女という奴が、妖怪でもなく変化でもなく、また世間を騒がして、ドサクサまぎれに盗みしようなどと、姦策を巡らす悪漢でもなく、何らかの理由でそういうことを知り、それを我らの耳に入れ、大塔宮様のご遭難を、我らの手によって避けさせたいと、そう望んでいるというのなら、これはうっちゃってはおかれないな」 「何んとか手段を講じませいでは……」 「そうとも」  と六郎は頷いた。 「宮家が十津川へおいでになり、戸野兵衛や竹原入道が、お味方となってご守護いたしおる旨、ひとづてによって聞いた時から、わしは竹原入道のもとへお味方の使者でも遣わそうかと、心構えをしたほどじゃ」 「槇野城の上野房聖賢のもとへは、たしか兄上には使者をつかわされ、宮家へお味方いたす所存と申しやりました筈にござりますな」 「さよう、彼の房とは懇意ではあり、彼の房も宮方の一人じゃからの」 道中ご難 「熊野の定遍から密使が参り、大塔宮様を討ってとるようにと、兄上へご慫慂なされました時、兄上におかれましては一も二もなく、お断わりなされましてござりますな」 「わしは定遍が嫌いだし、それに仮りにも宮様をのう。……で、わしは産まれてはじめて、あの時本当に腹を立てたよ」 「その宮様が明日小原で、大難にお遭いあそばすという、傍観いたすこと出来ますまいが」 「真実なれば傍観は出来ぬ。……が、竹原入道や、戸野兵衛などが心をこめて、お守りしている宮様じゃ、それが突然十津川を立たれ、小原で大難にお遭いあそばす、しかもそのことが前の日にわかる。……これが合点ゆかぬでのう」 「わたくしにも合点参りませぬ」 「これさえ合点参ればのう」 「けっきょく七人の男女の者が、何者であるかさえわかりましたら……」 「そうじゃそうじゃそれさえわかったら、行動を起こすことが出来るのじゃが、今のままではちとどうも。……軽々しく動くのは危険じゃからのう」  陣刀、鎧櫃、胡簶などを、厳めしく飾った大床を背にし、脇息にもたれている兄六郎の、沈思する顔を見守りながら、舎弟の七郎は色白下膨れの、穏かな顔を少し顰めて火桶の胴を撫すっていた。  と、騒がしい物音が、館の周囲から聞こえて来た。  二人はチラリと眼を見合せた。  その時襖があけられて、近習の武士が顔をのぞかせた。 「何か?」  と六郎は声をかけた。 「大塔宮様明日小原にて大難に遭われまする趣きを、郷民ども耳に入れまして、いかが致せばよかろうか、お館様のご意見ききたしと、二百人三百人続々と、詰めかけましてござります」 「ふうん」  と六郎は驚いたように云った。 「二百人三百人、そうも来たというか」 「後続々と幾何ともなく、詰めかけ参る様子にござります」 「ふうん」  六郎は呻くように云った。 「七郎これは啓示らしいぞ」 「啓示? 兄上、啓示とは?」 「例の七人の男女の触れ言、悪戯でもなく姦策でもなく、人をもって云わしめる天啓らしいぞ! ……でなかろうものなら郷民の心を、そうも刺戟し一致させはしない」 「いかさま、兄上、これはごもっともで」 「大門をひらけ!」  と野長瀬六郎は、近習に云って立ち上がった。 「郷民どもを庭へ入れよ! ……篝を焚き湯づけなど出し、ねぎらってやれ、ねぎらってやれ!」  その翌日の昼となった。  芋ヶ瀬の郷の林の中に、桂子たちの一団がいた。  晩春の悩ましい陽の光が、杉の木立から射し込んで、緑の草や草の間の野花を、質のよい織物のように燿わせていた。 「相変わらずよ、あの通りだわ」  頸のあたりを陽に焙らせながら、幽霊女へこう云って、鶏娘は拝殿の方へ頤をしゃくった。 「そうね」  と幽霊女は細い股の上へ、翅を休めた蝶の姿を、可愛いというように眺めていたが、その眼をあげて拝殿の方を見やり、 「桂子様は桂子様、浮藻様は浮藻様、小次郎様は小次郎様と、バラバラに離れておいでなさるのね」 「こまったことでございますのね」 「こればかりはどうも他人の口からはねえ」 「いっそ別れておしまいになったら……」 「それが思い切って出来るようならねえ」 「三人めいめい苦しみながら、一緒に住んでおいでなさるなんて、これこそ本当に生き地獄ね」 「恐ろしいことでも起こらなければよいが」  二人の女が噂しているように、桂子と浮藻と小次郎は、こんな時にも離れ離れにいて、牽制しあっているのであった。  桂子は芋ヶ瀬の荘司の館が、屋根だけを木の間に見せている、その方角へ眼をやりながら、野宮の腐ちた拝殿の縁へ、腰をかけているかと思うと、小次郎は野宮の右側に、ぼんやりと地面を見詰めながら、所在なさそうに足踏みをしてい、浮藻はそれとは反対の側の、栗の木の傍らに佇んで、枝に甲虫でもいるのであろうか、上向きながら木の幹を、指で叩いているのであった。  風見の袈裟太郎はいなかったが、大蔵ヶ谷右衛門は例の鉞を、例のごとくに提げて、檻に入れられた老いた豹のように、何か口の中で呟き呟き、同じ所を往ったり来たりしていた。  でも時々聞こえて来るところの、その右衛門の呟きなるものは、ずいぶん物騒なものであった。 「これでガッとこれでガッと! ……そうすると万事かたづくのだがなア。……きゃつどうにも気に食わぬて! ……浮藻様をたぶらかし、桂子様をたぶらかし! ……女たらしめが、女たらしめが!」  そうして凄い怒りの眼で、小次郎の方を睨みながら、大鉞へ素振りをくれるのであった。  漢権守の居城において、小次郎と浮藻とを救って以来、桂子は二人を見放しもならず、三人一緒にくらすことにした。  桂子の心を推量し、小次郎と浮藻とは今日においても、夫婦になってはいなかった。  夫婦にお成りと自分の口から、一度は勧めた桂子ではあったが、一緒に住むようになってからは、二度と勧めはしなかった。  小次郎へ執着があるからであった。  その桂子はあの時から間もなく、赤坂の城が落ちたので、京都の自分たちの住居へ、衆を連れて引き揚げた。  でも、桂子も鬼火の姥と同じに、大塔宮様や楠木正成が、討ち死にしたものとは思わなかった。  はたしてその後大塔宮様が、熊野から十津川の方へご潜行なされ、鬼火の姥はその後を追ったと、そういう噂を耳にした。 (ではわたしも出かけて行こう)  と、こうして彼女たちは来たのであった。  それにしてもどうして桂子は、小原において大塔宮様が、大難にお遭いあそばすことを、その前日に知ったのであろう。  彼女が飛天夜叉であるからである!  飛天夜叉はどんなことでも、洞察することが出来るのである!  眺めている桂子の視野の中へ、風見の袈裟太郎の走って来る姿が、麦畑の緑と一緒にはいった。  芋ヶ瀬の荘司の様子をさぐりに、さっきから出かけていた袈裟太郎は、やがて桂子の前まで来た。 「宮様のご一行参られました」  と、額の汗を拭き拭き云った。 「山伏のお姿でござりまして、お供は八人にござります」 「八人?」  と桂子はいぶかしそうに、 「お供は九人の筈だがねえ」 「村上彦四郎義光殿の姿が、見えませんでござります」 「足でも痛めて遅れたのかしら? ……で、ご一行はどうあそばされたえ?」 「芋ヶ瀬荘司の館をさし、すぐにおかかりでござりました」 「館へお入りなされたのだね」 「はい、さようでございます」 「荘司はお迎えしたろうね」 「いえ家人を附けまして、附近の堂へご案内申し、そこへお置きにござります」 「そう……さては……芋ヶ瀬の荘司め……やっぱりわたしの察したとおり……」 「わたくしこれだけ見とどけましたので、とりあえずお知らせいたそうものと、馳せ帰りましてござります」  この頃宮家はお堂の中に、八人のお供をしたがえて、不安と期待とをお持ちになり、芋ヶ瀬の荘司の出よういかにと、それをお待ちになっておられた。  びんずる尊者の古い木像には、薄白く塵芥などが溜まってい、奥の薄暗い仏壇には、仏具が乏しく飾ってあり、香の煙りなども立っていた。ずいぶん古いお堂なので、黴の匂いなども鼻についた。  宮家は仏壇に背を向けられ、庭をご覧になりながら、粛然と端坐しておられたのであった。 「彦四郎はどうしたか?」  側の片岡八郎へ、ふと心配そうに仰せられた。 「背後より大弥太の手の者など、追い討ちかけないものでもなし、わたし殿陣仕ると、このように申して彦四郎は、わざとおくれましてござります」  八郎は一揖してお答えした。  しばらく時が経って行った。  寺庭のあなたの麦畑の中に、芋ヶ瀬の荘司の家臣らしい、甲胄をつけた武士が数人、得物をひっさげて佇んでいて、こっちを見ては囁いていた。  堂守りの僧がさっき、おずおずとご挨拶に姿をあらわしただけで、その後は誰も来なかった。 (ちとやり口が大胆すぎたかな)  そう宮家は思われた。  芋ヶ瀬の荘司や玉置の荘司が、吉野十八郷八荘司のうちでは、むしろ武家方であることを、宮家には夙にご存知であらせられた。 (間道づたいに遁がれるよりも、正面からぶつかって行き、宮方に従くよう説き伏せた上、堂々と通って行く方がよかろう)  こう宮家はお思いあそばされ、荘司の館へ入らせられたのであった。  虎穴に入らずんば虎児を獲ず──こういうお考えからであると共に、これから吉野まで辿るとして、その道々には少くも二、三、武家方に従う荘司や豪族が、関めいたものを設けている筈、そこをいちいち間道づたいに、怖そうに遁がれて行ったなら、臆病の名が立つであろう、そうあっては将来宮方一統の、士気に悪く影響する。──このことをお恐れあそばされたからであった。  が、しかるに芋ヶ瀬の荘司は、宮家を館へ招じようとはせで、このような所へご案内し、いまに伺候しないのであった。 (討って取ろうの魂胆かな?)  さすがに、宮家も不安であられた。  九人の山伏殿がお堂へはいられた、どうしたことかといったように、里の童が二、三人揃って、そっとお堂を覗きに来たが、にわかにワッと云って逃げて行った。  その時荘司の家来らしい武士が、五人ほど連れ立ってやって来た。  四人の武士は堂の外に残り、年かさの五十近い武士ばかりが、お堂の中へはいって来た。  芋ヶ瀬の荘司よりの使者であった。  宮家の前へ膝行し、おずおずした声で口上を述べた。 「熊野三山の別当定遍、関東よりの御教書なりと申し、大塔宮様にお味方する者は、陰謀与党の輩と認め、関東へいちいち注進いたす趣き、で、今日大塔宮様を、この道より左右なくお通し申し上げては、後日の咎めおそろしく、難儀いたす次第にござります。……さりとて、宮様を抑留いたしましては、臣の身として恐れ多く、主人儀当惑いたしおりまする」  ここで使者は口をつぐみ、おそるおそる宮家を仰ぎ見た。  宮家は無言で正視され、八人のお供の人々も、固唾を呑んで黙っていた。 「ついては……」  と、使者は後をつづけた。 「お供のうち、しかるべき名あるお方を、一両人賜わりたく、さすれば、そのお方を、武家の手に渡し……」  宮家は烈しく御咳をせかれた。 (ならぬ!)という意味の御咳であった。  使者の武士は、ハッとしたようであった。  でも、おずおずと後をつづけた。 「この儀ならぬとのご諚にませば、ご紋の御旗いただきたく、さすればこれを証拠の品とし、関東方へ引き渡し、合戦いたせしと申し陳じまする」  また宮家の御口から、非難の御咳がほとばしり出られた。 「二つながらお許しない際には、勿体なけれどお供の方々に、矢少々、矢少々……」 「うむ、手向かうと申すのか」 「余儀ない次第にござりまする」  使者の武士はこう云って、肩や膝を小さく固めた。  堂内は、しばらく寂然となった。  と、四条隆貞が、 「お使者大儀」  と、声をかけた。 「とかくの返辞いたすまで、しばらく堂外にてお待ちくだされ」 「は」  と、使者の武士は一礼したが、やがて堂から外へ出た。  後は堂内は尚しばらく、寂然として静まっていた。  でも、とうとう赤松則祐が云った。 「危きを見て命を致す! 臣の道にござりまする。紀信は詐わって敵に降り、魏豹はとどまって城を守りました、いずれも主公の命に代わり、名を後世に残しましたもの。……とてもかくても芋ヶ瀬の荘司が心に、和解の情涌きまして、この地を通すことでござりますならば、私彼の手に渡り……」 「いやいや」  と、この時平賀三郎が、烈しい声で遮った。 「その儀無用かと存ぜられまする。……と申しまするは我ら九人は、この日頃宮家に扈従し参らせ影の形に添うごとく、艱難辛苦仕りました。……されば、宮家におかせられましても、股肱耳目ともおぼしめされ、お頼みあそばさるることと存ぜられまする。……その一人が欠けますることいかばかり残念至極! ……しかるに錦の御旗は、大権の所在を示すところの、唯一無二の神聖なる標識! で、これとても朝敵同様の、芋ヶ瀬の荘司ごときにお渡しあそばさるること、しかるべからずとは存じまするが、しかし古来より合戦の場合、旗指物を戦場に遺棄し、敵の手にこれを奪われました例、決して少なからずござりまする。……で、この点宮家には、とくとご勘考あそばされまして……」 「いかにも」  と、合槌を打ったのは四条左少将隆貞であった。 「のみならず錦の御旗は、敵に奪われたと申すではこれなく、方便としてただ一時、彼らにお下げ渡し遊ばさるるまで。……しかもこれとても考えようによれば、彼らに朝家のご威徳を、光被させましたことにもなりましょうか」 「うむ」  と、はじめて大塔宮には、幽かに御声をもらされた。 「まことにそちたちはわたしにとっては、手足でもあれば耳目でもあるよ。……一本の手にても取られてはのう。……笈の中より御旗を出せ!」  おくれてこの郷へ入り込んで来たのは、村上彦四郎義光であった。  戸野の大弥太の追い縋って来る、そういう様子も見えなかったので、宮家ご一行に追いつこうものと、金剛杖を小脇にかかえ、足を早めて歩いて来た。  と、行く手から十数人の武士が、何やら大声に話しながら、その中の一人が錦の御旗を担ぎ、こちらへ向かって歩いて来るのが見えた。 (はてな)  と、義光は足を止め、錦の御旗をつくづくと見た。 「卒爾ながらお訊ねいたす」  と、彦四郎は声をかけた。 「何んじゃ」  と、武士たちは足を止どめて、怪訝そうに彦四郎を見た。 「失礼ながら貴所方は、この郷の方々にござりまするかな?」 「芋ヶ瀬の荘司殿身内の者よ。……ここにおられるが荘司殿じゃ」  一人の武士がこう云いながら、錦の御旗を捧げ持っている武士の、左側に雄々しげの様子をし、髭食い反らしている中年の武士を、物々しく指さした。 「それにいたしても、その御旗は、錦の御旗と存じまするが」  と、彦四郎はいかにもいぶかしそうに訊いた。  すると得意気に胸を反らせながら、芋ヶ瀬の荘司が頷いて云った。 「そうじゃ、山伏、そのとおりじゃ、これこそ錦の御旗なのじゃ。……そちなど生涯見ようと望んでも、容易に見られぬ尊い御旗じゃ。……遠慮はいらぬ、近寄ってよう見い」 「ははあ」  と云うと彦四郎は、御旗の方へ近寄って行った。 「その尊い錦の御旗を、荘司殿にはいかがいたして?」 「大塔宮様よりいただいたのじゃ」 「ナニ大塔宮様より?」 「宮様この地をお通りになられた。通してはわれら関東に対して済まぬ。そこで御旗を頂戴し、一合戦仕ったと……」 「勿体なや! 無礼者!」  叫んだ時には錦の御旗は、彦四郎の手に取り返されてい、旗持ちの武士は十間あまり、道のあなたに投げ出されていた。 「狼藉者! それこやつを!」  しかしまたもや二人の武士が、左右に数間投げ飛ばされた。 「汝らわれを誰とか思う! 大塔宮様股肱の郎党、村上彦四郎義光と知らずや! ……錦の御旗は朝敵討伐の、無上の標識、主上よりの賜物! 汝らごとき卑賎の下郎に、手渡さるべき品でない! これをもって彦四郎取り返し、宮家にお返し奉る! ……粗忽に汝らかかってみよ、二つ無き命失うぞよ!」  数町にも響く大音もて叫び、彦四郎は御旗を高くかざし、足踏ん張って睨みつけた。  使者をお堂につかわして、大塔宮様に口上を述べさせ、自身は途中に控えてい、使者が宮家より頂戴いたした、錦の御旗を大得意をもって、守護して館へ帰る途次にあった芋ヶ瀬の荘司は、彦四郎のために、御旗を取り返され罵られたが、理の当然と相手の豪勇に、胆を奪われ魂を消し、茫然として立ったままでいた。  その間に彦四郎は御旗を肩にし、既にお堂よりご発足あそばされた、宮家の御後を一散に追った。  芋ヶ瀬の郷で時を費し、小原へはこの日行き着けなかった。  迂濶には人家にも宿をとれぬ境遇、で宮家ご一行は、街道を反れた樵夫の小屋に、雨露をしのがせられることになった。  尊げの山伏の一行を見て、老いたる樵夫夫婦の者は、榾を炉にくべ粟などをかしぎ、まめまめしくお接持した。  炉の火にお顔をほてらせながら、宮家は快然たるご様子であった。 「彦四郎」  と小声で仰せられた。 「御旗取り返したそちの勇、北宮黝を想わするぞ」  それから赤松則祐をご覧じ、 「そちの忠は孟施舎よ」  さらに平賀三郎をご覧じ、 「そちの智は、陳丞相を想わするよ。……この三傑われにあり、天下を治むるに足るものがあろうぞ」  この夜更けた頃樵夫小屋を窺う、二人の男の姿があった。大弥太と竹原左源太とであった。  粗末な板壁の隙をもれて、内の燈の光が見えていたが、やがて消えて、ひっそりとなった。  宮家ご一行は寝につかれたらしい。  空には降るように星があり、おそく出た月も照っていた。  どこからか梟の声などが聞こえた。  柴垣の根もとにかがみこんで、様子をうかがっていた二人の者は、やがてそこからそっと離れた。  そうして山道を街道の方へ歩いた。 「お前にとっては弟の敵さ」  と、そそのかすように大弥太は云った。 「宮様御内人の何者かに、たしかに右源次は殺されたのだからのう」 「云ってくれるな」  と、咽ぶような声で、左源太は云って鼻をつまらせた。 「可哀そうな弟! ……殺されたとは!」  左源太は玉置の荘司のもとへ、弟の右源次に進められて、大塔宮様を討ち奉るについての、談合に出かけて行ったのであった。  そうして今日帰路についた。  と、道で大弥太に逢った。  その大弥太が云うのであった。  昨夜弟の右源次が、大塔宮様の御内人に、館において突き殺され、宮様一行はその夜発足、今日この地へ遁がれて来たので、わしはその後を追って来たと。── (弟右源次が殺された! おのれやれ敵を討たいで置こうか!)  こう思って左源太は大弥太と一緒に、宮家ご一行の後を追い、この小屋まで来たのであった。 「定遍殿より附けられた勢が、三十人あまり街道脇に、わしの合図を待っておる。……宮様いかにご勇猛でも、同勢わずか十人じゃ、御首級いただくにわけはない」  ふてぶてしく胸に腕を組み、鼻を反らせて月を仰ぎ、そう大弥太は昂然と云った。 「が、まだ時刻は少し早い。……宮様ご一行寝しずまるまでは、手控えした方がいいようじゃ」  この大弥太は妻の蓬生が、自分の巧らみを大塔宮様に、お知らせしたとは気がつかず、昨夜定遍よりの手の者を率い、宮様を襲うべく竹原館へ、ひそかに寄せて行ったところ、右源次が殺されてい、宮様ご一行は館をぬけ出し、立ち去られた後であった。  大弥太は切歯して口惜しがったが、姦智にたけた男だったので、性急に追いかけ討とうとはしないで、遥かに離れて後をつけた。  芋ヶ瀬の郷での出来事なども、彼は人の噂で知った。  この道へ宮様の反れられたことも、往来の者に聞いて知った。  で、樵夫小屋をつきとめたのである。 「休もうぜ」  と、大弥太は云って、藁鳰を背にして胡座をかいた。 「うむ」  と、憂鬱に云いながら、左源太も並んで坐り込んだ。  梟の声がしきりに聞こえ、星が尾を引いてしばしば流れた。 「恩を仇じゃ、な、まるで」  と、大弥太はまたも、けしかけるように云った。 「わしが父や入道殿に、宮家ご一行は養われていたのじゃ。……それだのに右源次を殺して去んだとは」 「そうともよ」  と、左源太は云った。 「恩を仇じゃ! 恩を仇じゃ!」 「どうでも討たずばなるまいがな」 「討つともよ、どうでも討つ!」 「車の庄も手に入るしな」 「六千貫も手に入るわ!」  草には露が下りていて、足に冷たく感じられた。 「玉置の荘司殿は何んと云われたかな?」  大弥太はふと気づかわしそうに訊いた。 「よもや宮家へご加担などとは……」 「云わぬよ」  と、左源太は物憂そうに答えた。 「宮家を討つは以前よりの存念、昔よりわしは武家方じゃとな」 「そうであろうとも、そうなくてはならぬ。……では明日宮家が小原をさして行かれ、玉置をお通りになろうものなら、荘司殿には弓矢をもって……」 「弓矢をもってお敵対するとも」 「が、それには及ばぬのう」 「…………」 「われらが今夜やるのじゃからな」 「…………」 「われらがやらずば玉置殿がやる。……どっちみち宮家はご運の尽きよ」 「…………」 「玉置殿に功名されては、車の庄と六千貫とが、われらからフイになってしまう。……そちにしては弟の敵が討てぬ」 「だがのう」  と、左源太は気弱そうに云った。 「恐ろしいことも恐ろしいぞ」 「また弱気か、臆病な奴め!」 「大逆の心起こしたばかりに、弟は、弟は、非業に死んだ」 「だからよ、敵を討てというのじゃ」 「あべこべにわれら討たれようも知れぬ」 「火をかけるのよ、な、小屋へ! ……宮家をはじめとして十人の者、周章狼狽して出て来ようわ。……そこを討つのじゃ、きっと討てる!」 「怨む! わしは、お前を怨む! 十津川の辻で、立て札の前で、お前があんなことさえ云わなかったら、わしは心など迷わさなかったものを! ……父上に反き妹に反き、天人共に許さぬ所業を! ……恐ろしくなったぞ、俺は恐ろしい! ……殺されるぞよ、われらこそ殺される!」 「臆病者め! 何が殺される! ……宮様討ち取り三日のうちに、六千貫の黄金を手に入れ、車の庄の主となり……栄耀栄華! アッハッハッ」  この時藁鳰の背後から、嬰児の泣き声が細々と、悲しそうに饑じそうに聞こえて来た。 「あッ」  と、大弥太は飛び上がった。 「あの声だ──ッ、あの嬰児の……わッ」  弓のように体を曲げ、星を一掴み掴むかのように、空に向かって腕をのばし、指を苦しそうに屈伸させたが、咽喉から血を吹き出して、ドッと仆れて動かなくなった。 「大弥太どうしたあ──ッ」  と、喚きながら、左源太も飛び上がった。 「わッ」  これも同じように悲鳴し、地に仆れて動かなくなった。  咽喉から血を吹き出している。  嬰児の泣き声がまたきこえ、藁鳰が幽かに動きをなした。  と、女の声が聞こえた。 「また人二人をあなた様には、お殺しなされましてござりますねえ」 「…………」 「でも今殺された二人の男は、殺されてもよい者どもでした」 「…………」 「それにしてもあなた様の殺生さは。……わたしは悲しゅうござります」  つづいて泣き声が聞こえて来た。 「早瀬!」  という男の声がした。 「大塔宮様、この附近の樵夫小屋におわすこと確かとなったぞ。……こやつら二人が申しおった。……わしの手を引き十津川からここまで、息せき案内をしてくれた早瀬! ……頼む、急いでその小屋まで、わしの手を引き案内してくれ! ……嬉しや、いよいよこの年月の念願、相叶う期参ったぞ! ……頼春、今夜より真人間になれるわ!」  盲目で片腕の頼春が、顔に白布の垂れをかけ、胸に嬰児を抱えた早瀬に、左の腕の袖を握られ、大弥太と左源太との死骸を分け、露ふかい晩春の草を踏み、朧ろの月光に照されながら、血のついている竹の杖で、行く手の地面をさぐりさぐり、藁鳰の蔭から現われた。 「神の界に属しまつる御一方に──大塔宮護良親王様に、許すとの御言葉うけたまわり、裏切り者の〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔、心を浄めて真人間になろうぞよ! ……わしの裏切りから無念に死んだ、土岐十郎頼兼殿も、多治見ノ四郎二郎国長殿も、今夜限り草葉の蔭にて、わしを責むることなくなるであろうぞ! ……この年月いかに二人の、怨みと怒りと嘲りと、憐愍とに充ちた死前の顔が、わしの心眼に見えたことか! ……が、それとても今夜限りじゃ! 早瀬!」  と頼春は早瀬の方へ、痩せた、青褪めた、垢じみた、髭ぼうぼうとした不具の顔を、月光に照らして振り向けた。  笑ったと見えて唇がほころびたが、悪食が祟ったためであろう、上下の前歯がことごとく脱けて、口はうつろな洞のようであった。 「嬉しいぞ早瀬、嬉しいぞ!」 「あなた!」  と早瀬は顔の垂れ布を片手でかかげて、頼春の顔を、涙いっぱいの眼で見詰めたが、 「その時こそは妾の罪をも──あなた様を裏切りいたしました、わたしの罪をもあなた様には……」 「おお許すとも、許さで置こうか!」 「では明日からは昔ながらの……」 「また夫婦じゃ! 愛し合う夫婦じゃ!」 「それでこそ早瀬は救われまする! ……救いの神様へ、宮様御許へ!」 「大塔宮様御許へ!」 「樵夫小屋はあなたでござりまする! ……今は死んでいる二人の者が、向こうから参りましてござりまする」 「案内頼むぞ!」  と杖を突っ張り、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと前へ出た。  とたんに一個の青光る物が、少し離れた木立の蔭から、唸りをなして飛んで来た。 「わッ」  と頼春は叫びを上げ、杖を投げ捨て地に仆れ、左の膝頭を片手で押えた。 「何者! ……汝! ……チ、チ、チッ……左の片足、膝から寸断! ……切ったわ! 砕いたわ! ぶち折ったわ! ……おおおおおお、血が流れ出る! ……快よや悪血が流れる! ……比叡の裏山で片腕斬られた、あの時さながらのこの快感! ……あッ、あッ、あッ、この快感……おお、さりながら遠くなる心よ! ……月が見えぬ! ……早瀬そちも! ……」 「頼春様ア──ッ、お心たしかに!」  嬰児を草にかいやり置き、早瀬は頼春に縋りついた。 「罪業深く、おおおお今度も、大塔宮様にはお逢い出来ぬか! ……無念! 心遠くなるわ! ……が、死なぬぞ! 死なぬぞ死なぬぞ!」  大弥太と左源太の二つの死骸の、その間にはさまりながら、頼春は次第に次第に次第に、気を失って行くのであった。  樵夫小屋を遥かのあなたに見て、林の中に桂子たちは、焚火をたきながら団欒していた。  それとなく大塔宮様ご一行の、ご警護をしているのであった。  焚火に照らされて松の木の幹は、巨大な蟒の胴のような姿を、薄銅色に光らせていた。 「……という訳でございまして、村上彦四郎殿のお働きは、見事のものでございました」  錦旗を取り返したあの事件を、また物見に行って見かけたところの、風見の袈裟太郎はそう語り終え、腰かけていた松の根から下りて、焚火の方へ寄って行った。 「今日はお遁がれ遊ばされたが、明日の大難はどうだろうかねえ」  と、焚火から少し遠く離れ、浮藻の方へも顔を向けず、桂子の方へも眼を向けず、所在なさに焚火を見詰めている、土岐小次郎の端麗な顔を、飽かず眺めながら桂子は云った。 「芋ヶ瀬の荘司は実のところ、まだ人情味があるのだよ。……それが玉置の荘司となると、非人情で強慾で惨忍だからね」 「しかし野長瀬六郎兄弟が、兵を率いて宮様お迎いに、途中まで出張ることと存じまするが」  と、焚火へ薪をさしくべながら、袈裟太郎はそう云った。  薪は、ひとしきりくすぶって、もくもくと煙りを夜空に立てた。 「わたしたちが、あそこまで刺戟たのだから、きっと兵を出すとは思うけれど、今日の間に合わなかったとこから推して、少しばかり気がかりだよ」  煙りを袖で払いながら、桂子はいくらか心配そうに云った。 「兵を集めるに暇をとったか、寄せて来る道に故障があったか、その加減でござりましょう」 「そうだねえ、そうかもしれない」  この時焚火の火の光の輪から遠く離れて、月光ばかりがわずかに明るい林の奥の方から、大蔵ヶ谷右衛門が姿をあらわし、物憂そうに歩み寄って来た。 「右衛門や、どこへ行っておいでだ?」  すぐに桂子が声をかけた。 「心持ちがムシャクシャいたしますので、悪魔っ払いに風にでも吹かれようと、あちこち歩き廻って参りました」  小次郎へ憎悪の瞳を向け、舌打ちをしながら右衛門は云い、焚火をへだてて、小次郎と向かい合い、伏し眼をしながら小次郎の様子を、絶えず悲しそうに心配そうに、注意している浮藻の横へ、浮藻を護衛するかのように坐った。 「右衛門!」  と、桂子は不意に鋭く、咎めるような声で云った。 「血が、鉞に血がついているね!」  肩をもたれ合わせ手を取り合い、いかにも仲がよさそうに、焚火に近く坐っていた、幽霊女も鶏娘も、袈裟太郎も小次郎も浮藻までも、この声に驚いて一斉に、右衛門の方へ顔を向けた。  と、右衛門は草をむしり、大鉞の刃へあてて、附いている血粘をぬぐった。 「女をたらす性の悪い若僧を、ぶった斬ること出来ませぬので、代わりといたしまして、殺人鬼めの足をぶった斬りましてござりますよ」 「何をお云いだ、殺伐至極な!」  と、桂子は怒りの声で云った。 「事情をお話し、さあ詳しく!」 「林から出かけて行きましたので。……と藁鳰がございました。……男女の乞食がおりましたので……とそこへ二人の武士が、腰を下ろして話し出しました。……すると突然男の乞食が──その乞食はどうやら片腕のない、盲人のようでございましたが、持っていた杖を突き出したんで。……それも二度でございました。……するとどうでしょう、二人の武士は死んでしまったじゃございませんか! ……凄い凄い殺人鬼! ……わたくし思わずカッとなりまして、鉞を投げつけましてござりまする……どうやら足をぶった斬りましたようで。……頭へ白い布をかけ、嬰児を抱いている女の方の乞食が、気絶したらしい男乞食の体を、ズルズル引っ張って行きましたっけ。……で、わたくしは鉞をひろって帰って参りましたのでござりますが、久しぶりに鉞に血を吸わせ、よい気持ちにござります」  右衛門はここで小次郎の方を睨んだ。 「が、わたくしといたしましては、そんなものよりそこにいる男を……」 「右衛門や」  と桂子は云った。  訓すような声であった。 「年を取っても、艱難を経ても、お前の短気と一本気とは、すこしも治らないと見えるねえ」 「性でございます、私の性で」 「小次郎をご覧、浮藻をご覧、年を取ったり艱難を経たら──漢権守の城などで、あんな恐ろしい目に逢わされたら、ああも性質が変わったではないか」 「よい変わりようではございません」 「遠慮深くなり控え目になり、他人の心持ちを推量して、決して我など張ろうとしない、人間らしい人間になったよ」 「無邪気で、あけっぱなしでよく笑った、陽気な性質が陰気になり、いつも何かを不安がっておられる、そういう性質になられました」 「人間らしい人間になったのさ」 「それが人間らしい人間なら、人間らしい人間というもの、厭アな物でございますなア」  右衛門はここで桂子を見詰めた。 「お姫様、あなたも変わられました」 「そうかねえ、どう変わったかしら?」 「人間らしい人間になりました、女らしい女になりました」 「…………」 「以前のお姫様ときたひには、男やら女やら、人間やら魔物やら、悪魔やら神様やらわけわからずにおりながら、大きな強い神聖な、不思議なお力で、わたしたちを心服させておられました。それだのにこの頃のお姫様ときては、煩悩の塊り、嫉妬猜疑の坩堝! そのようなものに成り下がられ、わたしたちを不安と焦燥とに……のう袈裟太郎、そうではないか?」 「さあ」  と袈裟太郎は当惑したように、桂子の顔を盗み見た。  でも、云いにくそうに曖昧に云った。 「ただわたくしといたしましては、一本の白布にさえ自由自在に、変身あそばされる霊的お力を、どうぞお姫様には失わぬようにと、それだけが願われるのでござりまする」  桂子は黙っていた。  しかしかなりに痛いところを、突かれたような様子であった。  なまあたたかい風に乗って野の花の香が渡って来た。 「右衛門や」  と桂子は云った。 「そういう殺人をした悪人なら、鉞を投げて足を斬ったもよいが、でもこれから殺伐なことは、なるべく謹んでしない方がいいねえ。……さて今は何刻かしら? 夜明けにはまだまだ間があるらしいが、でもこういう物騒な所からは、一刻でも早く宮様ご一行は、ご発足なされた方がいいようだよ。……ねえお前……」  と鶏娘へ云った。 「お前の持ち芸を出しておくれ」 「はい」  と鶏娘は立ち上がり、気軽く林から出て行った。  また林はしずかになり、梟の啼き声が聞こえて来たりした。 「ああわたしは女になりたい!」  不意に甲高く情熱的に、物狂わしく桂子が叫んだ。 「霊的の力、超人間的の力、そんなものわたしは惜しくもない! ああわたしは女になりたい! 一度だけでもいい、女になりたい!」  その情慾と人間性とを、焔のように燃え立たせ、桂子は小次郎の顔を貪るように見た。 「お姉様!」  とその瞬間、浮藻は顔を蒼白く変え、恐怖と怒りと嫉妬と悲哀とを、ないまぜにした声で叫んだ。 「殺されても……わたしは……小次郎様を……お姉様にはやらぬ! やらぬやらぬ!」  小次郎は石のように固くなった。  この時清朗とした鶏の声が、暁を告げて啼き渡った。  鶏娘のあげた鶏の声であった。  樵夫小屋で飼っていた幾羽かの鶏が、その声につれて啼き出した。  と、それから間もなくであったが、大塔宮様ご一行が、樵夫小屋から姿をあらわされ、小原の方へ進んで行かれた。  夜は容易に明けなかった。 (不思議だな)  と思いながらも、宮家のご一行は道を辿られた。  それでもやがて夜があけて、すがすがしい朝となった時、背後から大勢の足音が聞こえた。  で、一同は振り返って見た。  甲胄をつけた二十余人の武士が、息せき走って来るではないか。 (さては芋ヶ瀬の荘司の手の者、錦旗を取り返された腹癒せに、討手の勢を向けたらしいぞ。何ほどのことがあろう、追い散らせ!)  と、お供の面々は競い立った。  しかし近づいたのをよくよく見れば、芋ヶ瀬の荘司の手の者ではなく、見覚えある竹原入道の家来で、それも日頃から宮家に対し、まめまめしく仕えた者どもであった。 「これはこれはいかがいたした?」  村上彦四郎が声をかけた。  すると彼らは口々に云った。 「宮様ご一行竹原館を出られ、吉野へご潜行あそばされましたと、昨日呉服様より承まわりました」 「その呉服様仰せられますには、吉野へまでの道々には、宮家に異心抱く者あって、宮様のご安危心もとなし……」 「ついてはそちたち後お慕いし、ご安泰の地までお供せよと……」 「で、参りましてござります」 「おお呉服が? そうであったか」  宮家は御涙を催おされた。 「大儀であった。供して参れ」  こうしてご一行は三十四人となり、小原の方へ進まれた。  木戸をしつらえ、逆茂木を植え、関を設けた玉置の荘司の、物々しい館が遥かあなたに、木立ちの間にすけて見える、そういう地点まで辿りついた時には、昼を少し過ごしていた。  ご一行は一旦元来た道へ帰り、小山の蔭に休息しながら、行動について熟議した。  片岡八郎が進み出て云った。 「承わりますれば玉置の荘司は、芋ヶ瀬の荘司よりもひときわすぐれた、武家に加担の荒くれ武士とか、さすれば昨日宮家じきじきに、芋ヶ瀬の荘司がもとへお入りあらせましたように、玉置がもとへお入りありましては、危険至極かと存ぜられまする。……つきましてはわたくし一人して参り、宮家ご一行をお通しあるや否や、荘司に逢ってあらかじめ尋ね……」 「それよろしい」  と云ったのは、思慮深い四条隆貞であった。 「が、八郎殿一人では、ちと心もとのう存ずるよ」 「ではわたくしもご同行」  と、矢田彦七が進み出て云った。 「同行するでござりましょう」 「…………」  でも宮家には無言でおられた。 (心計られぬ玉置荘司のもとへ、二人ばかりをやるということ、どうであろう? どうであろう?)  それでご躊躇あそばされたのであった。 (もしものことがあろうものなら、今日まで艱難を共にして来た、あたら可愛い忠節の家来を……)  このことを不安に覚されたからであった。  宮家は八郎と彦七との顔を、代わる代わるご覧あそばされたが、 「やむを得ぬ儀……」  とややあって仰せられた。 「八郎、彦七、では参れ。……しかし、玉置の荘司の態度に、疑がわしい節いささかなりとあらば、卑怯もない、臆病もない、ただ一散に引き返して参れよ」  八郎と彦七とは一揖し、小山を巡って姿を消した。  小山を巡って片岡八郎と、矢田彦七とは歩いて行った。  玉置の館へ近寄るにつれて、殺伐の気が感じられ、それが二人には気にかかった。  木戸まで来ると甲胄をつけた武士が、数人二人を遮った。 「これ山伏、どこへ通る」 「いや」  と片岡八郎は云った。 「われら事は大塔宮様家臣、片岡八郎と申す者、これにあるは矢田彦七、宮家よりの使者として両人参った。玉置殿に御意得たい」  すると武士たちは顔を見合わせたが、 「それ来たぞ」 「お知らせしろ」 「いっそここで……」 「いや待て待て」  などと、不穏の言葉を囁き合ったが、やがて一人の武士が館の方へ、金具を鳴らして走って行った。 「これはいけないな」 「ちと不穏だ」  八郎も彦七も不安を感じ、武士たちに警戒されている中で、声を忍ばせて囁き合った。  でも間もなく走って行った武士が、また急がしく走り返って来て、 「こなたへ」  と八郎と彦七とへ云い、館の方へ案内するべく、先に立って歩き出した。  二人は後からついて行った。  これ以前からのことであったが、賄賂や請託の金や品物で、贅沢にきらびやかに造り飾られてある、田舎の荘司の住居などとは、どうにも思われない豪勢な館の、豪奢な部屋で玉置の荘司は、鬼火の姥と範覚とを相手に、酒を飲み飲み話していた。 「遁がしはせぬよ、大丈夫じゃ」  玉置の荘司はこう云いながら、さぞ胸毛など多かろうと、そう連想されるほどに、手の甲から指へかけて、黒い長い毛の生えている、熊のような手で胸を打ってみせた。 「わしは芋ヶ瀬の荘司とは違う。わしはあんな意気地なしではない。どうあろうと宮家は討って取るよ」 「それでこそ武家方でございます」  もうお得意の追従口を、こう利きながら鬼火の姥は、さらにいっそう煽るように云った。 「宮様御首級さえあげましたら、車の庄と六千貫とは、あなた様のものでござりまする。これまでのご知行と合わせましたら、たいへんもない高になりまする」 「そうともそうとも」  と荘司は云った。 「が、わしとしてはご恩賞よりも、昔から武家方の武士としての、つくすべきことをつくしたいのでな」 「そうなくてはなりませぬ。……北条家代々のご仁政によって、この日本の武士という武士は、安泰にくらすこと出来ました筈で。……ご恩は海山でござりまする」 「いざ事あらば鎌倉へとな、われら日頃から思っていたのじゃ。……範覚殿もそうであろうな」 「さようで」  と範覚は吃驚したように云った。  というのは別のことを考えていたからで。 (姥とのツキアイにも飽き飽きした。年寄りで醜婦で惨忍で、そうして綺麗な男さえ見れば、ベタベタして後ばかり追っかける、好色で度のない浮気者でもある。こんな婆さんと何んの因果で、ツキアッて行かなければならないのだろう?)  こんなことを考えていたところへ、突然荘司に話しかけられたのであった。 「さようで、私も、いざ鎌倉となれば、代々仏法にご帰依なされ、執権の身で入道となられた、北条殿のおために、二つない命を捧げまするつもりで」 (が、本当はそうでないて)  心では考えているのであった。 (飛天夜叉の妹の浮藻とかいった女! ああいう女のためにこそ、俺は命を捧げるんだがなア。……その証拠には一度気絶したっけ) 「それにいたしても宮家一行、そろそろ参ってもよい頃だが」  と、玉置の荘司はいぶかしそうに云った。 「他の道などへ廻りましたのでは? ……」  と、鬼火の姥は不安そうに云った。 「いやいやどの道へ廻ろうと、われらが手の者要所要所にいて、警戒おこたりないにより、討ちもらすことはめったにないて」 「戸野の大弥太殿が竹原館で、惜しいところを討ちもらし、芋ヶ瀬の荘司殿が心弱く、お通しをしてしまった以上、ここで玉置殿が討ちとらずば、宮家は吉野へ入らせられましょう」  鬼火の姥と範覚とは、定遍の附けた討手と共に、そうして戸野の大弥太と共に、十津川へ入り込んで来たのであった。  が、わずかな時間の相違で、大塔宮ご一行は、竹原館をお出ましになり、吉野へご潜行あそばされた。  そこで姥と範覚とは、大弥太には関係なく先廻りをし、わけても武家方に心を寄せている武士、玉置の荘司のもとへ来て、宮家の御首級いただくよう、荘司に慫慂しているのであった。  広大な中庭には池があり、池には島がつくられてあり、橋が左右からかけられてあった。  奇巌で蔽われた築山からは、滝が幅ひろく落ちていて、滝壺の岩の上には鷺などがいた。  そういう贅沢の庭を見ながら、しばらく三人は黙っていた。  その時あわただしく若侍が、襖を開けてはいって来た。 「大塔宮様ご使者と申して、片岡八郎と矢田彦七とが……」 「おお参ったか!」  と荘司は云い、 「上げてはならぬ、玄関まで導け!」  ──一旦引き下がった若侍が、再度部屋へはいって来た。 「仰せに従い両人の者を、玄関までつれましてござります」 「よし」  と荘司は立ち上がった。  玉置の荘司の館の玄関に、片岡八郎と矢田彦七とは四辺に心をくばりながら、荘司のあらわれるのを待っていた。  と、毛深い五十男が、太刀をひっさげてあらわれた。 「…………」  それは玉置の荘司であったが、無礼にも無言で睨んだままでいた。  八郎と彦七とは顔を見合わせたが、 「当館のご主人でござるかな?」  と、怒りを忍んで八郎が訊いた。 「さよう」  と荘司は答えたままで、依然後は無言でいた。 「われらは大塔宮様の家臣でござって、片岡八郎、矢田彦七と申す。……今度宮家には念願ござって、吉野大峯山へご入峯あらせられまする。……しかるに当地には新関あって、往来の人々を止どむるとのこと。……勿体なくも我らご先達は、主上の御皇子にましませば、仔細あるべき筈なけれど、しかし一応存意を尋ねんと……」  ここまで八郎は云って来た。  と、またも何んたる無礼か、玉置の荘司は苦笑いをしたが、一言の挨拶も述べようとはしないで、クルリとばかりに身をひるがえし、足早に奥へはいって行った。  部屋へ帰って来ると玉置の荘司は喚いた。 「やあやあいずれも武器の用意をいたせ! 大塔宮様網にかかったぞ! 御首級いただこうぞ、武器の用意をいたせ! ……範覚殿のお手並み見たい! ……手の者の指揮おねがいいたす!」 「変だな?」 「あぶない!」 「いかがいたそう?」  八郎と彦七とは囁き合った。  片岡八郎と矢田彦七とは、なお玄関に佇んで様子をうかがっているのであった。  その二人の耳に聞こえて来るものは、武器の音、甲胄の音、罵りさわぐ人々の声、右往左往する足音であった。 「矢田行こう」  と八郎は云った。 「宮様仰せられたお言葉がある。……荘司に不穏の挙動があったら、卑怯もない引っ返せと! ……荘司の挙動まさに不穏だ」 「行こう!」  と彦七はすぐに応じた。  もう二人は木戸まで来た。 「どこへ?」 「退け!」  一散に走った。  が、二町あまり走った時、背後から大勢の喊声が聞こえ、矢が教本耳を掠めた。  足を止めて二人は振り返って見た。  五、六十人の玉置の家来が、あるいは騎馬であるいは徒歩で、弓、長柄などをひっさげて、一団となって追って来ていた。  宮家のおわす地点へまでは、小山をへだててまだ遠かった。 「…………」 「…………」  眼を見合わせて頷き合い、二人はさんざしの藪の蔭へかくれた。  それとも知らず玉置の家来どもは、算を乱して走って来た。 「!」 「!」  同時に飛び出した八郎と彦七──八郎は真っ先に進んで来たところの、騎馬武者の馬の両脚を薙ぎ、馬いなないて棹と立ち、乗ったる武士の落ちたるところを、すぐに彦七、躍りかかり、斬り伏せて首をあげた。  叫喚!  討手は一斉に逃げた。 「遠矢にかけろ! 矢襖にかけろ!」  金剛杖を杖つきながら、背後から範覚が大音に叫んだ。  矢襖!  まこと襖のように、矢が密集して飛んで来た。  一本!  八郎の胸に立った。 「彦七! そなたは、遁がれて宮家へ!」 「浅傷だ! 八郎、気を落とすな! ……死なばもろとも、何んで一人で!」  矢!  またも八郎の股へ! 「行け、彦七! 宮様御大事! ……お落とし申せ、行け行け行け!」 「今日まで生死を共にして来た二人だ! ……死なばもろとも! 生くるももろとも! ……肩にかかれ、生くるももろとも!」 「一人で防ぐ! 防いで死ぬ! ……事情宮家にお知らせせずば、みすみす宮家は、雑兵ばらに! ……行け遁がれてくれ、落ちてくれ! ……行かぬか、怨むぞ、汝、彦七イ──ッ」 「…………」  塊まって動かぬ二人を目がけ、束となった篠のように飛んで来る征矢!  切り払い切り払い悲痛の声で、 「矢田彦七、汝は汝は、八郎を犬死にさせる気な! ……二人もろともここで死なば、みすみす宮家は! ……この理わからぬか!」 「八郎オ──ッ」  と彦七は飛び上がった。 「おさらば! ……行くぞ! ……見すてて行くぞオ──ッ」 「それでこそ朋友! ……礼を云うぞ彦七イ──ッ」  彦七は一散に走り出した。  林の奥の丘の背後の窪地に、一団の男女がいた。  宮家ご一行をそれとなく、護衛して来た桂子たちであった。  と、丘を一散に、走り下りて来る人影があった。  それは風見の袈裟太郎であった。 「お姫様大変でござります」  と、桂子たちの前まで来ると、物見に行っていたその袈裟太郎は、大息つきながら忙がしく語った。 「大塔宮様二人のご家来、片岡八郎殿と矢田彦七殿とが、玉置の荘司の館へ参り、宮様ご通過を申し入れましたところ、荘司無礼にも返辞なく、不穏の挙動ありましたので、お二人のご家来には引き返されましたが、それを追いまして玉置の家来ども、五、六十人馳せ参り、むこうの野原にて矢襖をつくり……のみならずこの様子にて察しますれば、荘司めは別に大兵を出して、宮様を討とうといたすものらしく……」 「一大事!」  と桂子は叫び、裾をひるがえして躍り上がった。 「片岡殿にしても矢田殿にしても、お助けいたしたきは山々ながら、それよりも宮様お命が! ええそれにしても野長瀬兄弟、何をいたしておることやら! ……われらは小勢男女を雑えて、わずか七人どうにもならぬ! ……袈裟太郎よ袈裟太郎よ、中津川方面へそち参れ! ……野長瀬兄弟来るものならば、道の順序そっちから来る! ……物見いたして姿見かけなば、事情を告げて一刻も早く! ……小次郎よ、いずれもお立ち! われらは宮様のご一行を!」  声に応じて風見の袈裟太郎は、草をひらき藪をくぐり、木立ちを分けて一散に、中津川の方へひた走り、桂子、浮藻、小次郎、鶏娘、幽霊女たちは桂子を先に、宮様おわす小山の蔭を差して、足を空に裾ひるがえし、走り走り走り走った。  遥かに落ちのびた矢田彦七は、背後から喊声が起こったので、足をとめて振り返った。  一人の武士が太刀の先に首級をつらぬいて、高くさし下げ、その周囲を巡って五、六十人の武士が踊りつ笑いつ叫んでいるのが見えた。 「ハ──ッ」  と彦七は大息を吐き、バラバラと熱い涙をこぼした。 「とうとう……八郎は……討たれた討たれた!」  大塔宮様の家臣として、行動を一にし千辛万苦をした、戦友の過去の出来事が、一瞬間眼前に展開がって見えた。 (八郎よ、死んでくれたか! ……彼の忠死を犬死ににはしまい!)  で、彦七は身をひるがえすと、奔馬のように走り出した。  宮家ご一行は小山の背後に、不安をもって屯していた。  朋友想いの村上彦四郎は、八郎と彦七の身の上のことが、どうにも案じられてならないらしく、小山──と云っても丘ほどの小山を、上がったり下りたりして焦燥っていた。  小山へ上がった彦四郎の眼へ、小松の間をこっちを目ざして、走って来る山伏の姿が見えた。  矢田彦七に相違なかった。 (彦七一人で? ……八郎は?)  ハッと思いながら大音に呼んだ。 「矢田よ! ……彦七よ! ……いかがいたしたア──ッ」 「彦四郎オ──ッ」  と彦七は叫んだ。 「一大事! ……玉置の荘司め! ……謀反! 逆意! 宮家に対し! ……討手出したわ! 押し寄せ来るわ! ……無念、八郎は、ウ、討たれたア──ッ」  彦四郎はグラグラと眼が廻った。その眼を抑え、小山を駈け下り、宮家の前へドッと坐った。 「一大事!」  絶句した。  宮家をはじめ三十余人は、総立ちとなって彦四郎を囲んだ。  と、そこへ矢田彦七がよろめきながら、駈けつけて来た。 「矢田が帰った!」 「彦七どうした⁉」 「片岡は?」 「八郎は?」 「彦七へ水を!」  口々に叫ぶ一同を見廻し、彦七は宮家のご前へ寄ったが、グタグタと膝をつき喘ぐ息で、……  桂子たちの一団が、小山の蔭の林の中へ、息せき走って来た時には、矢田彦七が玉置の荘司の、逆意と討手を差し向けたことを、宮家へ言上した後と見え、三十余人のお供の者が、鉄壁のように宮家を囲み、玉置の討手を逆撃つべく、小山の裾を巡るところであった。 (向こうへやっては一大事!)  そう桂子は咄嗟に思った。  で、小松や満天星や茱萸や、櫨や野茨などで、丘のように盛り上がっている、藪の蔭に身をかくしながら、 「大塔宮様ご一行の、ご難儀の場合と見奉りまする、玉置の荘司不忠不義にも、順逆の道あやまって兵を出だして、宮様ご一行をお襲い申し上げんと、追いかけ参るに、逆撃べき御模様、勇ましき限りにはござりまするが、敵は大勢御味方は小人数、ご尊体にお怪我などあらせられては、回天のご事業も一頓挫か! ……この際はお怒りをしずめられ、恥じをお忍びあらせられて、御道を変えられ中津川の方へ、ひとまず御落ちあそばしませ! ……意外のお味方その方面より、あらわれますやも計られませぬ! ……宮様討たんと玉置の兵ども、この道へ寄せて参りましたならば、かなわぬまでも我々一同にて、欺き防ぎ遮って、一人もお後追わせますまい! ……中津川の方へ早々お落ちを!」  と、必死の声で呼ばわった。  千辛万苦を共にして来た、愛臣片岡八郎を討たれ、悲哀と憤怒とを一時に発せられ、 「憎きは玉置、今は許されぬ、片岡八郎の葬合戦、逆撃てや!」  とお下知あそばされ、馳け向かわれた宮家ではあったが、この声を聞かれると御足を止められた。  一同も足を止め振り返った。 「何者?」 「奇怪!」 「女の声だったぞ!」  口々に怪しんだ。  そういう人々に見えるものと云えば、林、藪、丘、雑草、──それに当っている陽の光、そこを飛んでいる小鳥ばかりであった。  男の姿も見えなければ、女の姿も見えなかった。 「玉置の荘司の詭計らしいぞ!」  と、平賀三郎が不安そうに云った。 「ああ云ってわれわれをあらぬ方へ向かわせ、そこで討ち取る所存らしいぞ!」 「狩り出だせ!」 「討って取れ!」  バラバラと数人が走り出した。 「お待ち!」  とその時宮家の御声が、静かに厳かに発せられた。  怒りと悲哀とで宮家の御顔は、鋭く険しく変わっておられたが、今は沈着に冷静に、冥想的にさえ戻っておられた。 「芻堯の詞までも捨てずという、古語の意味を活かすは今じゃ! ……かかる場合にわしをわしと知って、濁りのない女の声をもって、妥当の注意を与えてくれた! ……詭計ではない天の告げじゃ! ……信じてよかろう、中津川の方へ行こうぞ!」  片岡八郎を討って取り、気負い立った玉置の荘司の勢が、 「宮家の御首級いただけや」  と、先を争い算を乱し、小山を巡って押し寄せて来たのは、それから間もなくのことであった。  と、小暗い林の中から、男女の囃す声が聞こえて来た。 〽雨の降る夜の蝸牛  角ふりわけて歩めども  塀がつるり  壁がつるり  つるり、つるり、つるり、つるり 「アッハッハッ」 「ワッハッハッ」 〽うらめしや判官殿  わが身とちぎりかわしながら  ほかに愛しき女房を持ち、  今日もご酒宴  あすもご遊山 「アッハッハッ」 「ワッハッハッ」  そうしていかにも楽しそうな、手拍子の音や足拍子の音が、それにつづいて聞こえて来た。  時が時であり場合が場合であり、そうして場所が場所であった。  玉置の荘司の勢どもは、足を止め一所に集まり、顔を見合わせ沈黙した。  不意に数人の者がそっちへ走った。  正体を見あらわそうとしたのである。  しかし暗い林の中には、人っ子一人いなかった。  が、やがて反対の方の、大藪が起伏し連らなっている蔭から、 〽天王寺の妖霊星  見たか見たか妖霊星 「ワッハッハッ」 「アッハッハッ」 〽相模入道殿もびっくり  大仏陸奥殿もびっくり  長崎次郎殿もびっくり  びっくり、びっくり、びっくり、びっくり 「ワッハッハッ」 「アッハッハッ」  と、同じ男女のうたう声が聞こえ、踊りつ舞いつしているらしく、手拍手の音や足拍子の音が、同じように陽気に聞こえて来た。 「変だな?」 「何者だろう?」 「樵夫か百姓か?」 「狩り出せ!」  とまたも十数人が、そっちへ向かって走って行った。  しかし藪蔭には依然として、人っ子一人いないのであった。  尊いお方を討って取ろうと、押し寄せて来た彼らであり、尊いお方の身内人を、一人討ち取った彼らであった。恐れ多いという感情と、天罰こそ恐ろしいという感情とが、心の底には流れていた。  そこへこのような奇怪なことが、しかも白昼行なわれたのである。  恐怖が彼らの心をとらえた。  不意に五、六人が元来た方へ、悲鳴をあげて走り出した。  と、それに引き続き、玉置の勢一同は、元来た方へ逃げ出した。  この頃大塔宮ご一行は、中津川の郷の方角へ、足をいそがせ辿っておられた。  後から玉置の荘司の勢が、追って来る様子もなかったので、さては先刻この方面へ落ちよと、声をかけてくれた声の主が、これも先刻云ったように、玉置の荘司の勢を遮り、追い討ちさせないに相違ないと、感謝せざるを得なかった。  こうしてご一行は辿りに辿り、やがて中津川の峠路にかかった。  と、谷一つ越えたあなたの山の頂きに、五、六百騎の甲胄武者が屯していた。  盾を前にし射手をすぐり、それを左右に分けて並べ、宮家ご一行の姿を見るや、ドッと一斉に鬨をつくり、すぐに矢を射かけて来た。  玉置の荘司が精兵をすぐり、先廻りをして来たのであった。  と見てとられた大塔宮は、むしろ厳かに微笑あそばされ、 「矢種のあらん限りは防ぎ矢を射、心しずかに自害して、名を万代に残そうぞ。ただし相構えて我より先に、腹切ることはまかりならぬ。尚われ既に自害したと見ば、顔の皮を剥ぎ耳鼻を切って、何者の首級とも見えわかぬように致せ。いかんとなればもし我が首級、巷なんどに曝されようものなら、宮方に志を寄せる者、萎靡沈滞するであろう、死せる孔明、生ける仲達を走らせた例も唐土にある。死して後までも威を残す! 将たるものの心掛けじゃ! ……今は所詮逃がれぬところ、穢き振る舞い行のうて、敵に嘲けられ笑わるな!」  と、大音声に仰せられた。 「仰せごもっとも、何条われら……」 「きたなき振る舞いいたしましょう」 「宮様御前に命をおとし……」 「日本の武士の亀鑑となれや!」  と、お供の面々は異口同音に叫び、宮家と合して三十三人、敵陣めがけて坂を下った。  するとこの時山つづきの、横手の森から鬨の声が起こり、赤き旗三旒れひるがえり、七百あまりの将卒が、騎馬、徒歩にて走り出して来た。 「背後にも敵いでたるぞ!」 「玉置の荘司め計りおったわ!」  と、宮家をはじめお供の面々、切歯して思わず地団太を踏んだ。  と、赤き旗のほとりから、二騎の武士しずしずと歩み出たが、その一人が大音に叫んだ。 「紀伊の国の住人野長瀬六郎、同じく舎弟の七郎にて候、大塔宮様お迎えとして、疾よりここにて待ち受けたり! ……勿体なくも宮家に対し、弓引き楯をつらぬる者は誰ぞや! 玉置の荘司殿と見たは僻目か! ……只今ほろぶべき武家に加担し、即時にご運を開かせ給う宮家に、敵対いたす愚かさよ! ……一天下の間いずこのところにか、身を置くところあるべきや! 天罰覿面遠かるまじ! ……やあやあ己ら馳せ向かい、朝敵ばらを追い崩せ!」  声に応じて七百余騎、ふたたびドッと鬨をつくり、一団となって谷を下り、玉置の陣へ駆け込んだ。  野長瀬兄弟の陣から脱けて、桂子たちのいる小松原へ、風見の袈裟太郎が帰って来たのは、それから程経た頃であった。  袈裟太郎の報告を聞いてしまうと、桂子は安心したように頷いた。 「では宮様ご一行は、野長瀬兄弟がお供をして、槇野聖賢の槇野城へ、一旦お入りあそばしたのだね」 「はいさようにござります、玉置の軍を追い散らしました後、野長瀬兄弟にご守護され、槇野城に入りましてござります」 「野長瀬兄弟はもう昨日から、そこの陣地にいたとか云ったね」 「はいさようにござります。……そこへ私事行き合わせましたので、間もなく宮様ご一行が、おさしかかりあそばすと申し上げ、お待ち受けいたしておりましたところへ、はたしておいで遊ばしましたので……」 「どっちみちこれからも大塔宮様には、艱難ご辛苦あそばさるるものの、当座の大難をお遁がれあそばして、こんな嬉しいことはないよ」  野兎が木の間を駈けて通り、山蟻が地面を列をなして通り、陽が酒のような黄金の光を、濃やかに四方にみなぎらしていた。  やがてこの年の九月となった。  鎌倉の幕府も、京都の朝廷も、動揺せざるを得ない大事件が起こった。  大塔宮が吉野に城を築き、楠木正成が千早に城を築き、前後して兵を挙げたことである。 悪霊殿  この頃桂子は浮藻や小次郎と、京都二条の自分の館に、陰惨として住んでいた。  一緒にいるとは名目だけで、小次郎とも浮藻ともかけ離れ、別棟の高楼に一人で住んでいるのであった。  写経をしているという噂でもあれば、秘法を修しているという噂でもあった。  でも鶏娘や幽霊女たちは、ひそひそとこんなように囁き合った。 「小次郎様をご覧になるのが、お姫様には苦痛になられ、それであのようにかけ離れて、一人で住んでおいでになるのね」 「浮藻様を見るのが辛いので、それで離れてお住居になるのさ」  築地と木立ちとに囲まれた、古い蒼然としたこの館は、外形こそ廃屋めいていて、寂しくもあれば恐ろしくもあったが、内へはいると往昔は、陽気でもあれば華やかでもあった。  多くの男女の部下たちが、例の道場でいつも楽しそうに泥棒の稽古だの、物真似の練習だのを、賑やかにやっていたからである。  しかし彼らの頭領が、飛天夜叉の桂子が、そんなような生活をはじめてからは、部下たちはあまり集まって来ず、集まって来てもだれきって、稽古などやろうとはしなかった。  で、この館はその内部も外見と同じように寂しくなり、蒼然となり恐ろしくさえなった。 「ああわしは一月というもの、お姫様のお姿を見かけない」  それは半欠けの下弦の月が、この館の構内の、大槻の木の梢の上に、傾むきながらかかっている、大分更けた夜のことであったが、大蔵ヶ谷右衛門はこう呟きながら、例の大鉞をひっさげて、でも大変悲しそうに、首を垂れ肩をちぢめ、庭を忍びやかに歩いていた。 「秋雨が高殿の古い欄干を、涙のようにぬらしていた晩だ。千切れた御簾を背後にして、その欄干にもたれかかり、ぼんやりとお庭を見下ろしておられた、お姫様のお姿を見かけたのは、一月前のことだった。……わしがお姫様と声をかけると、お答えはなくて頷かれたが、不意にお袖でお顔を蔽われたっけ。……きっとお泣きなされたのだ」  歩いて行く彼の足もとを横切って月光に背の毛を薄銀色に光らせ、太い紐のような一匹の𫠘が、遥かむこうの庭の隅にある、老いた榎の洞の中へ、矢のように走り込んだ。 「飛天夜叉様がお泣きになるとは!」  不意に右衛門は足を止め、大鉞を地へ突き立て、その柄頭へ両手をのせ、その甲の上へ額をあてた。  肩がこまかく顫え出した。  忠実な朴訥な老いた僕は、女主人の心を推量り、忍びやかに自分も泣き出したのである。  雁の啼き声が聞こえて来た。  月の下辺を、矩形をなして、渡っているその鳥の姿も見えた。 「殺す!」  と烈しく声に出して云い、右衛門は鎌首のように首をもたげた。 「みんな小次郎のさせる業だ! 今夜こそ小次郎を殺してやる!」  裏庭に面している部屋の中に、小次郎と浮藻とが坐っていた。  窶れた顔へ涙をかけ、それを細めた燈火に照らし、浮藻は小次郎へ縋るようにしていた。 「小次郎様、参りましょうよ」  浮藻の声は咽んでいた。 「どこの山の奥へなりと、どこの海の果てへなりと、二人で参ってくらしましょうよ」 「…………」  黙ってうつ向いて唇を噛んでいる、蒼白の顔の小次郎も、体は痩せて窶れていた。  小次郎は思っているのであった。 (そうだ、二人は行った方がよい。この館を出た方がよい。……桂子のためでもあれば、浮藻や自分のためでもある)と。  小次郎を獲ようと焦心しながら、妹の心を思いやって、さし控えている飛天夜叉の桂子。小次郎に添いたいと祈願しながら、姉の心を推量って、今に望みをとげない浮藻。桂子には恩と義理とを感じ、浮藻には可憐さを覚えながら、どっちへも行けずに縮んでいる小次郎。──この三人の生活は、この館へ帰って来て、共棲みをするようになって以来、生き地獄の度を烈しくして来た。  そうして現在のありさまとなった。  すなわち桂子が苦痛に堪えられず、二人から離れて別棟の高殿に、一人で住むようになったのである。  浮藻にとっても小次郎にとっても、高殿に桂子の住んでいることは、これまで一緒に姿を見せて、自分たちと同じ棟に住んでいた時よりも、一層に苦痛でもあれば恐ろしくもあった。  夜昼となくその高殿から、嫉妬と猜疑と呪咀とをもって、妖精のように桂子が、自分たちを看視していることだろう。  で、二人にはその高殿が、悪霊の住んでいる魔殿かのように、凄く肌寒く思われるのであった。  小次郎はよく思った。 (自分だけこの館から出て行くのが、一番よいのではあるまいか)と。  しかしすぐに彼は不安を覚えた。 (すると浮藻は死ぬだろう)と。  そう、小次郎が出て行ったならば、恋するの余り慕うの余り、水に入るか木にくびれるか、懐剣で乳の下を刺すかして、浮藻の死ぬことは眼に見えていた。 (いったいどうしたらよいだろう?)  こうして今日になったのである。  その今夜、はじめて浮藻の口から、思い迫った決死の語調で、 「どこの山の奥へなりと、どこの海の果てへなりと、二人で行ってくらしましょう」  と、涙と共に口説かれたのであった。  燈心を引いてわざと細めた紙燭の光が、古びた襖へ、朦朧とした二つの影法師を、妖怪のようにうつしている。  庭へ散り落ちる木の葉の生命を、傷むかのように聞こえて来るのは、秋深い虫の声々であった。 「浮藻殿、参りましょう」  ややあって小次郎は決心したように云った。 「いつぞや河内の林の中で、桂子様からわたしたち二人は、どこへなりと行ってくらすがよいと追いやられた身の上でござります。……漢権守の居城の事件から、このような境遇とはなりましたが……今こそ出かけて行くべき時……」 「おおそれでは小次郎様、わたしと一緒にここを出て他国へ!」  と浮藻は小次郎へ縋りついた。 「それでこそ妾は救われまする! ……どのような苦労がありましょうとも、このようなありさまでこのような所に、苦しみながら住んでいるより……」 「忘恩の徒と桂子様には、わたくしたちの立ち去った後、お怒りになるかは知れませぬが、それもこれも一時でござって、わたくしどもの姿が消えましたならば、かえって桂子様に致しましても、心朗らかになりましょうよ」 「わたくしどもにいたしましても、二人ばかりでいつまでも一緒に、水いらずにすむこと出来ましたら、知らぬ他国での辛苦のくらしも、何んの恐ろしく何の悲しく……」  そっと立ち上がる二人の姿が、長く襖に影法師となって写った。 「声が聞こえぬ、どこへ行きおったか?」  この部屋の外の落ち葉の庭に、大鉞をひっさげて、大蔵ヶ谷右衛門が佇んだのは、それから間もなくのことであった。  しかし右衛門がそこへ来た頃には、旅装いさえろくろくにしない、小次郎と浮藻とが館を出て、築地の外を町の方へ、いそぎ足に歩いている時であった。 (これから新しい生活がはじまる)  こう二人には思われた。  わけても浮藻には館を出て、恋いこがれている小次郎と、一緒に広い世間へ出て行って、新生活をするということが、嬉しく思われてならなかった。 (どんな苦労をするにしても、小次郎様と一緒なら、わたしには苦労とは思われない)  そう彼女には思われるのであった。  空には銀河が月光に暈され、少し光を鈍めてはいたが、しかし巾広く流れてい、七ツ星さえ姿を見せていた。  築地の角を左へ曲がった。  で、館の裏側に添い、二人は足早に歩いて行った。  と、不意に、 「小次郎!」  と呼ぶ声が、どこからともなく聞こえて来た。  ギョッとして二人は足を止めた。 「小次郎や」  という声がまた聞こえた。  それは頭上から来るようであった。  振り仰いだ二人に見えたものは、薄白い築地を蔽うようにして、黒く茂っている植え込みを抽んで、聳えている高殿の姿であり、その高殿の廊の欄干に、のしかかるように体を寄せて、じっと二人を見下ろしている、絵本で見た玉藻前のような、飛天夜叉桂子の姿であった。  二人はハ──ッと息を飲み、足を釘づけにしてガタガタ顫えた。  と、桂子の右の手が、高く頭上にかざされて、長い袖が絞れ渦巻いて、車輪のように廻ると見えた。  瞬間、小次郎の体は宙に浮き、築地に添い植え込みに添い、高殿の方へ釣り上げられていた。 「あッ、あッ、あッ」  と云ったかと思うと、浮藻はグラグラと眼が廻った。 「神様! おおおお、お助けくださりませ!」  口の中でそう叫び、あまりの恐ろしさに眼を閉じた。  でもその眼をひらいた時には、もっと恐ろしい光景が──高殿の廊で二人の男女が、抱擁している光景が、悪夢のように映って見えた。 「余りな……お姉様……あんまりな!」  小次郎と桂子とが抱き合ったまま、廊から部屋の中へ消えたのと、浮藻が気絶したのと同時であった。  この同じ夜のことであった。  六波羅北の探題邸を、子を取られた鬼子母神のように、部屋から部屋、廊から廊と、鬼火の姥が喚きながら、金地院範覚を探し廻っていた。 「範覚よ、どこへうせた! お主に去られてはわしゃもたぬ! ……範覚よ、ちょっと来てくれ!」  一つの部屋の襖をあけた。  と、近習の若侍たちが、雑談に花を咲かせていたが、 「色情狂じゃ、それ逃げろ!」  バタバタと逃げてしまった。 「範覚よ、ちょっと来てくれ! ……今後はきっと浮気はしない! ……お前一人ハッキリときめる! ……範覚よ帰って来ておくれ!」  また一つの部屋の襖をあけた。 「化物だ──ッ、それ逃げろ!」  稚子たちに雑って茶童たちが、双六に興を催していたが、一斉に立って逃げてしまった。 「範覚よ、どこにおいでだ。……お前に去られたらわしゃ駄目じゃ。……根こそぎ力が抜けてしまう。……ただの婆さんになってしまう! 範覚よ、帰って来ておくれ! ……」  鬼火の姥は血眼になって、館中探して廻るのであった。  熊野から十津川、芋ヶ瀬から玉置と、大塔宮様を討ち奉ろうと、鬼火の姥と範覚とは、不敵にもお後をつけ廻したが、とうとう目的をとげることが出来ず、宮家には槇野城へおはいりになり、その後吉野へ城を構えられ、そこへお籠りあそばされ、三千の武士や衆徒に守護され、諸方へご令旨を遣わされ、勤王の兵を募られつつ、一方には直ちに京都六波羅を、ご討伐あそばさるるご計画と、こういう形勢になってしまった。  そこで姥は範覚と連れ立ち、六波羅探題へ帰って来、北の探題の館に住み、今後の命を待つことにした。  ところが金地院範覚であるが、玉置の荘にいた頃から、姥に対して冷淡になり、離れようとする素振りを現わしたが、この館へ来て以来、その傾向が著しくなった。  それに薄々感付いてはいたが、まさかと思って鬼火の姥は、警戒しようとするでもなく、例によってこの館に仕えているところの、美貌の若武士や稚児や茶童に、いやらしい様子で働きかけた。  と、不意に今夜になって、範覚が姿をくらましてしまった。  異性に接することによって、飛天夜叉の桂子は、超自然力を失うのであったが、鬼火の姥に至っては、それとは全然反対に、異性に接しないことによって、超自然力を失うのであった。  年寄りで醜悪の姥に対しては、範覚以外のどのような男も、怖毛を揮って近寄らなかった。  もし範覚を失おうものなら、姥はただのお婆さんとなり、超自然力を失うであろう。  範覚が姿をくらましたことは、彼女にとっては大打撃であった。 「範覚よ、どこにおいでだ!」  またもや姥はこう呼びながら、部屋部屋の襖を開けはじめた。  この頃範覚は京都の町を、銀河を頭上にいただきながら、朗らかな顔をして歩いていた。 (悪魔から離れたというものさ)  金剛杖を軽くつき、浮き立つように歩いていた。 (新しい生活がはじまります)  寝しずまった町はひそやかで、両側の家々は扉も蔀も、門も窓もとざしてしまって、火影一筋洩らしていなかった。柳の老木が立っていて、しきりに枯れ葉を散らしているのが、月光に針でもこぼれるように見え、それの根もとの草むらの中で、虫が声かぎり鳴いているのが、秋の深夜を浄化してみせた。 (あの婆さんとツキアウことによって、何を俺ら得をしたかしら?)  こんなことが考えられた。 (女のいやらしさを知ったばかりさ) (では今後は)  と考えた。 (女の綺麗さを知らなけりゃアならねえ) (オヤオヤオヤ)  と立ち止まった。 (ここはいったいどこなんだろう?)  寂しい町の外れであって、築地が側に立っていた。 「ほウ!」  と驚いて声をあげた。 「若い女が仆れているぞ──ッ……見ろ! もうこんな好運にぶつかってしまった!」  大蔵ヶ谷右衛門は、裏庭から館の裾を巡り、前庭の方へ歩いて来た。 (浮藻様はおいでなされぬ。小次郎めもいないようだ)  大鉞が薄白く、その刃を月光に光らせていた。 「変だ」  と呟いて門の方を見た。 「潜り戸が開いている」  で右衛門は潜り戸をくぐり、館から外へ歩み出た。  人っ子一人通っていない、森閑と更けた夜の中に、館の築地が延びていた。  その築地を左へ曲がった。  と、行く手に一人の山伏が、女を小脇に抱えながら、向こうへ歩いて行く姿が見えた。  何がなしに気にかかり、右衛門は小走りに走り寄ったが、 (あッ、浮藻様だ! 山伏は範覚!) 「待て範覚!」  と大音に叫び、豹のように躍りかかった。 「誰だ⁉」  と浮藻を小脇に抱えた、金地院範覚は振り返ったが、 「や、わりゃア右衛門か!」 「汝が汝が浮藻様を!」 「授かったのだ! 貰って行く!」 「黙れ!」  鉞を振り込んだ。 「どっこい!」  ひっ外して範覚は、十数間ひた走り、 「右衛門、おさらば、いずれ逢おう!」 「待て!」  ビューッと鉞を投げた。  金剛杖を片手で振り、その鉞を刎ね飛ばし、 「うんにゃ、俺は待たねえことにした!」  浮藻を抱えたまま範覚は、矢のように走って姿を消し、 「待て、待ってくれ、おおおお範覚!」  と右衛門は喚きながらその後を追った。  それから数日の日が経った雨もよいの寂しい夕暮れであったが、桂子の館の前庭で、幽霊女と鶏娘とが、鶏頭の葉をむしりながら、しょんぼりとして話していた。 「ああとうとうこのお館も無住の古御所になってしまうのね」 「そう、わたしたちが行ってしまえばねえ」 「小次郎様はどうなされたことやら?」 「あの晩まるで狂人のように、魔の高殿から駈け下りられ、『戦場へ! 戦場へ! そこで働いて討ち死にする』と叫び、館から馳け出して行かれたがねえ……」 「それよりその後から桂子様が、顔にお袖をおあてになり、別人のような様子になられ、やはりお館から出て行かれたが、そのお姿が眼に残っていてならぬ」 「あの時わたしは桂子様へ『飛天夜叉の桂子様、どこへおいででございますか?」って、恐る恐るお訊ねしたところ、『わしはもう飛天夜叉ではなくなったのだよ、ただの女になってしまったのだよ。……昔の飛天夜叉に立ち返るまでは、お前たちには逢いますまい』と、泣きながら仰せになられたっけ」 「浮藻様は行衛不明、右衛門殿も行衛不明……ご家来衆は寄りつかず…」  この時館の玄関から、影法師のようなものが現われて、二人の女の方へ近寄って来た。  旅装した風見の袈裟太郎であった。 「袈裟太郎様お出かけか」 「この早い足で日本国中を巡り、桂子様や浮藻様の行衛を、わしはお探しするつもりさ」 「さようなら袈裟太郎様」 「さようならお前たち」  袈裟太郎が悄然と立ち去った後、二人の女も館から去った。  雨が蕭々と降って来た。  廃園の中に廃屋が、悪霊殿を持ちながら、滅亡の相をなして立っている。 吉野の城戦  明くれば元弘三年であった。  その二月の下旬において、二階堂出羽入道道蘊は、六万余騎の勢を率い、大塔宮の籠らせたまえる吉野の城へ押し寄せた。  要害堅固の城だったので、容易に落ちそうにも見えなかった。  しかし以前から武家方であり、そのため大塔宮のご意見によって、権勢を剥がれた吉野の執行、岩菊丸が逆怨みをし、寄せ手の勢に内通し、裏山づたいに寄せ手の勢の一部を、城の搦め手へ案内し、火を放って攻撃したので、宮方は守りを失ってしまった。  それは閏二月の一日であったが、この日宮家には蔵王堂の御座に、赤地の錦の鎧直垂に、巳の剋ばかりの緋縅の鎧──あさひの御鎧をお召しになり、竜頭の御兜をいただかれ、三尺五寸の小薙刀を持たれ、二十余人の家臣と共に、合戦のお指図あそばされおられたが、勝手の明神の前あたりより、敵大勢こみ入ったるをご覧じ、 「今は遁がれぬところなるぞ。ひとまず逆賊を追い散らし、心しずかに腹切れや!」  と、ご自身真っ先に乗り出したまえば、家臣の面々一団となり、寄せ手の真ん中へ突き入った。  東西に払い南北に追い廻した。  寄せ手は大勢ではあったけれど、二十余人に駈け散らされ、四方の谷へ退いた。 「いざこの隙に」  と大塔宮は、蔵王堂のお庭へ引き返し、大幔幕をひき絞らせ、最後のご酒宴を催おされた。  御鎧に立つところの矢七筋、御頬にも二の御腕にも、お傷を受けられて血流れ出で、全身を紅にお染めになりながら、敷き皮の上にお立ちになり、大盃を三度まで、さも快よく傾むけさせられれば、木寺相模は敵の首級を、四尺三寸の太刀先に貫き、お前に出て舞い出した。 〽戈鋋剣戟を降らすこと電光のごとくなり。  盤石岩を飛ばすこと春の雨に相同じ。  この間も大手搦め手での、鬨の声矢叫びは凄まじかった。 「こは何事! ご酒宴の声とは⁉」  村上彦四郎義光は、大手の勢に加わって、悪戦苦闘をつづけていたが、敵搦め手から寄せたと聞き、宮家の御事心もとなく、蔵王堂まで引き返して来た。  と、大庭の中ほどから、謡う声囃す声が、むしろ朗かに聞こえて来た。 (さては?)  と心に感じられた。 (最後のご酒宴と覚ゆるぞ! ……一大事! ……御命に代わって!)  幔幕をくぐって駈け込んだ。 「おお彦四郎! 生前に逢えたか!」 「宮!」  と鎧に立つところの矢、十六筋を立てたまま、全身蘇芳の色に染まった彦四郎義光は、がばと坐り、 「最後のご酒宴と見まいらせましたが、こは余りにもご性急、かつは軽々しゅう存ぜられまする。並々のご身分にあらせられるることか、宮方一統の運命を、双肩に担わせらるる重責の御身、尚、この儀は申すまでもなく、金枝玉葉の尊貴のご身分、他将軍とは異りまする! ……敵の勢いまだ四方へ廻らず、高野口は自由にござりますれば、なにとぞそこよりお落ちあそばしませ! ただし御跡に残りとどまって戦う兵なくば、敵審かしみ、御後追いかけ申すべし。恐れあることには候えども、召させたもう御鎧直垂と、御物の具とをたまわって、御諱の字冒させくださるべし、御命に代わり申すべし!」  死なばもろともと仰せになり、ご承引あそばされぬ大塔宮様を血涙をもって、苦諌しまいらせ、手ずから宮家の物の具を解き、自身にそれを引き纒い、無二の宮方であるところの、吉水院真遍に道案内をさせ、高野山を目ざして宮家を落とし、一息ついた彦四郎義光は、二の木戸の高楼へ上ろうとした。と、 「父上!」  と背後から呼んで、無数に矢を立てた若武者が、あえぎあえぎ走って来た。  義光の一子義隆であった。 「おお父上、その姿は⁉」 「よろこべ義隆、人臣の誉れ! 大塔宮様御身代わりとなって、本日只今討ち死にいたすわ!」 「御討ち死に⁉ 宮様に代わり⁉」  と義隆はグタグタと膝をついたが、 「この義隆もしからば御供!」 「ならぬ!」  と義光は大音に叫んだ。 「宮様高野へお落ちあそばされたわ! ……遮る逆賊あろうもしれぬ! ……汝参って防ぎ矢仕れ! ……それこそ忠! ……それこそ孝! 今はこれまで! 今生の別れ!」 「父上!」  と縋る義隆の前には、閉ざされた櫓口の扉ばかりがあって、内側から義光のかけたらしい、閂の音が聞こえて来た。  櫓に上った村上義光は、はざまの板切って落とし、雲霞のごとく寄せて来ている、寄せ手の眼前へ全身をあらわし、大音声に呼ばわった。 「天照大神の御子孫、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇第一の皇子、一品兵部卿親王護良、逆臣のため亡ぼされ、怨みを泉下に報ぜんために、只今自害するありさま見置きて、汝らが武運忽ちに尽き、腹を切らんとする時の手本にせよ!」  呼び終わると物具を脱ぎ、敵勢の中へ投げ下ろし、腹一文字に掻き切った。  この日も黄昏になった頃、宮方の落人を搦め取れと、武家方の兵ども、高野への山路を、騎馬徒歩にて走らせていた。  と、林から唸りをなして、矢つぎつぎに射出され、見る見る数騎射落とされた。  一旦討手は退いたが、 「敵は小勢ぞ、一人か二人じゃ、探し出して討って取れ!」  と、林の奥へ馳け込んだ。  と、木蔭から徒歩の若武者が、太刀を振ってあらわれ出たが、真っ先に進んだ敵の一騎の、馬の諸足薙いで仆し、落ちるところを討って取り、つづいて十数人を討ちとった。  義光の子息義隆であった。  しかし終日の戦いに、全身十数箇所の傷を受けていた。 (宮様遠く落ちられたであろう。殺生ももうこれまで)  こう思って林の奥を目ざし、敵と別れて走り込み、馬酔木の大藪を背後にし、ドッカと草に坐ったが、鎧通しを引き抜くと、左の脇腹へ突き立てた。  おりからはしって来る足音がし、一人の武士があらわれた。 「敵か味方か存ぜねど、われは村上蔵人義隆、敵ならば首級とって功名にせよ! 味方ならば介錯たのむ!」  すると走って来た武士は叫んだ。 「わたくし事は土岐小次郎と申し、土岐十郎頼兼の一族、宮方の者にござりまする。雑兵に姿やつしまして、今日の戦いにも出でましてござるが、死に場所を得ず死に遅れてござる! ……村上義隆殿にござりますれば、義光殿のご子息の筈、お父上のお見事なるご最期は敵軍の中にまぎれ入り、この眼にてさっき方見申してござる! ……忠義の亀鑑、武士の手本、感佩いたしましてござりまする! ……ご子息の貴所様におかれましても、敵の将卒多く討ちとり、ここにてご生害と見申した。……不覚者ながら、お望みにまかせ、わたくしご介錯仕りましょう」  土岐小次郎はそう云って、腰の太刀をしずかに抜いた。 「正中の変に宮方に属し、忠誠の武名あげられましたるところの、土岐頼兼殿のご一族とな! あら嬉しや由緒ある武士に、介錯されて父の後追えるわ!」  義隆は残んの夕陽の中で、顔をほころばせて笑ったが、 「お頼み申す! いざ!」  と云うや、鎧通しで腹を引いた。 「…………」  閃めかした小次郎の太刀と共に、若武者の首は地に落ちた。  藪の裾を深く掘って、その首級を埋ずめた小次郎は、立ち去りもせず尚しばらく、愁然として佇んでいた。  過ぐる夜桂子の高殿で、ほとんど無我の境の中で、桂子と契った小次郎であった。  契った後の後悔慙愧! 肉親相愛に似たものがあって、いたたまれないような気持ちがした。  そこで桂子の館を出た。 (穢い浮世、醜い人生! ……生き甲斐のないこの身ではある!)  衷心からそう思われた。 (戦場へ出て討ち死になとしよう)  そこで吉野の宮方に加わり、今日まで働いて来たのであった。  身分を宣って出でたならば、一方の将にも取り立てられたであろうが、出世に望みのない彼であった。一雑兵として終始して来た。  しかもとうとう死におくれたのである。 (さてこれからどうしたものか?)  大藪の裾に佇んで、もう夕陽が消えたので、藪に搦まっている蔓草の花が、宵闇にことさら白く見える、そういう寂しい風物の中に、悄然といつまでも動かずにいた。  その時人の気配がし、藪の横手から声がかかった。 「卒爾ながらお訊ねいたしまする。大塔宮様御行衛、ご存知なればお知らせくださりませ」  小次郎はギクッとしてそっちを見た。  片腕が肘から切られてい、片足が膝から切られているので、左の脇の下に撞木杖を挟み、満足の右の手に竹の杖を持った、盲目の乞食が藪の横に、乱れた髪を顔にかけ、妖怪のように立っていた。  小次郎は思わず二、三歩さがり、 「誰じゃ⁉ ……さては、武家方の……」 「大塔宮様にお目にかかり、許すとのお言葉承まわりたさに、この年月諸所方々を、お後慕うておりまするもの……」 「…………」 「今日の合戦に大塔宮様、ご生害とのお噂なれど、何んの何んのそのようなこと! ……このわたくしの一念でなりと、何んの何んのそのようなこと!」 (何者だろう?)  と小次郎は、その乞食をつくづく見た。  それが自分のまた従兄にあたる、土岐蔵人頼春であるとは、夢にも小次郎には思われなかった。あまりに変わり果てているからである。その乞食の──その頼春の左の腕は、比叡の裏山で、小次郎その人が斬り落としたのであったが、それも小次郎には思い及ばなかった。でも小次郎にはその乞食が、何がなしにしみじみと同情された。 (何か由緒のある乞食らしい。どっちみち武家方の者ではない)  こう思ったので小次郎は云った。 「乞食よ、安心せ、大塔宮様は、村上義光殿お身代わりになり、御自身にはこの道より、高野へお落ち遊ばされたわ。……そちの足もとに死骸となって、横仆わっている若武者こそ、義光殿のご子息義隆殿じゃ!」 「宮家高野へ⁉ 宮家高野へ⁉」  土岐頼春は呻くように云った。 「ではわしは高野へお後を追い、また辿らねばならぬのか!」  この時小次郎は乞食を見捨て、藪を巡って歩き出していた。 (桂子殿はどうなされたか? 浮藻殿はどうなされたか?)  ふとこのことが思われた。  吉野の軍に加わって、日夜働いている間にも、やはりこのことが気にかかったので、それとなく小次郎は様子を探った。  あの同じ夜に館を出て、桂子は行衛不明となり、浮藻も行衛不明となり、右衛門も行衛不明となり、その後数日経った時、幽霊女も鶏娘も、風見の袈裟太郎も館を去り、京都二条のあの館は、無人の廃屋になったという。 (飛天夜叉組の没落か!)  心寂しく思われたが、今もそのことが思われるのであった。 (桂子殿はどうなされたか? 浮藻殿はどうなされたか?」  小次郎は林をさまよって行った。  もう全くの夜となり、月のない夜は暗黒であった。  と、この時人声がし、甲胄の擦れ合う音を立て、大勢の馳せ来る足音がした。  落人探しの武士どもであった。  数十人林へ駈け込んで来た。 「や、ここに死骸があるわ!」 「腹切っているわ!」 「首がないわ!」 「物の具を剥げ!」 「太刀を取れ!」  義隆の死骸へ集まった。 「わッ」  と一人の武士が叫び、朱に染まってぶっ仆れた。  その武士の太刀を奪い取り、その武士の首を刎ね落とした、盲目の不具の乞食の姿が、武士たちの持って来た松明に照らされ、幽鬼のように立っているのが見えた。 「こやつ!」 「何者!」 「斬れ!」 「討ちとれ!」  ムラムラと頼春をおっとり囲んだ。 「大塔宮様の無二の忠臣、義隆殿の死骸を剥ぐ奴、許さぬぞ、一人も許さぬ!」  二、三人バタバタと斬り仆された。 「宮方じゃな!」 「遁がすな漏らすな!」  大勢! 乱刃! 悲鳴! 叫喚! 「もうよい、行け!」  武士たちは去った。 「死なぬぞ! おのれ! 何んで死のう!」  のたうち廻る頼春の体には、今まであった右の手と、右の足とがなくなっていた。  こんな際にも人里へ出て、食を求めて帰って来たらしい、早瀬のうたう子守唄の声が、木立ちの間から聞こえて来た。 泣きそ、な泣きそ 和子よ和子よ 「大塔宮様の御目にかかり、許すとのお言葉うけたまわるまでは、死なぬぞ死なぬぞ! 死なぬぞ死なぬぞ!」  首と胴ばかりになった頼春は、なおのた打ち叫んでいた。 高燈籠の家  高野山に入らせられた大塔宮は、高野の衆徒、吉野の衆徒、熊野の衆徒、野武士、山伏、宮方にお味方の諸豪族に守護され厳しい関東軍の追捕の眼を眩まし、文字通り草莽に潜居ましまし、しかもご令旨を八方に飛ばし、宮方の武士を募らせられ、千早城に拠って関東の大軍、三十万を相手にし、微動だもしない楠木正成と、よく連絡をお取りになり、全日本の諸将に帰趨するところを、御自身身をもってお示しあそばされた。  これに感激しご令旨を戴き、勤王の諸将諸国に起こった。  新田義貞は上野に、赤松則村は播磨の国に、結城宗広は陸奥の国に、土居、得能は四国の地に、名和長年は伯耆の国に、菊池武時は九州の地に、そうして足利高氏さえ、鎌倉幕府を見限って宮方にひそかに心を寄せた。  その高氏が京都へ入り、両六波羅を討伐し、この年の五月七日をもって、全く両六波羅を亡ぼしおえ、新田義貞が鎌倉に討ち入り、同じ月の二十一日に、北条一族を亡ぼして、頼朝以来の武家政治を、百五十余年にして消滅させ、政権を朝廷に帰すことを得た。  主上伯耆より京師にご還幸、明る年正月二十九日、建武と改元あらせられた。  建武の中興成就したのである。  大塔宮護良親王におかせられては、征夷大将軍に拝され給うた。  が、これらも一時であって、主上の御諱を一字賜わり、尊氏と改名した足利高氏がそういう、恩寵にあまりに狎れ、北条氏に代わって己自身、政権をとろうものと策動した。  ご聡明達識の大塔宮には、尊氏の野望を観破あそばされ、未前に剪除あそばされようとなされた。  が、誠にご不運にも、事御志と違いたまい、足利の手に宮家には、お渡りあそばさるる御身の上となられ、遥々鎌倉へ移らせられ、苛察冷酷の典型的悪将、尊氏の舎弟直義の手にて、二階堂ヶ谷東光寺内の、窟に幽居あらせられた。  十一月十五日のことである。  その年も暮れ翌年となり、建武二年七月となった。  ある日吉野の山路を、二人の旅人が通っていた。  金地院範覚と浮藻とであった。 「ずいぶんお暑いじゃアございませんか」  金剛杖をだるそうに突き、笈を重そうに揺りながら、優しい声で範覚は云った。 「そうねえずいぶん暑いのねえ。でももう旅には慣れているから、わたしは苦しいとは思いませんわ」  六部姿にやつしている浮藻は、こう云って笠を傾むけて、笑ましげに範覚の顔を眺め、 「範覚さん疲労れたの?」 「アッハハハ、どういたしまして、この範覚という人間は、つかれを知らない人間でしてな、まして旅などにはつかれませぬよ」 「わたしも疲労れを知らない女よ」 「ずいぶんお健康でございますなあ。はじめはそうとも思いませんでしたが──はじめはナ──こ、こんな娘っ子、体も心もすぐに疲労れて、クタクタになるものと思っていたのでしたが、どういたしまして反対で、お精神もお肉体も健康なものです。範覚ことごとく参ってしまいましたよ」 「わたしはそれとは反対でしたわ、はじめはわたし範覚さんて人、精神も肉体もとても強く、悪人だと思ったのでしたが、つきあって見るとそうではなくて、善良で弱くて親切な人ね」 「へい」  と範覚はひどくテレた。 「案外そうでもないんですが、心も姿もあんまり綺麗で、一点の陰影も濁りもない、そういう人間に──それも女に──そうです女に限るんで、特に私には限るんですが──そういう女にぶつかりますと、ついこっちだって反省してしまって──反省すると損なんですがねえ。──宝の山に入りながら、ついどうにも手を空しくしてしまう──というやつ反省から来るんですからねえ。……しかしやっぱり反省してしまって、親切になったり弱くなったり、阿呆になったりするんですよ」  あの夜京都の二条の外れの、桂子の館の築地の外で、気絶していた浮藻を奪って、金地院範覚は最初のほどは、もちろん浮藻を自分のものとし、情慾の犠牲にする意であった。  ところが余りにも浮藻の精神が、その容貌や姿と同じに、清浄であり無邪気だったので、あべこべに感化されてしまった。それはこれまでつきあって来た、鬼火の姥という例の悪婆が、醜悪そのもののような女だったので、その反動からでもあるのであったが、それで範覚は、浮藻の体を、情慾の犠牲にするどころか、その浮藻が命にかけて、ひたむきに恋している土岐小次郎を、どうがなして早く探し出し、小次郎の手へ渡してやろうと、浮藻と二人連れ立って、小次郎を探し廻っているのであった。  桂子の館へも行ってみたが、無人の廃屋になっていた。  その後小次郎が一雑兵として、吉野の官軍に従って、働いていたということを耳にした。 (今でも吉野辺にいるかも知れない)  こう思ってこの地へ来たのであった。  日がだんだん暮れて来た。  いつか道に迷ったらしく、どうにも人里へ出られなかった。 「こいつは変だ」  と範覚は云った。 「浮藻様道に迷いましたよ」  でも浮藻は平然としていた。 「では野宿しましょうよ」 「野宿? へえ、恐かアありませんか」 「範覚さんとご一緒ならねえ」 「へい」  涙がこぼれそうであった。 (俺らをこんなに信じているのだ!)  可愛い妹のように思われるのであった。 (女にも色々あるものだなあ。姥と浮藻殿との相違はどうだ!)  大して悪人でない範覚は、感激しないではいられなかった。  もうすっかり夜になり、山と谷と曠野と森と、谷川との世界が黒一色に、漆のように塗りつぶされた。  と、行く手の空に高く、燈の光が橙黄色に見えた。 「おや、あんなところに燈火が……」 「変ですねえ……行って見ましょう」  そこで二人は辿って行った。  谷川の岸の竹藪の前に、荒れ古びてはいたけれど、かなり大きな家があり、その前庭の一所に、高燈籠がつくられてあり、そこから燈の光が射している。 「高燈籠を点けているからには、道に迷った旅の者などに、宿を奉謝する家なのですよ」  範覚は喜んでこう云った。 「道に迷うようなこういう山路には、こういう宿があるものと見える」 「早速お宿を願いましょうよ」  浮藻もさすがに嬉しそうに云い、 「世間って親切なものですわねえ」 「へい、親切でございますとも」  二人はその家の門の戸をあけた。 「ごめんください」  と声かけた。  誰も返辞をしなかった。  暗い土間から見えるものは、古びた板戸としみのある古襖と、鼡の走っている破損れた床と、それらをぼんやり照らしている、今にも消えそうな紙燭とであった。 「うすっ気味の悪い家ですねえ。……といって夜道を行きもならない。……燈火がともっているからには、住人があるには相違ない。……どこかへ用にでも行ったのでしょう。……叱られたら詫びるとして、ともかくも上がっておりましょうよ」  こう云って範覚が上がったので、浮藻も従いて上がって行った。  燈火の側へ坐り込み、家内の様子をうかがったが、蛇が鼡でも追っているらしく、天井裏でけたたましい音が、ひとしきり聞こえて来たばかりで、ほかに物音はしなかった。  しかしその時庭の方から、物を磨ぐ音が聞こえて来た。 「気味が悪いや」  と範覚が云った。 「ありゃア刃物を磨ぐ音だ」 「範覚さん」  と浮藻は顫え、 「出かけましょうよ。行きましょうよ」 「ナーニ」  と範覚は立ち上がった。 「それより行って確かめてやろう」  範覚は庭へ下りた。  一人となった浮藻の耳へ、刃物を磨ぐ音が聞こえなくなった。 (まあよかった)  と浮藻は思って、安心の溜息を一つついた。  が、しかしすぐに刃物を磨ぐ音が、裏の方から聞こえて来、そっちへ走って行く足音が聞こえた。 (範覚さんが追って行ったんだよ)  浮藻はそう思って耳を澄ました。  刃物を磨ぐ音はすぐに止んだが、竹藪のある方角から、やがてまた不気味に聞こえて来、そっちへ走って行く範覚の、いらいらした足音も聞こえて来た。 (どうなることか⁉)  と思いながら、浮藻はガチガチ歯を鳴らしながら、なお聞き耳を立てていた。  と、不意に悲鳴が聞こえ、つづいて嗄れた笑い声が聞こえ、ザワザワと藪の鳴る音がし、その後はひっそりと静かになった。 (あの悲鳴は? 範覚さんでは?)  フラフラと浮藻は立ち上がった。  とたんに眼の前の古襖が、風と塵埃を立てて仆れた。 「あっ」  と思わず声を上げ、浮藻はその方へ眼をやった。  仆れた襖の奥の部屋に、三個の女の死骸があって、その一個が断末魔の足で、襖を蹴ったに相違なく、その足が痙攣を起こしながら、だんだんに延びて行くのが見えた。  浮藻はよろめいて部屋の隅へ行き、そこに立ててある衝立に縋った。  と、煤けて木目さえ見えない、その古い衝立が仆れ、その背後に若い男が、骨と皮ばかりに痩せ衰え、死の前の昏睡にはいっているのが見えた。  浮藻はベッタリと床へ坐り、這いながら庭へ下りようとした。  と、庭から跣足で歩く、足の音が聞こえて来た。  足音は土間へはいって来た。  白髪をパッと顔へかけ、よごれた白い行衣を着、手に磨ぎ澄ました出刃を持った老婆が、上り框から半身をのぞかせ、口を開けて笑いかけた。  それは鬼火の姥であった。 「浮藻殿オ──ッ」  と姥は云い、ノシノシと部屋へはいって来た。 「ようわせられた、わせられたのう」  たくし上げた裾から洩れて見えるのは、垢じみ穢れ痩せながら、筋逞しく現われている、男のような足であった。  その足で姥はノシノシと近寄り、捲くり上げたこれも筋だらけの、陽やけして赭黒い手によって持たれた、出刃庖丁を振りかざし、 「高燈籠の燈で釣って、道に迷った旅の者を、この一つ家へおびき寄せ、女は他愛なく料って殺し、男は生かして衰えるまで、わしの精力の犠牲にしていたが、汝ら二人も同じ燈に釣られ、わせられたそうな、ようわせられた! ……竹藪にかけてある罠にかけて、金地院範覚は生け捕った! 汝を料理した血だらけの手で、今夜から範覚は以前どおりに、わしがねんごろに介抱してやる! どんな男もきゃつには及ばぬ! きゃつがわしから飛んで行って以来、わしは神通力を失ってのう。……が、有難や戻って来た! ……明日からはまた昔通りの鬼火の姥殿になれるのじゃ! ……憎いは汝! 汝浮藻!」  ヌッと片手を差し出した。 「ヒ──ッ」  と浮藻は悲鳴を上げ、遁がれようとしたが及ばなかった。  姥の手に髪を掴まれた。 「どうだア──ッ」 「ヒ──ッ」  仆れた浮藻の、背の上に姥は片膝を載せ、 「ずいぶん丁寧に料ってやろう! ……姥が想いをかけていた、小次郎という若侍と、汝は乳くり合っているそうじゃの! この怨みが一つある! わしの情夫の範覚を、よくも汝は横取ったの! この怨みが一つある! ……一つの怨みには左の乳房を、もう一つの怨みには右の乳房を、ずいぶん丁寧にくり抜いてやる! ……まずこうだア──ッ」  と腕に捲いた髪を、グーッと姥は釣り上げた。  連れて釣り上がった浮藻の半身の、乳の下を目がけて出刃でガバと!  しかしその時戸外の方から、鶏の鳴き声が聞こえて来た。 「や?」  と姥は躊躇した。 「まだ夜の明ける筈はないが?」  その瞬間に唸りをなして、白光る物が投げ込まれた。 「わ、わ、わ、わ、わーッ」  斗のような血! 「助けて──ッ」  と悲鳴し姥の手から遁がれ、土間へ駈け下りた浮藻の体を、強く抱きしめた腕があった。 「浮藻殿オ──ッ」 「コ、小次郎様ア──ッ」  浮藻を抱いて立っている、小次郎の背後にいる者は、鉞を投げて姥の体を、胴から二つに切り割った右衛門と、幽霊女と鶏娘と、そうしてそれらの人々を、速い足で探しあて、失った通力を取戻そうとして、吉野大峰のどこにか、難行苦行をしていると、噂に聞いた桂子のもとへ、連れて行こうと旅をして来、道々浮藻をも探し求め、ここへ来て道に踏み迷い、高燈籠の燈につられ、入り込んで来た風見の袈裟太郎──それらの人々が立っていた。 尊い犠牲  罠から助けた範覚をして、──漢権守そのものでもあり、鬼火の姥でもある姥の死骸を丁寧に埋葬させた後、小次郎や浮藻の一行は、姥の墓と範覚とに別れを告げ、桂子のいるという大峰の方へ、その翌日旅立って行った。  同じ月の二十二日、相州鎌倉は大騒動であった。  滅ぼされた北条高時の遺子、北条次郎時行が、諏訪頼重父子に奉ぜられ、信濃において兵をあげ、鎌倉へ攻めのぼって来たからである。  足利直義は狼狽し、女影原や小手指原などで、時行の兵と戦ったが、戦い利あらず敗北し、鎌倉の地にとどまることさえ出来ず、西をさして落ちることになった。  二十三日の深い夜、山内村まで落ちて来た。  と、直義は馬を止め、傍を駈けていた家臣の一人、淵部伊賀守義博を呼んだ。 「義博」  と直義は声を忍ばせ、 「われらが宿願成就にあたり、最大の障害を与うるもの、前征夷大将軍大塔宮様じゃ。……時行などの手にお渡りあっては、後難計るべからざるものがある。……まことにおいたわしい限りではあるが……」 「…………」  義博は無言で唾を呑んだ。 「そち二階堂ヶ谷に引っ返し……」 「…………」 「宮家の御首級……」 「それは余りに」 「行け! 主命じゃ! 躊躇は許さぬ!」 「…………」  やがて軍からひき離れ、郎党六騎をひきつれて、二階堂ヶ谷へ引っ返して行く、淵部義博の甲胄姿が、星月夜の下に認められた。  幽かにともされた燈火の下に、この夜宮家には経机に倚られ、お経をしずかに読誦ましまし、寂然と端坐おわされた。  御髪延びて肩にかかり、御口髭も御頤髯も、まばらに生えた御顔は、二百日に余るご幽居によって、蒼白の御色に眺められた。  藤原保藤卿の御女、南の方お一人だけが御傍らに侍っていた。  お世話申し上げているのである。  朝権恢復、建武の中興、それは完全にご遂行あそばされた。  宮方の柱石は申すも愚か、日本全体の柱石として、最近まで宮家はおわしたのである。  しかるに尊氏、直義、二個の奸臣の憎むべき陰謀によって、土牢の中へご幽閉という、凄惨たる境遇にお落ちあそばされた。  その御思いは?  宮家の御心は?  説明するにも及ぶまい。  土牢の中は湿気に充ち、御呼吸さえお苦しそうであった。  暁のほのかな薄明りが、紫陽花色に格子づくりの、出入り口のあなたに隙けて見えたが、読経に余念のない宮家には、まだお気づきにならないようであった。  と、その格子戸が外から開いて、甲胄武者が一人はいって来た。  宮家は屹とご覧になられた。  直義の家臣、逆臣の走狗、淵部伊賀守義博であった。  宮家は一切をお悟りになられた。 「この身失わんのお使いであろうな! 心得たり!」  と仰せになり、宮家はスックとお立ちになられた。  が、いかんせん長い月日の、土牢ご幽居の御体は、勇猛の御力を消耗しおられた。  宮家の御首級を両手に捧げ、淵部義博が土牢から出た時、まだ暁は紫陽花色であった。  木立ち、藪、石燈籠、それらのものも朦朧としていた。  藪の裾まで来た時である。義博は御首級を空にかかげ、その御面を凝視した。  口を結び、眼を見開き、逆賊の行為を怒られるがように、義博の顔をひたと見詰め、御首級は生き身さながらであり、今にも叱咤の御声が、迸り出るかに拝された。  義博は顫え上がった。  恐怖は慚愧と罰への不安とで、彼は身の縮む思いがした。  眼を閉じ佇み思案したが、やがて藪の裾へかがみこむと、御首級をそっと草の上に安置し、後も振り返らず走り去った。  で、その後はひっそりとなり、梢から露の藪へ落ちる音が、あるかなしかに聞こえるばかりであった。  その時人の足音が聞こえ、走って来る女の姿が見えた。木立ちをくぐり藪の裾を巡り、宮家の御首級の御前まで来た。 「あ」  と、微かに声を上げ、女はその御前にひざまずき、両の袖で御首級を捧げ持った。  土牢から駈け出して来た南の方であった。  嗚咽の声が糸のように、長く細く洩れて続いた。  土牢の中で行なわれた大逆の光景が、南の方の脳裡に、この時一瞬間ひらめいた。  義博の太刀を奪おうと、奮然と宮家にはおかかり遊ばされたが! ……土牢ご幽居でお力の脱けた御体! 義博の太刀先を御前歯をもって、グッとお噛み止め遊ばされたが! ……そのため太刀先が折れて砕けたが! ……差し添えを抜いた逆賊の走狗の、その差し添えで御胸元を二太刀! …… 「御傷わしや! 皇子様の御身が! ……前征夷大将軍、兵部卿様の宮様が!」  ひしと、御首級を胸に抱いた。  この時、地を踏む木履の音と、咳の音とを立てながら、一人の老僧が近寄って来た。 「おお……これは……南の方様!」  驚いたように老僧は云った。 「御座所より……何しに……このようなところへ!」  それは長老理智光院であった。  南の方は立ち上がり、胸に袖をもって蔽うていた、御首級を無言で差しつけた。  理智光院は最初は解らないかのように、審しそうに眺めたが、急に地上へひざまずいた。  一切を認め識ったのである。 「ハ──ッ」  と深い溜息をもらした。 「勿体なや……何者が⁈」 「左馬頭の家臣渕部義博が」 「堕地獄の輩! やがて天罰が!」 「長老様! ……ご供養を!」 「…………」  長老は力なげに立ち上がり、宮家の御首級を衣の袖で受けた。  二人は静かに藪を巡り、本堂の方へ歩み出した。  と、キリキリと小車輪の軋る、錐を揉むような幽かな音が、木立ちの間から聞こえて来、紫陽花色の暁の微光の中へ、片手に五歳ばかりの女の童の手をひき、片手に不具車の手綱をひいた、女乞食の姿があらわれた。  顔に白布をかけている。  不具車の中にいるものは、両手と両足とを切断られ、首と胴ばかりになった男であった。  土岐蔵人頼春であった。  その顔もその胴も、骨と皮ばかりに痩せていた。  盲目の眼を前方に向け、歯のない口をポッカリと開け、破損れた笙のような嗄れた声で、 「大塔宮様ご幽居あそばさるる窟までご案内くださりませ」  と云った。  理智光院も南の方も足を止め、妖怪さながらの不具の乞食を、驚きの眼をもって凝視した。 「神の界に属しまつる御一方──大塔宮様にお眼にかゝり、許すとの御言葉承まわりたさに、御後を慕うて諸国をさまよい、この地にご幽閉と承まわり参りましたものにござりまする」  そう頼春は云いつづけた。 「誰じゃ?」  ようやく理智光院は云った。 「姓名は? 身分は?」 「昔は由緒ありましたもの、今は非人にござりまする。……裏切り者にござりまする」 「裏切り者? 裏切り者というか?」 「〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔の罪人でござりまする! 浄罪の巡礼にござりまする」 「…………」 「殺人の鬼にござりまする」 「…………」 「裏切りをし、〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔をし、浄罪の旅に出でながら、人を殺し、自身も斬られ、後悔し、〓(「りっしんべん+繊のつくり」)悔をし、しかもその後も人を殺し、月日を経ましたものにござりまする」 「…………」 「大塔宮様にお目にかかり、許すとの御言葉承まわり、真人間となる願望だけを唯一の目標といたしまして、いまに生存えおりまする生ける死骸にござりまする」 「…………」  理智光院は眼を返し、南の方を見やったが、その眼を返すと頼春を見、 「深い理由のある身の上と察し、あからさまに事情知らせて進ぜる。……大塔宮様におかせられては、逆臣左馬頭直義の家来、渕部義博の毒刃にかかられ、勿体なくも只今ご最期……ここに捧げたはその御首級!」 「…………」  頼春はしかししばらくの間は、そう云われた意味が解らないらしく、少しずつ光を増して来た、暁の色と光との中に、髑髏のような顔を曝し、見えぬ眼を声の方へ向けたままで、じっと沈黙をつづけていた。 「ナ、何?」  とやがて云った。 「大塔宮様ご薨去とな⁈ 大塔宮様ご昇天とな⁈」  しかし気味悪くニタリと笑った。 「何を、ばかな、そのようなことが! ……土岐頼春の執念だけでも、宮家ご薨去などあられようや!」 「いいえ……」  と顔の垂れ布をかかげ、宮家の御首級を凝然と、見詰めていた早瀬が嗚咽しながら云った。 「宮様おかくれにござりまする! ……御首級が御首級が!」 「誠か!」  と頼春は洞然と云った。 「御首級が? 宮家の御首級が?」 「坊様持たれましてござりまする!」 「ハ──ッ」  と頼春は五臓を絞った、苦しい重い息を吐いた。 「未来永劫土岐頼春、裏切り者の罪許されぬそうな!」  しかしその時、南の方が、歓喜の声で叫ぶように云った。 「お喜びなされ頼春殿とやら、宮様まさしくそなたの罪を、今こそお許しなされましたぞ! ……怒りの眼を見ひらかれ、猛々しくおわした宮様の御顔が、ご覧なされ、御眼を閉じられ、一切の罪も悪業も、許すぞとばかりの慈悲円満の、ご相好になられました!」 「おおいかさまお言葉どおりじゃ」  と、宮家の御首級を胸に抱き、両手に捧げていた理智光院も云った。 「このご相好、さながら御神じゃ! ……いやさながら御仏じゃ! ……罪障消滅、無差別絶体! 自他の罪ことごとく許された御顔……笑っていられます、微笑んでいられます!」  まことこの時東の空が、薔薇色の光を産み出したが、その光に照らされた、大塔宮様の御顔は、依然として生き身さながらであったが、見ひらかれておわした御眼は閉ざされ、食いしばっていられた御唇は、優しく穏やかにむすばれていた。 「早瀬!」  と喜びあふれた声が、頼春の口からほとばしった。 「裏切り者の極重罪悪、許されて頼春、真人間になったぞ!」 「あなた!」  と早瀬は顔を蔽うた布を、かなぐり捨てて頼春に縋った。 「それではあなた様には妾の罪をも!」 「許すぞ早瀬! 許さで置こうか!」 「おおそれでは今日からは……」 「妻じゃ! 良人じゃ! 愛し合う夫婦じゃ!」 「救われました! おおおお妾こそ!」  新しい夫婦を後に残し、理智光院と南の方は、本堂の方へ歩み去った。 「新しい生活が、我らに今日から!」  頼春の瞽いた両眼から、喜びの涙が降るようにこぼれた。 「太陽が出ました!」  と早瀬は叫んだ。  射し出た朝日に、木の葉や草や、石や藪につづっていた白露が、輝き出して宝玉のように見え、小鳥が四方でさえずり出した。 「明るい!」  と頼春は歌うように云った。 「心も体も何も彼も明るい! ……平和だ! おお何も彼も平和だ! ……この平和が永久消えない世界で!」  頼春は首を前へ垂れた。  全身が傾むいた。  何かへ感謝を捧げているようであった。 「あなた!」  と早瀬は助け起こした。 「…………」  頼春は死んでいた。 「…………」  早瀬はいつまでも見詰めていた。  でも泣きはしなかった。 「これこそ平和の消えない世界! ……そう、それではこの妾も……」  一旦立ち去った理智光院が、夫婦の非人の身の上を案じ、ふたたび藪蔭を訪れた時、体をもたせ合って夫婦の非人が、息を引き取っているその傍らに、女の童が泣いているのが見られた。  草の中に蝮が動かずにいた。 女仙  理智光院は涙をこぼしながら、その二つの屍骸へ云った。 「有縁の人達と思うによって、ここの墓地へ葬ってあげましょう。……女の童はわたしが育ててあげます」  こうして長老が女の童の手を引き、庫裡の方へ帰って行った後は、しばらく寂然と人気がなかった。  しかしその時杉の梢から、白猩々が飛び下りて来て、頼春の死骸から不具車の中へ落ちた、古び汚れた巻軸を掴んだ。  そうしてまたも梢へかけ上がり、枝から枝を伝わって、どこへともなく行ってしまった。  それから幾日かの日が経った。  吉野大峰の大岩石層に、昼の陽がまぶしく当たっていて、少しへだたった岩の間から帯のように垂れている滝の周囲へ、虹の輪を綺麗にかけていた。  数十枚の畳でも敷いたような、偏平な大岩の中央に、雪のような塊りが二つあった。  白衣をつけた桂子と、猩々卯ノ丸の姿であった。 「まあこれは連判状だね。わたしに必要があるかと思って、どこからかお前持って来たのね。志は有難うよ。そうねえ、これがもっと前にあったら、いくらか役にはたったろうが、北条氏が滅び幕府がつぶれ、政権が朝廷へお帰りになった今は、不用のものになってしまったのだよ」  こう卯ノ丸に云いながら、今日その卯ノ丸が不意にここへ来て、桂子へ捧げた連判状を膝の上で繰りひろげた。 「正中の頃に日野資朝卿が、山伏姿に身をやつされ、諸国を巡って豪族を説いて、宮方へ加担を慫慂し、連判状をつくったと噂に聞いたが、その連判状がこれなんだね」 (でも)  と桂子はしみじみと思った。 (宮方へご加担した人々のうち、誰が最後まで宮方として、忠義の誠心を尽くすやら?)  足利尊氏兄弟が、異心の鋒鋩をあらわしたことや、一般の武士たちが宮方に対し、何んとなく不平を抱いている様子が、よく桂子には感じられたので、不安に思われてならないのであった。 (反覆常ない人の心! 栄枯盛衰する浮世の相! 人界ってもの厭だ厭だ!)  猩々卯ノ丸は谷の方を、ただ黙然と眺めていた。 「さて」  と呟いて桂子は立ち、卯ノ丸に向かって声をかけた。 「これまで時々あらわれて、わたしをどこかへ連れて行こうとしたねえ。今度こそお前の云うとおりになるよ。お前たちの世界で住むことにするよ。……何んてまアお山は清浄なんだろう!」  赫々とした夏の真昼陽に、樹々は濃い緑から汗を流し、草花は芳香を強く立て、渓流は軽快な笑声を上げ、兎や鹿は木の間に刎ね、一切万象は自由に大胆に、その生命を営んでいた。  でも数十丈もあるらしい、鉄壁のような大岩が、湾のように開けている巨谿の一部と、この岩石層とを遮って聳え、絶佳の眺望を遮っていた。  それに向かって、桂子は立った。 (わたしは飛天夜叉に帰った筈だ! 飛天夜叉の力を験してみよう!)  生き肌断ち、生食物断ち、塩断ち、火断ちして長い月日を、この大峰の大岩石層で、難行苦行した桂子であった。一旦失った超自然力が、復活って来ない筈はなかった。わけても今日は彼女の身心に、霊力と精力とが感じられた。桂子は大岩の前に立った。しかしその時大岩石層の下の、道のない断崖を六人の男女が、こなたを目ざして喘ぎ喘ぎ、蟻のように小さく登って来るのが見えた。 (まア)と桂子は眼を見張った。それが浮藻と小次郎と、袈裟太郎と右衛門と、幽霊女と鶏娘との──なつかしい一団であるからであった。  そう、それはその人達であった。桂子の居場所をさがし求め、いまようやくつきとめたのであった。大岩石層の裾まで来た。しかしその上へは登れなかった。数十丈高く聳えていて、まったく足場がないからである。 「お姉様!」「桂子様!」「お姫様」と口々に呼び、六人は岩上を仰ぎ見た。桂子の姿が神々しく見え、猩々卯ノ丸の姿も見える。  と、桂子の喜びに充ちた、澄みきった声が聞こえて来た。 「おおお前たちかえ、よく来てくれたねえ。でもいよいよお別れだよ。さて浮藻や小次郎や、昔のことは忘れておくれ。そうして今度こそ本当に、夫婦になって生活しておくれ! ……お前たちどうぞ喜んでおくれ、また妾は飛天夜叉になったのだから!」  奇蹟が続いて行なわれた。  六人の方へ背中を向け、谷に向かって聳えている、大岩の方へ顔を向け、片手を桂子が振りあげたとたんに、全山を顫わせる大音響がして、大岩が谷底へ崩れ落ち、谷底から白雲が渦巻き上り、大岩石層と桂子と、猩々卯ノ丸とを蔽い隠したが、それが大岩石層から徐々に離れ、葛城山の方へ谷を越え、悠々と渡って行ったことである。  白雲の中から嬉々として叫ぶ、猩々卯ノ丸の声が聞こえ、歌うような桂子の声とが聞こえた。 「さようならお前達! またわたしは飛天夜叉になったよ。……わたしは今は不死なのだよ。……山や川や草や木や、お月様やお星様や、お太陽様と同じなのだよ。……でもお前達とは逢えないでしょうよ。……別の世界に住むのだから。……何んてここは幸福なんだろう! ……おお一切の覊絆がない!」  白雲は谷を渡って行く。六人の者は茫然として、その行衛を見守った。 「お姉様は仙人におなりなされたのねえ」と、浮藻はそっと小次郎へ云った。 「そうです」と小次郎も云いながら、優しく浮藻の手を取った。「女仙人になったのです」  この時右衛門は大鉞を、谷底目がけて投げ下ろした。 「こういう得物を持っていることは、俺には必要なくなってしまった。お守りする人がなくなったのだからなあ」 「俺もこの足に用がなくなった」こう云って袈裟太郎は早走りを自慢の、二本の足を両手で撫でた。 「でも」と鶏娘が咎めるように云った、「小次郎様と浮藻様とが、結婚してご夫婦におなりなされれば、わたしたちにとってはやはりご主人、お守りしなければなりますまいに」 「ナーニ」と右衛門は安心したように、しかしいくらか寂しそうに、「若いお方達には若いお方たちの、若い世界や時代があるもので、またそれがよろしいので。老人の出る幕じゃアございません」 「もう雲が消えてしまいます」と、幽霊女が叫ぶように云った。  桂子と卯ノ丸とを乗せた雲が、遥かの遥かの空の果てに、今は一点の白帆かのように、小さくなって消えかかっていた。  合掌したいような心持ちで、六人の者はそれを見送った。 底本:「あさひの鎧(上)」国枝史郎伝奇文庫、講談社    1976(昭和51)年9月20日第1刷発行    「あさひの鎧(下)」国枝史郎伝奇文庫、講談社    1976(昭和51)年9月20日第1刷発行 初出:「時事新報」    1934(昭和9)年8月25日~1935(昭和10)年3月16日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「痴」と「癡」、「揺」と「搖」、「熖」と「焔」、「遥」と「遙」、「稚子」と「稚児」、「淵部」と「渕部」の混在は、底本通りです。 入力:阿和泉拓 校正:酒井裕二 2018年11月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。