三重宙返りの記 海野十三 Guide 扉 本文 目 次 三重宙返りの記  僕は、このところ二三ヶ月、からだの工合がよくない。それでこの日、文壇航空会にも、残念ながら特殊飛行は断念して、辞退を申出ておいたのであった。殊に、その前々日は終日家にいて床についていたし、その前日は、炬燵の中で終日、日米関係の本を読んでいた始末であった。だから当日は、ふらふらするからだを豊岡まで搬んだようなわけで、特殊飛行をする意志は毛頭なかったのであった。 「海野さん。さあ、支度をなさい」 「僕は、今日は、乗りませんよ」 「そんなことはない。あんたが乗らないということはない。そんなことをいうと、皆、乗らないといい出すよ。さあ、支度を」 「僕は、からだが悪いので……」 「どこが、どうわるい」 「心臓やその他……機上で人事不省になるなんて、醜態ですからねえ」 「なあに、心臓なんか、大丈夫だ。こんな機会は二度とないから、乗りなさい」  これは西原少佐殿と僕との押問答だ。これを傍で聞いている皆々は、愉快そうににやにや笑っているが、僕は笑い事ではない。  こんなことを数回くりかえした。  西原少佐殿は、熱心にくりかえし薦め、そして僕を元気づけてくれる。ここに於て、僕は秒前までの乗らないという決心をさらりと翻し、 「はい、乗りましょう」  といって、オーバーの釦に手をかけた。これが最初の宙返りであった。意志というか覚悟というか、それの宙返りであった。決意してしまえば、元々好きなことなんだから、とたんに、わがからだはもうふわっと空に浮んだようだった……。  機は約千五百メートルにとびあがった。  はるかな地上には煙霧が匐い、夕陽はどんよりと光を失い、貯水池と川とだけが、硝子のように光っていた。と、突如、からだがぐーっと下に圧えられた。機は奇妙な呻りをたてはじめた。いよいよ始まった、宙返りが……。  宙返りをしていることは、はっきり分っているくせに、「自分は今、本当に宙返りをやっているのかしら、夢を見ているのではないか」という疑念がしきりと湧いた。  ──そのとき、虚空と大地とが、まるで扁平な壁のように感じられた。空は湖のようだ。ぐうーと水平線があがって、上から巨大なる島が下りてきた──と思ったら、それは島ではなく、わが地球であったのだ。芝居の背景が、ぐるぐるまわっているような感じでもあった。僕は、ひたすら錯覚の世界を追っていたのだ。  はげしい横転の始まった瞬間には、僕の身体は、機外においてけぼりにされたように感じた。水平線が、きらきらと、交錯した水車の車軸のようにみえる。奇妙なことだ。  一等気持のわるかったのは、上昇反転であった。機はぐんぐん垂直に上昇していって、その頂上で、エンジンははたと停り、そして失速する。からだが、空中にぴたりと停った。まるで空中に腰掛があって、その上に、ふわりと胡坐をかいたようなふしぎな気持だ。そこまではいいが、とたんに、下腹を座席へ固くしめつけている筈の生命の帯皮が俄かに緩み、からだが逆さになって、その緩んだ帯皮から、だらりとぶらさがる。機を放れて、単身墜落の感じだ。はっと目を前方に向け、そこにあるべきはずの地平線を探るんだが、地平線は無く、顔のまん前にあったのは、何ともいえない気味の悪い青黒い壁のような大地であった。いつの間にか機首を下にした機は、次の瞬間、どどどっと奈落に顛落する……。  特殊飛行中、僕は特に頭を下げて、自分のからだに、今如何なる苦痛が懸っているかを特に注意してみた。急上昇のときだと思うが、胸と太ももとが、目に見えない魔物のために、今にも押し潰されそうに痛むのを発見して、ああこれこそ我慢づよいわが空の勇士が、絶えず相手に闘っているところの見えざる敵〝慣性〟だなと悟った。  機が地上に下りると、僕は急に胸先がわるくなって、むかむかしてきた。生唾が、だらだらと出てきた。全身には、びっしょり汗をかいていた。だが僕は、大声で叫びたいほど愉快であった。  僕は、機上から下りて、校長閣下を始め御歴々に対し、初めて挙手の礼をもって挨拶をした。鼻汁がたれているのはわかっていたが、これを拭うすべをしらないほど平常の身嗜みに無関心だった。  西原少佐殿は、さっきとは打ってかわり、それからいくどもくりかえし、 「海野さん、まだ胸がわるいか。まだ、なおらんか」  と、電車の中までも、いたわってくれた。  はっきり書くと、その夜八時半ごろになって、この胸のわるさは、やっと癒った。と同時に、ここ数ヶ月の気分の悪さが、一ぺんに吹きとんでしまった感じがした。決行するとは全然予期しなかった特殊飛行は、僕の病気までを宙返らせた。最悪の状況下にある自分のからだを駆って、よくも宙返りに耐えたということは、私事ながら、実に大きな収穫であった。病気のときは、進んで特殊飛行を志願することにしたい。但しそう思ったのは、まるで生れかわったように元気になった翌日のことではあったが……。 底本:「海野十三全集 別巻1 評論・ノンフィクション」三一書房    1991(平成3)年10月15日第1版第1刷発行 初出:「航空朝日」朝日新聞東京本社    1940(昭和15)年4月号 入力:田中哲郎 校正:土屋隆 2005年6月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。