三作家に就ての感想 南部修太郎 Guide 扉 本文 目 次 三作家に就ての感想      一、有島武郎氏  私は有島武郎さんの作品を讀んで、作品のうちに滲んでゐる作者の心の世界といふものゝ大きさや、強さといふものを深く感じます。そして、線の非常に太い、高らかなリズムをもつてゐるやうな表現力が鋭く心に迫つて來るやうな氣がします。そして、如何にも作者が熱情的で、直情徑行的な人であるやうな氣持がしますけれども、最う一歩進めて、作品の底を味つてゐると、寧ろ作者の理智といふものがその裡に一層強く働いて居るやうな氣がします。即ち或作品では、例へば、「石にひしがれたる雜草」と云つたやうな作品では、主人公の心持の限界を越えて、作者の理智がお芝居をし過ぎて居る爲めに、その心持がどうしても頷けなくなつて來る。で、また作者が愛を熱心に宣傳して居るやうな場合にでも、寧ろその理智を以て故らにそれを力説しようとする爲めに、どうかするとその愛は、作者の心から滲み出たものではなくて、宣傳の爲めに宣傳してゐると云つたやうな感じがする事があります。しかし、又一方から見ると作者の愛が實際にその衷心から滲み出てゐる例へば「小さき者へ」の中に於ける、子供に對する主人公の愛といつたやうな場合には、そこに釀されてゐる實感の強さから、可成り感動して作品を讀む事が出來ます。で、一體私は有島氏のその作品竝に作者の心の世界に對して共鳴も有ち、その眞摯な作風に對して頭を下げてゐる者ですが、時に人が、有島氏は僞善者ではないか、非常にその創作的態度に於て、進撃的で、意志の強さうなところがあり乍ら、どつか臆病なところがあるではないかといつたやうな言葉を聞かされた事があります。これは無論作者に對する一種の僻見かも知れませんが、事實に於ては、私も氏の作品に強く心を惹かれ乍らも、どこかにまだ心持にぴつたり來ない點がないではありません。その隙間は氏が熱情的な理想家のやうに見え乍ら、その底に於ては理智が働き過ぎるといふ結果から、周圍に對してどうしても左顧右眄せずには居られないといふところがあるかも知れません。從つてその思想や人生觀の凡てを愛を以て裏づけて行かうとする氏の作家としての今後は、どんな轉換を見せて行くかも知れませんが、その理智の人としての弱點から釀されて來る何物かは、可成り氏の行手にいろ〳〵な曲折を出すだらうと思はれます。      二、里見弴氏  里見弴さんの作品を讀んで、一番感心するのは、その心理解剖の手腕です。批評家がそれを巧すぎると云つた爲めに、氏は巧すぎるといふ事が何故いけないのだと云つたやうな駁論を書いて居られましたが、確かに巧すぎるといふ事丈けは否定出來ないと思ひます。何故ならば、氏の心理解剖は何處までも心理解剖で、人間の心持を丁度鋭い銀の解剖刀で切開いて行くやうに、緻密に描いて行かれます。そして、讀んでゐると、その冴えた力に驚き、亦引摺られても行きますが、さて頁を伏せて見て、ひよいと今作者に依つて描かれた人物の心理を考へて見ると、人物の心理の線や筋丈けは極めて鮮かに、巧みに表現されて居ますが、それを包む肝腎の人間の心持の色合や、味ひが缺けて居ます。必然にどうしてもその心理の動き方が、讀む者の心持にしつくり篏つて來ないといふ氣がします。これを言ひ換へれば、氏の心理描寫は心理解剖であつて、心理描寫ではないのでありますまいか。兎に角今の多數の作家の中で、頭の鋭さといふ點では、恐らく里見弴氏は第一人者といふべきでせう。そして、その文章も如何にもすつきりと垢脱けがして居て、讀んで居ては、實に氣持の好いものですが、特に氏の長所である心理描寫といふ點に就て云へば、そこに最う少し人間的なものが欲しいと思ひます。言ひ換へれば、氏は餘り巧すぎて、人間の本當の心理の境を越えて飛躍しすぎるのでせう。      三、志賀直哉氏  作者の素質の尊さといふものを最もよく感じるのは、志賀直哉氏です。一體私は「留女」以來氏の作品を、今のどの作家の作品よりも好きなのですが、中でも「夜の光」の中に收められてゐる「正義派」「出來事」「范の犯罪」「清兵衞と瓢箪」特に「和解」には最も感嘆させられました。恐らく洗煉琢磨され、その表現の一々がテエマに對して少しの無駄も、少しの弛みもなく、簡潔緊張を極めてゐる點に於て、志賀氏の作品程なのはありません。この頃の冗漫弛緩の筆を徒らに伸ばしたやうな、所謂勞作を見れば見る程、その一字一句も苟しない氏の創作的態度に頭が下らずには居られません。氏の人生を見る眼は直ちにその底に横はつてゐる眞髓を捉へてしまひます。そして、それを最も充實した意味の短かさを以て表現します。そして茲にこそ氏の作家として天稟の素質の尊さがあるのでせう。恐らくこの點に就ては各人に異論のない事と思ひます。ところが「和解」丈けは、氏としては珍らしい程の長篇であり、亦、構圖や表現の點に多少の難がある爲めに、それに就ていろ〳〵の議論を聞きました。私はよく友人の井汲や小島と、それ〴〵の作家に就て度毎に議論をし合ひますが、三人の意見が、例へば前に擧げた四つの作では完全に一致して居ながら「和解」に於ては全く違つてゐて、今でもまだ議論をし合ひます。私が「和解」を非常に傑れた作品だと主張するに反して、井汲や小島は「和解」を餘り感心してゐないのです。即ち二人は、この作の表現形式や構圖の不統一な事を擧げて、作のテエマの效果が薄いと云ひ、私は作の構圖や形式に對する缺點を蔽ふ丈けに、作の内容が深い爲めに、この作の有つ尊さを主張して止まなかつたのです。こゝらにも各人が作の價値を批判する心持の相違があると見えますが、「和解」に描かれてゐる作のテエマ、即ち父と子の痛ましい心の爭鬪に對して働いてゐる作者の實感、主人公の心の苦悶に對する作者の感情輸入の深さは、張り切つた弦のやうに緊張した表現と相俟つて、作の缺點を感じる前に、それに對して感嘆してしまひます。その父と子の心と心とが歔欷の中にぴつたり抱き合ふ瞬間の作者の筆には、恐ろしい程眞實な愛の發露を鋭く描き出してゐるではありませんか。かうなつて來ると、一體私は内容の方に心を惹かれるものですが、とても形式方面の缺點や非難を顧みる暇はありません。その描かれてゐる事に對して、作の大きな尊さを感じて了ふのです。無論作品といふものに、表現形式の完全といふ事は必要な事ですが、表現の如何を問はず、作者がかういふ意味に眞實を捉へて、それを適確に現はし得てゐるとすれば、そこに最う深い作の意味があるのではありますまいか。私は又氏の「流行感冒と石」といふ作品を讀んで、氏が日常生活の出來事から、如何に深く人生の眞實を捉へ得てゐるかといふ事を、しみ〴〵感じずには居られませんでした。 底本:「文章倶樂部」新潮社    1920(大正9)年3月1日発行 入力:小林 徹 校正:鈴木厚司 2007年11月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。