霧陰伊香保湯煙 三遊亭圓朝 鈴木行三校訂・編纂 Guide 扉 本文 目 次 霧陰伊香保湯煙         一  偖、お話も次第に申し尽し、種切れに相成りましたから、何か好い種を買出したいと存じまして、或お方のお供を幸い磯部へ参り、それから伊香保の方へまわり、遊歩かた〴〵実地を調べて参りました伊香保土産のお話で、霧隠伊香保湯煙と云う標題に致してお聴きに入れます。これは実際有りましたお話でございます。彼の辺は追々と養蚕が盛に成りましたが、是は日本第一の鴻益で、茶と生糸の毎年の産額は実に夥しい事でございます。外国人も大して之を買入れまする事で、現に昨年などは、外国へ二千万円から輸出したと云いますが、追々御勉強でございまして、あの辺は山を開墾してだん〴〵に桑畑にいたします。それにまた蚕卵紙を蚕に仕立てます故、丹精はなか〳〵容易なものでは有りませんが、此の程は大分養蚕が盛で、田舎は賑やかでございます。養蚕を余り致しません処は足利の方でございます。此処はまた機場でございまして、重に織物ばかり致します。高機を並べまして、機織女の五十人も百人も居りまして、並んで機を織って居ります。機織女は何程位な賃銀を取るものだと聞いて見ると、実に僅かな賃でございます。機織女を抱えますのに二種有ります。一を反織と云い、一を年季と申します。反織の方は織賃銀何円に付いて何反織ると云う約定で、凡て其の織る人の熟不熟、又勤惰によって定め置くものでござります。勉強次第で主人の方でも給金を増すと云う、兎に角宅へ置いて其の者の腕前を見定めてから給料の約束を致します。又一つの年季と申しますると、一年も三年も或は七年も八年もございますが、何十円と定めまして、其の内前金を遣ります。皆手金の前借が有ります。それで夏冬の仕着を雇主より与える物でございます。これは機織女を雇入れます時に、主人方へ雇人請状を出しますので、若い方が機に光沢が有ってよいと云うので、十四五か十七八あたりの処が中々上手に織りますもので、六百三十五匁、ちっと木綿にきぬ糸が這入りまして七十寸位だと申します。其の中で二崩しなどと云う細かい縞は、余程手間が掛ります。一機四反半掛に致しましても、これを織り上げて一円の賃を取りまするのは、中々容易な事ではございません。機織場の後に明りとりの窓が開いて居ります。足利辺では大概これを東に開けますから、何故かと聞きましたら、夏は東から這入りまするは冷風だと云います。依って東へ窓を開け、之をざまと云います。夏季蚊燻を致します。此の蚊燻の事を、彼地ではくすべと申します。雨が降ったり暗かったりすると、誠に織り辛いと申しますが、何か唄をうたわなければ退屈致します処から、機織唄がございます。大きな声を出して見えもなく皆唄って居ります様子は見て居りますると中々面白いもので、「機が織りたや織神さまと、何卒日機の織れるよに」と云う唄が有ります。また小倉織と云う織方の唄は少し違って居ります。「可愛い男に新田山通い小倉峠が淋しかろ」、これは新田山と桐生の間に小倉峠と云う処がございます。是は桐生の人に聞きましたが、囃がございますが、少し字詰りに云わなければ云えません、「桐生で名高き入山書上の番頭さんの女房に成って見たいと丑の時参りをして見たけれども未だに添われぬ」トン〳〵パタ〳〵と遣るのですが、まことに妙な唄で。偖、足利の町から三十一町、行道山の方へ参ります道に江川村と云う所が有ります。此処に奧木佐十郎と云って年齢六十に成る極く堅人がございます。旧は戸田様の御家来で三十石も頂戴したもので、明治の時勢に相成りましたから、何か商売を為なければならんと云うと、機場のこと故、少しは慣れて居りますから、忰の茂之助を相手に織娘を抱えて機屋をいたしますと、明治の始めあたりは、追々機が盛って参り大分繁昌で親父も何うか早く茂之助に善い女房を持たせたいと思ううち、織娘の中で心掛けの善いおくのと云うが有りまして、親父の鑑識でこれを茂之助に添わせると、宜いことには忽ち子供が出産ました。総領を布卷吉と申して今年七歳になり、次は二月生れで女の児をお定と申します。         二  扨、奧木茂之助は、只機が織り上るとちゃんと之を畳みまして綴糸を附ける。彼れもまた一役で、悉皆出来た処で此品を持ち、高崎や前橋の六斎市の立ちまする処へ往って売るのでございますが、前橋は県庁がたちまして、大分繁昌でございまして、只今は猶盛んで有りますが、料理茶屋の宜いのも有る。其の中で藤本と云う鰻屋で料理を致す家が有ります。六斎が引けますると、茂之助は何日も其家へ往って泊りますが、一体贅沢者で、田舎の肴は喰えないなどと云う事を平生申して居ります。処が此の藤本は料理が一番宜いと云うので、六斎市の前の晩から、翌日の市の時も泊り、漸々馴染となり、友達が来て共に泊ると云うような事に成りました。すると此の藤本の抱えで、小瀧と云う芸者は、もと東京浅草猿若町に居りまして、大層お客を取りました芸者で、まだ年は二十一でございますが、悪智のあるもので、情夫ゆえに借金が出来て、仕方なしに前橋へ住替えて来ましたが、当人は何時までも田舎に居るのは厭で、早く東京へ帰りたいと思うとお金が欲しくなって来ます。すると、誰でも遊びに来る時などには、宅に金瓶が八つに、ダイヤモンドが八十六も有るように大法螺を吹きます。 茂「今度は何千反持って来て、何処へ何百反置いて、此処へ何百反渡して金を何百円持って帰る」  と云うように、大業な事を云うから、小瀧も此の茂之助を金の有る人と思いますと、容貌も余り悪くはなし、年齢は三十三で温和やかな人ゆえ、此の人に縋り付けば私の身の上も何うか成るだろうと云うと、此方は素より東京の芸妓と云うのを当込んで掛りましたのだから、ついした事から深く成り、現を抜かして寝泊りを致しました事も度々なれども、茂之助の女房おくのは、苟且にもいやな顔を為ません。幾ら夫につらくされても更に気にも止めず、却って夫の不始末をお父さんに取成し、 くの「私はもとは此の家へ機織に雇われた奉公人を、斯うやって若旦那に添わして下さるとは冥加至極のこと、お父さんのお鑑識にかない此の家の女房に成り子供まで出来ましたから、若旦那さまに幾ら辛くされようとも、旧の身分を考えれば何も云う処はございません、それは男の楽しみゆえ一人や二人情婦の有るは当前」  と諦めて居るを宜い事にして、茂之助は些とも家へ帰って来ません。終には増長して家の金を持出して遊びに出て、小瀧に入上て仕舞いますので、追々借財が出来ましたが、親父は八ヶましいから女房のおくのが内々で亭主の借金の尻を償って置きます。此のおくのは、年齢二十七だが感心なもので、亭主の借金をぽつ〳〵内証で返す積りで働きまするのだが、夜業を掛けても、一反半織るのは、余程上手なものでなければ出来ませんのを、おくのは一生懸命に夜業を掛けて、毎日二反ずつ織上げませんと、亭主の拵えた借金が払えないと精出して遣って居ります。然ういう結構な女房を持って居ながら、茂之助は心得違いにも、とうとう多分の金を以て彼の小瀧を身請いたしました、尤も其の頃の事ゆえ、身請と云っても旅の芸妓は廉かったもので、こま〳〵した借金を残らず払っても、百二十円も有れば治まりがつくと云うくらいのもので、藤本の方を綺麗に極りを附けて小瀧を連れて来ましたが、宅へ入れる事が出来ませんから、足利の栄町六十三番地に、ちょっとした空家が有りましたから、これを借受け、飯事世帯のように小瀧と二人で暮して居りましたが、小瀧は何か旨い物が喰べたいとか、あゝいう物を織らして来てお呉んなさいと云う我まゝ気随でありますが、茂之助は宅へ往く了簡もなく、差向いで酒を呑み、小瀧の爪弾を聞いて楽しんで居ります中に、商売を懶けて居るから借金に責められるが、持立ての女だから、見え張った事ばかり為て居ります。         三  塩町と云う処に、相模屋と云う料理茶屋が有ります。此家は彼地では一等の家でございます。或日のこと、桑原治平と云う他所へ反物を卸す渋川の商人と、茂之助は差向いで一猪口飲りながら、 治「こう茂之助さん、君イね、何も彼も心得の有る人なり、それに前々は先ず戸田さまの御藩中であって大小を差した人に向って、僕が失敬な事を云うようで済みませんが、何うせ君の気に入るまいけれども、君の妻君のような者を持つは、実に此の上ない幸福だと思うが、おくのさんの心掛てえものは別だね、其の代り田舎育ちだから愚図だと云うは、何うもまア何かその云うことが、私も田舎者だから田舎の贔屓をするてえ訳じゃア無いが、言葉が違うので貴方の気に入らんか知りません、言葉は国の手形さ、亭主の留守を守るのが細君の第一の勤め、家事を治めるのが当然の処だが、如何にもその、おくのさんの家事の守りようが真実で、無駄のないようにして、織娘の手当から、織上げさせてからに自分ですっかり綴糸を附けて、直ぐに六斎へ持出せるように拵えて置くのに、貴方は少しも宅へ帰らねえのは心得違いで有りましょう、尤も今じゃア別に成っておいでなさるから宅へ往く事も有りますまいが、お父さんは義理が有るから、おくのさんに彼は宅へ寄せ附けないと云う、又おくのさんは、舅の機嫌を取って、貴方の借金の方を附けるてえ事を、僕は此間聞いてゝ落涙をしましたが、本当に感心な心掛だと思えました、貴方も子は可愛いだろうね」 茂「ヘヽヽ子の可愛く無いものは有りません」 治「それはね君も惚れて、大金を出してからに身請までした女を、よせと云うのは僕が強気に失敬な事を云うと君思うかは知れんが、彼のお瀧を、君に持たして置くのをよさせ度いね、廃し給え、君の為に成らんから」 茂「誰も然う云うが、何うも自分の好いた女と、一ト処で取膳で飯でも喰わなけりゃア詰らんからね、何も熱く成ってると云う訳じゃア無いが、僕の方からおくのを好いて持った訳でも無い、親の意を背かずに厭な女だけれども仕方なしに持ったが、自分の好いた女を愛して居るのがマア男の楽しみだからね」 治「それは楽しみさ、何も僕が君の楽しみを止めるてえ訳では無いが、如何にも君の細君の心に成って見ると、僕は君の楽しみを止めたいね、彼のお瀧なるものは……君の前でお瀧と云っては済みませんが、僕も彼が芸者で居る時分二三度買った事も有るが、おくのさんのように、あゝ遣って留守を守って固くして、亭主の借金済しまでして、留守を守って居るようなら宜しいが、中々彼は守らんぜ、密夫の有る事を君知りませんかえ」 茂「え……誰か〳〵」 治「誰かと云うて顔色を変えて……迂濶りした事は云えない、確と是はと云う証もなし、何も僕がその密夫と同衾を為ていた処を見定めた訳では無いけれども、何うも怪しいと云うのは、疾うから馴染の情夫に相違ないようだ、君の前で云うのは何んだが、本当に彼が君を思って貞女を立て通す気かも知れないが、君の処へ松五郎と云うものが遊びに来ましょう」 茂「なに彼は東京の駿河台あたりの士族で、まだ若え男だが、お瀧が東京の猿若町で芸者を為て居た時分に贔屓に成った人で、今零落れて此地へ来て居ると云うので、福井町に居ると云って時々遊びに来るから僕も酒を飲合って居るのさ」         四 治「君は気い附かずに居るんだかね、君の留守へ彼の松五郎が来て、お瀧と差向いで飲んでゝ、僕の這入ろうと為たのを、気い附かないようだったから、すーッと外して出たが、其の後両度ほど松五郎と差向いで酒を飲んで居た処を見たが、何も差向いで酒を飲んで居たから密通をして居ると云う訳でも無いが、実は色を売って居た芸者の事だから、何んとも云えないのさ、それに君も細君に苦労を掛けて、子まで有る身の上で、負債も嵩んで居られる事だから、日頃御懇意に致すに依って申すのだが、入らざる事を云うと君に愛想を尽されて立腹を受け、再び取引せんと云われゝば止むを得んが、全く君のお為を心得るから云いますので」 茂「有難う……然う云えば彼の松五郎は度々来ます」 治「度々来ましょう」 茂「私彼奴たゞア置きませんヘエ……」 治「それは悪い……顔の色を変えて、たゞア置きませんなんて、刃物三昧をするのは時節が違いますよ、成程あんたは素と戸田さまの御藩中だが、今は機屋だから機屋らしい事を為なければなりませんよ、御近所に原與左衞門も居りますから、誰か解るものを頼んで、体能く彼を東京へ帰すとか、又は他へ縁付けるとかして、話合いで別れなえといけませんぜ、先方で君に惚れて何処まで居る了簡か、又は出てえ了簡なのかそれは分りませんが、君も然う思っては最う添っちゃア居られますまい、岡目八目だが」 茂「いえ何うも御真実辱けない、成程浮気稼業の芸妓だからちっとは為ましょうけれども、私が大金を出して、多分の金も有る身の上では無いが、彼の借財を返して遣り、請出した恩誼も有るからよもやと思います、彼の時など手を合せて、私は生涯此地に芸妓を為て居る事かと思いましたが、貴方のお蔭で足を洗って素人に成れまして、斯んな嬉しい事は無い、時節が違うからべん〴〵と何時までも芸妓をして居る心は有りませんと云って拝んだ事も有りますから、此の恩誼は忘れまいかと思いますが、何う為たら宜かろう……二人の悪事を見定め、何うかして松五郎と密通して居る処へ踏み込んで遣りたいね」 治「じゃア斯う為たら何うだろう、君は時々松五郎を家へ呼んで酒を飲み合うだろう、じゃア何うだえ、今夜は淋しくって夫婦差向いで酒を飲んでも面白くないが、東京の人の云う事は面白いから松さんを呼んで来なと云って、遅くまで飲んで、夜短かの時分だから泊ってお出な、是から帰るったって一人身の事だから、女郎買でも始めると宜くないと云って無理に止めてサ、貴方が端の方へ寝て、中央へお瀧を寝かして、向うの端へ松五郎を寝かして、貴方が寝た振をして鼾を掻いて居る、其の中にお瀧が中央に居るから、若し情実が有ればソレ夜中に向うの床の中へ這入るとか、男の方からお瀧の方へ足でも突込めば、貴方が跳起きて両人をおさえ付け、実は斯ういう訳の有る事を知って居るから汝を呼んだのだと云って、長熨斗を付けて呉れて遣る、己も男だ、素より芸妓の浮気は知って居るから汝に呉れて遣ると云えば、銭入らずに事が済むから、然うしてあんなものは早く追出して仕舞って、何うかおくのさんを可愛がって上げなんし、宜くねえよ」 茂「誠に有難う」 治「然し僕が云ったと云ってはなりません」 茂「いや御親切誠に有難う」  と真実な治平の言葉に感じて宅へ帰りました。         五  其の翌日は丁度所の休み日で、 茂「今日は松五郎を呼んで一盃飲みたい」  と手紙を以て松五郎を呼びに遣ると、早速まいりました。 茂「何ぞ旨い肴は無いか」  と云うので是から三人で酒を飲み合って居る中に、茂之助が気を付けて見ると、何うも二人の様子が訝しい、気が付かずに居れば然うでもないが、疑心を起して見ると、すること成すこと訝しく見えます。ちょいと見る眼遣いの時に、眼の球が同じ横に往きながらも、松五郎の方を見る時は上の方へ往くが、僕の方を見る時は、下眼で、何んだか軽蔑して見るような眼つきだ、鰌の骨抜を皿へとりわけるにも、僕の方には玉子の掛らない処を探して、松五郎の方へばかり沢山玉子の掛った処が往くと、一々気になって来ます。斯う遣って僕にばかり盃を差すのは、僕に酒を勧め酔わして置いて寝かしてから彼奴の方へ往く了簡だろう、と思いましたから、成たけ酒を飲まぬようにして、お膳の隅へあけて、お瀧に盃を差し、女を酔わして堕落させようと思い、頻りに酒を勧める。其の心の中の戦は実に修羅道地獄の境界で、三人で酒を飲んで居りましたが、松五郎は調子の好い男で、 松「何うも大きに酩酊しました、もうお暇をしましょう、お暇をしましょう」 茂「まア宜いじゃア無いか、今夜は泊って往き給え、是から福井町へ帰れば、貸座敷と云っても余り好いのは無いが色を売る処、殊に君は独身者だから遊女にでも引ッかゝると詰らんよ、一つ蚊帳の中へ這入って三人混雑にお泊りよ」 瀧「お泊んなさいよ、お前さんは独身だから余程遊ぶてえ事を聞いたが、詰らないお銭を費って損が立つ計りではなく、第一身体でも悪くするといけないし、それに余程もう遅いよ、慥か一時でしょう」 茂「だからさ、泊って往きたまえ」  と無理に引止め、片端へ茂之助が寝て、中央へお瀧、向うの端へ松五郎が寝まして、互に枕を附けると、茂之助は胸に一物有りますからわざとグウー〴〵と鼾を掻いて居りますが、少しも寝ない。何うして居やアがるか見て遣りたいと、眼を瞑って居ながらも時々細目に開いて、態とムニャ〳〵と云いながら、足をバタァリと遣る次手にグルリと寝転りを打ち、仰向に成って、横目でジイとお瀧の方へ見当を附けると、お瀧はスヤリ〳〵と寝て居る様子、松五郎もグウー〳〵と鼾を掻いて居ますから、いまにお瀧が彼方へ往くに相違ないと思って居る中に、次第〳〵に夜が更けて来る、渡良瀬川の水音高く聞えるように成ると、我慢して起きて居たいが飲める口へ少し過したので、ツイとろ〳〵と茂之助が寝まして、不図眼を覚して見ると、お瀧が竈の下を焚き附けて居て、もう夜が白んで、松五郎は居りませんから、アヽ失策ったと思い、 茂「お瀧〳〵」 瀧「あい」 茂「松さんは何うしたえ」 瀧「あの誠になにだがお暇乞をしなければ成りませんけれども、少し用が有ると云って早アく帰りました、又四五日内に来ると云いましたよ」 茂「はアー然うか、少し頼みたい事が有ったのに……アヽー眠い〳〵、何故此の頃は斯んなに眠いんだろう」  と瞞かして居りましたが、何んでも己がトロリと寝た間に逢引をしたに違いねえ、と疑心が晴れませんから、又一日隔いて松五郎を呼び、酒を飲まして例の通り蚊帳を釣って三人の床を展べ、茂之助は仰臥になって横目で二人の様子を見ながら、空鼾を掻く中に、余の二人もグウー〳〵と寝て居ます。時々細目に開いては見ますけれども、二人とも側へ寄る様子も有りません。お瀧は茂之助の方を向いて寝て居ります。         六  茂之助は、二人の様子に目を付けて居るが、何うしても知れない。何んでも是は明方人の起る時分に何うかするに違い無い、今夜こそは、と心を締めて居る中に、漸々眠くなって来たから、腿を摘ッたり鼻を捻ったりして忍耐しても次第に眠くなる、酒を飲んで居るからいけません。明方になると、トロ〳〵と寝ました。……アヽ失策ったと眼を開いて見ると、お瀧は竈の下を焚付けて居ますが松五郎は居りません。 茂「お瀧〳〵」 たき「あい」 茂「松公は何うした」 たき「早く帰りました」 茂「少し用が有るんだッけ……アヽーまた明日呼ぼう」  と云って同じく遣って見たがいけません。口惜い〳〵と思って不図考え付いてお瀧を呼び、 茂「お瀧、己は東京へ金策に往って事に寄ると横浜へ廻って来る」  と宅を出まして、直近村の太田の知己の家に居て、日の暮れるを待って、ソッと土手伝いに我家へ忍んで来ました。畠には桐を作り、大樹が何十本となく植込んで有り、下は一杯の畠に成って居ります。裏手の灰小屋へ身を潜め、耳を引立て宅の様子を聞いて居りますると、お瀧が爪弾で何か弾いて居ります。此の爪弾が合図に相違ないと思って居る中に、夜は次第に更けわたり、しんと致すと、何処の寺の鐘か幽かにボーンと聞え、もう十二時少し廻ったかと思う時刻に、這入って来たのは村上松五郎と云うお瀧の情夫で、其の時分は未だ髷が有りました。細かい縞の足利織では有りますが、一寸気の利いた糸入の単物に、紺献上の帯を締め、表附のノメリの駒下駄を穿き、手拭を一寸頭の上へ載せ、垣根の処から這入って往く後姿を見て、 茂「むう松五郎か、来たな汝」  と息を屏して中へ這入る様子を見て居りますると、ガラ〴〵と上総戸を開けると、土間口へお瀧が出迎い、 たき「お這入りなさいよ」  と坐敷へ上げました。お瀧は情夫に逢うのだから嬉しい、夜に入れば少し寒うございますなれども五月上旬と云うので、南部の藍の子持縞の袷を素で着て、頭は達磨返と云う結び髪に、*平との金簪を差し、斑紋の斑の切れた鬢櫛を横の方へ差し、年齢は廿一でクッキリと灰汁抜の為た美い女で、 たき「何うしたえ、私の手紙が往違いにでもなりやアしないかと思って何んなにか心配したよ」 松「宜い塩梅に僕の手に這入ったが、家主ア東京へ往ったじゃアねえか」 たき「宜いよ。私は本当に案じたよ、お前の来ようが遅いから待ちぼけは詰らないと思ってたが能く来たね、何ね少しお金の出来る事が有って東京へ往ったんだが、一体才覚の無い人だから出来る気遣は無いよ、誰がおいそれと金を貸す奴があるものかね、屹度出来やア為ないが、二百両借りて来ると云ったから十日や十五日は帰るまいと思うよ、□□□□、□□□□□□□□□□□」 松「だって体裁が悪くて成らねえんだ、親指が感附きゃア為ねえか知ら」 たき「大丈夫だよ、彼んなでれすけだから気の附く気遣は有りゃア為ませんよ」  と云うひそ〳〵話を窓の下で聞いて居りました茂之助は腹を立て、 茂「己の事をでれすけ呼わりをしてえやアがる、罰当り奴、前橋の藤本で手を合せて、私を請出して素人にしておくんなさる此の御恩は忘れないと云やアがった事を忘れたか」  とグーッと癇が高ぶって来ると、額に青筋を現わし、唇を慄わし、踏込もうかと思ったが、いや〳〵二人枕を並べて居る処へ踏込まなければ遣り損うと思いましたから、尚おそっと窓の下に茫然立って居ると、藪蚊と毒虫に螫れるので癢くて堪りませんから、掻きながら様子を立聞をして居ました。 * そろばんがたの、すかしのあるかんざし、この頃流行せしもの。         七 たき「何んにも無いが、魚屋に頼んで置いたら些っとばかり赤貝を持って来たからお食りな」 松「何んだか何うも心配だなア」 たき「大丈夫だよ、お前が前橋へ来た時には私は貧乏して居たが、縁と云うものは妙だね、私が芝居町で芸妓をして居た時分に、まだ私が十五六で雛妓で居た時分からお前さんに岡惚をして居て、皆に嬲られて居る中に、一度が二度逢引をすると、其の時分には幾ら私が惚れたッてお前さんは未だ殿様株で、立派な気の詰るような人でありましたが、思う念も遂げられたけれども、それがため借金が出来て、此様な田舎へ出稼するような身になって、前橋に居た時にもお前さんに逢いたいばかりで、厭だけれども茂之助を金持だと思って来て見れば、矢張り金は有りゃアしないんだアな、彼の時は有る振りをしていたから、此の人に取っ掴まって居たら、またお前さんに逢える時節も有ろうかと来て見ると、立派な女房も有るんだよ、是まで余り道楽をしたとか云うので、実家へも帰られないので此様な汚ない空家を借りて世帯を持たして、爺むさいたッてお前さん茅葺屋根から虫が落ちるだろうじゃアないか、本当に私を退したって亭主振って、小憎らしいのだよ、此間の晩も種々話したいことが有るんだけれども出来ないと云うのはね、茂之助が、寝て居て鼾は掻くが時々動いたりバタ〳〵したりして気味が悪いから、じっと我慢をして居たが、本当に松さん居難いと思っておくれ、お前に逢って斯う云う訳に成ったら、茂之助が厭に成って何か彼奴に云われると、本当に身の毛立つほど厭なんだよ、併し大金を出して、私の身を請出してくれた恩が有るから、黙って居るけれども、実は厭なんだよ、私は半年でもお前さんと夫婦に成らなけりゃア置かないよ、若し夫婦に成れなければ寧そ死んで仕舞う積りだよ」  と話して居るを聞き、茂之助は一層怒りを増し、 茂「畜生め〳〵芝居町にもと居た時分からくッついて居やアがったんだ、己と口をきくのも厭だてえやアがる、うーむ彼奴に逢いてえばッかりに己をお客にして騙しやアがッて、畜生めむうー」  と余り腹が立つと鼻がフー〳〵鳴るから、自分で鼻を押え、猶も身を寄せて立聞くとも知らず、 たき「ちょいとこれを喰べて御覧よ、□□□□□□□□□□□□□□□□□□、□□□□□□□□□□□□□□□、お前に逢うと、何んだか私は我儘になって変になっちまうんだよ、と云って此家を出る訳にも往かず、何うかして茂之助が死ねば宜いと思って居るのに、中々悪達者で死なゝいのだよ、此間もお腹が甚く痛むと云うから、宜い塩梅だ、コレラに成るのかと思ったと云うは、悪いお刺身の少しベトつくのを喰べたから、便所へ二度も往きゃア大丈夫だと思ってると一日経つとサバ〳〵熱が取れて薩張り癒って仕舞ったから、私はがっかりして仕舞ったのさ」 茂「畜生、亭主の病気が癒ってがっかりする奴が有るものか」  ともう耐え兼ねて、短い脇差へ手を掛けて抜き掛けて土間口から這入って来るとも知らず、奥では一盃飲みながら松五郎の膝へもたれ掛り、 たき「□□□□□□□□□□□□□□□」  と、一盃の酒を飲み合い、もたついて居るのを見たから堪りません。平素温和しい善い人の怒ったのは甚いもので、物をも云わずがらりと戸を開けて中へ飛込み、片手に抜身を提げて這入ると、未だ寝は致しません、お膳の前でピッタリ寄添って酒を飲んで居る処へ飛込んだから、少し間合が早かったけれども、我慢が出来ませんから松五郎を目懸けて斬り込むと云う、此の事が騒動の始まりでございます。         八  東京でも他県でも色恋の道では随分自分の身を果します、間男をされて腹を立てぬものは、一人もございません、男同士でも交情が善くって手を曳合って歩いても、他の人とこそ〳〵耳こすりでもされますと男同士でも嫉妬を起して、彼は茂山氏の傍へばかり往って居る、一体彼奴は心掛けが宜くない、軽薄を以て彼の方へ取附こうと云う考えだろう、などと詰らない事を云って怒ります。同じようなお膳が出まして鯛の浜焼が名々皿に附いて出ましても、隣席の人の鯛は少し大きいと腹を立て、此家の亭主は甚だ不注意極まる、鯛などは同じように揃ったのを出せば宜いんだ、と云っても然う揃ったのは有りません。また隣で蔵でも立派に建てますと、何うだえ此の頃は忌にぎすついて来たが、成上りてえものは宜けねえ者だ、旦那然とした面を為やアがって、朝湯で逢っても厭に肩で風を切って、彼奴が蔵を建ったので丁度南から風の這入る処を、蔵の為に坐敷が暗くなっていけません、何彼だって好い蔵じゃア有りません、毀しか何か買って来たんでしょう、火事でも有りゃア直に火が這入ります、などゝ自分で建てる事が出来んとグッと込上げて参りますが、誰も此の嫉妬心は離れる事は出来ませんものと見えます。況てや大金を出しまして連れて来たお瀧が、松五郎の膝へしなだれ寄って亭主の事を悪口を云うのだから腹の立つのも道理、茂之助は無茶苦茶に斬込んで来ましたから二人は驚き、お瀧は慌てゝ逃げ出す。松五郎は旧は士族だけに腕に覚えの有る奴、素より剛胆の奴ゆえ左のみに驚きませんで、一歩退って後に有りました烟草盆を取ってポカリと投げ附けると、茂之助の肩をかすッてパチリと柱へ当ると、灰は八方へ散乱致す、其の中にお瀧は一生懸命だから四巾布団を取って後から茂之助を抱き締めましたが、女の事で身丈が低いから羽がい締めと云う訳には参りません、脇の下をお瀧に押えられたが、茂之助は無茶苦茶に刀を振り舞しながら、 茂「間男見附けた、さア二人重ねて置いて四つにしようと八つに為ようと己の了簡次第だ、間男見付けた」  と死物狂いの声で呶鳴り立てゝ、ピン〳〵と鼻へ抜けて出る調子で、精神はもう頭へ上って居ます。松五郎は何か無いかと四辺をキョロ〳〵探すと、巻手と申しまする何か機織道具で、長二尺ばかり厚み一寸も有ります巻手と云うものを取って打って掛る。 たき「誰か来ておくんなさいよ、家の良人が大変でございますよ、人殺イ」  と云っても田舎の事ゆえ誰有って来るものは有りません。すると一軒隔いて隣に川村三八郎と云う者が居ますが、妙な堅いような耄けたような変な人でございまして、早く開化の道理を少し覚え、開化は宜いもんだと考えを起して居りますが、未だちょん髷が有りまして、一体何うも此の人は聞覚えの分らぬ漢語を交ぜて妙な言を云います、漢語と昔のお家流の御座り奉るを一つに混ぜて人を諭したり口を利くのが嗜きな人でございます。処が今茂之助の家で女の声で、キイーキイー人殺しイと云うを聞き付け、捨置き難いと存じましたから飛び込んで見ると、茂之助が抜刀を振廻して居ます。松五郎を目懸けて打って掛るを抱き留め、 三「先ず待ち給え」  と云いながら茂之助の手を押え、 三「聊か待ち給え、急いては事を為損ずるから、宜しく精神を臍下丹田に納めて以て、即ち貴方ようく脳膸を鎮めずんばあるべからず、怒然として心を静め給え」 茂「へえ有難う……ございますが、どうか放して下さい」  と云う。         九 茂「三八さん、誠にお恥かしい事でございますが、此のお瀧の畜生奴、間男を引摺込んで貴方私の事を悪口して居るのを私が聞くとも知らず、大それた枕を並べて寝に掛ったから助けちゃア置かれません、私だって素は御領主さまの家来で、聊か御扶持も戴いた者ゆえ親父に聞えても私が顔が立ちません、名義が廃ります、ヘエ」 三「いや、御尤もの事だが、能く爰の道理を君肯かんと宜しく無いて、何のような事が有ろうとも僕が斯う遣って此処へ仲来して、今君だちの困難を発明することは公然たる処を得たりと雖も、お瀧どのが一体逃去ったる義で御座り奉つり候、茂之助さんが大金を出して身請に及び、斯る処の一軒の家まで求め、即ち何不足なく驚愕安然として居られるのを有難く存じ奉る義と心得あるべからんに、密夫を引入れてからに、何うも酒肴をとり引証をするのみならず、安眠たる事は有るまからんと存奉候、其処の道理を推測って見ますと、尊公の腹立致さるゝ処は至極何うも是は沈黙千万たるの理合にあらずんば有るべからず」  と何んだか云う事は些とも分りません、可笑いのも上せて居りますから気が付かず茂之助は夢中で居ります。 茂「お前さんの云う事は何んだか薩張り分りませんが、男女とも此の儘何うも捨置く事は出来ません、御意見に背くようですが親父の前へ対しても打棄っちゃア置かれませんから、私は彼奴を斬らずにゃア置きません、何うぞお手をお引き下さいまし」 松「さア斬れ、二人並べて置いて斬れ……何にイ当然よ、密通すれば何れだけと処分は極って居るんだ、仮令間男をしても亭主が無闇に斬るような世の中じゃア無えや、さア何処へでも勝手に持出せ、一年の間赤い筒袖を着て苦役をする事は素より承知の上だが、何も二人で枕を並べて寝てえた訳じゃアなし、交際酒を一盃飲んで居ただけで、何も証拠の無え事を間男呼わりを為やアがッて、何処が間男だえ」 たき「静かにしておくんなさい、三八さんにまで御苦労を掛けて済みませんが、申し茂之助さん、何う為たんだよ、お前さん能く気を落着けておくれよ、大金を出して私を身請えしたと云う処を恩に掛けて居なさるけれども、丸で私をおさんどん同様にこき遣って居るじゃアないか、請出されて来て見ればお前には立派なお内儀さんも有って子供まで出来て居るじゃアないか、だから実家へ這入る事も出来ないで斯んな裏家住居の所へ人を入れて、妾と云っても公然届けた訳でもなし、碌なものも着せず、いまに時節が来ると本妻にすると私を騙かして置くじゃアないか、間男を為たと云われた義理かえ、何うにもお前さんから然んな事を云われる訳は有りませんよ、若しおくのさんが松さんと一緒に寝てゞも居たら、それは斬るとも叩るとも勝手にするが宜いけれども、私は斬られちゃア詰らないから立派に出しておくんなさいよ」 茂「えゝ─出すも退くも有るものか」  と打ちに掛るをやっと押え留め、 三「まア〳〵それでは即ち人民たるものゝ権利を蔑ろにすると云うものだから、先ず心を静め給え、一体当県は申すに及ばず全国一般の幸福たるをおしはかって見れば、そのエー男女同権たる処の道を心得ずんば有るべからず、姑く男女同権はなしと雖も、此事は五十把百把の論で、先ず之を薪と見做さんければならんよ、貴方の方に薪が五十把あると松五郎殿の方には薪が一把も無えから、君が方に薪が有らば己の方へ二十把許り分けて貰いてえ、いや分ける事はなんねえと云う場合に於てからに、松五郎殿が其の薪を窃んで焚くような次第と云わざるべからざる義だから、恐入り奉る訳ではない、なれど白刃を揮って政府お役人の御集会を蒙むるような事に於ては愍然たる処の訳じゃア無いか、先ず即ち僕も斯う遣って爰へ這入った事だから、兎に角僕に預け給わんければ相成らんと心得有らずんば有るべからず」  と何んだか訳の分らん事を云いながら無理遣りに押別けて、お瀧、松五郎の二人を自分の宅へ連れて参りました。         十  三八郎は再び茂之助の処へ来て、段々茂之助の胸を聞いて見ると、彼奴には愛想が尽きたから何処までも離縁をする気だが、身請の金を取返さんければならんと云い、おたきの方では手切を遣せというので掛合が面倒に成り、終にはお瀧の方へ遣るような都合になりましたが、其の金が有りませんから、三八郎が茂之助の親奧木佐十郎の処へ参り、 三「えゝ御免を蒙ります」 くの「おや、おいでなさいまし……お父さま、栄町の三八さまがおいでなさいましたよ」 佐「まア、此方へ、これは好うこそ、さア何うぞ此方へ」 三「御免なさいまし……えゝ追々気候も相当致しまして自然暑気が増します事で、かるが故に御壮健の処は確と承知致し罷りあれども、存外寸間を得ず自然御無沙汰に相成りました」 佐「拙者方よりも誠に御無沙汰……好うこそ、さア〳〵もっと此方へ……貴方はお若いに能く人の世話をなさると聞いて居りますが、誠に感心な事です」 三「いえ何う致しまして、併し貴方は何時も御壮健で」 佐「いえ最ういけません、年を老ったので何も手伝いが出来ん事に成りました」 三「恐入ります、尊君さまの御令貌の処は中々御壮健な事で……えゝおくのさん、誠に御無沙汰を致しました、此の間はまた何よりの物を戴き誠に有難う……つい離れて居りますから存じながら御無沙汰に相成ります……えゝ今日は少々御内談を願う義が有って態々推参致したる理合と云うは内々の事で、何うも御尊父さまの御腹立の処は予て承知致し罷り有るが、実は茂之助殿の儀に就いて奈何とも詮術有る可からざる処の次第柄に至りまして、何とも申し様も有りません」 佐「えゝ彼は魔がさして居りますから頓と宅へは寄せ附けません、子は無い昔と諦めて居りますなれども、嫁に至っては如何にも孝心な者でござって、少しも悪い顔を致さず、誠に私を真実の親のように大切にしてくれますから、彼んな白痴者は要りません、最うおくの一人で沢山でござる、孫も追々成人しますから、田地其の他所持の財産は皆孫等に譲り与えて奧木の相続を致させますから、貴方決して彼には構わんで下さい、金円の儀は聊かたりとも御用立下さらんが宜しい、お心得のため申上げ置きます」 三「へえ……さて何うも此処に於て謝せずんば有るべからざる事件が発して、如何とも恐入り奉ります儀で」 佐「ムー何んで、何事でござるか」 三「誠に何うも申し悪いが、何時までぐず〴〵匿しても居られませんから一伍一什申上げる儀でござるが、実は彼の婦人の手を切るに三十円と云う訳で、段々先方へ掛合った処が、間男を為た覚えはないから出る処へ出ると云うのだが、出る処へ出れば第一尊君のお名前に障り、当人の耻にも成る訳で悪い、女の方から先方へついて三十円遣せと云う次第で、誠に恐入りますが三十円此の川村三八郎へ下さると思召て、御腹立では御座いましょうけれども願いたい」  と云われて見れば捨てゝ置けず。然うもして遣ったら茂之助も家へ帰ろうかと思いまして、右の金子を川村に渡しました。是れでお瀧は茂之助へ面当ヶ間しく、わざとつい一里と隔たぬ猿田村の取附きに山王さまの森が有ります、其の鎮守の正面に空家が有りましたからこれを借り、葮簀張の掛茶店を出し、片傍へ草履草鞋を吊して商い、村上松五郎は八木八名田辺へ参っては天下御禁制の賭博を致してぶら〳〵暮して居ります。茂之助は三八郎の計いで、手切金を出しお瀧を離縁しましたが、面当に近所へ世帯を持ったので口惜くって、寝ても覚めても忘られず、残念に心得て居りました。         十一  丁度盆の事でございます。茂之助は少し用が有って町へ買物に出ますると、足利地方では立派な家のお内儀さんが風呂敷包を脊負って買物に往きます。日傘を指し包を十文字に脊負い、ガラ〳〵下駄を穿いて豪家のお内儀さんでも買物に出まするくらいだから、お瀧も小包を提げて買物を致し、自分の家へ這入りに掛る処を茂之助が見付け、 茂「おい、お瀧〳〵」 たき「あい……恟りしたよ、何んですえ」 茂「何んですとは何んだ、何んですもねえもんだ」 たき「何を云うんだよ、何うしたんだねえ」 茂「何うもしねえのよ、お前に少し云う事が有って己は来たんだ、お前と云うものは何うも実に不実な女だぜ、己に済むけえ、前橋に居た時に何卒して東京へ帰りたい、何時までも此処に芸者をして居ても堅くして居ちゃア衆人の用いが悪うございます、此の節は厭な官員さんが這入って来て御冗談を仰しゃる事が有るから困ります、私も旧は武士の娘ですから然んな真似も為たくないと云うから、己が可愛相だと思えばこそ無理才覚をして、藤本へ掛合って、手前の身請をして遣った時にゃア手を合せて拝んだじゃアねえか、その恩を忘却して何んだ、松公に逢いたいから請出されて来たとは何んの云い草だ、何うも然ういう了簡とも知らず騙されたのは僕が愚だから仕方も無えが、剰さえ三十金手切を取って、これ見よがしに此の猿田村へ世帯を持ち、二人仲好く暮して居られた義理かえ」 たき「然んな事を今云ったッて仕方が無いじゃアないか、然んなら何故彼の時出さないようにおしなさらない、一旦得心ずくで離縁に成って仕舞えば仕方が無いじゃア有りませんか、もう書付まで取交して悉皆極りが付いて仕舞って、今の私の亭主は松五郎ですよ、成程それは旧お前さんのお世話に成った事も有りますけれども、今に成って然んなぐず〳〵した事を云うと、今度はしっぺえ返しに松五郎さんの方から理不尽に喧嘩でも仕掛けるといけないから、後生ですから早く帰って下さい、お前さんより松さんの方が余程やきもちやきで困るんだよ、ちょいと他の男と差向いで話でもして居ると、直ぐ嫉妬を焦いて、訝しい処置振りをするって怒るんだよ」 茂「誰だってそれは怒るのが夫婦の情だ、お互に情が有れば夫婦の情だが、お前の方では夫婦の情を尽す事が無えんだ、何う考えてもお前に出られちゃア己の顔が立たねえんだ、聞けば松公は賭んでばかり居る……賭んで居る……そうだそうだが、行先の認めの無い松公を慕って居ても末始終お前の身の上が覚束無えよ、縁有って一度でも二度でも苦労をした間柄だから、少しの金で松公の手が切れる事なら、何うか金の才覚はするから旧通りに話が附くめえものでも無えから、帰る腹なら帰ってくれねえか」 たき「厭だよ、シト何うしたんだね、私は素よりお前さんに惚れて来たんじゃア無いよ、前橋のような知りもしない処へ芸者に往って、逢う人も〳〵馴染めないやぼな人ばかりで、厭で〳〵堪らない処で松さんに逢ったんだが、彼の人は私が東京に居た時分からの馴染だが、お金が無くって気儘に成れないから困って居ると、お前さんが舌の長い事を云ってポン〳〵法螺をお吹きだから、宜い金持の旦那様と思い違えて、請出されて来て見ると、宅ではお内儀さんが機を織って働いて居るような人だから、然んな人の傍に何時までくっ附いて居ても仕方が無いから、私も斯う云う訳に成ったんだから、何もお前さんに未練を残して帰りたいなんてえ了簡は無いよ、然んな未練な事を云うと気障が見えて耐らないよ」 茂「耐らないとは何んだ…」 たき「私はもう縁が切れて見れば赤の他人だよ、その他人へ失敬な事を云うと肯かないよ」 茂「失敬も何も有るものか」  と腹立紛れに突然お瀧の髻を取って引倒す。 たき「何をするんだえ、お前」 茂「何もねえもんだ、殺して仕舞うのだ」  と互いに揉み合って居たが、やがて茂之助はお瀧を組み伏せ、乗し掛って拳を振り揚げ、五つ六つ打って居る処へ村上松五郎が帰って参りました。         十二  村上松五郎は此の体を見るより飛掛り、茂之助の髻を取って仰向けに引倒し、表附の駒下駄で額の辺を蹴ったからダラ〳〵と血が流れるを、 松「やい手前も愛想の尽きた女だから金まで附けて手を切ったんだろう、何をするんでえ、僕の妻に対して失敬な事をすると免さんぞ、僕の妻を捕まえて無闇に打擲する事が有るかえ」 茂「僕の妻も無えもんだ……やア己の頭を割りやアがったなア」  と口惜しいから松五郎に喰り附きに掛ると、松五郎は少しく柔術の手を心得て居りますから、茂之助の胸倉を捕えて押して往きますと、彼の辺には所々に沼のような溜り水が有ります。これは水溜で、旱魃の時の用意でございます。茂之助は其の水溜の沼のような処へポンと仰向けに突き落され、もんどりを打って転がり落ち、ガブ〳〵やって居るを見て、二人とも嘲笑いながら帰って参り、 たき「私を厭という程五つ打ちやアがったよ」 松「打たれながら勘定をする奴もねえもんだ、今度来やアがると只ア置かねえ、本当に彼奴は狂人だ、ピッタリ表を締めて置け」  と云う。此方は茂之助が泥ぼっけになって沼から這上りましたが、松五郎に踏んだり蹴たりされたので、身体も思うように利かず、 茂「あゝー残念だが何うする事も出来ねえか」  と善い人だけに逆せ上り、ずぶ濡れたるまゝ栄町の宅へ帰り、何うやら斯うやら身体を洗い、着物を着替えたが、袂から鰌が飛出したり、髷の間から田螺が落ちたり致しました。 茂「もう只ア置かねえ、彼奴等を殺して己も其の場で腹を切って死ぬより他に為ようは無い」  と無分別にも善い人だけに左様な心得違いを思い起しましたが、差料の脇差を親父が渡しませんから、何うかして取りたい、是は女房を頼んで取るより外に仕方が無いと、往き難いけれども勘忍して、丁度午後三時少し廻った時分でございましょう、恐々ながら江川村へ這入りました、此処から我家に近いから、寺の門の下に立って居たら子供でも出て来やアしないかと思って居ります処へ、布卷吉と云う七歳になる、色の白い、下膨れな可愛らしい子供が学校から帰りでチョコ〳〵と向うから出て来たのを見附け、 茂「おい布卷吉」 布「いやアお父さん能く来たねえ、お母さんがね案じて居るよ」 茂「あい……誠にお父さんは面目ないから、お前からお母さんに詫言を云ってくれ、お祖父さんは何うした」 布「アノ祖父ちゃんはね、恐ろしく怒ってるよ、お祖父ちゃんはね、アノ彼んなやくざな者は無い、駄目だって、アノ芸妓や何かに、アノ迷って、アノ此んな大切なお金を費うようなものは愚を極めたんだって、それだから迚も此の身代は譲れないから、汝の親父は寄せ附けないって、アノ坊が大きくなると此の身代は悉皆坊にやるから、彼奴を親と思うじゃア無い、お母ばかり親と思って勉強しろってね、それから学校へ往くの」 茂「私はお前のお祖父さんにもお母にも面目無い、私はもう縁が切れて居るから他人のようなものだが、只た一目お前のお母に逢って詫言を為たくって、お父さんは態々忍んで来たんだが、ちょいと内証でお母を呼び出してくんな」 布「呼び出せってお母は来やアしないよ、お父さんに内証で逢うと、然うするとアノ誰も彼も家に置かないとお祖父ちゃんが然う云ってるのだから、お母さんに来いたって、お父さんには逢えないよ」 茂「それは然うでも有ろうけれども、お祖父さんに内証でお母に逢い、一言詫がしたいんだ、お父さんは最う悉皆眼が覚めて、本当に辛抱人に成ったと然う云って、ちょいとお母さんを呼んで来てくれ」 布「だってお祖父ちゃんに叱られるもの、愚を極めた者に逢うと此方も愚になるから逢うなと然う云ったもの」         十三 茂「お前は俄かに怜悧に成ったの、年が往かなくって頑是が無くっても、己が馬鹿気て見えるよ、ハアー衆人に笑われるも無理は無い」  と差俯向き暫らく涙に沈み居たるが、漸く気を取直して面を擡げ、袂から銭入を取出し、 茂「こゝにお銭が有るからお前に遣る、もう私は要らないから是だけ悉皆お前に遣るから、これをお父さんの形見だと思って、これでお母さんに何か買って貰いな」 布「イヤー大変にくれたね、今までは何処へ往ってもお土産を買って来てくれた事は無いが、そのお銭は皆な芸妓に入り揚げちまって、女郎買の糠味噌が何うとか為たって然う云ったよ、今度坊にお銭をくれるようではお父さんも辛抱人に成ったんだろう」 茂「お祖父さんに然う云ってはいけないよ、お父さんの来た事が知れると、あの通りやかましいから、お祖父さんに内証でお母を呼んでくれ、私に逢ったと云うではないよ、あのざまの処から、内証で呼んでくれ」 布「じゃア内証で往って来るよ」  何心なく頑是なしに走って参り、織場へ往って見ますると、おくのは夜は灯火を点けて夜業を為ようと思い、襷掛けに成って居る後へ参り、 布「お母さん〳〵」 くの「何んだよ、昨日も学校から帰ると日暮方まで遊んでいたが、余り表へ出ねえようにしな、何んだよ」 布「あのね、お父さんが来たよ」 くの「え……何処へ」 布「あのね内証でお母さんに逢って詫言をしたい、辛抱人に成ったてえが、本当に成ったかも知れないよ、内証でお母さんに逢いたいって坊に斯様にお銭をくれたよ、お銭をくれるくらいだから辛抱人に成ったかも知れないから、お前逢ってお遣りな」 くの「逢いたいってお祖父さんがに知れると、でけえ小言が出るが……決して云うじゃアねえよ、黙って居なよ、然うして少し此の機を気イ附けて居ろ、蚊遣火が仕掛けて有るから」  と夫婦の情で逢いたいから、直に飛出して往こうかとは思ったが、一歳になるお定の顔を見せたいと思いまして、これを抱起して飛んで参り、 くの「おやまア貴方は何うしておいでなせえました」 茂「あい誠に面目次第も有りません」 くの「お父さまが物堅くって家へ寄せ附けないと云っても、おくのが附いて居ながら、事の済んだ暁には何とか詫言をして家へ出這入りの出来るように為そうなものだ、それとも私がお父さんに悪く取做しでもして居や為ないかと、貴方が腹でもたてゝいやアしないかと、そればっかり心配して居やしたよ」  と云われて、流石の茂之助もおくのの貞実に感動され、暫く泣き沈みました。 茂「アノー誠に何うも面目次第もない、もう此処が辛抱の仕処だから、私は一生懸命に稼いで親父に確とした辛抱の証を見せて家へ帰る積りだが、もうあの女には懲々したから真面目になって夫婦仲善く可愛いゝ子の顔を見て暮そうと云う心になったよ、併し只辛抱するったって親父が中々得心しまいから、横浜へ往って、少し商売の取引の事が有るから往く積りだ、これまで私は馬鹿を為て拵えた借財をお前が内証で払ってくれた借金の極りも附けなければならないから、是非横浜へ往きたいのだが、何うも身装が悪いと衆人の用いが悪いから、羽織だけは他で才覚したが、短かい脇差を一本お父さんに内証で持って来てくれねえか」         十四 くの「脇差なんぞを差さねえでも宜いじゃア有りませんか」 茂「脇差を差さねえと人の用いが悪いのだから持って来てくんな」 くの「お定がこんなに大く成りやしたよ、ちょっくら抱て遣っておくんなせえ」 茂「じゃア己が抱いて居るから持って来ておくれ」 くの「あんた、大分顔の色が悪いが、詰らねえ心に成ってはいけませんよ、一人のお父さまを見送らねえ中は貴方の身体では無えから、譬え何んなに厳ましいたって、お父さまが塩梅が悪くなって、眼を引附ける時に来て死水を取れば、誰が何と云っても貴方の家に極って居るから、腹の立つ事も有りましょうが、子供や私に免じて何うぞ軽躁な事を為ねえようにしてお呉んなせいよ」 茂「はい〳〵……決して軽躁は為ない、是までは殺して仕舞おうかと思った事も度々有ったが、お瀧の畜生に騙されて、子供の傍へ来る事も出来ねえ身の上になったが、彼ん畜生余りと云えば悪い奴だけれども、さっぱり縁を切って仕舞ったから、彼奴は松五郎と夫婦になったし、もう何も彼奴に念は無いから其処に心配は有りません」 くの「それでも能く思い切ったね、勘弁する時にしねえばなんねえが、それも是も子供や私に免じて勘忍したで有りましょうが……おや貴方の頭に疵が出来てるのは何う為やした」 茂「此の間中独身者で居るから、棚から物を卸そうとすると、砂鉢が落って此様に疵が付いたのさ」 くの「あらまア然うかね、危ねえ、定めて不自由だろうと思っても、近い処だが往く事も出来ないんだ、……然んなら私が脇差を持って来るからお定を抱いて居ておくんなさいよ」 茂「泣くといけねえから成たけ早く」 くの「はい、直に往って参りますよ」  と是から家へ帰り、親父に知れぬように脇差をこっそり持って来て茂之助に渡しました。 茂「有難う〳〵……さア、お定は少し泣いたよ」 くの「誠に御方便なもので……布卷吉は何うやら一人学校へ参りますし、私はお定を寝かし付けて、出来ない手で機を織って些っとずつ借金を埋めて置くように為ます、悪い跡は善いだアから貴方も気を落さずに身体を大切にして下せえまし、何事も子供と年寄に免じて勘忍しておくんなさいよ」 茂「あい……あいお前のような貞実な女房を余所にして悪党女に騙されて迷ったのは、己の身に罰が当ったのだが、何うぞ私の留守中親父を頼みます、宜いかえ、私は是から一旦栄町へ帰って直に立つ積りだ」 くの「お茶でも上げたいが往来中で」 茂「なに、お茶も何も飲みたくはない、留守中おくの身体を大切にしなよ」 くの「はい、貴方が横浜から帰って来たらば、ちょっくら栄町の家を訪ねますから」 茂「あいよ、子供を頼むよ」  と何も彼も人情が分って居ながら、諦めの附かんと云うものは因縁の然らしむる処でもございましょうが、茂之助は松五郎お瀧の二人を殺し、自分も腹を切って死ぬ決心故、是がもうおくのゝ顔の見納めかと、後を振返り〳〵脇差を腰に差して帰って往く後姿を見送って、 くの「はてな、彼の顔色は……うっかり脇差を渡したのは悪かったが、事に寄ったらお瀧さんを殺す心でも有りゃア為ないか、私が猿田へ先へ往って此の由をお瀧に知らせようか」  と心配して居ります。斯くとも知らず茂之助は猿田村の取付なる彼の松五郎の掛茶屋へ斬り込むと云う、大間違になりまする処のお話でございます。         十五  えゝ、久しく上方へ参りまして大分御無沙汰を致しました。新聞にも僅か出しまして中絶いたしました霧隠伊香保湯煙のお話で、央からお聴に入れまする事でございますが、細かい処を申上げると、前々よりお読み遊ばしたお方は御退屈になりますから、直に続きを申上げます、足利の江川村で茂之助が女房に別れるとき、横浜へ行くからお父さんに内証で脇差を持って来てくれと頼みました。これは恨み累なるお瀧と松五郎を殺して、自分は腹でも切って死のうと云う無分別、七歳になります男の子と生れて間もない乳呑児を残し、年取った親父や亭主思いの女房をも棄て死のうと云う心になりましたが、これは全く思案の外、色情から起りました事で、此の色情では随分怜悧なお方も斯様になりますことが間々あります。女房おくのは夫茂之助に別れる時に、何うも様子が変で、気になってなりませんから、万一して軽躁な事をしてはならぬと、貞女なおくのでございますから、一歳になりますおさだと申す赤児を十文字に負い、鼠と紺の子持縞の足利織の単物に幅の狭い帯をひっかけに結び、番下駄を穿いて暮方から江川村を出まして、猿田の松五郎の宅へ参りました。見世は片付けて仕舞い、縁台も内へ入れて一方へ腰障子が建って居ります、なれども暑い時分でございますから、表は片々を明け放し、此処に竹すだれを掛け、お瀧が一人留守をして居りますと、門口から、 おくの「はい、御免なさいまし」 お瀧「何方でございますか」 くの「松五郎さんのお宅は此方様でございますか」 瀧「はい手前でございますが、何方からお出でゞす」 くの「はい貴方がお瀧さんでござりますか」 瀧「はい私が瀧でございますが何方からおいでゞすか」 くの「はいお初にお目にかゝりまして、お噂には毎度承知いたして居りやんしたけれども、是迄はおかしな訳で、染々お目にかゝる事も出来ませんで、私ゃア茂之助の女房のおくのと申す不束者でござんして、何うかお見知り置かれましてお心安う願います」 瀧「おや然うですか、私もおかしなわけで、かけ違ってお目にかゝりませんでしたが、能くまア斯んな処へお出で下すって、まア此方へお上んなさい、何だか暗くっていけませんから、今灯を点けます、這入口は蚊が刺していけませんから、まア此方へ」 くの「はい有難うございます、まア是ア詰らん物でございますけれども、私が夜業に撚揚げて置いたので、使うには丈夫一式に丹誠した糸でございます、染めた方は沢山無えで、白と二色撚って来ました、誠に少しばいで、ほんのお前様のお使い料になさるだけの事でござります」 瀧「はいそれはまア何よりの品を有難うございます、さアずっと此方へお出でなさいまし、おや子供衆を負ぶで、其処は蚊が刺しますから団扇をお遣いなすって」 くの「はい、団扇は持って居ります、私ア貴方に少しお目にかゝってお願い申したいと存じまして」  と是からおくのが話し出します事は明日。         十六 くの「家へはちょっくら買物に往くって嘘を吐いて参りましたが、私が良人の茂之助もまア御縁があって、あんたを前橋から呼ばって栄町に世帯を持たせて置いた事は聞いて居ましたけれども、男の働きで当前のことゝ思えましても、年寄てえ者は取越苦労して、私にあんた義理もあるだから、やかましく云いますし、やかましく云えば意故地になって家へも帰んねえようにする彼れが気象でござりまして、あんな我儘な気象、あんたも知っての通り誠に心配して、まア縁が切れても男の未練で、ひょっとして貴方のとけえでも来て、詰らねえ事でもハア言い出せば、貴方だっても、まア松五郎さんでも黙っては居なさらねえ、縁の切れた所え来て、たわいもねえ事をいえば合点しねえぞと云えば、売言葉に買言葉、何んなえらい事になるかも知れねえとまア、女の狭え心で誠に案じることでござります、年寄子供を扣えて軽躁な事がなければ宜いがと思って居ます処の、昨日私が処えねえ……少し家へ来られねえだけれども、逢いてえッて来た様子が誠に案じられますから、それからまア何うかしてと思って居ましたけれども、太田へ参ったことを聞きましたから、また此方へでも来めえか、ひょっとして軽躁な事がありはすめえかと心配して、栄町へ参りましたら栄町の世帯は仕舞って、太田の方へ行ったてえから、気になってなんねえで、此方へ参りましたが、若し茂之助が此処え参りまして、どんなハア詰らねえことを言いかけても、あんた取合わずにまア柳に受けて居て下さると、荒えことも為めえから、打遣らかして居て下すって、其の時云った事が貴方のお気に障れば、其の時はどんなに胆がいれる事があっても、後でまた気の静まるときに意見をすれば聴入れてくれる人でござりますから、何うか若し参りましたらば、何卒あんた逆らわずに柳に受けてお置き下さるようにお願え申してえもので」 瀧「はい、そうで御座いますか、困りますねえどうも、まア貴方には初めてお目にかゝりましたが、茂之助さんは前橋の六斎の市のたんびにお出でなすったが、お前さんという立派なお内儀や子供のある事は存じません、当人も隠して女房はないから斯うもしてやると仰しゃって下さるから、頼り少い身体で、そんならばと云って来て見ると、子供衆もあり、お内儀さんも在って、手前は家に置かれないからと栄町へ裏店同様な所へ世帯を持たして、何だか雇い婆とも妾ともつかぬ様な仕合で、私も詰らねえから、何しろ身を固めるには夫を持たなければ心細いからと思いまして、それで浮気をしたてえ訳じゃアありませんが、今の松さんが前橋へ来なすったが、私も東京に居た時分からねえ馴染のお方で、恩になった事もあり、それに少しハイ約束をした事もありました、それが縁でちょく〳〵遊びに来たのを茂之助さんが嫉妬をやいて、むずかしい事を言ったから話も破れて仕舞って、まア示談で離縁になったのですよ、それから斯うやって夫婦になって居ると、未練らしく此の間も来て酷い事を言って、私の髻を把って引摺り倒し、散々に殴ちましたから、私も口惜いから了簡しませんでしたが、それは兎も角もまた茂之助さんが来て種々な事をいうのをハイ〳〵と柳に受けて居れば、また増長して手出しをする、そうなれば良人も腹を立てゝ茂之助さんを手込に打擲しまいものでもない……まアあるかないか知れませんが、他人の家へ来て、縁の切れた人が刃物三昧でもすれば聴きません、松さんも元は武士だから黙っては居りません、お互いに男同士で切り合って、松さんがまた茂之助さんに傷でも付けまいものでも有りませんから、それだけはお断り申して置きます」         十七 くの「はい、それが心配でござります、そんだから苦労でござりますから、斯うやって此処え参ったのです、どうか軽躁な事をして参るような事がござりましたら、松五郎さんも腹も立ちましょうけれども私や年寄子供に免じて下すって、私らを可愛相と思って、そこだけ御勘弁なすって……時経ってまた意見を致す事もござりますから、何うぞお願で、お瀧さん」  と田舎気質の正直に手を突き、涙ぐんで頼むので、流石の悪婦も気の毒に思い、 瀧「まア私の一了簡にも往きませんから、福井町の店受の処へ往って松さんが遊んで居ますから、私は是から行って呼んで来ましょうから、松さんにお前さんが逢って頼んで下さい、ね、そうして相談ずくに致しましょう、私も気味が悪い、松さんは留守勝だから無闇な事をして刃物三昧でもされると困りますから」 くの「私もお目にかゝって是非お頼み申しやすが、貴方からも能くお話なすって……年寄も居りますが、私も機織奉公に参りまして、それが縁になって嫁きましたのだから、誠に私が中へ這入って困りやすから、どうかお願いで」 瀧「宜うございます、私が往って来ます……アノ明けッ放して置きますから、貴方さん少し留守居をして下さい」 くの「はい、宜しゅうござります、お留守いたします、帰ってお茶でも上る様にお湯をかけて置きます」 瀧「じゃア私は一寸往って来るから、アノ子供衆に乳でも呑まして緩くりしておいでなさい」  と台所へ立って、ぶら提灯を提げて、福井町までは近い処でございますから出て往きました。すると秋の空の変り易く、ドードーッと一迅吹いて来ます風が冷たい風、「夕立や風から先に濡れて来る」と云う雨気で、頓てポツリ〳〵とやッて来ました、日覆になった葦簀に雨が当るかと思ううちに、バラ〳〵と大粒が降って来ました。あゝ降出して来て困るだろうと思って居ると、ドーと吹込む風に灯取虫でも来たか行灯の火を消して真暗になりましたから、おくのは手探りで火打箱は何処にあるかと台所へ探しに参った。其の頃はまだマッチは田舎では用いません、火口箱を探しに参りますると、雨は益々烈しくドッ〳〵と吹降に降出して来る。赤城の方から雷鳴がゴロ〳〵雷光がピカ〳〵その降る中へ手拭でスットコ冠りをした奧木茂之助は、裏と表の目釘を湿して、逆せ上って人を殺そうと思うので眼も暗んで居る。裏手へそっと忍んで来て見ると、ピカ〳〵とさし込む雷光に女の姿が見えたから、お瀧が彼処に居ると心得、現在我が女房とも知らず、引抜いた一刀を持って飛掛かった。おくのは真暗闇に人が飛掛かったから驚き、 くの「何方か」  と云う声も雷鳴の烈しいので聞えません。素より逆せ上った茂之助ゆえ無慚にも我が女房おくのが負って居る乳呑児の上から突通したから堪りません。おくのは 「アッ」  といって倒れた。茂之助は乗っかゝって、 茂「此の悪党思い知ったか」  と力に任して二ツ三ツ抉りましたから、無慙にもおくのは、一歳になるお定を負ったなり殺されました。 茂「あゝ……畜生め……あゝ能くも〳〵己に耻をかゝしたな、足利ばかりの耻ッかきじゃアねえぞ前橋の友達までに耻をかいて居るぞ、畜生め、此の位の事は当然だ……松五郎は居るか」  と探したが他に人も居りません。 茂「松五郎は居ないか口惜い」  とガタ〳〵慄えながら血だらけの脇差を提げて探りながら、柄杓で水を一杯飲みました。         十八  茂之助が柄杓で水を飲んで居るうち、夕立も霽れて忽ちに雲が切れると、十七日の月影が在々と映します。 茂「畜生め、能くも己に耻をかゝせやアがったな」  と髻を把って引起し、窓から映します月影にて見ると、我が女房おくのでございますから茂之助は恟りして、これは己の家じゃアないか知らんと四辺をキョト〳〵見て死骸へ眼を着けると、おくのが子供を負ったなりに死んで居ります。あゝ、おさだ迄かと思うとペタ〳〵と臀餅を搗いて、ただ夢のような心持で、呆然として四辺を見まわし、頓て気が付いたと見えて、 茂「おくの……堪忍してくんねえよ……アヽ何うしてお前は此処へ来た……間違いだよ、お前を殺すのじゃアない、お瀧松五郎の畜生を二人諸共殺そうと思って来たに、何うしてお前此処に居たのか、お前を殺そうと思ったのじゃアない……あゝ済まねえ、腹一杯苦労をさせて、お前を殺して済まねえ、己は罰があたって此様な事になったのだ……あゝお前ばかり殺しやアしねえ……おくの確かりして呉れ、おくの〳〵」  と呼ぶ声が耳へ這入ったか、我に回って片手を漸々出して茂之助の手へ縋って、 くの「茂之助さん間違いだろうね」 茂「ウーム間違えだ、お瀧を殺そうと思ってお前を殺したのだ、堪忍してくれよ」 くの「はい然うだろうと思って……知って居りやす、私はもう迚も助からぬ、こんな事もあろうかと思ったから、私は此家え間違の出来さねえように頼みに来ただけれども、最早仕様がねえが、おさだが可愛相だよ……お父さんの身を貴方、心にかけて大切にしなんしよ」 茂「あゝ己も生きては居ない……堪忍してくれ、あゝ済まねえ事をした」  と云っている内におくのは絶命れましたから、茂之助は只呆然して暫く考えて居ましたが、ふら〳〵ッと起上って、自分の帯を解いて竈の角から釜の蓋へ足を掛けて、梁へ二つ三つ巻きつけ、頸へかけて向うへポンと飛んで遂に縊れて死にました。誠に情ないことで。処へ提灯を点けて松五郎とお瀧は雨も止みましたから帰って来て見ると此の始末。さア何うしたのだろう鮮血淋漓、一人は吊下って居るから驚きまして、隣と云っても遠うございますから駈出して人を聚めて来ましたが、此の儘に棄て置く訳にも往きません、此の段を直ぐ訴えて宜かろうと云うので、それから警察署へ訴える事に相成りまして、検死の査官が来られてお調べになりまして、直ぐ奧木佐十郎の処へお呼出しでございます。佐十郎も一通りならん驚きで、布卷吉を連れて飛んで参りまして、段々お調べになって、尚お松五郎夫婦の者を調べると、茂之助が軽躁な事を為はしないかと案じて来たから、どうか其様な事のないようにと存じて頼まれても、一存で挨拶も出来ませんから、夫を福井町へ呼びに往きますると、大雨に雷鳴、是々の間手間を取って帰って見ますると、留守中に斯様な次第と云う。段々調べると、成程店受の処に居りました時間もありますし、江川村から出た時間もありますから全く間違えて女房を殺し、転倒して縊れて死んだ事であると分ったので事果てましたから、死骸はまず佐十郎方へ引取らせて、野辺送りをいたしました。初めは少しむずかしかったが、松五郎お瀧も別に処分もありませんで、それなりに事済みになりましたが、松五郎お瀧は此の辺の村の者に憎まれて居られませんから、早々世帯を仕舞って、信州へと云うので旅立ちました。         十九  お話二つに分れまして、これは明治七年六月の末のお話でござります。夏になると湯治場が流行りますが、明治七年あたりは湯治場がまだそろ〳〵是から流行って来ようと云う端緒でございました。熱海、修善寺、箱根などは古い温泉場でございますが、近年は流行いたして、また塩原の温泉が出来、或は湯河原でございますの、又は上州に名高い草津の温泉などがございます。先達て私は或るお方のお供をいたして、堀越團十郎と二人で草津へ参って、彼の温泉に居りましたが、彼処は山へ登るので車が利きません。矢張り昔のように開けません、近郷の人が入浴に参りますが、当今は外国人が大分参りまして入浴いたします。温泉場でもやり尽しまして、斯うしたらお客様の御意に入るか、斯う云う風に家を建てようかなどと心配いたして、追々開けて参る様子でございます、其の中にも丁度近くって伊香保と云う処は宜い処で、海面から二千五百尺高いと云う、空気は誠によく流通いたして、それから湯が諸病に利くと云う宜しい処で、脚気に宜しく、産前産後血の道に宜しく、子宮病に宜しく、肺病に宜しく、僂麻質斯は素よりの事、これは私が申す訳ではございません、独逸のお医者様が仰しゃったので、日本温泉論にありますそうで、随分大臣方がお出向になります。何う云うものか俚諺に、旅籠屋のことを大屋〳〵と申します。此の大屋の勢いは大したもので、伊香保には結構なのが沢山ございますが、中にも名高いのは木暮金太夫、木暮武太夫、永井喜八郎、木暮八郎と云うのが一等宜いと彼地で申します。木暮八郎の三階へ参って居ます客は、霊岸島川口町で橋本幸三郎と申して、お邸へお出入を致して、昔からお大名の旗下の御用を達したもので、只今でも御用を達す処もござりますが、まア下質を取って金貸と云うのだから金満家でございます。お父さんは亡って、当人は相続人になりました。只た一人のお母さんがありまして、幸三郎に嫁を貰った処が、三年目に肺病に罹りまして、佐藤先生と橋本先生にも診て貰ったが、思うようでなく、到頭死去りました。今は独身で嫁を探して居る身体、まだ年が三十七と云うので盛んでございまする。箱根へ湯治に行ったが面白くない、今度は伊香保へ行って見よう、一人では淋しい、連れをと云うので、是れは木挽町三丁目の岡村由兵衞と云う袋物商と云うと体が宜しいが、仲買をしてお出入先から何品をと云うと、直に宮川へ駈付けるという幇間半分で面白い人で、また一人は伴廻り、これは渋川の車夫で、車に乗って来た処が、正直で能く働き、気の利いた男で、しまいには馴染になって、正直者だから次の間に居れ、帰途は又乗ると云う、此方も居得だから小用を達して茶をいれたり何かする。年はまだ二十八だが、車夫には似合わぬ好い男でございます。今日は昼飯を食ってから少し運動をしようとぶら〳〵出かけました。         二十  只今では彼処は変りまして湯本へ行きます道がつき、あれから二ツ嶽の方へ参る新道も出来ましたが、其の頃はそう云う処はありませんから、まず伊香保神社へ行くより外に道はございません。石坂を上って行くと二軒茶屋があります、遠眼鏡が出て居りますが曇ってゝ些とも見えません、却って只見る方が見えるくらいで、ほんの景気に並んで居るのでございます。お婆さんが茶を売って居る処へ三人連で浴衣に兵子帯の形姿で這入ろうとすると、何を思ったか掛茶屋の方を見て、車夫の峯松が石坂をトン〳〵駈下りました。 幸「おい……峯公何うしたのだ、駈下りたじゃアねえか」 由「其処まで来て駈下りましたが、何か忘れ物でもしたのでしょう、貴方がカバンを提げて居らっしゃるとキョト〳〵して居ます、初めて伊香保へ来たから華族さんや官員さんの奥様や、お嬢さん達の衣装が綺麗で、日に二三度も着替えて御運動だから、彼奴は安物買が勧業場へ来たようにキョト〳〵して、危い石坂を駈下りたりなにかするので、今は何で行ったか分りませんが、時々能く物を買って食う男で、随分意地の穢い男で」 幸「何しろ何処かへ休もうじゃアねえか」  と傍の茶見世へ這入ると、其処に四十八九になる婦人が居ります。髪は小さい丸髷に結い、姿も堅い拵えで柔和しい内儀さんでございます、尾張焼の湯呑の怪しいのへ桜を入れて汲んで出す。其のお盆は伊香保で出来ます括盆で。 女「此方へお掛けなさいまし」 幸「好い景色だな、ちょうど今頃は好い景色に向う時だ」 女「はい、御緩りとお休みなさいまし……おや、貴方は橋本の幸さんじゃアございませんか」 幸「おや、これは御新造さん……何うして貴方が此処に」 女「誠にどうもお珍らしいたって久しくお目に懸りませんが、まア御承知の通りお上も亡なりまして、私も此様な処で、お茶を売るまでに零落れましたが貴方はまア大層お立派におなりなすって、見違いますようで……おや由兵衞さん」 由「これは御新造さん……これはどうも村上の御新造さん、此処でお茶を売って居らっしゃるとは何様探報者でも気が付きません……どうしてまア」 女「どうもお恥かしくって……実は貴方さんも御存じの通り、旦那様も彼ア云う訳になりましてねえ、仕方なく私ももう段々身体も悪し、微禄ましてしまったから、何を内職にするにも身体が本だから、其様にくよ〳〵せずに湯治に行ったら宜かろうと勧めてくれる者もありまして、此方の方に縁の家来筋の者が居りましたから、これへ参って湯治をすると、湯中がしてドッと悪くなり、五週間ばかり居るうちにお恥かしいお話でございますが、金を使い果してしまい、何うする事も出来なくなったのを、木暮武太夫と申す大家さまが真実な人で、種々云ってくれましたから、お前さん此処へ参ると、望月と云う書画なぞの世話をする人が在って、其の人に道具を東京で買ってもらい、此処へ茶見世を出して居りますのも、大家さん方に願ってお話をして、とうとうまア此の五月の末からこんな事をして居りますが、ほんの湯治かた〴〵やって居りますので、初めは間が悪くって知った方に逢いますと顔から火が出るようで、茶を汲んで出す事も出来ませんでしたが漸く此の頃は馴れて参りました……お懐しい東京の方を見ると、思い出して、東京のようすも大層違ったろうと思いますが、浅草の観音様は相変らず彼処にありましょうねえ」 由「えゝ、ありますとも、外に地面がありませんから」         二十一 由「御新造様、私は余計な事を申すようでございますが、岡野三太夫様なぞは、以前は殿様〳〵と申上げたお方だが、拙宅へお手紙で無心をなさるとは、どのくらいの御苦労か知れません、私に手を突いて御無心をなさる有様にお成りなすったかと、少し恵むと云う程な訳ではござりませんが、それから見ると御新造様なんぞは御気楽で、何んだって朝夕斯様な好い景色を庭のように見て居る、此のくらいな御養生はありません、お気楽でげしょう」 女「皆来る方は其様ことを云いますが、お前さん方は偶に来るからで、朝夕のべつゞけに山を見ると山に倦々しますよ」 由「そうでしょう、こりゃアそうでしょう、私の懇意な者が高輪に茶店を出して、旧幕時分で、可笑しかった、帆かけ船は見えるし、二十六夜の月を見て結構でしょうと云うと、左様でない、通るものは牛馬ばかりで、島流しに遇ったようだと云ったが、これは左様でげしょう、併し男子山と子持山の間から足尾庚申山が見える、男子子持の両山の景色などは好いねえ……あゝ子持で思い出したが、お嬢さんはお身大きくおなりでしょうね」 女「あれも十九になります、お耻かしい事でありますが、詮方なしに身過世渡、下の福田屋龍藏親分さんの処で抱えもすると云うので、行立たぬから、今では小峰と云って芸妓になって居ります」 由「お嬢様が……だからねえ、もうお鼻などは垂れやアしますまい、お少さい時分にお馴染の方が芸妓に出て、お座敷でお客様に世辞を云うようになるのだから、此方はベコと禿げるのは当前で、左様でげすか……旦那ちょうど好いのでげす」 幸「御新造様、旧来のお馴染である旦那様にも種々御懇命を蒙むったこともありますから、またお力になるお話もありましょう、またお嬢様にも久し振でお目にかゝりたい、事に寄ったら明日の晩向山へお嬢様を連れておいでなさい、あなた是非連れて来てください」 女「有難うございます、どんなに悦ぶか知れません、東京の知った方がお出でになると帰りたいと涙ぐんで話すので、中には連れて行こうと云う人もありますが、私があるから行く訳にも往きません、私も行きたいと云うと、婆が一緒じゃア困ると仰しゃる、それゆえまア此処に居ります……お前さんは相変らずお元気で」 幸「何うも仕方がありません、親父が死んでからは何も為ません、只遊び一方で仕様がない、怠惰者になって仕様がありません」 由「御苦労なすった御様子ですが、まだ御新造さんなどは宜しいので、先刻木暮へ漬物を売りに来た方は五百石取ったとか云う、ソレ彼の色の白い伊香保の木瓜見たいな人で、彼の人が元はお旗下だてえから、人間の行末は分りません……じゃア御新造さん私も種々お話もありますから翌の晩」 女「屹度見世を仕舞うと参ります、もう仕舞いましょうと思います」 由「翌の晩ですよ、左様なら」  と其処を出て暗くなって帰って来ましたが、木暮八郎の三階の八畳と六畳の座敷を借りて居る二人連れ、婦人の若い方の女中が癪が起って、お附の女中が落着く様に押して居るが、一人では間に合いません、次の間に居た車夫の峰松が手伝ってバタ〳〵して居る処へ帰って来ました。         二十二 峰「由さん、今手こずったよ」 由「何うした」 峰「今お癪で困りますから、早々障子を開けて這入っておくんなせえ」 由「なにを」 峰「癪が起ったので」 由「男が癪を起すのは珍らしいじゃアねえか」 峰「私じゃアねえ、隣座敷の御新造様が起したので」 由「なに御新造がお癪」  とガラリ障子を明けて見ると、御新造は歯を噛〆め反って居るを女中が押して居るが力の強いもので男の二三人ぐらい跳かえしますから、由兵衞が飛込んで押えます。 女「有難うございます、此方様で助かります、女一人では仕様がございません」 由「宜しゅうございます、此方へ首をおかけなさいまして、脊割を脛で押せば宜しいので、何しろお薬を……旦那お薬を」 幸「ナニ薬……峰公、床の間に己のカバンがあるから、あれを持って来な」 峰「カバン」 幸「早く〳〵」 峰「カバンはございません……貴方が其処に持って居らっしゃる」 幸「おゝ、そうか……神薬がある、早く水を」  というので薬を飲ませると好塩梅に薬も通って下る様子 「反らしちゃアいけない……」 由「あ痛え石頭を打付けて……旦那ナニを……咒いでげすから貴方の下帯を外して貸して下さい下帯で釣りを掛けると好いので、私のは越中でいけませんが、貴君のは絹でげしょう」 幸「失礼な、僕の下帯で奥様方を……」 由「だッて御病気の時は、そんなことを云ったって仕方がありません、咒いでげすから、失礼だって構いません」 幸「じゃアまだ締めないのがあるからあれを」 由「締めないのではいけません、締めたのが宜しいので」 幸「だって此処で脱れるものか」  とやがて新しい絹の下帯を持って来て釣りをかけ漸くに治まりも着きました。 女「なに好いよ、もう宜しい、岩や治まったから心配せんで宜しいよ」 岩「貴方どんなに心配したか知れません、お隣のお客様お三方がお出で下すって、結構なお薬を戴き治まりが着いたのでございます、確かり遊ばせ」 女「宜いよ、あゝ……有難うございます、皆さんもう宜しゅうござります」 由「恐れ入りました、お癪は治まると後はケロ〳〵致します……中々お強いお癪で」 峰「私の拇指はこんなになりました……随分強いお癪で」 幸「お薬はまだ私の方にありますから、これは此処へ置いて参ります、お構いなくおあがりなすって」 岩「誠に有難う存じます、お若衆様に一と通りならんお世話になりまして恐れ入ります……貴方能くお礼を仰しゃいな」 女「有難うございます」 幸「左様にお礼では痛み入ります」  と是から自分の座敷へ帰りまして、 幸「強いお癪だねえ」 由「強いたって癪の起るような身体つきであるよ、痩せぎすで、歯を噛い〆めて居る処は人情本にあるようでげす、好い女でげすな、伊香保で運動して居る奥様方や御新造さん方を見るに一番別嬪はお隣の御新造で、彼のくれえ品が宜くって、あのくれえ身体つきの好いのはありません、外のは随分お形装は結構で、出るたんびに変り、でこ〳〵の姿で居ても感心しない、起って歩く処を見ると、丈がづんづら低かったり、お臀が大きかったりするが、お隣の御新造は別で」 幸「峰公ひどかッたろう」 由「だけれども奥様のお癪を押すのは嬉しかったろう」 峰「そうさ、初めは嬉しかったが、段々ひどくなって来て、仕舞には一人で、押し切れず困りました」 由「そこへ私が後押で、旦那の下帯で綱ッ引と来たら水沢山もかるく引上げました」 幸「悪いよ、静かにしろ」         二十三 由「何でもあれは後家様だねえ……好い女だ」 幸「止しねえ、何だか知れるものか」 由「いゝえ後家さんだ、姿の拵えが野暮でござえます、お屋敷さんで殿様が逝去になって仕舞ったので、何でも許嫁の殿様が戦争で討死をして、それから貞操を立てるに髪を切ろうと云うのを、年が若いからお止しなさいとお附の女中がとめて、再縁をさせようと云うが、御夫人は貞操を立て、生涯尼になってと云うのでげしょう……形装も宜し、金側の時計に鎖は小さな珊瑚珠が間に這入ってゝ、それからこう頸へかける、パチンなどはこんな幅の広いので、竜が珠をこうやって居る処が着いて居るのは妙で」 幸「止しねえ」 由「大変に旦那に惚れて居ますぜ、初め私が話をして、彼れは東京の方だが、お家は川口町てえんで」 幸「下らねえことを云うな」 由「なにたゞ川口町と云ったので番地は云いません」 幸「番地など云ってはいかん」 由「どうも本当に品と云い人柄と云い、あんな方はないとお附の女中に云いましたら、本当に左様ですねと云って、お附の女中が横眼で見たが、これはどうも只ならんと思います」 幸「止しねえ、詰らんことを云って、聞えるぜ……峰公、止しな、覗いては悪い」 峰「覗きやアしません」  と次の間で火鉢 火を起して居た車夫の峰松は、火鉢へ火を取って湯を沸しながら耳を寄せると、此方は癪も治まったと見えて。 岩「どんなにか恟りいたしましたろう」 女「私は久しく起らなかったが、今日は強く起って………お湯に動ずると云うが動じたのだろうか」 岩「貴方のようにくよ〳〵して、斯う云う処へ入らっしゃっても頓とお宅のことをお忘れ遊ばさんからいけません、斯う云う処へ入らしったら悉皆お宅の事はお忘れ遊ばせ」 女「思うまいと思ってもそうは行くまいじゃないか」 岩「そうでございますが、其の替りには貴方幾日何十日お宅を明けて居らっしゃっても宜しいので、貴方のは気癪でございますよ、それを癒さなければならないと旦那様が仰しゃって、私を附けて此処に幾日何十日入らっしゃっても何とも御意遊ばさないじゃアありませんか、それで貴方どんな我儘を仰しゃっても、柳に受けて入らっしゃる、貴方はお仕合じゃアありませんか、他家には疳癪を起して、随分御新造様方を手込になさるお宅さえ有りますじゃアございませんか」 女「それは、御自分様に悪い事があるから、私へも優しく遊ばさなければお義理が悪いだろう」 岩「だけれども男は仕方がありませんよ」 女「それは男の働きで、偶に芸妓を買うか、お楽みに外妾をなさるとも、何とも云やアしないけれども、旦那様ばかりは余りと思うのは、現在私の血を分けた妹じゃアないか」 岩「それだから斯うやって長く居ても、何とも仰しゃらない、今年一杯居てもお小言は出ませんよ」 女「それは早く帰ればお邪魔になるから、たんと居ろと仰しゃるので」 岩「貴方はそうお思召すからいけません」         二十四 岩「貴方木暮武太夫へ菊五郎が湯治に来て居ります、家内を連れて来て居ります、松助も連れて居るそうです」 女「私は俳優は嫌い」 岩「落語家も来て居ります」 女「落語家は饒舌で嫌い」 岩「それでは貴方琴をお調べなさいな、どうせ借物で悪うございますが、何か一つお浚い遊ばせ」 女「私は厭だよ……芝居と云えば何じゃアないか、前橋へ東京の芝居が来て居るって」 岩「左様で、慥か左團次が来たそうで」 女「左團次と云えば、お隣の旦那様は左團次に能く似て居らっしゃるねえ」 岩「左様でございますよ、好男子で人柄で、そうしてお隣のお方ぐらい本当に御親切なお方はございません………そしてアノ若い気の利いた車を引く人、あんな身分に似合わぬ親切な人は有りません、まア一生懸命に汗を掻いて貴方のお癪を押してねえ、それにもう一人の方はとぼけて居て、あの方は本当に可笑しい方で、何か仰しゃって居るといつかお洒落になって居て、私は分りませんから御挨拶をすると、洒落に挨拶は驚くと仰しゃってねえ、皆な気が揃って面白いお方で、本当に親切な方ですねえ」  と噂をすればさす影の障子を明けて這入って来たのは車夫の峰松。 峰「先刻は」 岩「おや今お噂をして居りました」 峰「旦那が大変案じておいでなすって、それからお薬がお入用なら、もっと上げたい、お丸薬の良いのがあるから上げたいと申すので、なんなら持って参りましょうか」 岩「有難うございます、奥様ももう大丈夫で……まアお茶を一つ召上れ、まア此方へ」 峰「有難うございます……これは結構なお菓子で……大変ですねえ、お宅から参るので、此方にはございません、伊香保饅頭は温かいうちは旨いが冷ると往生で、今坂なんざア食える訳のもんではありません……へえー藤村ので、東京から来るお菓子で、へえ」 岩「今日のは一つ目の越後屋のお菓子で、一つ召上れ」 峰「有難うございます……此方はお二人切りだからお淋しかろうって旦那が心配して居ります」 岩「誠に好い旦那さまで、結構なお薬を頂き有難う存じました、只今お返し申しに上ろうと思って居ました」 峰「なに返さなくっても宜しゅうございます、幾らも持っておいでになるので、カバンを開けると用意に腹痛の薬だの頭痛の薬だの、是れは何んだとかって幾つもあるのだから、何処が悪いっても大丈夫で、緩くり御養生なさい」 岩「あなたの旦那さまは川口町とかで何御商売で」 峰「なに金貸で、下質を取ってお屋敷へお出入りがあるので」 岩「彼の方様今度は御新造様はお連れ遊ばさずに」 峰「なに御新造さまはないので、段々聞くとお死亡になって仕舞ったので、是から探すので、伊香保へ探しに来たと云うわけではないので、これは湯治でげすが、へえ此方の奥様見たいなあゝ云う御様子の好い方を女房に持ちたいなどと仰しゃいました」 女「あれまア冥加至極な事を仰しゃる」 峰「茗荷がどうしました」 女「いゝえ貴方そんな御冗談ばっかり」         二十五 峰「本当でげす、貴方のお癪を押したのは誠に有難いと云っていました」 女「恐れ入った事で、まだ癪を押して下すった御親切のお礼にも上りませんで、本当に貴方方の御親切で助かったと思って居ります」 峰「あの由兵衞という男は助平だからお前さんのことも種んなことを云って居ましたよ」 岩「御冗談ばっかり」 峰「貴方お癪にはなんでげすねえ四万てえ処がありますが、是から九里ばかりありますが、これは子供の虫と癪には覿面効くってえので皆な行きます、これは三日居ればどんな癪でも癒るてえますから入らっしゃいましな」 女「そう云うお話を聞きました、勧めた方もございますが、初めてゞ知らない処でねえ」 峰「なに車が利くし、道は出来て直きに往かれます、天狗坂てえのが少し淋しいが、それから先は訳はねえ、私の処の旦那も往くがの」 女「貴方の処の旦那さまが、そう何日」 峰「明日か明後日往くてえます、へえ」 岩「折角お馴染になったに、残らずで往くのですか」 峰「へえ私も往くので」 岩「心細うございますねえ、本当にねえ、お隣へ厭な者でも来るといけないと思って居たが、飛んだ好いお方が入らしったと喜んで居たのに、四万へ入らっしゃるって、淋しいねえ」 峰「じゃアあなた方も入らっしゃいな、また四万へ往って隣合って居ますから入らっしゃいましな」 女「でも貴方、男衆ばかりの処へ女二人一緒に参るのは、また知れでもしますと」 峰「知れたって宜うがす、別れ〳〵に往っても一方道で、四万へ往ったら又お隣り座敷に居れば知れやアしません、そうして襖を明ければ一緒になります、へえ一緒にお出でなさい、旦那も是非お連れ申したいといって居ましたからお出でなさい」 女「本当に御一緒に参りたいがねえ、宅から郵便でも来て此家に居ないとまた……」 峰「それは此方へ頼めば宜うございます、四万の關善と云うこれは善い宿屋で、郵便も直に来ます、一日遅れぐらいで届きます」 女「参りたい事は参りたいのでございますが」 峰「入らっしゃいまし、入らっしゃいよ、それに貴方明日ね向山へ往くので、私は留守居でげすが、向山へ往って芸妓を聘ぶので、あなた方なんなら御一緒に入らしって月見を成すっては如何です、向山の玉兎庵てえので、御迷惑でございますか」 女「何ういたしまして、迷惑ではございませんが」 峰「由兵衞さんは大変喜んで居りますよ、坂をお手を曳いて歩くのは大変仕合せだって云って居ますが、手が硬いと云って気を揉んで、種々の物を付けて居りました」 女「御冗談ばっかり、そんなら明晩月見にお供をいたしても宜しゅうございますか」 峰「宜しいのなんて、入らっしゃい、それから四万へ入らっしゃいまし、旦那はねえ駕籠と云うが、由兵衞さんはポコ〳〵歩くかも知れねえ、此方は遅れて渋川まで私の車で往って、渋川で車を一挺雇って貴方が乗って追っかけりゃア直で、一日で往かれます、届けものがあれば当家へ言付けて置けば堅え家で屹度届けます」 女「なんだかお別れ申すのが否ですから、じゃアそう云うことに願います」 峯「左様ならそうして入らっしゃいまし」  と妙な処に幇間を叩き、此方も心淋しいから往く了簡になりまして、是れから玉兎庵という料理屋へ参り、図らずも此の奥様の身の上が分ると云うお話でございます。         二十六  橋本幸三郎と岡村由兵衞は、向山の玉兎庵と申します料理屋へ参りましたが、只今では岩崎さんがお買入れになりまして彼処が御別荘になりましたが、以前には伊香保から榛名山へ参詣いたしまするに、二ツ嶽へ出ます新道が開けません時でございますから、一方道で是非彼処を参らなければなりませんが、彼処に福田屋龍藏親分が住居致して居りまして通ります人の休み処で飴菓子を売って居ましたのが初で、伊香保が盛ったに付いて料理屋を始めましたが、連藏と云う息子が居て、その息子が一寸料理心があって胡麻豆腐と胡瓜揉という物が当所の名物でございます。一寸鮒か或は鯉なぞを活洲にいたしましたから、活きたのが食べられます。現今では伊香保に西洋料理も出来ました。その玉兎庵へ参って、広間の方で橋本幸三郎が一杯やって居りますと、後から連れて来たのは隣り座敷に居ります処の御新造でございます。年が未だ二十四と云う実に品の好い別嬪でござりまする。世間を余り見ない人と見えます。お附の女中はお岩と云って四十二三でございます。是は品の好い訳で、出が宜しい。旧幕の折には駿河台胸突坂に居まして、二千五百石頂戴致した小栗上野介と云う人の妾の子でござりまする。この小栗と申す人は米国へ洋行した初めで外国奉行を兼ね御勘定奉行で飛鳥を落す程の勢い、其の人の娘で、私どもは深い事は心得ませんが、三倉で小栗様は討たれ、又市様と云う若殿様は上州高崎へ引取られ、大音龍太郎と云う人のため故なく越度もなきに断罪で、あとで調べて見ると斬らぬでも宜かったそうであります。飛んだ災難でございました。それから散々になって奥方は会津に落ちて、会津から上方へ落ちて、只今駿府にお在でと聞きましたが、何う成行きましたか。此のお藤と申す婦人は小栗様の娘で、幼年の折久留島様と云うお旗下へ御養女においでなすったお方で、維新になりましてからお旗下様は御商法を始めて結構なお暮しでございましても、何処か以前のお癖がありますから、どうも御身代のお為に悪いそうでございまして、殿様育ちのお癖かお冗費が立ちだすような事がありますから、商法なすっても思うようには儲けもないが、段々開けて来まして、皆な殿様方も商法は御上手におなり遊ばしました。出が良いから品と云い応対と云い蓮葉な処は少しもありません、落着いて居て、盃を一つ受けるにも整然と正しいので、 幸「そう貴方お堅くなすってはいけません、どうか私どもはぞんざい者で、お屋敷様へお出入りをいたした者でも、町人の癖でおんもりとした事は云えないので……こんな饒舌も付いて居りますが、此の通りずぼらなことは云うが堅いことは云えませんから、お打解けなすって召上りまし」 由「今日は私は奥様の前は堅くやろうと思ったが、堅くやると云いそこない、漢語なぞを使おうとすると、時々変なことを云いますから、矢張天保時代昔者でげすから、昔の言葉でなければいけません、殿様方もお戦に往って入らっしって命がけを度々なさったお方が、段々商人におなり遊ばして、世の中の人と同等の御交際をされますが、昔を知って居りますから貴く思いまして」  などゝ話のうちに追々肴が真中へおし並びますので、 幸「由兵衞一猪口…」 由「有難う……、胡麻豆腐は冷えませんうち召上ると云うことは出来ません、先から冷たいからこれも温かゝったら旨かろうと思います……瓜揉は感心で、少し甘ったるいのは酢が少し足らない……今日は小峰さんと云う芸妓が参りますが、是も昔は長刀の、ぞうりをはいてと伊左衞門ではありませんが大層なお身の上の人で」  と話のうち小峰が参りましたから、 由「ヤア来た〳〵……あゝ来た、どうも綺麗だ」         二十七 幸「さア〳〵此方へ、貴方大きくおなんなすって」 由「御覧なさい、お小さいうちに逢った限で、昔馴染と云うものはねえ旦那」 幸「お上りなすって、さア……どうもお美くしくお成りなすった」 由「上等〳〵……さア〳〵大変先刻からお待ち申して居りました」 やま「誠に遅うなりまして……御免下さい、貴方ねえ昼間のうちから上りたいと申してはそわ〳〵して居りまして、早く行ってお目に懸りたいと申して、直に木暮さんへ行こうと申して居りましたが、大屋さまへ行っても運動にでもお出で留守だといけまいから、それより暮れてからのお約束だからと申してね貴方」 由「へえ大変に待って居たので……イヤこれはどうも誠に」 小峯「昨日は母が誠に失礼を致しまして」 幸「どうも暫く、実にお見違い申して、往来で逢っては知れませんよ」 由「実にお見外れ申します……えゝ貴方のお少さい時分に私はお屋敷へ上ったことがございます、あの時はそれ両方のお手に大きな金平糖と小さい金平糖、赤いのが這入った袋を二つ持って入らしって、私が頂戴と云うと貴方一つ下すった、お気象がよくって入らしって、もう一つと云うと、また袋の中から、もう一つ〳〵と皆な貰って仕舞って、終いにはもう一つもないから、袋を覗いてお泣きなすったことがありましたが、彼の時分からお馴染でげすから」 小峯「有難うございます、お母さんが帰って来てまア、由兵衞さんがお出でなすったから早くお目にかゝれと申して……また昨日は有難うございます」 幸「どう致して」 やま「あんなにお茶代を頂き済まないと申して、お茶代なぞ頂く了簡ではないと申して」 由「貴方そう思召しますからいけないのです、茶見世を出したら茶代は沢山取る方が宜しゅうございます、料理屋なら料理を無闇に売るのが徳で、由兵衞なぞは莨入なら少々ぐらい破れて居ても売って仕舞います、それが商売で………これはお隣りの座敷においでの方で」 やま「おや何方様も……」 女「誠に……おや思いがけない、お前やまじゃアないか」 やま「おやお嬢様……お岩さまがお供でございますか」 由「おや、これは〳〵御存じで」 やま「御存じだってお少さい時分お乳を上げたのでございますもの」 幸「不思議でげすねえ、これはどうも、へえー」 やま「誠に御無沙汰申上げましたが、もう実にお見違い申すようにおなり遊ばして、只今ではお尋ね申すことも出来ませんで……左様で、小石川へ入らしったと承わりました……お岩様誠に貴方いつもお変りもなく」 岩「誠に久しくお目にかゝりませんで、つい〳〵ねえ貴方種々な事があって、申すにも申されぬことがございまして、小石川へお引込になって、何も彼も御存じでありましょうが、此の節のお身の上、実においとしい事でございますが、お少さい時分御案内の通り彼の事が決りませんで、私が只一人でじゃ〳〵張ってお側にお附き申して居りますから、お心丈夫に入らっしゃいと申して、種々深い理由があって今度は当地へ湯治が宜かろうと仰しゃるので、三週間のお暇を頂き、私もお蔭様で保養いたしますが、実にどうもねえ、貴方にお目に懸ろうとは思いませんでした」 やま「お嬉しゅうございますわ、私も此の橋本にお目に懸ったのですが、昔のことを仰しゃると面目次第もない、どうもねえ……娘が芸妓をして、娘は貴方それ七歳の時に御覧なすった峰と申す娘で、誠にこれが芸妓をして私は誠にもう面目ない葭簀張の茶見世を出して、お茶を売るまでに零落れました、それから見ればお岩様なぞは此方様のお側だから何も御不足はないので、まア〳〵結構でございます」 岩「はい実に苦労しても貴方お屋敷と違ってね、それに殿様があゝ云う訳にお成りなすったから、何うすることも出来ませんで、思いがけないまた外に苦労がございまして」 由「これは妙でげす貴方、此方は」 やま「はい此方さまは駿河台のソレ胸突坂に入らっしゃった殿様のお二方目のお嬢さまでございます」         二十八 幸「どうも思い掛けない、不思議な御縁付で」 やま「御縁付はまだお極りにはなりませんので」 岩「へ、まだ御婚礼は済まないので、誠に生涯お一人で暮したいなぞと心細い事を仰しゃるから、私がお附き申しては居りますが、そんならって御姉妹でありますので、宅の方の極りが着けば何うでも斯うでも此方様はお姉さまの事ですから、極りが着こうと思って、只今はお一方で入らっしゃるので」 由「不思議でげすねえ……だから私が申したので、御様子が違うてえので……お屋敷はやはり駿河台の胸突坂で、旧幕時代二千五百石もお取り遊ばしたのでげす……違いますなア……え、お癪の起し振もどうも違います、二千五百石だけのお癪をお起しなさる……これはどうも」 やま「何しろお嬢様にお目に懸りますのは尽きせぬ御縁と申すもので」 由「ごまをするというので瓜揉を一つ頂戴」  と由兵衞が頻りに喋って居ると、向うの四畳半の離れに二人連の客、一人は土岐様の藩中でございまして岡山五長太と云う士族さん、酒の上の悪い人、此の人は三十七八になり未だ道楽も止まぬと見える。今一人は三十六七で小粋な人でございますなれども、田舎の通り者、桑原治兵衞と云う渋川の糸商人でございますが、折々此の地へ参って遊んでばかり居ります。頻りにポン〳〵手を敲きますが、余り返辞を致しません。人が出て来ませんのは、沢山奉公人も居りませんから出ないと、癇癪を起して国会の演説が始まった様にピシャ〳〵手を敲きます。 岡山「誰も来ねえのか、これ〳〵」 男「へえ〳〵」  と黄色い声で、 男「此方様で」  とチョコ〳〵と来た者は妙な男で、もと東京の向両国の軍雞屋の重吉と云う、体躯の小さい人でございます。身の丈は二尺五寸しかないが、首は大人程ありまして、小さいたって彼の位小さい人はありますまい。形に応じて手足の節々も短かい。まるで子供のようであります。反物を一反買いますと、自分の着物に、半纒に、女房の前掛に、子供のちゃん〳〵が取れるというのでございます、三布蒲団を横に着て足の方へあんかを入れて、まだ二寸ばかりたれているというから、余程小さい男であります。割合に肥って居て頭が大きいから、駈けると蹌けて転覆る事がありますが、一寸見ると写し画の口上云い見たいで、なんだか化物屋敷へ出る一ツ目小僧の茶給仕のようでありますが、妙に気が利いて居て、なか〳〵発明な人であります。 重「へえ、お呼びなすったのは此方でげすか」  というを見ると二人は驚きました。 岡山「なんだ化物か、アヽ何んだ」 重「お呼びなすったから参りました」 岡山「何んだ、エ何んだ」 重「エヘ、お手が鳴りましたから参りました」 岡山「お手が鳴ったって、何んだ、ウン……亭主は居らんか、総体当家ではなんだ僕たちを愚弄して居るな、なんだ胆を潰す薄暗い処へピョコと出て驚く、真人間をよこせ、五体不具なる者を挨拶に出すべきものでない、退って普通の人間を出せ、なんだ」 重「へえ五体不具、かたわと仰しゃるは甚だ失敬で、何処が不具で、足も二本手も二本眼も二つあります」 岡山「それで一つ眼なら全で化物だ、こんな山の中で猟人が居るから追掛けるぞ、そんな姿でピョコ〳〵やって来るな、亭主を呼べ」 重「亭主は前橋へ往って居りませんから私が代りに出たので」 岡山「じゃア家内が居るだろう、家内を呼べ……これ先刻小峯に口をかけた処が、小峯は病気で出られぬと其の方が申した、其の小峯がどう云う理由で向うの座敷へ参って居るか、さアそれを聞こう」 重「えい、病気で居たのでございますが、旧来のお馴染で、お客様へ一寸御挨拶と云うので参ったので」 岡山「なに馴染だと、これ僕等は馴染でないから大病であるか、立聞はせんが誠に静かであれば、馴染の客であれば忽ち大病が全快すると申すか、口をかけても偽病を起して参らぬのは何う云う理由か、さアそれを聞こうと云うのだ、来なければ来ないでよい、早く申せば旨くもねえものをこんなに数々とりはせぬぞ、長居をして時間を費し、食いたくもない物を取り、むだな飲食をしたゆえ代は払わんぞ」         二十九 重「誠にどうも仕様がございません、向うは馴染で御挨拶だけで」 岡山「挨拶だけという事があるか……」 桑原「まア〳〵君、待ちたまえ、僕も度々来ては厄介になるけれども、能く考えて見ろ、此の旦那様を此処へ連れて来て、芸妓を呼ばっても来ず、その小峯が向うへ来て此処へ来ねえで見れば、己が呼ぶたんびに祝儀でも遣らぬようで、朋友に対しても外聞の至り赤面の至りじゃアねえか、来ねえば来ねえで宜いが、どうも此方へは病気で参られませんと云うて向うに居るのは奇怪じゃアねえか、どう云う次第であるか、胸を聞こう、向うへ挨拶なら此方へも挨拶だけ来て貰わねえばなんねえ」 重「あれはお母さんが堅いから出しません」 岡山「愚弄いたすな、来なければ来んで宜い、此の方の酒食いたした代価は払わぬから左様心得ろ」 重「それは困ります」 岡山「困るたって、何故べん〳〵と待たした、来るか〳〵と思って要らんものまで取った」 重「貴方が召上ったので」 岡山「それは出たから些とは食う、食ったけれども代は払わぬ……」 桑原「いや、それは代は払っても宜いが、能く積っても見なんし、どう考えてもいやに釣られて、小峯が来るか〳〵と思って、長い間時間を費し、それ〴〵要用のある身の上、どう云う理由か我々どもを人力車夫同様に取扱われては迷惑だから、親方を此方へ呼ばって貰おう、どれほど此の家に借りでもあるか、芸妓に祝儀でも遣らぬ事があるか、どう云う次第か、さアそれを聞こう、呼ばって来い」 重「前橋へ往って居ないと申しますのに」 岡山「前橋へ往った……帰るまで待とう」 重「何時帰るかどうも知れません」 岡山「帰るまで泊って居る」  と云いながら突然重吉の頭をポカン。 重「おや何で打つのです」 岡山「打ったがどうした、大きな頭を敲き込んで遣ろうと思って打った」 重「無暗に打って失敬ではございませんか」 岡山「何がどうした、コレなんだ、化物見たいなものを遣しやアがって」  と云いながら其処にありましたヌタの皿を把って投りましたから、皿小鉢は粉々になりましたが、他に若い衆が居ないから中へ這入る人もない。すると上り端に腰を掛けて居たのは、吾妻郡で市城村と云う処の、これは筏乗で市四郎と云う誠に田舎者で骨太な人でございますが、弱い者は何処までも助けようと云う天稟の気象で、三の倉の産で、今は市城村に世帯を持って筏乗をして母を養う実銘な人。此の人は力がある尤も筏乗は力がなければ材木を取扱いますから出来ません。市四郎は侠客の気質でございます故見兼ねて中へ飛込み、 市「貴方待ってくんなせえ、困った人だ皿を投っちゃア困りますよ、弱え者虐めして貴方困るじゃアねえか、大概にしてくんなせえ、此家な連藏さんは居ねえが、内儀は料理して居る、奉公人は少ねえに皿小鉢を打投って毀れます、三百や四百で買える物じゃアねえ、大概にするが宜い」 岡山「手前何んだ」 市「己ア此処へ用が有って来合せていたのだ」 岡山「手前仲へ這入るなら僕らの顔を立てるのが仲裁の当前だ」 市「お前方の顔を立てゝ上げてえが立てようががんしなえ、相手が悪いならば、あんた方の顔も立てゝ上げやしょうが、弱え者いじめをするにも程がある、此様なかたはナニ子供のような重さんの頭をぶちなぐる事はハアねえだ」 岡山「そんな不具者の顔を立てんでも宜い、拙者どもは芸妓小峯を呼びに遣わしたる処、病気と欺き参らんのみか、向うへ来て居るのは甚だ奇怪に心得るから申すのだ」 市「それが奇怪だって、そりゃ無理だ、芸妓だっても厭な処へは来なえ、貴方の方は厭だから来なえのだろう」 岡山「コレ甚だ失敬な事申すな」 市「失敬たって、芸妓だって、酒飲で小理窟をいう客は誰でも嫌えだ、向うは柔しい客で好い座敷だ、向うへ往くのは当り前の話で貴方御扶持を出して抱えて置くじゃアなえし、仕様ねえから早く帰っておくんなさえ……なにする、己胸倉捉ってどうする」  と市四郎の胸倉を捉った岡山の手を握ると市四郎は大力でありますから。 市「何をする」  と逆に取って岡山の胸をポーンと突くとコロ〳〵〳〵〳〵ッと彼のどうも深い谷川へ逆蜻蛉をうって五長太が落ちますと、桑原治平はこれを見て驚き駈下りたが、嶮しい坂でありますから踏み外してこれも転り落ちました。         三十  岡山五長太と桑原治平の二人がゴロ〳〵落る騒ぎに、一人奥に働いて居た人が何時のまにか伊香保の派出所へ訴えたから、巡査さんが官棒を携え靴を穿いて、彼の高い処をお役とは云いながら駈上ってお出でになり、 巡査「これ、どうか、え、お前じゃアなえか、此の谷川へ二人とも打落したは何故か」 市「はい、私打落したって、私を打殴るから私も先の相手を打落しやした」 巡「コラ、仮令其の方を撲打擲を致したにもせよ人を打擲するのみならず、此の谷川へ投落すと云う理由はあるまい、乱暴な事をして、えゝこれ、派出へ来なさい」 市「私そんなとけえ往くのは厭だねえ」 巡「これ、厭と云うて済もうか、直にさア来なさい」 市「私は派出などへ何の科があって私参るのだね」 巡「コラ分らぬ奴じゃ、これへ二人の者を打込んだではないか」 市「打込んだと云って、先で己に打って掛るから己だって黙っては居られねえから、手エひん捻って突いたら、向うの野郎逆蜻蛉を打って落ちたので、私が打落したのではねえ」 巡「じゃアから分らぬ事を云わんで派出へ参れ」 市「派出てえ何処え」 巡「屯所へ参れ」 市「屯所たってお屯様へ呼ばれる私罪はなえ」 巡「分らん奴であるぞ、罪と云うは今の事じゃ、二人を打落したのが罪じゃ」 市「己を先へ打つ奴の方が罪があると思いやんすが、どうだえ」 巡「分らん事を申すな、お前は布告を知らんなア」 市「へい知りません、私の方へ布告が廻った事もありやんすが、読めねえだ、手習した事がねえから何だか分らねえから印形捺いて段々廻すだ、時々聞きに来いなんど云うが、郡役所だって一里半もあるので、其処まで参るには商業を休まなければなんねえだから、聞きに往く訳にはめえりませんよ」 巡「どうもはや分らぬ奴……参れ」 市「参れませんよ」 巡「なぜ参らぬか」 市「なぜ参らぬだって、貴方私が悪くアねえのだに、先に打ちやした奴を先へ連れて往くがいゝのだ、私ばかり悪いからって連れて行くてえなア無理な話で」 巡「どう云う理由で此の谷へ打込んだか、それを申せ」 市「はい打込んだってえ、私を打ったゞからよ」 巡「じゃが理由なく貴様を打つという事もあるまい、貴様に悪い事があるから向うでも打擲したのだろうから隠さず云え」 市「隠すも何もねえ、此処な家へ来て芸妓が来ねえって皿小鉢を投って暴れるので、仕方がねえから、私用があって此家え来て居りやんしたが、見兼て仲へ這入った処が、私胸倉ア捉るから、仲人だと云うのに聞入れず私を打ちに掛ったから、まご〳〵すると打たれるから引外したら蹌けたので」 巡「また左様云う悪い者があったら手込に谷川へ打込む事はならぬ、すぐ派出も在るものじゃから訴えなければならんに、手込にする事はない、なぜ届け出んのじゃ」 市「だって此の谷を下りて、貴方の方へ訴えて此処え来る時分には逃げてしまうから、打たれ損にならねえ先に、貴方だって間に合いませんから、私は貴方の代りに打殴って、谷へ投り込んだので、早く云えば貴方の代りにしたので、大きに御苦労ぐれえ仰しゃっても宜かろうと思いやんす」 巡「えゝ、僕を愚弄致すか」 市「愚弄てえ何か」 巡「えゝ分らぬチュウものじゃ、まア参れよ」 市「参りませんよ」 巡「参らぬと云う事があるものか」  と分らぬ奴もあるもので、田舎育ちでも今は開けましたが、其の頃は無学文盲の無法者がありまして、強情を張ってお困りでございますが、これを丹誠して引張って行く、実に御難儀なお役で。 巡「参れ〳〵」  と手を捉って引こうとしたが大力無双の市四郎が少しも動かず、引く途端に官棒でお打ちなすったのではありませんが、グッと引く機みに市四郎の手先へ棒が当ると、市四郎が怒って、 市「や私を打ったな、貴方なんで打った、無暗に打って済むか、お役人が人民を打殴って済むか、貴方では分らねえから、もっと鼻の下に髯の沢山生えた方にお目にかゝり、掛合いいたしやす、さア一緒に行きましょう」  と反対に巡査さんの手を捉って向山の坂を下りましたが、世の中には理不尽な奴もあれば有るもので、是からお調べに相成ります。         三十一  さて引続きまする伊香保の湯煙のお話でございます。向山の玉兎庵で五長太という士族を谷へ投込みました者は、大力無双の筏乗市四郎という者でありますが、此の人は誠に天稟侠客の志がございまして、弱い者を助け、強い者は飽くまでも向うを張りまするので、村方で困る百姓があれば、自分も困る身上でございますが、惜し気もなく恵むという極義堅い気質でございまして、三の倉に居ります中は御領主の小栗上野介様が討たれました時其の村方を御支配なさるお方が彼様なお死に様をなすって誠にお気の毒の事というので、其の人に附いて居りました忠義の御家来、老人であるからというので自分方へ引取って三ヶ年介抱を致して、此の人が此の市四郎のお蔭で見送りをされますなどという細かきお話は後で申上げますが、中々聞かない気質で、其の代り此の市四郎は学問がございませぬから開化の事は頓と心得ませぬが、巡査様でも何でも見境なく無暗に強情を張って巡査様の手を取って向山の坂を降り、また登って派出所に参りました。巡査様もお驚きで、左様なる暴な奴に逢っては仕方がないもので、此の事を警部様へお伝えなされた事でございますから、警部公お出向きなされたが、恐れる気色もなく仁王立に突立って居ります。 警「これ、手前か向山の玉兎庵で口論の末士族体の者を谷川へ打込んじゃというが、それは何うも宜しくない、どういう訳でそういう乱暴な事を致すか」 市「先刻も私が云います通り、乱暴でねえで、何方が乱暴だかねえ、貴方の方で能く調べねえで無闇に来う〳〵と云って此処まで連れて来て、私もコレ用のある人間で、一日幾許って手間を取って居る者が、暇ア消して此処まで引張られるは難儀だから、参らねえというものを何んでもという、私ア暇を消して参ったが、私が悪いか向うな士族とかいうが悪いか見定めて人を引張ったら宜かろう」 警「そうじゃが、其の方は谷川へその士族体の者を打込んだという、巡査が確と是を見届け、又福田連藏方からも届けがあった故に出張した処が、全く其の方が投込んだという、其の方住所姓名は何と申すか、えゝ其の方の住所姓名を申せ」 市「何も私ア……住持に悪体を清兵衞が吐いたという訳でねえが、ありゃア三の倉の間違えでしょう」 警「いや其の方の住んで居る所は何と申す」 市「私の居る処か、私の居る処は吾妻郡の市城村で」 警「其の方は姓名は何と申すか」 市「姓名てえ何か」 警「其の方の名」 市「己ア名か、己ア市四郎と云います」 警「営業は何か」 市「えゝ」 警「営業」 市「なに」 警「分らん奴じゃ、ウーン営業を知らんてえ事があるか」 市「知りません、其様な事どうして、只の字せえ知らねえで習わねえに英語なぞ何に知る訳がねえ、それは外国人のいうことだ」 警「英語ではない、営業というは其の方の渡世商売じゃ」 市「商売か商売は市四郎てえ筏乗でがんす」 警「何故あって向山へ今日参ったか」 市「何をたって連藏さんとは心安い者で、茸を些とばかり採ったから商売の種に遣りてえと思って持って来て、縁側で一服喫って居ると、向うの離座敷で暴れ廻る客があるだ、若い衆を擲っていけえこともねえ皿を打壊したりして見兼ねたから、仲へ這入って何故此様な事をすると段々尋ねた処が、仲人の私がに悪口吐いて打って掛るから、打たれては間に合いませぬから胸を衝くと逆蜻蛉を打って顛覆ったゞ、ねえまア向うが弱えからだ」 警「何故其の様な暴な事をするか」 市「するッたって向うで打つから己ア方でも打ったゞ、黙って見ては居られねえから打ちやした」         三十二 警「仮令そういう者があるにもせよ、何故左様な暴な事を士族体の者が致したら、此の方へ届けん、自身手込に打擲するという事はない、人を打つてえ事はない、殴打創傷の罪と申して刑法第二百九十九条に照して其の方処分を受けんければならんじゃないか」 市「えゝ、あれはナニ二百五十銭ばかりの銭で腹ア立てゝ、あれは根が太田宗長という医者が悪いので、薬礼しろというが、銭ねえならお前二百五十銭に負けて遣ってくれというが、負けられねえっていうから喧嘩になったゞ」 警「ナニ……そんな事を尋ねるのじゃアない、ウーン誠に困るナ……其の方は人の身体を無闇に打つものではない、人の身体は大切のものじゃ、分らんか、この肉体というものは容易なものではない造物主より賜わる処の此の肉体は大切なものじゃ」 市「誰が呉れやした、虚言ばかり吐いて、此の体は木彫じゃアねえし仏師屋が造ったなんてえ」 警「仏師屋じゃアない造物主、早く言えば神から下すった身体、無闇と殴ち打擲して、殊に谷川へ投込むなどとは以ての外であるぞ」 市「じゃア先方の体ばっかり神様から貰って、己ア体は粗末にしても構わねえと云わっしゃるのか」 警「粗末にするという事があるか、先方の身体も貴様の身体も同じじゃ、それじゃに依って喧嘩口論して、粗暴に人を打擲する事はならん」 市「何だか貴方の云うことは明瞭分らねえ、だがねえ己ア身体は大事、先方な身体も大事と一つにいうなら、何故己ア身体を先方な奴が打ったか、打たれては腹が立つ、先方で打って此方で手出しが出来ねえといって、此方の坂を下りて亦登って貴方へ打ちやしたと届けて出て、それから又坂ア下って又登って向山まで往く間にゃア向うの奴は逃げて仕舞うから打れ損で、此の体に創を出来したら貴方其の創を癒す事は出来ねえだろうが、先方で打ちやアがったから己が打返したので、謂わばあんたの代りだ」 警「代りという事があるか、全く先方から先に手出しをした証拠があるか」 市「ナニ……」 警「先方から先に手出しをした証があるか」 市「えゝ、すりア有りやんす、此処に居る重吉という者、主人が居りやせんからソノ番頭役を致しやす、此の人が証拠だ、のう出來助どん」 警「出來助……其の方か」 重「へえ、それはヘエ私が申します、乱暴をして、毎日〳〵お酒を飲べて無闇に皿小鉢を抛って打ったりして、殊に私の頭を二つ打ったので、へえ、見兼ねて此の親方が仲へ這入って下すったので、二言三言云いやってねえ…親方に打って掛ったねえ、証拠は親方の頭に少々ソノ創がございます、へえ」 市「ねえ此の人が証拠で、神様から貰った私が身体を打ったから打返しただ、ねえ、だから貴方の些たア手助かりをしたゞ」 警「なに手助かりと云うがあるか……先方で先に打ったとあれば……まアよいわ……不論罪じゃ、それでは宜しい、宜しいに依って向後は左様な粗暴な事をしてはならんぞ、もう其の方も三十を越えて血気な若い者とも違うから、以後は喧嘩口論をして人を打擲することは相成らぬ、能く弁えろ」 市「それから」 警「それからということはない、宜いからもう参れ」 市「へえ、そうか、もう宜いのか、あんたも骨が折れるねえ、あんたも早く云えば仲人だ、己アも仲人にべえ頼まれて、能く村で仲人に這入って人の事を捌くだが、中々骨え折れる役だねえ、あんた方もなア」 警「早く往け」  と巡査様もお困りで、分らん者でございますけれども、別に悪い事をしないのに、近村で問いましても正当潔白という事、是は巡査様も御存じだから先ず軽く済みましたが、向山に居りました橋本幸三郎、岡村由兵衞は混雑が出来て面白くもない、殊に女連というので一とまず木暮八郎方へ帰りまして、翌日になりますと、朝飯を食べると誂えて置いたから山駕籠が一挺来ましたから、是へ幸三郎が乗り、衣類の這入った大きな鞄が駕籠の上に付き、手提が前に付きまして、其の他葡萄酒の壜が這入り、又東京から持って参った風月堂の菓子なども這入り、すっぱり支度をして四万の温泉場へ参る事になりました。岡村由兵衞は昔風でございますから、一寸致したくすんだ縞の浴衣に、小紋のこっくりと致した山無の脚絆に紺足袋、麻裏草履に蝙蝠傘をさして鞄を提げて駕籠の側につきまして、これから出まして、後の事は車夫の峰松に残らず頼みましたから、 峯「万事心得ました、遅くも参ります、由兵衞さん旦那を何分宜しゅうお願い申します」 由「よろしい、頼む」  と是から出ましたが、前申上げて置きました隣座敷のお藤という別嬪は、お附の女中岩と峰松が供をして、一緒に出るも極りが悪いから、後から出る約束に成って居ります。         三十三  橋本幸三郎、岡村由兵衞の両人は伊香保を下りまして、御案内の湯中子村へ出ます。彼れから岡崎新田五町田の峠を越し、五町田の宿を出まして右へ付いて這入って、是から川を渡りますが、吾妻川には大きな橋が架って居る、これは橋銭を取ります、これを渡ると後はもう楽な道で、吾妻川辺に付いて村上山を横に見て、市城村青山村に出まして、伊勢町より中の条という所に掛った時はもう二時少々廻った頃、木村屋と申す中食場所がございます。表には馬を五六匹繋ぎ、人足が来てガア〳〵と云って居る処へ駕籠をズッと着けました。 女中「入らっしゃいませ」 由「大きに若衆御苦労、今後で飯を食わせるが、何しろ休みねえ……おい〳〵女中さん、おい女中彼処の畳の上に何だ……黒豆が干してあるようだが、彼処を片付けておくれよ」 女「豆じゃアござえません、あれは蠅が群って居りやすので」 由「蠅か……私は黒豆かと思った、大層居るねえ真黒で……旦那御覧なさい、此の蠅はどうも酷いじゃアございませんか、ハッ〳〵ハッとたちますとまた直ぐに来ます、大変だ」 幸「大変だねえ、蠅の中へ大きなものが飛込んで来るが、なんだい姉さん」 女「あれは虻でねえ」 幸「虻……大層居るぜ、螫れると血が出ますからねえ……女中さん何かあるかえ」 女「左様でがんす、何も無えでがんすけれども、玉子焼に鰌汁に、それに蒸松魚の餡掛が出来やす」 由「えゝ鰌や蒸松魚のプーンと来るのア困ります、矢張無事に玉子焼が宜うがす……鰌のお汁それは宜かろう、鰌のお汁に玉子焼で……貴方召上らぬが一猪口酒をつけて持って来て……アハヽ一猪口が分らねえな可笑しい……尤も千万だ……何しろね若衆が来て居るからお飯喫べさせて、お酒を飲ましておくれ、若衆は是から山道へ掛るから、酔うとまたいけねえから気を付けて」 女「ヒエー畏りました」 由「閑静でげすねえ……あんたが駕籠で、私が歩くのでお話もできませんが、あの村上山の景色はありませんねえ、どうも山が連がって居て、あの間にチョイ〳〵松が、どうも大きな盆裁でげす、あれから吾妻川の真中の所へずうと一体に平坦な岩が突出して居て、彼処の上へずっとフランケットを敷いて、月の時に一猪口やったら宜うがしょう、なんぼ地税が出ねえたって、一杯に彼の大岩が押出している様子は好い景色でどうも……だけれども五町田の橋銭の七厘は二ツ嶽より高いじゃアありませんか」 幸「だけれども、あのくらいの橋を架けるのだから、どの位の入費だか知れねえ、だが景色は段々離れる方が由さん、好いたって、実にどうもないねえ、有難い…女中さん早くしておくれよ……えゝ、これから四里八町というから」 由「私は馬をいたゞきたいが、馬に乗って捉ってヒョコ〳〵往くなア好い心持で、馬をねえ……女中さん」 女「ヒエ」 由「馬を一匹、四万まで行くのだから帰り馬の安いのがあったら頼んでおくれ」 女「毎日何かえりも行ったり来たりして居りやすから、もう直が極って居るでがす、六十五銭でがんす」 由「六十五銭は高いねえ」 女「高えたって極って居るのでがんすから、その代り楽でねえ、坂へ廻ってはハア道がハアえらいでねえ、急の坂ががんすから、此処から折田へ出る道が極って居て楽でがんす」 由「じゃア姉さん、馬は暴れねえのを頼んでおくれ、いゝかえ馬に附ける物があるから、間違えちゃアいけねえよ……何しろ虻が大変で……あゝ玉子焼が出来た、おゝ真白だ」 幸「白身ばかりは感心だ」 由「じア喫ってみましょう………これは恐入ったね、中々柔かで仕末にいけません、姉さん、此の玉子焼は真白だねえ」 女「ヒエ」 由「玉子は沢山入れねえで豆腐が九分で……これは恐れ入ったねえ、豆腐入の玉子焼は恐れ入った、道理で真白だと思った、豆腐焼、これはないねえ、面白い、これは乙でげす、何うも閑静過ぎますねえ」         三十四 由「いゝや鰌汁の中に人参が這入って居る、これは感心でげす、牛蒡で無い処が感心で、斯ういう処が閑静……旦那何しろ旨い、貴方駕籠の上の葡萄酒を下しましょうか、まア此方を飲って御覧なさい、話の種で丹誠なもので、此の徳利の太さ、私が握るに骨が折れるが女中は苦もなく掴む、感心で、どうもこれは不思議で、表に馬が一杯というのは面白い、それで中はお客が只た二人、閑静なことじゃアございませんかね……女中さん、これは驚くねえ人参が牛蒡に成りますくらい蠅がたかります、玉子焼へ群ると豆腐入が今度は胡摩入り豆腐に成ります、何うも宜うがす」  その内に、 幸「女中さんお膳をさげて勘定しておくれよ」 由「女中さん勘定、いゝかえ……旦那あんたは駕籠で私が馬で、ぶら〳〵お出かけは何うです、先刻後の伊勢町という処に二三軒女郎屋があって、いやな島田に結って、鬢のほつれ毛を掻いて、色の白いような青いような、眼の大きな、一寸見ると若いようだが年を取って居りますぜ、三十二三には見えたが……女中さん伊勢町には女郎屋が何軒あるえ」 女「えゝ御座えやす、もと達磨でがんす」 由「あれは二軒切りかえ」 女「へえ只一軒で、女郎が一人居りやんす」 由「閑静なものだね……やア勘定は幾許になるえ」 女「ヒエ、九十銭若衆が十二せねで、金一円二銭になりやす」 由「申し旦那銭々というのはどうも面白い……六十五せねの馬はこれかえ」 馬「はいはい」 由「コウ馬士さんどうだい、馬は暴れはせんかえ」 馬「えゝ起ちもしねえが噛いもしねえ」 由「起ったり噛われたりして耐るものか、大丈夫かえ」 馬「大丈夫で、なに牝馬で、大概往復して居るから大丈夫で、ヘエ」 由「いゝかえ」 馬「さア其処え足イ踏掛けちゃア馬の口が打裂けて仕舞う、踏台持って来てあげよう……尻をおッぺすぞ」 由「おッぺしちゃア危え、動くよ」 馬「動きやすよ活きて居るから……さア貴方確りと、荷鞍へそう捉まると馬ア窮屈だから動きやすよ」 由「若衆いゝかえ大丈夫かえ、気を付けて」 馬「大丈夫で、此の道は馴れて居りやんすからね、もうハア一日には何返りも往くだからねえ、此の頃は馬ア眼を煩らって居るから、はっきり道が分らねえから静にあるきやんす」 由「冗談じゃアねえ、盲目馬では困るねえ」 馬「盲目でも歩くよ、此の道は一筋道だから心配はがんしねえで」 由「驚いたねえ、盲目馬の杖なし、大丈夫かねえ」 馬「大丈夫だが、只牛が来ると困るねえ」 由「おいおい牛が何処から来るえ」 馬「なアに牛がねえ、米エ積んだり麁朶ア積んだりして大概信州から草津沢渡あたりを引廻して、四万の方へ牽いて行くだが、その牛が帰って来る、牛を見ると馬てえものは馬鹿に怖がるで、崖へ駈込んだりしやす、たまげて此の間もお客さんを乗せたなりで前谷へ駈込みやアがった」 由「冗談云って、人間を乗せたなりで谷川へ駈込まれて耐るものか」 馬「なに貴方、滅多にはねえ大丈夫だが、先月谷川へ客一人打込んだが、あの客は何うしたか」 由「コウ冗談云っちゃアいけねえ」 馬「ハイ〳〵〳〵」  と中の条を降りまする、左方へ曲ると沢渡右方へ這入ると彼の四万の道でございます。是から折田へ一里、折田を離れて下沢渡へ参ると、是迄中の条から二里でございます。六七年以前より新道が開け、道も大きに楽になりましたが、其の折は未だ道幅狭く、なだれ登りに掛ると、四方を見ても山また山でございまして、中を流るゝ山田川、其の川上は日向見川より四万川に落る水で有りますから、トツ〳〵と岩に当って砕ける水の色は真青にして、山の峰には松柏の大木ところ〴〵に見えて、草の花の盛りで、いうにいわれぬ景色でございます。到頭四万の山口へ参りましたが、只今は車道が開けましたので西の方の山岸へ橋をかけまして下道を参りますが、以前は上の方を廻りましたもので中々難所でございました。         三十五  此の山口と申す処にも五六軒温泉宿が有ります、其の他餅を売ったり或は鮓蕎麦などを売る店屋が六七軒もあります。小坂へかゝると馬士が、 馬「もし旦那さん誠にねえお待遠だろうが、少しねえ荷イおろして往かなければなんねえ、貴方おりて下さい、おりて何もねえが麦湯があるから緩くりと休んで、煙草一服吸ってまア些とべい待って居ておくんなんしよ」 由「宜しい、じゃア下りるから、さア」 馬士「さアおりられやすか、腰イ抱いてやるから待ちなせえ」 由「大変だ、まるで病人の始末だねえ、あゝ腰がすくんであるけませんが……やア大層立派な家だが……おかしい、坂下から這入るとまるで二階下で、往来から真に二階へ入いる家は妙で、手摺が付いてある……」 馬「嚊ア麦湯でも茶でも一杯上げろよ、中の条から打積んで来たお客様だ…」 由「打積んだは恐れ入った、まるで荷物の取扱いだ」 幸「向に土蔵があって、此の手摺などの構えはてえしたものだ……驚いたねえ、馬方さんが斯ういう蔵持の馬方さんとは、此方は知らぬからねえ、失礼な事をいいましたが、実に大したお住居で、二階などが斯うお神楽でもなさるように妙に欄干が付いて居りますねえ」 馬「えゝ、是からねえ盆過になると、近村の者が湯治に参りますので、四万の方へ行くと銭もかゝって東京のお客様がえらいというので、大概山口へ来て這入る、此処が廿年前には繁昌したものだアね、今じゃア在のものばかりのお客しますからねえ」 由「驚いた、それじゃア大屋さんだ大屋さんで、馬方は恐入った……そう精出したら銀行へ預けきれめえが、金持だろうねえ、是から關善といううちまで八丁かえ」 馬「えゝ是から八丁は山道でがんす、關善まで送って、それから帰るのでがんすが、御用があるなら關善から己の方までそう云って来れば、中の条の方へ出る用があるから、用を聞きに毎日往きますから、入る物があるなら四万で買うと高えから、中の条で買えば砂糖でも酒でも何でも安いものがあるからねえ、買って来やんす、また退屈なら己方で蕎麦ひいて、又麦こがしも出来るからねえ私イ持って往きやすから、どうせ毎日往くだからねえ駄賃はいりやしねえ、馬の上へ積けていくから、彼処で貴方買わねえでねえ己が持って来て上げやんすからねえ」 幸「そりゃアどうも御親切に馬方さん何分願います、どうも感心なもので、是は少しだがお茶代だよ」 馬「へえ、これは有難うがんす……」 由「もし旦那……内儀でしょうが、結髪に手織木綿の単衣に、前掛細帯でげすが、一寸品の好い女で……貴方彼処に糸をくって、こんな事をして居るのは女房の妹でしょう、好く肖て居る、鼻が高くって眼がクッキリとして、眉毛が濃くって好い女です、斯ういう処に燻らして置くからいけねえが、これが東京の水で洗って垢が抜けた時分に、南部の藍万の袷を着せて、黒の唐繻子の帯を締めて、黒縮緬の羽織なら何処へ出しても立派な奥さん、また商人の内儀にも好し、権妻にも、新造だって西洋げんぶく大丸髷でも好し、束髪にして薔薇の簪でも挿さしたらお嬢さま然としたものです、何しろ此の山の中に居て冷飯を喫って、中の条のお祭に滝縞の単物に、唐天鵞絨の半襟に、袂に仕付の掛った着物で、縮緬呉絽の赤褌で伊香保の今坂見たように白く粉のふいた顔で、ポン〳〵跣足で歩いて居てはいけませんが、洗い上げるとよっぽど好い」 幸「悪口をきゝなさんな」 由「そうですが、妙なもので、山の中にも斯ういう別嬪があるのでございますからねえ」 馬「へえ、身支度が出来ました」 由「おゝ来た〳〵、馬方さんいゝかえ」 馬「さア乗かってくんなせえ、山道だから荷鞍へ確かりとつらまって、えゝかえ」  と是れからまた馬に乗り、駕籠を先に立たせ馬も続き、關善平方へ着きました。         三十六  幸三郎と由兵衞が關善の玄関に着くと、皆迎いに出ます。昨年私が堀越團洲子とともに或る御大臣様お供で關善へ参りましたが、只今では三階造りの結構な新築でございますが、その以前は帳場より西の方が玄関でございまして、此処に確か十畳の座敷、入側付きで折曲って十二畳敷であります、肱掛窓で谷川が見下せる様になって、山を前にして好い景色でございます。二階家で幾間も座敷がございます。其処へ着きますと直ぐ湯を汲んで来たから、足を洗って上り、 幸「あゝ好い心持だ、おい由兵衞さん、何か忘れ物のないように」 由「万事心得ました」 幸「若い衆、湯にも這入るだろうが、緩くり今夜泊って、旨い物でも食わせるから彼方の座敷に居ねえ」 由「よし〳〵心得ました、葡萄酒の瓶が毀れるかと心配した、斯ういう処へ来ては何もないからねえ……」 甲女「へえ叶屋でございます、なんぞ御入用なら通を置いて往きますから」 由「なにを」 甲女「叶屋で鰌玉子軍雞も出来ます、醤油味淋もございます」 由「そりゃア何か」 甲女「叶屋でございます」 乙女「へえ鈴木屋でございます、何んぞ御用はございませんか、これへお通を上げて置きますから、どうかお取付けになります様、誠に有難いことで、えゝ鈴木屋でございます」 由「今這入ったばかりで、まア仕様がない」 甲女「叶屋でございます」 幸「そう大勢幾人も来たって仕様がない、困りますねえ」 甲女「叶屋で」 由「叶屋でも稻本でも角海老でも今日が初会だ、これから馴染が付いてから本価を吐くから、まだ飯も食わねえ、湯へも這入らねえうち種々の物を売りに来るのは困るねえ」 幸「私は話に聞いて居るが、料理屋のようなものがあるので、取付けにして貰おうというのだろうよ」 由「もし、また豆腐入の玉子焼なぞが出来るので……どうも旦那お茶代を其様に遣らねえでもようございます、此処ですから」 幸「それでも出したものだから……おい姉さん」 女「ヒエー」 由「可笑しな返辞だねえ、面白い…もし旦那でも番頭さんでも呼んでおくれ、用があるから一寸」 女「ヒエー」 由「早くして」  という、やがて番頭がそれへ参りまして、 番「ヒエー」 幸「お前さん御亭主かえ」 番「手前は当家の番頭でござりやす」 幸「はア番頭さんか、当家は何というえ」 番「關善平と申しやす」 由「番頭さんの名は」 番頭「ヒエー與兵衞と申しやす」 由「成程關善の家に與兵衞ありというのは面白い」 番「左様でございます、皆様がそう仰しゃるので、旧来居りやすから」 由「ハヽヽ……これはいけません、洒落を云っても通じませぬ、皆様がそう仰しゃるなぞはこれは妙だ……これはお茶代で、これは雇人中へ」 番「えゝ有難うございます、主人が直ぐお礼に出まするで、有難いことで、ヒエ」 幸「何しろお前さん初めて来たので馴れませぬから、また後から連も来るから宜しく頼みます」 番「ヒエ、明日から世帯をお持ちなさるのでございますか」 由「何処へ世帯を」 番「えゝ一週間なり二週間なりお席をおきまして、お座敷の内へ竈でも炭斗火鉢すべて取寄せまして、三週間もお在になれば、また賄いの婆も置きまして、世帯をお持ちなさいますなら、炭薪米なぞも運びますから」 由「ハヽア此の座敷へ世帯を…成程疾うから持ちたいと思ったが、今迄店請が無いから食客でいたが、是から持ちますからお前店請になっておくんなせえ」 番「御冗談ばっかり、宜しゅうございます」 幸「何卒お頼み申します、賄いの婆さんも頼みますよ、給金なぞはようがすか」 由「此様な処へ来て洒落なぞを云っても通じませんので、むだです」 幸「少し口を休めな」 由「只もう私は好い心持で……旦那湯へ一杯這入って」 幸「己は少し駕籠で腰が痛えからまア先へ這入んねえ」 由「左様ですか、此の温泉はどうしたッてそばからぶく〳〵出る湯ですから、私が先へ這入ったって汚れるというわけではなし、他の者も這入るのですから」  と喋りながら由兵衞は湯へ這入りに往きました。         三十七  岡村由兵衞は湯に這入って来まして 由「どうも宜いお湯で、どうもあり難い〳〵、だがねえ少し熱うございます、此処の湯は大変熱い様で、一棟の中へ湯櫃が幾つもあるので、向うへまた下駄を穿いて往くと、着物を入れる棚があって、それからはしごを三段ばかり下りて這入るのです、心配なし、気が詰らず、残らず東京の人なし、皆田舎の人ばかりで髷があります、男ばかり、女は子供を抱いて這入って居りますが、芝居の話などはございません、只畑の話で、お前さんの処の胡摩は何時蒔きましたか、私の処では茄子を何時作った、今年は出来が悪いとか菜漬がどうだとかいう話ばかりして居るので面白いわけで東京の人は居ないから話はない、隅の方へ往って湯のはねない処へ這入って、小さくなって洗うのです」 幸「是は恐れ入ったねえ」 由「だが好い湯で、塩気があって透通るようで、極綺麗です、玉子をゆでて居る奴があるので、手拭に包んで玉子を湯に浸けて置くと、心が温まるという、どういう訳かと皆に聞くと、黄身から先にゆだって白身が後からゆだるという、嘘だろうというと本当だと番頭も云ったが、白身はなんともない、きみが温まるので、上の方が温まらねえで、心がちゃんと臍の下が温まるので、心臓肺臓などが温まるので、こんな嬉しいことはありません、時にお茶代の礼に来ましたか」 幸「未だ来ない」 由「へえ腰が温まり草臥が脱けます、這入ってお出でなさい」 幸「初めてで勝手が知れぬから、代りばんこに気を付けて、湯場は危険だから」 由「そう湯場働というのがあります、湯場を働くに姿を変えてというのは河竹さんに聞いた訳ではありませんが、芝居の台詞にもありますから気を付けて、何かゞ面白いからうっかり致します……」 婆「こゝな処に世帯をお持ちなせえやんすか」 幸「恟りした、何んだえ」 婆「こゝな所え炭斗を置きやすが、あんた方又洗物でもあれば洗って参りやすから、浴衣でも汚れて居れば己が洗濯をします」 幸「お前何だえ」 婆「賄いの婆で、あんた方のお世話アするからお頼み申しやんす」 幸「頼みやんすは面白い、勝手を知りませんから万事お前に委せるからよ、お前何歳だえ」 婆「私は六十一になりやんす」 由「フウ田舎の人は丈夫だから此の年で働けるのです、これから見ると富藏の婆さんなぞは五十八で身体が利かねえって、ヨボ〳〵して時々漏しますから、彼の人の事を思えば達者だ……是は汚いが茶碗は清潔なのと取換えておくれよ、汚い物は見ぬ方が宜うございます、見ぬ事清してえから……お湯へ這入ってお出でなさい」 幸「忙しいね、お前茶を入れる様にしておくれよ……」 由「婆さん湯沸を借りて」 婆「なに」 由「湯沸」 婆「ええ」 由「ゆわかしだよ、分らねえなア、鉄瓶でも薬鑵でも宜いから小さいのを借りて、急須へお湯をさす様に、宜いかえ分ったかえ、どうも……一寸も通じねえのは酷いな……それから菓子を入れる皿でも蓋が出来るような蓋物を持って来て、宜いかえ、菓子器をお願いだから……宜しく万事此処へこう置いて……お茶は鞄の中にあります、茶が変るといきませんから………ハッ〳〵〳〵面白いどうも……もう御膳が来るよ、早いねえ、もうそろ〳〵灯火が点く、早いものです、膳が来ました……旦那に何か」 番頭「これは主人が左様申しました、今日お着の事でございますから、折角世帯を持って是彼とお取り遊ばしても、もう好いお肴もございませんから、今晩だけはこれで御辛抱なすって、明日は又宜しいお肴をお取り遊ばして」 由「宜しい」         三十八 由「あなた湯へ這入っても一度に這入っちゃアいけません、私が伊香保で何度も這入って逆上せてね困りました、初めは面白いから日に七度も這入って鼻血が出ました」 幸「左様なに這入るから悪いや……お平椀に奇妙な物が這入ってるぜ」 由「へえ、お平椀の下に青物が這入って麩が切ってある、これは分った蕨だ、鳥肉が這入って居る……お汁に丸まッちい茄子のお汁は変だ……これは何んで」 幸「なにを」 由「皿に切ってありますが、これは東京で云えば鯛の浜焼が付くとか何とか云うので、何もなければ玉子焼だ、何だろうか、薄く切ったものが並んであるが、東京の者と見て気取りやがったんだ、何だかこれを一つ食って見よう……婆さん灯火を早く此処へ持って来て……何だ奈良漬の香物か、これは妙だ、奈良漬の焼魚代りは不思議、ずーッと並べたのは好いな」 幸「此処は大層香の物を貴むてえから、奈良漬を出すのは東京の者へ対しての天狗なんだよ」 由「何だか御法事の気味がありますからね、奈良漬にお汁の油揚は恐れ入った」 女「えゝ鈴木屋で」 由「また来た、何んだ」 女「えゝ枕を持って来やした、何卒お買いなすって」 由「枕をどうする」 女「枕、貴方方がなさる枕」 由「此の宿屋では枕がないのかえ、新しい枕を買うのかえ」 女「へえ」 由「幾らだね」 女「左様です、二ツで十四銭に致しやす」 由「高いねえ、此の枕は一寸縁日で買うと安いが、これは小枕が小さくッて、これじゃア出来やしねえが、何うしてもこれは買わなければならねえのかえ」 女「十四銭は高かアござえやせん」 由「この小枕は高天原に紙が一枚は酷いねえ、これは酷いが、まアいゝ、これを買っても宿屋で夜具を出すから枕も付きそうなものだ」 女「えゝ宿屋のは古うございますから、若し又お帰りの時お邪魔なら私が方へ引を立って取りますから」 由「幾らに取るえ」 女「左様でがんす、一つまア七厘宛に取りやす」 由「じゃアまア買って置きますよ……七厘ばかり取ってお前の方へ売っても詰らねえから……申し旦那、これを買って東京へ土産に持って帰って、是は四万の名物首痛枕とか何とか云って提げて行くのは洒落です」  とこれから酒を飲み御膳を食べにかゝる。其のうち又由兵衞がおしゃべりをして居ると、しとやかに障子を明けて、 女「御免なさい、私は鈴木屋でございます」 由「鈴木屋さんか、先刻から」  と見ると前の女とは大違い、年の頃は廿一二でございましょう、色のくっきりと白い、品の好い愛敬のあります、何うして此様な山の中に斯ういう美人が住うかと思うくらいで、左様な処へ参ると又尚更目に付きますから二人とも見惚れて居ります。 女「お通をこれへ置きますから、若しも御用がございますなら仰しゃり付けて下さいまし、度々出ますでございますから」 由「へえ宜しゅうございます、是非戴きます、貴方のなら何でも戴きます、何がございます」 女「はい、鳥と鰌鍋ができますので」 由「それもよし」 女「玉子焼」 由「それもよし」 女「鯉こくもございます」 由「それも」 幸「其様に誂えてどうする」 由「まア誂えやアしませんがねえ……何か外に肴が出来ますか」 女「アノ鰥が出来ます」 由「寡婦、それは有難い、やもめの好いのはないかと心掛けて居るので」 幸「お前の隣のは寡婦じゃアねえか」 由「ありゃア西洋洗濯を此の頃覚えた六十八歳という寡婦の大博士、毛が生えて天上する、ありゃアいけません……」 幸「じゃアお前さん後でその鰥を持って来ておくれ」 女「へえ誠に有難うございます……」  と云いながら静かに障子をしめて出て往く。 由「旦那何でしょう、どうもお辞儀の丁寧だってえないねえ、様子がずっとどうも、あのお辞儀の仕方は此方が自然に頭が下るくらいで、丁寧で、何でしょう」 幸「何だか知れねえが只者じゃアねえ」 由「山の中へ逃げて来たのでげしょう」 幸「何か仔細がある事だろう、關善の親類でもありはしないか、鈴木屋の身寄か、士族さんのお嬢さんの果だろう」  と云って居る。二度目に鰥と鯉こくが出来たというので岡持へ入れて持って来る、是から酒をつけて橋本幸三郎が此の婦人の身の上を問います、これは後に申上げます。         三十九  さて岡村由兵衞は頻りに幇間口でお酒が流行って居ります。 由「えゝ旦那唯今見た女は何うしても東京の言葉で、女は滅法好くって、旅出稼と云って湯治をしながら稼ぎに来る女は夥い事ありますが、彼の位えなのは珍らしい女で、丁寧で口が利けねえのは余程出が宜いんですねえ」 幸「余程品が好いが、どういう身上か彼の位の女は沢山無い」 由「有りません、東京を立って伊香保へ来て、伊香保から此方へ来るまでにありません、伊香保のお隣室の奥様ねえ、彼れは又品が違いますが、此方はあれよりもまだ年が往かないようで、伊香保の奥様も明日来るか、又今夜来るかも知れませんよ」 幸「お前又なんとか云ったのか」 由「えゝ云ったのでげす、峰公にちゃんと話したので」 幸「お前悪いよ、此方がお母様と一緒なら宜しいが、男ばかりの処へ女を呼ぶのは悪いから止しねえ、奥様然として居るが、殿様でもある者で知れでもすると悪いよ」 由「あれはもう何もございませんよ、主は無い、主なしの栄太楼、彼の女は無いので」 幸「無い、だって分りゃアしめえ」 由「何んだッてお付の女中と伊香保の茶見世でお茶を売って居た村上の御新造が、お嬢様〳〵と申すのでしょう」 幸「あれは、お少い時分に一つお屋敷に居てお乳を上げたので」 由「お乳は松でも笹巻でも此方は構わねえ、彼りゃアもう確かに亭主はありませんよ、御婚礼は済みませんが、是から追々御婚礼にもなりかゝると、其処に苦情があって、何うとか斯うとか話したと聞きました、向山の玉兎庵で申しました」 幸「だけれどもお前無理に呼んでは悪いよ」 由「悪いたって後から峰公が引張って来るので、お付の女中は忠義者でしょう、一緒に往きたいが、女二人であなた方と一緒に参っては、ひょっと人が訝しく思うといけませんから、後から参ると云うので、病身で時々癪が発ると云うが、その持病を癒そう為に伊香保へ来て居たのだが、貴方に一寸岡惚れでしょう、彼の新造がサ」 幸「止しねえ」 由「そこは僕が心得て居ますよちゃんと認めを付けて居ます、貴方の傍に……居ると気分がいゝので、貴方のお顔を見るとお癪も紛れて居るので、くよ〳〵と思うが病の根で、病気だから何うかお邪魔ながらお連れ申したいと云う忠義の心から、堅い女中だけれども側に連れて来たい念が一杯あるから来ますよ」 幸「悪いよ」 由「悪いたって構やアしません、あれが来て今の別嬪が来て落合ったら面白うございましょう、だが御亭主が無ければ町人だって身分が宜ければ縁付くという、其処は又相談ずくでねえ、もし奥様が貴方の処へ嫁に来ると云ったら何うなさるえ、それとも鯉こくを持って来る女が好うがすか」 幸「ウヽ、そんな事を云っても分りゃアしねえよ」 由「分らないたって向うが奥様で此方は丁度権の方で」 幸「止しねえよ、詰らねえ事を云って、まア湯へ這入って寝ようと云うのだが、腹が北山になって草臥れたから酔ったよ」 由「貴方を酔わしたい、貴方は酔わないと真面目でいけません、ズーと酔ったって正気になって、助平根性を出してお仕舞いなさい、旅では構やアしません」 幸「止しねえ……まア〳〵そんなについではいけねえよ」 由「だがねえ、唯後からくっついて来るなア可笑しいねえ」 幸「可笑しいたって悪いよ」 由「だがね真面目で一生懸命に来るので、変な事があるもので」 幸「旧お出入りをしたお屋敷の御妾腹と云うが、けれどもお眼に懸った事もねえが、何んだかお可愛そうな様な筋合があるのだよ」 由「お可愛そうだって何んだか知れませんが、姑の意地の悪い奴、叔母さんか御隠居さんかが在って、拗った事を云って、そうお茶をつぐからいけねえの、そうお菓子を盛てはいけねえ、赤いのは上へ乗っけて又其の上へ乗っけては赤いのが染くからいかねえとか、種々な事を云う奴があるので、それが種になって段々お癪になったのだから、お癪を癒そうてえので……お癪てえば今来た娘も癪持に違えねえ」 幸「何故」 由「なぜったって此処の湯は癪に宜しいから、癪を癒しながら働きに来て居るので、働きと云うような身分じゃアないが、只病気には敵わぬから余儀なく働き、運動かた〴〵斯うして居ると云うのではありませんか」 幸「そんな奴があるものか、鯉こくを持って来るぐらいに運動てえ事があるものか」 由「けれども……オヤ是れはお出でなさい」 女「誠に遅くなりました」         四十 由「おや先刻から待って居ました、遅くっても結構、鯉こく結構、これは不思議で」 女「これは誠においしくは御座いませんが、召上るように」 由「此方の家からかえ」 女「いゝえ鈴木屋からで」 由「そうで、鉄火煮は恐れ入った……貴方の様な別嬪にお酌をして貰うのを楽しみにして来たので、貴方の居るのを知って来たので、貴方が居ないと伊香保から此処まで来はしません……貴方苦笑してはいけません、何うもお品が好うがすな、何か云うとこう苦笑いなどは恐れ入りますねえ」 幸「姉さん、此の人はお饒舌で失敬な事を言うから腹ア立っちゃアいけません」 女「どう致しまして」 由「いや何うも此の鯉こくなどは……中々どうも恐れ入りましたね」 幸「鯉こくなどは此処へは良いのが来る、信州から来るのは不良のがあるという……これは結構……ウム鯉の鱗などを引いたのア不思議で、鱗が些とも無いねえ」 女「へえ、これは鱗は引いてありますから」 由「鯉の鱗なしは軟かい、羊羹をしゃぶったようで、鯉の鱗なしは不思議で、こりゃア頂戴……鉄火煮は好うがす……ウム、ゴソ〳〵するのは何んです」 女「あの鯉の鱗を煮ましたので」 由「へえ、鯉の鱗を引いて鱗ばかり煮たの……ヘエこりゃアどうもないね、ヘエこりゃア不思議で、鱗ばかりの鉄火煮、舐って居ると旨いが、醤油ッ気が抜けると後はバサ〳〵して青貝を食って居るような心持で不思議な物で……姉さん一寸此処に居て遊んで」 女「はい有難うございますが、余り長く居りますと厳ましゅうございますから、又御用がございましたら」 由「まア〳〵〳〵一寸おいでなさい、今旦那がね貴方のお身の上を酷く心配して、お品と云いお行儀と云い、裾捌きと云い何うも抜目の無いお美しい嬢さんだが、どう云う訳で山の中へ来て居ると云うのでね、旦那が大変心配ですが、貴方は東京ですね」 女「はい東京でございます」 由「どういう訳で」 女「はい、いえなにもう種々深い訳があります」 由「へえ、こりゃアどうも深い訳があるに違いないのでしょう、どうも此の鯉の鱗ばかりを煮て出すなんてえのは恐れ入りました、不思議で、どういう訳で、えゝ」 女「なにもう種々」 由「そこをお聞き申したいので、姉さん困りましたねえ」 幸「これは真の心ばかりです」 由「旦那がこれを」 女「誠に恐入ります」 由「構わずお仕舞なさい、落すといけませんから、仕舞い悪いものですが帯の間へ……宜しい私が挟んで上げましょう」 女「いえ、いけません」 由「どうも恐入った、手を付けて帯の間へヒョイと云う、これは遣りたがるからねえ、ヘエー、どうも有難い」 幸「姉さん東京は何処、私共も東京で」 女「はい、東京のお方と見ますと誠にお懐かしくって、つい何うもお座敷へ参りましても、東京のお方だと、種々御様子を承わりとうございますから、遂々長く居ります」 由「こりゃアそうでげしょう、伊香保でも、東京は違いはしませんか、観音様は矢張彼処にありますかッて聞いた人がありましたが、あれだね、どうも妙なもので、此処は旅で、旅で会うのは親類で無くっても落合うと親類のような気がして、懐かしいもので、変なもので、伊香保なんぞへ往って居ると交際が殖る、帰って見ると先達ては伊香保でと云うので、麻布の人が品川、品川の人が根岸へ来て段々縁が繋がり、お前さんの処へ娘を上げましょう養子に上げましょうなどと云って、親類がこんがらかる事があります、湯治場は一体親類殖しの処で、貴方は東京は何方で、何か訳があるのでしょう、えゝ秘したっていけません、何んな山の中でも思う人と添うならばと云う、これは当り前で、吾妻川で布などを晒して、合間に鯉こくの骨を取って種々な事をなさるんでしょう」 女「そんな訳で来たのではございません」 由「どう云う訳で」 幸「止しねえよ…貴方お屋敷だねえ」 女「はい誠に不粋者でございます」         四十一 幸「私もお屋敷へお出入をした者で、大概お屋敷は存じて居りますが、貴方の御様子は御家中でも無いようですが、御直参かね」 女「はい」  と段々聞かれゝば聞かれるほど胸が迫ると見えて、彼の女は下を向いて居りますと、膝へバラ〳〵涙を落します。 由「旦那……少しお泣きのようだから、こんなことは深く聞かれません、此処で貴方癪でも起されると旦那が押すような事が出来ます、峰松は今日は居りませんから、二人で間に合えば宜しいが……御心配と見える」 幸「どう云う心配で」 女「はい……兄が放蕩で、私は田舎の事はさっぱり存じませんから田舎へ連れて往って、良い処へ奉公をさせる、却って田舎には豪農や豪商があるのだからと申しまして、私も東京に居りまして知る人に顔を見られるも、恥かしゅう存じますから、そんなら田舎の奉公をしようと申しまして、宇都宮へ参りますと、私は兄に欺されまして置去になりました」 由「酷い兄さんで……旦那酷いじゃアございませんか、お兄い様がどうも……原の中か何っかでしょう」 女「いえ何、イエもうアノ……これで宜しゅうございます」 由「これで宜しいたって、言いかけて止めてはいけません、搆わないから後をお聞かせなさい是非……まアお坐りなさい」 幸「お気の毒なわけでねえ」 由「えゝ貴方、どう云う訳で」 幸「失礼ながら何んですか、お兄い様は矢張士族様か、違ったお兄い様かえ」 女「いえ真実の兄でございます」 由「どうしてお妹御を宇都宮へ置去に、何ですか宿屋かえ」 女「いえ、私はさっぱり存じませんで居りましたが、往来の方から這入りませんで裏路から這入りますと、広い庭がございまして、それから庭伝いに座敷へ通りまして、立派な席へ参って居ります中に、アノ表の方へ参って掛合を致して、私をソノ或処へ、なんで、質入れに致してお金を沢山借りて、兄は表から逃亡を致したのでございます」 由「こりゃアどうも酷うごすね、貴方を質に入て流す気ですね、酷いこと」 幸「どうも酷い事をしたものですねえ、そりゃアまア貴方も恟りなすったろう、後で勝手も知れず」 女「段々聞きますと宇都宮で娼妓をするだけの証文を貼って、アノお前も得心の上で証文は是れ〳〵で、金も五十円兄様に渡したから何んでもと申されますから、私も恟り致しまして、其様な事は出来ません身の上でございまして、老体の母もございますから、母に相談の上に致さんければなりませんと云って、十日のあいだに情を張りまして泣き明して居りました処が、此家の關善さんが日光からお帰りに宇都宮へお泊りで、段々様子をお聞きなすって、気の毒な事と御親切に五十円を貢いで下すって、關善さんに連れられて参って、お手伝を致して居りますが、とても宿屋奉公では五十円と云うお金は返す事は出来ません、鈴木屋さんで人が足りないから御祝儀も貰えるし、そうしたが宜かろうと申されますが、關善さんと鈴木屋さんと両方で稼ぎを致しても五十円のお金では幾年此処に奉公をして居りましたら返せますか、承われば夏ばかり繁昌致しても、冬の中は遊んで居ると申しますから、中々お金の返しようもございません」 幸「それはどうも、で其の東京にお兄いさんが逃げてしまっても、お母様がお在なさるか、お母様はさぞお驚きで」 女「母はもう六十二になりまして、母はアノ恟りいたしまして身体も大分悪くなりましたが、此方より手紙を出しましても向から参ることも出来ませんで、此の頃は兄が諸方の借財方に責められまして、僅かばかりの夜の物諸道具も取られまして、此の頃は煩って」 由「へえ、どうもあるねえ、一度ね、私は伊豆の網代へ行ったことがある、其処に売られて来た芸妓は、矢張叔父さんに欺されて娼妓にされまして来たと云うので、涙を落しての話で有ったが、それはお気の毒な事だねえ、左様でげすか、お屋敷は何方でございます」 女「屋敷の名前なぞは親共の耻になりますから、それだけは御免遊ばして」 幸「ハヽ、それじゃアお聞き申しますまい」 由「旦那、そんな遠慮をしてはいけません」 幸「それでも耻になると仰しゃるから」         四十二 由「貴方、旦那が御親切だから貴方の身の上を心配して、お名前をお聞きなさるので、貴方は親の耻になると云うは御尤だけれども、何もこれは決して言いませんよ、誰が聞いても……私は随分お饒舌だが、旦那に対えば私だって言わぬと云ったら決して言いませんから、仰しゃい身の上を、旦那に縋れば何うにか成るかも知れません」 女「有難うございます、屋敷は旧麻布の二本榎でございます」 由「麻布二本榎え、何処、六本木と云うのはあるが、六本木の方でありますか」 女「いえ二本榎で、瀧川左京と申す者の娘で」 幸「えゝ、アノお側を勤めた瀧川さん、千五百石も取った家のお嬢さん…」 由「えゝ、これは恐れ入った、失礼でございます千五百石も取った方の、私なぞは前からいまだに貧乏だから些とも変りませんが、只貧乏慣れている処が不思議で、少しも身代は開けないのだから、どうも恐れ入ったわけです」 幸「私は瀧川様へお出入をした事もありますが、真に貴方は瀧川様のお嬢さんでございますか」 女「はい、決して神かけて嘘は申しません、どうぞ此の事は委しくまだ大屋様へは申しませんから、どうか内聞になすって下さいまし、東京のお方で御親切に仰しゃって下さいまして、お懐かしいから迂濶り申したので、どうぞ御免なすって」  と娘は胸一杯になりまして口も利かれません、おろ〳〵して居ります。 幸「お前さんは幾歳で」 女「はい、廿一でございます」 幸「お気の毒だねえ、どうか貴方を五十円で失敬ながら身請をして上げたいと存じます、お母さんが御病気でお在なさる事ならば、私が關善へ話をして五十円の金を出したら、東京へ連れて帰ってお母様に会わせる事も出来ましょう」 女「はい、それが出来ます事なら……」 由「旦那、私も少し助けますよ十分の一……一度にはどうも出来ませんから、日掛に追々入金をいたしますが、どうか身請をして上げて下さい」 幸「關善さんへは帰る時話をして、今パッと話すと面倒だから……それから貴方の身の上だけはお母様にお逢わせ申しますが、お母様は矢張東京にお在でございますか」 女「はい唯今では小石川餌差町に居ります」 幸「宜しい、屹度連れて往きます、身請を致します」 女「あの、本当で」 由「本当だって心配なし、どんな事をしても虚言は大嫌いの旦那さまで、十二時に此処へ来い、御膳を食べさせると云うと整然とお膳が出て居るので、御心配ない……此方も感じてホロリと来ますねえ」 女「有難うございます、私は夢のような心持で」 由「旦那……お手水ですか、直き突当って右の方です……だがね姉さん、彼の旦那様と云うものは御新造様が無いのですよ……アレサ実は御新造さんは三年前に亡なってお独身でおいでだが、貴方善いたって金満家でありますから、貴方がお出でなさるような事があればお母様ぐるみ引取って、生涯安楽でげすが、何うです」 女「其様な事は」 由「其様な事だって、それが肝腎なので、ウンと仰しゃい、男が好くって、ちょいと錆声で一中節が出来る、それで揉むのが上手でお灸を点えたり何かするので……」 女「私は実に夢のようでございます」 由「夢見たいですが、是れがさめない夢です……後からまた夢が来るので……今夜はねえ何うかして此処へ入らっしゃいまし、寝就いた処へ私が周旋致しますから」 女「夜出ますと叱られます」 由「誰に」 女「あの大屋さんに知れると悪うございます、橋の際の瓦斯が消えますと宿屋の女が座敷へ参るは厳しゅうございます」 由「壺ッてえのは此処ですか、厳しいなんて生意気な事を云いますね、いゝじゃア御座いませんか、貴方を身請して往くのですから、大屋が何んたって構やアしません、大屋が云っても差配人が苦情を鳴らしても何うでもしますから宜しいではありませんか、貴方心配はございませんお出でなさい、ちょいと、まんざら醜い男でもございますまい、ようがしょう様子が、お厭かえ……ハア〳〵これは恐れ入りました」  といってる処へ幸三郎が便所から帰って参り、 幸「何を掛合って居るんだ」 由「フハア……掛合筋があって誠にハヤ貴方、手水を長くして居らっしゃると好いのに」 女「あの私は又参ります」 幸「貴方又入らっしゃい、証拠でも何でも上げる、決して虚言は吐きませんよ」 女「有難う存じます、御機嫌宜しゅう」  と嬉しそうな様子で帰りました。 由「どうも御機嫌宜しゅうと云って、手をついて小笠原流で、出這入に御機嫌宜しゅうなんてえ様子は無いねえ、此処の女中などは、ガラリピシャ用はねえかなんてえ山家の者で面白えが、彼女ア旦那何処へも往き処がないので、可愛相で、彼女はちょいと様子が好い、貴方の傍へ置いて権妻と云っても奥様と云ったっても決して恥かしくございませんね」 幸「そんな事を云ったって年が違わア」 由「年が違うたって何も構やアしません、此の間も六十七になる老人が十七になる女房を貰ったが、世の中が開けたから構やアしません、貴方は堅過ぎるから」 幸「馬鹿を云え、可愛そうだからよ」 由「其処をなんして一寸可愛がって、貴方の手生の花にしてお遣りなさい」 幸「馬鹿ア云うな」  と是から機んでお酒を飲んで寝ましたが、さてお話後へ返りまして。         四十三  丁度其の日に峯松が万事都合好く話を致して、彼のお藤と云う隣座敷のお客を車に乗せて引出しまして、伊香保の降り口から一挺車を雇いまして、女中を乗せて渋川へ下りて、金子へ出まして、金子から橋を渡り北牧へ出まして、角屋で昼食をして、余程後れました。それから、男子村へ出まして村上へかゝりまして、市城から青山伊勢町中の条へ掛ると日は暮れかゝりまして、木村屋で小休みに成りますから十分手当をして遣り、車夫も疲れた様子だから車を取換えようと云うが、是非四万まで往きますと云うも十分手当をして遣りましたからでございます。酒の機嫌で遅くはなったが十時までには屹度引張るからと、峯松も疲れては居るが親切者、早く往って逢わせようとガラ〴〵〴〵〴〵車を挽いて折田村まで一里ばかりも参りますと、どっぷり日は暮れて、木の間隠れに田舎家の灯がちら〳〵見えまして、幽かに右の方は五段田の山続き、左は吾妻山、向うは草津から四万の筆山、中を流るゝ山田川の水勢は急でございまして、皀莢瀑と字いたします、本名は花園の瀑と云う巾の七八間もある大瀑がドーッドッと岩に当って砕けちる水音。林の蔭に付いて下る道があります。気味の悪い処にさいかち橋が架けてあります。これを渡ると直ぐ山田村、近道で其の小坂の処に庚申塚があります。そこまで来ると車を下して、 峯「若衆大きに御苦労だのう、骨が折れても急いで遣ってくんねえな、十時までに中の立場まで往こうじゃアねえか」 車夫「何しろ昨日沢渡までの仕事で、甚くバアーテルから、女客でも何うもとても挽けねえよ」 峯「挽けねえたってお前どうするんだ」 車夫「此処で若衆暇ア貰いてえものだ」 峯「戯けちゃアいけねえじゃアねえか、此処まで来て、此処じゃア立場も無え、下沢渡へ別れ道の小口まで往きねえな、彼処へ往けば又一人や二人帰り車も居るだろうから、此処じゃア何うもしようがねえやな」 車「どうもしようがねえたって、挽けねえものア仕かたがねえ、今朝から渋川の達磨茶屋で疲れて寝て居たんだ、其処を帰って又来たが、身体がバーテルでどうも……」 峯「馬鹿にしちゃアいけねえ、そんなら何故中の条の木村屋で左様云わねえ、木村屋で挽けませんと云えば他の車を頼もうじゃアねえか、からかっちゃアいけねえぜ、東京者だって東京ばかりの車を挽くんじゃアねえ、此地え来て渋川で一円に一升の仲間入をして居る峯松だ、大概にしやアがれ、馬鹿にするな」 車「何だ峯松だか荒神松だか知んねえが、怖くもおっかなくもねえ、挽けねえんだ、何を云やアがる、撲るぜ」 峯「なに撲って見ろえ……」 岩「まア峯さんお待ちよ、私ア歩くよ……怪しからんよ、こんなものに構っては損だからお止しよ」 峯「構うたって、そんなら中の条で云やア何うにでもなるに、人を馬鹿にしやアがって、女連だと思って脚元を見やアがって」 岩「まア〳〵好いよ、鞄を此方へ下してね」 峯「挽けなけりゃアそうと早く云えば好いに……」 岩「そんな事を云わずに、私が困るからよ……挽けなけりゃアさっさとお出で」 車「おゝ往かねえで何うする」 峯「なに、生意気な事を云やアがる」 車「何が生意気だ」 峯「なに」 岩「お止しよ、峰さん〳〵」  と云う中に彼の車夫は折田の方へガラ〴〵〴〵〴〵と引返しましたが、道中には悪い車夫が居ります。 車「容ア見やアがれ」 峯「なに」 岩「お前おからかいでないよ」 峯「面ア覚えて置け」 岩「まア〳〵お止しよ」 峯「詰らねえ事を云やアがって、脚元を見やアがって、此処まで来て挽けねえなんて、酒え飲まして置いて手当も遣って居るので、中の条だけの賃は遣りましたが、それから先の賃は遣りません、彼奴も無駄挽をしやアがって……どうも済みません」 岩「私だけは歩くから好いよ……お前さまはさぞお厭でございましたろう」 藤「私は恟りして、怖いから何うしたら宜かろうかと思ったが、岩や、お前歩けるかえ」 岩「えゝ私はもう宜しゅうございます、二里や三里は歩けますからお前様さえお乗せ申せば宜しゅうございます」 藤「山道だよ」 岩「いゝえ宜しゅうございます、歩けますから」 藤「お前疲れると」 岩「いえ大丈夫で」 峯「まア一服遣りましょうから、もう是からは遠くもねえ道でござえますから」 藤「峯松さん、さぞお疲れで私のような者二人を連れて来てお厭でしょう」 峯「私は心配な事はありませんが、まア早くお連れ申して旦那にお会わせ申そうと思って、私も骨を折るのでどうか…へえ」  マッチを摺ってパクリ〳〵と火をうつし烟草を喫んで居ながら、 峯「実はねえ草臥れました」 岩「さぞお疲れだったろう、貴方にも種々お世話になったから、どのようにもお前様に願ってお礼も致します、誠に御親切なお方だと云ってお喜びで」 峯「いえ、もうお礼も何も入りません、旦那も待ってるものだから早くお会わせ申してえと思って何したので……えゝ、貴方、もしお岩様え、礼を為ようと仰しゃるなら…」 岩「はい」 峯「私は、あの誠に申し兼ねましたが、折入って願いたい事があります」         四十四 岩「どんな事か知らないが、草臥れたらまた後へ戻って車夫を雇っても宜しいよ」 峯「いえ、そんな事じゃアございません、私は誠にねえ身分に合わねえような事を申すようでがすが、伊香保にお在なさる時分から、お藤さまと云う此の奥様に属根惚れて居るのでがす、どうか□□□□□云う事を聴いてお貰え申したい」  と云われてお藤は恟りして後の方へ下りますと、お岩と云う女中は顔色を変えて、 岩「な、何を云うのだえ」 峯「えゝ正直なお話でございますが、此方ア高が車挽で、元は天下のお旗下御身分のあるお嬢様に何うの斯うのと云ったって叶わねえ事と知っては居りやすがね、貴方も武士のお嬢さまで身性の正しい女なら又諦めもつけやすけれども、橋本幸三郎と云う人に逢いてえと思えばこそ、夜道を掛けて四万村まで、此の物すごい山の中をお出でなさるからにゃア満更色気の無えお方でもごぜえやすめえ、□□□□□□□□□□、其の美くしいお嬢さまを□□□□□□□楽しみに此の山道を来たのです、□□□□□□□□□□□□□、もしお岩さん、取持っておくんなせえな」 岩「まア呆れた事をいう奴じゃ、女と侮り身分も弁えないで、仮令御新造様はお弱くても私が付いて居るからは……汝たちに指でもさゝせる気遣い無い、兎やこうすると許さんから左様心得ろ」  とて懐より把り出したは、旧弊であります故小さい合口を隠し持って居ますから、柄へ手を掛けて懐から抜きにかゝると、 峯「ナニ何をしやアがる、刃物三昧をするからア元は旗下の嬢様とかお附の女中とか、長刀の一手ぐらいは知っても居ようが、高の知れた女の痩腕、汝等に斬られてたまるものか、今まで上手を使って居たが、こう云い出したからは己も男だ、□□□□□□□□□□□□□」 岩「どうも呆れた奴、手込にすれば許さんぞ」 峯「どうでもしやアがれ」 岩「どうでも」  と合口を抜いて飛付くと、車夫の峰松はよけながら後へトン〳〵〳〵と下りると、後からズーッと出た奴は以前の車夫であります。これは渋川の杢八と云う奴で、元より峰松と馴合って居りますから脱したので、車を林の陰に置き、先へ廻って忍んで居りましたがゴソ〴〵と籔蔭から出て、突然お岩の髻を把って仰向に引摺り倒しました。 岩「あれー何をする」  と飛付いて参った時、これを見て驚きまして彼のお藤は 「あれー」  といって逃げにかゝる。 峯「逃がすものか」  と飛付こうとするを見て、お藤は逃げるも真暗がり、思わず崖を蹈外してガラ〴〵〴〵と五六丈もある山田川の渦巻立った谷川へ、彼のお藤は真逆さまに落ちましたが、これは何様な者でも身体が微塵に砕けます。 峯「どうした杢八」 杢八「なんだ、己が横ッ腹ア蹴たら婆アおっ死んだ」 峯「大きに御苦労だ、何しろ惜しい事をした、肝腎の女ア此の谷へ落しちまった」 杢「どうした」 峯「川の中へ飛込んだ」 杢「どうする」 峯「どうするたって仕様がねえ、とても助からねえ、愚図ッかして人が来ると仕様がねえ、鞄は車へ乗せるから……手前、何処へ往く」 杢「往くッたってお前唯は往かれねえ」 峯「そりゃア極って居らア、さアこれを持って往け」 杢「これだけありゃア今月一杯は休みだ」 峯「旨え物でも食って娼妓でも買え」 杢「有難え、こんな手伝しなけりゃア旨え物が食えねえから」 峯「己は乗せて来た鞄を持って往くから、後ア又伊香保で会おうぜ」 杢「じゃア別れる」  と彼の鞄を付けて峰松は折田村の傾斜を下りましたが、見かけによらぬ大悪人でございます。此の峯松は三年前に足利栄町に於きましてお瀧と密通して、茂之助夫婦が非業な死を遂げた村上松五郎と云う士族で、今姿を変えても斯様な悪業を働いて居ります。         四十五  さて車夫の峯松が、欺いて連れ出しましたお藤と云う彼の婦人を、皀莢滝の谷間へ追込みましたので、お藤は勝手は知らず、足を蹈外して真逆さまに落ちましたが、御案内の通り彼の折田の谷は余程深うございまして、下には所々に巨岩が有りまして、これへ山田川の流れが衝って渦を巻いて落します。水色真青にして物凄い所であります。前面には皀莢滝と申します大滝が有りまして、ドウードッと云うすさまじい水音でございます。其処へ落ちては五体粉微塵となるくらいの嶮岨な処でありますから、決して助かりよう筈はないのでございます。丁度其の晩山田川へ筏を組みに参って居りましたのは、市城村の市四郎と云う侠気の人で、御案内の通り筏乗と申すものは、上州でも多く五町田、市城村、村上彼の辺に住いを致して居ります。此の日向見川と荒川と云うのが二筋に別れて来ます。是は信州と越後との境から落して参り、四万川と称え、流れの末が下山田川に合して吾妻川へ落しますゆえ、山から材木を伐出し、尺角二尺角或は山にて板に挽き、貫小割は牛の脊で下して参ります。山田川で筏を組みますには藤蔓を用います、これを上拵えととなえ、筏乗の方では藤蔓のことを一把二把と申しませんで、一タキ二タキと云います、一駄六把ずつ有りまして、其の頃では一駄七十五銭で、十四五本ぐらいずつ紮げましてこれを牛の脊で持って来るのを、組揚げて十二段にして出しますが、誠に危い身の上でございます。筏乗は悪く致すと岩角に衝当り、水中へ陥るような事が毎度ありますが、山田川から前橋まで漕出す賃金は稍く金二円五十銭ぐらいのもので、長い楫を持ち筏の上に乗って、前後に二人ずつ居りまして、中乗りが三人ぐらい居まして、忽ちに前橋まで此の筏が下りて参りますが、中々容易なものでは有りません。只今彼の市四郎が上拵えの手伝いを致して居りますると、 「きャー」  と云う女の声に恟り致して、市四郎が仰向いて見ますと、崖の上からバラ〴〵〴〵と櫛笄が落ちて来ました。 市「おや……何か落ちて来た」  と身を屈めて透して見ますと、谷間に繁茂致して居る樹木にからんで居ます藤蔓は、井戸綱ぐらいもある太い奴が幾つも八重になって紮んで居ます、其処へ陥いりましたはお藤と云う女の運が好いので、藤蔓と藤蔓の間へ身が挟まって逆さまに成りましたから、髪も乱れ、お藤は一生懸命に藤蔓へ掴まったなり気が遠くなりました。 女「あゝ……」  と云う声に恟りして市四郎が仰向いて見ますと、一人の女が藤蔓の間に挟まって下って居ましたから、 市「おゝ〳〵落ちたこと、あゝ危い」  と素より勝手を知って居りますから、忽ちに市四郎が岩角に捕まって這い上り、樹の根へ足を蹈ん掛けて彼のお藤を助けまして、水を飲ませ脊を撫り、 市「何か薬でもあるか」  と聞きましたが、お藤は更に物も云えません様子だから流れの水を飲ませ、脊中を撫り、種々介抱致して居る中に漸く生気に成って、 藤「実はこれ〳〵の悪党の為に騙されて此様な難に遭いましたが、従者の下婢岩と申すのは、何う致しましたか、何卒お探ねなすって下さいまし」 市「ムヽーそれは飛んだ事だった、私が往って探して上げやんしょう」  と素より侠気の人ゆえ、御案内の通り恐ろしい谷間の急な坂を登って参り、庚申塚の在ります折田の根方へ来て見ますると、血が少し流れて居るのみで、供の女中岩と申すものゝ死骸が見えません。櫛や笄は折れて其処に落散って居ながら死骸が分りません。すると其処に野口權平と云う百姓がございます、崖の方へ引付いてある家で、六十九番地で、市四郎は予て知合の者ゆえ其家を起して湯を貰い、 市「何か薬はあるか」 權「だらにすけならある」  といったが埓が明きません。 市「まアお女中御心配なさるな」  と是から直にお藤を連れまして、市城村の我が宅へ帰って来まして、深くお藤の身の上を聞きました。         四十六  此方は左様な事は知りませんから、明日は来るに違いないと待に待って居りました、橋本幸三郎、岡村由兵衞の二人は、鈴木屋の下婢は瀧川左京と云う以前は立派なお旗下のお嬢さんと知りませんでしたから、 幸「あゝ何も彼に酌をさせて、お前姐さんと云ったぜ」 由「旦那本当にお気の毒じゃア有りませんか、あなた五十両で彼の女を身請して東京へ連れて往けば、お母さんが嘸お悦びなさいましょう、さっそく貴方の御新造にお取持を致しましょう」 幸「然うお太皷口をきかれちゃア困る」  と幸三郎は飲めない酒を飲んでグッスリ寝付きますと、温泉場も一時(午前)から三時までの間は一際闐と致します。往来は素よりなし、山国の事でございますから木に当る風音と谷川の水音ばかりドウードッという。折々聞ゆるは河鹿の啼声ばかり、只今では道路がこう西の山根から致しまして、下路の方の川岸へ附きましたから五六町で往かれますが、私が十ヶ年前に参りました時には上路へ参りましたから八丁余もありまして、足場が余程悪く、上路へ参りますとなだれに橋が架って居りまして、是から彼の關善と云う大屋の家へ参ります。橋を渡らずに左に附いて谷川をザブ〴〵膝越で渡って参る曲者一人、山路染の手拭に顔を深く包み、身軽に尻からげを為まして四辺へ眼を付けて居りますと、灯火もほんのりと薄暗く障子に写ります、橋の傍に点いてありますランプ灯も消えかゝりましたを幸いと、何時か忍入りたる悪者は、四五間の川を渡って石垣に取附き、そろ〳〵關善の玄関の角の座敷へ這上りました。只今でも開けん処へ参りますと、温泉場などでは余り戸締りを致しません、私が参りました時分には頓と締りが有りませんから、自由にそっと障子を開けて、濡れた足で窓から忍び込み、長四畳の入側の処へ踏込みまして、二重に締って居りました唐紙を細目に開けて、覗いて見ますと、行灯の火光がぼんやり点いて居ります。幸三郎も由兵衞もグー〴〵と云う鼾の声、そっと襖を開けて枕元へ忍び込み、布団の間に挟んで有ります金側の時計に珊瑚珠の大きな玉の附いたポン筒の腰差の煙草入を盗んで自分の腰へ差し、時計を懐へ納れ、まだ何か有るかと探したが、大概の物は皆鞄へ納れて此の旅亭へ預けて置きましたから何も有りません、岡村由兵衞の枕元へ参って見ると煙草入が一個有りました、これをも盗んで我腰へ差そうとする途端に、 「ウーン」  と由兵衞が寝返りをする様子に驚き身を引いて、入側の方へ出に掛ると、玄関口から這入って来ましたのは前申し上げました瀧川左京の娘おりゅうにて、私の身体を身請してくれると云う旦那様に一言頼みたいことも有るが、何うかしてお目に懸りたいが、鈴木屋さんに知れても悪いし……なれども旦那様が夜が更けたらソッと忍んで来いと仰しゃったけれども……参るのも恥かしい……が、どうも真実か虚言か旦那さまのお心持が聞きたいと思ったのでございましょうか、今そっと抜足を致して玄関の式台を上り、長四畳へ這入って参り、折曲って入側の方へ附いて来ます途端に、頬冠りを為た曲者が、此方へ出に掛るから、恟りして後へ退りました。此方の曲者も人が来たなと思いましたから怖いゆえ窓から戸外へ出ようと思い、這うようにして玄関の方へ出に掛ります。此方では襖へピッタリ身を寄せて透して見ますると、橋の傍に点いて居ますランプ灯の火光ばかりで有りますけれども其の姿が見えます。悪者の方でも相手が女だからびくともせず、若し己を取捕まえたら殴ちのめして逃げようと腹を据え、今出に掛ると、 りゅう「おい〳〵松さんじゃアないか、松さん」  と己が名を呼ばれましたから恟りして透し見まして、 曲者「何だ……お瀧か」 りゅう「あゝ、私はまア種々お前に話が有るんです、逢いたかったが何うして此処に居るの、まア此方へお出でよ」  とむりやりに松五郎の手を取って、 りゅう「此処から往くと知れないから」  とソッと忍んで關善の裏手へ出まして、叶屋の傍から小橋を渡り、田村の下の小商人の有ります所に蕎麦店がございます。此家は予て自分も時々借りる家と見えまして、此の二階へ夜半に忍び込んで頬冠を脱り、ほッと息を吐きました。         四十七 松「何うしたえ」 りゅう「私も何うかしてと種々心配して居ましたけれども、さっぱりお前さんの様子が分りませんでしたが、能くまアお前此方へ出て来ておくれだね」 松「己ア此の通り姿を変えて人力挽、何んでも手前が上州路に居ると聞いたから、草津か、沢渡か、伊香保にでも居るかと思って居たのよ、併し己も危え身の上だが、渋川へ来て車夫になって、東京の客を当込んで、車引の峯松と是まで化けて居るのも、実は手前に逢いたいばっかりで彼方此方とまごついて居たが、碌な仕事もする訳じゃアねえ、と思ううちに宜い塩梅に今度霊岸島川口町の御用達だてえ橋本と云う野郎を乗せた処が、己を正直者だとか律義者だとか惚込んで次の間へ置くばかりに、すっかり彼奴の腹へ這入っちまったからたんまりした仕事が出来ようかと思って居ると、隣室に居た女が其奴に岡惚をした様子だから、些とばかり好い仕事を為ようと思うと、こいつア失策をくんだが、伊香保へ残した荷物を取りに往く証拠の手紙が有るから、是れを持って往けば先方でも雑物を渡すに違えねえと思うんだ、少しばかりの仕事だけれども、これを纒めてドロンと決めようと思うんだが、往掛けの駄賃に幸三郎が金を持って居るから跡を躡けて此処まで来たが、首尾好く座敷へ忍び込んだが、枕元に鞄がねえから其処に有合せた煙草入や時計を引っ浚って表へ出ようとする途端に、手前に出会したのよ」 りゅう「私も宇都宮で少し失策を組んだから此方へ来たんだがね、此の鈴木屋へ身を落着け、色気の客があったらと思う処へ泊った奴はお前の話の幸三郎、此奴を欺して旗下のお嬢様だと出鱈目な言を云って隠れて居るのさ、始めて橋本に逢ったのに舌の長いことを云うから、生空ア遣って泣いて見せてとう〳〵……關善には内証だよ、鈴木屋さんに知れても悪いから黙ってゝおくれよと尽底騙して口留を為たが、夜半に最う一遍根締を見ようと思って往ったのだが、ちょうど宜い処で出会ったね、実はね關善か鈴木屋か二人の中誰でも宜いから金を受取り、私の身を渡したと云う請判が有れば宜いんだがね……三文判でも構やアしないが、男の手でなければいけないの、おりゅうの身の上に付いて……マお聞きよ、今私はおりゅうと云う名前になって居るんだよ、金子五十両慥かに、受取り、おりゅうの身の上を宜しくお引渡し申しますって、お前は其様な事を拵えるのは上手だから、本当らしく巧く書付を拵え、金子で先方へ妾にでも往く積りにして、宜いかえ、兎も角もそうしておくれよ、お互に別れ〳〵になっても隠れ場所があれば、時々出て逢えるような事がなくっちゃア私も苦労をする甲斐がないよ、私だって身を切られるほど厭だけれども、表向き明るい処をのそ〳〵歩かれる身の上じゃないから」 松「ウン斯様な書付じゃア何うだえ」  と硯箱を借りましたが、松五郎はもと旗下の用人の忰で、少しく書付が堅ましく出来ました処へ有合わした三文判を押して、おりゅうの名前の下には爪印を捺し、これを懐に入れて橋本幸三郎より五十両の金を取り、松五郎を越後の浅貝の間道を逃がそうと云う企でございます。此方では夜が明けると大騒ぎでございます。 幸「枕元に置いた金側の時計と煙草入がない……」 由「私の烟草入もない」  と是から關善を呼んで派出所へ訴えに成りましたから、早速警察官が御出張に相成り、段々取調べましたが、少しも当りが附かない、随分湯場は稼ぎ賊が多いものでございます。         四十八  翌朝に成ると皆々打寄り届書を書いたり、是から原町の警察署へ訴える手続が宜かろうかなどとゴタ〴〵致して居りまする処へ這入って来ましたのは、年頃三十八九に成る色の浅黒いでっぷりとした丈の高い大きな男でございます。長四畳の方の襖を開けまして、 男「はい御免なさい……」 由「はい、お出でなさい何方です」 男「はい、え、二三日前から伊香保の……ナニ彼の伊香保の木暮八郎ン処から此方へ湯治にお入でなさった橋本幸三郎さんてエのは貴方でございますか」 幸「はい、橋本幸三郎は手前でございますが、何方でげすか」 男「私ア市城村の市四郎という筏乗ですが、お初にお目にかゝります、少しお訊ね申してえ事が有って出やした、え此処で直にお話をしても宜うがすかな」 幸「はい、左様でございますか……只今種々取込が有りまして、是から少々山の派出所まで参らんければならんでげすが何御用でげす」 市「なに別の事でも御座えませんが、貴方が伊香保から此方へおいでなすった供に峯松てえ車夫が有りやすか」 幸「はい峯松と申すものはございますが、伊香保へ残して私共は此方へ参りましたが、何か御用でげすか」 市「その峯松を隠さずに此処へ出してお貰え申してえ」 幸「左様でございます、何う云うなんでげすか……おい由さん引込んでちゃいけねえよ、此処へ来て掛合っておくれなお前」  といわれて由兵衞が其処へ出て参り 由「へえおいでなさいまし」 市「お前は何んだ」 由「へえ手前は此の旦那のお供をして参りました由兵衞と申すものでございますが、貴方は何んの御用で入らっしゃいました、峯松と申す車夫は伊香保へ残して置き、旦那と私だけ先へ此方へ参りまして、二週間ばかり見物かた〴〵湯治に参ったのでげすが、へえ」 市「其様な事は何うでも宜いから、早く其の峯松てえ奴を此処へ出してくれ」 由「へえ…早く此処へ出せと仰しゃっても只今申上る通り当人が居りませんので」 市「居ねえたって貴下方の供だから出さねばなんねえ訳じゃアねえか」 由「何んでげす、何う云う訳なんですか存じませんが、居らんものを出せと仰しゃっちゃ困ります」 市「その野郎を此処へ出しておくんなさらなけりゃア、私イハア、お前さんがたをたゞア置かねえぞ、首でも引ん捻って押めえて、本当に原町の警察署へしょぴいてッて、私イハア屹度それだけの処分を附けねばなんねえ」 由「驚きやしたな、無闇に首を捻るなどと仰しゃっても、私共は生きて居る人間だから、捻るたって黙って貴方に首を捻られるものでも有りませんが、タヾ峯松は居ねえが此処へ出せと無闇に御立腹に成って仰しゃっては分りませんので、へえ」 市「分らねえ事はねえ、其方に悪い廉が有るから参ったゞ、人を殺して物を奪る奴ア盗賊に違えねえから、警察署へしょぴいて往くのに何も不思議はねえ、当然の話しだ」 由「へえー、彼奴が人を殺しましたか」 市「ムムーしらばっくれるな野郎、汝らも峯松の同類に違えねえ、伊香保の木暮八郎ン処にお前方逗留して居る時分、己ア知んねえけれども、何だか御用達の旦那さまだとか金持だとかなま虚言を吐いて、漸々隣座敷の者と親しく成った其の上で、巧く欺してよ、此様な山ン中へ連れ出して来て刃物三昧を為やアがって、女を斬殺して、その死骸を河ん中へ打込んで、えれエ奴だ、汝が言附けてさせたに違えねえ、二人ながら同類だろう、己ア逃さねえぞ」  と掴みつきそうな勢で有りますから。         四十九  由兵衞は市四郎をなだめまして、 由「マヽ静かにして下さいまし、私共を同類だの盗賊だのと仰しゃっちゃア困りますが、何う云う訳でげす」 市「私ア筏乗ゆえ上仕事に時々参るんだ、すると、昨夜山田川の崖の藤蔓へ引懸ってキイ〳〵泣えてる女が有るだから、私も驚いて漸く助け、段々様子を聞くと、その女の云うには、伊香保の木暮八郎方に逗留している中に、隣座敷に居た橋本幸三郎さんてえ人が、此方の温泉は利が宜い、案内しようといわれて、跡から供の峯松と云う奴の車に乗って参る途で、その峯松てえ奴が刃物三昧をして供の下婢は斬殺され、私は逃げようとして足を蹈みはずして崖から下へ落ちましたが、幸いにして藤蔓へ引懸って危い命を助かりましたが、アヽー口惜しい、欺されたって泣いてるだ、湯場稼ぎの有る事は聞いてるが、貴方の供の為た事だから、仮令貴方らは手を下して殺さねえでも、大概同類に違えねえ事は分るだ、御領主様と縁繋がりの御内室さまだし、お前方も掛り合だから私と一緒に警察まで往きなせえ」 由「何う致しまして私共は決して同類などではございません」 市「いや同類でねえたって掛り合いだ」 由「これは驚きましたな」 幸「是は何うも思い掛けねえ事で、あの車夫の峯松と云うものは私の供じゃア有りません、雇人でもないので、実は渋川の達磨茶屋で私共が昼食を致して居りますと、車夫が多勢来て供を為ようと勧めました其の中で、江戸ッ子で気の利いた様子の好い奴だと思いましたから、彼を雇って来ますと、至って正直者のように思いましたから目を掛けて遣りましたが、そんなら彼奴がお藤さまを連れ出して無慙にも殺しましたかえ」 市「殺したって殺さねえってとぼけてもいかねえ、さア警察署へ一緒に往きなせえ」 幸「まア〳〵静かにして下さいまし、私も籍のないもんじゃアありませんから、決して逃げ隠れは致しません、私は全く橋本幸三郎と申して少々ばかり御用を達す身の上でございまして…この岡村由兵衞と申すものは奉公人てえ訳ではない、日頃宅へ出入りを致すもので、木挽町に居ります何も胡乱の者では有りません、全く私が連れて参った供でないと云う証拠の有るのは、伊香保の木暮八郎方でお聞きなすっても、渋川の達磨茶屋で聞きましても分りますが、私共へ縄を掛けて引くと仰しゃるのは誠に迷惑致しますが、其の代り出る所へ出て申訳は致しましょう」 市「さア早く出る所へ出なさい」 幸「それではお藤さまには誠にお気の毒でげしたが、何にしてもお怪我は有りませんでしたか」 市「怪我はないだってよ、藤蔓の間へぶら下って居たから宜いようなものゝ、下へ落れば巨きな岩が幾つも有るから身体は微塵に打っ砕けるだが、幸い私が下に居たから助けて上げたけれども、二人の車夫は人を殺し鞄と荷物を引っ浚って何処かへ逃げやがったのだ」 幸「へえ、成程、私の方でも昨夜賊難に遇いまして、是から其の届けを致そうと存じ、騒ぎをやってるのでげすが、兎に角斯う致しましょう、ねえ由さん、此処から使を遣って伊香保の木暮八郎の手代と渋川の達磨茶屋の主人を呼びましょう、幾ら金がかゝっても仕方がないから」 由「然うでございますとも」  と直に手紙を認め、早速来てくれるようにと申して遣ると、木暮八郎方の番頭も参り、達磨茶屋の亭主も来ましたから、打連れ立って原町の警察署へ参りまして、段々調べになりますと、全く車夫の峯松と杢八という渋川から従いて参った処の悪車夫二人にて人を殺し、鞄と荷物を引っ浚って逃げたに相違ない事が判然いたしました。されども其の者等の行方は未だ知れませんが、全く知らん車夫ゆえ橋本幸三郎は宜い塩梅に身遁れは出来ましたが、是がために二週間ばかりと云うものは頓と出るも引くも出来ませんで、空しく湯治を致して居りました。 幸「あゝ案外つまらん目に遭った、併し東京に帰るに付いて他に土産もないから」  と前々思いを掛けました彼の鈴木屋と云う料理茶屋の働き女おりゅうを五十円で身請を致しました。おりゅうのお瀧は何処までも縋って橋本幸三郎を騙し五十両の金子を取って窃かに松五郎に持たせて越後へ立たせてしまい、自分はずう〳〵しくも請出され、東京へ来て橋本幸三郎の妾となって橋場に囲われて居りました。直におりゅうの母をたずねると死にましたと云う。是も皆うそでありますが、幸三郎はおりゅうにすっかり欺されまして、あれは世間へ出るのが嫌いで、至って温順しい、志も感心なものだ、芝居も見たがりもせず、美い着物を着たがらんで信心一三昧で温順しく宅にばかり居る、彼様な感心なものはない、いずれ気象が知れたら女房に為ようと幸三郎は思って居りました。         五十  橋本幸三郎が瀧川左京という旗下のお嬢さまと存じて悪党のお瀧を五十円にて身請を致し、橋場の別荘へ囲って置きました。只今の権妻は極く勉強でございます。先ず旦那のおいでのない日には洋学をして見ようとか、或は少しずつ歌でも習おうとか、それとも編物をやって見ようとか云って何か遣って居りますなれども、昔の妾ぐらい怠けたものは有りません。只今なれば起るのが十時でげすな、往時は巳刻と云った時分に稍く眼を覚して、 権「誰か火を持って来ておくれな」  と是から枕元へ下女が煙草盆へ切炭を埋けて持って来ますと、腹這になって長い烟管で煙草を喫むこと〳〵おおよそ十五六服喫まんければ眼が判然覚めないと見えます。是から寝衣の姿で、ずうッと起上って障子を開け、廊下伝いに往って便所へ這入り、小用を達すのでございましょうが、此のまた便所の永いこと稍三十分ばかりも這入って居ります、出て来ると楊枝箱に真鍮の大きな金盥にお湯を汲って輪形の大きな嗽い茶碗、これも錦手か何かで微温の頃合の湯を取り、焼塩が少し入れてあります。下女が持って参ります。是から楊枝を遣い始めようとすると、ゴーンと云うのが上野の午刻だから今の十二時で何う云う訳か楊枝が四本あります、一本へ歯磨を附けまして歯の齦と表を磨き、一本の楊枝で下歯の表を磨き、又一本の楊枝で歯の裏を磨き、小さい楊枝が有りまして、これで歯の間々を掃除いたします。舌をこきますときは化物が赤児でも喰うような顔付を致しまして、すっかり溜飲を吐いてから嗽を致しまして、顔を洗い、それから先ず着物を着替るので、其の永い事、それから神仏へ向いまして線香を上げまして一心に拝みは為ませんが、神棚や仏壇に向ってごちゃ〳〵云いながら拝んで居ります中に、漸く下女が茶を入れて持って参りますから、これを飲んで居ると、ポーンと未刻の鐘が響きますから、 権「お湯に往こう」  と昔は種々のものを持って往ったもので、小さい軽石が有りまして朴木炭、糠袋の大きいのが一つ、小さいのが一つ、其の中に昔は鶯の糞、また烏瓜などを入れたものでございます。爪の間を掃除致すものを持って参り、下女に浴衣を抱えさせてお湯に這入りますのが尽く長い。先ず悉皆洗い上げて、すうッと湯屋から出て家へ帰って来ますと、ポーンと鳴る、是が申刻と云うので、それから 「さアお飯を喰べようねえ」  と是から朝御膳に成るのでございます。お膳の上には種々な物が載って居ります。自分の嗜なものが小さい葢物に這入ったり、一寸片口に這入ったり小皿に入れたりして有りますが、碌なものはありません、お芋の煮たのや豆の煮たのやなにかを取交ぜて有ります、総唐草の輪形の茶碗へ銀の股引を穿いた箸を出して喰べようと致して、 権「あゝー痛いこと……ちょいとその丸薬を取っておくれ」  と丸薬を七粒服んでお膳に向い、 権「是じゃア喰べられやアしないよ、例の処で何か見つくろって来ておくれ」  と喰いません。仕方がないから誂えに往くと間もなくお椀に塩焼とか照焼が来ます。 権「気に入らないよ、妾はいやだよ、それより甘いものが嗜だから口取か何かありそうなものだ、見附けて来ておくれ」 下女「はい」  と下女が二度目に使いに参り、帰った時にポーンと酉刻が鳴ります、朝飯が夕六時でございます。是からお化粧に取り掛ります。すっかり髱や何かを櫛で掻上げて置いて、領白粉を少し濃めに附け、顔白粉を附けてから、濡れた手拭で拭い取ってしまいます。誠に無駄な事を致します。唇へ差した余りの紅を耳たぶや眼の間へ差して、髪を掻揚げてしまい、着物を着替えたりするとボーンと夜の亥刻になります。 権「ちょいと其処の三味線を取っておくれよ」  と、柱に倚掛って碌に弾けやアしませんが、忌アな姿になってポツ〳〵端唄の稽古か何かを致して居ります中に、旦那がおいでになります。是からお酒が始まるとボーンと子刻に成りますから、昼だか夜だか頓と分りません。それに引替えて今の権妻は権威が附いたのか、旦那の為に学問を為ようといって御勉強でございます。         五十一  さて橋本幸三郎は霊岸島から橋場へ通いますには何か托けなければなりません。今日は斯う云う権門だとか、明日はあゝ云う集会があって拠なく遅く成りましたら橋場の別荘へ泊りますと、断っては出掛けます。何時も岡村由兵衞が一緒で、或日丁度自分の宅の少し手前に懇意なものがありまして、此家での宴会を済まして表へ出ると、彼れ此れ一時でございます。 幸「由さん遅く成って気の毒だね」 由「なに遅くなったって、斯う云う時に御別荘の有るてえ此の位便利な事はありません、だが矢張川口町へ帰るつもりで頻りに急ぎましたが知れるといけません、好い塩梅によし原の(芸者)おしめ、延しん、おなおなぞが、貴方の此処へ帰る事を知りませんから宜うございますが、知った日にゃア、ヘエーてんで無闇に来ますよ」 幸「お前ばかり知ってるんだから誰にも喋っちゃアいけねえよ」 由「なに私は喋りゃアしませんが、実に世間にも権妻は幾許もございますが、何れ芸者上りが多いので、旦那が大金を出して身請を為てサ、増長させて云う芽が出るんですが、それとちがいお宅のお内さんぐらいの温和い方を私は未だ見た事がありません、第一信心者でげす」 幸「ウン余り外へ出るのが嫌えで、芝居は厭だ花見は厭だといって、宅に居て草双紙を見るのが宜いてえんだ」 由「御自慢なせえ〳〵、実に彼の方は品が違いますねえ、私が参っても物数云わず、にっこりと笑われると胸がむか〳〵して来て、カアーと気が遠くなる位のものでげすが、一向にお化粧もなさいませんが、何処ともなくお美しゅうございますなア、此の間の黄八丈はすっかりお似合なさいましたぜ」 幸「平素は木綿で宜いなんて彼は少し変って居るね」 由「変ってる処じゃアありません、彼様なものが上州四万村辺に居ようとは思いきやで、御運が悪くって御苦労なすって、あゝやって在っしゃるくらい御苦労の果だからさ、大概の権妻は朝寝が嗜で、第一喰物選みをして、あの着物を買いたいの、此処へ往って見たいとか劇場へ往きたいとか種々云い出して、チン〳〵をするくらい無理なのはありませんよ、旦那が奥さんの処へ往って寝るのを権妻がチン〳〵をするくらい何う考えても無理なのはありません、旦那がお茶を習えとか活花を稽古為ろってえと忌アに捻って仕舞い、女の癖に変なこうポツ〳〵毛の生えた羽織などを着ていけません、それに洋学などを習ったりすると変な気位ばかり高くなって、外国の話なんぞを為ますが、僕などには些とも分りませんで面白くありませんが、彼のおりゅうさんなぞは柔和でね、何も彼も心得てゝ女らしく在っしゃるのは、ありゃアちょっと出来ないて……」 犬「ワン〳〵」 由「シッ畜生……」 犬「ワン〳〵」 由「畜生〳〵」 幸「かめ〳〵……帰ったよ……トン〳〵〳〵、おさんや帰ったよ、トン〳〵〳〵」 さん「はい」  と小声で返辞をして慄えながら窃と戸を開け、 さん「静かにして下さいましよ、盗賊が這入りましたよ」 幸「えゝ……何処から這入った、締りは厳重にして置いたんだろう」 さん「あれ……貴方其方へ往っちゃアいけませんよ」  と云われて慌てゝ由兵衞は柱へ頭をコツリ。 由「あ痛い何うも……私は直ぐに帰りましょう……」 さん「あれ、お庭の方へ出ちゃいけませんよ、盗賊はお庭から這入ったんですよ」  と云われてまご〳〵して彼方へ打つかり、此方へ突当って滑ったり、盥の中へ足を突込んで尻もちをつくやら大騒ぎで、 幸「静かに〳〵」 由「し静か処じゃアありません、あ痛い何うも……痛くって口がきけませんくらいで」         五十二 幸「おい〳〵……お駒やおりゅうは何うした」 さん「何うなさいましたか知りませんが、何でも庭から這入りました様子でございます、判然とは分りませんが、是は美い妾だ、姦んで殺して仕舞え、お金を奪って往こうと云う声が聞えたように思います、キャーと云う声がいたしましたから、何でもお駒どんは斬られやア為ないかと存じます」 幸「ムヽー、おい…マアこれ沈着かないかよ、静かにしなくっちゃアいけねえじゃアねえか」 由「静かにしろって、わ私は、さ騒ぎたくっても口がきかれません、是れでは」  とワナ〳〵慄えて居るを見て、 幸「気を確り持ちなよ」 さん「確りも何もありませんから私を逃して下さいまし」 幸「これ〳〵其方へ出ちゃアならん」  と幸三郎は沈着いた人ゆえ悠々と玄関の処へ来ますとステッキがあります。これを提げ、片手に紙燭を点したのを持って、 幸「何処の所だ、何にしてもお駒が案じられるし、おりゅうに怪我は無かったか、賊は逃去って仕舞ったか」 下女「何うでございますか私は只台所のお竈の下へ首を突込んで居りましたから、確かりとは分りませんでしたが、多分お怪我をなさいましたろう」 幸「えゝ、怪我をするのに多分などを附ける奴があるものか……おい由さん一緒に往っておくれよ」 由「へえ……一緒にッたって私は逃げられませんよ……あゝ宜しい、心得ましたが然う引張ったっていけませんてえに……あ痛い……足へ手桶が引掛って居ます……あ痛い……是は何うも大変な処へ帰って来ましたなア、私を引張って往ったって何の役にも立ちませんよ」 幸「チョッ静かにしねえか」 由「あ痛い……何うも是は痛い、暗いもんだからお茶棚の角へ頭を打附けました、木齋に此の角を円くさせて置いて下さいな」 幸「お前後生だから外へ出て一寸派出所へ届けるか、其処らに巡査さんが歩いて居たら御出張を願って来てくれねえか」 由「へえ……私は巡査は極いけねえんで、へえ何うも私は巡査さんを見ると何となく怖いので」 幸「お前は盗賊じゃあるめえし」 由「ないが何処ともなく巡査さんは凛々しくって怖味がありますから、私が届けちゃいけますまい、何卒是は一つお女中に願いましょう」 幸「チョッ……意気地がねえなア」  と云いながら倉前へ来て見ますと、緋の縮緬の扱きが一本、傍に浴衣が有りまして、ポタリ〳〵と血が垂れて居ますを見て由兵衞は慄え上り、 由「あゝ、血が、タ垂れて居ます、南無阿弥陀仏〳〵血と聞いたらまた腰が脱ッちまいました」 幸「えゝ、此方へ来な」  と漸々庭伝いに来て見ますと、庭に櫛だの簪が落ちてあって、向うを見ると桟橋の木戸が開いて居ます。 幸「ムヽ、……此処が開いて居るからにゃア此処からでも這入ったか知ら」  と呟きながら桟橋へ出て見ますと血が垂れて、其処におりゅうの寝衣浴衣と扱きが落ちてあったのを取上げ透し見て、 幸「ムヽ、是はおりゅうの寐衣と帯だが……おい由さん、何を為て居るんだ、私は此処に居るよ」 由「へえ……私はとても其処までは参られませんよ、へえ」 幸「チョッ……困るなア」  と云ったが浮かり倉の方へ這入り、盗賊に長い刀を提げて出られちゃア堪りませんし、由兵衞はぶる〳〵して役に立ちませんから、幸三郎が自身に駈出して参ると、丁度巡行の査公に出会いました。         五十三 幸「只今私宅へ強盗が押入りまして、家中に血が垂れて居りますから、直に御出張を願います」 巡「ウン承知致した」  と云ったが、一人では万一賊の方が多勢ではいけませんから派出所へ立帰り、呼子にて同僚を集め、四人ばかりにて其の場へ駈附け、裏口台所口桟橋の出口へ一人ずつ立番をして居り、一人が表口からズーッと這入り、段々取調べると、 幸「今年十六才になりますお駒と云う少女が見えません、尤も同人の寝衣、扱き等が倉前に落ちて居りますから、賊が倉の中に隠れて居りまするかも知れません」  と申しますので、是から段々取調べました処何処にも居りませんが、大した品物を盗んで参りました。 巡「大方妾のおりゅうとお駒と申す少女を辱かしめたる上に斬殺し、死骸は河の中へ投り込んで、舟で逃げたものだろう」  と取調べ、探偵は入替り〳〵四五名来り、名刺を置いて帰りました。是から先ず其の筋へ訴えなければなりませんから大した騒ぎでございます。斯うなっては幸三郎も母に明さん訳には参りませんから、母にも明し、是から番頭を呼んで来まして、隈なく取調べた上、訴書を認めさせました。 盗難御届 京橋霊岸島川口町四十八番地 橋本幸三郎 明治八年九月四日午前一時頃我等別荘浅草区橋場町一丁目十三番地留守居の者共夫々取締致し打伏し居り候処河岸船付桟橋より強盗忍び入り候ものと相見え裏口より雨戸を押開け面体を匿し抜刀を携え二人とも奥の方へ押入り召使りゅう雇女駒と申す者を切害致し右死体は河中へ投込候ものと相見え今以て行方相知れ不申候又土蔵へ忍入りしや私所持の衣類金銀とも悉く盗取り逃去り候跡へ我等参合せきよと申す下婢に相尋ね候処驚怖の余り己の部屋に匿れ潜み居候えば賊の申候言葉並に孰へ逃去候哉慥と不相分由申出候然るに一応家内取調申候処庭前所々に鮮血の点滴有之殊に駒の緋絹縮下〆帯りゅうの単物血に染み居候まゝ打棄有之候間此段御訴申上候  右盗取られ候金高品数左之通りに御座候 一金二千円 内訳金千円十円札、金千円五円札○一金三百円内訳金百円二円札、金二百円一円札○一金側時計一個但金鎖附此代金二百円○一同一個但銀鎖附此代金百円○一掛時計二個此代金五十円○一衣類二十七品此代金五百円○一玉置物一個此代金二百円○一古銅花瓶一個此代金百五十円、合計金高三千五百円也  さて右の書面を以て其の筋へ訴えましたゆえ、探偵の方が段々調べました処、後に致ってお駒の死骸が中洲に掛って居て是が揚りました。尚厳重に調べに成りましたが、何うしても盗賊の行方が分りません。此の後明治十一年七月十日、千葉県下下総国野田宿なる太田屋という宿屋へ泊り合せて、図らずも橋本幸三郎が奧木佐十郎と云う前申上げました足利江川村の機織屋が、孫の布卷吉を連れて亀甲万という醤油問屋へ参るに出会い、敵の手掛りを得ると云うお話でございます。         五十四  明治十一年七月十日野田に祇園会と云う事がございますが、豪商の居ます処ゆえ御祭礼は中々立派に出来ます。両側へずーっと地口行灯を掲げ、絹張に致して、良い画工に種々の絵を描かせ、上には花傘を附けまして両側へ数十本立列ね、造り花や飾物が出来ます。水菓子屋或は飴菓子団子氷水を商う店が所々に出まして、中々賑やかな事でございます。近郷のものが皆参詣に出ます。鎮守は愛宕でございます。彼地へ往らっしったお方は御案内でいらっしゃいますが、社殿は槻の総彫で、花鳥雲竜が彫って極名作でございます。是は先代の茂木佐平治氏が建立致したのでございます。境内には松杉銀杏の大樹が繁茂して余程広うございます(寳暦の年号が彫ってあります)牝狗牡狗の小さいのが左右にあり、碑が立って居て、之に慥か鐵翁の句がございまして、句「三光の他は桜の花あかり」句「声かぎり啼け杜鵑神の森」これは先代茂木佐平治の句で、他に眞顏の碑が建って居ります「あらそはぬ風の柳の糸にこそ堪忍袋縫ふべかりけれ」という狂歌が彫ってあります。大門を出ると、角に尾張屋と云う三階の料理茶屋があります。日の暮から村の若い衆や女中がぞめき半分で見物に出掛けますが、妙な扮装で若い衆は頬冠りを致しますが、全体頬冠りは顔を隠そう為に深く致しますが、彼地の若い衆は顔を出して皆後方へ冠ります、成たけ顔を見せるように致しますから、髷の先と月代とが出て居ります。手織の糸織縮を広袖にして紫縮緬呉羅の袖口が附いて居ます、男子の着物には可笑しいようで、ずいと前を広げても白縮緬か緋縮緬の褌をしめるのではありません、矢張晒木綿の褌で、表附ののめりの下駄を履いて団扇を持って出ますが、女も其の通り華美な扮装を為て出ます。矢張女も手拭を冠って居ります。彼地では女が、誠に済みませんが手拭も冠りませんで御挨拶を致します、と云う処を見れば手拭を冠るのが礼になって居る事と見えます。実に非常の群集で、其処にツクノリと云う事があります、何う云う事かと聞きましたら、是は蟇目の法だと云う。宵から夜中に掛けてツクを乗りますが、是は不思議なもので、代々近村の重次郎と云う人がツク乗りを致します、其の扮装が誠に可笑しゅうございます。白木綿の着物を着て、茜木綿のたッつけを穿き、蝦蟇の形をいたして居るものを頭に冠り、裳の処に萌黄木綿のきれが附いて居ますから、角兵衛獅子形で、此の者を、町内の寄合場所へ村の世話人が附いて招待致し、屏風を立廻し馳走を致して居ます。年番に当った家の前にツクと云うものを建てますが、丸太で長さ十二間もありまして白布で巻き、上に醤油樽が白木綿で包んで乗せてあります。それを綱で張ってありますが、若し乗損って落ちて死んだ時には、ツクの下へ其の死骸を埋るのが彼の祭の法だと云いますが、危険な業であります。なれども慣れて上手なものでございます。下に囃子を為て居ます。弥々重次郎さんが来る時には早めて囃子を致します。笛が二管、〆太皷が二挺ある切りで囃子が極って居ます、テレツク〳〵スッテンテン、テレツク〳〵スッテンテンと叩きます。重次郎さんを送って参ります時の囃子が可笑しゅうございます、唄のような節を附けて「ツークの重次郎どんがツークへ登ってヤレエーヘンヨ、テレツク〳〵スッテンテン」他に何も文句は云いません。処の風と云うものは妙なもので、充溢の人立ちでございます。太田屋という旅宿がございまして、其の家に泊って居りますのは橋本幸三郎に岡村由兵衞でございます。         五十五 幸「おい何うだえ此処の祭てえのは」 由「何うも驚きやした、是は何うも実に驚きました、是程の騒ぎじゃアないと思いましたが、狭い処にしちゃア珍らしゅうございますね」 幸「僅か離れた所でも大層風俗の変ったものだね」 由「変ったって何だって何うも大変り、女が皆な粉の吹いたように白粉を付けて、黒い足へ紺天の亜米利加の怪しい鼻緒のすがったのを突掛けて何処から出て来るんだか宜いね、唐縮緬の蹴出をしめて、何うしても緋縮緬と見えない、土器色になった、お祖母さんの時代に買ったのを取出してチョク〳〵しめるんでしょう、実に面白うげす……此の家の饀ころ餅が旨いから私は七つ食べましたら少し溜飲に障えました」 幸「手塚屋は古河の在手塚村の者が出て売始め、今では上等の菓子屋に成ったてえが、今お前に御馳走だと云うのは、亀甲万の醤油蔵は何うだえ」 由「何うも大きなもんですねえ、一年に何の位造るんでしょう」 幸「大して造るてえ事だ、何でも一ヶ年に並亀甲万が七万樽以上に、上等のが七万樽で、両方で合計十四五万樽も出るてえことだなア」 由「へえ沢山の桶が並んで居ましたが、醤油蔵が二十三間あって此方が十八間あるてえましたね」 幸「桶の高さが七尺五寸から八尺ぐらいで、彼の中へ落ちて死んだものがあると云うが、あの石を附けて絞る様子などは大したものだね」 由「へえ何うも実に驚きました」 幸「並の醤油を造る大桶の数が百四十五もあると云うが、近い処だけれども大きいものだね」 由「大きいたって私は実に驚きました、醤油を三十石ぐらい造るんで、蔵の中に居る人数が四五十人ぐらいも有って、事が大きいたって、あの竈の釜は何うでげす、矢張彼れは釜屋堀の七右衞門(今の釜浅鋳造所)が拵えたんでげしょうが、七右衞門と六右衞門が釜を売って、たった一右衞門違いで五右衞門は其の釜で煠られたてえのは妙でげすな」 幸「詰らねえ事を云うな」 由「亀甲万の旦那に彼は旦那の御紋ですかと聞いたら、なに然うじゃアない、是には種々訳のある事だ、南新堀に萬屋忠藏と云う仲買があって鱗の紋だから、それを二つ合せて萬屋の萬の字を附けたのが始りだと申しますが、不粋な紋もありますが、僕のは太輪にして中を小さく為ても抱茗荷はいけません、彼を細輪にして中を大きく出すと商人らしく成ります、形が悪うございますね、抱茗荷を太輪にすると馬の腹掛のようでいけませんな、ハヽヽヽヽ」 幸「静かにしねえか」 由「はい、大きな声で喋りましたが、何うでげす、彼のツークの重次郎どんテレツク〳〵スッテンテンてえのは」 幸「止しなよ」  と話をして居りまする。其の隣座敷に居りましたのは前申上げました奧木佐十郎という年齢は六十六に成り、忰も嫁も死んだので拠なく機織女を抱え、僅かの事で其の日を送って居りますが、一体達者な爺さんだから、今年十三に成ります孫の布卷吉と云うものを亀甲万へ奉公にやって置き、孫に会いに参ったのでございます。 佐「これは詰らん物だけれども、宜い物を上げたって何も彼も御不自由のないお宅だから、是だけお祖父さんが持って来たから、旦那様へ上げておくれよ、お前何でも能く辛抱して、然うして、宜いか、何も私がお前に過して貰おうてえのじゃアねえが、奧木の家を相続するのはお前より他にはねえから、奉公は辛い、辛いものだけれども詰りお前の為だ、取分け朋輩衆も多かろうから、番頭さん始め若い衆から朋輩衆の機嫌を取損わねえようにして、怠りなく旦那さまを大切に為なければならねえよ」 布「お祖父さん、私は奉公が厭になりましたから、今日直に足利へ連れて帰って下さいな、誠に御無理な事を云うようでございますけれども、今日お前さんのおいでなすったのは幸いでございますから、何卒お暇を戴いて帰り、私はお祖父さんの傍に居とうございます」 佐「お前は私の顔を見ると其様な事ばかり云う、それだから私は滅多に顔出しをしないのだ……それは辛らいさ、辛いけれども何様な人だって奉公を為て、他人の中を見て其の苦しみをして来たものでなければ役には立ちません、お祖父さんの傍に置いて、何でもはい〳〵とお前の云うなり次第に気儘にすれば馬鹿に成っちまいますから、辛かろうが他人の中で辛抱して、何様な事でも生涯の立つ事を覚えなければ成りません、殊に結構なお店で、旦那さまもお慈悲深いし、文明開化の事も能く御存じのお方ゆえ、何でもすがって居なければならねえのに、苟めにも帰りたいなどと云っては成りません、何だって其様なことを云う」         五十六 布「お祖父さん、あんたは老るお年でございますから、お父さんお母さんも死んでから、お祖父さんのお蔭で私は斯様に大きくなりましたが、幾らお達者だって、最う六十の上六つも越して入らっしゃるから、翌が日病みお煩いに成っても、お薬一服煎じて貴方に服ませるものはありませんと思えば、熱かったり寒かったりする度に気になりまして、お前さんの事を朝晩忘れた事はありません…復奉公に参りますまでも一旦は帰りとうございますから何卒お暇を戴いて下さいまし」 佐「お前そんな事を云っては困ったなア……お祖父さんは無いものと思え、お祖父さんの事などを思って奉公が出来るものか、お祖父さんも以前は大小を差して、戸田家にて仮令少禄でも御扶持を戴いたものだ、其の孫だからお前も武士の血統を引いて居るではないか、忠孝全からずと云うて、奉公をする身は仮令両親があっても主人に事える中は親の事を忘れなければならんものじゃ、それが忠義と云うもの、お祖父さんの顔を見ると其様な事を云う、これから其様な事を云うとお祖父さんは最う決して構いませんよ、私も何うかしてお前の多足に成るようにと思って、年寄骨に機の仕分を為ているのに、其様な弱い音を吐くと肯かんぞ、お祖父さんは再び此処へ来んぞ」 布「はい……お祖父さん昨夜お祭礼で講釈師の桃林の弟子の桃柳と云うのが来ましたが、始めて此処へ来たもんだから座敷を為てやろうと旦那さまがお口をお利きなすったもんですから、聴衆が多勢出来ましたので、お店の方も皆な寄って講釈を聞きました」 佐「ウンそれは有難い事で、足利の江川村などに居ちゃア講釈でも義太夫でも芝居でも見聞をする事は出来やアしない」 布「その桃柳てえ講釈師が金比羅御利生記の読続きで、田宮坊太郎」が子供ながら親の仇を討ちました所の講釈でございましたが、彼を聞きましてお祖父さん私は親の仇が討ちたく成りました」 佐「え、なに親の仇が」 布「へえ私も茂之助の忰であります、母と妹は村上松五郎とお瀧の為に彼様な非業の死様を致しましたのは、親父が間違えて母親を殺したんでございますが、実に驚きまして途方に暮れ、彼の様に親父は首を縊って死にますような事になりましたのも、皆なお祖父さん村上松五郎お瀧から起った事でございます、私も子供心に二人の顔を覚えて居ますから、彼奴等二人を殺さんでは私が親に対して済みませんから、何卒お暇を戴いて下さいまし」 佐「あゝ……、然うか、手前年も往かねえで能く親の仇を討とうてえ心になってくれた、おくのや茂之助が草葉の蔭で此の事を聞いたら嘸悦ぶであろう……じゃが今の世の中では仇討と云うことは出来ないが、彼奴等は天罰でいまにお上の手に懸って、その悪を為ただけの処分は屹度受けようから諦めてくれ、よ、其様な事を云ってくれると私が困るから」 布「いえ、お祖父さん何卒お暇を戴いて下さい、私は最う一日も居られません、若しお祖父さんが私を置いて往けば、明日にも彼家を駈出します」 佐「どうでも手前討つと決心したか、併し人を殺せば手前の身にもそれ丈の処分が附くぞ」 布「いえ私は死んでも宜しゅうございます、彼奴等二人を仮令私が手をおろして討ちませんでも、捕えてお上の手を借りましても思う存分に為ませんでは腹が癒えませんから」 佐「ウム…宜し、お暇を願って遣ろう……あゝー能く仇を討つと云った」  としめやかに話を為て居るを隣座敷で聞きまして、岡村由兵衞が、 由「旦那え〳〵」 幸「何だ」 由「仇を討つてえますが何でしょう」 幸「講釈だろう」 由「ナアニ少さい子が仇を討つてえと、何だか傍に居る老爺さんが能く討つと云ったてえましたぜ」 幸「ムヽもう討ったのか」 由「なに討ったとか討つとか云ってますが、此処でチョン〳〵始まっては大変で」 幸「まさか始まりゃアしめえ」 由「何でげしょう」  と岡村由兵衞が怖々廊下へ立出で、そっと障子の破れから覗くと、六十有余歳の老人と十二三に成る小僧と二人にてのひそ〳〵話、幸三郎も覗き見て、 幸「はて変だな」  と怪しみました。さて是から奧木佐十郎が茂木佐平次方へ参って、布卷吉の暇を貰って、川蒸汽に乗りまして足利へ帰るのでございますが、此の汽船へ再び橋本幸三郎が乗合せるのも妙な訳で、上州の川俣村と云う処で筏乗の市四郎に会いますと云う、是れから敵の手掛りが分ります。         五十七  野田の祗園祭でございまして、亀甲万の家へ奉公を致して居りまする布卷吉と云うは、今年十二歳ではありますが、至って温和しい実体ものでございます。祖父奧木佐十郎が顔を出しに参りましたのを見ると、親の敵が討ちたいからお暇を戴いてくれと云うので、祖父が亀甲万の主人に面会致し、只管暇をくれるようにと頼み、幾ら止めても肯きません。亀甲万の御主人も親切なお方でございますから、懇々説諭を致しました。 主人「当今は復讐などは決して無い事じゃから、そんな事は思い止まったら宜かろう、それより相変らず当家に奉公して居れば私も彼の温順しい事も看抜いて居るから、後々には私も力になってやろう、年を老ったお祖父さんが先に立って仇討などという事を勧めちゃアいかん、それは時節が違うから、まア私の云う事を肯いて思い止まんなさい」  と種々に意見を加えましたが、一方が頑固な老爺さんで肯きませんから、そんならば暇をやろうと万事行届いた茂木佐平治さんだから多分の手当を致てくれ、今上川岸の舛田と申す出船宿から乗船切符まで買うて与えました。是から出船宿へ参るには、太田屋と申します宿屋の向横町を真直に這入りますと、突当りに香取神社の鳥居がありまして、傍に青面金剛と彫付けた巨きな石塚が建って居ります。鳥居から右へ曲ると高梨の家で、左右森のように成って居り、二行の敷石がございまして、是からずいと突当ると小高い堤が有ります。其処を上ってだら〳〵と下ると川岸でございます。此処に出船茶屋があります。升田仁右衞門と申しては彼の辺きっての好い出船宿でございます。船へ乗りますお客は皆早く此家へ参りまして待受けて居ります。切符を買ったり弁当拵えの支度をするとか、或は菓子を買って入れるなど多勢がごた〴〵して居ります中に、前申上げました橋本幸三郎、岡村由兵衞の二人が野田から参りまして、先刻から出船を待って居ります。 由「旦那、只何うも私が今日驚きましたのは、彼のツク乗りで、何うも倒さまに紐へ吊下って重次郎さんが下って参ります処には驚きました」 幸「彼はまア珍らしいなア」 由「珍らしいなんて実に見る事は出来ませんよ、灯台下暗しで、東京の近処で彼様な変ったお祭の有る事を是まで些とも知らずに居りましたが、実に何うも不思議、へゝゝゝ彼のテレツク〳〵なんぞは悉皆覚えましたが、重次郎さんの扮装てえのは恰で角兵衛獅子でございますね、白の着物に赤い袴で萌黄色のきれの附いている物を頭部に冠って、あれで獅子が附いてれば角兵衛獅子だが、彼は蛙だから重次郎蛙です、只々重次郎さんの出て来る処が不思議でげすが、彼様な事は開化の今日は種切れに成りそうなもんだが、代々重次郎さんてえものが出るのが訝しいね、彼で乗り損って死んじまうと、ツクの下へ死骸を埋るのが法だと云いますが妙でげすねえ」 幸「おい〳〵汽笛が聞えるようだぜ、汽船が来たんじゃアないか」 由「然うでげすな……おッ旦那月が登って来ました、好うがすなア、月の光で川の様子を見ながら参りますと退屈凌ぎになりますよ……あ来ました〳〵お前さん此の鞄を持ってゝ下さい」 下女「笛が聞えたって彼でまアだ半道程も先だアから、緩くり支度をしておいでなせえましよ」 由「でも、ピイー〳〵と川へ響けて大層聞えますね……何だか私ア気が急きますから、旦那徐々支度をなさいな…大きに姉さんお世話さま、お茶代は此処へ置きましたよ」 下女「これは有難うございます、まア御緩くりおいでなせえましよ、滅多に汽船は来ませんから」 由「来なくっても先へ出て居た方が宜しい、へゝゝゝゝ呑気でございますね」 幸「田舎は是だけが宜いのう」         五十八 由「姉さん桟橋が何処にかありませんかい」 下女「はい、今度出来るてえ事ですが、まだ無えだから、堤の草へ掴まって下りるだアね」 由「草へ掴まって…危えなア、早く桟橋を拵えたら宜さそうなものだ……辷りゃアしないかい」 下女「大丈夫でござえますよ、慣れてるものは船へ飛込むだが、岸の方は水が来ねえから泥が深くなってますよ」 由「深い……困ったねえ、ずぶりと這入っちゃア大変でげすから、船が来たら板か何か向へ渡して貰いましょう」 下女「慣れた人は皆跨いで船へ打飛んで這入りますよ」 由「此方は慣れねえから打飛べねえよ」  と云って居る中にシャ〳〵〳〵〳〵と汽船が忽ちに走って参りました。其の頃には通運丸と永島丸とありまして、永島の方は競争して大勉強でございます。 幸「さア〳〵お前先へ這入んなよ」 由「宜うございますから、荷物は後からとして……上等の方は何方だえ、なに此方だ、大変だなア……これは危い、ちょいと貴方此の鞄を持ってゝ頂戴……両手でなければ迚もいけません、ズブ〳〵と這入っちゃア大変でげすからナ…へえ御免なさい〳〵……これは〳〵何うも旦那御覧じろ、恰で鮪を転がしたように皆なゴロ〳〵寝ていますが、上等の方でさえ是れでげすもの、下等の方はゴタゴタして大変なもんですぜ……此の通り実はすいて居るのだが皆な寝ているので幅を取っちまいますが、仕方もありません、併しね旦那、此処に包や何か整然と掛ける処が出来てるのは流石に手当が届いて居ますね……蝙蝠傘などを窃取されるといかねえから此処へ斯う纒めて置いて……貴方最う少し其方へお寄んなさいな、此処を広くしていましょう……貴方寝耋けて居ますか、アハヽヽヽ野田に遊んでたので何んだか百姓ばかり乗ってるような心持が致しますね……おいボーイさん、火を持って来ておくれな……なにマチが這入って居ると、マチはあっても宜いから火を一つ持ってお出な……淋しくっていけねえから……なに夜は火はない、虚言ばかり吐いて居る、面倒だもんだから彼様な事を云ってる」  とマチで火を擦付け、煙草に移し一口吸い、 由「フー……これで何んでげすね、今夜一晩船の中では何うで寝られませんな、東京からスイと来て上州の川俣村まで往くにゃア随分退屈は退屈でげすな……おッ是は大変に蚊が居ますね、傍から〳〵這入って来ます事、是は恐入りましたなア……永島さん早く船を出す訳には参りませんか」 水夫「荷が悉皆這入らねえじゃア出しません」 由「荷てえば大層転ってますね」  と見ますると、傍に居ましたのは年の頃二十七八にも成りましょうか、大丸髷の婦人で、色の黒い処へベルモットでも飲んだような顔付で、鼻が忌アに段鼻になって、眼の小さな口の大きい方で、服装は木綿縮の浅黄地に能模様丸紋手の単物に唐繻子の帯を〆め、丸髷には浅黄鹿の子の手柄を掛けて居ます、朱縮緬の帯止をこて〳〵巻付けて、仕入物の蒔絵の櫛に鍍金足に土佐玉の簪で、何処ともなく厭味の女が、慣れ〳〵しく、 女「貴方此方へ入らっしゃいまし、御緩りお坐りなさい」 由「へえ有難うございます、誠にお邪魔さまで」 女「お婆さん其の包みを脊負っておいでよ…貴方方は東京でいらっしゃいますか」 由「えゝ東京で」 女「東京のお方と聞くとお懐かしゅうございますこと」 由「貴方も東京でございますか」 女「はい私は足利の方の親類共に厄介に成って居りまして、時々博覧会や何か有りますと東京へ参りますが、上野はまた別でございますね」 由「へえ左様です」 女「今度の博覧会は立派な事でございますね」 由「えゝ盛大な事でございます」 女「大して人が出ますね」 由「えゝ出品物も余程多い事でございます」         五十九 女「私もそれから彼方此方と見物も致しましたが、私は此の様に肥ってますもんですから、股が縮むようで何だかがっかり致しますので、それから何でございますね、弁天から上野の辺が誠に綺麗に成りましたこと、それに松源鳥八十などと云う料理茶屋も立派に普請が出来ましたね」 由「えゝ大層……立派に普請が出来ました」 女「それに花火の仕掛ものなどは昔とは全然違ってしまいました」 由「えゝ大した勉強な事で」 女「是までの東京の玉屋鍵屋などで拵える仕掛とは違いまして、ポッポと赤い火や青い火が燃えまして誠に不思議で、あの水の中をチュ〳〵〳〵と走って歩くのは彼ア何てえのでございましょう」 由「へえ何てえますか私は知りません」 女「貴方は新富町へいらっしゃいましたか」 由「えゝ参りました」 女「大層巧く演しますね、今度の狂言は中々大入で、私が参りましたら一杯で、尤も土曜日でございましたが、ぎっしりでございましたよ」 由「へえ、土曜日曜は大入で」 女「團十郎は何うも巧いもんでございますね、渋い事をさせては彼の位の役者はございませんね、他の役者とは違いますね、むずかしい事を致しますが、実に巧いもんで」 由「えゝ堀越は別でございます」 女「それに菊五郎は上手なことで、左團次さんも巧いものですが、菊五郎と左團次と一対揃って巧いものでございますね」 由「へえ彼は中々巧いもので」 女「小團次は大層役者を上げましたね、それに私は福助の人気の有るには本当に驚きましたよ、往来を福助が通ると私共のような者まで駈出して見る気になりますのは別で、また娘なぞに成ると実に綺麗でございますね」 由「えゝ誠に綺麗で……(小さな声で)これは延べつだ」 女「大層綺麗で人気の有ることは別でございますから、何うかして身体を快くして遣りとう存じまして、私も心配致して居りますが、何う云うものでございましょう、癒りましょうかね」 由「へえ癒るかも知れません、松本先生などがお骨折ですから癒りましょう」 女「それに家橘が大層渋く成りましたのに、松助が大層上手に成りましたことね、それに榮之助に源之助が綺麗でございますね」 由「えゝ彼は誠に綺麗な事で……これは堪らん、旦那少し代って下さいまし、私は小便に往きますから」 女「お手水は其方じゃアいけません此方でございますよ」 由「へえ種々御親切に有難う存じます」  と由兵衞はこそ〳〵逃出しました跡で、彼の女は橋本幸三郎に向いまして、 女「貴方も東京のお方で」 幸「へえ」 女「彼の方と何方へいらっしゃいますの」 幸「私は足利まで参りますので」 女「おやまアお嬉しいこと私も足利へ参りますの、私は足利町五丁目の親類共に居りまする吉田屋のふみと云うもので、何うか些とお訪ね下さいまし」 幸「左様でございますか」 女「貴方は足利は何方でございます」 幸「ヘヽヽ極く外れの野暮な処へ参りますが、何れまたお訪ね申しましょう」 女「何卒入らしって下さいましよ」 幸「有難うございます」 女「私は五丁目に居りますので、右側の何でございますよ、貴方は」 幸「へい栄町の変な処を這入って桐生の方へ参る道でございますよ」 女「へえ左様でございますか」 幸「由さん早く来ておくれよ」 由「まだ話が途切れませんか、是は驚きましたな」  と云って居る中に船が出ました。また寳珠鼻へ着くと乗込むものも有り、是から関宿へ着きますと荷物が這入るので余程手間がかゝり、堺へ参りますと此処にて乗替え、栗橋へ参り、旭が昇って川に映り、よい景色でございます。栗橋から上州の川俣という処へ船が着きますと、かれこれ十時、宜い塩梅に天気もよく皆々客は上りましたから一同大きに安心致しました。是から幸三郎由兵衞も上ることに成りますと、いゝ塩梅に彼の段鼻の大年増も居なく成ったから、二人はホット息を吐きました。         六十 由「旦那何うでございました」 幸「何うも本当に驚いちまった」 由「吉川屋てえ料理屋は此処でげす、昨夜彼の女にのべつに喋られたので私ア胸が一杯に成りました……さア這入りましょう」 下女「此方へお掛けなさいまし……此方へお上りなさいまし」 由「何処か斯う景色の好い、見晴しの有る、風通しの好い、しんとした、乙に賑やかな処がありませんか」 幸「そんなむずかしい処があるものかアね」 女「此方へ入らっしゃいまし」 由「昨夜は些とも寝られませんでしたから、此処で昼寝をして顔を洗ってから、何か誂い物を致しましょう……姉さん何が出来るかい」 女「鯉こくに玉子焼鰌でがんす」 由「結構、じゃアその鯉こくに玉子焼でお酒の好いのを、と云った処が別に好いのもあるまいが、成たけ気を附けておくれ、兎に角顔を洗って参りましょう」 女「お顔をお洗いなさるなら此方へ入らっしゃいまし」  と下婢の案内に従って顔を洗って参り、 幸「浴衣が湿ついたから」  と着物を着換え、酒も飲み、御飯も喫べてから昼寝をしようかと思いますと、折悪うドードッと車軸を流すばかりの強雨と成りましたから立つ事が出来ません、其の中に彼の辺は筑波は近し、赤城山へも左のみ遠くありませんから、ガラ〳〵〳〵と雷が烈しく鳴って参り、二三ヶ所へ落雷致しましたので立つ事も出来ず、ぐず〳〵して居ます中に、午後の四時半時分に成ると、フーと雲が切れましたから幸三郎も由兵衞もホッと息を吐きました。 幸「是から立つてえのも遅いから今夜は此処へ泊ろうじゃアねえか」  と皆泊りも多うございますから宿屋でも気を利かして湯を立ってくれました。 由「旦那私は雷にゃア驚きましたが、お湯へ入れただけは当処も中々気が利いてますね」 幸「ウン此処の家は宜く手当が行届くねえ」 由「大届きでげすとも、併し私は雷は大嫌いだね、甚く怖うございました、尤も雷が怖いてえ顔付でもありませんが、今の雷と昨夜の段鼻の大年増には実に驚きました、貴方の様子の好い処からちょいと横目でキョト〳〵見たりして、本当に嫌でございましたな、のべつに喋ってさ」 幸「然うさ、併し雷と云えば四万で一遍大雷鳴に遭って驚いたっけな」 由「左様さ、宿屋の裏の口へ落た時には驚きましたね」 幸「此の頃では雷避が出来たので安心だが、日光へ往った時に霧降の滝へ往く途中で大雨大雷鳴に出会い、甚く困ったが、あの時を思えば霧降の滝壺まで下りたっけねえ」 由「それは何んですが、伊香保でお癪を起した御新造ね、彼のくらいまた人柄の善い御新造も沢山はありませんね、お可愛そうに世の中の事を御存じないのだから驚きましたろう、峰松と云う車夫が騙して引摺り出して、折田村で正直そうな彼奴がやったてえのでげすが、彼奴が鞄が残ってあったと云い持って来たのが手で、お金は入りません、車に残ったものをお届け申すのは当然の事だてえのでげすから、誰も一杯喰おうじゃアありませんか、つい正直者と思って次の間へ置きました、どっちりお金の這入って居た大鞄は木暮の方へ預けて置いたから宜うございましたが、然うでないと何様な目に遭ったかも知れません、何しろ暇を潰した上に四万では大御散財でげしたが、關善へ大きな男が談判に来た時にゃア私は本当に怖うございましたよ、首を捻るなんて親切ものだから、烈しく掛合われた時には本当に驚きました」 幸「彼の時は怖かったな、彼の時に種々災難の重なったのも詰りお母さんが止せと仰しゃったのを無理に出たから悪かったが、鈴木屋に働いていた彼のおりゅうには驚いた」 由「えゝ彼奴には喰ったね、ポロ〳〵涙を零して、えゝ何とか云いましたっけ、私は瀧川左京のお嬢さまでございますって身の上話を並べたから、此方もホロリと来て、あゝお気の毒だって、貴方はお慈悲深いもんだから五十円で身の代をくぎって、東京へ連れて来て権妻になすって、目を掛けておやんなすったが、実に怖いな、漸々様子を聞けば芝居町の芸者で小瀧と云う奴だそうで」 幸「私が東京へ連れて来ると芝居を観るのも厭だ、物見遊山は嫌いだ、外へ出るのは厭だと神妙らしく云ってたのは、本当に出嫌いのではなくって、実はお尋ねものゝ日向見お瀧と云う奴で、真実温順しいのではない、何処へも出て歩く事が出来ねえんだ」 由「亭主は村上何んとか……ウン松五郎てえ肩書の有る旅稼ぎだそうでげすが、得て湯場などには然う云う奴がありますね」         六十一 幸「おい〳〵此処でうっかりお尋ねもんだなんて、彼奴の事ア喋られませんよ」 由「へえ…彼女もあゝ云う目に遭ったのは罰でげすね、だが橋場の御別荘へ押込の這入った時には私は驚いて腰が脱けちまいました、あゝ血が流れて居るのを見たが、実に何うも彼様な忌な心持はありませんね、何んとか云うお女中が其方から這入っちゃアいけません、此方へ往くと其処に泥坊が居りますよと云われた時にゃア私アとっちたね、併しまア彼の女は天罰で賊に斬殺され、桟橋から投り込まれたのでげすが、彼も矢張悪事の罰だろうね」 幸「ウン彼奴も窃盗をする奴だが、お瀧も矢張りお尋ねものの悪党だから殺されたって却って私は好い気味ぐらいに思って居るが、彼のお駒と云う小女は誠に可愛そうな事をしたね」 由「そう〳〵お母さんが来ておい〳〵泣いて居た時には、流石の私も気の毒に思いましたが、おたきの死骸は未だに知れませんかえ」 幸「まだ知れねえが、多分海へ流されて、天罰だから何処かの岸へ打揚げられ、烏に喙かれるぐらいの事は何うしたってなければならないよ」  と話をして居ると、唐突に一人の老爺が後の襖を開けて這入って参りまして、 老「はい御免下さい」 由「はい……おや旦那、何処かの老爺さんが這入って来ましたよ」 老「はい御免下さい……えゝ只今隣の席で承わりましたが、何かソノ村上松五郎と申すものにお瀧と申す者が盗賊に殺されて、川へ投り込まれ、死骸が知れんとか云う事をちょっと承わりましたが、貴方がたは其の松五郎と申すものゝ行方や何か精しく御存じの御様子で」  と問われて両人は恟りして互に顔を見合わせ、小声にて 幸「だから無闇に喋舌っちゃアいけねえてんだ、掛合に成るよ、此の事に付いて一昨年大変に難儀をした者があるんだよ」  由兵衞は胸は早鐘、どぎまぎしながら此方に向い両手を突き、 由「へえ入らっしゃいまし、私共は何も知って居る訳じゃアありませんが……ちょいと只今……へえ人の噂を聞きまして、ちょいとおちゃッぴいを致しましたので、精しく知ってると云う訳じゃアありません、只人の噂を聞きましただけの事で」 老「それでも何かお瀧と云うものを尊宅へお連れ帰りなすって、目を掛けお使いなすった処が、其の者が案外盗賊で、これこれいうお尋ね者ゆえ、あゝ云う死様をするのも天罰だと仰しゃったが、貴方は何方のお方さまか知りませんが、お瀧を奉公人にでもしてお使いなすった事でございましょうが、仰しゃって下さいませんと、私の方に些と困る事がありまするので、何卒お隠しなさらず仰せ聞けられて下さい」 由「これは驚きましたなア……」 幸「お前は余りペラ〳〵喋るからいけないんだ、旅だアな、此様な処で探偵にでも捕まって調べられると日数がかゝるよ、四万でも二週間程余計に逗留したじゃアねえか」 由「へえ……貴方ソノ何んでげすソノ……ヘエ何んで」 幸「何を云ってるんだ」 由「実はソノ何んでげす、此の旦那が彼のお瀧という女を正直者だと思召して、田舎から東京へ連れて来て、少しばかり雇人のようにしてお使いなすって居らっしゃると、盗賊が這入りまして斬殺され、未だに死骸が知れませんのでげすが、貴方もお掛合いてえ訳でございますか」 老「いや掛合と云う訳ではございませんが、少し調べんければならぬ事が有ると云うは、其の村上松五郎と申すものゝ事で」 由「へえ〳〵〳〵」 老「何卒細かに仰せ聞けられて下さい、若し隠し立をなさると何処までもお附き申して質さねばならん事があります」 由「へえ、これは恐れ入りましたなア旦那」         六十二 幸「お前本当に困るじゃねえか、余計な事を云うからいけねえんだ……何卒御勘弁なすって」 老「いや貴方が何も私に謝る訳はないが、ちょっとお姓名だけを承わって置きましょうか」 幸「へえ……」 老「いやさ御姓名を一寸認めて置きたいから」 幸「へえ……真平御免なすって」 老「何も謝る事はありませんよ、御姓名だけを」 幸「へえ、何う云う何ですか掛合なれば仕方もありませんが、私も彼を正道な女と存じまして、お屋敷ものが零落れて斯様に難儀をして居るとはお気の毒な事だ、あゝ不憫だと思いまして、多分の金子を出して彼の身請を致し、東京へ連帰って私の妾にして、橋場の別荘へ置きました処が、盗賊が這入りまして斬殺され、いまだに死骸が知れませんので、尤も其の筋へお届けには成って居りますが、お再調べに成りましても当人は助かって居りますか助かって居りませんか、其処は分りませんので、へえ」 老「ムヽー貴方は何と云うお姓名だ」 幸「えゝ私は橋本幸三郎と申します」 老「ムー橋本幸三郎」  と手帳へ認め、 老「お宿所は」 幸「霊岸島河口町四十八番地で」 老「ウン……貴方は」 由「えゝ私……あの、ヘヽヽ私が何もソノ妾にしたと云う訳でも何でもないので、私は只此の旦那の家へ時々出這入って御用事を伺うだけの事でげすから、ヘヽヽ」 老「いや精しい事を御存じだろうから、仰しゃらんなら私と一緒に同道していらっしゃい、御姓名ぐらい伺うのは当然の事だ」 由「へえ……えゝ私は木挽町で」 老「木挽町……」 由「三十六番地で、へえ」 老「御姓名は」 由「岡村由兵衞」 老「お神楽」 由「お神楽じゃアありません、幾らひょっとこ見たような顔でも……岡村由兵衞」 老「ウン……そこで村上松五郎と申すものゝ行方は慥に知れませんか、更に心当りもございませんか」 由「へえ、それは素より知らん奴でございますから」 老「で、そのお瀧と申すものは慥に賊に斬殺され川の中へ陥りまして、いまだに死骸も知れませんか」 由「へえ死骸も知れないのでございます」 老「愈々知れませんか」 由「へい知れませんのでございます」  と云切ると、襖の蔭で何者か知れませんがワーッと声を揚げて泣出しましたから、由兵衞は驚きましたの驚かないなんて顔色を変えて、 由「あゝー誰か泣きました」  というと、彼の老人は静かに後を顧り、 老「泣くな〳〵泣いたって致し方がないから此処へ出ろ、泣いたって何うなるものか、見ともない、声を出して泣くなんて男らしくもない、何んだ」 由「旦那、まだ誰か居るんで、此の人は年寄だから何んでげすけれども、若い人が出て来ると大きに怖いような訳ですが……誰かいらっしゃいますので」  と云って居る処へ泣きながら出て参りましたのは、今年十三に成りまする布卷吉と云う小僧だから大きに安心を致しました。 由「子供なら安心を致しました……が何ういう訳でお泣きなすった」 老「はい……此者は私の秘蔵な孫でございますが、松五郎お瀧の行方を探して居る身の上で、此者が両親と申すものは其のお瀧松五郎ゆえに非業な死を遂げましたのは、此者が七歳の折でございますが、何うかして両親の敵を討ちたいと子心にも心掛け、奉公中暇を取って立帰り、其の者を取押えて、手に合わんときにはお上のお手を借りても親の仇を討ちたいと心掛けて居ります、処が敵と狙うお瀧めが今お話の通り死骸も知れんように成ったと承わり、残念に存じまして此者が泣きましたので」 由「へえー御両人は野田の太田屋で隣座敷に居たお方でございますね、此のお子のお父さんお母さんまで非業に殺しましたと、へえー彼奴ア幾人人を殺したか知れねえ」  と話をして居ますと、唐突に隔ての襖をガラリ引開け這入って来たは大きな男で、 男「はい御免なせえ」 幸「はい」  と何者かと首を擡げて見ると、筏乗市四郎でございます。         六十三  幸三郎も由兵衞も驚きました。 市「えゝ老爺さん、お前さんに又此処でお目に懸るてえのは誠に深え御縁かと思ってるのよ……貴方は慥か四万の關善でお目に懸った橋本幸三郎さんてえお方でげしょう、裁判沙汰になって警察へも毎度出ましたが、毎もまアお達者で」 幸「これは思い掛けない、親方で、由さんソレ筏乗の市四郎さんだよ」 由「これは何うも御機嫌宜しゅう……先刻もちょいとお噂を致しましたが、是れは何うも……今度は首捻りじゃアないのでしょう」 市「いや貴方は由兵衞さんとか仰しゃったね……あの折は永え間お目に懸り、また帰り際には飛んだ御馳走になりまして、何んとハアお手当をね沢山に遣ってくれろと云って下すったが、彼のお藤さまと云う御新造が堅い人だもんだから中々受けませんだったが、彼の後私も時々参りますがね、何時でもハア貴方のお噂ばかり致して居りやすだ」 幸「いや何うも誠に思い掛けない事で、そして親方は何方へ」 市「なに関宿まで参りやしたが野田の祭を見ようと思って往くと、此の老爺さんが此の子に意見しているのを私が隣座敷で聞くと、此の子が、田宮坊太郎の講釈を聞いてから急に敵が討ちたくなったから、お祖父さん暇を取っておくんなせえと云うと、此の老爺さんが今の世の中には敵討は無え事だ、其様な事をすると汝が御処刑を受ける、駄目だから止せてえと、御処刑を受けても殺されても、己ア死んだ両親の恨みを晴らさねえば子の道が済まぬと云うのを聞いて、私は隣座敷で胸が一杯になって涙を飜しながら聞いて居やした、それから汽船へ乗ると船で会い、また此処で一緒に成るとは何とまア深え御縁かと思ってるだ、併し其の相手の村上松五郎てえ奴は、旧ア侍だと聞いてるから、此様な小せえ子に敵の討てる訳もなしするから、若し剣術でも習いてえなら、私の御主人筋の人が剣術が偉えから其処へ往って稽古をさせてよ、自分で敵を討たねえまでも剣術が習いたくば其の人に頼んで、お前の志を話したら、あゝ感心な訳だ、己ア家に置いて剣術を教えてくれべえと云って、引取ってやろうと仰しゃるに違えねえから、己アお前を其家へお連れ申そうと思って、入らざる事だが、十二や十三で親の敵を討とうてえ心が感心だから、愈々てえ時にア頼まれやしねえが己も助太刀に出て、その松五郎てえ奴の首でも捻ってやろうと思うんだ」 由「ヘエヽ昨日野田の太田屋でソレ申し貴方、隣座敷に居たのは老爺さんと此の子でございますか、それを聞いて此の市四郎さんが御親切な親方ゆえ……首捻りは恐入りましたが、お力がありますからね、そう云う奴の首は捻っても宜いんでげすからね」 幸「へえー成程妙な訳で」 市「私も是れから帰り掛けにちょっくら顔を出さねえばなんねえが、此の瑞穂野村てえ処に万福寺と云うお寺があるんだ、其処にもと九段坂上に居た久留島修理さまてえ方が田地を買って、有福に隠居をなすって在らっしゃる。其処にね橋本さん貴方が伊香保で世話アして上げたお藤さまが女隠居になって居るだ」 幸「へえー、そりゃア何うも思い掛けない事で……何んでげすか、一時は谷中の団子坂下に入らっしゃる事を聞きましたが、それじゃア此の頃では田舎へ引込んで入らっしゃるのですか」 市「久留島さまと少々御縁引であるから、己ア方へ来るが宜えと引取られてるんだそうだが、御亭主も妹も去年お死去りなすって、久留島さまが引取って、小せえ家へ這入り、田地を買って楽にしてお在なさるが、私も久留島さまへ出入いるから、彼れが御縁になって時々お藤さまを訪ねると、先方さまでもやれこれ仰しゃって下さるから、私もハア時々機嫌聞きに往くと、種々結構な物を戴きやすが、其の度に伊香保で癪を起して種々お世話になったが、彼の橋本さんの御恩は忘れられねえって貴方の事ばかり云ってますぜ……どうせ館林へ出て足利まで往くのなら、瑞穂野へは通り道で遠くもねえから、私と一緒においでなさらねえか」         六十四 由「へえー何うも是れは思い掛けない事で、矢張これは御縁があるのでげす、彼の時から岡惚れをして居たので、いまだに忘れないで居て、貴方が会うとまた尚お惚れますぜ」 幸「止しねえな」 由「親方是非是れはお供を願いたいもので、此の旦那は大変な御親切な方で、彼の御新造がお癪を起した時などは大骨折りで、御介抱をなすって寝ずに撫って上げなすった位で」 幸「其様な事はありゃアしない」 由「なに……此の坊ちゃんの剣術習いや何かもありますから私共も共々に往って願いましょう」 幸「余計な事を云いなさんな……私も誠に久し振でお目に懸りとう存じますから、何うか御案内を願いたいもので」 市「えゝ参りましょうが今夜は最う遅いから明日の事に致しましょう」  と是れから酒を酌交せ、橋本幸三郎が彼の老人にも御馳走を致し、翌日腕車で瑞穂野村なる万福寺へ参って見ると、樹木繁茂致し、また一面に田畑も見晴しの好い処で、生垣にてちょっとした門形の処を這入りまして、 市「はい御免なさい、御免なせえ、何んとか云ったっけお女中……」 女中「はい……おやおいでなさい……旦那、彼の筏乗の市さんと云う方が参りましたよ」 修「然うか……おゝ能く出て来たなア、堅いから時々訪ずれてくれて誠に忝けない……さア此方へお出で」 市「これは殿さま、其の後は誠に御無沙汰を致しやした、ちょいと上らねえばなんねえが、遂々御無沙汰になりまして相済みません」 修「此の間は結構な茸をくれて大層旨かったが、今は初ものだのう」 市「然うかね」 修「今日は何処へ」 市「なに関宿まで参りやして、野田へ廻ったり何かして、蒸汽で川俣まで参りまして雨に降られやしたが、でけえ雷鳴で驚きやした、今朝は腕車で此処まで参りました」 修「道理で大層早いと思った」 市「えゝ殿さま、今日私イ貴方に折入って願えがあって参りやしたが、貴方何うかお庭で剣術ウ教えて下せえな」 修「何んだえ、唐突に剣術を教えてくれてえのは」 市「へえ……お前さまマア此方へ這入んなせえ……旦那さま此の子でござえますが、まア年齢いかねえけれども剣術を習いてえと云うだ」 修「はい〳〵、さア〳〵此方へお這入り、おゝ大分人柄な可愛らしい児だが、今の世の中で武芸を習ったって廃れもので無駄だが、マア何う云う訳で」 市「何でもハア嗜で習いてえので」 修「ムヽー……何処の者だえ」 市「おい老爺さん此方へ這入んなせえ」 老「はい御免下さい、えゝお初にお目に懸ります、手前は足利在江川村と申します処に住み、微かに暮す奧木佐十郎と申す者であります、お見知り置かれまして己後御別懇に願います…えゝ此の子は私の孫でございますが、武芸を習いたいと云う心掛けで、実は是れまで商家へ奉公させて置きましたが、強って武芸を習いたいと申すので、主人方の暇を取り連れ戻る途中において、不図した事にて此の親方にお目に懸りました処、これ〳〵の殿さまが当時御隠居なすって在っしゃるから、剣術を教えて下さるように願ってやろう、と此方の勧めに任せて御無理を願いに参りましたが、何卒お手許へお置き遊ばして、お役にも立ちますまいが、使い早間にお使い下され、お暇の節には剣術を教えて下さるように願いとう存じます」 修「是れはお前の子か」 佐「いえ孫でございます」 修「左様か、妙だなア剣術を習いたいというのは……老爺さんは矢張り商人かえ」         六十五 佐「へえ只今では機屋を致して居りますが、前々はヘヽヽ戸田釆女匠家来で」 修「あゝ足利の、左様かえ……矢張武士の家に生れた子供だけあって、剣術を習いたいと云うは妙だな」 市「へえ妙でござえます、尤も是には種々訳もありますが、パッとなっちゃア此の子の望も叶わねえ訳でごすから申しませんが、まアお手許へ置いて使って下せえまし、流石の私も魂消て泣えたねえ」 修「はアー……其方が泣いた」 市「へえ、後日で分りますが、さアと云う訳になって、アヽ然うかてえば貴方も泣かねえばなんねえ」 修「はてね、何う云う理由で私が泣かなければならんか」 市「何う云う訳って……云えばなア老爺さま……訳は云えねえが置いて下すって無闇に剣術を教えて下せえまし……お前も遠慮しちゃア駄目だから、旦那さまのお暇の時には一本願えますって、宜いか、私も筏乗で力業ア嗜だから時々来て一緒にやる事もあるから……旦那さま実に此の子ぐれえ感心な者はありませんよ、私イハア胸え一杯になりやしたが、貴方も屹度泣くよ……それからアノ御隠居さまは相変らず御機嫌宜しゅうござえますかえ」 修「ウン藤か、ハヽヽ藤や、ちょっと此処へおいで、市四郎が来たから」  と云われてお藤は奥より出て参り、 藤「おやまア能く出ておいでだ、毎度尋ねておくれで誠に有難う」 市「はい御機嫌宜しゅう……何時もお若いね御器量の善いてえものは違ったもんで、今日は貴方の大嗜な人を連れて来ましたよ」 藤「妾の大嗜な……兼吉という百姓かい」 市「あ、なに……さア貴方此方へお這入りなせえましよ」 幸「是は何うもお懐かしゅうございます…」 藤「おやまア…何うも……由兵衞さんも」 由「へえ、マ有難い事で、是まで貴方のお噂たら〴〵でげすが、斯う云う処にいらっしゃろうとは些とも知りませんで、昨夜も今日も先刻までも貴方のお噂が漸々重なって、ポンと衝突かって此処でお目にかゝるなんてえのは誠に不思議でげすが、些ともお変りがありませんな」 市「へえ、なに是には種々深い訳もありますけれども、其様な事は構わないで……昨日図らず一緒になって、貴方の話をしたら何うかお目にかゝりたいと仰しゃって、どうせ足利まで往らっしゃるから通り路の事ゆえ、私が御案内をしてお連れ申して来やした」 藤「さア何卒此方へ……あなた、何時もお話を致しますお方で」 修「ウン、成程伊香保で御懇命を蒙った……是は始めて御意得ます、予々此の者からお噂ばかり聞いて居りますが、此者は私の姪筋に当る者でござるが、不幸にして男縁がなく、許嫁見たようなものもありましたが、不縁になったり、其の者が死にましたり、種々理由がありまして、年若の者を女隠居とするも不憫なれども、再縁致す了簡がないと申して独身で居りますが、常々貴方のお噂ばかりで……成程橋本さんは大分好い男で」 幸「ヘヽヽ恐入ります……」 由「いえ是は旦那さま、橋本さんの男の好いのは東京中の評判で大変なもんでげす、昨晩の段鼻の女などは此の旦那に何のくらい惚れたか知れません、跡を附けて来るてえ処を宜い塩梅に遁れて来ましたが、へばり附いてゝ弱りましたっけ」 修「幸三郎さんは慥か霊岸島辺にお在になって、其の頃はお独身のよう承わりましたが、只今では御妻君をお迎えになりましたか」 幸「へえ未だ縁なくして独身で居ります」 修「ムヽー……私の姪に当る此のお藤ねえ、日頃貴方の事ばかり誉めて居ますが、少し年は取って居りますけれども、貴方此娘を貰ってくれませんか」 幸「ヘヽヽ御冗談ばかり仰しゃって、恐入ります」         六十六 修「いえ若いのに未だ男の味知らず、是なりに隠居をさせるのも惜いもので、文明開化の世の中だのに昔気質に後家を立て通すの、尼に成るのと馬鹿なことを申すから、旧弊な私でさえ開けぬ女だと意見を云うて居る位で、尤も別に支度はない、貧乏士族だから心に任せんが、少しは田地を買って持って居ます」 幸「へえ、然うなれば私も嬉しゅうございますが、余りお手軽で殿さま御冗談ばかり仰しゃって、私のような町人風情へ」 由「旦那ア遠慮をしちゃアいけませんよ、是は自然にちゃんと斯う云う事に出来て居るんでげす……、え、由兵衞申上げますが、これは出雲の神さまが御縁を八重に結んで、伊香保結び四万結びこま結びてえ事になってるんでげすから、是は是非願いましょうじゃアありませんか」 修「今直ぐと云う訳ではない、貴方も旅の事だから何れ又改めて私がお話に出るで、是は只ほんの下話だけで」 由「いえ下話より上話に願いたいもので、是は何うか」 修「然うなれば誠に芽出度い」  と云われると、お藤は慕う人の事ゆえ真赤になりましてモジ〳〵為ながら、 藤「私のような不束者を其の様な事を仰しゃって橋本さん…」  と云う中に自然と情の深い処が顕われます。此方も貰いたいから話も早くおッ附きました。 修「何れ改めて私が出る」  と其の晩は此家へ一泊致し、翌日一方は足利へ立ちましたが、これも奇縁でございまして、改めて久留島修理殿が東京へ出て参り、橋本幸三郎の母に会って右の縁談を申入れると、 母「それは幸いな事で、何うか願います」  と幸三郎の母も異議なく承知を致しました。  さてお話別れまして、伊香保に永井喜八郎と云う大屋がございます、夏季は相変らず極忙がしい処でございます。此方の三階はずーッと長く続がって、新座敷が玄関の上の正面に出来て居ますが、普請は中々上等で、永井喜八郎の宅の湯殿も綺麗で機械にて水を吹出して居ます。入浴した後で水にかゝり、風を引かんようにまた入浴致します方法を、加賀病院の岡先生が覚えてから湯殿も新しく出来、誠に繁昌な家でございます。此家の三階の角座敷に来て居りますのは前橋の商人で、桑原治平と云う男で、年齢四十五に相成り、早く女房に別れ、独身者で、年中間さえあれば馴染も有りますから冬でも寒湯治と云うて参ります、独身で鞄を提げて参り、暫く保養して、また横浜へ往き、儲かると伊香保へ参り、芸者も買い飽き二階に寝転んで頻りと新聞を読んで居りますと、ガラ〳〵と向の二階の障子が開きましたから、ふと見ると、年頃廿六七にも成りましょうか色のくっきりと白い、鼻梁の通りました口元の可愛らしい、目許に愛のある、ふさ〳〵と眉毛の濃い好い女で、何れの権妻か奥さんか如何にも品のある方で、日に三度着物を着替るが、浴衣によって上へ引掛ける羽織が違うと云うので、色の黒い下婢が一人附いて居ります。年は三十一二で其の下婢が万事切盛を致して居ります。 治「あゝ好い女だな」  と治平は起上り、頻りと彼の女の顔を見て居りますと、女の方でもジッと治平の顔を見詰めて傍を振向き、下婢に何かコソ〳〵話を致して居りますから、治平も何うも見たような女だと思いながら、また見て居りますと、見られると見返すもので、情が通ずるか先方でも頻りと治平の顔を見たり何か致して居ります。         六十七  湯場の習慣で、運動などを致して居る時には知らん人でも挨拶を致します。 治「お早うございます、好いお天気に成りましたが御運動でげすか……」  なんて瞞かし込み、宜い程に挨拶を致し、終には何かお遣物をしよう、何を遣ったら宜かろう、八崎から幸い好い鮎が来たから贈りたいものだと云うので、是から大皿へ鮎を入れて二十疋ばかり贈りました。すると先方の女からお礼が参りました。葡萄酒の瓶を三本に東京から来た菓子折を持って、 下婢「御免下さいまし」 治「これは入らっしゃいまし、さア此方へお這入んなさい」 下婢「先程は結構なものを沢山に有難う存じました、誠に大悦びでございまして、大層お珍らしい美事な鮎で、大層子がありまして塩焼にして召上りましたが、お嗜でございますから三度も続けて召上る位で、誠に大悦びで在っしゃいました……此品は誠に詰らんものでございますが、此のお菓子は東京から参りましたから何卒召上って」 治「いや是は恐れ入りましたな、斯様な何うも頂戴致すような訳なのではありません、多分に何うも…是では却って鰕で鯛を釣るような訳で、恐れ入りましたな」 下婢「いえ詰らんお菓子で」 治「お茶を一つ」 下婢「有難う存じます……貴方は何んですか久しく此処に湯治をして在っしゃいますか」 治「ヘヽ僕は間さえ有れば、近う御座いますから、来たくなるとスイと参ったり、別に用もない時は大概来て居ります」 下婢「だからお馴染が多いので、皆さんとお話をなさる御様子が……併し永井の家は誠に手当が宜うございますね」 治「えゝ中々好い家で、永井一郎という俳諧師で武芸も上手なり、鉄砲も打ったりして有名の人だったが、故人になり、その家内は今の母親で、今の主人も堅い人でお客を大事に致しますから、此の通り繁昌でげすが、貴方の在っしゃるお二階は結構に出来ましたな」 下婢「本当に当家は客を大切にするが、此の位に致しませんではお客が殖えますまい……貴方はお一方ですが、御新造をお連れなさいませんのですか」 治「ヘヽヽ私には其様なものはないので、独身者でございます」 下婢「おや然うでございますか」 治「ヘー……お宅は」 下婢「極く野暮な処でございますよ、青山で」 治「へえー東京の青山と申すと四谷の方でございますか」 下婢「四谷とも違いますが、信濃殿町と申しまするので奥さまは未だお若うございますが、御運が悪くって殿さまが御逝去になりまして、今年で丁度四年の間お一方でいらっしゃいますが、何も御不自由のないお身の上でありますから、お寒い中は大概熱海の藤屋へ往っていらっしゃいますが、今度は伊香保へ来たいと仰しゃって、箱根へ往らしったり何かなさいますけれども、箱根のお湯は遊山には宜しゅうございますが、お血の道には当地の方が宜いと云うので、いらっしゃいましたのですよ」 治「へえ、殿様はお逝去に……官員さまで在らっしゃいましたか、何処へお勤めなさいましたので」 下婢「何とか云いましたっけえ、お寺見たような名で、アノー元老院とか云う」 治「えゝー成程、左様でございますか、それじゃア上等の官員さまで」 下婢「お実家はお兄さまは銀行の頭取をなすって居らっしゃいますので」 治「銀行、ヘエー前橋にも支店が有りまして御懇意の方もありますが、ヘエー左様でございますか、成程深川でいらっしゃいますかお実家は」 下婢「あの今晩は月が宜しゅうございますので、裏の方を見ますと流れが見えて、誠に景色が宜しゅうございますから、別段何もございませんが、頂戴の鮎で一口上げたいが、知らない人ばかりでいけないと思ってますと、貴方のお身の上を承わりまするのに、彼は前橋の斯う云う身の上のお方だと承知致しまして、彼のお方なればって、奥さまも御退屈ですから何卒入らしって下さいまし」 治「それは誠に有難う……ヘエ是非出ます、屹度参ります」 下婢「屹度お待ち申して居ります、左様なら」  と云い捨てゝ出て往きました。         六十八  桑原治平は嬉しいので逆せ上りました。別嬪に一献差上げたいから来て下さいと云われたのでありますから、治平は是から急に髪を刈込み、髯を剃り、お湯に這入り、着物を着替え、大装飾で正面の新座敷へ参り、次の間から、 治「へえ御免下さいまし」 下婢「おや入らっしゃいまし」 女「まア宜く入らっしって下さいました、先程は結構な物を沢山頂戴致しまして、何ともお礼の申上げようがございません」 治「何う致しまして、却って詰らんものを上げ、結構なものを戴きましたから、私は徳を致したような勘定で相済みません」 女「さ、座布団へ」 治「オヤお構いなすってはいけません、私はヘヽ前橋の田舎者でございますから、東京のお菓子は大層結構で」 女「いえ、何ういたしまして……今日は何もございませんが、当地の名物だと申しますから、瓜揉と胡麻豆腐だけを取りましたから、さア一口召上って」  と酌をする。 治「これは恐れ入りましてございます、向山の名物で……先程お女中から種々お話でございましたが、殿様は飛んだ事でございました」 女「いえ最う過去りました事で、今はもう諦めて仕舞いました、ト申すと何か不実なようでございますが、去る者日々に疎しとやらで、漸々忘れてしまいましたが、深川の方に少々身寄が有りますので」 治「左様でございますか、併し未だお若いのにお独身で在っしゃるのは惜い事で、まだ殿様は四十代でいらっしゃいましょう……へえ頂戴致します」 女「誠に失敬ですが、何うぞお喫り下さいまし」  と献いつ酬えつ酒を飲んで居る中に、互に酔が発して参りました。彼の女は目の縁をボッと桜色にして、何とも云えない自堕落な姿に成りましたが、治平はちゃんとして居ります。 女「大層畏まって在らっしゃいますこと、何卒お膝をお崩し遊ばして」 治「いえ大層酔いました」 下婢「宜いじゃアありませんか、まア御緩りなすっていらっしゃいましよ…奥さん私はお湯に這入るのを忘れましたから、ちょいとお湯に這入って参りますから」 女「じゃア文や這入っておいで、其処に石鹸があるから持っておいで、それは私の使いかけで入らぬから」 下婢「はい…それじゃア貴方御免遊ばして」  と好い程に其の場を外して下婢は下へ降りて仕舞いました。治平は少し色気がありまして、何となく間が悪いから煙管で腮の処を突衝いて見たり、くるりと廻して頬辺へ煙管の吸口を当てたり、ポン〳〵と叩いて煙草ばかり喫んで居ります。 女「貴方は何でございますか、前橋の何と云う処で」 治「ヘヽ竪町と云うごた〳〵して居ります処で」 女「お盛んな大層好い処だそうで……貴方は御新造さまをお連れ遊ばしませんのですか」 治「家内は無いのです、手前の妻は五年前に歿しまして、それからは独身で居ります、へえ、至って手狭ではありますが、些とお立寄を願いとうございます」 女「はい……まだ私は参った事はありませんから一度見物したいと思って居りますが、お寄申して万一奥さんか又権妻さんでもいらしって、お悋気でもあるとお気の毒だと存じまして」 治「いえ家内は全く無いのでございます、尤も世話をして呉れるものもありましたが、長し短かしで何うも善いのがありませんから独身で居りますが、却って気楽でございます」 女「それはマア好いお身の上で……貴方のようなお方の御新造になる方は本当にお仕合せで」 治「へゝ、なに仕合せでもありますまい、何うもヘヽ誠に不粋な人間で何も心得ませんからなア……貴方さまもお一方で、お子供衆はございませんか」         六十九 女「はい子供はございません、親類が深川に居りまして、これが銀行へ出ますので、私は其の方へ引取られて参るより他に仕方のない身の上でございますが、疾うッから嫁付け〳〵再縁しろと申しまして、兄が申すには官員は忌だから遣らない、商人が一番好いが、何んなら他県で堅い商人であって、横浜へ来て取引をするような田舎の商人の方が、田地なども持って居て身代が堅いから、然う云う処へ縁付けたいと夫ればかり申して居りますが…何処かに好い口があったら縁付けると兄が申すので」 治「へえーなアる程……実は東京も盛んな処でげすが、また手堅い処へ参っては田舎の方が手堅うございますからな、へえー成程お世話ア致しましょうか」 女「お世話たって私のようなものですから、誰も貰ってくれる人がありませんもの……貴方は本当に奥さんがありませんか」 治「本当にありません、真実でげす、本当にないから無いと申上げましたので」 女「貴方はまアお調子が好過ぎますよ……ま一杯お酌を致しましょう……何んですね……私の様なものだってサ、本当に貴方のような結構なお身の上はありませんね」 治「なに余り結構じゃアございません」 女「巧く云っていらっしゃるよ」  と治平の手首を握るを振払い、 治「ヘヽエ御冗談なすっちゃアいけません」 女「好いじゃアありませんか、貴方本当にお独身ですか」 治「へえ……」 女「私は当家へ参りましてから、貴方の在らっしゃるお座敷ばっかり見て居りましたことを御存じですか」 治「ヘヽ何かどうも、飲酔いまして誠にどうも」 女「飲酔ったっても私は嘘は云いませんが、貴方は本当にお罪だと思いますよ」 治「其様なことを仰しゃると、私は田舎者ですから本当に為ますよ」 女「嘘にされると却って腹が立ちますが、私のようなものでも貴方本当に貰って下さると仰しゃるなら、直に兄の方へ話しを致しますが、本当ですか」 治「奥さん本当だって……貴方はそりゃア真実に仰しゃるんですか」 女「私に嘘はありませんが、貴方が真実なら何うか確かとした貴方のお心の証拠が見とうございます」 治「心の証拠と仰しゃっても別に何もありません、と云って、まさか髪を剪るの指を切るのと云う訳にも往きませんが」 女「女の口から此の様な事を云い出すは能々の事ですからよう」 治「ようたって……私にも何うして好いか分りません」 女「何うしてって、貴方のお心の証拠をさ」 治「いえ決して私は嘘を吐きません、神かけて嘘は云いません、若しお疑りなさるなら、書付でも何んでも証拠を上げます、へえ」 女「本当に貴方然うなんですか」  と少ししなだれ掛る途端にガラリと障子を開け、スーッと立った男は鬚の生えて居る、眼のギョロリとした、鼻の高い、年紀三十四五にも成りましょうか、旅行洋服で、一方の手には蝙蝠傘とステッキとを一緒に持ち、片手には鞄を提げて居るを見て治平は驚きましたから、俄かに飛退き両手を突き、 治「これは入らっしゃいまし……何方かお客さまが」  と云われて女も驚きまして飛退きますと、 男「此の始末はマア何う云うもんか、呆れて仕舞うたなア……僕が僅かに十日許り東京に参って居た留守の間に、隠し男を引入れるとは実に怪しからん事じゃ……これ密夫貴様は何処の者じゃ」  といわれて治平は「はてな此の人は銀行に出ると云った阿兄か」と思いましたが、彼の女に向い、 治「此れは何処のお方で」 女「はい、貴方に対しては誠に済みませんが、私の良人でございますよ」 治「えゝ……御亭主」  と治平は真青になりブル〳〵慄え出すを見て、ガラリと鞄を投り出し、どたアりと大胡座をかいて、隠からハンケーチを取出し、チンと涕をかんで物をも云わず巻煙草に火を移し、パクーリ〳〵と喫みながらジロリ〳〵と怖い眼で治平の顔を見るばかり、此の時桑原治平の驚きは一方なりません。此の者は谷澤成瀬と申す青山信濃殿町の官員でございます。         七十  彼の洋服打扮の人がスッと這入って来ました時には、桑原治平も驚きました。丁度今風呂に這入って来ましたお文と云う女中が、湯から上って来て此の体を見て恟り致し、一旦座敷へ這入ったが次の間から再び出かゝるを目早く見付け、 成「コラ〳〵……コラー何処へも往かんでも宜しい、其処に居れ、跡をピッタリ閉って其処に坐って居れ……さ高これは何うか、ウーン此の始末は何う云うもんじゃ……貴方は何処の者じゃ、えゝ……貴公は何れの者か姓名をお聞き申したい、僕は東京青山信濃殿町三十六番地谷澤成瀬と申すものじゃが、貴公の姓名をお聞き申そう」 治「へえ〳〵手前は前橋竪町の商人桑原治平と申します」 成「コレ高、己が五日か十日の間東京へ往ってる間に斯う云う密夫を引入れて、此の為体は何う云うものか、実にどうも何とも何うも言語道断の仕末じゃアないか、お前は僕に斯くまで恥辱を与えたからには、僕も此の儘では捨置く訳にはいかん」 高「はい重々私が悪うございますけれども、此の治平さんと云うお方には些ともお咎はないので……貴方の有る事を申せば遊びにも入らっしゃいませんから、私は孀婦暮しのものだ、亭主はない身の上だと申しましたから遊びに入らしったのでございます、が、何も訝しい事のあったと云う訳ではございません、併し斯うなる上は何も彼もお隠し申しは致しません、実は私も此のお方を嗜いたらしい好いお方だと思いました了簡の迷いから、私の方で無理に入らしって下さいとお勧め申して引入れたのでございますから、此のお方には少しも悪い事はありません、重々私が悪いのですから、貴方の思召通りお手討にでも何でもなすって下さいまし」 成「ムー……それは女の方が悪いのじゃろう、訝しな眼遣いをするか、私の方へおいでなさいと云うか、何か怪しからん挙動がなければ、そりゃア男の方から無闇に主有る女の処へ這入って来るものではありません……じゃが仮令婦人の方で此方へ来いと招いても、主ある者と席を倶にすると云うのは、治平殿貴方も心得てなすったので有ろうが、君も前橋では立派な商人じゃと云う事だが、実に此の上ない不品行な事じゃアないか」 治「へえ…それでは貴方が此のお方の御亭主さんで」 成「左様」 治「これは何うも心得ませんでしたが、奥様の仰しゃるには御亭主はない、とこう仰しゃってでございました……がそりゃア困りましたね、何うも貴女、然う云う嘘をお吐きなすっては私が迷惑いたしますからな」 成「今に成って兎や角云ったとて跡へは還らん事じゃのう、僕は詰らん者でも、マ幾らか官職を帯びて居る者じゃ、亭主の留守には宅に居る下男といえども、家内と席を倶にせんと云うのが女子の道じゃ、然うなければ家事不取締の譏は免がれん事じゃ、僕も御用に付いて他府県へ出張する事もあり、又は洋行をもする、其の長い間、三年でも五年でも僕の留守中まさか禽獣じゃアなし、鎖で繋ぎ置く事も出来ん、併し斯う云う心掛の悪い女子なれば、僕じゃとて決して連添って居る事は出来んから即刻離別して、戸籍は後から送る事に致そうが、マ何うも主ある身の上でありながら、密夫を引入れるなどと云う事がありますか、左様な事を知らん其方でもあるまいが、余程此の人を想うて居るに相違ない……治平殿、此の高と云う女を引取り、女房にして遣る心か、但し斯う遣って遊びに来て居る中の慰みものにする気か、亭主のあるものとは知らんと云いなさるが、風体を見たって大概分ろう、是が茶屋女や芸者じゃアなし、宿帳を検めんと云うのは不都合じゃアないか、併し貴公も手を出したからには万更気に入らん訳でもあるまいから、真に貴公の妻に致して呉れるなら、改めて僕が離別して実家へ沙汰をするから、貴公の方で此婦の実家へ貰いに往けば話も早く纒まって、少しも手間の要らん事ちゃ、見合も何も要らん訳じゃが、何うか」         七十一 治「へえ…左様でございます、貴方の方で全く愛想が尽きて御離縁に成りまして、此の御内室が御実家へ帰る事になれば、此の方から御実家へ話をしてお貰い申すかも知れませんが、何も枕を並べた訳じゃアございません、其処へお帰りがあって私を密夫に落されては甚だ残念でがすからな」 成「残念だって女の首筋へ手を掛けて抱締めた処へ僕が帰って来て、障子を開けたればこそ離れたのであろうが、然う云う事を云って何処までも情を張れば、止むを得ず公然にするばかりだ、けれども然んな事を為ちゃア僕も此の上ない恥辱じゃから、敢て好みはせん、好みはせんが貴公の出ように依って之を公然にすれば、云わずと知れた重禁錮、貴公に土を担がせる事を好みはせんが、止むを得ん、何うだえ」 治「へえ……私も決して好みは致しません、何うかソノ内分のお計いが出来ますれば願いたいもので」 成「ウン然うせんければ僕も実に此の上ない恥辱じゃアないか、若し此の事が人の耳に這入って、明日にも新聞紙上へでも出るような事があっちゃア僕も勤は出来ず、何うしても職を辞さんければならんから、今霄の中直に僕は此者を一旦連れ帰って、前橋から高崎まで下って、それから実家へ帰る積りだ、離縁のうえ籍を送ったら、治平殿貴公の方へ郵便を上げよう、え解ったかい、え治平殿、就ては治平殿貴公へちと予が難儀な事を云い掛けるようじゃがな、此の女が僕の処へ縁付いて参る折に千円の持参金を持って参ったから、此の者を実家へ帰す折には、何うしても一旦廉なく公然離縁をするンじゃに依って、此者が実兄深川佐賀町の岩延という者の処へ、千円の持参金に箪笥長持衣類手道具等残らず附けて帰さなければ成らん、処で今此処に僕は千円の持合せがないし、東京へ帰っても至急才覚も出来んのじゃ、就ては貴公誠に迷惑じゃろうが、其の千円の持参金の処を才覚して、一時僕に渡してくれんか」 治「へえ千……これは少し驚きましたな、私が千円なんてえ金を中々持っては居りません、えゝ只今手許には二百金程ありますが、ヘヽ二百金で何うか一つ御内々に願いたいもので」 成「いやさ千円取ったって僕が取切る訳じゃアない、一旦佐賀町の岩延方へ渡し、此者がまた貴公の処へ嫁す時に、其の千円の持参を持って往くのじゃ、些とも出すのじゃアない、詰り貴公の懐へ這入るじゃが、然うせんければ事穏かに治まらん、内分沙汰に致すのだから一旦然うして、直にまた其の金を持って貴公の処へ嫁せば宜いじゃアないか」 治「へえ……併し何うも千円と申しては大金で、何の様に美人だって、千円出して囲いますような贅沢な事は滅多にございませんからな」 成「いや出せんければ宜しい、無理に出して呉れろとは云わん、僕も君の手から只取るのじゃアない、君は此の女子を愛して首へ手を掛けて引寄せるくらいに思うて居るから、一旦君が千円出して遣れば、其の金を附けて実兄の処へ帰すて……のうお高、お前も其の金を持参としてから治平殿の処へ行きなさい、然うすれば宜いじゃアないか」 高「はい……じゃア斯うして下さいまし、貴方には済みませんが、若し此処で千円出して下されば、仮令兄が千円出さんと申しましても、私は衣類櫛笄手道具から指輪のような物までも売払い、其の他是まで心掛けて少しは貯えもありますから、貴方お厭でも、マ然うなすって下さいませんか、今になって若し否だなんと仰しゃいますと私は生きては居られませんから、死にますよ」 成「これは呆れたもんだ……左程まで貴公を想うて」 治「へえ……それでは只今手許にはございませんゆえ、永井喜八郎から用達てゝ貰って参りましょう、毎年参って顔も知って居りますから」  と云捨て立ちにかゝるを引止め、 成「アこれ何処へ往かっしゃる」 治「へえ、鞄を取りに」 成「いや往かんでも宜しい、硯箱もあるから手紙を書きなされ、鞄の中に千円くらい這入って居ろう……いや隠したっていかん」 治「でも懐中に印形がありませんから」 成「なければ喜八郎を此処へ呼びなさい、下婢を呼びにやりましょうから、貴公の手で手紙を書きなさい」  と硯箱を突付けられ、 治「へえ、宜しゅうございます」  と治平は手紙を認めて女中に持たして遣りました。         七十二  治平が手紙を書いて女中に持たして遣ると、直ぐに永井喜八郎に預けて置いた千四百円這入りました重たい鞄を女中が提げて参りまして、慄えながら怖々に治平の背後から出すを受取り、中より千円取纒めて差出し、 治「えゝ仰せに従い千円の処は差出しますが、金は慥かに受取った、女の処は相違なく貴殿方へ嫁にやると云う確と致した書付を一本戴きませんでは、何分大金でございますから、ヘイ」 成「お前は分らん事を云う人だな、其様な証書を取って公然にする気かい、僕も恥じゃから公然には出来ないし、お前も之を公然にすれば何うしたってそれだけの処分につかなければなるまいから、証書も何も要る話じゃアない、どうせ此の女が金を持って貴公の処へ嫁くのじゃアないか、強いて分らん事を云えば公然に為ようか」 治「へえ、成程……詰り私の方へ廻って参りますかな……左様なら何卒確とお受取りを願います」 成「金額に違算もあるまいがお前受取るが宜い、早く勘定をしなさい、面倒でも十円札だから造作もない、ちょっと勘定を為なさい」 高「はい」  と積上げたる札を数えまして、 高「千円慥かにございます」 成「然んなら鞄へ入れて置きなさい……永う此処に居て、万一他の者の耳へ這入ってもならんし、此の下女も堅い奴と思ったに、斯う云う不始末に及んだが、此の者の口も確と止めなければ相成らん、何にしても何処に居ては事面倒だから、至急前橋か高崎まで下るが、貴公此の女を見捨てずに生涯女房にして遣んなさい……またお前も治平殿方へ嫁付いたら、もう斯様な浮気を為ちゃアならんぜ、己後斯う云う事をしたらいかんぞ、治平殿から千金と云う大した金を出して貰った位だから、仮令治平殿の方へ再び返るにもせよ、それ程に思って下さる治平殿に不実があってはならんぜ、此の上は心掛けを正しゅうして、能く女子の道を守らんければ済みませんよ」 高「今度は何様な事がありましても、見捨てられても治平さんの処は出ません、私は深川の宅へ帰れば、直に貴方の方へ手紙を出しますから、きっと貰って下さいましよ」 治「深川の何う云うお宅か、ちょっとお書付を願いたいもので」 高「あの、深川佐賀町二十二番地で岩延傳衞と申します」 治「へえ」  とすら〳〵 書いて、 治「確とです、間違うといけませんよ」 高「お前さんの方でこそ間違うと肯きませんよ」  と是は最う別れだと思うのか、お高は治平の膝へ手を突いて、もたつきながら涙を拭きます様子を見て、谷澤成瀬も心悪しく思いましたか、苦々しく顔を反向けて居りましたが、 成「サ往こうじゃアないか」  と立上る途端にガラリと障子を開けて這入って来ましたのは、例の筏乗市四郎が今年十五歳になる彼の布卷吉を連れて参り、 市「少し此処に待っておいで……はい御免なせえ、少々お待ちなせえましい」 成「何んじゃ其の方は」 市「私ア市城村の市四郎てえ筏乗でがすが、貴方は村上松五郎さんでございますね」 成「え……イヤそれは人違いだ、僕は谷澤成瀬と申すものじゃ、人違いだろう」 市「いやお前さんは元渋川で腕車を挽いて居なすった峯松さんと云う車夫だアね」 成「なに……これは怪しからん事を云う、失敬な……車夫とは何んだ、苟くも官職を帯びて居る者を……大方人違いだろう」 市「人違えじゃアねえ……此の奥さんみたような人は慥か旧猿若町の芸者で小瀧と云って、中頃前橋の藤本へ来て、芸者に出て居た小瀧さんだアね」 高「な何んですと……まア呆れますね、怪しからん人違いで」 市「いや人違えじゃアねえ、見知り人があるだ……さア此方へ皆なお這入んなすって下せえ」 「御免」  と云いながら這入って来ましたのは橋本幸三郎で、お瀧も松五郎も見て恟り致し、顔の色を変えました。         七十三  橋本幸三郎の跡から続いて這入って来ましたのは岡村由兵衞と云う、前々橋本の取巻で来ました男で、皆是が見知と成って這入って来たのを見ると、お瀧も松五郎も面体土気色に成り、最早遁れる路なく、ぶる〳〵手先が慄え出しました。 市「さ旦那さま此方へお這入んなすって下せえまし」 幸「はい親方此間ア……やい斯うなったらもうお前方は知らねえと云う訳には往くめえ」 市「どうせ駄目な話だから白状して仕舞った方が宜かろうぜ、もう遁れる路はないから逃途はない」 幸「やい盗人峯松、其方は何うも大え奴だなア、七年以前に此の伊香保へ湯治に来た時、渋川の達磨茶屋で、私ア江戸ッ子でござえます、江戸のお客を乗せれば此様な嬉しい事はありませんて……ね此の由さんが鞄を忘れたら態々持って来て見せやアがったから、私も正道の人間だと思って目を掛けて、次の間へ寐かす位にまで為てやったのに、何んだヤイ悪党、鼻の下へ附髭か何だか知らねえが生かして、洋服などを着て東京近い此の伊香保へ来て居るとは、本当に呆れちまったな」 由「これは驚きやしたな……おい〳〵もういけないよ〳〵、酷いじゃアありませんか、お隣座敷に在らしったお藤さまと、お岩さまてえお附の女中まで引張り出して、私達が先へ四万へ往ってると、後からお連れ申すって取持がった事を云って、折田の山ン中まで連れ出して、お二人を殺したと思っても、お附のお岩さんは殺されたろうが、お藤さまは神が附いてますよ、谷へ落こちたって、ちゃんとお助け申す人があって御無事で在らっしゃるんだ」 市「イヤ何うだ、彼の時に私が筏の上荷拵えをして居た処へ、山の上から打ち落ちて来た婦人が藤蔓の間へ引懸って髪の毛エ搦み附いて、吊下って居た危え処を助けて、身内に怪我はねえかと漸々様子を聞くと、私が元三の倉に居た時分、御領主小栗上野さまのお妾腹のお嬢さまと分ったので、私も旧弊なア人間だから、まア宜い塩梅に助かったって、婆とも相談のう打って、然うして久留島さんまで送り届けて、直に四万へ追掛けて往って掛合をしたが、其の時此の野郎を踏捕めえれば宜かったアだが……汝此処へ来やアがって何んだえ化けやアがって、官員さまのお姓名を騙って太え野郎だ……これ此処にござる布卷吉さんと云うのは、年イ未だ十五だが、偉えお人だ、忘れたか、両人共によく見ろ、此のお子が七歳の時汝が前橋の藤本に抱えられて小瀧と云ってる時分、茂之助さんが大金を出して身請えすると、松五郎てえ悪足が有って、拠ろなく縁を切ったものゝ、あゝ口惜いと男の未練で、お瀧を殺すべえと云って茂之助さんが脇差イ持って往くと、物の間違てえものは情ねえもので、汝を殺すべえと思ったのが、闇の夜とは云いながら、此の布卷吉さんのお母さんを殺した処から、茂之助さんも顛倒してしまって、あゝ済まねえと思ったか、梁へ紐を下げて首を吊って死ぬくれえ非業な真似エしたのも、皆な汝から起った事だから、何うかして松五郎お瀧の二人を捜し出し、両親の仇、妹の敵を討ちてえと、十三の時から心掛けなすった其の時に、私も入らざる事だが助太刀を為ようと云ったのが縁となって、汝を捜しに来たら、丁度橋本さんにお目に懸ったのだ、サ最う斯うぼくが割れたら駄目な話だ」 治「へえー実に驚きました、此のお子は茂之助さんの子かい、へえ……道理で此の女は何処かで見たようだと始まりから思ったが、私も斯う係蹄に掛るとは知らず、真実私に心があるのかと、男の己惚で手出をしたが、お瀧でがんすか、其の時分には眉毛を附けて島田だったが、へえー、何うもずうずうしい奴で……私彼の時貴方のお父さんに然う云っただよ、彼の女を持ってゝは駄目だ、夜々斯う云う奴が這入って、斯う云う訳があるって、貴方のお父さんに意見を云っただが、何うも是は、何うも魂消たね、へえー」         七十四 幸「やいお瀧、汝四万に居やアがった時に何と云った、瀧川左京と云う旗下の嬢でございますが、兄に欺されてと涙を落したを真に受けて、私は五十円と云う金を出し、汝を身請して橋場の別荘へ連れてッて、妾にして置くと、何んだ、しおらしく外へ出たくない、芝居へ往くのは勿体ない、旨い物は喰べませんと云ったのは其の筈だ、汝はお尋ねもので外へ出る事が出来ねえ、日向見のお瀧と云う日蔭の身の上とも知らず、欺されて橋場へ置く中に強盗に殺されたと思ったら……由さん何うだえ、ずう〳〵しく此処に居るたア」 由「開化に成っては幽霊が生きて種々なものに化けるんでげしょう、彼の時桟橋に血が流れて居ましたから、旦那も私も必然盗賊に殺されて川ン中へ投り込まれたものと思って居ましたが、ずう〳〵しく大丸髷で此処に居ても最ういけないよ、早く正体顕わしておしまい、逃げたって騒いだッて開化の世の中、ビン〳〵と電信と云う器械がある、恐ろしい鉄砲時世に成ってるのに、昔流行ったつゝもたせ、其様な事をしても役には立たねえぜ」 市「さアぐず〳〵したっていけねえ、何うだ、返答しろ、どうせ駄目だから、年齢の往かねえ布卷吉さんが親の敵を討とうてえが、刃物で斬合うような事ア出来ねえから、尋常に縄に掛って、派出も近えから引かれて往くが宜い、然うして是まで犯した悪事を自訴するが宜いわ、若しじたばたすれば汝腕を引ン捻るぞ」  と逃げもすれば殴飛す勢いで、市四郎は拳を固めて扣えて居ます。松五郎お瀧の両人は多勢に云い捲られ、何も云わず差俯向いて居ました処へ、 山「少々御免下さいまし」  と這入って来ましたのはお山、年齢五十五でございますが、昔気質の武家に生れ、御新造と云われた身の上だけに何処か様子が違います。娘小峰年齢二十五歳で、最う分別も附いて居ります。母と娘は摺寄りまして、 やま「皆さん御免くださいまし」 小峰「お母さん、もっと先へ出てお云いなさいよ」 やま「あい……さ松五郎、此処へ出ろ」 松「ヤお母アか……これは何うも面目ねえ、何うして此処へ来た」 やま「なに……これ人非人……その形姿は何んだ、能くもずう〳〵しく其様な真似をして此処へ来て、まだ性懲もなく悪事をするな……皆さま何ともお恥かしくって申そうようはございませんけれども、此の者はね貴方……少さい時分から碌でなしの根性で、放蕩無頼で、何う云う訳か他人さまの物を盗み取りましたり、親の物を引浚って逃げますような悪い癖がございましたから勘当致しましたが、御維新己来汝の行方ばかり捜して居たが、東京には居らんから、大方函館へでも行ったろうと他人さまが仰しゃったが、三の倉で旦那さまが彼の騒動の時、汝は賭博打と組んでよくも旦那さまへ刃向い立てを為たな、知らないと思って居るか、そればかりじゃアない、今承われば殿さまのお胤のお藤さまを欺して、汝は折田村で殺そうと掛ったそうだが……まアどうも狗とも畜生とも云いようのない此様な悪人を……私はマア沢山もない子でございますが、惣領と生れ、跡目に成る奴が此様な恐ろしい根性な奴でございますとは、ハア何たる事の因縁かと存じまして、私は此の娘と二人で、毎度松五郎の事を申しては泣暮して居りますが、此の奴に引替えて此の娘は柔しくして、芸者になっても精出して能く稼いで呉れますから、何うやら斯うやら致して居ります」         七十五 やま「実に何うも松五郎のような不孝不義な奴はございません、お父さまの御命日に、お墓参りでも為た事があるかと、偶に東京へ出てお寺へ往って、これ〳〵のもので年頃はこれ〳〵でございますが、塔婆の一本も供げてお墓参りには参りませんかと、方丈さまや寺男に聞くのも、少しは悪をしながらも、親の有難いも主人の大切な事ぐらいは分りそうなものだと思って居るのに、つい墓参りをした事もない、尤も然う云う心があれば此様な悪い事も出来ませんが……どうせ遁れる道はないから、私は年を老って何うなろうとも、小峰の掛合にならんよう立派に名乗り出て、自分だけの罪を被るが宜い……誠に何うも皆様に面目次第もございません」  と泣き沈むを見て流石の悪人松五郎も心に感じ、 松「橋本の旦那え、私ア何う云う訳で此様な悪い事をしたかと思ってね、今夢の寤めたような心持で……その布卷吉さんは茂之さんの子たア知らねえ、年の往かねえで親の敵を討とうと云う其の孝心を考え、今まで此方の作った悪事と不孝を思い合せれば、同じ人間に生れても迷えば此様なにも悪の出来るものかと、我ながら実に先非を悔いて改心致しました、もう何うせ遁れる道もありませんから、斯う云う親孝行な兄さんの手に掛って死にゃア本望で、昔なら腹ア切る処でござえやすが、此の家を血で汚しちゃア客商売の事ゆえ永井の家に気の毒だから、向山へ引摺ってって思う存分に斬ってしまって下せえ、決して手出しは致しやせん、それとも縄に掛け派出へ引いてって、親の敵を捕まえましたといって処分に附けて下されば、私の罪も消えます、兄さん早く引張って往って、貴方のお手柄になすって下さい……サお瀧、お前も此処らが死処だ、成程考えるとなア茂之さんがお前を殺そうと思って裏口から這入って来た時、お前は己ん処へ知せに来ていて、茂之さんのお内儀さんが一人で留守居をして居ると、大夕立大雷鳴の真暗の処へ這入って、女房児を殺した時の心持は何うだったろうと、悪事をする中にも時々思い出すと、余り好い心持じゃアありません……ナアお瀧、手前も時々魘された事もあったな、手前も死処だぜ」 瀧「あゝ何うも面目次第もございません……私どもに縄を掛けて、布卷吉さんお前さんの思う存分胸の晴れるようにしてお呉んなさいまし」 松「決して手出しは為ませんから引摺ってって下せえまし」 市「ウン能く覚悟をした、私ア縛る役じゃアねえけれども、逃げ隠れを為ようたって、捕めえたら動かさねえぞ、お役人の手数を掛けるより私が引張って往く、無闇に人を縛っちゃア済まねえから、私が手前を捕めえて往こう」 やま「能く其方は覚悟をして縄に掛り、名乗り出る心になった、人は心から悪いものではない、一念の迷いから悪い事をすると聞く、何も彼も知って居ながら此様な事をして…其方は暴れ者だが、親方さんのような力の強いお方に捕まって逃げ隠れを為ようとして怪我でもするといけないから、尋常に名乗って出ろ」 小峰「本当に憖じ逃げようなぞとして怪我アしてはいけませんから、おとなしく名乗って出て下さいよ」         七十六 松「大丈夫だよ、どうせ己は無え命だ……あゝ是まで母親には腹一杯痩せる程苦労を掛けて置いたから、手前己の無え後は二人前の孝行を尽してくれ、あゝ実に面目なくって何も云えません……何卒直にお引きなすって下せえまし」  というので、是から市四郎が松五郎の手を捕って二階を下りましたから、永井喜八郎は驚きました。是より引張って往き、派出へ此の旨を届けて申立てますと、警部公が一々お書取りに成り、渋川の警察署へ引かれましたが、桑原治平とお瀧との関係は相対密夫でございますから、詐欺取財未遂犯と云うので処分は決って居りますが、何分にも謀殺を致した廉がございますので、松五郎は天命遁れ難く遂に死刑に処せられ、復讐と云う事は尤もない事でございますから、松五郎は此の儘死刑となり、お瀧は悪事を倶にしただけでございますが、人殺しがございますので重禁錮に処せられて、悪人は悉く罰せられる事になり、お文は構いなし。跡で只嬉しいのは桑原治平で、千円取られるのを助かったのでございますから、 治「何共お礼の為ようがない」  と、吝嗇な人で女の事でなければ銭を使わん人でありますが、其の時は余程嬉しかったと見え、二百円出して、 治「何うか市四郎さん二百円だけで……」 市「いや私ア金を取る訳はねえ」 治「それではせめて此のお子に」 市「此のお子にたって、布卷吉さんも此の金を受ける訳はないから、何うしても受けられやせん、松五郎が名乗って出たんで此方の恨みは晴れたが、此の母親さんや妹が可愛そうだから、小峯さんを請出して遣ったら、首を斬られた松五郎へ追善にもなり、母親さんも安心だし、親子のものが助かる訳だから、左様なすったら何うです」 幸「これは宜うがす、お請出しなさい……峯ちゃんが得心なら、縛られて出たお瀧ね、お瀧より少し器量は少し悪いからお気に入らんか知らんが、小峯を貴方の女房にして遣っては下さいませんか、此の橋本幸三郎がお媒妁を致しましょう」 治「へえ、有難う……お幾歳で」 幸「二十五で」 治「ヘヽヽそれは有難い事で、女が好くったって悪党は驚きます、生血を吸われますからな、何うもそれは有難い事で、幸三郎さん何うか願いたいもので」  というので、是から橋本幸三郎が媒妁で、小峯を桑原治平方へ世話をする事に決し、前橋竪町へ母お山もろともに縁付きました。此方は予て約束もありますから、橋本幸三郎方へお藤を縁付けたいと云う事で、彼の川口町の橋本幸三郎と云う御用達の家へ縁付けました。此の時の媒妁は桑原治平が宜かろうと云うので桑原治平が媒妁になって、お藤は橋本方へ縁付く事になりました、芽出たく事納まって後、布卷吉は祖父佐十郎を永い間介抱して見送りました後、奧木佐十郎の跡を継ぎまして、桑原治平は生糸商人だから糸を送り、橋本幸三郎が金を出して呉れましたから、立派に機屋を出して大層栄えました、末お芽出度いお話でございます。又筏乗の市四郎は、只今では長野県へ参りまして、材木屋を致して居ると云うことを、五町田の百姓から私が聞いて参りました、其の儘取纒めた愚作でございますが、此のお話はこれで読切りに相成ります。へい御退屈さま。 (拠酒井昇造速記) 底本:「圓朝全集 巻の三」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫    1963(昭和38)年8月10日発行 底本の親本:「圓朝全集巻の三」春陽堂    1927(昭和2)年1月28日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号は原則としてそのまま用いました。誤用と思われる箇所も底本の通りとしました。 また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。 底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「彼の」と「彼」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。 また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「小峯/小峰」「峯松/峰松」「桑原治平/桑原治兵衞」の混在は底本の通りです。 入力:小林繁雄 校正:門田裕志、仙酔ゑびす ファイル作成: 2009年6月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。