赤格子九郎右衛門の娘 国枝史郎 Guide 扉 本文 目 次 赤格子九郎右衛門の娘 何とも云えぬ物凄い睨視!  海賊赤格子九郎右衛門が召捕り処刑になったのは寛延二年三月のことで、所は大阪千日前、弟七郎兵衛、遊女かしく、三人同時に斬られたのである。訴え人は駕籠屋重右衛門。実名船越重右衛門と云えば阿波の大守蜂須賀侯家中で勘定方をしていた人物、剣道無類の達人である。  係りの奉行はその時の月番東町奉行志摩長門守で捕方与力は鈴木利右衛門であった。  処刑された時の九郎右衛門の年は四十五歳と註されている。彼には三人の子供があった。六松、一平、粂というのである。一平は早く病気で死に六松はお園と心中したので今に浄瑠璃に歌われている。  お粂の消息に至っては世間知る人皆無である。しかし作者だけは知っている。──知っていればこそこの物語を書きつづることが出来るのである。  寛延二年から十五年を経た明和元年のことであったが、摂州萩の茶屋の松林に正月三日の夕陽が薄黄色く射していた。  林の中に寮があった。今はすでに役を退いた志摩長門守の隠居所で、大身の旗本であったから二万石三万石の大名などより家計はかえって豊かと見えなかなか立派な寮であった。  寮の座敷では年始の酒宴が、今陽気にひらかれている。 「さあさあ今日は遠慮はいらぬ。破目を外して飲んでくれ。それ一献、受けたり受けたり」  隠居し、今は卜翁と号したが、志摩景元は自分からはしゃいで無礼講の意気を見せるのであった。 「御前もあのように有仰ります。遠慮は禁物でござります。……鈴木様、小宮山様、さあさあお過しなさりませ。おやどうなされました川島様、お酒の一斗も召し上ったように顔を真赤にお染め遊ばして、どれお酌致しましょう、もう一つおあがりなさりませ、……山崎様や、井上様、いつもお強い松井様まで、どうしたことか今日に限って一向にお逸みなされませぬな。さてはお酌がお気に召さぬそうな」 「なんのなんの飛んでもないことで。お菊様の進め上手に、つい平素より度をすごし、眼は廻る、胸は早鐘、苦しんで居るところでございますわい」  鈴木利右衛門はこう云いながらトンと額を叩いたものである。 「お菊お菊、構うことはない、どしどし酒を注いでやれ。何の鈴木がまだ酔うものか」  卜翁は大変なご機嫌でこうお菊をけしかけた。  今日は五人の年始客は、卜翁が役に居った頃部下として使っていた与力であって、心の置けない連中だったので、酒が廻るに従って、勝手に破目を外し出した。袴を取って踊り出すものもあればお菊の弾でる三味線に合わせて渋い喉を聞かせるものも出て来た。それが又卜翁には面白いと見えてご機嫌はよくなるばかりである。  騒ぎ疲労て静まった所で、ふと卜翁は云い出した。 「……御身達いずれも四十以上であろうな。鈴木が年嵩で六十五か。……年を取ってもこの元気じゃもの壮年時代が思いやられる。……さればこそ一世の大海賊赤格子九郎右衛門も遁れることが出来ず、御身達の手に捕えられたのじゃ。……いや全く今から思ってもあれは大きな捕物であったよ」 「はい左様でございますとも」  鈴木利右衛門が膝を進めた。 「まさか海賊赤格子が身分を隠して陸へ上り、安治川一丁目へ酒屋を出し梶屋などという屋号まで付けて商売をやって居ようなどとは夢にも存ぜず居りました所へ、重右衛門の訴人で左様と知った時には仰天したものでございます。……番太まで加えて百人余り、キリキリと家は取り巻いたものの相手は名に負う赤格子です、どんな策略があろうも知れずと、今でこそお話し致しますが尻込みしたものでございます」 「九郎右衛門めは奥の座敷で酒を呑んでいたそうじゃな」 「我々を見ても驚きもせず、悠々と呑んで居りました。その大胆さ小面憎さ、思わずカッと致しまして、飛び込んで行ったものでございます」 「そうしてお前がたった一人で家の中へ飛び込んで行き、九郎右衛門に傷を負わせたため、さすがの九郎右衛門も自由を失い捕えられたということじゃな」 「先ず左様でございますな」  利右衛門はいくらか得意そうに、こう云って頭を下げたものである。  先刻から恐ろしい熱心をもって話を聞いていた美しいお菊は、どうしたものか利右衛門の顔をこの時横眼で睨んだものである。  何とも云えぬ物凄い睨視! 何とも云えぬ殺伐な睨視! 貴殿の背中に白い糸屑が!  しかし勿論誰一人としてお菊の顔色の変わったことに不審を打とうとするものはなかった。  尚ひとしきり赤格子の噂で酒宴の席は賑わった。その中日が暮れ夜となった。銀燭が華やかに座敷に点り肴が新しく並べられ一座はますます興に入り夜の更けるのを知らないようである。  今の時間にして十時過ぎになるとさすがに人々は騒ぎ疲労たらしく次第に座敷は静かになった。 「私少しく遠方でござれば失礼ながらこれで中座を」  こう云って利右衛門は腰を浮かせた。 「もう帰ると? まだよかろう。夜道には日の暮れる心配はない。……もっとも家は遠かったな」 「はい玉造でございますので」 「お前が帰ると云ったなら他の連中も遠慮して一時にバタバタ立ち上ろうもしれぬ。……それでは私が寂しいではないか」と卜翁は子供のように云うのであった。  それでもとうとう利右衛門だけは中座することを許された。それに小宮山彦七も同じく玉造に家があったのでこれも一緒に帰ることになった。二人はお菊に送られて、定まらぬ足付きで玄関まで来ると、掛けてあった合羽を取ろうとした。 「いえお着せ致しましょう」  お菊が代わって素早く取る。 「これはこれは恐縮千万」  など、二人は云いながらも、素晴らしい別嬪の優しい手でフワリと肩へ掛けられるのだから悪い気持もしないらしい。戸外には下男の忠蔵が、身分にも似ない小粋な様子で提燈を持って立っていたが、 「戎ノ宮の藪畳まで、私めお送り申しましょう」 「それには及ばぬ、結構々々。……折角のご主人のご厚意じゃ提燈だけは借りて参ろう」  云いながら利右衛門は手を出した。忠蔵はちょっと渋ったが、それでも提燈は手渡した。 「では、お菊様、よろしくな」  云いすてて二人は歩き出す。 「お大事においで遊ばしませ」  お菊はつつましく手を突いて二人の姿を見送ったが、その眼を返すと忠蔵を見た。  と、忠蔵もお菊を見た。  二人は意味深く笑ったものである。  霜夜に凍った田舎路を、一つの提燈に先を照らし、彦七と利右衛門とは歩いて行く。 「お互い金は欲しいものじゃ」  利右衛門はふとこんなことを云った。 「はてね」と彦七は笑い声を立て、 「今更らしく何を有仰る」 「立派な寮、美しい愛妾。……卜翁様の豪奢振り、何と羨しいではござらぬかな」 「ははアなるほど、そのことでござるかな」  彦七もどうやら胸に落ちたらしく、 「羨しいと申そうか小腹が立つと申そうか、今年六十二の卜翁が曾孫のような十八娘をああやって側へ引き付けて、我々にまで見せ付けられる。……その又妾のお菊というのが、眼の覚めるほど綺麗な上に利口者の世辞上手。……」 「しかも今から一月ほど前に抱えた妾だと申すことじゃ。閨の中まで思い遣られてなアッハハハ」と利右衛門は、卑しい笑い声を立てたものである。  とたんに利右衛門は躓いた。 「あ痛!」と叫んで俯向いた。指の先でも打ったらしい。  一足おくれて歩いていた小宮山彦七は驚いて、つと側へ寄って行ったが、 「あっ!」と叫んで立ち縮んだ。 「大変でござるぞ鈴木氏!」 「なに大変?」と利右衛門の方がかえって驚いて背を延ばしたが、 「はて何事か起こりましたかな? 顫えて居られるではござらぬか!」 「き、貴殿の……せ、背中に……」 「拙者の背中に何がござるな?」 「し、白い、……い、糸屑が……」 「ヒエーッ」と、利右衛門はのけぞったが、よろよろと二三歩後へ退った。  ……と見るや彦七の背中にも一房の白糸が下っている。 「や、や、貴殿の背中にも。……やっぱり同じ白糸が!」 「うわ!」と彦七はそれを聞くと、生気地なくベタベタと地へ坐った。 「エイ!」と右手の藪陰からその時に鋭い掛声が掛かった。 「うむう」と同時に呻き声がした。クルリ体を廻したかと思うと、仰向けに利右衛門は転がった。鋭利な削竹が節元まで深く咽喉に差さっている。 「人殺し!」と、彦七はやにわに喚いて飛び上ったが、  それより早く藪陰からまたも同じ掛声がした。……声と一緒に彦七も霜の大地へころがった。  削竹が咽喉に立っている。 大阪界隈怪盗横行  後は森然と静かである。  さっきから今にも泣き出しそうにどんより曇っていた低い空から霙がパラパラと降って来たが、それさえほんの一瞬間で、止んだ後は尚さびしい。  藪がにわかにガサガサと揺れた。  ひょいと黒い人影が出る。頬冠りに尻端折り、腰の辺りに削竹が五六本たばねられて差さっている。四辺を静かに窺ってからつと死骸へ近寄った。死骸の懐中へ手を突っ込むと財布をズルズルと引き出した。自分の懐中へツルリと入れる。雲切れがして星が出た。  仄かに曲者の顔を照らす。  曲者は下男の忠蔵であった。 「白糸」「削竹」のこの二つは、当時大阪を横行していた一群の怪賊の合言葉であった。そうして慣用の符号でもあった。  白い糸屑を付けられた「者」は必ず殺されなければならなかった。──又白い糸屑を付けられた「家」は必ず襲われなければならなかった。  この怪奇な盗賊の群は今から数えて半年程前から大阪市中へは現われたのであって、一旦現われるや倏忽の間にその勢力を逞しゅうし、大阪市人の恐怖となった。  噂によれば彼等の群はほとんど百人もあるらしく、しかも頭領は人もあろうに妙齢の美女だということであった。──彼等は平気で殺人もしたが町人や百姓には眼もくれず、定まって武士へ向かって行き、好んで町奉行配下の士を暗殺するということであった。  これも同じく噂ではあったが、この盗賊の一群は、大阪市中を流れている蜘蛛手のような堀割を利用し、帆船端艇を繰り廻し、思う所へ横付けにし、電光石火に仕事を行り、再び船へ取って返すや行方をくらますということであった。  勿論東西の町奉行は与力同心に命を含め、この不届きの盗賊共を一網打尽に捕えようとして様々肺肝を砕くのではあったが、彼等の方が上手と見えいつも後手へ廻されていた。  そのうち、鈴木利右衛門と小宮山彦七が殺されたのであった。昔名与力と謳われた二人がいかに年を取ったとは云え、刀を抜き合わせる暇もなくむざむざ削竹に咽喉を貫ぬかれ、惨殺されたということは、一面から云えば不覚ではあったが、他面彼等盗賊の群がいかに強いかということの新しい証拠ともなるのであって、有司にとっても市民にとっても恐ろしく思われたのは云うまでもない。 「お菊や」と卜翁はお菊の部屋で、お菊の立ててくれた茶をすすりながら、何気ない調子で話した。 「私はこの頃元気がない。そして漸時痩せるような気がする。お菊お前には気が付かぬかな?」 「はい」とお菊は艶かに笑い、 「かえってこの頃お殿様はお健かにおなり遊ばしました。以前は夜などお苦しそうで容易にお睡り遊ばさず、徹夜したことなどもございましたが、この頃では大変楽々とお睡り遊ばすようでござります」 「そこだ」と卜翁は首をかしげ、 「すこしどうも睡り過ぎるようだ。……毎晩お前の立ててくれるこの一杯の薄茶を飲むと、地獄の底へでも引き込まれるようににわかに深い睡眠に誘われ、そのまま昏々睡ったが最後、明けの光の射す迄はかつて眼を覚ましたことはない」 「まアお殿様、何を有仰ります」  お菊は柳眉をキリリと上げた。 「何か妾がお殿様へ、毒なものでも差し上げるような、その惨酷い仰せられよう。あんまりでござんすあんまりでござんす。……それほど疑がわしく覚し召さば一層お暇を下さいまし。きっと生きては居りませぬ。淵川へなりと身を投げて……」 「ああこれこれ何を申す。……何のお前を疑うものか。暇くれなどとはもっての他じゃ。手放し難いは老後の妾と、ちゃんと下世話にもあるくらい、お前に行かれてなるものか。……とは云えどうもこの薄茶が……」 「お厭ならお捨なさりませ」  お菊はツンと横を向いた。 「アッハハハ、また憤ったか。そう老人を虐めるものではない。せっかくお前の立てた薄茶、捨るなどとは勿体ない話。どれそれでは。いいお手前じゃ」  指で拭って前へ置き、その指を懐中の紙で拭いた。ともう睡気に襲われるのであった。 「プッ」とお菊は吹き出した。 「この寝顔のだらしなさ。昔の奉行が聞いて呆れるよ」 塩田の忠蔵身の上話  コツコツコツコツと部屋の襖を窃と指で打つ者がある。 「忠さんかえ、お入りよ」……お菊は云いながら襖をあけた。  入って来たのは忠蔵である。 「姐御、首尾は? と云う所だが、首尾はいいに定まっている。……さあソロソロ出かけやしょうぜ」 「あいよ」と云いながら立膝をして、煙草をパクパク吹かしている。 「忠さん、妾ゃア思うんだよ。まるで鱶のような鼾をかいて、他愛なく寝ているこの爺さんが、十五年前はお町奉行でさ、長門守と任官し、稼人達に恐れられ、赤格子と異名を取ったほどの妾の父さん九郎右衛門殿を、千日前で首にしたとは、どっちから見たって見えないじゃないか、……今じゃ罪も憎気もない髯だらけの爺さんだよ」 「全く人間年を取ってはからしき駄目でござんすね」 「生命を狙う仇敵とも知らず、この日頃からこの妾をまアどんなに可愛がるだろう」 「うへえ、姐御、惚気ですかい」 「と云う訳でもないんだがね、今も今とてこの毒薬を薄々感付いて居りながら、妾がふっと怒って見せたら笑って機嫌よく飲んだものだよ」 「南蛮渡来の眠薬に砒石を雑ぜたこの薄茶、さぞ飲み工合がようござんしょう」 「一思いに殺さばこそ、一日々々体を腐らせ骨を溶解かして殺そうというのもお父様の怨みが晴らしたいからさ」 「しかし迂闊り油断するとあべこべに逆捻を喰いますぜ。……大方船出の準備も出来、物品も人間も揃いやした。片付けるものは片付けてしまい、急いで海に乗り出した方が、皆の為じゃありませんかな」 「それも一つの考えだが、まだこの妾には品物が少し不足に思われてね」 「何も買入れた品物じゃなし、資本いらずに仕入れた品、見切り時が肝腎ですよ。そうこう云っているうちに、一人でも仲間が上げられたひにゃア、悉皆ぐれ蛤になろうもしれず……」 「おや一体どうしたんだい。お前も塩田の忠蔵じゃないか。莫迦に弱い音をお吹きだねえ」  お菊はニヤリと嘲笑った。 「姐御に逢っちゃ適わない。私は案外臆病者でね。……そりゃ肩書もござんすが、この肩書の塩田というのが、そもそもヤクザの証拠でね、私の国は播州赤穂、塩田事業の多い所で、私の家もお多分に洩れず、山屋といって塩造、土地でも一流の方でしたが、鷹の産んだ鳶とでも云おうか、産まれながらこの私だけ、誰にも似ない無頼漢、十五の時から家を抜け出し今年で二十年三十五歳、国へも家へも寄り付かず気儘にくらして居りましたところ、今から数えて十八年前、人の噂で聞いたところ、私の一家は海賊に襲われ、その時漸く五つになった妹のお浪たった一人だけ、乳母に抱かれて逃げたばかり後は残らず殺されたとか。……驚いても悲しんでも過ぎ去ったことはどうにもならず、それから一層邪道に入り今では立派な夜働き、しかし魂は腐っても兄妹の情は切っても切れず、一人生き残った妹お浪を右腕の痣を証拠にして探しあてようとこの年月心掛けては居りやすが、いまだに在家の知れないのは運の尽きか死んだのか、心残りでございますよ。……なアんて詰まらない身の上話に大事な時を無駄にした。さあ姐御、参りやしょう。仲間が待って居りやしょうに」  二人はスルリと部屋を出た。  後には卜翁の寝息ばかりがさも安らかに聞こえている。 誰白浪の夜働  こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。  夜桜の候となったのである。  ここは寂しい木津川縁で、うるんだ春の二十日月が、岸に並んで花咲いている桜並木の梢にかかり、蒼茫と煙った川水に一所影を宿している。  と、パタパタと足音がして、一人の娘が来かかったが、風俗を見れば確かに夜鷹、どうやら急いでいるらしい。 「はてマアどこへ行った事か、ここまで後を追って来て、今さら姿を見失っては、せっかくの親切が行き届かぬ。と云ってこれから川下は人家もない寂しい場所、女の身では恐ろしい」  ──とたんに若い女の声で、 「あれッ」と云う声が聞こえてきた。  はっと驚いて声の来た方を、夜鷹はじっと隙かして見た。夜眼にも華やかな振袖姿、一人の娘が川下から脛もあらわに走って来たが、 「助けて!」と叫ぶ声と一緒に犇と夜鷹へ抱き付いた。それをその儘しかと抱き、 「見れば可愛らしいお娘御、こんな夜更けに何をしてこんな所においでなさんす」 「はい」と云ったがなお娘は、恐ろしさに魂も身に添わぬか、ガタガタ胴を顫わせながら、 「はい、妾は京橋の者、悪漢共に誘拐され、蘆の間に押し伏せられ手籠めに合おうとしましたのを、やっとのことで擦り抜けてそれこそ夢とも現とも、ここまで逃げて参りました。後から追って来ようもしれず、お助けなされて下さりませ」 「それはまアお気の毒な。いえいえ妾がこうやって一度お助けしたからは、例え悪漢が追って来ようと渡すものではござんせぬ。それはご安心なさりませ」 「はい有難う存じます」  こう娘は云ったものの、不思議そうに夜鷹を眺め、 「お見受けすればお前様もまだ若い娘御こんな夜更けに何をして?」 「ああその事でござんすか。……何と申してよろしいやら。……」  袖で顔をかくしたが、 「こういう寂しい場所へ出て客を引くのが妾の商売、……妾は夜鷹でござんすよ。──どうやら吃驚なされたご様子。決してご心配には及びませぬ。心は案外正直でござんす。……実は難波桜川で、はじめてのお客を引きましたところ、わたしの初心の様子を見て、かえって不心得を訓しめられ、一朱ばかり頂戴し、別れた後で往来を見れば、大金を入れた革財布が……」 「おお落ちて居りましたか?」 「中味を見れば二百両」 「え、二百両? むうう、大金!」 「はい、大金でございますとも。すぐに後を追っかけて、ここまで走って来は来ましたが……」 「見付かりましたか、落し主は?」 「いいえ、それがどこへ行ったものか、見失ってしまいました」 「それでは財布はそっくりその儘……」 「妾の懐中にござんすとも」 「おやまアそれはいい幸い、どれ妾に障らせておくれ」  グイと腕を差し延ばすと、夜鷹の胸元へ突っ込んだ。 「あれ!」と云う間もあらばこそ、ズルズルと財布は引き出された。 「それじゃお前は泥棒だね!」 「今それに気がお付きか! こう見えても女賊の張本赤格子九郎右衛門の娘だよ!」 「泥棒! 泥棒!」と喚き立てる夜鷹。 「ええ八釜敷!」とサット突く。  ドンという水の音。パッと立つ水煙り。夜鷹は木津川へ投げ込まれた。  その時、黒い人影が川下の方から走って来たが、 「そこに居るのは姐御じゃねえか」  近寄るままに声を掛ける。 「ああ忠さんかいどうおしだえ?」 「ひでえ目に逢いましたよ」 「眼端の鋭いお前さんが、酷い目に逢ったとは面白いね。何を一体縮尻たんだえ?」 「何ね中之島の蔵屋敷前で、老人の武士を叩斬り、懐中物を抜いたはいいが、桜川辺りの往来でそいつを落としてしまったんだ。つまらない目にあいやしたよ」  聞くとお菊はプッと吹き出し、 「落とした金は二百両かえ?」 「へえ、いかにも二百両で……」 「革の財布に入れたままで?」 「こりゃ面妖だ。こいつア不思議だ!」 「女を買うもいいけれど、夜鷹だけは止めたがいいね」 「…………」 「何だ詰まらないお前の金か。無益の殺生したものさね。……さあ返すよ。それお取り」 「殿様、今夜は漁れましょうぜ。潮の加減でわかりまさあ」  ギーギーと櫓を漕ぎながら漁師は元気よく云うのであった。 「おお漁れそうかな。それは有難い網の上らぬほど漁りたいものだ」  船の中から老武士が髯を撫しながら悠然と云った。それは志摩卜翁であった。 「殿様、塩梅が悪いそうだね」 「どうも体がよくないよ」 「若い女子ばかり傍へ引き付け、あんまり不養生さっしゃるからだ」 「アッハハハこれは驚いた。すこし攻撃が手酷どすぎるぞ。とは云え確かに一理はあるな。実は俺も考えたのじゃ。どうも運動が足りないようだとな。そこで投網をやりだしたのさ」 「投網結構でございますよ。いい運動になりますだ。……おおもうここは木津川口だ。そろそろ網を入れましょうかな。あッ、畜生! これは何だ!」 「どうした?」と卜翁は膝を立てた。 「お客様だア! 土左衛門でごわす!」 不思議な邂逅 「なに、水死人だ? それ引き上げろ!」  卜翁は烈しく下知をした。そうして自分も手伝って若い女の死骸を上げた。 「漁は止めだ。船を漕いで一刻も早く陸へ着けろ」 「へえへえ宜敷うござります」  漁師はすっかり狼狽してただ無闇と櫓を漕いだ。  卜翁は女の鳩尾の辺りへじっと片手を当てて見たが、 「うむ、有難い、体温がある。手当てをしたら助かるであろう。まだ浦若い娘だのに殺してしまっては気の毒だ。爺々もっと漕げ!」 「へえへえ宜敷うござります」  船は闇夜の海の上を矢のように陸の方へ駛って行く。  その翌日のことであった。  落花を掃きながら忠蔵はそれとなく亭の方へ寄って行った。亭の中にはお菊がいる。とほんとしたような顔をして当てもなく四辺を眺めている。 「姐御、変なことになりましたぜ」  忠蔵は窃っと囁いた。 「昨夜の女が死にもせず、旦那に命を助けられてここへ来ようとはコリャどうじゃ」 「お釈迦様でも知らないってね、……お前さんはそれでもまだいいよ。妾の身にもなってごらん。本当に耐ったものじゃないよ。とにかく妾はあの女を川へ蹴落したに相違ないんだからね。これが旦那に暴露ようものなら妾達の素性も自然と知れ、三尺高い木の上で首を曝さなけりゃならないんだよ」 「姐御、逃げやしょう。逃げるが勝だ」 「そうさ、逃げるが勝だけれど、親の敵を討ちもせず、あべこべに追われて逃げるなんて妾は癪でしかたがないよ」 「と云ってみすみすここにいてはこっちのお蔵に火が付きやすぜ」 「とにかくもう少し様子を見ようよ。と云って妾は行かれない」 「へえそれじゃこの私に様子を見ろと仰有るので? どうもね、私にはその悠長が心にかかってならないのですよ。いっそこの儘突っ走った方が結句安全じゃありませんかね」  お菊は返辞をしなかった。  陽が次第に暮れて来る。  こういうことがあってから二十日あまりの日が経った。三日見ぬ間に散るという桜の花は名残なく散り、昔のことなど思い出される、山吹の花の季節となった。  この頃水死から助けられた辻君のお袖は元気を恢復し、卜翁の好意ある進めに従い、穢わしい商売から足を洗い、一つは卜翁への恩返し、小間使いとして働くことになり、病気と云って誰にも逢わず離れ座敷に引き籠もっている妾のお菊の代理として今では卜翁の身の廻りまで手伝う身分となっていた。  日向りのよい離れ座敷の丸窓の下で出逢ったのは、そのお袖と忠蔵とである。 「おや忠さん、いい天気だね」 「そうさ、莫迦にいい天気だなあ。そうそう夏めいたというものだろう」  云いすてて忠蔵は行き過ぎようとした。 「ちょいと忠さん、待っておくれよ。そう逃げないでもいいじゃないか」 「なアに別に逃げはしないが、それ諺にもある通り男女七歳にして席を同じうせずか。殊にこちらの旦那様は大変風儀がやかましいのでね」 「でもね、忠さん、立ち話ぐらい、奉公人同志何悪かろう。……ところで妾はたった一つだけ訊きたいことがあるのだよ」 「そりゃ一体どんなことだね?」  しかたなく忠蔵はこう云った。 「他でもないが二十日ほど前、それも夜の夜中にね、大阪難波桜川辺りを通ったことはなかったかね?」  ──そりゃこそお出でなすったは。こう忠蔵は思ったもののそんな気振はおくびにも出さず。 「いいや、ないね。通ったことはない」 「それでもその時のお客というのがそれこそお前さんと瓜二つだがね」 「夜目遠目傘の中他人の空似ということもある」 「それじゃやっぱり人違いかねえ」  お袖はじっと思案したが、 「なるほど、人違いに相違ない。お前さんがあの時のお客なら妾の顔を見るや否や忘れて行ったお金のことを直ぐに訊かなければならないものね」 「へえ、それではその野郎は財布でも忘れて行ったのかね!」  わざととぼけて忠蔵は訊く。 「しかもお前さん二百両という大金の入った財布をね」 「おやおや広い世間にとぼけた野郎があるものだね」  ポンと自分の額を叩き、 「夜鷹を買って財布を落とし、それを姐御に横取りされ……」 「エヘン」とこの時、丸窓の内から、咳の声が聞こえてきた。気が付いた忠蔵は苦笑をし。 「何さ、お前さんの前身が闇を世界の姐御などにはとても見えねえと云ったまでさ」 南無三宝! 絶体絶命! 「妾の前身でござんすか」  お袖はにわかに眼をしばたたき、 「卑しい夜鷹ではござんしたが、根からの夜鷹ではござんせぬ」 「そりゃ云うまでもないことさ。オギャーと産れたその時から夜鷹商売をするものはねえ」 「妾は播州赤穂産れ。家は塩屋でござんした」 「何、赤穂の塩屋だって? ふうむ、こいつは聞き流せねえ。ところで屋号は何と云ったね?」  忠蔵は急に真顔になった。 「はい、山屋と云いましたよ」 「ぷッ」と驚いた忠蔵はつくづくとお袖の顔を見たが。 「それじゃもしや本名は……」 「はい、本名でござんすか。本名はお浪と申します」 「ううむ、お浪! ではいよいよ。……もしやお前の右の腕に、蟹に似た痣はなかったかな?」 「どうして詳くそんな事まで……」  不思議そうにお袖は云いながらグイと袂を捲り上げた。むっちりと白い二の腕のあたり鮮かに見える蟹の痣。 「あッ」と驚いた忠蔵がヨロヨロと蹣跚くその途端、丸窓の障子に音がして、ヒューッと白い物が飛んで来た。それがお袖の襟上に刺さる。白糸の付いた、木綿針だ! お袖を殺せとの命令である。丸窓の内から九郎右衛門の娘、お菊が投げたに相違ない。  仲間の掟は山より重い。頭領の命令は義よりも堅い。たとえ妹であろうとも、白糸の合図があった以上、殺さなければならないのである。 「南無三宝! 絶体絶命!」  腹の中で泣きながら、呑んでいた匕首を抜いた途端、 「お袖、お袖!」と卜翁の声、母屋の縁に立って招いている。 「はい、ただ今」と云いながら、背中に白糸を付けたまま、バタバタとお袖は走って行った。  胸撫で下ろした忠蔵がホッと溜息を吐いた時、サラリと丸窓が内から開き、 「おい忠蔵!」とお菊の声。  無言で忠蔵は眼を上げた。 「因果は巡る小車の、とんだ事になったねえ。ホッホッホッホッ」と凄く笑う。  しかし忠蔵は黙っている。 「お前の妹と知ったなら川へ落としもしなかったろうに。いわば妾はお前にとっては妹の敵と云うところさね。それに反して卜翁めは、お前にとっては妹の恩人。その恩人の卜翁を妾は父の敵として嬲り殺しにしているのだよ。……遠慮はいらない明瞭とお云い! 妾に従くか卜翁に従くか? 妾は十まで数えよう。その間に決心するがいい。一つ、二つ、三つ、四つ」 「姐御」と忠蔵は冷やかに云った。 「もう数えるには及ばねえ。とうに決心は付いてるのだ。そも悪党には情はねえ。肉親の愛に溺れた日にゃ、一刻も泥棒はしていられねえ。今更姐御に背かれようか」 「おおそれでこそ妾の片腕。いい度胸だと褒めてもやろうよ。……変心しないその証拠に今夜お袖をしとめておしまい!」 「え! 罪もねえ妹を⁉」 「妾も卜翁をばらすからさ」 「その卜翁は姐御の敵。ばらすというのも解っているが、妹には罪も咎もねえ」 「それでは厭だと云うのかい?」  お菊はキリリと眉を上げた。 「…………」  忠蔵は歯を噛むばかりである。 「およしよ」と一句冷やかに、お菊は障子を締め切った。 「姐御!」と忠蔵は声を掛けた、丸窓の内は静かである。 「うん」と忠蔵は頷いたが。 「姐御々々やっつけやしょう!」 「後夜の鐘の鳴る頃に……」  丸窓の奥からお菊が云った。 「後夜の鐘の鳴る頃に……」  忠蔵がそれをなぞって行く。 「妾はここで三味線を弾こう。それが合図さ。きっとおやりよ」 怨みは深し畜生道  やがて日が暮れ夜となった。  夜は森々と更けている。  卜翁の部屋は静かである──お袖とそして卜翁とが、今、しめやかに話している。 「さてお袖」と卜翁は、真面目の口調で改めて云った。 「水死を助けてこの家へ置き、ひそかに様子を見ていると、前身夜鷹とは思われないほど行儀正しい立居振舞。さて不思議と思っていたが、今のお前の物語でよくお前の素性も解った。播州赤穂の山屋といえば大阪までも響いていた立派な塩の製造業。そこの娘とあるからはなるほど行儀もよいはずじゃ。氏より育ちとは云うけれど、やはり氏がよくなければどことなく品が落ちるものじゃ。……そこでお前に訊くことがある。十八年前海賊が突然お前の実家を襲い一家惨殺した上に家財をあげて奪ったという、その海賊の頭領の名を、其方はどうやら知らぬらしいの」 「はい」とお袖は打ち湿り。 「ただ恐ろしい海賊が、ある夜海から襲って参り、妾の家を惨酷しく、滅して行ったと聞いたばかり、妾はその時僅か五歳、乳母に抱かれて山手へ逃げ、そのまま乳母の実家で育ち、十五の春まで暮らしましたが乳母が病気で死にましてからは、日に日に悲しいことばかり、とうとう人外の夜鷹とまで零落れましてござりますが、いまだに海賊の名も知らず残念に存じて居りまする」 「そうであろうと察していた。……その海賊が何者であるか俺が教えて進ぜよう」 「え」とお袖は驚いた。 「おおそれではお殿様にはご存じなのでござりますか?」 「おお俺は知って居る」  卜翁は白髯をしごいたが、 「俺は海賊の本人から親しく聞いて知って居るのじゃ」  卜翁は遠い昔のことでも思い出そうとするかのように軽くその眼を瞑ったが。 「あの頃俺は官に居た。長門守と守名を宣り大阪町奉行を勤めていた。ちょうどその頃のことであるが、瀬戸内海の大海賊赤格子九郎右衛門をひっ捕え千日前の刑場で獄門に掛けたことがある。その赤格子九郎右衛門こそ其方にとっては父母の仇又一家の仇なのじゃ」  ふと卜翁は話をやめた。そうして耳を傾けた。廊下に当たってミシリという人の足音が聞こえたからである。  誰か立聞きでもしているらしい。 「誰じゃ!」と卜翁は声を掛けた。  しかし答える者もない。  と、その時近くの寺で、搗き鳴らすらしい鐘の音がボーンと尾を曳いて聞こえてきた。 「おおもう後夜か」と指を折る。  その時庭の離れ座敷から三味線の音が聞こえてきた。唄うは何? 江戸唄らしい。 〽ほんに思えば昨日今日 …………  それはお菊の声であった。 「人を避けて籠っていたが、今夜は気分がよいと見えて、あのように唄をうとうている」  卜翁は機嫌よく呟いた。  とミシリと音がする。 「お袖ちょっと見て参れ!」 「はい」と云って立ち上り廊下の方へクルリと向く。背後姿に眼を付けた卜翁。 「おっ! 白糸!」と声を上げた。  とたんに「エイッ」と鋭い掛声。障子を貫いた削竹がお袖の喉に突立った。  やにわに刀をひっさげて。 「曲者!」と卜翁は飛び上る。 「あッ」という苦痛の声。続いて「むう」と云う唸り声が廊下にあたって聞こえてきた。  颯と卜翁は障子を開けた。その眼前の廊下の上にのた打っているのは忠蔵である。我と我喉を削竹で裏掻くまでに突き刺している。片手にもったは封無しの書面。「ご主人様へ」と血で書いてある。  卜翁はつと取り上げた行燈の燈で読んで行く。  ──こういう意味のことが書かれてある。  我は賊でございます。海賊赤格子九郎右衛門の娘本名お粂、今の名はお菊、すなわち殿様のご愛妾、お菊殿の一の乾児、海蛇の忠蔵とは私のこと。殿様のお命を害めんためお菊殿共々お屋敷へ住み込み、機会を窺って居りました次第。とは云え性来の海賊ではなく産れは播州赤穂城下、塩田業山屋こそは私の実家でござります。…… 「何」と卜翁は驚いた。 「山屋の倅というからには、このお袖とは兄妹じゃ。それを殺すとは不思議千万。待て待て後を読んで見よう」 この危難に三味線の音  ──手紙の文字は尚つづく。 「……知らぬこととは云いながら兄妹契りを結ぶとは取りも直さず畜生道。二人ながら活きては居られず、かつは頭領の命令もあり、今宵忍んで妹めを打ち果たしましてござります。……」  ここまで読んで来て卜翁は初めて意味が解ったと見え、手紙をクルクルと巻き納めた。それからお袖の側へ寄り静かに体を抱き起こした。  もう呼吸は絶えている。  卜翁は忠蔵を抱き起こした。  と、忠蔵は眼を開けた。 「これ忠蔵」と忍び音に卜翁は耳元で呼ばった。 「様子は解った気の毒な身の上。卜翁の命を狙ったことも決して怨みには思わぬぞ。お袖は死んだ。お前も死ね」 「ああ有難う存じます」 「ただし一つ合点のゆかぬは、山屋を滅ぼした赤格子一家は其方の仇じゃ。しかるを何故その赤格子の一味徒党とはなったるぞ?」 「……知らぬが仏とは正しくこの事。存ぜぬこととは云いながら今日が日まで一家の仇赤格子の娘の手下となりうかうか暮らして居りましたこと残念至極に存じます」 「…………」 「妹お袖へお話し下されたお殿様のお話で初めて知りましてござります」  この時、遥かの海上に当って、吹き鳴らすらしい法螺の音が、夜気を貫いて陰々と手に取るように聞こえてきた。  一方、こなた離れ座敷では、お菊が、三味線を弾いている。  と、遥かの海上にあたって法螺の音が響き渡った。 「あッ」と驚いて弾く手を止め、スックとばかり立ち上る。  ボ──、ボ──、ボ、ボ、ボ──  それは正しく仲間の合図だ、しかも敵に襲われたという非常を知らせる法螺の音だ。 「さては住吉の海上へ、商船に装わせ、碇泊りさせた毛剃丸、捕方共に囲まれたと見える。これはこうしてはいられない」  パッと裳を蹴散らかしバタバタと縁へ走り出たがガラリと開けた雨戸の隙から、掛声もなく突き出された十手! 「南無三!」と、お菊は雨戸を閉じガッチリ閾をおろして置いて、今度は窃と足音を忍ばせ、丸窓の側へ寄って行く。  細目に障子を開けると同時に。 「ご用だ!」と鋭い捕手の声。 「もう不可い。手が廻った」  お菊は部屋へ帰って来ると、悪びれもせず端然と坐り、またも三味線を弾き出した。  ドンドンドンドン。  戸を叩く音が玄関の方から聞こえてくる。  卜翁は忠蔵の死骸をお袖と一緒に寝かせて置いて自身玄関へ出て行った。 「何人でござる?」と忍音に問う。 「西町奉行手付の与力、本條鹿十郎と申す者。至急ご主人に御意得たく深夜押して参ってござる。ここお開け下されい」 「それはそれはご苦労千万。拙者すなわち卜翁でござる」  こう云いながら戸を開けた。 「いざこなたへ」と自分で導き、玄関脇の部屋へ通す。 「ご用の筋は?」と卜翁は訊いた。 「実は」と本條鹿十郎は、声を低く落しながら、 「住吉の海上におきまして海賊船を見付けましてござる」  こう云って卜翁の様子をうかがう。 「何、住吉の海上で海賊船を見付けたとな。それは何よりお手柄お手柄。して勿論海賊船は取り抑えたでござろうな?」 「それが……」と本條鹿十郎は、云い悪くそうに云うのであった。 「取り逃がしましてござります」 「なに逃がした? 逃がしたと仰有るか? 怠慢至極ではござらぬかな」  志摩卜翁は嘲るように白髯を撫しながら云うのであった。 「しかし」と鹿十郎は自信あり気に、 「海賊船こそ取り逃がしましたが、主立った海賊を二三人召捕りましてござりますれば、そやつ等を窮命致しましたなら自ら行衛は知れましょう。この点ご心配には及びませぬ」 「左様か」と卜翁は素気なく、 「して拙宅を訪ねられたは何かご用のござってかな?」 「左様」と鹿十郎は云ったものの、どうやらその後を云いにくそうに暫くじっと俯向いていたが、 「卒爾のお尋ねではござりますが、もしやお屋敷の召使中にお菊と宣るものござりましょうか?」 「お菊? お菊? いかにも居ります」 「実は」と鹿十郎は膝を進め、 「召捕りましたる海賊の口より確と聞きましたる所によれば、その女子こそ海賊船の頭領とのことにござります」 「ははあなるほど。左様でござるかな」  卜翁はいかにも平然と、 「それで訪ねてまいられたか?」 「はい追い込んで参りました」 「お菊は拙者の妾でござる」 「ははあ左様でござりますか」  今度はかえって鹿十郎の方が一向平気でこう云った。 毛剃丸の行方 「追い込んで参ったというからには、いずれ屋敷の四方八方、捕方を配したでござろうな?」  探るように卜翁は訊く。 「仰せの通りにござります。はなはだ失礼とは存じましたが、お庭内まで乱入致し、離れ座敷の出入口まで人を配りましてござります」 「や、それこそお手柄でござった。お菊はあそこに居るのでござるよ」 「ははあ左様でござりますか」 「ところで」と卜翁は形を改め、 「お菊は拙者の妾でござる。日頃不愍をかけた女。お手前達の手籠めに逢い縄目の恥辱蒙るのをただ黙って見ているのもはなはだ愍然と存ずるについては、拙者より直々因果を含め、宣り出るよう致させましょうがこの儀何と覚し召すな」 「さあ」と云って苦い顔をする。 「卜翁をご信用なされぬそうな」 「なかなかもって左様なこと。……」 「拙者昔は町奉行でござった」 「よく存じて居ります」 「しからばご信用下されい」 「…………」 「厭と申されるか」と叱咤する。 「しからば宜しく」と鹿十郎は云った。無論止むを得ず、云ったのである。 「おおお任せ下さるとな。忝けのうござる忝けのうござる」  つと卜翁は立ち上り奥の部屋へ引っ込んだ。  鹿十郎も立ち上り玄関から裏の方へ廻って行った。  離れ座敷をグルリと囲繞き真黒に捕方が集まっている。しかも座敷の中からは三味線が長閑に聞こえてくる。  と、主屋から飛石づたいに卜翁の姿が現われた。  卜翁は雨戸をトントンと打つ。 「お菊、俺じゃ、雨戸をあけい」  三味線の音が急に止み、サラサラと衣擦れの音がした。と、雨戸が静かに引かれ颯と燈火が庭へ射した。  つと卜翁は中へ入る。ふたたび雨戸は中からとざされ、そのまま寂然と静かになった。  本條鹿十郎は聞耳を立て家内の様子を窺ったが何の物音も聞こえない。 「はてな」と小首を傾けた。  その時、突然、家の中から、「あっ!」という女の悲鳴、つづいてドンと重い物が畳へ落ちる音がした。 「しまった!」と鹿十郎が呻いた時、雨戸が中からあけられた。  そこへ立ったは卜翁である。 「本條氏、本條氏!」 「はっ」と云って鹿十郎、ツツ──と前へ進み出た。 「因果を含め観念させ、自首させようと致しましたる所、さすが女の心弱く、急に自害致しましたれば止むなく拙者首打ってござる。いざ首級お受け取り下されい」  こういうことがあってから数日経ったある日のこと、瀬戸内海を堂々と一隻の親船が駛っていた。船首に描かれた三個の文字それは「毛剃丸」というのである。  今、甲板に腹巻を着け陣羽織を着た美丈夫が日没の余光虹よりも美しい西の空を眺めながら感慨深く佇んでいたが、これぞ赤格子九郎右衛門の娘、お菊事本名お粂であった。  船には無数の珍器宝物高貴の織物が積んである。その為船は船足重く喫水深く見えるのであった。  支那の港香港を指して駸々と駛って行くのである。そうしてそこで、利益の多い貿易事業をするのであった。  しかし、一旦首を討たれ死んだはずの赤格子の娘がどうして生きているのであろう?  贋首を使ったからである。──それはお袖の首なのであった。  自分の生命を狙ったというに、贋首の計を使ってまで、何故卜翁は赤格子の娘お粂の生命を救ったのであろう?  一つはお粂を愛していたため、そしてもう一つは女の身で、復讐を心掛けた健気さに感動したからだということである。  さあれ、お粂はこの時以来フッツリ海賊の生活を捨、一躍立派な貿易商に一変したということである。 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷    1993(平成5)年9月30日初版発行 初出:「ポケット」    1925(大正14)年2月~3月 ※「仰有る」と「有仰る」の混在は、底本通りです。 ※「サット」は底本通りです。 ※「グイと腕を差し延ばすと、夜鷹の胸元へ突っ込んだ。」は底本では天付きです。 入力:阿和泉拓 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年9月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。