街角 牧野信一 Guide 扉 本文 目 次 街角 一 二 三 一  郊外に間借りをしてゐた森野が或る夕方ステツキをグル〳〵回しながら散歩してゐると、停車場のちかくで、ひとりの美しい婦人に呼びかけられた。 「……誰方でしたかしら?」  森野はそんな婦人に心あたりもなかつたので、思はずさう訊き返さうとした時、 「あゝ、服部さんの奥さんでしたね。」  と気づいた。 「まあ、もうお忘れになつたの?」 「……いゝえ、あの……」  まさか、急に身装や化粧が変つたので度忘れをしたともいへなかつたので、森野はあかくなつて眼を伏せた。どうしたつて、つい二三ヶ月前の服部君の細君と、これが同じ人とは森野は考へられもしなかつた。女といふものは化粧ひや身装で別人のやうになるものだとはきいたこともあるが、こんなにも変り栄えのするものか! と森野は沁々感心させられてしまつた。二ヶ月ばかり前まで森野は服部君の二階を借りてゐたのであつたが、毎晩々々の彼らの激しい夫婦喧嘩に辟易して移転したのである。今でも森野の耳には、あの猛々しい夫婦喧嘩の有様や叫び声が耳についてゐる位ゐなのである。 「妾はね、お前なんかの女房には勿体ないんだぞ、妾のことを世話をしようとした立派な人は幾人でもあつたんだぞ、生意気いふない、貧乏画描き!」  彼女はやゝともすると、こんなことを叫んで手あたり次第にあたりの物品を投げ散らかせた。──彼女が、こんな叫び声をあげると服部君は有無なく沈黙してしまつた。いつも彼女は、髪は蓬々としてゐて、顔色は蒼黄色く、そして顔だちだつて頤が尖つて、眼も鼻も寧ろ小憎らしい程殺風景で見るからに貧相だつた。こんな貧弱な婦人に、どうしてそんなに立派な人達とかゞ甘言を寄せたものか? と、しば〳〵森野は不思議に感じたが、亭主の服部君がまた彼女の言をそのまゝ信じてゐるらしく、 「うちの女房は、去年まで銀座の或る有名なカフェの女給でしてね──」  などゝやゝともすると森野に向つて、さも〳〵得意さうにやにさがつてゐた。そして彼女が、そのころどんなに花やかな人気者であつたかといふことを、あれこれと仔細な引例を挙げて吹聴するのが服部君の癖だつたが、森野はその言を信じないわけでもないのだが、あの貧弱な婦人が「どうして、そんなに──?」と首を傾げずには居られなかつた。森野はカフェなどゝいふところへは足ぶみしたこともなく、どんな有名なところの名前さへも碌々知らなかつたが、服部君もその名前ははつきりとはいひもしないのであるが、聞けば聞くほどその人気なるものが不可解でならなかつたのである。  ところが今、こゝで偶然に出遇つた彼女を見ると、森野は全く関心してしまつて、なるほどこれならば──と、服部君のあれらの逞しい自慢や彼女の高言が肯かれるのであつた。細いのか丸いのか判別も出来難かつた彼女の眼には巧な隈どりがほどこされて涼し気に光り、尖つたやうな頤のかたちが反つて凜としたおもむきを添へてゐた。髪には丹念なウエーヴがついて、頬は桃色に化粧されハイヒイルの靴が青磁色のドレスをまとふた瀟洒な体つきを気高く引きしめてゐた。 「御散歩なんですか?」 「えゝ、まあ……」 「うちでもね、やつと仕度が出来て漸く先月から店をはじめましたのよ。」 「さうですか、それは結構でしたな。服部君も元気が出たでせう。」  喫茶店をはじめたいといふことを森野は、あのころしば〳〵服部君達から聞かされてゐた。 「でも、相変らず服部は憂鬱さうで面白くないんですが、妾の方は気分が紛れるせゐかあのころよりは元気ですわ。」  ぶら〳〵と歩きはじめると時々彼女の肩が触れるので森野は、なんとなくはにかみながら、その辺で別れたいと思ふのであつたが、追々と彼女は服部君への愚痴などをこぼしはじめて、言葉の絶れ目さへなかつた。 「妾と彼の人とは、徹底的に──」  と彼女はいつた。「性格が合はないんですわね。どうせ私達のは結婚といつたところで、好い加減のものなんですからね……」  森野は、何やらゾツとしたものを感じて、それから彼女が停車場裏の露路にある店に是非寄つてくれと頻りに促すのであつたが、友達と会ふ約束があるからと言を構へて引き返してしまつた。 「ぢや、明日は是非ね、いらして下さらないと迎へに行きますわよ。」  恰度折好く彼女の知り合ひらしいひとりの大学生が通り合せて、では店の前まで来て呉れと彼女からすゝめられた森野は、その曲り角までつき合つた。 「あそこよ──」  彼女は指さす写真屋の隣を見ると、「バア・ホガラカ」といふ文字が見えた。 「あの名前何う? 喫茶ではなくやはりバアにしたんですけど。」 「結構ぢやありませんか。」  森野は、滑稽だな! と歯を浮かせたが、服部君の苦心が察せられないこともなかつた。僕は自分が、こんなに陰気な性質であるせゐか、爽かなことばかりに憬れてゐるんだが、決して満足したゝめしがないんだよ──服部君は好く重い口調で、そんなことを呟いて顔を顰めるのが癖だつたが、と森野はおもつた。 二  愛嬌に過ぎないのだらう──と森野は安心してゐたところが、翌日の夕方服部君の細君は昨日よりも艶やかな様子で訪ねて来て、 「昨日途中で、学生のやうな人に遇ひましたわね、あの人、堀田さんといふうちの常連なんですがね、あれから飛んでもないことをいひ出して、妾、困つてしまつたわ。」  と訴へるのであつた。 「飛んでもないことつて何ですか。貴方に夫のあることも知らないで、誘惑でもしようとするんですか?」  森野は、ちよつと見たその男が一見して泥臭いにやけ男であつたことを想像した。 「誘惑は、もう、はじめから、とても盛んなんですよ。妾は、あいつ大嫌ひなんだけど。」 「僕も嫌ひだ!」  森野は思はずそんな余計なことを唸つた。「何だ、あの猫撫で声は──。学生の癖に安つぽい香水などをプン〳〵とつけやがつて、何てえ気障な野郎だらう。」  昨日その男が、彼女を間にして森野の方を妙な眼でジロ〳〵眺めながら、 「あの、そちらの方は御親戚の方でゞもあるんですか?」とか「随分仲が好さゝうに見えましたよ、さつきから後ろをついて来たんですが!」などゝ、にや〳〵しながら彼女に話しかけるのを、森野は向ツ肚で聞いたのであつた。 「貴方のことを、妾の恋人だらう──つて、さかんに野次るんですわ。」 「えツ!」  森野は、思はず眼を円くして唇を噛んだ。「何だつて、失敬な奴だな。」 「それはもう、しつツこく……」  短気な森野は、一時に全身の血潮がカツと逆上して声さへも出なかつた。──然し服部君の細君は殊の他落ついてゐて、 「隣の写真屋のウヰンドウに、あの男の写真が出てゐたでせう。」  などゝ嗤つた。「とても、あいつは、あれが得意なのよ。」  さういへば、昨日別れぎはに写真屋の前に立つと、 「この写真、何時になつたら堀田さんは妾に下さるの?」  などゝ彼女と堀田がさゝやき合つてゐたのを森野も聞いた。 「こんなのを、こんなところに出されて困つたな、僕は恥しいですよ。」  堀田は困つたらしくも、恥しいらしくもなく寧ろ恍惚としたやうな眼つきで凝つと写真窓に顔をおしつけてゐたりした。芸術写真とでもいふのであらうか、本の上に肘を突いた大学生が上目をつかつてゐるセピヤ色のプロフイルが額に収つてゐた。輪郭が薄ぼやけてゐるので、それが、そこで眺めてゐる男の肖像とも森野は気がつかなかつた。 「エミさん!」  と堀田は服部の細君を称んでゐた。「僕の友達がね、僕のことをジヨーヂ・ラフトに似てゐるつていふんですけど、ほんたうかしら?」 「……えゝ似てゐるわ、そつくりですわ、だから妾にも頂戴つていふのに──」 「てれちやふなハツハツハ……」  ──「あんなことをいつたけれど妾、そんな役者なんて未だ一度も見たことなんてないのよ、あゝいはないと、あの男すぐに機嫌が悪くなるんですもの。」 「僕は二度ばかり見たことがあるけれど、さつぱり似てなんかゐやしませんよ。」  そんなことよりも森野は、あんな飛んでもないことをいつた堀田とかといふ男が癪にさはつて、とても凝つとしてはゐられなかつた。彼女がまた、こんな馬鹿なことをいはれて、案外落つき払つてゐるのさへ森野は汚らはしく感ぜられた。 「あの男今日も来るでせうか?」 「勿論来ますわ。」 「よしツ!」  森野は勢ひよく立ちあがつた。 「僕は彼奴に会つて、説明してやらなければならないぞ!」 「まあ、森野さん、憤つたの?」 「当り前ですよ……」 「でも、あんな人には関はらない方が好いですわ、胸のうちに嘲つてゐればそれで好いぢやありませんか。」 「いゝえ、僕にはそんな洒落た真似は出来ません。」 「……でも、あの人、うちの大事なお客なんですもの……」  森野は腕力にでも訴へるより他に疳癪の持つて行き場はなかつたのであるが、さう聞くとハツと行き詰つて、思はず眼を白黒させた。 「服部君に会ひます、服部君に一応断つておかなければなりません。」 「大丈夫ですか、森野さん?」 「堀田といふ人とは、口は利きません。服部君にだけ会つて……」 「そんなら安心ですけど……」  彼女と伴れ立つて外へ出た森野の胸は、しかし憤慨の嵐で逆巻いてゐた。  あしどりも荒々しく先へ立つて行く森野のうしろから彼女が、何かおど〳〵したやうな調子で、 「あのね、森野さん、店ではね、服部のことが妾の弟といふ風になつてゐるんですから、そのつもりでね……」  とさゝやいた。学生と擬した弟のために姉が働き、弟はその余暇にバア・テンダーをつとめてゐることになつてゐるさうだつた。 三 「うちの姉がね、今度かういふ商売を始めたんだがね、これからは君も大いに後援してやつて呉れよ。」 (ね、森野さん学校の友達といふことにして置いて下さいな。)服部君は小声で森野の耳に囁いた後に、大きく言葉を改めて吹聴するのであつた。森野は、細君から聞いたまゝを在のまゝに服部に話して、 「堀田つて奴は実に怪しからん。」  と唇を尖らしたが服部君は、 「あんな奴のいふことなんて──」  と苦笑したゞけだつた。そして、今日は僕に御馳走させてくれといひながら、隅の卓子で頻りと森野にウヰスキイをすゝめるのだつた。 「こんな商売を始めてからは、一層僕は厭世的になつてしまつて毎晩かうしてゐながら自暴酒を飲んでゐるのさ。」  若い会社員らしい客が反対側にひとりだつたが、不図森野が振り向くといつの間にか窓下のボツクスに堀田ラフトが現はれて、ひそ〳〵と「エミさん」に戯れてゐた。服部君は時々深刻な眼付で其方を睨めたが、森野も同様にきつとなつて脊骨を伸した。 「徳ちやん……」  ラフトに愛嬌を売つてゐるエミさんが服部君に呼びかけた。「こちら、ハイボールですつて。」  徳ちやんと称ばれた服部君は、悲しさうな顔につくり笑ひを浮べながら立ち上ると、 「ウヰスキイは何にいたしませうか?」  と白々しくとり済ました。 「レヤオードあるかい、俺の──」  黄色い声でラフトが注文するのであつた。 「どうもお生憎さま、この通り……どうもこいつは急には仕入れがつきませんでね。」  徳ちやんが棚の空壜を示すと、堀田ラフトは寧ろ満悦気な含み声で、 「仕様がないね、俺ひとりのためだつてそれ位ゐはきらさないで欲しいぜ。ぢや、オードパーで我慢して置かうか。」  などゝ不平を洩らした。  堀田が手洗場へ立つて行くと、服部君は、 「何いつてやがんだい、あんちくしやう!」  と呟いた。「聞いた風なことばかりぬかしやがつて。」……「しかしね、森野さん、僕には何うしても斯んな風な立場が辛抱しきれさうもないんですよ。選りにも選つてあんな野郎と女房がでれ〳〵するところを眺めるなんて、見てゐられるもんですか。それにね、女房の奴は何うも口でいふほど彼奴が嫌ひではないらしいんですよ。」 「相変らず夫婦喧嘩をするの?」 「とても〳〵! 僕のも、それは馬鹿な嫉妬には違ひないんだけど、せめて僕は相手が堀田でさへなかつたら、もう少しはホガラカに──」いひかけて徳ちやんは、思はずハツとして「いや、飛んだ名前を付けてしまつたものだ、憂鬱で憂鬱で僕は気がくさつて適はん。ほんたうに好く来て呉れましたね、森野さん……」  酒が回つたせゐか徳ちやんは感情的になつて、森野の手を握つたりした。 「僕は彼奴をブン殴つてやらうかと思つてやつて来たのさ……」 「あの男はね、レヤオードとオードパーと、それさへいへば気取つたつもりでゐるんだからやり切れやしない。実際は何も解りはしないのさ。」  徳ちやんはそこに持つて来てあるブラツク・ホワイトの壜を改めて指差しながら、 「今のオードパーだつて実は、こいつに水さへも割つてあの壜に入れておいたまでなんですよ、うちにはこれより他には何もありはしないのさ。せめてこれが意趣晴しさ。でも、こつちは生一本だから安心して飲んで下さいよ、森野さん。」  小声でいつてゐた時に、手洗場から戻つて来る堀田の気配ひがすると徳ちやんは、急に翻つて、にはかづくりの哄笑といつしよに、 「どうしたんだい、森野、遠慮せずに何時ものやうにはしやぎ出さないか。」  などゝ肩を叩いたりした。堀田は二人の傍を素通りして、ヂロリと卓上の壜を眺めながら、 「僕にもその酒が飲めると好いんだがね。──徳ちやん、僕の酒、代りを呉れ給へ。はしやがうとしてもはしやげないものがあるつてところは誰しも反つて味のあるところさ。」  など、独白した、森野は、野郎、俺にいんねんでもつけてるのか! と睨み返してゐた。 「どうも相済みませんね。」  徳ちやんは神妙な手つきで酒を注いでゐた。 「レアとパアの差は大体紙一重といふところだから我慢は出来るけど、その紙一重に断然たる明暗の感覚といふものがあるんでね。」 「ウヰスキイの吟味もそこまでゆくと個性的なものなんでせうね。」  皮肉などいへる質ではない徳ちやんの言葉が何も彼も堀田に対しては皮肉と化してゐるのが森野から眺めると、徳ちやんの上に物憂い同情の念が湧くのみだつた。見るからに田舎出のまゝらしい生意気な堀田の姿が惨めにも態もなく映つて──だがそんなこと位ゐで森野の溜飲はさがりさうもなかつた。  堀田は徳ちやんの姉さんに凭りかゝつて、 「君も少し飲んで見給へよ、僕の酒は兎も角此処では僕の独り占めの優秀品ぢやないか。」  などゝ口説いてゐた。 「写真下されば飲むわよ。」 「……だからさ、あの写真は僕の気分に合はないものなんだから、新しく写して……それこそ、それはほんたうにエミさんのために写して進呈するといつてゐるぢやないか。」 「まあ、うまい言を! 好いわよ、ぢやいらないわよ。」 「でも僕は、あれをエミさんの机の上になんて飾られるかと思ふとテレちやふんだもの。」  森野は堪らなくなつて、思はずエヘンと咳払ひを挙げてグラスを一気に干した。──と、堀田は森野が嫉妬でもしたのかと思ひ違へて、厭なにやり笑ひの眼で森野を眺めた視線を同時にエミさんの上に移して、フフフ! などゝ意味深く得意気に嗤つたりした。  それから堀田は、シヨパンが何うの、メンデルスゾーンの憂鬱な旋律が何うのとかと酒から音楽へ移つて他人も無げな通を振りまきながら次第に濃厚に女に戯れはじめるのであつたが、何うしたわけかやゝともすれば手洗場へ立つて行くのであつた。その度に彼は、如何にも体裁が悪る気に、それとなく席を立つと酒棚などを験べる風にキヨロ〳〵したりしながら妙な白を切つて、やがて逸早く颯ツと便所へ飛び込むのであつた。そんな有様を注意してゐたのは、喧嘩でも売られるのかも知れぬと用心してゐた森野だけだつたかも知れなかつたが、一向堀田は挑んで来る様子もなく頻繁と森野の傍らを香水の風を煽りながら往復するばかりだつた。やがて彼のそれはまた〳〵激烈となつて、もう途中で酒の見物をしたりダンスの足どりをしたりする余裕もなく、矢庭に飛びあがつて、殆ど一足飛びで駆け込むに至つた。で、さすがのエミさんも不安を起して、 「御気分でも悪いの、堀田さん。吐きたいのなら我慢などなさらずに──」  と憂へると、彼はさつき酒などを飲んで気分などを悪くした験しもないと自慢してゐたばかりだつたせゐか、自尊心でも傷つけられた如く鷹揚にかぶりを振ると、絹の手布で鼻先を払ひながら、 「そんな汚いこと──」  と顔を顰めた。然し間もなく彼の顔色は糸瓜のやうに蒼ざめたかとおもふと、もう見得もなく切腹する役者のやうに吾と吾が腹を抱へて、ウーム! と唸りながら悶絶してしまつた。 「大変よ〳〵、徳ちやん、早くお医者さんへ行つて来てお呉れよ。」  エミさんは、苦悶のために全身を芋虫のやうに伸縮させてゐる堀田ラフトを掻き抱いたまゝ頓狂な悲鳴を挙げた。それと同時に、 「アツ、しまつた!」  と服部君は叫んだ。そして、さあ大変だ! と、あんなに憎んでゐた堀田を忘れでもしたかのやうに慌てゝ一散に戸外に走り出すので森野も、その後を追つた。  外へ出て見ると森野も服部君も意外に酔つてゐて、いつの間にか互ひの腕を肩に載せ合つたまゝ可笑しい程ふら〳〵してゐた。 「しかし森野さん、あの堀田といふ男を何う思ひますか?」 「見れば見る程厭な野郎だ、腹など痛くなりやがつて好い気味だよ。」 「ほんたうにさう思ひますか、僕は嬉しいぞ、味方が出来た。彼奴はね、僕が女房の偽の弟だいふことを好く知つてゐるんだ、それをわざと知らん振りをして……」  いひかけて彼は喉を詰らせた。「エミに甘い手紙を寄越したり、酒蛙々々と僕の前で口説いたりして、偽姉弟の苦しむ顔を享楽するさうなんですよ。」 「殴らずにはゐられない……」 「エミにいはせると商売の弱味で是非もないといふんだが──」 「馬鹿なツ!」 「だから僕はエミも怪しいと思ふんです。」 「……まさか、それは──」 「今のもあれは偽病かも知れませんよ、エミに介抱されたいばかりに、あれ位ゐの真似はしかねない男なんだから……」 「そつと引き返して様子をたしかめてやらうかしら?」  森野は昂奮のあまり仁王立となつた。服部君は髪の毛を掴んで森野の胸に顔を圧しつけながら、 「あゝ、何といふ拷問だらう、かうしてゐる間も彼奴がエミの膝に抱かれてゐるかと思ふと腸が断れさうだ。然し僕は、今彼奴が倒れた時、不意にハツと気づいたんだが、あのオードパーの空瓶でこの間酢を買つたのが底の方に一寸ばかり残つてゐたのを知らずに、ほんたうに気づかずに、その上に別の酒を注ぎ込んでしまつたのです。ハイボールだつたので先生にも解らなかつたのだらうが……」  といひかけて自責に苦しみ出した。 「やはり医者へ走らう。」  森野は、服部君の腕を、ぐいと引きあげて大股で歩き出した。 「エミは飲みませんでしたか?」 「写真のいきさつで、飲まなかつたやうだ。」 「……何うかしてゐやがら、でも飲まなかつたのは幸ひだつた。」  服部君は語尾をふるはせて、物音い泣笑ひをつくつたが、やがて後をも見ずに前のめりに駆け出して行つた。  森野は「ホガラカ」の窓が見える横町の角で服部君の戻りを待ちながら、不図自分だつてもしも楽屋の素顔を知らずに「エミさん」を見たら、介抱位ゐはされたい心地を起すかも知れないなどゝ思つた。同時に服部君もエミさんも堀田ラフトも、そして自分も、何となく「紙一重」の差異もなく平等に、酷く気の毒な人物である──などゝいふ風に順々と想ひ浮かべて、白々と酔つてゐる頭を微風のある夜気の中に風船のやうに漂はせてゐた。 底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房    2002(平成14)年7月20日初版第1刷 底本の親本:「週刊朝日 第二十五巻第十二号」朝日新聞社    1934(昭和9)年3月11日発行 初出:「週刊朝日 第二十五巻第十二号」朝日新聞社    1934(昭和9)年3月11日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:宮元淳一 校正:門田裕志 2010年10月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。