閑人詩話 河上肇 Guide 扉 本文 目 次 閑人詩話  佐藤春夫の車塵集を見ると、「杏花一孤村、流水数間屋、夕陽不見人、牯牛麦中宿」といふ五絶を、 杏咲くさびしき田舎 川添ひや家をちこち 入日さし人げもなくて 麦畑にねむる牛あり と訳してあるが、「家をちこち」はどうかと思ふ。原詩にいふ数間の屋は、三間か四間かの小さな一軒の家を指したものに相違なからう。古くは陶淵明の「園田の居に帰る」と題する詩に、「拙を守つて園田に帰る、方宅十余畝、草屋八九間」云々とあるは、人のよく知るところ。また蘇東坡の詩にいふところの「東坡数間の屋」、乃至、陸放翁の詩にいふところの「仕宦五十年、終に熱官を慕はず、年齢八十を過ぎ、久く已に一棺を弁ず、廬を結ぶ十余間、身を著けて海の寛きが如し」といふの類、「間」はいづれも室の意であり、草屋八九間、東坡数間屋、結廬十余間は、みな間数を示したものである。杏花一孤村流水数間屋にしても、川添ひに小さな家が一軒あると解して少しも差支ないが、車塵集は何が故に数間の屋を数軒の家と解したのであらうか。専門家がこんなことを誤解する筈もなからうが。  「遠近皆僧刹、西村八九家」、これは郭祥正の詩、「春水六七里、夕陽三四家」、これは陸放翁の詩。これらこそは家をちこちであらう。                 ○  孟浩然集を見ると、五言絶句は僅に十九首しか残つて居ないが、唐詩選にはその中から二首採つてある。しかし私は取り残してある「建徳江に宿す」の詩が、十九首の中で一番好きである。それはかう云ふのだ。 移舟泊烟渚    舟を移して烟渚に泊せば、 日暮客愁新    日暮れて客愁新たなり。 野曠天低樹    野曠うして天樹に低れ、 江清月近人    江清うして月人に近し。  小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、この詩の起句を「烟渚に泊す」と読み切つてあり、結句を「月人に近づく」と読ませてある。しかし私は、「烟渚に泊せば」と読み続けたく、また「月人に近し」と、月を静かなものにして置きたい。  なほ野曠天低樹は、舟の中から陸上を望んだ景色であり、そこの樹はひろびろとした野原の果てにある樹なので、遥に人に遠い。(近ければ野曠しと云ふことにならない。)次に江清月近人の方は、舟の中から江を望んだ景色であらう。そして江清しと云ふは、昼間見た時は濁つてゐたのに、今は月光のため浄化されてゐるのであらう。月はもちろん明月で、盥のやうに大きく、ひどく近距離に感じられるのである。私は明月に対し、月が近いとは感じても、月が自分の方へ近づいて来ると感じ〔た〕ことはない。で月人に近しと読み、月人に近づくと読むことを欲しない。                 ○  孟浩然の詩で唐詩選に載せられて居るものは七首あるが、その何れにも現れて居ない特徴が、全集を見ると眼に映じて来る。それは同じ文字が一つ詩の中に重ね用ひられて居ると云ふことである。例へば「友人の京に之くを送る」と題する五絶に、次のやうなのがある。 君登青雲去    君は青雲に登りて去り、 余望青山歸    余は青山を望んで帰る。 雲山從此別    雲山これより別かる、 涙濕薜蘿衣    涙は湿す薜蘿の衣。  僅か二十字のうち、青雲青山雲山と同じ字が三つも重なつてゐるが、その重なり方がおもしろい。吾々は少しも不自然を感ぜず、却て特殊の味ひを覚える。  以下重字の例を列記して見る。 朝游訪名山、山遠在空翠。(尋香山湛上人) 悠悠清江水、水落沙嶼出。(登江中孤嶼) 鴛鴦鸂〓(「(來+攵)/鳥」)満沙頭、沙頭日落沙磧長、金沙耀耀動飆光。(鸚鵡洲送王九遊江左) 売薬来西村、村烟日云夕。(山中逢道士) 煙波愁我心、心馳茅山洞。(宿揚子津) 余亦乗舟帰鹿門、鹿門月照開煙樹。(夜帰鹿門歌) 山公常酔習家池、池辺釣女自相随。(高陽池送朱二) 翻向此中牧征馬、征馬分飛日漸斜。(同上) 傲吏非凡吏、名流即道流。(梅道士水亭) 払衣去何処、高枕南山南。(京還贈張維) 河県柳林辺、河橋晩泊船。(臨渙裴明府席遇張十一房六) 県城南面漢江流、江嶂開成南雍州。(登安陽城楼) 異俗非郷俗、新年改故年。(薊門看灯) 試登秦嶺望秦川。(越中送張少府帰秦中)  拾つて見ればこの程度のものに過ぎぬが、残つてゐる詩が極めて少いので、これだけのものでも特に目に着く。                 ○  絶句や律詩では、例へば李太白の「一叫一廻腸一断、三春三月隠三巴」の如く、王勃の「九月九日望郷台、他席他郷送客杯」や「故人故情懐故宴、相望相思不相見」の如く、高青邱の「渡水復渡水、看花還看花、春風江上路、不覚到君家」の如く、王安石の「水南水北重重柳、山後山前処処梅、未即此身随物化、年年長趁此時来」の如く、また陸放翁の「不飢不寒万事足、有山有水一生閑、朱門不管渠痴絶、自愛茅茨三両間」の如く、一句中に同字を用ひるは差支なきも、一首中に句を別にして同字を重ね用ひるは、原則として厭むべきものとされてゐる。しかし同字の重畳によつて却て用語の妙を発揮せる例も少くない。  前に掲げた孟浩然の送友人之京と題せる五絶の如きは、その適例の一つであるが、文同(晩唐)の望雲楼と題する次の五絶の如きも、各句に楼字を重ね用ひることによつて、特殊の味を出して居ると思はれる。 巴山樓之東    巴山は楼の東、 秦嶺樓之北    秦嶺は楼の北。 樓上捲簾時    楼上簾を捲くの時、 滿樓雲一色    楼に満つ雲一色。  家鉉翁(晩唐)の寄江南故人と題する次の詩も、やはり同字の重畳に面白味がある。 曾向錢唐住    曾て銭唐に向つて住し、 聞鵲憶蜀郷    鵲を聞いて蜀郷を憶ひき。 不知今夕夢    知らず今夕の夢、 到蜀到錢唐    蜀に到るか銭唐に到るか。  銭唐は今の浙江省の銭塘で、即ち江南であり、蜀は今の四川省に当る北地。向つては於いてと云ふに同じ。作者は今、郷里の蜀地にも居らず、また曾て住みたる銭塘にも居らず、却て友人の銭塘に在るを憶へるのである。  張文姫(鮑参軍妻)渓口雲詩にいふ、溶溶渓口雲、纔向渓中吐、不復帰渓中、還作渓中雨(溶々たる渓口の雲、纔に渓中に向つて吐く。復び渓中に帰らず、還た渓中の雨と作る。)これも亦た重字の妙を得たものと云へる。  また鄭谷の淮上与友人別詩にいふ、揚子江頭楊柳春、楊花愁殺渡江人、数声風笛離亭晩、君向瀟湘我向秦と。江字、楊字、向字各〻重出して却て詩美を成す。  白楽天の憶江柳詩、また同じ。曾栽楊柳江南岸、一別江南両度春、遥憶青青江岸上、不知攀折是何人。  以上の例と違ひ、わざとらしく同字を重ねたものは、概して鼻につく。次に若干の例を挙げて見る。  亂後曲江     王駕 憶昔曾遊曲水濱未春長有探春人遊春人盡空池在直至春深不似春 (憶ふ昔し曾て曲水の浜に遊ぶや、未だ春ならざるに長へに春を探るの人有りしに、春に遊ぶの人尽きて空く池在り、直ちに春の深きに至りて春に似ず。)  古意     王駕 夫戍蕭關妾在呉西風吹妾妾憂夫一行書信千行涙寒到君邊衣到無  前の詩には春字五、遊、人の二字は各〻二、後の詩には妾字五、夫、到の二字が各〻二、重複してゐるが、そのために特別の味が出てゐるとは思はれない。  春夜     劉象 幾處兵戈阻路岐憶山心切與山違時難何處披懷抱日日日斜空醉歸 (幾処か兵戈路岐を阻て、山を憶ふ心切にして山と違ふ。時難にして何れの処か懐抱を披かん、日々日斜にして空く酔うて帰る。)  春夜     劉象 一別杜陵歸未期祇憑魂夢接親和近來欲睡兼難睡夜夜夜深聞子規 (一たび杜陵に別れて帰ること未だ期なく、祇だ魂夢に憑りて親和に接す。近来睡らんとするも兼て睡り難く、夜々夜深けて子規を聞く。)  曉登迎春閣     劉象 未櫛憑欄眺錦城煙籠萬井二江明香風滿閣花滿樹樹樹樹梢啼曉鶯 (未だ櫛らず欄に憑りて錦城を眺めば、煙は万井を籠めて二江明かなり。香風閣に満ち花は樹に満ち、樹々樹梢に暁鶯啼く。)  私は以上の三首、いづれも甚だ好まない。殊に第二首は甚だ嫌である。次に掲げる方秋崖以下のものも、私はみな好まない。  梅花     方秋崖 有梅無雪不精神有雪無詩俗了人薄暮詩成天又雪與梅併作十分春(雪字三、梅、詩、有、無の四字は各〻二) (梅あるも雪なくんば精神ならず、雪あるも詩なくんば人を俗了す。薄暮詩成りて天又た雪ふり、梅と併せて十分の春を作す。)  野外     蔡節齋 松裏安亭松作門看書松下坐松根閑來又倚松陰睡淅瀝松聲繞夢魂(松字六) (松裏に亭を安んじ松を門と作し、書を松下に看て松根に坐す。閑来又た松陰に倚りて睡れば、淅瀝たる松声夢魂を繞る。)  吉祥探花     蔡君謨 花未全開月未圓看花待月思依然明知花月無情物若使多情更可憐(花、月の二字は各〻三、未、情の二字は各〻二) (花未だ全開せず月未だ円かならず、花を看、月を待つの思ひ依然。明かに知る花月は無情の物なるを、若し多情ならしめば更に可憐ならん。)  凭欄     蒙齋 幾度凭欄約夜深夜深情緒不如今如今強倚闌干立月滿空階霜滿林(夜、深、如、今、滿の五字各〻重出) (幾度か欄に凭りて夜深を約す、夜深うして情緒今に如かず、如今強ひて闌干に倚りて立てば、月は空階に満ち霜は林に満つ。)  どの詩もどの詩も俗で、詩といふほどのものになつて居ない。 賀蘭溪上幾株松南北東西有幾峯買得住來今幾日尋常誰與坐從容 (賀蘭渓上幾株の松、南北東西幾峰か有る、買ひ得て住し来たる今幾日、尋常誰と与にか坐して從容。)  これは王安石の詩、三たび幾字を重用して不思議に目立たない。                 ○  無責任なる漢詩訳解の一例。続国訳漢文大成、蘇東坡詩集、巻四、三〇八─九頁、註釈者、釈清潭。  「書二李世南所レ畫秋景一 野水參差落漲痕    野水参差として漲痕落つ、 疎林攲倒出霜根    疎林攲倒して霜根出づ、 扁舟一櫂歸何處    扁舟一櫂何の処に帰る、 家在江南黄葉邨    家は江南黄葉の邨に在り、 [詩意]野水は東西南北参差として、何も漲痕が落ちてある、其の上の疎林は攲倒の形を為して霜根を露出する、扁舟は舟人一櫂して何の処に帰るやを知らず、察するに江南黄葉邨に帰るのであらう、其の方向に舟は進みつつある、 [字解](一)参差 不斉の貌、詩経に参差荇菜とある、(二)一櫂 一棹に作る本あり、」  これなどは巻中まだましな方であるが、有名な詩だから先づ之を見本に写し出して見た。詩意として書き付けてある文章は、中学生の答案としても恐らく落第点であらう。文章のよしあしは別として、「漲痕」とは何のことか、「漲痕が落ちてある」とはどういふ意味か、「疎林が攲倒の形を為す」とは何のことか、「舟人が一櫂する」とはどんな事をするのか、これでは総て解釈になつて居ない。こんな日本文が分かるやうなら、何も国訳本を必要としないであらう。不親切な註釈もあつたものだ。  長い詩は写し取るのが面倒だから、絶句だけについて、も少し見本を並べて見よう。  「與二王郎一夜飮二井水一 呉興六月水泉温    呉興六月水泉温なり、 千頃菰蒲聚鬭蚊    千頃の菰蒲鬭蚊を聚む、 此井獨能深一丈    此の井独り能く深きこと一丈、 源龍如我亦如君    源竜我の如く亦君の如し、 [詩意]呉興の六月は水泉温かである、千頃の菰蒲に鬭蚊が集る、此の井は独り深きこと一丈、源竜我の如く亦君の如くである、」  これだけの説明でこの詩の意味が分かるつもりなのであらうか。そもそも筆者自身がこの詩を理解し得たのであらうか。──今一つ。  「南堂五首(其五) 掃地焚香閉閣眠    地を掃ひ香を焚き閣を閉ぢて眠る、 簟紋如水帳如煙    簟紋水の如く帳は煙の如し、 客來夢覺知何處    客来りて夢覚め知る何れの処ぞ、 挂起西窗浪接天    挂起すれば西窓浪天に接す、 [詩意]地を掃ひ香を焚き閣を閉ぢて眠る、簟紋は冷水の如くにて帳帷は煙の如くである、客来の声を聞いて夢より覚めて客は何処ぞと云うて、挂起すれば西窓の外は浪が天に接する勢である、 [字解](一)簟紋 夏日に敷いて坐する具、(二)帳如煙 太白の詩、碧紗如レ煙隔レ窓語と、李義山の詩、水紋簟滑鋪二牙牀一と、」  世間に名の知れた漢詩人でありながら、平気でこんなことを書き並べて居るのは、不思議に感じられる。                 ○  漢詩を日本読みにするのは、簡単なことのやうで、実は読む人の当面の詩に対する理解の程度や、その人の日本文に対する神経の鋭鈍などによつて左右され、自然、同じ詩でも人によつて読み方が違ふ。  日本人の作る漢詩は之を日本読みにする場合の調子に重きを置くべきであると考へてゐる私は、(この種の考については、いづれ項を別にして述べる、)総じて漢詩の日本流の読み方について色々な注文を有つ。次に思ひ付くままを少し述べて見よう。  漆山又四郎訳註の唐詩選(岩波文庫本)には、李白の越中懐古を、次の如く読ませてある。 越王勾踐破呉歸    越王勾践 呉を破りて帰る 義士還家盡錦衣    義士家に還りて尽く錦衣なり。 宮女如花滿春殿    宮女は花の如く春殿に満つ 只今惟有鷓鴣飛    只今惟鷓鴣の飛ぶ有るのみ。  私はかうした句読の切り方にも賛成せず、それに何よりも全体の調子がひどく拙いと思ふ。「義士家に還りて尽く錦衣なり、」私はこんな文章を好まない。「宮女は花の如く云々、」何故、前の句では「義士は」と読まずに、この句だけ「宮女は」と読ませたのであらう。「錦衣なり」「春殿に満つ」と現在に読むのもいけない。また春殿に満つは間違であらう。ここの春殿は、論語に「暮春には春服既に成り云々」とある場合などと同じく、春は殿の形容詞である。春満殿となつて居るのではないから、強ひて満春殿を「春殿に満つ」などと読ます必要は絶対にない。「惟鷓鴣の飛ぶ有るのみ」も、私はその調子を好まない。私は全体の詩を次のやうに読む。 越王勾践、呉を破りて帰るや、 義士家に還りて尽く錦衣、 宮女花の如く春殿に満ちしかど、 只今惟だ鷓鴣の飛ぶ有り。  平野秀吉著唐詩選全釈および簡野道明著唐詩選詳説には、第二句を「義士家に還りて尽く錦衣す」と読ましてあるが、ここは普通の場合と違ひ、呼吸が第二句から第三句へ一気に続いて居るのだから、錦衣なりとか錦衣すと云ふやうな悪調子を避け、ただ錦衣と名詞のままで打ち留め、更に第三句を「春殿に満ちしかど」と過去形に読ませ、その過去形へ第二句をも持たせ掛くべきであり、かくして始めて全体の詩の意味が日本文として通じ易くなり、調子もその方が却て好くなるのである。                 ○  同じく唐詩選にある李商隠の夜雨寄北と題する詩は、岩波文庫本では次のやうに読ませてあるが、私はこの読み方にも服しかねる。 君問歸期未有期    君にに帰期を問ふに未だ期あらず 巴山夜雨漲秋池    巴山の夜雨秋池に漲る。 何當共翦西牕燭    何か当に共に西牕の燭を剪り 卻話巴山夜雨時    却つて巴山夜雨の時を話るべきか。  私は嘗て未決監に居た時この詩を読んで、実にいい詩だと感じたことがある。しかし私は起句を「君に帰期を問ふに」などと読まず、「君は帰期を問へども」と読む。文庫本には、「北は北地に在る者の意、君は北地に在る者を指す」と註してあるが、それはそれに相違ないけれども、私はもつと具体的に、ここの君は細君のことだと解する。北は長安を指すものに相違ない。当時作者は任に巴蜀の地に赴き、細君は長安に留守居してゐたのであり、その細君から、いつ頃帰るかといふ、夫の帰りを待ち侘びた手紙が来たのである。それに対して「君は帰期を問へども未だ期あらず」と云つたので、それを「君に帰期を問ふに未だ期あらず」などと読んでは、全く駄目になる。原文も君問となつてをり、問君としてあるのではないから、何も強ひて君に問ふと読む必要はないのである。  「君は帰期を問へども未だ期あらず。」私は未決監でこの句を読んで、実に身に染む思ひがした。未だ期あらずと云ふことは、実にあはれ深いことなのである。  ところで、細君からの手紙を見て、そぞろにあはれを感じた時は、丁度秋の夜で、しかも雨がしとしとと降つて居たのである。牕を開けば巴山は雨に隠れ、軒前の池には盛んに水が溢れてゐる。作者は此の景に対し此の時の情を実に忘れ難きものに感じた。そこで何当共剪西牕燭却話巴山夜雨時と詠じたのであり、かく解してこそ、これらの句が実に生き生きとしたものになつて来るのである。私はこれを「何か当に共に西牕の燭を剪りて、却て巴山夜雨の時を話るべき」と読む。(陳延傑の『陸放翁詩鈔注』には放翁の詩「何当出清詩、千古続遺唱」に註して、「何当、何時也、李商隠詩、何当共剪西窓燭」としてある。もし之に従へば何当をいつかと読ますことにならう。)文庫本には「巴山夜雨の時を話るべきか」と読ましてあるが、何か当に云々と続いて居るのだから、「話るべきか」の「か」は蛇足であり、この蛇足のために調子はひどく崩れる。簡野道明本には、これを「何か当に共に西牕の燭を剪りて、却つて巴山夜雨を話する時なるべき」と読ませ、「坊本に巴山夜雨の時を話すと訓読するは非なり。何時の二字を分けて、転結二句の上と下とへ置いたのである。」と註してあるが、私は之に従ふことを欲しない。しとしとと雨ふる秋の夜、細君から来た手紙を手にして巴山に対した其の時の感じ、それを互に手を取つて話し合ふことの出来るのは、何時の頃のことであらうぞ、と感歎したのであるから、私は敢て「巴山夜雨の時を話るべき」と読みたく思ふのである。  「共に云々」と云ふのは、細君と手を取つての意。共に西牕の燭を剪りてなどいふ言葉は、極めて親しき間柄を示し、あかの他人を指したものとは思はれない。「却て云々」と云ふは、身は長安に帰りながら心は遠く巴蜀の地に馳せての意。いづれも只だ調子のために置かれただけのものではない。  なほ巴山夜雨の四字は、同じ字が第二句と第四句とに重ね用ひられてゐるが、これは必然の重複であり、かかる重複によつて、今の情景を将来再びまざまざと想ひいだすであらうことが示唆されて居るのであり、おのづからまた、当時作者は西牕に燭を剪つて此の詩を賦したであらうことが想像される訳でもある。  私は以上の如く解釈することによつて、今も尚ほ、この詩は稀に見るいい絶句だと思つてゐる。  小杉放庵の『唐詩及唐詩人』は、李商隠の詩四首を採録し居れども、遂にこの詩を採らず。                 ○  漢詩を日本読みにする場合、送り仮名の当不当は、往々にして死活の問題となる。例へば、唐詩選の岩波文庫本には、岑参の詩を、 東去長安萬里餘    東のかた長安を去る万里余り 故人那惜一行書    故人那ぞ惜まん一行の書。 玉關西望腸堪斷    玉関西望すれば腸断ゆるに堪へたり 況復明朝是歳除    況や復た明朝是れ歳除なるをや。 と読ましてあるが、この詩の第二句は「故人那ぞ惜まん」ではなく、「故人那ぞ惜むや」である。「惜むや」を「惜まん」と読むだけで、ここでは全体の意味が全く駄目になる。岑参のこの詩は「玉関にて長安の李主簿に寄す」と題せるもので、詩中に故人と云へるは即ち李主簿のことであり、この友人から一向に手紙が来ないために、「故人那ぞ一行の書をすら惜むや」と訴へたのである。  絶句の第二句は承句と称されてゐるやうに、起句を承けたものであるから、絶句を日本読みにする際には、多くの場合、第一句は之を読み切りにしない方がよい。例へば、前に掲げた孟浩然の詩、 移舟泊烟渚    舟を移して烟渚に泊せば、 日暮客愁新    日暮れて客愁新たなり。 野曠天低樹    野曠うして天樹に低れ、 江清月近人    江清うして月人に近し。 にしても、既に書いておいたやうに、小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、起句を「舟を移して烟渚に泊す」と読み切つてゐるが、私は「烟渚に泊せば」と次の句へ読み続けた方がいいと思ふのである。 舟を移して烟渚に泊す 日暮れて客愁新たなり と云ふのと、 舟を移して烟渚に泊せば 日暮れて客愁新たなり と云ふのとでは、ちよつとしたことだけれども、私は感じが非常に違ふと思ふ。  やはり前に掲げた同じく孟浩然の詩、 君登青雲去    君は青雲に登りて去り、 余望青山歸    余は青山を望みて帰る。 雲山從此別    雲山これより別かる、 涙濕薜蘿衣    涙は湿す薜蘿の衣。 を見るに、殊にこの場合には、起承二句が対句になつて居るから、ぜひ「君は青雲に登りて去り」と、次へ読み続けるやうにしたいものである。概して二句対偶を成せるものは、どんな所に置かれて居ようと、(律詩にあつては、第三句と第四句、第五句と第六句が、いつでも対句になつてゐるが、さう云つた場合でも、)大概は二つの句を読み続けた方がよくなつて居るものなのである。  同じやうな例を今一つ挙げて置かう。幸田露伴校閲としてある岩波文庫本の李太白詩選を見ると、越女詞五首の第五を、 鏡湖水如月    鏡湖、水月の如し、 耶溪女如雪    耶渓、女雪の如し。 新粧蕩新波    新粧、新波蕩く、 光景兩奇絶    光景、両つながら奇絶。 と読ましてある。しかしこの場合でも、第一句は「月の如く」として、呼吸を第二句まで続けたいものである。私は全体の詩を、「鏡湖の水は月の如く、耶渓の女は雪の如し。新粧新波に蕩き、光景両つながら奇絶。」と読む。  既にこの越女詞にもその例を見るやうに、第一句と第二句とを読み続けると同じ関係が、また屡〻第三句と第四句との間に存する。一例を挙ぐれば、李太白の有名な早発白帝城の詩は、岩波文庫本を見ると、 朝辭白帝彩雲間    朝に白帝を辞す彩雲の間、 千里江陵一日還    千里の江陵一日に還る。 兩岸猿聲啼不住    両岸猿声啼いて住まらず、 輕舟已過萬重山    軽舟已に過ぐ万重の山。 と読ましてあるが、これなども、第三句はやはり「両岸の猿声啼いて住まらざるに」と読んで、呼吸をそのまま結句まで続けたいと思ふ。  以上述べた所に当てはまる例を、更に二つだけ掲げておく。  早行     劉子翬 村鷄已報晨    村鶏已に晨を報じ、 曉月漸無色    暁月漸く色無し。 行人馬上去    行人馬上に去り、 殘燈照空驛    残灯空駅を照せり。  曉霽     司馬光 夢覺繁聲絶    夢覚めて繁声絶え、 林光透隙來    林光隙を透して来たる。 開門驚烏鳥    門を開きて烏鳥を驚かせば、 餘滴墮蒼苔    余滴蒼苔に堕ちぬ。                 ○  漢詩を日本読みにするについての注意の続き。  漢詩を日本読みにする場合、動詞の過去形は、時により絶対に必要である。例へば、唐詩選にある趙嘏の江楼書感を、岩波文庫本では、 獨上江樓思渺然    独り江楼に上りて思ひ渺然、 月光如水水連天    月光水の如く水天に連る。 同來翫月人何處    同く来りて月を翫ぶの人何れの処ぞ、 風景依稀似去年    風景依稀として去年に似たり。 と読ませてあるが、「翫ぶ」は「翫びし」と読ませなければ、結句が活きない。  場合によつては、推量の助動詞を使ふことがまた必要である。例へば、同じく唐詩選にある李益の汴河曲を、岩波文庫本では、 汴水東流無限春    汴水東流す限りなきの春、 隋家宮闕已成塵    隋家の宮闕已に塵と成る。 行人莫上長堤望    行人長堤に上りて望むこと莫れ、 風起楊花愁殺人    風起れば楊花人を愁殺す。 と読ませてあるけれども、結句は「風起らば楊花人を愁殺せん」と読ませたいものである。  かうした例は、拾ひ出して来れば際限なくあるが、ここには今一つ、陸放翁の詞(これは詩でなく謂はゆる詩余である)を一首だけ掲げておく。この一首には丁度、推量の助動詞と過去動詞とを用ふべき句が、前後にふくまれてゐるのである。 小院蠶眠春欲老    小院蚕眠りて春老いんとし、 新巣燕乳花如掃    新巣燕乳して花掃けるが如し。 幽夢錦城西    幽かに夢む錦城の西、 海棠如舊時    海棠旧時の如くならん。 當年眞草草    当年真に草々、 一櫂還呉早    一櫂呉に還ること早く、 題罷惜春詩    惜春の詩を題し罷めば、 鏡中添鬢絲    鏡中鬢糸添ひにしか。  右は私が試に読んで見たのであるが、この詞は作者が錦城(成都)に居た頃の思ひ出を詠じたものであるから、第四句は「海棠旧時の如し」と読んではならず、必ず「旧時の如くならん」と推量の助動詞を用ふべきであり、また結句は「鏡中鬢糸添ふ」と現在にせず、「鬢糸添ひにし」と過去にしなければならぬ。                 ○  漢詩を読んで味ふのはいいが、韻字平仄に骨を折り、支那人の真似をして、自分で漢詩を作るのは、詰らぬ話だ、と云つた説が往々にしてある。(今記憶してゐるのでは、いつか日夏耿之助がそんな事を書いてゐたし、小杉放庵の『唐詩及唐詩人』にも、そんなことが書いてある。)しかし私は一概に之に賛成しない。現に私自身が、近頃は平仄を調べたり、韻を踏んだりして、漢詩の真似事をしてゐる。私はそれを必ずしも馬鹿々々しい事とは思はない。  何故漢詩の真似事をするのか?(真似事と云ふのは謙遜ではない、その意味は段々に述べる。)  何よりもの理由は、漢字と漢文調とが自分の思想感情を表現するに最も適当する場合があるからだ。しかしそれだけなら仮名混りにしてもよささうなものだが、仮名を混ぜると眼で見た感じが甚だ面白くない。で、どうせ漢字の使用に重きを置くなら、仮名混りにせず漢字ばかりにして見たいといふ要求が生じ、どうせ漢字ばかりにするのなら、一応支那人の試みた漢詩の形態に拠つて見よう、と云ふことになるのである。  しかし一応は漢詩の形態を取つて見ても、吾々は之を棒読みにするのではなく、日本流に読むのだから、音律の関係から支那で発達した色々な作詩上の規則を、一々遵守する必要はない。それが日本の詩として、日本読みにするために、日本人の作る漢詩の特徴たるべきものである。  元来漢字の発音は支那でも上下数千年の間に少からぬ変化をして居るのであるから、現代の支那人でも、例へば唐の時代の作者が人に読んで貰ふつもりで居たやうな発音で、唐詩を読んでゐる訳ではない。(現に唐韻は二百六部に分かれてゐたのに、宋韻は僅に一百六部となつてゐる。以て発音の変化の著しきものあるを推知すべきである。)支那人ですらさうであるから、現代の日本人が唐詩の平仄や押韻やその他の事を細々と取調べ、出来るだけ唐詩に近いものを作らうとし、漢詩を作るならば唐詩を作らねばならぬと云ふ風に苦心するのは、(森槐南の如きは、かうした考を堅持して居たやうであるが、)一種の懐古趣味として以外に、そんなに意義のあることとは考へられない。  例へば律詩を作るといふ以上、普通の入門書に書いてある程度の、平仄の規則、押韻の規則、対偶の規則を守る位のことは、一応は避けがたきことであらう。しかし更にそれより進んで、例へば韻を踏まない句の最後の字について云へば、それをただ仄字にするだけで満足せず、第一聯ではそれが入声の字であつたから、第二聯では入声以外の上声なり去声なりの字を用ふべきであり、また第三聯は、もし第二聯で上声の字を用ひたとすれば、ぜひ去声の字を用ひねばならぬと云ふ風に、細かく四声の使ひ分けをする所まで立ち入り、唐代の詩人が音律の上に費したであらうやうな様々の苦心を、千載を距てた今日、全く言語を異にする異邦人たる日本人が、一々細かに吟味して、それらをば自分の作る詩の上に出来得るかぎり再現しようなどと努力することは、特別の専門家は別として、普通の人にとつては全く意味のなき徒労であらう。  それどころか、従来漢詩を作る人が誰でも気にして来た平仄の規則なども、場合によつては、無視して差支ないことであらう。それが昭和の日本人の作る漢詩の心得である。かういふ風に私は考へる。  例へば西郷南洲の逸題に、 幾歴辛酸志始堅    幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し、 丈夫玉碎慚甎全    丈夫玉砕、甎全を慚づ。 吾家遺法人知否    我が家の遺法、人知るや否や、 不爲兒孫買美田    児孫の為めに美田を買はず。 と云ふのがあり、甎全は瓦全としたいところを、平仄の関係で仄字の瓦を避けたのだが、日本人が日本人に読んで貰ふつもりで書かれたものなら、ここなどは平仄の規則を破つて、吾々の耳に慣れた瓦全を用ふる方がよく、それに玉砕に対して瓦全といふ言葉はあるが、甎全などいふ成語はない筈でもある。  同じく南洲の偶成七絶に、 大聲呼酒坐高樓    大声酒を呼んで高楼に坐し、 豪氣將呑五大州    豪気将に呑まんとす五大州。 一寸丹心三尺劍    一寸の丹心、三尺の剣、 揮劍先試佞奸頭    剣を揮つて先づ試みん佞奸の頭。 と云ふのがあり、之に対し、結句の揮剣は平仄が合はぬから、仄字の剣に代ふるに平字の刀を以てすべし、などと批評してゐる漢詩人があるは、私は甚だ不服である。これを日本読みにする場合、「一寸の丹心三尺の剣、剣を揮つて」と剣が続くからこそ、言葉の勢があるのであり、仮にその点を無視しても、ここは剣字を重ね用ひねば詩にならない。平仄が合つても合はなくても、そんなことを問題にする必要はない。私はさう考へるのである。  ところで、そんな事を云ふのなら、初めから平仄など全然問題にしないがいいではないか、と云ふ人もあらうが、それはそれでもいいのだ。しかし一応平仄を合はせておけば、支那人が棒読みにして見ても、平仄が合つて居ないのより、何程か調子が好くなるであらうから、元来は支那人に読んで貰ふことを主眼としたものではなくとも、一応は平仄の規則を無視しない方がよからう。私はそれ位に考へてゐる。  元来漢字は象形文字で、ローマ字や日本の仮名と全然文字の性格を異にして居り、音を耳に伝へることの外に、文字の形を眼で見て貰ふことを要求してゐる文字なのである。日、月、山、川等の文字を始め、半ば絵になつてゐる場合も少くなく、愁、悲、涙、泪などは、その偏に一々意味が含まれてゐる。で、日本人がこの漢字と絶縁すればともかく、之を日用文字としてゐる限り、紙に書いた場合に漢字の有つ特殊な味、その美しさなどから無感覚になる訳に行かず、従つてまた、微妙な感覚や美しさなどを尊ぶ詩にあつては、仮名混りでなしに漢字ばかり並べて見たいと云ふ要求が起らざるを得ないのである。(象形文字と音符文字と全く性格の異つた両様の文字を混用した日本文は、眼に映じる所が非常にきたない。私はこんなきたない文字は他になからうとさへ思つてゐる。)日本人の漢詩に対する要求の一半はそこから起つてゐる。  私は以上の如く考へてゐるから、専門の漢詩人が見たら、まるで規則はづれで詩になつて居ない、と嗤ふであらうやうなもの、あるひは支那人に見せたなら、調子のひどく拙いものだ、と批評するであらうやうなものを、平気で作つて居るが、しかしそれと同時に、他方では、これを日本読みにする場合の読み方や調子などに、(これは支那人に全く分からぬことである、)頗る重きを置いて居るのである。  眼で見たところは支那人の詩と同じやうに漢字ばかりで出来て居るが、その発音、その読み方は全然日本読みである。かういふのが日本人の作る、日本人の作り得る、また日本人が作つて見て意義のある、日本の漢詩である。それは野口米次郎が作つた英語の詩のやうな、外国の詩ではない。それは支那の詩ではなく、和歌俳句などと同じ範疇に属する日本の詩の一体である。一切はそこを標準としなければならぬ、そこを標準とすることによつて、初めて昭和の日本人が漢詩を作ると云ふことに意義が見出されるのである。  以上は私の我流の見解である。誰もこんなことを言つたのを、今まで見たことがない。しかし私はこの我流に相当の自信を有つてゐる。言ひ足らぬことは、項を改めて更に補足するであらう。                 ○  小杉放庵の『唐詩及唐詩人』には、次のやうなことが書いてある。 「友人の話だが、明治の初年支那通の岸田吟香が、あちらで知り会ひの文人達と、日本の詩について話をした折の思ひ付きで、梁川星巌その他日本での有名な詩人の作共の中に、あちらの無名人の作を加へて、わざと作者の名を除いて、試に彼らに見せたところ、みな其の無名人の分を採つた。そこで吟香が、かゝる内容貧弱な詩の何処がよろしいのかと訊ねた。彼等の答は一様に、無名人の分はともかく吟誦に耐へる、星巌等のは成るほど意味は面白からうが、何分下品な調子で賛成できぬと云ふ理由であつた。(中略)韻字平仄は、この吟誦を音楽的ならしむ可く備はつてゐる規則だ。恐らく日本の漢詩人は、本場の作家よりも此の規則をやかましく云つたらうが、原音四声の心得があちらの子供ほどにも行かぬ故、畢竟徒労だ、生れると直ぐに耳についてゐる原音、之は学問では推し切れない、漢字を五字づつ或は七字づつ行列させて、先づ普通の日本人には読みにくき物を作り、次に韻字平仄に骨を折つて、本場のチンプンカンプンに珍重されず、日本読みには無関係、何にもならぬ話。」  放庵は何にもならぬと云つてゐるが、しかし今の日本では、漢詩作法などいふ入門書が依然として新たに刊行されて居り、詩吟など云ふものも(私はこの詩吟なるものの調子を好んでゐる訳ではないが)相変らず流行してゐる。この事実は、ただ馬鹿げた話だとけなしただけでは説明がつかない。  畢竟、日本読みにする漢詩は、日本の詩であつて、支那の詩ではないのだ。かうした日本の漢詩を、支那人が支那の詩として見た場合、依然として鑑賞に値すれば、これに越したことはないが、しかしさうでないからと云つて、日本読みにするために作られた日本の漢詩は、日本の詩として依然独立の存在価値を保つことを妨げないのである。                 ○ をかにきて ほがらかに なくやうぐひすありしひの たにまのゆきにまじへたる こほるなみだはしるひとぞしる  佐藤春夫のこの詩は、仮名ばかりで書かれてあることによつて其の美しさを増してゐる。少くとも漢字と仮名の混用より生ずる醜さから免れてゐる。和歌を万葉仮名で書く人があるのも、紙に書いた上での斯かる醜さを避けて居るのであり、画家が自分の作品に字を題する場合、仮名混りの文章を嫌ふのも、同じ理由からである。象形文字と音符文字と、全然性格を異にする文字を混用しては、どんなに工夫しても美しくは書けない。文字そのものが混雑して居るからである。漢字と仮名を混用した和歌や俳句が普通には小さな短冊に書かれ、漢詩が大きな画箋紙などに大書されるのと趣を異にしてゐるのは、その関係からである。  支那でのみ書道なるものが発達したのも、象形文字の美しさからである。ローマ字国では字を書いて楽む人はない。  漢字の魅力は、日本人が未だに漢詩を作る原因の一つである。                 ○ 七年不到楓橋寺    七年到らず楓橋の寺、 客枕依然半夜鐘    客枕依然、半夜の鐘。 風月未須輕感慨    風月未だ軽々しく感慨するを須ゐず、 巴山此去尚千里    巴山此を去る尚ほ千里。 これは宿楓橋と題する陸放翁の詩だが、私は之を次のやうに訳して見た。 七年ぶりに来てみれば まくらにかよふ楓橋の むかしながらの寺の鐘 鐘のひびきの悽しくも そそぐ泪はをしめかし 身は蜀に入る客にして 巴山はとほし千里の北  試にこれを人に見せたところ、その人の言ふには、なるほど訳詩は相当の出来栄えだが、しかし原詩を日本読みにした場合の特殊の味は出て居ない、とのことであつた。尤もな話だ。そして之はもちろん私の不才に因るのでもあらうが、しかし日本読みの漢文調または漢詩調より受ける吾々の感覚は、元来独特なもので、これに代はるべき表現は他にないのである。  佐藤春夫の車塵集は五十首に近い漢詩の翻訳から成つてゐるが、その原詩が何れも女子の作品であり、謂はゆる風雲の気少く児女の情多きものであるのは、必ずしも偶然ではない。かうした種類のものは、漢字にたよらない日本語で表現することが、比較的に容易だからである。これと同じ理由で、維新当時の志士がその風雲の気を好んで漢詩に托したのも、やはり偶然ではない。彼等は漢字と漢詩調を借りなければ表現することの出来ない鬱勃たる気概を胸中に抱いて居たのである。近くは乃木大将の「征馬前まず人語らず、金州城外斜陽に立つ」の詩にしても、その時の感情はかうした形式以外に適当な表現はなく、支那人が見て感心しようが、感心すまいが、そんなことは最初から少しも問題にならぬのである。  日本人の描く油絵や水絵が、今日では、すでに洋画ではなく、日本画となつてゐると同じやうに、漢詩は既に久しい以前から日本の詩となつてゐる。これは漢字がすでに日本字になつてゐることと関聯するのである。  今日吾々の用ひる漢字の発音は、元と支那から渡来したものに相違はないが、しかし現代の日本人は現代の支那人と全く違つた発音の系統を維持して居り、かかる発音をなすものとしては、日本の漢字は最早や日本だけの国字となつてゐる。そしてかかる日本流の漢字は、長い長い年数の間にすつかり日本人の言語の中に融け込み、深い深い根をおろしてしまつて、今日吾々の言語は、漢字の助けなしには理解され得ないほどのものになつて居るのである。例へば戦車だの飛行機だのと云つても、漢字を当てはめて見なければ意味が通ぜず、英語を嫌つて野球用語のピッチャーを投手、キャッチャーを捕手などと云つて見たところで、やはり漢字を当てはめてみなければ意味は通じないのである。  漢字が長い年数をかけてこんなにまで日本人の生活に喰ひ入つたことの好し悪しは、別問題である。それは日本の言語の発達のため、あるひは不幸な出来事であつたのかも知れない。しかし日本人が善かれ悪かれかうした漢字を日用の文字として用ひてゐる限りは、その漢字を五字づつ並べたり七字づつ並べたりして、謂はゆる漢詩なるものを作るのは、放庵の言ふやうに何にもならぬ話ではない。ただ吾々は、それが日本の詩であることを自覚して、支那人の作詩法とは違つた独自の法則を、自律的に工夫する必要があるだけのことである。 (追記)「夜半の鐘声」については、別に『陸放翁鑑賞』の中で悉しく書いておいた。ただそこでは王漁洋の次の詩のことを書き漏らしたと思ふから、ここに之を書き写しておく。 日暮東塘正落潮、孤篷泊處雨蕭蕭、疎鐘夜火寒山寺、記過呉楓第幾橋、楓葉蕭條水驛空、離居千里恨難囘、十年舊約江南夢、獨聽寒山夜半鐘 王漁洋も寒山寺の夜半の鐘声を聞いたのである。 (昭和十六年十一月十一日清書)                 ○ 山前山後是青草    山前山後是れ青草、 盡日出門還掩門    尽日門を出でてまた門を掩ふ。 毎思骨肉在天畔    骨肉の天畔に在るを思ふ毎に、 來看野翁憐子孫    来りて見る野翁の子孫を憐むを。  これは北郭の閑思と題する曹鄴(晩唐)の詩である。彼は桂州の人で、洋州刺史となつたと伝へられて居るが、桂州も洋州もどこに当るのか、私には今分からない。(後になつて調べて見ると、桂州は今の広西省桂林県、洋州は今の陝西省洋県であつた。)ただこの詩は、恐らく作者の郷里を遠く離れた任地での作であらう、と思ふだけのことである。北郭といふのは、多分その任地の山城のことであり、山前山後是れ青草と云ふのは、その城郭のある山の前後が、みな野原か田畑になつて居たのであらう。門といふのは、山城の門である。その門を一日中出たり入つたりしてゐる。何のために、そんなに出たり入つたりするのか? 城にゐて気の紛れる為事がないと、遠く天涯にゐる肉親のことが思ひ出されてならぬ、すると、ついふら〳〵と門を出て、村の老人たちが子や孫を可愛がつてゐる様子を見て来るのだ。──かういふのが此の詩の意味であらう。  私たちの手許に一年間預かつてゐた幼けない孫が、迎ひに来た母と姉と一緒に、今日は愈〻上海に向けて立つ。これから私も何遍となく「骨肉の天畔に在るを思ふ」の日があるであらうが、年を取つてゐる私には、「来りて見る野翁の子孫を憐むを」といふ句が、如何にも痛切に感じられる。私は老母とも遠く離れて生活してゐるが、老親を思ふの情と穉孫を愛するの情とは、おのづから別である。私はこの詩の結句を見て、当時作者は孫かさもなくば年少の子を有つて居たのに相違あるまいと思ふ。門を出でて野翁の子孫を憐む(愛撫する)を見ると云ふことは、自ら子孫を愛撫した経験のある人でなければ成し得ない句である。 (昭和十六年十一月十四日稿) 底本:「河上肇全集 21」岩波書店    1984(昭和59)年2月24日発行 初出:「河上肇著作集第9巻」筑摩書房    1964(昭和39)年12月15日 ※底本の本文は、京都府立総合資料館蔵の自筆原稿によっています。 ※漢詩の白文に旧字を用いる扱いは、底本通りです。 ※〔〕書きされた部分は編集部が付したものです。本文内の〔〕は脱字を補ったもの、注記された〔〕は誤りを正したものです。 入力:はまなかひとし 校正:林 幸雄 2008年9月27日作成 2009年12月24日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。