舞踏会余話 牧野信一 Guide 扉 本文 目 次 舞踏会余話  川の向ひ側の山裾の芝原では、恰度山の神様の祭りの野宴がはじまるところでした。──月のはじめに、月毎に催される盛大な祝宴です。一ト月の間で流れをせきとめるほど川ふちに溜る製材の破片を広場の中央に塚ほどに積みあげて四方から火を放ちます。そして山ぢゆうの男達が車座になつて遠まきにこれを囲んで深更に至るまで、飲め、歌へ、踊れよ踊れ! といふ大乱痴気の限りを尽すのです。──空さへ晴れてゐれば冬の真夜中であつても夏とも変りなく開かれますが、これは、もう峠の頂きに立つて国境ひの山々などを見渡すと霞みが低く濛つと煙るやうに棚曳いてゐた春になつてからのことです。あたりの森林帯もすつかり春めいて彼方此方の炭焼小屋から立ち昇る煙りまでが見るからに長閑らしく梢の間を消えてゆきます。  午からの仕事が休みだつたので滝とNは、森を脱けて峠の野原まで花摘みに出掛けたのです。今夜は小屋の者は、男は悉く祝宴に列席するので、それにはNのコツクも加はることになつてゐたので滝は、たつた独りにならなければならないNのために小屋に止まつて二人だけの食卓を用意することにしたのです。宴会が半ば過ぎにならないと何処の女も其処へ出ることは許されないといふ風習があるやうでした。女達は夫々の小屋のうちでさゝやかな祭りを済せた後に、野の宴会の見物に出掛けるのです。だからNは、自分等の食卓を山の神様のために野花で飾らうと云つたのでした。 「斯んな風に打たなければならないんだが、容易いやうでこれで容易に呼吸が合ふやうに二つ続け打ちに鳴すのは六ヶ敷しいよ。」 「舞台裏でやるんだから関はないのでせうが、何うしてS──はそんなに神経質なんでせう、S──のその様子を見れば誰だつて笑はずには居られないでせうよ……危くないことが解つてゐるのに何故そんなに眼をつむつたりするの?」 「舞台裏? それを一つ探さなければなるまい、この打ち手は何うしても見物人には見せられない。」  滝はピストルを握つた手を頭の上で怖る〳〵空に向けたまゝ未だ臆病さうな顔つきを保つてゐました。そして今度は大丈夫だと叫んで、また二つドカン〳〵と空砲を放ちました。食料小屋に現れる鼬を威嚇するために事務所に備へてある怖ろしく旧式な大型のピストルです。事務所には空弾より他にはありませんでした。  Nは携へてゐた花を投げ出して、腹を抱へました。「その様子をカメラにとつて置きたい! タツ! まるで金槌で頭を叩かれる時のやうな姿をする!」 「予期が必ずしも……」滝は何か云ひ続けようとしたが、どんなに覚悟をしてゐても引金に指が掛からうとする段になると忽ち胸が塞る見たいになつて、思はず眼を瞑つてしまふ……これは他の何でもない、練習などに依つては何うすることも出来ない単なる素質なんだ──そんなことを思つて、神経質とか臆病とかいふ形容詞を自ら撤回しました。山に来てから休み日には屡々銃猟に誘はれるのでしたが彼は、さうした道具の扱ひに先天的に不適当な性質を知つてゐたから戯れにもそんな物には手を触れたこともなかつたのです。 「厭だ! 僕はこれから改めて山番に断らう。せめて舞台裏なんかといふものがあるんなら好いが、あんな野天の、架空の舞台で、まるで支那芝居の道具係り見たいに見物の目の前で音響係りをつとめるのは御免だ。」 「だつて、約束が済んでゐるのに!」  滝が今頃になつて、斯んな処で変に頑固な不平を滾した様子に何か不快を感じたらしくNがなぢりました。滝は一度引きうけたことには違ひなかつたが、今野原に来て試みに練習して見ると、その自分の姿を見てNがあまり激しく嗤ふので急に堪らない恥を感じ始めたのです。──今夜の祝宴の余興には山の年とつた「芸人連中」が忠臣蔵、山崎街道のカグラ芝居を演ずるといふのです。カグラ芝居とは何んなものか滝は知らなかつたが、ともかく、早野勘平が現れて銃を擬した刹那に、蔭の方で「二つ玉」を打つて呉れゝば好いのだから……生憎ピストルの扱ひ方を知つてゐる山番は猪に扮しなければならないことになつてゐるので、是非ともこの役を滝に引きうけて貰ひ度いといふ折入つての頼みだつたのです。滝は鼬を追つ払ふために空砲を打つたことはあるので、たゞ打つだけなら何でもあるまいと思つてうつかり引きうけてしまつたのですが、今まで、それを打つ自分の姿がそんな滑稽なものであるといふことは気がつかなかつたのです。山番が留守の時にたしか彼は二三度鼬を追つたことがあるのですが、この頃では鼬の方で空砲を承知して殆ど役にたゝなかつたから、滝はおろか山番でさへも何時にも、そんなものは手にしたこともなかつたのです。  滝は、いつの間にか沈んで、草原に寝転んだ儘遥かの連山が次第に夕映に色彩られて来るのを眺めました。あまり積極的には口数を利かないNは彼の傍で花束を造つて居りました。──Nは滝の父親の親友であるアメリカ人のアルバートさんの娘ですが、母親が古風な趣味を持つてゐるためか大変淑やかで、朗らかに内気で、そして適度の愛嬌を忘れません。滝は少年の時分から知り合つてゐたばかりでなくNの気質には殆ど滝の習慣を曲げることなしに親しめたし、誰からでも直ぐに圧迫を覚える滝であつたが蜻蛉のやうに楚々たる体格の小柄なNからは何んな自分のわざとらしさを感じたこともありません。彼女は前の年の夏に友達と一緒に山の見学に来たことがありますが、今度は見学や遊山ではなしに、滝が一週間毎に父親に宛てゝ帳簿の報告をする筈の通信が一向に捗らないのでタイピストとして働きに来て居たのです。Nが忠実に好く働くので、怠惰の滝もこの頃では終日「送りの広場」に出て山から引かれて来る胴切りの木材の直径を計る仕事などに励んでゐました。  発砲係りのことを考へると滝はもう凝つとして居られない位ゐな苛立ちを覚えました。他の見物は気づくまいが屹度Nはその時自分の姿に注意してゐるに相違ない、懸念すればする程逆に失策してしまふ自分である──そんな馬鹿々々しい想ひに走ると滝は、わけもなしにカーツと逆上せて、突然跳ねあがりました。そして、「運動! 運動!」などと叫びながら矢庭に向ひ側の草の丘へ駈け昇つたりしました。Nは微笑を浮べて滝の運動を眺めてゐます。 「もう少し遊んで行かうね、N──」滝は丘の頂きから声をかけました。酔つ払ひの真似でもして遊ばうかしら? 滝は不図そんなことを思ひました。 「N──打つて御覧な、それを僕の方に向けて……」  冗談やふざけることを云つたことのない滝がそんなことを云つて、大の字に突ツ立つたのでNは鳥渡たぢろぎましたが、直ぐに面白さうにピストルをとりあげて、眼ばたきもせずに滝を目がけて発砲しました。滝は山の子供達が橇遊びをする丘の斜面で危険のないことを知つてゐたから、実弾にあたつた態で、キヤツ! と叫んでごろ〳〵とNの脚の傍まで転げ落ちました。彼は不思議な面白さを感じました。彼は子供の時分に芝居ごつこが何よりも好きであつたことなどを思ひました。そして彼は、Nにそれに似た遊びをしようか? と云ひました。こんな悪ふざけをしたならば、この先自分が誤つて臆病な身振りをすることがあつても、さつきのやうにテレることがなくなるかも知れない──滝にはそんな狡い考へもあつたが、それは寧ろ片隅の言訳めいて、奇妙に、真面目な「悪ふざけ」がして見たいやうな狂暴を感じました。彼はわざと快活気に笑ひながら斯んなことを云ひました。「僕が悪漢でねレデイに対して戯れるのだ。さうするとレデイが非常に憤つて……そんなこと嘘だよ、Nはとても平気だね、もう一辺打つて御覧、僕に──此処を転げ落ちるのはとても面白いよ。」 「レデイをつかまへて御覧な。」滝の思ひに依らずNは赤い顔をして、そして自分も戯れ気にそんなことを云ひ放つて駈け出しました。滝はNを追ひ駈けました。丘の頂きでNは滝につかまへられました、滝がNの肩先に両手をかけると、危い〳〵! と云つてNは脚を滑らせました。そして滝の胸にしつかりとしがみつきました。二人はその儘なだらかな草原を滑り落ちました。……。 「どうしたの、N──? どうしたの?」  滝が、しつかりと顔を覆つてゐるNの両手を無理にとりのけて見るとNの頬は涙でぬれてゐました。──すると滝はにはかに怖ろしく悦しいものが胸一杯に息詰まつて来るやうな切なさを覚えたかと思ふとそれが忽ち止め度もない涙になつて流れさうになりました。  森にさしかゝると殆んどもう脚もとが見えない位ゐに暮色が迫つた頃になつて彼等はすつかり黙り勝ちになつて、自分達の小屋へ帰りました。──川向ひの篝火は既に火が点じられて相当の時がたつたらしく、凄じい火の粉が花火のやうに飛び散り、木々の頂きまでを明るく焦してゐます。集つた人達は火焔をとり囲んで、酒になる前に行ふ純樸な型に依る舞踏の勢ぞろひをつくつてゐます。  小屋に入ると滝はランプを点し、食卓の手伝ひをしました。Nは厨房に駈け込んで盛んに油の音をたてました。 「僕の飲物は、そこの隅にある樽の中のお酒にしよう。」 「……お酒が飲めるの?」 「飲めるとも〳〵、そのジヨツキに一杯位ゐなら苦もなく飲めるよ。」滝は、変な気詰りを解かうと思つて力をこめて云ひ放ちます。  Nが来ないうちは滝も屹度向うの祝宴に加つて、大盃に擬した抱へる程のドンブリ鉢に何か好ましくない木の香りのする見たいな熱湯の酒をなみ〳〵と盛つたのを順次に手渡して一口宛ガヴリと呑んでは、廻す酒盛りにもいくらか慣れてゐます。はじめのうちは酒嫌ひの彼は、これが三度か五度も廻つて来る初めの「祝詞」だけで大概参りましたが、幾月か続けてゐるうちに何うやら慣れて、各自に渡される盃代りの茶呑茶碗を手にする頃ほひ位ゐまでは堪へられるやうになつてゐました。稀には、最後の吉例(!)の大喧嘩で宴が果てるまで胡坐が保てゝ、余計な仲裁などに入つて気勢を挙げたりしたこともあります。 「驚いた、N?」  Nはたゞ微かな笑ひを浮べたゞけで、忙し気に料理の皿を運んでゐます。  食卓の用意が終るとそんな会話がきつかけになつて、彼等は忽ち能弁になりました。──いつものNは英語を用ゆる時は、英会話の不得意な相手を顧慮して繰り返すことも厭はずに、なるべくギゴチない正発音で教師のやうに話すのが例でしたが、この時は九分通りまでを彼女自身の自由調で述べるのです。滝もこの頃ではNの言葉なら、それでも大体判別することが出来るやうにはなつてゐましたが、彼女の口調が次第に感興的になつて来ると、表情で察するより他はなかつたのです。だが今は返つてそれが彼に或る安易を与へました。そして、恋情にまつはる鬱屈や含羞を或程度までさつぱりと拭ひ去ることが出来たのです。彼女の言葉が、今は此方から聞き直したりすることの出来ない類ひのものであるといふ想像を廻して滝は、甘い悦びに耽つたのです。  二人は草原の丘で、図らずも感じ合つた、全く遇然の「罪の思ひ」を各々の胸の片隅に空怖しく蔵ひ込んだまゝ、釈然として、花やかな食卓につきました。  そして、唖になる合間を此上もなく怖れて、次から次へ四方山の話題を求めながら喃々と語り合ふのです。滝が仰山な舌鼓を打つて、彼女の料理の腕前を最大級の讚め言葉を放つて賞美すると、彼女は真から悦しさうに顔をあからめて深味のこもつた上眼を輝かせました。  それでも、ふつと言葉が止絶れて川向ひの歓声だけが手にとるやうに響いて来るのを聴き入るやうな沈黙が来ると、滝の眼にはNの青い瞳が、はてしもなく遥かに、物哀しく沾んで映ります。……滝が、困つて眼を伏せると、その度毎にNは何うしても滝に聞きとれない「お祈り」めいたことを囁きながら、滝の眼の先に手の甲を差し出します。滝は、記帳の仕事も手伝ふ彼女の指にインクの痕がついてゐるのを見遁しませんでした。──これまでは決してそんなことはなかつたのですが今宵に限つて滝は、無性に切なく五体が震へて、何としてもその手に晴れやかな口づけをすることが出来ません。  滝は切りに盃を干しますが、返つて鼓動がたかまるばかりで、いつかは眼が眩みさうになる、貧血症の発作ではあるまいかと思はれるやうに寒さを覚ゆるのです。──窓のカーテンの隙から外を窺ふと、鬨の声と共に川向ひの篝火は益々火勢を挙げて、連中の顔が赤鬼のやうに浮んでゐます。一トわたりの酒盛りと踊りが済んで、めい〳〵が盃をとりあげた頃らしく、ドツといふ笑ひ声が起つたり手拍子の音が響いたりすると、あちらこちらの小屋からは参々伍々見物人が現れて来るのが見えます。釣橋の上を狐の行列のやうに提灯をさげた人連れが続いて来ます。 「……あゝ、僕は、気分は何んでもないんだが、大分お酒に酔つたらしい──」滝は、そんなことでも云ふより他はなくなつて、わざとらしくふら〳〵とよろめきました。 「此方が好い──これにおかけ!」Nは、自分の肘掛のついた椅子を彼にすゝめて、自分はその傍らにたゞずみました。 「S──少し踊らない? いつものお前の口笛で……」 「…………」 「あたしが、吾家に帰りたくなつたのか? と思つてお前は心配してゐるのぢやないの? 若しさうだつたら、それは無駄よ、安心してお呉れ、あたしは吾家のことは忘れてゐるのだから──」 「……踊れさうもない。」滝は力持ちのやうに両腕を胸に組み直してうなりました。 「……私の親愛な marionette! 踊りませう……」 「あの人形はこはれてしまつたらしい。」と滝は、仕方のない笑ひを浮べて、Nと同じ言葉で答へました。──いつも滝はNに手をとられて木像のやうに不器用により他踊れないので、自分から卑下してアヤツリ人形だと云つてゐたのです。 「さう──」とNは素直に点頭きました。 「向うのお祭りは何時頃終るの?」 「今夜のやうに暖かい晩だと、若しかすると明方まで続くかも知れない。」 「こゝは? 此処も明方まで続けようか知ら、あたしは大変幸福よ、二人だけで──」  滝はいち〳〵Nの言葉を、胸でこのやうに和風に翻訳して嬉しく胸を掻き毮るのです。 「そのうちにページエントの(幕)があくだらうが、それと一緒に僕は出掛けなければならないんだな。」これ程窮屈な場合であるが一刻でもこの場の雰囲気から遠ざかることが辛い! といふ思ひのたけをふくめて滝は哀れツぽく身悶えました。 「お酒をのんでゐるから、屹度お前は大胆になつてゐるに違ひなからう。眼を瞑つたり、唇を噛んだりすることなしに、立派に擬音係りが果せるだらうよ、あたしが一緒に行つて見守つてゐよう。」 「僕は、さつきから迎へが来るだらうと思つて、それで斯んなに心配さうな顔をしてゐるんだよ。」滝はNの素直な返答を憾めし気に、更にアクセントに重味をつけて、危げに、彼女の国の言葉で答へるのです。 「到底ピストルなんか手にすることは出来さうもない、第一斯んなに酔つてゐては俳優のシグサに注意出来るか何うか、心配だ! 声色に耳を借すことが出来ないだらう。──今は、もう僕は……眼を瞑らうと、何んなにその時唇を噛まうと──」と彼は、真に迫つて、言葉通りな表情をして、尚も唖になることを怖れて一生懸命に言葉を続けるのです。だが実際では勿論何もそんなことが心配だといふのではありません。──山小屋の中にNとたつた二人だけで、そして彼女の「許し」を認めてゐることに、ひたすら咽んでゐるばかりなのです。──もう少したつたら、言葉の上での煩しさを振り棄てゝワーワーと涙をこぼしながら可憐なNと、相抱くより他はなくなるだらう! と思ふと、何も彼もない。忽ちその身が激流のやうな煙りになつて、限りない青空に消えたり、さうかと思ふと爛漫たる花園に埋れて窒息したり、氷の上で踊つたり、矢庭に、翼のある駿馬に打ちのつて初夏の朝霧の中を疾走したりするのです。──そして滝の五体は単なる一個の呼吸器でした。 「唇を噛まうと、何んな眼ばたきをしようと、そして何んなにお前に嗤はれやうと……」  滝は、苦し気に息を切ります。「酔つた! ──嗤はれようと僕はそんなことを怖れてゐるんぢやないよ。」 「嗤ひはしないよ、決して、もうあたしは! それに、もうさつき、あれだけの練習したんだから、屹度お前は、さうだ、さつきのお前の言葉を借りるよ、屹度お前は、悪漢のやうに巧みに、引き金を引くに違ひないよ、──憤るんぢやないよ。あたしのS──。それなら、迎への来ないうちに出かける?」 「……僕にとつては皆な別なことなんだ、そんな不安は! おそらく僕は、舞台の狩人が鉄砲を身構へる動作などを見損つて、とんでもないところで引金を引いてしまひさうな、馬鹿な怖れを感じてゐるんだよ。」 「あたしに代れるかしら?」 「──それは僕もさつきから考へ続けてゐたんだが、小道具係りは何うしてもそのドラマの筋を知つてゐなければならないだらうからね。」 「お前の合図を待つたら好いだらう。」 「だから僕は今も云ふとほり、それを注意するだけの落着がなくなつてゐると云つてゐるんぢやないかね。」 「ぢや、そのストウリイを教へて。」 「僕に対するお前のそのやうな従順を僕は感謝して──」滝は和文英訳に首をひねりながら吃々と続けるのです。「そして、悲しみを持つて云ふのだが、ストウリイは辛うじて伝へることが出来るかも知れないが、セリフが吾々の国の古典なんだから何うしてもお前には解るまいよ。」 「古典の言葉つて、どんな風なの? 例へば自分の代名詞は──」Nも話の緒口を切るまいとして無暗に追求するのです。 「紳士は、ソレガシといふ、レデイは、ワラハとかワチキとか云ふが、それがまた階級に依つて様々に異るのだし……」 「それを覚えるには、あたしは完全に別の国を訪れなければならないね。」 「さうだとも〳〵、吾々だつてさうだよ。」  Nと滝は、全く他愛もないことを喋舌り続けるのです。そしてNは、改めてそのストウリイを話して呉れと云つて諾きません。  滝は、物語りが何よりも不得意ですが、仕方がなく、極く手短かに、勘平を中心にしたドラマの筋書を聞かせました。尤も面倒だつたから勘平のローマンスは省いて、お軽を彼の妹として事を運びました。 「大きな悲劇だつたのね、あたしは、あんなところで演るんだからコメデイだとばかり思つてゐたのに。」Nは、滝の物語りが終ると、眼蓋を伏せて呟きました。 「だけど、今日あそこで演る場面だけを何の予備知識もなしに見たら喜劇かしらと思つたかもしれないだらうよ。それに今日のは一種の仮面劇ださうでもあるし──だから、あんなに年を老つた炭焼の丑太郎が、美しい勘平にもなれるし、定九郎には橇司の伝七がなるさうだが、昨日だつたかしら、伝七が誰かにからかはれてゐたよ、(お前は仮面なんかつけなくつても定九郎に似てゐるよ)などと。──とても定九郎は悠暢な悪漢でね、傘などをさして現れるんだよ、尤もそこで象徴的な舞踏の手を使ふんだが、玉にあたつて悶絶するところなんかは素晴らしいもんだよ。」 「S──は、それを真似たの、さつきの丘の上で。」 「あれは写実さ──」 「セリフが解らなくても、面白く見られさうになつた、有難う。」 「……僕は、もつと飲まう、もつとお酒を。今、お前にこんな話をしてゐるうちに何となく気分が落着いたから、この分なら、あんな役位ゐ果せるだらう。」  滝は、もうこれ以上喋舌る元気がなくなりましたので、ジヨツキを振りながら酒樽のある台所へすゝまうとしました。 「……鳥渡、向うを見て御覧な、提灯をもつた一人の人が此方へ来るらしい、お前を迎へに来たんぢやないかしら?」  滝が窓硝子をすかして眺めると、釣橋の上を此方へ向つて走つて来るブラ提灯が見えました。 「さうかも知れない、だけど、もう少し見守つて見なければ解らないよ。」  滝が窓わくに頬杖をつくと、うしろから翼のやうにNが彼の背中一杯に凭りかゝりました。  森の半面が山火事のやうに赤く、明るく光つてゐます。広場に接した森の一部分を「舞台」にとるのらしく、影灯籠の人物のやうな人々が切りにその間で立ち働いてゐるのが、鬼ごつこでもしてゐるかのやうに見えます。そして、木笹のしげみには沢山なほゝづき提灯が烏瓜のやうに鈴なりにともつてゐます。篝火のまはりは、見物人のために二重に囲まれて異様などよめきを醸して居ります。 「あの橋は、ブランコのやうにゆれるので、提灯の足どりが危なげね。」 「いゝえ、あの人は酔つてゐるんだらうよ。」  橋のかたちは闇にかくれてゐるので、提灯が一つ宙を舞うてゐるやうに見えるのです。 「あんなに長い橋だつたかしら?」 「あゝ、もう渡り終つたらしいよ。此方へ来るのかな、あそこのところは凸凹の坂道だから手間がとれるぞ。──工場の裏へ切れゝば此方の迎へぢやないよ。」 「曲らない、やつぱりお前を迎へに来たんだよ──おツ、消えた!」 「馬小屋の蔭になつたんだ。」  滝は、どうもそれらしいと思はれて来ると、次第に、新しく胸のときめく悪びれを覚えるのです。彼は、空気枕のやうに、呆然とNの重味に堪へながら、凝つと息を殺してゐます。 「あゝ、また見えたよ。」  云ひ忘れたが彼等の小屋は、作業場の全体を見降して、樅の苗木が密生してゐる丘の中腹ですから、馬小屋のあたりからでは凡そ一町近くもヂグザグにのぼらなければなりません。前の年の春頃Nの父である山林技師のアルバートさんが設計して建てた小屋です。 「さうだ、いよ〳〵あれは僕の迎へだ──ジグザグの径にかゝつたよ。」  そして提灯がとぼ〳〵と、こちらの小屋を目ざしてのぼつて来るのを認めた時に滝は、思はず奇妙な溜息をつきました。  Nは、その時不図何か思ひついたらしく窓辺を離れたかと思ふと、柱の釘にぶらさげてある例のピストルを持つて来たのです。そして、滝に、軽い目配せをして、窓からその手を真つ直ぐに差し伸すと、いかにも景気好く三四発続けて発砲しました。 「…………」  すると、あの堤灯は此方の気の利いた合図を悟つて、高くさゝげられて、ゆるやかに左右に振られました。そして、再び元の径をとつて返したのです。 「S──行かう。」とNが滝の手を執つて叫びました。  滝が、ふら〳〵と窓を離れると一緒に、突然Nが滝の胸に飛びつきました。 「…………」 「…………」  滝は、目が眩んで、しつかりとNを抱いたまゝ長椅子の中に倒れました。Nが鋭く透る感投詞(?)を、夢中になつて連呼しますが、勿論滝には意味など解らう筈がありません。──滝の歯は硝子戸を叩くやうに鳴ります。滝は、自分の胸の中に不思議なシヤツクリが起つてゐる見たいな咽びを感じて辛うじて耳を澄すと、それはNの喉の騒ぎでもあります。──何か泣き言めいてNが叫ぶ、合間々々に今にも息を引きとるかと思はれる程烈しい、シヤツクリともつかない、それに似た突飛な痙攣なのです。  森の方では、ワーツワーツといふ素晴らしい歓声が起りました。その声を耳にして彼等は起きあがりましたが、滝はそれと一緒に、 「僕は歩けさうもない。」  さう云つて自分の髪の毛をつかむと盲ひになつてよろめきました。「手を執つておくれな、N──」  Nは、床に膝をついて椅子の中に俯伏せになつたまゝ、駄目! 駄目! 駄目! 自分も──と答へる代りに、烈しく首をふつてゐるだけです。  毎日を彼等は、手をとり合つて、鳥になつたかのやうに嬉しく送りました。……。 「あの時にNが叫んだ言葉を、僕は毎日考へてゐるのだが、未だに一言さへも解らない。教へて呉れない!」  岩に腰を降して、魚釣などをしながら滝は平気で、そんなことを晴れやかに訊ねることが出来ました。  ──その頃、と云つてもその後の二年あまりの間は、彼等は、現在の如く別々の家庭を別々の国に営まうとは夢にも思はなかつたのです。彼等の夫々の父親も──。 底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房    2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行 底本の親本:「日本小説集 第五集」新潮社    1929(昭和4)年5月12日発行 初出:「文藝春秋 第六巻第二号」文藝春秋社    1928(昭和3)年2月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:宮元淳一 校正:門田裕志 2010年7月18日作成 2011年5月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。