銀三十枚 国枝史郎 Guide 扉 本文 目 次 銀三十枚 1 「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。まんざらの男振りでもない意だ。いう事を聞きな、いう事を聞きな」  ユダはこう云って抱き介えようとした。  猶太第一美貌の娼婦、マグダラのマリアは鼻で笑った。 「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」 「え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか」 「胸をご覧、妾の胸を」  マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダはくらくらと目が廻った。 「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」 「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく解った」  ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革商人のヤコブであった。 「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」  革財布をチャラチャラ揺すぶった。 「どれお見せ!」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、 「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」  寝室の戸をギーと開けた。  充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。  マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。  銀三十枚が股の上にあった。 「畜生!」と突然彼女は叫んだ。 「一杯食った! ヤコブ面に!」  三十枚の銀をぶちまけた。 「マリア!」とその時呼ぶ声がした。 「誰!」と彼女は娼婦声で云った。 「解らないのかい。驚いたなあ」 「あら解ってよ。お入んなさい」  彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。 「これはこれは」と彼は云った。 「銀の洪水と見えますわい」 「よかったらお前さん持っておいでな」 「気前がいいな。そいつアほんとか?」  カヤパは勿怪な顔をした。 2  イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、棕樹、橄欖、無花果の木々を、銀鼠色に燻らせていた。  肉柱の香、沈丁の香、空気は匂いに充たされていた。  十三人は歩いて行った。  小鳥が塒で騒ぎ出した。その跫音に驚いたのであろう。  と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの渓流、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。  月光は黎明を想わせた。  十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。  イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。  ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。  彼にはイエスが疑わしく見えた。  イエスに疑念を挟んだのは、かなり以前からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。  女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。 「瞽いた者は見ることが出来、跛えた者は歩くことが出来、癩病る者は潔まることが出来、聾いた者は聞くことが出来、死んだ者は復活えることが出来、貧者は福音を聞かされる。俺に来たる者は幸福である」と。  その時ユダはこう思った。 「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」  しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。  浅薄な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。 「神とは一体何だろう?」  ユダはここから発足した。 「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物! 猶太教ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか?」 3  ユダはその説とは反対であった。 「宇宙は決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻っている。勝手に生れ死んでいる。神! そんな物は存在しない」  イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。  そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に手頼り「神の国」を建てようとする愛国狂が、ユダの眼には滑稽に見えた。  ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。  そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。 「お前達が俺を尋ねるのは、パンを貰ったためだろう? だがお前達よそれは可くない。朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働くがいい。……神は今やお前達へ、真のパンをお与えなされた。この俺こそそのパンだ。俺に来る者は飢えないだろう、俺を信ずる者は渇かないだろう」 「莫迦な話だ」とユダは思った。 「預言者どころの騒ぎではない。彼奴はひどい利己主義者だ。途方もない妄想狂だ。『朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働け』という。これこそ妄想狂の白昼夢だ。永生とは一体何だろう? 生命ある物はきっと死ぬ。永存する物は無生物だけだ。『俺に来る者は飢えないだろう。俺を信ずる者は渇かないだろう』ではお前へ行かない者は飢えるということになるのだな。ではお前を信じない者は、渇くということになるのだな。彼奴は要するに大山師だ!」  ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。  十三人は歩いて行った。  次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。木乃伊のように痩せて見えた。  ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。  ──イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような平和さがなく、木の根や岩に躓いた。そうして幾度も休息した。それでもそのつど説教した。  楊の茂みを潜りぬけ、ケロデンの渓流を徒歩渡りし、やがてゲッセマネの廃園へ来た。  イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。 「さあお前達は監視っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」  こう云ってイエスは奥へ進んだ。 「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」  ついに三人をさえ追い払った。  イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。  と、林が立っていた。楊、橄欖の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。  突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。 「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」  白痴か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。 4  ユダは後を尾行て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。  彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾くなかった事を知ることが出来た。 「彼奴はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者なものか! 預言者なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。 「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」  彼は心に痛みを感じた。 「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」  梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。  やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。  不安と疲労とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々として眠っていた。  イエスは一人々々呼び起こした。 「眠っては不可ない。お祈りをしよう」  ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。  しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。麻痺的に病的に眠いらしい。 「また眠るのか、何ということだ! 惑いに入らぬよう祈るがいい」  イエスは如何にも寂しそうに云った。  と、にわかに叫び声を上げた。 「時は近づいた! 遣って来た!」  麓の方を指さした。  山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。  打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。 「うん、来たな」とユダは云った。  それからその方へ小走って行った。  ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。 「マルコ」とユダは近寄って行った。 「接吻が合図だ。間違うなよ」 「大丈夫だ。大丈夫だ」  そこで一隊は歩き出した。傍路からユダは先へ廻った。 「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」  ユダは走りながらワクワクした。  マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。  使徒達はイエスを囲繞いた。  イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついていた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。  その時無花果の茂みを分け、つとユダが進み出た。 「ラビ、安きか!」とユダは云った。  そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。  イエスの顔はひん曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。  が、その次の瞬間には、以前の態度に返っていた。  兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。 「お前達は誰を訊ねるのだ?」 「ナザレのイエスを」とマルコが云った。 「ナザレのイエスを? では俺だ」  マルコと兵士とは後退りした。 「お前達は誰を訊ねるのだ?」  またイエスはこう訊いた。 「ナザレのイエスを」とマルコが云った。 「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を発見した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」  こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ跪いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。  ユダだけは一人立っていた。 5  それは劇的の光景であった。  だが何物にも変化はなかった。  沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。  ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側で、曳かれて来るキリストを待っていた。  それは劇的の光景であった。  使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。 「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。 「父から贈された盃だ」  彼は両手を差し出した。  彼は、従容と縄を受けた。  誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山は静かになった。  ユダ一人が残っていた。 「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望んでいた人の様に、従容と縛に就こうとは? 一体彼奴は何者だろう?」  ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。  楊の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。  どうにも不安でならなかった。  イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。  祭司長カヤパはこう訊いた。 「お前は本当に神の子か?」 「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。 「人の子大権の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」  カヤパの司どる猶太教からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は将に死に当たった。  人を死罪に行なうには、羅馬政府の方伯たるピラトに聞かなければならなかった。  サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。  やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて行った。  それは金曜日にあたっていた。おりから逾越の祝日で、往来には群集が漲っていた。家内では男女がはしゃいでいた。  ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。  イエス一人を庁内へ呼び、 「お前は猶太の王なのか?」  彼は先ずこう訊いた。 「我国はこの世の国ではない」  これがイエスの返辞であった。 「とにかくお前は王なのか?」 「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。 「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」  イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。  玄関へ出て彼は云った。 「この男には罪はない」  しかし群集は喜ばなかった。イエスを戸外へ引き出した。棘の冕を頭に冠せ、紫の袍を肩へ着せ、そうして一整に声を上げた。 「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」  エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。  草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。  イエスは十字架へ附けられた。  彼の苦しみは三時間つづいた。 「事は終った」と彼は云った。  彼の生命が絶えた時、殿堂の幕が二つに裂け、大地が顫え墓が開らけた。 6  この頃ユダは橄欖山を、狂人のように歩いていた。 「彼は恐れず悲しまず、従容として死んで行った。とにもかくにも凡人ではない。……では彼奴は預言者か?」  ユダにはそうは思われなかった。 「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」  ユダはある歌を想い出した。それはイエスが幼時から、愛誦したという歌であった。 至誠をもて彼道を示さん 彼は衰えず落胆せざるべし 道を地に立て終るまでは 彼は侮どられて人に捨られ 悲哀の人にして悩みを知れり 「なるほど」とユダは呟いた。 「彼奴の如何にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴にあてはまるからな」 「侮どられて人に捨られぬ」 「ほんとに侮どられて捨られた」 「彼は衰えず落胆せざるべし」 「これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか?」  ユダはにわかに行き詰まった。 「よし預言者でないにしても、妄信者以上の何者か、偉大な人間ではなかったろうか?」  彼の胸は痛くなった。 「いけないいけないこういう考えは! 世の中に偉人なんかありはしない。あると思うのは偏見だ。生きている物と死んでいる物、要するにただそれだけだ。そうして生物の世界では、雄と雌とがあるばかりだ。雌だ! 女だ! あっ、マリア!」  ユダは周章て懐中を探った。銀三十枚が入っていた。  マグダラのマリアは唄っていた。 キリスト様が死んだとさ 「ふん、いい気味だ、思い知ったか。……妾は最初あの人が好きで、香油で足を洗い、精々ご機嫌を取ったのに、見返ろうとさえしなかったんだからね。そこでカヤパを情夫にして、進めてあの人を殺させたのさ」 「マリア!」とユダが飛び込んで来た。 「銀三十枚! さあどうだ!」  ユダはマリアを抱き縮めた。 「まあお待ちよ、どれお見せ」  革財布をひったくり、一眼中を覗いたが、 「お気の毒さま、贋金だよ! 一度は妾も瞞されたが、へん、二度とは喰うものか! お前、カヤパに貰ったね。妾がカヤパに遣ったのさ」  ここ迄話して来た佐伯氏は、椅子からヒョイと立ち上ると、ひどく異国的の革財布を、蒐集棚から取り出した。 「まあご覧なさい、これですよ、いまの伝説の銀貨はね」  ドサリと投げるように卓の上へ置いた。 「私がエルサレムへ行った時、ある古道具屋で買ったもので勿論本物ではありません。あっちにもこっちにもあるやつでね。漫遊者相手のイカ物ですよ。……だが面白いじゃアありませんか、今も猶太の人間は、私がお話ししたように、キリストとユダとマリアとをそう解釈しているのですよ。そうして銀貨まで拵えて、理らしく売り付けるのです。猶太人に逢っちゃ敵わない。一番馬鹿なのがキリストで、その次に馬鹿なのがイスカリオテのユダ、そうしてその次がマリア嬢で、一番利口なのが革商人ということになるのですからね」  私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな貨幣で、持ち重りするほど重かった。そうして昨日鋳たかのように、ひどくいい色に輝いていた。 「恐ろしく重いじゃアありませんか」  私は吃驚して佐伯氏に云った。 「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?」 「さあ、そいつは解りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか」  いかにも面白い紋章であった。 「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」 「ええなりますとも大なりです」  こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、定まって一つの話をして、そうして書けというからであった。もう鼻に付いていた。  とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。 7 「是非お書きなさい、お進めします」  旅行家でもあり蒐集家でもある、佐伯準一郎氏はこう云った。 「ついては貨幣をお貸ししましょう。その紋章を調べるだけでも、趣味があるじゃアありませんか。一枚と云わず三十枚、みんな持っておいでなさい。実は私は明日か明後日、またちょっと旅行に出かけますので、当分それは不用なのです。紛失されてはいささか困りますが、紛失なるような物ではなし、お貸しするとは云うものの、その実保管が願いたいので、ナーニご遠慮にゃア及びません。……それはそうと随分重い、とても持っては帰れますまい。ひとつ貸自動車を呼びましょう」  事実私はその貨幣にも、貨幣の紋章にも興味があった。そうして物語に綴るとしても、何かそういう貨幣のような、物的参考があるということは、確実性を現わす上に、非常に便利に思われた。  私は遠慮なく借りることにした。  その中タクシがやって来た。  佐伯氏は貨幣を革財布へ入れ、そうしてタクシへ運び込んでくれた。 「いずれ旅行から帰りましたら、お手紙を上げることにいたしましょう。いや私がお訪ねしましょう。文士の家庭を見るということも、ちょっと私には興味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」  佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。 「左様なら」と私は帽子を取った。 「左様なら」と佐伯氏は微笑した。  だが私にはその微笑が、ひどく気味悪く思われた。  名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは駛って行った。 8  私のタクシは駛って行った。  公園は冬霧に埋もれていた。  公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。  名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の住居であった。  そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。  妻の粂子は起きていた。 「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き介えた。それから頬をおっ付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。  二階の書斎へ入って行った。 「おい好い物を見せてあげよう。これはね、猶太の銀貨なのさ」  財布から銀貨を取り出した。 「まあやけに大きいのね」  彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部義歯であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それがひどく彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。  その眼で愉快そうに笑った。  私はそこで説明した。 「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」  紋章はみんな異っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っていた。貨幣の縁を囲繞ているのは、浮彫にされたローレルの葉で、その中に肖像が打ち出されてあった。肖像が異っているのであった。私は一つを取り上げて見た。長髪を肩までダラリと下げた、悲しそうではあるが高朗とした、間違いない基督の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。頭の禿げた眼の落ち込んだ、薄い唇を噛みしめた、意志の権化とでも云いたげな、老人の姿が打ち出されてあった。使徒ペテロに相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。火のように髪を渦巻かせ、瞑想的の眼を空へ向け、感覚的の唇を幽かに開けた、詩人のような人物が、ローレルの葉に囲繞かれていた。黙示録の著者に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。丸顔で無髯で眼の細い、平和的の使徒の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。最初にサマリヤへ布教した、ピリポの肖像に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。無気力ではないかと思われる程、痩せた皺だらけの貧相な顔が、その貨幣には打ち出されてあった。ヘロデ王の兇刃によって、無慚に殺された使徒ヤコブ、その肖像に相違なかった。  もう一つの貨幣を取り上げて見た。それにも肖像が打ち出されてあった。 「うん、こいつはイスカリオテのユダだ」  私は直ぐに知ることが出来た。そんなにもそれは特色的であった。一見醜悪の容貌であった。だが仔細に見る時は、恐ろしく勝れた容貌であった。先づ顱頂部が禿げていた。しかし左右の両耳から、項へかけて髪があった。つまり頭の後半を、髪が輪取っているのであった。これが一見不愉快に見えた。しかしこれは一方から云えば、学者などに見る叡智の相で、決して笑うことの出来ないものであった。額が不自然に狭かった。これも一見不愉快であった。先天的犯罪人の相でもあった。が、これとて一方から云えばソクラテスの額に似ていると云った、一種病的な天才等に、往々見受けられる額であった。両眼がひどく飛び出していた。枝の端などで突かれなければよいが、こんな事を思わせる程飛び出していた。だがやっぱりこの眼付きも、ソクラテスの眼付きに似ているのであった。非常に智的な眼付きなのであった。鼻は所謂る獅子鼻であった。唇がムックリ膨れ上っていた。二つながら強い意志の力の、表現だと云ってもよさそうであった。反逆性のあることを、さながらに示した高い頬骨、精神的苦悶の著しさを、そっくり現わした満面の皺、断じて俺は妥協しない! こう言いたげな根張った顎、そうして頸は戦闘的に、牡牛のように太かった。  顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。 「いかなる物をも信じないよ」  こう云っているような顔であった。 9 「なるほど」と私は心の中で云った。 「従来の美学から云う時は、これは将しく非審美的の顔だ。女や子供には喜ばれまい。だがしかしこの顔こそ、本当の人間の顔ではないか」  基督の肖像と並べて見た。洵に面白い対照であった。信仰、柔和、愛、忍従、これが基督の肖像に、充ち溢れている特徴であった。全体が細身で美しく、古典的に調っていた。力が非常に弱かった。虚無、憤怒、憎悪、反抗、これがユダの肖像に、行き渡っている特色であった。全体が野太く荒削りで、近代的に畸形であった。力が恐ろしく強かった。 「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を動られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」  基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。  一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、耶蘇基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。  モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。 「猶太の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはずだ。ところが英語で署名してある。これ一つでもこの銀貨の、贋物ということが証明できる」  私は思わず呟いた。 「いいえ」とその時妻が云った。 「え?」と私は顔を上げた。  紋章の研究に心を奪われ、彼女の事を忘れていた。 「お前何とか云ったかい」  彼女は返事をしなかった。彼女の表情には変なものがあった。眼が銀貨に食い付いていた。燃えるような熱のある眼であった。頬が病的に充血していた。ふっと彼女は私を見た。疑惑に充ちた眼であった。 「貴郎」と彼女は叱るように云った。 「何人からお借りしていらしったの? こんな妙な気味の悪いものを」 「気味が悪いって? どうしてだい?」  いわゆる唖然とした心持で、聞き返さざるを得なかった。 「贋金なんだよ、古代猶太のね」 「ねえ貴郎」と彼女は云った。 「何人からお借りしていらしったの? 聞かせて下さいよ。さあ直ぐに」  厳粛と云いたいような声であった。彼女にそぐわない声であった。 「佐伯って人だ。佐伯準一郎」  何だか私は不安になった。 「立派な紳士だよ、蒐集家なんだ」 「佐伯準一郎? 聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの?」  私は急に厭になった。 「また何かを嗅ぎ付けやがったな、ほんとに仕方のない目っ早小僧だ! だが今度はお生憎様さ、ちょっとも引け目なんかないんだからな」  こんなように考えた。  で、私はやっつけるように云った。 「これから俺の人名簿へ、新しく記けようっていう友人なのさ」 「ねえ貴郎」と彼女は云った。 「どうしてどこでお友達になって?」 「公園でだよ。鶴舞公園でね」 「いつ?」と彼女は追っかけて訊いた。叱るような声であった。  危うく反感を持とうとした。しかし私は差し控えた。不安どころか悲しみをさえ、彼女の顔に見たからであった。 「今日の昼さ。病院の帰りにね。……何だかひどく心配そうだなあ。その可愛い凸ちゃんを、心配させちゃア可哀そうだ。よし来た詳しく話してやろう」  ──私はバセドー氏病の患者であった。毎週一回病院へ通って、かなり強いレントゲンの、放射を受けなければならなかった。その往復に公園を通った。鶴舞公園はいい公園で、日比谷以上に調っていた。一つのロハ台へ腰を掛け、好きなラ・ラビアを喫かすのが、夏以来の習慣であった。  冬も冬、一月中旬、冷たい風が吹き迷っていたのに、この習慣は止められず、その日も私はロハ台に倚って、ラ・ラビアを喫かしていた。 10  その時毛皮の外套を着た、四十五六の立派な紳士が、私の横へ腰を掛け、ゆるやかに葉巻を喫かし出した。 「あの大変失礼ですが、貴郎は美術家ではいらっしゃいませんか?」  紳士が卒然話しかけた。 「いえ」と私は素っ気なく云った。  私は私の趣味として、商売のことを訊かれるのと、年齢のことを訊かれるのとを、好まないばかりか嫌っていた。そうして私はそんなように、見知らない人から話しかけられるのを、これまた趣味として好まなかった。  紳士は外套の内衣兜から、ゆっくり名刺入れを取り出した。一揖すると名刺を出した。 「私、佐伯と申します。最近欧羅巴から帰りましたもので」  これは益々私にとっては、好ましくない態度であった。洋行帰りがどうしたんだ! あぶなく心で毒吐こうとした。しかしそいつをしなかったのは、その佐伯という紳士の態度が、よい意味における慇懃で、こしらえた所がなかったからであった。  私も名刺を手渡した。 「おやそれでは一條さんで。よくお名前は存じて居ります。たしかお作も見たはずです。いや私は最初から、芸術家でいらっしゃると思っていました。それでお言葉を掛けましたので。全く芸術家の方々には、一つの型がございますのでね」  この言葉は中っていた。芸術家には型があった。たいして愉快な型ではないが。 「はなはだ突然で不作法ですが、ご迷惑でなかったら拙宅へ、これからおいで下さるまいか。お見せしたい物がありますので、恐らくお気にも入りましょう。実は私は好事家でしてな、その方面ではかなり広く、海外へも参って居りますので。相当珍品も集まって居ります。宅は公園の直ぐ裏で。ええそうです××町です。ナーニご遠慮にゃア及びません。私の方から見て頂きたいので。訳の解らない骨董屋などより、芸術家のお方に見て頂いた方が、どんなに有難いか知れません。物を集めるということは、自分の趣味性を充たすと同時に、やはり具眼者に見て頂いて、その批評を承わるのが、目的の一つでございますからね」  佐伯準一郎氏はこんなことを云った。  慇懃で如才なくて魅力的で、断わりかねるような云い方であった。そこで私は行くことにした。こうして私の見せられたのは、伝説の銀三十枚であった。 11  私の話を聞いてしまうと、妻は一層不安そうにした。 「それでお借りしていらっしゃったのね。まあ本当に仕方のない方!」  バタバタと階下へ下りて行った。  箪笥を引き出す音がした。  彼女は書斎へ帰って来た。 「さあ比べてご覧なさい」  彼女は指環を投げ出した。 「ね、白金じゃアありませんか」  指環は白金に相違なかった。それが白金であるがために、彼女はそれを虎の子のように、奥深く秘蔵していたものである。私は二つを比べてみた。銀三十枚と指環とを。  私は変に寒気立った。二つは全く同じであった。 「おい、こいつア同じだ」 「贋金でなくて白金よ」 「この大きさでこの重さ……」 「数にして三十枚よ。さあお金に意もったら? ああ妾にゃア見当がつかない」 「おい、自動車を呼んで来い!」  一人で行くのは怖かった。と云うよりも妻の方で、うっそり者のこの私を、一人でやるのが不安だったらしい。  で、自動車へは二人で乗った。  私の両手と彼女の両手とが、革財布を抑えていた。  考え込まざるを得なかった。 「これは何かの間違いなのだ。でなかったら陰謀だ。どうぞ陰謀でないように。俺は問題にならないとしても、聡明らしい佐伯氏が、贋金と白金とを見分けぬはずはない。知っていて俺に借したのだ。しかしあんな猪牙がかりに、借せるような物じゃアないはずだが。金銭に直して幾万円? 箆棒めえ借せられるものか! だが借したのは事実なのだ。……曰くがなけりゃアならないぞ……」  私達のタクシは駛っていた。彼女は物を云わなかった。夜は十二時を過ごしていた。何という町の冬霧だ。とうとうタクシは公園へ来た。その公園を突っ切った。××町まで遣って来た。こんな飛んでもない贋金は、早く早く返さなければならない! 「停めろ!」と私は呶鳴るように云った。  徐行し、そうして停車した。 「どのお家! 佐伯さんのお家は?」  妻が私に呟いた。私は窓から覗いて見た。 「ご覧」と私は唾を飲んだ。 「赤い警察の提燈が、チラツイているあの屋敷だ」  妻も唾を飲んだらしい。運転手が扉を開けようとした。 「待て」と私は嗄声で制した。窓のカーテンを掻い遣った。妻の鬢の毛が頬に触れた。  佐伯家の厳めしい表門が、一杯に左右に押し開けられていた。赤筋の入った提燈が、二つ三つ走り廻っていた。遠巻きにした見物が、静まり返って眺めていた。門の家根から空の方へ、松の木がニョッキリ突き出していた。遥かの町の四つ角を、終電車が通って行った。  刺すような静寂が漲っていた。 「おい、運転手君、引っ返しておくれ」  ──で、タクシは引っ返した。  彼女は何とも云わなかった。彼女の肩が腕の辺りで、生暖かく震えていた。  何か捨白が言いたくなった。 「捕り物の静けさっていうやつさね。旅行しますと云ったっけ。ははあ刑務所のことだったのか。佐伯君、警句だぞ」  勿論腹の中で云ったのであった。 12  その翌日の新聞は、刺戟的の記事で充たされていた。大標題だけを上げることにしよう。 国際的大詐欺師 佐伯準一郎捕縛さる  勿論特号活字であった。  欧米、南洋、支那、近東、こういう方面を舞台とし、十数年間組織的詐欺を、働いていたということや、日本知名の富豪紳士にも、被害者があるということや、数ヶ月前名古屋に入り込み、ために司法部の活動となり、捜索をしていたということや、昨夜何者か密告者があって、始めて所在を知ったということや、家宅捜索をした所、贋物の骨董があったばかりで金目の物のなかったということや、書生や女中は新米で、様子を知らなかったということや、××町の屋敷へは、ほんの最近に移って来たので、まだ近所への交際さえ、はじめていなかったということや、最後に至って別標題を附け、国際的陰謀の秘密結社に、関係あるらしいということなどが、三段に渡って記されてあった。  私と妻とは眼を見合わせた。どうしていいか解らなかった。白金に違いないと思われる、銀三十枚を携えて、警察へ訴え出ることが、とるべき至当の手段ではあったが、そのため同類と疑われ、種々うるさい取り調べを受け、新聞などへ書かれることが、どうにも不愉快でならなかった。と云って保存して置いたなら、いわゆる贓物隠匿として、露見した場合には必然的に、刑事問題を惹き起こすだろう。 「おい、どうしたものだろう?」 「さあ、ねえ」と彼女は考え込んだ。 「訴えて出るのが至当でしょうね」 「うん」と私は考え込んだ。 「変にえこじに調べられると、カッと逆上する性質だからなあ」 「それに貴郎はお忙しいんでしょう」 「うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう」 「それが一番困りますわね」  彼女は熱心に考え込んだ。  大方の芸術家がそうであるように、一面私は神経質で、他面私は放胆であった。又一面洒落者で他面著しく物臭であった。宿命的病気に取っ付かれて以来、その程度が烈しくなった。この病気の特徴として、いつも精神が興奮した。  だが私は私の病気を、祝福したいような時もあった。「空想」が奔馳して来るからであった。本来私という人間は、空想的の人間であった。空想には不自由しなかった。それが病気になって以来、その量が一層増したらしい。空で行なわれているエーテルの建築! それを破壊する電子の群れ! そんなものが私には、「見える」のであった。だがまだ私は霊媒ではなかった。しかし早晩なるだろう。他界の消息、黄泉の通信、幽霊達の訴言、そういうものだって知ることが出来よう。  物を書きながら苦しむことがあった。後から後からと空想が、駈け足で追っかけて来るからであった。文字にして原稿紙へ書き取る暇さえ、ゆっくり与えてはくれないからであった。そんな時私はゴロリと寝た。動悸の烈しい心臓を抑え、空想の駈け抜けるのを待つのであった。  町を歩きながら立ち止まり、電信柱へ倚りかかり、湧き上って来る空想を、鼻紙の上へ書いたりした。  ある夜空想が湧き上って来た。折悪しく鼻紙を持っていなかった。一軒の商店の板壁へ、万年筆で書き付けた。そうして翌朝出かけて行き、写し取って来たような事さえあった。  今に私は往来の人の、背中へ紙をおっ付けて、そこで書くようになるかもしれない。  創作力に充満ていた。それをこんなつまらないことで、破壊されるのは厭だった。  急に妻は変に笑った。ゾッとするような笑い方であった。それから私をからかい出した。 「無理はないわね、貴郎としては。そうら出入りの呉服屋さん、ちょっと相場で儲けたと云って、白金の腕時計を巻いて来たらニッケルにしちゃアいい艶だって、こんな事を云ったじゃアありませんか、そうかと思うと妾の時計、そりゃあニッケルとしては類なしで、金時計より高価んですけれど、こいつア素晴らしい白金だって、大騒ぎをしたじゃアありませんか。白金だか銀だか解らないのは、ちっとも不思議じゃアありませんわね」 13 「何だ莫迦め!」と呶鳴り付けた。 「そんな事を云い出して何になるんだ」  だが彼女はますます笑い、ますます私をからかった。 「貴郎、ペテンに掛かったのよ。ええそうとしか思われないわ。でもどうしてこんなペテンに? いいえさ佐伯とかいう大詐欺師が、どうしてこんな変なペテンに、引っかけなければならなかったんでしょう? 儲かることでもないのにね。かえって大変な損をするのに。これには奥底があるんだわ。そうとしきゃア思われないわ。恐いわねえ、どうしましょう。返していらっしゃいよ、さあ直ぐに」 「莫迦め!」と私はまた呶鳴った。 「牢屋へ持ってって返せってのか」 「では貴郎には手が着かないのね?」  にわかに彼女は冷静になった。 「妾にお委せなさいまし」 「で、お前はどうするつもりだい?」 「貴郎それをお聞きになりたいの? では自分でなさるがいいわ」  彼女は再び揶揄的になった。 「だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら」 「だが俺には手が出ないよ」 「お書きなさいまし、原稿をね」  それは歌うような調子であった。 「そうして何にも思わないがいいわ。食い付きなさいまし、お仕事にね。貴郎は可愛いお馬鹿ちゃんよ。組織立ったことをさせるのは、それは無理と云うものよ。お信じなさいまし、妾をね」  私は彼女へ委せてしまった。何にも考えないことにした。さあ仕事だ! さあ創作だ! 空想よ駈り立ててくれ!  年が改たまって新年となった。  妻の様子が変わって来た。  彼女と私とは恋愛によって、一緒になった夫婦であった。彼女は私を愛していた。ところがこの頃愛さなくなった。 「ねえ、お馬鹿ちゃん」 「ねえ、凸坊」  これが私への愛称であった。この頃ではそれを封じてしまった。彼女はひどく剽軽であった。途方もない警句を頻発しては、私を素晴らしく喜ばせてくれた。 「ね、ご覧なさいよ、ベッキイちゃんを、てまつくしているじゃアありませんか」  よく彼女はこんなことを云った。ベッキイというのは飼い犬であった。活動俳優の天才少女、ベビー・ベッキイの名を取って、彼女が命名けた犬の名であった。てまつくというのは手枕のことで、その飼い犬が寝ている様子を、そう形容して云ったのであった。  これは何でもない云い方かもしれない。しかし彼女が云う時は、光景が躍如とするのであった。犬ではなくて人間の、可愛い可愛いベッキイという少女が、さも愛くるしく手枕をして、眠っているように思われるのであった。  しかし彼女はこの頃では、もうそんなことも云わなくなった。私が散歩でもしようとすると、彼女はきっと呼び止めた。立ったまま私を抱き介え、少しおデコの彼女の額を、私の額へピッタリと食っ付け、梟のように眼を見張り、嚇かすように頬を膨らせ、 「いい事よ、行っていらっしゃい」  こう云ってようやく放してくれた。が、それも遣らなくなった。  泣くことの好きな女であった。ある朝私は顔を洗い、冷たい手をして居間へ行った。と、彼女が化粧をしていた。胸が蒼白くて綺麗だった。冷たい手先をおっ附けてやった。それが悲しいといって泣き出した。大変美しい泣き方であった。勿論拵えた媚態であった。それが彼女には似つかわしかった。が、それもやらなくなった。  笑うことの上手な女であった。「無智の笑い方」が上手であった。利口な彼女が笑い出すと、無智な無邪気な女に見えた。それこそ実際男にとっては、有難い笑いと云わなければならない。瞬間に苦労が癒えるからであった。が、それもやらなくなった。  彼女は不思議な女であった。千里眼的の所があった。ウイスキイの二三杯もひっかけて──私は元は非常な豪酒で、一升の酒は苦しまずに飲んだ──門の格子を静かにあけると、きっと彼女は云ったものである。 「ご機嫌ね、柄にないわ」  ……時々交際で旗亭へ行き、さり気なく家へ帰って来ると、三間も離れて居りながら、 「厭な凸坊、キスしたのね。若い綺麗な芸子さんと。襟に白粉が着いてるわ」  ……だが彼女はこの頃では、もうそんな事も云わなくなった。  私が戸外で何をしようと、気に掛けようとはしなかった。  これは一体どうしたのだろう? 何が彼女を変えたのだろう?  彼女は丸髷が好きであった。いつかそれを王女髷に変えた。  家に居たがる女であった。ところがこの頃では用もないのに、戸外へばかり出たがった。  驚くべきことが発見された。彼女は実に僅かな間に、奇蹟的に美しくなり、奇蹟的に気高くなった。 「美粧倶楽部へでも行くのだな。恋人でも出来たのではあるまいか? 恋人が出来ると女という者は、急に美しくなるものだ」  私の心は痛くなった。憂鬱にならざるを得なかった。 14  仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻煙草を喫かしていた。煙草を支えた左手の指に、大きなダイヤが輝いていた。 「その指環は?」と私は云った。  私の知らない指環であった。  彼女は無言で指を延ばした。そうしてじっとダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り! 微妙な調和! 何と貴族的の趣味ではないか! 彫刻のような彼女の顔! 今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い? そうではない! 娼婦マリヤ・マグダレナの笑い!  私は瞬間に退治られた。  数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯! 金具! 高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。  そこで私は懇願した。 「話しておくれ、どうしたのだ?」  ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。 「おい!」と私は威猛高になった。 「処分したな、贓物を!」 「貴郎」と彼女は水のように云った。 「贓物ですって? 下等な言葉ね」 「売ったのだろう! 白金を!」 「貴郎」と彼女は繰り返した。 「約束でしたわね、訊かないと云う」  彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。  大詰の前の一齣が来た。  円頓寺街路を歩いていた。霧の深い夜であった。背後から自動車が駛って来た。 「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。  危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から義歯を見せた。紳士にも私は見覚えがあった。当市一流の紳商であった。新聞雑誌で知っていた。六十を過ごした老人で精力絶倫と好色とで、世間に有名な老紳士であった。  私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を曲め背を丸め、顔を低く地に垂れた。そうして撲たれた犬のように、ヨロヨロと横へ蹣跚いた、私は何かへ縋り付こうとした。  冷たい物が手に触れた。それは入口の扉であった。私は内へ吸い込まれた。  真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。  珈琲店であった。鏡であった。私は写っていたのであった。  イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。みんな別々の意味において。そうして今や私が呪う。憎むべき銀三十枚を!  人は信仰を奪われた時、一朝にして無神論者となる。  人は愛情を裏切られた時、一朝にして虚無思想家となる。  ユダの運命がそれであった。  私は私の思想として、ユダの無神論と虚無思想とを、自分の心に所有っていた。  今や私は感情として、それを持たなければならなかった。  今、私はユダであった。 「助けて下さい! 助けて下さい!」  私は救いを求めるようになった。  しかし救いはどこにもなかった。  一つある!  基督だ!  キリストを売ったイスカリオテのユダは、売った後でキリストを求めただろう! 15  これがいよいよ大詰かもしれない。  その夜私は公園にいた。彷徨ってそこ迄行ったのであった。詐欺師と邂逅ったロハ台へ、私は一人で腰をかけていた。生暖かい夜風、咽るような花の香、春蘭の咲く季節であった。噴水はすでに眠っていた。音楽堂には燈がなかった。日曜の晩でないからであった。公園には誰もいなかった。ひっそりとして寂しかった。夜は随分深かった。月が空にひっ懸かっていた。靄が木間に立ち迷っていた。物の陰が淡く見えた。  私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく進んでいた。心臓の動悸、指頭の顫え、私は全然中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。  誰も介抱してくれなかった。  お母様! お母様!  実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。 「もう一呼吸だ。指先でいい。ちょっと背後から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」  私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。 「もう一呼吸だ。指先でいい」  その時自動車の音がした。  私は反射的に飛び上った。  病院の方角から自動車が、こっちへ向かって駛って来た。私の眼前を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。車内は桃色に明るかった。柔かいクッション、馨しい香水、二人はきっと幸福なんだろう。顔を突き合わせて話していた。一瞬の間に過ぎ去った。月光が車葢に滴っていた。タラタラと露が垂れそうだった。都会の空は赤かった。その方から警笛が聞こえてきた。 「もういい」と私は自分へ云った。  最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。 「ユダも縊れて死んだはずだ」  木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。 「脆そうな木だ。折れるかもしれない」  もう一本の木へ手を触れた。  その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。  私は静かに振り返った。  一人の男が立っていた。  鳥打を頭に載っけていた。足に雪駄をつっかけていた。  私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。  この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。 「どうしたね?」とその男が云った。 「…………」 「黙っていては解らない」  刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。 「不心得をしてはいけないよ」  むしろ訓すような声であった。 「無教育の人間とも見えないが」  刑事は私の足許を見た。 「君、どこに住んでるね」 「市内西区児玉町」 「何だね、一体、商売は?」  私は返事をしなかった。 「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」  刑事は背中を向けようとした。 「僕に家なんかあるものか」 「何イ!」と刑事は振り返った。 「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」 「家はあるよ。……だがないんだ」  刑事はしばらく睨んでいた。 「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」 「妻君」と私は肩を上げた。 「妻君は自動車に乗ってったよ」 16  刑事はちょっと考えた。 「ふふん、こいつ狂人だな。……死にたければ勝手に死ぬがいい。だがここは俺の管轄だ。……他へ行ってぶら下るがいい」 「妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな」 「これは可笑しい」と刑事は云った。 「それじゃアあの女を知ってるのか。俺の狙けてる淫売だが」 「あれが僕の妻君さ」  私は何かに駈り立てられた。畜生! こいつを吃驚させてやれ! 「君、あいつは詐欺師なんだ。あいつは白金を詐欺したんだ。……勿論君も知ってるだろう、大詐欺師の佐伯準一郎ね、ありゃアあいつの片割れなんだ」  刑事はじっと聞き澄ましていた。 「捕縛したまえ。手柄になるぜ」  刑事は急に緊張した。だがすぐに揶揄的になった。 「君のような狂人の妻君に、あんな別嬪がなるものか。まあまあいいから帰りたまえ」  たくましい手をグイと延ばし、私の腕をひっ掴んだ。 「お前、金は持ってるのか?」 「うん」と私は頷いて見せた。 「いくらあるね、云って見給え」 「袂にあるんだ、蟇口がな。いくらあるか知るものか」  刑事は腕から手を放した。 「調べてやろう、出したまえ」  私は袂から蟇口を出した。 「それ五円だ。それ赤銭だ。それ十銭だ。それ五円だ。まだあるぜ、それ十円だ」 「よしよし」と刑事は頷いた。 「それだけありゃア結構じゃアないか。歩いた歩いた送ってやろう。どうも手数のかかる奴だ」  また腕をひっ掴んだ。町の方へ引っ張って行った。私は変に愉快になった。で、のべつにまくし立てた。 「莫迦だなあ刑事君、あの女は詐欺師なんだ。白金三十枚を隠しているんだ、一枚や二枚は使ったろう。とても大きな白金なんだ。五十匁ぐらいはあるだろう。たった一枚で三千円だ。それがみんなで三十枚あるんだ。佐伯の物だ、大詐欺師のな。最初に俺が借りたんだ。そいつをあいつが取っちゃったんだ。あっ痛え! そう引っ張るな! 嘘じゃアねえ、本当のことだ。大馬鹿野郎め、ふん掴まえてしまえ! 引っかかったんだよ、ペテンにな。捕縛されるのが解ってたんだ。俺は文士だ、小説書きだ。そこをきゃつが狙ったんだ。でたらめの話をしやがって、俺の好奇心をそそりゃアがって、そいつを俺に預けやがったんだ。古いペテンだ、古いとも。牢から出ると取りに来るやつよ。いい隠し所を目つけたって訳さ。本当の事だ、信用しろ。家捜ししなよ、俺の家を、きっとどこかにあるだろう。……そこは女のあさましさだ。眼がクラクラと眩んだんだ。うん、白金を手に入れるとな。すっかり変わってしまやアがった。……」  刑事はニヤニヤ笑っていた。公園を出ると町であった。右角に貸自動車の待合があった。 「おい、自動車」と刑事は呼んだ。 「へい」と運転手が走って来た。 「この男を載っけてくれ」  すぐ自動車が引き出された。私はその中へ押し込まれた。 「金は持ってる、大丈夫だ。中村へでも送り込んでやれ。遊廓で一晩遊ばせてやれ」  こう云うと刑事は愉快そうに笑った。ひどく人のいい笑い方であった。  ゴーッと自動車は動き出した。  彼女は彼女の生活をした。私は私の生活をした。家庭生活は破壊された。だが一緒には住んでいた。彼女はますます美しくなった。近付きがたいまでに美しくなった。そうして素晴らしく高貴になった。 「貴女様は一体何人様で?」  こう云いたいような女になった。  行くべき所へ行き着いてしまった。私は放蕩に耽るようになった。酒だ! 女だ! 寝泊りだ!  ある時ある所で三日泊まった。四日目の夕方帰って来た。  と、貸家札が張られてあった。 「鳥は逃げた!」と私は云った。 「オフェリヤ殿、オフェリヤ殿、尼寺へでもお行きやれ」  シェイクスピアの白が浮かんできた。 「尼寺なものか、極楽だ! マリア・マグダレナは極楽へ飛んだ」  私は大声で笑おうとした。が反対に胴顫いがした。 「だが、予定の行動を」  私は踵を返そうとした。 「お神さんえ、どうぞ一文、よし、俺は乞食になろう!」 「もし」とその時呼ぶ声がした。  側に小男が立っていた。 「へえへえ」と私は手を揉んだ。 「旦那様え、何かご用で?」  乞食の稽古をやり出した。 17 「貴郎はここのご主人で?」  その洋服の紳士は云った。 「へえへえ左様で、昔はね。今は立ん棒でございますよ」  その紳士は微笑した。 「奥様からのお伝言で。あるよい家が目つかりましたので、昨日お移りなさいましたそうで。それで、お迎えに参りました」 「一体貴郎様はどういうお方で?」 「へい、タクシの運転手で」 「すぐ載っけろ! 馬鹿野郎!」 街に落つる物の音 雨にはあらで落葉なる 明るき蒼き瓦斯の燈に さまよう物は残れる蛾  廃頽詩人ヴェルレイヌ、卿だけだ! 知っている者は! 秋の呼吸を、落葉の心を、ひとり死に残った蛾の魂を。  私のタクシは駛っていた。  街路樹がその葉をこぼしていた。人々は外套を鎧っていた。寒そうに首をすっ込めていた。冬がそこまで歩いて来ていた。白無垢姿の冬であった。 「俺も長い間苦しんだなあ」  クッションへ蹲って考えた。 「もう堪忍してくれないかなあ」  私はじっと瞑目した。 「でなかったら葬ってくれ。落葉がいいよ、朴の落葉が」  私のタクシは駛っていた。 「泣けたらどんなにいいだろう」  おずおず眼をあけて車外を覗いた。  そこは賑かな広小路であった。冬物が飾り窓に並べられてあった。それを覗いている女があった。寒そうに髱がそそけ立っていた。巨大な建物の前を過ぎた。明治銀行に相違なかった。地下室へ下りて行く夫婦連があった。食堂で珈琲を啜るのだろう。また巨大な建物があった。旧伊藤呉服店であった。タクシはそこから右へ曲った。少し町が寂しくなった。タクシは大津町を駛って行った。私はまたも瞑目した。  立派な屋敷の前へ来た。自動車から下りなければならなかった。厳めしい門が立っていた。黒板壁がかかっていた。  運転手は一揖した。 「はい、お屋敷へ参りました」  私は無言で表札を見上げた。一條寓と記されてあった。  潜戸を開けて入って行った。玄関まで八間はあったろう。スベスベの石畳が敷き詰めてあった。しっとりと露が下りていた。高い松の植込みがあった。 「家賃にして三百円!」  譫言のように呟いた。  私は玄関の前に立った。  と、障子がスーと開いた。  妻か? いやいや知らない婦人が、恭しく手をついてかしこまっていた。 「旦那様お帰り遊ばしませ」  女は島田に結っていた。 「……で、貴女は?」と私は訊いた。  自動車の帰って行く音がした。 「はい、妾、小間使で」  私はヌッと玄関を上った。 「うん。ところで山神は?」  直ぐ左手に応接間があった。その扉が開いていた。それは洋風の応接間であった。 「あの、お寝みでございます」 「伯爵夫人はお寝みか」  私は応接間へ入って行った。  一つの力に引き入れられたのであった。  その応接間には見覚えがあった。  佐伯準一郎氏の応接間であった。 18  爾来私達はその家に住んだ。  彼女は依然として出歩いた。あたかもそれが日課のように。  彼女は入念にお化粧をした。あたかもそれが日課のように。  毎朝牛乳で顔を洗った。  とりわけ爪の手入れをした。これにはもっともの理由があった。他がどんなに綺麗でも、爪に一点の斑点があったら、貴族の婦人とは見えないからであった。  彼女は耳髱に注意した。耳髱はいつもピンク色であった。それが彼女を若々しく見せた。  彼女は踵に注意した。いつも円さと滑らかさと、花弁の色とを保っていた。  耳の穴、鼻の穴に注意した。  だが顔色は蒼白かった。それも彼女の好嗜からであった。血色のよい赦ら顔は、田舎者に間違えられる恐れがあった。都会の貴婦人というものは、蒼い顔でなければ面白くない。どうやら彼女は仏蘭西あたりの、青色の白粉を使うらしい。  臀部が目立って小さくなった。そうして腰が細くなった。彼女の姿勢は立ち勝って来た。  肌が真珠色に艶めいて来た。それは冷たそうな艶であった。  肌理が絹のように細かくなった。  きっと滑らかなことだろう。  だが触れることは出来なかった。彼女がそれを断わるからであった。  遥拝しなければならなかった。  又その方がある意味から云って、私にとっても幸せであった。うっかり障って手が辷って、転びでもしたら困るからであった。 「ああ彼女には洋装が似合う」  ある時私はつくづく云った。決して揶揄的の讃辞ではなかった。  その心配は無用であった。  翌日洋装が届けられた。肌色と同じ真珠色であった。  それを着て彼女は出かけようとした。  チラリと私の顔を見た。瞼を二度ばかり叩いて見せた。  命ずるような眼付きであった。  私は周章て腰をかがめた。  裳裾を捧げようとしたのであった。ひどく気の利く小姓のように。  その配慮は無用であった。  今日流行の洋装は、長い裳裾などはないからであった。股の見えるほど短かいはずだ。  時々彼女は私へ云った。 「高尚にね。高尚にね。貴郎もどうぞ高尚にね」  で私は腹の中で云った。 「まだこの女は成り切れない。そうさ貴族の夫人にはな! 『高尚にね、高尚にね、どうぞ御前様貴郎様もね、高尚にお成り遊ばしませ!』こう云わなけりゃアイタに付かねえ」  この心配も無用であった。彼女はほんとに翌日から、遊ばせ言葉を使うようになった。  もう贋物には見えなかった。  生れながらのおデコさえ、どうしたものか目立たなくなった。  下手に嵌め込まれた義歯さえ、どうしたものか目立たなくなった。  歯並の立派な誰かの歯と、きっと換えっこしたのだろう。  彼女の身長は高かった。それが一層高く見えた。爪立ち歩く様子もないが。──姿勢のよくなったためだろう。  彼女は毎日美食をした。洋食! 洋食! 油っこい物!  勿論私へも美食を進めた。私はあまり食べなかった。  一日に幾度も衣裳を変えた。しかも正式に変えたのであった。これも貴婦人の習慣であった。  そうして私へもそれを進めた。  私は心でこう叫んだ。 「謀叛人の女が良人を進め、同じ謀叛人にしようとしている! マクベス夫人の心持だ!」  そうして私には感ぜられた、悲痛なマクベスの心持が。  彼女は定まって一人で外出た。どんな事があってもこの私と、連れ立って歩こうとはしなかった。  良人のあるということを、隠したがっているらしかった。  家財道具が新調された。黒壇細工! 埋木細工!  植木屋が庭の手入れに来た。鋏の音が庭に充ちた。  大工が部屋の手入れに来た。鉋の音が部屋に充ちた。  屋敷が次第に立派になった。 「そうさ、伽藍がよくなければ、仏像に価値がつかないからな」  ある夕方自動車が着いた。  彼女は洋装で出かけて行った。  私は玄関まで従いて行った。それ、例の小姓のように。  自動車は自家用の大型物であった。  自動車の中に紳士がいた。顎鬚を撫して笑っていた。この市の有名な市長であった。 「ははあ誘いに来たのだな。大方ホテルへでも行くのだろう。夜会だな、結構なことだ。……俺は書生部屋で豚でもつつこう」  だが一体どうしたことだ? 一晩も泊まっては来ないではないか。  どんなに遅くとも帰って来た。 「遠慮はいらない。泊まっておいでよ」  私は心で云ったものである。 「大方の貴婦人というものは、時々紳士と泊まるものだ。それも鍛練の一つじゃないか。何の私が怒るものか。また怒り切れるものでもない。第一お前はいつの間にか、絶対に私を怒らせないように、上手に仕込んでしまったではないか」 19  それは初冬のある日であった。私は書斎の長椅子にころがり、氈にふかふかと包まれながら、とりとめのないことを考えていた。彼女はその日も留守であった。本当に「彼女」というこの言葉は、彼女にうってつけの言葉であった。彼女と私とは他人であった。……三人称で呼ぶべきであった。 「物質的には食傷している。精神的には空腹だ。これが現在の生活だ。変に跛者の生活だなア」  私は氈を撫で廻した。 「この毛並の軟らかさ、朝鮮産の虎の皮、決して安くはなさそうだ。児玉町に住んでいた頃には、空想する事さえ許されなかった品だ。そいつにふかふかと包まれている。さて私よ。幸福かね?」  そこで私は私へ答えた。 「悲しいことには幸福ではないよ」  私は正面の壁を見た。勿論小品ではあったけれど、模写ではないマチスの本物が、似合の額縁に嵌められて、ちょうどいい位置に掛けられてあった。 「彼女が買って来た絵だろうか? それとも色眼の報酬として、某紳商の美術館から、かっぱらって来た絵だろうか? 本物のマチス、銀灰色の縁、狂いのない掲げ振り、よく調子が取れている。将しく彼女には審美眼がある。だが以前の彼女には、すくなくともマチスに憧憬れるような、そんな繊細な審美眼は、なかったように思われる。長足の進歩をしたものさなあ。もっとも驚くにはあたらない。彼女は伯爵夫人だからな」  私はまたもや私へ云った。 「よろしい彼女は伯爵夫人だ。それはどうしても認めなければならない。ところでここに困ったことには、彼女が伯爵夫人なら、ともかくも良人たるこの私は、自然伯爵でなければならない。私よ、伯爵を引き受けるかね?」  私は私へ云い返した。 「いいや私には荷が勝っているよ。けっきょく私は引き受けないよ。何故だと君は訊くのかい? 説明しよう。こういう訳だ。虹と宝石と香水と、こういう物に蔽われている、深い泥沼があったとしたら、誰だって住むのは厭じゃアないか。孑孑でない限りはね。ところで伯爵で居たかったら、そこに住まなければならないのだよ。と云うのは現在の生活が、その泥沼の生活だからさ」  大して気の利いた譬喩でもなかった。 「まあさ、それはそれとして、彼女は伯爵夫人だのに、どうして料理人を雇わないのだろう?」  私はこんな事を考え出した。 「二人の女中、一人の書生、五人ぐらしとは貧弱だなあ。夫人よ是非ともお雇いなさい。そうしたら私は献立を命ずる『安眠』という献立をね」  私は安眠さえ得られなかった。 「助けて下さい! 助けて下さい!」  依然として救いを求めていた。  救ってくれるものがあるだろうか?  あれば彼だ! 基督だ! だが現代の基督は、どんな姿で現われるだろう?  私は漸時皮肉になった。私は漸時忍従的になった。だがいつも脅かされていた。 「きゃつは詐欺師だ、殺人犯ではない。五年か十年、刑期さえ終えたら、出獄するに相違ない。取りに来るぞ、銀三十枚! どうしたらいいのだ。返すことは出来ない! 彼女はその間に使ってしまうだろう」  だが人間というものは、そのドン底まで追い詰められると、反動的勇気に駈られるものであった。ある日私は自分へ云った。 「基督を求めるには及ばない。他力本願は卑怯者の手段だ。自分のことは自分でするがいい」  で私はすることにした。  そこで私は「左様なら」と云った。  直接彼女へ云ったのではなかった。泥沼の生活へ云ったのであった。  そうして「左様なら」を実行した。大した勇気もいらなかった。ほんの簡単に実行された。  何にも持たずに家出をし、お城近くの安下宿へ、私は下宿をしたのであった。  お城の堀と石垣と、松との見える小さな部屋へ、私は体を落ちつけた。  霧深い厳冬のことであった。 「彼女が驚こうが驚くまいが、私の知ったことではない。彼女が探そうが探すまいが。私の知ったことではない。とにかく私は彼女を捨た。私にとっては一飛躍だ」  不思議と私の心の中は、ある平和が返って来た。ひどく苦しんだ人間だけが、感ずる事の出来る平和であった。 「ひょっとすると創作が出来るかもしれない」  で私はペンを執って見た。楽にスラスラと書くことが出来た。思想と感情とが統一された。バラバラなものが纏まった。空想さえも湧いて来た。 「少しの努力をしさえしたら、昔の私になれるかもしれない。……書けさえすれば私はいいのだ」  生活の上の不安はあった。しかし原稿が売れさえしたら、下宿代ぐらいは払えそうであった。 「贅沢な生活には懲りている。だからそれへの欲望はない。これは大変有難いことだ一つ一つ欲望を抑えて行って、うんと単純の生活をしよう」 20  性慾の方も抑えることが出来た。  私は長い間彼女のために「性のお預け」を食わされていた。いつの間にかそれが慣い性になった。それにもう一つ率直に云えば、私は異性に懲々していた。 「彼女のことを忘れなければならない!」  これも困難ではなさそうであった。しかし努力と月日との、助けを借りなければならなかった。  まずまず平和と云ってよかった。  一人ぼっちの生活は、こうして静かに流れて行って、体も徐々に恢復した。神経も次第に強くなった。事件以前の私よりもかえって健康になれそうであった。  規則正しい生活をした。早く起きて早く寝た。慣れるとそれにさえ興味が持てた。貧弱な下宿の食膳をさえ、三度々々食べることにした。慣れるとそれにさえ美味を覚えた。  こっそり町を散歩した。精々珈琲店へ寄るぐらいであった。酒も煙草も廃めてしまった。で、珈琲店では曹達水を飲んだ。 「文字通りの清教徒さ」  私は聖書を読むようになった。昔とは全然異って見えた。こんな言葉が身に滲みた。 「貧しき者は福なり」「哀む者は福なり」「柔和なる者は福なり」「矜恤する者は福なり」「平和を求むる者は福なり」 「不思議だなあ」と私は云った。 「事件以前の私だったら、卑屈な去勢的言葉として、一笑に付してしまっただろうに、今の私にはそうは取れない」 「不思議ではない」と私は云った。 「苦しみ悩んだ基督の思想は、苦しんだ者でなければ解らない」  そうして尚も私は云った。 「これは平凡な解釈だ。だが平凡でもいいではないか」  私は一種の法悦を感じた。 「容易に私は動揺されまい」  こんなようにさえ思うようになった。  そうしてそれは本当であった。  ある朝私は自分の部屋で、紅茶を淹れて飲んでいた。  私の前に新聞があった。一つの記事が眼を引いた。 「佐伯準一郎放免さる。理由は証拠不充分」  私は動揺されなかった。しかし、 「さぞ彼女は驚いたろうなあ」と、彼女を愍れむ心持は動いた。  で私は呟いた。 「彼女よ。うまく切り抜けてくれ」  決して皮肉でも何でもなかった。私は心から願ったのであった。彼女を憎む感情などは、いつの間にか私からなくなっていた。それとは反対に愍れみの情が、私の心に芽生えていた。  翌日私は散歩した。二月上旬の曇った日で、町には人出が少なかった。公園の方へ歩いて行った。公園にも人はいなかった。花壇にも花は咲いていなかった。ただ冬薔薇が二三輪、寒そうに花弁を顫わせていた。  私はロハ台に腰を下ろした。佐伯氏と逢ったロハ台であった。音楽堂が正面にあり、裸体の柱が灰色に見えた。  と、誰か私の横へ、こっそり腰かける気勢がした。プンと葉巻の匂いがした。私はぼんやりと考えていた。 「少しお痩せになりましたね」  こう云う声が聞こえてきた。私はそっちへ顔を向けた。一人の紳士が微笑していた。毛皮の外套を纏っていた。それは佐伯準一郎氏であった。 「これはしばらく」と私は云った。  私は動揺されなかった。ただまじまじと相手を見た。佐伯氏は変わってはいなかった。脂肪質の赧ら顔は、昔ながらに健康そうであった。永い未決の生活などを、経て来た人とは見えなかった。 「ただ今奥様とお逢いして来ました」  相変わらず慇懃の態度で云った。 「今はちょうどその帰りで」 「ああ左様でございますか」 「貴郎この頃お留守だそうで」 「ええ」と私は微笑した。  急に佐伯氏は黙り込んだ。林の方をじっと見た。そっちから人影が現われた。それは逞しい外人であった。  不意に佐伯氏は立ち上った。それからひどく早口に云った。 21 「私は大変急いで居ります。くだくだしい事は申しますまい。いずれ奥様がお話ししましょう。……さて例の銀三十枚、あれを頂戴に上ったのでした。しかし奥様にお目にかかり、私の考えは変わりました。……進呈することに致しました。いえ貴郎にではありません。貴郎の奥様へ差し上げたので。……奥様は大変お美しい。そうして大変大胆です。何と申したらよろしいか。とにかく私は退治られました。色々の婦人にも接しましたが、奥様のようなご婦人には、お目にかかったことはございません。……で、私は申し上げます。ちっともご心配はいりませんとね。銀三十枚と私とは、今日限り縁が切れました。あれは貴郎方お二人の物です。もしもこれ迄あの金のために、ご苦労なされたと致しましても、今後はご無用に願います。……全く立派なご婦人ですなア。……今度こそ私は間違いなく、日本の国を立ち去ります。ご機嫌よろしゅう。ご機嫌よろしゅう」  ロハ台を離れて大股に、町の方へ歩いて行った。  と、二人の外人が、その後を追うように歩いて行った。  噴水の向こうに隠れてしまった。  私はロハ台から離れなかった。だが私は呟いた。 「ひとつ彼女を祝福しに行こう」  それでもロハ台から離れなかった。 「大金が彼女の懐中へ入った。そのため私は行くのではない。……だが確かめて見たいものだ」  私は公園を横切った。町へ姿を現わした。それから電車道を突っ切った。  こうして彼女の家の前へ立った。門を入り玄関へかかった。 「案内を乞うにも及ぶまい」──で私は上って行った。  書斎の扉が開いていた。  大きく茫然と眼を見開き、──白昼に夢を見ているような、特殊な顔を窓の方へ向け、彼女が寝椅子に腰かけていた。  私は書斎へ入って行った。彼女の横へ腰を掛けた。しばらくの間黙っていた。  沈黙が部屋を占領した。  黙っていることは出来なかった。私は厳粛に彼女へ訊いた。 「話しておくれ。ねどうぞ。信じていいのかね、あの人の言葉を? 私はあの人に逢ったのだよ」  だが彼女は黙っていた。ただ弛そうに身を動かした。非常に疲労ているらしかった。  私は厳粛にもう一度訊いた。 「あの高価な白金は、お前の物になったんだね。それを信じていいのだね?」  すると彼女は頷いた。それから私の手を取った。彼女の両手は熱かった。そうして劇しく顫えていた。彼女の咽喉が音を立てた。どうやら固唾を飲んだらしい。  私はその手を静かに放し、書斎を抜けて玄関へ出た。 「やっぱりいけない。この家は」  私は門から外へ出た。 「彼女は一層悪くなった。……嬉しさに心を取り乱している。そいつが移ってはたまらない」  依然として下宿で暮らすことにした。  その翌日のことであった。  何気なく私は夕刊を見た。 「佐伯準一郎惨殺さる。自動車の中にて。……原因不明」  こういう記事が書いてあった。 「少し事件は悪化したな」  さすがに私は竦然とした。 「彼女の仕業ではあるまいか?」  ふと私はこう思った。 「昨日の佐伯氏のあの言葉は、どうも私には疑わしい。あれだけ高価の白金を、ああ早速にくれるはずがない。一度はくれると云ったものの、考え直して惜しくなり、取り返しに行ったのではあるまいか?」  私は理詰めに考えて見た。 「銀三十枚を取り返すため、佐伯氏が彼女を訪問する。彼女はそれを返すまいとする。必然的に衝突が起こる。それが嵩ずれば兇行となる。彼女の性質なら遣りかねない」  翌日の新聞が心待たれた。  だが翌日の新聞には、下手人のことは書いてなかった。 「では彼女ではないのかしら?」  私は幾分ホッとした。 「彼女に平和があるように」  それでも私は気になった。二三日新聞を注意して読んだ。原因も下手人も不明らしかった。それについては書いてなかった。間もなく新聞から記事が消えた。 「これを流行語で云う時は、事件は迷宮に入りにけりさ。……だが大変結構だ」  これも決して皮肉ではなかった。もしも彼女が下手人なら、一緒に住んでいたこの私も、必然的に渦中に入れられ、現在の穏かな生活を、破壊されるに相違ない。それは私の望みでなかった。それにもう一つ何と云っても、彼女は私の妻であった。その女の身に不幸のあるのは、私としては苦しかった。  事件は迷宮に入った方がよかった。  穏かな日が流れて行った。  だが十日とは続かなかった。次のような広告が新聞へ出た。 「銀三十枚の持主へ告げる。△△新聞社迄郵送せよ。報酬として一万円を与う」 22 「これはおかしい」と私は云った。 「銀三十枚の持主といえば、彼女以外にはありそうもない。そいつを請求出来る者は、佐伯準一郎氏の他にはない。だが佐伯氏は殺されている。誰が請求しているのだろう?」  新聞の来るのが待たれるようになった。数日経った新聞に、同じような広告が掲げられてあった。 「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。報酬として二万円を与う」 「報酬金が倍になった」  私の興味は加わった。  数日経った新聞に、同じような広告が載っていた。 「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として三万円を与う」 「十二使徒だけを送れという。深い意味があるらしい。だが私には解らない」  数日経った新聞に、同じような記事が載せてあった。 「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として五万円を与う」 「報酬金が五万円になった」  私の興味は膨張した。  と、また新聞へ広告が出た。 「銀三十枚の持主に告げる。貴女の住居を突き止めた。貴女は東区に住んで居る。十二使徒だけを郵送せよ。もはや報酬は与えない」 「これは不可ない」と私は云った。 「この言葉には脅迫がある。さあ彼女はどうするだろう?」  と、また新聞へ広告が出た。 「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。詐欺師の運命となるなかれ」 「これは恐ろしい脅迫だ!」  私はじっと考え込んだ。 「だが真相はこれで解った。広告主が持主なのだ。貨幣の本の持主なのだ。それを盗んだのが佐伯氏だ。それで佐伯氏の放免を待ち受け、殺して貨幣を取ろうとしたのだ。殺すことには成功したが、取り返すことには失敗した。それは当然と云わなければならない。持っている人間が佐伯氏でなくて、全然別の彼女だったからな。そこでその人は賞を懸けて、貨幣すなわち銀三十枚を、取り返そうと試みたのだ。そうして一方手を尽くして、貨幣の持主を探したのだ。そうして彼女を目つけ出したのだ。……浮雲い浮雲い彼女は浮雲い!」  私の心は動揺した。 「国際的詐欺師の佐伯氏でさえ、容易に殺した人間だ。彼女を殺すぐらい何でもなかろう」  ポッと私の眼の前に、彼女の死骸が浮かんで来た。 「これはうっちゃっては置かれない」  私は急いで下宿を出た。俥に乗って駈け付けた。公園を横切り町へ出た。  彼女の家へ駈け込んだ。  彼女は書斎に腰かけていた。彼女の顔は蒼白であった。銀三十枚が卓の上にあった。  私はツカツカと入って行った。  フッと彼女は眼を上げた。ゾッとするような眼付きであった。 「もう不可ない」と私は云った。 「返しておしまい! 返しておしまい!」 「売りましょう! 売りましょう! 白金を!」  ひっ叩くように彼女は云った。 「持っていなければいいのだわ」  彼女はフラフラと書斎を出た。電話を掛ける声がした。  貴金属商へでも掛けるのだろう。  彼女は書斎へ帰って来た。私と向かって腰を掛けた。だが一言も云わなかった。時々ギリギリと歯軋りをした。  貴金属商の遣って来たのは、それから一時間の後であった。  一枚の貨幣を投げ出した。ソロモンのマークの貨幣であった。  商人は貨幣を一見した。 「これは贋金でございますよ」 「莫迦をお云い!」と彼女は呶鳴った。 「以前一枚売ったんですよ。二つと世界にない質のいい白金! こう云って大金で買ってくれたのに!」 「本物だったのでございましょう。貴女のお売りになった白金は。これは白金ではございません」  商人の言葉は冷淡であった。 「いいのよいいのよそうかもしれない。たくさんあるのよ。白金はね。一枚ぐらいは贋金かもしれない。これはどう? この貨幣は?」  彼女はもう一枚投げ出した。ダビデのマークの貨幣であった。 「これも贋金でございます」  商人の答えは冷淡であった。  私と彼女とは眼を見合わせた。 「ふん、そうかい。贋金かい、白金はたくさんあるんだよ。二枚ぐらいは贋もあろうさ」  彼女は努めて冷静に云った。 「これはどうだろう! この貨幣は?」  また一枚を投げ出した。使徒ポーロのマークの付いた、ぴかぴか光る貨幣であった。 「これは贋金じゃアあるまいね?」  商人は手にさえ取らなかった。 「やはり贋金でございますよ」 「いいわ」と彼女は呻くように云った。  革財布を逆さにした。全部の白金を吐き出した。 「幾枚あるの? 本物は?」 23  商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。 「みんな贋金でございますよ」 「お帰り!」と彼女は呶鳴り付けた。  商人は冷笑して帰って行った。 「いえあいつは廻し者よ! 例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ! 贋金だ贋金だと嘘を吐き、かっさらって行こうとしたんだわ! そんな古手に乗るものか! 電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」  彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。  間もなくタクシがやって来た。  彼女は乗って出て行った。  私は黙然と腰掛けていた。 「彼女はひょっとすると狂人になるぞ」  私はしばらく待っていた。 「この家には用はないはずだ。一応の忠告! それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」  で、私は下宿へ帰った。  数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。 「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」 「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」  とにかく私はホッとした。 「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」  ある日私はこっそりと、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。 「予想通りだ」と私は云った。 「流浪の旅へでも出たのだろう」  私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。  間もなく春が訪れて来た。  やがて晩春初夏となった。  彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。  菖蒲の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。  だんだん私は健康になった。  ある日久しぶりでK博士を訊ねた。  博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。  その日も書斎で物を書いていた。  私はそこで話し込んだ。  と、博士が不意に云った。 「汎猶太主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」 「ああ左様でございますか」 「倫敦タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」  私はちょっと興味を持った。 24 「それが大変探偵的なのです」  博士はいくらか小声になった。 「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の白金貨幣、その紋章のどの辺りかに、巧妙な図案式文字をもって彫み込んであるのだということです。ところで貨幣の紋章ですが、旧約聖書と新約聖書、その中に出て来る人物を、三十人だけ選択し、打ち出してあるということです。基督はじめ十二使徒などは、勿論入っているのですね。その中とりわけ大事なのは、ユダを抜かした十一人の使徒を、打ち出した所の貨幣だそうです。だがまあこれはいいとして、面白いのはその貨幣が、一枚を抜かして二十九枚は、白金ではなくて贋金なのだそうです。つまり勿体を付けるために、白金のようには作ってあるものの、中味は鉛か何かなのですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」 「ははあ」と私は微笑して云った。 「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」 「おや、どうしてご存知です」  博士はさもさも驚いたように、 「仰せの通りそうなのですよ」 「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」 「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」  私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。  それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。  私には一つの疑問があった。 「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」 「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。 「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係はない」  下宿生活が不便になった。 「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」  私は借家を探し出した。  児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。 「おや」と私は思わず云った。  表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。 「おかしいなあ、どうしたんだろう?」  格子の内側に障子があり、障子には硝子が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。 「おや」と私はまた云った。  見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまりとかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。 「粂子!」と私は声を上げた。  と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。  彼女は土間に立っていた。  私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。  彼女の口から啜り泣きが洩れた。 「妾は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を! 妾は純潔でございますの」  彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。 「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」  そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。  彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に対向り、大詐欺師をして屈伏せしめ、白金三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。  そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。  で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。  これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも良人の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。  佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。  そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。──佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。 25  私達は一緒に住むことになった。  最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。  次第に二人は幸福になった。  彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやしたりした。剽軽なことを云ったりした。 「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまきするのよ、まきまきをね」  襟巻を巻けというのであった。 「たあたを穿くのよ。ね、たあたを」  足袋を穿けというのであった。  ある時私はこう云って訊いた。 「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」 「え、したのよ。県知事さんと」  大変サッパリした返辞であった。──それだから私には安心であった。 「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金だと」 「いいえ」と彼女は笑いながら云った。 「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」 「なるほど」と私は胸に落ちた。 「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」  私達二人は平和であった。  しかし私は時々思った。 「キッスぐらいは許したかもしれない」  だが直ぐ私は思い返した。 「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」  穏かに時が流れて行った。  ここに一つ残念なことには──だが良人たる私にとっては、かえってひどく安心な事には、──彼女の容色がにわかに落ちた。  それは苦労をしたからであった。  いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷を担いだため、俄然縹緻を落としてしまった。  精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為のように思われる。  私も随分苦労をした。  年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。  彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長も高くはなくなった。  だがそれも結構ではないか。  美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。  だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。  だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。  真夏が来、真夏が去った。  二人の生活には変わりがなかった。  何でもないことだが云い落とした。  佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?  やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷    1993(平成5)年9月30日初版発行 初出:「新青年」    1926(大正15)年3月~5月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本では「貸す」を一部「借す」としていますが、近世までは多く見られる表記法であり、両者の混在は底本通りにしました。 ※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。 入力:阿和泉拓 校正:湯地光弘 2005年5月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。