血ぬられた懐刀 国枝史郎 Guide 扉 本文 目 次 血ぬられた懐刀 別るる恋 「相手の権勢に酔わされたか! ないしは美貌に魅せられたか! よくも某を欺むかれたな!」  こう罵ったのは若い武士で、その名を北畠秋安と云って、年は二十三であった。  罵られているのは若い娘で、名は萩野、十九歳であった。  罵られても萩野は黙っている。口を固く結んでいる。そうして足許を見詰めている。その態度には憎々しいほどの、決心の相が見えている。 「さようか、さようか、物を言わぬ気か、それ程までに某を、もう嫌って居られるのか。薄情もそこまで行き詰めれば、また潔いものがある。で、某も潔くやろう。二人の仲は今日限りに、あかの他人の昔に帰ろう。が、一言云って置く、不破小四郎は伴作殿の従兄で、関白殿下のご愛臣で美貌と権勢と財宝とを、三つながら遺憾なく備えて居られる。で、幸福のお身の上よ。が、そういうお身の上の方は、何事につけても執着がなくて、女子などにも薄情なものだ。で、其方に予言して置く、間もなく小四郎に捨られるであろうぞ」  捨石から腰を上げた秋安は、萩野を尻眼に睨んだが、そのままスタスタと歩き出した。一切未練は俺にはない──と云ったような歩き方である。とは云え灌木の陰へかくれて、萩野の姿の見えなくなると一緒に、その歩き方は力なげになった。  絶望が心に涌いたからである。  ここは京都の郊外の、上嵯峨へ通う野路である。御室の仁和寺は北に見え、妙心寺は東に見えている。野路を西へ辿ったならば、太秦の村へ行けるであろう。  その野路をあてもなく、秋安は西の方へ彷徨って行く。  季節は酣の春であった。四條の西壬生の壬生寺では、壬生狂言があるというので、洛内では噂とりどりであった。そうして嵯峨の嵯峨念仏は、数日前に終わっていた。  そういう酣の春であった。  この野路の美しさよ。  木瓜の花が咲いている。樝の花が咲いている。糏花の花が咲いている。そうして畑には麦が延びて、巣ごもりをしている鶉達が、いうところのヒヒ鳴きを立てている。  農家がパラパラと蒔かれていたが、多くは花に包まれていた。白いのは木蓮か梨の花であろう。赤紫に見えるのは、蘇枋の花に相違ない。  と、灌木の裾を巡って、孕鹿が現われた。どこから紛れ込んだ鹿なのであろう? 優しい眼をして秋安を見たが、臆病らしく走り去った。  白味を含んだ蒼い空から、銀笛の音色を思わせるような、雲雀の声が降って来る。そうしてヒラヒラと野路からは、絹糸のような陽炎が立つ。  万事四辺は明るくて、陽気で美しくて楽しそうであった。  が、暗いものが一つあった。他ならぬ秋安の心であった。 「萩野と馴染んで一年になる。その交情は厚かったはずだ。あの女を苦しめた覚えはない。愛して愛して愛し抜いたはずだ。裏切られるような薄情なことを、俺は一度もしたことがない。にもかかわらず裏切られた。女の心というものは、ああも手の平を飜えすように、ひっくりかえるものだろうか?」  考えながら歩いて行く。 「あの花園の森の中で、去年松の花の咲く頃に、はじめて恋を語り合ったが、同じ松の花の咲く季節の、今年の春には同じ森で、気不味い別離を告げようとは……何だか俺には夢のようだ。化かされているような気持もする」  考えながら彷徨って行く。  と、にわかに笑い出した。 「ハッハッハッ、何と云うことだ! 未練もいい加減にするがいい。向こうから俺を捨たのだ。何をクヨクヨ思っているのだ」  しかしやっぱり寂しかった。  で、あてなしに歩いて行く。  しかしそういう寂しい心を、厭でも捨なければならないような、一つの事件が勃発した。  行く手の森陰からけたたましい、若い女の悲鳴が聞こえて、つづいて四五人の男の声が、これもけたたましく聞こえたからである。  で、秋安は走って行った。  廻国風の美しい娘を、五人の若い侍が、今や手籠めにしようとしている。 助けた女は?  それと見てとって秋安が、勃然と怒りを発したのは、まさに当然ということが出来よう。 「方々!」と声をかけながら、武士の間へ割って行ったが、 「お見受けすればいずれも武士、しかも立派なご身分らしい。しかるに何ぞや若い娘を捉えて、乱暴狼藉をなされるとは! 体面にお恥じなさるがよろしい!」  叱咤の声をひびかせた。  凜々しい態度と鋭い声に、気を呑まれたらしい五人の武士は、捉えていた娘を手放すと、一斉に背後へ飛び退いたが、見れば相手は一人であった。それに年なども若いらしい。で、顔を見合わせたが、中の一人が進み出た。 「これ貴様は何者か! 我々の姿が眼に付かぬか! 銀の元結、金繍の羽織、聚楽風だぞ、聚楽風だぞ!」  云われて秋安は眼を止めて見た。  いかにもそれは聚楽風であった。  すなわち関白秀次に仕える、聚楽第の若い武士の、一風変わった派手やかな、豪奢を極めた風俗であった。  そうしてその事が秋安の心を、一層の憤りに導いた。 「ははあ左様か、ご貴殿方は、関白殿下にお仕えする、聚楽第のお歴々でござるか。ではなおさらのことでござる。乱暴狼藉はおやめなされ! それ関白と申す者は、百官を總べ、万機を行ない、天下を関り白する者、太政大臣の上に坐し、一ノ上とも、一ノ人とも、一ノ所とも申し上ぐる御身分、百姓の模範たるべきお方であるはずだ。従ってそれにお仕えする、諸家臣方におかれても、等しく他人の模範として、事を振舞いなさるが当然。しかるに何ぞや娘を捉え、淫がましい所業をなさる! いよいよお恥じなさるがよい」  ウンとばかりに遣り込めた。  こう云われたら一言もなく、引き下るかと思ったところ、事は案外に反対となった。五人刀を抜きつらね、秋安へ切ってかかったのである。 「関白の説明汝に聞こうか! 地下侍の分際で、痴がましいことは云わぬがよい。ここに居られるのは殿下の寵臣、不破小四郎行春様だ。廻国風のその娘に、用あればこそ手をかけたのだ! じゃま立てするからにはようしゃはしない、汝犬のように殺してくれよう!」  一人が飜然と飛び込んで来た。  身をひるがえした秋安は、太刀を抜いたが横ッ払った。殺しては後が面倒だ、そう思ったがためであろう、腰の支を平打ちに一刀! 「ウ──ム」と呻いてぶっ仆れる。  と、懲りずまにもう一人が、刎ねるがように切り込んで来た。  すかさず突き出した秋安の太刀に、ガラガラガラと太刀を搦らまれ、ギョッとして引こうとしたところを、秋安太刀をグッとセメた。ガラガラと地上で音のしたのは、敵が獲物を落としたからである。 「これ!」と叫ぶと秋安は、五人をツラツラと見渡したが、 「不破小四郎と申したな! 誰だ、どいつだ、進み出ろ! この秋安一見したい! 少しく拙者には怨みがある」  ここで一人へ眼をつけたが、 「ははあ貴殿か! 貴殿でござろう!」  そっちへツカツカと歩み寄る。  歩み寄られた若侍は、いかさま不破小四郎でもあろう、一際目立つきらびやかの風で、そうして凄いような美男であった。  が、案外な卑怯者らしい。太刀こそ抜いて構えてはいるが、ヂタ、ヂタ、ヂタと後へ引く。  秋安にとっては怨敵である。萩野を奪われた怨みがある。 「こいつばかりは叩っ切ってやろう!」  で、ツツ──ッと寄り添った。  主人あやうしと見て取ったものか、二人の武士が左右から、挿むようにして切り込んで来た。  と、鏘然たる太刀の音!  つづいて森の木洩陽を縫って、宙に閃めくものがあった。払い上げられた太刀である。  すなわちは北畠秋安が、一人の武士の太刀を払い、そうして直ぐにもう一人の太刀を、宙へ刎ね上げてしまったのである。  と、逃げ出す足音がした。  主人の小四郎を丸く包み、五人の武士が太刀を拾わず、森から外へ逃げ出したのである。 「待て!」と秋安は声をかけたが、苦笑いをすると突立った。 「追い詰めて殺すにも及ぶまい。祟りのほどがうるさいからなあ」  で、抜いた太刀を鞘へ納め、パチンと鍔音を小高く立てたが、改めて娘の様子を見た。  木洩陽を浴びて坐っている、廻国風の娘の顔の、何と美しく気高いことよ!  そうしてこれほどの闘いにも、大して恐れはしなかったと見えて、別に体を顫わせてもいない。  とは云え勿論顔の色は、蒼味を加えてはいるのである。 「ほう」  秋安が声を上げたのは、その美しさと気高さとに、心を驚かせたからである。  恋を失った秋安は、どうやら意外の出来事から、新しい恋を得るようである。  が、それはそれとして、この日が暮れて夜になった時、花園の森の一所へ、一人の女が現われた。 闇の中の声 「秋安様の予言どおりに、妾は小四郎様にあざむかれた」  さも後悔に堪えないように、声に出して女は呟いたが、他ならぬ娘の萩野であった。  今宵も忍んで来るがよいと、こういう約束があったので、萩野は恋心をたかぶらせながら、聚楽第の付近にある、小四郎の住居まで行ったところ、小四郎はどうしたものであろうか、けんもほろろの挨拶をして、萩野を追い返してしまったのである。 「野に在る花は野にあるがよい。其方はやっぱり野にある花だ。しかるに私は聚楽の家臣、地下の者とは身分が違う。何もお前を嫌うのではないが、これまでの縁はこれまでとして、其方は其方の昔にかえり、私は私の昔にかえろう。で、今後は私も行かぬ。其方も私を訪ねないがよい」  こういう露骨の言葉をさえ、萩野は小四郎から貰ったのである。  ことの意外に驚きながらも、どうすることも出来なかった。しかしどうしてそうもにわかに、小四郎の心が変わったのか、萩野には見当が付かなかった。  で、それだけでも聞きだそうと思って、小四郎の袖を抑えた時、潜戸が内からとざされた。で、聞くことさえ出来なかった。  で、そのまま婢女を連れて、しおしおと家へ帰ったのであったが、悲しさと口惜しさと怒りとで、眠ることなど出来そうもない。  で、フラフラと家を出て、近くの花園の森へまで、来るともなしに来たのであった。  萩野は松の木へ額をあて、じっと物思いに沈んでいる。  木洩れの月光が森の中へ、薄蒼い縞を投げている。それに照らされた萩野の肩の、寂しそうなことと云うものは!  と、その肩が顫え出した。すすり泣いている証拠である。 「小四郎様と比較て、秋安様の親切だったことは! そういうお方を振りすてて、小四郎様へ気を向けたのは、妾の愚かというよりも、魔が射したものと思わなければならない。そのあげくに妾は捨られたのだ。誰にも逢わす顔がない。ましてや今さらオメオメと、秋安様とは逢うことは出来ない。ちょっとした心の迷いから、二つの恋を失ってしまった」  限りない絶望と悔恨とが、今や萩野をとらえたのである。 「ああこの森で秋安様と、幾度媾曳をしたことやら。そのつど何と秋安様が、妾を愛撫して下すったことやら。思い出の多い花園の森! 一本の木にも一つの石にも、忘れられない思い出がある」  フラフラと萩野は歩き出した。 「ああここに杉の木がある」  一本の杉の木へ手を触れたが、しずかに幹を撫で廻した。 「この木の幹に背をもたせかけて、はじめて秋安様がこの妾へ、恋心をお打ち明け下されたのは、一年前の今頃であった。あの時妾はまあどんなに、嬉しくも恥しくも思ったことか。『妾は幸福でござります。妾も貴郎様をお愛しします』と、茫とした声でお答えしたはずだ」  一本の桜の老木があった。木洩れの月光に浮き出して、満開の花が綿のように、森の天井を染めている。  その桜の木へ障わったが、萩野は幹へ額をあてた。 「この桜の花の下で、行末のことを語り合い、あのお方の熱い唇を、はじめて額へ受けたことがある。昨日のように思われるが、やはり一年の昔だった」  松の巨木が聳えている、幹に月光が斑を置いていた。  その幹へ萩野は寄りかかったが、袂で顔を蔽うようにした。にわかに体が縮まったのは、根元へうずくまったからであろう。しばらくの間は身動きもしない。何かを思い詰めているらしい。ただ肩ばかりが顫えている。いぜんとして泣いているからであろう。  やがて心を定めたかのように、萩野はゆるゆると立ち上ったが、腰の辺りを探り出した。  と、紐がクルクルと解けた。  仰ぐように顔を上向けて、松の下枝へ眼をやったが、片手を上げて紐を投げた。  松の枝へかかって下った紐を、両手で握って引いたのは、縊れて死のうとするのでもあろう。  縊れて死のうとしたのであった。  しかし紐の端へ頤をかけた時に、背後から二本の腕が出て、萩野の肩を引っかかえた。 「ひとつ御相談にのりましょう。短気はおやめなさりませ。死ぬほどの事情がありましても、生きられる事情にもなりますもので。ひとつ御相談に乗りましょう。私にお任せなさりませ」  つづいてこういう声がしたが、優しい老人の声であった。 秋安の館  ちょうど同じ晩のことであるが、秋安の屋敷の一間の中で、廻国風の美しい娘と、北畠秋安とが話していた。  秋安の父は秋元と云い、北畠親房の後胤として、非常に勝れた家柄であった。学者風の人物であるところから、公卿にも、武家にも仕えようとはせずと、豪族の一人として閑居していた。  聚楽第の西の花園の地に、手広い屋敷を営んで、家の子郎党も多少貯え、近郷の者には尊敬され、太閤秀吉にも認められ、殿上人にも親しまれて、のびやかに風雅にくらしていた。しかし身分は無位無官で、地下侍には相違なかった。 「人間の栄華というようなものは、そうそう長くつづくものではない。よし又長くつづいたところで、大して嬉しいものではない。栄華には栄華の陰影として、不安なものがあるものだ。人の本当の幸福は、小慾にあり知足にある」  これが秋元の心持であった。従って伏見桃山の栄華や、聚楽の豪奢に対しても、全くのところ風馬牛であった。  とは云え関白秀次の態度──すなわち兇暴と荒淫との、交響楽じみた態度については、苦々しく思っていた。 「今にあの卿は亡ぼされるであろう」と、人に向かって噂などもした。  そういう秋元の子であった。秋安も閑雅の人物であったが、若いだけに覇気があって、飯篠長威斎の剣法を学び、極意にさえも達していた。  そういう豪族の居間である。  秋安と美しい廻国風の娘と、語り合っているその部屋には、狩野山楽の描いたところの、雌雄孔雀の金屏風が、紙燭の燈火を明るく受けて、さも華やかに輝いている。 「……そういう訳でございまして、妾の父母と申しますものは、秀次公に滅ぼされました、佐々隆行の一族で、相当に栄華にくらしました。でも両親が宗家と共に、城中で切腹いたしまして、妾一人が乳母や下僕に、わずかに守られて城を出てからは、昔の栄華は夢となり、丹波の奥の狩野の庄で、みすぼらしく寂しく暮らしました。その中に親切な乳母も下僕も、この世を去ってしまいましたので、いよいよ妾は一人ぼっちとなり、途方にくれたのでござります。今は天下は治まりまして、秀次公には関白職、そうして妾は女の身分、それに戦いで滅ぼされましたは、戦国時代の習慣としまして、誰も怨もうこともなく、で、妾といたしましては、今さら父母の仇敵と、秀次公を狙おうなどとは、決して思っては居りませぬどころが、手頼り無い身でござりますので、いっそ両親の菩提のために、諸国の神社仏閣を、巡拝いたそうと存じまして、京都へ参ったのでございました。でもともかくも秀次公に仕える聚楽第の若いお侍に、手籠めに合いなどいたしましたら、逝き父母に対しては申訳なく、妾自身に対しましては、恥しい次第にございます。……ほんにあの時お助け下され、何とお礼を申してよいやら、有難い次第にござります。……それにこのようにご親切に、お屋敷へさえお連れ下され、手厚い介抱を受けまして、いよいよ忝けなく存じます」  その娘の名はお紅と云い、北国の名家、佐々隆行、その一族の姫なのであった。その父の名は時明、その母の名はお園の方、一時はときめいた身分なのであった。  それであればこそお紅という娘も、貧しい貧しい廻国風の姿に、身を俏してはいるけれど、臈たけいまでに品位があり、容貌が打ち上って見えるのであった。  素性を聞いたために秋安が、いよいよお紅という娘に対して、いわれぬ愛着と尊敬とを、感じたことは言うまでもない。  で、幾度も頷いたが、 「いずれ由緒あるお身の上とは、最初から存じて居りましたが、そのような名家の遺兒とは、思い及びも致しませんでした。そういうお方をお助けしたことは、この秋安にとりましては、名誉のことにござります。で、お尋ねいたしますが、今後はいかようになされます? やはりご廻国なさいますお気で?」 「はい」と云うと娘のお紅は、寂しそうに顔を俯向けたが、 「手頼り無い身にござります。一人ぼっちの身にござります。やはり諸国を巡りまして、神社仏閣を参拝し、この一生を終わります他には、手段はないように存ぜられます。今宵一夜だけお泊め下されて。明日はお許し下さりませ。早々においとまいたしまして……」 「旅へ立たれるお意なので?」 「そう致しとう存じます」 「が、またもや悪漢どもが、苦しめましたならどうなされます」 途絶えた鼓  これがお紅には気がかりなのであろう。俯向いたままで黙っている。  どうやら夜風でも出たらしい、この離座敷の中庭あたりで、木々のざわめく音がした。  庭には花が咲いているはずだ。風に巻かれて諸々の花が、繚乱と散っていることであろう。  が、この部屋は静かである。燈火が金屏に栄えている。円窓の障子に薄蒼く、月の光が照っている。馨しい焚物の匂いがして、唐金の獅子型の香炉から、細々と煙が立っている。  なやましい春の深夜である。  それに似つかわしい美男、美女が、向かい合って黙って坐っている。 花ヲ踏ンデ等シク惜シム少年ノ春 燈火ニ背ムイテ共ニ憐ム深夜ノ月  そういう眺めと云わなければならない。  と、鼓の音がした。秋元の居間から聞こえてくる。つれづれのままに取り出して、秋元が調べているのであろう。曲はまさしく敦盛であった。一つ一つの鼓の音が、春の夜に螺鈿でも置くように、鮮やかに都雅に抜けて聞こえる。  秋安とお紅とは顔をあげたが、じっとその耳を傾けた。  と、自ずから眼が合った。 「まずお聞きなさりませ」  眼を見合わせた一瞬間に、秋安はお紅の眼の中に、愛情の籠もっていることを、直覚的に看て取った。 「廻国をするということは、この娘の本当の願いではない。たしかにこの俺を愛している」  そういうことも感ぜられた。  で、秋安は勇気づいて、思う所を述べ出した。 「まずお聞きなさりませ」──秋安は云いつづけた。 「手頼り無いお身の上でござりましょう。では貴女には何を措いても、手頼りになるような人物を、お求めにならなければなりません。一人ぼっちでござりましょう。では貴女は、何を措いても、一人ぼっちでないように、お務めなされなければなりません。天下は治まっては居りますものの、洛中にさえ乱暴者はいます。ましてや他国へ出ましたならば、魑魅魍魎にも劣るような、悪漢どもが居りまして、よくないことをいたしましょう。で、そのような危険な旅へ、好んでお出かけなさるよりも、ここに止まりなさりませ。私ことは土地の豪族で、先祖は北畠親房で、名家の末にござります。家の子郎党も多少はあり、家の生活も不自由はせず、父は学究でござりまして、心も寛く親切でもあり、そうして私といたしましても、自分で自分を褒めますのは、ちとおかしくはござりますが、まず悪人ではござりませぬ。名家の遺児の貴方様を、ここでお世話をいたすことぐらいは、私の家といたしましては、何でもないことでござります。そうして率直に申しますれば、私の心と申しますものは、ただいま寂しいのでござります。訳はただいまは申しませぬが、ある軽率な女子のために、裏切られたからでございます。……でもし貴女がお止まり下され、朝夕お話し下されましたら、どんなに私といたしましては、有難いことでござりましょう。心の傷手も自然と癒り、ほんとうに新しく生きることが、出来ますようにも存ぜられます。……是非にお止まり下さりませ。それこそ貴女のおためでもあれば、私のためでもござります。助け合う者がありましてこそ、慰め合うものがありましてこそ、この殺伐でくらしにくい、厭な人の世もくらしよくなり、生きて行くことが出来ましょう」  しかしお紅はそう云われても、すぐにその言葉に応じようとはせず、いぜんとして黙って俯向いていた。  と云って秋安のそういう言葉を、決して疑っているのではなく、ましてや秋安の親切な心を、受け入れまいとしているのではなかった。  ただお紅の心としては、秋安の好意が著しいために、かえってそれに圧倒され、そうしてそれに従うことは、その著しい秋安の好意に、つけ込むように感ぜられて、相済まないように思われるのであった。  素性の卑しい人間ならば、相手の好意に取り縋って、すぐにも自分の苦しい境遇を、救って貰おうとするだろう、立派な素性であるがために、かえってお紅は矛盾を感じて、心を苦しめているのであった。  で、しばらくは無言である。  鼓の音ばかりが聞こえてくる。  が、にわかに鼓の音が、糸でも切ったようにフッと切れた。  これはどうしたことなのであろう? 曲は終わってもいないのに。  しかし向かい合って沈黙して、互いに相手の心持を、探り合っている二人には、にわかに切れた鼓の音に、注意の向かうはずはなかった。そうして、いっそう人の足音が、秋元の居間から幽かに聞こえ、そうして襖が一二度開き、そうして足音が家の中から、庭上へ移ったということなぞに、感付かなかったのは当然と云えよう。 骸を前の新生の恋  とは云え忽ち庭上から、 「何者!」という鋭い声が響き、つづいてアッという悲鳴が起こり、それに引きつづいて乱れた足音が、いくつか聞こえてきた時には、秋安とお紅も感付いた。  素破! と云うような意気込みで、秋安は円座から飛び上ったが、鹿角にかけてあった太刀を握むと、襖をひらいて外へ出た。出た所に縁がある。縁を飛び下りた秋安は、声のした方へ突っ走った。  蒼白い紗布でも張り廻したような、月明の春の夜が広がっている。そういう春の夜の寵児かのように、のびやかな空へ顔を向けて、満開の白い木蓮が、簇々として咲いていたが、その木蓮の花の下に、抜身を引っ下げた一人の武士が、物思わしそうに佇んでいた。  見れば足許に一人の武士が、姿の様子で大方は解る、切られて転がって斃れていた。  秋安はそっちへ走り寄ったが、 「父上、何事でござりますか?」  抜身を引っ下げて佇んでいたのは、秋安の父秋元であった。 「うむ、秋安か、この有様だ」  それから太刀へ拭いをかけ、鞘へソロリと納めたが、 「実はな、音色が変わったのだ」 「は? 音色? 何でございますか?」 「調べていた鼓の音色なのだ。……それが何となく変わったのだ。……そういうことも無いことはない。おおよその楽器というものは、調べる人の心持によって、音色を変化させると共に、四辺の著しい変化によっても、また音色を変えるものだ。……鼓の音色が変わったのだ。で、庭へ出て見たのさ。五六人の武士がいるではないか。で、誰何したというものだ。すると一人が切りかかって来た。で、一刀に切り仆したところ、後の者は一散に逃げてしまった」  死骸へ改めて眼をやったが 「その風俗で大概は知れる。困った奴らがやって来たものだ。何の目的かは知らないが。……其方も用心をするがよい」  花木の間だをくぐるようにして、秋元は静かに歩み去ったが、月光を浴びた背後姿が、ひどく心配のある人のようであった。  と、その時人の影が、忍びやかに秋安へ近づいて来た。  たしなみの懐刀を握りしめたところの、廻国風の娘であった。 「秋安様」と寄り添うようにした。 「ああここに切られた人が!」 「聚楽の奴原にござりますよ」  秋安は死骸を指さしたが、 「貴方を手籠めにいたそうとした、彼らの一人でござりますよ」  お紅には言葉が出なかった。俯向いて死骸を見下ろしている。 「都にあってもこの有様でござる。一度地方へ出られようものなら、もっと恐ろしい数々のことが、降りかかって来ることでござりましょう。お紅どのここへお止まりなされ。我々がご保護いたしましょう」  無意識に秋安は手を延ばした。  これもほとんど無意識のように、お紅も片手を上げた。  で、死骸を前にして、二人の手と手とが握られた。  白い木蓮が背景となって、手を取り合った男女の姿が、月下に幸福そうに立っている。  しかしこういう二人の恋が、無事に流れて行こうとは、想像されないことであった。  執念深くて淫蕩で、傍若無人で権勢を持った、聚楽の若い侍に、お紅は狙われているのである。  奪い取られると見做さなければならない。  どのように北畠一家の者が、そのお紅を保護した所で、守り切れないことともなろう。  しかし、お紅にも秋安にも、そういう形勢は解っていた。 「もしものことがあろうものなら、潔よく自害をいたします」  九燿の星の紋所の付いた、懐刀をお紅は秋安に示して、そういうことを云ったりした。  が、ともかくも五日十日と、その後無事に日が流れて、二人の恋は愈々益々、その密さを加えて行った。 不破小四郎の邸 「浮田鴨丸めが不足している。ちょっと寂しい気持がする」 「まさかにあの晩に鴨丸めが、切り付けようとは思わなかった」 「性来鴨丸めは周章者なのだ」 「それに北畠秋元めが、切り返そうとは思わなかった」 「それに第一秋元めは、どうして俺達の忍び込んだことを、感付いたものか合点がいかない」 「随分上手に忍び込んだのだが」 「のっそりと秋元が現われた時には、さすがに俺もギョッとしたよ」 「秋元め随分冴えた腕だの」 「一刀に鴨丸を斃したのだからな」 「仰天して俺達は逃げ出したが、いつまでもマゴマゴしていようものなら、やっぱり秋元に切られたかも知れない」 「切られないまでも捕らえられでもしたら、それこそ本当に目もあてられない」 「何と云ったところで若い娘を、引っ攫おうとしたのだからな」 「いぜん娘は北畠の邸に、身をかくしているということだ」 「外出などもしないそうだ」 「つまりは守られているのだろう」  不破小四郎の邸の一間で、四五人の若い武士達が、雑然として話している。  宵を過ごした初夏の夜で、衣笠山の方へでも翔けるのであろう、杜鵑の声が聞こえてきた。  小四郎は秀次の寵臣である。邸なども豪奢である。銀燭などが立ててある。  その銀燭を左手へ置いて、上座の円座に坐っているのは、邸の主人の小四郎で、前髪も剃らない若衆であったが、不愉快そうに苦り切っている。 「俺はな」と小四郎は云い出した。 「ひどくあの娘が好きなのだ。廻国風の娘がよ。で、どうしても手に入れなければならない。そこでお主達に頼んだのさ。是非あの娘を盗み出してくれとな。ところがお主達はやりそこなった。先刻から話を聞いていれば、どうやら今後もお主達の手では、盗み出せそうにも思われない。あきらめてしまいえばいいのだが、変に俺にはあきらめられない。一体俺にしてもお主達にしても、普通の女には飽きている。つまり上流の娘とか、ないしは遊女とかいうようなものには、もうすっかり飽きている。漁って漁って漁りぬいたからよ。で、土民の娘とか、地下侍の娘とか、そういう種類の女共に、ついつい引っ張られるというものさ。それお主達も知っている通り、萩野という地下侍の娘があった。そうしてそいつを手に入れた。いや随分面白かった。その手障わりが違っていたからな。ところがどうだろうあの女を見てから──廻国風の娘のことだが──すっかり萩野に厭気がさし、薄情ではあったがつッ放してしまった。……で、そういう訳なのだ。そんなにも劇しく廻国風の娘に、この俺は今捉えられている。ところが手に入れる手段がない。そこで俺は考えたのだ。ご主君にお縋りしようとな。関白殿下にお願いして、関白殿下のご威光を以て、あの娘を御殿へ引き上げるのさ。そうしてそれから改めて、殿下から俺が戴くのだ。これではいかな北畠家でも、何とも苦情は云えないだろう。名案と思うがどうだろうかな?」  侫奸の徒には侫奸の徒らしい、侫奸の策略があるものである。こう云って来て不破小四郎は、得意そうに、一座を身廻した。 「いやこれは素晴らしい妙案」 「さすがは聡明の不破殿だ、よい所へお気が附かれた」  座に集まった一同の武士は、即座に同意をしてしまった。 「しかし」とこの時一人の武士が──栃木三四郎という若武士であったが──ちょっと不安そうに首を傾げたが、 「目下伏見から幸蔵主殿が、太閤殿下のお旨を帯して、聚楽にご滞在なされて居られる。この際そのような振舞いをして、よろしいものでござろうかな?」 「いや大丈夫、大丈夫」  こう云いながら手を振ったのは、桃ノ井紋哉という若い武士であった。 「幸蔵主殿は私用とのことで、何も恐れるには及ばない。それに我君と幸蔵主殿とは、幼少の頃からのご懇親で、万事につけて聚楽のお為を、以前からお計らい下されて居られる。悪いようには覚し召すまい」 「いやいや一考する必要がある」  こう意議をはさんだ武士があった。加嶋欽作という若武士である。 「女ながらも幸蔵主殿は、太閤殿下の懐中刀で、智謀すぐれて居られるとのこと、なかなか油断は出来ますまい」 「それに」ともう一人が心配そうにした。山崎内膳という若武士である。 「ご宿老の木村常陸介様が、幸蔵主殿のおいで以来、気鬱のように陰気になられた。その常陸介殿はどうかというに、智謀逞邁、誠忠無双、容易に物に動じないお方だ。そのお方が陰気になられたのだ。幸蔵主殿の聚楽参第は、単なる私用とは思われない」 聚楽第の秘密  そもそも幸蔵主とは何者であろうか? 豊臣秀吉の大奥に仕えてそれの切り盛りをしているところの、いうところの老女であった。女ながらもずば抜けた知恵者で、一面権謀術数に富み、一面仁慈寛大であった。加藤清正や福島正則や、片桐且元というような人さえ、幸蔵主には恩顧を蒙り、一目も二目も置いていた。秀吉さえも智謀を愛して、裏面の政治に関与させ、懐中刀として活用した。もう老年ではあったけれど、壮者をしのぐ、意気もあった。  また秀次が孫七郎と宣って、三好法印浄閑なるものの、実子として家にいた頃から、幸蔵主は秀次を知っていた。三好康長が秀次を養い、さらに秀吉が養子として、秀次を殊遇しはじめてから、幸蔵主は一層秀次に眼をかけ、よき注意を与えていた。で、幸蔵主は秀次にとっては、母とも乳母ともあたる人であった。  ところで秀次は累進して、そうして秀吉の後を受けて、関白職に経上って、聚楽の第の主人となって、権を揮うようになって以来、ようやく秀吉と不和になった。  秀吉の謀将の石田三成や、増田長盛というような人と、気が合わなかったのが原因の一つで、秀吉の愛妾の淀君なるものが、実子秀頼を産んだところから、秀頼に家督をとらせたいと、淀君も思えば秀吉も思った。自然秀次が邪魔になる──というのが原因の第二でもあった。  秀吉との不和は秀次にとっては、何よりも恐ろしいものであった。で、甘心を買おうとした。それを中にいて斡旋したのが他ならぬ老女の幸蔵主であった。  その幸蔵主が忍ぶようにして、伏見の秀吉の居城からこの聚楽へ来たのであった。  そうして何やら幸蔵主は、秀次に旨を含ませたらしい。  どういう旨だか解らない。  しかしどうやら秀次にとっては、快くない旨らしい。それには従おうとはしないのであった。  そうして終日不機嫌であった。  で、何となくここ数日、聚楽第の空気は険悪であった。 「ナーニ大丈夫だ大丈夫だ」  不破小四郎は事もないように、さも不雑作にこう云ったが、自信がありそうに一同を見た。 「幸蔵主の姥がやって来て、殿下のご機嫌がよくなくて、終日終夜の乱痴気騒ぎで、上下が昏迷をしているのが、かえって俺には好都合なのさ。どさくさまぎれに申し上げて、殿下のお許しを受けるのさ。よろしい行れ! と仰せられるであろうよ。どっちみち俺は明日か明後日、関白殿下のお使者として、北畠の邸へ出かけて行こう。承知くも承知かないもありはしない。関白殿下よりのご命令なのだ。娘を差し出すに相違ない。承知かない場合には攫って来る」  間違いはないよと云うように、小四郎は額をこするようにしたが、果たして成功するであろうか? 巨人と怪人  その日からちょうど二日経った。  ここは聚楽の奥庭である。おりから深夜で月はあったが、植え込みが茂っているために、月の光が遮られている。  一宇の亭が立っていて、縁の一所が月光に濡れて、水のように蒼白く暈けていた。  そこに腰をかけている武士がある。  思案にあまったというように、胸の辺りへ腕を組んで、じっと足許を見詰めている。  木の間をとおして聚楽第の、宏壮な主殿が見えていたが、今夜も酒宴と思われて、陽気な声が聞こえてくる。間毎々々に点もされた燈が、不夜城のようにも明るく見える。 「どうしたのだろう、遅いではないか」  縁に腰をかけた大兵の武士は、誰かを待ってでもいると見えて、ふとこう口に出して呟いた。  と、その呟きに呼ばれたかのように、巨大な蘇鉄の根元を巡って、小兵の武士があらわれた。 「木村殿かな? 常陸殿かな」 「おお五右衛門か、待ちかねていたよ」 「約束の時刻よりは早いつもりだ」  云い云い静かに歩み寄って、縁へ腰をかけた常陸介と、押し並ぶように腰かけたのは、無徳道人事石川五右衛門であった。  ちょいと五右衛門は主殿の方を見たが、 「相変わらず今夜も盛んだの」 「うん」と云ったものの常陸介の声には、憂わしい不安な響きがあった。 「あの有様だから困るのだ」 「そうさ、あれでは困るだろう」  で、沈黙が二人へ来た。 「ところで五右衛門結果はどうだ?」  ややあって常陸介がこう訊ねた。 「うむ、ともかくも一通りは探った」  五右衛門の声には笑殺がある。 「ただの私用ではないのだよ」 「俺もそうだろうとは感付いていたが、幸蔵主の態度が不明なのでな」 「あれは秀吉の懐中刀さ」 「が、我君にも忠実のはずだ」 「しかしそれは私情だよ。大事に処せば私情などは、古沓のように捨てしまう」 「お互いそれには相違ないさ。……で、幸蔵主が我君を連れて伏見の城へ行こうとするのは、やはり太閤の指し金かな?」 「そうだ秀吉の指し金なのだ」 「伏見へ召してどうするのだろうな?」 「まず詰腹でも切らせるだろうよ」 「詰腹。……ふうむ。……そうかも知れない。……」  常陸介にもそういうことは、以前から心にあったものと見えて、そう云われても驚かなかった。しかし苦悶は感じたらしい。俯向いて足許を睨んでいる。五右衛門もしばらくは物を云わない。で、この境地はひそやかであった。  それと反対の趣をなして、明るい華やかな笑い声が、主殿の方から聞こえてきた。 「五右衛門」と常陸介は呼びかけた。 「ひとつ詳しく話してくれ、伏見はどんな様子なのだ」 「詳しく話せと云ったところで、これと云って詳しく話すところもないが。だがマア探っただけを話して見よう。……お前から依頼を受けたので、その足で直ぐに伏見へ行って、城中へ忍んだというものさ。秀吉め天下に敵がないというので、安心しきっているのだろう。城のかためなんか隙だらけだった。で、奥御殿へ行くことが出来た。それでもさすがに宿直の部屋には、仙石権兵衛だの薄田隼人だのが、肩や肘を張って詰めていたよ、しかしそいつの話と来ては、お話にも何にもならなかった。女の話ばかりしているのだからな。ところで秀吉はどうかといえば、例の淀君めを相手にして、これもやはりたわいないことを、話していたというものさ。と、声が聞こえてきた。 『……幸蔵主に胸を含ましておいた。大方うまくやるだろう。……そう心にかけないがよい。……実子は俺だって可愛いいからの……』  秀吉が淀君へ云ったのさ。すると淀めが笑い出したっけ。──これだけ聞けば用はない。で城から抜け出したが、その時つくづく思ったものだ。ナニ秀吉の寝首などは、掻こうと思えば掻けるものだとな。……秀吉だと云ったって人間だ、油断もあれば隙もあるとな。……それから俺は念のために、石田治部めの屋敷へ忍んだ。するとどうだろう増田長盛めが、ちゃんと遣って来ているではないか。 『幸蔵主殿の甘言を以て秀次君をおびき出し、城中で詰腹を切らせましょう』 『いやいや我君のお眼に入れては、血縁のある伯父姪でござる。いっそ途中の伏見街道で、お腹を召さすがよろしかろう』  これが二人の話なのだ。──これだけ耳にすれば用はない。で俺は直ぐに抜け出したのだが、道々俺は考えたよ。大胆不敵の話だとな。何故というに他でもない。とにかく天下の関白職を、まるで鶏でも絞めるように、無雑作に殺すことに決めているからさ。そうしてにわかに恐ろしくなった。やはり秀吉は偉い奴だ。やろうと思えばどんなことでもやる。とても普通の人間ではない。隙だらけと思っていた伏見の城が、恐ろしいものにも思われて来た。今度忍んだら遣られるだろう──そんなようにも思ったものさ」  黙って聞いていた木村常陸介は、五右衛門の話が終えてからも、いぜんとして沈黙をつづけていた。  で、境地はひそやかである。  それだけに聚楽の主殿における、夜宴の賑かさが気味悪く聞こえる。  と、卒然と常陸介は云った。 「五右衛門もう一度忍んでくれ」 「もう一度伏見城を探れと云うのか?」 「秀吉の寝首を掻いてくれ」 「…………」  またも沈黙がやって来た。  二人ながら黙っている。 忍び込んだ武士は?  石川五右衛門は浪人であった。学者でもあるし茶人でもあるし、伊賀流の忍もよくするし、侠気もあれば気概もあったが、放浪性に富んでいて、物に飽き易くて辛抱がなくて、則に附くことが出来なかった。二三の大名が才幹を愛して、召しかかえたこともあったけれど、朋輩との中が円満にゆかない。  で、すぐに浪人をした。それを知った木村常陸介は、何かの用に立つこともあろうと、莫大な捨扶持を施して、ここ二三年養って置いた。  すると五右衛門のことである、常陸介を主人と崇むべきを、友人のように思ってしまって、対等の交際をやり出した。  大概の人物なら怒ったであろう、ところが常陸介は大人物であった。そのようなことは意にもかけずに、同じように対等の交際をした。これが五右衛門には嬉しかったらしい。知己を得たような気持がした。で、非常に感激をして、この人のためなら死んでもよいと、そんなようにさえ思うようになった。  で、今度も常陸介から、伏見城の様子を探ってくれと、こう頼まれたのに直ぐに応じて、その役目を果たしたのであった。  ところがもう一度伏見城へ忍んで、秀吉の寝首を掻いてくれという。──これには豪快な石川五右衛門も、考え込まざるを得なかった。  で、即答をすることが出来ない。腕を組んだまま黙っている。  が、木村常陸介が、低くはあったが凄愴の口調で、次のようなことを云ったがために、五右衛門は困難な常陸介の頼みを、むしろ勇んで引き受けた。  次のように常陸介は云ったのである。 「お前ばかりを死なせはしないよ。俺もおっつけ死ぬことになろう。……お前の企が破れたならば、捕らえられてお前は殺されるだろう。……そうしてそれが聚楽第の、没落の原因となるだろう。──太閤ほどの人物だ、聚楽からの刺客だと察するからさ。……で伏見と聚楽とは、戦いをひらくことになろう。秀次公におかれては、島津や細川へ金子を貢いで、誼を通じて居るとはいっても、いざ戦いとなった日には、伏見方へ従くに相違ない。勝敗の数は知れて居る。聚楽第は亡ぼされて、秀次公には自害されよう。従って俺も腹を切る。お前の後を追うことになる……がもしお前の企が、成功をした場合には、天下はそれこそ聚楽第の、秀次公のものとなる。で今度の企はのるかそるかの企なのだ。するとお前は云うかもしれない、そういう危険な企を、どういう理由でやるのか? と、で、俺は答えることにしよう。どうやら我君秀次公には、幸蔵主の甘言に乗せられて、太閤との不和をなだめるために、伏見の城へ出かけて行かれて、太閤のご機嫌を取られるらしい。その結果はどうなるか? お前の云った通りになる。伏見城で詰腹を切らせられるか、ないしは途中で殺されるだろう。……それが俺には残念なのだ、同じくその身を失うにしても、太閤ほどの人傑を、向こうへ廻して戦って、華々しくご最後を遂げさせたいのだ。……で、道は二つしかない。太閤を守備よく弑するか、そうでなかったら戦うかだ。で、お前に俺は頼む。もう一度伏見城へ忍んでくれ、太閤の寝首を掻いてくれ、やりそこなったら死んでくれ!」 「わかった」と云うと五右衛門は、縁からユラリと腰を上げた。 「末代までも名が残ろうよ。太閤の寝首を掻いたなら! よしんば失敗をしたところで……」  云いすてると石川五右衛門は、木立を廻って立ち去った。  その足音が消えた時に、木村常陸介も立ち上ったが、思案にくれながら歩き出した。 「どうともして我君秀次公を、危険きわまる伏見の城へ、参第せぬようお諌めしなければならない」  行手に築山が聳えている。  裾を巡って先へ進む。  と、泉水が堪えられていた。  廻って主殿の方へ進んで行く。 「はてな」と呟いて佇んだのは、厳しい聚楽第の石垣の上から、武士姿の一つの人影が庭へ飛び下りたがためである。 「これは怪しい、何者であろう?」  常陸は首を傾げたが、 「伏見方の間者ではあるまいか?」  自分が五右衛門を刺客として、伏見城へやったおりからである。  伏見方の間者ではあるまいかと、ふと考えたのは当然といえよう。 「よしよし後をつけてやろう」  で、足音を盗むようにして、常陸介は後をつけた。  曲者は顔を包んでいる。どうやら年は若いらしい。心が急いてでもいると見えて、走るがように歩いて行く。主殿の方へ行くのである。 「ああこれは間者ではない。ましていわんや刺客などではない。歩き方や態度で自ずとわかる。これは決して悪者ではない。とは云え聚楽第の武士ではない。おかしいなあ何者だろう」  心掛けの深い常陸介ではあったが、これ以上は知ることは出来なかった。 瞬間四人を討って取る  曲者は先へ進んで行く。常陸介はつけて行く。次第に主殿へ近づいて行く。  と、その主殿の方角から、四五人の武士が話しながら、あべこべにこっちへ歩いて来た。 「不破氏、不破氏、小四郎殿、そう憤慨をなさらないがよろしい。何も主命でござるからな」  一人の声が、なだめるように云った。 「さようさよう何も主命で」  相槌を打つ声が直ぐにした。 「それにさ、あれくらいの女なら、この世間にはいくらでもござる。あの女はあのまま差し上げなされ。そうしてその代わりにご愛妾の一人を、頂戴なさるがよろしかろう」 「その方がいい、その方がいい」  また相槌を打つ声がした。 「たかが廻国にやって来て、京へ止まった田舎娘でござる。そのような女に未練をもたれて、殿下のご機嫌を取り損なったら、これほどつまらないことはない。おあきらめなされ、おあきらめなされ」 「さようさようおあきらめなされ」  四人目の声も相槌を打つ。  が、そういう取りなしに答えて、怨みと憤りに充ちたような、狂気じみた声が聞こえてきた。 「いやいやせっかくのご忠告ではあるが、某においてはあきらめられん。……あまりと云えば横暴でござる! 某より殿下へお願いしたところ、よかろうよかろう好きな女があるなら、余が懇望だと申して連れて来い。その上で其方にくれてやろう。──で、某は使者という格で、北畠家へ押して行き、あのお紅を引き上げて来た。……と、どうだろう殿下においては、これは以外に美しい。側室の一人に加えよう。こう仰せられて手放そうとはされぬ。某を前に据えて置いて、お紅に無理強いに酌などさせる。寝所へ連れて行こうとされる。誰も彼も笑って眺めている。其のためにあつかおうとはしない! 無体なのは殿下のやり口だ! 庶民に対してはともかくも、臣下の某に対しての、やり口としては余りにひどい! もはや某は聚楽へは仕えぬ。ご奉公も今日限り。浪人をする浪人をする!」  不破小四郎を取り囲んで、朽木三四郎、加島欽哉、山崎内膳、桃ノ井紋哉、四人の若武士が話しながら、こっちへ歩いて来るのであった。  ところで彼らの話によれば、気の毒なことにはお紅という娘は、北畠家から奪い取られて、今、聚楽第にいるらしい。では主殿での夜遊の宴の、その中にも入っていることであろう。  不破小四郎と四人の武士とは、云いつのりながらなだめながら、次第にこっちへ近寄って来る。  と、一所に木立があって、そこの前までやって来た時に、飜然と飛び出した人影があった。同時に月光を横に裂いて、蒼白く閃めくものがあった。と、すぐに悲鳴が起こって、朽木三四郎がぶっ仆れた。すなわち木立から飛び出して来た、覆面姿の侍が、先に立って歩いて来た朽木三四郎を、抜き打ちに切って斃したのである。 「曲者!」と叫んだのは加島欽哉で、太刀柄へ右手をグッと掛けたが、引き抜くことは出来なかった。三四郎を斃した覆面の武士が、間髪を入れないで閃めかした太刀に、左肩を胸まで割られたからである。 「曲者!」とまたも同音に叫んで、山崎内膳と桃ノ井紋哉とが、左右から同時に切り込んで行った。が、それとても無駄であった。片膝を敷いた覆面の武士が、横へ払った太刀につれて、まず内膳が腰車にかけられ、ノッと立ち上った覆面の武士の、鋭い突きに桃ノ井紋哉が、胸を突かれて斃れたからである。  四人を瞬間に打って取った、覆面の武士の腕の冴えには、形容に絶した凄いものがあった。  と、その武士がツと進んだ。 「小四郎! 不破! 極悪人め! よくもお紅殿を奪ったな! 某こそは北畠秋安! 怨みを晴らしにやって来た。お紅殿を取り返しにやって来た! 観念!」  とばかり切り込んだ。 「出合え! 曲者!」と叫んだが、不破小四郎は見苦しくも、主殿をさして逃げ出した。 「逃げるか! 卑怯! 何で遁そう!」  四人を切った血刀を、頭上に振り冠った秋安は、すぐに小四郎を追っかけた。  と、その眼前へ大兵の武士が、遮るようにして現われたが、威厳のあるドッシリとした沈着の声で、 「北畠殿と仰せられるか、まずお待ちなさるよう。某事は木村常陸介、子細は見届け承わってござる。悪いようには計らいますまい」  こう云うと手を上げて制するようにした。 廊下を渡る雪燈の火  現われた武士は誰あろう、聚楽第における第一の智謀で、かつは誠忠無双であって、しかも身分は宿老であって、その上性質は寛仁大度、この人一人があるがために、秀次の生命は保たれて居り、聚楽の生命も保たれて居ると、世評一般に云われて居るところの、木村常陸介と耳にするや、逸り切っていた北畠秋安も、足を止めざるを得なかった。  で、ダラリと刀を下げて、常陸介を見守った。 「さて」と云うと常陸介は、一層物憂しい口調になったが、なだめるように説き出した。 「貴殿のお父上秋元殿は、高朗としたお人柄で、某も平素より尊敬いたし居ります。ご子息の貴殿のお噂も、兼々承わって居りました。清廉潔白でおわすとのこと、これまた敬意を払っていました。……ただ今立ち聞きいたしましたところ、お紅殿とやら申される女子を、不破小四郎が理不尽にも、関白殿下のお旨と申して、聚楽の第へ連れて参り、それを怒られてご貴殿には、この厳重の聚楽第へ、潜入して四人を討って取り、なお小四郎を討ち取った上、更に主殿へ切り入って、お紅殿を奪回なされようとのご様子。……小四郎の不義は申すも憎く、関白殿下のなされ方も、よろしくないことと存じます。しかし」  とここまで云って来て、木村常陸介は叱るようにつづけた。 「聚楽第には強者もござる。貴殿お一人に荒らされるほどの、不用心のことは致して居らぬ! あまりに自己をお頼みなさるな! またそれほどにも聚楽第を、力弱きものとお思いなさるな!」  しかしまたもや優しくなり、慰めるような口調となった。 「余計なことは申しますまい。某をお信じなさりませ。某必ずお紅殿を、無垢の処女として聚楽第から、貴殿にお返し致しましょう、安心して一先ずお引き取り下され、……四人の武士を討たれたことも、某秘密に取り行ない、貴殿にご迷惑のかからぬよう、葬むることにいたしましょう」  こう云われてみれば秋安には、押して云うべきことはなかった。なるほど主殿へ切り入ったならば、討って取られることであろう。決死の覚悟で来たのではあったが、殺されるのを望んでいるのではない。それにお紅を処女のままで、返してくれるというのである。苦情を云うべき筋はない。しかも言葉を誓ったのは、他ならぬ木村常陸介である。充分に信頼してよかった。  で、ひき上げることにした。 「ご芳志忝けのう存じます。ではお言葉に従いまして、立ち返ることにいたしましょう。つきましてはきっとお紅殿を……」 「大丈夫でござる、お案じなさるな」 「は」と恭しく一礼して、木立をくぐって北畠秋安は、忍びやかに後へ引き返した。  しかし十足とは歩かない中に、一つの恐ろしい事件が起こった。  酒宴をひらいている主殿の樓の、明るい華やかな笑声を縫って、悲痛極まる女の声が、一声けたたましく聞こえたかと思うと、一所の襖が仆されて、女の姿がよろめき出たが、欄干へ体をもたせかけると、そのままグッタリと動かなくなり、つづいて何物かが女の手から、秋安の足許へ投げられた。  秋安は驚いて小腰を屈め、投げられた物を取り上げて見た。 「九燿の紋の付いた懐刀だ! 血にぬれている、血にぬれている! ああお紅殿は自害なされた! 常陸介殿!」  と、飛びかかるようにしたが、 「お紅殿は自害を致しましたぞ!」 「うむ」と云うと木村常陸介は、腕をしっかりと胸へ組んだが、しばらくの間は黙っている。  と、グイと顔を上げたが、樓上の女の死骸を見た。四五人の人影が現われて、欄干に仆れている女の死骸を、屋内へ運んで行こうとしている。  と、木村常陸介は、にわかに頭を巡らしたが、主殿と並んで立っている、一宇の奇形な建物を見た。その建物と主殿とを繋いで、長い廻廊が出来ていたが、その廻廊に青い燈火が、一点ユラユラと揺れながら、建物の方へ進んで行く。一人の侍女が雪洞をささげて、廻廊を進んで行くのであった。いやいやその女一人だけではなくて、その後につづいて四五人の侍女が、群像のように固まって、建物の方へ進んでいた。 「なるほど」と呟いたのは常陸介であった。秋安の方へ顔を向けたが、 「誓った言葉に背きはしませぬ。処女のままの娘として、お紅殿をお返しいたしましょう。お信じなされ、お信じなされ」  そういう言葉には確信らしいものが、さも重々しく籠もってもいた。 酒乱の関白  ちょうどこの頃主殿の樓の、華麗を極めた大広間で、関白秀次が喚いていた。 「女は死んだか、自害したか、ワッ、ハッ、ハッ、それもよかろう。死にたい奴は死ぬがよい。殺してくれなら殺してもやろう。たかが卑しい女一人だ! 切ろうと縊ろうと俺のままよ! これこれ死骸を片付けろ! 目障りだ目障りだ持って行け! ……さあさあ酒だ! 酌をせい! 今夜は徹夜で飲み明かす。お前達も飲め、俺も飲む」  蒼白の顔色、充血した眼、釣り上った眉、歯を剥いた口、これが関白たる貴人であろうか? そんなようにも思われるほどに、すさみにすさんだ容貌である。髪を茶筌に取り上げて、練絹の小袖を纏っている。盃を握った右の手が、ブルブルと恐ろしく顫えている。癇をつのらせている証拠である。  金泥銀泥で塗り立てられた、絢爛を極めた盃盤が、無数に立てられた銀燭に照らされ、蒔絵をクッキリと浮き出している。朱色に塗られた長柄の銚子が、次から次と運ばれて来る。床の間には黄金の香炉があって、催情的の香の煙が、太い紐のように立っている。 「お那々、謡え! 幸若、舞え! 伴作々々鼓を調べろ!」  またも秀次は喚き出した。 「……何を恐れる! 天下人だぞ! 何を遠慮する、関白だ! 一天四界俺の物だ! 何を怯える、石田、増田に! 巷の童どもが悪口を云わば、用捨はいらない、切ってすてろ! 妻妾の数三十余人! それがどうした、少ないくらいだ! まだまだ美人を集めて見せる! 俺を殺生関白だという! 殺生ならぬ人間がどこにある! 政治に暗く人心離反し衆人俺を笑うという! 伏見の爺が悪いからだ! 爺が政治を執っているからだ。で俺は飾り物だ! 虚器を擁しているばかりだ! 不平もあろう、淫蕩にもなろう、残忍にもなろう、酷薄にもなろう! しかも関白をやめさせようとする。淀君の子を立てようとする。で、俺を迫害する! 僻むのは当然だ当然だ! ……騒げ、はしゃげ、謡え、舞え! 京都の柔弱兒を驚かせてやれ! 注げ! 酒だ! イスパニアの酒だ! ……安南、交趾から献上した、紅玉色をした酒を注げ! バタニア胡椒を酒へ入れろ! さぞ舌ざわりがよいだろう。酔が烈しく廻るだろう。……ソレソレこぼれた酒がこぼれた! スラスの懸布で拭くがいい。……鳥銃をもて、鳥銃をもて、往来の奴を撃ってやろう。象眼入の鳥銃がいい! 暹羅から献じたあいつがいい。……沈香で部屋をくゆらせろ、伽羅で部屋をくゆらせろ! 龍涎香で部屋をくゆらせろ!」  金銀で飾った脇息に倚って、秀次はのべつに喚き立てる。  座に列なっている妻妾や侍女や、近習役や茶道衆や、幸若太夫の面々は、顔を見合わせて黙っている。  たった今女が死んだのである。懐刀で自害をしたのである。で、すっかり怯かされている。その上に例の酒乱が出て、秀次の態度が兇暴になった。果たしてどうなることだろう? で、黙っているのである。  狩野永徳の唐獅子の屏風、海北友松の牡丹絵の襖、定家俊成の肉筆色紙を張り交ぜにした黒檀縁の衝立、天井は銀箔で塗られて居り、柱は珊瑚で飾られて居る。そういう華美の大広間も秀次の喚く兇暴の声で、ビリビリ顫えるばかりである。  と、秀次は眼を据えたが、一人の侍女へ視線を止めた。 「これこれ其方は何というぞ」 「妾は千浪と申します」  オドオド顫えながら答えたのは、秀次の愛妾葛葉の方が、この頃になって召しかかえた、十七の処女らしい侍女であった。 「千浪というか、よい名だよい名だ。参れ参れここへ参れ!」 愛妾の死  淫蕩とそうして兇暴の光を、その眼の中へ漂わせながら、こう秀次に呼びかけられて、千浪はいよいよ顫え出した。 「はい」と云ったものの近寄ろうとはしない。あべこべに葛葉の背後へ隠れて、体を縮めるばかりであった。 「何も恐れることはない。取って食おうとは云っていない。可愛がってやろうと云っているのだ。参れ! 厭かな? 厭なことはあるまい」  秀次はヒョロヒョロと立ち上ったが、千浪の方へ歩き出した。  と、そういう様子を見て、血相を変えた女がある。他ならぬ愛妾葛葉の方で、かばうように千浪を蔽うたが、 「許しておやり遊ばしませ。まだこの子はほんの処女で、可哀そうな子にござります」  しかし葛葉の顔にあるものは、決して同情や愛憐ではなくて、むしろ自分の寵愛を、侍女の千浪に横取られることを、恐れて案じているところの、妾らしい嫉妬の情であった。 「ナニ処女、ははあそうか」  秀次はカラカラと笑ったが、 「一層よいの、処女に限る。……其方は幾年だ? 二十九だったかな。年から云っても盛りは過ぎた。もう俺には興味はない。……代りに千浪をよこすがよい」  秀次はなおもヒョロヒョロと進む。  あれ! というように声を上げて、千浪が立って逃げ出したところを、飛びかかって秀次は小脇に抱いた。 「もがけもがけ、あばれろあばれろ、そのつどお前の軟かい肌が、俺の体へぶつかるばかりだ! 小鳥よ、捕らえた! 可愛い色鳥!」  ズルズルと引き立てて行こうとした。  その秀次の両の足を、しっかりと抱いた者があった。やはり葛葉の方である。  冷やかに秀次は睨んだが、 「嫉妬か!」 「上様!」 「邪魔をするか!」 「はなしておやり遊ばしませ」 「其方こそ放せ! 手を放せ!」 「上様、お慈悲にござります」 「ふん」といかにも憎々しく、秀次は鼻を鳴らしたが 「先刻自害をした女のように其方も自害をしたいそうな」 「いっそお手にかけて下さりませ」 「望みか!」と云うと秀次は、ドンと片足を持ち上げたが、ウンとばかりに蹴仆した。  と、悶絶をする声がした、胸を蹴られた葛葉の方は裾を乱して伏し転んだ。  一瞬間のざわめきの起こったのは、座に侍っていた妻妾や近習が、一時に動揺したからであった。その動揺が静まると、反動的の静けさが、大広間一杯に拡がった。 「今夜はこれで二人死んだ。おそらくまだまだ殺されるだろう。殺せ殺せ、目茶苦茶に殺せ! 聚楽の栄華も先が知れている」  こう呟いた者があったが、刺繍の肩衣に前髪立の、眼のさめるような美少年であった。美童は不破伴作であった。  狂人じみた目付きをして、秀次は大広間を見廻したが、 「目障りになる! 片付けろ! 死骸は厭だ! 井戸へでも沈めろ!」  それから千浪を引きずったが、 「今夜の伽だ! 嬉しそうに笑え!」  で、襖を開けようとした。  と、その襖が向こうから開いて、 「孫七郎様」と云う声が聞こえてきた。優しくて穏かではあったけれど、威厳のある老女の声であった。  つと立ちいでた人物がある。  円頂黒衣鼠色の衣裳、手に珠数をつまぐっている。眉長く鼻秀で、額は広く頤は厳しい。澄んではいるが鋭い眼、頬に無数の皺はあるが、かえって顔を高貴にしている。  これこそ女傑幸蔵主であった。 「相変わらずのお悪戯でござりますか」  あたかも子供でもあしらうように、こう秀次に云いかけたが、咎めるような調子はなくて、なだめるような調子があった。そうしてそれが大広間の殺気と、秀次の兇暴の心持とを、平和な甘いものにした。 「幸蔵主の姥か」と鼻白んだように、秀次は千浪の手を放したが、 「俺はな心が寂しいのだよ」  云い云い元の座へ押し坐った。  と、幸蔵主も膝を揃えて、秀次の前へ坐ったが、手を上げると大広間を撫でるようにした。立ち去れという所作なのである。  これで助かったというように、座に並んでいた妻妾達が近習の武士達と立ち上って、一整に姿をかくした後には秀次と幸蔵主ばかりが残された。 能弁の幸蔵主  しばらく幸蔵主は秀次の顔を、まじろぎもせずに見ていたが、いかにもいたわしさに堪えないように、いたわるように話しかけた。 「妾が聚楽へ参りましてこの方、繰返し繰返し申しましたが、まだご決心が付きませぬそうな。よくないことでござりますよ。早うご決心をなさりませ。伏見へおでかけなさりませ。そうしてご弁解なさりませ。太閤殿下と貴郎様とは、血縁の伯父姪ではございませぬか。親しくお二人がお逢いなされて、穏かにお話をなさいましたら、疑いは自然と解けましょう。ご謀反を巧まれたというのではなし、ただ少しご身分柄として、ご醉興の程度が過ぎるという、それだけのお咎めではござりませぬか。恐ろしいことなどはござりませぬ。何の何の恐ろしいことなどが。……本来このような場合には、伏見からお呼びのない前に、貴郎様から参られて、お咎めの故以のないということを、お申しひらきなさるのが、本当なのでござりますよ。しかるに今回はあべこべとなって、伏見から参れとのご諚があっても、貴郎様には参られようともなされぬ。これではいかな太閤様でも、ご立腹なされるでござりましょう。と、……云いましても今のところでは、太閤様のご立腹とて、大したものではござりませぬ。お逢いしてお詫びをなされましたら、直ぐにも融けるでござりましょう。決してご心配には及びませぬ。が、只今の機会を逃がして、伏見へおでかけなされぬようなら、それこそ一大事になりましょう。あの治部様や長盛様が、あの巧弁で讒言などして、太閤様のご聡明を、眩まさないものでもござりませぬ。そうして貴郎様のお嫌いの、淀様などがそこへつけ込み、姦策を巡らさないものでもなく、何やら彼やらの中傷が入って、今度こそ本当に太閤様のお心持が貴郎様から離れて、貴郎様をお憎みなされようも知れぬ。が、是非ともこの機会に、伏見へおいでなさりませ。……あるいは貴郎様におかれましては、秀頼公に太閤様が、豊臣の筋目や関白職を、お譲りなさろうと覚し召して、それで貴郎様を伏見へ呼び寄せ、殺すのではあるまいかと、ご懸念遊ばすかも知れませぬが、何の何の太閤様が、そのようなお腹の小さいことを、どうしてお企てなさりましょう。そのご心配には及びませぬよ……」  と、ここまで云って来て幸蔵主は、繊細微妙な笑い方をしたが、 「お疑いさえ晴れましたら、貴郎様には直ぐにもご帰洛、ここ聚楽第の主として、いぜんとして一ノ人関白職、どのような栄華にでも耽けられます」  この言葉が何よりも秀次の心を、強く烈しく打ったようであった。 「幸蔵主の姥!」とじっとなったが、 「伏見へ参ってお詫びさえしたら、俺は聚楽へ帰られようかな? 現在の位置に居られようかな?」 「妾をお信じなさりませ。孫七郎様の昔から、膝へ掻き上げてご介抱をした、この幸蔵主ではござりませぬか。今はお偉い関白様でも、妾の眼から見ますれば、可愛らしい和兒様でござります。そういう可愛らしい和兒様に何で嘘など申しましょう」 「行こう行こう、伏見へ行こう!」  子供のように他愛なく、こう秀次は甘えるように云った。 「俺にもお前は懐かしい。母者人のような気持がする。俺はお前の云う通りになろう」 「ようご決心なされました」 「伏見へ行こう! 明日にも行こう」  秀次は決心をしたのである。  と、幸蔵主の眼の中へ、憐愍の情がチラツイたが、直ぐにさり気なく消してしまった。  二人はしばらく無言であった。  と、聚楽第の一所から、人が斬られでもしたような、悲鳴が一声聞こえてきた。  不意に立ち上った幸蔵主は、スルスルと、欄干の側へ行った。で、悲鳴のした方を見た。  主殿と廻廊でつながれている奇形な建物の方角から、どうやら悲鳴は聞こえたらしい。  で、そっちへ眼をやったが、 「今夜はこれで三人斬られた。……それにしても奇形な建物は、何を入れて置く建物なのであろう?」 この部屋は?  奇形な建物の内部の一間で、老婆が喋舌りながら歩いている。 「最初は誰も彼もがんばりますよ。でもこの部屋へ押し入れられて、ものの五日と経たないうちに、大概は往生をしますよ。そうして今度は自分の方から、懇願をするようになりますよ。お側へ行かせて下さいましと。……だからお前様におかせられましても、もうもうそれこそ間違いなく、この部屋をお出し下さいまし、関白様のご寝所へ、お連れなすって下さいまし、男の肌、男の匂い、男の力、男の意志、それが欲しゅうござりますと、有仰ることでござりましょうよ。まあまあ出来るだけご随意に、強情をお張りなさりませ。強情が強ければ強いほど、要求も強くなりましょう。……そうしてお前様の要求が、強まれば強まるほど、関白様は喜ばれますので。……お前様は飛び付いて行きましょう。関白様は引っ抱えましょう。……それから幸福になりますので。はいはい、関白様もお前様も! ……これまで一度の間違いもなく、そうなったのでございますよ。ほんとにこれまで幾十人の娘が、この部屋の中へ入れられて、そうして愛慾の餓鬼となって、飛び出して行ったことでござりましょう。……でもお気の毒でござります。この部屋へ入って出て行って、愛慾を遂げた娘たちは、愛慾を遂げたその後では、九分九厘狂人になりました。一時に遂げた歓楽の力が、その人達を疲労させて、そうさせたのでござりましょう。……たしかお紅殿と有仰いましたな、お紅殿遠慮はいりませぬ。ご馳走をお食べなさりませ。風呂へお入りなさりませ、香水をお浴びなさりませ。床へお伏せりなさりませ。そうしてお眠りなさりませ。今夜が過ぎて明日にでもなったら、効験が現われるでござりましょう。……それでは妾は他のお部屋の、他の女の人達を、見廻って来ることにいたしましょう」  六十あまりの老婆である、脂肪肥りに肥っている。胡麻塩の髪の毛、刺のような鼻、おち窪んだ眼、皮肉な口、それが老婆の風采である。  部屋の朦朧とした光に照らされ、妖怪じみて立っている。  その部屋の様の艶妖なことよ! そうして異国じみていることよ!  部屋の一所に浴槽があって、淡黄色の清らかな湯が、滑石の浴槽の縁をあふれて、床へダブダブとこぼれている。その傍らの壁の高所に、銀製の漏斗型の管があって、そこから香水の霧水沫が、絶間なく部屋へ吹き出している。が、浴槽は呂宋織りらしい、男女痴遊の浮模様のある、垂布の向う側にあるところから、ハッキリ見ることは出来なかった。更に部屋の一所に、一人寝の寝台が置いてあった。張られてあるのは天鵞〓(「糸+戊」)であって、深紅の色をなしていた。が、尋常の寝台ではなく、一度その中へ寝ようものなら、リズムをもって上下へ動き、寝ている人の愛慾を、自然にそそるように出来ていた。寝部屋の天井に描かれてあるのは、曲線ばかりの模様であった。  …………  そういう連想を見る人の心へ、起こさせるように出来ていた。  が、その部屋もバタビヤ織りらしい、これも深紅の垂布によって、入口を蔽われているがために、ハッキリと見ることは出来なかった。  お紅の坐っている部屋のつくりには、これといって特異なものはなかった。  ただ天井から下っている、珊瑚と鋼玉と爐眼石とで、要所要所を鏤められた、朝顔型のアレジヤ龕が、朝顔型に琥珀色の光を、床の上へ一ぱいに投げていた、それの光に照らされて、幾個かの異国的の食器の類が、各自の持っている色と形とを、いよいよ美しく見せて居るのが、いちじるしい特色ということが出来る。  尖形のギアマンの水注がある。そうしてその色は紫である。盛られているのは水だろうか? 喇嘛僧形の薬壺がある。そうしてその色は漆黒である。どのような薬が入っているのであろう? 錫製の椀には獣肉が盛られ、南京産らしい陶器の皿には、野菜と魚肉とが盛られてある。  そういう器類を前にして、坐っているお紅の姿というものは、むごたらしいまでに取り乱していた。髪はほどけて顔へかかり、裾は乱れて脛を現わし、襟はひらけて乳房を見せ、一方の袖が引き千切れて、二の腕があらわに現われている。その腕を烈しく握られたからであろう、一所黒痣が出来ている。 さながら人魚  お紅の心は乱れていた。思い乱れているのである。今日一日の出来事が、夢かのように思われてならない。  ──秀次公の使者として、不破小四郎がやって来たこと、聚楽第へやるまいと北畠一家が、最初はげしく争ったこと、とうとう聚楽第へ連れて来られて、眼を奪うような華やかさと、胆を冷すに足るような、荒淫な夜遊にぶつかったこと、秀次が自分を抱えたこと、それに対して抗ったこと、でもズルズルと引きずられたこと、その時懐刀の落ちたこと……最後に気絶をしたことなど…… 「ここはどういう部屋なのであろう?」  お紅は四辺を見廻して見た。  いつか老婆は立ち去ったと見えて部屋には誰もいなかった。 「まるで異国へでも来たようだよ」  見る物が驚きの種であった。 「正気づいた時にはこの部屋にいた。変なお婆さんが何か云った。一言も妾には解らなかった」  お紅は空腹を感じて来た。人が気絶から醒めた時には、空腹を感じるものである。 「妾に下された食物なのであろう。では妾は遠慮なく食べよう」  で、お紅は手を延ばして、順々に食物を食べて行った。 「ああ妾は咽喉が乾いた。水注の水を飲むことにしよう」  で、咽喉を潤おした。  しかしお紅は知らなかった。それらの食物や水の中に、愛慾をそそる××質が──麝香とか、芫花とか、禹余糧とか陽起石とか、狗背とか、馬兜鈴とか、漏蘆などというそういう××質が、雑ぜられてあるということを。  ただお紅は飲食をしたため、にわかに体が活々となり、元気づいて来たということと、恍惚とした甘い気持が、心に湧いたということを、感ずることが出来たまでであった。 「体が汗にぬれている。妾は風呂へ入ることにしよう」  で、お紅は立ち上ったが、念のために部屋の中を見廻してみた。  が、誰も見ていない。  で、そろそろと帯を解いて。一枚々々衣装を脱ぐ、花の蕾が萼から花弁と、──一枚々々、一枚々々と──だんだんほぐれて行くようである。  と、雌蕊が現われた。処女の肉体が一糸も纏わず、白く艶々とむき出されたのである。  余りに清浄であるがために、たとえ誰かが見ていたとしても、何らの邪心さえ起こさなかったであろう。そんなにもお紅の裸体の姿は、清らかで美しいものであった。そうしてお紅のその裸身が、呂宋織りの垂布を左右にひらいて、浴槽の部屋へ消えた後には、脱ぎ捨られた紅紫の衣装が、散った花のように残されていた。  そうしてその頃にはお紅の裸身は、浴槽の中に埋もれていた。例えることが許されるなら、浴槽の中の緑色の湯は、紺碧をなした潮であり、それに埋もれている裸体のお紅は、若い美しい人魚でもあろうか?  まさしく人魚に相違なかった。乳房から上を、潮から乗り出し、肩の上へ黒髪を懸けいている。快く閉ざした眼の瞼の、上気して薄紅く艶めかしいことは! ポッカリと唇を無心にあけて、前歯の一部分を現わしている。それがやはり艶かしい。  と、お紅は立ち上ったが、浴槽を出ると蹣跚くように、香水管の下まで行って、起立したまま静まった。裸体から滴がしたたり落ちる。裸体を香水の霧が蔽う。斑のない大理石の彫像を、繭から出たばかりの生絹が、眼にも入らない細さをもって、十重に二十重に引っ包み、暈しているのではあるまいかと、そんなようにも見え做される。  だがお紅は知らなかった。浴槽の緑の湯の中に、熏陸、烏薬、水銀郎等の、××質が入れてあったことを。  そうしてさらに知らなかった。管から吹き出している香水の中に、馬牙硝、大腹子、杜仲などの、同じく××的香料が、まぜられてあったということを。  いつまでもお紅は陶然として、香水の霧に巻かれている。  しかしそれから体を拭って、垂布をくぐって前房へ出て、そうしていぜんとして一糸も纏わず、バタビヤ織りの垂布をひらいて、寝部屋の中へよろめき込み、寝台へ体を横仆えて、桃色の薄布を一枚だけ懸けて、ウトウトと眠りに入った頃から、身内の血潮が騒ぎ立ち、…………、…………、追っかけ追っかけ上ぼって行くのを、堪えることが出来なかった。 漁色の動物 「ああ妾はどうしたんだろう? こんな気持になったことは、それこそ産れて初めてだよ」  薄衣の下で身もだえをした。桃色の薄衣が裸休に準じて、蠱惑的の襞を作っている。胸の辺りが果物のように、両個ムッチリ盛り上っていたが、乳房がその下にあるからであった。下腹部の辺りが円錐形に円く、その上を蔽うている薄衣の面が、ピンと張り切って弛みのないのは、食物を充分に食べたがために、事実お腹が弾力をもって、張り切っているがためであろう。延ばされた左右の脚の間が、少し開らけていると見える。そこへ掛けられた薄衣の面が、深い窪味をこしらえている。薄衣は咽喉までかかっていたが、その薄衣から抽たところの、顔の表情というものは、形容しがたく艶麗であった。と、その顔を抑えようとしてか、薄衣の縁から両腕を延ばし、肘から湾のように丸く曲げたが、直ぐに掌で顔を抑えた。と、脇下の可愛らしい窪味が、きわだって黒く見て取れた。  烈しく喘いでいるらしい。胸から胴から下腹部から、延ばされた二本の脚の方へ、蜒のようなものが伝わって行く。のた打っている爬虫類さながらである。  そういうお紅を載せているところの、天鵞〓(「糸+戊」)張りの異国風の寝椅子は、先刻から絶間のないリズムをもって、上へ下へと揺れている。  お紅の心へ萌したものは、異性恋しさの心持であった。  その異性の対象は、最初は北畠秋安であった。 「妾…………! 妾を…………!」  で、若々しい健康らしい、秋安の肉体を描いてみた。 「妾はあのお方と約束をした。行末夫婦になりましょうと。……おいで下され! おいで下され! そうして妾を愛撫して下され!」  次第に心が恍惚として来る。全身が鞣めされ麻痺されて来る。処女心が失われようとする。 「ああ妾には誰でもいい」  不健全で好色で惨忍な、秀次の顔が浮かんで来た。  と、秀次に…………甦って来た。ちっとも穢わしく思われない。ちっとも厭らしく思われない。今は全く反対であった。…………希っていた。  だがその次に浮かんで来たのは、不破小四郎の姿であった。 「今直ぐ妾へ来て下さるなら、……………!」  美しくはあったが上品ではなかった。──そういう不破小四郎の顔が、お紅には上品に見えさえした。 「ああ妾はあの人にだって…………!」  寝台がリズミカルに揺れている。  お紅の全身は汗ばんで来た。呼吸が…………。薄衣の下の肉体が…………。  で、この寝部屋の寝台の上に、…………裸形の女は、決してお紅ではないのであった。単なる漁色的の動物であった。つつましい清浄なお紅という処女は、ほんの少し前に消えたのである。  しかし漁色の動物は、お紅一人ではないのであった。  あの近東の回教国の、密房に則って作ったところの、この奇形な建物の内には、同じような部屋が幾個かあって、その部屋々々には漁色狂の女が、無数に籠められて居るらしい。その証拠には四方八方から、極めて遠々しくはあったけれど、…………を柱へでも投げつけるらしい、物の音などが聞こえてきた。  みだらな唄声なども聞こえてくる。  だがお紅には聞こえなかった。  掻きむしられるような…………が、身心をメラメラと焼き立てる。その…………を消し止めようと、お紅は夢中で争っている。  しかし絶対に勝ち難かった。次第々々に負けて来た。とうとうお紅は打ちのめされた。 「妾は…………! 最初に来た人へ!」  桃色の薄衣を退けようとする。そうしてお紅は立ち上ろうとした。そうしてお紅は叫ぼうとした。 「お婆さんお婆さん出して下さい! そうでなかったら連れて来て下さい!」  で、お紅は泣き出した。  で、もし誰か異性の一人が、ここの寝部屋へ入り込んだならば、お紅は…………。…………を失うであろう。  そうして今やそういう異性が、奇形な建物の出入口の前へ、ひそかに姿を現わした。  他ならぬ不破小四郎であった。  出入口の前に扉がある。内部が厳重にとざされている。その前に立った小四郎は、四辺を憚ったひそやかな声で、 「姥はいるか、四塚の姥は!」  こう呼びかけて聞き耳を立てた。 光消えぬ矣簒奪星  と、扉の向こう側から、老婆の声が聞こえてきた。 「四塚の姥はこの妾で。……何かご用でもござりますかな?」  嘲笑っているような声である。 「俺はな、小四郎だ、不破小四郎だ」 「お声で大概判りますよ。小四郎様でござりましょうとも」  嘲笑っているような声である。 「姥か、お願いだ、扉をあけてくれ」  するといよいよ嘲笑いの声を、四塚の姥は扉の中で立てたが、 「これはこれは何を有仰るやら、聚楽第のお侍でありながら、聚楽第の掟をご存知ないそうな。この密房は男禁制、開けることではござりませぬよ」 「何を、莫迦な、そんなことぐらい、この小四郎が知らないものか。知っていればこそ頼むのだ。是非この扉をあけてくれ。そうしてお紅に逢わせてくれ。……お紅という娘はいるだろうな?」 「ハイハイおいででござりますよ。今頃はねんねでござりましょう。いいご機嫌でな。夢中でな」 「お紅は俺の女なのだよ。それを殿下が横取ったのだよ。いやいや横取ろうとしているのだよ。で、この密房へ入れたのさ。……だがお紅は俺のものだ。渡してくれ、渡してくれ!」  懇願的の声となった。 「あの娘は本当に美い女だ。聚楽中にもないくらいだ。で、ご愛妾の一人が死んだ。お前も知って居る京極のお方だ。今日まで殿下のご寵愛を、一人占めにして占めていられた方だ、そのお方が懐刀で自害された。お紅の懐中から転び出た刀で、まるでお紅が殺したようなものだ。いや事実殺したのだ。お紅を嫉妬して死んだのだからな。お紅がご愛妾になろうものなら、寵愛を失うと思ったからさ。……そんなにも綺麗なお紅なのだ。俺だって恋しく思うではないか。頼む、あけてくれ、扉をあけてくれ!」  更にそれから誘惑するように。 「が、勿論頼むには、頼むだけのことはするつもりだ……殿下から拝領の生絹をやろう、殿下から拝領の羅紗布をやろう、殿下から拝領の紋唐革をやろう。もしお前が欲しいというなら、刺繍した黒天鵞〓(「糸+戊」)をくれてやる。黄金をやろう、背負いきれないほどの黄金を!」  どうやら最後のこの言葉は、四塚の姥をまどわしたらしい。  しばらくの間は黙っていたが、諂うように声をかけた。 「黄金を下さると有仰るので?」 「やるよやるよ、背負いきれないほどやるよ」 「まあまあ左様でござりますか、考えることにいたしましょう。妾はすっかり老い枯ちて居ります。この女部屋の宰領役さえ、わずらわしいものになりました。どうぞ閑静な土地へ参って、安楽なくらしをいたしたいもので。それにはお宝が入用りますので。……貴郎様がそれを下さるという。有難いことでござりますよ。ではこの扉をあけましょう。ご自身にお入りなさりませ。ご自身に寝部屋へ参られませ」  すぐにカチカチと音がした。どうやら錠でもあけるらしい。 「有難い有難い礼を云うぞ。そうしたら俺はお紅を連れ出し、遠く他国へ行くことにしよう。そうしてそこで一緒に住む」  やがてギーという音がした。  と、扉が一方へあいて、先刻方お紅の部屋に在って、お紅に因果を含めていた、老婆が顔をつき出した。すなわち四塚の姥である。 「お入りなされ」 「もう占めたぞ!」  だがその時どうしたのであろうか、四塚の姥は、 「あッ」と云ったが、ビ──ンと扉をとじてしまった。  主殿とつながれている廻廊を、一つの人影が辷るように、こっちに近寄って来たからである。 「小四郎!」 「おッ、ご宿老様!」 「不忠者!」  か──ッと一太刀!  悲鳴が起こって骸が斃れた。  幸蔵主が樓上で耳にしたのは、この小四郎の悲鳴なのであった。 「四塚の姥! 扉をあけろ。……うむ、開けたか、顔を出せ。……お紅という娘が居るはずだ。丁寧にあつかって連れて参れ」 「かしこまりましてござります」  密房の扉があけられている。  砂金色の燈火が隙から射して、廊下を明るく照らしている。  血刀を下げて突っ立っているのは、宿老の木村常陸介であった。  足許に死骸が転がっている。一刀で仕止められた小四郎の死骸で、肩から胸まで割られている。  切口から流れた血が溜まって、廊下へ深紅の敷物でも、一枚厚く敷いたようであった。 「聚楽の乱脈はこの有様だ。とうてい長い生命ではあるまい。……頼むは五右衛門ばかりだが……」  懐紙で血刀をゆるゆるとぬぐい、鞘へ納めた木村常陸介は、廻廊の欄干へ体をもたせ、奥庭の木立の頂き越しに、伏見の方の空を見た。 「これは不可ない、仕損じたらしい」  公孫樹の大木の真上にあたって、五帝星座がかかっていて、玄中星が輝いていたが、一ツの簒奪星が流星となって、玄中星を横切ろうとした。  が、そこまで届かないうちに、消えてなくなってしまったからである。 「可哀そうに五右衛門は捕らえられたらしい」 一年後の花園の森  こうして一年の日が経った。  その間に起こった事件といえば、聚楽第の主人の秀次が、高野山で自害をしたことであろう。  木村常陸介をはじめとして、家臣妻妾が死んだことであろう。  石川五右衛門が四條河原で、釜茄にされたことであろう。  で、春が巡って来た。花園の森には松の花が咲き、桜の花が散り出した。そうして、麦の畑では、鶉がヒヒ啼きを立てはじめた。  そういう花園の森の中に、三人の男女が坐っていた。香具師姿の男女である。一人はその名を梶右衛門と云って、六十を過ごした老人であり、一人はその名を梶太郎と云って、その老人の子であった。二十三歳の若者である。そうしてもう一人は萩野であった。香具師姿の萩野であった。 「若い者同志は若い者同志、話をするのが面白かろう。どれどれ俺は見廻って来よう。……奴らあんまり騒ぎ過ぎるて」  森の奥に大勢の仲間がいて、陽気にはしゃいでいると見えて賑かな喋舌り声が聞こえていたが、梶右衛門親方は腰をあげると、元気よくそっちへ歩いて行った。  で、軟かい草を敷いて、ここの境地へ残ったのは、梶太郎と萩野と二人だけであった。  昼の日が森へ差し込んでいる。その日に照らされた梶太郎の顔は、流浪の人種の若者などとは、どんなことをしても思われないほどに、上品でもあれば純情でもあった。しかし種族は争われないで、情熱的なところがあった。  じっと萩野を見守っている。烈しい恋の感情が、眼にも口にも漂っている。  梶太郎は事実燃えるがようにも、萩野を恋しているのであった。そうして幾度か打ち明けもした。しかし萩野はそれに対して、ハッキリした返事をしなかった。と云って萩野は衷心において、梶太郎を嫌っていないばかりか、仄かながらも愛していた。とは云えそれよりも一層烈しく、萩野は秋安に恋していた。未練を残していたのである。そうして過ぐる日その本心を、とうとう梶太郎の耳へ入れた。どんなに梶太郎の失望したことか! これが普通の香具師の、兇暴な若者であったならば、自暴自棄の感情の下に、萩野に対して暴力を揮うか、ないしは秋安を殺そうとして、付け狙って姦策を巡らしたであろう。しかし梶太郎は、反対であった。自分の恋を抑え付けて、萩野を故郷へ送り届けて、秋安の手へ渡そうとした。ちょうどその頃香具師の群は、丹波の亀山に居たところから、そこを引き払って一年ぶりに、この京の地へ来たのである。  この花園の森の近くに、秋安の邸はあるのだという。そうして日が暮れて夜が来た時、萩野は香具師の群から別れて、秋安の邸へ行くのだという。──では二人での話し合いは、今が最後と見做さなければならない。  どんなに梶太郎の心持が、暗くて寂しくて悲しいか、云い現わすことさえ出来なかった。  しかし萩野の心持も、同じように寂しく悲しかった。一年前の月の夜に、この森で首をくくろうとして、野宿をしていた梶右衛門のために、あぶないところを助けられて以来、香具師の群の中へ投じて、諸々方々を流浪したが、その間にどれほど梶太郎のために、愛されいたわられ大事がられたことか。云い尽くせないものがあった。その人と別れなければならないのである。同じように寂しく悲しかった。  二人はいつ迄も動かない。  ところで萩野の心の中には、さらに別の不安があった。 「秋安様には薄情な妾を、お許しなすって下さるかしら?──そうしていまだにこの妾を、昔どおりに愛して下さるかしら?」──と云うのが萩野の不安なのであった。  しかるに萩野のそういう不安は、全然別途の趣の下に、以外に解決が付けられることになった。 ああ二組の幸福の夫婦  数人の男女の話し声が、森の一方から聞こえてきたが、次第にこっちへ近寄って来て、間もなく姿を現わした。一人は北畠秋安で引き添うようにして美しい婦人が、──それは他ならぬお紅であったが、侍女を従えて歩いて来た。二人はどう見ても夫婦であった。そうして事実夫婦なのであった。その証拠さえそこにある、侍女が嬰兒を大切そうに、胸の辺りに抱いている。  話しながらゆるゆると歩いて来る。 「今年も松の花が咲くようになった。思い出の多い松の花だ。この森にも思い出が多い。……あれからあの女はどうしたことやら」  感慨にたえないというように、秋安はしめやかに呟いたが、 「どこぞで幸福にくらして居ればよいが」 「萩野様のことでございますか?」  こうお紅は訊き返したが、 「もうどうやら貴郎様には、怨みも憎しみもなくなられたようで」 「今では幸福をいのるばかりだ。……これもお前のお蔭なのだよ」 「まあまあ何故でござりましょう?」 「お前が俺と一緒になって、俺を幸福にしてくれたからだ」 「もう愛しても居りませぬので?」 「愛するものはお前ばかりだ」 「いいえ、そうしてこの秋秀も」  こう云ってお紅は笑ましそうに、嬰兒の方へ顔を向けた。 「可愛い坊や、可愛い坊や……妾は幸福でござりますよ」 「自分で幸福でいる時には、他人の幸福も願うものだよ。……萩野が幸福であるように」 「可愛らしい香具師さんが居りますのね」  こう云ってお紅が足を止めたので、秋安もふと足を止めた。  そうして萩野へ眼をやったが、萩野はその前から、深く俯向いていたがために、秋安には顔が見られなかった。そうして姿は香具師風である。萩野であることが何で判ろう。で、ゆるゆると行き過ぎた。  が、お紅は気安そうに、二人の香具師の前まで行った。 「お怒りなすっては困ります。私達は幸福なのでございます。どうぞ貴郎方ご夫婦にも、祝っていただきたいと存じます。粗末な物ではござりますが、私達の志でござります。お受け取りなすって下さいまし」  云い云いお紅は簪を抜いたが、萩野の前へそっと出した。 「はい、有難う存じます」  顔を上げた萩野の眼の中に、あふれる涙が光っていた。 「お美しい貴郎様のお志、いつ迄も忘れはいたしませぬ。……幸福におくらし遊ばすよう、おいのり致すでござりましょう」 「貴郎方ご夫婦もお幸福に……」  施しを快く受けられたので、お紅は喜悦を感じたらしい。ちょっと会釈すると身をひるがえして、行き過ぎた秋安の後を追って灌木の裾を向こうへ廻った。  と、じいいっとその後を、萩野は涙の眼で見送ったが、突然梶太郎の膝の上へ、しっかりと、顔を押しあてた。 「ねえ行きましょうよ、遠い他国へ、流浪しましょうよ、二人で一緒に!」  そうして烈しく咽び泣いた。 「…………」  茫然とした若者の梶太郎には、何故そうもにわかに萩野の心が、一変したかが解らなかった。それは実際解らなかったが、一緒に流浪をしようという、萩野の心は嬉しかった。嬉しい以上に有難かった。 「萩野さん、私はお礼を云うよ。ああ行こう、一緒に行こう。……そうしてお前さんは私のものだ」 「貴郎のものでございますとも! ただ今の若い美しいお方も、祝福をして下さいました。……私達二人を! 夫婦と見做して!」 「私の妻だ!」と抱きかかえた。その梶太郎に抱かれたままで、萩野はうっとりと呟いた。 「あの人達は京都に住む! 賑やかな明るい派手やかな京都に! そうしてそこでお暮らしになる。幸福に、幸福に、幸福に! ……でも私達は林や野や、小さい駅や宿で住む! でもちっとも違いはない。幸福にさえ暮らそうとしたら……きっと幸福にくらすことが出来る!」 「わしは今でも幸福だよ、たった今私は幸福になった。……しかし、お前には、秋安というお方が……」 「何にも有仰って下さいますな。……もう逢ったのでございます。……逢ったも同じなのでございます……」  拭くに由無い満眼の涙! 萩野の眼頭から流れ出たが、頬を伝わって頤まで来た。昔の恋を思い断って、新しい恋に生きようとする、悲しみと喜びの涙なのである。  花園の森は昼の日に明るく、草木と人とを照らしている。その中で桜花が蒸されている。  が、間もなく森の中から、十数人の香具師達が、流浪の人に特有の、軽快な自由な足どりで、笑いさざめきながら現われた。  近江をさして行くらしい。  その先頭に歩いて行くのは、新婿新妻を想わせるところの、梶太郎とそうして萩野であった。  肩と肩とを寄せ合って、つつましやかに歩いて行く。  野には陽炎、小鳥の声々! そうして行手にあるものは、新しい恋と生活とである。 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷    1993(平成5)年7月20日初版 初出:「講談倶楽部」    1928(昭和3)年8月 ※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。 入力:阿和泉拓 校正:湯地光弘 2005年6月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。