一刻 宮本百合子 Guide 扉 本文 目 次 一刻  制限時間はすぎているのに、電車が来なくて有楽町の駅の群集は、刻々つまって来た。 「もうそろそろ運動はじめたかい」  人に押されて、ゆるく体をまわすようにしながら、蔵原さんが訊いた。 「これからだ」  江口さんは栃木県で立候補した。新しくなろうとして熱心な村の人々にとって、根気よい産婆役をしているのであった。 「しかしね、モラトリアムでいくらかいいかもしれないよ。──この間うちの相場は、二百円だった」 「一票が、かい?」 「ああ。百円じゃいやだというそうだ。東京じゃ米で買う奴が多いらしいね」  そこへ、一台電車が入って来た。プラットフォームの群集は、例のとおり、止りかかる電車目がけて殺到した。すると、高く駅員の声が響いた。 「この電車は、南方より復員の貸切電車であります。どなたも、おのりにならないように願います」  丁度目の前でドアが開いて、七分通り満員の車内の一部が見えた。リュックをかついで、カーキの服を着て、ぼんやりした表情の人々の顔が、こちらを向いている。ああこれが、有楽町か、という心もちの動きの出ている眼もないし、ひどい人だ、と思って投げられている視線もない。少し奥には、「ねんねこ」おんぶをした女の横姿も見えた。 「みんなやせてるね」 「蒼いや。な」  日頃あれほど粗暴な群集も、その場からちっとも動かず、カラリと開いているドアの方に注意をこらした。 「ぼーっとしているねえ、みんな」  そのうち、その電車は駛り去った。次に、又京浜が来て、私どもは、揉み込まれた。  上野へ来た。「降りますよウ」 「降せ! 降せったら……」  大騒動になった。しかし、エンジンの工合が損じ、ドアは開かないまま、上野を出てしまった。  鶯谷へついたとき、人々はせき立って、窓から降りはじめた。男たちばかりが降りている。そのうちやっと、ドアが開いた。  出口に近づいて行ったら、反対の坐席の横の方から、若い女が、おろおろになって 「あの、この辺にショール落ちていないでしょうか」 「こんなこみかたじゃ、落ちるせきがないですよ」 「どうしましょう! 舶来のショールで母さんの大事にしているのを、さむいからってかりて来たのに」 「降りるさわぎのとき、とられたのかもしれない。すっと引っぱって、とるんですて」 「まア! わたし帰れないわ、どうしましょう。届けたって、出ないでしょうね!」 「出ますまいねえ」  縋りつくようにきかれた男は、苦笑ときの毒さとを交ぜてぼんやり答えている。 「困っちゃったわ、全く。今日はじめて出たのに、こんな目に会って……」  半分啜り上げるような早口で歎く娘は、空のリュックを吊って前へうしろへ揺られているのであった。 〔一九四七年九月〕 底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社    1981(昭和56)年3月20日初版発行    1986(昭和61)年3月20日第4刷発行 初出:「談論」    1947(昭和22)年9月号 入力:柴田卓治 校正:磐余彦 2003年9月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。