鵞湖仙人 国枝史郎 Guide 扉 本文 目 次 鵞湖仙人      一  時は春、梅の盛り、所は信州諏訪湖畔。  そこに一軒の掛茶屋があった。  ヌッと這入って来た武士がある。野袴に深編笠、金銀こしらえの立派な大小、グイと鉄扇を握っている、足の配り、体のこなし、将しく武道では入神者。 「よい天気だな、茶を所望する」  トンと腰を置台へかけた。物やわらかい声の中に、凛として犯しがたい所がある。万事物腰鷹揚である。立派な身分に相違ない。大旗本の遊山旅、そんなようなところがある。 「へい、これはいらっしゃいまし」  茶店の婆さんは頭を下げた。で、恭しく渋茶を出した。  ゆっくりと取り上げて笠の中、しずかに喉をうるおしたが、その手の白さ、滑らかさ、婦人の繊手さながらである。  茶を呑み乍ら其の侍、湖水の景色を眺めるらしい。  周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。 信濃なる衣ヶ崎に来てみれば     富士の上漕ぐあまの釣船  西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。  が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつるのである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。  水に突き出た高島城、四万石の小大名ながら、諏訪家は仲々の家柄であった。石垣が湖面にうつっている。 「うむ、いいな、よい景色だ」  武士は惚々と眺め入った。時刻は真昼春日喜々、陽炎が雪消の地面から立ち、チラチラ光って空へ上る。だが山々は真白である。ほんの手近の所まで、雪がつもっているのである。 思い出す木曽や四月の桜狩。  これは所謂翁の句だ。翁の句としては旨くない。だが信州の木曽なるものが、いかに寒いかということが、此一句で例証はされる。昔の四月は今の五月、五月に桜狩があるのだとすると、これは確に寒い筈だ。ところで諏訪も同じである。矢張り木曽ぐらい寒いのである。  侍は婆さんへ話しかけた。 「話はないかな? 面白い話は?」 「へえへえ」  と云ったが茶店の婆さん、相手があまり立派なので、先刻からすっかり萎縮して了って、ロクに返事も出来ないのであった。 「へいへいさようでございますな。……これと云って変った話も……」 「無いことはあるまい。ある筈だ。……それ評判の鵞湖仙人の話……」  こう云った時、手近の所で、ドボーンという水音がした。  侍は其方へ眼をやった。  と、眼下の湖水の中に、老人が一人立泳ぎをしていた。  寒い季節の水泳! まあこれは可いとしても、その老人が打ち見た所、八十か九十か見当が付かない。そんな老齢な老人が、泳いでいるに至っては、鳥渡びっくりせざるを得ない。 「信州人は我慢強いというが、いや何うも実に偉いものだ」  侍は感心してじっと見入った。  ところが老人の泳ぎ方であるが、洵に奇態なものであった。  水府流にしても小堀流にしても、一伝流にしても大和流にしても、立泳ぎといえば大方は、乳から上を出すものである。それ以上は出せないものである。にも関らず老人は腰から上を出していた。で、まるで水の上を、歩いているように見えるのである。  侍はホトホト感心した。 「だが一体何流かしらん? こんな泳ぎ方ははじめてだ、まことに以て珍らしい」  だが侍の驚きは、間も無く一層度を加えた。と云うのは老人が、愈々でて愈々珍らしい、不思議な泳ぎ方をしたからであった。  老人はズンズン泳いで行った。湖心に進むに従って、形が小さくなる筈を、反対にダンダン大きくなった。しかし是は当然であった。老人は泳ぐに従って、益々体を水から抜き出し、二町あまりも行った頃には、文字通り水上へ立って了ったのである。      二  これでは水を泳ぐのではない。水の上を辷っているのだ。  スーッと行ってはクルリと振返り、スーッと行ってはクルリと振返る。  侍は腕を組んで考え込んだ。 「む──」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「南宗流乾術第一巻九重天の左行篇だ! あの老人こそ鵞湖仙人だ! ……今に消えるに相違無い!」  はたしてパッと水煙が上った。同時に湖上の老人の姿が、煙のように消えて了った。  見抜いた武士も只者では無い。  むべなる哉この侍は、由井民部介橘正雪。  南宗流乾術第一巻九重天の左行篇に就いて、説明の筆を揮うことにする。  これは妖術の流儀なのである。  日本の古代の文明が、大方支那から来たように、この妖術も支那が本家だ。南宗画は本来禅から出たもので、形式よりも精神を主とし、慧能流派の称である。ところが妖術の南宗派は、禅から出ずに道教から出た。即ち老子が祖師なのである。道教の根本の目的といえば、長寿と幸福の二つである。この二つを得るためには、代々の道教家が苦心したものだ。或者は神丹を製造して、それを飲んで長命せんとし、或者は陰陽の調和を計り、矢張り寿命を延ばそうとした。幸福を得るには黄金が必要だ。それで或者は練金術をやって、うんと黄金を儲けようとした。  神仙説を産んだのも、矢張り長寿と幸福との為めだ。  だが、併し、妖術の元は、幸福を得るというよりも、長寿を得ると云う方に、重きを置いていたらしい。ところで妖術の著書はと云えば、枹木子を以て根元とする。そこで筆は必然的に、枹木子に就いて揮わなければならない。  ところが洵に残念なことには、枹木子の著者は不明なのである。これほど素晴らしい本の著者が、不明というのは不思議であるが、しかし一方から見る時は、不明の方が本当かもしれない。屹度神仙が作ったんだろう、と云ってた方が勿体が付いて、却って有難くもなるのだから、尤も一説による時は、葛洪という人の著書だそうだ。  ところで枹木子は内篇二十篇外篇五十二篇という大部の本だ。詳しい紹介は他日を待ってすることにしよう。  枹木子は妖術の根本書で、非常に非常に可い本である! ただ是だけでいいでは無いか。  だが、本当を云う時は、この枹木子は妖術書では無くて、仙術の本という可きである。  で、真実の妖術書といえば、その枹木子の精粋を取り、更に他方面の説術を加味した「南宗派乾流」という本なのである。      三  その有名な妖術書の「南宗派乾流」は足利時代に、第一巻九重天だけ、日本へ渡って来たのである。第一巻九重篇だけでも、どうしてどうして素晴らしいもので、それを体得しさえしたら、どんな事でも出来るのだそうだ。  それを何うして手に入れたものか、鵞湖仙人という老人が、何時の間にか手に入れて、ちゃんと蔵っているのであった。  それを何うして嗅ぎ付けたものか、由井正雪が嗅ぎ付けて、それを仙人から奪い取ろうと、遙々江戸から来たのであった。  物語は三日経過する。  此処は天竜の上流である。  一宇の宏大な屋敷がある。  薬草の匂いがプンプンする。花が爛漫と咲いている。  鵞湖仙人の屋敷である。  その仙人の屋敷の附近へ、一人の侍がやって来た。他ならぬ由井正雪である。  先ず立って見廻わした。 「ううむ、流石は鵞湖仙人、屋敷の構えに隙が無い。……戌亥にあたって丘があり、辰巳に向かって池がある。それが屋敷を夾んでいる。福徳遠方より来たるの相だ。即ち東南には運気を起し、西北には黄金の礎を据える。……真南に流水真西に砂道。……高名栄誉に達するの姿だ。……坤巽に竹林家を守り、乾艮に岡山屋敷に備う。これ陰陽和合の証だ。……ひとつ間取りを見てやろう」  で、正雪は丘へ上った。 「ははあ、八九の間取りだな。……財集まり福来たり、一族和合延命という図だ。……ええと此方が八一の間取り。……土金相兼という吉相だ。……さて此方は一七の間取り。僧道ならば僧正まで進む。……それから此方が八九の間取り。……仁義を弁え忠孝を竭す。子孫永久繁昌と来たな。……それから此方は七九の間取り。……うん、そうか、あの下に、金銀が蓄えてあると見える。金気が欝々と立っている。……さて、あいつが九六の間取りで庭に明水の井戸がある。薬を製する霊水でもあろう。六四の間取りがあそこにある。……公事訴訟の憂いが無い。……戌亥に二棟の土蔵がある。……即ち万代不易の相だ。……戌にもう一つの井戸がある。……一家無病息災と来たな。……グルリと土塀で囲まれている。……厩が二棟立っている。……母屋の庭は薬草園だ。……」  由井正雪は感心した。  正雪は一代の反抗児、十能六芸武芸十八番、天文地文人相家相、あらゆる知識に達していたので、曾て驚いたことが無い。  それが驚いたというのだから、よくよくのことに相違無い。 「さて、これから何うしたものだ」  彼は思案に打ち沈んだ。 「路に迷った旅人だと、嘘を云って乗り込もうか。いやいや看破かれるに違いない。では正直に打ち明けて「術書」の譲りを受けようか。なかなか譲ってはくれないだろう。……うん、そうだ。忍び込んでやろう。俺は忍術葉迦流では、これでも一流の境にある。目付けられたら夫れまでだ。叩っ切って了えばいい。旨く術書が探ぐりあたれば、そのまま持って逃げる迄だ。よし、今夜忍び込んでやろう」      四  忍術も支那から来たものである。六門遁甲が根本である。「武備志」遁用術も其一つだ。  しかし忍術は日本に於て、支那以上に発達した。それは日本人が体が小さく、敏捷であったが為である。  忍術の根本は五遁にある。即ち水火木金土だ。  ところで葉迦流は水遁を主とし、葉迦良門の開いたもので、上杉謙信の家臣である。 「滴水を以て基となす」  こう極意書に記されてある。  一滴の雨滴が地面に落ちる。それをピョンと飛び越すのである。二滴の雨滴が地面へ落ちる。それを復ピョンと飛び越すのである。  雨滴はだんだん量を増す。地面の水域が広くなる。それをピョンピョン飛び越すのである。  しまいには池となり沼となる。もう其頃には人間の方も、それを平気で飛び越す程の力量が備わっているのである。  これ葉迦流の跳躍術の一つ。  その他水を利用して、さまざまの忍びを行うのが、葉迦流忍術の目的なのである。世の勝れた忍術家なるものは、勿論、科学者ではあったけれど、更に夫れ以上忍術家は、心霊科学で云う所の、「霊媒(ミイジャム)」であったのであった。  霊媒とは霊魂の媒介者である。  人間は現在活きている。だが人間はいずれ死ぬ。さて死んだら何うなるか? 勿論肉体は腐って了う。しかし霊魂は存在する。これ霊魂不滅説だ。その霊魂は何処にいるか? 霊魂の世界に住んでいる! そうして夫れ等の霊魂は、活きている人間と通信したがる。しかし普通の人間とは、不幸にも絶体に通信が出来ない。そこで特別の器能を備えた、──霊魂の言葉が解る人間──即ち霊媒を要求する。  霊媒とは霊魂のどんな言葉をでも、解し得る所の人間なのである。  のみならず勝れた人間になれば、草木山川の言葉をも──宇宙の生物無生物の言葉。それをさえ知ることが出来るのである。  そういう人間は此浮世に、極わめて稀に存在する。その中の或者が夫れを利用し、勝れた忍術家となったのである。  由井正雪は丘を下り、どこへとも無く行って了った。  こうして深夜五更となった。  すべて忍術家というものは、五更と三更とを選ぶものである。  鵞湖仙人の大館は森閑として静まっていた。  月も無ければ星も無い、どんよりと曇った夜であった。  と、竹藪から竹の折れる、ピシピシいう音が聞えて来た、風も無いのに竹が折れる、不思議と耳を傾けるのが、普通の人の情である。しかし、そっちへ耳傾けたが最後、心が一方へ偏して了う。偏すれば他方ががら空きとなる、そこへ付け入るのが忍術の手だ。  竹の折れる音は間も無く止んだ。後は寂然と音も無い。  鵞湖仙人はどうしているだろう? 由井正雪は何処にいるだろう? 勿論竹を折ったのは、正雪の所業に相違無い。  と、厩で馬が嘶いた。さも悲しそうな嘶き声である。  だが夫れも間も無く止んだ。そうして後は森閑と、何んの物音も聞えなかった。  屋敷は益々しずまり返り、人の居るような気勢も無い。  と、二階の窓が開き、ポッと其処から光が射した。  そこから一人の若い女が、夜目にも美しい顔を出した。どうやら何かを見ているらしい。仙人の屋敷に美女がいる? 少し不自然と云わざるを得ない。  と、天竜の川の上に、ポッツリと青い光が見えた。それがユラユラと左右に揺れた。そっくり其の儘人魂である。  すると窓から覗いていた、若い女が咽ぶように叫んだ。 「おお幽霊船! 幽霊船!」      五 「幽霊船だって? 何んの事だ?」  こう呟いたのは正雪であった。  彼は此時厩の背後、竹藪の中に隠れていた。  で、キラリと眼を返すと、天竜川の方を隙かしてみた。  いかにも此奴は幽霊船だ。人魂のような青い火が、フラフラ宙に浮いている。……提灯で無し、篝火で無し龕燈で無く松火で無い。得体の知れない火であった。  どうやら帆柱のてっぺんに、その光物は在るらしい。正雪は何時迄も見詰めていた。次第に闇に慣れて来た。幽霊船の船体が、朧気ながらも見えて来た。  天竜川は黒かった。闇に鎖ざされて黒いのである。時々パッパッと白い物が見えた。岩にぶつかる浪の穂だ。その真黒の水の上に、巨大な船が浮かんでいた。それは将しく軍船であった。二本の帆柱、船首の戦楼矢狭間が諸所に設けられている。  そうして戦楼にも甲板にも、無数の人間が蠢いている。人魂のような青い火が、船を朦朧と照している。  人々は甲冑を鎧っている。手に手に討物を持っている。槍、薙刀、楯、弓矢。……  おお然うして夫れ等の人は、鵞湖仙人の屋敷の方へ、挙って指を指している。何やら罵っているらしい。しかし話声は聞えない。  彼等はみんな痩せていた。  と、続々甲板から、水の中に飛び込んだ。十人、二十人、三十人。……しかも彼等は溺れなかった。彼等は水の上に立っていた。  飛ぶように水面を走り乍ら、続々と岸へ上って来た。彼等は岸へ勢揃いした。それから颯っと走り出した。  鵞湖仙人の屋敷の方へ!  近寄るままによく見れば、彼等はいずれも骸骨であった。眼のある辺には穴があり、鼻のある辺には穴があり、口のある辺には歯ばかりが、数十本ズラリと並んでいた。  甲冑がサクサク触れ合った。骨と骨とがキチキチと鳴った。  竹藪の方へ走って来る。  流石の正雪もウーンと唸った。すっかり度胆を抜かれたのである。  彼は地面へ腹這いになった。  サーッと彼等は走って来た。彼等の或者は正雪の背中を、土足のままで踏んで通った。しかし少しの重量も無い。彼等には重量が無いらしい。大勢通るにもかかわらず、竹藪はそよとの音も立て無い。一片の葉さえ戦がない。彼等には形さえ無いと見える。  いやいや併しハッキリと、恐ろしい形が見えるでは無いか! 甲冑をよそった骸骨の形が! そうだ、それは確かに見える! だが夫れは見えるばかりだ。物質としての容積を、只彼等は持っていないのだ!  即ち彼等は幽霊なのだ!  幽霊船の幽霊武者! そいつが仙人の屋敷を目掛け、まっしぐらに走って行くのである。  物凄い光景と云わざるを得ない。  幽霊武者は一団となり、土塀の裾へ集まった。  と、彼等は土塀をくぐり、サッと屋敷内へ乱入した。勿論土塀には穴が無い。それにもかかわらず潜ったのだ。  湧き起ったのは女の悲鳴! 「ヒーッ」という魂消える声! つづいて老人の呶鳴り声! 鵞湖仙人の声らしい。討物の音、倒れる音、ワーッという閧声! ガラガラと物の崩れる音。 「お爺様! お爺様! お爺様!」 「おお娘、しっかりしろ!」  ドッと笑う大勢の声。 「ヒーッ」と復も女の悲鳴。  意外! 歌声が湧き起った。 武士のあわれなる あわれなる武士の将 霊こそは悲しけれ うずもれしその柩 在りし頃たたかいぬ いまは無し古骨の地 下ざまの愚なる つつしめよ。おお必ず 不二の山しらたえや きよらとも、あわれ浄し 不二の山しらたえや しらたえや、むべも可 建てしいさおし。  訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。  由井正雪は腹這ったまま、じっと歌声に耳を澄ました。  くり返しくり返し聞える歌!  深夜である。  山中である。  その歌声の物凄さ!      六  復も土塀から甲冑武者が、恰も大水が溢れるように、ムクムクムクムクと現れ出た。  彼等は何物かを担いでいた。  数人が頭上に担いでいた。女である! 女の死骸だ! 窓から顔を差し出して「幽霊船!」と叫んだ女だ! その死骸を担いでいる。  走る走る甲冑武者が走る。  竹藪を通って天竜の方へ!  或者は正雪の頭を踏んだ。或者は彼の足を踏んだ。そうして或者は手を踏んだ。矢張り重量は感じない。  彼等は川の方へ走って行った。そうして水面を辷るように歩き、船の上へよじ上った。  と、船が動き出した。天竜川を上るのである。人魂のような光物が、ユラユラと宙でゆらめいた。上流へ上流へと上って行く。  立ち上った正雪は腕を組んだ。 「深い意味があるに相違無い。彼奴等の歌ったあの歌にはな。……今夜の忍び込みはもう止めだ。……ひとつ手段を変えることにしよう」  彼は竹藪からするすると出た。そうして何処ともなく立ち去った。  その翌朝のことである。  鵞湖仙人の屋敷を目掛け、一人の武士が歩いて来た。  余人ならぬ由井正雪。  玄関へ立つと案内を乞うた。 「頼もう」と武張った声である。  と、しとやかな畳障り、玄関の障子がスィーと開いた。婦人がつつましく坐っている。  それを見た正雪は「あっ」と云った。  これは驚くのが、尤である。幽霊武者に担がれて行った、昨夜の娘が坐っているのだ。 「どちらからお越しでございます?」  その婦人は朗かに云った。幽霊では無い、死骸では無い。将しく息のある人間だ。妙齢十八、九の美女である。ちゃんと三指を突いている。 「驚いたなあ」と心の中。正雪すっかり胆を潰した。しかし態度には現さず「拙者こと江戸の浪人、由井正雪と申す者、是非ご老人にお目にかかり度く、まかり出でましてございます。この段お取次ぎ下さいますよう」 「暫くお待ちを」と娘は云った。それからシトシトと奥へ這入った。間違いは無い足がある。どう睨んでも幽霊では無い。  正雪、腕を組んで考え込んだ。  そこへ娘が引き返して来た。 「お目にかかるそうでございます。どうぞお通り下さいますよう」  で、正雪は玄関を上った。  通されたのは奇妙な部屋だ。三間四方の真っ四角の部屋、襖も無ければ障子も無い。窓も無ければ出入口も無い。 「はてな」と正雪は復考えた。「俺はたしかに案内されて、たった今此部屋へ這入った筈だ。それだのに一つの出入口も無い。一体どこから這入ったのだろう?」  どうにも彼には解らなかった。四方同じ肉色の壁で、それが変にブヨブヨしている。そうして無数に皺がある。その皺が絶えず動いている。延びたかと思うと縮むのである。壁ばかりでは無い。天井も然うだ。天井ばかりでは無い床も然うだ。現在坐っている部屋の板敷が、延びたり縮んだりするのである。床の間も無ければ違い棚も無い。一切装飾が無いのである。  気味が悪くて仕方が無かった。 「ううむ、こいつは遣られたかな」  正雪は心を落ち着けようとした。彼は眼を据えて板敷を見た。と不思議な筋があった。その筋は三本あった。部屋の一方の片隅から、斜めに部屋を貫いていた。  それを見た正雪はブルブルと顫えた。しかし恐怖の顫えでは無く、それは怒りの顫えであった。 「巽から始まった天地人の筋、一つは坤兌の間を走り、一つは乾に向かっている。最下の筋は坎を貫く!」彼はバリバリと歯を噛んだ。  矢庭に抜いた腰の小柄、ブツーリ突いたは板敷の真中! 途端に「痛い!」と云う声がした。  その瞬間に正雪は、もんどり打って投げ出された。  飛び起きた時には其部屋は無く、全く別の部屋があった。  違い棚もあれば床の間もある。床の間には寒椿が活けてある。棚の上には香爐があり、縷々として煙は立っている。襖もあれば畳もある。普通の立派な座敷であった。  床の間を背にして坐っているのは、他でも無い鵞湖仙人、渋面を作って右の掌を、紙でしっかり抑えている。そこから流れるのは血であった。      七 「ひどいことをなさる、由井正雪殿」  老人は相手を怨むように云った。 「お互いでござるよ、鵞湖仙人殿」  正雪は哄然と一笑したが「いかがでござる。傷は深いかな?」 「深くは無いが、ちょっと痛い」 「アッハハハ、お気の毒だな。……手中に握った天罰でござる」 「でも宜く心が付かれたな」 「天地人三才の筋からでござる」 「大概な者には解らぬ筈だが」 「なにさ、手相さえ心得て居れば、あんなことぐらいは誰にでも解る。……が、あれは何術でござるな?」 「さよう、あれは、十宮伝」 「南宗派乾流九重天、第一巻の其中に、矢張りあるのでござろうな?」由井正雪は鎌をかけた。  すると老人はジロリと見たが、 「さあ何うだかな、わしは知らぬ」俄に用心したものである。「それは然うと正雪殿、昨日は湖畔でお目にかかったな」 「え、それではご存じか」正雪ちょっとドキリとした。 「それに昨夜はご苦労だった。折竹探法、嘶馬探法、いろいろ忍術をおやりのようだが、とうとう諦めて帰られたな。どうやら葉迦流をお学びと見える、が、まだまだ少しお若い。あれでは固めは破れぬよ」 「畜生」と正雪は腹の中「爺め、何んでも知っていやがる」しかし彼は屈しなかった。  彼は一膝グイと進めた。 「が、流石のご老人も、幽霊船にはお困りのようだな」 「さて、そいつだ」と老人は、繃帯した右手を膝へ置いたが「余人ならぬ正雪殿だ、真実の所をお話しするが、仰せの通り、あれには参った」 「ご老人ほどの方術家にも、どうにもならぬと見えますな」 「天人にも五衰あり、仙人にも七難がござる。……死霊だけには手が出ない」 「歌に就いてのお考えは?」 「え、歌だって? なんの歌かな?」 「彼奴等の歌ったあの歌でござる」 「あああれか、考えて見た。……が、どうも解らない」 「ところが拙者には解って居る」 「ふうん、さようかな、その意味は?」 「不可ない不可ない」と手を振った。「そう安くは明されぬて」 「さようか、それでは聞かぬ迄だ」老人、不快そうに横を向いた。 「ところで一つお聞きしたい」正雪は老人を見詰め乍ら「あのご婦人はお娘御かな?」 「さようでござる、孫娘で」 「どうして活きて戻られたな?」 「いや夫れは毎晩でござる。毎晩彼奴等が征めて来ては、あの娘を死骸とし、船へ運んで虐んだ後、活かして返してよこすのでござる。……可哀そうなのは孫娘でござる。だんだん衰弱いたしてな、……つまりわしには祟れぬので、そこで弱い娘に祟り、わしを間接に苦しめるのでござるよ」 「老人、何か過去に於いて殺生なことはなされぬかな?」 「いいや、断じて」と老人は云った。「わしはこれでも方術家、一切罪悪は犯していませぬ」 「今後はなんとなされますな?」 「手が出ませぬ。捨てて置きます」 「お娘御のお命は?」 「可哀そうに、死にましょう」 「拙者、退治て進ぜよう」正雪は復も膝を進めた。 「いかがでござろう、褒美として、秘巻はお譲り下さるまいか」  老人はじっと考え込んだ。それから徐ろに口をひらいた。 「最早秘巻此わしには、殆ど必要が無いのでござる。何故と云うに既にわしは、秘巻の意味を知り尽したからで、そこで他人に譲りたく、人材を求めたのでござる。その結果四人を目付けました。第一が他ならぬご貴殿でござる。第二が山鹿素行殿、第三が熊沢蕃山殿、第四が保科正之侯。……で、湖畔で貴殿に会いその人物を験めそうものと、例の立泳ぎお目にかけました。が、貴殿には残念にも、心に不軌を蔵して居られる。天下を乱すに相違無い。然るに南宗派乾流は、そういう人物には有害なのでござる。で、貴殿には譲りたくござらぬ。とは云え悪霊を退治して、娘をお助け下さるとあっては、矢張り譲らねばなりますまい。よろしうござる、お譲りしましょう」  つと老人は立ち上り、隣の部屋へ這入って行った。持って来たのは一巻の巻物、恭しく額に押しあてたがやがて正雪の前へ置いた。 「術譲り! 襟を正されい」  正雪はピタリと襟を正した。 「さて、秘巻はお譲り致した。……悪霊退散の方法はな?」      八 「不浄場をお取り壊しなさるよう」  これが正雪の言葉であった。既に秘巻を譲られたからは、老人は彼に執り師匠であった。そこで言葉を慇懃にした。 「先生は博学でございます。それが尠くも今度の事件では、失敗の基でございました。何故と申しますに先生には、その博学にとらわれて、つまらない彼等の歌の意味を、むずかしくお考えになりました。そのため難解に墜落ました。彼等の歌には意味は無く、文字に意味があったのでございます。既ち初の文句では、その頭にある「武」という文字に、意味があったのでございます。そうして其の次の文句ではその最後にある「将」という文字に、意味があったのでございます。そうして三番目の文句では、矢張り頭にある「霊」という文字に意味があったのでございます。そうして四番目の文句では、又最後の「柩」という文字に、意味があったのでございます、このようにして頭と尻との、各一字ずつの文字を取り、そのまま順序よく並べますと、次のような一連の言葉となります。 武将霊柩在地下 必不浄不可建  武将の霊柩地下に在り、必ず不浄を建つ可からず。──このようになるのでございます。ところで何うしてこの私が、それに気が付いたかと申しますに、彼等が歌をうたう時、頭と尻とへ特別に、力を籠めるからでございました。……で、恐らくお屋敷内の便所の下に古武将の柩が、埋めてあるのでございましょう。その上へ便所が立ちましたので、その霊魂が憤慨し、仇をしたものと存ぜられます」  そこで老人と正雪とは、急いで便所を取り壊し、その地の下を掘って見た。果たして一個の霊柩があり、甲冑を鎧った骸骨が、その附近に散在していた。 底本:「妖異全集」桃源社    1975(昭和50)年9月25日発行 初出:「ポケット」    1926(大正15)年3月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。 ○練金術:「錬金術」の誤記か。 入力:阿和泉拓 校正:門田裕志、小林繁雄 2004年12月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。