螢 織田作之助 Guide 扉 本文 目 次 螢  登勢は一人娘である。弟や妹のないのが寂しく、生んでくださいとせがんでも、そのたび母の耳を赧くさせながら、何年かたち十四歳に母は五十一で思いがけず姙った。母はまた赧くなり、そして女の子を生んだがその代り母はとられた。すぐ乳母を雇い入れたところ、おりから乳母はかぜけがあり、それがうつったのか赤児は生れて十日目に死んだ。父親は傷心のあまりそれから半年たたぬうちになくなった。  泣けもせずキョトンとしているのを引き取ってくれた彦根の伯父が、お前のように耳の肉のうすい女は総じて不運になりやすいものだといったその言葉を、登勢は素直にうなずいて、この時からもう自分のゆくすえというものをいつどんな場合にもあらかじめ諦めておく習わしがついた。が、そのために登勢はかえって屈託がなくなったようで、生れつきの眇眼もいつかなおってみると、思いつめたように見えていた表情もしぜん消えてえくぼの深さが目だち、やがて十八の歳に伏見へ嫁いだ時の登勢は、鼻の上の白粉がいつもはげているのが可愛い、汗かきのピチピチ弾んだ娘だった。  ところが、嫁ぎ先の寺田屋へ着いてみると姑のお定はなにか思ってかきゅうに頭痛を触れて、祝言の席へも顔を見せない、お定は寺田屋の後妻で新郎の伊助には継母だ。けれども、よしんば生さぬ仲にせよ、男親がすでに故人である以上、誰よりもまずこの席に列っていなければならぬこのひとだ。それを頭痛だとはなにごとかと、当然花嫁の側からきびしい、けれども存外ひそびそした苦情が持ちだされたのを、仲人が寺田屋の親戚のうちからにわかに親代りを仕立ててなだめる……そんな空気をひとごとのように眺めていると、ふとあえかな螢火が部屋をよぎった。祝言の煌々たる灯りに恥じらうごとくその青い火はすぐ消えてしまったが、登勢は気づいて、あ、螢がと白い手を伸ばした。  花嫁にあるまじい振舞いだったが、仲人はさすがに苦労人で、宇治の螢までが伏見の酒にあくがれて三十石で上ってきよった。船も三十石なら酒も三十石、さア今夜はうんと……、飲まぬ先からの酔うた声で巧く捌いてしまった。伏見は酒の名所、寺田屋は伏見の船宿で、そこから大阪へ下る淀船の名が三十石だとは、もとよりその席の誰ひとり知らぬ者はなく、この仲人の下手な洒落に気まずい空気も瞬間ほぐされた。  ところが、その機を外さぬ盞事がはじまってみると、新郎の伊助は三三九度の盞をまるで汚い物を持つ手つきで、親指と人差指の間にちょっぴり挾んで持ち、なお親戚の者が差出した盞も盃洗の水で丁寧に洗った後でなければ受け取ろうとせず、あとの手は晒手拭で音のするくらい拭くというありさまに、かえすがえす苦りきった伯父は夜の明けるのを待って、むりに辛抱せんでもええ、気に食わなんだらいつでも出戻ってこいと登勢に言い残したまま、さっさと彦根へ帰ってしまった。  伯父は何もかも見抜いていたのだろうか。その日もまた頭痛だという姑の枕元へ挨拶に上ると、お定は不機嫌な唇で登勢の江州訛をただ嗤った。小姑の椙も嗤い、登勢のうすい耳はさすがに真赧になったが、しかしそれから三日もたつともう嗤われても、にこっとえくぼを見せた。  その三日の間もお定は床をはなれようとせず、それがいかにも後家の姑めいて奉公人たちにはおかしかったが、いつまでそうしているのもさすがにおとなげないとお定も思ってか、ひとつには辛抱も切れて、起き上ろうとすると腰が抜けて起たなかった。医者に見せると中風だ。  お定は悲しむまえに、まず病が本物だったことをもっけの倖にわめき散らして、死神が舞いこんできよった。嫁が来た日から病に取り憑かれたのだというその意味は、登勢の胸にも冷たく落ち、この日からありきたりの嫁苛めは始まるのだと咄嗟に登勢は諦めたが、しかし苛められるわけはしいて判ろうとはしなかった。  けれども、寺田屋には、御寮はん、笑うてはる場合やおへんどっせと口軽なおとみという女中もいた。お定は先妻の子の伊助がお人よしのぼんやりなのを倖い、寺田屋の家督は自身腹を痛めた椙に入聟とってつがせたいらしい。ところが親戚の者はさすがに反対で、伊助がぼんやりなればしっかり者の嫁をあてがえばよいと、お定に頭痛起させてまでむりやり登勢を迎えたのだ。してみれば登勢は邪魔者だ……。登勢は自分を憐れむまえにまず夫の伊助を憐れんだ。  伊助は襷こそ掛けなかったが、明けても暮れてもコトコト動きまわった。しかし、客の世話や帳場の用事で動くのではなく、ただ眼に触れるものを、道具、畳、蒲団、襖、柱、廊下、その他片っ端から汚い汚いと言いながら、歯がゆいくらい几帳面に拭いたり掃いたり磨いたりして一日が暮れるのである。  目に見えるほどの塵一本見のがさず、坐っている客を追いたてて坐蒲団をパタパタはたいたり、そこらじゅう拭きまわったり、ただの綺麗好きとは見えなかった。祝言の席の仕草も想い合わされて、登勢はふと眼を掩いたかったが、しかしまた、そんな狂気じみた神経もあるいは先祖からうけついだ船宿をしみ一つつけずにいつまでも綺麗に守って行きたいという、後生大事の小心から知らず知らず来た業かもしれないと思えば、ひとしお哀れさが増した。伊助は鼻の横に目だって大きなほくろが一つあり、それに触りながら利く言葉に吃りの癖も少しはあった。  伊助の潔癖は登勢の白い手さえ汚いと躊躇うほどであり、新婚の甘さはなかったが、いつか登勢にはほくろのない顔なぞ男の顔としてはもうつまらなかった。そして、寺田屋をいつまでもこの夫のものにしておくためなら乾いた雑巾から血を絞りだすような苦労もいとわぬと、登勢の朝は奉公人よりも早かったが、しかし左器用の手に重い物さげてチョコチョコ歩く時の登勢の肩の下りぐあいには、どんなに苦労してもいつかは寺田屋を追われるのではなかろうかというあらかじめの諦めが、ひそかにぶらさがっていた。  そのころ、西国より京・江戸へ上るには、大阪の八軒屋から淀川を上って伏見へ着き、そこから京へはいるという道が普通で、下りも同様、自然伏見は京大阪を結ぶ要衝として奉行所のほかに藩屋敷が置かれ、荷船問屋の繁昌はもちろん、船宿も川の東西に数十軒、乗合の三十石船が朝昼晩の三度伏見の京橋を出るころは、番頭女中のほかに物売りの声が喧しかった。あんさん、お下りさんやおへんか。お下りさんはこちらどっせ、お土産はどうどす。おちりにあんぽんたんはどうどす……。京のどすが大阪のだすと擦れ違うのは山崎あたりゆえ、伏見はなお京言葉である。自然彦根育ちの登勢にはおちりが京塵紙、あんぽんたんが菓子の名などと覚えねばならぬ名前だけでも数えきれぬくらい多かったが、それでも一月たつともう登勢の言葉は姑も嗤えなかった。  一事が万事、登勢の絞る雑巾はすべて乾いていたのだ。姑は中風、夫は日が一日汚い汚いにかまけ、小姑の椙は芝居道楽で京通いだとすれば、寺田屋は十八歳の登勢が切り廻していかねばならぬ。奉公人への指図はもちろん、旅客の応待から船頭、物売りのほかに、あらくれの駕籠かきを相手の気苦労もあった。伏見の駕籠かきは褌一筋で銭一貫質屋から借りられるくらい土地では勢力のある雲助だった。  しかし、女中に用事一つ言いつけるにも、まずかんにんどっせと謝るように言ってからという登勢の腰の低さには、どんなあらくれも暖簾に腕押しであった。もっとも女中のなかにはそんな登勢の出来をほめながら、内心ひそかになめている者もあった。ところがある日登勢が大阪へ下って行き、あくる日帰ってくると、もう誰も登勢をなめることはできなかった。  それまで三十石船といえば一艘二十八人の乗合で船頭は六人、半日半夜で大阪の八丁堀へ着いていたのだが、登勢が帰ってからの寺田屋の船は八丁堀の堺屋と組合うて船頭八人の八挺艪で、どこの船よりも半刻速かった。自然寺田屋は繁昌したが、それだけに登勢の身体はいっそう忙しくなった。  おまけに中風の姑の世話だ。登勢、尿やってんか。へえ。背中さすってんか。へえ。お茶のましてんか。よろしおす。半刻ごとにお定の枕元へ呼びつけられた。伊助の神経ではそんな世話は思いも寄らず、椙も尿の世話ときいては逃げるし、奉公人もいやな顔を見せたので、自然気にいらぬ登勢に抱かれねばお定は小用も催せなかった。  登勢はいやな顔一つ見せなかったから、痒いところへ届かせるその手の左利きをお定はふとあわれみそうなものだのに、やはり三角の眼を光らせて、鈍臭い、右の手使いなはれ。そして夜中用事がなくても呼び起すので、登勢は帯を解く間もなく、いつか眼のふちは黝み、古綿を千切って捨てたようにクタクタになった。そして、もう誰が見ても、祝言の夜、あ、螢がと叫んだあの無邪気な登勢ではなかったから、これでは御隠居も追いだせまいと人々は沙汰したが、けれどもお定はそんな登勢がかえって癪にさわるらしく、病気のため嫁の悪口いいふらしに歩けぬのが残念だと呟いていた。  ある日寺田屋へ、結いたての細銀杏から伽羅油の匂いをプンプンさせた色白の男がやってきて、登勢に風呂敷包みを預けると、大事なものがはいっているゆえ、開けてみてはならんぞ。脅すような口を利いて帰って行った。五十吉といい今は西洞院の紙問屋の番頭だが、もとは灰吹きの五十吉と異名をとったごろつきでありながら、寺田屋の聟はいずれおれだというような顔が癪だと、おとみなどはひそかに塩まいていたが、お定は五十吉を何と思っていたろうか。  五十吉はずいぶん派手なところを見せ、椙の機嫌とるための芝居見物にも思いきった使い方するのを、椙はさすがに女でまんざらでもないらしかった。  五十吉は翌日また渋い顔をしてやってくると風呂敷包みを受け取るなり、見たな。登勢の顔をにらんだので、驚いて見なかった旨ありていに言うと、五十吉はいや見たといってきかず、二、三度押し問答の末、見たか見ぬか、開けてみりゃ判ると、五十吉が風呂敷包みを開けたとたん、出てきた人形が口をあいて、見たな、といきなり不気味な声で叫んだので、登勢は肝をつぶした。そして、人形が口を利いたのを見るのははじめてだと不思議がるまえにまず自分の不運を何か諦めて、ひたすら謝ると、はたして五十吉は声をはげまして、この人形はさる大名の命でとくに阿波の人形師につくらせたものだ。それを女風情の眼でけがされたとあってはもう献上もできない。さア、どうしてくれると騒ぎはお定の病室へ移されて、見るなと言われたものを見ておきながら見なかったとは何と空恐しい根性だと、お定のまわらぬ舌は、わざわざ呼んできた親戚の者のいる前でくどかった。  うなだれていた顔をふと上げると、登勢の眼に淀の流れはゆるやかであった。するとはや登勢は自分もまた旅びとのようにこの船宿に仮やどりをしたのにすぎなかったのだと、いつもの諦めが頭をもたげてきて、彦根の雪の朝を想った。  ところが、ちょうどそこへ医者が見舞ってきて、お定の脈を見ながら、ご親戚の方が集っておられるようだが、まだまだそんな重態ではござらんと笑ったあと、近ごろ何かおもしろい話はござらぬか。そう言って自分から語りだしたのは、近ごろ京の町に見た人形という珍妙なる強請が流行っているそうな、人形を使って因縁をつけるのだが、あれは文楽のからくりの仕掛けで口を動かし、また見たなと人形がもの言うのは腹話術とかいうものを用いていることがだんだんに判って奉行所でも眼を光らせかけたようだ……というその話の途中で、五十吉は座を立ってしまい、やがて二、三日すると五十吉の姿はもう京伏見のどこにも見当らなかった。  そして、椙がなに思ってか寺田屋から姿を消してしまったのは、それから間もなくのことだったが、その行方をむなしく探しているうちに一年たち、ある寝苦しい夏の夜、登勢は遠くで聴える赤児の泣声が耳について、いつまでも眼が冴えた。生まれて十日目に死んだ妹のことを想いだしたためだろうか。ひとつには登勢はなぜか赤児の泣声が好きだった。父親も赤児の泣声ほどまじりけのない真剣なものはない。あの火のついたような声を聴いていると、しぜんに心がすんでくると言い言いしていたが、そんなむずかしいことは知らず、登勢は泣声が耳にはいると、ただわけもなく惹きつけられて、ちょうどあの黙々とした無心に身体を焦がしつづけている螢の火にじっと見入っている時と同じ気持になり、それは何か自分の指を噛んでしまいたいような自虐めいた快感であった……。  赤児の泣声はいつか消えようとせず、降るような夏の星空を火の粉のように飛んでいた。じっと聴きいっていた登勢はきゅうにはっと起き上ると、蚊帳の外へ出た。そして表へ出ると、はたして泣声は軒下の暗がりのなかにみつかった。捨てられているのかと抱いてあやすと、泣きやんで笑った。蚊に食われた跡が涙に汚れてきたない顔だったが、えくぼがあり、鼻の低いところ、おでこの飛びでているところなど、何か伊助に似ているようであったから、その旨伊助に言い、拾って育てようとはかったところ、う、う、家のなかが、よ、よごれるやないか。伊助は唇をとがらし、登勢がまだ子をうまぬことさえ喜んでいたくらいだったのだ。  けれど、ふだんは何ひとつ自分を主張したことのない登勢が、この時ばかりは不思議なくらいわがままだった。伊助はしぶしぶ承知した。もっとも伊助は自分が承知してもお定がうんと言うはずはないと、妙なところで継母を頼りにしていたのかもしれなかった。ところが、いつもそんな嫁のわがままを通すはずのないお定が、なんの弱みがあってか強い反対もしなかった。  赤児はお光と名づけ、もう乳ばなれするころだったゆえ、乳母の心配もいらず、自分の手一つで育てて四つになった夏、ちょうど江戸の黒船さわぎのなかで登勢は千代を生んだ。千代が生まれるとお光は継子だ。奉公人たちはひそかに残酷めいた期待をもったが、登勢はなぜか千代よりもお光の方が可愛いらしかった。継子の夫を持てばやはり違うのかと奉公人たちはかんたんにすかされて、お定の方へ眼を配るとお定もお光にだけは邪険にするような気配はないようだった。  お定は気分のよい時など背中を起してちょぼんと坐り、退屈しのぎにお光の足袋を縫うてやったりしていたが、その年の暮からはもう臥たきりで春には医者も手をはなした。そして梅雨明けをまたずにお定は息を引き取ったが、死ぬ前の日はさすがに叱言はいわず、ただ一言お光を可愛がってやと思いがけぬしんみりした声で言って、あとグウグウ鼾をかいて眠り、翌る朝眼をさましたときはもう臨終だった。失踪した椙のことをついに一言もいわなかったのは、さすがにお定の気の強さだったろうか。  お定の臥ていた部屋は寺田屋じゅうで一番風通しがよかった。まるで七年薬草の匂いの褐くしみこんだその部屋の畳を新しく取り替えて、蚊帳をつると、あらためて寺田屋は夫婦のものだった。登勢は風呂場で水を浴びるのだった。汗かきの登勢だったが、姑をはばかって、ついぞこれまでそんなことをしたことはなく、今は誰はばからぬ気軽さに水しぶきが白いからだに降りかかって、夢のようであった。  蚊帳へ戻ると、お光、千代の寝ている上を伊助の放った螢が飛び、青い火が川風を染めていた。あ、螢、螢と登勢は十六の娘のように蚊帳じゅうはねまわって子供の眼を覚ましたが、やがて子供を眠らせてしまうと、伊助はおずおずと、と、と、登勢、わい、じょ、じょ、浄瑠璃習うてもかめへんか。酒も煙草も飲まず、ただそこらじゅう拭きまわるよりほかに何一つ道楽のなかった伊助が、横領されやしないかとひやひやしてきた寺田屋がはっきり自分のものになった今、はじめて浄瑠璃を習いたいというその気持に、登勢は胸が温まり、お習いやす、お習いやす……  伊助の浄瑠璃は吃りの小唄ほどではなかったが、下手ではなかった。習いはじめて一年目には土地の天狗番付に針の先で書いたような字で名前が出て、間もなく登勢が女の子を生んだ時は、お、お、お光があってお染がなかったら、の、の、野崎村になれへんさかいにと、子供の名をお染にするというくらいの凝り方で、千代のことは鶴千代と千代萩で呼び、汚い汚いといいながらも子供を可愛がった。宇治の螢狩も浄瑠璃の文句にあるといえば、連れて行くし、今が登勢は仕合せの絶頂かもしれなかった。  しかし、それだけにまた何か悲しいことが近いうちに起るのではなかろうかと、あらかじめ諦めておくのは、これはいったいなんとしたことであろう。  はたしてお染が四つの歳のことである。登勢も名を知っている彦根の城主が大老になった年の秋、西北の空に突然彗星があらわれて、はじめ二三尺の長さのものがいつか空いっぱいに伸びて人魂の化物のようにのたうちまわったかと思うと、地上ではコロリという疫病が流行りだして、お染がとられてしまった。  ところが悪いことは続くもので、その年の冬、椙が八年ぶりにひょっくり戻ってくるとお光を見るなり抱き寄せて、あ、この子や、この子や、ねえさんこの子はあての子どっせ、七年前に寺田屋の軒先へ捨子したのは今だからこそ白状するがあてどしたんえという椙の言葉に、登勢はおどろいてお光を引き寄せたが証拠はこの子の背中に……といわれるともう登勢は弱かった。お光は背中に伊助と同じくらいのほくろがあり、そこから二本大人のような毛が抜いても抜いても生え、嫁入りまえまで癒るかと登勢の心配はそれだったのだ。が、今はそんな心配どころかと顔を真蒼にしてきけば、五十吉のあとを追うて大阪へ下った椙は、やがて五十吉の子を生んだが、もうそのころは長町の貧乏長屋の家賃も払えなかった。いたし方なく五十吉は寄席で蝋燭の芯切りをし、椙はお茶子に雇われたが、足手まといはお光だ。寺田屋の前へ捨てればねえさんのことゆえ拾ってくれるだろうと思ってそうしたのだが、やっぱり育ててくれて、礼を言いますと頭を下げると、椙は、さアお母ちゃんといっしょに行きまひょ。お父ちゃんも今堅儀で、お光ちゃんの夢ばっかし見てはるえ。あっという間にお光を連れて、寺田屋の三十石に乗ってしまった。  細々とした暮しだとうなずけるほどの椙のやつれ方だったが、そんな風にしゃあしゃあと出て行く後姿を見ればやはりもとの寺田屋の娘めいて、登勢はそんな法はないと追いついてお光を連れ戻す気がふとおくれてしまった。頼りにした伊助も、じょ、じょ、浄瑠璃にようある話やとぼそんと言うだけで、あとぽかんと見送っていた。  おちりとあんぽんたんはどうどす……と物売りが三十石へ寄って行く声をしょんぼり聴きながら、死んだ姑はさすがに虫の知らせでお光が孫であることを薄々かんづいていたのだろうかと、血のつながりの不思議さをぶつぶつ呟きながら、登勢はしばらく肩で息をしていたが、あ、お光といきなり立ち上って浜へかけつけた時は、もう八丁艪の三十石は淀川を下っていた。しばらく佇んで戻ってくると伊助は帳場の火鉢をせっせと磨いていた。物も言わずにぺたりとそのそばに坐り、畳の一つ所をじっと見て、やがて左手で何気なく糸屑を拾いあげたその仕草はふと伊助に似たが、きゅうに振り向くと、キンキンした声で、あ、お越しやす。駕籠かきが送ってきた客へのこぼれるような愛嬌は、はやいつもの登勢の明るさで奉公人たちの眼にはむしろ蓮っ葉じみて、高い笑い声も腑に落ちぬくらい、ふといやらしかった。  間もなく登勢はお良という娘を養女にした。樽崎という京の町医者の娘だったが、樽崎の死後路頭に迷っていたのを世話をした人に連れられて風呂敷包みに五合の米入れてやった時、年はときけば、はい十二どすと答えた声がびっくりするほど美しかった。  伊助の浄瑠璃はお光が去ってからきゅうに上達し、寺田屋の二階座敷が素義会の会場につかわれるなど、寺田屋には無事平穏な日々が流れて行ったが、やがて四、五年すると、西国方面の浪人たちがひそかにこの船宿に泊ってひそびそと、時にはあたり憚からぬ大声を出して、談合しはじめるようになった。しぜん奉行所の宿調べもきびしくなる。小心な伊助は気味わるく、もう浄瑠璃どころではなかったが、おまけにその客たちは部屋や道具をよごすことを何とも思っていず、談論風発すると畳の眼をむしりとる癖の者もいた。煙草盆はひっくりかえす、茶碗が転る、銚子は割れる、興奮のあまり刀を振りまわすこともあり、伊助の神経には堪えられぬことばかしであった。  登勢は抜身の刀などすこしも怖がらず、そんな客のさっぱりした気性もむしろ微笑ましかったが、しかし夫がいやな顔をしているのを見れば、自然いい顔もできず、ふと迷惑めいた表情も出た。ところが、ある年の初夏、八十人あまりのおもに薩摩の士が二階と階下とに別れて勢揃いしているところへ駈けつけてきたのは同じ薩摩訛りの八人で、鎮撫に来たらしかったが、きかず、押し問答の末同士討ちで七人の士がその場で死ぬという騒ぎがあった。騒ぎがはじまったとたん、登勢はさすがに這うようにして千代とお良を連れて逃げたが、ふと聴えたおいごと刺せという言葉がなぜか耳について離れなかった。  あとで考えれば、それは薄菊石の顔に見覚えのある有馬という士の声らしく、乱暴者を壁に押えつけながら、この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を突き刺せ、と叫んだこの世の最後の声だったのだ。  勢いっぱいに張り上げたその声は何か悲しい響きに登勢の耳にじりじりと焼きつき、ふと思えば、それは火のついたようなあの赤児の泣声の一途さに似ていたのだ。  その日から、登勢はもう彼らのためにはどんな親切もいとわぬ、三十五の若い母親だった。同じ伏見の船宿の水六の亭主などは少し怪しい者が泊ればすぐ訴人したが、登勢はおいごと刺せと叫んだあの声のような美しい声がありきたりの大人の口から出るものかと、泊った浪人が路銀に困っているときけば三十石の船代はとらず、何かの足しにとひそかに紙に包んで渡すこともあった。追われて逃げる者にはとくに早船を仕立てたことはもちろんである。  やがてそんな登勢を見こんで、この男を匿ってくれと、薩摩屋敷から頼まれたのは坂本龍馬だった。伊助は有馬の時の騒ぎで畳といわず壁といわず、柱といわず、そこらじゅう血まみれになったあとの掃除に十日も掛った自分の手を、三月の間暇さえあれば嗅いでぶつぶつ言っていたくらいゆえ、坂本を匿うのには気が進まなかったが、そんなら坂本さんのおいやす間、木屋町においやしたらどうどすといわれると、なんの弱みがあってか、もう強い反対もしなかった。  京の木屋町には寺田屋の寮があり、伊助は京の師匠のもとへ通う時は、そこで一晩泊ってくる習わしだった。なお登勢は坂本のことを慮って口軽なおとみもしばらく木屋町の手伝いに遣った。ところがある日おとみはこっそり帰ってきて言うのには、お寮はん、えらいことどっせ。木屋町にはちゃんと旦那はんの妾が……しかし登勢は顔色一つ変えず、そんなことを言いに帰ったのかと追いかえした。おとみは木屋町へ帰って何と報告したのか、それから四、五日すると、三十余りの色の黒い痩せた女がおずおずとやってきて、あの、こちらは寺田屋の御寮人様で、あ、そうでございましたかと登勢の顔を見るなり言うのには、じつは手前どもはもう三年前からこちらの御主人にお世話をしていただいておりましたが、一度御寮人様にそのことでお詫びやら御礼かたがた御挨拶に上らねばと思いながらもつい……。公然と出入りしようという図太い肚で来たのか、それとも本当に一言謝るつもりで来たのか、それは伊助の妾だった。  登勢はえくぼを見せて、それはそれは、わがまま者の伊助がいつもご厄介どした、よその人とちごて世話の掛る病いのある人どすさかいに、あんたはんかてたいてやおへんどしたやろ。けっして皮肉ではなく愛嬌のある言いぶりをして、もてなして帰したが、妾はしばらく思案して伊助と別れてしまった。あとで思えば気のよさそうな女だった。  登勢は何かの拍子にそのことを坂本に話し、色の黒いひとは気がええのんどっしゃろかと言うと、俺も黒いぞと坂本は無邪気なもので、誰にも言うてもらっては困るが、俺は背中にでかいアザがあって毛が生えているので、誰の前でも肌を見せたことがない。登勢はその話をきいてふっとお光を想いだし、もう坂本の食事は誰にも運ばせなかった。そろそろ肥満してきた登勢は階段の登り降りがえらかったが、それでも自分の手で運び、よくよく外出しなければならぬ時は、お良の手を煩わし女中には任さなかった。  もうすっかり美しい娘になっていたお良は、女中の代りをさせるのではないが坂本さんは大切な人だからという登勢の言葉をきくまでなく、坂本の世話をしたがり、その後西国へ下った坂本がやがてまた寺田屋へふらりと顔を見せるたび、耳の附根まで赧くして喜ぶのは、誰よりもまずお良だった。ある夜お良は真蒼な顔で坂本の部屋から降りてきたので、どうしたのかときくと、坂本さんに怪談を聴かされたという。二十歳にもなってと登勢はわらったが、それから半年たった正月、奉行所の一行が坂本を襲うてきた気配を知ったとたん、裸かのまま浴室からぱっと脱けだして無我夢中で坂本の部屋へ急を知らせた時のお良は、もう怪談に真蒼になった娘とも思えず、そして坂本と夫婦にならねば生きておれないくらいの恥かしさをしのんでいた。それは火のついたようなあの赤児の泣声に似て、はっと固唾をのむばかりの真剣さだったから、登勢は一途にいじらしく、難を伏見の薩摩屋敷にのがれた坂本がやがてお良を娶って長崎へ下る時、あんたはんもしこの娘を不仕合せにおしやしたらあてが怖おっせと、ついぞない強い眼でじっと坂本を見つめた。  けれども、お良と坂本を乗せた三十石の夜船が京橋をはなれて、とまの灯が蘆の落かげを縫うて下るのを見送った時の登勢は、灯が見えなくなると、ふと視線を落して、暗がりの中をしずかに流れて行く水にはや遠い諦めをうつした。はたして翌る年の暮近いある夜、登勢は坂本遭難の噂を聴いた。おりから伏見には伊勢のお札がどこからともなく舞い降って、ええじゃないか、ええじゃないか、淀川の水に流せばええじゃないかと人々の浮かれた声が戸外を白く走る風とともに聴えて、登勢は淀の水車のようにくりかえす自分の不幸を噛みしめた。  ところが、翌る日には登勢ははや女中たちといっしょに、あんさんお下りさんやおへんか、寺田屋の三十石が出ますえと、キンキンした声で客を呼び、それはやがて淀川に巡航船が通うて三十石に代るまでのはかない呼び声であったが、登勢の声は命ある限りの螢火のように勢いっぱいの明るさにまるで燃えていた。 底本:「日本文学全集72 織田作之助 井上友一郎集」集英社    1975(昭和50)年3月8日発行 初出:「文芸春秋」    1944(昭和19)年9月 入力:土屋隆 校正:米田 2011年10月12日作成 青空文庫作成ファイル: 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