大衆維新史読本 池田屋襲撃 菊池寛 Guide 扉 本文 目 次 大衆維新史読本 池田屋襲撃    新撰組結成  新撰組の母胎とも云ふべき、幕府が新に徴募した浪士団が家茂将軍警護の名目で、江戸を出発したのは、文久三年の二月八日であつた。  総勢凡そ二百四十名、二十三日に京都郊外壬生に着いたがこれを新徴組と云ふ。隊長格は庄内の清河八郎で、丈のすらりとした面長の好男子、眼光鋭く人を射る男だつたと云ふ。  幕府は初め、浪士の人員を五十名位といふ方針であつた。しかし、実際は、風雲を望んでゐた天下の浪士達が、旗本位にはなれると云ふ肚で、続々集つてきた。甲州の侠客祐天仙之助が、仔分二十名を引き連れて、加はり、すぐに五番隊の伍長として採用された事などを見ても、大体この浪士団の正体が判る。  これが、京都に止ること二十日ばかりで分裂し、芹沢、近藤等十三人が清河に反き、宿舎八木源之丞の邸前へ「壬生村浪士屯所」の看板を出したのが、所謂新撰組の濫觴である。  隊員永倉新八こと、杉村義衛翁(大正四年まで存命)の語り誌すところに依ると、総勢十三名の新撰組も、初めはひどく貧乏だつた。三月に隊が出来て、五月になると云ふのに、まだ綿入れを着てゐる者が多かつた。いろ〳〵考へた末、芹澤が真先に立つて、八名の浪士がわざ〳〵大坂まで行き、鴻池を脅して二百両借りて戻つた。体のいゝ暴力団だ。  これで麻の羽織に紋付の単衣、小倉の袴を新調して、初めて江戸以来の着物を脱いだわけである。しかもその羽織たるや大変なもので、浅黄地の袖を、忠臣蔵の義士の様に、だんだら染めにした。  これが当時の新撰組の制服になり、後に池田屋襲撃の時も、隊員一同この羽織を着て、奮戦したのである。  新撰組結成六ヶ月で、近藤勇、土方歳三は、その隊長芹沢鴨を、その妾宅に襲つて斬つた。  芹沢は水戸の郷士で、本名を下村継次と云ひ、水戸天狗党の生き残りである。天狗党に居た時は、潮来の宿で、気に食はぬ事があつて、部下三名を並べて首を斬つたり、鹿島神宮へ参詣して、拝殿の太鼓が大き過ぎて目障りだと云つて、これを鉄扇で叩き破つたと云ふ程の乱暴者であつた。  芹沢亡き後の新撰組は、当然近藤、土方の天下で、幕府の後押しもあり、京都守護職、松平容保の信頼もあり、隊の勢は日ならずして隆々として揚り、京洛に劃策する勤皇の志士にとつて、陰然たる一大敵国を成すに到つた。    近藤勇  新撰組隊長、近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。剣術のよく出来る反動的武士といつた処である。極く贔屓目に見ても、三代相恩の旗本八万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭したのは偉い、と云ふ評がせい〴〵である。  しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽してゐないし、彼の為にも気の毒である。  近藤の刑死は、慶応四年四月二十五日であるが、此の年六月六日発行の「中外新聞」には──閏四月八日、元新撰組の隊長、近藤勇といふ者の首級、関東より来つて三條河原に梟せられたり。其身既に誅戮を蒙りたる者なれば、行の是非を論ぜず、其の勇に至りては惜む可き壮士なりと云はざる者なし──  とある。この頃賊軍として死刑に処せられた者は、今日の共産党被告以上に見られてゐたのであるから、出版物にこれだけ書くだけでも容易でない。賊軍であつても彼の評判は当時に於て、非常によかつた事は、この記事でも分ると思ふ。  勇が生れたのは、天保五年で、近藤周斎の養子となり、新徴組に加はつた頃迄は、剣術も学問も、特に目立つて云ふ程のこともなかつた。  新徴組から分離した時から、勇は漸次頭角を顕して来た。会津藩鈴木丹下の「騒擾日記」には、 「其内、近藤勇と云ふ者は、知勇兼備はり、何事を掛合に及候ても無滞返答致し候者の由」  とあり、この頃から、智勇兼備と云ふやうな讃辞が捧げられてゐる。  彼は東州と号して、相当立派な字を書いてゐる。学問は大したものではないが、当時の剣客としては、人後に落ちない位の素養はあつたのであらう。  その政治上の主義としては、彼の上書に、 「全体我共は尽忠報国の志士、依而今般御召相応じ去二月中遥々上京仕り、皇命尊戴、夷狄攘斥之御英断承知仕り度存ずる志にて、滞京罷存候云々」(文久三年十月十五日上書)  とある。  また、祇園一力楼で、会津肥後守の招宴で、薩、土、芸、会等の各藩重職列席の会合でも、彼は堂々とその主張を披瀝し、 「熟愚考仕り候処、只今までは長藩の攘夷は有之候へども、真の攘夷とは申されまじく候、この上は公武合体専一致し、其の上幕府において断然と攘夷仰せ出され候はゞ、自然国内も安全とも存じ奉り候」(近藤の手紙の一節)  と述べてゐる。  近藤の意見では、公武合体、即ち鞏固なる挙国一致内閣で攘夷すべしと云ふのである。勤皇攘夷、公武合体説であつた。  彼はこの主義の為に、一死報国の念に燃えてゐたのであるから、新撰組が単なる非常警察と考へられるのには、大いに不満でもあつたらしい。 「私共は昨年以来、尽忠報国の有志を御募相成り、即ち御召に応じ上京仕り、是迄滞在仕り候へども、市中見廻りの為に御募りに相成り候儀には御座なく候と存じ奉り候」(元治元年五月三日 上書の一節)  とある。彼にもまた耿々たる志はあつたのだ。時勢を憂へ、時勢を知ることに於て、立場こそ異なれ、敢へて薩長の志士に劣るものではなかつたのである。  殊に近藤の光栄とすべきは、宮中第一の豪傑であらせられる、久邇宮朝彦親王との関係である。親王の日記には、彼の名前も見え、慶応三年九月十三日の項には、「幕府の辣腕家、原市之進に替るべきものは近藤である。余自身近藤を召し抱へたい」と、畏れ多くも仰せられてゐるのである。  暴力団の首領と云ふよりも、時流の浪に乗り損つた志士と云ふべきだらう。    池田屋斬込み  新撰組結成の翌年、元治元年六月五日は、彼等にとつて、最も記念すべき日であつた。  即ち、この為に、明治維新が一年遅れたと云はれる。有名な三條小橋、池田屋惣兵衛方斬込み事件が、行はれた日である。  四條小橋に、升屋喜右衛門と云ふ、古道具屋があつた。主人は三十八九歳で、使用人を二三人使つて、先づ裕福な暮し振りであつた。余りに浪士風人間の出入が激しいので、新撰組では、予てからその様子に不審を懐き、六月五日に思ひ切つて踏み込んでみると果して甲冑十組、鉄砲二三挺、その他長州人との往復文書が数通発見され、その中には、「機会は失はざる様」との頗る疑はしい文句があつた。  取り敢へず、武具類を土蔵に収めて封印して主人喜右衛門を壬生の屯所に引致して、拷問したところ、驚く可き陰謀が発見されたのである。  喜右衛門と云ふのは、仮名でその実は江州の浪人古高俊太郎と云ひ、八月十八日の政変に就て、深く中川宮と松平容保を怨み、烈風の日を待つて、火を御所の上手に放ち、天機奉仕に参朝する中川宮を始め奉り、守護職松平肥後守を途中に要撃しようとする、計画である。而も古高は、三條通り辺の旅宿客は、いろ〳〵の藩名を掲げてゐるが大抵は長州人であることまで自白した。  愕然としてゐる新撰組にとつて、続いて、第二、第三の警報が町役人の手に依つて齎らされた。 「升屋の土蔵の封印を破つて、武具を奪ひ去つた者がある!」 「三條小路の旅宿池田屋惣兵衛方、及び縄手の旅宿四国屋重兵衛方に、長州人や諸浪士が集合して何やら不穏の企みをしてゐる」  京都市中見廻役として、治安の責任の一半を担つてゐる新撰組は、取り敢へず、黒谷なる京都守護職松平肥後守邸に、応急の措置を求むる為速報した。  守護職は所司代、松平越中守と協力して、遂に会津、桑名、一橋、彦根、加賀の兵を始め、町奉行、東西与力、同心を動員して、祇園、木屋町、三條通り、その他要所々々を戒厳して、その人員無慮三千余人と称された。空前の警戒陣であつた。  斯くて、会津藩と新撰組は、午後八時を期して、祇園会所に集合する筈であつたが、会津側が人数の繰出しに時間がかゝり、午後十時近くなるのに、約束の場所に参着しない。  血気の近藤勇は、一刻を争ふ場合と考へ、独力新撰組を率ゐて、検挙に向ふことになつた。  隊員三十名を二分して、近藤勇自ら一隊を随へて、池田屋へ、他の一隊は、土方歳三統率して、四国屋へ向つた。  恰度、祇園祭りの前の夜で、風はあつたが、何となく蒸す夜であつた。  その時、池田屋では、長州の吉田稔麿、肥後の宮部鼎蔵等総勢二十余名が集合し、 「今夜は壬生に押寄せて、古高俊太郎を奪ひ還さう」  と、云ふので酒を飲みながら、夜の更けるのを待つてゐた。  彼等は、粛々としてその身に迫る死の影を知らず、尚も三策の評議に余念がなかつた。三策とは即ち次の三つだ。 ○壬生屯所を囲み、焼討して新撰組を鏖殺し、京都擾乱に乗じて、長州の兵を京都に入れる。 ○成功の場合には、宮中を正論の公卿を以て改革する。 ○京都一変の上は、中川宮を幽閉し奉り、一橋慶喜を下坂せしめ、会津藩の官職を剥奪し、長州を京都の守護職に任ずる。    血河の乱闘  近藤勇は玄関から、 「主人は居るか、御用改めであるぞ」  と、堂々と声をかけて、上り込んだ。  主人は直ぐに二階に向つて、 「皆様、来客調べて御座います」  と、大きな声で叫んだが、もう遅い。 「何だ〳〵」  同志でも来たのかと思つて、うつかり一番先に出て来た北副佶摩の頭を、勇の虎徹がずばりと割つた。  火の出る様な乱闘が続いた。  この事件に就ては、勇自身が近親に与へて書いた手紙に、詳しい。 「局中手勢の者ばかりにて、右徒党のもの、三條小橋縄手に二ヶ所屯致し居候処へ、二手に別れ、夜四つ時頃打入候処、一ヶ所は一人も居り申さず、一ヶ所は多数潜伏し居り、兼て覚悟の徒党故、手向ひ戦闘一時余の間に御座候」  局中とは新撰組のことだ。一時余りとは、今日では二時間余である。二時間余も入乱れて、戦つたのであるから、その激闘振りも察せられよう。 「打留七人、手疵為レ負者四人、召捕二人、右は局中の働に候。漸く事済み候跡へ、御守護職、御所司代の人数三千余人出張に相成り、夫より屯所へ被二打入一候処、会侯の手に四人召捕、一人打取る。桑侯手に一人召捕。  翌六日昼九つ時(正午)人数引揚申候。前代未曾有の大珍事に御座候」  以上の通、池田屋襲撃は、殆んど新撰組の独擅場で、彼等が得意になるのは当然だらう。  近藤の家書は、以下続いてゐる。 「下拙僅かの人数引連れて、出口に固めさせ、打込候者は、拙者始め、沖田、永倉、藤堂、倅周平、右五人に御座候。  一時余りの戦闘にて、永倉新八の刀は折れ、沖田総司、刀の帽子折れ、藤堂平助刀はさゝらの如く、倅周平は槍を斬折られ、下拙刀は、虎徹故にや、無事に御座候」  何れも新撰組切つての剣客揃ひである。僅か五人で斬込んだのであるから、その力戦振りも思ひやられる。  その中に、縄手から引返した土方歳三の一隊が加つて、こゝに稀代の大捕物陣が展開されたわけである。 「実に是迄、度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は、稀に覚え候。今度の敵、多数とは申しながらも孰れも万夫の勇士、誠に危き命助かり申候」  これが勇の欺かざる述懐である。  新撰組も克く力闘したが同時に勤皇諸有志が如何に勇戦したか、これで判る。  人を斬るのに、最も豊富な経験を持つ、近藤勇をして、この嘆声を発せしめたのであるから、殉難の志士も以て瞑すべしだ。公論は常に、敵側より発せられるものである。    殉難の諸士  飜つて、志士側の当夜の観察は何うか。当時長州藩、京都留守居役、乃美織江の手記によれば、形勢緊迫と共に、有志等に軽挙を戒めること痛切であつた。  桂小五郎、久坂義助など幕吏の追跡頻りなので、長藩としては彼等に帰国の命を下し、邸内の有志等にも外出を慎しませてゐた。  吉田稔麿に対しても、市中の宿屋に泊らず、藩邸に起臥するやうに、勧告したが、容れられず、宮部鼎蔵等にも外出を極力制止してゐたのである。  当夜の手記に依ると、 「乃美乃ち杉山松助、時山直八をして、状を探らしむ。二人帰り報じて曰く、俊太郎逮捕の為め、或ひは不穏の事あらん。宜く邸門の守を厳にすべし、と同夜有志多く池田屋に集ると聞く、其の何人たるを詳かにせず」 「夜に入り杉山松助、窃に槍を提げ、外出すと云ふ。未だ久しからずして、松助片腕を斬られ鮮血淋漓として帰邸し、急変ありと告げ、邸門を閉ざし、非常に備へしむ。乃美、何故に外出せしやと問ふ。池田屋に赴かんとして、途中斯の如し、遺憾に堪へずと答ふるのみ」  杉山は、途中で要撃されたのであらう。 「邸の近傍に吉田稔麿の死屍を発見す。宮部は池田屋に死し、其の弟傷を負ひ邸に帰る。池田屋女主即死。桂小五郎は屋上より遁れて、対州邸の潜所に帰る」  この池田屋事変で、勤皇方にとつて、最も大きな損害は、宮部鼎蔵と吉田稔麿の死であらう。  吉田稔麿は、脇差をとつて力戦し、裏庭で沖田総司と、一騎討ちになつた。その腕は相当のものであつたが、剣を把つては天才的と云はれた沖田には、敵はない。  肩先を斬られたまゝ逃れ、隣家の庭前に監視してゐた、桑藩士本間某を斬り、黒川某に重傷を被らせ、馳せて河原町の藩邸に向つた。併しこの時は、門の扉は固く鎖してあり、稔麿は入ることが出来ない。その身は重傷であり、遂に進退谷まつて、門外に自決したのである。この時、年齢二十四であつた。  吉田稔麿は松陰門下の奇才で、この時は長幕調停案の一案を劃して、帰国の途中、京都に寄つて殉難したのである。  この日も、留守居役の乃美織江が頻りに止めると、 「いや直き帰つて来る」  と云つて、殿様からの下され物の小柄等を乃美に托して、出かけて行つたのである。  この時、自分で髪を結つたが、元結が三度も切れたので、 結びても又結びても黒髪の    乱れそめにし世を如何にせん  と云ふ歌を詠んで、乃美に示したと云ふ。これが遂に、その辞世となつたわけである。  宮部鼎蔵は、乱戦の中に池田屋に於て斃れた。一説には、進退谷まつて階段の下で屠腹して果てたとも云ふ。年は四十五であつた。  宮部は肥後の産、吉田松陰とは親友の仲であり、尊攘派の錚々たる一人で、同志からは先輩の一人として推服された人物である。  松陰嘗て宮部を評して、 「国を憂へ、君に忠、又善く朋友と交はりて信あり、其の人懇篤にして剛毅、余素よりその人を異とす」  と云つてゐる。  三條実美の信頼篤く、その使命を奉じて四方に使ひし、真木和泉と共に年齢手腕共に長者であり、志士の間に最も重きをなした人物であつた。生き残つてゐたら、子孫は侯爵になつたかも知れん。  乃美の手記に依ると、桂小五郎は池田屋から対州の邸へ遁げこんで、危き命を拾つたとなつてゐるが、事実は違ふらしい。  この夜、小五郎は一度池田屋を訪れたが、まだ同志が皆集らぬので、対州の藩邸を訪うて、大島友之丞と暫く対談してゐると、市中が俄に騒々しくなつた。  何事か、と、人を出して様子を探らせると、新撰組の池田屋斬込みだと云ふ。桂が、刀を提げて、その場に馳せつけようとするのを、大島が無理にこれを引止めて、その夜の難を免れたのだと云ふ。  この時、せめて木戸孝允の命を剰したゞけでも、長藩のため、引いては明治維新のために、不幸中の幸と云はねばならない。  桂小五郎も、この事件に就ては、簡単ながら手記を書き、 「天王山に兵を出す、此に基けり」  と結んでゐる。  簡潔ながら、流石によく断じてゐる。池田屋に於ける幕府方の暴挙が、如何に長州藩士をして激昂せしめたか。八月十八日の政変以来、隠忍に隠忍を重ねて来た長藩も、遂に堪忍袋の緒を切つたのである。遂に長軍の上洛となり、天王山に本拠を進め、蛤御門の戦闘となるのである。  少くとも、池田屋事変は、禁門戦争の導火線に、口火を切つたと云ふべきであらう。    近藤勇の最後  この外、池田屋で死んだ志士の中には、大高兄弟、石川潤次郎等、有為の勤皇家がゐた。  いづれも、その屍体は捕方の手に依つて、三條縄手の三縁寺境内へ運ばれて、棄てゝ置かれた。  何しろ、暑い頃なので、後にはこの屍が何人のものか、判明しない程腐つてしまひ、池田屋の使用人を呼び出して、「これは宮部さん、これは大高さん」と識別させたと云ふ話である。  池田屋事変を期として、新撰組は更に一大飛躍を遂げてゐる。  隊員も不足なので、近藤は書を近親に寄せて、隊員の周旋を依頼し、「兵は東国に限り候と存じ奉り候」と、気焔を上げてゐる。東国人の近藤勇としては、尤もな言ひ分で、蓋し池田屋事変は、当時兎角軽視され勝ちの、関東男児の意気を、上方に示したものと云つてよい。  これから、伏見鳥羽の戦までは、新撰組の黄金時代である。  蛤御門の戦には、先頭に赤地に「誠」といふ字の旗を立てゝ、会津の傑物林権助の指揮の下に奮戦してゐる。  土佐藩の大立物、後藤象二郎に、或る日、近藤勇が会ふと、象二郎は直ぐに、 「拙者は貴公のその腰の物が大嫌ひで」  とやつた。  勇は、苦笑しながら、その刀を遠ざけたと云ふ話があるが、多分この頃のことだらう。  それ程、近藤勇の名は、響きわたつてゐたのである。然も勇は単なるテロリストとしての自分に飽き足らず、政治的にもぐん〳〵守護職、所司代、公卿の中へも喰ひ込んで行つたが、順逆を誤つた悲しさ、時勢は日に日に非なりである。  伏見鳥羽の戦は、幕軍に対して、致命傷を与へたと同時に、新撰組に徹底的な打撃を与へた。大部隊を中心とする、近世式な砲撃戦に対して、一騎討の戦法は問題でなく、虎徹は元込銃に歯の立つ道理はないのである。  江戸に逃げ帰つた、近藤は、その後色々と画策したが、一度落目になると、する事なす事後手となつて、甲州勝沼の戦に敗れ、下総流山で遂に官軍の手に捕へられた。  この時、政敵である土佐藩の谷守部(干城)は、 「猾賊多年悪をなす。有志の徒を殺害すること不レ勝レ数、一旦命尽き縛に付く。其の様を見るに三尺児と雖も猶弁ずべきを、頑然首を差伸べて来る。古狸巧に人を誑し、其極終に昼出て児童の獲となること、古今の笑談なり。誠に名高き近藤勇、寸兵を労せず、縛に就くも、亦狐狸の数の尽くると一徹なり」と思ひ切つた酷評を下してゐる。いかに、近藤が官軍側から悪まれてゐたかゞ分るし、谷干城の器量の小さいかも知れる。  人間も落目になれば、考へも愚劣になる。甲陽鎮撫隊で大名格にしてもらひ、故郷へ錦を飾つた積りの穉気振りなど、往年の近藤勇とは別人の観がある。然し、これも必ずしも近藤勇丈の欠点ではない。蓋し、得意に、失意に、淡然たる人は、さうあるわけはないのだ。  尤も、近藤勇が五稜郭で戦死してゐたら、終を全うした事になるのは勿論である。  真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であつたやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。  しかし、近藤勇の人気は、映画と大衆文芸の影響で、この両者がなかつたら、今ほど有名ではないだらう。地下の近藤勇も、この点は苦笑してゐるだらう。 底本:「菊池寛全集 第十九巻」高松市菊池寛記念館、文藝春秋    1995(平成7)年6月15日発行 底本の親本:「大衆維新史読本」モダン日本社    1939(昭和14)年10月16日 初出:「オール讀物」文藝春秋    1937(昭和12)年8月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:大久保ゆう 校正:小林繁雄 2006年7月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。