パナマ運河を開いた話 鈴木三重吉 Guide 扉 本文 目 次 パナマ運河を開いた話     一  パナマの運河といへば、だれにもおわかりのとほり、南北アメリカのまん中の、一とうせまい、約五十マイルの地峡をきりひらいて、どんな大きな軍艦でもとほれるやうにこしらへたほりわりです。これは今から十五年まへに出来上つたのですが、最初アメリカ合衆国政府が、パナマ共和国に同意させて、あのほりわりをひらく計画をたてたのは五十年もまへのことで、かねてスヱズの運河を作り上げた、ドゥ・ルッセといふフランス人の技師をやとつて着手させたのでした。  ルッセははじめ千名の工夫をつかつて工事にかゝりましたが、もと〳〵この地方一たいは、マラリアだの黄色熱だのといふおそろしい熱病のはやるところで、その千人の工夫も、黄色熱にかゝつて一年足らずの間に全部死んでしまひ、つぎに補充した千名も一年たゝないうちにまたすつかり死んでしまひました。百人のうち六十九人が一どにわづらつて、ころりと死ぬことがあるのですからたまりません。ルッセはとう〳〵五万人近くの工夫を殺し、五億円以上の経費を使つたあげくに、手も足も出なくなつてなげ出してしまひました。  これらの病気は、すべて熱帯地方には、ひろくはやつてゐたもので、そのもとは、あとでお話しするやうに、蚊が病菌を人間へうつしつたへるからなのですが、五十年前にはこのことがまだ発見されなかつたので、多くの人々が方々でむだ死をしたのです。  そのころ西インド諸島のスペイン領では、駐屯軍の間に黄色熱がひろがつて、二三か月の間に百分中の六十八九人が死んだゝめ、司令官が狂人になつたといふ例もあり、ブラジルでは、同じ病気で一年に三万五千人がたふれ、その多くが船乗りだつたため、港にかゝつてゐるいくつもの汽船の動かし手がなくなつて、その船がみんな立ちぐされになつたといふ実例もあります。千九百四年にはインドだけでもマラリアで百万人もの死人を出しました。  中でもパナマ地方は、雨の多いところなので、沼や流れが多い上に、大木の森林がひろがりつゞいてをり、草なぞも、おそろしくのびしげるのでもつて、いたるところにくさり水がたまるので、蚊のゐることゝ言つたら、たいへんなものでした。そんなわけですから、運河の大西洋口の起点の近くにあるコロンといふ町について言つても、そのころ人口一万ぐらゐだつたその町に、墓の数が十五万もあつたのですからおどろきます。或ときパナマに駐在してゐるフランスの領事が、ルッセの部下の機械技師に服を買つてとゞけてやり、あすそれを着て午餐会に出てお出でとつたへたところ、技師はその日の中に黄色熱にかゝり、朝の三時にはもう死んでゐたといふ哀話ものこつてゐます。  マラリアは、むかしイタリヤでもひどくはやつたもので、あの強大なローマ帝国がほろびたのも一つはこの病気が多くの人を殺したからだと言はれてゐます。マラリアは蚊が媒介するのだといふことは、すでに千四百年もまへに何かの本に出てゐるとも言ひ、少くとも今から七十三年前に、早くそれを主張した医者がゐたのですが、だれもそれを信用せず、方々の流行地では、ともかく、人間から人間へうつるのだといふので、病人の着てゐたものや、もちものをはじめ、船に患者が出ると積み荷をまですつかり海へなげすてたといひますから、その損害だけでも、どれだけに上つてゐるか計箪も出来ないでせう。パナマ地方で、工夫についてゐたフランス人の医者たちは、黄色熱の患者たちの寝台へ、虫なぞがはひ上るのをふせぐために、寝台の足を、一々、水を入れた金物碗の中へつけてゐたといひます。これではその病人の血をすつてほかの人へうつす蚊を、その病人のそばで飼ひふやしてゐたわけでした。     二  このおそろしいマラリアの病原菌はアノフェレスといふ一種の蚊がつたへるのだとわかつたのは今から二十七八年まへのことで、インドの英国軍隊についてゐたロナルド・ロッスといふ軍医少佐が発見したのです。アノフェレスは、ハマダラ蚊ともよばれ、羽根に黒いまだらがたくさんあつてとまるのにも、普通の蚊がおしりを下につけるのと反対に、おしりを上げてとまりますからすぐ区別がつきます。この蚊のめすは、とくに長いくちばしをもつてゐます。すべて蚊は人間の血をすふのはめすだけで、をすは人間にとまつても血はすひません。  マラリアの病原菌は或小さな微生物にとりついて、それを寄生主にして生きてゐるもので、その寄生主がハマダラ蚊のからだの中に住んでゐるといふことを、ロッス少佐が根気づよい顕微鏡検査で見つけ出したのです。そのマラリア蚊が人間の血をすふときに、病菌がくちばしからつたはつて人間の血管の中にはいつてどん〳〵繁殖し、俗におこりといふ、一定の時間をおいては、ひどい熱の出る苦しい病気を出させるのです。ロッス少佐のその発見については、永い苦心談もあるのですが、それはわづらはしいのでひかへます。  ところが、ふしぎなことに、たま〳〵この発見が報告されたぢきあとで、米西戦争でキュバ島に出征中のアメリカの軍医のリードといふ人が、黄色熱について、それがやはりステゴミイアといふ一種の蚊からつたはることを発見しました。その病菌が、どんな生物に寄生して蚊のからだの中にはいるのか、それは、今もつてわからないのですが、ともかくステゴミイアをさへ避けまたは殺しつくせば、黄色熱を根絶させ得ることがわかつたのですから、それだけでも、人間の幸福の上に重大な意味をもつてゐるのはいふまでもありません。  リード氏は四五人の同僚と一しよに、病気の調査にキュバへ出張してゐたのですが、その中の一人のラヂーアといふ人は、その島でなくなりました。そこでリード氏は、じぶんたちの研究をつゞけてゐる建物に、ラヂーア廠舎といふ名をつけて、死んだ同僚の記念にしてゐました。  リード氏は、ステゴミイアが黄色熱を媒介するといふことを見出したとき、それをじつさいに人間について実験する必要が生じ、だれか二人、ぎせい的にステゴミイアにさゝれて見てくれるものはないかと、ためしに兵士たちに相談をもちかけました。リード氏は、と言つたところでそれは、しよせん不可能なことゝおもひながら、研究上の慾望から、なかばじようだんに言つたのですが、はからずも二人のわかい下級の兵卒が、私たちが試験体になりますと勇敢に申し出ました。リード氏はよろこんで、では、あとでどつさりほうびのお金をもらつて上げるぞと勇み立ちますと、二人はそれを聞いて、急にその場を下りかけました。私たちは、そんなきたない考から出立したのではありません、金なぞは一さいもらはない条件ならばおひきうけしますと、二人はふりかへつて言ひました。リード氏は、顔を赤らめて直立し、帽子をぬいで、 「紳士たちよ、私は二人にお礼をいひます。」と言つて頭を下げました。兵卒のことは、だれでも、たゞ、「マン」と言つて「ゼントルマン」とは言はないのです。この二人の勇者のぎせいのおかげでリード氏の研究がすつかりたしかめられたのです。二人とも、そのために死んだかどうか、そこははつきりしてゐませんが、要するに、人間全たいのためには、神さまにひとしい、りつぱな救ひ手であつたと言はなければなりません。     三  で、お話は運河にかへりますが、アメリカ政府はフランスの技師が失敗したあと、最後に自国のゴーガスといふ大佐を総指揮者に任命し、はじめに、三万人の従業者をつのり、ついで四万人を増し、しまひには五万人もふやして、開さくにあたらせました。ゴーガス大佐は、もと〳〵医者出の人でしたので、今言つたロッス少佐やリード氏の発見からをしへられた以上、もう、こんどは根本に工夫たちの中からマラリアや黄熱病の患者は一人も出さない計画をたてました。つまり同地方からすべての蚊を一ぴきのこさずほろぼしつくせば、いふことはないのです。  運河の工事の全線は四十八マイルですが、大佐はその両側面五マイルづゝ、つまり長さ四十八マイル幅十マイルの地帯、面積にして四百八十平方マイルの地域内の、あらゆるくさつた水たまりやどぶを干しかわかし、湖水のたまり水をどん〳〵海にはかし、流しほせない沼なぞには、どつさり石油を流しこんで蚊の発生をふせぎにかゝりました。いふまでもなく、蚊はきたない水の中に卵をうむのです。石油を流すと、それが卵からかへつた幼虫の呼吸器の中にはいり、いきがつまつて死んでしまふわけです。  リード氏はこの大地帯の中に工夫たちのかたまつてゐる村を四十か所に作りました。そして、そのすべての家々には、窓へすつかり金網を張らせ、水のはいつてゐるものには一々ふたをさせました。それから工夫たちをはこぶ列車にもこと〴〵く金網をはらせました。それと同時に、各村ごとに健康診断をしてまはる医者隊、こはれた窓や金網のやぶれをなほしてあるく隊、たまり水へ石油をまく隊、水たまりを干しさらへる隊、家々へ石油をくばる隊といふふうに、何百人といふ人数をはいぞくさせて、たえ間もなくはたらかせ、列車ごとに、かならず病院車をつけなぞして、患者はすぐ隔離するといふ組織にし、一方、全従業員に一さい酒類を飲ませないことにして、健康と勤勉の率を上げ、ぐん〳〵水路をほりひらかせました。  最初のフランス人ルッセは水路面を海面と同じ高さでとほす設計をしてゐたのですが、それはチャグレスなぞといふ河々の水があふれ出すのを勘定に入れなかつたからでした。ゴーガス大佐は、その河々の水を引いて幅五百フイート、長さ七マイル、海面から八十五フイートある水路を作り、下の方へ三区劃の水門をこしらへて、船がその中へはいると、水をふやして、つぎのたかい水面へおくりこむといふ仕組みにして、たかい水路をもらく〳〵と通過させることに成功しました。  全工事に動いてゐる機関車が五百台、浚泥機百台、トラック、ポンプ、エレヴェイター、起重機各五千、それでもつて、どん〳〵谷をうづめ、山をほりくづしたもので、海へはこび出した泥や土や岩石は総計二十億トンと計上されてゐます。大佐はかうして十年間の苦心のすゑに、開さくの大工事をりつぱになしとげました。これでヨーロッパの諸港から北アメリカの太平洋海岸へ来る船も、その海岸からニューヨークへいくのにも、わざ〳〵南アメリカの南端をまはらないですむやうになつたので、けつきよく約四千マイルだけ航路がはぶけることになつたのです。その一ばんの功労者のゴーガス大佐は、小さいときにお父さまになくなられ、貧しい母の手一つで、食ふや食はずのつらい目を見て成人した人でした。 底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版    1978(昭和53)年11月30日初刷発行 底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第六巻」文泉堂書店    1975(昭和50)年9月 初出:「赤い鳥」赤い鳥社    1928(昭和3)年10月 入力:tatsuki 校正:林 幸雄 2007年2月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。