神鑿 泉鏡太郎 Guide 扉 本文 目 次 神鑿 朱鷺船 一 二 三 四 五 六 雪枝、菊松 七 八 技芸天 九 十 十一 十二 采 十三 十四 谺 十五 十六 十七 十八 城ヶ沼 十九 二十 二十一 雲の声 二十二 二十三 二十四 誂へ物 二十五 二十六 二十七 祠 二十八 二十九 供揃へ 三十 三十一 三十二 バサリ 三十三 三十四 三十五 天守の下 三十六 双六盤 三十七 三十八 人さし指 三十九 四十 四十一 四十二 四五六谷 四十三 四十四 四十五 獅子の頭 四十六 朱鷺船 一  濡色を含んだ曙の霞の中から、姿も振もしつとりとした婦を肩に、片手を引担ぐやうにして、一人の青年がとぼ〳〵と顕はれた。  色が真蒼で、目も血走り、伸びた髪が額に被つて、冠物なしに、埃塗れの薄汚れた、処々釦の断れた背広を被て、靴足袋もない素跣足で、歩行くのに蹌踉々々する。  其が婦を扶け曳いた処は、夜一夜辿々しく、山路野道、茨の中を徉徜つた落人に、夜が白んだやうでもあるし、生命懸の喧嘩から慌しく抜出したのが、勢が尽きて疲果てたものらしくもある。が、道行にしろ、喧嘩にしろ、其の出て来た処が、遁げるにも忍んで出るにも、背後に、村、里、松並木、畷も家も有るのではない。山を崩して、其の峯を余した状に、昔の城趾の天守だけ残つたのが、翼を拡げて、鷲が中空に翔るか、と雲を破つて胸毛が白い。と同じ高さに頂を並べて、遠近の峯が、東雲を動きはじめる霞の上に漾つて、水紅色と薄紫と相累り、浅黄と紺青と対向ふ、幽に中に雪を被いで、明星の余波の如く晃々と輝くのがある。……此の山中を、誰と喧嘩して、何処から駆落して来やう? ……  婦は、と云ふと、引担がれた手は袖にくるまつて、有りや、無しや、片手もふら〳〵と下つて、何を便るとも見えず。臘に白粉した、殆ど血の色のない顔を真向に、ぱつちりとした二重瞼の黒目勝なのを一杯に睜いて、瞬もしないまで。而して男の耳と、其の鬢と、すれ〳〵に顔を並べた、一方が小造な方ではないから、婦の背が随分高い。  然うかと思へば、帯から下は、げつそりと風が薄く、裙は緊つたが、ふうわりとして力が入らぬ。踵が浮いて、恁う、上へ担ぎ上げられて居さうな様子。  二人とも、それで、やがて膝の上あたりまで、乱れかゝつた枯蘆で蔽はれた上を、又其の下を這ふ霞が隠す。  最も路のない処を辿るのではなかつた。背後に、尚ほ覚果てぬ暁の夢が幻に残つたやうに、衝と聳へた天守の真表。差懸つたのは大手道で、垂々下りの右左は、半ば埋れた濠である。  空濠と云ふではない、が、天守に向つた大手の跡の、左右に連なる石垣こそまだ高いが、岸が浅く、段々に埋れて、土堤を掛けて道を包むまで蘆が森をなして生茂る。然も、鎌は長に入れぬ処、折から枯葉の中を透いて、どんよりと霞の溶けた水の色は、日の出を待つて、さま〴〵の姿と成つて、其から其へ、ふわ〳〵と遊びに出る、到る処の、あの陽炎が、こゝに屯したやうである。  其の蘆がくれの大手を、婦は分けて、微吹く朝風にも揺らるゝ風情で、男の振つくとゝもに振ついて下りて来た。……若しこれで声がないと、男女は陽炎が顕はす、其の最初の姿であらうも知れぬ。  が、青年が息切れのする声で、言ふのを聞け。 「寐るなんて、……寐るなんて、何うしたんだらう。真個、気が着いて自分でも驚いた。白んで来たもの。何時の間に夜が明けたか些とも知らん。お前も又何だ、打つてゞも揺つてゞも起せば可いのに──しかし疲れた、私は非常に疲れて居る。お前に分れてから以来、まるで一目も寐ないんだから。……」 とせい〳〵、肩を揺ると、其の響きか、震へながら、婦は真黒な髪の中に、大理石のやうな白い顔を押据えて、前途を唯熟と瞻る。 二 「考へると、能くあんな中で寐られたものだ。」 と男は尚ほ半ば呟くやうに、 「言つて見れば敵の中だ。敵の中で、夜の明けるのを知らなかつたのは実に自分ながら度胸が可い。……いや、然うではない、一時死んだかも分らん。  然うだ、死んだと言へば、生死の分らなかつた、お前の無事な顔を見た嬉しさに、張詰めた気が弛んで落胆して、其つ切に成つたんだ。嘸お前は、待ちに待つた私と云ふものが、目の前に見えるか見えないに、だらしなく、ぐつたりと成つて了つて、どんなにか、頼みがひがないと怨んだらう。  真個、安心の余り気絶したんだと断念めて、許してくれ。寐たんぢやない。又、何うして寐られる……実は一刻も疾く、此の娑婆へ連出すために、お前の顔を見たらば其の時! 壇を下りるなぞは間弛ツこい。天守の五階から城趾へ飛下りて帰らう! 其の意気込みで出懸けたんだ、実際だよ。  が、彼の頂上から飛だ日には、二人とも五躰は微塵だ。五躰が微塵ぢや、顔も視られん、何にも成らない。然うすりや、何を救ふんだか、救はれるんだか、……何を言ふんだか、はゝはゝ。」 と取留めもなく笑つた拍子に、草を踏んだ爪先下りの足許に力が抜けたか、婦を肩に、恋の重荷の懸つた方の片膝をはたと支く、トはつと手を離すと同時に、婦の黒髪は頬摺れにづるりと落ちて、前伏に、男の膝へ背が偃つて、弱腰を折重ねた。 「あつ!」と慌しく、青年は其の帯の上へ手を掛けて、 「危い。あゝ、何て事だ。──お浦、」 と言つたは婦の名で。 「怪我はしないか、何処も痛めはしなかつたか。可、何ともない。」  婦が、あ、とも言はず、声の無いのを、過失はせぬ事、と頷いて、さあ、起たうとすると些とも動かぬ。 「起たないか、こんな処に長居は無益だ。何うした。」 と密と揺ぶる、手に従つて揺ぶれるのが、死んだ魚の鰭を摘んで、水を動かすと同じ工合で、此方が留めれば静と成つて、浮きも沈みもしない風。  はじめて驚いた色して、 「何うかしたか、お浦。はてな、今転んだつて、下へは落さん、怪我も過失も為さうぢやない。何だか正体がないやうだ。矢張り一時に疲労が出たのか。あゝ、然う言へば前刻から人にばかりものを言はせる。確乎してくれ、お浦、何うしたんだ。」 と今は慌しく成つた。青年は矢庭に頸を抱き、膝なりに背を向ふへ捻廻はすやうにして、我が胸を前へ捻つて、押仰向けた婦の顔。  今も目は塞がず、例の眸つて、些の顰むべき悩みも無げに、額に毛ばかりの筋も刻まず、美しう優い眉の展びたまゝ、瞬もしないで、其のまゝ見据えた。  其の顔と、此の時、引返した身動ぎに、飜つた褄の乱れに、雪のやうに顕はれた円い膝頭……を一目見るや、 「うむ、」と一声、摚と枯蘆に腰を落して、殆んど痙攣を起した如く、足を投出してぶる〳〵と震へて、 「違つた〳〵。造りものだ、拵へものだ、彫像だ。昨夜持つて行つた形代だ、こりや、……おゝ。」  戦く手に、婦の胸を確乎と圧せば、膨らかな襟のあたりも、掌に堅く且つ冷たいのであつた。 「何だ、又これを持つて帰るほどなら、誰が命がけに成つて、這麼ものを拵へやう。……誑しやあがつたな! 山猫め、狐め、野狸め。」 と邪慳に、胸先を取つて片手で引立てざまに、渠は棒立ちにぬつくり立つ。可憐や艶麗な女の姿は、背筋を弓形、裳を宙に、縊られた如くぶらりと成る。 三  青年は半狂乱の躰で、地韜を踏んで歯噛をした。 「おのれえ、魔でも、鬼でも、約束を違へる、と言ふ不都合があるか、何と言つた、何と言つた。」 と詰るが如くに掠れ声して、手を握つて、空を打つて、天守の屋根を睨んで喚いた。大手筋を下切つた濠端に──まだ明果てない、海のやうな、山中の原を背後にして──朝虹に鱗したやうに一方の谷から湧上る向ふ岸なる石垣越に、其の天守に向つて喚く……  喚くが、しかし、一騎朝蒐で、敵を詈る勇ましい様子はなく、横歩行に、ふら〳〵して、前へ出たり、退つたり、且つ蹌踉めき、且つ独言するのである。 「畜生、人の女房を奪つた畜生、魔物に義理はあるまいが、約束を違へて済むか、……何と言つて約束した──婦の彫像を拵へろ、其の形代を持つて来い。お浦を返すと言つたのを忘れたか、忘れたのか。」 と其の握拳で、己が膝を礑と打つたが、力余つて背後へ蹌踉ける、と石垣も天守も霞に揺れる。 「待てよ。雖然、自分の製作へた此の像だ、これが、もし価値に積つて、あの、お浦より、遥に劣つて居たら何うする。まるで取替へる価がないと言へば其までだ、──あゝ、其がために、旧通りお浦を隠して、此の木像を突返したのか。己は夢中で、此を恋しい婦だ、と思つて、うか〳〵抱いて返つたのか、然うかも知れん。  其では、劣作だと言ふのだな、駄物だ、と言ふのだな、劣作か、駄物か、此奴。」 と首を引向け胸に抱いて、血走つた目で屹と其の顔を。 「己が、此の心も知らずに、けろりとして済ました面よ。おのれ石でも、己が此の心を汲んで、睫毛に露も宿さないか。霞にも曇らぬ瞳は、蒟蒻玉同然だ。──其も道理よ、血も通はない、脉もない、魂のない、たかゞ木屑の木像だ。」 と興覚顔して、天守を仰いで、又俯向き、 「何だ、これは、魔物が言ひさうな事を己が言ふ、自分が言ふ、我と我が口で詈るな。おゝ、自然と敵の意を体して、自から、罵倒するやうな木像では、前方が約束を遂げんのも無理はない……駄物、駄物、駄物、」 と三舎を避ける足取で、たぢ〳〵と後退りして、 「さあ、恁うなれば、お浦の紀念の方が大事だ。よくも、おのれ、ぬく〳〵と衣服を着た。」と言ふ〳〵挘るが如く衣紋を開いて帯をかなぐり、袖を外すと、柔かな肩が下つて、二の腕がふらりと垂れる。双の玉の乳房にも、糸一条の綾も残さず、小脇に抱くや、此の彫刻家の半身は、霞のまゝに山椿の炎が𤏋と搦んだ風情。  其の下襲ねの緋鹿子に、足手の雪が照映えて、女の膚は朝桜、白雲の裏越す日の影、血も通ふ、と見る内に、男の顔は蒼く成つた。──女の像の片腕が、肱の処から、切れ目赤う、さゝら立つて折られて居た。 「わツ、」と叫んで、其の咽喉を掴んだまゝ、投げ附けやうとして振挙げた手の、筋が釣つて棒の如くに衝と挙げると、女の像は鶴のやうに、ちら〳〵と髪黒く、青年の肩越に翼を乱して飜つた。  が、其のまゝには振飛ばさず。濠を越して遥かな石垣の只中へも叩きつけさうだつた勢も失せて──猶予ふ状して……ト下を見る足許を、然まで下らず、此方は低い濠の岸の、すぐ灰色の水に成る、角組んだ蘆の上へ、引上げたか、浮べたか、水のじと〳〵とある縁にかけて、小船が一艘、底つた形は、処がら名も知れぬ大なる魚の、がくり、と歯を噛んだ白髑髏のやうなのがある。 四  処が其の小船は、何の時か、向ふ岸から此岸へ漕寄せたものゝ如く、艫を彼方に、舳を蘆の根に乗据えた形に見える、……何処の捨小船にも、恁う逆に攬つたと言ふのは無からう。まだ変つた事には、舷を霞が包んで、ふつくり浮上つたやうな艫に留まつて、五位鷺が一羽、頬冠でも為さうな風で、のつと翼を休めて向ふむきにチヨンと居た。  城趾の此の辺は、人里に遠いから、鶏の声、鴉の声より、先づ五位鷺の色に夜が明けやう。其に不思議は無いが、如何に人を恐れねばとて、直ぐ其の鶏冠の上で、人一人立騒ぐ先刻から、造着けた躰にきよとんとして、爪立てた片脚を下ろさうともしなかつた。  此の船の中へ、どさりと落した。  女の像は胴の間へ仰向けに、肩が舷にかゝつて、黒髪は蘆に挟まり、乳の下から裾へ掛けて、薄衣の如く霞が靡けば、風もなしに柔かな葉摺れの音がそよら〳〵。で、船が一揺れ揺れると思ふと、有繋に物駭きを為たらしい、艫に居た五位鷺は、はらりと其の紫がゝつた薄黒い翼を開いた。  開いたが、飛びはしない、で、ばさりと諸翼搏つと斉しく、俯向けに頸を伸ばして、あの長い嘴が、水の面へ衝と届くや否や、小船がすら〳〵と動きはじめて、音もなく漕いで出る。  見るものは呆れ果てゝ、どかと濠端に腰を掛けた。  五位鷺の働くこと。船一艘漕ぐなれば、蘆の穂の風に散る風情、目にも留まらず、ひら〳〵と上下に翼を煽る。と船の方は、落着済まして夢の空を辷るやう、……やがて汀を漕ぎ離す。  蘆の枯葉をぬら〳〵と蒼ぬめりの水が越して、浮草の樺色まじりに、船脚が輪に成る頃の、五位鷺の搏ちやう。又一しきり烈しく急に、滑かな重い水に響いて、鳴渡るばかりと成つたが。  余りの労働、羽の間に垂々と、汗か、潵か、羽先を伝つて、水へぽた〳〵と落ちるのが、血の如く色づいて真赤に溢れる。…… 「火の粉だ、火の粉だ。」と濠端で、青年が驚き叫んだ。  果して血の汗を絞る、と見えたは、翼を落ちる火であつた。 「飛ばつせえ船の人、船の人、飛ばつせえ、飛込むのだえ!」 と野良調子の高声を上げて、広野の霞に影を煙らせ、一目散に駆附けるものがある。  驚駭のあまり青年は、殆ど無意識に、小脇に抱いた、其の一襲ねの色衣を、船の火に向つて颯と投げる、と水へは落ちたが、其処には届かず、朱を流したやうに火の影を宿す萍に漂ふて、袖を煽り、裳を開いて、悶へ苦しむが如くに見えつゝ、本尊たる女の像は、此の時早く黒煙に包まれて、大な朱鷺の形した一団の燃え立つ火が、一羽倒に映つて、水底に斉しく宿る。舷にも炎が搦んだ。 「えゝ! 飛込めい、水は浅い。」 と此の時濠端へ駆つけたは、もつぺと称へる裁着やうの股引を穿いた六十余りの背高い老爺で、腰から下は、身躰が二つあるかと思ふ、大な麻袋を提げたのを、脚と一所に飛ばして来て、 「あゝ、埒あかぬ。」と呟いて落胆する。  艫の鷺の炎は消えて、船の板は、ばらりと開いた。一つ一つ、幅広い煙を立てゝ、地獄の空に消えて行く、黒い帆のやう、──女の像は影も失せた。 「やれ、後れた。水は浅いで、飛込めば助かつたに。──何と申さうやうもない、旦那がお連の方でがすかの。」  青年は肩を揺つて、唯大息を吐くのであつた。 「飛んだ事ぢや、こんな怪しげな処へござつて、素性の知れぬ船に乗ると云ふ法があるかい。お剰にお前様、五位鷺の船頭ぢや……狸の拵へた泥船より、まだ〳〵危いのは知れた事を。」 五  目が覚めた、と言ふでもなしに、少時すると、青年の瞳は稍定まつた。 「何、心配には及ばん、船に居たのは活きた人間では無いのだから。」  木樵躰の件の老爺は、没怪な顔して、 「や、活きた人間で無うて何でがす……死骸かね、お前様。」 「死骸は酷い。……勿論、魔物に突返されて、火葬に成つた奴だから、死骸も同然なものだらう。ものだらうが、私の気ぢや死骸ではなかつた。生命のある、価値のある、活きたものゝ積りだつた。老爺さん、今のは、彼は、木像だ、製作つた木彫の婦なんだ。」 「木彫の? はて、」 と腕を組んで、 「えい、其は又、変つたもんだね。船と一所に焼けたものは、活きた人で無うて、私先づ安堵をしたでがすが、木彫だ、と聞けば尚魂消る……豪え見事な、宛然生身のやうだつけの。背後の野原さ出て見た処で、肝玉の宿替した。──あれ一面の霞の中、火と煙に包まれて、白い手足さびいく〳〵為ながら、濠の石垣へ掛けて釣し上がるやうに見えたゞもの。地獄の釜の蓋を取つて、娑婆へ吹上げた幻燈か思ふたよ。  尋常な、婦の人ほどに見えつけ。等身のお祖師様もござれば丈六の弥陀仏も居さつしやる。──これ人形は、はい、玩具箱ウ引転返した中からばかり出るもんではねえで、其の、見事なに不思議は無いだが、心配するな木彫だ、と言はつしやる、……お前様が持つて来て、船の中へ置かしつたかな。」 「何、打棄つたんだ。」と青年は口惜しさうに言つた。 「打棄らしつたえ、持重りが為たゞかね。」 とけろりとして、目を離れた白い眉をふつさり揺る。  青年はじり〳〵と寄つた。 「で、老爺さん、何か、君は活きた人間で無いから安堵したと言つたね、今の船には係合でもある人か。」 「係合にも何にも、私船の持主でがすよ。」 「此の、魔物。」 と青年は、然知つた見得に、後退りしながら身構へして、 「嬲るな。人が生死の間に彷徨ふ処を、玩弄にするのは残酷だ。貴様たちにも釘の折ほど情が有るなら、一思ひに殺して了へ。さあ、引裂け、片手を捥げ……」とはたと睨む。 「旦那々々、」 「何が旦那だ。捕虜と言へ、奴隷と呼べ、弱者と嘲れ。夢か、現か、分らん、俺は迚も貴様達に抵抗する力はない。残念だが、貴様に向ふと手足も痺れる、腰も立たん。  が、助け出す筈だつた女房を負つてなら……麓の温泉までは愚な事、百里、二百里、故郷までも、東京までも、貴様の手から救ふためには、飛んでも帰るつもりで居た。彫像一個抱いて歩行くに持重りがして成るものか! ……  何故、様を見ろ、可気味だ、と高笑ひをして嘲弄しない。俺が手で棄てたは棄てたが、船へ彫像を投げたのは、貴様が蹴込んだも同然だい。」と握つた拳をぶる〳〵震はす、唇は白く戦く。  老爺は遣瀬無い瞬して、 「芸もねえ、譫けた事を言はつしやるな。成程、船を焼いたは悪いけんど、蹴込んだとは、何たる事だの。」 「おゝ、船を焼いたは貴様だな。それ見ろ、それ見ろ。汝、魔物。山猫か、狒々か、狐か、何だ! 悪魔、女房を奪つた奴。せめて、俺に、正体を見せてくれ。一生の思出だ。さあ、のつぺらぱうか、目一つか、汝其の真目〳〵とした与一平面は。眉なんぞ真白に生しやがつて、分別らしく天窓の禿げたは何事だ。其の顱巻を取れ、恍気るな。」と目が逆立つて、又じり〻と詰寄る。  老爺は己が面を、ぺろりと一つ撫下げた。 六  いや、様子が如何にも、我が顔ながら不気味さうに見えた。──眉を顰めて、 「ま、ま、少え旦那、落着かつせえ、気を静めさつせえまし。……魔物だ、鬼だ喚いて、血相を変へてござる……何うも見た処、──未だ此の上に逆上らつしやるなよ──何うやら取逆せて居さつしやるが、はて、」 と上下、天守を七分、青年を三分に見較べ、 「もの、此処さ城趾の、お天守へ上らつしやりは為ねえかの。」 「為ねえかぢや無からう。昨夜貴様に何処で逢つた?」 「先づ、むゝ、其で分つた。」 「分つたか。いや昨夜は失礼したよ、魔物の隊長。」 「はて、迷惑な、私う魔物だと思はつしやる。」 「魔物で無くて、魔物で無くて、汝、五位鷺が漕出して、濠の中で自然に焼ける……不思議な船の持主が有るものか。」 「成程、何も仔細を知らつしやらぬお前様は、様子を見ても、此処等の人ではござらつしやらぬ。」 「那様な事を言つて何うする、貴様は奪つて行つた俺の女房の、町処まで知つてるでは無いか。」 「急かつしやるな。此の山裾の、双六温泉へ、湯治に来さつせえた人だんべいの。」 「知れた事を、貴様がお浦を掴出した、……あの旅籠屋に逗留して居る。」 「そんなら、はい、無理はねえだ。」 と莞爾して、草鞋の尖で向直つた。早や煙の余波も消えて、浮脂に紅蓮の絵も描かぬ、水の其方を眺めながら、 「あの……木葉船はの、丁と自然に動くでがすよ……土地のものは知つとります。で、鷺の船頭と渾名するだ。それ、見さしつた通り、五位鷺が漕ぐべいがね。」 「漕ぐのは鷺でも鳶でも構はん。漕がせるのは人間ぢや無いのだらう。」  余計なことを、と投げ調子。 「いんや、お前様、お天守の、」 と声を密めて、 「……魔の人が為業なら、同一鷺が漕ぐにして、其の船は光を放つて、ふわ〳〵雲の中を飛行するだ。  ……たか〴〵人間の仕事だけに、羽の有る船頭を使ふても、水の上を浮いて行くだよ。何も希有がらつしやるには当らぬ。あの船は、私が慰楽に造るでがす。」 「えゝ、拵へる、而して魔物では無いと言ふのか。」 「随意にさつしやりませ。すつとこ被りをした天狗様があつて成ろかい。気を静めさつしやるが可い。嘘だ思ふなら、退屈せずに四日五日、私が小屋へ来て対向ひに座つてござれ、ごし〳〵こつ〳〵と打敲いて、同一船を、主が目の前で拵へて見せるだ。」 「ふん、」と返事を呑込んだが、まだ其の息は発喘むのであつた。 「何うして作る。」 「何うして作る? ……つひ一寸くら手真似で話されるもんではねえ。此の胸に、機関を知つとります。」 「機関か。」 「危険な機関だで、小さく拵へて、小児の玩弄にも成りましねえ。が、親譲りの秘伝ものだ、はツはツはツ、」 と浮世を忘れた笑ひを行る。 「お待ち、親譲りの秘伝と言ふと……」 と言ひ方は迫つたが、声の調子は大分静まる。 「何も、家伝の秘法の言ふて、勿体を附けるでねえがね……祖父の代から為た事を、見やう見真似に遣るでがすよ。」 「其ぢや、三代船大工か。」 と些少落着いて青年が聞いた。 雪枝、菊松 七 「何の、お前様、見さる通り二十八方仏子柑の山間ぢや。木を伐出いて谿河へ流せば流す……駕籠の渡しの藤蔓は編むにせい、船大工は要りましねえ。──私等が家は、村里町の祭礼の花車人形。木偶之坊も拵へれば、内職にお玉杓子も売つたでがす。獅子頭、閻魔様、姉様の首の、天狗の面、座頭の顔、白粉も塗れば紅もなする、青絵具もべつたりぢや。  そんなものさ、甘干の柿見たやうに、軒へぶら下げて売りましつけ、……水損、山抜け、御維新以来、城趾へ草が生へる、濠が埋まる、村も里も無くなりました処へ、路が変つて、旅人も通らぬけえに、根つから家業に成らんでの、私ら、木挽木樵も遣る。温泉場に普請でも有る時には、下手な大工の真似もする。閑な日には鰌を掬つて暮すだが、祖父殿は、繁昌での、藩主様さ奥御殿の、お雛様も拵へさしたと……  其の祖父殿はの、山伏の姿した旅の修業者が、道陸神の傍に病倒れたのを世話して、死水を取らしつけ……其の修業者に習つた言ひます。  轆轤首さ、引窓から刎ねて出る、見越入道がくわつと目を開く、姉様の顔は莞爾笑ふだ、──切支丹宗門で、魔法を使ふと言ふて、お城の中で殺されたとも言へば、行方知れずに成つたとも言ふ。  はじめは、不思議な機関を藩主様御前で見せい言ふて、お城へ召されさしけえの、其時拵へたのが、五位鷺の船頭ぢや。  それ、船を浮べたのは、矢張此の濠。」 と言ひかけて、水には臨まず、却つて空を指した老爺の指は、一の峰と相対つて、霞の高い、天守の棟に並んで見えた。 「これは、其の三重濠で、二の丸の奥でがす。お殿様は、継上下の侍方、振袖の腰元衆づらりと連れて出て御見物ぢや。 『町人、此の船を何うするな。』 『御意にござります。舳に据えました其の五位鷺が翼を帆に張り、嘴を舵に仕りまして、人手を藉りませず水の上を渡りまする。』 と申上げたて。……なれども唯差置いたばかりでは鷺が翼を開かぬで、人が一人乗る重量で、自然から漕いで出る。……一体が、天上界の遊山船に擬らへて、丹精籠めました細工にござるで、御斉眉の中から天人のやうな上﨟御一方、と望んだげな。  当時飛鳥も落ちると言ふ、お妾が一人乗つて出たが、船の焼出したのは、主が見さしつた通りでがす。──其の妾と言ふのが、祖父殿の許嫁で有つたとも言へば、馴染だとも風説したゞね。  処で、綾錦へ燃えつく時、祖父殿が手を挙げて、 『飛込め、助かる。』 と我鳴らしつけが、お妾は慌てもせず、珠の簪を抜くと、舷から水中へ投込んで、颯と髪の毛を捌いたと思へ。……胴の間へ突伏して動かぬだ。  裸で飛込んだ、侍方、船に寄りは寄つたれども、燃え立つ炎で手が出せぬ。漸との思ひで船を引くら返した時分には、緋鯉のやうに沈んだげな。──これだもの、お前様、祖父殿は家へ帰りごと有るめえがね。  お剰に家中、無事なものは一人も無かつた。が不思議に私だけが助りました。  御時世が変つてから、古葛籠の底で見つけました。祖父殿が工夫の絵図面、暇にあかして遣つて見て、私が先づ乗つて出たが、案の定燃出したで、やれ、人殺し、と……はツはツはツ、水へ入つて泳いで遁げた。  困つた事には、私が腹からの工夫でねえでの、焼くまいやうに手を抜くと、五位鷺が動かぬ。濠の真中で燃え出すを合点の向には、幾度も拵へて乗せて進ぜる。其処で、へい、麓のものは承知して、私がことを鷺の船頭、埒もない芸当だあ。」 と蹲んで、腰の煙草入を捻り出す。  聞くものは、目を閉ぢて恍惚とした。 八 「処が、聞かつせえまし。」 と、すぱ〳〵と煙を吹かす。近い煙草に遠霞で、天守を包んだ鬱蒼たる樹立の蔭が透いて来る。 「段々村が遠退いて、お天守が寂しく成ると、可怪可恐い事が間々有るで、あの船も魔ものが漕いで焼くと、今お前様が疑はつせえた通り……  私が拵へものと思ひながら、不気味がつて、何か魔の人が仕掛けて置く、囮のやうに間違へての。谿河を流す筏の端へ鴉が留まつても気に為るだよ。  誰も来て乗らぬので、久い間雨曝しぢや。船頭も船も退屈をした処、又これが張合で、私も手遊が拵へられます。  旦那、嘸お前様吃驚さつせえたらうが、前刻船と一所に、白い裸骸の人さ焼けるのを見た時は、やれ、五十年百年目には、世の中に同じ事が又有るか、と魂消ましけえ。其で無うてさへ、御時節の有難さに、切支丹と間違へられぬが見つけものゝ処ぢや。あれが生身の婦で無うて、私もチヨン斬られずに済んだでがす……  が、お前様は又、一躰どうさつせえた訳でがすの。」 と、ちよこなんとした割膝の、真中どころへ頤を据えて、啣煙管で熟と眺める。……老爺の前を六尺ばかり草を隔てゝ、青年はばつたり膝を支いて、手を下げた。……此の姿を、天守から見たら、虫のやうな形であらう。 「失礼しました。御老人、貴下は大先生です。何うか、御高名をお名告り下さい。私は香村雪枝と言つて、出過ぎましたやうですが、矢張木を刻んで、ものゝ形を拵へます家業のものです。」とはツと額着く。 「是は、」 と同じく草につけた双の掌を上げたり下げたり、臀を揉んでもじついて、 「旦那、はて、お前様、何言はつしやる。何うさつしやる……気を静めてくらつせえよ。」 「否、何うぞ、失礼ながらお名告り下さい。御覧の通り、私は何うかして居る。……夢なんだか、現なんだか、自分だか他人だか、宛然弁別が無いほどです──前刻からお話し被為つた事も、其方では唯あはあは笑つて居らつしやるのが、種々な言に成つて、私の耳に聞こえるのかも分りません。が、其に為てもお聞かせ下さい。お名が此の耳へ入れば、私は私だけで、承つたことゝ了見します。香村雪枝つて言ふんです。先生、真個は靱負と言つて、昔の侍のやうな名なんですが、其を其のまゝ雪の枝と書いて、号にして居る若輩ものです。」 「えゝ〳〵、困つたな、これは。名を言へなら、言ふだけれど、改つては面目ねえ。」 と天窓を撫でざまに、するりと顱巻を抜いて取り、 「へい、些と爺には似合ひましねえ、村の衆も笑ふでがすが、八才ぐれえな小児だね、へい、菊松つて言ふでがすよ。」 「菊松先生、貴下は凡人では居らつしやらない。」 「勘弁して下らつせえ。うゝとも、すうとも返答打つ術もねえだ…私、先生と言はれるは、臍の緒切つては最初だでね。」 「何とも御謙遜で、申上げやうもありません。大先生、貴下で無くつて、何うして、彼の五位鷺が刻めます。あの船が動かせます。而して、其の秘密を人に知らせまいために、天の火で焚くと見せて、船をお秘しなさるんでせう。」 「お前様もの、祖父殿の真似をするだ、で、私が自由には成んねえだ。間違へて先生だ、師匠だ言はつしやるなら、祖父殿を然う呼ばらつせえ。」 「同じ事です、大名の子孫が華族なら、名家の御子孫も先生です。特に私は然う申さなければ成りません。  私が今の此の仕事を為るやうに成りましたのは、貴下か、或は其の祖父様の御薫陶に預つたと言つて宜しい。」…… 技芸天 九 「父は或県の書記官でした。」 と雪枝は衣兜に手を挟んだ。 「一年、此の地を巡廻した事が有ります。私が七才の時です。未だ其の頃は、今の温泉は無かつたやうですね。」 「温泉の開けたのは近い頃の事でがすよ。然うでがすとも。前から寂れては居ましつけえ、お城の居まはりに、未だ、町の形の残つた頃は、温泉は無かつけの。  地震が豪く押ぱだかつて、しやつきり残つたのはお天守ばかりぢや。人間も家も押転ばして、濠も半分がた埋りましけ。冬の事での、其の前兆べい、八尺余も積つた雪が一晩に融けて、びしや〳〵と消えた。あれ松が蒼いわ、と言ふ内に、天も地も赤黒く成つて、活きものと言ふ活ものは、泥の上を泳いだての。  其の響きで、今の処へ、熱湯が湧出いた。ぢやがさ、天道人を殺さずかい。生命だけは助つても、食はう飲まうの分別も出なんだ処温泉が昌つて来たで、何うやら娑婆の形に成つた。其のかはり、旧から噂の高かつたお天守の此の辺は、人の寄附かぬ凄い処に成りましたよ。見さつせえ、いまに太陽様が出さつせえても、濠端かけて城跡には、お前様と私等が他には、人間らしい影もねえだ。偶々突立つて歩行くものは、性の善くねえ、野良狐か、山猫だよ。  こんな処へ、主は何として又姉様の人形連れて来さつせえた。」 「其を順にお話しませう、」 と雪枝は一度塞いだ目を、茫乎と開けて、 「父が此の処を巡廻した節、何処か山蔭の小さな堂に、美い二十ばかりの婦の、珍しい彫像が有つたのを、私の玩弄にさせうと、堂守に金子を遣つて、供のものに持たせて帰つたのを、他に姉妹もなし、姉さんが一人出来たやうに、負つたり抱いたり為ました。大な像で、飯の時なんぞ、並んで坐る、と七才の年の私の芥子坊主より、づゝと上に、髪の垂つた島田の髷が見えたんです。衣服は白無垢に、水浅黄の襟を重ねて、袖口と褄はづれは、矢張白に常夏の花を散らした長襦袢らしく出来て居て……其が上から着せたのではない。木彫に彩色を為たんです。が、不思議なのは、其の白無垢、何うして置いても些とでも塵埃が溜らず、虫も蠅も、遂ぞ集つたことが無い。花畑へでも抱いて出ると、綺麗な蝶々は、帯に来て、留つたんです、最う一つ不思議なのは、立像に刻んだのが、膝柔かにすつと坐る。  袖は両方から振が合つて、乳のあたりで、上下に両手を重ねたのが、ふつくりして、中に何か入つて居さうで、……駆けて行つて、 『姉さん、』と捉まつた時なぞ、肩が揺れると、ころりん、ころりんと其は実に……何とも微妙な音が為て幽に鳴る、……父母をはじめ、見るほどのものは、何だらう何だらう、と言ひ〳〵したが、指を折らなくては分らないから、無論開けては見ず仕舞。  とう〳〵其の彫像を──何です──父が暖炉に燻べて焼いたまでも分らなかつたんです。  ちら〳〵雪の降る晩方でした。……私は、小児の群食で、欲くない。両親が卓子に対向ひで晩飯を食べて居た。其処へ、彫像を負つて入つたんですが、西洋室の扉を開けやうとして、 『姉さん、』と仰向くと上から俯向いて見たやうに思ふ、……廊下の長い、黄昏時の扉の際で、むら〳〵と鬢の毛が、其時は戦いだやうに思ひました。ぱつちりした目が、眉の下で、睫毛を黒く瞬いたやうで。……」  見ながら、其のまゝ、扉を開ける、と小児の背に、裾を後抱にして居た彫像の丈が反つて、髷が、天井裏の高い処に見えた。  ト半靴の先を反らした、母親の白い足が卓子掛と絨氈の間で動いた。窓の外は雪が其の光を撫でゝ、さら〳〵音が為さうに、月が有つて、植込の梢がちら〳〵黒い。烈々と燃える暖炉のほてりで、赤い顔の、小刀を持つたまゝ頤杖をついて、仰向いて、ひよいと此方を向いた父の顔が真蒼に成つた。 十 「東京駿河台に家があつた、其の二階でした。」 と言ひかけて、左右を見る、と野と濠と草ばかりでは無く、黙つて打傾いて老爺が居た。其を、……雪枝は確め得た面色であつた。 「父が矗乎と立つと…… 『おのれ!』と言つて、つか〳〵と来ましたが。私の身躰が一つ、胴廻りを為ると、肩から倒に婦が落ちた。裙が未だ此の肱に懸つて、橋に成つて床に着く、仰向けの白い咽喉を、小刀でざつくりと、さあ、斬りましたか、突いたんですか。 『きやつ、』と言つて、私は鉄砲玉のやうに飛出したが、廊下の壁に額を打つて、ばつたり倒れた。……気の弱い母もひきつけて了つたさうです。  母は、父が、其の木像の胴を挫折つた──其が又脆く折れた──のを突然頭から暖炉へ突込んだのを見たが、折口に偶と目が着くと、内臓がすつかり刻込んであつた。まるで生のものを見るやうに腸も長く、青い火が其に搦んだので、余の事に気絶したんだ、と後に言ひます。  父は年経つて亡くなるまで、其時の事に就いては一言も何にも言はない。最も当坐二月ばかりは、何うかすると一室に籠つて、誰にも口を利かないで、考事をして居たさうですが、別に仔細は無かつたんです。  但其時から、両親は私を男にしました。其まで、三人も出来た児が皆育たなかつたので、私を女にして置いたんです。名も雪枝と言ふ女のやうな。  其の名を直ぐに号にして、今、こんな家業を為るやうに成つたのも、小児の時から、其の像の事が、目にも心にも身躰にも離れなかつた為なんです。  こんな辺鄙な温泉へ参つたのも、実は忘れられない可懐しい気が為たゝめです。何処か知らんが、其の木像は、父が此の土地から持つて帰つたと言ふぢやありませんか。  山も谷も野も水も、其処には私の師匠がある、と信じ居た。果して貴下にお目にかゝつた。──あの、白無垢に常夏の長襦袢、浅黄の襟して島田に結つた、両の手に秘密を蔵した、絶世の美人の像を刻んだ方は、貴下の其の祖父様では無いでせうか。」  雪枝は熟と対手を視めた。 「え、貴下かも分らん、貴下かも知れません。先生、仰有つて下さい、一生のお願ひです。」 「若え旦那、祖父殿が事は私も知らんで、何か言はつしやりますやうな悪戯を為たかも分らねえ。私は早や、獅子鼻や団栗目、御神酒徳利の口なら真似も遣るが、弁天様は手に負えねえ……まあ、そんな事は措かつしやい。ぢやが、お前様は山が先生、水が師匠と言ふわけ合で、私等が気にや天上界のやうな東京から、遥々と……飛騨の山家までござつたかね。」 と掻蹲ひ、両腕を膝に預けたまゝ啣煙管で摺出す躰は、嘴長い鷺の船頭化けたやうな態である。  雪枝は、しばらく猶予つた。 「仮にも先生と呼んだ貴下に向つて、嘘は言へません。……一度来やう、是非見たい。生れない以前から雪枝の身躰とは、許嫁の約束があるやうな此の土地です。信者が善光寺、身延へ順礼を為るほどな願だつたのが、──いざ、今度、と言ふ時、信仰が鈍つて、遊山に成つた。  其が悪かつたんです……  家内と二人連で来たんです、然も婚礼を為たばかりでせう。」  盃を納るなり汽車に乗つて家を出た夫婦の身体は、人間だか蝶だか区別が附かない。遥々来た、と言はれては何とも以て極が悪い。気も魂もふら〳〵で、六十余州、菜の花の上を舞ひ歩行いても疲れぬ元気。其も突かけに夜昼かけて此処まで来たなら、まだ〳〵仕事の手前、山にも水にも言訳があるのに……彼方へ二晩此方へ三晩、泊り泊りの道草で、──花には紅、月には白く、処々の温泉を、嫁の姿で彩色しては、前後左右、額縁のやうな形で、附添つて、木を刻んで拵へたものが、恁う行くものか、と自から彫刻家であるのを嘲ける了見。 十一  斧も鑿も忘れたものが、木曾、碓氷、寐覚の床も、旅だか家だか差別は無い気で、何の此の山や谷を、神聖な技芸の天、芸術の地と思はう。  来て見ぬ内こそ、峯は雲に、谷は霞に、長に封ぜられて、自分等、芸術の神に渇仰するものが、精進の鷲の翼に乗らないでは、杣山伏も分入る事は出来ぬであらう。流には斧の響、木の葉には鑿の音、白い蝙蝠、赤い雀が、麓の里を彩つて、辻堂の中などは霞が掛つて、花の彫物をして居やうとまで、信じて居たのが、恋しい婦と一所に来たゝめ、峯が雲に日を刻み、水が谷に月を鑿つた、大彫刻を眺めても、婦が挿た笄ほども目に着かないで、温泉宿へ泊つた翌日、以前ならば何よりも前に、しか〴〵の堂はないか、其らしい堂守は居まいか、と父が以前持帰つた、其の神秘な木像の跡の、心当りを捜す処、──気にも掛けないまで忘れて了つて、温泉宿の亭主を呼んで、先づ尋ねたのが、世に伝へた双六谷の事だつた。 「老爺さん。」 と雪枝は嗟歎して言つた。  温泉の町の、谿流について溯ると、双六谷と言ふのがある──其処に一坐の大盤石、天然に双六の目の装られたのが有ると言ふが、事実か、と聞いたのであつた。  亭主が答へて、如何にも、此の辺で噂するには、春の曙のやうに、蒼々と霞んだ、滑かな盤石で、藤色がゝつた紫の筋が、寸分違はず、双六の目に成つて居る。 『丁ど、先づ其の工合と思はれまする。』と掌を畳に着けて指して見せた。  其時坐つて居た蒲団が、蒼味の甲斐絹で、成程濃い紫の縞があつたので、恰も既に盤石の其の双六に対向ひに成つた気がして、夫婦は顔を見合はせて、思はず微笑んだ。  ……と雪枝は言ふ。  けれども、其は神の斧の、微妙き製作を会得した嬉しさではなかつた。其の実、矢叫の如き流の音も、春雨の密語ぞ、と聞く、温泉の煙りの暖い、山国ながら紫の霞の立籠る閨を、菫に満ちた池と見る、鴛鴦の衾の寝物語りに──主従は三世、親子は一世、夫婦は二世の契と聞く…… 『全く未来でも添へるのでせうか。』と他愛のない言を新婦が言つた。  二世は愚か三世までもと思ふ雪枝も、言葉あらそひを興がつて、 『何二世なぞがあるものか、魂は滅びないでも、死ねば夫婦はわかれわかれだ。』 とはぐらかすと、褄を引合はせながら、起直つて、 『私は此の世ばかりでは厭です。』 とツンとした。 『それでは二人で、一世か、二世か賭をしやう。』  苟くも未来の有無を賭博にするのである。相撲取草の首つ引なぞでは其の神聖を損ふこと夥しい。聞けば此の山奥に天然の双六盤がある。其の仙境で局を囲まう。  で、其の勝敗を紀念として、一先づ、今度の蜜月の旅を切上げやう。けれども双六盤は、唯土地の伝説であらうも知れぬ。実際なら奇蹟であるから、念のためと、こゝで、其の翌日旅店の主人に聞いたのが、……件の青石に薄紫の筋の入つた、恰も二人が敷いた座蒲団に肖て居ると言ふ其であつた。 『案内者でも雇へやうか。』  亭主が飛でもない顔色で、二人を視めたも道理。 十二  双六は確にあり。天工の奇蹟の故に、四五六また双六谷と其処を称へ、温泉も世の聞こえに、双六の名を負はするが、谷を究めて、盤石を見たものは昔から誰も無い。──土地の名所とは言ひながら、なか〳〵以て、案内者を連れて踏込むやうな遊山場ならず。双六盤の事は疑無けれど、其の是あるは、月の中に玉兎のある、と同じ事、と亭主は語つた。  土地のものが、其方の空ぞと視め遣る、谷の上には、白雲行交ひ、紫緑の日影が添ひ、月明には、黄なる、又桃色なる、霧の騰るを時々望む。珠か、黄金か、世にも貴い宝什が潜んで、気の群立つよ、と憧憬れながら、風に木の葉の音信もなければ、もみぢを分入る道も知らず……恰も燦爛として五彩に煌めく、天上の星を指しても、手に取られぬ、と異りはない。  唯山深く木を樵る賤が、兎もすれば、我が伐木の谺にあらぬ、怪しく、床しく且つ幽に、ころりん、から〳〵、と妙なる楽器を奏づるが如きを聞く──其時は、森の枝が、一つ一つ黄金白銀の線に成つて、其の音を伝ふるが如くに感ずる……思ふに魔神が対向つて、采を投げる響であらう……何につけても、飛騨谷第一の隠れ場所、近づき難い魔所である、と猶ほ亭主が語つたのである。  二人は、聞くが如き他界であるのを信ずると共に、双六の賭が弥が上にも、意味の深いものに成つた事を喜んだ……勿論、谷へ分入るに就いて躊躇を為たり、恐怖を抱いたりするやうな念は聊も無かつた。  と雪枝は続いて言つた。 「其の上好奇心にも駆られたでせう。直ぐにも草鞋を買はして、と思つたけれども、彼是晩方に成つたから、宿の主人を強ゐて、途中まで案内者を着けさせることにして、其の日の晩飯は済せました。」  双六谷へは、翌早朝と言ふ意気組、今夜も二世かけた勝敗は無しに、唯睦まじいのであらうと思ふ。宵寐をするにも余り早い、一風呂浴びた後……を、ぶらりと二人連で山路へ出て見たのが、丁ど……狐の穴には灯は点かぬが、猿の店には燈の点く時分、何となく薄ら寒い、其処等の霞も、遠山の雪の影が射すやうで、夕餉の煙が物寂しう谷へ落る。五六軒の藁屋ならび、中にも浅間な掛小屋のやうな小店を開けて、穴から商売をするやうに婆さんが一人戸の外を透かして居た。其の店で獣の皮だの、獅子頭、狐猿の面、般若の面、二升樽ぐらゐな座頭の首、──いや其が白い目をぐるりと剥いて、亀裂の入つた壁に仰向いた形なんぞ余り気味の可いものではなかつた。誰か拵へるものが居て、直ぐ其を売るらしい。破莚の上は、藍の絵具や、紅殻だらけ──婆さんの前垂にも、ちら〳〵霜のやうに胡粉がかゝつた。其の他角細工も種々ある。…… 「はツはツ、婆様が家ぢや。」と老爺は不意に笑ひ懸けて、 「茶でも飲つてござつたかの。」  雪枝は不図心着いたらしく調子を変へて、 「あゝ、お知己の店なんですか。」 「昔の恋でがす。彼でもの、お前様、新造盛りの事も有つけ。人形を欲しがる時分ぢや。なんぼ山鳥のおろのかゞみで、頤髯さ撫でた処で、木の枝で、鋸を使ひ〳〵、猿の脚と並んだ尻を、下から見せては落つこちねえ。其処で、人形やら、おかめの面やら、御機嫌取に拵へて持つて行つては、莞爾させて他愛なく見惚れて居たものでがす。はゝゝ、はじめの内は納戸の押入へ飾つての、見るな見るな、と云ふ。恐ろしい、男を食つて骨を秘す、と村のものが嬲つたつけの……真個の孤屋の鬼に成つて、狸婆が、旧の色仕掛けで私に強請つて、今では銭にするでがすが、旦那、何か買はしつたか、沢山直切らつしやれば可かつけな。」 采 十三 「おゝ、老爺さんが、あの、種々なものを。」 と雪枝は目の覚めた顔色して、 「面も頭も、お製作へに成つたんですか。……あゝ、いや、鷺のお手際を見たので分る。軒に振ら下つた獅子頭や、狐の面など、どんな立派なものだつたか分らない。が、其に気が着く了見なら、こんな虚気な、──対手が鬼にしろ、魔にしろ、自分の女房を奪はれる馬鹿は見ない。  失礼ながら、そんなものは目も留めないで、 『采は無いか。』 『お媼さん、あの、采はありませんか。』 と同伴の婦も聞いたんです。」……  双六巌で振らうと云ふ、よく考へれば夢のやうなことだつた。 『一六、三五の采粒かの、はい、ござります。』と隅の壁へ押着けた、薬箪笥の古びたやうな抽斗を開けると、鼠の屎が、ぱら〳〵溢れる。其の中から、畳紙を出して、ころ〳〵と手で揺りながら軒の明前へ持つて出た。 『猪の牙で拵へました、ほんに佳い采でござります、御覧じまし。』と莞爾々々しながら、掌を反らして載せた処を、二人で一個づゝ取つた。  采は珠のやうに見えた。綺麗に磨いたのが透通るばかりに出来て、点々打つた目の黒いのが、雪の中に影の顕はれた、連る山々、秀でた峯、深い谷のやうに不図見えた。 『可愛ぢやありませんか。』 と同伴の女は一寸摘んだが、掌へ据え直して、 『お媼さん、思ふ目が出ませうか。』と右の手を蓋で胸へつけて、ころ〳〵と振つて試る。  と背中から抱き締めて、づる〳〵と遠くへ持つて行かれたやうに成つて、雪枝は其時の事を思出した。 「其の時の事と言ふのは、父が此の土地の祠から持つて帰つた、あの、掌に秘密を蔵した木像です。」 「おゝ、」と頷く、老爺は腕組を為た肩を動かす。 「あゝ、それぢや、木彫の美人が、父のナイフに突刺されて、暖炉の中に焼かれた時まで、些とも其の秘密を明かさなかつた、微妙な音のしたものは、同一、此の采であつたかも知れない。  時に、傍に立つた家内の姿が、其に髣髴だ、と思ふと、想像が遠く昔へ返つて、不思議なもので、袖を並べたお浦の姿が、づゝと離れて遥かな向ふへ……」 と雪枝は語つて、押遣るやうに手を振つた。 「其時の事を思ふと、老爺さん、恁う言ふ内にも貴方の身体も遠くへ行く……ふら〳〵と間が離れる。」……  而して、婆さんの店なりに、お浦の身体が向ふへ歩行いて、見る間に其が、谷を隔てた山の絶頂へ──湧出る雲と裏表に、動かぬ霞の懸つた中へ、裙袂がはら〳〵と夕風に靡きながら薄くなる。  あの辺へ、夕暮の鐘が響いたら、姿が近く戻るのだらう、──と誰が言ふともなく自分で安心して、益々以前の考に耽つて居ると、榾を焚くか、炭を焼くか、谷間に、彼方此方、ひら〳〵、ひら〳〵と蒼白い炎が揚つた。  思はず彫像を焼いた暖炉の火に心着いて、何故か、急に女の身が危ぶまれて来た。 『お浦。』 と呼んだが返事をしない。 『お浦、お浦。』と言つたが、返事を為ない。雪枝最うきよろ〳〵し出した、其で二足三足づゝ、前後左右を、ばた〳〵と行つたり、来たり……  慌しく成つて来た。  第一、お浦ばかりぢやない、其処に居た婆さんも見えなければ、其らしい店もない。  いや、これは可怪いぞ。一人ばかり居ないのなら、女が何うかしたのだらうが、店も婆さんもなくなつた、とすると……前方が攫はれたのぢやなくつて、自分が魅まれたものらしい。 『おゝい、おゝい。』 と智恵のない声をしながら、無暗に人を呼んで、雪枝は山路を駆づり廻つた。 十四 「段々暗くなる、最う目は眩む、風が吹出す。此の風は……昼間蒼く澄んだ山の峡から起つて、障つて来る樹の枝、岩角、谷間に、白い雲のちぎれて鳥の留るやうに見えたのは未だ雪が残つたのか、……と思ふほど横面を削つて冷たかつた。 『ま……、何処へござらつしやる、旦那。』 とすた〳〵小走りに駆けて来て、背後から袂を引留めた、山稼ぎの若い男があつた。 『お城趾へ行かしつては成りましねえだよ。日も暮れたに、当事もねえ。』と少し叱つて言ふ。  煙が立つて、づん〳〵とあがる坂一筋、やがて、其の煙の裙が下伏せに、ぱつと拡がつたやうな野末の処へ掛つて居ました。」  雪枝は胸を伸上げて、岬が突出た湾の外を臨むが如く背後状に広野を視めた。……東雲の雲は其の野末を離れて、細く長く縦に蒼空の糸を引いて、上つて行く、……人も馬も、其処を通つたら、ほつほつと描かれやう、鳥も飛ばゞ見えやう、──けれども天守の屋根は森が包んで、霞がくれに尚暗い。其の上、野の果を引上る雲も此方をさして畳まつて来るやうで、老爺と差向つた中空は厚さが増す。其の濃く暗い奥から、黄金色に赤味の注した雲が、むく〳〵と湧出す、太陽は其処まで上つた──汀の蘆の枯れた葉にも、さすがに薄い光がかゝつて、角ぐむ芽生もやゝ煙りかけた。此の煙は月夜のやうに水の上にも這ひ懸る。船の焼けた余波は分解ず……唯陽炎が頻に形づくりするのが分解る。──やがて、此が、野の一面の草を伝つて、次第にひら〳〵と、麓に下りて遊行しやう。……さて、日も当れば、北国の山中ながら、人里の背戸垣根に、神が咲かせた桃桜が、何処とも無く空に映らう。まだ、朝早き、天守の上から野をかけて箕の形に雲が簇つて、処々物凄じく渦を巻て、霰も迸つて出さうなのは、風が動かすのではない。四辺は寂寞して居る……峰に当り、頂に障つて、山々のために揺れるのである。  雲の動く時、二人の形は大きく成つた。静とする時、渠等の姿は小さく成つた。──飛騨の山の此のあたりは、土地が呼吸をするのかも分らぬ。  雪枝は伸上つた時、膝を草に支いて居た。 「其の時来懸つたのは、何うも、此の原の、向ふの取着であつたらしい。 『お城趾の方さ行つては成んねえだ。』と云つて其の男が引取めました……私は家内の姿を高い山の端で見失つたが、何うも、向ふが空へ上つたのではなく、自分が谷底へ落ちてたらしい。其処で疵だらけに成つて漸々出て来た処が、此の取着きで、以前夫婦づれで散歩に出た場所とは、全然方角が違う、──御存じの通り、温泉は左右へ見上げるやうな山を控へた、ドン底から湧きます。  で、婆さんの店の有つたのは南の坂で、此の城趾は北の山路から来るのでせう。  土地の男に様子を聞いて、 『あゝ、魅まれた……魅まれたんだ。いや、薄髯の生へた面で、何とも面目次第もない。』 と頻に面目ながる癖に、あは〳〵得意らしい高笑ひを行つた。家内の無事を祝福する心では、自分の魅せられたのを、却つて幸福だと思つて喜んだんです。 『豪い、東京の客を魅すのは豪儀だ。ひよい、と抱いて温泉宿の屋根越に山を一つ、まるで方角の違つた処へ、私を持つて来た手際と云ふのは無い。何か、此の辺に、有名な狐でも居るか。』 と酔つぱらひのやうな言を云つて、ひよろ〳〵為ながら、其の男に導かれて引返す。 『狐や狸ではござりましねえ、お天守にござる天狗様だのエ、時々悪戯をさつしやります。』 『何天狗。』 と云ふと慌しく袂を曳いて、 『えゝ、大な声をさつしやりますな、聞こえるがのエ』と、蒼い顔して、其の男は、足許を樹の梢から透いて見える、燈の影を指したんです。」 谺 十五  で、其処が温泉宿だ、と教へて、山間の崖を樹の茂つた細い路へ、……背負つて居た、丈の伸びた雑木の薪を、身躰ごと横にして、ざつと入つて行く。  しばらく、ざわ〳〵と鳴つて居た。  急に何だか寂しく成つて、酔ざめのやうな身震ひが出た。急いで、燈火を当に駆下りる、と思ひがけず、往には覚えもない石壇があつて、其を下切つた処が宿の横を流れる矢を射るやうな谿河だつた。──驚いたのは、山が二わかれの真中を、温泉宿を貫いて流れる、其の川を、何時の間に越へて、此の城趾の方へ来たか少しも覚えが無い。  岸づたひに、岩を踏んで後戻りを為て、橋の取着の宿へ帰つた、──此は前刻渡つて、向ふ越で、山路の方へ、あの婆さんの店へ出た橋だつた。 『お帰りなさいまし。』 と向ふ廊下から早足で、すた〳〵来懸つた女中が一人、雪枝を見て立停まつた。 『御緩り様で、』と左側の、畳五十畳計りの、だゞつ広い帳場、……真中に大な炉を切つた、其の自在留の、ト尾鰭を刎ねた鯉の蔭から、でつぷり肥つた赤ら顔を出して亭主が言ふ。 『同伴は帰つたらうね。』と聞いた時、雪枝は其の間違の無い事を信じながら、何だか胸がドキ〳〵した。 『奥方様で、はゝ、何や、一寸お見申せ。』と頤を向けると、其処に居た女中が、 『御一所では無かつたのでございますか。』  で、ばた〳〵と廊下を、直ぐに二階へ駆上つた。  何故か雪枝は他人を訪問に来たやうな心持に成つて、うつかり框際の広土間に突立つて居た。  山路から、後を跟けて来たらしい嵐が、袂をひら〳〵と煽つて、颯と炉傍へ吹込むと、燈が下伏に暗く成つて、炉の中が明く燃える。これが赫と、壁に並んだ提灯の箱に映る、と温泉の薫が芬とした。  五六段階子を残して、女中が廊下の高い処へ顔を出して、 『まだ、お帰り遊ばしません。』 『下りて来て、ちやんと申さぬかい、何ぢや、不作法な。』と亭主が炉端から上睨みを行る。  雪枝は一文字に其の前を突切つて、階子段を駆上り状に、女中と摺違つて、 『そんな筈は無い。そんな、お前、』と躾めるやうに言ひ〳〵飛上つたのであつた。 『それともお湯へお出でなさいましてですか、お座敷には居らつしやいませんですよ。』と小走りに跟いて来る。  固より女中が串戯を言ふわけは無い。居ないものは居ないので、座敷を見ると、あとを片附けて掃出したらしく、きちんと成つて、点けたての真を細めた台洋燈が、影を大きく床の間へ這はして、片隅へ二間に畳んだ六枚折の屏風が如何にも寂しい。  而して誰も居ない八畳の真中に、其の双六巌に似たと言ふ紫縞の座蒲団が二枚、対坐に据えて有つたのを一目見ると、天窓から水を浴びたやうに慄然とした。此処へも颯と一嵐、廊下から追つて来て座敷を吹抜けて雨戸をカタリと鳴らす。  恁うして、お浦に別かれるのが極つた運命では無からうかと思つた…… 「浴室だ、浴室だ。見ておいで。と女中を追遣つて、倒れ込むやうに部屋に入つて、廊下を背後向きに、火鉢に掴つて、ぶる〳〵と震へたんです。……老爺さん。」 と雪枝は片手で胸を抱いた。 「亭主が上つて来ました。 『えゝ、一寸お引合はせ申しまする。此男が其の、明日双六谷の途中まで御案内しまするで。さあ、主、お知己に成つて置けや。』と障子の蔭に蹲んで居た山男に顔を出させる、と此が、今しがたつひ其処まで私を送つてくれた若いもの、……此方は其処どころぢや無い。」 十六 「恁う成ると、最う外聞なんぞ構つては居られない。魅まれたか誑されたか、山路を夢中で歩行いた事を言出すと、皆まで恥を言はぬ内に……其の若い男が半分で合点したんです。」  さあ、亭主も飛でも無い顔をする。捜すのに、湯殿や小用場では追着かなく成つた。 『権七や、主は先づ、婆様が店へ走れ、旦那様、早速人を出しますで、お案じなさりませんやうに。主も働いてくれ、さあ、来い、』 と若いものを連れて、どたばた引上げる時分には、部屋の前から階子段の上へ掛けて、女中まじりに、人立ちがするくらゐ、二階も下も何となく騒ぎ立つ。  雨戸を開けて欄干から外を見ると、山気が冷かな暗を縫つて、橋の上を提灯が二つ三つ、どや〳〵と人影が、道を右左へ分れて吹立てる風に飛んで行く。  真先に案内者権七の帰つて来たのが、ものゝ半時と間は無かつた。けれども、足を爪立つて待つて居る身には、夜中までかゝつたやうに思ふ。  婆さんに聞けば、夫婦づれの衆は、内で采粒を買はつしやると、両方で顔を見合ひながら後退りをして、向ふ崖の暗い方へ入つたまで。それからは覚えて居らぬ。目は踈し、暮方ではあり、やがて暗くなつて了つた、と権七が言ふ。  のみ、手懸りは何にも無い。 『矢張何か私のやうに、魅まれて路を迷つたらうか。』 『然うでもござりやすめえ、奥様は、其のお前様を捜し歩行いて、其で未だ、お帰りが無いのでござりやせうで、天狗様も二人一所に攫はつしやることは滅多にねえ事でござります。今にお帰りに成るでござりやしやう。宿でも心配をして居りますで、夜一夜寐ねえで捜しますで、お前様は、まあ、休まつしやりましたが可うござります。』  気が気では無い。一所に捜しに出かけやうと言ふと、いや〳〵山坂不案内な客人が、暗の夜路ぢや、崖だ、谷だで、却つて足手絡ひに成る。……案内者に雇はれるものが、何も知らない前に道案内を為たと言ふも何かの縁と思ふ。人一倍精出して捜さうから静かに休め、と頼母しく言つて、すぐに又下階へ下りた。  一時騒々しかつたのが、寂寞ばつたりして平時より余計に寂しく夜が更ける……さあ、一分、一秒、血が冷え、骨が刻まれる思ひ。時が経てば経つだけ、それだけお浦の帰る望みが無くなると言つた勘定。九時が十時、十一時を過ぎても音沙汰が無い。時々、廊下を往通ふ女中が、通りすがりに、 『何う遊ばしたのでございませう、』 『うむ、』 『御心配でございます。』 『あゝ、』  ──返答が出来ないで、溜息を吐く顔を見て、遁げるやうに二三人摺り抜けた。  やがて十二時を打つた。女中が床を取りに来て、一つ伸べて、二つ並べやうと為たので、 『そりや可からう、』と言つた時は我ながら変な声だと思つた。……勿論寐もせず、枕元へ例の紫縞のを摺らして、落着かない立膝で何を聞くとも無く耳を澄ますと、谿河の流がざつと響くのが、落ちた、流れた、打当てた、岩に砕けた、死だ──と聞こえる。 『あゝつ、』と忌はしさに手で払つて、坐り直して其処等を眴す、と密と座敷を覗いた女中が、黙つて、スーツと障子を閉めた。──夜が更けて寒からうと、深切に為たに違ないが、未練らしい諦めろ、と愛想尽しを為れたやうで、赫と顔が熱くなる。  背中がぞつと寒く成る……背後を見る、と床の間に袖畳みをした女の羽織、わがねた扱帯、何となく色が冷く成つて紀念のやうに見えて来た、──持主が亡くなると、却つてそんなものが、手ん手に活きて来たやうに思はれて、一寸触るのも憚かられる。  何処か、しゆつ〳〵と風が通る…… 十七 「うら悲しい、心細い、可厭な声で、 『お客様あゝ、』 『奥様、』と呼ぶのが、山颪の風に響いて、耳へカーンと谺を返してズヽンと脳を抉る。 『お客様、』 『奥方様。』……は情ない。少し裏山へ近く成つたと思ふと、女の声が交つて、 『奥様やあ、』と呼んだ。ヒイと之が悲鳴を上げるやうで、家内が絞殺される叫びに聞こえる、最う堪りません。  廊下を跣足で出て、階子段の上から倒に帳場を覗いて、 『御主人、御主人、』 と、海が凪いだ後を、ぶる〳〵震へる波のやうな畳の上に、男だか女だか、二人ばかり打上げられた躰で、黒く成つて突伏した真中に、手酌でチビリ〳〵飲つて居た亭主が、むつくり頭を上げて、 『まだ御寐りませんかな。』と言ひ〳〵四五段上つた、中途の上下で欄干越に顔を合はせた。 『又入れ替つて出てくれたのかね、あゝ言つて呼んでるのは、』 『へい、否、山深く参つたのが、近廻りへ引上げて来たでござります。』 『まだ、知れんのだね、あゝして呼立てゝ居るのを見ると。』 『へい、何しろ、早や、山も谷も数が知れん処でござりますけにな。……』 と歎息を為たが、面を振つて、嚏をした。 『しかし、あれでござりましよ。何分夜が更けましたで、道を教へますものも明方まで待ちませうし、又……奥方様も、何の道お草臥れでござりませうで、いづれにも夜が明けましたら、分るに相違ござりません。』 『分るつて? 死骸か、』 『えゝ?』 『死んだら其までだ。』と自棄を言つて寐床へ帰つて打倒れた。…… 『お客様、』 『奥様、』と呼ぶのが十声ばかりして、やがて、ガラ〳〵と門の戸が大きく鳴つて開く。私は襟を被つて耳を塞いだ! 誰が無事だ、と知らせて来ても、最う聞くまい、と拗ねたやうに……勿論、何とも言つては来ません。  其癖、ガラ〳〵と又……今度は大戸の閉つた時は、これで、最う、家内と私は、幽明処を隔てたと思つて、思はず知らず涙が落ちた。…  ト前刻、止せ、と云つて留めたけれども、其でも女中が伸べて行つた、隣の寐床の、掻巻の袖が動いて、煽るやうにして揺起す。 『おゝ、』と飛附くやうな返事を為て顔を出したが、固より誰も居やう筈は無い。枕ばかり寂しく丁とあり、木賃で無いのが尚ほうら悲しい。  熟と視詰めて、茫乎すると、並べた寐床の、家内の枕の両傍へ、する〳〵と草が生へて、短いのが見る〳〵伸びると、蔽ひかゝつて、萱とも薄とも蘆とも分らず……其の中へ掻巻がスーと消える、と大な蛇がのたりと寐て、私の方へ鎌首を擡げた。ぐつたりして手足を働かす元気もない。首を締めて殺さば殺せで、這出すやうに頭を突附けると、真黒に成つて小山のやうな機関車が、づゝづと天窓の上を曳いて通ると、柔いものが乗つたやうな気持で、胸がふわ〳〵と浮上つて、反身に手足をだらりと下げて、自分の身躰が天井へ附着く、と思ふとはつと目が覚める、……夜は未だ明けないのです。  同じやうな切ない夢を、幾度となく続けて見て、半死半生の躰で漸つと我に返つた時、亭主が、 『御国許へ電報をお掛け被成りましては如何でござりませう。』と枕許に坐つて居ました。 『馬鹿な。』 と一言のもとに卻けたんです。」 十八 「怪我、過失、病気なら格別、……如何に虚気なればと言つて、」  雪枝は老爺に此を語る時、濠端の草に胡座した片膝に、握拳をぐい、と支いて腹に波立つまで気兢つて言つた。 「女房が紛失した、と親類知己へ電報は掛けられない。 『何しろ、最う些と手懸りの出来るまで其は見合はせやう。』 『で、ござりまするが、念のために、お国許へお知らせに成りましては如何なもので、』 『可から、死骸でも何でも見着かつた時にせう。』 『其の、へい……死骸が何うも、』 『何だ、死骸が分らん。』  私は胸が裂けるほど亭主の言葉が気に障つた。最う死骸に成つてる、と言つたやうな、奴の言種が何とも以て可忌しい。 『己が見着けて持つて帰る、死骸の来るのを待つて居れ。』と睨みつけて廊下を蹴立てゝ出た──帳場に多人数寄合つて、草鞋穿の巡査が一人、框に腰を掛けて居たが、矢張此の事に就いてらしい。  痘痕のある柔和な顔で、気の毒さうに私を見た。が口も利かないでフイと門を、人から振もぎる身躰のやうにづん〳〵出掛けた。」  雲は白く山は蒼く、風のやうに、水のやうに、颯と青く、颯と白く見えるばかりで、黒髪濃い緑、山椿の一輪紅色をした褄に擬ふやうな色さへ、手がゝりは全然ない。  目が眩むほど腹が空けば、よた〳〵と宿へ帰つて、 『おい、飯を食はせろ。』  で、又飛出す、崖も谷もほつゝき歩行く、──と雲が白く、山が青い。……外に見えるものは何にもない。目が青く脳が青く成つて了つたかと思ふばかり。時々黒いものがスツスツと通るが、犬だか人間だか差別がつかぬ……客人は変に成つた、気が違つた、と云ふ声が嘲ける如く、憐む如く、呟く如く、また咒咀ふ如く耳に入る…… 『お客様、』 『奥様』と呼ぶのが峯から伝はる。谺を返して谷へカーンと響く、──雲が白く、山が青く、風が吹いて水が流れる。 『客人は気が違つた、』と言ふのが分る。 「可、何とでも言へ、昨日今日二世かけて契を結んだ恋女房がフト掻消すやうに行衛が知れない。其を捜すのが狂人なら、飯を食ふものは皆狂気、火が熱いと言ふのも変で、水が冷いと思ふも可笑しい。温泉の湧出すなどは、沙汰の限りの狂気山だ、はゝゝはゝ、」 と雪枝は額髪を揺るまで、膝を抱へて、高笑を遣つた。  雲が動いて、薄日が射して、反らした胸と、仰いだ其の額を微かに照らすと、ほつと酔つたやうな色をしたが、唇は白く、目は血走るのである。  老爺は小首を傾けた。  急に又雪枝は、宛然稚子の為るやうに、両掌を双の目に確と当てゝ、がつくり俯向く、背中に雲の影が暗く映した。 「其の中に四辺が真暗に成つた。暗く成つたのは夜だらう、夜の暗さの広いのは、田か畠か平地らしい、原かも知れない……一目其の際限の無い夜の中に、墨が染んだやうに見えたのは水らしかつた……が、水でも構はん、女房の行衛を捜すのに、火の中だつて厭ひは為ない。づか〳〵踏込まうとすると、 『あゝ、深いぞ、誰ぢや、水へ……』 と其時、暗がりから、しやがれた声を掛けて、私を呼留めたものがあります。  暗に透かすと、背の高い大な坊主が居て、地から三尺ばかり高い処、宙で胡座掻いたも道理、汀へ足代を組んで板を渡した上に構込んで、有らう事か、出家の癖に、……水の中へは広い四手網が沈めてある。」  老爺は眉毛をひくつかせた。 「はての。」 城ヶ沼 十九 「其の入道の、のそ〳〵と身動きするのが、暗夜の中に、雲の裾が低く舞下つて、水にびつしより浸染んだやうに、ぼうと水気が立つので、朦朧として見えた。 『沼ぢや、気を着けやれ』と打切つたやうに言ひます。 『沼でも海でも、女房が居れば入らずに置けない。』  苛々するから、此方はふてくされで突掛る。  と入道が耳を貫いて、骨髄に徹る事を、一言。 『はゝあ、此処なは、御身が内儀か、』 と言ふ。 『此処なは……私の……女房だと? ……』 『おゝ、私が今出逢ふた、水底から仰向けに顔を出いた婦人の事ぢや。』 『や、溺れて死んだか。』 とばつたり膝を支く、と入道は足代の上から、蔽被さるやうに覗いて、 『待て、待て、死骸を見たでは無い。ぢやが、正のものでもなかつた……謂はゞ影ぢやな。声の有る色の有る影法師ぢや……其のものから、御身に逢ふて話してくれい、と私が托言をされたよ。……  何かな、御身は遠方から、近頃此の双六の温泉へ、夫婦づれで湯治に来て、不図山道で其の内儀の行衛を失ひ、半狂乱に捜してござる御仁かな。』とつけ〳〵訊ねる。  女房が失せて半狂乱、」 と雪枝は、思出すのも、口惜しさうに歯噛みをした。 「察して下さい、……唯其の音信の聞きたさに、 『えゝ、其ものです』と返事を為ました。 『やれ〳〵、気の毒。』 とさら〳〵と法衣の袖を掻合はせる音がして、 『私は旅のものぢやが、此の沼は、城ヶ沼と言ふげぢやよ。』  老爺さん、其処は城ヶ沼と言ふ処だつた。」  雪枝は息せはしく成つて一息吐く。ト老爺は煙草を払いた。吸殻の落た小草の根の露が、油のやうにじり〳〵と鳴つて、煙が立つと、ほか〳〵薄日に包まれた。雲は稍薄く成つたが、天守の棟は、聳え立つ峯よりも空に重い。 「えゝ、城ヶ沼の。はあ、夢中で其処ら駆廻らしつたものと見える……それは山の上では無い。お前様が温泉へ来さつしやつた街道端の、田畝に近い樹林の中にある大い沼よ。──何が、其の水は谿河の流を堰いて溜めたでは無うて、昔から此の……此処な濠の水が地の底を通ふと言ふだね。……  お天守の下へも穴が徹つて、お城の抜道ぢや言ふ不思議な沼での、……私が祖父殿が手細工の船で、殿様の妾を焼いたと言つけ。其ん時はい、其の影が、城ヶ沼へ歴然と映つて、空が真黒に成つたと言ふだ。……其さ真個か何うか分らねども、お天守の棟は、今以つて明かに映るだね。水の静な時は大い角の龍が底に沈んだやうで、風がさら〳〵と吹く時は、胴中に成つて水の面を鱗が走るで、お城の様子が覗けるだから、以前は沼の周囲に御番所が有つた。最もはあ、殺生禁制の場所でがしたよ。  其の上、主が居て住む、と云ふて、今以て誰一人釣をするものはねえで、鯉鮒の多い事。……  お前様が温泉の宿で見さしつけな、囲炉裡の自在留のやうな奴さ、山蟻が這ふやうに、ぞろ〳〵歩行く。  あの、沼へ、待たつせえ、」 と又眉をびく〳〵遣つた。 「四手場を拵えて網を張るものは近郷近在、私の他に無いのぢやが、……お前様が見さしつた、城ヶ沼の四手場の足代の上の黒坊主と……はてな……其の坊様は大い割に、色が蒼ざめては居らんかの。」 二十 「あゝ、蒼ざめた、」 と雪枝は起直つて言つた。 「鼻の円い、額の広い、口の大い、……其の顔を、然も厭な色の火が燃えたので、暗夜に見ました。……坊主は狐火だ、と言つたんです。」 「それ〳〵、其の坊様なら、宵の口に私が頼んで四手場に居て貰ふたのぢや……、はあ、其処へお前様が行逢はしつたの。はて、どうも、妙智力、旦那様と私は縁が有るだね。」 「確に師弟の縁が有ると思ひます、」 と雪枝は慇懃に言ふ。 「まあ、串戯は措かつせえ。……時に其の坊様は何と云ふでがすね。」 「えゝ、…… 『私は旅から旅をふら〳〵と経廻るものぢやが、』と坊様が言ふんです。 『日が暮れて此処を通りかゝると、今、私が御身に申したやうに、沼の水は深いぞ、と気を注けたものがある。此の四手場に片膝で、暗の水を視詰めて居た老人ぞや。さて漁はあるか、と問へば、漁は有るが、魚は一向に獲れぬと言ふ。  希有な事を聞くものぢや、其の理由は、と尋ねると、老人の返事には、』 と其の坊主が話したんです。……ぢや、老爺さん──老人が貴下なら、貴下が坊主に話された、と云ふ、城ヶ沼の鯉鮒は、網で掬へば漁はあるが、畚に入れると直ぐに消えて、一尾も底に留らぬ。鰌一尾獲物は無い。無いのを承知で、此処に四ツ手を組むと言ふのは、夜が更けると水に沈めた網の中へ、何とも言へない、美しい女が映る。其を見たい為に、独り恁うやつて構へて居る、……とお話があつたやうに、其の時坊主から聞いたんです……それは真個の事ですか? 老爺さん。」  一切、事実だ、と老爺は答へたのである。  はじめの内、……獲た魚は畚の中を途中で消えた。荻尾花道、木の下路、茄子畠の畝、籔畳、丸木橋、……城ヶ沼に漁つて、老爺が小家に帰る途中には、穴もあり、祠もあり、塚もある。月夜の陰、銀河の絶間、暗夜にも隈ある要害で、途々、狐狸の輩に奪ひ取られる、と心着き、煙草入の根附が軋んで腰の骨の痛いまで、下つ腹に力を籠め、気を八方に配つても、瞬をすれば、一つ失せ、鼻をかめば二つ失せ、嚏をすればフイに成る。……で、未だも途中まで畚の重い内は張合もあつた。けれども、次第に畜生、横領の威を奮つて、宵の内からちよろりと攫ふ、漁る後から嘗めて行く……見る〳〵四つ手網の網代の上で、腰の周囲から引奪る。  最も其の時は、何となく身近に物の襲ひ来る気勢がする。左の手がびくりとする時、左から丁手掻で、右の腕がぶるつと為る時、右の方から狙ふらしい。頸首脊筋の冷りと為るは、後に構まへてござる奴。天窓から悚然とするのは、惟ふに親方が御出張かな。いや早や、其と知りつゝ、さつ〳〵と持つて行かれる。最も身体を蓋に為て畚の魚を抱いてゞも居れば、如何に畜生に業通が有つても、まさかに骨を徹しては抜くまい、と一心に守つて居れば、沼の真中へひら〳〵と火を燃す、はあ、変だわ、と気が散ると、立処に鯉が失せる。其の術で行かねば、業を変へて、何処とも知らず、真夜中にアハヽアハヽ笑ひをる、吃驚すると鮒が消える、──此方も自棄腹の胴を極めて、少々脇の下を擽られても、堪へて静として畚を守れば、さすが目に見せて、尖つた面、長い尻尾は出さぬけれど、さて然うして見た日には、足代を組んで四手を沈めて、身体を張つて、体よく賃無しで雇はれた城ヶ沼の番人同然、寐酒にも成らず、一向に市が栄えぬ。 二十一  魚が寄ると見れば、網を揚げる、網を両手で、ぐい、と引いて、目も心も水に取られる時の惨憺さ。ガサリなどゝ音をさして、畚を俯向けに引繰返す、と這奴にして遣らるゝはまだしもの事、捕つた魚が飜然と刎ねて、ざぶんと水に入つてスイと泳ぐ。  余の他愛なさに、効無い殺生は留にしやう、と発心をした晩、これが思切りの網を引くと、一面城ヶ沼の水を飜して、大四手が張裂けるばかり縦に成つて、ざつと両隅から高く星の空へ影が映して、沼の上を離れる時、網の目を灌いで落ちる水の光り、霞の懸つた大な姿見の中へ、薄りと女の姿が映つた。 「よく、はい、噂に聞くお客様が懸つたやうだね。恁う、其の網を引張つて、」  老爺は手で掴んで腰を反らして言ふのである。 「引き懸けた処でがんしよ……鮒一尾入つた手応もねえで、水はざんざと引覆るだもの。人間の突入つた重さはねえだ。で、持つたまま大揺りに身躰ごと網を揺れば、矢張揺れて、衣服だか鰭だか、尾毛だか、網の中の婦の姿がふら〳〵動くだ。はて、変だと手を離すと、ざぶりと沈むだ。其の網の底の方……水ン中に、ちら〳〵と顔が見える……其のお前様、白い顔が正的に熟と此方を見るだよ。  や、早や其時は畚が足代を落こちて、泥の上に俯向けだね。其奴が、へい、足を生やして沼へ駆込まぬが見つけものだで、畜生め、此の術で今夜は占めをつた。  何のつけ、最う二度と来る事ではない、とふつ〳〵我を折つて帰りましけえ。怪㤉な事には、眉が何う、目が何う、と云ふ覚はねえだが、何とも言はれねえ、其の女の容色だで……色も恋も無けれども、絵を見るやうで、何とも其の、美しさが忘れられぬ。  化けたなら化けたで可、今夜は蛇に成らうも知んねえが、最う一晩出懸けて見べい。」……  で、又てく〳〵と沼へ出向く、と一刷け刷いた霞の上へ、遠山の峰より高く引揚げた、四手を解いて沈めたが、何の道持つては帰られぬ獲物なれば、断念めて、鯉が黄金で鮒が銀でも、一向に気に留めず、水に任せて夜を更す。  風が吹き、風が凪ぎ、水が動き、水が静まる。大沼の刻限も、村里と変り無う、やがて丑満と思ふ、昨夜の頃、ソレ此処で、と網を取つたが、其の晩は上へ引揚げる迄もなく、足代の上から水を覗くと歴然と又顔が映つた。  と老爺が話す。 「聞かつせえまし、肩から胸の辺まで、薄らと見えるだね、試して見ろで、やつと引き揚げると、矢張り網に懸つて水を離れる……今度は、ヤケにゆつさゆさ引振ふと、揉消すやうにすツと消えるだ──其処でざぶんと沈める、と又水の中へ露はれる。……  三夜四夜と続いたが、何時も其の時刻に屹と映るだ。追々馴染が度重ると、へい、朝顔の花打沈めたやうに、襟も咽喉も色が分つて、口で言ひやうは知らぬけれど、目附なり額つきなり、押魂消た別嬪が、過般中から、同じ時分に、私と顔を合はせると、水の中で莞爾笑ふ。……  や、其の笑顔を思ふては、地韜踏んで堪へても小家へは寐られぬ。雨が降れば簑を着て、月の良い夜は頬被り。つひ一晩も欠かさねえで、四手場も此の爺も、岸に居着きの巌のやうだ──扨気が着けばひよんな事、沼の主に魅入られた、何か前世の約束で、城ヶ沼の番人に成つたゞかな。何処で死ぬ身と考える、と心細い身の上ぢやが、何と為ても思切れぬ……  いけ年を為た爺が、女色に迷ふと思はつしやるな。持たぬ孫の可愛さも、見ぬ極楽の恋しいも、これ、同じ事と考えたゞね。……  さて困つたは、寒ければ、へい、寒し、暑ければ暑い身躰ぢや、飯も食へば、酒も飲むで、昼間寐て夜出懸けて、沼の姫様見るは可えが、そればかりでは活きて居られぬ。」 雲の声 二十二  譬へば幻の女の姿に憧がるゝのは、老の身に取り、極楽を望むと同じと為る。けれども其の姿を見やうには、……沼へ出掛けて、四つ手場に蹲つて、或刻限まで待たねばならぬ。で、屋根から月が射すやうな訳には行かない。其処で、稼ぎも為ず活計も立てず、夜毎に沼の番の難行は、極楽へ参りたさに、身投げを為るも同じ事、と老爺は苦笑ひをしながら言つた。  そんなら、四つ手場を留めにして、小家で草鞋でも造れば可が、因果と然うは断念められず、日が暮れると、そゝ髪立つまで、早や魂は引窓から出て、城ヶ沼を差してふわ〳〵と白い蝙蝠のやうに徉徜ひ行く。  待てよ、恁うまで、心を曳かるゝのは、よも尋常ごとでは有るまい。伝へ聞く沼の中へは古城の天守が倒に宿る……我が祖先の術の為に、怪しき最後を遂げた婦が、子孫に絡る因縁事か。其とも弔らはれず浮かばぬ霊が、無言の中に供養を望むのであらうも知れぬ。独りでは何しろ荷が重い。村の誰にかも見せて、怪しさを唯潵の如く散らさう、と人に告げぬのでは無いけれども、昼間さへ、分けて夜に成つて、城ヶ沼の三町四方へ寄附かうと言ふ兄哥は居らぬ。  殆んど我身を持て余した頃の、其の夜…… 「お前様が逢はしつた坊主が来て、のつそり立つた。や、これも怪しい。顔色の蒼ざめた墨の法衣の、がんばり入道、影の薄さも不気味な和尚、鯰でも化けたか、と思ふたが、──恁く〳〵の次第ぢや、御出家、……大方は亡霊が廻向を頼むであらうと思ふで、功徳の為め、丑満まで此処にござつて引導を頼むでがす。──旅の疲労も有らつしやらうか、何なら、今夜は私が小家へ休んで、明日の晩にも、と言ふたが、其には及ばぬ……若しや、其が真実なら、片時も早く苦艱を救ふて進ぜたい。南無南無と口の裡で唱うるで、饗応振に、藁など敷いて坐らせて、足代の上を黒坊主と入替つた。  さあ、身代りは出来たぞ! 一目彼の女を見され、即座に法衣を着た巌と成つて、一寸も動けまい、と暗の夜道を馴れた道ぢや、すた〳〵と小家へ帰つてのけた……  翌朝疾く握飯を拵へ、竹の皮包みに為て、坊様を見舞に行きつけ…靄の中に影もねえだよ。  はあ、よもや、とは思ふたが、矢張り鯰めが来せたげな。えゝ、埒もない、と気が抜けて、又番人ぢや、と落胆したゞが、其の晩もう一度行く、と待つとも無う夜が更けても、何時の影は映らなんだ。四手を上げても星も懸らず、鬢の香のする雫も落ちぬ。あゝ、引導を渡したな。勿躰ない、名僧智識で有つたもの、と足代の藁を頂いたゞがの、……其では、お前様が私の後へござつて、其の坊主に逢しつたものだんべい。  ……までは、はあ、分つたが、私が城ヶ沼の水の映る女を見はじめたは久い以前ぢや。お前様湯治にござつて、奥様の行方が知れなく成つたは、つひ此の頃の事ではねえだか、坊様は何処で聞いて、奥様の言づけを為たゞがの。」 「其を坊様が言つたんです。其の出家の言ふには、 『……人は知らぬが、此処に居た老人に、水の中へ姿を顕はす幻の婦に廻向を、と頼まれて、出家の役ぢや、……宵から念仏を唱へて待つ、と時刻が来た。  大沼の水は唯、風にも成らず雨にも成らぬ、灰色の雲の倒れた広い亡体のやうに見えたのが、汀からはじめて、ひた〳〵と呼吸をし出した。ひた〳〵と言ひ出した。幽にひた〳〵と鳴出した。  町方、里近の川は、真夜中に成ると流の音が留むと言ふが反対ぢやな。此の沼は、其時分から動き出す……呼吸が全躰に通ふたら、真中から、むつくと起きて、どつと洪水に成りはせぬかと思ふ物凄さぢや。  と其の中に何やら声がする。』……と坊主が言ひます。」 二十三  其の声が、五位鷺の、げつく、げつくとも聞こえれば、狐の叫ぶやうでもあるし、鼬がキチ〳〵と歯ぎしりする、勘走つたのも交つた。然うかと思ふと、遠い国から鐘の音が響いて来るか、とも聞取られて、何となく其処等ががや〳〵し出す……雑多な声を袋に入れて、虚空から沼の上へ、口を弛めて、わや〳〵と打撒けたやうに思ふと、 『血を洗へ、』 『洗へ』 『人間の血を洗へ。』 『笘で破つた。』 『鞭で切つた。』 『爪で裂いた。』 『膚を浄めろ、』 『浄めろ。』 と高く低く、声々に大沼のひた〳〵と鳴るのが交つて、暗夜を刻んで響いたが、雲から下りたか、水から湧いたか、沼の真中あたりへ薄い煙が朦朧と靡いて立つ…… 『煮殺すではないぞ。』 『うでるでない。』と言ふ。 『湯加減、湯加減、』 『水加減。』と喚いた…… 『沼の湯は熱いか。』とぼやけた音で聞くのがある…… 『熱湯。』と簡単に答へた。 『人間は知るまいな。』 『知るものか。』と傲然とした調子で言つた。 『沼から何で沸湯が出る。』 『此の湯が沸いて殺さぬと、魚が殖へて水が無くなる、沼が乾くわ。』 と言つた。 『嘵舌るな、働け。』 『血を洗へ、』 『傷を洗へ』 『小袖を剥がせ』 『此の紫は?』 『菖蒲よ、藤よ。』 『帯が長いぞ。』 『蔦、桂、山鳥の尾よ。』 『下着も奪へ、』 『此の紅は、』 『もみぢ、花。』 『やあ、此の膚は、』 『山陰の雪だ。』  ひいツ、と魂消つて悲鳴を上げた、糸のやうな女の声が谺を返して沼に響いた。  坊主が此処まで言つた時、聞いてた私は熱鉄のやうな汗が流れた。」 と雪枝は老爺に語りながら唇を戦かせて、 「尚ほ坊主が続けて、話す。  さあ何ものかゞ寄つて集つて、誰かを白裸にした、と思へば、 『犬よ、犬よ。』と呼んだのがある。  びやう、びやう、うおゝ、うおゝ、うゝ、と遥かに犬が長吠して、可忌しく夜陰を貫いたが、瞬く間に、里の方から、風のやうに颯と来て、背後から、足代場の上に蹲つた──法衣の袖を掠めて飛んだ、トタンに腥い獣の香がした。  水の上で、わん、わん、と啼く…… 『男は知るまい。』 『うゝ、』と犬の声。 『不便な奴だ。』 『びやう、』と又啼いた。  此の間、ざぶり〳〵と水を懸ける音が頻にした。 『やがて可いか、』 『血は留まつた。』 『又鞭打つて、』 『又洗はう。』 『やあ、己が手、』 『我が足、』 『此の面に絡はるは。』 『水に拡がる黒髪ぢや、』 『山の婆々の白髪のやうに、すく〳〵と痛うは刺さぬ。』 『蛇よりは心地よやな。』と次第に声が風に乗り行く…… 二十四  びやう〳〵と凄い声で、形は見えず、沼の上で空ざまに犬が啼く。 『犬よ、犬よ。』 『おう。』と吠えた。 『人間の目には見えぬ……城山の天守の上に、女は梁から釣して置く、と男に言へ!』 『何が、彼の耳へ入らう。』 『わん、と啼いたら、犬だと思はう、彼の痴漢が。』 と嘲る声。傍から老けた声して、 『……其の言附は、犬では不可ぬ。時鳥に一声啼かせろ。』 『まだ〳〵、まだ〳〵、山の中の約束は、人間のやうに間違はぬ。今は未だ時鳥の啼く時節で無い。』 『唯姿だけ見せれば可い。温泉宿の二階は高し。あの欄干から飛込ませろ、……女房は帰らぬぞ、女房は帰らぬぞ、と羽で天井をばさばさ遣らせろ。』 『男は、女の魂が時鳥に成つた夢を見て、白い毛布で包んで取らうと血眼で追駆け回さう……寐惚面見るやうだ。』  どつと笑つて、天守の方へ消えた後は、颯々と風に成つた。  が、田畠野の空を、山の端差して、何となく暗ながら雲がむくむくと通つて行く。其の気勢が、やがて昼間見た天守の棟の上に着いた程に、ドヽンと凄い音がして、足代に乗つた目の下、老人が沈めて去つた四つ手網の真中あたりへ、したゝかな物の落ちた音。水が環に成つて、颯と網を乗出して展げた中へ、天守の影が、壁も仄白く見えるまで、三重あたりを樹の梢に囲まれながら、歴然と映つて出た。  不思議や、其の天守の壁を透いて、中に灯を点けたやうに、魚の形した黄色い明のひら〳〵するのが、矢間の間から、深い処に横開けで、網の目が映るのか凡そ五十畳ばかりの広間が、水底から水面へ、斜に立懸けたやうに成つて、ふわ〳〵と動いて見える。  他に何も無く誰も居らぬ。灯唯一つ有る。其の灯が、背中から淡く射して、真白な乳の下を透す、……帯のあたりが、薄青く水に成つて、ゆら〳〵と流れるやうな、下が裙に成つて、一寸灯の影で胴から切れた形で、胸を反らした、顔を仰向けに、悚然とするやうな美い婦。  処で、水へ映る影と言へば、我が面影を覗くやうに、沼に向つて、顔を合はせるやうに見えるのであらう、と思ふたが違う。──黒髪が岸へ、足が彼方へ、たとへば向ふの汀から影が映すのを、倒に視める形。つく〴〵と見れば無残や、形のない声が言交はした如く、頭が畳の上へ離れ、裙が梁にも留まらずに上から倒に釣して有る……  と身を悶くか水が揺れるか、わな〳〵と姿が戦く──天守の影の天井から真黒な雫が落ちて、其の手足に懸つて、其のまゝ髪の毛を伝ふやうに、長く成つて、下へぽた〳〵と落ちて、ずらりと伸びて、廻りつ畝りつするのを、魚の泳ぐのか、と思ふと幾条かの蛇で、梁にでも巣をくつて居るらしい。  然うかと思ふと、膝のあたりを、のそ〳〵と山猫が這つて通る。階子の下から上つて来るらしく、海豚が躍るやうな影法師は狐で。ひよいと飛上るのもあれば、ぐる〳〵と歩行き廻るのもあるし、胴を伸ばして矢間から衝と出て、天守の棟で鯱立ちに成るのも見える。  時々ひら〳〵と烏が出て、翼で、女の胸を払く……  中に見る目も恐しかつたは、──茶と白大斑の獣が一頭、天守の階子を、のし〳〵と、蹄で蹈んで上つて、畳を抱いて人のやうに立上つた影法師が、女の上を横に通ると、姿は隠れて、颯と蒼く成つた面影と、ちらりと白い爪尖ばかりの残つた時で──獣が頓て消えたと思ふと、胸を映した影が波立ち、髪を宿した水が動いた…… 『御身が女房の光景ぢや。』と坊主が私の顔の前へ、何故か大な掌を開けて出した。」 誂へ物 二十五 「私は息を引いて退つたんです。」と雪枝は尚ほ語り続けた。 「……水の中からともなく、空からともなく、幽に細々とした消えるやうな、少い女の声で、出家を呼んだ、と言ひます。  而して、百年以来、天守に棲む或怪いものゝ手を攫はれて、今見らるゝ通りの苦艱を受ける……何とぞ此の趣を、温泉に今も逗留する夫に伝へて、寸時も早く人間界に助けられたい。救ふには、天守の主人が満足する、自分の身代りに成るほどな、木彫の像を、夫の手で刻んで償ふ事で。其の他に助かる術はない……とあつた。 『都の人、唯私が口から言ふたでは、余の事に真とされまい。……あはれな犠牲の婦人も、唯恁う申したばかりでは、夫も心に疑ひませう……今其の印を、と言ふてな、色は褪せたが、可愛い唇を動かすと、白歯に啣えたものがある。白魚の目のやうな黒い点々が一つ見えた……口からは不躾ながら、見らるゝ通り縛めの後手なれば、指さへ随意には動かされず……あゝ、苦しい。と総身を震はして、小さな口を切なさうに曲めて開けると、煽つ水に掻乱されて影が消えた。戞然と音して足代の上へ、大空からハタと落ちて来たものがある……手に取ると霰のやうに冷たかつたが、消えも解けもしないで、破れ法衣の袖に残つた。 『印はこれぢや。』 と私の掌を開けさせて、ころりと振つて乗せたのは、忘れもしない、双六谷で、夫婦が未来の有無を賭為やうと思つて買つた采だつたんです。 『都の人、』 と坊主は又更めて、 『御身は木彫を行るかな。』 『行ります!』 と答へた時、私は蘇生つたやうに思つた。水も白く夜も明く成つた……お浦の行方も知れ、其の在所も分り、草鞋や松明で探つた処で、所詮無駄だと断念も着く……其に、魔物の手から女房を取返す手段も出来た。我が手に身代の像を作れと云ふ。敢て黄金を積め、山を崩せ、と命ずるのでは無いから、前途に光明が輝いて、心は早や明かに渠を救ふ途の第一歩を辿り得た。  草を開いて、天守に昇る路も一筋、城ヶ沼の水を灌いで、野山をかけて流すやうに足許から動いて見える。  我が妻、聞くが如くんば、御身は肉を裂かれ、我は腸を断つ。相較べて劣りはせじ。堪へよ、暫時、製作に骨を削り、血を灌いで、…其の苦痛を償はう、と城ヶ沼に対して、瞑目し、振返つて、天守の空に高く両手を翳して誓つた。  其の時、お浦が唇を開いて、僧の手に落したと云ふ、猪の牙の采を自分の口に含んで居た。が、同じ舌の尖に触れた、と思ふと血を絞つて湧き出づる火のやうな涙とゝもに、ほろり、と采が手に落ちた。其の掌を忘るゝばかり心を詰めて握占めた時、花の輪が渦くやうに製作の興が湧いた。──閉づる、又開く、扇の要を思着いた、骨あれば筋あれば、手も動かう、足も伸びやう……風ある如く言はう…と早や我が作る木彫の像は、活きて動いて、我が身ながらも頼母しい。さて其の要は、……手に握つた采であつた。  天が命じて、我をして為さしむる、我が作す美女の立像は、其の掌に采を包んで、作の神秘を胸に籠めやう。言ふまでも無く、其の面影、其の姿は、古城の天守の囚と成つた、最惜い妻を其のまゝ、と豁然として悟ると同時に、腕には斧を取る力が籠つて、指と指とは鑿を持たうとして自然で動く──時なる哉、作の頭に飾るが如く、雲を破つて、晃々と星が映つた。  星の下を飛んで帰つて、温泉の宿で、早や準備を、と足が浮く、と最う遠く離れた谿河の流が、砥石を洗ふ響を伝へる。 二十六  然うすると、心に刻んで、想像に製り上げた……城の俘虜を模型と為た彫像が、一団の雪の如く、沼縁にすらりと立つ。手を伸べよ、と思へば伸べ、乳を蔽へと思へば蔽ひ、髪を乱せと思へば乱れ、結べよ、と思へば結ばる──さて、衣を着せやうと思へば着る。  作の出来栄を予想して、放つ薫、閃めく光の如く眼前に露はれた此の彫像の幻影は、悪魔が手に、帯を奪はうとして、成らず、衣を解かうとして、得ず、縛められても悩まず、鞭つても痛まず、恐らく火にも焼けず、水にも溺れまい。  見よ〳〵、同じ幻ながら、此の影は出家の口より伝へられたやうな、倒に梁に釣される、繊弱い可哀なものでは無い。真直に、正しく、美しく立つ。あゝ、玉の如き肩に、柳の如き黒髪よ、白百合の如き胸よ、と恍惚と我を忘れて、偉大なる力は、我が手に作らるべき此の佳作を得むが為め、良匠の精力をして短き時間に尽さしむべく、然も其の労力に仕払ふべき、報酬の量の莫大なるに苦んで、生命にも代へて最惜む恋人を仮に奪ふて、交換すべき条件に充つる人質と為たに相違ない。  卑怯なる哉、土地祇、……実に雪枝が製作の美人を求めば、礼を厚くして来り請はずや。もし其の代価に苦むとならば、玉を捧げよ、能はずんば鉱石を捧げよ、能はずんば巌を欠いて来り捧げよ。一枝の桂を折れ、一輪の花を摘め。奚ぞみだりに妻に仇して、我をして避くるに処なく、辞するに其の術なからしむる。……汝等、此処に、立処に作品の影の顕はれたる此の幻の姿に対して、其の礼無きを恥ぢざるや……  と背後から視めて意気昂つて、腕を拱いて、虚空を睨んだ。腰には、暗夜を切つて、直ちに木像の美女とすべき、一口の宝刀を佩びたる如く、其の威力に脚を踏んで、胸を反らした。 「本気の沙汰ではない、世にあるまじき呵責の苦痛を受けて居る、女房の音信を聞いて、赫と成つて気が違つたんです。」  我と我が想像に酔つて、見惚れた玉の膚の背を透して、坊主の黒い法衣が映る、と水の中に天守の梁に釣下げられた、其の姿を獣の襲ふ、其の俤を歴然と見た。無惨の状に、ふつと掻消した如く美しいものは消えた。 『呼ぶわ、呼ぶわ。』 と云つた坊主の声。 『おゝい〳〵、』 『お客様、お客様。』 と叫ぶのが、遥に、弱い稲妻のやうに夜中を走つて、提灯の灯が点々畷に徉徜ふ。 『お客様。』 『旦那、』 『奥方様。』  あゝ、又奥方様をくはせる……剰へ、今心着いて、耳を澄ませて聞けば、我自からも、此の頃では鉦太鼓こそ鳴らさぬけれども、土俗に今も遣る……天狗に攫はれたものを探す方法で、あの通り呼立て居る──成程然う思へば、何時温泉の宿を出て、何処を通つて、城ヶ沼に来たか覚えて居らぬ。 『御身を呼ぶぢやろ、去なつしやい。』と坊主が、はつと又其の掌を拡げた。此の煽動に横顔を払はれたやうに思つて、蹌踉としたが、惟ふに幻覚から覚めた疲労であらう、坊主が故意に然うしたものでは無いらしい。 『御身が内儀の言づけを忘れまいな。』 『忘れない。』 と奮然として答へた。既に鬼神に感応ある、芸術家に対して、坊主の言語と挙動は、何となく嘗め過ぎたやうに思はれたから……其のまゝ肩を聳やかして、三つ四つ輝く星を取つて、直ちに額を飾る意気組。背を高く、足を踏んで、沼の岸を離れると、足代に突立つて見送つた坊主の影は、背後から蔽覆さる如く、大なる形に成つて見えた。 二十七  温泉の宿を差して、城ヶ沼から引返す途中は、気も漫に、直ぐにも初むべき──否、手は既に何等か其に向つて働く……新な事業に対する感興の雲に乗るやう、腕が翼に成つて、星の下を飛ぶが如き心地した。  恁うまで情の昂ぶつた処へ、はたと宿から捜しに出た一行七八人の同勢に出逢つたのである……定紋の着いた提灯が一群の中に三ツばかり、念仏講の崩れとも見えれば、尋常遠出の宿引とも見えるが、旅籠屋に取つては実際容易な事では無からう、──仮初に宿つた夫婦が、婦は生死も行衛も知れず、男は其が為に、殆んど狂乱の形で、夜昼とも無しに迷ひ歩行く……  不面目ゆゑ、国許へ通知は無用、と当人は堅く留めたものゝ、唯、然やうで、とばかりで旅籠屋では済まして居られぬ。  で、宿の了見ばかりで電報を打つた、と見えて其処で出逢つた一群の内には、お浦の親類が二人も交つた、……此の中に居ない巡査などは、同じ目的で、別の方面に向つて居るらしい。  畝路で出合がしらに、一同は騒ぎ立てた。就中、わざ〳〵東京から出張つて来た親類のものは、或は慰め、或は励まし、又戒めなどする種々の言葉を、立続けに嘵舌つたが、頭から耳にも入れず……暗闇の路次へ入つて、ハタと板塀に突当つたやうに、棒立ちに成つて居たが、唐突に、片手の掌を開けて、ぬい、と渠等の前へ突出した。坊主が自分に向つて同じ事を為たのを、フト思出したのが、殆んど無意識に挙動に出た。ト尠からず一同を驚かして、皆だぢ〳〵と成つて退る。  ト此の鑿を持ち、鏨を持つべき腕は、一度掌を返して、多勢を圧して将棊倒しにもする、大なる権威の備はるが如くに思つて、会心自得の意を、高声に漏らして、呵々と笑つた。 『御苦労御苦労、真に御骨折を懸けて誰方にも相済まん。が、最う御心配には及ばんのだ。──お聞きなさい、行衛の知れなかつた家内は、唯今其の所在が分つた。……ナニ、無事か? 無事かではない。考えて見たつて知れます。繊弱い婦だ、然も蒲柳の質です。一寸躓いても怪我をするのに、方角の知れない山の中で、掻消すやうに隠れたものが無事で居やう筈はないではないか。  決して安泰ではない。正に其の爪を剥ぎ、血を絞り、肉を毮り骨を削るやうな大苦艱を受けて居る、倒に釣られて居る。…………………』 と戦いたが、すぐ肩を聳かした。 『何処に居る? 何、お浦の所在は何処だ、と言ふのか。いや、君方に、其は話しても分るまい。水の底のやうな、樹の梢のやうな、雲の中のやうな、……それぢや分らん、分らない、と言ふのかね、勿論分りませんとも!  吾輩には丁と分つて居る。位置も方角も残らず知つてる、──指して言へば、土地のものは残らず知つてる。けれども其を話すとなると、それ行け、救へで、松明を振り、鯨波の声を揚げて騒ぐ、騒いだ処で所詮駄目です。  誰が行つても何者が騒いでも、迚も彼は救ひ出せない。  おゝ! 君達にも粗想像出来るか、お浦は魔に攫はれた、天狗が掴んだ、……恐らく然うだらう。……が、私は此を地祇神の所業と惟ふ。たゞし、鬼にしろ、神にしろ、天狗にしろ、何のためにお浦を攫つたか、其の意味が分るまい、諸君には知れなからう。  独りこれを知るものは吾輩だよ。而して此を救ふものも又吾輩でなければ不可い。然も彼を連れ返る道は、丁と最う着いて居るんだ。唯少時の辛抱です。いや〳〵、決して貴下方が御辛抱なさるには及ばん。辛抱をするのはお浦だ、可哀想な婦だ。我慢をしてくれ、お浦、腕は確だ。』 と、掌を開いて、ぱつ、と出す。と一同はどさ〳〵と又退つた。吃驚して泥田へ片脚落したのもある、……ばちやりと音して。…… 『気が違つた。』 『変だ。』 『真物だ。』……と囁き合ふ。 祠 二十八  狂気した、変だ、と云ふのは言葉の切目毎に耳に入つた。が、これほど確な事を、渠等は雲を掴むやうに聞くのであらう。我は手に握つて、双の眼で明かに見る采の目を、多勢が暗中に摸索して、丁か、半か、生か、死か、と喧々騒ぎ立てるほど可笑な事は無い。 『はゝゝ、大丈夫、心配は無いと云ふに、──お浦の所在も、救ふ路も、すべて掌の中に在る。吾輩が掴んで居る。要は唯掴んだ此の手を開く時間を待つ事だ。──今開け、と云つても然うは不可ん。唯、開くのではない、開いてお浦の掌へ返すんだ、いや〳〵彫像の拳に納めるんだ。』 と、益々こんがらかつて、自分にも分らなく成る。先方のきよとつくだけ此方は苛立つ。言へば言ふほど枝葉が茂つて、路が岐れて谷が深く、野が広く、山が高く成つて、雲が湧き出す、霞がかゝる、果は焦込んで、空を打つて、 『皆、これだ。』 と高い処から揮下ろした拳の中に、……采を掴んで居た事は云ふまでも無い。 『……狂人でも何でも構はん。自分が生命がけの女房を自分が救ふに間違は有るまい。凡て任して貰はう。何でも私のするまゝに為して下さい。……  処で、私が、お浦を救ふ道として、進むべき第一歩は、何処でも可い、小家を一軒探す事だ。小家でも可、辻堂、祠でも構はん、何でも人の居ない空屋が望みだ。  何、そんな処にお浦が居るか、と……詰らん事を──お浦の居処は居処で話が違う。空家を探すのは私が探して私が其処へ入るんだ。──所帯を持つのぢやない。……えゝ、落着いて、聞かなければ不可ん。  宜いかね、此を要するに、少くとも空屋に限る……有りますか、人の居ない小家はあるか。有れば、其処へ行く。これから此の足で直ぐに行きます。──宿へ帰つて一先づ落着け? ……呑気な事を。落着いて相談と? ……此の上何の相談を為るんです。お浦を救ふのには一刻を争ふ、寸秒を惜む。早速さあ、人の居ない小家、辻堂、祠、何でも構はん、其処へ行かう。行つて直ぐに仕事にかゝる。が、誰も来ては不可い、屹と来ては不可い、いづれ、やがて其の仕事が出来ると、お浦と一所に、諸共にお目に懸つて更めて御挨拶をする。  しかし、恁う言ふのを信じないで、私に任かせることを不安心と思ふなら、提灯の上に松明の数を殖して、鉄砲持参で、隊を造つて、喇叭を吹いてお捜しなさい、其は御勝手です。』 と嘲けるやうに又アハアハ笑ふ。いや、気味の悪い…… 『あれ、天狗様が憑移らしやつた。』 『魔道に墜ちさしたものだんべい。』 と密いて言ふのが聞えた。  が、最う、そんな事に頓着しない。人間などには目も懸けないで、暗い中を矢鱈に、其処等の樹を眺めた。刻むに佳い枝や、幹や、と目を光らす……これも眼前、魔に心を通はす挙動の如くに見えたであらう。  けれども言出した事は、其の勢だけに誰一人深切づくにも敢て留めやうとするものは無く、……其の同勢で、ぞろ〳〵と温泉宿へ帰る途中、畷を片傍に引込んだ、森の中の、とある祠へ、送込んだ……と言ふよりは、づか〳〵踏込んだ。後に踵いて来て、渠等は狐格子の外で留まつたのである。  提灯を一個引奪つて、三段ばかりある階の正面へ突立つて、一揆を制するが如く、大手を拡げて、 『さあ、皆帰れ。而して誰か宿屋へ行つて、私の大鞄を脊負つて来て貰はう。──中にすべて仕事に必要な道具がある。……私は最う、あの座敷へ入つて、脱いである衣服、解いてある紅い扱帯を見るに忍びん。……彼が魔物の手に懸つて、身悶へしながら、帯からはじめて解き去らるゝのを目の前に見るやうだから。』  親類の一人、インバネスを着た男が真前に立つて、皆ぞろ〳〵と帰つた。……其の影が潜つて出る、祠の前の、倒れかゝつた木の鳥居に張つた、何時の時のか、注連縄の残つたのが、二ツ三ツのたくつて、づらりと懸つた蛇に見えた…… 二十九  はて、面白い。あれが天井を伝ふ朽縄なら、其の下に、しよんぼりと立つた柱は、直ぐにお浦の姿に成る……取つて像を刻む材料に遣うと為やう。鋸で挽いて、女の立像だけ抜いて取る、と鳥居は、片仮名のヰの字に成つて、祠の前に、森の出口から、田甫、畷、山を覗いて立つであらう。  と凝と視める、と最う其の鳥居の柱の中へ、婦の姿が透いて映る……木目が水のやうに膚に絡ふて。 『旦那様、お荷物な持つて参りやした、まあ、暗え処に何を為てござらつしやる。』  成程、狐格子に釣つて置いた提灯は何時までも蝋燭が消たずには居らぬ。……気が着くと板椽に腰を落し、段に脚を投げてぐつたりして居た。  鞄を脊負つて来たのは木樵の権七で、此の男は、お浦を見失つた当時、うか〳〵城趾へ徉徜つたのを宿へ連られてから、一寸々々出て来ては記憶の裡へ影を露はす。此と、城ヶ沼の黒坊主の蒼ざめた面影を除いては、誰の顔も判然覚えて居なかつた。 『燈明を点けさつしやりませ。洋燈では旦那様の身躰危いと言ふで、種油提げて、燈心土器を用意して参りやしたよ。追附け、寝道具も運ぶでがすで。気を静めて休まつしやりませ。……私等も又、油断なく奥様の行衛な捜しますだで、えら、心を狂はさつしやりますな。』 と言ふ〳〵燈心を点して、板敷の上へ薄縁を伸べたり、毛布を敷く…… 『私が頼まれましたけに、ちよく〳〵見廻りに参りますだ。用があるなら、言着けてくらつせえましよ。』 と背後むきに踵で探つて、草履を穿いて、壇を下りて、てく〳〵出て行く。 『待て、待て。』と追つて出て、鳥居をする〳〵と撫でゝ見せた。 『村一同へ言づけを頼まう。此の柱を一本頂く……此の鳥居のな。……後で幾らでも建立するから、と然う言つてな。』 『はい、……えゝ、東京からござつた旦那方も其のつもりで相談打たしつた。奥様の居さつしやる処の知れるまでは、何でもお前様する事に逆らはねえやうにと言ふだで、随分好き次第にさつしやるが可うがんす。だが、もの、鳥居の木柱な何うするだね。』 『此を刻んで像を造る、婦のな、それは美しい、先づ弁天様と言つたもんだ、お前にも見せて遣らう、吃驚するなよ。』 と其の呆れ顔を掌でべたりと撫でる。と此処へ一人で遣つて来るほど性根の据つた奴、突然早腰も抜かさなんだが、目を蔽ふて、面を背けて、 『いとしぼげな、御道理でござります。』 とのそ〳〵帰る……矢張りお浦を攫はれた為に、気が違つたと思ふらしい。いや、是だから人間の来るのは煩い! 「……しかし、其の後とも三度の食事、火なり、水なり、祠へ来て用を達してくれたのは其の男で。時とすると、二時三時も傍に居て熟と私の仕事を見て居る。口も出さず邪魔には成らん。  で、下仕事の手伝ぐらゐは間に合つたんです。」 と雪枝は更めて言つた。 「処で、一刻も疾く仕上げにしやうと思ふから、飯も手掴みで、水で嚥下す勢、目を据えて働くので、日も時間も、殆んど昼夜の見境はない。……女の像の第一作が、まだ手足までは出来なかつたが、略顔の容が備はつて、胸から鳩尾へかけて膨りと成つた、木材に乳が双んで、目鼻口元の刻まれた、フトした時…… 『どうだ、大分ものに成つたらう、』と聊か得意で。丁ど居合はせた権七の顔を目を挙げて恁う見ると……日に焼けた色の黒いのが又恐ろしく真黒で、額が出て、唇が長く反つて、目ががつくりと窪んだ、其の目がピカ〳〵と光つて、ふツふツ、はツはツ、と喘ぐやうな息をする。…… 供揃へ 三十  いや、其の息の臭い事……剰へ、立つでもなく坐るでもなく、中腰に蹲んだ山男の膝が折れかゝつた朽木同然、節くれ立つてギクリと曲り、腕組をした肱ばかりが胸に附着き、布子の袖の元へ窄つて両方へ刎ねた処が、宛然の翼。 『権七ぢやない! 小天狗が、天守から見張りに来たな。』  思はず突立つと、出来かゝつた像を覗いて、角を扁平くしたやうな小鼻を、ひいくひいく、……ふツふツはツはツと息を吹いて居たのが、尖つた口を仰様に一つぶるツと振ふと、面を倒にしたと思へ。  彫像の眼球をグサリと刺した。  はつと思へば、烏ほどの真黒な鳥が一羽虫蝕だらけの格天井を颯と掠めて狐格子をばさりと飛出す……  目一つ抉られては半身をけづり去られたも同じ事、是がために、第一の作は不用に帰した。  ……余りの仕儀に唯茫然として、果は涙を流したが、いや〳〵、爰に形づくられた未製品は、其の容半ばにして、早くも何処にか破綻を生じて、我が作を欲するものゝ、不満足を来たしたのであらう──いかさまにも一つ残つた瞳を見れば、お浦の其より情を宿さぬ、露も帯びぬ、……手足既に完うして斧を以て砕かれても、対手が鬼神では文句はない筈。力を傾け尽さぬうち、予め其の欠点を指示して一思ひに未練を棄てさせたは、寧ろ尠からぬ慈悲である……  で、直ちに木材を伐更めて、第二の像を刻みはじめた。が、又此の作に対する迫害は一通りではないのであつた。猫が来て踏んで行抜ける、鼠が噛る。とろ〳〵と睡つて覚めれば、犬が来てぺろ〳〵と嘗めて居る……胴中を蛇が巻く、今穴を出たらしい家守が来て鼻の上を縦にのたくる……やがては作者の身躰を襲ふて、手をゆすぶる、襟頸を取つて引倒す、何者か知れずキチ〳〵と啼いて脇の下をこそぐり掛ける。  無残や、其の中にも命を懸けて、漸と五躰を調へたのが、指が折れる、乳首が欠ける、耳が挘げる、──これは我が手に打砕いた、其の斧を揮つた時、さく〳〵さゝらに成り行く像は、骨を裂く音がして、物凄く飛騨山の谺に響いた。  其の夜更けから、しばらく正躰を失つたが、時も知らず我に返ると、忽ち第三番目を作りはじめた、……時に祠の前の鳥居は倒れて、朽ちたる縄は、ほろ〳〵と断れて跡もなく成る。……  と今度のは完成した。而して本堂の正面に、支も置かず、内端に組んだ、肉づきのしまつた、膝脛の釣合よく、すつくりと立つた時、木の膚は小刀の冴に、恰も霜の如く白く見えた。……が扉を開いて、伝説なき縁起なき由緒なき、一躰風流なる女神のまざ〳〵として露はれたか、と疑はれて、傍の棚に残つた古幣の斜めに立つたのに対して、敢て憚るべき色は無かつた。  折から来合はせた権七に見せると、色を変へ、口を尖らせ、目を光らせて視めたが、其の面は烏にも成らず、……脚は朽木にも成らず、袖は羽にも成らぬ。  其処で、自分で引背負ふなり、抱くなりして、其の彫像を城趾の天守に運ぶ。……途中の塵を避けるため蔽がはりに、お浦の着換を、と思つて、権七を温泉宿まで取りに遣つた。  あとで、此の祠に籠つてから、幾日の間か鳥居より外へは出ない、身躰を伸々として大手を振つて畝路から畷へ出た──然まで遠くもない城ヶ沼の方へ、何となく足が向いて、ぶらり〳〵と歩行いたが、我が住居を出て其処等散歩をする、……祠の家にはお浦が居て留主をして、我がために燈火のもとで針仕事でも為て居るやうな、つひした楽しい心地がする。……細い杖を持たないのが物足りないくらゐなもので。  風もふわ〳〵と樹の枝を擽つて、はら〳〵笑はせて花にしやうとするらしい、壺の中のやうではあるが、山国の夜は朧。 三十一  譬へば城ヶ沼を裏返して、空へ漲らした夜の色──寝をびれて戸惑ひをしたやうな肥つた月が、田の水にも映らず、山の姿も照らさず……然うかと言つて並木の松に隠れもせず、谷の底にも落ちないで、ふわりと便のない処に、土器色して、畷も畝も茫と明いのに、粘つた、生暖い小糠雨が、月の上からともなく、下からともなく、しつとりと来て、むら〳〵と途中で消える……と髪も衣も濡れもしないで、湿ぽい。が、手で撫でゝ見ても雫は分らぬ。──雨が降るのではない、月が欠伸する息がかゝるのであらう……そんな晩には獺が化けると言ふが、山国に其は相応はぬ。イワナが化けて坊主になつて、殺生禁断の説教に念仏唱へて辿りさうな。……  処を、歩行く途中、人一人にも逢はなんだ、が逢へば婦でも山猫でも、皆坊主の姿に見えやうと思つた。  こん〳〵と狐が啼いた。……犬の声ではない。唯ある松の樹の蔭で、つひ通りかゝつた足許で。  こん〳〵こん〳〵と啼くのに、フト耳を傾けて、虫を聞くが如く立停ると、何かものを言ふやうで、 『コンクワイ、クワイ、来ぬかい、来ぬかい。』と恁う啼く。 『来ぬかい、来ぬかい、来ぬかい、案山子、来ぬかい案山子、』と又聞える。  聞く中に、畝の蔭から、ひよいと出て立つた、藁束に竹の脚で、痩さらばへたものがある。……凩に吹かれぬ前に、雪国の雪が不意に来て、其のまゝ焚附にも成らずに残つた、冬の中は、真白な寐床へ潜つて、立身でぬく〳〵と過ごしたあとを、草枕で寐込んで居た、これは飛騨山の案山子である。  此の親仁、破れ簑の毛を垂らして、しよぼりとした躰で、ひよこひよこと動いて来て、よたりと松の幹へ凭かゝつて、と其処へ立つて留まる。 『来んかい、案山子、来んかい、案山子………』と例の声が尚ほ続けて呼ぶ。  些と離れた畝を伝つて、向ふから又一つ、ひよい〳〵と来て、ばさりと頭を寄せて同じく留まる。と素直な畷筋を、別に一個よたよた〳〵〳〵と、其でも小刻の一本脚、竹を早めて急いで近寄る。  此の後のなんぞは、何処で工面をしたか、竹の小笠を横ちよに被つて、仔細らしく、其の笠を歩行に連れてぱく〳〵と上下に揺つたもので。  三個が、……其から土瓶を釣つて番茶でも煮さうな形に集まると、何かゞ又啼き出す。 『コー〳〵〳〵、急がう急がう。』  ばさ〳〵、と左右へ分れて、前後に入乱れたが、やがて畷へ三個で並ぶ。  其時樹の上から、何やら鳥の声がして、 『何処え行、何処え行!』  で、がさりと枝を踏んだ音がした。何うやらものゝ、嘴を長く畷を瞰下ろす気勢がした。 『ほこらだ。』 『ほこら、』 『ほこらへ行くだ。』 とひよつこり、ひよこり、ひよつこりと歩行き出す……案山子どもの出向くのが、祠の方へ、雪枝の来た路の方角に当る。向ふを指して城ヶ沼へ身投げに行くのでは無いらしい。  待て、よくは分らぬ、其処等と言ふか、祠と言ふか、声を伝へる生暖い夜風もサテぼやけたが、……帰り路なれば引返して、うか〳〵と漫歩行きの踵を返す。 『く、く、く、』 『ふ、ふ、』 『は、は、は、』と形も定めず、むや〳〵の海鼠のやうな影法師が、案山子の脚もとを四ツ五ツむら〳〵と纒ふて進む。 「それは狐か犬らしい、其とも何か鳥が居て、上をふわ〳〵と飛んだのかも分りません。」 と雪枝は老爺に言ふのであつた…… 三十二 「忘れもしない、温泉へ行きがけには、夫婦が腕車で通つた並木を、魔物が何うです、……勝手次第な其の躰でせう。」  来る時は気がつかなかつたが、時に帰がけに案山子の歩行く後から見ると、途中に一里塚のやうな小蔭があつて、松は其処に、梢が低く枝が垂れた。塚の上に趺坐して打傾いて頬杖をした、如意輪の石像があつた。と彼のたよりのない土器色の月は、ぶらりと下つて、仏の頬を片々照らして、木蓮の花を手向けたやうな影が射した。  其の前を、一列びに、ふら〳〵と通懸つて、 『御許され』と案山子の一つが言へば、 『御許され。』 と又一つが同じ言を繰返す。 『御許され、御許され。』と声が交つて、喧々と嘵舌つた、と思はれよ。 『大儀ぢや』 と正しく如意輪が仰せあつた…… 『はツ、』と云ふと一個、丁ど石高道の石磈へ其の一本竹を踏掛けた真中のが、カタリと脚に音を立てると、乗上つたやうに、ひよい、と背が高く成つて、直に、ひよこりと又同じ丈に歩行き出す。  人間が前へ出た時、如意輪の御姿は、スツと松蔭へ稍遠く、暗く小さく拝まれた。  雨がやゝ頻つて来た。  案山子の簑は、三つともぴしよ〳〵と音するばかり、──中にも憎かつたは後から行く奴、笠を着たを得意の容躰、もの〳〵しや左右を眴しながら前途へ蹌踉く。  果して祠を指したらしい。  横へ切れて田畝道を、向ふへ、一方が山の裙、片傍を一叢の森で仕切つた真中が、茫と展けて、草の生が朧月に、雲の簇がるやうな奥に、祠の狐格子を洩れる灯が、細雨に浸むだのを見ると──猶予はず其方へ向いて、一度斜に成つて折曲つて列り行く。  其時気に懸つたのは、祠の前を階から廻廊の下へ懸けて、たゞ三ツ五ツではない、七八ツ、それ〳〵十ウにも余る物の形が、孰も土器色の法衣に、黒い色の袈裟かけた、恰も空摸様のやうなのが、高い坊主と低い坊主と大な坊主と小さな坊主と、胡乱々々動いて、むら〳〵居る…… 『やあ、お浦を嬲る、』 と前へ行く案山子どもを、横に掠めて、一息に駆け着けて、いきなり階に飛附いて、唯見ると、扨も、寄つたわ、来たわ。僧形に見えた有りたけの人数は、其も是も同じやうな案山子の数々。──割つて通つた人間の袖の煽りに、よた〳〵と皆左右に散つた、中には廻廊に倒れかゝつて、もぞ〳〵と動くのもある。  正面に伸上つて見れば、向ふから、ひよこ〳〵来る三個の案山子も、同じやうな坊主に見えた。  扉を入ると、無事であつた。お浦を其のまゝの彫像は、灯の影にちら〳〵と瞳も動いて、人待顔に立草臥れて、横に寝たさうにも見えたのである。  下に敷いた白毛布の上には、所狭く鑿も鉋も散かり放題。初手は此の毛布に包んで、夜路を城趾へ、と思つたが、──時鳥は啼かぬけれども、然うするのは、身を放れたお浦の魂を容れたやうで、嘗て城ヶ沼の縁で旅僧の口から魔界の暗示を伝へられたゝめに──太く忌はしかつたので、……権七に取寄せさした着換の衣は、恰も祠の屋根に藤の花が咲きかゝつたのを、月が破廂から影を落したやうに届いて居た。然も燃え立つばかりの緋の扱帯は、今しも其の腰のあたりをする〳〵と辷つた如く、足許に差置かるゝ。  縋着けば、ころ〳〵と其の掌に秘めた采が鳴つた。 『ござるか。』 『…………』 『ござるか、ござるか。』 と蚯蚓の這ふやうな声が階の処で聞える。 『誰だ。』 と、うつかり、づゝと出ると、つひ忘れた……づらりと其処に案山子ども。 バサリ 三十三  其の中の孰れが言ふ? 中気病のやうな老けた、舌つ不足で、 『おねんぎよ。』と言ふ。 『おねんご。』 と又訴うる。……  糠雨の朧夜に、小き山廓の祠の前。破れ簑のしよぼ〳〵した渠等の風躰、……其の言ふ処が、お年貢、お年貢、と聞えて、未進の科条で水牢で死んだ亡者か、百姓一揆の怨霊か、と思ひ附く。其の莚旗を挙げたのが此の祠であらうも知れぬ。──が、何を求むる? 其の意を得ない。熟と瞻れば、右から左から階の前へ、ぞろ〳〵と寄つた……簑の摺合ふ音して、 『うけとろ、』 『受け取らう。』 『おねんご受取ろ。』と言ふのが、何処から出る声か、一本竹で立つた地の中から、ぶる〳〵湧出す。 『おゝ、』 と思はず合点した。 『人形か、此の彫像を受け取らうと言ふのか?』  中にも笠ある案山子の頷くのが、ぱく〳〵動く。其は途中からの馴染らしい。 『おゝさう、おぶおう、おぶさう。』と野良な音。恰も、おゝ、然う負はう、負され、と云ふが如し。 『可、可、』  で、衣服を被け、彫像を抱いたなり、狐格子を更めて開いて立出たつる、 『おい、案山子ども、』 と真面目に遣つた。今思へば、……言ふまでも無く何うかして居る。 『御苦労、御厚意は受取つたが、己の刻んだ此の婦は活きとるぞ。貴様たちに持運ばれては血の道を起さう、自分でおんぶだ。』 と高笑ひをして、其処で肩の上に揺上げた。抱いても腕に乗つたのに……と肩越に見上げた時、天井の蔭に髪も黒く上から覗込むやうに見えたので、歴然と、自分が彫刻師に成つた幼い時の運命が、形に出て顕はれた……雨も此の朧夜を、細く微な雪のやうに白く野山に降懸つた。 『出懸けるぞ、案内するか、続いて来るか。』  案山子どもは藁の乱れた煙の如く、前後にふら〳〵附添ふ。……而して祠の樹立を出離れる時分から、希有な一行の間に、二ツ三ツ灯が点いたが、光が有りとも見えず、ものを映さぬでも無い。たとへば月の其の本尊が霞んで了つて、田毎に宿る影ばかり、縦に雨の中へふつと映る、宵に見た土器色の月が幾つにも成つて出たらしい。  其が案山子どもの行く方へ、進めば進み、移れば移り、路を曲る時なぞは、スイと前へ飛んで、一寸停まつて、土器色を赫として待つ。ともすれば曇ることもあつた。此の灯はひく〳〵呼吸を吐く、と見えた。  低い藁屋が二三軒、煙出しの口も開かず、目もなしに、暗から潜出した獣のやうに蹲つて、寂と寝て居る前を通つた時。 『ばツさ、ばツさ。』  簑を鳴らしたのではない。案山子の一つが、最う耳に馴れて遠慮のない口を開けた。 『ばつさよ、ばつさよ。』 『コーコー、来ーい、来い。』 と最一つ嘵舌つた。  ばさりと言ふのが、ばさりと聞こえて、ばさりと鳴つて、其の藁屋の廂から、畷へばさりと落ちたものがある、続いて又一つばさりとお出やる。  鳥か獣か、こゝにバサリと名づくるものが住んで、案山子に呼出されたのであらう、と思つたが、やがて其が二つが並んで、真直にひよいと立つ、と左右へ倒れざまに、又ばさりと言つた。が、名ではない。ばさりと称へたは其の音で、正体は二本の番傘、ト蛇の目に開いたは可が、古御所の簾めいて、ばら〳〵に裂けて居る。 三十四  唯見ると、両方から柄を合はせて、しつくり組むだ。其の破れ傘が輪に成つて、畷をぐる〳〵と廻つて丁と留まる。  案山子が三ツ四ツ、ふら〳〵と取巻いて、 『乗つされ。』 『お人形、乗つせえ。』と言ふ。 『はゝあ、載せろ、と言ふのか、面白い。』  案ずるに、此の車を以つて、我が作品を礼するのであらう。其の厚志、敢て、輿と駕籠と破れ傘とを択ばぬ。其処で彫像の脇を抱いて、傘の柄に腰を据えると、不思議や、裾も開かず、肩も反らず……膠で着けたやうに整然と乗つた、同時にくる〳〵と傘が廻つて、さつさと行く……  やがて温泉の宿を前途に望んで、傍に谿河の、恰も銀河の砕けて山を貫くが如きを見た時、傘の輪は流に逆ひ、疾く水車の如くに廻転して、水は宛然其の破れ目を走り抜けて、斜めに黄色な雪が散つた。や、何うも案山子の飛ぶこと、ひよろつく事!  此を見よ、人々。──  で、月が三ツ四ツ出て路を照らすのも、案山子が飛ぶのも、傘の車も、其の車に、と反身で、斜に構へて乗つた像の活けるが如きも、一切自分の神通力の如くに感じて、寝静まつた宿屋の方へ拳を突出して呵々と笑つた。 『此を見よ、人々。』  其時車を真中に、案山子の列は橋にかゝつた。……瀬の音を横切つて、竹の脚を、蹌踉めく癖に、小賢しくも案山子の同勢橋板を、どゞろ〳〵とゞろと鳴らす。 『寝て居るに騒がしい。』 と欄干が声を懸けた。 『あゝ、気の毒だ。』 とうつかり人間の雪枝が答へた。おや、と心着くと最うざんざと川水。  まだ可怪かつたのは、一行が、其から過般の、あの、城山へ上る取着の石段に懸つた時で。是から推上らうと云ふのに一呼吸つくらしく、フト停まると、中でも不精らしい簑の裾の長いのが、雲のやうに渦いた段の下の、大木の槐の幹に恁懸つて、ごそりと身動きをしたと思へ。 『わい、擽てえ。』と樹が喚いた。  傘はぐる〳〵と段にかゝる、と苦もなく攀上るに不思議はない。濃かな夜の色が段を包んで、雲に乗せたやうにすら〳〵と辷らし上げる。気の疾い、身軽なのが、案山子の中にもあるにこそ。二ツ三ツ追続いて、すいと飛んで、車の上を宙から上つたのが、アノ土器色の月の形の灯をふわりと乗越す。  段の上で、一体の石地蔵に逢つた。 『坊ちやま、坊ちやま。』と一ツが言ふ。 『さても迷惑、』 と仰有つたが、御手の錫杖をづいと上げて、トンと下ろしざまに歩行び出らるゝ……成程、御襟の唾掛めいた切が、ひらり〳〵と揺れつゝ来らるゝ。 「此の野原に来た時です。」 と雪枝は老爺に向いて、振返つて左右を視めた。  陽炎が膝に這つて、太陽はほか〳〵と射して居る。空は晴れたが、草の葉の濡色は、次第に霞に吸取られやうとする風情である。 「其の地蔵尊が、前の方から錫杖を支いたなりで、後に続いた私と擦違つて、黙つて坂の方へ戻つて行かるゝ……と案山子もぞろ〳〵と引返すんです。  番傘は、と見ると、此もくる〳〵と廻つて返る。が、まるで空に成つて、上に載せた彫像がありますまい。  ……つひ向ふを、何うです、……大牛が一頭、此方へ尾を向けてのそりと行く。其の図体は山を圧して此の野原にも幅つたいほど、朧の中に影が偉い。其の背中にお浦の像が、紅の扱帯を長く、仰向けに成つて柔かに懸つて居る。」 三十五 「破れ傘の車では、別に侮られ辱められるとも思はなかつたが、今牛の背に懸けられたのを見ると、酷らしくて我慢が出来ない! 木を刻んだものではあるが、節から両岐に裂かれさうに思はれて、生身のお浦だか、像の女だか、分別も着かないくらゐ。 『あツ、』と叫んで、背後から飛蒐つたが、最う一足の処で手が届きさうに成つても、何うしても尾に及ばぬ……牛は急ぐともなく、動かない朧夜が自然から時の移るやうに悠々とのさばり行く。  しばらくして、此の大手筋を、去年一昨年のまゝらしい、枯蘆の中を縫つた時は、俗に水底を踏んで通ると言ふ、どつしりしたものに見えた。背の彫像の仰向けの胸に采を握つた拳が、苦んで空を掴むやうに見えて堪へられない。  後を喘ぎ〳〵、はあ〳〵と呼吸して続く。 「其の牛が、老爺さん、」 と雪枝は聞くものを呼懸けた。  天守の礎の土を後脚で踏んで、前脚を上へ挙げて、高く棟を抱くやうに懸けたと思ふと、一階目の廻廊めいた板敷へ、ぬい、と上つて其の外周囲をぐるりと歩行いた。……音に鎗ヶ嶽と中空に相聳えて、月を懸け太陽を迎ふると聞く……此の建物はさすがに偉大い。──朧の中に然ばかり蔓つた牛の姿も、床走る鼠のやうに見えた。  ぐるりと一廻りして、一ヶ所、巌を抉つたやうな扉へ真黒に成つて入つたと思ふと、一つよぢれた向ふ状なる階子の中ほどを、灰色の背を畝つて上る、牛は斑で。  此の一階目の床は、今過つた野に、扉を建てまはしたと見るばかり広かつた。短い草も処々、矢間に一ツ黄色い月で、朧の夜も同じやう。  と黒雲を被いだ如く、牛の尾が上口を漏れたのを仰いで、上の段、上の段と、両手を先へ掛けながら、慌しく駆上つた。……月は暗かつた、矢間の外は森の下闇で苔の香が満ちて居た。……牛の身躰は、早や又段の上へ半ばを乗越す。  ぐる〳〵と急いで廻つて取着いて追つて上る。と此の矢間の月は赤かつた。魔界の色であらうと思ふ。が、猶予ふ隙もなく直ちに三階目を攀ぢ上る……  最う仰いでも覗いても、大牛の形は目に留まらなく成つたゝめに、あとは夢中で、打附れば退り、床あれば踏み、階子あれば上る、其の何階目であつたか分らぬ。雲か、靄か、綿で包んだやうに凡そ三抱ばかりあらうと思ふ丸柱が、白く真中にぬつく、と立つ、……と一目見れば、其の柱の根に一人悄然と立つた婦の姿…… 『お浦……』と膝を支いて、摺寄つて緊乎と抱いて、言ふだけの事を呼吸も絶々に我を忘れて嘵舌つた。声が籠つて空へ響くか、天井の上──五階のあたりで、多人数のわや〳〵もの言ふ声を聞きながら、積日の辛労と安心した気抜けの所為で、其まゝ前後不覚と成つた。…… 『や』  心着く、と雲を踏んでるやうな危かしさ。夫婦が活きて再び天日を仰ぐのは、唯無事に下まで幾階の段を降りる、其ばかり、と思ふと、昨夜にも似ず、爪先が震ふ、腰が、がくつく、血が凍つて肉が硬ばる。 『気を着けて、気を着けて、危い。』と両方の脚の指、白いのと、男のと、十本づゝを、ちら〳〵と一心不乱に瞻めながら、恰も断崖を下りるやう、天守の下は地が矢の如く流るゝか、と見えた。……  雪枝は語り続ぐ声も弱つて、 「漸との思ひで此処まで来て……先づ一呼吸と気が着くと、あの躰だ。老爺さん、形代の犠牲に代へて、辛くもです、我が手に救ひ出したとばかり喜んだのは、お浦ぢやない、家内ぢやない。昨夜持つて行つた彫像を其のまゝ突返されて、のめ〳〵と担いで帰つたんです。然も片腕捩つてある、あの采を持たせた手が。……あゝ、私は五躰が痺れる。」と胸を掴んで悶へ倒れる。 天守の下 三十六  聞き果てつ。……  飛騨国の作人菊松は、其処に仰ぎ倒れて今も悪い夢に魘されて居るやうな──青年の日向の顔、額に膏汗の湧く悩ましげな状を、然も気の毒げに瞻つた。 「聞けば聞くほど、へい、何とも言ひやうはねえ。けんども、お前様、お少えに、其の位の事に、然う気い落さつしやるもんでねえ。たかゞあれだ、昨夜持つて行かしつた其の形代の像が、お天守の…何様か腑に落ちねえ処があるで、約束の通り奥様を返さねえもんでがんしよ。だで、最う一ツ拵えさつせえ。美い婦の木像さ又遣直すだね。えゝ、お前様、対手が七六ヶしいだけに張合がある……案山子ぢや成んねえ。素袍でも着た徒が玉の輿持つて、へい、お迎、と下座するのを作らつせえ。えゝ! と元気を出さつしやりまし。」 「其処です、老爺さん、」 と雪枝は草を掴んで起直つて、 「現在、其の苦しみを為て居るお浦を救はんために製作へたんです。有つたけの元気も出した、力も尽した。最う為やうがない。しかし此処で貴老に逢つたのは天の引合はせだらうと思ふ。  いや、其よりも此の土地へ来て、夢とも現とも分らない種々の事のあるのは、別ではない、婦のために、仕事を忘れた眠を覚して、謹んで貴老に教を受けさせやうとする、芸の神の計らひであらうも知れない。私は跪く、其の草鞋を頂く……何うぞ、弟子にして下さい、教へて下さい、而してお浦を救つて下さい。」 「いや、前刻船の中で焚けるのを向ふから見た時な、活きた人だと吃驚しつけの。お前様一廉の利ものだ。別に私等に相談打たつしやるに及ぶめえが、奥様のお身の上ぢや、出来る手伝なら為ずには居られぬで、年の功だけも取処があるなら、今度造らつしやるに助言な為べいさ。まあ、待つせえよ、私が今、」と狸のやうな麻袋をふらりと、腰を伸して、のつそりと立つた。  旭さす野を一人、老爺は腰骨に手を組んで、ものを捜す風して歩行いたが、少時して引返した。拾つて来たのは雄鹿の角の折、山深ければ千歳の松の根に生ふると聞く、伏苓と云ふものめいたが、何、別に……尋常の樹の枝、女の腕ぐらゐの細さで、一尺有余也。  ト件の麻袋の口を開けて、握飯でも出しさうなのが、一挺小刀を抽取つて、無雑作に、さくりと当てる、ヤ又能く切れる、枝はすかりと二ツに成つた。 「鯉とも思ふが、木が小い。鰌では可笑かんべい。鮒を一ツ製へて見せつせえ。雑と形で可え。鱗は縦横に筋を引くだ、……私も同じに遣らかすで、較べて見るだね。ひよつとかして、私の方さ出来が佳くば、相談対手に成れるだでの、可か、さあ、ござらつせえ。」 と小刀を添へて突着けた。雪枝は胡座を組直した。 「一イ二ウ三イ、はじめるぞ、はゝゝはゝ駆競のやうだの。何も前後に構ひごとはねえだよ。お前様串戯ごとではあんめえが、何でも仕事するには元気に限るだで、景気をつけるだ。──可かの、一イ二ウ三イで、遣りかけるだ。一イ二ウ三イ! はツはツはツ。」  笑ひかけて、済まして遣り出す。老爺の手にも小刀が動く、と双んで二挺、日の光に晃々と閃きはじめた……掌の木の枝は、其の小刀の輝くまゝに、恰も鰭を振ふと見ゆる、香川雪枝も、さすがに名を得た青年であつた。  と此の老爺と雪枝とが、旭に向つて濠端に小刀を使ふ。前面の大手の彼方に、城址の天守が、雲の晴れた蒼空に群山を抽いて、すつくと立つ……飛騨山の鞘を払つた鎗ヶ嶽の絶頂と、十里の遠近に相対して、二人の頭上に他の連峯を率ゐて聳ゆる事を忘れてはならぬ。  件の天守の棟に近い、五階目あたりの端近な処へ出て、霞を吸ひつゝ大欠伸を為た坊主がある。 双六盤 三十七  雪枝は合掌して跪いた。  渠の前には、一座滑かな盤石の、其の色、濃き緑に碧を交へて、恰も千尋の淵の底に沈んだ平かな巌を、太陽の色も白いまで、霞の満ちた、一塵の濁りもない蒼空に、合せ鏡して見るやうな……大さは然れば、畳三畳ばかりと見ゆる、……音に聞く、飛騨国吉城郡神宝の山奥にありと言ふ、双六谷の名に負へる双六巌は是ならむ。巌の面に浮模様、末を揃へて、上下に香の図を合はせたやうな柳条があり、虹を削つて画いた上を、ほんのりと霞が彩る。  背後を囲つた、若草の薄紫の山懐に、黄金の網を颯と投げた、日の光は赫耀として輝くが、人の目を射るほどではなく、太陽は時に、幽に遠き連山の雪を被いだ白蓮の蕋の如くに見えた。……次第に近く此処に迫る山と山、峯と峯との中を繋いで蒼空を縫ふ白い糸の、遠きは雲、やがて霞、目前なるは陽炎である。  陽炎は、爾く、村里町家に見る、怪しき蜘蛛の囲の乱れた、幻影のやうなものでは無く、恰も練絹を解いたやうで、蝶のふわ〳〵と吐く呼吸が、其羽なりに飜々と拡がる風情で、然も皆美しい女の姿を象る。其の或ものは裳黄に、或ものは袖紫に……  紫なるは菫の影で、黄なるは鼓草の花の映り添ふ色であつた。  巌のあたりは、此の二種の花、咲き埋むばかり満ちて居る……其等色ある陽炎の、いづれ手にも留まらぬ女の風情した中に、唯一人濃かに雪を束ねたやうな美女があつて、巌の彼方に恰も卓に向つて立つ状して彳んだ。  雪枝は其の美女を前に盤石を隔てゝ蹲つたのである……  双六巌の、其の虹の如き格目は、美女の帯のあたりをスーツと引いて、其処へも紫が射し、黄が映る……雲は、霞は、陽炎は、遠近に尽く此の美女を形づくるために、濃くも薄くも懸るらし。其の形の厳なるは、白銀の鎧して彼を守護する勇士の如く、其の姿の優しいのは、姫に斉眉く侍女かと見える。  美女の背後に当る……其の山懐に、唯一本、古歌の風情の桜花、浅黄にも黒染にも白妙にも咲かないで、一重に颯と薄紅。  色が美女の瞼にさし、影が美女の衣を通す……  雪枝が路を分け、巌を伝ひ、流を渉り、梢を攀ぢ、桂を這つて、此処に辿り着いた山蔭に、はじめて見たのは此の桜で。……  一行は、渠と、老爺と、別に一人、背の高い、色の蒼い坊主であつた。  是より前、雪枝は城趾の濠端で、老爺と並んで、殆ど小学生の態度を以て、熱心に魚の形を刻みながら、同時に製作しはじめた老爺の手振を見るべく……密と傍見して、フト其の目を外らした時、天守の矢間を湧いて出るやうな黒坊主の姿を見たが、烏か、梟か、と思つた。  が、大牛が居る、妻の囚はれた魔の城である……よし其が天狗でも、気を散らす処でない。爰に一刀を下ろすは、彼を救ふ一歩である、と爽かに木削を散らして一思ひに刻果てた。 『どう、見せさつせえ。』  疾く我が小刀を袋に納めて、頤杖して待つて居た老爺は、雪枝の作品を掌に据えて煙管を啣えた。 『おゝ、出来た。ぴち〳〵と刎ねる……いや、恁うあらうと思ふた……見事なものぢや、乾して置くと押死ぬべい、それ、勝手に泳げ!』とひよいと、放ると、濠の水へばちやりと落ちた。が、腹を出して浮脂の上にぶくりと浮く。 三十八 『そりや少い魚の元気を見習へ。汝も、ばちや〳〵と泳げい。』  で、老爺は今度は自分の刻んだ魚を、これは又、不状に引握つたまゝ斉しく投げる、と潵が立つたが、浮草を颯と分けて、鰭を縦に薄黒く、水際に沈んでスツと留る。ト雪枝の作品と並べた処は、恰も釣糸に繋けた浮木が魚を追ふ風情であつた。……  何をか試むる、と怪んで、身を起し汀に立つて、枯蘆の茎越に、濠の面を瞻めた雪枝は、浮脂の上に、明かに自他の優劣の刻み着けられたのを悟得て、思はず…… 『はつ、』と歎息した。  老爺は、もつぺの膝の小刀屑を払きながら、眉をふさ〳〵と揺つて笑ひ、 『はつはつはつ一イ二ウ三い! 私等が勝ぢや。見さつせえ、形は同じやうな出来だが、の、お前様の鮒は水に入れると腹を出いたで、死ちた魚よ、……私等が鮒は、泳ぎ得いでも、鰭を立てたれば活きた奴。何とした処で、俎に乗せれば、人間の口に食へいでも、翡翠が来て狙ふたら、ちよつくら潜つて遁げべいさ。  囲炉裏の自在竹に引懸ける鯉にしても、水へ放せば活きねばならぬ。お前様の鮒のやうに、へたりと腹を出いては明かねえ。木を削る時の釣合一つで、水に入れた時浮き方が違ふでねえかの、縦に留まれば生がある、横に寝れば、死んだりよ。……煩ヶ敷い事ではねえだ。  が、お前様、此の手際では、昨夜造り上げて、お天守へ持つてござつた木像も、矢張同じ型ではねえだか。……寸法が同じでも脚の筋が釣つて居らぬか、其では跛足ぢや。右と左と腕の釣合も悪かつたんべい。頬ぺたの肉が、どつちか違へば、片がりべいと言ふ不具ぢや、それでは美しい女でねえだよ。  もし、へい、五体が満足な彫刻物であつたらば、真昼間、お前様と私とが、面突合はせた真中に置いては動出しもすめえけんども、月の黄色い小雨の夜中、──主が今話さしつた、案山子が歩行く中へ入れたら、ひとりで褄を取つて、しやなら、しやならと行るべい。何も、破れ傘の化け車に骨を折らせて運ばせずと済む事よ。平時なら兎も角ぢや、お剰に案山子どもが声を出いて、お迎ひ、と言ふ世界なら、第一お前様が其の像を担いで出る法はあるめえ。何ではい、歩行け、さあ、木像、と言ふ腹に成らしやらぬ。……  其では魔物が不承知ぢや。前方に些とも無理はねえ、気に入るも入らぬもの……出来不出来は最初から、お前様の魂にあるでねえか。  其処へ懸けては我等が鮒ぢや。案山子が簑を捌いて捕らうとするなら、ぴち〳〵刎ねる、見事に泳ぐぞ。老爺が広言を吐くではねえ。何の、橋の欄干が声を出す、槐が嚏をすべいなら、鱗を光らし、雲を捲いて踊を踊らう。  遣直さつしやい、新にはじめろ、最一つ作れさ。  何うやらお前様より増だんべいで、出来る事さ助言も為べい、為て可い処は手伝ふべい。  腰につけて道具も揃ふ。』 と箙の如く、麻袋を敲いて言つた。 『すかりと斬れるぞ。残らず貸すべい。兵粮も運ぶだでの! 宿へも祠へも帰らねえで、此処へ確乎胡座を掻けさ。下腹へうむと力を入れるだ。雨露を凌ぐなら、私等が小屋がけをして進ぜる。大目玉で、天守を睨んで、ト其処に囚られてござるげな、最惜い、魔界の業苦に、長い頭髪一筋づゝ、一刻に生血を垂らすだ、奥様の苦脳を忘れずに、飽くまで行れさ、倒れたら介抱すべい。』  雪枝は満面に紅を濯いで、天守に向つて峯より高く握拳を衝と上げた。 『少いものを唆かして要らぬ骨を折らせるな、娑婆ツ気な老爺めが、』 と二人の背後にぬいと立つた……  苔かと見ゆる薄毛の天窓に、笠も被らず、大木の朽ちたのが月夜に影の射すやうな、ぼけやた色の黒染扮装で、顔の蒼い大入道!  振向いた老爺の顔を瞰下ろして、 『覚えて居るか、暗の晩を、』と北叟笑みした頬が暗い。 人さし指 三十九 『おゝ、御坊?』 『何日かの晩の!』  雪枝と老爺は左右から斉しく呼ばわる。 『御身も其の時の少い人な。』と雪枝に向いて、片頬を又暗うして薄笑ひを為た。 『血気に逸つて、うか〳〵と老爺の口に乗らぬが可い。……其の気で城趾に根を生いて、天守と根較べを遣らうなら、御身は蘆の中の鉋屑、蛙の干物と成果てやうぞ……此老爺はなか〳〵術がある! 蝙蝠を刻んで飛ばせ、魚を彫つて泳がせる代には、此の年紀をして怪しからず、色気がある、……あるは可いが、汝が身で持余ました色恋を、ぬつぺりと鯰抜けして、人にかづけやうとするではないか。城ヶ沼の暗夜を思へ!  何か、自分に此の天守の主人から、手間賃の前借をして居つて、其の借を返す羽目を、投遣りに怠惰を遣り、格合な折から、少いものを煽り立つて、身代りに働かせやう気かも計られぬ。』 『これ、これ、御坊、御坊、』と言つて締つた口を尖らかす。  相対する坊主の口は、三日月形に上へ大きい、小鼻の条を深く莞つて、 『いや、暗の夜を忘れまい。沼の中へ当の無い経読ませて、斎非時にとて及ばぬが、渋茶一つ振舞はず、既での事に私は生涯坊主の水車に成らうとした。』 『む、まづ出家の役ぢや……断念めさつしやい。然う又一慨に説法されては、一言もねえ事よ。……けんども、やきもきと精出いて人の色恋で気を揉むのが、主たち道徳の役だんべい、押死んだ魂さ導くも勤なら、持余した色恋の捌を着けるも法ではねえだか、の、御坊。』 『然ればな……いや口の減らぬ老爺、身勝手を言ふが、一理ある。──処でな、あの晩四つ手網の番をしたが悪縁ぢや、御身が言ふ通り色恋の捌を頼まれた事と思へ。  別ではない、此の少い人の内儀の事でな、』  雪枝は屹と向直つた。  流盻に掛けつゝ尚ほ老爺に、 『……其の夜、夢幻のやうに言托を頼まれて、采を験に受取つたは、さて此方衆知つての通りだ。──頼まれた事は手廻しに用済みと成つたでな、翌朝直にも、此処を出発と思ふたが、何か気に成る……温泉宿、村里を托鉢して、何となく、ふら〳〵と日を送つた。其の様子を聞けば、私が言托を為た通り、何か、内儀の形代を一心に刻むと聞く、……其が成就したと言ふ昨夜ぢや。少い人が人形を運んで行く後になり前になり、天守へ入つて四階目へ上つた、処、柱の根に其の木像を抱緊めて、死んだやうに眠つて居る。  はてな、内儀を未だ返さぬか、一体どんな魔物が棲むぞ。──其処へ行くまでには何も目に着いたものは無かつたに因つて──尚ほ此の上か、と最一ツ五階へ上つて見た。様子は知れた。』 と頷いて言つた。 『何が、何者が居るんだ。』と雪枝は苛立つて犇と詰寄る。  遮る如く斜に構へて、 『いや、何か分らん、ものは見えん。が、五階へ上り切つて、堅い畳の上に立つた。冷い風が冷りと来ると、左の腕がびくりと動く、と引立てたやうに、ぐいと上つて、人指指がぶる〴〵と振ふとな、何かゞ口を利くと同じに、其の心が耳に通じた。……  天守の主人は、御身が内儀の美艶な色に懸想したのぢや。理も非もない、業の力で掴取つて、閨近く幽閉めた。従類眷属寄りたかつて、上げつ下ろしつ為て責め苛む、笞の呵責は魔界の清涼剤ぢや、静に差置けば人間は気病で死ぬとな……  言ふまでもない肉を屠つて其の血を啜るに仔細はないが、夫は香村雪枝とか。天晴れ一芸のある効に、其の術を以て妻を償へ! 魔神を慰め楽しますものゝ、美女に代へて然るべきなら立処に返し得さする。──  可いかな、此の心は早や御身が内儀に、私が頼まれて、御身に伝へた。』 四十 『活けて視めうと思ふ花を、苞のまゝ室に寝かせて置いて、待搆へた償ひの彼は何ぢや! 聾の、唖の、明盲人の、鮫膚で腰の立たぬ、針線のやうな縮毛、人膚の留木の薫の代りに、屋根板の臭の芬とする、いぢかり股の、腕脛の節くれ立つた木像女が何に成る! ……悪く拳に采を持たせて、不可思議めいた、神通めいた、何となく天地の、言ふに言はれぬ心を籠めたらしい所業が可笑しい。笑止千万な大白痴!』 『ヌ、』とばかりで、下唇をぴりゝと噛んで、思はず掴懸らうとすると、鷹揚に破法衣の袖を開いて、翼の目潰、黒く煽つて、 『と、な、……天守の主人が言はるゝのぢや……それが何もない天井から、此の指にぶる〳〵と響いて聞こえた。』  衝と、天守の棟を切つて、人指指を空に延ばすと、雪枝は蒼く成つて、ばつたり膝支く。  負けぬ気の老爺は、前屈みに腰を入れて、 『分つた、分つたよ、御坊。お前様が、仏でも鬼でも、魔物でも、唯の人間の坊様でも可え。言はつしやる事は腑に落ちた……疾い話が、此の人な持つて行つたは、腹を出いた鮒だで、美しい奥様とは取替へぬ。……鰭を立てた魚を持ち来い、返して遣ると、恁うだんべい。  さ、其処ぢやい! 其処どころぢやに因つて私が後見助言の為て、勝れた、優つた、新しい、……可かの、生命のある……肉附もふつくりと、脚腰もすんなりした、膚の佳い、月に立てば玉のやう、日に向へば雪のやうな、へい、魔王殿が一目見たら、松脂の涎を流いて、魂が夜這星に成つて飛ぶ……乳の白い、爪紅の赤い奴を製作へると言はぬかい!  少いものを唆かして、徒労力を折らせると何故で言ふのぢや。御坊、飛騨山の菊松が、烏帽子を冠つて、向顱巻を為て手伝つて、見事に仕上げさせたら何とする。』 『然れば、言ふ通りに仕上つて、其処で其の木像が動くかな、目を働かすかな、指す手は伸び、引く手は曲るか、足は何うじや、歩行くかな。』 と皆まで言はせず、老爺が其の眉、白銀の如き光を帯びて、太陽に向ふ目を輝かした。手拍子拍つやう、腰の麻袋をはた〳〵と敲いたが、鬼に向つて臀を掻く、大胆不敵の状が見えた。 『天守の魔物は何時から棲むよ。飛騨国の住人日本の刻彫師、尾ヶ瀬菊之丞孫の菊松、行年積つて七十一歳。極楽から剰銭を取る年で、城ヶ沼の女の影に憂身を窶すお庇には、動く、働く、彫刻物は活きて歩行く……独りですら〳〵と天守へ上つて、魔物の閨に推参する、が、張も意地も着いて居るぞ、其の時嫌はれぬ用心さつせえ、と御坊に言托を頼まうかい。』 『可い、可い。』  ニヤ〳〵と両の頬を暗くして、あの三日月形の大口を、食反らして結んだまゝ、口元をひく〳〵と舌の赤う飜るまで、蠢めかせた笑ひ方で、 『面白い! 旅のものぢやが、其も聞いた。此方が手遊びに拵える、五位鷺の船頭は、翼で舵取り、嘴で漕いで、水の中で火を吐くとな………』 『天守の上から御覧なされ、太夫ほんの前芸にござります、ヘツヘツヘツ』とチヨンと頭を下げて揉手を為て言ふ。 『おゝ、其の面魂頼母しい。満更の嘘とは思はん。成程此方が造つた像は、目も瞬かう、歩行かう、厭なものには拗ねもせう。……然れば御身は、少いものゝ尻圧して石に成るまでも働け、と励ますのぢや。で、唆かすとは思ふまい。徒労力をさせるとは知るまい。が、私は、無駄ぢや留めい、と勧める……其の理由を言うて聞かさう。  其処で、老爺、』 『おい、』 『御身が言ふ、其の像には血が通ふか、』 『血が通ふだ?』と聞返す。 『然ればよ、針の尖で突いても生命を絞る、其の、あの人間の美しい血が通ふかな。』 『…………』と老爺の眉がはじめて顰む。 四十一  黒坊主は嵩に懸つて、 『まだ聞きたい。御身が作の其の膚は滑かぢやらう。が、肉はあるか、手に触れて暖味があるか、木像の身は冷たうないか。』 『はてね、』と問を怪む中に、些とひるんだのが、頬に出づる。 『第一肝要なは口を利くかな、御身の作は声を出すか、ものを言ふかな。』 『馬鹿な事を、無理無躰ぢや。』 と呆果てた様子であつた。 『理も非もない。はじめから人の妻を掴み取つてものを云ふ、悪魔の所業ぢや、無理も無躰も法外の沙汰と思へ。  此所を聞けよ、二人の人。……御身達が、言ふ通り、今新しく遣直せば、幾干か勝れたものは出来やう、がな、其は唯前のに較べて些と優ると言ふばかりぢや。  其も可からう、何も持たぬ、空しい乏しいものに取つたら、御身達が作り更めると云ふ其の木像でも、無いよりは増しぢや、品に因つて、美しいとも、珍らしいとも思はうも知れぬ。  けれどもな、天守の主人は、最う手の内に、活きた、生命ある、ものを言ふ、血の通ふ、艶麗な女を握つて居るのぢや。可いか、其に代へやうと言ふからには、蛍と星、塵と山、露一滴と、大海の潮ほど、抜群に勝れた立優つたもので無いからには、何を又物好きに美女を木像と取り代へやう。  彫刻した鮒の泳ぐも可い。面白うないとは言はぬが、煎る、焼く、或は生のまゝ其の肉を噉はうと思ふものに、料理をすれば、炭に成る、灰に成る、木の切を何にせい、と言ふ了見だ。  悪魔は今其の肉を欲する、血を求むる……仏が鬼女を降伏してさへ、人肉のかはりにと、柘榴を与へたと言ふでは無いか。  既に目指す美女を囚へて、思ふがまゝに勝矜つた対手に向ふて、要らぬ償ひの詮議は留めろ。  何うぢや、それとも、御身達に、煙草の吸殻を太陽の炎に変へ、悪魔の煩脳を焼亡ぼいて美女を助ける工夫があるか、すりや格別ぢや。よもあるまい。有るか、無からう。……  それ、徒労力と言ふ事よ! 要もない仕事三昧打棄つて、少い人は妻を思切つて立帰れえ。老爺も要らぬ尻押せず、柔順に妻を捧げるやうに、少いものを説得せい。  勝手に木像を刻まば刻め、天晴れ出来したと思ふなら、自分に其を女房のかはりにして、断念めるが分別の為処だ。見事だ、美いと敵手を強ゆるは、其方の無理ぢや、分つたか。』 と衝と指を上げて雲を指した。 『天守の主人の言托は此の通り。更めて其の印を見せう、……前刻も申した、鮫膚の縮毛の、醜い汚い、木像を、仔細ありげに装ふた、心根のほどの苦々しさに、へし折つて捻切つた、女の片腕、今返すわ、受取れ。』 と法衣の破目を潜らす如く、懐から抜いて、ポーンと投出す。  途端に又指を立てつゝ、足を一巾、坊主が退つた。孰も首垂れた二人の中へ、草に甲をつけて、あはれや、其でも媚かしい、優しい腕が仰向けに落ちた。  雪枝は唯肩を抱いて身を絞つた。  老爺は、さすがに、まだ気丈で、対手が然までに、口汚く詈り嘲ける、新弟子の作の如何なるかを、はじめて目前験すらしく、横に取つて熟と見て、弱つたと言ふ顰み方で、少時ものも言はなんだ。薄うは成つたが、失せ果てない、底光のする目を細うして、 『いや、御出家。』 と調子を変へて…… 『虫の居所で赫とも為たがの、考えて見れば、お前様は、唯言托を頼まれたばかりの事よ。何も喰つて懸るには当らなんだか。……又お前様とても何もこれ、此の少い人に怨も恩も報もあらつしやる次第でねえ。……処でものは相談ぢやが、何とかして、其の奥様を助けると言ふ工夫はねえだか、のう、御坊、人助けは此方の勤ぢや、一つ折入つて頼むだで、勘考してくらつせえ。』とがらりと出直る。 四十二  これを聞くと、然もあらむ、と言ふ面色した坊主の気色やゝ和らいで、 『然れば、然う言はれると私も弱る。天守からは、よく捌け、最早や婦を思ひ切るやう少い人を悟せとある……御身達は生命に代へても取戻したいと断つて言ふ。  で、其を取戻す唯一つの手段と言ふのが、償ひの像を作るにある、其の像が、御身たちに、』 『えゝ、えゝ、最う、能う分つた。何ぼ私が顱巻しても、血の通ふ、暖い彫刻物は覚束ないで、……何とか別の工夫を頼むだ、最う此なものは、』と手にした腕を、思切つたしるしに、擲けやうとして揮上げた、……其の拳を漏れて、ころ〳〵と采が溢れて。一か六か、草の中に、ぽつりと蟋蟀の目に留んぬ。  三人が熟と視めた。  坊主が先づ、 『老爺……』と心ありげに呼んだ。 『はあ、是ぢや、』 と采の上で蓋するやうに、老爺は眉の下へ手を翳して、 『ちよつくら気が着いた事がある、待たつせえ、御坊……』 『…………、』 『少い人も何う思ふ。お前様が小児の時、姉様にして懐かしがらしつたと言ふ木像から縁を曳いて、過日奥様の行方が分らなく成つた時から廻り繞つて、采粒が着き絡ふ、今此処に采がある……此の山奥に双六の巌がある。其処も魔所ぢやと名が高い。時々山が空に成つて寂とすると、ころころと采を投げる音が木樵の耳に響くとやら風説するで。天守にも主人があれば双六巌にも主が棲まう……どちらも膚合の同じ魔物が、疾え話が親類附合で居やうも知れぬだ。魔界は又魔界同士、話の附け方もあらうと思ふ、何うだね、御坊。』  坊主も二三度頷いた。で、深く其の広い額を伏せた。 『いや、可い処に気が着いた、……何にせい、此の上は各々我を張らずに人頼みぢや。頼むには、成程其の辺であらうかな。』 『行つて見べい。方角は北東、槍ヶ嶽を見当に、辰巳に当つて、綿で包んだ、あれ〳〵天守の森の枝下りに、峯が見える、水が見える、又峯が見えて水が曲る、又一つ峯が抽出て居る。あの空が紫立つてほんのり桃色に薄く見えべい。──麻袋には昼飯の握つた奴、余るほど詰めて置く、ちやうど僥幸、山の芋を穿つて横噛りでも一日二日は凌げるだ。遣りからかせ、さあ、ござい。少い人。……お前様、其の采を拾はつしやい。御坊、』 『乗りかゝつた船ぢや、私も行く。……』  で、連立つて、天守の森の外まはり、壕を越えて、少時、石垣の上を歩行いた。  爾時、十八九人の同勢が、ぞろ〳〵と野を越えて駆けて来た。中には巡査も交つたが、早や壕の向ふの高い石垣の上に、森の枝を伝ふ躰の雪枝の姿を、小さな鳥に成つて、雲に入り行く、と視めたであらう。……  手を挙げ、帽を振り、杖を廻はしなどして、わあわつと声を上げたが、其の内に、一人、草に落た女の片腕を見たものがある。それから一溜りもなく裏崩れして、真昼間の山の野原を、一散に、や、雲を霞。  森の幕が颯と落ちて、双六谷が舞台の如く眼前に開かれたやうに雪枝は思つた。……悪処難路を辿りはしたが、然まで時が経つたとも思はず、別に其が為に、と思ふ疲労も増さない。で、足を運ぶ内に至り着いたので、宛然、城址の場所から、森を土塀に、一重隔てた背中合はせの隣家ぐらゐにしか感じない。──最も案内をすると云ふ老爺より、坊主の方が、すた〳〵先へ立つて歩行いたが。  時に、真先に、一朶の桜が靉靆として、霞の中に朦朧たる光を放つて、山懐に靡くのが、翌方の明星見るやう、巌陰を出た目に颯と映つた。 四五六谷 四十三 「叱!」 と老爺が警蹕めいた声を、我と我が口へ轡に懸ける。  トなだらかな、薄紫の崖なりに、桜の影を霞の被衣、ふうわり背中から裳へ落して、鼓草と菫の敷満ちた巌を前に、其の美女が居たのである。  少時、一行は呼吸を凝らした。  見よ! 見よ! 巌の面は滑かに、質の青い艶を刻んで、花の色を映したれば、恰も紫の筋を彫つた、自然に奇代の双六磐。磐面には花を摘んだ、大輪の菫と鼓草とが、陽炎の輝く中に、鼓草は濃く、菫は薄く、美しく色を分つて、十二輪、十二輪、二十四輪の駒なるよ……向ふ合はせに区劃を隔てゝ、二輪、一輪、一輪、二輪、空に蒔絵した星の如く、浮彫したやう並べられた。  美女は、やゝ俯向いて、其の駒を熟と視める風情の、黒髪に唯一輪、……白い鼓草をさして居た。此の色の花は、一谷に他には無かつた。  軽く其の黒髪を戦がしに来る風もなしに、空なる桜が、はら〳〵と散つたが、鳥も啼かぬ静かさに、花片の音がする……一片……二片……三片…… 「三つ」と鶯のやうな声、袖のあたりが揺れたと思へば、蝶が一ツひら〳〵と来て、磐の上をすつと行く…… 「一つ、」 と美女は又算へて、鼓草の駒を取つて、格子の中へ、……菫の花の色を分けて、静に置替へながら、莞爾と微笑む。……  気高い中に其の優しさ。 「は、」と、思はず雪枝は、此方に潜みながら押堪へた息が発奮んだ。 「誰? ……」 と美女の声が懸る。  老爺は咳を一つ故として、雪枝の背中を丁と突出す。これに押出されたやうに、蹌踉いて、鼓草菫の花を行く、雲踏む浮足、ふらふらと成つたまゝで、双六の前に渠は両手を支いて跪いたのであつた。  坊主は懐中の輪袈裟を取つて懸け、老爺は麻袋を探つた、烏帽子を丁と冠つて、更めてづゝと出た。  美女は密と鬢を圧へた。  声も出せぬ雪枝に代つて、老爺が始終を物語つた……  坊主は、時々眼を開いて、聞澄す美女の横顔を窺ひ見る。 「お姫様、」 と語り果てゝ老爺が呼んで、 「お助けを遣はされ、さあ、少い人、願へ。」 「姫様、」 と雪枝は、窶れに窶れた人間の顔して見上げた。 「上﨟どの、」と坊主も言足す。  美女は引合はせた袖を開いた。而して、 「天守のお使者、天守のお使者。」 と二声呼ばるゝ。 「やあ、拙僧が事か、」と、間を措いて坊主が答へた。 「あの、其の指をお指しになれば、天守の方の、お心が通じますかえ。」 「如何にも。」と片手を握つて、片手を其の蒼い頬げたに並べて、横に開いて応じたのである。 「双六を打つて賭けませう。私は其の他の事は何にも知らねば……而して、私が負けましたら、其切仕方がありません。もし、あの、私が勝となれば、此のお方の其の奥様を、恙なう、お戻しになりますやうに……お約束が出来ませうか。」 と物優しいが力ある声して聞く。  坊主は言下に空を指した。 「天守に於ては、予て貴女と双六を打つて慰みたいが、御承知なければ、致やうも無かつた折から……丁ど僥倖、いや固より、固より望み申す処……とある!」 四十四  美女は世にも嬉しげに……早や頼まれて人を救ふ、善根功徳を仕遂げた如く微笑みながら、左右に、雪枝と老爺とを艶麗に見て、清しい瞳を目配せした。 「そんなら、私が勝ちましたら、奥様をお返しなさいますね。」 「御念に及ばぬ、城ヶ沼の底に湧く……霊泉に浴させて、傷もなく疲労もなく苦悩もなく、健かにしてお返し申す。」  美女は、十二の数の、黄と紫を、両方へ、颯と分けて、 「天守のお方。どちらの駒を……」 「赫耀として日に輝く、黄金の花は勝色、鼓草を私が方へ。」 と痩せた頬げたの膨らむまで、坊主は浮色に成つて笑を含んで、駒を二つづゝ六行に。  同じく二つづゝ六行に……紫の格子に並べた。 「紫は朱を奪ふ、お姫様菫の花が、勝負事には勝色ぢや。」 と老爺は盤面を差覗いて、坊主を流盻に勇んだ顔色。  これに苦笑ひ為て口を結んだ、坊主は心急く様子が見えて、 「ざ! 上﨟、」 「お客なれば貴僧から、」 「や、采は、上﨟。」と高声で言つた。 「空を行く雲の数、」 と眉を開いて見上ぐる天を、白い雲が来ては消え、白い雲が来ては消えする。 「桜の花の散るのを数へ、舞ひ来る蝶の翼を算んで、貴僧、私と順々に。」  坊主は頷いて袈裟を揺つた。 「言ふ目。」 と高く美女が。 「乞目、」 と坊主が、互に一声。鶯と梟と、同時に声を懸合はせた。 「一つ来て、二つぢや。」 と鶴の姿の雲を睨んで、鼓草は格子を動く。  ト美女は袂を取つて、袖を斜めに、瞳を流せば、心ある如く桜の枝から、花片がさら〳〵と白く簪の花を掠める時、紅の色を増して、受け取る袖に飜然と留まつた。 「右が三つ、」 と袖を返して、左の袂を静かに引くと、また花片がちらりと来る。 「一つと二つ、」 と菫の花が白い指から格子へ入つた。 「雲よ、雲よ、雲よ、」 と呼んで、気色ばんで、やゝ坊主があせり出した。──争ひの半であつた。 「雲が来る、花が降る。や、此の采は気が長いぞ。見て居る内に斧の柄が朽ち、玉手箱が破れうも知れぬが。少い人、其の采を……其の采を出さつしやい。うつかり見惚れて私も忘れた。」 と目の覚めたやうに老爺が言つた。  青年は疾くから心着いて、仏舎利のやうに手に捧げて居たのを、密と美女の前へ出した。 「一つ振つたり、」 と老爺が傍から、肝入れして、采を盤石に投げさせた。 「お姫様、それ〳〵、星が一つで、梅が五ぢや。瞬する間に、十度も目が出る。早く、もし、其で勝負を着けさつせえまし。」 「天下の重宝、私もつひ是に気が着かなんだ。」 と坊主は手早く拾ひ取る。 「いえ、急いでは成りません、花の数、蝶の数、雲の数で無くつては。」と美女は頭を振つた。 「えゝ、お姫様の! 何うやら今までの乞目では、一度に一年も懸りさうぢや。お庇と私等は飢うも、だるうも無けれど、肝心助け取らうと云ふ、奥様の身をお察しやれ。一息に血一点、一刻に肉一分は絞られる、削られる……天守の梁に倒で、身の鞭に暇はないげな。」 「其の通り。」と傲然として、坊主は身構へ為て袖を掲げた。 四十五  美女の顔の色は早や是非なげに見えた。  一が起き、六が出で、三に変り、二に飜り、五が並ぶ。天に星の輝く如く、采の目の疾く、駒の烈しく動くに連れて、中空を見よ、岫を湧き、谷を飛ぶ、消えた雲が残り、続く雲が累り、追ふ雲が結着いて、雲はやがて厚く、雲はやがて濃く、既にして近くなり、低く成つた。……  忽ち一片、美女の面にも雲の影が映すよと見れば、一谷は暗く成つた。  鋭き山颪が颯と来ると、舞下る雲に交つて、漂ふ如く菫の薫が𤏋としたが、拭ひ去つて、つゝと消えると、電が空を切つた。……坊主の法衣は、大巌の色の乱れた双六の盤を蔽ふて、四辺は墨よりも蔭が黒い。  ト暗夜の如き山懐を、桜の花は矢を射るばかり、白い雨と散り灌ぐ。其の間をくわつと輝く、電光の縫目から空を破つて突出した、坊主の面は物凄しいものである……  唯見れば、頭に、無手と一本の角生ひたり。顔面黒く漆して、目の隈、鼻頭、透通る紫陽花に藍を流し、額から頤に掛けて、長さ三尺、口から口へ其の巾五尺、仁王の顔を上に二つ下に三つ合はせたばかり、目に余る大さと成つて、カチ〳〵と歯の鳴る時、鰐かと思ふ大口を赫と開いて、上頤を嘗める舌が赤い。 「騒ぐまい、時々ある……深山幽谷の変じや。少い人、誰の顔も何の姿も、何う変るか知んねえだ! 驚くと気が狂ふぞ、目を塞いで踞れ、蹲め、突伏せ、目を塞げい。」 と老爺が呼はる。  雪枝はハツと身を伏せて、巌に吸込まれるかと呼吸を詰めたが、胸の動悸が、持上げ揺上げ、山谷尽く震ふを覚えた。  殷々として雷が響く。  音の中に、 「切らう!」 と思切つた美女の、細い透る声音が、胸を抉つて耳を貫く。 「何を、切ればと言ふて早や今は……乞目!」 と誇立つた坊主の声が響いたが。 「やあ、勝つた。」 と叫んで、大音に呵々と笑ふと斉しく、空を指した指の尖へ、法衣の裙が衝と上つた、黒雲の袖を捲いて、虚空へ電を曳いて飛ぶ。  と風の余波に寂として、谷は瞬く間に、もとの陽炎。  が、日の光りやゝ弱く、衣のひた〳〵と身に着く処に、薄い影が繊細くさして、散乱れた桜の花の、背に頸にかゝつたまゝ、美女は、手を額に当てゝ、双六盤に差俯向いて、ものゝ悩ましげな風情であつた。 「お姫様、」 と風に曲んだ烏帽子の紐を結直したが、老爺の声も力が無かつた。 「姫様。」 と膝行り寄つて、……雪枝が伸上るやうに膝を支いて、其の袖のあたりを拝んだ。 「頼まれたのに、済みません。」  二筋三筋、後毛のふりかゝる顔を上げて、青年の顔を凝と視めて、睫毛の蔭に花の雫、衝と光つて、はら〳〵と玉の涙を落す。  老爺も鼻を詰らせた。  雪枝は身を絞つて湧出るやうに、熱い、柔い涙が流れた。 「断念めます、……断念める……私はお浦を思切ります。何うぞ、其の代り、夢でも可い、夢なら何時までも覚めずに、私を此処に、貴女の傍にお置き下さい。  貴下、生効ひのない私、罰も当れ、死んでも構はん。」 と前倒しに身を投げて、犇と美女の手に縋ると、振りも払はず取添へて、 「雪様。」 と優しく言ふ。 「え、」  いや、老爺も驚くまいか。 獅子の頭 四十六 「お懐しい。私は貴下が七歳の年紀、お傍に居たお友達……過世の縁で、恋しう成り、いつまでも〳〵、御一所にと思ふ心が、我知らず形に出て、都の如月に雪の降る晩。其の雪は、故郷から私を迎に来たものを、……帰る気は些も無しに、貴下の背に凭かゝつて、二階の部屋へ入りしなに、──貴下のお父様が御覧の目には、……急に貴下が大きく成つて、年ごろも対くらゐ、私と二人が夫婦のやうで熟と抱合ふ形に見えて、……怪しい女と、直ぐに其の場で、暖炉の灰にされましたが、戸の外面からひた〳〵寄る……迎ひの雪に煙を包んで、月の下を、旧の此の故郷へ帰りました。  非情のものが、恋をした咎を受けて、其の時から、唯一人で、今までも双六巌の番をして、雨露に打たれても、……貴下の事が忘れられぬ。  其の心が通ずるのか、貴下も年月経ち、日が経つても、私の事をお忘れなさらず、昨日までも一昨日までも、思ひ詰めて居て下さいましたが、奥様が出来たので、つひ余所事になさいました。  それをお怨み申すのではない。嫉妬も猜みもせぬけれど、……口惜い、其がために、敵から仕事の恥辱をお受け遊ばす。……雲、花片の数を算めば、思ふまゝの乞目が出て、双六に勝てたのに、……唯一刻を争ふて、焦つてお悶へ遊ばすから、危いとは思ひながら、我儘おつしやる可愛らしさに、謹慎もつひ忘れ、心が乱れて、よもやに曳かされ、人間の采を使つたので、効なく敵に負けました。貴下も、悪い、私も悪い。  あゝ、花も恁う乱れぬうち、雲の中から奥様を助け出し、こゝへ並べて、蝶の蔭から、貴下の喜ぶ顔を見て、其の後で名告りたうごさんした。」 としめやかに朱唇が動く、と花が囁くやうなのに、恍惚して我を忘れる雪枝より、飛騨の国の住人以つての外畏縮に及んで、 「南無三宝、あやまり果てた。」と烏帽子を掻いて猪頸に窘む。 「いえ〳〵此も定まる約束。……しかし、尚ほ懐しい。奥様を思切り、世を捨てゝも私の傍に命をかけて居やうとおつしやる。其のお言葉で奥様は救はれます……私も又命にかけても、お望を遂げさせましやう。  さあ、貴下、あらためて、奥様を償ふための、木彫の像をお作り遊ばせ、勝れた、優つた、生命ある形代をお刻みなさい。  屹と敵に不足は言はせぬ。花片を雪にかへて、魔物の煩悩のほむらを冷す、価値のあるのを、私が作らせませう、……お爺さん、」 と見返つて、 「貴翁がお家重代の、其の小刀を、雪様にお貸し下さいまし。」 「心得ました。」 と謹んで持つて寄る、小刀を受取ると、密と取合つた手を放して、柔かに、優しく、雪枝の手の甲の、堅く成つて指も動かぬを、撫でさすりつゝ、美女が其の掌に握らせた。  四辺を眴し、衣紋を直して、雪枝に向つて、背後向きに、双六巌に、初めは唯腰を掛ける姿と見えたが、褄を放して、盤の上へ、菫鼓草の駒を除けて、采を取つて横に寐た。  陽炎が裳に懸つた。  美女の風采は、紫の格目の上に、虹を枕した風情である。  雪枝は、倒れたと見て、つゝと起つた。 「……雪様、私の目を、私の眉を、私の額を、私の顔を、私の髪を、此のまゝに……其の小刀でお刻みなさいまし。」 「や、」と老爺が吃驚して、歯の抜けた声を出して、 「成程、お天守で不足は言ふまい、が、当事もない、滅法界な。」 「雪様、痛くはない。血も出ぬ、眉を顰めるほどもない。突いて、斬つて、さあ、小刀で、此のなりに、……此のなりに、……」 「思切る、断念めた、女房なんぞ汚らはしい。貴女と一所に置いて下さい、お爺さんも頼んで下さい、最う一度手を取つて、」  戞然と、どき〳〵した小刀を投出す。 「其のお心の失せない内、早く小刀をお取りなさいまし。……そんな事をおつしやつて、奥様は、今何うして居らつしやいます。」  それを聞くや、 「わつ、」と泣いて、雪枝は横様に縋りついた、胸を突伏せて、唯戦く……  徐ら、其の背を、姉がするやう掻撫でながら、 「恁う成るのが定まり事、……人の運は一つづゝ天の星に宿ると言ひます。其と同じに日本国中、何処ともなう、或年或月或日に、其の人が行逢はす、山にも野にも、水にも樹にも、草にも石にも、橋にも家にも、前から定まる運があつて、花ならば、花、蝶ならば、蝶、雲ならば、雲に、美しくも凄くも寂しうも彩色されて描いてある…手を取合ふて睦み合ふて、もの言つて、二人居られる身ではない。  唯形ばかり、何時何処でも、貴方が思ふ時、其処に居る、念ずる時直ぐに逢へます、お呼び遊ばせば参られます。  早や、小刀を……、小刀を……、」 「帰命頂礼、南無不可思議、帰命頂礼、南無不可思議。」 と唱へながら、老爺が拾つて渡した時、雪枝は犇と小刀を取つた。 「一刀一拝、拝め、頼め、念じて、念じて、」 と励まし教うるが如くに老爺が言ふ。 「姫、姫、」 と勇ましく、 「疵を附けたら、私も死ぬ。」 と熟と見て、小刀を取直した。  美女の姿ありのまゝ、木彫の像と成つた時、膝に取つて、雪枝は犇と抱締めて離し得なんだ。  老爺が其の手を曳いて起こして、さて、かはる〴〵負ひもし、抱きもして、嶮岨難処を引返す。と二時が程に着いた双六谷を、城址までに、一夜、山中に野宿した。  其の夜の星の美しさ。  中にも山の端に近いのが、美女の像の額を飾つて輝いたのである。  翌朝、棟の雲の切れ間を仰いで、勇ましく天守に昇ると、四階目を上切つた、五階の口で、フト暗い中に、金色の光を放つ、爛々たる眼を見た、  一目見て、 「やあ、祖父殿が、」 と老爺が叫ぶ、……其なるは、黄金の鯱の頭に似た、一個青面の獅子の頭、活けるが如き木彫の名作。櫓を圧して、のつしとあり。角も、牙も、双六谷の黒雲の中に見た、其であつた。……  祖父の作に、久しぶりの話がある、と美女の像を受取つて、老爺は天守に胡座して後に残つた。時に、祖父が我まゝの佗だと言つて、麻袋を、烏帽子入れたまゝ雪枝に譲つた。  さて、温泉宿に帰つたが、人々は、雪枝の顔の色の清々しいのを視めて、はじめて渡した一通の書信がある。  途中より、としてお浦の名で、二人が結婚を為ない前から、契りを交はした少年の学生が一人ある。此の度の密月の旅の第一夜から、附絡ふて、隣の部屋に何時も宿る……其さへも恐ろしいのに、つひ言葉のはづみから、双六谷に分入つて、二世の契を賭けやうとする、聞けば名高い神秘の山奥、迚も罪深さに堪へないため、諸ともに身を隠す、とあつた。  渠は神色自若とした。  あはれ、神は、香村雪枝を守らせ給ふ!  然うで無いと、恁くまでに恋慕つた女、気が狂はずには居なかつたのである。  東京に帰つて後、呼べば応へて顕はるゝ、双六谷の美女の像を、唯目を開いて見るやうに、すら〳〵と刻み得た。麻袋の鑿小刀は、如意自在に働く。  彫像の成つた時、北の一天、俄かに黒雲を捲起こして月夜ながら霰を飛ばした。  年経つて、再び双六の温泉に遊んだ時、最う老爺は居なかつた。が、城址の濠には船があつて、鷺ではない、老爺の姿が、木彫に成つて立つのを見て、渠は蘆間に手を支えて、やがて天守を拝した。  船に乗れば、すら〳〵と漕いで出て、焼けない処か、もとの位置へすつと戻る……伝へ聞く諾亜の船の如きものであらう。 底本:「新編 泉鏡花集 第八巻」岩波書店    2004(平成16)年1月7日第1刷発行 底本の親本:「神鑿」文泉堂書房    1909(明治42)年9月16日 初出:「神鑿」文泉堂書房    1909(明治42)年9月16日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「をんせん」と「おんせん」、「城趾」と「城址」、「鎗ヶ嶽」と「槍ヶ嶽」の混在は底本の通りです。 ※「魚」に対するルビの「うを」と「いを」、「水底」に対するルビの「みずそこ」と「みづそこ」、「灰」に対するルビの「はひ」と「はい」、「烏帽子」に対するルビの「えばうし」と「えぼうし」の混在は、底本通りです。 ※表題は底本では、「神鑿」となっています。 ※初出時の署名は「鏡花小史」です。 入力:砂場清隆 校正:門田裕志 2007年8月12日作成 2016年2月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。