粗末な花束 宮本百合子 Guide 扉 本文 目 次 粗末な花束  地震前、カフェイ・ライオンの向う側に、山崎の大飾窓が陰気に鏡面を閃かせていた頃のことだ。  私はよく独りで銀座を散歩した。  尾張町の四つ角で電車を降り、大抵の時交番の側を竹川町の停留場まで行き、そこから反対側に車道を横切って第一相互の下まで行く。天気がよく、西日が眩ゆくもない時刻だとそれからまた尾張町へ戻って電車に乗る。  買物をすることなどは滅多になかった。時によると、私の小さい紫鞣の財布には、電車の切符と一円足らずの小銭しか入っていない時さえある。それでも、穿きなれた、歩き心地のよい下駄で、午後の乾いた銀座の鋪道を歩いて行くと、私は愉快になり、幸福にさえなった。一体昼の銀座は夜とはまるで違う。燈火が灯ってから彼処を散歩すると、どの店も派手で活気があり、散策者と店員等を引くるめてあの辺に漂っている一種独特の亢奮した雰囲気に包まれて見える。青や紫のケースの中で凝っとしている宝石類まで、夜というと秘密な生命を吹き込まれるようだ。昼間は見えなかった美しさ、優しさが到る処にちらばっている。けれども、日光の下で歩いて見ると、艷のない、塵っぽい店舗に私共は別に大して奇もない商品と小僧中僧の労作と、睡そうな、どんよりした顔つきの番頭とを認めるだけだ。夜になると、商売が単に商売──物品と金銭との交換──とはいえない面白さ、気の張りを持たせる同じ店頭に、今は日常生活の重さ、微かな物懶さ、苦るしさなどが流れている。私が何故そう奇麗でもない昼、夕刻にかけて散歩したかといえば、夜では隠れてしまう生活の些細な、各々特色のある断面を、鋪道の上でも、京橋から見下す河の上にでも見物されたからである。それに、昼間から夜に移ろうとする夕靄、罩って段々高まって来る雑音、人間の引潮時の間に、この街上を眺めているのは面白かった。私はライオンの傍の電柱の下で、永い間群集を見た。四辺が次第に鳩羽色となり、街燈がキラキラ新しい金色で瞬き出すと、どんな人の顔にも、何か他の時と異った一つの表情が現われた。誰でもひどく早足だ。四辻を横切りながら、自分の乗ろうとする電車の方ばかりに目をつけている。買いものの紙包みを持ち、小さい子供の手を引いた婦人の口元や眼には殆ど必死らしい熱心さがある。気の利いた外国風の束髪で胸高に帯をしめ、彼女のカウンタアの前ではさぞ気位の高い売り子でありそうな娘が、急いで来たので息を弾ませ、子供らしく我知らず口を少しあけて雑踏する電車の窓を見上げるのなどを認めると、私は好意を感じ楽しかった。夕刊売子と並んで佇み、私は、 「さあいそがずに。気をつけて。──いそがずに気をつけて……」 と心の中で調子をとって呟くのであった。  人々の押し合う様子は、もう三四十分のうちに、電車も何も無くなると思うようであった。最後の一人をのせ、最後の一台が出発し切ると、魔法で、花崗岩の敷石も、長い長い鉄の軌道もぐーいと持ち上ってぺらぺらと巻き納められてでもしまいそうだ。子供の時分外でどんなに夢中で遊んでいても、薄闇が這い出す頃になると、泣きたい程家が、家の暖かさが恋しくなった。あの心持、正直な稚い夜の恐怖が一寸の間、進化した筈の、慾ばりな大人の魂も無自覚のうちに掴むかと思う。それ故、貨物自動車が尨大な角ばった体じゅうを震動させながら、ゴウ、ゴウと癇癪を起し焦立つように警笛を鳴し立てても、他の時ほど憎らしくはない。自動車も家に帰りたい!  このように、散歩で私はいろいろ楽しんだが、一つ困ることがあった。  その困るものを見出すと、私は京橋の方から伊東屋の側を来て真直にライオンの前まで行けない。半丁ばかり手前で郵便局の側に移った。それから面倒な辻を抜けて目的地に辿り着く。お定りのそこから、あちらに、自分がよけて通った一つのものを見渡すのだ。  一つのものというのは、珍しいものではない。遽しい通行人の波打つ帽子の水準から、一寸高く頂を擡げている一つの婦人帽である。その帽子は、他のどれものように、右側の流れに乗ってこちらの鋪道にも来なければ、左側の潮流に従って京橋の方へとも動かない。丁度、行く群集、来る群集が自ら作る境めの庭で、一二間の間を、前後左右に揉れて漂っているばかりだ。婦人帽の動くにつれ、微弱な、瞬間的な動揺が鋪道の人波の裡に起った。  私は、その或る時は派手な紅色の、或る時は黒い鍔広の婦人帽の下に、細面の、下品ではないが寠れた、神経質なロシア婦人の顔があるのを知っていた。彼女の繊そりした指が、一束のグラフィックを持っていること、あの帽子が一揺れする毎に、彼女の唇には如何程強いた、嗄がれた微笑が掠めるかということ等、こちらに遠のいていても私によく解った。或る日、偶然彼女がつい近くの若い会社員らしい男にそのグラフィックを買ってくれと、覚つかない日本語で云っている顔を見た。私は彼女の微笑や無意識に表している嬌態から、何ともいえず心の滅入る感銘を受けた。今まで、愉快で、漠然とした暖さに伸び拡っていた感情が、俄にきゅっと私の胸の中で搾り縮められるような何かが、彼女の体のこなし、売りもの総てにつきまとっていたのだ。  私は何故か、彼女が自分の商売品である画報に一向自信を持っていないのを感じた。彼女自身、それが非常に美しいものでも、興味を唆るものでないのもはっきり知っている。然し、自分は買って欲しい。いらないのは判っているのだが、という苦しげな、臆病なものを冊子を差し出す腕の動作に語っている。  その時、私は一人の職人が鷲掴みにして腹がけの丼から反古包みの銭を出し、憤ったような顔つきで冊子の一つを買ったのを見た。もう一人、これはやっと十六ばかりのやや田舎ッぽい小間使い風の娘が、思いがけず、恐らく彼女の目から見ると奇麗な西洋人に勧められ、人中ではあり断り切れず真赤になり、まごついて画報と引かえに金を払うのを見た。買う方も、売る方も極り悪く、辛そうに見えた。僅か一二分の交渉であるのに、売りてと買いてを、人がたかってさも事件のように取巻いた。  私は、その人だかりの外を廻って車道を越した。その時から、一つ場所に漂っている背高い婦人帽の頂を認めると、私は、鋪道を彼方側に越すことにした。  こちらまで、妙にばつのわるい思いをするように、ばつのわるいすすめようを私はされたくなかった。断れきれず(多分私も)赧くなり、欲しくないグラフィックを買わされるのも快くないに違いない。よけて通りながら、心の底で私は彼女について無頓着にはなれなかった。いつも、何処か翳った心配めいた心持で、根気よく通行人を止めてはその前で傾く婦人帽の運動を見守った。彼女はその時、片言に出来るだけ愛嬌をこめて、 「この本いりません? 二十銭…… どうぞ」 と云っているのだ。  電車に乗りながら私は屡々考えた。 「一体どの位売れるものかな。皆で二十冊位しか持ってもいないようだが──二十冊にしたところで二二ガ四、四円。一月で百二十円! ふうむ」  三月の或る晩、私は従妹や弟と矢張り尾張町の交叉点で電車を降りた。  暫くどっちに行こうと相談した結果、先に、山崎の側を──そちらに夜店が出ていたから──京橋詰まで行き、戻りに新橋まで帰ることになった。  私共は、快活な散歩者らしい様子で気軽に十字路を横切った。そして、鋪道に溢れるような人出に紛れ込もうとした時、私はふと、山崎の陰鬱に光る大飾窓の向い合った処に、一人日本人でない露店商人がいるのに目をつけた。  そこは私が見てさえ、商売上得な位置とは思えなかった。車道を踰えて鋪道にかかったばかりの処だから、頻繁な交通機関をすりぬけるに幾分緊張した交通人達は、大抵一二間ゆとりない惰力的な早足で通り過た。彼等は、勿論薄暗い左手の街路樹の下に、灯もなければ物音も立てず、しんと侘しげな小露店があることさえ殆ど心付かない。蛾のように、明るさに牽きつけられた者は、前方にいそぐ。どういう拍子か私の目を止めた外国人の貧しい露店は、そんな損な処にいる上、実に小さな、飾りけないものであった。  店と云えば、僅か二尺に三尺位の長方形の台がある許りだ。白布がいやに折目正しく、きっぱりかけてある。その上に、十二三箇小さな、黄色い液体の入った硝子瓶がちらばら置かれている。白布の前から一枚ビラが下っていた。 「純良香水。一瓶三十五銭」  台の後に男が立っているのだが、赧っぽい髪と、顎骨の張った厳しい蒼白な顔つきとで、到底、買いてを待つ商人とは思えなかった。兵隊であったかと感じる程、身じろぎもせず、げんなりした風もなく突立っている。見て、寒い恐怖に近いものが感じられた。男は、峻しい冷静なその台の番人で、香水と称す瓶のなかみは、可愛い好い香など決して仕ない色つけ水でありそうな気がする。万一、香水に心は引かれても、後に立ってこちらを見ている男の風貌を眺めると、思わず手を引こめそうでさえある。  彼のすぐ隣には、けばけばした赤い模様布をどっさり並べ下げた更紗商人がいた。その先には、台を叩き叩き、大声で人を集めているバナナ屋がいた。堆い、黄色な果物が目立った。右側の店舗から漲り出す強い光線、ぶらぶらと露店の上に揺れ、様々な形と色彩の商品を照している電燈の笠。賑やかで、ごたついた東洋的な夜の光景の中で、この外国人の素気ない小店は、異様に印象に遺った。  私には、夕方見かけるロシア婦人とこの男が全然無関係とは思えなかった。彼もロシア人とはっきり感じた。妙に深く、暗く、際限のないような彼の雰囲気が、ロシアのものでなくて何だろう。  私は、あの婦人帽を見ている時持つと同じような或る感じを受けた。漠然とした、言葉にうつし難い生活の辛さ、厭さに同感する心持だ。  半月も経たない夜、私はまた同じ処を通った。香水の商人はいなかった。その代り、感情的な一つの情景を目撃した。  風が吹き、物影がはためくので一層沈んで見える山崎の大飾窓の処に人だかりがある。私は、 「何でしょう、病人?」 と怪しみながら通りがかりに振向いて見た。思いがけず人の間から、見覚えのある紅い婦人帽が覗いている。私は立ち止った。よく見ると、その帽子は低くかがみ込んで、もう一人別な女と一緒に、飾窓の地面とすれすれの縁に腰かけて顔をかくしている少女に、頻りに何か云っているのだ。  言葉は聞えない。けれども、彼女の後姿には刻々多くなる見物に対する意識が明に現れていた。少女の肩に手をかけ、一分も早くその場面を切りあげたそうに、情けなそうに何か云っている。少女は十一二で際立って美しい素直な金髪を持っていた。紺サージの水兵帽からこぼれたおかっぱが、優美に、白く滑らかな頬にかかっている。男の子のようにさっぱりした服の体を二つに折り、膝に肱をついた両手で顔をかくしている。彼女は、正直な乱暴さで、ぐいと、左手の甲で眼を拭いた。二人の大人が云うことに耳を貸さず、むっとした憤りを示して動かない。頑固な様子の裡に、私は一種気持よい強さと、清らかさとを感じた。どういうことで少女が泣き出したのか。まるで前後の事情を知らないのに、私は彼女が全く理由なしに拗ねているのではないこと、彼女は本気で、悲しさより何かの苦しさで泣いていることを感じたのであった。  私は、瞬間、露骨に好奇心を表して見物している者達を手厳しく、 「さあ、どいて下さい。見世物ではない」 と、追い払ってやりたいように感じた。  きっと、少女は母と、母の友達である見なれた婦人と、始めて物売りに出て来たに相違いない。家で──恐らくはどこかのひどい下宿屋か、共同生活の一隅で──その話が出た時、少女は、一寸面白がり、行って見てもわるくはない位に思ったのだろう。ところが来て見ると、正当に育った子供の本能的な愧しさや気位や人みしりが、俄に彼女に堪らない思いをさせ始めたとしか思われない。母達が、折角来たのだからと勧めているうちに、滅入って泣出したのか。それとも──。私は歩き出し、ひどく心を捕えた少女のために一人の群集を減しながら考えた。どこかの馬鹿者が、彼女の手から、いずれ見事ではない売り物を買ってやる代りに、何か無礼なことでも云ったか、仕たか仕たのだろうか。それで彼女は泣いているのではなかろうか。  子供の時に感じる苦痛は空から地面まで一杯になって押かぶさるようだ。大人の常識が不合理ときめる理由や感情が、子供にとって充分の理由であり、真実であり、而も大人を納得させるだけの語彙を欠いているばかりに、私共、総ての子供はどんなに苦しい思いをして来たことだ!  二三日その少女のことが忘られなかった。次に、夜、出かけた時、私は電車を降りるとから、山崎の角に目をつけた。彼女はどうしたろう? いるだろうか、いないだろうか。鋪道を彼方に越すと私は一目で、あの金髪と紺の水兵帽とを認めた。今夜、彼女は泣いてはいない。もう少し先刻来たものと見え、先夜の連れと、一つの籠をとり巻いていた。紅色帽の女が、何か云いながら、小さい見栄えのしない花束を二つずつ少女の両手に持たせた。そして、肩を押すようにして人通りの方に行かせた。私は、興味を持って、少女を見守った。僅な三四日のうちに、彼女はもう上手な花売りになったのだろうか。  雑踏する散歩者の群に入ると、彼女は、まるで自信のない、躊躇に満ちた足どりで歩き始めた。両手には、持たせられた花を二束ずつ持ちあげたまま、むきな、真面目極る顔を心持うな垂れて、のろのろ歩く。数人が、けげんそうに振向いて眺めた。七八歩行くと、彼女は何か考え沈んだ風で、群集から脱れ、とある化粧品店の飾窓の方に行った。彼女の両手は下り、四束の花──彼女にとって大切な筈の商品は──気もなく指先きにやっと掴まれている。  私は、彼女が、どうやって人を呼びとめてよいのかも見当がつかないでいることを知った。母やつれの女が、こう云えとは教えただろう。が、彼女の唇から最初の一声がどうしても出ないのだ。もういやというのは余り生活の苦しさや、彼女の助力の必要を理解した。だから彼女は泣いたり、愚図つくのを恥じている。然し、見も知らぬ通行人を、止めようとすると、云い難い外国語が、彼女の細い真直な少女の喉元を塞げるのだ。彼女は矢張り下手な売り手であった。そして、下手さは、清げなおかッぱや、或る品のあるきりっとした容貌と決して不釣合ではない! 私は、却って彼女のそのぎごちない、少女らしいぷりぷりした処に愛を感じた。若し、思い設けなかった愛嬌で媚び笑いながら、彼女に今夜花束をすすめられたら、私は寂しくなり、恐らく買わずに過たろう。私がいつもあの婦人帽をよけて通るように。  私は、気をつけてさり気なく、気難しげに佇んでいる少女の傍に近寄った。 「その花を下さい」  少女は、びっくりした表情で、私と自分と手に持っている花束とを見較べた。私は、思わず微笑して、繰返した。 「その花を二つ下さい」  少女は伏目になり、非常に美しい表情をちらりと頬に浮べ、私に花を渡した。 「いくら?」 「一つ十銭」  私は、内にこもって来る感情で十銭銀貨を二つ、彼女が真直ぐに出した掌に置いた。  私は無器用に水色の紙テープで引くくった桃色と赤のスウィートピーの小さい花束を大事に持って帰って机の上にさした。 〔一九二四年十月〕 底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社    1981(昭和56)年3月20日初版発行    1986(昭和61)年3月20日第4刷発行 底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房    1953(昭和28)年1月発行 初出:「新小説」    1924(大正13)年10月号 入力:柴田卓治 校正:磐余彦 2003年9月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。