巴里素描 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 巴里素描      ヴォルテエル河岸  霧雨。──外套の襟を立てる。  ──いくら……これ?  ──ラ・ハルプの文学史……六十法。  ──さよなら。  小蒸気の笛。  ──危ない、滑りますよ、奥さん。      サン・ミシェル街  新調のズボンが短か過ぎる。 (また、一人で飯を食ふのか)  ──おい、どうした。  ──うるさい。  マロニエの若葉の匂ひ。      ルュクサンブウル公園  朝から噴水を見てゐる。  玩具のヨットが波を切る。  母親の若い日傘が眩しい。 (昨日の希望……明日の憶ひ出……) (あいつの瘠せ方はどうだ) (畜生! 新聞の盗み読みをしやがる)  さあ、いらつしやい、いらつしやい。お子供衆のお慰み……ポリシネルの大活躍……。木戸はたつた十銭……。      モンパルナスの基地  ──黙つてるね。  ──さうでもない。  ──何が可笑しいんだ。  ──可笑しいもんか。  ボオドレエルの死像の前──  *(人、象徴の森を経て、こゝを過ぎ行き……)  落葉、落葉、落葉……。      コンコルドの広場  ──突つ切らうか……? よさう。      シャン・ゼリゼエ街 (われをして百万長者たらしめよ) シトロエンよりも古風な幌馬車 君は女王──われは御者 日の暮れぬ間に プウロオニュまで一と走り。      ブウロオニュの森  濡れ場によし。  殺し場によし。  朝は独り者の散歩に──  真昼は子供の遊び場に──  夕暮れは語らひによし。  夜更けては、企らみあるものによし。  春は中年の女と一緒がよし。  秋は処女と──  夏は職業婦人と──  冬は……どんな女とでもよし。      凱旋門──(星の広場)  強盗殺人誘拐犯ナポレオン!  扨て、ヴィクトオル・ユゴオ街に出るにはと…………。  牝牛(巡査)は何処にゐる?      グラン・ブウルヴァール  国際的情慾が服を光らすキャフェ・ド・パリのテラス。  一週間滞在の旅客が宝石屋の飾窓にしがみつく。  それが若し東洋の紳士なら、英語で「面白いものを見せてやるから……」と云つて見給へ。      モンマルトル  巴里の哄笑と吐息──  傍若無人な粋士と感傷的虚無主義者とが踊り子の脚を批評する。  こつちは、オスカア・ワイルドの親友でなければ、ロオトレツクの弟子か。  どつちでもない。それぢや「取り持ち」だ。  日曜服のタイピストなんか御免だと云ふやつ──など。  機智──「僕といふ人間が存する、それがわるければ御免なさい」  趣味──「すぐわかつちや面白くないね。しかし、考へるのはいやだ」  哲学──「どうにかなつて行くよ」      ルウヴル博物館  一日で一と通り観たといふものは何も観てゐない。  一と月通つてアングルを観たといふものは、アングルだけについて話すことを許される。  一年間、毎月二度つゞ、足を運んだものは、もう一年かゝつて、始めから見直す必要があるだらう。  わたしは、宝石を鏤めたルイ十四世の王冠の前で、ラシイヌの詩を想つた。      バスチイユ牢獄の跡  ──こら、こら、そんな処に寝とつちやいかん。      植物園  何をしに来たのでもない。  何を観に来たのでもない。  プランシェといふ活動俳優──それに似た動物がゐたからとて、さほど愉快でもない。  そのくせ、よく足が向く。  さういふ家が、どうかするとあるぢやありませんか。      ノオトル・ダム寺院  よく見る絵だ。  鐘の音なら詩人の屋根裏で聴け。  ユゴオはブウルジュワだ。  怪物が水を飲みたがつてゐる(同じ夢を二人が見ないとは限らない)      セエヌ河  釣りをする男  それを見てゐる男  サン・クルウの森が霞の中に浮んでゐる。  それから煙突……  ──静かだなあ!      エッフェル塔  何かを下へ投げて見たい──  例へば指環のやうなものを…………。  トロカデロの芝生か、廢兵院の庭に、それが落ちたとする。  トロカデロの芝生なら、子守女の指にそれがさゝる。  廢兵院の庭なら、七十年戦役の勇士が、日なたぼツこをしてゐる──その薬缶頭の上で刎ね返る。 「糞!」  ──それから……?      オートイユ  午前十時。  テオフィール・ゴオチエが──勿論晩年の──犬を連れて通る。  サン・モオルの尼僧が、藤棚のあるヴィラの門を潜る。  郵便配達が靴の紐を結び直す。  雀が馬糞に集る。  初夏。      花市  ニイスの薔薇がポオの椿に笑ひかける。  椿は笑はない。 「お早う」──チュリップには訛りがある。  寝ざうの悪いダアリヤ。  鈴蘭はもう朝湯をつかつたらしい。      ヴァンセエヌの城門  ──こゝへ来たら……?  ──ジェルミニイ、そこぢや見えるよ。  ──月が出たのかい? 本文中*印の句は鈴木信太郎訳ボオドレエル「交感」による 底本:「岸田國士全集19」岩波書店    1989(平成元)年12月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 初出:「新小説 第二十九年第十一号」    1924(大正13)年11月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年9月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。